山枡あおい(国立西洋美術館学芸員) ・〔私のアート交遊録〕 光の画家モネが見つめた世界
国立西洋美術館では今、クロード・モネの「モネ睡蓮のとき」が開かれています。 山桝さんはこの展覧会の日本側監修者をしています。 この展覧会はマルモッタン・モネ美術館からの本初公開作品を含むおよそ50点に日本国内の所蔵作を加え、晩年の製作に焦点をあて、モネの芸術の豊かな展開を辿るというものです。 日本では過去最大規模の睡蓮が集う機会となります。 光の画家モネが後半生を奉げることになるのは、睡蓮の花咲く池、そこには最愛の家族の死あ自身の目の病、第一次世界大戦といった多くの困難に直面するモネの姿があります。 日本人が愛してやまない印象派、中でも光の画家といわれるモネの世界の魅力について、聞きます。
モネの晩年にしぼった展覧会です。 1890年代以降、特に20世紀に入ってからの作品1910年代以降モネが70歳を越えたからの作品が多いです。 絵の描き方、筆のタッチの使い方、絵のサイズ(格段に大きくなる。)などが違ってきています。 睡蓮のテーマは晩年のモネにとって、間違いなく最大の創造の源で、今回、睡蓮を描いたものだけでも20点以上は展示されます。 池のふちに咲く花とか、睡蓮に関連する作品も沢山展示されます。 全部で65点が展示されます。
1920年代日本人がフランスに行って、モネの作品を購入する。 いい作品が日本にあります。 印象派を語るに当たって、19世紀のフランス美術を語るうえで欠かせないのが、アカデミーという組織がありました。 一つは教育という側面、サロンでの唯一の作品発表の場でもあった。 アカデミーはあらゆる画家、彫刻家、芸術家のキャリアを左右する存在でした。 印象派を一言で定義すると、アカデミーが左右するシステムから完全に離れたところで、製作を行い発表をした、この点に尽きるのではないかと思います。 印象派という名前は1874年(150年前)非常に豊かな個性を持った画家たちが、アカデミーに反発する形で、自分たちの展覧会を独立した立場で開催した。 その展覧会に出品された作品の一つがクロード・モネの作品でした。 それを見て「印象に過ぎない。」と言って、アカデミックな立場で悪口を言った「印象」という言葉が印象派の名前の起源になります。
それまで絵を楽しむのは王侯貴族でした。 革命以降一般市民が楽しむようになった。 都会の生活に疲れた人たちが郊外に出掛けて、自然を楽しんだり、レジャーの概念みたいなものも新しく生まれて来る。 印象画を描く風景は、或る意味レジャーの表象だと捉えることもできる。 印象派のメンバーとしては、モネ、ルノアール、カミーユ・ピサロ、セザンヌなど、強烈な個性を持った画家たちがいっとき集まって、印象派というグループで活動していました。 モネは抽象的なところもあり、1950年代にアメリカで出てくる抽象表現主義、アクションペインティング、ジャクソン・ポロックとか、と言った画家にも通じるような、予告するような表現方式にたどり着いた。 セザンヌとは対照的で、セザンヌは幾何学的な抽象絵画の父と言われるようになります。 モネは感情的な、表現的な抽象絵画の父と言われます。
モネが生涯一貫して追求したのが、光の表現です。 常に移る捉えがたいものを、捉えることにこだわって鋭い眼と造形的な造形感覚を持っていました。 よくわかるのが連作と言われるモネ独自の形式です。 或る一つの同じモチーフを様々な天候であったり、時間という条件の元に、繰り返し描く、描いているモチーフと構図は全く違いますが、作品によって色彩、つまり光が異なっている。 光が主題になっている。 主題は何でもよかったとこれまで言われてきましたが、実はそうではなくて、積みわら、ルーアン大聖堂というモチーフにせよ、フランス国家、国の豊かさに結びつくモチーフを主には選んでいます。 モネは睡蓮の池に主題を集中していくわけですが、池の水面もある程度光と同じようなところがあって、やっぱり形、色彩を持たない、絶えず揺れ動いている。 捉えがたいものを捉えるという挑戦に没頭として行く。
外に出て描くという事には、蒸気機関車が整備されてゆき、簡単に郊外や地方に出掛けることができるようになった。 チューブ入り絵具が発明されて、より簡単に持ち運べるようになった。 合成絵具がどんどん出てきて、色のバリエーションも増えてゆく。
1910年代以降の製作では、最愛の奥さんを亡くしたり、目の病に罹って見えづらくなって、様々な困難に見舞われていた時期でした。 一時期製作を中断した時期もありましたが、制作意欲を取り戻して、睡蓮という主題に数十年以上奉げました。 大装飾画、睡蓮という一つの主題で部屋の壁面を覆いつくす。 又、幅4~6mのキャンバスに描いて、それをさらにくっつけてゆく。 モネが大装飾画に挑戦した時期は第一次世界大戦の時期でもありました。 終戦の翌日に描いていた大装飾画を国に寄贈します。 大装飾画のプロジェクトはある意味平和モニュメントといえるような、記念碑的な性格をもっていた。 モネの集大成という事もあったと思います。 晩年になると睡蓮とはわからなくなって来る。 睡蓮の花は主役ではなく、主役は水と水に映る反映像にあると言っています。 独立した立場で絵を描くという姿勢が、印象派の画家たちが打ち出すことによって、様々なものが生まれてくる。 新しい美術運動の先駆け的な存在ではあると思います。
今回注目の作品としては、マルモッタン・モネ美術館から今回かりて来た、睡蓮の柳の半映を描いた作品、大装飾画の製作過程で生まれた作品(縦、横、2m四方)ですが、ほとんど睡蓮は描かれたてはいない。 青が基調となったぼんやりとした作品で、水面に柳の反映が中央に描かれています。 モネは大装飾画に関連する作品は売りたがらなかったが、唯一手放すことを許したのが、松方幸次郎だったんです。 横幅4mの作品で、一時期行方不明になっていました。 2016年にルーブル美術館の片隅で見つかりました。 現在、当館に所蔵されています。
私は両親に連れられてよく展覧会にはいきました、 印象派の作品は近すぎたのか、関心は余り無くて、印象派の前の時代のフランスの画家の研究をしていました。 印象派ではセザンヌなどは好きでした。 モネ、ルノワールは親しみが深すぎたのか、中々関心は持ちませんでした。 でもやっぱいいなあと段々思うようになりました。
お薦めの一点としては、当館には2016年に発見されたものと、もう一点ありまして、裏打ちされていない珍しいもので、裏打ち用のニスの影響がないもので、当時の色の質感がそのまま見られます。