2025年9月4日木曜日

松原始(東京大学総合研究博物館 特任准教授)・あなたの知らないカラスの話

 松原始(東京大学総合研究博物館 特任准教授)・あなたの知らないカラスの話

とかく嫌われがちなカラス。 動物行動学者の松原始さんはそんなカラスに興味を持って30年以上もカラスの研究を続けています。 驚くべき学習能力の半面、意外とお茶目で間抜けな面もあり、その興味深い習性や行動からカラス本来の姿を知れば一番身近な野生動物カラスとの共存共生を考えるヒントになると言います。  9月6日のカラスの日を前に松原さんにカラスの知られざる魅力とカラスと上手に付き合うヒントを伺いました。

9月6日はカラスの日  96で「クロウ」Crow 、黒いから「黒う」です。 カラス友の会があります。  子供の頃から動物は好きで、家の近くにカラスのねぐらがありました。  下から「カア」と言ったら返事をしたような気がしました。(小学生) 大学に入って何か研究してみようと思って、カラスを観かけ始めたのがきっかけです。  東京大学総合研究博物館では空き時間にカラスの研究をしています。 

カラスは世界で45種、47種とか言われていて、日本では7種類で、そのうち2種類は迷鳥と言って迷子で来てしまったもので、定常的には5種類です。 繁殖しているのがハシブトガラスとハシボソガラスの2種類です。 (くちばしが太いか細いか)  東京都心部で見かけるカラスはほとんどホシブトガラスです。  くちばしが曲がっていて長い、「カアカア」と鳴きます。  ハシボソガラスはくちばしが細くて真っすぐ、鳴き声がひしゃがれただみ声です。 河川敷とか芝生、農地とかが好きです。 ホシブトガラスは元々が森林性の鳥なので地面があまり好きではない。  電柱、ビルとかに止まっている時間が長い。  地面にはいい餌がある時だけ降りてくる。  1970年代からハシボソガラスは東京からは消えていきました。

カラスの産卵は1年に一回です。  ハシボソガラスが3月中、ハシブトガラスは4月です。 4~5個産みます。  孵化まで20日ぐらいです。 雛から巣から出てくるまで一か月ちょっとかかります。  赤ん坊が立っち出来るぐらいで、独りでは何にも出来ないです。 巣立ってから何か月かは親元にいて餌を貰ったりしています。  独立するのが夏の終わりから秋ぐらいです。  若いカラスの集団がありそこにどんどん入って行きます。  順位付がありよくケンカしています。  順位が高いと餌を得やすいし、女性にも持てます。  メスの方にも順位付けがあり強いメスには弱いメスはプロポーズも出来ない。( 寄って行くとほかのメスに怒られる。) 

ワタリガラスと言う種類は寿命が60年を越えます。  ハシブトガラス、ハシボソガラスは飼育していると40年ぐらいです。  野生ではっきりしているのが19年4か月です。  基本的には一夫一妻で仲がいいです。  死別すると再婚という事もあります。  離婚と言う例もあります。  基本的には夫婦でテリトリーを持っていて、そこにはほかのカラスを入れないというのが繁殖個体の生活です。  巣は普通は木の上です。  巣の材料は基本は木の枝です。 ハンガーを使う事が良くあります。  

カラスは夜明けの1時間前ぐらいから起きています。  暗いうちにえさ場まで行きたい。   カラスは雑食性です。  果実類、昆虫、 動物の死骸、他の鳥の卵、雛などです。  渋谷、新宿は凄い餌場です。  高カロリーが好きで油類が好きです。  カラス対策でゴミ類が減って来ています。  猫缶とか、ドックフードを食べに来ています。  カラスは一日一回は行水をやっています。  餌を食べた後は必ず口を拭いていて綺麗好きです。 陽が完全に落ちる前にねぐらに帰って行きます。  

学習能力は相当高いです。 記憶も相当いいです。  1年経っても覚えています。  物事を関連付けて覚えるという事もします。  好奇心も強いです。  人の顔も見分けています。   カレドニアカアスは道具を使うことで知らています。  道具を自分で作って使う。  倒木にカミキリムシの幼虫が入っているので、大きな葉っぱの真ん中の軸だけを残して噛んで先っぽを曲げるんです。  それを穴に入れて動かして幼虫が噛みついたら引き上げる。  車にくるみを轢かせるのは日本のハシボソガラスだけです。  

ハシブトガラス、ワタリガラスは物まねが特にうまいです。  電線で大車輪みたいな遊びをしているのも見かけます。  滑り台で滑り落ちてきたりもしています。  みかんを咥えていてほかのカラスが「カア」と鳴いたので、「カア」と鳴いたらみかんを落としました。    線路に置き石をする行動ですが、 線路の敷石の下に餌を隠してあり、 石を咥え上げてそこにレールがあるのでレールの上に取り敢えず石を置くんです。  そこに列車が来るとカラスは逃げる。  石だけが残って置き石になっていた。     カラスが襲ってくるのはカラスが子供を守る時だけです。  声を出したり、頭をかすめるように飛んできて、気の荒いカラスでは頭を蹴ります。  後ろから襲います。 

脂分が好きで、石鹸を持ってい行ったり、ロウソクをもっていったりします。  ゴルフ場でゴルフボールを咥えて行くことがありますが、卵と間違えているのかもしれません。    ビニールの袋の中にはいいいものが入ってい居るはずだという事をよく知っています。  赤、オレンジ色は果物が熟している色なので食べたくなる色です。  荒らされたくないので、 カラスの死骸みたいなもの、キラキラしたものを置いても、一時的には嫌がられるが慣れてしまいます。  物理的にゴミに触れさせない。  

カラスの名前の由来は、「カラ」がおそらく鳴き声です。  「ス」は鳥を意味する言葉だと言われています。  世界中でカラスを意味する言葉は鳴き声から来ていると思われます。   カラスの羽根の中にメラニンの顆粒が大量にあって、地の色として黒に見えるが、羽根の表面にケラチンの層があって、これが光を散乱させていて、光沢がのります。  サッカーの日本代表のユニホームにカラスがシンボルマークになっているが、日本神話に出てくるヤタガラスから来ていると思います。  カラスの天敵は大型の猛禽類と大型のフクロウですね。  カラスは食べられますが、それほど美味しくはない。  カラスを飼う事は基本的には駄目です。  カラスの本来の姿をもう少し知って頂けると、そこまで怖いものではないという事が判ってもらえると思います。







  

2025年9月2日火曜日

松本隆(作詞家)             ・作詞活動55年

松本隆(作詞家)             ・作詞活動55年 

松本さんは1949年東京都生まれ。 1968年細野晴臣、小坂忠柳田博義、菊池英二らとエイプリル・フールを結成し、その後細野、大瀧詠一鈴木茂と「はっぴいえんど」を結成します。1970年アルバムはっぴいえんど」をリリース、日本語ロックを初めて作ったバンドとして評価されました。  はっぴいえんど」解散後は作詞家に、アグネスチャン、太田裕美、松田聖子、近藤真彦などに歌詞を書き、多くのヒット曲を生んでいきます。 作詞した作品は2100曲以上、今年作詞家生活55周年を迎えました。 

英語のカバーが多くて、英語のカバーをやっているんだったらあまり意味がないと思って、自分たちの言語でロックでもフォークでもやった方がいいんじゃないかと思いました。 はっぴいえんど」では遠藤賢司に最初に会いました。  その後はっぴいえんど」の構想が固まって来ました。  その後はっぴいえんど」が解散して作詞家になります。  中学生ぐらいから文学青年でした。  詩なんて書いたことなかったんですが、はっぴいえんど」のファーストの「ゆでめん」です。 自分にとっても第一作品です。  

男性向けの詩としては南佳孝と鈴木茂が多かった。  女性向けと男性向けは区別して書いています。 絵を描くことも好きでしたが、中学3年生の時に断念しました。  ロックの方に進むんですが、父は南九州財務局長、仙台銀行相談役で、硬い人でした。  僕が大事にしたのは五感なんです。  普通音楽は耳から入りますが、それ以外に記憶とか匂いとか、強いじゃないですか、触った感じも大きいし、それで五感を大事にして、それと絵ですね。  背景に何があるのかという事が非常に重要で、海があるのか都会があるのかとか。  あと物語です。 物語を軽く見ているが、物語は非常に大きいです。  それを教わったのが「ウエス・トサイドストーリー」です。(派閥があって人種問題があるとか、シェークスピアのパクリだとか)  

キャラクターを書き分けると言うようなことはないです。  「赤い靴のバレリーナ」で甲斐さんが歌ったのと松田聖子さんが歌ったのでは、景色の見え方、ストーリーが違う。

「赤い靴のバレリーナ」  歌:松田聖子

「赤い靴のバレリーナ」  歌:甲斐祥弘(作曲)

「風をあめて」(はっぴいえんどの楽曲) 映画の主題歌でっ全世界封切りだったから、日本語のままで皆覚えちゃう。  歌が勝手に独り歩きして世界中をさまよっておるみたいな、そういったのが好きです。 (企業とかが関わらない。)  

55周年コンサートを行います。  カバーも新しい命を貰っているような感じがするので、そういうのもありかなあと言う感じです。  

「白睡蓮」新曲   歌:氷川きよし


















2025年9月1日月曜日

松谷直美(NPO法人 代表)         ・盲ろう者と生きる喜び

 松谷直美(NPO法人 代表)         ・盲ろう者と生きる喜び

松谷直美さんは昭和21年中国東北部の生まれ、生後3か月で帰国し、福岡県で育ちました。  上京して就職、結婚して子宝に恵まれしたが、長女を生後4か月で亡くし、悲しみのどん底にいました。  次の年に出産し、子育てが落ち着いたころに手話を習い始めます。   講習会で目と耳が不自由な盲ろう者と出会たことを機に、35年前から盲ろう者と交流し、手話通訳や介助を始めます。  視覚と聴覚に障害があっても盲ろう者の夢を叶えたいと20年前にNPO法人を設立し、共に楽しめることを行ってきました。  盲ろう者の心の声に寄り沿って、活動20周年を迎える松谷さんの思いを伺いました。

盲ろうの方と触手話と言って相手の手を触って、相手が言いたいことを汲み取って、自分が言いたいことを手話で伝えるというコミュニケーションをしています。  盲ろうの方は色々なコミュニケーションがありますが、手話、触手話など。  視覚と聴覚の両方に障害の有る方は総称して盲ろう者と言います。  全国で約1万4000人いると言われています。  盲ろうの程度によって4つに分けると、①全盲ろう、②盲難聴(全く見えなくて少し聞こえる。)、③弱視ろう(少し見えて全く聞こえない。)、④弱視難聴(少し見えて少し聞こえる。)

NPO法人「夢叶えたい」の活動をするには仲間がいないと活動できないので、事前準備があります。  歴史が好きな方がいて皆さんに説明するために、画用紙に前日に一睡もせずに作るんです。  チームワークで活動をしています。  盲ろうの方が6人いて会えるのが楽しみです。  通訳介助員も一緒に参加します。  

昭和21年中国東北部に生まれしたが、高校生になるまで全く知りませんでした。  母が晩年に話し始めました。  姉夫婦が満州にいて、牡丹江と言うところで布団屋さんをやっていたそうです。  義兄が出征てしまって心配になって牡丹江に言ったという事でした。 ソ連が侵攻してきて街が炎に包まれてしまった。 貨物列車で逃げて鉄嶺と言う街に着いた。  昭和21年3月に私は生まれました。 何とかして私を連れて日本に帰ってきた。  それがあるから人に優しくできるのかなあと思っています。  6月に戻って来て福岡の母の兄の6番目の子として私を入籍しました。  母が結婚した時に私が養女となって入籍されています。  それを知ったのは高校に入学するときに戸籍抄本が必要で、それを見たら養女となっていました。  父は家庭のある人だった。(母の姉からの説明)  自殺しようと思うくらいショックでした。  家にいてはいけないと思って、高校卒業したら家には居ないと決めていました。 

卒業後、東京で就職しました。  結婚して男の子が二人。3番目が女の子です。 その女の子が生後4か月で亡くなりました。  保育所でミルクが器官に詰まって亡くなってしまいました。  翌年次女を出産して、この子は絶対自分の手で育てるんだと思いました。  小学校について行ったら、娘に「ついてこないでくれ。」と言われてしまいました。  会社も辞めていたし暇なので世田谷区の手話講習会に行きました。  地域で手話通訳として活動するのと手話講習会の助手をやるようになりました。  会場の入り口で白杖を持った男性が白杖を持った全盲ろうの女性を手引きしてきました。  場所を間違えたのではないかと声を掛けたら、手で何かやり取していて、「今日はお招きして頂いてありがとうございます。」と言ったんです。  その人は講師の一人でした。 衝撃的でした。 自分の不甲斐なさを感じました。   

生まれて初めて弱視ろうの手話通訳をしました。  その人からFAXが入って新宿で待ち合わせをして欲しいという内容でした。  35年前だったので当時は盲ろう者を支える制度は全くありませんでした。  ガイドはしたことがないので必死でした。(2時間のガイド)   ガイドヘルパーの研修を受けました。  

①視覚障害が先に起こって聴覚障害を伴う場合「盲ベースの盲ろう」(多くは点字を習得している。)コミュニケーション方法としては点字、指点字 ②聴覚障害に視覚障害が伴った場合は「ろうベース盲ろう」(多くは手話を習得している。) 手話、接近手話(見える位置での手話)  全盲ろうになった場合は触手話、パソコン通訳(最近多い) ③先天的又は乳幼児時期に発症した場合を「先天的盲ろう」 コミュニケーション方法としてはローマ字式指文字、成人期以降に盲ろうとなった場合は、耳の近くなどで話す音声を用いたり、掌に書く手書き文字などがあります。  

苦労しましたが、点字の勉強もしました。(1年掛かってようやく読めるようになりました。)全国盲ろう者協会の職員になりました。   悩み相談も受けて、会社を首になって死にたいという人の説得を手話で3時間かけて必死でやったこともあります。  最後に同じような症状の会に参加するように促して、参加してその方は元気になられました。 その人は今は関東地域の代表をしています。  

NPO法人を設立しました。  皆さんに助けられてやっています。  東京都立つばさ総合高校総合学科のなかの福祉科で教えています。  盲ろう支援の大切さを伝えていかなければいけない思っています。  福井県にある社会福祉法人「光道園」(障碍者施設)につばさ総合高校では合宿に行きます。   今があるのは盲ろうの方に出会ったからだと思っています。