秋尾沙戸子(ノンフィクション作家) ・GHQと京都 ~進駐軍の記録と記憶を探して~
秋尾さんは30年余り前にNHK総合テレビで放送された「ナイトジャーナル」や民放のニュース番組でキャスターやコメンテーターを務めました。 民主の進む東欧やアジア各国を自ら取材、2000年インドネシア初の女性大統領メガワティ氏の半生を描いた著書『運命の長女: スカルノの娘メガワティの半生』でアジア太平洋賞特別賞、2009年には『ワシントンハイツ: GHQが東京に刻んだ戦後』で日本エッセイストクラブ賞を受賞しました。 占領下と民主化の研究をライフワークとしている秋尾さんが次に関心を持ったのは、GHQの西日本全体を統括する第6軍司令部のおかれた京都市で何があったのかでした。 秋尾さんは2013年に京都に移住、10年かけて体験者の証言を集め、去年12月著書『京都占領:1945年の真実』にまとめました。 京都で何があったのか伺いました。
ワシントンハイツと言うのは、戦後すぐに東京原宿駅の近くに誕生したアメリカ村のことです。 827個の木造住宅と学校や教会、野球のグラウンドなどが出来ました。 本国と同じような暮らしができるアメリカ村として建設されました。 元々は日本帝国陸軍の練兵場でした。 日本人が入れない禁断の地として20年近くありました。 そこを主役にして戦後の日本人が何故アメリカを好きになったのか、庶民の衣食住がアメリカ化されて大量消費社会に向かって行ったかを、日本とアメリカの資料、証言を集めて検証した本です。(『ワシントンハイツ: GHQが東京に刻んだ戦後』)
今回は続編の京都版。 死ぬまでに日本人としての軸を作りたいという思いと、歴史、地名などに疎い自分がありました。 母が63歳の時に動脈瘤破裂で急に亡くなり、祖母が選んだ素敵な着物がいっぱいあって、着こなすことで母とつながるかなあという思いがありました。 東京では着物は非日常的で、以上のような理由で京都に行きました。
ベルリンの壁が崩壊して、美しい涙を浮かべていたが、共産圏のことをよく知りませんでした。 東欧に向かいました。 共産党の一党独裁が崩れて何が起きるかという事を調べめした。 その後アジアを歩いて、インドネシアでは32年続いたスハルト政権の崩壊の場に立ち会ったりしました。 それを見てくると背後にアメリカの存在があるんです。 アメリカ目線で世界を観てみようと思って、アメリカのジョージタウン大学(ワシントンD.C.)に行って外交を学びました。(2003年) イラクにアメリカが侵攻した年でした。 占領が上手くいかなくて、私に何故戦後の日本の占領は上手く行ったのか、教授や周りから突き付けられました。 よくわかっていなくて、占領のことをきっちり調べようと思いました。 日本の占領期のことが民主化の成功例となって、アメリカは世界中の民主化に推進してゆくという感じです。
『京都で、きもの修行 55歳から女ひとり住んでみて』は日本の伝統文化を判りたくて京都にやって来ましたが、京都の年中行事に着物で見学したりすると、現地の人と会話が始まります。 いろいろ勉強になりました。 行事では邪気払いが多いですね。 根本は人間は生かされれているという風に感謝しています。 神、仏、ご先祖、魑魅魍魎全部含めて見えないものに対するリスペクトがあるという事が物凄く勉強になりました。
京都市にGHQの西日本全体を統括する第6軍司令部がおかれました。 大阪の伊丹空港が軍事的には重要拠点で大阪に置きたかったが、焼け野原になっていたので空襲が少なかった京都にと、海がなくて空港がないので攻められにくいという考え方もあったようです。 全国に40万人来ました。 安全が確認できると25万人になり、そのうち京都府は8000人で京都市には5500人がやってきています。 1945年9月4日に外務省からの要請で京都府庁の中に終戦事務連絡委員会、進駐軍受け入れ実行本部が配置されます。
9月25日に米軍がわっと入って来ます。 凱旋パレードをやりました。 何をやるのかわあkらないので怖くて女学校は休校になりました。 日本軍の第16師団が伏見界隈にあるのでまず接収しました。 四条烏丸の大建ビル?に司令部の執務室、北の方で暮らし始めています。 洋館が接収のねらい目になりました。 兵士の宿舎、病院、ダンスホール、クリーニング工場などになったりしました。 神道はお取りつぶしが凄く怖かった。 国家神道として戦争を支えてしまったので。 氏神信仰は悪くないという事で神社は残るが、政教分離で政治がスポンサーになってはいけないことになる。 京都には根強い噂が二つあって、①接収に関して、米軍は京都御所を狙っていた、②一人の官僚が京都御所を守った。
二点について調べ始めて、候補地はいっぱいあったが、最後に3つになります。 ①京都の競馬場、②府立植物園、③京都御苑(京都御所の周りにある、いまは公園になっている場所)京都御苑が取られないように右往左往している時に、私は凄い文章を見つけてしまいました。 宮内大臣の松平さんが「どうぞ御苑を使ってください。」というサインが入った文章が英語と日本語で出て来たんです。 宮内庁に行ってどうにかしてほしいという事で、課長さんたちが行って交渉したがそうはひっくりがえらないので、吉田総理大臣の名前で御苑の代わりに、植物園を勧める文書を出して、事なきを得た。 ワシントンハイツに比べると規模は小さかったという事です。
上賀茂神社、戦前は一般の人は二の鳥居の中には入れず、皇室に近い神社だった。(聖域指定) 突然行政からゴルフ場にするという話が入ってきた。 御神木が切り倒された。 京都にはシェフィールドと言う軍政管が、知事と同じようなポストでいたが、彼が死ぬほどゴルフが好きで、ゴルフをするのには5時間かけて宝塚まで行かなければいけなくて、京都に作ってしまえばいいという事で、伐採にやって来る。 その場所は葵祭の重要な神事をやる場所がその中に含まれていた。 抵抗が出来なかったが、10か月して中止命令が来た。 予算が2億7000万円という事で、吉田総理がGHQに文句をつけて中止になったという風に記録が残っています。 大蔵大臣の石橋湛山が地方の占領軍は金食い虫だ、このままでは日本の経済が持たないという事で国会で訴えた。 GHQ本部からではなく地方で勝手に動いたという事でシェフィールドは後に軍法会議にかけられて降格させられる。 シェフィールドは執念深く動いて、第3セクターが動いて3000万円でゴルフ場を作ることになる。
地方とGHQの攻防があった。 米軍から守った人とそこで儲けた人もいた。 戦争で亡くなったり、空襲で亡くなったりした家族は米軍憎しだが、被害に遭わなかった原宿エリアの人たちは、日本軍への不信感が半端ではなかった。 目の前にアメリカの豊かな暮らしを見せつけられると、アメリカのデモクラシーを受け入れた方が豊かな暮らしが待っているのではないかと言う風に考えて、素直に受け入れたという側面が一つあります。 アメリカ兵は子供たちとの交流が楽しかったようです。 「日本という国に恋をした。」と複数の人が言っていたようです。 京都が余りメリカ化が進んでいない。 それはGHQが植物園のなかにあったからよかったんだと思います。 余り接点がなかった。 京都に伝統文化が残ってるのは植物園の中に納まっていてくれたお陰ではないかと私は思っています。 とりあえず知っていることを書き留めようと思いました。