2026年1月31日土曜日

迫田孝也(俳優)              ・出会いからつながった俳優人生

迫田孝也(俳優)              ・出会いからつながった俳優人生 

迫田さんは1977年生まれ。(48歳) 大学卒業後俳優を目指して上京、NHKでは真田丸』をはじめ、西郷どん鎌倉殿の13人』そして現在放送中の『豊臣兄弟』にも出演しています。 西郷どん』では薩摩言葉指導もしました。 他にもドラマ、映画、舞台、バラエティーと本当に幅広く活躍中の迫田さんに、これまでの俳優人生について伺いました。

川内市で生まれましたが、父が高校教師をしており小さい頃は転勤が多かったため田代町から指宿市へ引っ越し、さらに中学校から鹿児島市内へと引越しが多かったです。 中学、高校とバレーボールに情熱を燃やしていました。 高校時代は男子バレーボール部の主将を務めました。 教師をやりたいと思っていて、 広島大学教育学部へ入り、保健体育の教育免許を取得しました。  大学2年の時にバイトで行った奄美大島で、映画撮影に来ていた山田洋次監督の御一行と出会い役者になろうという気持ちが芽生えました。 

大学を出て上京し、或るオーディション情報の月刊誌を読んだら、演出家に観てもらえる無料の訓練のことがありました。  結局その劇団に入ることになりました。  恥ずかしくて人前で演技ができなくて、稽古が終わって夜になると元気が出るタイプでした。  半年間の卒業公演のキャストにも参加できず、見るに見かねた演出家が無理やり出させて、そこそこできたので、或る役を持たされてやって、ようやくスタートラインに立てたと思いました。    30歳になって芽がでなかったら帰って来るように言われましたが、その時にはまだで、親を何とか説得してそれから5年続けました。   三谷さんの作品に感動して上京したという思いもあり、オーディションで三谷さんの目に留まり、役を勝ち取ることが出来ました。

2016年の大河ドラマ『真田丸』への出演が決定し、矢沢三十郎頼幸と言う役にも押しつぶされそうでした。 (39歳)   西郷どん』では薩隅方言の指導役を担当するという事を聞いて、最初戸惑ったが、やって台本の見方も俯瞰して見れるように変わりました。 江藤新平役にもなり、ラッキーでした。 鎌倉殿の13人』にも出演することになりました。 色々民放にも出演することになって行きました。  2020年代に入ってからは実は犯人だったり、視聴者から犯人と疑われる役を多く演じるようになりました。

山田洋次監督のTOKYOタクシーでは山田洋次監督の作品に触れられたような気がします。  蒼井 優という役者はとてつもない才能を持った方で、この人の相手が務まるのかと言うプレッシャー、そして山田洋次監督(94歳)のこんなに妥協のない現場は正直ないです。 普通一回OKになればそのシーンは終わりですが、繋げてみると撮り直しが来るかもわからないという事があるので、その圧迫感みたいなものもあります。  僕の撮影期間は2週間ぐらいでしたが、その後でも話が来るのではないかという思いがあり、1週間ぐらいは気が抜けなかったです。 

2022年(令和4年)2月17日、鹿児島県の広報大使である薩摩大使に任命されました。     2024年(令和6年)2月29日、鹿児島市の「ふるさと大使」に起用されました。

2026年には『豊臣兄弟』では石川数正の役をやります。 











 

2026年1月30日金曜日

入交昭一郎(エンジニア)          ・日本を動かす!~F1から水素エネルギーへ~

入交昭一郎(エンジニア)        ・日本を動かす!~F1から水素エネルギーへ~ 

日本のF1エンジンの開発を手掛けた元ホンダの副社長、今は水素エネルギーの日本での実用化を目指す入交昭一郎さんです。 入交昭一郎さんは神戸の生まれで現在86歳。  東京大学工学部を卒業した後、自動車メーカーホンダに入社、世界最高峰の自動車レースF1で12気筒の強力エンジンを開発、又排気ガス規制の厳しい中で、規制をクリアーする独自の燃焼システムを開発するなど、日本の自動車エンジンの開発の先頭に立ってきました。  又退職後はゲームメーカーの社長を歴任し、今はカーボンゼロの社会を目指して、水素エネルギーの日本での定着を図ろうと水素エネルギー研究会の最高顧問として活躍しています。 又世界的半導体メーカーNVIDIAのジェンスン・フアン社長の窮地を救った事でも注目されています。     エンジンの開発から水素エネルギーへとあくなき挑戦を続ける入交さんに伺いました。

どこへ行くにも車で運転していきます。  年間3万kmぐらい走っています。  トランプさんがあんなのはでっち上げだという事になって、カーボンニュートラルに向けての動きが、中国を除いて世界中がストップしてしまいました。   本来今年あたりは水素エネルギーを社会実装していかなければいけない年ですが、止まってしまいました。 一番大きいのはそこにお金を出さない事ですね。 日本は水素エネルギー開発が遅れていたので、キャッチアップするチャンスだとは思います。  怖いのは中国だけはものすごい勢いでやっています。 相当どころではなく2周ぐらい先を行っています。  水素は基本的に自然エネルギーで発電した電気で水を電気分解して作るわけです。 発電する方が中国が今、太陽光発電にしろ、風力発電にしろ全世界のシェアーの6割ぐらいは中国製です。 次に電気分解する大型の電解槽が必要で、大型はほとんど中国製です。  社会実装と言う意味では中国はずっと先を走っています。 

カーボンニュートラルを実現するためには、電気だけではいかない、内燃機関はずっと必要なわけです。  化石燃料は使えば必ず炭酸ガスを出します。  内燃機関を使う航空機、船、オートバイ、トラック等があり、使っても炭酸ガスが増えない燃料が必要なわけです。    水素を大量に作らなければいけない。 日本で使っているガソリンの10%を水素に置き換えようとすると、1時間でプール一杯の水を電気分解して水素を発生する、そのぐらいの量が必要です。  年間500万トンぐらいが必要で、何兆円と言う投資が必要です。  水素を作るのには基本は電気なので、太陽光発電、風力発電にしろ自然エネルギー発電でやると、1KW/h当たり、かなり先を見通しても10円を切れないんです。  水素をベースにした燃料は1リッター当たり700円ぐらいになってしまう。  

サウジアラビア、チリなどでは1KW/h当たり今現実に3円で売っています。  3円で出来るとその値段はいっぺんに1/3ぐらいになります。 海外で自然エネルギー発電した電力が安いところへ行って、作らざるをざるを得ない。  そうなると1企業のレベルでは出来ない。  広大な土地も必要。  将来的にも友好関係が保てる国で、大プロジェクトを展開しないといけない。  国が間に入らないのなかなか進まない。 しかし今はそういう風潮にはない。   カーボンニュートラルにしようと言う国民の意識もない。  啓蒙活動を3年前からやってます。  欧米では水素を作ってそれをビジネスにしようと本気で考えている会社がいくつか存在しますが、日本では1社もないです。  

カーボンニュートラルの原料は空気と水だけです。  電気は風力と太陽光さえあればいい。  ですから日本のなかで出来るんです。  海外から燃料が入ってこなくても何とかなる。  日本は年間25兆円ぐらい原油を輸入している。  車を作って売っている額にほぼ相当する。  経済安全保障の観点から見ても、絶対日本は自分のところで作れる燃料を持つべきです。  

私は大学で卒業設計にF1の12気筒エンジンの設計をしたんです。  飛行機をやりたかったが、今の日本では作れないと言われて、次に面白いのはレースエンジンかなと思いました。  判らないことはホンダの研究所に行って、入り浸っていました。  入社試験もせずにいつの間にかホンダに入っていました。  配属先がエンジン設計で毎日が楽しくて、そして給料ももらえます。  レースエンジン50ccが当時は2ストロークエンジンでしたが、4ストロークにして勝ちました。  次に125ccの5気筒エンジンを作りました。  250ccで6気筒にしてチャンピオンマシーンなりました。 F1で1966年に1,5リッターから3リッターに変りました。  

知ってはいたが誰も3リッターのエンジンをやっていなかった。 250ccで6気筒のエンジンを終わったばかりだったのでお前がやれという事になりました。  当時F2と言うのがあって、1000ccで4気筒なので、これを3つ並べれば良いなあと思いました。  いろいろ工夫をしながら、やりました。 1965年9月からはじめて、1年間しかないんです。  図面を書いて,試作をして、テストをして翌年のモンツアへ持ってったんです。 徹夜、残業などは当たり前でした。  レイアウトに1ケ月ちょっと、設計図を書くのに1ケ月ちょっと、部品作るのに1ケ月ちょっと、組み立ててテストするのが3ケ月ぐらいでした。 1年でのプロジェクトで、今なら3年ぐらいかかると思います。

仕事は楽しまないといいものは出来ないと思っていて、世の中の情報をどれだけ自分の財産にするか、だと思います。  専門のところだけ勉強しても駄目で、いろんなことが世界中で起きていて、そう言ったものを頭のなかにいれて置くと、突然ある日何かやる時に、これとこれはつながるなという事になるわけです。  新聞、雑誌とか見出しだけでもいいから隅々まで目を通すとか。  経営者クラスの人を呼んで勉強会をしますが、最近はテーマによって専門的な人が来ます。(細分化され過ぎている。)  今の世の中はいろんなものが混ざり合うわけです。  出来るだけ一人の人がいろんなことを勉強できるようなシステムに変えて行かないと危ないなあと思います。  AIだけやっていると偏ってしまう。  深く知らなくてもいいから、自分の中で消化しておかなくてはいけない。  

妻と一時期老人ホームに入って、ネットは見ていたが、新聞などは読んでいなかったが、妻を亡くして家に帰って来て、新聞を又読み始めたら、物凄く1年半の間に欠落していたことに気が付きました。 ネットでは自分の興味のある所しか見ない。  若い人には新聞を取りなさいと言っています、そうしないと自分の好きな情報しか入ってこない。 

NVIDIAのジェンスン・フアン社長の窮地を救ったという事があります。  彼の人柄、彼は絶対嘘をつかない、非常に率直、彼の能力、情熱、彼の持っている望みですね。  彼が32,3歳の時には自分はビル・ゲイツを越えると言ったんです。  当時(30年前)、彼(ビル・ゲイツ)は王様でした。  セガのグラフィックチップの開発に失敗して、辞めると言った時に、何とかもう一回立ち直るには500万ドル必要だと言うので、その額を投資することにしました。    生まれもった性格と言うのは一生懸命努力しても買われないものがあるんです。  どれを抑えてどれを勉強して伸ばすかという事は、後天的なもので出来るわけです。  後その人が持っているエネルギーがあるんです。  エネルギーのある人は、何をやっても夢中になってやってへこたれない。  ジェンスン・フアン社長はこの3つを持ち合わせているので無茶苦茶好きになったわけです。 

彼から昨年末にメッセージが来ました。  ジャストビジネス、ビジネスはビジネスだと言っているのは大きな間違いだ。  ビジネスと言うのは、それをやる人の心であり、思いやりであり、寛容であり、その人の精神である、それがベースでなければいけない。    ジャストビジネス、ビジネスはビジネスだと言う様な事は言うな、と言っています。  そのことは私と仕事をしている間に教わったと言っているんです。  私はそれでやって来ました。   日本の社会そのもの、ビジネスそのものは、最初に数値目標だとか掲げてとにかくやれと、そういう事でスタートしてしまう。人間だから間違いも起こすが、そうするとメタメタ叩く。  寛容さだとか、今は無くなってきている。  私が言ってもなかなか受け入れてくれないかもしれないけど、世界で一番成功しているジェンスン・フアン社長が言えば成功するのではないかと思って、日本中のビジネスをやっている人たちに聞いてもらいたいと思います。   私はそのスタイルでやって来ましたから、日本人の良さはそこにあると思うんです。 人を思いやる心、少々の間違いは人間だから勘弁してあげようよと言う寛容さ、それは日本人の特徴だと思います。

残った時間お前は何をやりたいんだと自分に聞いてみると、「人に喜んでもらいたい。」その答えしかかえってこない。  常に夢を持っていないと生きてゆけない人間だと思っているんです。  夢が時々切れちゃう時があると、自分は死んじゃうなと思うんです。  本当に何をしたいのかと思うと世の中探さなければいけない。  だから情報源を広げろと言っているのはそれなんです。  広げない限り見つからない。  今の夢はカーボンニュートラル燃料で、これを何とかしたい。 









2026年1月29日木曜日

今和泉隆行(空想地図作家)         ・夢は架空の街を駆け巡る

 今和泉隆行(空想地図作家)         ・夢は架空の街を駆け巡る

今和泉隆行さんは実在しない都市の地図を書き続ける空想地図作家です。 7歳の時に空想地図に目覚めたという今和泉さん、空想地図作家として都市や地図に関して、テレビや絵本の中の地図の監修や製作にも携わっています。  民放ドラマでは架空の都市の地図を手掛けるほか、作品は各地の美術館でも展示されてきました。 更にその活動範囲は実際の街つくりや、高校の授業、万博へと広がりを見せています。 4半世紀以上に渡って続く空想地図のナゴムル市(中村市)の地図は今や実在する都市としか思えないクオリティーに達しています。 好きで続けてきたという今和泉さんに空想の町の地図作りに込めた思いを聞きました。

地図の図形と今の場所とを照合できない、と言うのが地図が読めないという事なんですね。   地図を読める人でも方向音痴と言う人はいます。  地図から歴史、街並みだとかを読み解けるという面白さはあります。  一つは道路の模様、真っすぐな道とグネグネの道。 何でグネグネなのか、車が通ることを前提に作られていないので、曲がっていたりします。  近代以降の道だと割と真っすぐつくられている。  道路の曲がり方から地形も見えてきます。   道路の年代と地形が見えてくる。  縦横の組み合わせで、いつ頃どんな理由でこのような道路になったのかとか、道路が狭いと古い建物が多い。  関東大震災で焼けたところは区画整理されて近代的なビルが建っていたりしますが、焼けていないところは古い建物が多いです。 

7歳ぐらいから地図を描いています。  地図を見るのは5歳から好きでした。  父の転勤で引っ越して地図を元にいろいろ捜して頻繁に見ていました。  いけないところだけど、リアルにこういう世界だろうなあと言う地図、が空想都市です。 ナゴムル市(中村市) 小学5年生の時に中村君と言う転校生がきて、お互いに地図を書きました。  読みだけは変えてくれと言われて濁して「ナゴムル市」としました。  書いている楽しみは旅行の下調べと近いと思います。  現実の社会問題を投影して、それを創造しながら書いています。  全国の都市に行けないから書いていましたが、大学2~4年は地図作製は辞めていました。(47都道府県を回る。)  

2015年に友達から美術館に展示してみてはと言われて、その後2017年には宮崎県の都城市美術館の学芸員の方からこれはアートであると言われました。 改めて作家という事を自覚しました。  目標があってそれを叶える手段がある、それがデザインで、アートはその目的がない。  美術館の展示が広がって行きました。

TBSの人気ドラマでも採用されました。 以前からドラマの小道具の空想地図の受注生産はしていました。  老朽化した水道管についてどこが新しい道路でどこが古い道路かAIで検知したいから、予想するのに会議に入って欲しいと言われました。 (予想外の展開)     

外部講師を呼んで探求授業をやるという事で高校に呼ばれました。  人気がありました。   それぞれの意志と感性を磨いていった方がいいと思います。 答えはAIが出してしまうので、答えが無いことに取り組んで行った方がいいと思います。 

関西万博にも参加しました。  実際のパビリオンには行けない方用のバーチャル舞台のところの地図を作りました。  普通の人が出来るいろいろなことに壁があってできませんでした。(スポーツ、ゲーム、漫画など)  膨大な時間があり、架空の地図作りに没頭しました。2巡目の地図に向かうには自分自身をアップデートしないといけないと思いますが、方法が判らなくて、今から受験ですが、大学院を抜けて、現代美術を学んで、研究と製作をしっかりやろうと思っています。  今40歳ですが、新しい自分に変ろうという事です。 年齢を気にしないでインプットしていかないとまずいと思います。 

この数年行ってはいるんですが、海外に行きたいと思っています。  海外の物も書いては見たいと言いう思いもあります。  お薦めの一点は「謎の独立国家ソマリランド」と言う高野秀行さんの本です。 実在します。 無数の武装勢力や海賊が跋扈する「崩壊国家」ソマリア。その中に、独自に武装解除し十数年も平和に暮らしている独立国があるという。 






  





2026年1月28日水曜日

金澤美浩(育種研究家)           ・育種は自分を映し出す鏡

金澤美浩(育種研究家)           ・育種は自分を映し出す鏡

 金澤さんはシクラメンの花を八重咲にしたとして知られていますが、拝見すると八重どころか、ぼんぼりのように咲くものが有ったり、しだれて咲くものが有ったり、花形、花色も様々で、シクラメンだけではなくほかの花や果物も品種改良して、多彩な品種を作っているようです。

50年、自分が興味を持ったものについて、 育種したりコレクターして沢山あります。  昔はシクラメンも色も赤くてそんなにはなかったですが、大内さんが海外のパステル系の品種を昭和50年代に導入して、そこから分けてもらって淡い色を選抜育種しました。 シクラメンは自分の花粉で自分の実をつけて花が終わってしまうことがおおくて、花持ち期間を長く持つようにしました。 シクラメンでは八重がないのでトライしてみようと思いました。  花びらがなりつつあることを見逃してしまう。  固執して観察すると、ちょっと違うなと言うのが出てきたりします。  その種を取り、種を蒔き、時間をかけて花びら化して行きました。 

私の先生の岩手の橋本先生が、私と同じことをしていて、完全体がありました。 私の方はまだ未完全体でした。  先生が病気になってそれを譲り受けて、先生のものと私のものを交配して原型が出来ました。 そしてチモにしようかと言う事でチモという名前で世の中に出せるようになりました。(20年掛かる。)  2年に一回しか交配が出来なくて結果が出ない。  八重になるための遺伝子の部分の重複遺伝子があって、ホモ、ヘペロとかありヘペロではいろんなものが出てくるし、ホモならば固まる。 千葉大、メーカーの研究開発に携わっている方との交流からいろいろ勉強しました。  しだれ形のシクラメンも開発しました。  

ラズベリーも商品化できないという事がありました。 いまだに日本の風土に合わないと叫ばれています。  土壌環境ですね。  日本には沢山の土壌微生物がいて、線虫もいてそれがラズベリーへわるさをするようです。  国内に2トン輸入されて、うちでは1トンはんぐらい取っています。  品種改良しないと、と言う大手の輸入メーカーさんがなんとか国産ラズベリーの品種を作ってくれないかと言われて、花以外も面白そうだと思っていました。 試行錯誤をしてやっと増殖率が良くて、成長も良くて、二期なり(6月、10月に成る)を選抜して作り上げて、登録にこぎつけました。  今の土壌環境で生き残ったものだけを交配しました。  

子供のころから花を見る機会があって花が好きでした。 農業高校に行った時に、花を徹底的に作ろうという出会いがありました。  花農家さんの所に実習に行きました。 花をオークションにかけてその日のうちに換金してくるわけです。 そこで花を作っても生活が成り立つかなと思いました。  温室部を作って、 アルバイトをして園芸書を買って読みました。  種も購入して花を咲かせて、オートバイで花を売っていました。  ひょんなことから自分でも種を取って撒く様になりました。  高く売れるような選抜をして、専門にやっている人に聞きに行ったりしました。  オリジナルのものが昭和50年ごろに出来ました。 50年代の後半には市場でも有名になって来ました。  

昭和56年に結婚して、妻に手伝ってもらっているうちに、彼女の知り合いからも手伝ってもらうようになっていきました。  今の主流のメンバーが彼女たちです。  ピンク系を作って今はそれが主流になっています。 1963年に薦められて全国の品評会に出して、大臣賞を初めてもらいました。 その後もいろいろな賞を貰いました。  品評会のポイントがあって、葉が小さく沢山あって、花が丸弁でぴしっと上を向いて咲いている、という一つのベースがあります。  しだれ咲は全く正反対のものなので、支持されません。  賞を取ることが目的ではなくなりました。 いかにして消費者さんの思いに沿えるのか、という事を大事にしています。  時代の流れは大事だと思います。一番大事なのは消費者にがっかりされない事だと思います。  

次の世代に渡していかなければならないという、義務的な部分も持っています。 私の弟子たちが弟子を作るようになってきて非常に嬉しいです。  ここまでくるうちにはいろんな人に助けてもらってきました。  消費者が居ないかぎりは支持されないので、理解者を増やす事ですね。  自分の中の経験を伝えていきながら、花の業界の礎にしてもらえればと思います。地域の為、若い人のための活動をしています。  自分のまわりの環境を良くしていかない限り、自分が住んでいる環境、生活は良くならない。(人間環境を含め)  育種の部分を掘り進めていくのと、「金澤的なビオラ」を見たいと言われていますが、どう言うビオラか私にもわかりません。 











2026年1月27日火曜日

諌山こころ、福井春香            ・NHK障害福祉賞受賞者に聞く

諌山こころ、福井春香           ・NHK障害福祉賞受賞者に聞く         姉と私~心にしまっていたこと 諌山こころ (14)伝えられなかった言葉と、伝わった思い

今回は全国から463点の応募がありました。 第60回を記念して4つの特別賞が設けられましたが、今日はそのうち文部科学大臣賞を受賞した諌山こころさん、ハートネット賞を受賞した福井春香さんへのインタビューです。 諌山こころさんは中学2年生、障害のある姉との日々を姉と私~心にしまっていたこと」と題して綴りました。  又大学4年生の福井春香さんは吃音がある中で挑んだ就職活動について「伝えられなかった言葉と、伝わった思い」と題してまとめました。 

諌山こころさん

今中学2年生です。 理科が好きで、国語は苦手です。 NHK障害者福祉賞では障害者本人か、障害者が身近にいる人、という事でこれは私だと思いました。 姉(19歳)が知的障害とテンカンがあります。  身近な人(両親、クラスの友達)には見せたくはなかった。  祖父母には見てもらいました。 

「私には小さい頃の記憶があんまりありません。 もしかしたら私は小さいころからいろいろなことを無意識に我慢して、心の中に仕舞って来たのかもしれません。」          特別な旅行とかは覚えているんですが、日常のことは覚えていないです。   

「姉には日常の中で手のかかることが多く、自然とみんなの意識が姉に向くようになっていました。 私は姉の着替えを手伝ったり、食べるのを見張って居たり、面倒を見るのが当たり前になって行きました。 いつの間にか私のことはちゃんとしているから大丈夫と思われている気がして、親があまり構ってくれなくなりました。」

こころってしっかりしているよねと言われたのが、小学校の中学年から言われ、しっかりしているんだという事に嬉しいという思いはあるが、かまってくれないから寂しくなりました。  期待に答えなければいけないなあとの思いはありました。  姉への思いが揺れ動く中で、心の内を吐き出すことは余りありませんでした。 (親、友人)  祖父母とは年に数回しか会わないので、今回の作品は読みたいという事で、本を渡して家に帰りました。 祖父からラインで、両親は姉の面倒を見ないといけない責任を持った行動だから、そこまで悲しまないでいいと言ったことを長文で伝えてきました。  「責任」と言う言葉に対して新しい発見でした。「義務」」と言う風に思っていました。  寂しいという感情はなくなりました。  

「私はお姉ちゃんと一緒にいることで、他の人とは違う経験を沢山してきました。  これからも姉のことで悩んだり迷ったり泣いたりすると思います。  でもそれと同じぐらい姉からもらう温かさや、笑顔や、気付きもあるんだと思います。」

姉がいて悪いイメージだったけど、最近学校でも医療系の方に行っていて、姉がいたからこそ医療メディカルコースを選んだと思います。 

「完璧じゃなくていい、わからないままでもいい、でも知ろうとする気持ち、寄り添おうとする気持ちをこれからも大切にしていきたい。」

書いただけだと自分は変わらないと思って、最後に自分はこうしていきたいという事を書こうと思った時に最後の言葉を見つけました。 皆にも知ってもらいたいみたいな感じも入っています。

「友達に姉のことを話すのもまだ勇気が要ります。  でもいつか話せる日が来るかもしれない。」

まだ話せない。  親には社会人として家を出てゆくときに渡したいと思っています。    医者を目指していますが、 心のなかも診ていきたいと思います。          

ハートネット賞を受賞した福井春香さん

ハートネット賞は誰もが自分らしく生きられる社会の実現を願い、取材を続けている製作現場から共生社会の実現のヒントがあり、未来を感じさせる作品に贈られるものです。

誰にも伝えずに応募したのですが、家族、それ以外の方々にも読まれてしまうという事に少し不安がありました。  しんどい就職活動でしたが、面接官の人々に救われて、最終的には楽しく就職活動を終えることができ、気持ちの変化などを記録として残しておこうと思った時に、障害福祉賞と言うものを見つけて応募しました。 母親だけには見せています。

吃音を誰かに打ち明けたことはほとんどありません。  難発といって、喉が詰まってしまったような感じで言葉がでなくなってしまう症状が一番多いです。  3歳ごろに母おやがそうおもったようです。  しゃべれない障害だけれども、しゃべれる時もある。 「おはようございます。」と言う一言も言えない場合が沢山ありました。  電話も苦手で、普通に出来ないという事がしんどいと思います。  なかなか分かってもらいにくい。 

就職活動の面接でどうしても言葉がでなくて、面接官に自分の思いを伝えられないことが沢山ありました。  結果として不合格が沢山ありました。 インターネットで吃音があることを面接官に伝えてみたら、面接官の方が寄り添ってくれたと言う記事を見て、自分も伝えたらしゃべり易くなると思いました。  就職活動は大学3年生の12月ぐらいから去年の5月ぐらいです。  伝えることで自分の気持の持ちようが変り楽になりました。  

「多くの企業の方が、想像していた以上に吃音を前向きに受け止めて耳を傾けてくれました。 就職活動で一番印象に残っている言葉があります。」

或る最終面接の採用担当の方の「勉強しました。」と言う言葉でした。 事前に吃音のことを勉強したという事でした。 凄く嬉しかったです。  そこに入社出来ました。 建設業界の事務所です。 

タイトルは「伝えられなかった言葉と、伝わった思い」です。 今回作文を書いて、吃音があったからできた経験とか、出会えた人とかも沢山いるなって思えました。 吃音も悪い事だけではないと言えるかなと思います。  

「吃音の理解が少しでも広がり、すベての人にとって生きやすい社会になることを心から願っています。」

今は社会人になる事の不安しかないですが、沢山のことに挑戦して、成長していきたいと思います。



2026年1月26日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)          ・〔絶望名言〕 小林一茶(初回:2024/11/25)

頭木弘樹(文学紹介者)          ・〔絶望名言〕 小林一茶(初回:2024/11/25)

 https://asuhenokotoba.blogspot.com/2024/11/blog-post_25.htmlをご覧ください。

2026年1月25日日曜日

大川義秋(箏奏者)             ・東日本大震災15年 いのちの大切さを“箏”で奏でる

 大川義秋(箏奏者)         ・東日本大震災15年 いのちの大切さを“箏”で奏でる

大川義秋さんは双葉町出身の30歳。  東日本大震災の時は中学3年生でした。  県外での避難生活で大川さんは琴に出会い惹かれ、プロの道を目指し、現在は文化庁の邦楽普及大使を務めています。 震災をテーマにしたオリジナルの曲や国内外の演奏会で、東日本大震災の経験を語り、命の大切さを語る大川さんにお話を伺いました。

東日本大震災から15年、そのなかでは沢山の出会いがあり、避難をした時のことを思い出すこともあれば、そこでの助けてくれた出会い、感謝を思い出すこともあり、琴を始めた瞬間の記憶もあります。  2011年3月11日午後2時46分、卒業式の日でした。 12時に終わって家に帰って進学のことなど話していた時に、被災しました。  長く揺れて怖かったです。  地面が割れてゆく音、家の家具が全部倒れて、食器など中身が自分の方に降りかかって来たり、窓が割れる音など今でも覚えています。  原発事故については、正直何があったのか判らなかったです。  卒業した中学校に避難しましたが、5000人近くの人が避難していたので、校舎の中は埋まってしまっていて、グラウンドに車を止めて過ごしていました。

翌朝、防具服を着た人が入って来て、1,2分後には警報が鳴って(放射能の情報がないまま)「遠くに避難してください。」と言われて車で避難しました。  埼玉に家族と避難して、そこで琴との出会いがありました。  避難者は汚いという風に思われるのが怖くて、部員ゼロのクラブを捜しました。  琴などの邦楽部が部員ゼロでした。 琴をやりたいとも思っていませんでした。  ピアノ、ドラムはやっていて、明るい楽器はやっていましたが、繊細な音色は触れたこともありませんでした。  悲しげな音色の琴にどんどんはまっていきました。   音色で会話出来ていて、支え合いながら寂しさを共有していた、そんな琴に出会ったのが人生のなかの財産だと思います。(僕が入らなければ琴は捨てられる運命にあった。)

*「レモンアカシヤ」 作曲、演奏:大川義秋  双葉町を想って作った曲

ベーシックな13弦だけではなくて、25弦、17弦、がありますが、僕は27弦と言うオリジナルを作ってもらいました。  人前に出てやることが苦手でしたが、中学に入って吹奏楽にはいって一つうえの先輩が凄く明るい人で、音楽を通していろいろ楽しく過ごすことが出来ました。 その先輩が津波で亡くなってしまいました。  音楽の楽しさを教えてくれたその人のことを思って作りました。 今では自然が豊かだった双葉町は大切な作曲をする時に大切な要素が詰まった街だと思っています。 

東京都内のデザイン系の大学に進んで、教えてもらう伝手が無く、一人で琴を続けました。  琴は自分自身で思っていることを表せる大切なものになってゆくのではないかと思いました。  現在は文化庁の邦楽普及大使を務めています。  昨年は16ヶ国で琴の演奏をしました。   震災に関するやり取り、命の大切さについても話してきました。    

*「ソラシドレ」  作曲、演奏:大川義秋  広島、長崎原爆を忘れないために。          2020年の8月頃に作りました。  災害を語り継いでゆく大切さに気が付きました。(コロナ禍)  どんなコンサートでも命を大切にするという思いで、セットリストを組んでいて、辛い事を乗り越えた事、震災のことを触れながら、構成して演奏しています。  家族が支えてくれたというメッセージは必ず話すようにしています。  この15年の間の思い出が沢山増えたなと思っています。  2年前に双葉町で演奏した後に、50人ぐらいで街歩きをしました。  街は新しい住宅が出来たりさら地になって居たり、景色は変わっていますが、 お祭りが再開したり前に進んでいるなと感じます。 

*「虹」  作曲、演奏:大川義秋  どこかで繋がっているなと言う思いをテーマに作りました。





















2026年1月24日土曜日

渡辺謙(俳優)           ・〔私の人生手帖〕

渡辺謙(俳優)                             ・〔私の人生手帖〕

 渡辺謙さんは1959年生まれ、新潟県出身。 デビュー以来大河ドラマ「独眼竜正宗」の主演など国内外で活躍を続け、去年は大河ドラマ「べらぼう」の田沼意次役、社会現象となりました映画「国宝」では主人公の第二の父ともいえる重要な役柄を演じ注目を集めました。 一方ハリウッド映画「ラストサムライ」ではアカデミー賞助演男優賞にノミネートされるなど、世界的に知名度の高い俳優として知られます。  今年もこの1月からは、BSのプレミアムドラマ「京都人の密かな愉しみ」、2月末の痛快時代劇映画では物語の鍵を握る役どころを演じるなど、話題作への出演が相次ぎます。  渡辺さんが俳優としての人生や、多彩な役柄を演じきるうえで大切にしている事、一方で命を向き合った日々の困惑や乗り越えたキーポイントなど俳優人生を丁寧に話してくださっています。

寝が浅くなっているせいか、リアルな夢を沢山見ます。 起きて落語を聞きます。  仕事が無い時には9時には寝ます。  「京都人の密かな愉しみ」シリーズとしては3シリーズ目になります。 僕は今回からの参加です。  今回は継承と言う事をテーマにしていて、300~500年続く老舗があります。  継承してきた人は一体何を背負い何を捨ててきたのか、どう生きて来て伝統を受け継いできたのか、店独特の伝承の仕方に対する時間の流れみたいなものが、日本の中でも独特の時間の流れがあるんじゃないかなと言う気がします。 

映画「国宝」では精神世界では近しいものはありました。  凄く挫折したこともあるし、大病した時もあるので、自分が描いた通りにはなない、でもその中で水かきは水面下であがき続けてきたみたいなことは今までもありましたから、舞台上のすばらしさはあるんですが、彼らがどうやって生きてどうやってその芸に向き合って来たかという事が一番のテーマだったので、自分が今迄いろんな役をやらしてもらったので、時間軸が上手くはまっていけてたらよかったと思っています.

テレビとか、映画の仕事をやってはいましたが、自分のなかで確信的な、こういう風にお芝居に向き合ったら自分の俳優としての立脚点が出来るんだというのがなかなか見出せませんでした。  タンポポ』、『海と毒薬』などにやらしていただいたんですが、舞台でやった「ピサロ」で、自分で立っている実感がつかめないんだったら、辞めてもいいかなと思うぐらい、自分の中で揺らいでいました。 そこで覚悟がようやく固まって、その舞台をやったので、俳優として役と向き合うという事はこういう事なのかと言うのを非常に強く体感したのはそこからですかね。  

僕たちは何のために演じるという事を選んでいるのかという事を、なかなかわからない。  本質的に人間として、何をもとめて演劇、俳優になろうとしたのか、という事で言うと自由になりたいんですよね。  世の中のしがらみ、社会のしがらみ、年齢のしがらみ、いろんなしがらみから自由になるために、その役を借りてその舞台の世界観の中で、日常ではできないことを舞台上ではできるわけです。  自分の心とか精神を自由にするためにこういう仕事を選んでいるんだという事を眼の前で体験してくれたんです。 稽古の時に如何に自由になるか、如何に自由な発想でそのシーンを積み上げていくかという事を、稽古でやってくれたんです。  僕の演劇観にも凄く影響を与えてくれました。  表現の自由を僕らに伝えてくれました。 

劇団の養成所に入った時に、志が無いような状態でお芝居をはじめたところがありました。   音楽をやりたかったが、才能はないし、大学に入って4年間過ごしても何か得るものがあるのか、と言った中から劇団の養成所に入りました。  周りには志の高い青年がたくさんいました。  取り残されると思って必死でついていきました。  与えられた役を必死でこなしていきました。  大河ドラマが終わって2年目に病気をしてしまいました。 その時に後ろを振りかえる余裕が出来ました。(今考えるとよかったと思う。)   復帰した時に、僕の後ろには沢山の人がいたんだなという事を感じさせられました。  

「天と地と」でカナダに乗り込んだんですが、そこで白血病が見つかり、1年近く療養して復帰しました。  まずは強い体に生んでくれた母親には感謝しました。(通常強い抗癌剤の使用で内臓がダメージを受けるがそれが無かった。)  生きるためにはどうしたらいいのかなあと言う事があって、先生の処方、対応に対して、上手く患者役をこなしたというような所はありました。 友人が「百連発」というお笑いのギャグのDVDを3,4本送ってくれて、病室で見て、笑っていて助かりました。 キラー細胞が笑い事で活性化されるという事を今では普通に言われているが、30年前にはそういったことは具体的には出ていなかった。  矢張り笑う事は大事です。

乗り越えたつもりが5年目で再発しました。 その時の方がショックでした。  2回目のときには、俳優として戻らないと生きている意味がないかも知れない、と思うぐらい強い意志を持って治療し始めました。  復帰後もなかなか大きな仕事は回って来ませんでした。   40歳になって脇役を2年ほどしてから、「ラストサムライ」の話が来ました。 全部英語だし、ミュージカルをやったことがないのによくやったという感じでした。  知らないからできたんだと思います。 そこでの経験は一回ガラガラと崩しておかないと、次の世界にはいかない様な気して、40~50代はやったことは過去のことという思いでした。

激しく波打つものよりも、穏やかに染み入って行くようなドラマの方が僕は今好きです。    好奇心はその時々で変わって行っていいものですね。  自分が表現したことが、こういう風に届いて欲しいとあまり思った事は無いです。  作品を選ぶときには僕が面白がれる事、興味がある事に針が振れないと、凄く仕事っぽくなってしまう。  自由になりたいと思い続けているのかもしれません。  スケジュールを聞いたり現場に行くことは仕事だと思っています。  メイクして衣装を着て、ある役を背負って現場に入ると、そこからは一切仕事だとは思わない。  身体、心を通してきっと何かを吐き出しているんです。

最終的には自分の身体と声しか使わないので、稽古とかいろいろな時間の中、ストーリーと頭に中でグルグル回っている時があり、それはある意味大事な時間です。  身体を貸している感じです。(終わったら自分に戻してほしい。)  セリフは、目から耳から入れないと反芻できない。  相手のセリフも全部手書きます。  震災以降宮城県でカフェをやっていますが、一日5分でもいいから、あなた方のことは忘れません、という思いでA4の紙に筆ペンで、その日の思いを書いてファックスで送っていました。(13年間やっていました。)    継承のことを考えています。  折々で大きな作品に出会っているので、相当恵まれているとは思います。   2月末の痛快時代劇映画では物語の鍵を握る役どころを演じます。












2026年1月23日金曜日

馬田草織(文筆家・ポルトガル料理研究家)  ・“ご機嫌”な日々を重ねて人生を楽しむ

馬田草織(文筆家・ポルトガル料理研究家)  ・“ご機嫌”な日々を重ねて人生を楽しむ

馬田さんは1970年生まれ、東京都出身。 大学を卒業後出版社で10年ほど勤務し、35歳の時に独立しました。  その後はポルトガル料理への取材を深め、食や料理を中心に様々な記事や書籍を制作しています。  馬田さんの人生で大きな転機になったのは、38歳の時に長女を出産したことだと言います。  ご自身のキャリアや孤独な子育て、娘の思春期など様々な悩みと向き合う日々で、大切にしてきたのは母と娘で囲む夕飯のひと時でした。   些細なことを面白がって自分を楽しませる、そんな視点を大切に毎日を過ごす馬田さんに伺いました。

雑誌の記事や自分の書籍を書くことをメインにやって来ました。  ポルトガル料理研究家と名乗って教室を自宅で開催したり、いろいろなところに行って開催することも10年以上やっています。  SNSで興味を持った方が来たり、いろいろです。 20代から70代後半まで幅広いです。  今、娘は高校2年生(16歳)ですが、保育園に通わせていましたが、そこでの知り合いから料理教室をやったらどうかと薦められて始めました。 

大学の卒業旅行で、イタリア、スペイン、ポルトガルに行きました。 ポルトガルではパン、チーズ、ワインなど素朴で安く美味しくて、暮らしやすそうだと思いました。 主な食材は干しタラで身が大きい。  ポルトガルでは日常の食にしていて、沢山のレシピがあります。  魚の塩焼き、いわしの塩焼きなどもよく食べています。 赤ワインで楽しんでいます。 和食と似ているところがあります。 

小さいころは引っ越しが多かったので、社交的にならざるを得なかったという感じです。   食べることは昔からすきでした。(父も同様)  料理する事にも興味を持って自分でもやったりしました。   中学では家族のご飯を時々作っていました。  ポルトガル料理との出会いは22歳ぐらいでした。  35歳の時に本格枝的に取材をして、有名なマリア・デ・ルルデス・モデストさんの料理の本に出合いました。  20年間に渡ってポルトガル全土を回って郷土料理をピックアップした中から絞られた800~1000ぐらいのレシピです。  10日間取材旅行をして、私の口に合いました。  その後1か月間ぐらい取材旅行に行きまました。  そのころパートナーもめちゃくちゃ忙しくて、いつも夜中に帰って来る状態でした。

悩み事をポルトガルの取材した人に打ち明けると、子供を持ちたいのであれば持った方がいいと言われました。  子供を持つとまた人生に違った視点を持てるから豊かになると言われました。  夫と話し合いを重ねて38歳の時に長女を出産しました。  考え方の何もかも変わりました。  子育てをしながら仕事をする大変さも知りました。  仕事だけだった自分の時間が半年間ぐらいは仕事の時間はほぼゼロになってしまいました。  1年間は保育園にも入れられませんでした。  寝ないタイプだったので、泣いてしまって、睡眠時間がなかなか取れませんでした。  

小児科医・松田道雄さんの平凡「育児の百科」と言う本があり、具体的なアドバイスもありますが、心のアドバイスも沢山あり、それに支えられました。   最後にダンテの言葉を引用して、「汝は汝の道を進め。 そして人々をして語るに任せよ。」 と書いてあり、この言葉がずっとわたしを支えてくれました。( 他人というものは無責任にあれこれと口を出すものなのであり、それを参考にするのは良いのだが、あまり気にしすぎると正しい選択や判断ができなくなるということである。) 何をしてあげるという事ではなく、楽しく一緒にいることが大事なんだという風に、考え方が定まって、自分が楽しくいることで子供も楽しくなるという事を大事にしていこうと思いました。 娘が10か月の時に、別れて一人で育てて行った方が、私が楽しく生きることを大前提にしたら別れた方がいいと決断しました。 

2024年娘が中学3年生の時に「塾前じゃないごはん」を出版。  塾へ行く前にご飯を食べさせるという生活ルーティーンが生まれます。  塾前ではないご飯、ゆっくり食べられる。  娘とのエピソードも盛り込みました。   親が出来事は見守るしか出来ない。 見守るという時には余計なことは言わない。  














 

2026年1月22日木曜日

土屋礼央(音楽家・ラジオパーソナリティー) ・肩のチカラが抜けたとき…

土屋礼央(音楽家・ラジオパーソナリティー) ・肩のチカラが抜けたとき…

 土屋礼央さんはミュージシャンであるかたわら、鉄道、野球、サッカー、F1など様々な趣味を持ったマルチタレントとしてテレビで活躍しています。 「肩のチカラが抜けたとき」と題して、順風満帆の芸能生活で突然であった転機と、そこにどう向き合ったかという体験をお話しいただきました。 

1976年東京都国分寺市生まれ。  中学2年の時にミュージシャンになりたいと親に宣言していました。  子供のころに合唱を経験しました。 幼稚園の時に「コダーイ・メソッド」という最初の音だしぐらいはピアノを使うが、ピアノを使わないで、周りの声や自分の声で気持ちいい音を探ってゆく、耳の力を育てたいという教育を受けました。  自分のメロディーに変えたりして、オリジナルソングは楽しいと思っていました。  高校では自分に合った音楽のクラブはなかったので、卓球部に入りました。  進学校でしたがミュージシャンになりたいと言って、家で曲を作っていました。  

早稲田大学のバンドサークルが早稲田大学にオープンカレッジがあって、高校卒業後もぐりこんでいました。 夜な夜な曲を作っていくという事が数年続きました。  一緒にやろうという女の子たちがいて、合宿でそこではじめて人前でオリジナルを歌いました。  こんな演奏では人に届かないと人に擦り付けてと言ったことを繰り返していました。  4年目に良かったと言われれのが、「ラブラブなカップリフリでチュー」でした。  その後「ズボンドズボン」の一員になりました。 「RAG FAIR」に卓球部の後輩が入って、彼から声がかかって参加しました。  RAG FAIR」が北上のイベントで、お金を貰うイベントで、ミュージシャンを目指している身として、重要な経験だと思って参加しました。 アカペラがダサいと思うようになったことを箇条書き出してみました。 それを解消するようなやり方をすれば、元に戻れるのではないかと思いました。  お客さんに向けてのエンタメアカペラをやろうと提案して、やり始めました。  

2002年に第53回紅白歌合戦に、RAG FAIR」で出場しました。(デビューして1年)   自分で作ったものが、 「ラブラブなカップリフリでチュー」で行きたいと言っているレコードメーカーの社長がいるという事は、自分で作ったものが生活をしてビジネスしたいと言ってくれていることが非常に感動しました。  浮かれると言いうよりも、大変なことになったという事がデビューが決まってからです。   デビュー日のライブのパフォーマンスがありましたが、地上波のゴールデンタイムの生中継の放送でした。  紅白歌合戦が決まって事務所は本当に喜んでいました。  僕は最初のうちはいい加減にしてくれとしか思わなかった。 (また忙しくなる。 曲も作れていない。)  後で聞いた話だと土屋家及び親戚が全員集まって僕の応援をしてくれていたという事を聞いて、ほんとうに出てよかったと後悔の思いが多いぐらいです。 

深夜放送のDJの話がありました。 アカペラを褒められるたびに自分を否定され続けられるようになっていました。  土屋礼央で仕事をしたいと言ってくれる人への嬉しさ、喜びがあり、これは全力で挑もうと思って快諾しました。  あれがあったから今のラジオ人生があります。  その間も「ズボンドズボン」、RAG FAIR」、音楽もやっていました。 DJをやっていて、質問が有ったら一つぐらいは返せるようにした方がいいと言われて、好奇心が湧いてて、人の3倍生きてみようと思いました。  アンテナを張って学んでいけば、同じ24時間でも72時間分の情報を入れたら、一個一個同じ気持ちでやれるのではないかと思いました。 それからが面白い人生になりました。 

或る時に声が出なくなりました。 (脳のストレスと思われる。)  しゃべりもでなくなる時もありました。  だましだましやっていたが或るライブで声が出なくて、迷惑をかけると思ってライブを止めました。  結婚して子供もいるので、生業としていた歌が歌えなくなりました。  生放送のラジオは声が出たのでそちらに腹をくくれました。  落語を習っているうちに口も滑らかになり、歌も歌えないなら楽しめばいいと思いました。 若者へのアドアイスをしたらいいのかなあと思いました。  そういったことをやっていたら物凄く仕事が増えました。  「肩のチカラを抜く」と言うとらえ方もできるし、自分は成功者だと思って振り返って見ると、結構なアーカイブは残っているし、自信を持ってもいいんじゃないの俺ってと思えたら、これからの人生は楽しいんじゃないかあと思います。  

どこを大事にしたいというところがあれば、何があっても自分の心は折れないような気がします。  若い頃はどんどんとがって、人に迷惑をかけても許されるような年齢の時には、自分の信じたことを徹底してやって、そこで反省して、傷ついて人のために生きようとようになるので、徹底してとがっていいよと、それを守るのが大人の責任だと思っています。
























2026年1月21日水曜日

原辰徳(前読売ジャイアンツ監督)      ・原辰徳が語る~夢の続きのそのまた続き~

 原辰徳(前読売ジャイアンツ監督)      ・原辰徳が語る~夢の続きのそのまた続き~

原さんは1958年生まれ。 1980年代から90年代中盤にかけて、巨人の4番に座り選手として6回のリーグ優勝、3回の日本シリーズに貢献しました。 選手引退後はコーチを経て2002年から2年間、2006年からは10年間、2019年から2023年までの5年間の通算17年間球団歴代最長の長期にわたって、読売ジャイアンツの監督を務め、監督としてリーグ優勝9回、日本シリーズ優勝3回、アジアシリーズの優勝、WBC(ワールドベースボールクラシック)日本代表監督としても 見事優勝を果たしています。 

昨年11月日韓ドリームプレイヤーズゲームが北海道でありました。 両国のレジェンドが集まって交流の試合でした。 その時の日本の監督を担当、相手の監督が、キム・インシュク監督でした。  2009年の時は5試合戦って2勝2敗で決勝戦(世界一を争う)監督です。   40,50歳代の選手が集まっても一生懸命にやりました。  今年3月に第6回WBCがあります。  第2回WBCは星野さんで戦うものと思っていました。 そうしたら私の方に話が来ました。  西武と日本シリーズを戦っている最中なので、終わったらしっかりお話させてくださいと話しました。  受けると言う事でスタートしました。 第1回目は世界一になりました。  二回目もいいメンバーが集まりました。 まずイチローに連絡しました。 

最初イチローを3番にして世界一を取ろうと決断しました。 1番はヤクルトの青木選手、2番西武の中島でスタートしましたが、結果はイチローはあまり良くなかった。  コーチと相談した結果、イチローを1番、青木を3番にしました。  選手と言うのはプライドもあり、強くもあり弱くもあります。  そんななかでお互いが「独り言」という事で、意見交換をしました。  決勝の延長戦で2アウト2塁3塁でイチローの勝ち越し打で勝負が決まりました。  その前に2アウト1塁3塁で1塁走者を走らせました。 それで2,3塁となり相手がどう出るか相手側のベンチの動きを観察しました。  キャッチャーはベンチの方を見ています。   監督とピッチングコーチは話をしていて、何となく決断が出来ていなかったように見えました。  歩かせるのではなく勝負するんだと思いました。 イチローは4つファールが続いて、ボールもあり8球目にセンター前に打つ。   

父はWBCの日本の全試合を見てくれました。 父は優勝の表彰式をみて、感激したんでしょう、私に電話をしてきました。  「お前にもう何も言う事は無い。 本当におめでとう。」と言ってくれました。  私はプロ野球の選手になりたいという思いはありましたが、監督になるという事は全く思っていませんでした。  長嶋さんの元で3年間コーチをして、命を受けて監督になるわけです。   監督は、決断、戦法、戦術、セオリーなど当然勉強するわけです。   

父が監督をしていた高校1年の時の試合で、2アウトの時に9番(鈴木さん)がフォアボールで1塁に出ました。  サインを見ていたら初球に盗塁のサインが出たんです。   鈴木さんは果敢に走って、砂埃の舞った直後、セカンド審判がセーフと言ったんです。  あれ以上の作戦は無いと思いました。  ゲームが終わってうちの父がミーティングをしました。   1点ビハインドの中、ああいったシチュエーションで、あそこで出さないでどこで出す。  日頃からの準備があったからこそ、鈴木にスチールを出した、成功するに決まっているじゃないかといって、僕はそのミーティングのことが残っています。  そこが僕の原点でした。  僕は思い切った戦術、戦法は使いました。  

クライマックスの中日戦ではノーアウト1塁、二塁でセオリーで行くとバントで1アウト2,3塁ですが、1点が取れない場合もあります。 その時に左ピッチャーだったし思い切ってダブルスチールのサインを出しました。 (しびれましたが) 結果ノーアウト2,3塁となり、好転してクライマックスをジャイアンツが勝つことが出来ました。  成功する確率が高いことを思いこまないと駄目ですが、闇雲にと言うのは駄目です。 そのための準備は必要です。   

父はゴルフが好きで一緒に回る時には、ハンディーを2貰っていまいたが、その後はハンディー2をあげていました。  父は78歳で他界しました。  ゴルフを終わって家に帰って来て、心筋梗塞で25日間頑張りましたが、亡くなりました。  父の教えの中にチャレンジャーでなければいけない、という事があります。  三池工業高校の監督をしていた父は東海大第一高校をコテンパンにやっつけました。  東海大第一高校への監督の要請があり、静岡に行くのかと思っていて「都には学校が無いんですか。」と言ったようです。 都で勝負をしたかった。(チャレンジャー)  

心の中に目的、目標を持って、寝て朝起きると差が違います。  ゴルフもシニアーオープンに出たりして、飛距離は260ヤードぐらいは出ます。  若い頃にはジャンボ尾崎さんと廻ったりしましたが飛距離はそん色なかったですね。  ゴルフは我流でやってきましたが、教えてもらうようになって、なるほどなあと思う様になりました。  

WBCが開催されますが、相当打倒ジャパンと言う中で戦わなくてはいけないので、今年又世界一になるというようなことであれば、胸を張れることだと思います。 












2026年1月20日火曜日

いとうまい子(女優・タレント)       ・元アイドルから研究者への道へ

いとうまい子(女優・タレント)       ・元アイドルから研究者への道へ 

いとうまい子さんは1964年愛知県名古屋市生まれ。  1983年に「1億人のクラスメイト」と言うキャッチコピーでアイドル歌手してデビューしました。  ドラマやバラエティーなど数多くのテレビ番組に出演し、ドラマ「不良少女とよばれて」ではヒロイン役を演じ、高視聴率を記録しました。 その後は社会問題にも目を向けようと2010年に45歳で早稲田大学に入学、予防医学、ロボット工学、基礎老科学を専門にするなど、研究者としての道を歩んでいます。  常に新しいことにチャレンジし続けているいとうまい子さんに、人生を前向きに生きる為の秘訣や、その思いについて伺います。

今は研究よりも大学生に教えることの講義のスライドを、来週は何を教えようかとかという事を毎日書いている感じです。  4年生を担当しているので卒業論文についても担当しています。(初年度) 

1983年に歌手としてデビューしました。 ドラマ「不良少女とよばれて」ではヒロイン役を演じ、高視聴率を記録しました。  デビューして5年ぐらいで事務所を辞めました。  青春映画なので安心していいよと言われたら、ある時突然脱ぐこと言われて、実は撮影前から私が脱ぐという事が決まっていたようでした。  仕方なくやりましたが、その後写真集でも脱ぐという事を言われて、飛び出すように事務所を辞めました。  それからは10年ぐらいは親しくしてくれていたスタッフなども見向きもしてくれなくなりました。  仕事はなかったが舞台だけはありました。 30歳過ぎまでは地をはいつくばって生きている感じではありました。 段々周りの人の力添えがあって生きているんだなと感じるようになりました。 

恩返しをしたいと思うようになりました。 大学に入って恩返しできるものを考えてみたいと思って、大学に進もうと思いました。  兄が飼っていたゴールデンレトリバーの「アトム」を一時期預かって飼っていた時期があり、アトムが「生きているだけでいいんだよ。」「そのままでいいんだよ。」って、教えてくれました。  嬉しい時には本当に無邪気に喜び、悲しい時にはしょんぼりするんです。  自分らしく生きて行こうと思いました。 

大学に入る前にある仕事で教授からの話を聞いて、医療の現状において、ちょっとでも自分で予防すれば、医療費もかけずにもっと幸せに健康でいられるのにという事を聞いて、予防の大切さという事が頭に残っていました。  予防医学を学べる大学を捜して、2010年に早稲田大学人間科学部eスクールに入学しました。 (その前の面接では3人の教授から、貴方のような職業の人はすぐ辞めるから入れたくないと同様に言われました。) 学校は27年振りで本当に大変でした。(45歳)  俯瞰して観る自分がいて、そうすると人生楽になります。  予防医学を続けるつもりでしたが、先生が定年退職という事で行く当てがなくて、友達からロボット工学を薦められました。  大学院人間科学研究科修士課程へ進学、そこで作ったのがロコピョン、老人と共に一緒にスクワットするロボットを作りました。

大学4年までではまだ恩返しできるところまでは来ていないと思って、大学院へ進みました。企業の方と一緒に開発したのがロコピョンでした。 ロボット工学は修士課程迄でしたが、博士課程は違う事を始めました。  基礎老化学の講義があって凄く興味がありました。   その教授に相談しら、教授会でOKがでれば引き受けられるという事でした。 その教授会の重鎮の方々が来て、ロボットをやっている人間が生命科学なんて無理だと言われました。  教授たちがいろいろな質問をしてきましたが、基礎老化学の講義を2年間しっかり勉強してきていたので全部答えられました。  OKとなり博士課程は基礎老化学の方に入りました。    

全然知らないことを学びたいという事が根底にあって、誰かが扉を開いてくれてそこに入ってしまうという感じかもしれません。  カロリー制限模倣物の探索と言うのをやっていました。 カロリー制限をするとどんな動物でも、健康寿命が延びるんです。 がん、疾患、糖尿病とかに罹らず健康なまま寿命を迎えるというのが報告されているから、人間でも行けるはずですが、カロリー制限はつらいですね。  赤ワインに含まれるレスベラトロールと言う成分はマウスではカロリー制限模倣物で、それを大量に摂取すると若いまま死を迎えるといういことが発表されて、サプリメントも出ています。  しかし人間には誰も証明されていない。  

日本人が食べる日本ならではの食材にそういった化合物が含まれていたら、いろいろ組み合わせて食べたらカロリー制限していないのに細胞が勝手に勘違いしている物質があるのではと、それを捜して実験をしていました。  博士課程でずっとやっていて、その後研究生になっても探していましたが、去年の3月に期限切れで追い出されて続けられなくて、ある紹介で今は東大の研究室のタンパク質などの構造解析をやっています。

ヒューニング、「ヒューマン(人間)」と「チューニング(調律)」を組み合わせた造語で人が本来持っている能力を最大限に引き出し、最適な状態に調整することを指します。    私がさ迷って這いあがってきた、これが言語化されているという事が判って、こっちの方が大事だという事で、ヒューニングを教えたいと思いました。 目の前のことを一生懸命にやると何かに道が必ず開けます。  しかも「感謝しながら謙虚に」、これに尽きます。 誰も幸せにはしてくれない、幸せは自分が感じるものなんです。  










2026年1月19日月曜日

大藏教義(能楽師狂言方)          ・〔にっぽんの音〕 能楽師狂言方 大藏基誠         

大藏教義(能楽師狂言方)          ・〔にっぽんの音〕 能楽師狂言方 大藏基誠 

私(大藏基誠)の父の弟(大藏吉次郎)の長男が大藏教義です。(従兄弟)  コロナ前まではNHKの職員の方に狂言を教えに父(大藏吉次郎)は来ていました。 祖父の代からで40年ぐらいになります。 今回101回になります。(9年)  

狂言は基本的には喜劇です。  人間が失敗してしまったり、日常生活の中でしでかしてしまう、慈愛に満ちた笑いで包んでくれるような優しい笑いがテーマです。  いい笑いはお客様が家に帰って布団に入って、思い出してフフッと笑うのがいい笑いなんだよと言っていました。狂言は能と共に室町時代から約700年間受け継がれてきています。  狂言をやっているとお化粧をするのかとか(化粧はしない)、かつらは被るのかと言われます。(ほとんどの場合は現代の普通の髪型のまま演じます。)

言葉が難しいとは言われます。  能の方が難しい言葉使いです。  聞いていれば段々判って来ます。

「名乗り」は必ず、能でも狂言でもあります。 戦の時の「名乗り」から来ているのかもしれない。  舞台は何もないので想像力を使ってみてもらいたい。  狂言に出てくる女性は皆強いですが、根は優しい。    

「髭櫓」のあらすじ

大髭が自慢の男が、大嘗会で犀の鉾を持つ役に選ばれたと言って喜んでいる。だが、新しい装束を仕立てるという話に妻は「うちは貧乏でそんな余裕は無い」と役を断るように迫り、さらに「その髭があるのが悪い」と自慢の髭を剃り落としてしまえと言ったため、怒った男は妻を打擲する。これに対して妻は近所の女たちと示し合わせ、熊手長刀などを持った女たちを引き連れ攻めてくる。男は髭を守るために髭の上に櫓()を組んで立ち向かうが多勢に無勢、ついに巨大な毛抜きで髭を引き抜かれてしまう。

大蔵流では原稿が180曲あります。 能っぽいものもあります。 間(あい)狂言も入れると300曲近くあります。 

「鈍太郎」のあらすじ 

鈍太郎は3年ぶりに都に戻り、下京の本妻と上京の愛人のもとを訪れます。しかし、どちらの女性も鈍太郎を信用せず、戸を開けてくれません。本妻は棒使いの男と、愛人は長刀使いの男と住んでいると嘘をつき、鈍太郎を追い返します。失意の鈍太郎は出家を決意しますが、後に本妻と愛人は鈍太郎が本物だと知り、出家を止めようとします。 最終的に女性たちの手車に乗って囃しながら退場する滑稽な物語です。

狂言でも大蔵流では最高級ランクの「釣狐」、「花子(はなご)」、「狸腹鼓」を私(大藏教義)はやらせてもらいました。  「狸腹鼓では母親の母性を如何にだすかと言うのが難しい。   「狸腹鼓」は、猟師に狸をとることを思いとどまらせようと老尼に化けた古狸が、正体を見破られ、命乞いのために腹鼓を打ってみせるという狂言。数多い狂言の曲のなかで最も重い曲とされる。   


狂言ではオノマトペ(擬声語)を用いる。  障子を閉める音、お寺の鐘の音、犬、鶏の鳴き声とか。  










  

2026年1月18日日曜日

串田綾香(「アール・ブリュット」 アーティスト)・NHK障害福祉賞受賞者に聞く

串田綾香(「アール・ブリュット」 アーティスト)・NHK障害福祉賞受賞者に聞く 

NHK障害福祉賞は障害のある人自身の貴重な体験記録や、福祉の分野での優れた実践記録に贈られるもので、串田さんんは463点の応募の中から最優秀賞に選ばれました。  奈良県在住の37歳、小さいころから人と会話するのが苦手でした。 周囲に適応するあまり体調を崩し、20歳の時に広汎性発達障害と診断されます。 静養しつつも焦燥感にかられるなか、絵を描くことで自信を取り戻し、再び人や社会とつながるまでの日々を「アール・ブリュット」と題して綴りました。 

受賞については、柳田邦夫先生もおっしゃっていましたが、「アール・ブリュット」というテーマが大きかったのではないかと思います。  「アール・ブリュット」と言うのは、正規の美術教育を受けていない人が、自身の内側から湧き上がる衝動のままに表現したり、美術作品をさすそうです。  私は絵の専門知識はゼロで美術に成績も並み以下でした。 

今迄お世話になった方々への感謝を伝えて、その思いを繋げたいと思って応募しました。 自分の苦しみを見つめて外に発信する事は辛いと思いましたが、伝えたいことが大きかったので覚悟を決めました。 8000文字近いと思います。 

冒頭部分

『普通になりたい。 私は今まだ溜め込んでいた感情をすべて吐露するかのように、嗚咽しながら泣きじゃくった。 「何かあった。」母は優しい声でしかし動じることもなく、私に尋ねた。  クラスの子が私のことを普通じゃないって、仲間はずれにする。  何で私は普通になれないんだろう。 「普通じゃないって個性的という事でしょ。 個性的な人って面白いから私としては少し羨ましいけどな。 でも仲間は外れは辛いね。」 母はいつだって優しい。 私はそんな母が大好きだ。』 

これは小学校低学年の頃です。 自分が属する集団の大多数が普通だと思い込んでいました。 私は会話が苦手で常に緊張して、話せなかった。  クラスの大多数の人について模索する。 ノートにどんな風に過ごしているか、どのように会話しているのか、などをメモして自分なりに整理していました。  答えが見つかるのではないかと思いましたが、間違った答えが見つかりました。 それを模することが社会で生きてゆく中で、正解だと勘違いしてしまいました。 

「高校生になり私が擬態することを覚えた。 そうすると友達のいなかった私の周りに一気に友達が増えた。 しかし、過剰に人に合わせるという事は、本当の自分を殺すという事。   気付くとその反動から心はからからに乾いてゆき、まるで壊れかけの機械のように私の心は空っぽになった。」 この部分です。 

他の人が笑ったら笑ったりとか、気に入られようとしていました。 相手中心で、きっとこうしてほしいんだろうなとか、そういうことを察して自分が動いていました。  自分の身体と心が離れてゆくような感じでした。  高校3年間その状態が続いて、その後は精神疾患でどうにもできなくなって休養した感じです。 クリニックに行って広汎性発達障害と診断されます。(20歳過ぎ)  生まれつきの脳の特性によるもので、コミュニケーションが苦手だったり、得意な事と不得意な事に大きな差が有ったりします。  私の場合は情報処理能力が低くて会話が苦手なんです。 

医師から「今までお疲れ様です。」と言われて、涙が止まらなくなりました。 今迄の辛かったことがバーッと流れ出るような感じでした。  気持ちが少しずつ楽になって行きました。  同級生が就職、結婚などのうわさを聞きましたが、引きこもったままで自分はこのままでいいのかなと思いました。    

一人の或る製作動画を見て、自身の内側にあるものを描き続けたいと思いました。  自分の描きたいものが形になったと思いました。  最初のものは点描画でした。  使っている色は明るいものです。  心の中はまだうつうつとしていましたが、描き出すと明るい色が自然に出てきました。  衝動のままに描く「アール・ブリュット」   私の絵は構図も独特で線にゆがみもあります。  生きる事、命を尊重することの表現が私にとっての「アール・ブリュット」だと思います。  

作家登録をして作品が採用されると、収入を得る事が出来る福祉団体を知る事ができました。登録をしていろいろな企業からオファーがありました。  社会とつながるきっかけになり感謝しています。  その後就職をサポートして頂き、今の基盤ができました。   フルリモート勤務で週4日で仕事をしていて、 大半は絵画制作に宛てています。  会話の苦手な私でもハードルの低いコミュニケーションだと感じています。 

体験記を書くことによって、かなり上質な自己整理になりました。 3日間で書き上げました。 支えられていたばかりだと思っていましたが、私も受賞を受けて私も誰かの役に立ってたらなと思う気持ちが強く芽生えました。 アートを通じたピアサポート同じ体験をした仲間(ピア)が相互に助け合 う(サポート)こと)を始めてみたいと思いました。  3月には講演、ワークショップ、原画展示などをさせていただくことになりました。   会話が苦手なのでその私が考えるコミュニケーションとはと言うところを、絵を通じて伝えていきたいというところのサポートを考えています。 今いる環境が本当にあっているのかと言う問いかけをして欲しい事と、自分を受け入れてくれる、理解してくれる環境が有れば、その人の個性や価値は180度変わりうるという事を伝えたくて、応募しました。   

体験記の結びの部分。

「これからも企画やイベントなど様々な人との出会いを通じ、多くの人と未来と言う大きなキャンバスに、可能性と言う色を塗り続けることで、誰もがそのままの自分で輝ける世界を創造してゆく、私の創作活動はそのためのちいさな一歩だ。」

柳田邦夫氏の選評の一部。

「人は自分の内面を表現できるようになると、人と交わえるようになり、自己肯定感を持てるようになるものです。  これからも自分をいろいろなかたりで表現するように、道を捜してくださいね。」

私は環境に悩んで環境に助けられてきたので、環境の大切さを今後も絵を通じて伝えていきたいと思います。

「声」  岸田さんの詩

曇る小瓶のコルクを外す  そっと広がる星の砂  どれも誰かの宝物

時々混じる水色を  声は風  今日も種をふるわせて






 









  








2026年1月17日土曜日

堀内正美(俳優)              ・阪神・淡路大震災 その後を支え続けて

堀内正美(俳優)              ・阪神・淡路大震災 その後を支え続けて 

まもなく阪神淡路大震災から31年、5時46分が発災の時刻です。 阪神淡路大震災の発災の直後から市民をささえる支援活動に奔走し続けた俳優の堀内正美さん(75歳)、震災後俳優を続けながら神戸で被災地を支援する「頑張ろう神戸」の活動を始め,NPO法人「阪神淡路大震災1.17希望の灯り」を設立して追悼行事も行い、犠牲者の遺族に寄り添う活動を続けて来ました。  堀内さんにこれまで語ってこなかった震災の時の経験や、当時を振り返って今何を思うのかを聞きました。

僕は東京生まれの東京育ちで、神戸に移住して11年目に阪神淡路大震災と遭遇しました。   いまだに当時の震災のことを語れない人がいます。  連れ合いを、親を、子供を、友人を亡くされた方それぞれに喪失と悲嘆ってそれぞれに違って、一概に何年経ったからもう忘れません?、生きている方が大事だから、みたいな話はなかなか経験できないという事を凄く感じます。   濃厚な日本の文化は関西から始まったんだろうなと思って移り住みました。 神戸は僕としてはぴったりな場所でした。 

六甲の北側に住んでいました。  床が真下からドンと突き上げられました。 身体が浮く感じで、そして床に落ちる感じです。  次の瞬間に地底から地鳴りがゴーッと迫って来て、家がバリバリバリと揺すられました。  横にいる息子に覆いかぶさるしかなかった。  洗面所に行こうと思ったら扉があかないんです。 運悪くモップが斜めになっていてあきませんでした。 (扉の周りには絶対棒は置かないようにして下さい。)  南を見たら煙が立っていました。(火災と思った。) 直ぐに車で飛び出しました。 スーパーの建物が倒れて道路をふさいでいました。 衝撃的でした。  倒壊している家から人を助け出そうとしている人たちを見出しました。 (当時2℃) 僕は車から降りる時に手袋マフラー、防寒着を着こんでいきましたが、 助け出そうとしている人たちの姿はほとんど素足で浴衣とか、ステテコとか、寝ていた状態からの姿で必死になって、助け出そうとしていました。

助けられた人もいましたが、梁が動かせなくてどうしても助け出せない少年がいて、火がどんどん回って来て、母親が泣き叫ぶのを引きはがして、そんな自分の無力さ、助けられなかったことに、目頭から目じり迄ナイヤガラのように涙が出て、そんなな経験は初めてしました。  自分の行為がそれでよかったのか棘のように刺さっています。(一緒に行かせてあげればよかったのかもとか思うとか)  

その場にうずくまっていたら「何ぼーっとしてんだ。 早く来い。」とその時に思い切りひっぱたかれた感覚、でもそこに希望が見えたんです。 自分でやらなければと言う気付きのきっかけになりました。 震災が火曜日で、僕がラジオのパーソナリティーの番組の金曜日でした。 その番組では安否の情報、電話のやりとりなどしていました。 人が足りないと思って木曜日の夕方早めに行きました。 局の人間から連絡が入って、「堀内さん 来ないでくれ。」と言われて、「局は全壊です。」 スタジオは4つあるが3つは潰れて、残った機材を持ち込んで1つはなんとかそこでやっているという事でした。 ただ余震がきていつ潰れるかもわからないから、来ないでくれと言う連絡でした。 でも局に向かいました。  

大丈夫そうだと思って中に入って行ったらぐしゃぐしゃでした。 余震が来ると壁から落ちてきました。  そんな中で手伝いましたが、内心は怖くてしょうがなかったです。 13階建ての2階の部屋でいつ崩れるか判らない状態でした。  トイレに行く振りをしてビルから出ました。  車に乗ってエンジンをかけたら、ラジオに今やっている仲間の声が聞こえるんです。 淡々とした声が聞こえてきていました。  そのまま車で帰る事は出来ましたが、戻りました。

電話を受けると混乱している人なのでなかなか切れない。  「頑張りましょう。」と言うと電話が切れるんです。 (同じ目線での言葉。) それまでは「大丈夫だからね。」と言った上から目線的な言葉だった。   「頑張ろう神戸」を立ち上げる。  神戸は150万人都市ですが、山側には半分近くが住んできまが、道路は壊れていなくて、スーパーとか店は全て開いていまいた。  避難所では冷たいおにぎりを1つを家族4人で分け合って食べている時に、スーパーに食べ物の確保をしています。  僕がポリ容器で水を運んでいたら、「頑張って下さい。」といってその人は車の洗車をしていたんです。 その人たちはいけないのではなくて、何をしていいのか判らないからそうなってしまう。  これを記録に残さないといけない。

東日本大震災の時にも同じようなことを繰り返している。 遠い地方からお湯を運んでいますとか、牛乳を、支援物資を運んでいますというようなことをメディアは発信していた。  失敗の記録をちゃんと伝えていたらそうはならなかったと思います。 お湯だったらすぐ近くから運べるでしょう。  隣町同士が協力する。 都市間協力とか。  それが日本の文化、「困った時にはお互い様」「向こう三軒両隣り」それが壊れてしまったから今みたいな時代になった。 それをもう一回再生するしかない。  広島では原爆のときには地域の協定が出来ていた。  腐るといけないということで焼きおにぎりがうすぐに届いた。 被爆して生き残った人は10日間食べるものに困らなかった。 そういう発想で助け合う仕組みを作らないと同じことを繰りかえす訳です。  

救急バックは被災者にそのバックが提供できれば、少なくともその方は2泊3日分ぐらいの食べ物飲み物を渡せるわけだから、他者の為のバックとして自分が預かっていると考えれば、おたがいに有効活用が出来るのではないか。  手紙、名前、男性、身長○○cmとか書いてあるバックを全国から、それを被災地に届ける。 東本日本大震災の時にはそれを実施しました。 実名付き合いをすると親戚付き合いのようになります。(リンゴ、サンマなどが届いたとか、私に連絡がありました。)  熊本の方が岩手に届けたバックで岩手の方と繋がって、今度は熊本の方が被災したんです。  今度は岩手の方がその方の支援を始めるんです。 支援を必要としてい居る人が何を必要としているかを知ることが大事です。  そのためには個人と個人が繋がることが大事です。 地域のインフラとして支え合う仕組みと言うのを作って行かないと、救える命が救えなくなる。 

喪失するという事は、自然災害だけではなくて、事件、事故、自死もあります。 残された家族の人たちが、涙を流せる場所がないので、プラットホームを作ると言いったら、私たちも行きたいといって、来てくれるようになりました。 今をどうやって生きているのか語り合うような関係が1月16日の夜に繰り広げられるようになりました。  12月31日が大晦日ですが、ここの地域の人たちは1月17日が終わるとやっと新年なんです。 1月16日は大晦日なんです。 そんな場になっています。  場があれば人は集まって来て、そこで何かが始まる。 社会って、困ったこと、苦しい事、しんどい事、困っているんだという事をまずいう事、今の社会は言えなくなってきている。  声を出すことがまず大事だと思います。  人を信じて弱いところを見せる、それしかないいじゃないかなあ。  手を差し伸べてくれる人は必ずいます。




















2026年1月16日金曜日

むらいさち(写真家)            ・世界中を“ゆるふわ”で撮る

 むらいさち(写真家)            ・世界中を“ゆるふわ”で撮る

千葉県の写真家むらいさちさんは明るく淡いパステル調の作風が特徴です。 陸上だけではなく水中で風景や生き物を撮影する方です。  写真なのにどこかメルヘンチックで絵画のような作風は“ゆるふわ”と呼ばれて、展覧会には毎回多くのファンが訪れます。 去年は念願だった南極での撮影を実現して、今年夏には大規模な写真展を控えています。 むらいさんに“ゆるふわ”写真の魅力や自分のスタイルを確立する迄の歩み、撮影に込める思いなどを伺いました。

沖縄でスキューバダイビングのガイドをしていて、カメラマンになりました。 手元には写真集があります。 全体的にふわっとした感じです。 “ゆるふわ”は自然と定着した感じです。   シャッターを押す時って、心が感動した時なんですね。  綺麗なもの、明るいものを見た時に心が反応します。  試行錯誤する中で作品が出来上がって来ました。  海のなかは明るい青が基調になっています。  見せたいところだけにピントを合わせて、あとはふわっとぼかすようにすると自分の思いも伝えやすいです。  ストロボを使っているので変に影が出ないような撮り方をしています。(黒が好きじゃあないんです。)  絵と思われるような写真を撮っています。  

かき氷とシロップの写真もカラフルです。  下が黒いテーブルですが、鏡みたいに反射してうえがリアルで下が非現実の世界と言う風に対比させることによって、ファンタジーな感じが出せます。  2025年は色々なところで展示会をやらせていただきました。  12月に新宿で南極での写真を展示して、ペンギンに沢山の人が喜んでもらえました。  

沖縄でスキューバダイビングのガイドをしていて、27歳の時にダイビングの雑誌社に入る事になりました。 水中写真はそこから勉強を始めました。  モノクロで撮っていました。   自由に撮りたいという思いがあって独立しました。  当時はリアルに、瞬間を写す、きっちり写す感じでしたが、違う路線で戦おうと思いました。 陸上ではふわっとした写真を撮り始めていたので、水中に取り込めないかなと思いました。  試行錯誤を重ねているうちにデジタル化になって、何枚も撮れるようになって個性が出せるようになりました。 ふわっとした明るい写真を撮るようになりました。  普通に撮ってくれと言う依頼と、ふわっとしたものとが半々になって来て、自分は“ゆるふわ”だけで行こうという時期があり、そちらに舵を振りました。 (40歳ぐらい)  

今や認められて、明るくふわっと撮る人も凄く増えてきました。  世界中の南の方、東南アジア、ハワイ、インド洋とかで海辺が多いです。  カメラを持つとカメラの目になるんで、身の回りのものも撮ったりもします。  日常でもいろいろ刺激があるので楽しいと思います。

子供のころから南極に憧れていました。  「南極物語」の霞の中からタロウとジロウが走ってくるシーンが今でも鮮明に覚えています。  50歳になって今ならいけると思って、行くことになりました。(2年ほどの準備期間)  アルゼンチンの一番南の街から南極へクルーズ船が出ています。 その街まで飛行機で2回乗り継いで2日かけて行き、そこから船で南極にいきました。  20日間のクルーズ船でいろいろな島を回りながら南極まで行きました。 南極ではクリオネにも出会いました。  

サウスジョージア島では一面ペンギンだらけでした。(衝撃を受ける。)  数頭のペンギンが居て、一番前のペンギンが海へ飛び込む瞬間の写真は一番思い入れがあります。  クルーズ船内でのフォトコンテストがあって、この写真を出したら1位になってしまいました。   僕の“ゆるふわ”写真をみてジャパニーズスタイルという名前を付けてくれて本当にうれしいです。  僕の目標は写真で人を幸せにすることなので、この写真を撮たらだれかが笑顔になってくれるのではないかという思いが根底にあって、今一番熱いのが水中写真です。  そこを追求していきたいと言う思いがあります。 水中は毎回環境が変わるので飽きないです。 































2026年1月15日木曜日

徳本修一(農業法人代表)          ・I AM A FARMER

徳本修一(農業法人代表)          ・I AM A FARMER 

徳本さんは50歳、鳥取市で110ヘクタール(東京ドーム24個分)の大規模な面積で米作りを行っています。  田植えを行わず、水を張った田に直接種を蒔く灌水直播や水を張らない田に、種を蒔く乾田直播、ドローンの活用など革新的な技術で低コストの米作りを成功させ、SNSで動画配信しています。 徳本さんは消防士、タレントのマネージャ―、歌手、ITベンチャー役員など遍歴し、2012年に故郷鳥取にUターンして、農業を始めました。

米の出来は全体的には悪くなかったんですが、後半で直接種の物が取れなくなってしまいました。  鳥が田んぼに蒔いた種を食べていくんです。  対策はしてきたんですが、想定していなかったようなことが起きてしまいました。  灌水直播の為の専用の機械はあります。 ドローンで種を蒔くアプローチもしています。  7割が灌水直播で3割が田直播です。 2019年から始めましたが、最初は田植えをしていました。  直蒔きには切り替えたいとは思っていました。  直蒔きの試験は繰り返していました。  倒伏しづらくて収量が多い品種を選ぶようにしています。 「虹のきらめき」、「しきゆたか」など。 「コシヒカリ」などは茎が細くて上に伸びる品種なので倒れやすいです。 110ヘクタールを2人で管理することになりました。 農地は全て借りています。 地権者は約200人です。 出荷先はJAと民間、半々ぐらいです。  

鳥取のJAは生産費払いと言う形で農家さんから米を引き取るというやり方に変えました。 (経費プラス儲け)  鳥取では1ヘクタール未満の耕作者は84%です。  面積が小さくなるほど生産原価は高くなる。  60kgで2万2000円です。  うちでは生産原価は60kgで1万円はきってくるぐらいにきています。  

ドローンで種を蒔く以外に肥料を撒いたり農薬を散布したりしています。 ドローンに衛星のデータを読み込ませて、地力マップ、稲の生育状況などをドローンに読みこませるという様な技術が進んできていて、葉っぱの緑が濃いほど肥料が効いていて、薄いとチッソが不足しているので、濃淡に合わせてドローンが勝手に調整してくれるんです。(必要な場所に必要なだけ肥料を撒く)  10~15%肥料代の節約になります。 トラクターの自動運転システムを使っています。  SNSで動画配信しています。  見る人は農業経営者が一番多いです。 

今年で7年目になります。  消防士を5年間やって、歌手になりたい夢があって東京に来ました。  オーディションをけてそこそこ行きますが、デビューまではたどり着けなかった。 芸能マネージャーをやって、それがデヴィ夫人でした。   海外にもいろんなところへ連れて行って貰えました。 いろいろの人と会う事によって、自分はいかに狭い世界で生きてきたのか、という事を学びました。 日本は本当に恵まれ国だという事も判り、挑戦しないと駄目だと思いました。  又音楽の道に入って行きました。  路上ライブもしましたし、いろいろ売り込みもしました。  いかにして足を止めてもらうかを考えました。 デビューは結果的には出来ませんでした。  結婚することになったので稼がないといけないと思いました。

IT産業で働きたいと思って、六本木の飲む場所でバイトをしながら経営者と仲良くなっていき、ある会社に参画しました。  営業からスタートして、成績がどんどん良くなっていきました。(ストリートライブなどで鍛えたことが幸い。)  最後には取締役になりました。   収入が何十倍にもなり一時家にも帰らずに毎日飲み歩いていました。  二人目の子が出来て、家事もいろいろやって調理の材料がいまいちだと感じて、鳥取の原風景を思い出して、人間の幸せとはああいう事なのではないかと思いました。 子供たちにそういった豊かさを味わってやりたいと思いました。  リーマンショックで会社も非常に大きな打撃も受けました。  これからは農業が重要になるのではないかと思いました。  

農業をやるなら最初から事業でやりたいと思いました。  有機農業は流通の全体の0,4%ぐらいです。   これを10%にしようと、これを大規模化を掲げてスタートしました。   最初はジャガイモなどの野菜の大規模化を始めました。  信じられないぐらいの失敗の連続でした。(3年続く 地域の信頼もなくす。)   全国の優秀な農家さんを渡り歩きました。得たものは農業は科学、と経営だというキーワードでした。   土壌分析をして土作りも科学的視点を持って、野菜に関しても科学的視点から見つめ直して、段々畠の様子が変わって来ました。   収穫量が変って来て、有機農産物も軌道に乗りました。  適時適作、その土地ににあった作物を選ばないと農業は成長していかない。  鳥取のエリアはほとんどが水田です。  水はけが悪い。 野菜の一番の天敵は湿害です。  米作りにシフトしていかなければいけないと思いました。 

2019年に米作りに転換しました。 最初は7ヘクタールからスタートしました。 失敗もありますが野菜より楽で、失敗も投資だと思います。  これからは大規模農業経営が求められて来ます。  リスクが有るが新しい生産性の高い技術を試しながら、水田技術も変化していかなければならない。   田んぼは信頼性がないと貸して頂けないので、野菜で失敗して大変でしたが、地域の方はちゃんと見てくれていると思います。  生産性の高い米作りをやってゆく必要があると思います。  2030年には1000ヘクタールを30人程度を考えています。  水路の管理が大変です。  土砂が溜まったり、イノシシなどが増えて畔を崩して水路が埋まったりします。  田んぼのインフラの維持をどうするかという事が非常に大きな問題としてあります。  少ないマンパワーでも維持できる方向にしていかなければならない。  3枚の田んぼを1枚にまとめ畔を少なくするとか、水路ではパイプラインで地下に埋めるとか、インフラをリフォームしていかないとコメの生産基盤の維持が難しくなっている。

農業は本当に素晴らしい仕事だと思うようになって来て、自分で作詞、作曲をして「I AM A FARMER」という曲を4年前に作りました。

*「I AM A FARMER」  詞、作曲、歌:徳本修一












2026年1月14日水曜日

綿矢りさ(小説家 第130回芥川賞受賞)    ・綿矢りさと語る 宇野千代の“底力”

綿矢りさ(小説家 第130回芥川賞受賞)    ・綿矢りさと語る 宇野千代の“底力”

 今年秋から放送開始予定の連続テレビ小説「ブラッサム」のヒロインのモデルが山口県岩国市出身の作家宇野千代さんです。 1897年生まれで、明治、大正、昭和、平成と98年に渡る生涯を波乱万丈に生き抜いた宇野千代、作家デビューは大正10年、芥川龍之介や菊池寛といった近代日本文学を築いた文豪と重なる時代です。 大ヒット小説で映画化もされた「おはん」を始め、85歳の時に書いた「生きてゆく私」は100万部のベストセラーになりました。  作家だけではなくファッション雑誌の編集やモデルに着物デザイナーとしても活躍しました。  そんな宇野千代の大ファンと言うのが、小説家の綿矢りさんです。  1984年京都府生まれの綿矢さんは、高校2年生で小説家デビュー、大学生で書いた「蹴りたい背中」は第130回芥川賞受賞を史上最年少で受賞、現在にいたるまで精力的に執筆活動を続けています。  宇野千代の生い立ち、考え方、宇野千代を取り巻く男性たちをテーマに話が弾みました。

宇野千代さんが書いている小説やエッセーに共感したというのもありますが、生き方見たいなものが、元気が出る生き方をされていて、若いときよりも歳を取ってきた頃の方が、どんどん明るくなっていって、入院などもあるが強調して書かず、125歳まで生きるというような不滅みたいな精神が好きです。 若い頃は借金、作った会社が倒産、離婚したりいろいろありましたが、テレビに出始めた頃から楽観的にさらに楽しくなっていかれたので、凄いな強いなと思います。  

父親は俊次と言う名前で作り酒屋の次男でお金はいっぱいあった。 放蕩、自由奔放ですさまじいタイプです。  母親のトモさんは2歳ぐらいで亡くなる。  後妻を貰うが若いリュウさんと言う人です。 その間に4男1女が出来て、その長女になる。 背中に弟、妹を背負って生きて来た。 雪の降る日に裸足で行かされたり、虐待のエピソードも残っている。     父親のことを恨むようなことは書いていない。  継母も優しい人だったようで、明るく成長したと思います。  

17歳で小学校の代用教員になるが、若い男性教師と恋に陥る。 免職処分となり相手の男性とも破局。 その後朝鮮京城へ行くがとんぼ返りで舞い戻り、元夫の弟・藤村忠と結婚。    北海道に渡り、書いた懸賞短編小説『脂粉の顔』が一等になる。 尾崎士郎が二等。 受賞のために東京に行くが、尾崎士郎と恋に落ち、北海道には帰らなかった。 1923年(大正12年)5月、尾崎士郎と結婚。 1936年にはファッション雑誌『スタイル』を創刊、題字は東郷青児が描き、のちに夫となる北原武夫とともに編集を務めた。  東郷青児に取材に行くが惚れてしまい、その日から結婚生活が始まる。  着物のデザインも始め、スタイル誌で紹介、販売もした。 人と話す時が一番おちゃらけた様な感じで、エッセイはもう少し真面目で、小説は暗いと言っていいほどの内容になっている。  3層も4層もある方だと思います。

「向こうが追いかけるのが嫌だと思うと、私は追いかけるのを辞めるの。 未練もあるし、追いかけたくても、それが恋愛の武士道やな」とインタビューで語っている。 

北原武夫さん、新聞記者だった北原さんは後に作家になる。 宇野千代が42歳の時に、10歳差で結婚して『スタイル』を創刊。 67歳の時に別れる。 『刺す』は北原さんとの時代のことを書いた小説です。  借金、倒産の苦労話も書いているが、一番の苦労は不倫をされていたという存在に気付きながらも、全然注意できなかったという事で、そのつらさを忘れるためのに新しい雑誌を作ったりするが売れなくて窮地に陥ってゆく。 不倫相手の写真を偶然見つけてしまう。(この部分の表現が面白い。 朗読する。)

「男性的なものを汲み取るという事は、私たちの様に物を書く人間には必要なんす。 ・・・付き合った人からいろんなものを吸い取る。  東郷青児からは色と形の配分、北原武夫からはフランス文学とはどういうものかという事を勉強しました。 ・・・でたらめな女のようにご覧になるでしょうが、ちゃんとでたらめではない自分の好きな、好きだと思う事でなければしなかったんですね。」  或るインタビューから。

1980年代からは女性向けの恋愛論・幸福論・長寿論などのエッセイを数多く書いた。

「・・・幸福のかけらはいくつでもある。 ただそれを見つけ出すことが上手な人と下手な人がある。  幸福とは人が生きてゆく力のもとだと私は思っている。 ・・・幸福も不幸もひょっとしたらその人自身が作るものではないか。 そして人の心にたちまち伝染するものではないのか。 自分にも他人にも幸福だけを伝染させて、生きて行こうと私は思う。幸福はたちまち伝染して次の幸福を生む、自然に生む。 これは誰でも自分の気持ちを自然に考えると思いあたることである。」












2026年1月13日火曜日

松枝崇弘(久留米絣工房 七代目)       ・着物の魅力を伝えたい ③

松枝崇弘(久留米絣工房 七代目・日本工芸会正会員) ・着物の魅力を伝えたい ③ 

松枝さんは1995年福岡県生まれ。 子供のころは工房が遊び場で、染めも織りも手伝いをしてましたが、大学卒業後は県外の企業に就職しました。  2020年父親の病気をきっかけに、故郷に戻り久留米絣に本格的に取り組むことになりました。 久留米絣は福岡県筑後地方に伝わる藍染めの綿織物です。 江戸時代後期に始まり、糸をくくり藍で染めたくくり糸を用いることで、模様を織り出していきます。 デザインを決めるところから、織って乾燥させるまで、およそ40の工程があり、ほとんどの工房で一貫して製作しています。 今回は福岡県久留米市にある松枝さんの工房にお邪魔して、40工程の中から藍染、絵糸書き,管巻き、手織りを実演して頂きました。 

染をやっています。 叩いて糸束全体を膨らませて染が均一になるようにします。  次に染めます。 又叩きます。 この作業を40から50回します。  薄いかめから行います。(均一に染める為)  1つのかめに400から500リッター入っています。 液体の元は木の灰に熱湯をかけてうわずみだけを取ったアク(アルカリ性の液体)に徳島産のすくも藍の葉を発酵、熟成させた染料)を入れて発酵させます。 藍がめの世話が色を綺麗に出すコツがあります。 発酵の状態を如何に管理できるか。  日本酒、水あめ、貝灰(貝を焼いた粉)などでアルカリ分の調整をします。 叩く時の力加減は音で記憶しています。 

すすぎ、藍をたてる時の水は全部地下水を使います。 しっかりすすぐことが大事になってきます。(色褪せしない。)  絵糸、(糸のキャンバスのようなものです。)を作っている作業。 絵糸自体も作る作業があります。   絵台?を用途に合わせて使っています。 30~6本の糸を一本の管に巻き取っていく工程があります。 巻いた管の糸を機織りにします。  2本人組になっていてを交互に上下させることで糸を間に挟んできます。  踏み替えを足でやっています。 7歳の頃の織り機をいじったことがあります。 

縦糸には模様が入っていて、そこにくくられた横糸が入ることで模様に深みがでます。 まずデザインして絵糸と言われるものに写して、糸の本数などを計算して、仕込みをして、糸をくくることでそこが白く残ります。 糸を染めて織って行きます。 日本三大絣の一つと言われています。(伊予絣、備後絣、久留米絣) 久留米絣の中でも模様の小さなものから大きなものまで分かれています。 

(工程などがよくわからないので多少違っているところがあるかもしれません。)

最終的には家業を継ぐから自由にしていいと父から言われて大学に行き、就職をして3年間務めてていました。  コロナ禍であったので、父と病室からビデオ通話でいろいろ指示して貰ったり判らないことを教えてもらいました。  不安はありました。  4か月間ぐらいの間にいろいろ教えてもらいました。  父が亡くなって母と共にやってきました。 2023年7月に豪雨災害で土砂が工房に入りました。(半壊 藍かめも泥が入る。 織り機も水没)    市とかから専門家、 友人知人が延べ100人以上来てくれました。  そういったかたがたのサポートで今ここまで来ました。   かめは4mぐらいの深さがあり、水をどんどん入れて反対側では掻きだして、中を綺麗に洗浄しました。  古い道具では150年近くのものもありましたが、綺麗に洗浄して使っています。  最初の2か月で工房の中の清掃は終わりました。  道具の入れ替えなどもあり6か月かかりました。  色々勉強させられた6か月間でした。 

地元の小学生3年生には藍染、6年生にはデザインから手織りまで教えています。 未来塾という未来のリーダー育成の授業がありますが、見学と体験を受け入れました。(中学生)   久留米市ではうち一軒になってしまっています。  他の市ではまだ残っています。           久留米絣は国の重要無形文化財に指定されています。 保存会があります。 光の表現をずっと追い求めてきていて、久留米絣は藍地に白の輝く絣で、その特徴を生かして自分なりの光を追い求めていきたい。  8年の研修を終えると重要無形文化財の技術保持者会の会員になります。  今研修生は僕一人になっています。 会員は30代ではいま3,4人がいます。 妻は子供たちが保育園に行っている間は手伝ってくれています。 

日本に限らず久留米絣を世界中に発信していけたらいいなあと思っています。  本当にいいものを作って行かないと、着る人、買って下さる方に思いが届かないと思うので、いいものを作り続けることが一番大事だと思います。  藍の美しさを如何に引き出すかという事もポイントかと思います。  日々の藍の管理、染の作業、藍にの力を目いっぱい引き出せるように、やって行くことが大事かと思います。  手仕事、天然の藍にこだわってやっていくことを大事にしています。






2026年1月12日月曜日

ふじいあきら(マジシャン)         ・〔師匠を語る〕 Mr.マリックを語る

 ふじいあきら(マジシャン)         ・〔師匠を語る〕 Mr.マリックを語る

トランプが口の中から滝のように出てくるマジックでおなじみのふじいあきらさん、全国的に名前が知られるよいうになる前は、マジック第一人者 Mr.マリックさんのアシスタントを務めていました。  Mr.マリックさんとふぃじいあきらさん、どんな関係だったんでしぃうか。

Mr.マリックさんのアシスタントを4年ちょっと務めていました。 裏方とかばん持ち的な事をしていました。 

Mr.マリックさんの本名は松尾 昭さん。 1949年岐阜市で3人兄弟の長男として生まれました。  中学時代手品の魅力に目覚めたMr.マリックさんさんは、高校生になると休みのたびに名古屋のデパートに通い、手品の実演販売を食い入る様に観て、商品の種類や使い方を覚えました。  高校卒業後一旦は就職しましたが半年で退社、昼はマジックショップで実演販売、夜はキャバレーのマジックショーに出て腕を磨きます。 

昭和41年21歳で手品の全国大会に出場、その場で世界的なマジシャンチャーリー・ミラーさんに見出されて、ハワイで開催された世界大会に出場し、見事日本人初のチャンピオンに輝きます。 しかし別の会場で行われていた豪華絢爛なマジックショーを目の当たりにして、スケールの違いにショックを受け、上京して独学で修業、1988年テレビ番組ではじめて披露したのが反響を呼んだのをきっかけに、民放のゴールデンタイムに次々とスペシャル番組が組まれていきます。 「来てます」、「ハンドパワー」の決めセリフと共にMr.マリックの超魔術は社会現象を巻き起こしました。 70代の後半に入ります。 テレビで有名になって40年近く、今もなお第一人者としてマジック界を牽引しているMr.マリックさんです。 

1989年のゴールデンタイムのスペシャル番組で、それを見た時に自分の知っているものは一つも出てこないんです。 衝撃でした。 21歳の時上京し、プログラマーとして会社に勤務しました。(子供のころからやっていたマジックからは離れる。)  入社2年目ぐらいの89年の番組を見て、マジックの事がよみがえって、本屋で専門書を買って一晩で読み切りました。  著者に会いに行き、いろいろと教わりました。  Dr.ZUMAと言う兄弟子と3年ぐらいのお付き合いがあり、 Mr.マリックさんと出会うことができました。   Mr.マリックさんと或るBS番組に出ることになりました。  接するにつけ凄い人だなと思いました。 

マジックの仕事がいろいろありましたが、全部断って事務所で働かせてもらうように交渉しました。   その後Mr.マリックさんのアシスタントとして活動するようになりました。(30歳)  当時の芸名は「元神」でした。  「人生と言うのは思い出作りだと、 いい思い出も悪い思い出も思い出には変わりはない。 玉入れのようなもので、思い出を作るかごがあってそこに皆玉を入れているはずなんだ。  最後に自分の仕事が終わって隠居した時に、みんなで話題を話しする時に、かごに入った玉を数えるわけだが、最後まで玉がある人が勝ちなんだ。」と言ったんです。  だから辛くても頑張らなくてはいけないと思いました。 後「褒められるところにいってはいけない。」と言われました。 (修行の時点で褒められるところにいては駄目。) 「チャンスが有ったら手を抜くな。」とも言われました。 (その時に一番いいと思われるものをやり切る。)  「マジックで飯を食うんじゃないんだよ。 マジックをするために飯を食うんだよ。」と言われました。 (マジックをするために稼ぐ。 マジックが中心)

2001年に事務所を辞めました。(仕事量が半端ではなく1か月ぐらいほとんど寝ないよう激務になっていた。)  辞めることに対してマリック言えなかった。  しばらくしてら Mr.マリックさんから急に番組のオファーがあり、吃驚しました。  番組の前に Mr.マリックさんとの挨拶をしようと思ったが挨拶なく、ぶっつけの本番となってしまいました。  対決マジックと言う内容でした。   Mr.マリックさんと同じ番組に出るというのは目標でした。   事務所を辞めるにあたっては不義理もあったので、和解出来ました。  時々番組には呼んででいただいたりします。  

 Mr.マリックさんへの手紙

「・・・できればマリックさんにこの番組を聞いて欲しくないなあという事でした。もう何年も経ってしまったのに一方的な気持ちを伝えるのは少し抵抗があるからです。 ・・・ Mr.マリックさんを認識した社会人2年目から36年経ちました。 そしてあの日間違いなく僕の人生は変わりました。 ・・・今でも本当に感謝しています。・・・ お世話になった時にショービジネスのパイオニアとして未開のマジック界を切り開いてゆく姿を見せていただいたことは、今でも僕の財産です。 ・・・何とかマジシャンとしてやっていけるようになりました。 お世話になっていたのに突然いなくなるような不義理をしてしまったのは今でも後悔しています。・・・天才 Mr.マリックから受け継いだ金言は今でも僕のマジックに対するプライドを作っています。  最後に一つだけお願いしたいのはそろそろ夢で僕にプレッシャーをかけるのを辞めてください。」 (涙をぬぐいながら読んでいただきました。)















2026年1月11日日曜日

大嶌徹(玉川大学学術研究所講師)      ・歴史・文化を学べばもっと音楽が楽しくなる

大嶌徹(玉川大学学術研究所講師)      ・歴史・文化を学べばもっと音楽が楽しくなる  ~なつかしの60年代クラシック・ロック~

音楽には私たちの暮らしを豊かにする力があります。  「歴史・文化を学べばもっと音楽が楽しくなる」と題して、音楽をより楽しむためのヒントをお伝えします。 大島さんの専門はポピュラー音楽研究です。 

私は日本の近現代音楽史に関心を持っていたので、大衆、民衆のための音楽の歴史をたどるという事をライフワークにしています。  音楽鑑賞はどういう風に形成されてきたのか、という事を掘り下げて研究しています。  音楽鑑賞の重要なポイントになったのは、レコードの普及があります。  大正から昭和初期にかけて、音楽産業に再編が起きます。 この時に洋楽のレコードが広まっていきます。  大学生層を中心にレコードで音楽を聴いて、音楽評論を読んで音楽鑑賞を趣味にする人たちが沢山あらわれます。  

音楽評論家の先がけとしては野村胡堂と言う人です。 (銭形平次捕物控』の作者として知られる。) レコード会社と音楽評論家との相互関係はこの時期に始まります。  戦後になるとLP(アルバム版)とEP(ドーナツ版 シングル版)が出来上がる。 「レコード芸術」「スイングジャアーナル」はLP版の鑑賞ようのものでクラシックとジャズを真面目に鑑賞したいという人向けの雑誌でした。  戦後にはクラシックだけではなくジャズ、ロック、南米の音楽などにも広がっていきます。インターネットの時代になって、音楽の語り方、場所など、大きく変わりました。 音楽雑誌は大きく影響を受けています。  

私の音楽の原点は1960年代のロックです。 (最近ではクラシックロックとい言われる。) ビートルズなどの音楽に夢中になって行きました。  

*「抱きしめたい」  ビートルズ 1963年発表。

世界的な名声を得る突破口になった曲。  イギリスの若者のバンドブームに火を付けた。  ロックの出発点になった。  アメリカなどの若い女性のアイドルだった。 日本での公演は1966年 日本武道館が会場。  日本でもグループサウンズが沢山出来る。  同時期にフォークが流行る。 ボブ・ディランなど。 フォークソング(民謡)は古い歌だけではなく、公民権運動、ベトナム反戦などの運動とつながって、古い歌を作り替えながら、現代にメッセージを届けて行こうという運動が60年代に凄く盛り上がりを見せます。  

1965,6年にロックとフォークはまじりあってゆく。  フォークソングの集会でわざわざボブ・ディランがエレキギターをもって、ロックバンドを引き連れて演奏を弾き始め、情勢が変わって来る。  政治的な運動とロックが結びついてゆく。 フォークの運動は衰退してゆく。 

*「ミスター・タンブリン・マン」 ボブ・ディランが作詞・作曲 1965年に発表した楽曲。歌:ザ・バーズ  ロックとフォークのミックスした曲

従来のようにメッセージを発して、政治変革を促そうというような運動から、既存の価値観に基づかない生き方をする、ドロップアウト、自分たちで新しいライフスタイルを提示していこうみたいな、動きが出始める。(ヒッピーとか)  

立川市で、「懐かしの60年代クラシックロック」講座を開きました。  参加者は70代が中心でした。  アナログレコードを持って行って鑑賞しました。  雑誌とかが重要な資料になります。  その時代の日本の熱狂的なファンが何でこの音楽をどういう文脈で楽しんでいたのかと言ったことが見えて来て、聞き手だけではなく、レコード会社の戦略とか含めて、総合的に捉えなおしてみたいというのが音楽研究者の関心でもあります。

60年代の後半はクラシックロックの本丸と言えます。  音楽が激変する。  

*「夢のカリフォルニア」 作詞、作曲ジョン・フィリップスミシェル・フィリップス    

音楽を愛し続けるという事は、一つの人間の価値であったり思想であると僕は思っていて、末永く音楽を楽しんでいただくというのが、とても大事な事だと思います。

















2026年1月10日土曜日

溝井裕一(関西大学教授)          ・変わる動物園~その歴史と役割~

 溝井裕一(関西大学教授)          ・変わる動物園~その歴史と役割~

溝井さんは世界の動物園を訪ね、その歴史と人間の動物館の変遷を研究しています。 動物園は家族で楽しむ娯楽の場、子供の教育、自然や命の大切さや理解を深める場ですが、近年の動物園の役割はそれだけではありません。 動物園はその誕生から今日まで、時代と共に姿も役割も変えてきました。 そして今も変わっています。  溝井さんは人は動物たちといかに向き合うべきか、まさに今ホットなテーマだといいます。 どういう事なのか、動物園の歴史を踏まえてお話を伺います。

子供のころから動物には興味はありました。  昔話には動物が良く出て来て、人と動物の関係が大事なことに気が付いて、授業のネタにも取り上げていました。  或る時に動物園の本を見て動物園の研究をしてみようと思いました。  動物園のデザインがどう変化してきたか、調べたりするとその時代時代に人間が動物のことをどう思っていたか、と言う事が判って来て、広い意味の文化史で、私は文化史をやっていてその範疇に入って来る。

メソポタミア文明は紀元前3000~4000年に成立しましたが、いろんな国が成立してゆく過程で、王様たちが珍しい動物、危険な動物とかを飼育するという事を始めました。   これが動物園の最初のきっかけです。 (冨と権力を示す。)  中世のヨーロッパでは同じような動機から皇帝、王様が動物を集めていました。  昔イギリスのロンドン島では動物を飼うスペースがあって、象、ライオンなどを飼育していました。  一般の人もそこに行けば見ることが出来た。(13~19世紀まで)   フランスのパリにあるジャルダンプラントという施設がありますが、もともとは植物園でした。 そこに動物が合流して動物園としても機能するようになりました。  ルイ14世も動物コレクションを持っていましたが、ベルサイユ宮殿にありました。 フランス革命が起きて、動物コレクションを解体しましょうと言う事になりました。  ジャルダンプラントという施設に動物を持っていきました。(世界で最初の動物園 zoological garden=動物学園) 「動物園」と最初に翻訳したのが福沢諭吉です。  フランスは他国と戦って他国の動物コレクションから珍しい動物を持ってきて飼育して、国としての力の象徴になったわけです。

日本で最初に出来た動物園は上野動物園です。(1882年)  ジャルダンプラントをモデルに作られました。  ヒグマほか地味な動物しかいなかった 。 外国からキリン、象などを購入して行くうちに段々と充実してゆく。 2番目が京都市動物園、3番目が大阪の天王寺動物園、段々日本中にできてくる。  いかに集客するか、面白いという事が重要となる。 動物に芸をさせる、遊園地を併設する。(娯楽路線)   本来の動物園は自然な動物の姿を見せる場所であるべきだとの批判が出てくる。   元々は動物を狭い檻に入れるという事が主流だったが、これに変化を持たせたいという事が現れます。 ドイツのハーゲンベック動物園の経営者は、動物は狭い檻の中で飼っているよりも広い空間で駆け回っているのを見た方が楽しいはずだろうし、動物にもいいだろうと考えて、20世紀の初頭(1907年)にオリジナルな動物園を開いた。  パノラマ展示、広くて檻がないが動物には越えられない堀が掘ってある。(新しい展示の幕開け)   種別に分けてほうががいいのではないかと言う様な批判もあり、新しい展示方法として、動物地理学的展示が考え出されます。 (多摩動物園などがこの展示方法)  その後いろいろな方法が考えられて車を利用したサファリパークがあります。(1950年代)  ランドスケープイマージョン展示、地形、岩、植物など徹底的にリアルに再現する。 その中に動物を入れるとその動物の振舞が非常に自然になる。 お客さんの側にも同様な景色になっているが、その間には堀があるが判らないようになっている。 動物たちの中に迷い込んだような錯覚になる。  

デズニーワールドのアニマルキングダム(20世紀終わりに作られる。) サファリパークの様になっていて車で探検が出来る。  ストーリーと組み合わせて動物を見る体験を提供している。(テーマパーク的な動物園)  いろいろコンビネーションを組むという事もやっていいます。  アメリカでは古くから存在している雄大な景色が誇りであると感じると云う様になって、出来るだけアメリカの景観を保護しようとか、動物園でも絶滅しかけている様な、ヨーロッパバイソンとかを繁殖して育てるというふうなことも取り組んできました。  動物を輸入に頼らないで,動物園で飼っている動物は自分たちで繁殖させるよいうなシステム作りをて推し進めてきています。  日本の動物園もこの流れに従ったいます。  娯楽のほかにも教育、研究、保全活動の大切さ、をしっかり伝えてゆく事が動物園には求められています。  地元の自然環境が再現されていて、地元の動物を見てもらうという取り組みも見られます。 

























2026年1月9日金曜日

相澤一成(名取リーディングクラブ代表・俳優)・〔人生のみちしるべ 〕 故郷に捧げる朗読劇(初回:2017/3/13)

相澤一成(名取リーディングクラブ代表・俳優)・〔人生のみちしるべ 〕 故郷に捧げる朗読劇  初回:2017/3/13)

https://www.blogger.com/u/1/blog/post/edit/6603486548892984106/8615937970070268967をご覧ください。

2026年1月8日木曜日

田海哲也(新潟県立海洋高校 相撲部総監督)  ・横綱・大の里の原点を語る

田海哲也(新潟県立海洋高校 相撲部総監督)  ・横綱・大の里の原点を語る 

幕下付け出しからわずか13場所で横綱迄スピード出世した横綱・大の里関は3場所連続の優勝がかかった去年納めの九州場所千秋楽を左肩のけがのため優勝争いをしながら休場しなければなりませんでした。  久しぶりの日本出身の大型の横綱として期待のかかる大の里関ですが、石川県出身ながら中学校、高校と相撲の強化のため新潟県で過ごしました。 新潟県立海洋高校 相撲部総監督を務める田海哲也さんと妻の悦子さんが親代わりとなり、糸魚川市の旅館を寮にして公私両面に渡って指導し、支えてきました。 田海さんは1960年新潟県糸魚川市の出身で65歳、高校から相撲を始め、能水産高校から日本体育大学に進み、奥さんの悦子さんの実家の旅館を継ぎながら、相撲の新潟県チームの監督を務め、旅館を相撲部の合宿所にして強化を図って来ました。 これまで角界に11人の人材を送り出してきました。    その中のに横綱大の里関(中村 泰輝)との出会いがありました。  田海さんにとって相撲との関りや横綱大の里関との出会い、その原点について聞きました。

安青錦との対戦で負傷した様です。  琴桜戦は力がでなかった様です。  横綱と言う地位ですが、正しい判断だったと思います。  幕下付け出しからわずか13場所で横綱迄スピード出世。   デビューの時には怪我をせずに一つ一つ積み上げていって欲しいと思っていました。    初土俵から7場所で幕内優勝、史上最速で横綱になる。 5回優勝。   優勝して大関になった時に優勝者のラッピング電車を走らせようとか、イベントもあり大変な騒ぎで私も感動しました。  高校ではキャプテンとしてしっかりまとめて、大学でも進化をして頑張り、プロにはいってもデビューから見ていても、成長、進化して堂々としていて、横綱になると責任もあり思っていた以上に制約もあると思いますが、日本中から愛される横綱になって貰えればと思います。

私は高校2年生から相撲を始めました。 野球が好きでずっと野球をやっていて相撲を薦められて両立しました。  相撲は個人競技ですが、野球をやっていたおかげで、相撲でのチームワークとかチームを纏めるとか、指導するうえで野球を生かせられました。  日本体育大学に進み学校の先生になろうと思っていました。  相撲部に入りましたが、監督からマネージャーをやるように言われました。  2年生で後輩に教えるのですがなかなか聞く耳を持たず、レギュラーからは聞いていました。 矢張り強くならないと駄目なんだと思って、3年生では準レギュラーになり4年生ではレギュラーになりました。 マネージャーからレギュラーになったのは日体大創部以来私だけです。  マネージャーの仕事は指導者になってから生かされました。  

1983年に日体大を卒業、高校の教員になって相撲の指導も始める。 9年間相撲部の指導をしていました。  結婚を機に相撲から離れることにしました。 教員も辞めて妻の実家の家業を継ぐことにしていました。  カニ漁、カニの船の運営、カニ販売、旅館の経営となりました。 こちらの経験も勉強になり今に繋がっています。  2009年に新潟国体があるので協力してほしいとの要請がありました。  中学、高校の一環強化が行われました。(1年間分の時間の寸断がなくなる。)  12歳から18歳と言うと体力差、技術力等で差があるので段階枝的な指導方法を取って、これが凄く効果がありました。 

レギュラーになれない子について気を使ってフォローしています。(野球からの経験) 1年間のうちで全国で3位以内に入らなかったら指導者を辞める、入ったら翌年もやると、宣言しました。 (子供たちも本気度を受けて入れてくれました。)  大の里は皆の刺激になっています。  子供たちを指導するうえでは、 正しいことを継続する。(しこを踏むのにも正しい方法でなど)  

中村 泰輝君は小学校5年生の時に練習会に来ました。  6年生の時に高校の全国大会が金澤であり、一番前で見ていました。  その時に海洋高校全国優勝しました。 そして自分で決めて私のところに来ることになりました。  小学6年生で「何かを犠牲にしないと強くはなれない。」と言っていたそうです。  中学、高校、大学、二所ノ関親方のところ、全て自分で決めました。  身長体重に恵まれていて、いまは192cm、190kgぐらいで、均整がとれていて下半身にしっかり筋肉が付いている。  今後は怪我に注意をしてしっかりした体つくりをしてくれると思います。 

「中学、高校の厳しい6年間があったからこそ今の自分がある。」と言っていますが有難いです。 朝6時に起きて11時に寝るまで相撲浸けでした。  強くしたいという思いもありますが、その前に人間的にも成長する段階でもあるので、しっかりと根を張って卒業すればいつかはその根っこが花を咲かせてくれるだろうというのが、私の信条でもあるかもしれない。   なんと表現していいのか、感動、幸福感が私の中にずーっと続いているんです。  教え子から幸せを与えてもらっています。  前市長が中心になって、個人ではなく街出身の力士を応援する後援会を立ち上げました。







































2026年1月6日火曜日

藤井フミヤ(シンガーソングライター)   ・〔深夜便アーカイブス〕 【芸の道 輝きつづけて アンコール】

 藤井フミヤ(シンガーソングライター)   ・〔深夜便アーカイブス〕 【芸の道 輝きつづけて アンコール】

藤井フミヤさんは1962年福岡県久留米市出身。 高校2年の時にチェッカーズを結成、1983年チェッカーズのリードボーカルとしてデビュー。 数々のヒット曲をだしますが、1992年に解散、翌93年ソロ活動を開始します。 以後、ミリオンセラーとなったTRUE LOVE」「Another Orion」などが」幅広い世代から親しまれてきました。 弟の藤井尚之さんとF-BLOODとしても活動を続けています。 歌だけ出なくデザイン、プロデュースとかの方面に活動を続ける藤井フミヤさんに伺いました。

深夜便、「「手のなる方へ」 作詞:河口京吾・藤井フミヤ(共作)、作曲:河口京吾

バンドによる生演奏で、今時録音の仕方としては少なく、優しい音になっていると思います。初めてバンドを結成したのが中学1年の時でした。(文化祭用 ロックンロール、 キャロル) 高校1年の時に軽音楽部に入りました。 チェッカーズを組んだのは高校2年でした。 シャネルズの子供版と言った感じでした。 ジュニア部門グランプリを頂きました。 東京に住んでみたいという様な憧れがありました。  21歳で7人で東京に行きました。 チェックの衣装を着ることによってアイドルになったんでしょうね。 

31枚シングルを出して全てトップテン入り。(10年の活動)  1992年12月31日の紅白歌合戦を最後に解散しました。  生きてゆく方向性の違いがあり「チェッカーズ」としてのまとまりがなくなって来ました。 完全にフリーとなり模索しているような感じでした。1993年から音楽活動と並行し、時代に先駆けてパソコンで制作したCG画を発表したり、 FUMIYARTフミヤート)」名称で個展を開催したりしました。  元々美術は好きでした。 テレビドラマの主題歌を歌わないかとオファーがあって、レコーディングしてTRUE LOVE』がヒットしました。 アルバムも作ることになりました。  ツアーもやることになりソロ活動になって行きました。  曲を作って詩を書いてゆくパターンですね。  文字に対する好奇心が無いとすらすらとは書けません。(読書など)  ミック・ジャガーポール・マッカートニーらはロック、ポップスでは地球上で一番上なので、二人がどういうふうになって行くかという事をみんな見ていると思います。  ステージをやっていないと逆に直ぐに老人になってしまうんじゃないですか。  私も58歳になりました。  健康であればいつまでも歌うんだなと思いました。  

オンラインライブの手ごたえは、テレビ番組のスタジオに似ています。(お客さんがいない。)  コメントをいれてもらう事によって盛り上がりました。  同じ時間を共有しているという感覚はあります。  2014年にオーケストラとの共演を行いました。  NHKで坂本九さんの「見上げてごらん夜の星を」をフルオーケストラで歌ったのが初めてです。 リハーサルも1,2回です。  不安しかないです。  バンドとは全然違います。 

*「君が僕を想う夜」 作詞:小竹正人,作曲:遠藤慎吾  歌:藤井フミヤ (フルオーケストラをバックに歌う。)












 







コージー冨田(ものまね芸人)        ・絶望しちゃいけない

コージー冨田(ものまね芸人)        ・絶望しちゃいけない 

コージー冨田さんは1967年愛知県出身。 高校卒業後、地元の自動車工場で勤務したあと上京し、物まね芸人として活動を始めます。 タモリさん、笑福亭鶴瓶さんなどの物まねで人気を博し、様々なバラエティー番組やイベントなどで活躍しています。 

12月半ばに芸能生活35周年で2時間の予定でしたが、笑福亭鶴瓶師匠が来てくれて、盛り上げていただいて結局3時間になりました。 1990年に東京に出て来て35年という事になります。 『笑っていいとも!』の夏休み期間に行われた企画「真夏のそっくり当てまショー」でタモリの前でタモリの物真似を披露。(23歳)  豊田市の自動車系の工場で働いていました。  東京でショーパブで日楽しいものマネが出来る、とそれだけで来ました。 

1994年ごろに糖尿病(数値が280)になってしまいました。 症状は何にもないわけです。(喉が渇く程度。) 放置しておいたら、体重が113kgあったのが、どんどん減っていきました。 (80kg)  お酒もどんどん飲んでいました。  目が悪くなってきて白内障もあったので一回手術をしたら一瞬見えましたが、すぐ悪くなっていきました。 現在はレジのビニール袋を被っている感じです。 白いなかに人がいると言った感じです。 ステージではリハーサルで確認しているので把握しています。 音には集中力が強くなりました。  目が悪くなった時にはもう終わりだと思いました。  透析もやるし、安楽死ってどうやってやるんだろうかとか、考えました。

看護師さんから、インシュリンを最初に打ったとこはどうでしたかと問われて、「厭だった。」と言ったら、最近はどうですかと言われて「何とも思わない。」と言ったら、「透析も同じです。 これが普通のライフスタイルになります。」と言われました。 「透析している間は映画は見放題です。」とも言われました。 ポジティブに言ってくれて、それが救われました。   受けたり拍手を貰ったりすると、ここが自分の生きている場所だなと言う感じがしました。  去年目が見えなくなってきていることを公表しました。   ステージをやる時に目も悪かったり、腎臓が悪かったり、糖尿病で苦しんでいる人がいっぱいいるわけですが、そんな中で「絶望しちゃあいけないよ。」と講演会みたいなことをやったらどうかと言ってくれた人がいて、「せっかく病気になったのだから、それを使ってなんかできることがあるんじゃない。」と言われてなるほどと思いました。  今はステージに出るだけで嬉しい、有難いです。 

若手芸人を育てるためにいろいろと指導をしています。  自分では気付かない可能性をアドバイスしてあげる。(新ネタの作り方など)  若手に言ったことがテレビなどに出て受けると、自分がやったのと同じ感じになるんです。  ショーパブで受けても、外に出ると何もできない自分に気付くんです。  お膳立てが出来ているところと、何にも知らない所でワーッと盛り上がっているところを浮かせて治めてこちらを向かせて、大変なんです。  歌を歌う前のおしゃべりが大事で、なんで歌うのかの理由付けが大事です。 

家の中は慣れているので大丈夫です。  そもそも自分を出したいのであれば、物真似芸人になってはいけないですね。  僕は物真似が大好きなので、物真似を追求したいです。 武田鉄矢さんと西田敏行さんは大好きです。  今後、物真似のステージをやらせて頂ければ、それだけで、特に大きな夢という事は無いです。  これがどんなにありがたいことかと言う事が判る様で判らないんですよ。 こんな素晴らしいことがあるんだという事が病気になって判りました。














2026年1月5日月曜日

河合純一(スポーツ庁長官)         ・スポーツ庁長官への挑戦

 河合純一(スポーツ庁長官)         ・スポーツ庁長官への挑戦

河合純一さんは静岡県生まれ。(50歳)  幼いころから目が見えずらく15歳の時に見えていた方の目も見えなくなって全盲になりました。  しかし好きだった水泳と教師になる夢は諦めませんでした。 河合さんは1992年17歳の時に開催されたバルセロナパラリンピックから、2012年のロンドンパラリンピックまで6大会連続出場、金メダル5つを含む21個のメダルを獲得し、日本初のパラリンピック殿堂入りを果たしました。 2020年からは日本パラリンピック委員会の委員長を務めて、2025年10月にスポーツ庁長官に就任しました。  夢を持つことは人生を豊かにし、前に進むための力となる、人生は学びの連続であると語る河合さんにこれまでの歩みとスポーツ庁長官への意気込みを伺いました。

11月にデフリンピックが開催されて、28万人もの方にお越しいただきました。 2020年には東京オリンピックパラリンピックがコロナ禍で1年延長して且つ無観客でやりました。 直接生で観たいという思いはあったと思います。  人こそレガシー(次の世代に受け継がれる価値あるもの、功績、遺産)だと思っています。  単なるスポーツのイベントと言うだけではなくて、生活とか生き甲斐にも寄与するようなものになってきてるのではないかと思います。 

小さいころは弱視で或る程度は見えていて、身体を動かすのが好きな子でした。 5歳のころからスイミングスクールに通いだして、空手、ソフトボールなどもしていました。 中学3年の時に見えていた右目が0.1だったのが見えなくなりました。(15歳で全盲)  どうする事も出来ないことは理解しながら、何故自分だけなのかなどいう事、自暴自棄はゼロではありませんでした。  恩師、家族、友人たちが見えるか見えないかではなくて、河合純一として受け止めているというのが、一番の安心感だった気がします。  小学校4年生から教師になりたいという夢は持っていました。  水泳など好きなことをやるというのは続けていました。 

筑波大学附属盲学校高等部に進みました。 1学年20人ぐらいいました。 半分ぐらいは大学に行くような状況でした。  寮生活でした。 1992年バルセロナパラリンピックに高校2年生で出場、銀メダルを2枚、銅メダルを3枚獲得した。  続けてゆく事は今と当時では条件が全然違っていました。(自分で働いて遠征費を出すとか当時は普通だった。)  1996年アトランタパラリンピック(50m自由形B1、100m自由形B1で初の金メダルを2枚と銀メダルと銅メダルを1枚ずつ獲得)2000年シドニーパラリンピック(金メダル2枚、銀メダル3枚は特に印象的でした。 金メダルが教えてくれたものは、自分の努力とか喜び以上に、支えてくれた人への感謝の気持ちなんです。  世界一になるためにはいろんな人たちの世界一のサポートであって、世界一になれんだという事に、気付かせてくれました。 シドニーは教師をしながら行かせてもらったので、子供たちに夢をという思いで向かったのは懐かしいです。みんなのためにと思うとより頑張れる気がします。

成功体験は自分の体調などいろんなものと社会的な要因とかいろいろマッチして、上手くいっていることが多いんです。  そこをうまく組み合わせてきたことが続いたという事かと思います。  6回の大会全て自分の所属が違います。 そのなかでの自分のベストを尽くすという事に歓び、面白さを感じながらやっていました。  安定はアスリートにとっては停滞なんですね。  不安定の方がチャレンジがしやすい、新たな気付き、イノベーションも生まれる。ピンチこそ絶好のチャンスなんです。  人生に無駄だったという事は何一つ無いですね。 

公立の中学校の社会科の先生になりました。(生徒たちは見える。)  大学の時には教育哲学が専攻で、人ってなんで学ばなければいけないの、教育って何なのか、と言ったことを考えさせられました。  困った時の羅針盤にはなりました。  カセットに自己紹介を録音してもらい、声と座席表を組み合わせて授業をしていました。  教育は子供の成長を保証するものだと思っています。  そのための導き、情報提供の時には立ち止まらせて考えさせるきっかけを提供出来るかという事だと思います。   基本的な事としては時間を守りましょう、挨拶をしましょう、約束をしっかり守ろう、という事をよく言っていました。  あとは自発的に考えて行動して貰いと言う事を主にしていました。偶然ですが、教え子がスポーツ省にいるんです。 

中学3年生の時の自分で決めるという自己選択、自己決定と言うのが凄く重要なんだという事と思っています。  決めて不合格だった時、決めた責任は自分で負うという、人生の最初の経験になるわけです。  他人転嫁するような人生を歩み始めると、その先も苦労するるんですね。  その年齢なりの結論、決定を詰み上げていかなければならない。 それが正しいか、正しくないかではなくて、その年齢のその時までに正しい自分に出来うる決定が出来るように育っていることが重要なわけです。 それが教育だと思います。  大なり小なり、人生は選択の連続だと思います。 

夢と言うのは自分のキーワードになっていて、それに向かってゆくエネルギーみたいなものです。  夢は人生におけるビジョンなんです。  イメージできるビジョン。 一生懸命になれるものに出会えることに価値があるわけです。  ミラノ・コルティナオリンピックパラリンピック、アジアパラ大会とか大きな大会もあり、これをサポートしてゆく事も大きな役割ですが、昨年改正されたスポーツ基本法があって、人種、性別、年齢、障害の有無を越えてスポーツを楽しんでもらえるように、豊かな人生を歩めるようにという事を大きな理念にして、改正されているわけですが、誰もが自分らしく生きられる社会をスポーツを通じて実現してゆくという事が、私たちに課されていると思っているので、多くの皆さんと力を合わせて行かなくてはならない。 





































2026年1月4日日曜日

伍代夏子(歌手)             ・「一枚の写真」へ託す思い

 伍代夏子(歌手)             ・「一枚の写真」へ託す思い

先月、今月の深夜便の歌「一枚の写真」を歌う歌手の伍代夏子さんです。  伍代さんと言えば演歌、主人公を豊かな感情表現と共に演じられる姿が印象的ですが、 「一枚の写真」では感情を抑え、誰にでもある懐かしい思い出、そして今を生きる幸せをお聞きいただくみなさんと分かちあえたら、そんな思いを込めて歌われたそうです。 歌手生命にかかわる病、大切な人たちとの別れを経験した、そしてたどり着く新たな世界。

東京都渋谷区代々木出身。 高校1年の春、歌手デビューのきっかけが欲しい一心で、街頭で名刺を配っていたスカウトマンの前を30回ほど行ったり来たりして名刺を貰いました。  1982年、「星ひろみ」として歌手デビューしました。 デビューから4ヶ月後に突然事務所が倒産しました。 レコード会社でOLとして裏方の仕事を経験しました。 

*「戻り川」 作曲:市川 昭介 作詞:吉岡 治  昭和62年「伍代夏子」としての歌

「伍代夏子」としては今年40周年。 

演歌は情念、恨みとか経験が無くても演じて歌うのが演歌だと思いますが、「一枚の写真」は経験が無くてもあれに似ているとか、皆さんの気持に寄り添える、ノンフィクションを作りたかった。 この曲自体が懐かしい思いを思い出させてくれるという様な事を言って頂いたりして、その時にはやったと思いました。 

5年前に喉の具合が悪くなって、歌手を辞める様かなと思いながらのお医者さん捜しでした。原因が判らないんですが、開き直って行くしかないと思いました。  写真に趣味を向けて行きました。  犬を飼って世話をするのも良かったと思います。 その後保護犬活動を始めました。  譲渡先の期限があり、引き取り手が無いと処分という事になります。(廃止された地域もある。)  野犬なので人慣れしていないので、人慣れ訓練をしてから譲渡センターに移って一般の方たちとの接見があり、送り出すという一連の作業があります。 ペット災害危機管理士を取りました。  同室避難を認めてくださいと言う運動をしています。 愛を知らない保護犬の目を見てほしいと思って写真を撮りました。 人に向かって恐怖心がある。

母は認知症を患って、寝たきりになり介護も家族でしていました。  母が亡くなってから父もすぐにあっけなく逝ってしまいました。  私が慕っていた八代亜紀さんが急逝されてしまいました。  この2,3年で命の儚さを感じました。 八代さんからは怒らない事、目線が下のかたで、真似しようと思っています。  「命の砂時計」は3人を亡くした後に、命を歌いたいとディレクターと話をして、3人に胸を張って会えるように、と言う思いがありました。

「命の砂時計」 作詞:田久保真見 作曲:林 哲司 歌:伍代夏子

被災されたところへの炊き出しは夫と共に早くいくように心がけていますが、相手先の状況を鑑みて行くタイミングを測っています。  みんな親戚、みんな兄弟だと思えば助け合うのは当然だと思います。 

「一枚の写真」、この歌を聞いて思い出していただいて、それは今あなたが幸せであるという事を認識する歌として、寄り添える歌として届けたいと思っていますので、そんな思いで聞いていただけると嬉しいと思います。






2026年1月3日土曜日

石原康司(神戸弘陵学園高校 女子硬式野球部監督)・女子硬式野球、日本一に

 石原康司(神戸弘陵学園高校 女子硬式野球部監督)・女子硬式野球、日本一に

神戸弘陵学園高校は2024年の秋、企業などのクラブチーム、大学、高校の女子硬式野球部の日本一を決める第20回全日本女子硬式野球選手権大会で初めて優勝しました。 その時の試合の様子、ゼロから始めたチームつくりについて伺います。

レベルの高いチームが来ているのでまさか勝てるとは思わなかった。  3年前には準優勝したので、いつかはこのタイトルは取りたいとは思っていました。  上位28チームが出場出来ることが出来ます。 硬式では全国で女子では70校近く、大学は15,6校、社会人チーム、クラブチームでは凄く増えています。 年々増えていますが、あまり知られていないのが現状で、ワールドカップで優勝7連覇されていても、あまり知られていないです。 女子はソフトボールを主体とする子が多かったです。  本校ではできて11年目ですが、1年目は30校ぐらいでしたが、10年で倍になっています。  3年前に甲子園でやるようになってから、やる子が多くなってきました。 

第20回の大会では決勝が巨人軍女子チームとの対戦でした。  巨人の清水選手などは125~130キロ投げるピッチャーなので、高校ではそんな球を投げるピッチャーはいないです。 憧れて試合をやっては駄目だと伝えました。 (大谷選手と一緒です。) 一回戦はクラブチームの埼玉の侍を下して、2回戦は阪神タイガースをタイブレークの末に下し、3回戦も勝ち、決勝が巨人でした。 必ず上がって来るだろうとは思っていました。 結果は7-0と圧勝でした。

7回に1点取れるまでは0-0でシーソーゲームでした。  初回に2ベースヒットを打たれて1アウトサードと言うところでキャッチャーが牽制球を投げてアウトにして、0点に抑えることが出来たのでそれが大きかったです。 清水選手は速いので、目を慣れさせるために、甘い球は必ず打ちなさいと指示しました。  清水さんがアウトの取り方が思うようにいかなくなったよです。 うちの伊藤は緩急で打たせて取るピッチングで0-0で6回までいきました。  ランナー1塁でショートゴロを打ってイレギュラーをして、はじいてしまってランナーは3塁まで行きました。 1,3塁になって迷わずスクイズをやり1点を取りました。  6回裏は0点に抑えて7回でピッチャーが変りました。  打ち崩すことが出来て6点を取ることが出来ました。  7回裏は攻めが淡白になって熱気が伝わって来ませんでした。  チームが一丸となることを大事にしてきました。 守りの野球をしてきました。 

大阪体育大学卒業後、1984年に神戸弘陵高に赴任。男子の野球部コーチを務めた後に、93年から監督に就任。 コーチとして3回(夏1回、春2回)、監督としては春2度の甲子園大会出場を果たし、1994年には8強に導いた。 2014年、神戸弘陵学園高等学校が男子校から男女共学となり、創部された女子硬式野球部の監督に就きました。  選手の発掘から始めて、7月頃ではまだ10人いっていませんでした。 全国駆け回って31名集めました。  

3,4年目でようやくやれるような状況になりました。  目標は3年で全国優勝でした。  それが実現しました。  厳しく指導したこともあり2年目で故障者が結構出てしまって、女子のコーチにトレーニング、コンディションなど任せるようにしました。  人間形成を一番に考えてやっていました。  人数が多いので野球ノートを使って伝えたり、且つ会話をしたりしました。2016年夏の選手権大会で初優勝することが出来ました。  春の選抜大会も18、19年、23年に優勝しました。  特に2022年の秋のユース大会から翌23年の春夏の全国大会で優勝し、女子高校硬式野球史上初の「年間三冠」を達成しました。

年々女子野球をやる子が増えています。