2024年12月5日木曜日

桜井恵子                ・〔人権インタビュー〕 えん罪の夫を支え続けて 布川事件を語り継ぐ

桜井恵子     ・〔人権インタビュー〕 えん罪の夫を支え続けて 布川事件を語り継ぐ 

1967年に茨城県で起きた強盗殺人事件(布川事件)、逮捕された桜井昌司さんと杉山卓男さんの二人は無期懲役の判決を受け、無罪が確定するために43年7か月のも年月がかかりました。 その一人桜井昌司さんはさらに国と茨城県を相手取って、奪われた権利への損害賠償を求める裁判をして勝訴しています。 72歳になる桜井恵子さんは、冤罪に苦しむ昌司さんを支え続け、昌司さんが76歳で亡くなった後も、冤罪による被害者を支援する活動を続けています。 恵子さんに冤罪はどのような苦しみを人にもたらすのか、夫を見続けてきた経験の中でお話を伺いました。

恵子さんと昌司さんが出会わられたのは1998年1月。 日本国民救援会というのがあって、茨城県本部の方から手伝ってほしいと言われて、救援会は人権救済団体で裁判で戦っている人たちを支援するという団体でした。 布川事件での男性(桜井昌司さん)の新年会での挨拶を聞いて、強く関心を持ちました。 40代後半のおじさんでしたが、少年の様に輝いていました。 29年間無実の罪で拘束され続けてきたという環境が、どれほど厳しかったのか、そこから解放されたものと、自分の生活を確立するために働く、新しい生活に向かってゆく、希望でしかなかったと思います。

1999年昌司さん(52歳)と私(46歳)は結婚しました。  両親は猛反対でした。 「最高裁まで行った裁判で間違っているはずがない。」と父が言っていました。 「親子の縁を切る、」と言われた時も「判りました。」と言いました。 結婚して籍は入れましたが、同居は出来ませんでした。 裁判を優先するために、夫は仕事をして自分の生活を確立する、私は水戸で長く務めさせてもらったところで続けてゆくという選択をしました。  週末にお互いが通うと言う様な生活を9年間続きました。  毎日夜9時にお互いが電話で連絡し合う、夫は約束を厳格に守ってくれました。 夫の真面目さが伝わって来ました。  

冤罪に巻き込まれ、無実の罪だと訴えるところを支援してくれる人に出会って、この人たちの信頼を裏切ることはできないと思うようになった、だから一生懸命やる、自分自身にも嘘をつかない、という事でした。 自白してしまったことは自分自身に嘘をついた、やってっもいないことを自白してしまった、という事です。 取り調べの苦しさから逃れられなくて、一時的にそうした、でも一生背負う事になるわけです。 有罪判決が出て、29年拘束されるわけです。 だから自分は一度でも約束を守らない事は無い、嘘はつかない、人の心も裏切らない、という風に自分は心がけてきたと言っていました。 

弟が病気で入院していましたが、夫も通って話をして弟も理解してくれるようになったようです。 弟がなくなり、夫が行ってその後に両親が着くわけですが、その場で父が夫に「今日一緒に家迄まで来てくれないか。」と言って、恵子の連れ合いですと、町内の近所の人たちに紹介してくれました。  弟が自分の死をもって自分たちを家に戻してくれた、みいたいな所があります。 1999年結婚した時あたりは、第二次再審請求に向けた準備をしていた頃です。 2001年に第二次再審請求が申し立てられました。  一緒に行動するようになって、最初のイメージとはだいぶ違うところが出てきて、暗くないと眠れないというんです。 常夜灯がいつもついていて、24時間365日間監視の生活をしてきたので、人に見られているという事から解放されたいという事でした。  夜中に突然起きて、心と体がバラバラになると叫んで、部屋のなかをうろうろし始めました。 4階の部屋から飛び出してしまうかもしれないので、捕まえておいてくれとか言っていたりもしました。 夫の中で何が起きているんだろうという感じでした。 

会の事務局の人に相談したら、29年間獄中で一人で自分と戦い、司法とも戦い、自分一人でやってきたのでかなり無理をしたはずなので、大なり小なり発作的なことを起こしながら、普通の人間に戻って行くのではないのかと言われました。  無実の罪で有罪判決が出る、懲役の刑が確定する、この誤り、本人を救うのにはそこを改められることしかないはずです。 再審で無罪判決を貰う、それがないと冤罪の人の人権は守られない。 

1967年からおよそ3年間全17冊の日記があります。 拷問的なことはなかったと言っていました。 淡々と永遠に何時間もやられることがどんなに苦しいか、当事者でないと判らないと思います。 あの手この手で自白させるようにするわけです。 嘘の自白をしてしまう場面がありますが、そこに行くと必ず絶句して言葉が出ないんです。(後悔をする場面)   心が折れてしまった瞬間を皆さんの前で、何度も何度も語らなければならなくて、そのたびに夫の苦しみを私は感じました。 

2001年に第二次再審請求が申し立てられ、その4年後2005年に水戸地方裁判所土浦支部が再審開始を決定。 前回の裁判では出てこなかった新たな証拠がでてきました。 取り調べのなかで夫は手で首を絞めたと自白させられて、調べは進んでいったと思いますが、実は死体検案書は「絞殺(推定)」と書かれていました。 ひも状のもので絞めたという風な、解剖した先生の記録がありました。(ずっと後の再審の段階で出て来た。)  矛盾があり大きな争点になりました。 再審が開始されたのは、逮捕されてから38年経ってからです。   一度は棄却された。 最初の裁判の時にこれが出ていたならば、その後は無かったかもしれない。 再審が開始された時には本当に喜んでいました。 位牌の前で何時間も号泣していました。  2011年およそ44年振りに、再審無罪が確定しました。 2012年に国と茨城県に対して、損害賠償請求の裁判を起こすことになります。 

布川事件の責任の所在をもっと明らかになる方法は無いものかと、この手段しかないと言いました。 勝っても負けても5年で終わりにするという事でスタートしました。 しかし結果的には10年掛かりました。  2019年には昌司さんに直腸がんが見つかりました。(ステージ4)  本人は直すという事を最後まであきらめなかったです。 夫は「負の言葉を口にするな。」と信条の様に言っていました。 2021年に国家賠償請求の勝訴が確定します。最初に出た言葉が「俺はこの判決を待っていたんだよ。」と嬉しそうに言いました。 2023年の夏に亡くなりました。(76歳)  「私がいてくれてよかった。」と言ってくれたので、「私がこの人に必要とされる人間になりたい。」という、最初の思いがきっと夫には伝わっていたという思いがあります。  時間があまりにも掛かりすぎます。 きちんと再検証して頂きたい。 その事件の中で何を学んで、何を後の人たちに引き継いでゆくか、という意味では、布川事件は凄くいい教訓を残してくれていると思います。