2024年10月18日金曜日

村上隆(現代美術家)          ・スーパーフラットはいま ~現代美術家 村上隆の挑戦~ 後編(初回:2024/8/8)

村上隆(現代美術家)・スーパーフラットはいま ~現代美術家 村上隆の挑戦~ 後編(初回:2024/8/8) 

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2024年10月17日木曜日

久田恵(作家)              ・〔わたし終いの極意〕 終の住みかは自分で決める

久田恵(作家)           ・〔わたし終いの極意〕 終の住みかは自分で決める 

久田さんは北海道室蘭市生まれの76歳。 大学を中退して様々な仕事を経て、女性誌のライターになりました。 1990年に『フィリピーナを愛した男たち』で第21回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。 執筆活動を続けながらシングルマザーとして子育てをして、およそ20年に渡って両親の介護もしました。 70歳の時に栃木県那須高原のサービス付き高齢者向け住宅に移住しましたが、この2月に東京の実家に戻り独り暮らしをしています。 

那須に引っ越す時には、終の棲家を自分のなかで決めて暮らすんだと思っていましたが、歳を取って来ると、高原が美しい、空が綺麗とかそういう事だけで幸せには暮らせないですね。  自分が介護が必要になった時に、どういう風にそれを乗り越えたらいいのか、サポートしてくれるのかとかいろいろあって、歳をとると車も運転できなくなるし、終の棲家として疑問が湧いてきました。  6年間過ごして今年の2月に実家に戻って来ました。  改めて思うと何て便利なんだと思いました。  以前は父と一緒に母の介護していました。 母は78歳で亡くなりました。 父も自立型の介護施設に入りましたが、その後介護型の施設に入りました。  

父の男親は曹洞宗の僧侶でした。 その影響もあり道元の本などを読みました。 父は富士製鐵(現・日本製鉄室蘭製鉄所技術者でした。 父は「料理というものは科学実験と同じだな。 科学実験だったら僕の専門だから。」と言って、しっかりと数値を計算したりしてやっていました。 父は92歳で亡くなりました。 母は脳梗塞で失語症にもなってしまって、失語症に対しての理解をしようと思って努力しました。 父は最後には身体が動かなくなって、人が生きて弱ってきて、亡くなってゆくプロセスを間に当たりにしたという感じはあります。 父からは「最後まで自分と一緒に暮らしてくれたことを、僕は凄く感謝している。」と言われました。  その時には余りピントは来なかったです。 自分が歳を取って来ると一緒に暮らしてくれることが、重要だなと理解できる。 一人ぼっちで死なないですんだという事ですね。 私は一人ぼっちで死んでいくという事を、別に悲しとは思わないと言う様な気持ちではいます。 

自身の介護を息子にという思いは無いですね。 その手立てを考えて準備して最後を迎えないとだえんだ杏と思います。 介護施設は歩いて数分のところにあります。 同じ介護施設でも、運営している人達の介護観は違うので、どこでも同じというわけではありません。  昔は入れられちゃったという事が多かったです。 自分に合うようなところを捜して、決めることが重要な時代になってきています。 

色々な仕事をしてきましたが、その時その時で考え方が違っていました。 思い立ったらすぐ行動で、それが失敗かなと思ったら速やかに辞めればいいんです。 母が急に倒れたり、息子が不登校になったり、何があるのか判らない。 息子の稲泉連2005年に第36回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞し、初の親子受賞を果たしました。 

自分でもどうにもできない性癖があって、相変わらず落ち着かない日を送るのではないかと思います。  歳を取って来ると段々めんどくさく成ったり、身体も動かなくなってくるので、潔く諦める事もあります。 出来れば施設に入らないで自分の家で過ごしたいという人の考えも段々わかってきて、地域の中にシニア食堂みたいなものがあって、そこで交流するというものがあってもいいと思います。 家が2世帯住宅なので一階がそのような場所に使えればいいかなと思っています。 〔わたし終いの極意〕とは高齢になったら、ちょっと寂しいぐらいで生きているのがいいかなと思います。 












2024年10月16日水曜日

山室寛之(野球史研究家)        ・〔スポーツ明日への伝言〕 プロ野球再編問題から20年

山室寛之(野球史研究家)    ・〔スポーツ明日への伝言〕 プロ野球再編問題から20年 

今から20年前の2004年、プロ野球は大きく揺れ動きました。 近鉄とオリックスの合併問題をきっかけにして、リーグ球団の再編成の動きが起こり、球団数が減ってしまう事に強く反対する選手会による史上初めてのストライキが決行され、50年振りの新規参入球団東北楽天ゴールデンイーグルスが誕生、ソフトバンクによるダイエー球団買収などがありました。  日本のプロ野球が誕生して70年目のこの年に直面した危機を、当時の関係者はどう乗り切ろうとしたのか、一連の問題は今のプロ野球とどうつながっているのか、プロ野球再建問題から20年、当時を改めて取材した野球史研究家の山室寛之さんに伺います。

山室さんは1941年北京の生まれ、九州福岡で育ちます。 九州大学を卒業して読売新聞社に入社、社会部の記者として活躍します。 社会部長時代にはオウム真理教事件、阪神淡路大震災などの対応を指揮していました。 1998年から2001年までは東京読売巨人軍の代表を務めました。 新聞社、球団の仕事に一区切りつけた後からは、戦前からの野球史の研究、取材、執筆を続けています。

1988年10月19日の出来事が2004年に繋がって行く動きが水面下ではありました。 2004年には近鉄の合併問題、オックスの球団吸収問題が起きます。  近鉄の指導者である社長の佐伯勇さんは応援に行くが随行したのが、近鉄を手放した際の社長である山口昌紀さん。 どうも阪急が身売りするらしいというという事を伝えられた。 山口さんは佐伯さんの元にその動きがあることを伝えます。 佐伯さんは突然「しまった。先を越された。」と発言します。 山口さんは佐伯さんの元で16年間働いた、豪放な方で佐伯さんを深く尊敬しています。 この時に山口さんは近鉄球団を処分しなければいけないという思いが宿ってきたと思います。 

1998年から2001年ごろメジャーに対するあこがれが強くなっていました。(特に巨人)  近鉄の野茂さんは1995年に移って、凄い活躍をしました。 2000年に横浜の大魔神佐々木投手、2001年にはイチローさんが行って野手でも十分にアメリカでも通用することが判ります。 松井選手がその後続いて行ってもう止められなくなる。 危機感がありました。 テレビの放映のスポンサーがなかなか見つからなくなる。 

2004年に近鉄とオリックスの合併の話が出る。 2月1日に朝日新聞が特報の記事を出します。 これが大騒ぎになる。 近鉄は35億円で売りたい。 5月に5期ぶりに黒字になったが、レジャー部門では60億円の赤字が出ていることを発表する。 その中で近鉄球団は40億円の赤字を公表する。  6月13日に近鉄とオリックスの合併が世間にも知られるようになる。 ライブドアが球団の買収をしたいという動きが出てくる。(6月30日)  

オリックスの宮内オーナーが、当時の球団の構成は1(巨人):5(セの5球団):6(それを羨ましく思うパの球団)だと言います。  そんななかでいろんな考えが出てくる。 巨人の渡辺オーナーの「たかが選手発言問題」が出て世の中を刺激する。 セ・パのいろいろな問題もある。 そのなかで選手会がストライキに入る。 「新しい球団を入れるために、最大限の努力をせよ。」、と選手会が言います。(9月のスト前日) 連盟は、「最大限の努力をするというのを入れると、新しい球団の参入に対して、フリーハンドではなくなる。」と言います。 これにより選手会の態度が硬化してストライキに入ってゆく。 

9月18日、19日の二日間ストライキが行われる。 選手会に対する同情が増え、連盟に対しての不満が高まる一方となる。 楽天の三木谷さんはしっかりした球場を持てば、何とかなることを理解し、やろうと決断します。 ダイエーは支援要請(産業再生機構)をせざるを得なくなる。(10月13日)  西武の堤さんが会社の不正経営の問題で辞任を発表しました。 ダイエーも西武もおかしくなる。 ソフトバンクではダイエーを何とかしたい、球団を持ちたいという思いが芽生える。 その時の責任者が後藤芳光さんで、父親と巨人の渡辺さんとは知り合いで、その伝手で話し合いが行われます。 孫正義さんは10月18日にはダイエーを買って、王さんに指揮を執ってもらいたいという事になります。

楽天、ソフトバンクはそれぞれの人脈によって誕生しました。 セ・パそれぞれ6チームになる。  残した問題としては交流試合の実施、アバウトだった入場者数を実数で発表する事。  これからの野球の将来は、少子化という問題は避けて通れない。 大谷選手の大活躍をいいてこにして,いい道を切り開いて欲しいです。











2024年10月15日火曜日

村上隆(現代美術家)           ・スーパーフラットはいま ~現代美術家 村上隆の挑戦~ 前編

村上隆(現代美術家)    ・スーパーフラットはいま ~現代美術家 村上隆の挑戦~ 前編(初回:2024/8/7)

https://asuhenokotoba.blogspot.com/2024/08/blog-post_7.html をご覧ください。

2024年10月14日月曜日

山崎静代(漫才師)            ・〔師匠を語る〕 「ボクサー」山崎静代~師匠・梅津正彦を語る

 山崎静代(漫才師)    ・〔師匠を語る〕 「ボクサー」山崎静代~師匠・梅津正彦を語る

俳優としても活躍中の山崎静代さんは、かつてのボクシングコーチの梅津正彦さんの元で、猛練習を重ねオリンピック出場を目指していました。 二人三脚でボクシングのオリンピックの夢を支えた師匠の梅津正彦さんについてお話を伺いました。

ボクシングを始めたのは2007年です。 ダイエットと、「明日のジョー」にはまっていたこともあり始めました。 

梅津正彦さんは1968年山形県酒田市で生まれます。 高校時代にボクシングを始めた梅津さんはソウルオリンピックを目指していましたが、怪我で現役を引退、その後は映画監督を目指し、助監督としていくつかの作品に参加します。 又「キッズ・リターン」や「アウトレイジ」などの北野武監督の作品や、テレビドラマのボクシング指導者としても活躍しました。  静ちゃんと最初に出会ったのも、2008年NHKで放送されたドラマ「乙女のパンチ」でのボクシングシーンの演技指導でした。 その後二人はオリンピック出場という大きな目標を掲げて、梅津さんは静ちゃんを世界を目指せるボクサーに育てていきます。  その梅津さんが皮膚がんの一種メラノーマと診断されたのは、そのさ中でした。  梅地さんは家族や仲間に支えられて、懸命な闘病生活を送りますが、2013年7月23日44歳の若さで帰らぬ人となりました。 

初めて会った時にはニコニコしていて優しそうな印象でした。 ドラマが終わった後も楽しく教えてくれるので、練習だけは続けていました。 アマチュアボクシングのライセンスがあることを知り、テストを受けてライセンスを取りました。 2012年ロンドンオリンピックで初めて女子ボクシンブが正式種目になるというニュースが入って来ました。 スポーツ新聞が「静ちゃんロンドンオリンピックを目指す」といった記事が出ました。 マスコミ先行でした。 吃驚しましたがやりたいと思いました。  梅津さんも同じことを考えていました。 やってゆくうちに甘くないという事がどんどん判って来ました。 

徐々に梅津さんの練習対応が変わってきました。  いろんなことで怒られました。 ボクシングの練習は2時間ぐらいで集中してやるんですが、5,6時間ぐらいやっていた時もありました。  梅津さんは伝わらないももどかしさ、私は判らないもどかしさが毎日続いていたような感じです。 辞めようという思いはありませんでした。  梅津さんとしてはオリンピックに連れて行くと約束した責任と、親御さんに怪我無く返すという事を言っていたので、そのためには強くするしかないので、厳しく怒っていました。 褒めてくれることはほとんどなかったです。  試合に勝った時には褒めるわけではないが、誰よりも喜んでニコニコしていました。  

2012年2月に広島で全日本選手権が行われて、ミドル級で優勝しました。  3か月後にオリンピック出場を目指した選手権に出場。 1回戦は勝利するが、予選突破はならずオリンピック出場を逃す。 呆然としてしまいました。 今迄の何年間がこの一瞬で終わったという事がなかなか受け止められませんでした。 梅津さんはいつも負けた時には俺の責任だというんです。 梅津さんは誰よりも悲しそうで落ち込んでいました。 

梅津さんから皮膚がんの一種メラノーマであることを聞きました。  切ったら大丈夫と言っていました。 二人でロンドンオリンピックを見に行きました。  自分たちが目指していた場所を確認したいと思いました。 中には勝てるのではないかというような選手もいました。 観ながら次を目指そうとは思っていました。 2013年4月にデビュー戦で敗れた台湾の選手とリベンジマッチをしました。(11か月ぶり)  その時には梅津さんは余命3か月の宣告を受けていました。  試合は観に来てくれました。  この試合には勝ちました。 4か月後には息を引き取りました。 入院中はたびたびお見舞いに行きましたが、ずっとボクシングの話でした。 しんどい状況でしたが、立ち上がってパンチの仕方などを指導してくれました。 

仕事で遅くなってしまって,行ったら「遅かったなあ。」言って待っていてくれました。 その後意識がもうろうとしてきました。 言葉で聞いたのは「遅かったなあ。」というのが最後でした。 「今迄ありがとうございました。」というと、本当のお別れみたいな感じで、言いたくなかったが、心臓が止まってしまっても、医師は耳だけは聞こえてると言ったので、「今迄ありがとうございました。」と伝えたら、梅津さんの目から涙が流れたんです。 伝わったんだなと思いました。(言葉に詰まりながら) 亡くなった翌日もずっとそこにいました。 葬儀では弔辞を読みました。


弔辞

「梅津さん大好きです。 もっともっとボクシングを教えてほしいです。・・・一生のうちでこんなにも深い絆で繋がれた出会いはもぅないと思います。・・・」 めちゃくちゃ泣いてしまいました。  現実を受けとめられない部分も当時ありました。

お墓参りに行って、結婚した事とか、仕事も頑張りますとか報告しています。 芸能人という目で見ないで、一ボクサーとして対応するとよく梅津さんから言われました。  その気持ちはずっと持とうと思っています。

梅津さんへの手紙

「梅津さんは定期的に私の前に現れます。 ・・・亡くなって11年が経った今でも、私にエールを送ってくれるんですね。 梅津さんのエネルギーは途轍もないから、今の私を支えてくれています。 ボクシングをやれたから、梅津さんと出会えたから、今の私があります。 梅津さんありがとう。 これからもよろしくお願いします。」



















2024年10月13日日曜日

山下由美(クレームコンサルタント)   ・クレーム対応は人生のダイヤモンド

 山下由美(クレームコンサルタント)   ・クレーム対応は人生のダイヤモンド

山下さんは昭和30年北海道生まれ。 高校卒業後北海道内の市役所に就職しました。 窓口で初めてクレームの対応をした時は、怖い思いをしたと言います。 そこで山下さんは相手いかける言葉を工夫したところ、不満を持って怒鳴る人が笑顔になるような体験をしました。   山下さんは50歳の時に市役所を退職、その後当時珍しかったクレームコンサルタントの仕事を始め、上京して企業や警察、医療機関などでクレーム対応に悩む人たちの指導を行ってきました。 山下さんは現在は宮崎県にお住まいで、出張やオンラインなどで指導を続けれています。 

今は公務員の方を中心にやりたいと思っていて、いろいろな市役所に呼んでいただいて、仕事をしています。 2年間公務員だけをやってみようと思って去年から始めました。  時代によってクレームの内容が違てきています。(不満の出し方が違う。)  15年前はもっと思いやりがありました。 企業のクレーム対応に比べて、市役所ではサービスするものがないという事です。 最近は一筋縄ではいかない無い人が増えました。 本人の思い道理に解決しないといけない。 ネット社会になって、正しいものもあれば間違っているものもあるので鵜呑みにしてくる人もいます。 カスタマーハラスメントとクレームの違いは、どこでカスタマーハラスメントとジャッジするかです。 線引きをしないといけない。 

18歳で市役所に就職して、最初一か月間インフォーメーションの部署に行きました。  或る時明らかに怒った顔で「てめー、税金で飯食っているくせに、何ボケっとしているんだ。」と怒鳴られました。 どう対応していいのかわからず、ずっと黙っていました。  25歳から心理学を勉強し始めました。  相手の心の中にあるストーリーを想像するという力です。 それが面白かったです。  クレームを言っている市民の方は、頭のなかにどんなストーリーがあるんだろう、どんな思いでここに来たんだろうと考えると、言っていることが 単にクレームに聞こえなくなる。 事柄がこの人にとってどういう事なんだろうと考える事が出来るようになりました。 こちらのかける言葉が違ってきました。 税金が高いと思って怒ってきている人に対しては「税金は高いですか。」と聞いてあげればいいんです。 その人の頭のなかはおかしいと思ってきているので、「おかしいですか。 調べていいですか。」と言って台帳を持ってくることができる。

一番最初の言葉が全てだと思っていて、何かを言った次の瞬間にこちらがかける言葉を兎に角気を付けていました。 どの一言をかけたらこの人は「そうだよ。」というかだけを考えていました。(話はほとんど聞いていなかったです。)  大切なのは内容ではなくて、相手の感情です。 相手に言葉をかけやすくなったのは35歳ぐらいからですね。(10年ぐらいは掛かった。) 笑って帰るようになりました。

両親と4つ下の知的障害の妹がいました。(兄がいたが19歳で亡くなりました。) 妹がいることで差別を受けたことが沢山ありました。  妹は知能的には3歳児ぐらいです。  新しい靴など履いて行っても汚い靴に取り換えられて帰ってきたりしました。 中学2年生の時にやっと親友が出来ました。 親友の妹が妹と一緒だったんです。 或る時に私に向かって「妹が知的障害だったという事を何でいわなかったのか。」と言われて、「妹が同じ学年にいる。 あんたみたいな人と付き合って、馬鹿が移ったらどうしてくれるのよ。」と言われてバシッと叩かれたことがりました。 その時、私の人生に問題なのかという事を始めて知りました。 妹のことに関して一番つらかったです。 父は障害者を別なところに囲って一生社会とは関わらないで幸せに暮らすことを望んでいました。 

私は障害があろうがなかろうが、社会の中で一緒に生きてゆく方が大事だと思いました。  理解されないのは分け隔てして守ろうとしているからだと思いました。 共に暮らしていけばあれが出来ないとか、こういう子なんだと判れば、人間として付き合っていけるんじゃないかと思いました。 一緒に暮らしてゆける社会を作りたいと思いました。 

30歳で結婚して40歳で子供が出来ました。 父がガンで余命いくばくも無い時でした。 まだお腹のなかにいる時に、父が「うつっていなければいいな。」と言いました。 差別を受けるような社会をなくすのが私の仕事だと思いました。  障害があるから受け入れられない、という事が無い学校を作りたかった。 そのためには公務員ではできないと思って止めちゃいました。  300坪の土地は買いました。 2007年にクレームコンサルタントとして独立しました。 東京に2012年に進出しました。 最初はクレームコンサルタントは私一人でした。  日本のクレーム対応はやり過ぎだと思います。 本当にこうしてほしいtピう事を先に言う事が大事です。 そうするとクレームを対応する人が凄く楽です。 

2015年から数年は母親の介護(認知症)で北海道に戻っていました。 在宅介護の大変さを思い知りました。 ストレスを解消すtるためには、笑う事を捜していました。 一番助けになったのは、立川志の輔さんの落語でした。 周りの力添えも沢山あり仕事も始めることが出来ました。  妹は就職もして幸せに暮らしています。 プレイバックシアターをやっていて、言葉にできていない感情を出さなくてはいけない。 相手の心の中にあるストーリーを想像するときに、とても役に立っています。

クレーム対応が好きになると人生が輝きます。  実践してくれて上手くいって、喜んでくれるとこっちも嬉しくなります。  クレームはダイヤモンドの原石だと思っています。  クレームそのものはダイアモンドではないかもしれないが、クレーム対応をして「ありがとう。」と言って帰っていったら、受けたあなたが磨かれる。  若くても歳をとっていても「助けて。」と言えることは凄く大事なことだと思います。 困った時には「助けて。」と人に言ってみてください。 きっと周りの人は助けてくれると私は信じています。














2024年10月12日土曜日

野口緑(大阪大学大学院特任准教授・医学博士)・健康診断のデータをムダにしないために

 野口緑(大阪大学大学院特任准教授・医学博士)・健康診断のデータをムダにしないために

日本人の死因の上位を占める脳卒中や心筋梗塞は、動脈硬化などで血管が痛むことで起こります。 しかし発症するまで自覚症状がほとんどありません。 そんな血管の状態を知る手掛かりが健康診断のデータです。 野口さんは以前自治体の保健師としてメタボリックシンドロームに着目した保健指導で事績を上げ,NHKスペシャルやためしてガッテンなどに出演、スーパー保健師と言われました。 野口さんの保健指導の特徴は血液検査など健康診断のデータから病気の芽を見つけ、生活習慣を見直してもらおうというもので、ポイントは血管を守る事、地元の企業とのタッグを組み、国も注目しました。 どんな取り組みなのかお聞きしました。

保健師は主に予防のこと、健康のことに関わっています。 保健師は今起こっていることから過去にさかのぼって、何故こうなってきたのかという事を分析する、そしてこの先このままいると何が起こってくのかという事を予測する中で、予防的に何を、生活習慣をどう変えて行ったらいいのかという事、どのような医療管理を活用すればいいのかという事をアドバイスする、そういった職種です。 予防の領域の仕事という事になります。 看護師の資格を持っていないと保健師にはなれないです。 

今迄の健康管理の仕方は、臓器ごとに身体を見て、臓器別に病気を診て病気が悪くならないように管理するという、早期発見治療が日本、世界でもそういった健康管理のされ方が中心です。 日本で一番防ぎたい病気は何かというと、脳血管疾患、糖尿病の合併症も血管の病気で、私たちの健康な寿命に影響するのは、血管が痛むか痛まないかというところがカギを握っている。 検診の中から分析をしてアドバイスをするという事をやったり、研究の中ではどういった項目が血管障害に関係するのか、分析、研究しています。 血管を痛める要素は、血圧が高い、血糖が高い、コレステロールが高いと言う様なリスクファクターと言われるものです。 リスクファクターを出来るだけ置いておかない。 リスクファクターの背景にある生活習慣の、リスクファクターを上げるような生活習慣をしないという事です。 

最初、市役所にいた頃は保健所に配置されました。 その後人事部に移って職員の健康管理をするようになって、一番驚いたのは職員は60歳以下の集団であるにも関わらず、倒れ、亡くなられるんです。 健診データを紐解いていって、探っていきました。 リスクファクターの集積という事になります。 当時は過労死と言いう言葉が中心でした。 或る日突然倒れた人たちは、血圧が高い、血糖が高い、中性脂肪が高い、悪玉コレステロールが高い。   顕著に高い訳ではなくて、わずかな異常のまま、5年、10年と続いた後に倒れる、という事が判りました。 この命は予防で出来ると確信しました。 

50代で脳梗塞になった方ですが、40歳から職場の検診が始まります。 血圧が少し高くなってきて(130をちょっと超える程度)、その後中性脂肪が少しづつ上がり、悪玉コレステロールも少し高くなってきている。 このリスクファクターが重なったという事が注目してほしい曲がり角のポイントなんです。  体重が変っていなくても、昔は筋肉だったのが脂肪に変わってきて、脂肪の場所が変って来ます。(お腹周り、内蔵脂肪にどんどんたまり出す。) 備蓄としての機能がありますが、一定以上になると、脳に血圧を上げなさいと命令したりします。 これが今まではわかっていなかった。 皮下脂肪は余り悪さをしない。 余ったものは腸管膜に蓄えられます。  男性は85cm、女性は90cmを越えるとちょっと蓄えすぎです。  血管を傷つけるリスクファクターに関係するものが、内臓脂肪が溜まり過ぎることによって増えてきます。  お腹周りが太ってきたというのも二つ目の重要なところです。 

職場が変わることによって、階段の利用度が違うとか、昼食の取り方が違ったりして、脂肪の付き方が変ったりする。  砂糖が入った飲み物がブドウ糖に変えてくれるので、元気が出るような気がするがお茶に変えただけで、脂肪を落とすことが出来ます。 60歳を越えた方はお砂糖は一日10g(ステックシュガー3本程度)を目安にしてくださいと言っています。  WHOの基準は25gです。 炭酸飲料などは500cc飲むと20~30gあります。  

脳の中にレクチンというホルモンがあって、食べ過ぎないように食欲を制御してくれています。  長く食べ過ぎている生活をしていると、レクチン抵抗性といってきかなくなる。 ダイエットをすると飢餓が襲ってきたと身体が考えてしまう。 もっと食べなさいとしばらくは指令を出してしまう。 ゆっくり痩せた方がいいです。 2006年から個人指導も始めました。(市民)  リスクファクタ―が重なっている、血圧が160を越えている、血糖、ヘモグラビンA1Cが7%超えている、など血管障害を起こしやすい。 

検診結果は大事です。 生活習慣の通信簿みたいなものです。 気になる人は個別にお話しするというやり方をやっていました。  市役所では多い時5人毎年一人ぐらいは心筋梗塞などで亡くなっていましたが、担当するようになってからは出なくなりました。 市民の方も対策前の5年間と比べてその後の5年間と比べて、心筋梗塞の死亡率が3割ぐらい下がりました。  医療費も下がりました。(心筋梗塞になると300万円ぐらいかかる。) 

 企業ともタッグを組みました。 ヘルシー弁当を考えたり、コンビニに検診車を入れて検診を受けられるようにして説明も行ったりしました。 事業者の方たちと健康に良い商品を市民の方が買ったら、ポイントを付与してもらう。 1000ポイント溜まったら1000円分の商品と交換できる。(ポイント事

2008年からメタボ検診が開始されました。 この結果を上手く活用してほしいと思います。数年でどう変わったかというような、変化を是非見て欲しい。 わずかに上げってきているといことは必ず原因があります。





2024年10月11日金曜日

佐藤愛子(作家)         ・91歳 書き続け、たどり着いた人生の晩鐘(2)(初回:2015/6/4)

佐藤愛子(作家) ・91歳 書き続け、たどり着いた人生の晩鐘(2) (初回:2015/6/4)

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2024年10月9日水曜日

池辺晋一郎(作曲家)           ・〔わが心の人〕 森村誠一(初回:2024/7/30)

 池辺晋一郎(作曲家)           ・〔わが心の人〕 森村誠一(初回:2024/7/30)

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2024年10月4日金曜日

浅島誠(帝京大学先端総合研究機構/生物学者)・〔私の人生手帖〕初回:2024/7/28

 浅島誠(帝京大学先端総合研究機構/生物学者)・〔私の人生手帖〕初回:2024/7/28

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2024年10月3日木曜日

橋本淳(作詞家)             ・亡き筒美さんの曲を後世に残すために

橋本淳(作詞家)             ・亡き筒美さんの曲を後世に残すために 

橋本淳さんは現在85歳、「ブルーシャトー」「亜麻色の髪の乙女」「ブルー・ライト・ヨコハマ」など1960年代、70年代の昭和歌謡を彩る多数のヒット曲を作詞しました。 作曲家の筒美京平さんとは学生時代から付き合いがあって、バンド仲間でした。 二人で多くのヒット曲を飛ばす盟友でもありました。 2020年に亡くなった筒美さんが生前残してある曲を宜しくと譜面を渡されました。 橋本さんは3年前から筒美さんが残した曲の為に良い詩を書きたいと歌詞作りに向き合っています。

私は1939年生まれで、85歳です。 作詞家としておよそ2000曲作る。 杉山先生からブルーコメットのものを作れと言われて、それがヒットしてやり始めることになりました。 京平さんらがバンドを組んでジャズをやっていました。 京平さんは1940年生まれで、2020年10月4日に亡くなりました。(80歳) 京平さんは精神的なことからうつ病ぽくなって、その後誤嚥性肺炎で亡くなってしまいました。  京平さんが僕のところに作品を送ってくれていたものがあって、一曲ぐらいやってみようかなと思ったんですが、40年近くやっていないなかで、一曲CDにしました。 世の中の状況が全然違ってきていました。 配信という事が判らなくて、興味を持って始めました。 手元には12,3曲はあります。 

橋本淳さん作詞のグループサウンズの曲

*「ブルーシャトー」ほか。

京平さんは「スワンの涙」が好きでした。 

橋本淳さん作詞の歌謡曲

*「ブルー・ライト・ヨコハマ」ほか。

横浜のことを作ろうと思ったが、なかなかできませんでした。 夜になってブルーのライトが海に映っていたので、「ブルー・ライト・ヨコハマ」を作りました。 後半部分がなかなかできなくて、歩いて歩いてやっていて、それを取り入れました。 その前に作った曲は全然売れませんでしたが、1週間ぐらい番組で流れだしたら、突然10万枚のバックオーダーが来るようになりました。  京平さんは忙しい時には一晩10曲ぐらい作っていました。(ほとんど寝ていない。)  詩を先に書いて渡していましたが、間に合わなくなってしまって、曲だけ先に作っていました。  

詩人児童文学者与田凖一(1905年 - 1997年は実父です。 高校、大学時代は父親の友人が(檀一雄、梅崎春生、川端康成ほか)僕を呼んで、一緒に過ごすことがありました。意識はしていませんでしたが、そこで自然と学んでいった様な気がします。  作曲家の人とも数人付き合っていました。 京平さんは音楽の大学ではなくて経済学部の卒業でした。 学校の教会で讃美歌を毎日弾いていました。 小学生の時からモーツアルトのピアノコンチェルト弾けると先生が言っていました。 高等部の頃はジャズが好きでした。 物凄く曲を聞いていてそれが身体の中に沁み込んでいると思います。 それを日本人の日常生活にどうやって取り込むかというところですが、京平さんはそこが非常に秀でていたと思います。  曲先で作ると難しい曲ですが、完成すると凄く易しく聞こえる。(筒美マジック) コード進行を一番先に考えるんです。 それが日本人の暮らしに、生活の響きに溶けてくるようなものを考えています。 毎月40~50枚のLPを買っていました。 どう日本化するかという事をいつも考えていました。 日本人の暮らしに合うテンポと響きを京平さんは考えていました。 詩をつけるのも大変でした。 

技術は進歩してゆくが、人間の情感、喜怒哀楽の世界は残してゆきたいと思っています。











2024年10月1日火曜日

宮崎緑(田中一村記念美術館館長)     ・〔わが心の人〕 田中一村

宮崎緑(田中一村記念美術館館長)     ・〔わが心の人〕 田中一村 

田中一村は1908年(明治41年)栃木県生まれ。 幼いころから日本画の才能を発揮し、神童と言われました。 しかし画壇には馴染まず50歳を過ぎてからは奄美大島で暮らします。 そして大島紬の職人として仕事をしながら絵の世界を追求し続けました。 昭和52年(1977年)9月11日亡くなりました。(69歳) 

「ニュースセンター9時」を担当していた時には女性が居ない時代だったので、頑張らなければいけないという思いはありました。 いろいろな思いがありました。 日本で初めての世界遺産の登録をしたのが屋久島と白神のブナの原生林でした。 私は屋久島の担当として屋久島の生態系などを調査しながら、島伝いに辿って行くうちに奄美大島に出会いました。 人情の深さが心を打ちました。 人々は自然と見事に共生しながら生きていました。 すっかり虜になり気が付いたら、情報の発信拠点が出来るので担当してくださいと言われて、平成13年(2001年)から関わりました。 施設全体は「奄美パーク」と言われて、その中に「田中一村記念美術館」があります。

田中一村は1908年(明治41年)栃木県生まれ。 東京、千葉で過ごした後50歳で、すべてをたたんで奄美に移りました。 ここで自分の芸術の最終系を作るんだという事で20年弱奄美で過ごしました。 凛とした生き方に感動を生み、地元の南日本新聞に連載が載りました。 それを見たNHKの日曜美術館が特集を作って放送し、大変な評判を呼びました。(1970年代中頃)  「ニュースセンター9時」を担当していた時で、田中一村を知るきっかけになりました。 

田中一村の父は彫刻家でした。 田中一村は子供の頃、神童と言われました。 東京技術学校(芸大)にストレートで入ります。 同期には東山魁夷加藤栄三橋本明治山田申吾らがいます。 しかし2か月で辞めてしまう。 諸説あるが、大学では学ぶべきことが無いという事で独自の道を歩んだのではないかという見方をする人がいますが、先生と喧嘩して辞めたという人もいます。 自分の道を追求していったようです。 或る時「蕗の薹とメダカの図」という作品を支持者の人に示したところ、誰も賛同してくれませんでした。  自分の信じる道を進み、自分の絵の最終系を追求してゆくんだという事で、独自の道を進み始めたのではないかと思います。 

そのころ千葉に引っ越します。 祖母、姉、妹の面倒を見なければいけなかった。 自給自足の生活をする。 姉が美人で琴の名手で、この姉が最後まで一村を支えます。 鋭い批評家でもあり、一番熱い心で支えてくれた人でもあります。 コンクールに応募してもなかなか受からなかった。 川端龍子主催の青龍展に「白い花」が入選しました。 翌年万を持して「秋晴」と「波」という作品を出したが、思ったように評価してもらえなかった。  その後南の方にスケッチ旅行に出かける。 奄美にも行き、そこで虜になったと思われる。(50歳)   奄美では表現も変わって行った。  景色を描くだけではなくて、精神文化、世界観、宇宙観、人生観みたいなものを込めた絵になっています。 

そして大島紬の職人として染色の仕事していた。 5年働いて60万円貯金して3年間に90%を注ぎ込み、最後の絵を描こうとしていた。(60歳ぐらい)  自分の良心の納得がいくまで描いてゆく。 私は何と評価されても結構です、見せるために描いたのではなくて、良心を納得させるためにやっているんですからと、言っています。 今評価されなくても50年後100年後に評価されればいいと、書いています。 昭和52年(1977年)9月11日亡くなりました。(69歳) 

「不喰芋と蘇鐵(クワズイモとソテツ)」という作品が最も心を惹きつけられます。 輪廻、生命観、宇宙観と言ったものがうかがわれ、深い哲学を感じます。 榕樹に虎みみづく」という作品は、みみづくが一本足で描かれているが、スケッチでは二本足になっている。 鳥が敵を警戒していない、安らいでいる状態の時です。 自然に溶け込んでいる一村さんの目線、絵の奥の方から我々を見つめてい居るような、そんな思いを抱かさせてくれる作品ではないかなと思います。 島の文化を映す鏡みたいなところがあります。 奄美を語るのには一村さん抜きには語れないし、逆も言えます。 孤高の人ではあったが、孤独な人ではなかったと思います。(多くの島の人たちとの交流があった。)

田中一村傑作選