2024年10月1日火曜日

宮崎緑(田中一村記念美術館館長)     ・〔わが心の人〕 田中一村

宮崎緑(田中一村記念美術館館長)     ・〔わが心の人〕 田中一村 

田中一村は1908年(明治41年)栃木県生まれ。 幼いころから日本画の才能を発揮し、神童と言われました。 しかし画壇には馴染まず50歳を過ぎてからは奄美大島で暮らします。 そして大島紬の職人として仕事をしながら絵の世界を追求し続けました。 昭和52年(1977年)9月11日亡くなりました。(69歳) 

「ニュースセンター9時」を担当していた時には女性が居ない時代だったので、頑張らなければいけないという思いはありました。 いろいろな思いがありました。 日本で初めての世界遺産の登録をしたのが屋久島と白神のブナの原生林でした。 私は屋久島の担当として屋久島の生態系などを調査しながら、島伝いに辿って行くうちに奄美大島に出会いました。 人情の深さが心を打ちました。 人々は自然と見事に共生しながら生きていました。 すっかり虜になり気が付いたら、情報の発信拠点が出来るので担当してくださいと言われて、平成13年(2001年)から関わりました。 施設全体は「奄美パーク」と言われて、その中に「田中一村記念美術館」があります。

田中一村は1908年(明治41年)栃木県生まれ。 東京、千葉で過ごした後50歳で、すべてをたたんで奄美に移りました。 ここで自分の芸術の最終系を作るんだという事で20年弱奄美で過ごしました。 凛とした生き方に感動を生み、地元の南日本新聞に連載が載りました。 それを見たNHKの日曜美術館が特集を作って放送し、大変な評判を呼びました。(1970年代中頃)  「ニュースセンター9時」を担当していた時で、田中一村を知るきっかけになりました。 

田中一村の父は彫刻家でした。 田中一村は子供の頃、神童と言われました。 東京技術学校(芸大)にストレートで入ります。 同期には東山魁夷加藤栄三橋本明治山田申吾らがいます。 しかし2か月で辞めてしまう。 諸説あるが、大学では学ぶべきことが無いという事で独自の道を歩んだのではないかという見方をする人がいますが、先生と喧嘩して辞めたという人もいます。 自分の道を追求していったようです。 或る時「蕗の薹とメダカの図」という作品を支持者の人に示したところ、誰も賛同してくれませんでした。  自分の信じる道を進み、自分の絵の最終系を追求してゆくんだという事で、独自の道を進み始めたのではないかと思います。 

そのころ千葉に引っ越します。 祖母、姉、妹の面倒を見なければいけなかった。 自給自足の生活をする。 姉が美人で琴の名手で、この姉が最後まで一村を支えます。 鋭い批評家でもあり、一番熱い心で支えてくれた人でもあります。 コンクールに応募してもなかなか受からなかった。 川端龍子主催の青龍展に「白い花」が入選しました。 翌年万を持して「秋晴」と「波」という作品を出したが、思ったように評価してもらえなかった。  その後南の方にスケッチ旅行に出かける。 奄美にも行き、そこで虜になったと思われる。(50歳)   奄美では表現も変わって行った。  景色を描くだけではなくて、精神文化、世界観、宇宙観、人生観みたいなものを込めた絵になっています。 

そして大島紬の職人として染色の仕事していた。 5年働いて60万円貯金して3年間に90%を注ぎ込み、最後の絵を描こうとしていた。(60歳ぐらい)  自分の良心の納得がいくまで描いてゆく。 私は何と評価されても結構です、見せるために描いたのではなくて、良心を納得させるためにやっているんですからと、言っています。 今評価されなくても50年後100年後に評価されればいいと、書いています。 昭和52年(1977年)9月11日亡くなりました。(69歳) 

「不喰芋と蘇鐵(クワズイモとソテツ)」という作品が最も心を惹きつけられます。 輪廻、生命観、宇宙観と言ったものがうかがわれ、深い哲学を感じます。 榕樹に虎みみづく」という作品は、みみづくが一本足で描かれているが、スケッチでは二本足になっている。 鳥が敵を警戒していない、安らいでいる状態の時です。 自然に溶け込んでいる一村さんの目線、絵の奥の方から我々を見つめてい居るような、そんな思いを抱かさせてくれる作品ではないかなと思います。 島の文化を映す鏡みたいなところがあります。 奄美を語るのには一村さん抜きには語れないし、逆も言えます。 孤高の人ではあったが、孤独な人ではなかったと思います。(多くの島の人たちとの交流があった。)

田中一村傑作選