2024年5月16日木曜日

菅原進(歌手(ビリ―バンバン))     ・〔わたし終いの極意〕 76歳、日々進化中!

菅原進(歌手(ビリ―バンバン))     ・〔わたし終いの極意〕 76歳、日々進化中! 

ビリ―バンバンは1969年にメジャーデビュー、3歳上の兄孝さんと歌う「白いブランコ」や「さよならをするために」が大ヒット、1972年には紅白歌合戦に初出場を果たしました。 今年でデビュー55周年を迎えますが、その途中にはともに大病を患うなど大きな変化もありました。 菅原さんは現在76歳、ソロ活動も活発にやっています。 さいきんではアニメソングや若手アイティストの楽曲をカバーして、動画サイトで配信、幅広い世代から反響を呼んでいます。 

動画サイトは2年ぐらい前からアニメの歌とか、歌いました。 若い人はテンポが速いが、僕の場合若い人には歌えないゆっくりとしたテンポで歌おうと思いました。 Adoさんの「うっせいわ」というカバー、オリジナル曲はエネルギッシュですが、僕が歌いと違い印象になります。 ゆっくりだし、歌詞の意味がつかみやすくなります。 再生回数が150万回。 動画がモノクロです。 ゲーム音楽もカバーしています。 それまでのビリーバンバンの世界観とは全く違います。 若い人たちは全然発想が違うので、それを歌いたいと思いました。    

中学校時代からアメリカンポップスが大好きでした。 シングル盤を100枚ぐらい買いました。 それを聞いて、それが僕の音楽の始まりでした。 母は音楽が大好きで、父は音痴でした。 兄弟は3人ですが、一番上の兄が一番うたがうまかったんですが亡くなってしまいました。  次男の孝兄さんも歌が好きでした。  父が浜口庫之助先生を知っていて、紹介してもらって、兄と共に先生の学校に通うようになりました。(高校2年)  2年後に兄弟でやろうという事が決まりました。  自分では中学生のころから歌で生きて行こうと決めていました。  先生のお屋敷に白いブランコが有ったんです。 そこに座って作詞家の小平なほみさんと作ったのが「白いブランコ」なんです。 ヒット曲になりました。

それから55年になりましが、いろんなことがありました。 兄とは喧嘩が絶えなかったですね。 1976年に一回解散をしました。 半分以上は喧嘩別れと言うような感じでした。  6,7年後に再結成をしました。  一人でCDを出しましたが、仕事もなくなって来てその時が一番大変でした。 酒を飲んだり、妻とは喧嘩をしたり人生が荒れていました。  再結成をした時にCMソングがヒットしました。 再結成は母からのアドバイスでした。  2014年に兄が盲腸のガンの手術をしました。 その2か月後に僕が脳出血で倒れてしまい、ビリーバンバンはもうおしまいかなと思いました。  後遺症が残って歩くこともなかなかできなくなり、声も出づらくなりました。  健康に気遣って塩分を控えめにしていましたが、手術をして先生からは塩分が足りなすぎると言われました。 塩分も大事なんです。  

兄も車椅子ではあるが元気になり、母がまた二人でやりなさいと言ってくれて、1年後には再び開始しました。  母は僕たちのステージを一番前で見て泣いていました。 それを見てこっちも泣いてしまいました。 母は96歳で亡くなりました。 母の存在が全てと言うような感じです。 椅子から降りて寝てそのまま亡くなって、本当に天国に行ったんだなと感じました。   父も92歳で眠るように亡くなりました。  父は凄く真面目で寡黙で90歳でコンピューターを始めました。 筆でいつも朝書いていました。  父が90歳の時に60人ぐらい呼んでパーティーをやったんですが、父からも仲良くやるように言われて、ぐっと来てしまいました。

僕も両親と同じように眠るように逝きたいと思います。 終活は全くないです。 遺言状はもう書いてあります。  欲はもう捨てました。  どんどん歌っていきたいという、歌の欲はあります。 声のためにはお風呂のなかで200回腹筋運動をしています。 手足も結んで開いてを200回やります。  最後の遊びは散歩だと思います。 1時間ぐらい歩きます。  コロナ禍で丁度その時にアニメの曲を歌いました。 それが今話題になっています。 いくら喧嘩をしても兄弟愛ですね。 2022年にドラえもんの映画の歌を歌いましたが、兄弟愛がテーマになっています。  「心ありがとう」

55周年を迎えることになり、77歳にもなります。  ともかく歌を歌いたし、アルバムを作りたいと思っています。  生きていくうえで優しさがベストです。 わたし終いの極意としては、楽しく生きる、嘘をつかない、心はピュアに生きたい。 ネガティブにならないで、いつもポジティブに生きることが一番楽です。 先は判らないので、考えても仕方ない、なるようになる。 






2024年5月15日水曜日

鳥海 修(書体設計士)          ・「書体はどうつくられるのか?」

鳥海 修(書体設計士)          ・「書体はどうつくられるのか?」 

鳥海さんは山形県出身の69歳。 長年日本の文化に無くてはならない書体を作る仕事を続けてきたことが評価されて、今年吉川英治文化賞を受賞しました。 鳥海さんは多摩美術大学で活字デザインを知り、書体を作る仕事に入りました。 現在100以上の書体を作っています。 書体の作り方、書体の面白さなどを伺いました。

鳥海と言う名前は「とりのうみ」と読み、山形県の住んでいた30軒ぐらいの村、そこにしかいないんじゃないかと思います。 東京に住んでいましたが、コロナ禍で在宅勤務が可能となり長野県安曇野市に引っ越しました。 

日本語の書体は漢字、ひらがな,カタカナ、アルファベット、記号、などを加えると23000字を越えます。 一文字一文字バランスよく統一感を持って作ってゆくというような仕事です。 書体とフォントは違う言葉ですが、書体はデザイン様式と言うか姿を現していて、フォントと言うのは文字のセットのことを言っています。 日本語フォントと言うと漢字、ひらがな,カタカナ、アルファベット、記号があって、それだけの文字セットを作っているという事です。 日本語は漢字、ひらがな,カタカナ、アルファベットなどが文章のなかで混じってしまうので、どういう風にバランスよくデザインするというのが、相当難しいし、世界でもまれな書体です。 それだけに奥が深くて面白いです。 

フォントは3000以上4000未満はあると思います。 書物の活字を作ることをメインにしています。 その中に楷書、隷書、行書など多種多様な書体がります。 賞状などは書体によりありがたみがない気がします。 フォントは正方形の中に一文字を書きます。 書道は四角の中に納めるというよりは四角から飛び出すような文字を書きたいので、同じ文字でも表現の仕方が違います。 ラーメン屋などの看板には筆文字系のフォントを使っているところが多いです。 看板こそ手で書いて欲しいと思います。 

私が得意としてやってきたのは、読みやすい書体で且つ綺麗な書体を心掛けてきました。  作る時には必ず漢字から始めます。 画数が多いのでめちゃくちゃなデザインが出来ません。 12文字、書体見本を作ります。 それを元に文字を拡張してゆき、漢字が1万4500ぐらいまで増えてゆきます。 それに合わせた平仮名と片仮名をデザインしてゆきます。 漢字に比べて画数が少ないので小さくなり、太くもなります。 次にアルファベットを作って、最後に記号関係を作ります。 それで一つのフォントとしてまとめます。 藤沢周平をイメージしたものを作りました。  なんにでも使えて、安心して使えて、綺麗だという書体が出来たらいいなあと今は思います。  小説とか、印刷して読むという目的に対しては、私は一つでいいんじゃないあと思います。 

子供のころはタクシーの運転手になりあかったが、機械が好きで工業高校に行きました。  製図が好きで車の整備士になりたいと思いました。 そのうちに車のデザインをやりたくないました。 美術大学を二浪して入りました。 大学3年の時に文字デザインがあり、或る時先生が毎日新聞社に連れて行ってくれて、一文字だけレタリングしている光景を見ました。  活字の元だと言われ吃驚しました。 案内役を務めた小塚昌彦さんが発した「日本人にとって文字は水であり、米である」との言葉に郷里の風景を重ね、書体制作の道に進むことを志すことにしました。

宮部みゆきさんから「私、ヒラギノしか使わないのよ。」と言われました。 ヒラギノフォントのヒラギノは京都の地名の一つです。 ヒラギノと言う書体は結構尖っているんです。(ヒイラギから来たのかも?) 自分で作った書体は100を越えています。(見分けは出来ます。)  

今年吉川英治文化賞を受賞しました。 一人で作ると5年、10年かかるかもしれませんが、4,5人のグループでつくるので、2万3000字を作るのに2年程度で作ります。 魚へんは点が4つありますが、イライラするぐらいめんどくさいんです。   平仮名、片仮名を私一人で作ります。  筆順が変るという事は絶対駄目です。 平仮名には面白さがあります。 平仮名は半分ぐらいを占めるので、平仮名を変えるだけで文章の印象が随分変わります。 平仮名は平安時代に出来た日本独特のものです。 お金は儲からないけど遣り甲斐は相当あります。 今まではきれいな水が流れるような小川の様な書体を作っていたような気がして、大河のような書体を作りたいと思っています。

















2024年5月14日火曜日

川島みどり(日本赤十字看護大学名誉教授)  ・「手当」が教えてくれること

川島みどり(日本赤十字看護大学名誉教授)  ・「手当」が教えてくれること 

川島さんは1931年 韓国ソウルの生まれ。 終戦の翌年島根県に引き上げてきました。   1951年に日本赤十字女子専門学校(現日本赤十字看護大学)卒業、約20年は病院の看護師として勤務、退職してからは研究会を主宰し、母校で教鞭をとり、東日本大震災の時には看護師のチームを率いて被災地に駆けつけました。 川島さんが考える看護師本来の看護の力である「手当」を考え、普及しようと2013年に日本手当推進協会を設立しました。 2007年にはフローレンス・ナイチンゲール記章受章しています。 

父が銀行員をしていたので転勤が多くて、小学校の時には5回、女学校は5年間で4回転校しています。 適応力は出来たと思います。 北京で敗戦を迎えましたが、父は単身赴任で奥地に行っていました。 ポツダム宣言が受諾されて、日本人が残っているのはけしからんと言うことで、即日本に引き上げという事になりました。 途中の辛い事は言葉ではいい尽くせません。  島根県に戻ってきて県立の女学校に編入しました。 厳しい校則に中で1年半過ごして、日本赤十字女子専門学校(現日本赤十字看護大学)に行きました。 

おむつを取り替えたり、便器を差し上げたり、ご飯を食べさせたり、身体を拭いてやったり、看護師の仕事をしていて、これが専門職の仕事なのかと疑いながら、これは大事な事なんだと自分に言い聞かせてやっていて、専門職だという確信が持てなかった。 卒業後すぐに死にかけていた少女の身体を拭いてあげたら、生き返った経験が自分自身であって、初めてやっぱり専門職だと思いました。 注射、機械が無くても命は救えることが出来ると、これが私の看護の原点です。

約70年の間で看護師の労働条件も良くなりましたが、看護界全体を考えた時に、看護の仕事の全体の流れを考えた時に決して良い方向ではないんじゃないかと思います。 社会の目はいまだに看護師は医師のアシスタントと言う風に思っている人が沢山いると思います。  看護師は誰もが持っている「治る力」を如何に引き出すかという事が看護師の仕事で、そのためには何をするかと言うと、食べたり、だしたり、息をしたり、身体を綺麗にしたり、眠ったり、話したり、動いたり、そういった暮らしの営みの一つが欠けると、病気の症状以上につらいんです。 自分のやっていた営み、習慣が保たれ続いてゆくことを、きちんと整えるのが看護なんです。  一人一人の生活習慣はみんな違うんです。 それに適したやり方で援助するという事は相当高度な能力が必要なんです。  看護医師が本来の仕事ができる環境を作るのが一番大事なんです。 人手不足、仕事の忙しさからそういったことがなかなかできない状況にある。 

昔は全寮制で看護師は結婚すると退職して、看護医師は独身が不文律でした。  私が看護師になって10年ぐらいすると、新しい教育制度の下に卒業していた若い子が「それはおかしい。」と言うんです。  数人で寮を出て働き始めたら、あまりのも賃金が安い事、労働力が厳しいことが判りました。  夜勤を1週間続けてやって、夜勤手当が入って6000円ぐらいの手取りでした。4畳半で4500円でした。  何とかしないといけないといいことになりました。 60年安保の時代だが白衣の天使と言われて労働組合に入ることはとんでもない事だった。 一緒に寮を出た人のなかで結婚して妊娠した人が居ました。 婦長に話したが、これは労働組合に入らなければいけないと思いました。  

看護師が妊娠しても、重いものを持ったりしたり、妊婦がやってはいけない言うようなことをやらざるを得ませんでした。 労働条件を改善するために、夜勤の日数を減らすとか、妊娠したら夜勤はしないとか、いろいろ要求を一杯出して、労働組合を動かした?わけです。  子供を育てながらと言う事は夫の理解がないと駄目です。  保育所(保育室)を作ったのも最初でした。   看護師をして15年ぐらいしてから自分も勉強したいと思って要望を出したら、断られてしまって、自分で作りますと言って、東京看護学セミナー という学習集団を作って自分たちのお金で運営を開始しました。 そこでの蓄積が私にとっては凄く役に立っています。 

もっと勉強したくて辞めましたが、講演、原稿の依頼が増えてきて大学に行くようなことになりました。  70歳になってから母校の教授になりました。  日赤の病院を良くすれば全国の病院も良くなってゆくと思って、もう一回日赤の役に立つことがあるかも知れないと思いました。  2年経ったら学部長になってしまいました。 主人が舌癌になりかいごもしなくてはいけなくなって、あの頃は3時間睡眠で大変した。   

「長生きは小さな習慣の積み重ね」と言う本を昨年出版しました。 人生100年と言うと凄く長い感じがしますが、一番大事なことは明るく楽しく自分らしく暮らすという事を目標にしてほしいと思います。  そのためには加齢にとらわれないことだと思います。 暦年齢と本当の心身の年齢は違うんです。  最終的には介護を受ける時間が来ると思いますが、出来るだけ短い期間にしたい。  出来るだけ心配、悩み、ストレスを減らす。  嫌な人には合わない、嫌いなことはしない。  人間は元々群れる本質があります。 一緒に食事をしたり、話をしたりすり事がとてもいいことです。  コロナ禍でそういったことが失われてしまってその後遺症が現れるのではないかと心配されます。 独り暮らしの人は、一人でいることのリスクはいっぱいありますから、一日一回は電話でもいいから声を出してしゃべることは大事です。  手を当てるという事ですごくいい効果があるんです。 痛みを取り除くだけではなくて、不安、心配も除きます。















2024年5月13日月曜日

桂小すみ(音曲師)           ・〔師匠を語る〕 三味線漫談家・玉川スミを語る

 桂小すみ(音曲師)           ・〔師匠を語る〕 三味線漫談家・玉川スミを語る

桂小須美さんは大学で洋楽を学んだあと、三味線の魅力にとりつかれて邦楽の世界に移ります。 そして修業を経て寄席の囃子として活躍していましたが、当時すでに大御所であった玉川スミさんの目に留まり、その芸を伝授されることになりました。 2012年に玉川スミさんが亡くなるまでのわずかな期間に、小すみさん伝えられた熱い思いをたっぷり語っていただきました。

音曲師と言うのは、寄席においては三味線を弾きながら歌を歌うという三味線音楽です。   玉川スミさんは芸の百科事典、生き字引といった人でした。 

大正、昭和、平成と90年近くに渡って演劇の世界で活躍した玉川スミさんは、1920年(大正9年)福島県郡山市生まれ。 生後間もなく両親が離婚し父親の元で浪曲を子守歌代わりに育った玉川スミさんは、幼いながらも浪曲を巧みに歌う天才少女と呼ばれたそうです。  その噂をききつけた女流歌舞伎の一座に入寮し初舞台を踏んだのは3歳の時、その後も10人以上の育ての親の元を転々とし、浪曲だけでなく民謡、舞踊、チンドン屋、サーカス団のブランコ乗りなど様々な芸能を経験し、習得します。 

戦後しばらくは3代目春風亭柳好さんから授かった桂小豆の名で、漫才師として寄席に出ていましたが、相方にめぐまれず昭和33年からは、一人で演じる三味線漫談を始めます。 芸名を玉川スミに替えたのは1960年(昭和35年)劇作家長谷川伸さんの門下生だったユーモア作家の玉川一郎さんから名前を授かりました。 幼いころから習得した様々な芸を盛り込んだ玉川スミさんの三味線漫談は独自の芸風を確立、120本もの扇子を使って松を表現する松ずくしという芸は1971年(昭和46年)文化庁芸術祭優秀賞にも選ばれました。 又1991年(平成3年)には勲五等宝冠章を受章しています。 晩年も舞台に立ち続けた玉川スミさんでしたが、2012年9月25日心不全のため亡くなりました。(92歳) 芸能生活90年を迎える直前でした。  

14歳までに13人の親が変っていたと言っていました。 稽古で頭をバチで殴られて7針縫ったというようなことも言っていました。  10代には失恋をして樺太の海に飛び込むとか、大変なエピソードがいろいろあります。  負けん気が強い性格でした。 2001年に国立演芸場で見ましたが凄すぎて、いろんなことをやりました。 三味線漫談、マジック、漫才、民謡に合わせて二挺鼓、太鼓の解説、日本舞踊、浪曲(一本刀土俵入り)と言ったものを一日で全部やるんです。 

桂 小すみさんは東京学芸大学教育学部音楽学科中学校課程卒業。大学在学時、在学中にウィーン国立音楽大学に国費留学、再び東京学芸大学に戻り邦楽の授業で三味線とお琴を学びました。 大学卒業後は長唄三味線方の杵屋佐之忠に師事。 その後国立劇場の大衆芸能研修生となり、寄席囃子の専門訓練を受けた後に、2003年落語芸術協会のお囃子になります。 2018年からは桂小文治門下に入り前座修行、2019年3月デビューしました。 これまでにも数々の賞を受賞していますが、今年は芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞しています。

ウイーンではミュージカルを専攻していたので、御芝居、バレエ、声楽などいろんな勉強をさせていただきましたが、洋楽の観点からも和風な観点からもすごく面白くて、自分もそうなりたいという思いはなく、絶対無理だと思います。 

*さのさいり?都都逸の一部  玉川スミ

三味線の稽古場があり、「さのさ」を教えてあげるという事で、玉川スミさんが先に弾いてその後弾いたら覚えがいいと言われました。(その前に何百回と見ているので、一応真似は出来たんですが)  前に聞いた歌が素敵だったのでどういうものか聞いたら、にあがり新内という事で、稽古をつけていただきたいと言いました。  OKを頂きましたが、凄く難しい歌だったそうです。 同じことを真似っこして歌うんですが、宇宙に飛んで行ってしまったような不思議な感じがしました。  その後に師匠がお客様の前で歌ってみて弾いてみてどんな節がいいのか、と言ったことを練ってゆくものだ、そういう勉強を売る気はないかと言われました。  20分の初高座に収まるような歌をいくつか教えていただきました。 そうこうしているうちに師匠が入院してしまいました。 入院中も指導があり、危篤に二度なっても元気になったりして、「貴方の初高座を見るまでは死ねないよ。」といって下さいました。 その一月後には亡くなってしまいました。 

私はオペラ歌手になりたかったが、声が上手く出なくて挫折しましたが、ミュージカルの方は楽しく歌えるようにはなりました。  その後、長唄など日本の歌を勉強しました。  貴方の声は日本の物に向いていると言われて凄く嬉しくなりました。  私は末廣亭に入ってから亡くなったことの連絡を受けました。 吃驚して直ぐに飛んでいきました。 

「興味を持ったものはどんなものでもいいから、全部一生懸命勉強しなさい。 いっくらやっても足りないから。」と言われました。  師匠の生き方そのものかもしれません。 鏡、着物など頂きましたが、大事に使っているのが木魚と「リーン」となるのが一つにくっついているものです。 念仏するときなどに使っています。 

玉川スミ師匠への手紙

「・・・スミ師匠に音曲師への転向をお勧めいただいてからおよそ7年掛かりましたが、お囃子の古田直美師匠と、桂小文治師匠、他皆さまのご支援、御指導のお陰様を持ちまして、音曲師桂小すみとして歩き出してからちょうど6年経ちます。・・・信じられない賞をいくつかいただきまして、私もびっくりしています。 ・・・ 私にお稽古つけてくださいながらスミ師匠が何度もバーッとデビューさせて皆を驚かしてやるとにやにやしながらおっしゃっていたのを思い出します。・・・ スミ師匠が私の長唄三味線の師匠杵屋佐之忠先生と長く前からのお知り合いだという事は吃驚するご縁でした。 ・・・ 先生たちが私が入門する前に大病患われており、奇跡の復活をされた時にたまたま私が入門しています。 

私に情熱的に三味線のすばらしさ、面白さを、演奏を通して稽古を通して教えて下さいました。・・・覚えの悪さを申し訳なさを思いつつ、いまは感謝の気持ちでいっぱいです。・・・生きている間は一生懸命はたらいて、死んでからゆっくり休めばいい、とスミ師匠が毎日言っておりました。・・・スミ師匠がどれだけ苦労されて、様々なことを学ばれたのか、その大変さは想像が尽きません。学校にいけなくても読み書きを覚え、6歳のころには着物の仕立てを覚え、いろいろな伺うことが一昔前の芸や暮らしの図鑑の様でした。  その大変さを微塵も感じさせず、強い負けん気と芸の力はいつも身体から溢れておいででした。・・・ 病床ですら芸事を教えていただきました。 ・・・スミ師匠いつもご指導ありがとうございます。」







































2024年5月12日日曜日

奥田佳道(音楽評論家)         ・〔クラシックの遺伝子〕

 奥田佳道(音楽評論家)         ・〔クラシックの遺伝子〕

パガニーニによる大練習曲から 第3曲「ラ・カンパネッラ 作曲:リスト               ピアノ曲としては最も有名な曲の一つ。  オリジナルはヴァイオリンの曲です。 ニコロ・パガニーニヴァイオリン協奏曲第2番第3楽章のロンド『ラ・カンパネラ』の主題を編曲して書かれた。

華やかなテクニック、音楽性を持つ音楽家。 名人芸の系譜と題しておおくりした。

パガニーニによる大練習曲から 第3曲「ラ・カンパネッラ」のクライマックスの部分 作曲:リスト 

*ヴァイオリン協奏曲第2番第3楽章 ロンド 作曲:ニコロ・パガニーニ ラ・カンパネッラ」の原曲

パガニーニの超絶技巧に感銘を受けた作曲家シューベルトとヨハンシュトラウスの父です。1828年(ベートーベンが亡くなった翌年)にウイーンでパガニーニは今のヴァイオリンを弾いてセンセーションを巻き起こします。 

*パガニーニ風のワルツ  作曲:ヨハンシュトラウスの父(パガニーニの超絶技巧をワルツにならないかと考えた。)

*無伴奏ヴァイオリンのための24の奇想曲  第9番ホ短調La caccia)』作曲:パガニーニ  超絶技巧の曲

シューベルトはパガニーニの曲を聴いて日記に「天使の歌を聞いた。」と書いている。   

*魔笛から「夜の女王のアリア」 作曲:モーツアルト モーツアルトが歌に託した超絶技巧。

*「連隊の娘」 作曲:ガエターノ・ドニゼッティ  第一幕 トニオは「これでマリーと一緒にいられる」との喜びを爆発させる。 「ああ!友よ、何とめでたい日々だろう」を歌う。   テノールに超絶技巧が織り込まれている。 

*無伴奏ヴァイオリンのための24の奇想曲 「第24番 イ短調」  作曲:ニコロ・パガニーニ  映画パガニーニ愛と狂気のヴァイオリニスト』 のオリジナルサウンドトラックから、デイヴィッド・ギャレットのバイオリン  本曲集の終曲であり、非常に有名な作品。










2024年5月11日土曜日

高井小織(片耳難聴団体「きこいろ」副代表)・知ってほしい!片耳難聴(初回:2023/10/14)

 高井小織(片耳難聴団体「きこいろ」副代表)・知ってほしい!片耳難聴(初回:2023/10/14)

https://www.blogger.com/u/1/blog/post/preview/6603486548892984106/8915293717015623643をご覧ください。

2024年5月10日金曜日

佐藤いづみ(NPO理事)          ・【人生のみちしるべ】絵本は幸せの約束(初回:2020/7/10)

佐藤いづみ(NPO理事)      ・【人生のみちしるべ】絵本は幸せの約束(初回:2020/7/10) 

https://asuhenokotoba.blogspot.com/2020/07/blog-post_10.htmlをご覧ください。

2024年5月9日木曜日

紫苑(エッセイスト、ブロガー)     ・年金月5万円でも、幸せなシニアライフ!

紫苑(エッセイスト、ブロガー)     ・年金月5万円でも、幸せなシニアライフ! 

フリーライターとしてかつてはタワーマンションに住む裕福な生活を送ってた紫苑さん(73歳)、その後離婚、がんなども経験し、2人の子どもを育て上げ気が付いたらコロナ禍で仕事が激減し、月5万円で生活していかなければならない現実に直面しました。 これまでの生活費を見直し、発想の転換を図って69歳から始めた節約生活、始めて見ると意外と快適で毎日心地よく生きられることが判ったと言います。 少ないお金でもきちんと生活してゆけば、楽しく元気に暮らしていけることを知って欲しいと、御自分の節約生活をブログで発信している紫苑さんに伺いました。

新聞記者に憧れて地方の支社で働いていまいたが、当時女性としては働き甲斐のないところであったので辞めてしまいました。 フリーランスになりました。 当時は雑誌に勢いがありましたので、仕事には困りませんでした。 国民年金も当時は義務ではないので払っていませんでした。 中途から払うようにとの連絡があり払うようになりました。  結婚して、子供二人産んで、離婚がありましたが、育てていきました。  公団の新築に住んでいました。(15万円ぐらい) その後に引っ越したタワーマンションはもっと高かったです。  43歳の時に就職しようと思いましたが全部落ちてしまいました。 小さい業界紙みたいなところに就職ができました。(給料が20万円) その後子供たちも独立して、安いところに引っ越して、貯金もどんどん減って行きました。 不安になりました。    家の購入価格もどんどん下がってきたので、思い切って貯金をはたいて家を購入しました。 コロナまでは普通に遊んではいました。   

コロナになっていきなり仕事がなくなりました。 年金しか入ってくるものがなくなりました。 5万円で生活しようと決心しました。(69歳)  まず食生活から見直しました。 スイーツ、駄菓子の見直し、健康に気を付けるために正しい食生活にしました。  固定費(ガス、水道、電気、税金などで2万円))通信費(1万円) 残りが2万円になります。  食費を中心にしました。(1万円) 残りで必需品を購入することにしました。 4万3000円ぐらいで生活が出来ていました。   

スイーツ、駄菓子の見直については、きな粉に砂糖できな粉は身体にいいです。 サツマイモもよく食べました。(甘くておいしいし、身体にもいい。)  胃が弱かったがよくなってきて元気になりました。 安くて低脂肪、栄養価があるのは鳥の胸肉、イワシ、レバー。豆腐、旬の野菜です。 ツナ缶、サバ缶もよく使いました。 イワシは色々料理して、今でも食べています。  1000円ぐらいで色々買えます。 1万円でいろいろできることが判りました。  節約生活をするようになっていろいろと頭を使うようになりました。  以前の着物が溢れていましたので、リメークをし始めました。  それを考えるのも楽しいです。  50歳で乳がんになり、当時はまだお金には余裕があったので着物(和服)の購入にはまってしまっていました。 今は処分しつつ着ています。(いい気分転換になります。)  

「買えない。」から「買わない。」に替えるという事は自分の意志をコントロールする事だから、快感ですね。 自分の一つの武器になるような気がします。 美容費はほとんどかからないです。 髪も自分ですきます。 ファッション代、美容代はほとんどゼロです。  住家も住めればいいと思っていましたが、友達から絵を頂いてリビングに飾ったら、豪華な感じで花を飾ったり、部屋に気を遣うようになりました。  百均の品物を使って、いろいろ工夫しました。 始めた時から5万円弱で生活してきました。 

やってよかったと思いました。 母親が楽しく暮していることで子供たちも安心しています。 身体も元気になりました。 医療費もほぼゼロです。 人と比べることに慣れて生きてきていて、人の目を気にしていたりしましたが、自分の目だけで見てゆくと、簡単になっていき、楽になりました。  健康は何よりも大事だと思います。 見栄とメンツをなくせば生きてゆけます。  

























2024年5月8日水曜日

鈴木宣弘(東京大学大学院農学生命科学研究科教授)・食の安全保障を訴え続けて

 鈴木宣弘(東京大学大学院農学生命科学研究科教授)・食の安全保障を訴え続けて

鈴木宣弘さんは1958年(昭和53年)生まれの65歳。 三重県志摩市出身。 農水省から学会に転じて、著作や講演で日本の農業の大切さ、食の安全保障を訴え続けてきました。   2022年には食料安全保障推進財団を立ち上げ、理事長を務めています。 

講演も月に20回を越えるぐらいあります。 年には200回を越えるような状況です。    日本の食料自給率を上げなければならない。 食料自給率のカロリーベースでは38%ですが、実際はもっと低いのではないかという事を、私は強調している点です。 餌の穀物は2割しか自給できていない。 肥料の原料はほぼ100%輸入に頼っています。 それが止まると自給率は実質22%迄下がってしまう。 野菜の種は9割は海外から運んできている。 野菜の自給率は8割と言っているけれども、種が止まると8%ぐらいしか作れない。 米などの種も海外に9割依存してしまうような流れが強化されている。 鳥の卵も97%自給しているという数字はあるが、餌のトウモロコシはほぼ100%輸入、雛も輸入に頼っている。 それが止まると9,2%という計算になる。  止まってしまうと異常な状態になる。 自分たちの命を守れなくなって来てる。 

日本はアメリカの戦後の占領政策で、アメリカの余った農産物を日本人に食べてもらうという事で、日本は農産物の完全撤退を進めることになって、アメリカの農産物がどんどん入ってきた。 米以外の農産物が壊滅していった。 農産物の完全撤廃は受け入れて、日本は自動車などを輸出して、経済をまわしていこうという事が、日本の経済政策の中心になってきた。 食料はいつでも安く輸入できるという事を前提にすることが、食料安全保障であるかのように、考えてやってきた。 それが今は通用しなくなってきたという事が大きな問題です。 

「クワトロショック」4つの危機に見舞われている」と主張する。             (1)コロナ禍による物流の停滞 (2)中国による食料の「爆買い」(3)異常気象による世界的な不作  (4)ウクライナ、中東の戦争の勃発

ロシア、ベラルーシは敵には食料を売らないと言っている。 農業インフラの破壊、があり、食料の囲い込み。 インドは米、麦の世界一レベルの生産国だが、自国民を守るために外に売っている場合ではないと防衛的に輸出を止めると言っている。 こういった動きが多くなって30か国ぐらいになってきた。 日本は調達が難しくなってきている。 アメリカでも計算していて、物流が止まったら世界で最初に飢えるのは日本だと、日本で一番餓死者が出ると言っている。(核戦争が起こった場合と言う極端な想定) 世界で3億人の餓死者が出るが日本に一番集中(7200万人)すると言っている。 

物流が止まったら、政府は有事立法を作って、強制的に農家に命令すると言っています。  イモ類などの増産命令を課すというような政策です。  普段から支えてゆく政策が出来ていないのに、いざと言う時だけ命令するというのは無理です。 今農家に皆さんの所得がしっかり維持できるようにする仕組み作りをして、食料自給率を普段からしっかり高めておくことが大切です。 

1950年農家人口が45,5%  アメリカの安い農産物とは対抗できなくなって農家の所得が十分に得られない状況が進んで、離農が進んできた。 車などの工業製品を輸出することで豊かにしていこうという政策をとった。  農業人口が減って、高齢化が進んで68,4歳まできてしまった。 後5年、10年経ったら日本の農業がどれだけ存在しているか。 生産資材のコストが上がってきて、農産物の売値はあまり上がらなくて、更に赤字が拡大している。 農業が崩壊して行くというような実態です。 

半農半漁の家の1人息子で、農業も漁業も手伝ってきました。  小学校の4年生の時に乱開発の影響(豊かな自然を壊してしてゆく)を先生が話をしてくれて、自分はどうやって社会を変えていけないか、そういう事に関わって行けないか、考え始めました。 東京大学農学部農業経済学科を卒業し、同年、農林水産省に入省しました。 国際部国際企画課で国際情勢の分析などをやりました。 貿易自由化に対した国内の農業、農村を守るために必死で抵抗していました。 政策を強く打ち出してゆくような余地が減らされてきている。 

要領が悪くて、研究所に移動して、アメリカのコーネル大学に行っていた時に、九州大学の先生のところで研究したいという思いがあって、九州大学に採用してもらう事になりました。 1998年の時で学界に転身しました。  ものが片付けられない、朝が苦手、要領が悪い、これは直らないです。 2006年から東京大学大学院農学生命科学研究科教授(農学国際専攻)です。 このまま日本の農業が崩壊して行ったら大変なことになると思いました。 大学では自由な発言が可能になったので、九州大学のころから発信を強めていきました。 

日本の農家の所得に対する税金の補助金の割合は3割程度です。 フランス、スイスなどはほぼ100%なんです。 欧米では、命を守り、環境を守り、国土国境を守っている産業はみんなで支えるのはある程度常識なんです。 日本の方が非常識だと考えないといけないのではないか。 2022年に「食料安全保障推進財団」を作りました。 安全・安心な食料を量的・質的に国民に常に確保するための生産から消費までの国民全体のネットワーク強化、食の安全性の「可視化」、及び必要な政策を実現するための活動を推進することを目的とする。去年1年間で40を越える場を財団が作り出しました。 食の安心安全という事で、耕作放棄地を女性の方々が借りて、子供たちを含めてやってくれる、そういった動きもあります。 地域の皆さんが農家の皆さんを支えるとともに、自分も地域の農業生産に関わるような仕組み作りを広げて行こうという声が、強まってきています。 

地域の有機農産物が学校給食にといり入れられている事は、大事な核になると思います。  地域で食料が循環できる仕組みを作るというのは、非常に大事な核になると思います。  農家が減少してゆくなかでどう支えるか、国レベルの政策も大事ですが、地域地域で地元の皆さんを支えてゆくような、ローカル自給圏を作る事によって、消費者と生産者が一体化してゆくことを広げる事が重要になってきている。 

直売所では農家の小遣い銭稼ぎにしかならないと言われてきた。 それを打ち破ったのが和歌山県の野田モデルです。 中間流通を通さずに作物を広域で販売する『野田モデル』という仕組み。 地域の直売所を転送システムでつないで、一気に沢山の店舗で品物が売れるような仕組みです。 1億円売れるような直売所が確保できたり、1000万円緒以上売り上げるのが300軒ぐらいになってきています。 そうすると農家の所得を画期的に引き上げることができる。 農家に価格決定権があるのが大きい。 

講演にも増えてきて、沢山の方が関心を持ってくれるようになりました。 食料安全保障推進財団」も、皆を支えるためには、もっと何が出来るか考えていかなければいけないと思います。 不測の事態のリスクが高まっている中で、国民の命を守れるように準備するという事が「国防」と定義するならば、国内の食料を守る事こそが、日本にとっての一番の「国防」、「安全保障」の要だと思います。 循環型食料自給圏を各地で作て、それをベースにして広げてゆくことで、日本の農業、農村、自分たちの食料、健康を守って行けるように一緒に頑張りましょう、という事を呼び掛けたいと思います。 










2024年5月7日火曜日

高柳和江(癒しの環境研究会理事長)    ・笑いで、病(やまい)をふっとばせ

高柳和江(小児外科医・癒しの環境研究会理事長)    ・笑いで、病(やまい)をふっとばせ 

高柳和江さんは長年笑いの医学効果の研究に取り組んでいます。 笑う事はウイルスやがん細胞と戦うキラー細胞を増やし、既存の持つ免疫力を上げることが知られています。 高柳さんは笑いが免疫力を上げることを「笑医力」と言って、免疫力を上げる副作用のない魔法の薬だと言います。 現在介護老人保健施設の施設長として、高齢者から生まれたばかりの赤ちゃんまでを見るお医者さんです。

神戸大学の医学部を出て、順天堂大学外科専攻生を経て、徳島大学医学部医学博士課程修了後、クウェートにて10年間小児外科医として勤務。  生まれたばかりの赤ちゃんを230人手術して、12歳以下のお子さんを7万人ぐらい手術しました。

クウェートと言うとおお金持ちの国なので、最新鋭の素晴らしい機械が揃っているんです。   イギリス人が来て小児外科を始めました。 イギリス方式は患者さんに皆笑うんです。 笑っていると患者さんも笑うんです。 吃驚したんですが、笑うと病気が治る子が多いんです。 入院すると病院在日数が日本で当時50日ぐらい、クウェートではたった7日間なんです。 笑うといいんだという事が判り、それは必須だと思いました。 日本に戻ってもそれを取り入れたいと思いました。 

アイオワ大学で医療管理学の研究に携わりました。 医療の質を高める事、ホッとできる場所であるとか、安全にいろんなことが出来ていることも大切で、患者満足度調査は日本ではなかったんです。  日本でも患者満足度調査を始めました。 日本医科大学に10何年いましたが、どうしたら患者さんが話したくなる医者の話し方があるかという事を勉強して、それを医学生に教えました。 今は医学部の4年生から5年生になる時には必ず全員、模擬患者の面接を受けなければいけないんです。 それから実際の患者さんに会う事が出来るというシステムになっているんです。 模擬患者さんから聞くわけです。

コロナで予防注射をするときの副作用があるがそれを減らしたいと思ったんです。  150人ぐらいの高齢者に対して笑ってもらって、ブスっと注射をするわけですが、統計を取りました。 大笑いしたグループとそうではないグループでの比較では、注射をした時の痛みも少なかったんですが、翌日に熱がでる人も少なかったんです。 統計に出ていて今論文を書いているところです。 

大きな手術をした後に療養する期間があり、患者さんに大きな名刺を渡しますが、そこには私の名前と大きな笑っている写真と「一日5回笑って、一日5回感動して。」と書いてあるんです。 笑いもそうですが、感動も本当に大切だと思っています。 古代ギリシャのアルキメデスがお風呂に入っていたんです。  水が流れ出て身体が浮き上がったんです。 これは浮力だと言って、アルキメデスの原理を発見したんです。 「見つけたぞ」と大喜びで裸のまま家まで走って帰ったというんです。  大興奮、感動です。 感動して笑う事が大切なんです。 花が咲いていて、「なんて綺麗なんだろう。」と心から感動する。 そうすると必ず笑顔になるんです。

胃とか腸の手術を単にしただけの人と、心理的な笑いを介入した人を比べると、笑った人の方が生存率が高いんです。 論文にもしましたが、データがあるんです。  実際の例で70歳ですい臓がんになった人が居て、見つかったとこには余命3か月と言われたんです。 私の笑いの講演に来ました。 幼馴染4人集まって彼女の家で朝から晩まで笑っていたそうです。 2週間でガンの腫瘍マーカーが300から激減して190になったというんです。  1年後にはガンが小さくなって、転移があって腹膜のリンパ節に有った転移が全然なくなって、2年後には何も見えなくなったそうです。 3年後には全然見えなくなって主治医が「貴方は完治です。」と言ったそうです。 私もびっくりしました。 

86才の方で心臓が悪かったんです。 歳なので手術はしないと言う選択をしました。 私のところに来ました。 時々胸が苦しくなるという事でした。 「一日5回笑って、一日5回感動して。」と言う名刺を渡しました。  3か月経って彼女は別の施設に移ることになりました。 ご家族が迎えに来て「どんな魔法を使ったんですか。」と言うんです。 「あんなにニコニコして幸せそうな母親なんて初めて見ました。」と言うんです。 皆で笑顔で帰りました。 

ガンの末期と言われた男性がいました。 ホスピスに入って覚悟を決めていました。 実は奇跡が起こりました。 ホスピスに入ってガンが治ってしまったんです。 どうしてそうなったのか判らなかったが、ホスピスから送り出されました。 大喜びで家に帰ったが、鬱になってしまいました。 その後精神病院に2年間入院してしまいました。 動かないので膝も曲がり腰も曲がりましたが、精神病も落ち着いたからという事で、家に帰るのもなんだという事でうちの施設に来ました。 例の名刺を渡しました。 3か月して彼は家に帰ることになりました。  彼は走って来て私に言いました。 「先生見てください。 こんなに元気になりました。」 「一日5回笑って、一日5回感動して、こんなに元気になりました。」と笑いながら言うんです。  感動が大事です。 

笑い、感動に加えて結局人間は感謝なんですね。 小さな花を咲かせているのを見ても「ありがとう。」という感謝ですね。 

笑い療法士を育てています。 1994年に「癒しの環境研究会」を作りました。 ソフトの部分、人間的なところがあるのではないかと思いました。 癒しを育てるのには笑い療法士が必要だと思いました。 笑いを引き出す人。 2005年から笑い療法士の育成をしています。 一番大切なのは安全安心だと思います。 安全安心を提供してくれる人、一緒にいるとホッとさせてくれる人。 心が病んでいる人には安全安心が大切です。 現在第19期生を募集しています。 

第一期生に青森県の方がいて、青森県庁に務めている人です。 青森県は自殺する人が多かったり、子供に対する虐待を何とかするために、笑い療法士となりました。 10何年活動していて、5万5000人の方が聞いていただきました。 (県の25人に1人) 7年間ぐらいで自殺する人が少なくなった。  笑い療法士の認定者は1000人を越えています。   笑いは薬になります。 リュウマチなんかにもよく効きます。 

17期生の「ダイヤ」と言うニックネームの人から連絡がありました。  97歳のお母さんを亡くされた娘さんに、私が描いた「死に方のコツ」の本を差し上げた。と言うんです。   往診の先生が、病院に行かないでうちで看取った方がいいという事で、危篤の時に「ダイヤ」が訪問看護士をしていて、娘さんが、「頑張れ頑張れ。」と言っているので、「お母さんはもう十分に頑張っているので、それよりもありがとうね、と感謝を伝えて。」といったら「お母さん、ありがとう、よく頑張ったね。」と言いました。 翌日お母さんは亡くなりました。 「ダイヤ」はそのお母さんの顔を見ましたが、見事に穏やかで美しい顔でした。娘さんが本当に看護されて、感謝しているんでしょうね、と言ったというんです。

3か月後に娘さんに電話をしたら、97歳と言うと大往生と言うが、もっともっと生きて欲しかったという事でした。 苦しい呼吸をして居たり、病院へ連れて行った方が良かったのではないかと言う思いがあったようですが、「死に方のコツ」の本(高柳和江著)を渡したそうです。 亡くなる人は呼吸は苦しいかもしれないが、本人の心は天井の方に行っているので、もう苦しくはないと書いてありました。 寄り添うという事の大切さを実感しましたと「ダイヤ」は言います。 これが実際の笑い療法士です。 笑い療法士は一般的には笑いを引き出すというんですが、心から寄り添うんです、という事をお伝えしています。  自分が心が豊かでないと、感動という事を知っていないと、感謝の大切さを判っていないと出来ないと思います。





  

2024年5月6日月曜日

穂村弘(歌人)             ・〔ほむほむのふむふむ〕

穂村弘(歌人)             ・〔ほむほむのふむふむ〕 

ゲスト:伊舎堂 仁さん 若い歌人で似たタイプが居ない歌人。 

1998年沖縄石垣島の生まれ。 大阪芸術大学文芸学科卒業後現在は東京在住。  これまでに歌集を2冊2014年に第一歌集「トントングラム」、2022年「感電しかけた話」を出版。

穂村: 最初は新聞の短歌欄で見ました。 

伊舎堂:この名前はほとんど顔見知りで一族です。 

穂村:作品も凄くインパクトがあります。

*「伊舎堂に合わせたい人が居ないんだ是非合わないでみてくれないか」  伊舎堂 仁

決まり文句は社会にはあるが、それが裏返されている。 たまらなく奇妙です。

伊舎堂:僕は空気中にこの言葉が見えるんですが。 

穂村:切実な感じがあって、冗談のように見えるがヒリヒリした感じがあって、こんな歌もあります。

*「本部長のイメトレ中のスイングのゴルフボールの飛び先に俺」      伊舎堂 仁

ゴルフのスイングのイメージトレーニングをしていて、どこか透明人間ぽい、存在を無視され切っている。 本部長の眼中に無い。 笑えるが、でも切実。

穂村:こういう歌ばかりではなく、

「雪見だいふく作り方で検索しているような子が好きである」         伊舎堂 仁

愛の歌ではあるが、凄く距離のある愛の歌。

伊舎堂:この歌は俵万智さんも好きです。 俵さんが新聞に短歌コーナーを持っていて、送ると図書カードを貰えるんです。 送り続けていました。(12年前石垣島で)

穂村:5、7、5、7、7は1000年以上変わらなくても、そのなかで微妙に揺れ動いている。 正岡子規の時代とか、われわれの時代も俵万智さん、東直子さん、林あまりさんなどは演劇をやっていた人たちです。 演劇のセリフとかが、文語から話し言葉に変わる短歌とシンクロして演劇をやっていた人たちが短歌にオーバーラップしてやって来るんです。  伊舎堂さん達の世代にはお笑い、大喜利とか言うのがあり、伊舎堂さんにはどこかそういったベースにありつつ、なんか短歌にはまった印象です。

伊舎堂:みんないとおしいということを感じます。

「雨の県道あるいてゆけばなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁」   斉藤斎藤

これはショックの最初の一首で、私に起きたことを順番に書いてゆくと、面白くなるみたいな、その人が生きてみたものを書き方によっては、宝石みたいに出来るみたいな、そう感じた最初の一首です。

「つま先を上げてメールをしていたらかかとで立っていたと言われる」  土岐友浩

斉藤さんとは違うジャンルで、面白いことを言っていなくてもいい、優しく受け止められる。 

「超長期天気予報によれば我が一億年後の誕生日曇り」          穂村弘

高校生の時に読んだ一首です。 大喜利的な奇妙な発想。

穂村:よく考えると、この短歌は曇りしかないんですね。 虹とか言ったらとんでもないし、嵐でも雨でもないし、曇り。

「ラジオ体操の帰りにけんかしてけんかし終えてまだ8時半」       伊舎堂 仁

 とてつもない子供感みたいなもの、未来がある感じ。 

伊舎堂:僕らの世代は漫画でもセリフがめちゃくちゃ多くて、言い合いも長セリフで、それを覚えた子供たちがけんかをするから長くなるんです。 ほとんど口喧嘩のやりあいです。

穂村:無駄な感じ、無駄が輝くには時間がいりますね。 時間がたっぷりあった時だけに許される無駄な感じ。 大人は駄目ですね。 物凄く無駄なことをやっている若い人を見るとまぶしい感じがします。

「海だけのページが卒業アルバムにあってそれからとじていません」    伊舎堂 仁

人が写っていなくてこれも一種の無駄ですよね。 余白の輝きみたいな感じ。 心のページをとじていない。

「ぼくたちを徴兵しても意味ないよ豆乳鍋とか食べてるからね」      伊舎堂 仁

徴兵反対に、特殊な角度から表現した歌ですね。 豆乳鍋の出現にはかなり資本主義が高度化しないとここまで行きつかない。 

伊舎堂:

*「次の瞬間教室に一匹の或る動物が入って来ます」           穂村弘

好きな一首です。 穂村さんぽくないところが納得するし不思議でもあります。 

*印はかな、漢字など違っている可能性があります。













2024年5月5日日曜日

桂玲子(声優)              ・〔時代を創った声〕

桂玲子(声優)              ・〔時代を創った声〕 

「サザエさん」にイクラちゃん、カツオの片想いの相手アオイちゃん、「新オバケのQ太郎」の二代目のO次郎(Q太郎の弟)、一休さんのさよちゃんなどを演じてきました。 「サザエさん」は放送されて今年で55年になります。 イクラちゃんを演じて50年になります。 「ハイ」から始まってもうちょっと話せるようにと言うことで「バブー」も始めました。 もっと話せるようにという事もありましたが、「ハイ」と「バブー」を使い分けるようになりました。 前後のセリフを聞いて、それなりに反応するようにしています。 

福岡県福岡市出身。 小さいころは写真館に行ってはポーズをとったりしていました。 幼稚園の卒園式の時には代表でいう事になりましたが、最初の言葉はいくつか言えたのですが、その後は言えなくて大失敗しました。 小学校の入学式の時にはたくさんの子が怒涛の様に押し寄せてきて、どうしようと思ったのを覚えています。(大勢のところは苦手でした。)    中学生のころに新舞踊を習いました。  「どんたく」では父親と舞台で踊ったのを覚えています。 高校では演劇部に入りました。 ベニスの商人とか勧進帳などいろいろやりました。 その後地元の九州朝日放送放送劇団に入りました。(ラジオドラマなどいろいろ) 

或る時に芥川比呂志さんから主人に声がかかって文学座をうけて、私も受けることになりました。(三期目)  ただ楽しく過ごしました。 日本舞踊をやるようになって名取となりました。(放送劇団のころ)  当時声優になろうとは思わなかったです。 声優の役を段々やるようになりました。  言葉にならない赤ちゃん役はどうしようか、難しかったです。  イクラちゃんはそんなに苦労はしませんでした。  「フランダースの犬」にアロアもやっていて、「一休さん」のさよちゃん、この二つは女の子を実感しながらやりました。 好きな役でした。 

「新オバケのQ太郎」の二代目のO次郎は非常にやりやすかったです。 「バケラッタ」で感情を表現する。 考えたら駄目だと悟りました。 日舞は役に立ったと思います。 主人が亡くなって、坐骨神経痛があり、体力的にも気力的にも落ちて、リカちゃんがしばらく出ていなくて、出来なくなって一生懸命に考えて、やればやるほど違って、或る時に考えないようにしました。 その世界に飛び込めばいいと思って頭では考えないようにしました。(2年前のこと)  

何でもできるというのが声優の魅力だと思います。 もうちょっと体力があったら舞台をやってみたいですね。 声優という事に抵抗を感じなくなったのは割と最近です。 若い人への提言としては、若いうちはやりたいことをどんどんやればいいと思います。 でもすぐには生活が出来ないので、頭の隅に置いて挑戦すればいいと思います。 











2024年5月4日土曜日

キダ・タロー(作曲家)         ・浪速のモーツァルト 後編  90歳過ぎてますます元気(初回:2023/2/4)

キダ・タロー(作曲家)  ・浪速のモーツァルト 後編  90歳過ぎてますます元気 (初回:2023/2/4)

https://asuhenokotoba.blogspot.com/2023/02/90.htmlをご覧ください。

2024年5月3日金曜日

浦田理恵(ゴールボール元日本代表)    ・一歩踏み出す勇気をもって 後編

浦田理恵(ゴールボール元日本代表)    ・一歩踏み出す勇気をもって 後編 

2008年最初のパラリンピックが北京大会、「よしやるぞ」という思いで北京に乗り込みましたが、大舞台なので凄く緊張しました。 8か国中、7位と言う結果でした。 帰りの飛行機ではずっと泣いていました。 何が足りなかったのか、どうしたらいいのかなと、自分の足りないものと自分の必要なものを考えて、次のロンドンでは絶対に金を取ってやるぞと思いました。(決勝はアメリカと中国だった。)  まずは弱気な私のメンタルだなと思い、メンタルトレーニングをやりました。  筋力と同じで、地道にトレーニングすることで少しづつ自分をプラスに持っていくやり方を自分で作っていきました。 

コートに立っている時にどんな思いでいるのか聞かれた時に、「日本のゴールを守るのが自分の役割なので、失点してはいけないんです。」と言ったところ「その言葉を変えたらもっと強くなる・」と言われました。 「失点してはいけないんです。」という否定形ではなく「パーフェクトディフェンスで行くぞ。」と言う風に変えてみたらどうかと言われました。 言葉をポジティブに変えて行って、自分のマインドをポジティブに持っていく。 それで変わって行きました。

日本は体格的にも小さめで、パワーの部分が劣ることが否めなかったが、一人一人の力は小さくても、それを繋いで一つになる、それは日本は強みなのでそこにたどり着きました。 チームで一つのボールを追ってゆく、カバーリングの動きをしてゆく。 攻撃も同じです。 コミュニケーションも増えて、チームも繋がって行きました。 

2012年のロンドン大会を迎えました。 「金メダル取りました、ありがとうございました。」と言うような勢いで行きました。 体力も前回に比べてしっかり作っていきました。 予選が1勝1敗1引き分けの2位で通過。 準々決勝がブラジル戦、準決勝がスウェーデン戦(残り30秒で同点に追いつかれて延長戦で勝つ)、決勝が中国戦。(優勝する。)  金メダルを獲得。 すべてに「ありがとう」と言う思いでした。(チームメンバー、周りの支え、日本からのからの応援など)   金メダルを取ったことで、自分自身が生きてゆくことに自信を貰えた感じがしました。   家族からは「まさか金を取るとは思わなかった。」と言われました。 凄かったです、感動しました、と言うような言葉を沢山の方から頂き、本当の意味でゴールボールをやる目的がその時に気付かされました。  

リオデジャネイロ(2016年)では5位になってしまった。 キャプテンを任されて挑んだ試合でした。 準決勝で中国に1点差で敗れてしまいましたが、次が母国開催なので挑戦しないわけがないです。(40歳を迎える頃ですが年齢は気にはならなかった。)   2016年以後あまり順調ではなかった。(後輩も力を付けて来た。) 2019年アジアパシフィック大会(東京大会の代表を兼ねている大会)へは代表落ちをしたりしました。 2020年3月には何とか代表入り内定を得ましたが、その直後にコロナで延期が決まって内定が白紙に戻されました。  体力と音の感覚を落とさないようにいろいろ工夫して対応しました。  

東京大会の代表に選ばれました。 チームのバランスをとる事と、ディフェンスが私の役割なんだなと言う思いでした。 金メダルを取ってやるというような思いでした。 心の状態も最高でした、ぶれないんです。 予選が2勝1敗1引き分け 決勝トーナメントでは準々決勝4-1でイスラエルに勝ち、準決勝でトルコに5-8で負ける。 予選の初戦がトルコ戦で1-7で大敗しました。(大丈夫なのか心配になる。)  その後も波に乗れない状況でした。 ブラジルに勝って胴メダルを獲得することが出来ました。 私は持っているものを全部出し切れました。 表彰台に上がった瞬間に引退を決めました。 仲間の成長が凄く嬉しかったです。  どんな言葉を発するかで、自分を変えて行けると思っています。  言葉が有るから思考を深めることが出来る。  言葉があるから人と繋がれる。  言葉って本当に凄いと思います。 

ゴールボールは真剣に生きてゆく、やるって楽しい、挑戦することの楽しさ、難しい、悔しい、厳しさを私に教えてくれました。  今自分があるのは、自分ひとりの力ではなくて、ありがとうと言う気持ちに気付けたときに、次の一歩に繋がりました。  壁にぶつかっていても、心持ちをちょっと変えたらそこに光が差してくる、そういう風に思っています。 一度きりの人生なので、自分を信じて自分を大事にして、自分を大事にするという事が相手を大事にするという事です。 

 








2024年5月2日木曜日

浦田理恵(ゴールボール元日本代表)    ・一歩踏み出す勇気をもって 前編

浦田理恵(ゴールボール元日本代表)    ・一歩踏み出す勇気をもって 前編 

今年8月にはフランスパリで障害者のスポーツの祭典パラリンピックが始まります。 その競技の一つゴールボールの話題です。 2012年のロンドンパラリンピックでゴールボールの日本女子の代表はパラリンピックの団体競技では初めて金メダルを獲得しました。 その中心メンバーの一人が福岡市に住む浦田理恵さん(現在46歳)です。 小学校の教諭になるために勉強を続けていた20歳のころから網膜色素変性症を患い、徐々に視力を失っていきほぼ全盲の状態になって行きました。 一時は絶望で家に1年半引きこもった時期もありましたが、家族の支えを頼りにゴールボールと出会い、学生時代までは運動音痴だったはずが、めきめきと頭角を現し日本代表迄上り詰めました。 東京パラリンピックを最後に代表を引退するまでに、北京、ロンドン、リオデジャネイロ、東京と4大会に出場し、ロンドンの金、東京の胴と二つのメダル獲得に貢献しました。 ゴールボールを通じて人として成長することを学んだという浦田さんに「一歩踏み出す勇気をもって」と題してお話を伺います。

シニア―アドバイザーとしてパラリンピックの日本代表の選手にアドバイスをしています。  技術の指導はあんまり向いていないと思っています。  チームの士気を上げたり、選手に寄り添ってメンタルのケアをするとかでは、私自身チームの役に立てるという事合宿にもスポットで参加して、言葉を通じてチームが勝ために雰囲気つくりと言ったところを、主な役割としてやらせてもらっています。 勝つためには心技体の中で8割が心で後の技が1,体が1と言う思いで選手時代も過ごしていました。 マインドセットは大事だと思っています。 

東京で辞めると言う事で目指していたわけではなくて、銅メダルを取った時に、私はやり切ったな、もう次にバトンを渡す時だなと決心しました。(44歳)  年齢ではなくてやり切ったという気持ちの部分です。  今世界ランキングは2位になっていますが、1位はトルコで頭一つ抜けているところもあるかもしれませんが、私は日本が決勝で戦っているイメージしかありません。 所属先、家族、友人などの応援があって、今の自分たちがあって、悔いのない準備が出来て、大会で自分たちの最大のパフォーマンスを発揮するのには、大会のこの場に立てたのは幸せだなあと思う事で、きっと自分たちの力は発揮できると信じ得います。 

2012年の時には左目は全く見えずに、右目は少しだけ光を感じる状態でした。 現在がほぼ全盲です。  目で見るだけが「見る」ではないと思っていて、ゴールボールをするときには音で「見る」、と言う感覚になっています。 人間の83%は視覚から得ていると言われています。 17%を最大限に生かしながら、工夫、努力して回りからのサポートがあれば、100%に近づいて行けるなと思えた時に、大したことはないかなと近づいてているんだと思います。 

20歳のころに小学校の先生を目指していました。 網膜色素変性症が発症して左目が3か月で一気に見えなくなりました。 右目が徐々に周りから視野が消えてゆく状況でした。  見えなくなってゆく自分自身が受け入れられなくて、他人に言えない時期がありました。  怖くて眼科になかなか行けませんでした。 1年半引きこもりました。  福岡で独り暮らしをしていました。 熊本の母から電話が良くかかって来ましたが、中々言えませんでした。  22歳のお正月に実家に帰って、目のことを伝える決心をしました。 駅を降りた時に母の声が聞こえてきましたが、そりらを向いても母の姿は全く見えませんでした。  見えないことを言ったら、最初は信じてくれませんでしたが、所作でようやく判ってくれました。(母は泣き崩れていました。) やっと言えたなと思いました。

母から「大丈夫よ。 目が見えなくなっても出来ることを一緒に探してゆこう。 一人やないけん。」と言ってくれて、自分の居場所はちゃんとここにあるんだなと思いました。  私ってなんでもかんで当たり前になっていたなと思いました。 家族のことを身にしみて感じました。 目に見えていたころとは違って、生活は激変しました。 工夫をしながら、基本的には音、形を使って段々生活に慣れていきました。  今でもそうですが化粧、特に眉毛を書くのは難しいです。 

「見えないので完璧は目指さない。」 見えなくなって、完璧な人はいないという風に気付きました。 自分の生き方が楽になりました。 2004年アテネで日本の女子が胴メダルを獲得したニュースの声が聞こえてきました。 ゴールボールを初めて知りました。 運動は苦手でスポーツには全く興味がありませんでした。 見えなくてもスポーツが出来るんだという事を知りました。 もしかして私にも出来るのではないかと言う、可能性を感じました。 

ゴールボールは3対3で行うチームプレイです。 アイシェードというものを付けます。(視覚障害の程度の差があるので平等にする。)  バスケットボールぐらいの大きさで中に鈴が入っています。(重さ1,25kg)  鈴の音を聞きながらそれぞれのゴールに向かってボールを転がしたりバウンドさせたりしながら相手のゴールを狙うチーム競技です。  私はディフェンスが得意なので、センターポジションにいます。 どこからボールが来るのか、出所を捜して、どの位置からどの高さで投げられてくるのか、予測しながらディフェンスをする、それが凄く難しいです。 音を聞いていろいろと予想をして、実際と合致した時にはすごい喜びを感じます。 床を転がす時の最高速度は50km/hぐらいになります。 顔に当たったりするときもありますが、恐怖はないです。  出来ないことを出来るようにするにはどうしたらいいか、探求することが楽しいです。 

初めてコートに立ってボールがゴールに入ったのに対して、全然反応が無かったです。  時間がかかりましたけど強くなりました。  音で見る力、足音、呼吸、などを耳で聞き、床の振動などを感じながらとか、18m先の鈴の音はこんなふうに聞こえるのかとか、迫ってくる距離感などを想像します。 あざの分だけ強くなります。 辞めたいと思ったことは1回もないです。 挑戦する楽しさを知ってしまったので、どうやったら出来るんだろうという、そっちの方が強かったです。











2024年5月1日水曜日

ぶっちゃあ(お笑い芸人)        ・生涯一新人

ぶっちゃあ(お笑い芸人)        ・生涯一新人 

ぶっちゃあさんは1954年京都出身。 若手芸人の育成に情熱を注ぎ続けているぶっちゃあさん、その面倒見の良さから東京芸人の父と呼ばれているそうです。 相方のリッキーさんと活動をしているお笑いコンビ「ブッチャーブラザーズ」は今年で結成43年になるとのこと。

相方のリッキーさん が所属事務所(サンミュージックプロダクション)の社長になりました。 5年に一回単独ライブをしてきました。  毎年やろうとリッキーが言い出してやるこになりました。 再来年が45周年です。 相方のリッキーは森田健作さんの付き人でした。 僕は監督、俳優志望で、相方は映画のカメラマン志望でした。  俳優養成所で一緒になりました。 森田健作さんと仲良くなって東京に来ないかという事になりました。(23歳) 森田さんの家に居候となりました。 たまたまテレビで「笑っていいとも」の前に新人が出るところがありました。 出てみたらたまたまチャンピオンになってしまいました。 

当時、漫才ブームでそれに乗りたいなと思いました。 「ザ テレビ演芸」4代目のグランドチャンピオンになりました。  師匠につく時代から師匠を持たないような過渡期の時代でした。 チャレンジする番組3つとも出たのは、僕らとダウンタウンだけですね。  段々テレビには出なくなっていきました。 でもキャバレーに行ったりイベントに行ったり仕事はかなりありました。 辞めるきっかけもなくずるずる来ました。 

当時は師匠もいなかったし、協会に入らないと寄席などの舞台には出られませんでした。  自分はバンドもやっていたので、始めたのがお笑いライブなんです。 今活躍しているいろんな人たちはうちに来てくれていました。 打ち上げで飲みながらのコミュニケーションは大事ですね。 伝わることが一番大事ですね。(声の大きさとか)  「ヒロシです。」のヒロシ、ダンディー坂野などが弟子です。 小島よしおも後輩です。 以前、早稲田のお笑いサークルの5人組でやっていました。 

いろんな職種の人と会う事で勉強になります。  アドバイスの仕方自体も時代に合わせて教え方、伝え方は考えていかなければいけない。(上から決めつけていうのではなく。)  衣装とか、靴とか着て来たもの、履いてきたものでそのまま舞台にあがることは駄目だとか言ってきました。 

生でお客さんの声援とか、受けている笑い声を聞くとたまらないですね。 又挫折がないと駄目ですね。 獅子てんや・瀬戸わんや師匠から「あんたらの様に新しい人の方が、吸収して頑張れるから、頑張んなさい。」と言われて、それが無かったら辞めていました。

コミュニケーション能力の高いことが大事ですね。  「生涯一新人」 売れるまでが新人と思っていますが、売れたら新人と言うのを降ろそうと思っていますが、おろせないまま生涯が終わりそうなんですが。 今年11月には古稀を迎えます。 





2024年4月30日火曜日

萩谷由喜子(音楽評論家)        ・〔わが心の人〕 幸田延

萩谷由喜子(音楽評論家)        ・〔わが心の人〕 幸田延 

幸田延は明治3年(1870年)生まれ。 日本で初めてクラシック音楽を学ぶために海外留学を果たし、ピアノ、ヴァオリン、声楽、作曲をも身に付け、帰国後は多くの音楽家を育てました。 いわば日本のクラシック音楽の世界の草分けと言うべき存在です。 お話は音楽評論家の萩谷由喜子さんです。 萩谷さんは日本におけるクラシック音楽の歴史、特に女性の音楽史を研究しています。 2023年延の伝記として「幸田延」を出版しました。

幸田延は明治時代の音楽のスーパースターになりました。  若い時に今の芸大(文部省音楽取調掛)の音楽教授にもなりました。

幸田延は明治3年(1870年)東京生まれ。 幸田家は江戸城の表坊主(お茶坊主)と言う役をしていました。  お茶の接待もありますが、登城してきた大名たちに対して、将軍、老中に面会するときに、しきたり、作法を教えます。(大名たちへのマネーの先生)  明治維新で大蔵省の下っ端の役人になる。 先が見えない中いい教育をさせようと、兄弟姉妹(6人兄弟)にいい教育をさせました。 兄が3人で4番目が延です。 長男は実業家、次男は海軍の偉い軍人、3男が幸田露伴。 まず長唄を習う。 1876年(明治9年)に東京女子師範学校附属小学校(現:お茶の水女子大学付属小学校)に延を入学させる。 

明治政府が招聘したアメリカ合衆国の音楽研究者、ルーサー・ホワイティング・メーソン1880年(明治13年)に来日し、文部省音楽取調掛(のちの東京音楽学校、現:東京芸術大学)に雇用された。 延が通っている東京女子師範学校附属小学校にも来てくれた。   延の才能を見出したメーソンは延にスクエアーピアノを習わせる。 卒業後研究課程(今でいう大学院)に進むとともに助手の先生となる。(14歳)  給料ももらえたので、文学志望の兄露伴に小遣いをあたえていて、二人は仲が良かった。  文部省音楽取調掛は東京音楽学校に格上げされて、優秀なものをヨーロッパに派遣して本場の音楽を学んできて、成果を学校に広めていくという事で延が選ばれた。(音楽留学生第一号) 

ボストンで1年間勉強してメーソンとも会っている。 その後ヨーロッパに行く。 留学先に入学するためには実技はしかり、語学(ドイツ語)もやらなければいけなくて大変だった。 合格して、ピアノ、ヴァオリン、学理、声楽、作曲などいろいろ学ぶ。 一番大変だったのは音楽史だったようです。 ウイーンで5年学んで、いろいろ習ったものが、卒業する時には全部「1」のランクの成績を取りました。 

日本に帰国する事になり(25歳)、直ぐに教授として迎えられた。 翌年帰朝音楽会が行われた。 メンデルのヴァイオリン協奏曲を独奏、ブラームスの歌曲をドイツ語で2曲歌う、弦楽四重奏のリーダーとして第一ヴァイオリンを担当してハイドンの弦楽四重奏曲を演奏、ゲストで来ていたクラリネット奏者の方のピアノ伴奏を引き受ける、バッハのフーガを弦楽合奏用に編曲して生徒たちに弾かせています。  一回の音楽会で一人で全てやっているわけです。 作曲はウイーン時代にヴァイオリンソナタを2曲作曲しました。 日本人が書いた初めてのソナタです。 

*ヴァイオリンとピアノのためのソナタ 第二番ニ短調 作曲:幸田延

生徒には瀧廉太郎三浦環などがいた。 森鴎外とも親交があった。 当時の新聞が最初音楽学校批判が出始めて、段々延に対する個人攻撃となってゆく。(実力があり過ぎる事に対する妬みなど) 延を東京音楽学校から引きずり下ろす何かに力が働いた様です。 依願休職をして、直ぐにヨーロッパに私費で旅立ちました。 目的は三つあって①ヨーロッパの第一線の音楽家たちの演奏会を沢山聞いて、啓示を得たい。 ②自分の音楽力をアップしたい。 ③最新の音楽教育現場の様子を視察する。 

帰国後、音楽界に復帰は無理だと自覚していたので、一般の家庭への音楽の普及という事を始める。 ピアノの稽古場を始める。 露伴が「審声会」と言う名をつけてくれる。

4手のための連弾小曲  作曲:幸田延  (教育用)

関東大震災、戦争など体験したのち、1946年姪や親族、2人の弟子に看取られながら心臓病で死去、76歳没。  お経の代わりにバッハの平均律クラヴィーア曲集の第8番の前奏曲が好きなので、これを弾いて欲しいと弟子たちに言い残したそうです。













2024年4月29日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)         ・〔絶望名言〕 清少納言

 頭木弘樹(文学紹介者)         ・〔絶望名言〕 清少納言

平安時代の中期の女性で「枕草子」として有名です。 NHK大河ドラマ「光の君へ」の登場人物の一人でもあります。

「春はあけぼの ようよう広くなりゆく山際 すこしあかりて 紫立ちたる雲の 細くたなびきたる」   清少納言

「枕草子」は世界最古のエッセー文学とも言われています。 鴨長明の「方丈記」、吉田兼好の「徒然草」と並んで日本の3大随筆の一つとも言われています。 清少納言はいつ生まれて何時亡くなったのかははっきりしていない。 一説では1025年に亡くなったという事で、来年が没後1000年になります。 清少納言は一条天皇の后の藤原定子に仕えていた女房(宮廷や貴族の屋敷で働いている女性のこと)です。 

当時は自分の周りに気の利いた女性、女房たちを集めてサロン文化を形成していた。 清少納言は定子のサロンで大活躍をしていた。 枕草子で清少納言をイメージしているが、実際はそうとは限らない。 枕草子を書いた時期は定子が没落していて、かなりつらい状況だったようです。 山本淳子先生の書いた「枕草子のたくらみ」には定子や清少納言が実際にはどういう状況だったのかという事が書かれていて衝撃的でした。 

当時、藤原氏が政治の実権を握っていた。 トップに立っていたのが藤原道隆で自分の娘の定子を一条天皇の后にします。 その子供が次の天皇になれば自分は天皇の祖父になれる。一条天皇と定子はとても仲が良かった。 定子のサロンに参加したのが清少納言だった。 1年半後に藤原道隆が43歳で亡くなってしまう。  藤原道隆の息子と藤原道長(藤原道隆の弟)とのし烈な権力争いが始まります。 定子の兄や弟が負けて地方に流罪となる。 藤原道長が勝利する。  定子は出家してしまう。 家も火事で焼けてしまう。 母親の貴子も亡くなってしまう。 清少納言は道長の側に内通したと疑われた。 清少納言は仕方なく実家の戻って籠もってしまう。 「枕草子」はどうもこの時期に書き始められたようだ。清少納言はきらきら輝いた時期のことを描いた。 明るい言葉の裏に隠された絶望を読み解く。

「宮に初めて参りたるところ ものの恥かしきことも数知らず 涙も落ちるべければ 夜夜まゐりて 三尺の御几帳(みきちょう)の後に侍ふに、絵など取り出で見せさせ給ふを、手にてもえさし出づまじう、わりなし。 「これは、とあり、かかり。それかかれか」などののたまわす。」     清少納言

これは清少納言が始めて定子のところに出仕した時の一節。  定子に初めてお仕えしたころ、恥かしい事ばかりで涙がでそうなので、定子のところには夜に行って三尺の御几帳(みきちょう)(部屋の間仕切りの為目隠しに使うもので布を垂らしてあってその後ろに隠れることができる。)の後ろに隠れて、定子が絵などを見せてくれる。 私は手を出すことも出来なくて、どうしたらいいかわからない。 定子は色々説明してくれる、と言う様な内容。 

清少納言の自慢話は自分自身を褒めているわけではなくて、は実は定子をほめている。 最初の出仕のころは定子が17歳ぐらい、清少納言は28歳ぐらいと言われている。 定子は漢文にもたけていて教養があった。 漢文の知識も隠さなくてもいい自由なサロンだった。 

「世の中の腹立たしう、むつかしう、片時あるべき心地もせで、ただいづちもいづちも行きもしなばやと思うに、ただの紙のいと白う清げなるに、よき筆、白き色紙陸奥など得つれば、こよなう慰みて、さはれ、かくてしばしも生きてありぬべかめり、となむおぼゆる」      清少納言

紙について清少納言が他の女房達の前で話しているところ。 世の中に腹が立って生きていることが厭になって、どこかに行ってしまいたくなるような時でも、ただ真っ白で綺麗な紙が手に入ったら、すっかり気分が良くなって、もっと生きていていいかなと言う風にも思える、と言うような内容。

当時はいい紙が貴重だった。 実家にこもっていたころに定子から沢山の紙が送られてくる。 

「ねぶたしと思ひて臥したるに 蚊の細声にわびしげに名乗りて、顔のほどに飛びありく。羽風さへ、その身のほどにあるこそ、いとにくけれ」   清少納言

眠くて横になったのにせっかく眠くて横になったのに、蚊がやって来て「ぶーん」と羽音をさせて顔の当たりを飛び回る。 小さな体の癖にちゃんと羽風まで感じられるのはひどく憎らしい、と言う内容。

憎きものとして蚊だけではなくていろいろ書かれている。 そのほかに美しきものとか、すさまじきものとかいろんなものがあって、楽しいですね。

「三条の宮におわします頃、五日の菖蒲の輿などもて参り、薬玉など参らせなどす。若き人々、御厘殿など、薬玉して姫宮・若宮に着け奉ら給ふ」  清少納言

「枕草子」に描かれる定子の最後の姿です。 5月5日の節句 この年の12月16日に24歳の若さで亡くなる。 ここでは菖蒲とかくす玉が出てくるが、皇后だからこそ送られるものだそうです。  最後まで后らしく輝いていたことだけを清少納言は書いている。 定子の死を直接は書かない。 

一条天皇は出家した定子を回りの反対を押し切って呼び戻し、皇女の次の皇子が生まれる。 次の天皇になってしまう恐れがあるので、道長は自分の娘の彰子を一条天皇の后にする。(后が二人という異例の事態) その年の暮れに二人目の皇女の出産直後に亡くなる。 その後彰子が皇子を出産して、後一条天皇になる。   清少納言は没落してゆく定子のそばにずっといたわけです。 道長にとって敵対している定子を賛美している「枕草子」がどうして許されたのか、不思議なところです。 定子が亡くなると道長は怨霊におびえるようになった。 「枕草子」は道長や貴族を責め立てたりはしなかった。 定子の生き生きとした姿を描いているだけです。 

「ただ過ぎに過ぐるもの 帆をかけたる舟。 人の齢(よわい) 春、夏、秋、冬」 清少納言

ただ過ぎてゆくものは帆を掛けた船であり、年齢であり、春、夏、秋、冬という四季の移り変わりである、と言う内容。

没落していった無常観みたいなものが込められている。   定子が亡くなった後の清少納言のことはよくわかっていないようです。  清少納言が去ってから5年後に彰子の元に来たのが紫式部です。 紫式部は清少納言のことを辛辣に書いている。(得意がっている、利口ぶっていると。) 

源氏物語は「哀れ」の本、枕草子は「おかし」の本と言われるが、「哀れ」を記載する部分も後半にある。

「日は入日(いりひ)」 入り果てぬる山の端(は)に 光なほとまりて赤う見ゆるに、薄(うす)黄(き)ばみたる雲の、たなびきわたる、いとあはれなり。」  清少納言

(全体に聞き取りにくく疲れた。)




 
















2024年4月28日日曜日

木下牧子(作曲家)           ・〔夜明けのオペラ〕 管弦楽、合唱曲、そしてオペラへ

木下牧子(作曲家)       ・〔夜明けのオペラ〕 管弦楽、合唱曲、そしてオペラへ 

木下牧子さんは東京出身。 東京芸術大学作曲家を卒業、同大学院修了、20代は管弦楽を多く作曲し、日本音楽コンクール管弦楽作曲部門や日本交響楽振興財団作曲賞に入選、30代は合唱曲を中心に作曲し、親しみやすいアカペラから管弦楽伴奏の大作「邪宗門秘曲」や「たいようオルガン」など幅広い作品を発表してきました。 2003年にはオペラ「不思議の国のアリス」を手掛け、初演で三菱UFJ信託音楽賞奨励賞を受賞しました。 NHK学校音楽コンクール課題曲や歌曲集、管弦楽曲、ピアノ曲など多岐に渡った作品で活躍しています。 来年は平安時代を題材にした夢枕獏さんの作品「陰陽師」をオペラ化することになりました。 久々にオペラ作品に取り組む木下さんにお話を伺います。 

まだ半分に行っていませんが、4時半から5時に起きて、コツコツ書き続けています。 5歳からピアノを始めました。  東京都立芸術高等学校に行く頃はピアニストになりたいと思っていました。 新しい楽曲を弾くのは好きでした。  高校ではピアノ科が多くて、みんな上手くて、ピアノだけでは自分の存在をはっきりアピールするにはそれだけでは足りないと思いました。(高校1年)  東京芸術大学作曲家に進んでよかったと思います。 文化祭でもオーケストラの作品を書いていました。  管弦楽曲が好きでした。 同大学院修了後に深いスランプに陥りました、  そのころたまたま合唱曲の委嘱を頂き、自信を回復することが出来ました。 最初に「箱舟」と言う合唱曲を書いて、会場が湧き、それが救いになりました。 

混声合唱曲集「夢みたものは」  作曲:木下牧子

オーケストラと混声合唱のブレンドが最高の音色ではないかと思っています。 ソロにも興味を持って作りましたが、ソロ、アンサンブル、オーケストラが一体化したのがオペラなので、高橋英郎先生からオペラを書きませんかと言われました。 それが「不思議の国のアリス」です。(二幕2時間弱) 「大人から子供まで楽しめる日本語オペラ」という事をしつこく言われました。 2年後に改訂版を出しました。 46回ぐらいやっています。

来年は平安時代を題材にした夢枕獏さんの作品「陰陽師」をオペラ化することになりました。(二幕) 前半と後半では話が違います。 安部清明と源博雅という二人の男性が主役。 

歌曲集「三好達治の詩による2つの歌」 作曲:木下牧子

「陰陽師」は20年前ぐらいにブームになった時にオペラ化したいという思いがあって温めていました。 オペラを書いて欲しいという事で題材も台本もお任せしますという事でした。 126人オーディションに来て頂きました。 これから日本のオペラが発展してゆくんだなと希望を持ちました。   来年1月31日、2月1日、2日にやります。 生きることのすばらしさ、優しさを訴えたいと思います。

ピアノ連弾曲集「迷宮のピアノ」から 「ローラ・ビーチ」 作曲:木下牧子













2024年4月27日土曜日

小林稔侍(俳優)             ・〔私の人生手帖〕

小林稔侍(俳優)             ・〔私の人生手帖〕 

小林稔侍さんは1941年和歌山県生まれ。 東映の第10期ニューフェースを経て、アクション映画や任侠映画に数多く出演し、その後深作欣二監督らに見いだされて頭角を現しました。 1986年にはNHKの連続テレビ小説「はね駒」で主人公の父親役を好演、2000年には「ぽっぽや」で日本アカデミー賞最優秀助演賞を受賞しました。 近年は山田洋二監督作品の常連として知られています。 小林稔侍さんの自在で味わい深い役柄はどのようにして生まれるのでしょうか、大切にしてきたのは何なんでしょうか。  放送ではほとんど語ってこなかったとおっしゃる素顔についてお話を伺いました。 

僕たちはラジオで育っているので切り離せません。 僕は夜型です。 小学校から寝不足しています。 コロナで感染しないように引きこもっていました。 3,4回しか京都、大阪などには出ませんでした。 諸先輩などいろいろ見てきて、人には感謝、そのことはつくづく思いました。 昭和36年に東京に出てきて東映に俳優の卵として入りました。 保証人が必要で、父親の親友で東大を金時計で卒業した人が居るという事で、上京した挨拶もそこそこに出た言葉が「出世しようと思ったら可愛がれらなければ駄目だぞ。」と言われました。 胡麻すらなければいけないのかと思いました。 芸能界にいて判って来たことは、コツコツうつむいてやっていると、必ず監督さん、プロデューサーの方、諸先輩でも声を掛けてくれるんです。 その人に対して狭い料簡の解釈をしてしまって、申し訳ないと思いました。 

切られ役かと一般の人は思うかもしれないが、切られ役が良くないと、主役が良く見えないんですよね。  撃たれて車から落ちる場面があるんですが、下がコンクリートで時速10kmで落ちてくわけですが、迫力がないので時速20kmでやって欲しいと言ったんです。 プロデューサーの方が来て 「君にそういうことをさせて済まなかった。」というんです。(一応ニューフェースで入ったので)  それからその方がずっと面倒を見てくれるようになりました。 可愛がられる事とはそういう事だと気が付きました。 

雪駄を履いて、田んぼとか砂利道を走るシーンがあるんですが、普通なら田んぼで雪駄が外れてしまうんですが、針金で足に縛り付けて走ったんです。 一緒に逃げるメンバーとは離れてしまって、その場面をみんなと一緒には撮れないんです。 チーフが怒って来るんですが僕はそういった事には平易なんです。 深作欣二監督が気に入ってくれました。 そういったことでコツコツやって来ました。 目の前のことを気持ちよく一生懸命にやるしかないんです。 

10歳違いの兄がいて、勉強も出来るし孝行息子でした。 僕は川に行って釣りをしたり一人で行動するタイプでした。 父も母も愛情いっぱいに育ててくれました。 小児喘息も酷かったです。 終戦直後で1本が2万4000円ぐらいの薬です。 苦労して購入して、そのお陰で助かったようなものです。 身体が弱かったので小学校で1年、高校で1年休学して、2年遅れて卒業しているんです。 

「しだし」役(歩く役)が180人ぐらいいるわけで、俳優になりたくて「しだし」役をやらされているわけです。 映るか映らないか判らないけれども化粧をするわけです。   小学校低学年から映画は観ていました。  友達が国立の和歌山大学教育学部附属中学校に入るという事で、そこには綺麗な女の子もはいってくるというんで、自分もそこに行こうと思って一生懸命勉強してはいることが出来ました。 高校卒業後、何かして親孝行したいと思いました。 新聞に東映のニューフェース募集の広告が出ていて、東京に行きたいと思いました。  書類選考に受かりました。 入社式に行くために早朝3時ごろに駅に行ったんですが、父親が見送りに来てくれていました。 ホームシックには1週間程度と言われていましたが、僕は1か月駄目でした。  毎日枕が涙で濡れていました。 

最初の芝居が一人づつ前に行って泣くんです。 僕だけ最高に泣いたんです。 大川社長から「君は今年高校卒業だがどうして大学はいけないのかね。」と言われて、「大学は来年でも受けられます。 最終審査に残れて夢のようです。」と言ったら、「ウン」と言ってそれっきりで出されてしまって、駄目なんだなあと思いました。 そうしたら合格しているわけです。 純粋にそう思っていたから、それが受け入れられたのかなあと思いました。   その後のことでも、欲張らず純粋に自然にやることがいい事なのかなあと思っています。  それは両親、兄、周りの方からの愛情だと思います。 僕は愛情いっぱいに育てられたんです。  兄は、大卒が1万6000円ぐらいのころ、1万8000円のテープレコーダーを買ってくれたり、カメラも買ってくれて、仕送りも1万円づつ仕送りをしてくれました。 

僕は俳優の仕事は嫌いだと思ったことはないですね。 例え厭な監督の前でも、衣装を着ている時には厭にはならないね。  僕にはターニングポイントは無くて、ずっと同じで一点張りです。 いい人たちばっかりに出会ってこられたなあと、感謝これしかないですね。  高倉さんもそうでしたが、楽しくて、お人が良くて、実にきっちりしていて。  今後についてという事ですが、今まで通りでいいです。 なすがまま、人様が拾ってくれるままだと思います。 本当に感謝しかないですね。






















 







2024年4月26日金曜日

柳田邦男(ノンフィクション作家)    ・〔ことばの贈りもの〕 絵本がひらく共生社会への扉

柳田邦男(ノンフィクション作家)  ・〔ことばの贈りもの〕 絵本がひらく共生社会への扉 

柳田邦男さんは災害や事故、病気や医療、障害と福祉などについても取材と執筆を半世紀以上続ける一方で、もうひとつのワイフワークとして絵本を楽しみ、翻訳を手掛け、絵本が持つ力、魅力についての語り部としても活動を続けています。 2008年には東京荒川区が柳田邦男絵本大賞を創設、絵本を読んだ感想文を柳田さんにお便りするというスタイルで行われていて、今年で16回目となりました。 柳田邦男さんのNHKハートフォーラム絵本がひらく共生社会への扉の講演をお聞きいただきます。

「ピアノはっぴょうかい」 みやこしあきこ 

「今日はモモちゃんの初めてのピアノ発表会です。・・・いつものように弾けばいいからね。  先生がにっこり笑って言いました。 ・・・大丈夫、大丈夫。 ・・・モモちゃんが足元を見たら子ネズミでした。・・・大丈夫モモちゃんの番までまだ時間があるから。・・・子ネズミについてゆくと舞台袖の奥に小さなドアがありました。 ・・・モモちゃんはドアをくぐりました。 ・・・ 」(冒頭部分)

絵本の普及活動を始めて30年近くになります。 NHKの障害福祉賞というものがありまして、その選考を30年以上やってきています。 障害や、障害者問題と絵本の発表といつもも重なり合ったんです。 絵本は幼児期の本だという風に先入観で捉えられてしまっている。 描いている絵本の世界は深いんです。 絵本は人が生きる上で大切な事、人間関係で大切な事、それが全て絵本に書かれている。 障害と障害者の理解を深めるうえで絵本はとてもいいヒントを与えてくれる。 こういう活動からお話をしてみたいと思います。

東京の荒川区で大きなイベントを16年やって来ました。 絵本を読んでどういうところに感動し、気付きがあり、そして自分がどう変ったか、その体験を手紙で寄せてくださいと言う活動を始めました。 柳田邦男絵本大賞を創設。 その頼りの中からご紹介したい。

食物アレルギーを持っている小学校2年生の杉山椎良君

アイスクリーム、お菓子などが食べられない。 辛い中で一冊の本に出合いました。 「むっちゃんのしょくどうしゃ」と言う絵本です。 動物列車にむっちゃんが一緒に乗ります。食堂車で食事をしますが、むっちゃんが杉山君と同じような食物アレルギーを持っている。 杉山君は自分と同じだという事で読んでいった。 むっちゃんが「僕は食物アレルギーだから卵と牛乳が田出られないの。」と大きな声で叫ぶんです。 自分と同じだと思って読んでゆくと、アシカやペリカンは魚だけしか食べない。 ライオンは肉だけ、羊は草だけ、こういう風景になっている。 それを杉山君は手紙に書いてきてくれました。

「僕に食べられないものがあってもいいのだと思いました。 僕は僕の身体に合う食べ物を使って、お母さんや給食の人が作ってくれているので、とてもありがたい気持ちになりました。 僕はこの本を読んで、アレルギーは気を付ければご飯がもっと美味しく、これからは作ってくれた人の気持ちを考えて、残さず食べれるように頑張ろうと思う様になりました。」   感謝の気持ちをもって食べて行こうと自分を変えてゆくわけです。 

小学校5年生 村山重行?君 「見えなくてもだいじょうぶ?」と言う絵本を読んだ印象と学んだことをしっかりと書いてきました。

カーラと言いう少女が御両親と市場で買い物をしているうちに迷子になってしまう。 誰も声をかけてくれないが、泣いていると若者が声を掛けてくれた。 ハッとみると白い杖をついている。 この場面は障害のある方とない方が表現されている。 耳で迷子になっていることに気付く。(健常者は無関心)  一緒に探しに行く。 そうするといろんな場面で障害者に対する理解がどんどん深まってゆく。 

「僕は目をつぶってリンゴを触ってもリンゴだとは判るけれども、熟れているかなんて全然わかりません。 ・・・柳田先生もし夜中にトイレに行く時には灯りを点けますか。 僕はトイレに行くときには必ず点けます。 でもマチアスは灯りを点けなくても平気なんです。僕は目が見えなかったらどうなるだろうと、いろんなことをやってみました。・・・でもいろんな音がよく聞こえました。 カーラはお兄さんは耳も見えるのね、と言っていますが、まさにその通りだと思います。」     「耳で見える。」と言う言葉は素晴らしい言葉だと思います。 「この本は目の不自由な人の思いが伝わって来る本なので、是非柳田先生読んでください。」と付け加えられていました。

人種差別、障害の有る無し、寝たきりの老人とか、いろんな人に対する偏見があるが、その立場に立って考えるとまた違う見え方が出来る。 それを小学5年生の子が考え、実行しているわけです。 絵本の力は素晴らしいと思います。

「ちょっとだけ」と言う絵本。 なっちゃんという2,3歳の女の子。 赤ちゃんが出来て今迄みたいに100%面倒を見て貰えない。 喉が渇くと自分で牛乳を持ってきて、ちょっとこぼしたりしながら飲んだりする。 ・・・赤ちゃんが眠った時に一杯抱っこしてあげますね、と言うと、なっちゃんは大喜びする。 お母さんのひざ元ですやすやと眠る。

一日に一回でもいいから上の子のことをちゃんと見てあげなさいと言うような物語だと思いました。 他に色々な場面で子供から気付かされたと言うおかあさんからの手紙です。

吉田千絵?さんからの手紙

3歳の息子に読み聞かせっていたら、牛乳をついでこぼしちゃった、でもなっちゃんはちょっとつげたことで満足そうな表情になっていて、そこで3歳の息子が拍手をして「凄い」と言ったそうです。 見ているところが親と子では違うんです。 親はこぼした方を見ている。 子供はついで、つげて嬉しい、と見ている対象が違うんです。 ここはとても大事なところです。 

「この時我が子が凄いねと言って、私はハッとしました。 子供にとって自分が出来た時の喜びはとてつもなく大きいもの。 それが完ぺきではなくちょっとだけだったとしても。・・・こぼさないようにしなさいと監視し、こぼしてしまうと「だから言ったでしょう」と怒っていたかもしれません。・・・ちょっとだけ成功していて本当は喜びたいはずなのに、私は怒ってしまったことはないだろうか。 この絵本を見て反省させられました。・・・ちょっとだけの成功を見落とさずに、しっかりと褒めてあげないといけない。 そして一緒に大喜びをしないといけない、と私はそう決心しました。」

平山小雪?さんから「ちょっとだけ」と言う絵本を読んだ感想。

7歳の娘さんと赤ちゃんとの関係を伝えてくれました。 お母さんが赤ちゃんに取られてしまっていてひがんでいる。  なっちゃんが隣の友達のお母さんから声を掛けられる場面。「なっちゃんね、赤ちゃんて可愛いでしょう。」  なっちゃんはためらいがちにうなづく。 平山小雪?さんは7歳の娘さんに「なっちゃんはどうしてちょっとしかうなづかなかったのかなあ。 なっちゃんの気持ち判る。?」と聞いたそうです。 7歳の娘さんははっきりと「判る、凄く判る。 なっちゃんは本当は厭なんだよ。 凄く我慢しているんだよ。」といったそうです。 

絵本の読み聞かせは、親も学びの場なんだという事を気付いて、親子で成長し合うという事に気付く必要があると思います。 

中高年層になった時にもう一度絵本を読むと、新しい気付きや発見がある、という事を訴えています。 子供の頃のみずみずしい感性がいつの間にかなくなってしまっている。    でも取り戻せないものではない。 それは絵本です。 高齢者のグループに3冊の絵本を持って行って3グループに分けて読んで語り合ってもらいました。 想像以上に内容が濃かったと言っていました。 「おじさんのかさ」 作:佐野洋子                  大事な傘なので、雨が降っても濡らさない。  公園で雨がパラパラ降って来て、男の子が来て「おじさん、傘に入れて。」と頼んでくるが、そっぽを向く。  女の子が来て傘に入れてあげると言って、相合傘で歌を歌いながら行きます。・・・ おじさんは「雨が降ったらポンポロロンと言いながら、傘を開いて雨の中に入って行きました。・・・家に着くと奥さんが「貴方 傘が濡れているわよ。」と言いました。 

「おじさんは傘と共に心を開いたのだ。 こういうコミュニケーションの極意を語り合っていました。 このメンバーはもう一度みんなで音読したそうです。 一冊の絵本を仲立ちにして、過去を語り未来を見つめ、人は心豊かに繋がるのですね・・・。 傘を開く時、心を大きく開こうと深呼吸をして出かけました。」  今日も心を開いて前向きに生きてゆく、その一歩を踏み出そうと、そんな傘を開く気持ちと言うものを、ちゃんと一冊の絵本から読み取る。 いろんなモチベーションを絵本からくみ取って、日常生活が変ってゆくという、栄養剤、刺激剤になってゆく、そういう力を絵本は持っている。

子供は大人が考えている以上に柔軟な感性を持っていて、自分に重ね合わせて自分自身を変えて行ったり、心に成長に繋がる考え方を持ったりする。 大人の絵本を介していろんなことを学んでそれぞれの生活、人生が変わってゆく、とても素晴らしい力を絵本は持っている。





 

























2024年4月25日木曜日

小林照子(メイクアップアーティスト)   ・〔私のアート交遊録〕 肌の記憶を呼び起こす

 小林照子(メイクアップアーティスト)   ・〔私のアート交遊録〕 肌の記憶を呼び起こす

子供のころに見た舞台で役者が化粧によって変身する姿に感動し、舞台メイクの仕事を夢見て上京します。 保険の外交をしながら夜間の美容学校に通い、23歳の時に化粧品会社に就職、販売員として主婦を相手に腕を磨く中で、化粧は女性を内面から元気にする力があるという事を知ったと言います。 その思いが肌の奥に潜む美を追求する身体化粧の原点となります。 美容部員から女性初の取締役に就任、その後独立し美容ビジネスの経営や後進を育てる学校運営にも乗りだします。 一方で小林さんが長年取り組んできたのが、人の身体に化粧を施し、肌の奥に秘められた美を探求する身体化粧、身体に優しい化粧品で全身に絵を描き皮膚と一体化させる唯一無二のアートワークです。 私が描いた絵は元々肌が持っていた記憶ではないだろうかという小林さんに追い求める美の世界についてお話を伺いました。

メーキャプと言うのは本来、清潔にするとか、衛生概念と言ったものから始まるんです。  そこから礼儀みたいな、人様にいい姿を見せようとか、メーキャプに発展してゆきました。  男性用化粧品とか男性向け美容講座も開いています。  自分自身のモチベーションを上げるのにとっても必要なものですね。 ニューヨークなどに行くと、個性をきちんと表現しないと生きていけないぐらいのキャリア―ウーマンはいっぱいいました。  演劇の世界に行くには勉強になると思いました。  

日本も変わって来ました。 ビジュアルな時代で、見た目で判断されると言う事をみんな知っているわけです。 思春期に直観力が出てきて、自分を見せたい、自分がどう見られているのか模索するのが、思春期だと思います。 直観力を押さえてしまうという事が日本のあり方だった。 本能として自分を表現するという本能があるんです。 美意識を持ち続けつつ、養いつつ高等学校の勉強をする、大人になるための勉強をする、それが私の学校の方針です。 人間は社会性のある動物なので、人とのコミュニケーションの中に表情、声は凄く大事なことだと思います。

貧乏だったので手に職を身に付けたかった。 演劇の裏方になると決めました。 キャラクターを作ることがとっても面白かったです。 扮装のプロになりたいと思った。(当時はメーキャップと言う言葉はなかった。) 保険の外交員をアルバイトとしてやって、夜に美容学校に行きました。 当時は皮膚の病気が一杯あって、伝染病学、感染学を学びました。 メーキャップアーティストになるためには化粧品会社がいいと思ってコーセーと言う会社に入社することになりました。 山口県に派遣されました。 本人も気が付かないナチュラルメークをするんです。 お顔を借りてメークするうちにどんどんお客様が増えました。 2年間山口県に通いました。 手の感覚が顔の肌と接して、人との縁が深くなるとか、そういったことに繋がるわけです。 家庭内のごたごたなども話してくれて、気持ちもスッキリしたという事もあり、私にとってもいい勉強になりました。 これも手の力だと思いました。

ヒット商品を沢山作れたことは、ラッキーだったと思います。 ヒットキャンペーンも考えることが出来て、上司も許してくれて、やりたいように進めることが出来ました。 ルックスキャンペーンで大成功しました。  45歳で辞めようと思っていましたが、50歳で女性で初めて役員になって、社長からは「あんたは何でも初めてのことをやるんだから。」と言われました。 私の目標は舞台のメーキャップアーティストになるという事なので、時代も変わって演劇集団も規模が大きくなり、100人程度のメーキャップが必要になり、学校を作ることにしました。 独立することになりました。

人間の生身の身体をキャンバスにして表現する身体化粧に挑んでいきました。 ビジネスにはならないものです。 顔から身体に延長させてゆくことは綺麗なんです。 一糸まとわない身体の化粧という事でやりました。 評価されてメイクアップアーティストになって行きました。 消されてしまうので儚いです。 写真家の藤井秀樹さんとの出会いがありました。 日曜日美術館からのお話があり動画にも挑戦しました。

10代で直感的に思った夢を、常にコツコツとやってきて、いろいろ成功してきて、自分がやってきていることは、人のモチベーションを上げることだけではなくて、自分の夢を成功に導いてゆくような凄いものなんだなと思えるようになりました。 真っすぐ進んでいるうちにチャンスが向こうから来ると言った感じです。 自分を見つめる目、芯のようなものがあり(揺るぎない直感)、それを追及している時には味方してくれる、そこからそれようとした時にガーンとした事故がある、そんなふうに思って、気付かされることをずっと感じています。 

身体化粧を75歳までやって、そこから彫刻をやりました。 彫刻は昔からやりたかった。彫刻をやることによって、それがヒントとなり大ヒット商品を発明する事ができました。 彫刻に蜜蝋を塗る事から、顔にと言うクリームが大ヒット商品になりました。 

自分を大事にするという事は人を大事にする、愛する、練習です、と言う風に思っています。  フリーダ・カーロアンリー・ルソー奈良美智の描く顔の絵が好きです。









2024年4月24日水曜日

坂嵜潮(個人育種家)           ・〔心に花を咲かせて〕 人は育種の名人というけれど

坂嵜潮(個人育種家)        ・〔心に花を咲かせて〕 人は育種の名人というけれど 

坂嵜さんは世界的に有名な育種家で、最初にその名前を知られたのはペチュニアの画期的な新品種を作ったことでした。 ヨーロッパを席巻したとまで言われたその花の爆発的なヒットは、今でも語り草になっています。 その後もこれまでにない花を作り出し、ガーデニングの世界を変えた人とも言われます。 坂嵜さんの育種はどんなもので、いかにして世界的な育種の名人になったのでしょうか。 そもそもなぜ育種世界に入ったのでしょうか。 

交配をして新しい品種を作るという仕事です。 花の育種は普通は温室のなかに素材があって、その中から親を選んで交配をしてゆくことですが、私が常に心掛けているのは、野生に存在している草花、その自然らしさ、力強さをなるべく生かした品種が出来るように努力しています。 人があまり手を加えると人工的な花になってしまうので、手を加え過ぎないように努力しています。 

ペチュニアを沢山花を咲かせて丈夫な花にして「サフィニア」と言う名前をつけ、ヨーロッパ中に広がりました。 それまで使われていなかった野生種を交配して、野生の血が半分入ったようなペチュニアを作ってみたら、凄く元気で病気にも強くて生き生きとした力強い品種が出来ました。  今までは温室の中での交配をしてきていました。 

大学を卒業した時には、果樹と野菜の栽培の研究室だったので、ブドウを生産してワインを作るというような研究室に就職することになりました。 1984年ごろにブラジルでワインを作るというプロジェクトがやられていて、その研究に行ってくれと言う話がありました。 1年半で上手くいかずに止めることになりました。 道路を走っていたら道路わきに ペチュニアの原種でした。 日本に持ち帰って品種改良のスタートをしました。  当時はバイオテクノロジーブームでした。 京成バラ園芸との共同研究チームが編成され、新品種づくりがはじめられることになった。  そして「サフィニア」ができました。

それまでは品種改良は全然やったことはありませんでした。 プロジェクトを立ち上げた育種家が薔薇の育種家の鈴木省三さんが向こうのリーダーで、面白いから一緒にやろうという事になりました。日本に帰ってからはワインの研究からは外れました。 1986年の春に始めて、実際の交配の仕事は千葉の方でやって、一番いいものを選ぶ意見が鈴木さんとぴったり合いました。 選ぶよりもいかに捨てるかが難しいです。

ヨーロッパではバルコニー、窓辺にプランターを置いて育てるというのがポピュラーです。 ゼラニウムと言う植物が一般的でした。 それに代わるものとしてペチュニアが入ってきました。 「サフィニア」が沢山窓辺を咲かせました。 

「カリブラコワ」、ペチュニアの小さな花も作りました。 原種を集めるところからスタートしました。  世界中で植えられるようなポピュラーな植物になりました。 育てやすくて、花は小さいが物凄く沢山花が咲きます。 鮮やかな黄色、オレンジとか花の色のバリエーションではペチュニアをぬいてしまいました。 

この原種が欲しいというのは文献などで調べて出かけますが、行けば必ず出会っています。 もう40年近くやっていて学びの旅ですね。 めげたことは山ほどあります。 10ぐらいのプロジェクトで計画を立てて、ちゃんと前に進むのは1割もないですね。 

45歳で独立しました。 大学3年の時に休学してドイツに留学しました。 父親から若いうちに海外に行ってこいと言われました。 ペチュニアを介して海外の人との交流も増えていきました。  ワクワクするような新しい品種が欲しいという事は変わらないので、自然らしさが感じられるような品種を作って提供できればいいなあと思います。 

2018年 世界的に権威のある「チェルシー・フラワー・ショー」でゴールドメダルを取りました。 枝垂れるような枝に一杯花が咲く紫陽花。 或る程度はそのイメージは考えていました。 でも出来ちゃったという感じです。 四国の山で野生の紫陽花を見つけました。 交配して作ってみたら吃驚しました。 3年ぐらいで最初の花は咲きました。出会った時にポッと引き出しから出てきてくれる。 引き出しを多く持つという事はプロとして一番大事です。 

自分の考えに基づいて品種改良は進めるわけですが、組み合わせを進めて行くと新しい性質のものが突然飛び出したりして来て、自分が全て品種改良を出来ているみたいな、万能感みたいなものを持つことが時々あるんです。 それは凄く幸せな感覚です。  逆に植物に利用されているみたいに思う時も感じます。 植物は人間を利用して進化している、と言う考えもあるんです。  自然の中にある力を尊重して、その中にある多様性を引っ張り出していこうというようなことを考えています。

自分の価値観で改良を進めてしまうと、やはり人工的になってしまう。 そこを繋ぐような仕事をしたいと思います。  人間が自分たちのアイディアに基づいて、人工交配で品種改良を進めるようになったのは、1800年代の中ごろだと思います。       父は植物園の関係の仕事をしていたので、日本の厳しい気候のなかでも育つ熱帯花木にはどういうものがあるのか、それはどういう風に使えるのか、と言う本をみんなでやったんだと思います。 父は76歳の時に「日本で育つ熱帯花木植栽辞典」を出しました。  10年以上かかっているかもしれません。  

まだ使われれていない新らしい品種を捜して、感動してもらえるようなものをもう一つ二つ作っていきたいと思います。  良いことも悪いことも必要だから起こっているという風に考えて、悪いことも必要な事として起こっていて、それを乗り越えてゆくために起こっている、と言う風に感じています。 受け入れるという事だと思います。









 




 




















2024年4月23日火曜日

若林秀真(鋳物師)           ・天明鋳物、千年の歴史を次世代へ

若林秀真(鋳物師)           ・天明鋳物、千年の歴史を次世代へ 

天明鋳物は栃木県佐野市で生産が始まったとされ、江戸時代にかけて茶の湯の釜や農具、生活用品などが盛んに製作されました。 若林さんはこの1000年以上ある天明鋳物の鋳物師として、日本有数の寺院の鐘などを手掛けてきました。 製作活動と併せて2007年に天明鋳物伝承保存会を設立し、保存や普及の取り組みをしてきたなどが評価されて、今年3月に国の重要有形民俗文化財に指定されました。 先祖から受け継いだ技術や道具を次世代につなげたいという思いを伺いました。

現在製作している天明鋳物の釜です。 大きさが30cmぐらいのコロンとした形で荒れた肌です。 新しい釜で漆を焼き付けています。 お湯を沸かすと「松風」という音が出てきます。 お湯を何回も沸かして臭いを無くしてゆき、肌合いだとか生き生きとしてきます。  もう一つここに室町時代の天明釜があります。 自然と肌が荒れた様な感じになっています。 形が変わっていて二段構えの様になっています。  「尾垂釜」と言って、上半分が室町時代のもので、下の部分が新しく作ったものです。 長く使っているとそこが痛んできます。  尾垂という特殊な方法で今でも使えるように作っています。  信長、秀吉、家康公などが天明の釜を使ったという記録あり、特に秀吉公はよく使ったという事です。 天慶2年(939年)に平将門の乱を鎮めるために、河内の国から藤原秀郷公と共に鋳物師5人を長とする人たちが佐野に住みついたという事が始まりと言われています。 連綿と続いてきています。 今は数軒になってしまっています。 

鋳型を作る為の材料の砂(先祖代々繋がっている砂)があります。 砂をふるいでふるった後に粘土水を加えて、固めて鋳型を作ります。 二つ一組になっていて、茶釜でしたら鋳鉄を溶解して鋳型に流し込みます。 祖父が使っていた炉があります。(高さ5mぐらい) 一回の溶解で2トンぐらい作ります。 燃料は木炭です。 1400℃、1500℃にあげるのは至難の業です。 今はコークスを使っています。 昔は風を送るのにも「たたら」「ふいご」で大変な作業でした。(今は送風機でスイッチ一つですが) 100%うまくいくかどうかわからないが、流し終わった後に鋳型を壊して、作品を取り出し、仕上げの工程に入っていきます。 壊した鋳型は細かくして再利用します。 数週間かけて作った鋳型に数秒で溶解した鋳鉄を流し込むので、そこで作品がうまくいくかどうかが決まります。 最終的には自分の目とか肌感覚になります。 

父親の彦一郎から自然と教わりました。 28歳の時に父が亡くなりました。(10年間の修行)  自分の鋳物の作品を通して、何かほっとすろとか、元気を貰うとか、そういう作品が出来ないものか、と言った事を思っていました。  今でも変わらないです。    奈良東大寺の大仏釜、大原三千院神殿の鐘などにも作品を納めています。 三千院では薬師如来像で、お経を取り込めないものかと思って、鐘の内側に861文字のお経の一部が鋳込まれています。 その技術は最初自分でもよくわからなかった。 完成まで3年かかりました。 作り方はふっとまどろんでいたなかから考えが浮かんできました。 直径1cm程度の粘土キューブ(立方体)を作って、そこに一文字一文字のお経を薄い和紙に写して、粘土キューブ(立方体)の表面に水を付けて貼って、細いヘラで押してゆきます。 へこんだところに鋳物が流れてゆくと出っ張るわけです。 複雑な文字もあるので大変でした。 音と共にお経が広がってくれたらいいなあと思います。 

2007年に天明鋳物伝承保存会を設立しました。 先人が守ってきた技術があってこそ、いま我々が仕事をさせていただけるので感謝しかないです。  父の残してくれた鋳造道具などを含め伝えてゆくためには、どうしたらいいかという事からスタートしました。    今年3月に国の重要有形民俗文化財に指定されました。  最初は従兄弟と二人で始めましたが、現在は150人ぐらい会員がいます。  1556点が指定されました。  家にあったのが1473点でした。 指定してもらう報告書の作成が大変でした。 電子化も必要でした。(ソフトもなかった。)  ボランティアの方々の応援もあって17年間やってこられました。 

小学6年生が鋳型を作って、持ってきた鋳型にスズの溶解を自分で流し込んで作品つくりをしています。 ものを作る人間はものを大切にします。 息子が8年間修業をして、帰ってきて一緒に仕事をしています。 彼の感性のなかで、いろんな場面に出会って、いろんなスイッチを入れて、伝統に、歴史に繋いでいって欲しいと思います。 























  

2024年4月22日月曜日

石垣征山(尺八奏者)          ・〔にっぽんの音〕 能楽師狂言方 大藏基誠

石垣征山(尺八奏者)          ・〔にっぽんの音〕 能楽師狂言方 大藏基誠

 1981年東京都出身。(42歳)  三味線奏者の尾上秀樹さんとの音楽ユニット「HIDE✕HIDE」の活動は15年以上にわたる。 ゲーム音楽の作曲、演奏も手掛けるなど幅広く活躍しています。 

元々ゲームが大好きです。 2009年ぐらいからゲーム音楽のコンサートにゲストとして呼んでいただいて、それがどんどん進んで、今はゲームの中の音楽の収録をさせていただいたりアレンジしたりしています。 有名なのが「モンスターハンター」とか「スーパーマリオン」とかあります。 父親が尺八奏者初代石垣征山、母親は琴の演奏家洗足学院音楽大学名誉教授の石垣清美です。 子供用の尺八はないので、指が大きくならないと穴がふせげないので、やらなかったです。  家では尺八、琴の音が鳴って聞いていました。  中学2年ぐらいまではお琴を年に1回やるぐらいでした。

中学2年でオーストラリアへの海外派遣の話があり、どうしても行きたくて尺八での文化交流という事を訴えて、面接を通ることが出来ました。  その後父に尺八を教えてもらいました。 「さくらさくら」を覚えていきました。 オーストラリアにも有名な曲があるのでそれも覚えて行きました。(「ワルチング・マチルダ」(Waltzing Matilda))

「ワルチング・マチルダ」 

帰国後も3年間は尺八は全く触りませんでした。 高校2年で進路の問題があり、尺八で芸大を受けたらどうかと母親に言われました。 芸大に入ることが出来ました。 大学2年の時に父が癌で亡くなってしまって(51歳)、父親の関係の周りの人から母親と一緒に演奏をするという話を頂き、いろいろなところに呼んでいただきました。 父親への恩返しは尺八を吹いて演奏したり、尺八を世に広げてゆくことと思いました。 もともとはお坊さんがお経に代わりに尺八を吹いていたと言われます。 27歳ぐらいで父親の名前を襲名しました。 

*「サウザンド・ナイブス」 演奏:HIDE×HIDE

どの音色を選択するか、どの音色を出すかという感覚が歌に限りなく近いという、自分のやりたいものが表現しやすい楽器だと思います。 骨格によっても音色は違う、同じ楽器を使っても音色は違ってきます。 オリジナルをやりますが、尺八らしさは生かしたい。   古典も大事にしたいと思います。  古典も勉強しないと説得力がなくなってしまうだろうなあと思います。 

尺八は見た目にはめちゃくちゃシンプルな楽器です。 ここの3本の尺八がありますが、一つは古典の真竹、もう一つはプラスチック製、もう一つがメタルで出来たもの。 竹は割れたりするが、プラスチック製、メタル製は周りにメンテナンスする人が居なくても、海外の方が安心して持てると思います。

*3本を吹いてみる。(判別が難しい) 

プラスチック製は軽い感じ。 メタル製は広がりが少ない。 竹製は広がりふくよかさがある。(石垣征山、談) 

*タイトル「音の簾がかかる社」  琴と尺八の二重奏曲 作曲:石垣征山 尺八:石垣征山 琴:石垣清美

〔にっぽんの音〕とは「間」、だと思います。 向こうの人が一番驚きをもって喜んでくれるのは「間」の感覚だと思います。 「間」の空気感が日本らしいなと思います。    自分が面白いと思う事をやってゆきたい。  ライブを月に一回やってきて10年になります。












2024年4月21日日曜日

加藤文俊(慶応義塾大学環境情報学部教授)・〔美味しい仕事人〕 「食」でつながる~カレーキャラバンの試み~

 加藤文俊(慶応義塾大学環境情報学部教授)・〔美味しい仕事人〕 「食」でつながる~カレーキャラバンの試み~

仲間と一緒に全国を訪ねて、その場でカレーを作り集まってきた土地の人たちに食べてもらうと言うカレーキャラバンに取り組んできました。 2021年からはじまったキャラバンは80回に及びます。 カレーの香りに誘われてやって来る人、食材を無料で提供してくれる人、美味しいカレーを作る為のアドバイスをしてくれる人など見ず知らずの人たちが、カレーの鍋を囲んで会話が始まります。 カレーを味わう、そしてコミュニケーションを味わう場所が出現するというこの取り組みはコミュニケーションの場を生み出す活動として2015年度グッドデザイン賞を受賞しました。 コロナ感染予防のためしばらく活動を自粛していましたが、今年 はカレーキャラバンの活動を再開したいと語る加藤さんにお話を伺いました。

カレーを作っていると皆さんが寄っていらっしゃるので、カレーがあるという事で皆さんリラックスしていただいて、町のこととか将来の事を話していただけるので、結果として行く先々のことを勉強させていただくような、そういった活動にはなっています。 最初は内輪でカレーの会をするという事でした。 香りに誘われてお話をする場面が出来て、カレーの力を実感したんじゃないかと思います。  町とか暮らしに興味を持っていました。  場の力の流れからカレーキャラバンが始まりました。  墨田区の曳舟、スカイツリーのふもとあたりの古いけど活気のあるキラキラ橘商店街があって、地元の方と街歩きをしたり、巻き込みながら活動するという事をやっていまして、ご当地B級グルメを作ろうかと言う話から始まって、墨東カレーを作ろうという事になりました。(商店街の中) 

アドバイスを頂いたり掛かわって来ていただいて、面白さを感じました。 2年半ぐらいは足を運びました。  初対面の人ともコミュニケーションもカレーがあると違います。   無料でキャラバンをやっています。 当時はメンバー3人で5000円ずつ出し合って、材料を買って、「赤字モデル」と言って作っていました。  或る人が「一回のみに行けば5000円ぐらい払うでしょう。」と言ったんです。 「趣味にはもっとお金をつぎ込んでいるでしょう。」と言われました。  「楽しくカレーを作って人との出会いがあるのだから、飲みに行くのと同じではないか。」とさらっとと言ってくれて、浄化された様な気持ちになりました。 ボランティアとも違います。 

市販のルーは使わないという事を決めました。(スパイスカレー) タンドリーチキンも作りました。 道具立ても行いました。  朝から始めますが、夕方になるころに完成します。  居心地のいい時間と場所が出来上がります。 大田区鵜木と言うところでカレーを作った時に、そこでは知人がギャラリーを開いていて、近くには多摩川があり食べられる植物が一杯あり、それを摘んでそれも加えて作ったのが印象的でした。  身の回りにある食べられる植物を発見できた面白かったです。  初めての人とも共通体験が出来ました。 

杉並区で作った時に、出来あがるころにたくさんの人が集まって来ました。 作っているところは私有地でいいのですが、道(公道)に行列が出来て、そこの際を盛り上げたという事があります。(食べたところがプライベートとパブリックの際の場所) 昔はあいまいな場よ、空き地が界隈にありました。 今は空き地があっても囲われていて入れない。(個人の空き地、工事用地など)   今回のところは空き地のイメージがしました。(一時的、精神的な「共」の時間と空間)  コロナ禍は空き地と言う発想は許されなかった。   「共食」は明るい方向に向かわせてくれるのかなあと思います。 





















2024年4月20日土曜日

篠田大輔(スポーツ事業会社代表)    ・防災はスポーツで覚えよう

 篠田大輔(スポーツ事業会社代表)    ・防災はスポーツで覚えよう

篠田さんは災害時に怪我をした人を救助したり、障害物を避けながら物資を運ぶなど、被災した時や避難生活に入って時に必要な動きをスポーツ化した防災スポーツを各地で実施しています。 その原点は兵庫県西宮に住んでいた中学生の時に経験した阪神淡路大震災です。 避難所生活の中で不慣れな作業を数多く経験し、日常的にこうした動きを身に付けておくことが大切と痛感したことが現在の活動に繋がっています。 自らの被災体験から生まれた防災スポーツの取り組みについてお話を伺いました。

小学校から高校まで西宮で過ごしました。 中学校1年生の時に阪神淡路大震災に遭いました。地響きの音に目が覚めて 、地震が来て大きな揺れを感じ、布団をかぶって揺れのおさまるのを待っていました。  家具などが倒れていて大惨事だと気付きました。 両親と3人兄弟でしたが、皆怪我はありませんでした。 夜が明けて倒壊している家屋もありました。 幸い火災はありませんでした。  コンビニへ行って買い物をして小学校の避難所に行きました。 体育館だけでは入りきれなくて、交渉をして教室も解放してもらいました。夜になって電気通じてテレビを見ることができました。  火事の様子とか広い範囲での被害状況を目の当たりにしました。 プールの水をトイレに運びました。 当日午後には自衛隊の給水車が来ました。 当日はおにぎり二つが支給されました。 

その後スポーツで生かせるものはないかと考えた時に、災害防災にスポーツを組み合わせると何か提供できるのではないかと考えました。 大学を卒業してスポーツビジネスの世界に入りました。 ラグビー関係のチームのサポート、選手のマネージメントとかなどに携わっていました。 2013年に東京オリンピックパラリンピックが決まって、2014年に独立して会社を作りました。 スポーツイベントのプロデュースなどをしていました。    

防災対策にもスポーツの力を取り入れることによって、広げることが出来るのではないかと考えました。 スポーツは本来楽しむ要素もあるので、防災対策の入口にと言う思いもありました。 被災者の声を聴いてそれをスポーツ競技化できる要素は何か、と言うところから考え始めました。 ①一輪車で物を運ぶ、②低い態勢で移動できるか、③水難時の救助のための物を投げて的当てして引っ張るという事、④物資の搬送リレーのようなもの、⑤負傷者を搬送することを想定した毛布を使ってぬいぐるみの搬送、などいろいろ種目があります。 タイム競技として身体で覚えるという事で展開しています。 

スポーツの試合会場で一つのイベントとして、体験の場を設けてファンと選手が一緒になって行って、防災意識を高めて貰えればと思います。 防災のことを学ぶこともセットして、学校でやることもあります。  防災対策にもスポーツの力を取り入れることはまだまだ入り口だと思っています。 今後さらにそういった場を広げていきたいと思っています。










 

2024年4月19日金曜日

山崎幸子(三代目織元女将)        ・能登の美しさを手織りで発信したい

山崎幸子(三代目織元女将)        ・能登の美しさを手織りで発信したい      山崎隆(四代目織元)

創業130年余り、能登上布四代目織元山崎豊さん(64歳)と母親で三代目織元女将山崎幸子さん(88歳)です。 能登上布の特徴は軽くて薄くて細かいかすり模様。 昭和初期には石川県の麻織物が日本一になって120軒以上の織元がありました。 着物の需要の変化によって減少して、現在は羽咋市の山崎さんの工房だけが唯一の織元として能登上布を作っています。 1月の能登半島地震によって、工房の機械が壊れ断水するなど生産が一時ストップしました。 不安な気持ちで過ごしていた山崎さんですが、全国各地から励ましの声などが届いて大きな力を得たと言います。

幸子:今着ているものは40年ほど前にかすりもんでは初めて作りました。 着心地は涼しくて爽やかです。 

隆:私が着ているのは父用に作られたもので、私は15年ほど前から着ています。             上布と言うのは上等な麻織物という事です。 苧麻(ちょも)を原料にしたラミー(苧麻)と呼ばれる上質な機械紡績糸を使っています。 機械紡績糸は機械で糸がつぐまれていると言いう事です。 蝉の羽のように例えられていて、透け感、ひんやりと涼しく軽くてシャリ感のあるというのが能登上布の特徴で、夏を代表する着物の生地となります。 観劇とか食事会とか少し上品で特別なお出かけなどに最適です。 能登上布の特徴は手織りで織られた張りのある風合いと、能登独自の緻密なかすり模様、能登の風土に合った落ち着いた色合いです。

十字の細かい模様が布全体に織られています。(縦横2~3mmぐらい) 糸の段階で縦糸、横糸を先染めしています。 織ながらかすりの模様を作っています。 落ち着いた色合いになっています。 表面はコンニャク糊でコーティングされてるのでなめらかで艶があります。 簡単な縞とか無地で1か月ぐらいです。 難しいものだと半年以上かかるものがあります。  工程としてはおおざっぱに20工程以上あります。  細かく分解すると100工程ぐらいになります。 どの工程も手を抜くことはできません。

今年1月1日の能登半島地震で被害を受けました。 

幸子:外に出ようと思ったが歩けないんです。 やっと外に出て銀杏の木につかまりました。 窓ガラスが割れたり外壁が落ちたりしました。 

隆:私は当時は工房には居なかったんですが、夜3時間かかって工房に戻りました。 1階の織機は大丈夫でしたが、2階の作業場は糸の収納棚が倒れて、縦糸を巻き取る機械が壊れていました。  皆が無事だったという事が幸いしています。

織子の人たちも全壊、半壊などして、今でも不自由な生活をしている人が居て心を痛めています。  2週間断水したことは非常に困りました。

2月の頭から作業が出来るようになりました。 

能登上布の起源はおよそ2000年前に第十代崇神天皇の皇女が能登の地を訪れた際に、地元の女性に機織りを教えたという事から始まっています。 平安時代から麻を生産していたという記録が残っています。 江戸時代後期には滋賀県から職人さんを招いて染色技術を学んだと言われています。  昭和初期には石川県の麻織物が日本一になりました。 昭和30年ごろからレーヨンなどを織る自動織機が普及して、洋装化に伴い着物を着る人が減少して、織元が段々減って行きました。 昭和57年ごろにうち一軒だけになってしまいました。

幸子:昭和30年に嫁いできました。 日常に能登上布は着ていました。 この辺りはお嫁に行く時には必ず能登上布を一反持ってゆくと言う風習がありました。 お寺まいり、夏のお盆の時の盆踊りの時には能登上布を着ていきました。 祭事には10月でも着ていきました。 主人は横かすりばっかり作っていましたが、問屋から言われたりして、縦横かすりの技術を学んで、作り始めました。  私は上布を織るまでの準備の工程をしていました。 手形で来たので手元に現金が無くて困って、他の仕事として撚糸業を始めました。(横糸作り)  主人の父親が何としても続けるように言っていたので、一軒になっても能登上布を守って行こうという事は思っていました。 

隆:当時織子は70,80代のおばあちゃんしかいなくて、家業を継がなくてもいいと言われていました。 工学系の大学に進み就職は機械メーカーの電気設計の仕事を20年ほどしました。 父の片腕の職人さんが亡くなったのと、仕事上の関係もあり、家業を継ごうと思いました。  図案を描いたりという事ついては前の仕事が役立ちました。  現在16名の織子さんがいます。 半分は県外から来ています。  以前は自宅で機織りをしていましが、 今は工房に織機を設置しています。  

7年前の会社を興した際に、営業と広報を担当として姪を会社にひきいれました。 能登上布の技術の継承もしています。  能登自身の後、全国各地のいろいろな方から励ましのメッセージを頂きました。  

幸子:一軒だけ続けてこられたのは誇りに思っています。 皆さんの支えがあったからこそです。 若い方が伝統産業に関わりたいと言って来てもらえたのは嬉しかったです。

隆:この仕事を始めて20年になりました。  44歳で転職してよかったなと思います。  若い人のお陰で世代交代、技術の継承が出来てきたことが有難いと思っています。

幸子:何とかこの工房を続けて行って欲しいと思っています。 能登上布は素敵な織物だと思っています。

隆:能登の美しい自然とか、能登固有のものをかすりで表現したいなあと思っています。  能登半島には伝統産業が沢山有ります。  能登全体が元気になって欲しいと思います。















2024年4月18日木曜日

毛利衛(宇宙飛行士/科学者)       ・〔わたし終いの極意〕 ミッションは“挑戦”、そして生き延びること

毛利衛(宇宙飛行士/科学者)  ・〔わたし終いの極意〕 ミッションは“挑戦”、そして生き延びること 

今年76歳になった毛利さんの歩みは挑戦の連続です。 大学の教員から宇宙を目指し1992年スペースシャトルエンデバー号に日本人科学者として初めて搭乗、宇宙実験を行いまいた。 2000年にはエンジニアーとして再びエンデバー号に搭乗、地球観測を目的としたミッションを成功させます。 同じ年の秋には日本科学未来館の初代館長に就任、20年に渡って科学技術の未来や可能性を開く取り組みを続けました。 2度の宇宙飛行が毛利さんの人生観、死生観にどう影響したのでしょうか、又次なる挑戦はどんなことでしょうか。 

日本科学未来館の館長をしりぞいて、3年あまりです。 水にまつわる活動をしている方々を見つけ出して、表彰するという「日本水大賞委員会」の委員長をしています。 宇宙記念館の名誉館長もしています。 後輩の宇宙飛行士の助言とかお手伝いもしています。 一昨年小澤征爾さんと「ワンアースミッション」という宇宙と音楽という事で行いました。 オーケストラの音は楽器が様々あって、様々な音を宇宙飛行士の元に届けるという事は難しい技術が必要です。 それが小澤征爾さんにとって最後の指揮になりました。 

何のために私は今宇宙にいるのかという事を考えました。 人間の様々な活動は、ひょっとして人類、地球生命全体を集団として生かそう、未来へつなげようとする力があるのではないかという事で、それを考えた時に科学技術で何でもコントロールできるというような風潮があるが、科学技術、音楽、スポーツ、政治、宗教などが全て未来へ集団として人類が生き延びるための一つの知恵というか、そういう風に捉えた時に、「総合智」私たち人間社会がが未来へ向かって生き延びるための知恵、すべての文化が大切なんですよと言う見方、未来館では出来るだけいろいろな文化を取り入れると同時に、地球の温暖化など未来とのかかわりが重要で、限りある地球のなかで人類が生き残れないのではないかと、宇宙に行ってもろに感じました。 地球にも極限のところがあり、南極,深海があります。 極地に住んでいる生命もきちんと環境問題を含めて扱う必要があります。 現場に行って伝えようと思いました。  

1957年に世界地球観測年が決められ、日本は南極に初めての基地を作ることになりました。 アメリカやソ連では宇宙から地球を見ようという事で人工衛星を初めて飛ばしました。(1957年) そこで新しい時代が来るんだと思いました。 1961年ソ連はガガーリンを初めて宇宙に飛ばしました。 「地球は青かった。」と言う言葉に、どんな青さなんだろうという不思議さが宇宙に興味を持たせてくれました。 兄たちも天文少年でした。 母も星などに興味を持っていました。  母は「自分はハレー彗星が一番近づいた1910年に生まれたので、又ハレー彗星が近づく1986年に帰っるんです。」と言ったんです。 ハレー彗星が近づいた1986年1月28日に母が亡くなりました。(76歳) 僕は誕生日が1月29日ですが、母親が亡くなって数時間後にスペースシャトルのチャレンジャー号が爆発したんです。 日本で待っていましたが、爆発のことは知らされませんでした。(宇宙飛行士に採用されてから3か月後)

若いころ交通事故で即死のような状況でしたが、なんでもありませんでした。 ヨーロッパに行った時に飛行機事故に遭って、エンジンが爆発して火事になりました。 サッと出口から出ることが出来て助かりました。 2度の死んでもおかしくないような事故を経験して、自分には運がいいんだと言うような信念があります。 爆発事故があっても怖いという発想はなかったです。 未知だから面白いと思います。 2003年にコロンビア号が帰還するときに爆発しました。 そういったことを理解して、宇宙に飛ぶときには遺書を書いていきます。 1992年、2000年の2回宇宙に行きました。 仕事をするミッション、その中に細胞培養実験がありました。 宇宙での細胞ぼ培養の仕方を顕微鏡で見て写真を地球に送るんですが、疲れてふっと窓から地球を見たら、細胞と似たような形に見えたんです。 「繋がっているんだ。」と言う気持ちが出てきました。  地球が一つの生き物であるかのように感じました。 

二回目は3次元の立体地形図を作る為に絶えず地球を観測する仕事でした。 ずっと見ているうちに、「地球って本当に宇宙に浮かんでいるんだ。」という事が判ったんです。(知識では判るが感覚では判らない。) 地球みたいな星は宇宙には沢山有るのではないかと思って、宇宙人は本当にいるなと思いました。 

NHKの「生命40億年の旅」と言う番組のの説明する仕事をしました。 「恐竜は絶滅したのか?」ということについて、絶滅したのではなくて鳥になったんだよ、と。 当時は鳥になったという証拠はありませんでした。 解説をしていて何故羽根を持ったのかなと思いました。 私の解釈は羽根を持ちたかったからじゃないの、飛びたかったからじゃないのと言う結論に達した時に、何故自分が宇宙にいきたかったのかということが判って、腑に落ちました。  遺伝子に書き込まれている事だけが全てを決めるのではなくて、意志の力でも変わるのではないかと思いました。 個の意志だけではなくて、種の意志、未来へ生命をつなげようとする種の意志があるのではないかと思います。 

環境問題、人間はほかの生命に対して責任を持たなければいけないなと思いました。 生物が多様性で可能性を自然に対して持てるという事と、自然環境をどうやって守ってゆくか。 人間が今いなくなっても今世紀末には2度、3度上がってしまう。 地球の環境の限界が来てるのではないかと思います。 SGDs( Sustainable Development Goals持続可能な開発目標、そのためには相当自分たちの生活を変えなくてはいけない。 その貢献のために地域のいろいろなお手伝いをさせて貰っています。 

「未来智」、人間ばかりが生きているのではなくて、他の生命と一緒に生きるためにはどうしたらいいかという事を考える時代になっている。 スペースシャトル内では酸素と水素で人工の水を作って飲むんですが、まずいんです。 地球に降り立って空気、そして水を飲むと美味いんです。 地球まほろば、ここが人間が住むところで、長く住むのであればほかの生命と一緒に住むという事でないといけないと思います。 

能力にぎりぎり挑戦することは最大の喜び、それで駆け抜けてきました。  「モマの火星探検記」を出版しました。(サイエンスフィクション) ミュージカルにもなりました。  感動して泣いていて、舞台は凄いと思いました。 科学技術とは全然違う手法で人の気持ちを和やかにさせる。  運動と食べ物には気を付けています。 周りの人に役に立つような役割を持ちつつ、静かに段々消えてゆきたいと思います。 わたし終いの極意としては、「未来に繋がる命に期待する。」という事です。