2024年2月15日木曜日

渡部陽一(戦場カメラマン)        ・笑顔で挨拶、戦場取材30年

渡部陽一(戦場カメラマン)        ・笑顔で挨拶、戦場取材30年 

渡部陽一さんは大学1年の時にアフリカ大陸のジャングルに住むムブティ族のことを知り、話を聞いてみたいとアフリカザイールに向かいます。 現地で思わぬ体験をしたことがきっかけで戦場カメラマンとして世界に紛争地帯で取材を続ける事になります。 130国以上の取材体験で大事なことだと思ったのは、その土地の言葉で挨拶をする、声を掛けるという事でした。 戦場カメラマンになるとは思いもよらなかったという渡部陽一さんに戦場取材30年 の体験を伺いました。

朝5時から7時ぐらいが一番集中力が高まります。 カメラマンとして世界中を回るうえでは、僕自身としては初めの一歩の力です。 挨拶からすべてが広がり、挨拶で一日が終わる、この繰り返しが世界を回るうえでの僕自身のライフラインの基盤にあります。 基本的には98%ぐらいは英語で会話をします。 その国の挨拶を学んでいくことは、初めの一歩と言えます。 

20歳を過ぎた頃アフリカのジャングルで暮らしている狩猟民族に会いに行きました。 当時ルワンダ内戦と言われたフツ族とツチ族の民族衝突が起こっていて、その戦争に巻き込まれた子供たちが血だらけになって僕に助けを求めてきました。 学生だった僕は何も手を差し出すことが出来なかった。 写真を使えば子供たちの声を沢山の人たちに届ける事が出来る入口になるのではないかと思いました。 戦場カメラマンになることを志しました。

当時はザイール、今はコンゴ民主共和国になりました。 隣の国にルワンダと言う国があり、そこの民族衝突が飛び火しました。 ジャングルの集落の村の人たちが犠牲になって行きました。 ルワンダ内戦で約80万人近い民間の方が犠牲になったと言われています。  その現場をバックパッカー(低予算で個人旅行する旅行者のこと。)としてかちあった時に、日本に戻って言葉で伝えてもほとんど理解されることはなかった。 写真で一つでも気付いてもらえるかもしれないと思って始めました。 戦争の犠牲者はいつも子供たちです。

ジャングルに住むムブティ族に会いに行くつもりでしたが、内戦状態になっていることをほとんんど知りませんでした。 ピックアップトラックに乗った少年兵にカメラなど持ち物全取られてしまいました。 何回か行くうちにムブティ族と出会い、一緒に生活を共にすることが出来ました。 リンガラ語が公用語で、この地はフランス圏でもありますので、フランス語が通じる地域が一部あります。 身振り手振りを含めて挨拶をかわしました。    戦場カメラマンはその地域で育ったガイドさん、通訳の方、身を守ってくれるセキュリティーの方、最低4人のチームを組み立ててから、前線を動き写真を撮ることが出来ます。  必ずガイドさんの言葉に従う事、取材を欲張らない事、引く勇気を持つ事が大事です。  安全が第一、取材が第二です。  ガイドさん等とは信頼関係が必要であり、友人関係の様になって行きます。

宗教、部族、国境、資源などで紛争が起きます。 世界中を回って感じたことは、どの地域でも初対面の僕を迎え入れてくれました。 お互いが寛容の気持ちを大切にしてゆくが大事だと感じたことが一番の入り口でした。  貧困と言う悲しみと、衝突の根っこを世界規模で少しでも柔らかく、底上げ出来て行けば、衝突は一定の柔らかさを保つことができると感じています。  

中村哲さんの灌漑施設に関する仕事はアフガニスタンではリスペクトされています。   アフガニスタンとパキスタンの国境地域では部族性の強い様々な衝突が起こっています。 外部の方で寛容、リスペクトをもって浸み込ませていく入口を広げていく実績を作ったのが、中村哲さんです。  現地で灌漑施設に関する仕事をしながら一緒に暮らしてゆくことが、現地の方々の信頼、気持ちが繋がって行った大切な入口だったと感じています。 戦争の根っこにある貧困を如何に変えてゆくことができるかどうか、子供たちの基礎教育などがキーポイントになると思います。 

戦争現場でも家族が思いやる日常はみんな同じでした。 戦場に立たされている子供たちの日常等、表情や暮らしをカメラマンとして残してゆくことが、戦場カメラマンとしての大切な柱になっています。  僕の夢は世界から戦争がなくなり、戦場カメラマンが必要でなくなった時に、学校カメラマンになることが夢です。 子供たちの学校での暮らし、表情を撮って行きたい。