2024年10月26日土曜日

西田敏行(俳優)             ・【西田敏行さんを偲んで】 舌の記憶~あの時・あの味 後編(初回:2018/5)

 西田敏行(俳優)  ・【西田敏行さんを偲んで】 舌の記憶~あの時・あの味 後編(初回:2018/5)

毎週のように父親と一緒に映画を観ていたこと、それがきっかけで幼いころから俳優を目指したこと、御蕎麦屋さんで父親が食べ方を知らない若い姉妹にさり気なく食べ方を見せてあげた忘れることのできない光景、原発事故など故郷福島への思いなどを中心にお話を伺いました。

西田敏行さんは1980年民放のドラマ「池中玄太80キロ」で一躍人気者になりました。  主題歌の「もしもピアノが弾けたなら」が大ヒットしました。 テレビ、舞台、映画で活躍を続けるその根っこにはどんな日々があったのか、そして記憶に刻まれているあの時の味を伺います。 

ドラマ「池中玄太80キロ」が大ヒットしました。 「玄太」って呼ばれました。 主題歌も当たっちゃいました。 歌手としても紅白歌合戦にも出ました。  あの時は「女太閤記」で秀吉をやらせていただきました。 夢のような年でした。 実母が歌がうまかったです。 歌は特別なレッスンを受けたわけではないんですが、歌は好きです。 役者はいろんな人間を、いろんな人の人生を俯瞰で見られたり、あおって見られたり、引いてみられたり、人生のメリーゴーランドに乗っているみたいな感じです。  或る人物に焦点を当てて、その人物に対してずーっと見つめることができ、追体験も出来るみたいな仕事って、こんな楽しい事は無いですね。 人間というのは不思議な生き物ですね。 戦争、殺人もするし、ちょっとしたことで感動して涙を流すのも人間だし、人間って何だろうと思います。  いろんな側面が人間にはありますね。 

自分が演じられる範疇は限られるし、絞られてくるという事は感じます。 大きい視点と物凄い深い視点と両方を持って人間、人生を見つめてみると、楽しいかなと思います。 青年座という劇団に入りましたが、俳優座から分裂した劇団で昭和29年に創立しました。 その後矢代静一さんの『写楽考』という舞台で主役に抜擢されました。(22歳 劇団2年目) 70年安保の時期でもあり悩んだりもしました。 人間って何を求めて、何をしたら本当の意味での幸せというものを感じ取ることができるのか、というようなことを若いなりに、役者仲間と集まって飲んでは喧々諤々と意見を言い合って、熱い時代でした。

食べ物としては会津の「みしらず柿」干し柿がうまいんです。 福島の味という感じで食べていました。 ゆべしというお菓子がありますが、素朴な甘さで心筋梗塞で倒れた時(2003年)には、子供のころ食べたゆべしが無性に食べたくなり、送ってもらいました。 健康には自信がありましたが。 頭の中では命日だと思いました。  頸椎の亜脱臼もありました。  入院して手術が必要だという事になりました。 第一頸椎で血管に一番近くて、切開するときにも血管に傷をつけると、あっという間におしまいなので非常にデリケートな手術なので、リスクは多いですと手術前には聞かされました。 当日になるまでナーバスになってしまいました。  健康には過信があって暴飲暴食がたたったのではないかと思います。  

幼少の頃西田家に養子に行って、父は引き揚げてきたばっかりで、母がおやつ代わりに梅干しに一寸お砂糖をかけてくれて、養母と実母が話し合っていて、梅干しを半分ぐらい食べていたら、実母が「じゃあね。」と言って、実母が遠ざかってゆくのを見ていました。 想起させる食べ物としては梅干しがあります。 

ラジオの新日曜名作座、森繁久弥先生と加藤道子さんは50年続けられました。 後を引き受けられるのかなと思いましたが、竹下景子さんと二人で楽しんでいます。(10年が経つ。)  加齢とともに声がかすれてくるので、声の発声は毎日練習をやります。(シャワーを浴びながら。) 70歳になると、周りの人と共にいい仕事をしたなと言えるように、ずっと続けて行きたいです。  お客様に素晴らしかった、楽しかったと言われることが、一番の自分のご褒美として生きて行こうと思っています。 

頸椎を痛めたので歩行がままならないところがあり、スクワットを毎日やっています。  若いころは身体は丈夫でした。 「植村直巳物語」で5000mを越えるところで、走ったり、荷物抱えたり、肉体が耐える様28日間トレッキングで歩きました。 やり通したので自分は頑丈だという過信があったのかもしれません。 僕はアンチエージングではなく老いを受け入れようと思っています。