2021年5月31日月曜日

今森光彦(写真家・切り絵作家)     ・【オーレリアンの丘から四季便り】

今森光彦(写真家・切り絵作家)     ・【オーレリアンの丘から四季便り】 

滋賀県大津市、琵琶湖をのぞむ田園風景の中にアトリエを構えて、里山環境を取り戻すために活動しています。  今年の春から初夏のオーレリアンの様子について、伺いました。

オーレリアンの庭とか土手にフキノトウが咲きます。  それが春が来たという印です。  いろんな背丈の低い花が咲き始めます。   仏の座という綺麗なピンク色の花がありますが、一杯咲きます。  たんぽぽがだんだん咲いてきて土手全体に広がっていきます。  草の葉っぱが出てくるので土手、あぜ道が緑色になります。   このころ田起こしがあり、土を撹拌する農作業が始まります。   そのあと水が入り苗が植えられます。

今は木の葉っぱが新緑で、木の花がちょこちょこ咲いています。   ガマズミ、ウツギなど白い花、キバナウツギが黄色い花が咲きます。  アゲハチョウそれからキマダラヒカゲ、ヒカゲチョウ、クロヒカゲなどがだんだん出てきます。

「光の田園を歩こう」というイベントを開催しました。   東西に繋がる棚田があり、谷があり、そこが好きで光の田園と名付けて写真を撮ったりしてきました。   アトリエもそこに沿ったところにあります。   棚田がうねっていて昔の風景が残っています。  ここを歩くことを年に2回開催(新緑のころ、秋)しています。   中学生から高齢まで全部で70人ぐらいです。(コロナで人数を制限)    今回は田んぼの真っただ中を歩きました。  シュレーゲルアオガエル、アマガエルなどがずーっと鳴いています。  あぜ道には初夏の花が咲いています。      五感を駆使して環境を受け止めています。  感性に栄養を与えます。

去年、梅の木をたくさん植えました。  高さ30~40cmぐらいのものです。   周辺の雑草を刈るのを年に数回ありますが、そろそろ1回目をやる時期です。  周辺を手で刈って、そのあとに草刈り機で刈っていきます。(幼木を刈ってしまわないように)    木は成長に時間がかかるので、枝ぶりとか考えてかなり計画的に行います。    思い入れのある木はエノキという木で、エノキだけしか食べないチョウチョがいて、オオムラサキ、ゴマダラチョウ、ヒオドシチョウ、テングチョウはエノキしか食べない。  里山のチョウチョでエノキが減っていって、これらのチョウチョが激減しました。  大津でも一時期ほとんど見られなくなりました。    タマムシもエノキが大好きです。   虫がたくさん集まるので嫌がられるのと、開発によって、どんどんエノキがなくなりました。

見えなかったが、竹藪を伐採る中で樹齢150年もするエノキが出てきました。   もうそれから5,6年たちましたが、樹形がよくなってきました。  去年はタマムシがたくさん見られました。   

2019年7月「丘のうえのいっぽんの木に」という切り絵の絵本を出版、エノキが主人公の絵本。   思い切って黒紙の切り絵にしました。  文章も自分で書きました。

エノキの発見箇所から20mぐらいのところには山桜あり、変な形をしていました。    こちらも樹齢150年以上のものでした。  今年ようやく花が咲きました。  多分昔、農家の人の田植えの時期の目印にしていたと思います。   

里山では、みんなで生きているという事が必ずしも助け合って生きているというイメージではなく、それぞれが自立している、自分を一生懸命生きている。  自分が一生懸命生きていることが他者に影響を及ぼして、全体を成長させることになる。  植物たち、生き物たちみんなそうしている。  その中に当然人も含まれるわけです。  農家の人もそうで、田畑を耕して米、野菜などを収穫することによって、それが結果的に生き物にとってもいいんです。  里山を見ていると「、みんなで生きている」という事を強く感じます。

人に遊び場を提供してくれるような包容力にある農地を目指している、そんな感じです。 農薬は一切使わない。   自然を学ぶという事はありとあらゆることの基本という気がします。   日本人はどこから自然を学べばいいのか、そういった場所がなくなり危惧しています。  人に会えないコロナ禍であるからこそ里山に出かけて欲しいです、自然に親しんでほしいです。

 






2021年5月30日日曜日

鈴々舎馬風(落語家)          ・馬風師匠の65年

 鈴々舎馬風(落語家)          ・馬風師匠の65年

千葉県野田市出身の馬風さん、17歳でさん師匠に入門し、二つ目で柳家かゑるとなり、キックボクシングのリングアナウンサーとしても活躍しました。   1973年 34歳で真打となり、鈴々舎馬風を襲名しました。   現在81歳、落語協会の最高顧問ですが、今年1月中旬に新型コロナウイルスに感染して入院、糖尿などの持病があったため心配されましたが、3月15日無事に退院しました。  今年柳小さん師匠に入門してから65年、新型コロナウイルスのことや落語のことなどを伺いました。

2か月ベッドで寝たきりで筋肉が衰えてしまったが、退院して1か月ぐらいで歩きました。   今年1月中旬に新型コロナウイルスに感染してしまいました。   いよいよお迎えが来たなと半分あきらめました。   熱が37.5度から38度ぐらいでした。   楽屋に入るとマスクを取ってしまってこれがまずかったです。  ちょっと動くと息切れしました。  糖尿と腎臓が悪いんです。   いい薬があるという事でしたが、これを飲むと血糖値が上がってしまううので、朝、昼、晩、ともう一回、一日に4回インシュリンを注射しました。  最初は6,7錠で強い薬で、今は2錠になっています。 入院中は酸素を使って居ました。 胸の陰りが無くなっていきました。   家に帰ってからは妻と娘が看護師役をよくやってくれました。    高座は6月17日から20日まで浅草演芸ホールを予定しています。   金馬さんは10歳上ですが、頑張っています。

1939年千葉県野田市生まれ。  床屋で8代目でした。  屋号は京屋と言っていました。 中学卒業後、国際文化理容学校に入りましたが、継ぐ気がなかったので遊んでいました。  落語家になりたいと思ったのは小学校6年生ごろです。  落語は本を読んで学びました。 落語家への道を諦めきれず、知人の太神楽鏡味一鉄さんの紹介で誕生日である12月19日に5代目小さんの内弟子になりました。(17歳)     前座は小光と言っていました。(1956年)  1960年(昭和35年)二つ目に昇進(21歳)柳家かゑるになりました。 

1967年(昭和42年)からキックボクシングのリングアナウンサー、歌手の公演の司会なども務める。(アナウンサー馬場雅夫さんの紹介)  当時沢村忠選手が居ましたが、日大の空手部出身でものすごくジャンプ力がありました。  プロレスのアナウンサーもしましたが大変でした。   こういったことをやって世の中へ出るきっかけになりました。   師匠からは「何をやってもいいが噺家だと言う事だけは忘れるな」と言われました。

今は落語家の格が上がってきましたが、みんな名人になろうと思って色が似てきてしまった。   師匠は「滑稽話は若いころ、人情噺は年を取ってからやれ」と言っていました。寄席はいろんな噺家が出て、漫才、曲芸、マジックがあったりしたほうがいいと思うので、噺家も偏り過ぎているところがあるかも知れないです。  

ラジオ深夜便はよく聞いています。  古い歌も聞きたいです。  

コロナで今はみんな苦しんでいますが、我慢して力を蓄えて行ってほしいところです。











2021年5月29日土曜日

松重豊(俳優)             ・【私の人生手帖(てちょう)】

 松重豊(俳優)             ・【私の人生手帖(てちょう)】

1963年長崎市生まれ、福岡県で育ちました。  福岡の高校から大学に進学し、卒業後,故蜷川幸雄さんが主宰する蜷川スタジオから俳優の道がスタートします。   以後、舞台や映画、TVドラマなど数多くの作品に出演、その確かな演技には定評がありますが、昨年出版された著書のタイトルは「空洞のなかみ」で、役者は単なる器に過ぎないというのが持論です。   その真意はどのようなものなのか、そしてそうした内面を形作った出会いはどのようなものだったのでしょうか。

今、身長は187cm(若いころは190cmあった)で、昔は合う衣装がなかったのではじかれていました。  食べるものもあんまり食べないで体形を維持しています。   子供のころは相撲が大好きでした。  勝負が決まるのが早いことと、そこに行くためのプロセス、駆け引きのプロセスが子供心に面白くて、ほかの格闘技にはない公平さ(裸にまわしだけ)に惹かれて相撲取りになりたかった。   「相撲」という雑誌の対談へ応募して、豊山関に「相撲取りになりたい」と言ったら、「高校、大学に行ってそれでなりったかったらおいで」といわれて、そのまま帰ってきてしまいました。

NHK総合土曜ドラマ今ここにある危機とぼくの好感度につい』 最終回になりますが、大学の総長役。  本当は去年の春ごろにやる筈でしたが、コロナとかウイルスにちょっと触れていたりするので、予言していたぐらいで、作品としては撮れませんでした。  仕切り直しをして昨年の12月からり始めました。   こっちがどんな球を投げても松坂桃季君が受け止めてくれるんで、楽しいと思う瞬間があり、コロナ禍であってもコミュニケーションを取れて、よかったなあと思います。

1986年に大学を卒業、蜷川スタジイオに入団。  東京に出てきて生で見る演劇の衝撃に打ちのめされました。  今やるのは演劇だと思ってしまいました。  蜷川さんについて3年半やって、この世界で生きてゆく最大の財産になりました。  蜷川さんが「3年で野良犬をオオカミにして世に送り出してやる」と言ってましたが、言葉の暴力、ものは投げられたりありました、このままここにいたらだめだと思って3年半で逃げ出しました。   1年半後にまた演劇の世界に戻ることになります。   勝村 政信君から1回だけやらないかと誘われて、芝居をやって建設現場に戻ってきたら、転落事故を起こして芝居に戻る事になりました。  建設関係のアルバイトは引き続きやっていました。

お芝居は稽古初日から本番までどういう組み立て方をしなければいけないかという事と、本番初日から楽日までどういう風に過ごさなければいけないのか、日々努力して更新してゆくことを怠るなという事。   そういう積み重ねがいつか実を結んで売れるという事になり、売れたらいろんな人が見に来てくれる。  これがこの世界の基本ルールですよね。

「空洞のなかみ」 昨年出版。  役者というものは、役はそのタイミングで与えられるものだし、役作りも僕の中では作る必要のないものだと思っています。  器の中にたまたまその役が入ってきて、それが出たり入ったりの繰り返しなんで、自分中心の物事を考えないほうが、いいと思います。  若いころは自分で作ろう作ろうとしていました。  セリフを覚えてくることがまず第一番ですが、相手の目の動きとか、手のしぐさとか、そういうものに感じるということでお芝居ができるという事、そこが一番面白いからやっている感じがします。   できれば空っぽになってカメラの前に立ちたいなあと思っています。

自意識を捨てるという風になるのにはずいぶん時間がかかりました。  広隆寺の弥勒菩薩を前にして、ぼーっとしたりして、ぼーっとすることも大事と思って、禅だとかに興味が浮かび座禅道場に行き始めたり、仏教の本を読んだりしました。   自分を見つめていることからお芝居も楽しく成りました。  仏教でいうところの空の境地に近づけたらいいなという気分ですが、そういうことで楽になってきました。

「孤独のグルメ」  原作を見たら面白いんです。  飯を食べるだけでいいんですね、と言ったらそうですという事でした。  よけいなことだけはしないという事はお伝えしました。  主役は出てくる料理、食べ物で、僕はサポートするキャストだという風な関係です。  本番まで出てくる食べ物は食べないで、ドキュメンタリーに近いものです。

僕は元々音楽が好きで、蜷川さんもお芝居に音楽をつける感覚でいうと、日本でも第一人者だと思って、憧れがあったんで、映画を見る時間よりも音楽を聴いている時間が圧倒的に多かったので、音楽は僕にとっては無くてはならないものなので、ラジオ番組もやらさせてもらっています。  生活の中にずーっと音楽がかかっている感じです。  オーティス・マクドナルドに今ははまっていまして、「ホリデー」という曲が好きです。








2021年5月28日金曜日

北斗晶(タレント)           ・【ママ深夜便☆ことばの贈りもの】いつまでも笑顔が続きますように

北斗晶(タレント)    ・【ママ深夜便☆ことばの贈りもの】いつまでも笑顔が続きます 

北斗さんは女子プロレス界の人気選手として活躍した日本で初めてのママレスラーでもあります。   27歳の時にプロレスラーの佐々木健介さんと結婚、34歳で引退した後も、主婦タレントとして多くのテレビ番組に出演し、鬼嫁として人気を博しています。   現在53歳になる北斗さん、これまで健介さんが所属していた、プロレス団体が崩壊して収入が途絶えるなど数々の逆境を乗り越えてきました。  北斗さんは夫婦、親子、人生についてどんな風に考えているのか伺いました。

長男が22歳、次男が18歳です。   長男は18歳からカナダに留学しましたが、去年の夏休みに帰ってきました。  コロナ禍で今はまだ日本にいます。   地球儀が好きで母の日に世界地図をもらいました。  行った国を削っていくタイプのものです。  ブロガーが140万人以上になっています。   女子プロになって包丁を持つようになりました。  やっているうちにアレンジ料理みたいに繋がってきました。   コロナ禍で仕事が激減してしまいました。   夫婦仲は友達みたいだし、仲はいいと思います。(結婚 26年)   黙って私の文句を聞いているだけなので喧嘩にはならないです。

子供が宿っているのも知らずに2か月ぐらいは試合をしていました。   子供が出来たら引退したいなと思っていました。   全日本プロレスという協会に所属していましたが、25歳で定年、酒、男は駄目という決まりがありました。  全日本女子プロレスを作った松永会長の25歳ぐらいになったら結婚して幸せになりなさいという親心でした。  結婚しても続けられたのは特例を認めてもらえるようにしてくれた健介のおかげです。  

生んだ時には一人の人間を世に出す命の痛みだと思いました。  興業がすれ違う中での出産でした。  母乳が出なくて、参考書を買って読んで、3時間おきにミルクを与えるとか書いてありましたが、起きないんです。   泣いたらやるようにましたが、起こしても飲まないんです。  子供たちは90%ミルクで育てました。  虫歯は一本もなかったです。  母乳、母乳とか、成長が遅いとか情報に振り回されて悩んだりするのも、という感じはします。

健介がいないときにお風呂に入れるのが大変でした。   必死でやってきたのでいろんなことを覚えていないんです。   出産して8か月後にリングに上がりましたが、引退しようと思っていました。    子供のいるレスラーは日本初だったので、引退できなくなってしまいました。(マスコミが大きく取り上げてくれたりした)   会場に子供を連れて行って、面倒を見ました。    熱が出たり、吐いてしまったりするとこもあり、自分のやりたいことに子供を付き合わせて、なんて悪い母親だろうと思った時がたくさんありました。   

プロレスが好きになったのは私を生かす道だと思いました。  埼玉県の吉川市で生まれましたが、小学校は歩いて1時間かかりました。   中学は自転車通学で40~50分かかりました。   自然と体力がついていきました。  祖母がプロレスが大好きでいつもテレビにかかっていていました。  高校で一番仲良くなった子がプロレスファンでした。    友達と一緒に新日本プロレスの轟の道場に見に行ったら、出てきたレスラーから女子プロレスになったらどかといわれて、この道に入りました。   

仲のいい友達がいましたが、或る時突然亡くなったという電話が入ってきました。  お通夜に行ったときには長男が2歳半ぐらいで彼女の娘が3歳ぐらいでした。  「ママは死んじゃったんだよ」とか長男と会話をしていましたが、このぐらいの年の子は分からないんだという事を初めて気が付きました。(死の意味がわかっているようでわからない)   そんなことがあっって、肘を痛めていてお通夜の帰りに長男を抱っこできなくて、やめようとふっと思いました。  その日に会社に引退の連絡をしました。

健介の収入が一時、全く入らなくなってしまった時がありましたが、私の実家が専業農家だったので、父親が米だとか野菜類を届けてくれました。    健介に言ったのは、周りのほかの人の文句をめちゃくちゃ言いました。   健介をこのままにしておくことはできないので私がマネージャーをやることにしました。  周りからの非難もありましたが、必死で食って行かなくてはいけないので、鬼嫁、鬼嫁と書いてくれることでブーイングから声援に変わるようになりました。  テレビの出演要請も出てきまして、今に至っています。   ちょっとしたことでもよく言われるのは、悪党役だったからで、ラッキーです。

いいお母さんとかを決められるのは自分の子供だけですよ、世間の声は関係ないです。  型にとらわれる必要はないと思います。  こんな私ですが、子供たちは私のことを大好きですから。






 







2021年5月27日木曜日

田渕俊夫(日本画家)          ・【私のアート交遊録】毎日が挑戦(前回:2020/6/25)

 田渕俊夫(日本画家)      ・【私のアート交遊録】毎日が挑戦(前回:2020/6/25)

https://asuhenokotoba.blogspot.com/2020/06/20171123.htmlをご覧ください。

2021年5月26日水曜日

高木絢子(園芸研究家)         ・【心に花を咲かせて】バラに夢中でいつしか半世紀

 高木絢子(園芸研究家)      ・【心に花を咲かせて】バラに夢中でいつしか半世紀

バラの世界でマダム高木として知られていて、たくさんのバラの本を出しています。 87歳、庭にはゴールドローズ、モダンローズ、蔓バラなどたくさんのバラを育てています。  バラの魅力や高木さんがなぜバラに夢中になったのか、バラ栽培半世紀を経て今何を思っているかなど伺いました。 

庭には約200種類のバラがありましたが、だんだん減ってきて100種類ぐらいかと思います。 バラの栽培には体力が必要でだんだん減ってきました。   お気に入りのバラは年々変わってしまいます。   感動した瞬間がたびたび来た花に関心がいきます。   なぜかいろいろ変わってしまいます。  時間、温度、湿度、木の立ち具合によっても花は違います。  一輪ずつ全部違います。  色も変化して行きます。   オレンジ色のマダムシェルルソバーはフランスの有名な育種家シェルル・マルランという方がいい花をたくさん作りました。 この花は直径10cm以上あります。   隣りは生き生きした鮮やかな赤いバラ。 葉っぱも形も色もいろいろ違います。  薄いピンクの小さな花がたくさんついている、これはオールドローズでブラッシュブールソールです。   バラの種類はわかりません、多分何万とあるかと思います。

肌色に近いようなバラ、アンブリッジローズ これはイングリッシュローズで割と新しい花です。(1990年)  黒バラと呼んでいますが、深いワインカラー。  青いバラはないです。  バラは肥料好きです。  芽出し肥、花が終わったらお礼肥もあげますし、水も欠かさずあげます。 気温、湿度などによって水のあげ方も変えます。 木の大きさによっても変えます。

今年は咲くのが早めでした。  ちょっと色も違って濃かったり薄かったり咲いています。

咲き終わったら芽の先をつんだり、春と秋には剪定をします。 何にもやらなくてもいい日はないです。  その分大きな感動を与えてくれます。 言葉にならないが花と会話をしています。  

何時バラが好きになったのかわかりません。  いろいろきっかけがあって少しずつ少しずつ好きになっていったような気がします。  父が植えたバラを、父が亡くなって世話をするようになったのが、世話をする最初でたくさん咲きました、50年前ぐらいになります。  ピースという蔓バラでした。   その後いろいろ栽培を教えていただいて、俄然やる気になりました。  当時は鈴木 省三 (すずき せいぞう)先生の本と柳さんの本と2冊しかなくて、両方見ながら作っていた覚えがあります。  バラを売っているようなところもありませんでした。  洋書にはバラの本がいろいろあったので苦労しながら読みました。  育種家の特徴、国の特徴もあり、時代によってもいろいろあり、バラも最初は野生種から始まったというようなこともそういった本から教えられました。  バラの系統も外国にはしっかりありました。

野生種は紀元前2000年前ぐらいからいくつかあったようです。  単片で5枚の花弁でしたが、花びらが増えて行って、花も大きくなっていきました。  人間が自分で植えるようになって人工交配が始まります。   時代によって変わっていって、美しさを求めるその美しさが変わっていっているということを感じます。  

大きな花を一輪咲かせるものをコンテストにもっていったりしていましたが、房咲きも出していいようになってきて、ミニバラもできてきましたが、大きく変わったのはイングリッシュローズが出てきたことです。  イングリッシュローズを作ったデヴィッド・オースティン は50年をかけてオールドローズの形をした、四季に咲く花を研究した。

オールドローズは春にしか咲かないバラです。  四季に咲く花が作られるようになりました。 (春、秋 国によっては一年中咲いている)  四季咲きは中国にあり、突然変異でできたもので、それを大事にしてそれを親に使って、今の四季に咲く花が作られた。

1年がかりで計画を立ててイギリスにバラを観に行きました。(34,5年前)  人々のバラに寄せる思いが違いましたし、風景も違いました。   その後毎年イギリスにはいきました。  

育てる方の思いが今日までつながって、今あるバラに繋がっているわけです。  その花が咲きたいように咲かせたいと思っています。  もっと美しい時があるのではないかと探すが、向こうからは来ない、こっちから見ようとしないと見えない。  もっと知らなければと思っています。  バラからは一杯感動をもらっています。



2021年5月25日火曜日

内堀タケシ(写真家)          ・故郷に帰れない子どもたちに

 内堀タケシ(写真家)          ・故郷に帰れない子どもたちに

1955年東京生まれ、日常をテーマに世界を取材し、カメラに収めています。    2001年からはアフガニスタンの子供たちを撮影して、写真展を開いたりアフガニスタンの子供たちにランドセルを送る活動を取材したりしています。  この活動は「ランドセルは海を越えて」

という写真絵本になり、小学4年生の国語の教科書にも取り上げられました。    又東日本大震災の後、東北の子供たちとも交流を深めカメラに収め続けています。  

東日本大震災以来、バイクに乗ってたびたび福島に訪れています。  最初のころは石巻とか津波のひどかったところへ食べ物とか、水とかを持って行っていましたが、原発の被害のひどかった福島に行くようになりました。    写真絵本福島2011年3月11日から変わった暮らし、写真と文章も書きました。 きっかけになったのが、2013年に福島の二本松の小学校で開いた写真コンテストで4,5,6年生を対象に出向いて行ってやっていました。     校庭に咲いた桜の木があり、その桜の木の放射線量が高いので全部その木を切って、校庭に埋めてしまうという事をしました。  小学5年生の達也君が撮った写真と文章が絵本の中にも載ってます。  彼は今19歳で大学生になっています。   彼に来てもらって校庭で切り株らしき所で写真を撮りました。    放射能の問題は複雑ですごく深いから真正面からこの問題に向かえないと彼は言いました。   当時放射能の線量計を首にかけて登下校していたことは、僕も知らないことだったのでおどろきました。    今は二本松小学校は普通の暮らしになっています。

同じ小学校5年生の根上さわやさんの写真と文章もこの絵本に載っています。  「外を見ている犬」という題名になっています。   半分開いた障子から放射能で外に出られない犬の後姿を撮っている写真。  散歩に行けない寂しそうな感じが伝わってきます。  10年たった今も心の中にいろんな複雑な思いがあり、友達ともばらばらになってしまった。

アフガニスタンに行って写真を撮っていて、大震災の前にも福島でも展示してよく行っていました。   大震災の4か月後ぐらいにある先生から呼ばれて、アフガニスタンの話をしてくれるように要請されました。   アフガニスタンの難民の話なども、自分のことのようにわかると先生に言われました。   写真を持って行って親身になって聞いてくれたのを覚えています。  ほかの町でも話の要請があり出かけました。    写真を選んでもらってなんでその写真を選んだのかを聞いて、それを話すとみんなが共有出来て、僕が難民キャンプのエピソードなどを話すわけです。  僕が吃驚するような反応もします。

僕が難民キャンプに行ったときに、目の前で亡くなってしまう赤ちゃんを見ました。  医師になんでこの子を助けられないのか聞いたら、僕は食糧支援のために来たわけではなくて医療に来ている、お腹を空かしている人は治せない、出来ることとできないことがあるといわれました。  写真を撮って人に伝えるべきだといわれました。   それで子供たちに伝えるようになりました。  

福島でも僕はほとんど何もできなくて、写真を撮って伝える事しか出来なくてもどかしさは感じます。  着の身着のままで逃げて、ようやく帰ってきても周り家の人は帰ってこなくて、或る意味戦争の難民に似ているような気がします。

最初にアフガニスタンに行ったのが2001年です。  2001年9月11日にツインタワービルに旅客機が突っ込んで、アメリカが空爆を開始しました。   チャリティーでの資金で教育援助という事で、行けそうもないような状況の中アフガニスタンに行くことになりました。   吃驚したのは空爆で瓦礫になった街の中で子供たちが凧揚げをしているんです。  暮らしぶりや子供たちの写真を撮るようになりました。   

日本から使えなくなったランドセルを送る運動も始めました。  20年になるので20回ぐらい行っています。    戦闘は毎日のようにやっているので、アメリカ軍が撤退したらどうなるのか、という思いはあります。  タリバンと現政府がうまくいく場合もあるので、期待もしています。  環境が悪くて体調を崩すことがよくあって、行くことは嫌なんですが、行くともの凄く強いハグをしてくれて、「元気だったか」といわれると涙がでてきます。  生きてるということが実感できます。    子供たちは目がキラキラしていて生き生きと写ります。  つらい環境にいると人間って生のほうに向かうすごい力が出るので、逆に生き生きしている。  日本は平和で豊かなのに、日本の子供を撮る時のほうが難しいという事があります。

 










2021年5月24日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)         ・【絶望名言】中島敦(初回:2017/10/30)

 頭木弘樹(文学紹介者)         ・【絶望名言】中島敦(初回:2017/10/30)

https://asuhenokotoba.blogspot.com/2017/10/blog-post_30.htmlをご覧ください。

2021年5月23日日曜日

河本美津子(抱っこボランティア)    ・子どもたちにぬくもりを

 河本美津子(抱っこボランティア)    ・子どもたちにぬくもりを

乳児院や児童養護施設の乳児や幼児を抱っこするボランティアです。  活動を始めて間もなく10年になります。   親の虐待や育児放棄、若い母親の生活苦で取り残された子供たちは全国でおよそ4万人いるとされています。   社会的に弱い立場にある幼い子供たちを支援するには、どんなことがありどうしたらいいのでしょうか。 

抱っこボランティアを始めたのは乳児院で親と暮らせない子供たちを抱っこしようという事ですが、抱っこボランティアという言葉は使わないんです。  乳児院は2~3歳まで、児童養護施設になると2歳~18歳までいますので、だっこできない子は離れていても目でだっこ、心をだっこという風にしています。   溢れんばかりの愛を持っていこうと思っています。 

子供たちが受け入れてくれるかどうか、心配な面がありました。  最初に見たとたんにメロメロでかわいくて何の心配もなかったです。  一般社団法人「ぐるーん」という名前ですが、活動の創設者である、有尾美香子さんがつけた名前で「世界はぐるぐるでできているんだよ」という事ですが、私たちは周りのいろいろなものを巻き込みながら、だんだん大きく広がってゆくような、そういうイメージかなと思っています。  実際活動している方が2300人ぐらいいます。  私が登録した当時は大阪、東京、神奈川で活動していました。  岡山でもできればいいなあと思っていたところに声がかかりました。  2012年のことでした。

有尾美香子さんが若くして亡くなってしまって、2015年に私が代表理事を引き受けることになりました。  以前は外国人、外国人の子供に日本語を教えるボランティアをしていました。  親と離れて暮らす子供たちはどうなのかなあと思いました。   そういった子供は全国でおよそ4万人いるとされています。

パンフレットには「手は与える 癒す力を」、「手は感じる 人のぬくもりを」、「手は伝える 一人でないことを」、「手は作る 人との絆を」と書かれています。   お金も大事でそういうもので手助けする人もいますが、私たちは愛と温かさをという事です。  食事の時間に厭がる子がいて、私は母乳で育てて、泣いたりすると抱っこして母乳を与えたりしていましたが、その子供はそういったことをしてもらえなかったのではないか、親から十分な愛情を受けなかったのではないかと思いました。     知らない人から与えられると、危険と察するのか命がけで抵抗するわけです。  その子の名前を呼んで、一緒にその子がやりたいことをするとか信頼を得るように心がけました。   その子が1歳前後の時でした。  抱っこは比較的に早くはできましたが、心がほぐれるのには時間がかかりました。  抱かれたことのない赤ちゃんは最初に抱くと体が硬いのですが、だんだんと柔らかく成ります。

パンフレットにはナンシーのことも書かれています。  小児病棟に入っているナンシーは3歳ですが、身体も小さくて1歳半ぐらいしかなくて成長もしない検査をしても異常はない。  ナンシーの家族は入院中面会にも

来ない。  ナンシーに声をかけたり、抱っこして微笑みかけたりすることでナンシーは変わっていきました。   私たちのグループ活動にしていきたかったので、この話を聞いて何回泣いたかわかりません。  このエピソードはカトリックシスターの鈴木秀子さんがアメリカに滞在していた時に、或る大学病院の医師の友人から聞いたという話です。  3か月入院で3歳児と同じ体重にぐらいになり、可愛い笑顔が浮かぶようになり、言葉も急速に覚えた。

この仕事をやっていて落ち込んでしまうようなときにはこの本を読んで、大切にしています。 「一声かけて、微笑みをかけて、抱き上げて、あやしてください」と。

私たちは抱っこボランティアのことを「ぐるーん」するといいます。 私たちのメインの活動は子供さんたちと一緒に遊ぶこと、やりたいことを一緒にする、それが「ぐるーん」です。   子供を囲む地域のひとたちも巻き込んでいろんな人たちに、どの子にも関心を持って触ってくれる人がたくさん必要だと思います。   大人も子供も孤立しないように、私たちもいろんな人を巻き込んで、そういう社会になればいいなあと思います。   

赤ちゃんを育てることができずにいる母親が特別養子縁組という制度を利用して、赤ちゃんが欲しいご夫婦に養育してもらうという選択肢を選びました。   その話を彼女から聞いて「ありがとう」と言ったら、彼女はびっくりしていました。 批判的なことしか言われてこなかったといっていました。 彼女に宿った命を大切にしてくれてありがとうという意味の言葉でした。  

子供は一種の天使のような笑顔がありますね。








2021年5月22日土曜日

高木俊介(精神科医)          ・「地域がつなぐ"こころとこころ"」

高木俊介(精神科医)          ・「地域がつなぐ"こころとこころ"」 

2004年から京都のクリニックを拠点に在宅訪問医療を始めました。   医師や看護師、精神保健福祉士などとチームを作って、重い症状を抱える精神障害者が地域で生活できるように支援を続けています。   患者の多くは統合失調症という幻覚や妄想が特徴的な精神疾患を抱えています。  差別や偏見のため自宅でなく病院での長期入院を強いられるケースも多い中、高木さんは自宅での生活を優先し、地域との接点を保つことが重要だと考えています。  地域とのつながりを大切にしながら、統合失調症への支援を続ける高木さんに現在に至る歩みを伺いました。

重度の精神障害を持った人に訪問診療を行っています。  福祉と医療を総合したいろんな人のチームで24時間365日の体制でやろうという方法で、アメリカで始まったアクト ((Assertive Community Treatment) - 包括型地域生活支援の別名。精神障害者に対する支援プログラム)、というやり方です。  高木さんは一人の患者に対して医師、看護師のほかに生活に必要な能力を回復させる作業療法士や、社会への自立をサポートする精神保健福祉士らとチームを作ってあたっています。   スタッフがそれぞれの専門性を生かすことで、多彩な支援ができる様にしています。   20人ほどのスタッフで京都市内を中心におよそ150人をケアしています。   医師は薬でなんとかしようとするが、ケースワーカーは経済的なケアをするだけで、医師が薬を出さなくても、幻覚や妄想の世界に行かなくても済む。

在宅訪問医療の人はおおくは統合失調症を抱えています。  統合失調症は100人に1人は発症するといわれています。  周りの人には理解しにくい症状に苦しみ、誰のことも信用できなくなるといわれます。  統合失調症の人は現在80万人いるといわれ、地域の理解や支援を受けられないことで病院での長期入院を余儀なくされる人もいます。

何かわからない世の中、世界に対して何か不信感がある、だから世の中からこもってしまう。  思考のまとまりが悪くなる。  物事を順序だてて考えていったり、冷静に周りのことを認識するという事がすごくしにくくなる。  そのために感情が不安定になります。   そういったことを含めて統合失調症といいます。  薬でその人の症状だけ抑えてしまうと、周りはこれでよかった、薬を飲んでさえいればいいんだと思うと、背後にある問題や、その人の人生の生きずらさとかをほったらかしにされてしまうから、その人にとっては余計苦しいです。    統合失調症の症状は一人一人違って、穏やかな時には周りから脅かされずに安心していられるところで、自分がこれをしたいといった時にすっと受け入れてくれる人が周りにいる、そういう安心感を得ているとき、統合失調症の人がよくなっているときだと思います。

1957年 広島県因島で生まれ、医師だった父が開業することになり、一家は岡山に移ります。  1977年京都大学医学部に進学、1984年精神医療を問う衝撃的な事件が起きます。宇都宮市の900床ある大きな精神病院で看護職員の暴行によって2人の患者が死亡した「宇都宮病院事件」です。  病院内での日常的な暴力や患者を強制的に働かせていた事実も明らかになる。  国際的にも大きな批判を浴びました。

それまでにも小さな事件は一杯あったが表ざたにならなかった。  高度成長期、都会に人が集中し、精神障害者の病院への隔離、収容が国策として進められ、病床数は増加の一途をたどる。 産業構造が変わって地方の労働力を都会に集めなければいけない。 精神障害者は病院が必要だという事で、精神病院がどんどん建てられ、それまでは1万、2万のベッドだったが、35万ベッドになる。

「宇都宮病院事件」で衝撃を受けて大阪の病院に勤務する。  患者さんを開放しようという動きが全国にようやく広まったころでした。  精神障害者の人権を守ろうと活動している病院があり、そこの病院に就職しました。  精神医療改革をやらなければ駄目じゃないかと思いました。   開放的な病院だと思ったが鍵のかかった病棟はたくさんありました。  狭い部屋にベッドが並んでいて臭いにおいもしていました。  ベッドがあるのはましなほうで、おおくは畳部屋で10人以上の人が雑魚寝している。  超過入院と言って病床の120%入れているのが当たり前だった。    

患者がけんかをして頭にけがをして、被害者、加害者の双方の家族が来るわけですが、言い出したのが「先生、このことは公にはしませんから、お願いですから病院から追い出さないでください」という言葉でした。  何が起ころうが捨てられた人たちなんだと思いました。   6年目に超過入院もなくなりプライバシーが守れるような病室になりました。  そうすると見事に暴力沙汰がしょっちゅうあったのがなくなりました。  荒れた状況は環境のせいだとわかりました。

往診に行って患者さんを連れてくるわけです。  入院のための往診はたくさんしました。 入院して治療をすることは良いことだと思っていたから。  患者さんをこちらの思いだけで引っ張ってきて、治療して薬を飲ませていたら、患者さんはよくなって、家族からも地域の保健士さんたちからもお礼を言われるわけです。  うずくまっていたりするような人を自分は一杯作ってしまったなあと或る時思いました。  病院という力を利用して個人にバイオレンスしていたんだなあと思いました。

1993年日本の精神医療に大きな転機が訪れます。   精神分裂病は差別的として、精神障害の家族会が病名の変更を要請します。  私もこの運動に参加しました。  病気の苦しみと病名の苦しみの二重の苦しみを負っている。 2002年精神分裂病は統合失調症に変更されることになる。  精神の働きによって物事を統合して判断などをしているが、統合が何らかの原因で崩れてしまって今目の前にあるものが何なんだと、どうまとめ上げていいかわからない、自分の経験の中にないものになってしまう。   それを何とか言葉でまとめ上げようとすると妄想になったり、何か世界が大変なことになっていると思ったりする。  統合失調症はずーっとそうではないから、元に戻るんです。 崩れる時と崩れない時もある。

2004年統合失調症の在宅医療を始めました。  入院させるのではなく自宅での生活を続けながら、地域が支えてゆく仕組みを作りたいと考えました。   多彩な支援ができるように医師、看護師だけでなく精神保健福祉士などの人を集めました。  患者さんとの信頼関係を築くことを大切にしています。  一人一人に合った寄り添い方で患者さんが心を開くきっかけをいろいろ探しています。

暮らしなれたところで馴染んだ人たちが周りにいるなかで、自分が安心できる生き方を見つけてゆく、幻覚や妄想があってもそれに付き合いながら、現実を見ていけるような生活を探していけるという事だと思います。   人間は生活する中でいろいろな苦労が、生きているという事に繋がってゆくわけです。  苦労が無かったら生きている感じもない。 日本の精神医療の体制は家族への苦労を強いてきたと思います。 家族もSOSを持っていて家族への支援も重要になってきます。  病院はそこまでのことはできない。  地域がかかわる必要が出てくる、アクトが同時に支援してもいいし、家族を支援できるような組織、人達を家族のもとに私たちが引っ張ってきてもいいと思います。

今回の案内役の釈 徹宗(しゃく てっしゅう)さんが目指すのは認知症の人も地域の中で、ともに暮らせるような施設です。

偶然の力を集めて、その偶然の力がどっかで楽にする、それをぼくらは引き寄せることを仕事にしている。  様々な出会いや関わり合いから生まれる偶然の力、この偶然の力を高木さんは母親の看取りから実感したといいます。

母も認知症で、気位の高い人でした。  癌になって最後を看取る時に、最後まで機嫌がよくてニコニコしていて、僕としては死に目に会わないことも覚悟はしていました。  周りからはもうすぐ息子さんが来るから頑張ってと言って、僕が来たら息を引き取りました。 まわりからは「息子さんの顔を見て安心して逝かれました。」という風でした。     それは本当に偶然なのか考えるわけですが、その場の力が母親を生かしてきたんじゃなかと思いました。  僕が来たとたんに周りの人たちが安心してしまって、命を支えていた力みたいなものがふっと緩んだんでしょうね。  母もそれで緩んでふっと逝ったんでしょう。  偶然は起きるんですよ、いい結果をもたらす偶然は奇跡といっていいと思うんです。   偶然を集めたとことで縁を作って、縁によってよりよく結果をもたらす、そういう力を溜めていきたいです。





2021年5月21日金曜日

市橋芳則(北名古屋市歴史民俗資料館館長)・博物館で"認知症予防"

 市橋芳則(北名古屋市歴史民俗資料館館長)・博物館で"認知症予防"

北名古屋市歴史民俗資料館は去年第一回日本博物館協会賞を受賞しました。   博物館のコレクションを活用して認知症を予防する回想法という心理療法を取り入れ、高齢社会に先進的に取り組む博物館として評価されました。   館長の市橋さんは58歳、南山大学大学院を終了して古墳の発掘をしたのが縁で、当時の愛知県師勝町学芸員として入職し、資料館をもっと利用してもらおうと、昭和30年代の日常品を取集し、展示したところ、来館した高齢者が生き生きとした表情になることに気づき、医療や福祉の専門家と相談しながら資料館で回想法を始めました。   それから20年、北名古屋市では介護事業の重点事業として定着しています。   日用品の収集は今も続き、乗用車から洗濯板までおよそ13万点、別名昭和日常博物館ともいわれています。  

北名古屋市歴史民俗資料館には昔懐かしいものをたくさん展示してあります。   それを見た瞬間に生理学的に脳の血流が活発になるという話がありまして、懐かしいものを見ながら昔のことを思い出したりして、みんなで語り合うという事が認知症の予防にもなる。     それは回想法という言い方をしています。  思い出すことによって活性化するわけですが、懐かしいものを見るとしゃべりたくなる。  それが認知症の予防になったり健康の増進に繋がったりします。

20年前には、認知症の方が増えてきたりして、認知症の予防をするという事が非常に重要になって、当時師勝町では博物館が集めてきた懐かしい資料を使いながら介護予防、認知症を予防してゆく、健康を増進してゆく事業として立ち上がったものになります。   高齢者が見ると普段はしゃべらない人たちが身振り手振りしながら、当時の思い出を語りだすという風景が見られました。   プロフェッショナルな方たちと一緒になって取り入れるようになりました。

グループ回想法といいまして、10人程度の高齢者がいろんな話を1時間ぐらい展開してゆくという事で、思い出を語ってみんなで共有して楽しい時間を過ごしていただく、回想法スクールという言い方をしています。   毎週一回8か月になりますが、その人たちは見たこともあったこともない人たちですが、仲のいい気心の知れたグループが出来上がります。

子供たちに昔のことを体験してもらったり、昔のことを学んでもらったりするワークショップを開催しますが、回想法を参加された方たちに先生として来ていただいて、一緒になって洗濯板を使ったり、鰹節を削って出汁を飲んでみたりいろいろなことを体験していただいて、そうすると子供たちは感動します。  高齢者にとっても生き甲斐、遣り甲斐に繋がってゆく事業にもなります。   

病院とか施設でも回想法をやってみたいというところが増えてきて、高齢者が懐かしいと思うようなものを20セット貸し出しをして、懐かしい話に花を咲かせてもらうというわけです。    洗濯板、5つある算盤、アイロンの古いようなタイプなど、いろんな道具を箱に入れて貸し出します。  始めて3か月待ちというような状況が続きました。

開館が1990年ですが、1994年ぐらいから昭和の道具類の収集に取り組んできました。  当時は私一人でした。  TV、冷蔵庫、洗濯機などをゴミに出そうとしていたり、昭和30年代の教科書なども燃やしてしまうような状況にあり、そういったものを集めておくという事に気が付きました。  展示することによりまた新たに資料の提供もいただきました。  今登録しているもので約13万点になります。  10年前ぐらいから置き場所に困るという状況にあります。  大きいものは乗用車が10数台、オートバイが10数台、電化製品などがあり、小さいものだとビー玉、めんこ、防虫の樟脳の袋などがあります。   昭和の暮らしというテーマに置きながら、特別展、企画展を年に3回開催していますので、トータル100回ぐらいになります。   

1963年 南山大学大学院を終了して、師勝町の資料館に学芸員として就職しました。   養蚕の道具とか集まってきましたが、活用できない閉塞感がありました。  新しくするためには新たな資料を集めていくことが必要になり、それが昭和の戦後のもので、捨てたくはないが思い出が詰まっている、しかし捨てざるを得ないようなもの、それに着目して収集していきました。

昨年は第一回日本博物館協会賞を受賞、今年はヨーロッパの国際会議で、その成果を発表する機会を得ました。   本来クロアチアに行く予定ですが、コロナ禍でのオンラインインタビューでの活動報告となります。   昭和の生活資料を活用して認知症の予防をしてゆく、そういったことに取り組んでいる姿を伝えることによって、日本でも広がってきているので、その状況を報告したいと思っています。  「 The Best in Heritage 2019(至高の継承会議)」(クロアチア・ドブロブニクで開催)

今後、いろいろ試みをして新たなことにチャレンジしていきたいと思っています。










2021年5月20日木曜日

竹中直人(俳優・映画監督)       ・ベテランなんて言われたくない

竹中直人(俳優・映画監督)       ・ベテランなんて言われたくない 

俳優として数多くのTVドラマや映画で活躍、映画監督としても8本の作品を撮っています。 現在放送中の大河ドラマ「晴天を衝け」では徳川斉昭役を演じています。   

大河ドラマは3回目、大河ドラマは1年を通して役を演じるのでとても好きで、徳川斉昭の役を言われた時にはとてもうれしくて、大河ドラマに1年間行けるんだなあというのが最初の気持ちでした。  そんな早く死んでしまうのかと思いましたら、寂しさはありました。   徳川斉昭が「尊王攘夷」を訴え続けた、それは頭の中に常にありました。  烈公という事が強く頭に残ってたので、そのエネルギーが自分のなかでどう動かせるか、という事がありました。   役作りというのは嫌いで、感情が押し出してきたものが言葉になると思っているので、役は作れないですね。  役はその場のセッションだと思っていて、役を作るのは見ている側だと思いますね。  役者は役は作れないと思っています。

1956年神奈川県横浜市金沢区出身、両親は公務員です。  みんなとわいわいするのはしなくて、自分でストーリーを作って漫画を描くのが好きでした。  高校生のころには個性的な先生が多くてその物まねをするようになって、声も変えられる自分に気づいて、コンプレックスの塊であったことは間違いないです。  自分ではない人間になりたいというのは子供のころから思っていました。  物まねをすることで違う人間に成れるから楽になれるという思いは強かったです。    映画はあこがれの場所でした。  最初に見たのはピエトロ・ジェルミ監督の「鉄道員」でした。  その後若大将シリーズ、007などを見ました。

芸大を目指して2浪して、多摩美術大学美術学部デザイン科に入り、宮沢 章夫と出会いました。  彼は社会派でした。  映像演出研究会で8ミリ映画の制作する会に入りました。   ブルースリーが好きだったので、最初それに模したものを作りました。   卒業制作も8mmで作りました。 自分がいろんな人物に変化してゆくという形態模写のようなものです。  作ったものは多摩美術大学の芸術祭に発表しました。   卒業したら映画の道に行きたいというのは大学1年の時からありました。    大学卒業後、劇団青年座に入団しました。   当時「赤テント」、「黒テント」などを見ていました。

半年間、月、水、金と研究生として学びました。  劇団青年座の本科生を受けたら受かってしまいました。   本科生になると授業料が高くて、或るイベントで3分間に笑わせると30万円もらえるという事で出ないかといわれて、それに出たら優勝してしまいました。   それで授業料が払えました。    劇団青年座では「三文オペラ」に出演したのが印象に残っています。   劇団青年座の準劇団員になったが仕事が来なくてこのままだとダメになると思って、27歳の時に、プロダクション人力舎玉川善治さんから声を掛けられて1983年、テレビ朝日『ザ・テレビ演芸』に出てみたらどうかといわれて、 「飛び出せ!笑いのニュースター」に出演してグランドチャンピオンになり、横山やすしさんから絶賛され、それがきっかけでプロの道に入っていきました。  4畳半から一軒家に住めるようになりました。

TV業界は苦しかったです。  自分でやっていることがそんなに面白いとは思ってもいなかったので、怖かったです。  そのうちに笑われなくなると思っていました。  宮沢 章夫と舞台のほうも演劇/コントユニット「ラジカル・ガジベリビンバ・システム」としてやりました。   劇団青年座を1990年に退団後、劇作家の岩松了さんと出会って舞台「竹中直人の会」を始めました。   1984年の滝田洋二郎監督の成人映画に出演、居心地がよくて楽しかったですね。  演技を得意の松本清張と松田優作の物真似で通している。  いろいろな監督さんとの出会いもありました。  森崎東監督の映画に出演した時に笑わせるようなことをやろうとしたら「余計なことはやるな、お前のままでやれ」といわれました。  その言葉に感動して泣いたのを覚えています。

五社英雄監督の「薄化粧」のときには何度もNGをだしましたが、「いいですよ」と優しく自分を見つめてくださって、本当に優しかったです。   憂さ晴らしは彼女が自分の泣き言を聞いてくれて、とても優しかったです。  海外に勉強に行きたいという事で別れてしまいました。

或る時奥山和由さんから、「そんなに映画のことが好きだったら1億円出してやるから映画の監督をすればいいじゃないか」と言われて、つげ義春さんの漫画『無能の人』を映画化、初監督ができました。 自分にとって夢のような出来事でした。  

1996年 周防正行監督のShall we ダンス?』は僕にとってはあまりにも意外な展開でした。  NHK大河ドラマ秀吉』で主演の豊臣秀吉役も同じ時期でした。  両方が大ヒットで両方に僕が出ていたので、急に世間の人に知られるようになりました。

やりたい役は一杯あります。  宮沢賢治、山頭火、藤田嗣治、内田百閒・・・。

俳優はかっこいい字だと思いますが、果たして自分は俳優かなあという思いはあります。

新藤 兼人監督が色紙に「生きている限り生き抜きたい」と書きましたが、素敵な言葉だと思います。  僕も「生きている限り生き抜きたい」と思っています。










2021年5月19日水曜日

萩原智子(シドニーオリンピック競泳日本代表)・【スポーツ明日への伝言】優しさと笑顔あふれるオリンピックを願って

 萩原智子(シドニーオリンピック競泳日本代表)・【スポーツ明日への伝言】優しさと笑顔あふれるオリンピック

水泳競技は4月に代表選考を兼ねた代表選手権が行われ、33人の競泳の代表が決まっています。   選手時代からハギトモの愛称で親しまれた萩原さんはオリンピック代表に4回挑戦見事代表となった2000年のシドニーオリンピックでは、200m背泳ぎ4位、個人メドレー8位入賞という活躍をしました。    ご自身の現役時代を振り返りながら今回の代表選考会について伺います。 

選手、関係者の立場からすると、オリンピック パラリンピックは開催してほしいという気持ちはあります。   世界の平和があるからこそ開催できるもので、今の状況でどうなのかなというのは日々私も葛藤しています。    1年延びたことで相当の気持ちの強さがないとこの選考会は乗り切れないだろうと思っていました。  若い選手がノンプレシャーで生き生きしていたのを感じました。   水泳競技は個人種目とはいえ日本はチーム力で戦ってきた面もあり、選ばれた33人をどうしてチーム力を高めていくのか、相当努力されるだろうなあと思います。  33人中22人が初めてのオリンピック代表選手という事で2/3が初めてですね。   年齢も17歳から31歳までで凄く幅広いです。

リオのオリンピックも半数以上が初めてでした。   アテネオリンピック800m女子自由形金メダリスト柴田 亜衣さんを合宿に呼んで経験談、気持ちの持ちようなどを情報共有するんですね。   コロナ渦で合宿も変わってきて、平井監督がオンラインで選手の状況とか、一人にしないという事を心掛けているようです。

注目選手としては男子の平泳ぎの佐藤翔馬選手で今回の大会で100m、200mともに優勝しています。   女子の400m個人メドレーで大橋唯選手が優勝して、2位に高校生の谷川さんが入って、3位にベテランの清水咲子選手が入りましたが、事前ではおそらく大橋唯選手、清水咲子選手だろうと予想していましたが、谷川選手が入ってきました。  ショックでプールから上がれないのではないかと思いましたが、二人の選手に対して、祝福して頑張ってと言える姿です。  人間性が素晴らしいと思いましたし、素晴らしいものを教えてもらったと思いました。  池江璃花子選手にはびっくりしました。  自分の力を120%出せる力、精神力の強さをすごいなあと思います。   

オリンピック パラリンピックに対して賛否がありますが、選手は何が何でも開催というような思いの選手はいなくて、そのことは皆さんにもわかってもらいたいと思います。

ハギトモといわれるようになったのは、中学生の時の山梨県の代表合宿の時に先輩の小川智子さんと一緒の背泳ぎの選手でした。  よく二人とも怒られる選手で「ともこ」といわれると二人とも振り返ってしまって、いつのまにか「オガトモ」、「ハギトモ」といわれるようになりました。  小学校6年生で170cmあったので、ランドセルが入らずリュックを背負っていきました。   小学校の2年生で海でおぼれて水泳を始めました。  

オリンピックで印象に残っているのがバルセロナオリンピックの岩崎恭子さんの金メダルでした。(1992年)  小柄な選手が金メダルを取れるんだとすごくインパクトがありました。    自分もオリンピックに出たいとあこがれました。  4年後のアトランタオリンピックには出場を目指すことになりました。(高校1年生)   中学3年の夏に日本歴代2位の記録を出して注目されました。    反抗期で天狗になった一面もあり本当の努力、覚悟をしていなかったと、今思うと情けないと思います。  結果は3位で行けませんでした。  背泳ぎが一番自分に合っていたかどうかは今になってもわかりません。     2000年のシドニーオリンピックに出たいという気持ちになりました。  200mの背泳ぎと個人メドレーで代表に選んでいただきました。   選考会が4月にあり気持ちよく誕生日を迎えられるかどうか、全く違いました。

200mの背泳ぎで4位、0.16秒差でメダルを逃しました。  今思うと努力が足りなかったと思いますし、もっとできる事があったのかと思います。  あの時はベストをだしきったので悔いはないと思いました。   銅メダルを取ったのが先輩の三木さんで、私もうれしかったし、ライバルが来て私も高めることができたと思っています。

アテネの代表選考に挑むことになりましたが、故障もあり、無呼吸症候群になってしまったり、健康でチャレンジすることが幸せだという事を思って、選考会に臨みました。 代表選考に漏れて引退表明します。   2012年ロンドン大会の選考会にチャレンジすることになりました。(31歳) このときは水泳をやっていて一番楽しかったかもしれません。  結果は伴わなかったが、選考会で自分の持っているものをすべて出し切ったと思います。 

シドニーオリンピックの男子100m自由形の予選で赤道ギニアのエリック・ムサンバニ選手が溺れそうになりながらも、一生懸命泳ぎ切るみたいな感じでした。  私も気が付いたら立って拍手を送っていました。  周りもほとんどの方がスタンディングオベーションで彼に拍手を送っていました。   彼がゴールした時には歓声が起こり、これがオリンピックの本当の意味だなあと思いました。   

山梨県の甲府市で水泳をやってきましたが、地元の良さ、地元の力は大きいです。  励まし、温かい声援をいただいてきました。   コメンテーターとして、選手のその人となり、人間性を知っていただくとより応援に力が入ると思っていて、彼ら彼女らはこんなにすばらしい方だと少しでもわかっていただきたいと思っています。  こういう時だからこそ心がつながっていたいと思います。



2021年5月18日火曜日

立畑健児(雑誌編集長)         ・石を愛でる

 立畑健児(雑誌編集長)         ・石を愛でる

風雅な自然石を愛で、室内で鑑賞する水石は後醍醐天皇ですが、織田信長も愛したと伝えられる日本古来の趣味です。  石の愛好家のための全国で唯一の月刊誌の編集長、立畑さん(72歳)は人物を撮るフリーカメラマンから50歳を過ぎてはじめて石の世界に入りました。  今では雑誌の撮影 、編集、発送まで据えて一人で切り盛りしています。  立畑さんをそれまで魅了した石の魅力とは何なのか、石のすばらしさを伝えようと孤軍奮闘で、雑誌の発行を続ける立畑さんに伺いました。

去年、石の数を数えたら220~230ぐらいありました。  それから少し増えたので250~260はあります。   愛石数としては少ないほうです。  10倍近く持っている人がいます。  ここにあるものは20~30cmぐらいが多いです。   鑑賞する趣味というのは奈良時代に中国から渡ってきた鑑真の高弟・鑑禎(がんてい)という高僧が京都の鞍馬寺で石を残しました。  それが現存しています。   貴族、武家など、有名なのが後醍醐天皇、織田信長、親鸞上人などが石を愛でていました。     一般の人が趣味にし始めたのは明治時代になってから広まっていったといわれています。   石ブームは昭和35年から40年ごろにありました。  全国に石の会は300ぐらいあります。  一つの会には10人ぐらいは所属しているので、5000~1万人ぐらいと思っています。   

「愛石の友」という雑誌にかかわるようになって石が好きになりました。   その前に熱帯魚を飼っていて水槽の中をデコレーションするんですが、石を探して河原を歩いていました。   フリーカメラマンの時には風景、ヌード、人物、女優さんも撮りました。   「愛石の友」の編集長から手伝ってくれないかといわれたのがきっかけでした。   石は動かないので撮影は楽です。   前編集長が体調を崩して、認知症にもなり出社しなくなり、突然お鉢が回ってきました。  二人でやっていたので全部ひとりでやるようになりました。 

編集、レイアウトして、VDVに収めて印刷屋さんへ持ってゆきます。  雑誌が出来上がると地方発送などもやります。   愛好家のかたから記事を送ってもらって、編集などもします。   石を眺めているだけで心が穏やかになってくるというか、癒されます。   探石(石を探す)、養石(川や山で採取した石を棚の上に並べ、日にあて水をやり盆栽と同じように日々養い育てる、そうすると風格が出てきます)、揚石(石を拾い上げる)という言葉があります。   一生一石という言葉がありますが、なかなかたどり着かないです。  石に接しているうちにだんだん見る眼ができてきます。

亡くなってしまった吉田凡石さんという愛好家の方からいただいたもので「流韻」という銘のものがあります。   山形石、山の形をした石は自然を想像させるので一般的に人気がります。  仏像のような形をした石もあります。  私は角がない丸みのあるものが好きです。  値段は有ってないようなもので、お互いが交渉しあって決めます。  

雑誌は公称1000部です。  書店売りは手間がかかるので5,6年前にやめました。  年齢層は70,80でしょうか。 男性が9割ぐらいです。  若い女性も開拓しています。 石は質感とか色合いを出したいのでカラー写真になっています。    海外にも愛好家の方はいます、特にアメリカは多いです。  ヨーロッパも次いで多いです。    アメリカには一度行って拾ってきました。   

水盤石という言葉が明治時代にできて、縮まって水石となりました。  昔は水盤に飾って居ました。  今は台を作ってその上に置きます。  展示会は地域ごとにありますが去年は壊滅状態でした。

「1200年続く鑑賞石伝統文化を継承する専門誌」と表紙に掲げています。  この灯を絶やさないように頑張るつもりです。



2021年5月17日月曜日

浅野祥(津軽三味線奏者)        ・【にっぽんの音】

 浅野祥(津軽三味線奏者)        ・【にっぽんの音】

宮城県仙台市出身,31歳。  津軽三味線を本格的に始めたのが5歳。  祖父が津軽三味線をやっていたので見様見真似で始めました。  両親はむしろ津軽三味線は嫌いでした。   7歳の時に津軽三味線全国大会に初出場、翌年からは各部門の最年少優勝記録を次々に塗り替え、天才少年といわれる存在になり、2004年14歳の時、最高峰であるA級部門で史上最年少優勝。  C級、B級,A級とありどんどんレベルが上がっていきます。  2006年までに3年連続優勝、大会規定により殿堂入りとなります。   17歳の時に津軽三味線奏者としてメジャーデビュー、民謡の演奏はもちろん、自由な演奏スタイルを生かして、クラシック、ジャズ、フラメンコなどほかのジャンルのアーテイストとも数多く共演、津軽三味線の魅力を広く伝えるとともに、独自の音楽を追求している。

津軽三味線の楽器自体がとっても大好きで、好きなだけ触っていたいという感覚です。    津軽三味線を演奏する人はずいぶん増えました。   自分の音色で一番大切にしてきたのは、津軽三味線の小さな音色、多分皆さんの思う音色とは真逆の音色です。  張り詰めた一本の線のような音色を大切にしています。

*「拍(はく)」というアルバムから「春催(はるもよい)

コラボレーションするときに注意するのは、コラボレーションする相手のジャンルのことを勉強しています。  リズムを出すのに自分なりに工夫して楽器をたたいたりしています。   津軽三味線のバチの打撃音は生でないとなかなか聞けないので生で聞いてもらいたいですね。  いろんな三味線のジャンルがありますが、津軽三味線は歴史的にとっても自由で、決まりがないんです。   民衆に開放された芸能という部分があり、自由に演奏する部分にすごく魅力を感じます。    歌と人形の伴奏として演奏していましたが、津軽三味線単独で演奏するようになったのは、ここ5,60年というところです。   

民謡という音楽はとっても言葉が特徴的で訛りがどんどん入っています。  地方独特の言葉のリズムが織り込まれている音楽だと思います。  仕事歌が多いです。

東日本大震災後、チャリティーコンサートをずーっと続けてきましたが、昨年コロナでできなくなって、今年のチャリティーコンサートで一区切りとなります。  僕はあの時には東京にいたのですが、実家がものすごく心配でした。 実家の家は全壊しました。  親戚なども一週間以上連絡が取れませんでした。  当時皆さん暗い顔をしていましたが民謡を始めると、はしゃぐんです。  音楽の力はすごいと思いました。

祖父が大工をやっていて棟梁で、自分で作った自分の壊れた家の柱を使って二挺三味線を作って、そのうちの一挺を持ってきました。  縞黒檀(シマコクタン)という床柱です。 縞黒檀は固い木で、三味線は固ければ固いほどいいので、丁度いいと思いました。

*福島県の「相馬盆歌」、山形県の「花笠音頭」、宮城県の斎太郎節(さいたらぶし、秋田県の「どんぱん節」

民謡再編成プロジェクトを去年の年末から始動させました。  人と人とのつながりがなかったら、なかったであろう民謡音楽を今こそ歌おうぜという事で同年代の人と一緒に始めました

*最上川舟歌をアレンジして「船道」という曲を作りました。 

私のように歌いながらの津軽三味線奏者はすごく少ないです。

日本の音とは「米研ぎ」の音です。  日本人の精神性とリズムが備わっているじゃないかと思います。





2021年5月16日日曜日

永山久夫(食文化史研究家)       ・【美味しい仕事人】長寿食を求めて

 永山久夫(食文化史研究家)       ・【美味しい仕事人】長寿食を求めて

日本の伝統的な食文化を研究、古代食から各時代ごとの食事を復元する第一人。  大河ドラマで描かれる時代の食膳を復元します。  そこから見出された食の知恵を「チコちゃんに叱られる」などでも紹介しています。   永山さんのライフワークは長寿食、全国に住む100歳以上の長寿者を訪ね、その食事など長生きの秘訣を探ってきました。    89歳になる永山さんにお話を伺いました。  

日本食の歴史を研究してきましたが、実に長寿に役に立つような食べ方なんです。   魏志倭人伝にも、倭人は大変長生きだと、「生菜」 菜はおかずという意味もあるので、生のおかず、魚、貝類の今で言ったら刺身みたいなものを食べるのが大好きだった、という事が中国の文章から出てきます。   後漢書倭伝にも「倭人は100歳に至るものも甚だ多し」と書いてあります。   現在日本には100歳以上が8万人いますが、そういう傾向は当時からあったわけです。   後漢書倭伝には「菜茹」、すなわち野菜スープを飲んでいたと、書いています。   ポリフェノール、ビタミンとか沢山摂れます。   免役力が上がって病気に対して強くなる。   和食を代表する刺身とみそ汁が2000年前にできていた。  それをずーっと食べてきた日本人は長寿国であるという事です。

NHK大河ドラマの「独眼竜正宗」「春日の局」などで、その時代の食膳を再現しています。   栄養価の高いものを丸薬にしていました。  家光は拒食で体が弱かったので「七色飯」を作ってどれか食べてくれるだろう言うことで、7種類を作りました。  だんだん食べるようになって元気になって立派な将軍になりました。  それが春日の局だったんですね。 

江戸、明治、大正、昭和と時代の流れのなかで、外国と交渉するようになって、いろいろ入ってきましたが、概ね順調にいって、女性が87歳、男性が81歳と平均寿命が延びてきてトップクラスです。   日本食のたった一つの欠点は肉が少なかったんです。  戦後肉類を食べるようになって一気にバランスが取れてしまいました。  年をとればとるほど肉を食べたほうがいいです。   平成30年度に文化庁長官賞を受けました。  受賞内容は和食文化の研究だと思います。    食べ物で免疫力を強くする。  納豆など発酵食品は腸内環境を整える力がありますから、人間の免疫細胞の70%は腸内にあるといわれています。 腸をよくするには発酵食品を食べて微生物が、いろんな菌をとって腸内環境を整える。 もう一つは植物繊維をとることです。  戦国時代までは玄米を食べていました。 玄米は一晩水に寝かして朝炊くんですが、発芽しようという働きが出てくる。  ビタミンB1がたくさん含まれています。   笑うとナチュラルキラー細胞が増えます。  

長寿の方にお会いして調査しましたが、①よく笑って明るい、くよくよしない。 ②好きな食べ物がまぐろの刺身でした。  ③肉料理も好き。   ④みそ汁が好きで豆腐の味噌汁を好む人が一番多かった。  ⑤季節の果物が好き。   ⑥卵が好き。  ⑦人と話すのが好き。(好奇心)   ⑧梅干を食べる。(唾液がたくさん出て食べやすくなる。)   ⑨縁側に出て日向ぼっこをしている。(ビタミンDを作る。)   ⑩お茶を飲み、お茶菓子はあんこものが多い。

これからは世界中が高齢化社会を迎える時代になるので、日本がお手本を示すことになると思う。   脳の中にセロトニン(幸せホルモン)が発生すると、血管の緊張を調節する物質、ドパミン・ノルアドレナリンを制御し精神を安定させる働きをするほか生体リズム・神経内分泌・睡眠体温調節などに関与する。

「ながいきたべます」を食べて長生きしましょうと言っています。 な=納豆 が=ガンマーカロテンの野菜 い=命長らえる発芽玄米 き=キャベツ  た=卵  べ=ベストはにんにく  ま=まぐろ   す=すりごま

平均寿命と健康寿命を一緒にしてもらいたい。  現在は10歳ぐらいの差がある。

私は子供のころは体が弱かったです。  医学書を読んで何を食べたらいいかとか、歴史、民俗学などを研究しました。   その後天海100歳以上の長命であったと言われる。)を調べて長寿食に関心を持ちました。  「90歳ソング」を作りました。  楽しく暮らすという事は大事なことだと思います。   絵もやっています。   沖縄などは明かるい方が圧倒的に多いです。   よく踊るし、太陽に当たる時間も多いと思います。

生涯アクションです、生きている限り働く、楽しい人生を送る、持ち時間を楽しむためにもセロトニン(幸せホルモン)が一番大事です。  鰹節にはたくさんあります。  幸せな人は長生きする、病気にならない、幸せな人は人に好かれる、人を幸せにする、そういう生き方をしてほしいなあと思います。

   

2021年5月15日土曜日

鵜飼秀徳(僧侶・ジャーナリスト)    ・「お寺が減っていく」(初回:2020/11/14)

鵜飼秀徳(僧侶・ジャーナリスト)    ・「お寺が減っていく」(初回:2020/11/14)

https://asuhenokotoba.blogspot.com/2020/11/blog-post_14.htmlをご覧ください。 

2021年5月14日金曜日

長倉洋海(写真家)           ・国境も時も超えて思いをつなぐ

長倉洋海(写真家)           ・国境も時も超えて思胃をつなぐ 

1952年(昭和27年)北海道釧路市生まれ。  現在68歳。 大学卒業後時事通信社入社、その後退社して27歳でフリーの写真家となる。  世界の紛争地を精力的に取材し、写真を発表してきました。   戦争の表面ではなくそこに生きる人の人間の姿を捉えようとする姿勢でアフガニスタンの抵抗運動の指導者マスードや、エルサルバドルの難民キャンプの少女ヘスースを長期間にわたって撮影、土門拳賞を初め数々の賞を受賞しています。  世界の国々を訪れ紛争地であっても、なぜ人は強く生き、笑顔が生まれるのかと問い続けてきた長倉さんに伺いました。

去年の2月まではハイチに行きました。  以来戻ってからはコロナの影響でどこへも出ていません。  意外とのんびり過ごしました。   撮った写真を見なおす機会を得ました。 

アフガニスタンの抵抗運動の指導者マスードとは17年間にわたって一緒に暮らして取材をしましたが、マスードが亡くなってから20年が過ぎました。  アフガニスタンの若者もマスードのことを知らない人が多くなってきて、伝えたいという事で 写真集ができないかという事で、ほとんど出来上がってきました。   現地語と英語で日本語は入っていません。 

27歳でフリーの写真家となって、勇気さえあれば絶対世界を揺るがすようないい写真が撮れる、命さえかければ絶対撮れると思っていました。   僕は人を感動させるようないい写真を撮りたいという強い思いがありました。   大学に入って探検部に入って、南太平洋、アフガニスタンとかへ行くようになって、写真を撮っていました。   それがきっかけかなあと思います。   戦争は家が焼かれ学校へも行けなくなって仕事もできなくなっていいものなんて何もないが、何故行ったかというと自分を賭けるものを見つけたかった。   何を伝えたいかというのは実は行く前にはわからないんです。  そこで感じたものをどう伝えるかという事が大事だと思います。  自分の至らなさも感じました。  戦争の渦中にいるそこの一人一人を伝えることで、今の地球とか世界が僕の中ですこしづつ見えてくる。    僕の中で出会いというものがあって、それが僕の生きる一つの道しるべ、道灯りになってきたのかなあと思います。  

残酷に殺された死体があったりすると、自分が求めていた写真であると思う一方で、本当にこれを求めていたのかというか、ものというような見方になってくる。  死体を見ても涙は出なかったのに、死体に取りすがって泣いている家族を見たときにはじめて涙が出てきました。   生きている人間こそ撮るべきだと思いました。  彼らは一瞬一瞬を生きることを僕らよりも大切にしています。  それこそを写真に撮りたいと思いました。  

僕の家は店をやっていて子供のころから手伝わされて面白くなかった。  エルサルバドルへ行って戦禍も撮りましたが、彼らの生活も撮りたいという事で市場に行ったら、子供たちがみんな働いているんです。  けなげだなと思いました。  ここでは内戦を撮っていましたが、市場の子供たちを見て、僕と重ねあわせるところがあって、何度も行くことによって彼らが心を開いてくれて、いろいろ発見があり、働く光景が写真的にすごくきれいでした。  戦禍に切り裂かれた国と同時に全く違う人間の生きる姿が見えた時に、この国は戦禍にまみれた国だけどこんなにも豊かに生きている国だという事も同時に見えてきました。    彼らを美しいと思ったのは他人のせいにしないという事だと思います。  世界が悪い、国が悪い、アメリカが悪いとか言わないで、今日生きるために市場に行ってわずかな稼ぎのために、家族のために働く。 

5冊の写真集、タイトルが「祈る」、「働く」、「学ぶ」、「繋がる」、「探す」。    これは全部僕が生きるために「祈る」、生きるために「働く」、生きるために「学ぶ」、生きるために「繋がる」、生きるために「探す」です。  テーマがあって撮ったのではなくて、膨大な写真の中から選んでいったものです。  今の世の中は情報が一杯あるようで、平べったい情報だと思う。    戦禍のなかでも人は小鳥のさえずりを聞きたいとか、いい気持ちでいたいという事をそこには書いていますが。

写真を撮ることで、自分が嫌になることはありました。   死体を撮ったり、戦場から逃げてくる人たちをかき分けて前のほうに行く、ただ写真は撮る、写真を撮りたくないことはない。  どこに目を向けるかという事は変わってきました。  いい写真は撮れていないのでもっともっといい写真を撮りたいです。   人を感動させる写真、時を超える写真を撮りたいです。  写真のシャーマンになりたいと思っています。  シャーマンの発祥の地といわれるところで、シャーマンとは生と死、天と地をつなぐ人、と言われました。  シャーマンにはなれないけど写真と人とはつなげることができるとは思いました。

アフガニスタンの抵抗運動の指導者マスードが草原で寝そべって本を読んでいる写真は心が休まりますね。  マスードは本が大好きな人で図書館を作りたいと言っていました。  マスードのその写真を見ると、時を経てもその時々に感じるものが違っていて、写真がいつも新しい、古い写真であってもいつも新しい。   シンプルだからこそ見る人が想像力を働かせる。

エルサルバドルの難民キャンプの少女ヘスース、3歳から20歳結婚するまで断続的にですが、撮ってきました。    ヘスースは娘のような存在です。  友達の中にはこのキャンプ出身というのを恥ずかしいと思っている子がいるが、彼女は「難民キャンプはたくさんの思い出が詰まっている私の宝石箱のようなところだ」といったんです。   かわいそうというような見方をしていたが、彼女は彼女なりにそこで一所懸命生きてきたんだと思いました。  彼女は一つの喜びをしっかり自分のものにできる、これこそ幸せに生きる秘訣というか、方法だと思って、僕も一つ一つ小さなことを積み上げてゆく、それがたくさん集まると変わってゆくような気がします。 美しいという事は抽象的ですが、僕は美しいことに憧れます、だからそれを写真に撮りたい、僕の考える美しさを撮りたい。





2021年5月13日木曜日

渡貫淳子(調理師)           ・南極かあちゃん調理隊員

渡貫淳子(調理師)           ・南極かあちゃん調理隊員 

渡貫さんは2015年12月から1年4月から昭和基地の総勢30人の食事をまかなってきました。 足掛け6年3度目の挑戦で一般公募の南極隊員に合格し、女性としては二人目の調理隊員となった渡貫さん、知れられざる南極の脅威のなかで極地での越冬生活という事業に加わり、隊員の健康やモチベーションに大きくかかわる食事を考え続けてきました。   そこから見えてきたものは何なのか、南極越冬調理隊員の実践を通して得た料理への思い、プロとして自分らしく働くこととは、伺いました。

南極は日本とは全く季節が反対になります。  これからどんどん冬に向ってゆくわけですが、そろそろ極夜という時期が近づいてきます。   太陽が地平線に上がらない時期が1か月半ぐらい続きます。   日本の夕暮れぐらいがお昼ぐらいで、夕方6時ぐらいになると真っ暗です。   私は極夜はつらくは感じませんでしたが、白夜では太陽がさんさんと照る中での暮らしが苦痛でした。  発電機の排熱を利用して室内を暖房しているので、暖かくて室内は快適です。   昭和基地は南極大陸から4km離れた島に建てられています。  

私自身は山はやりません。  一番の問題は1年4か月の間、病気にかかることができない、日本国内と同じような医療体制ではないです。   医師は2名いますが、十分な医療体制ではないです。   極夜が明けたぐらいが一番寒い季節になります。   昭和基地の最低気温の記録はマイナス45.3度です。   極夜が明けて太陽が見えると私たちはそれを初日の出として拝みます。

娯楽がないので季節のメリハリをつけたいという事で、毎月お節句にちなんだような季節感を感じる食事を月に一回程度取り入れていました。   5月5日には鯉のぼりが上がります。  昭和基地には1年に一度しか船が往復しません。   1年間の食材は一回で全部持ち込みます。  一人1年間での食材は約1トンといわれています。  30トンですがそれよりも多く40トンぐらいは持っていきます。   ごはんが一番多く使用されるのは週に一回金曜日のカレーでした。   一回に出すカレーは最低でも2種類用意していました。  2種類のカレーを盛る方がほとんどでした。   生野菜は持たないので最初のころだけで、許可を得た種を持ち込んで水耕栽培をちょっとやっています。 1年間に葉物は7,8枚、プチトマトは1個でした。  魚は生態サンプルを捕ることが主目的ですが、おこぼれにあずかるという感じです。   本来の業務とは別に農協、漁協とか担当があります。  月一回ソフトクリームを食べるための担当もあります。  甘いものが食べたいんだと思います。  小豆でアンコとか甘いものをたくさん作りました。

閉鎖した村というか、コミュニティーの生活になります。  発電の係、水を作る人、ごみ処理をする人などがいて、ゴミは持ち帰ります。    環境保護条約があり、ペンギンでは5m、アザラシには10m近づくことは許されいません。  氷に穴をあけて数種類の魚は捕れます、私はタコとウニ(500円玉程度)は食べたことがあります。  ウニは身もほとんどありません。   15~20cmの魚が捕れますが、刺身にしたり、天ぷらにしたりします。  150cmぐらいの深海魚も一匹捕れましたが、さばきたかったが調査のためという事で持ち帰ることになりました。  調査後に今ははく製にしては展示されています。

南極の氷はカキ氷として、お酒のロックとしていただきました。   数万年かけて圧縮された氷には空気も閉じ込められていて、それがプシュプシュと微かに聞こえます。

ペンギンの個体数、卵の数なども何十年と調査してきましたので、増減を把握したりしています。  声はカラスのような感じで可愛いくないです。   ペンギンたちはブリザード(極地に見られる暴風雪)が来るとじっと耐えて過ごします。  なんでこの地を選んで繁殖したのか不思議ですね。  ブリザードは風速でルールで段階があり、禁止令が出たら一切外には出られません。   ひどい時は腕を伸ばした指先が見えなくなるほど視界が悪く成ります。   ブリザードでの作業の時にはゴーグルをしたりヘルメットをして、肌は出さないようにします。  まつげが凍ったり、鼻水が凍ったりします。  マイナス30度を超えると吸う息が痛い感じがします。

調理師の学校を出た後に職員として働いていましたが、どういった人を対象に調理するのか自分自身判っていませんでした。  たまたま読んだ新聞記事で南極観測隊のことを知り、南極を舞台にした映画も見て、その映画のなかで南極の食生活が描かれていました。  私が作りたい対象の人たちが南極にいると思ってしまいました。  20代半ばから50代半ばまで年齢の幅があり、出身地もばらばらで、どこにポイントを合わせれればいいのか非常に悩みました。  まずは自分が一番おいしいというような味で作りました。  誕生日の人の出身地の郷土の味付けにして出したりもしました。  やりがいのある職場でした。  南極ではごみを出さないようなことをしてきたので、出来るだけごみを出さない調理をする、そんな料理人を目指したいと思っています。








2021年5月12日水曜日

原島博(東京大学名誉教授)       ・マスク時代を「顔学」で読み解く

 原島博(東京大学名誉教授)       ・マスク時代を「顔学」で読み解く

1945年東京生まれ、1964年東京大学に入学、1991年から2009年の定年まで東京大学の教授を務めました。  大学では人と人とのコミュニケーションを技術的に支援することに関心を持ってこられました。  その一つとして顔学を研究し、1995年には人類学者の野田久男さんらと日本顔学会を設立しました。  大顔展の開催、顔の百科事典などの刊行をしています。  昨年はマスク時代の顔、コロナ渦の顔を考えるなどをテーマにして2度オンラインサロンを開きました。  新型ウイルス感染予防のためのマスク着用が長引いていますが、そんな中で人と人の顔を通してのコミュニケーションにどんな影響が出ているんでしょうか。  

子供のころは絵が好きでした。  40歳ごろに母親が段ボールを持ってきて、「あなたが10歳のころの絵が全部入っている。」と言いました。  びっくりしました。  その後哲学、宗教、心理学などの本を読みました。  大学は東京大学の理科一類に入学、63歳で定年退職。 「残された人生、知らない自分に会いに行く」ということをある人から言われました。 自分をフリーにすれば何か自分が見えてくるかもしれないと思いました。   3つの私立大学で芸術、数理、文学を担当。  大学では電子情報工学科でIAが専門です。  女子美、明治大学、立命館大学から声がかかりました。  

あるときに「匿顔」という名前を付けました。  或る時から人の顔にも関心を持ちました。   通信技術から入っているのでコミュニケーションなんですね。  顔でもコミュニケーションをしているのではないかと思いました。  TV電話の研究をしていましたが、なかなか普及しない原因はなぜだろうと思いました。  出たくない場合もあるのではないかと思いました。  いい顔として映るのにはどうしたらいいのか、ということを考え出したらだんだん顔の研究にのめりこんでいきました。   1995年に日本顔学会を作ることになりました。 

「匿顔」ということを言い出したのは、インッターネット、モバイルが普及し始めて、顔を見せないコミュニケーションで、そういうことを絡めて「匿顔」の時代が来るかもしれないと思ったわけです。  マスクをして現実の社会でも顔を隠さなければいけないというような状況になってきてしまいました。  顔学会に関しては世界でもまだ無いです。

19世紀から20世紀前半に、骨相学といって、その形からその人の性格、人柄などを当てようというものがありました。  骨相学会がヨーロッパにできました。  それを利用したのがヒトラーだという話があり、ドイツ民族は顔の形からしても優秀である、優秀でない民族もあるという事を言い出した。  それが悲惨な差別になってしまった。  美人とか、美人ではないとか、それも差別に結びついてゆく。  そういう歴史がありました。

顔は分類がない学問で、本を探すのにも大変です。  会員は心理学、人類学、哲学、美容関係、化粧関係、歯医者(矯正)、警察(モンタージュとか)、顔に障害のある人、などの人たちがいます。

顔というものは本来向こうからみられると気になるものではないか、気にならない顔は本来の顔ではないのではないか、という話になりました。  見られるとそれなりに意識をしてしまう。   ほとんどの動物の顔には毛があるが、人間には毛がない。  みんなで一緒にというのは人間の生存戦略だった。  それは互いにコミュニケーションすることです。 その時に顔の表情は非常に重要な役割をする。  口の近辺は本来攻撃の道具だったが、手がその役割をして、口の近辺が柔らかくなってきて、そこに表情が出てくる。   

手話は手でコミュニケーションしている、というようですが、顔の表情がかなり重要です。  マスクで顔の表情が遮断されてしまうという事は、聴覚障害の方にとってはもう一つ障害が増えたという事になってしまう。   

欧米人はマスクが嫌いですが、西洋の仮面は眼だけを隠して、口はあまり隠さない。 口を隠すという習慣がない。  口を隠すという事は何か悪いことをしているのではないかと思う。  目を隠すという事には抵抗感がない。  日本は鞍馬天狗、月光仮面など口を隠さない。  日本人は「目は口ほどにものをいう」、というように目でもコミュニケーションをしているのではないかという風に、最近研究が出て来ています。

神奈川県の或る市役所で、市民に対して、胸元に自分の顔写真をつけて対応したら、非常に好評だったという事がありました。  子供たちに同様なことをしていいか、という事がありましたが、僕は違うだろうと思いました。  知らない人に対しては、こういう人なんだろうという事で安心はするが、もともと知っている人とコミュニケーションするときには、中身はどうであるという事はわかるんです。   子供達の場合は相手と気持ちを通じ合いながら付き合うというものだと思います。   子供達には口元を隠さずにコミュニケーションしてほしいとは思います。(コロナ禍で難しいところもありますが)  心を通じ合いたいと思うとマスクは取りたいですね。  

赤ちゃんにとって一体顔とは何だろうと、黒い丸が二つあり、その下にもう一つあり、そうすると顔という事を認識します。 もう一つというものを隠してしまうと、一体そのあとどうなるんだろうと思います。  顔認知は赤ちゃんの早い時期に決まるので、重要なことだろうと思います。  

化粧をせずに一時過ごせるとか、マスクの便利な部分もあり、コロナが収束してもマスクは一つのファッションとして定着行くだろうと思います。   相手をしっかり理解してというようなことになると2mなどという事は無理だと思うし、コロナとは別にこれからの新しい生活様式という提案は本来のあり方ではないと個人的には思います。  本来きちんと顔を見せ合うコミュニケーションは大切だと思います。







2021年5月11日火曜日

宮川泰夫(元「ラジオ深夜便」アンカー) ・「ラジオ深夜便」放送開始30周年アンカートークショー第六回

 宮川泰夫(元「ラジオ深夜便」アンカー) ・「ラジオ深夜便」放送開始30周年アンカートークショー第六回

ラジオ深夜便を卒業したのが2018年3月です。  私が担当したのは2005年から2018年までの13年間です。   2005年3月27日に担当していた「のど自慢」が終了しました。   その2週間後に「ラジオ深夜便」のアンカーに就任しました。  ちょうど還暦の60歳でした。    昼の元気のいい「のど自慢」から真夜中の「ラジオ深夜便」になってどんなテンションでやったらいいか、最初は戸惑いましたが、13年務めることになりました。   「深夜便の集い」は30か所ぐらい地方に伺い、直接出会えるということで楽しい時間を過ごせました。   2012年11月 石川県の能美市に伺った時、根上町を中心に3つの町が合併してできた市です。  、根上町は松井秀喜さんの出身地です。  夏の甲子園のテーマ曲「栄冠は君に輝く」 作曲は古関裕而さんで作詞は昭和23年に30回の記念大会を迎えて、その時に一般から募集した詩なんですね。  作詞者が加賀大介さんという根上町の方だったんです。 

加賀大介さんも野球が好きだったんですが、怪我をして足を切断して野球をあきらめる身になってしまいました。   野球への思いをあの詩に託して、応募され5000通の中から選ばれました。  「深夜便の集い」で向井さんと一緒に高らかに歌いました。   そうしたら一番前にいた上品なご婦人がお立ちになって、「私はその作詞者の妻です」と名乗られたんです。   会場も大盛り上がりになりました。  加賀大介さんは文筆家として活躍されていて、自分の名前で出すと、賞金目当てだと思われるのが悔しいし嫌だということで、当時お付き合いしていた女性の名前(高橋道子)で応募したんです。   名乗り上げられずに高橋道子作詞ということで30年間、第50回大会の時に加賀大介さんが実はこういうことでと名乗り出て、いまは加賀大介さん作詞ということになりました。  その高橋道子さんが最前列で立ち上がった人でした。  賞金は5万円(当時の公務員の給与の10倍ぐらい)だったそうです。  それを結婚資金にして結婚されたそうです。  朝の連続TV小説「エール」の中で球場で歌う感動的なシーンもありました。

アンカーとして自分なりのものをやりたいと思って、①午前2時台 洋楽をかけるところにロックミュージックを取り上げました。  それまではクッラシック、映画音楽とかでしたが、私たちの世代はビートルズの時代でしたので、ロックミュージックをかけ始めました。最初は恐る恐るでした。  いただくお便りは反応のいいものでした。  長距離トラックの運転手さんなどは寝む気がとぶとか、オールドロックファンはカセットテープが劣化していたので取り直して自分のライブラリーに加えたとか、ビートルズを知らない若い世代はビートルズをじっくり聞くことができたとか、お便りがあり続けてきました。  音楽を担当していただいた柴田さんが滅茶苦茶ロックに詳しい人でした。  グランドファンク・レイルロードをかけられれば終着点だよねということで、始めて8,9年目にグランドファンク・レイルロードを2時台に特集しました。  中にはご迷惑な方がいたかとは思いますが。

②4時台のお別れ間際に誕生日の花のご紹介をしました。   誕生日にちなんだ一曲をお届けするというのを13年間やり続けました。   ドクダミとか何の音楽をかけたらいいのかと悩みましたが、花言葉からの連想とか、思い出とか、何とか選んで13年間続けることができました。   うまくいったときの快感がありました。  4月12日の花「しゃが」という菖蒲科の花で、この花言葉が「反抗、私を認めて」で、花カレンダーをめくって、私が連想したのは俳優のジェームズ・ディーンです。  映画「理由なき反抗」若者ならではの反抗、「私を認めて」から連想したのは「エデンの東」の1シーンです。  兄ばかりを溺愛する父に向って、何とか自分に振り向いてほしいということで、ジェームズ・ディーン演じるキャルが、運搬する貨物列車が止まってしまってレタスが腐ってしまいレタスの損害を何とかカバーしようと思て、キャルは豆の取引に手を出す。  第一次世界大戦で豆が高騰して大儲けをして、父の誕生日にお金を差し出す。 父は戦争で儲けた金は要らんと拒否をする。  キャルは切なく男泣きに泣きます。  私を認めて」という心からの叫び、こういうシーンだと思うわけです。     しゃがは半日陰性の花で清楚だがどこか暗さもある、ジェームズ・ディーンそのものもじゃないかと思います。  「エデンの東」のテーマ曲をおかけしました。  見事にはまった曲だと思いました。

③午前1時台 「のど自慢旅日記」 「のど自慢」では毎週全国各地を旅しました。 600所になります。  各地の取材はタイトな時間でやっていました。  「深夜便」の中で気になった箇所をもう一度訪ねて旅の体験の話をさせていただいて、間にゆかりの音楽をかけるというコーナーを作ろうと思いました。 旅のディスクジョッキーを始めました。   楽しく皆さんに聞いていただけたかなあと思います。   100所ぐらいは2度目の旅を楽しませていただきました。

13年間「ラジオ深夜便」を通して一番楽しませていただいたのは、自分自身じゃなかったのかと思います。  「ラジオ深夜便」は50年間のアナウンサー生活を総ざらいしてもらったような気がします。  五木寛之さんが「回想を楽しむというと後ろを振り向く、後ろ向きになるかのように思えるが、そうではない、過去を思い出すことで今がむしろ生き生きと活気を帯びてくる、回想するということはそんな豊かな時を過ごすことにつながります。」と語っています。  私はこの考え方に全面的に賛成です。 その時代、その時間、その体験を過ごしてきた結果としてある今の自分を見つめなおすことに繋がると思います。  二度目の人生を味わう、あるいは人生を二度味わう、そんな楽しみに繋がるという気がするわけです。





2021年5月10日月曜日

羽賀善夫(羽賀龍之介選手の父)     ・【アスリート誕生物語】

羽賀善夫(柔道リオオリンピックメダリスト羽賀龍之介選手の父)     ・【アスリート誕生物語】 

2016年 リオデジャネイロオリンピック柔道男子100kg級で銅メダルを獲得した羽賀龍之介選手の父親羽賀善夫です。  去年行われた全日本選手権で羽賀龍之介さんは優勝されました。

宮崎の延岡にいる頃は、私は現役でコーチみたいなこともしていましたので、休日もなかったようなイメージですが、家族で河原で遊んだり山登りに行ったりしていました。       埼玉に引っ越した時には3歳から5歳頃で社宅でした。 兄がいて二人兄弟でした。  妻は国体に2年連続の競泳の選手でした。  牛乳は欠かさず飲むようにしていました。  ごはん、みそ汁、納豆、牛乳は当たり前にやっていました。  旭化成で柔道をやっていて、先輩もやっていて、その子が始めるので一緒にやらないかということで龍之介も一緒に柔道を始めました。   水泳はすでに延岡のころからやっていましたが。  水泳では大会でメダルを取ってくるようにはなりましたが、結局本人と母親で柔道に進むような選択をしました。     

埼玉の川越の柔道場で、先輩の北さんと私もコーチをやっていました。   道場に行って楽しくやってくれればいいなあというような思いだけでした。   兄も一緒に柔道をやっていました。    柔道場では先生と呼ぶようにと指導はしました。  練習の時間帯は特別視しなかったです。     基本の柔道を徹底して行うように一段階ずつ技術的な部分を上げてゆくように指導しました。   時間が長くなるし面白くはないとは思います。

私も内またが得意ですが、龍之介も又内またが得意です。  川越の道場のころから内または教えていました。  小学校3年の時に神奈川県に引っ越しました。  朝飛道場の近くに家を見つけました。   館長の彼は寝技が得意で寝技について細かく指導しました。  寝技を教えていなかったのでどんどん吸収していきました。   オリンピックに出場しようと館長の彼は言っていたので、口にはするようになりました。 

中学では個人戦があり出場するようになって、少しずつ結果を出すようになりました。  3年生になって全国中学生大会に出るようになりました。   兄が高校は東海大相模に進学した関係で同じ学校に進学しました。   勝ち抜き戦では体がぼろぼろになりながらも20人勝って次に引き分けとなり、その次にも出され、妻などは悲鳴を上げていました。

2012年のロンドン大会は補欠。  2016年 リオデジャネイロオリンピック直前の世界大会で金メダル獲得、リオデジャネイロオリンピックでは代表として参加しました。   応援にはいきました。   目指すは金メダルで「楽しんで来い」とは言いましたが、プレッシャーは相当あったと思います。   結果は銅メダルでした。  「お疲れさん」と声をかけました。   

柔道は現役を終えても柔道家として教えることができるので、教えた子供たちがまたいい選手になっていいスパイラルになってくれればいいかなあと思います。   すでに親孝行してもらっているので、父親として柔道家としていい結果なり残してもらって、私もそれを楽しめればいいなあと思います。





2021年5月9日日曜日

奥田佳道(音楽評論家)          ・【クラシックの遺伝子】

 奥田佳道(音楽評論家)          ・【クラシックの遺伝子】

*モーツアルト交響曲第25番  ト短調 冒頭部分

激しい交響曲でモーツアルトがウイーンに行く前の若い時に作った曲。(17歳)

今日は原点復帰でモーツアルトの遺伝子。

当時文学では疾風怒濤のものがあり、モーツアルト、ハイドンの時代には疾風怒濤の雰囲気があった。    映画「アマデウス」に用いられる。

*ピアノ協奏曲  第20番 ニ短調 冒頭部分  

モーツアルトがウイーンに行ってからの曲。  当時は短調はほとんどなかった。  のちにヴェートーベンがピアノ協奏曲  第20番 ニ短調が大好きで、自分がウイーンに来てピアニストとして売り出していこうとしたときにこのピアノ協奏曲  第20番 ニ短調の曲を弾いて喝采を博する。

ピアノ協奏曲  第20番のカデンツア(独奏協奏曲オペラ等のアリアにあって、独奏楽器や独唱者がオーケストラ伴奏を伴わずに自由に即興的な演奏・歌唱をする部分のこと)といえばヴェートーベンなんです。

*ピアノ協奏曲  第20番の第一楽章に織り込まれたヴェートーベン作曲のカデンツアということで、その部分を聞いてみましょう。

ヴェートーベンはウイーンでモーツアルトに会うことはできなかったが、ハイドンには会っている。

*映画「アマデウス」 歌劇『ドン・ジョヴァンニ』 地獄落ちの場面

モーツアルトはその後「魔笛」を書くが、モーツアルトの音楽は劇場のような音楽といわれるが、『ドン・ジョヴァンニ』を書いているときに父親が亡くなっている。

フランツ・リストがやはりモーツアルトのことを大好きだった。 リストはヴェートーベンの交響曲をすべてピアノに編曲するほど、古典派の音楽が好きだった。 シューベルト、シューマンの歌曲なども全部ピアノに編曲しています。 当時一人で行うリサイタルが行われ始めてピアノで一人で弾かなくてはいけなくなってきた。

*モーツアルト作曲 リスト編曲 「 アヴェヴェルム・コルプス」

*20世紀初頭フランスの作曲家 プーランクはモーツアルトと共演したいみたいなピアノコンチェルトを書いています。  第二楽章部分

*トルコ行進曲 編曲 ロシアのアルカディ・ヴォロドス


2021年5月8日土曜日

吉崎俊三(信楽列車事故遺族会)   ・最愛の妻を奪われ、闘いは始まった(初回:2017/5/13)

 吉崎俊三(信楽列車事故遺族会)   ・最愛の妻を奪われ、闘いは始まった(初回:2017/5/13)

https://asuhenokotoba.blogspot.com/2017/05/blog-post_13.htmlをご覧ください。

2021年5月7日金曜日

春日武之(日光殿堂案内協同組合代表理事)・日光の歴史と文化を伝える名調子

 春日武之(日光殿堂案内協同組合代表理事)・日光の歴史と文化を伝える名調子

世界遺産の二社一寺 東照宮、輪王寺、二荒山神社 観光案内をする堂者引きは唯一許された公認案内人で江戸時代から続いています。  春日さんはこの道44年で詳しい知識と長年の経験をもとに日光の歴史と文化を観光客に伝えています。  現在は後進の指導にもあたっているほか感染の影響で観光客が激減した中、新たな道を模索しています。 

堂者引き、お寺や神社を連れ立ってお参りすることを、江戸時代にはどうじゃ(道者)と呼びました。  「どう」は堂ではなくて道でした。  日光だけはどういうわけか堂者と言っていました。  引率して案内する職業の人を堂者引きと言いました。   今でいえば観光ガイドの先走りみたいなものです。  家康公がなくなり、遺言の日光に東照社という家康をまつる神社ができました。   家光様が現在の美しい形に作り替えて、四代将軍が参拝を許可されました。  その折に物見遊山で来てもらっては困るということで、ルールを決めてしっかりとした解説員をつけて学んでいただこうと、堂者引きというものが形成されたといわれています。    生きるための教えを学び、解説をしています。  観光というのは、その土地、土地の光を見るということで「観光」ということになります。  

説明だけでなく堂者の方々を安全に移動させる、火事とか災害が起きた時に参拝の方々を安全に誘導し、消火のお手伝いをします。   いろいろな緊急対応をします。  現在日光では28名です。  24,5歳から75歳までの方たちです。    堂者引きになるためには、身元調査をして、知識を得るための2,3月間の猛勉強が始まり、先輩からの講習もうけて二社一寺から一人前ということに認められて初めて独り立ちができます。

日光に生まれて、その後東京でくらしていましたが、親の具合が悪くなり、地元に戻ってきて、看病しながらの仕事をということでこの堂者引きという仕事を紹介されました。   25歳でこの道に入りました。   台本があり一通り覚えるところから始めました。  奈良時代からスタートして現在に至るまでが台本に書いてあります。   台本はB4版で厚さが3cmぐらいありそれを覚えることから始まります。   読み合わせだけで一週間ぐらいかかりました。   勉強してゆく中で自分なりに疑問点が出てきて、それを書いてある書物を見つけ出して読むという繰り返しです。   次に知識を言葉に変えて伝える訓練をします。   小さい子から高齢の方までいるのでそれに応じた話の仕方を身に付けて行きます。

歴史はけっこう好きなほうでしたが、興味があまりなかったですね。   この仕事にはいって、歴史の奥を見ることが好きになりました。   矢張り皆さんが興味を持つのが戦国の時代、信長、秀吉、家康のころですね。  日光には家康のことが残っているので話しやすいと思っています。   仕事柄、いろいろな寺社には見に行きます。  それぞれの歴史を語っている本があるので必ず購入してきます。   25歳までの自分とその後とでは人間的にもずいぶん変わったと思います。

勝者の歴史を子供のころから学んできましたが、敗者の歴史はどうなっているのかとか、多くの本から見る道ができたので、日常でも多くの広い判断ができるようになった感じがします。   

一回り2時間弱で回ります。   フルコースを回ると3時間ぐらいかかります。 バス一台のお客さん(30~40名)を案内します。  秋の最盛期のは一日4~5回やります。  体力も必要です。  私は今年70歳になり体力と相談しながらやっています。  体力維持のために走っている人とかジムに通っている方もいます。

紹介したいと思うのはやはり「三猿」(見猿,聞か猿、言わ猿)ですかね。   いろんな病気を猿が治したという話がありますが、もちろん猿自身が病気を治すのではなくて、病が去る、災難が去るという意味(去る=猿)です。 この建物には16匹の猿があり人間の一生を表しているといわれています。  親という字は3つに分解すると、木に立って見るとなりますが、 親猿は木に立って子供の将来を見つめながら育てあげる。 そして三猿の教えを守れば、身も心も美しくなる、漢字で身も心も美しいというと「躾」となります。 そういった形で人間の一生を表しています。

昨年は一般団体で9割減でした。  学生団体が5~6割減。 トータルでは7割減というところでした。  今年もこのところ、感染者の増加に伴って、予約キャンセルもあり心配な状況です。  今取り組んでいるのが、出張講義、小学校6年生が旅行に行かれなくなってしまったということで、日光のイメージを見せたいとの関東近辺の先生の要望があり、話をしてほしいということで、学校に出向いて映像を流しながら話をしています。  日光の歴史を少しでもわかっていただけたらなあと思っています。  映像ではなく本物を見ながら時代背景を含め、学んでいってもらいたい。  貯穀などから愛がテーマになっていますが、親子の愛、家族の愛、人を愛する心、自分の住んでいる土地を愛する心、人々を愛する心、国を愛する心、全世界の人々を愛する心、愛というテーマ、一番大事なのが平和です。  世界史の中で200年以上平和だったのは我が国の江戸時代しかないんです。  平和というものがあるからこそ、人を愛せる。彫刻や時代背景からその平和を伝えられればいいかなと思っています。 



2021年5月6日木曜日

コージィ城倉(漫画家)         ・ちばあきおさんの遺志を受け継いで

コージィ城倉(漫画家)         ・ちばあきおさんの遺志を受け継いで 

コージィ 城倉さんは漫画家としてだけではなくて、漫画原作者森高 夕次としても、「グラゼニ」など多くの野球漫画を生み出しています。   ちばあきおさんが1984年に41歳で亡くなったことで未完となったっ野球漫画の続編に挑戦している城倉さんに伺いました。

最初にちばあきお先生が執筆したのは「キャプテン」という作品で、転校してきた主人公・谷口タカオは、野球部へ入部するが、谷口を名門青葉のレギュラー選手だったと思いこんでしまう。 しかし実際は、谷口は2軍の補欠でレギュラーにはほど遠い選手だった。  『欠点を持ち合わせた等身大のキャラクターが、仲間と一緒に努力しながら(監督は不在)成長していく過程』を描いたもの。 谷口君から丸井君という二代目のキャプテンに行く。  週刊少年ジャンプで「プレイボール」という谷口君が高校に進学した話になる。  「プレイボール」も高校2年でストーリーが終わるので、その続きを私が30年ぶりに書いているという、そういう流れになっています。

僕は「キャプテン」という作品の全体的な雰囲気が好きです。  だらだら読めてまったくストレスがかからなくて、これを読んでいると心が安らかになった、いいなあと思います。  特に谷口君の時代にはそれが詰まっていると思います。  

ちばあきおさんの長男の千葉一郎さんがもう一度「キャプテン」を起こせないかと、「プレイボール」も知ってもらえまいかという動機から、本宮先生に相談されて、グランドジャンプに相談したらどうかということで、グランドジャンプから私のほうに相談がありました。  プレッシャーはなく楽しみしかなかったです。  続編を書くということで、ちばあきお先生も大好きだったし、真似をしたときに読者はどう思ってくれるのかなあと、そっちのほうが楽しみでした。   最初のころの作品はうまく真似できなくて見れないですね。   自分になかでは最近は似せるようになったのかなあと思います。

「プレイボール 2」は4年ほど前から始まりました。   これをやっても読者からは見向きもされないのではないかと思っていました。   反応があったので、よかったです。  勝てないだろうなあと思う相手に根性で向かって行ったら、勝ててしまったというこの構造は、世の中そうは簡単に勝てないだろうとか、40年前の構造は自然に入っていける構造ではないかと思います。  それはどこかに根付いているものだと思います。  それをちばあきお先生は優れていてうまく書いたと思います。  40年前を再現できたとしても、そのままだとアイデア不足だと思いいます。  僕がどう進化させたのかというところを読者に気づいて楽しんでいただければと思います。 

ちばてつや先生(ちばあきおの兄)には「プレイボール 2」を書かせていただきますということを実際にお会いして、お話をしました。  

漫画原作者森高 夕次としても、「グラゼニ」の原作もしています。  僕は子供のころから野球少年で、中学は軟式野球で、高校は硬式野球で野球をやっていました。   僕の場合は「巨人の星」から始まって、「どかべん」とか見て漫画から誘われて、野球をはじめたんじゃないかなあと思います。  そういった経験があるから野球漫画が描けるのかなあと思います。   読者も目が肥えているので、そういった経験があったので、飯のタネになっていると思います。

漫画を最初に投稿したのは25歳の時です。  すぐ漫画雑誌に載りました。  サラリーマンだったので野球とは違う漫画ばっかり描いていました。  編集者から野球をやっていたんだったら野球漫画を描いてみたらどうかと言われました。  野球漫画を描ける技術もなかったが、突っ込んでいきました。   常に意識していたのはちばあきお先生の漫画でした。    ちばあきお先生の描くアングルに注目して、自分の漫画にも取り入れていこうと思いました。   ちばてつや先生、ちばあきお先生は俯瞰のアングルを使います。 アップ、また引いて、というような繰り返しになっていますが、ちばてつや先生、ちばあきお先生はロングのままずーっと行くわけです。  アップもあるがタイミングが遅い感じです。  ロングだと背景を描くのが大変です。   ロングだと読者に伝わりやすくて、ロングの連続は大事なことだと思います。

「プレイボール 2」は谷口君が東京都の予選でベスト4の試合で負けるが、谷口君が監督になると決意して終わるんです。   谷口監督で3年に丸井選手、2年に五十嵐選手、1年に近藤選手がいるという、ちばあきお先生が描いたキャプテン4人が全員集合するという、「キャプテン 2」でストーリーを展開していきたい、それが何年も前からの目標というか、遠大な計画で、なんとかこの4人を一つのフィールドで戦わしてみたい。  僕はそれを読みたかった。  僕が書いてしまえということでやるんですが。  ちばあきお先生が書かれなかったことを僕が想像して書いてゆくわけですが。  僕は近藤君はもっと成長するのではないかと思っています。  真似てはきたんですが、僕のオリジナルなところも出てくるんです。  この漫画はいろいろな読み方をしてもらえればいいと思います。  谷口君は予備校にも通いながら大学を目指していこうとしていて、甲子園を目指すのと、大学進学を目指す、その二つがあります。







2021年5月5日水曜日

串田和美(演出家)           ・僕が芝居を続ける理由

 串田和美(演出家)           ・僕が芝居を続ける理由

1942年東京生まれ、日本大学芸術学部演劇学科中退、1965年俳優座養成所を卒業し劇団文学座入団、1966年佐藤信さん斎藤憐さん吉田日出子さんらと共に自由劇場を結成、小劇団活動を始めました。   代表作に1977年上海バンスキング』、『もっと泣いてよフラッパー』などがあります。  その後1985年にBunkamura中劇場「シアターコクーン芸術監督に就任、シェークスピア劇や歌舞伎の上演など数々の新機軸を打ち出します。   1996年シアターコクーン芸術監督を辞任すると同時に、オンシアター自由劇場も解散、現在は長野県のまつもと市民芸術館の総監督として劇場の芸術面だけでなく、運営面にも采配を振るっています。   これまでに2007年、第14回読売演劇大賞最優秀演出家賞(「東海道四谷怪談 北番 2008年紫綬褒章2013年旭日小綬章受章を受賞されています。  

5月6日が夏祭浪花鑑」の初日でしたが、緊急事態宣言で延びてしまって、心配です。   いろんな対策もしていて、花道はつくれないので花道の有効性がすごくあったんだなあと思います。  客席が盛り上がることが大事ですが、席を空けたり、マスクをしたりして寂しい面があります。  渋谷で歌舞伎をやろうということになったのは中村勘九郎さんとの出会いがありました。   劇場はやっぱり観客があって、観客の居住まいがとっても大切だと思っていて、観客同士の交流が大事なんじゃないかと思って、こういった賑わいの中でお芝居ができたらいいなあと思って、それで「渋谷・コクーン歌舞伎」に携わったわけです。

中村勘九郎さんは小劇場のころにも見に来てくれていました。  「三文オペラ」を見て感激して自分もここでやりたいと言っていました。  第一回の夏祭浪花鑑」の演出をやるようになりました。  歌舞伎の演出をやるようになるとは思ってもみなかったです。  歌舞伎は僕らの概念と違って戸惑いばっかりでした。     一座という何となく懐かしい感覚がありました。  

2歳で疎開して3歳の時の8月6日に広島に原爆が落ちて終戦を迎え、その一年後に帰ってきました。  終戦直後に村芝居みたいなものがあって、むしろで囲まれていて、おにぎりを食べて、みんながげらげら笑っている記憶があって、それが僕のお芝居の原点かなあと思っています。   

初演が1996年で、本当の土を入れて、むしろで囲ってやりました。   土が着物について、乾いて楽屋が土埃で大変なことになってしまいました。 お芝居はすじとか中身だけを見るものではないので、年を経た再演でいろいろ気づくことがあると思います。  だから古典があり、繰り返しやっている中でいろいろ発見があると思います。  再演は大事だなあと気づきました。

子供時代、スタートが敗戦なのでどんどん良くなるという風にしか思っていなかったです。 平等に何もなかった社会の、のどかというか、一緒に手を取り合って生きているというのがぼんやり思っていました。  そういった光景がお芝居の中に盛り込まれています。

父は哲学者・詩人の串田孫一です。  私は長男です。  学校に行くようになると、ほかの家庭とはなんか違うなということが見えてきました。  父親のところにはいろんな詩人だとか集まってきて、いろんな会を開いておしゃべりをしていました。   中学の時に新入生歓迎の会があり、「うりこひめとあまのじゃく」というお芝居をやっていて、後ろから上級生がやじをとばしていて、いい役をもらえずヤジを飛ばしていたようでした。  実はこれもお芝居で二重構造のお芝居だったようでした。  面白いなあと思っていましたが、後でわかったんですが、うりこひめをやっていたのが長山 藍子さんでした。  後ろからヤジを飛ばしていったのが山本圭さんでした。  演劇の顧問の先生から声をかけられて、演劇の道に入ってそれから60年ぐらいになります。   父の影響でいろんな山にも登りました。  美術部にも入って勉強以外は何でもやりました。  

日本大学芸術学部演劇学科に入学しました。  入ったがあまり面白くもなく、高校の先輩の斎藤憐さんとお芝居を作ったりしていて、俳優座養成所を受けたら受かって、中退して3年間通いました。  その後佐藤信さん斎藤憐さん吉田日出子さんらと共に自由劇場を結成しました。  もう少し力をつけようということで吉田日出子さんらと文学座のほうに入りました。    1年後に劇団を作るということになって、劇場も作ろうということになり、探して六本木地下にある部屋を大変な借金をして劇場にしました。  地下にあったのでアンダーグラウンド自由劇場」という名前にしました。  その後「アングラ」という言葉が生まれました。 中には過激なものもありました。  そういったことで1975年、正式に「オンシアター自由劇場」に劇団名を改めました。  

物質的にも金銭的にも恵まれるようになったのに、一番大事なものってなんだろうと思った時に、地方ということがポッと頭に浮かんで、松本で芸術館を作るという話が来て、引き受けることになりました。  反対運動などもあり話し合いながら進めていきました。   なぜ反対するのかといことをよく聞いて、反対する人たちも大切だなあとその時思いました。   もう20年になりますが、今年の春から総監督ということで、市の文化行政にも関わるようになりましたが、後2年で区切りをつけ次の人にバトンタッチしたいと思っています。

権威というものに違和感を感じる、権威的にはなるまいと思っています。  巨匠にはなりたくなくて一緒にぐちゃぐちゃになってやっていきたいと思っていて、歌舞伎も江戸時代の河原乞食からやっと脱出して国宝みたいな人になってゆくんですが、河原でやっていた時の何かを失っているような気がして、演劇も立派になってきたけど、なんか大事なものを忘れているなあというように、それが一番自分に言い聞かしていることというか。  

来年80歳になりますが、びっくりしてます。   だんだんやることがなくなるかなと思ったら、逆なんですね。  松本のフェスティバルをやろうと考えていて、ほかにもあれもやろう、これもっやろうと、それが元気の元だと思います。


 

2021年5月4日火曜日

荒俣宏(作家)              ・【私のがむしゃら時代】(初回:2019/2/24)

荒俣宏(作家)            ・【私のがむしゃら時代】(初回:2019/2/24) 

https://asuhenokotoba.blogspot.com/2019/02/blog-post_24.htmlをご覧ください。


2021年5月3日月曜日

穂村弘(歌人)             ・【ほむほむのふむふむ】名久井直子

 穂村弘(歌人)             ・【ほむほむのふむふむ】名久井直子

名久井直子さんは1000冊以上の本の装丁をされていて、ぼくも何冊か装丁していただき、最近の本だと「あの人と短歌」という対談集で、名久井さん自身にも対談に来ていただいて、収録されている本です。  今月出る31年前のデビュー歌集の新装版をデザインを一新して、「シンジケート」という歌集のデザインをお願いしています。

1976年 岩手県盛岡市生まれ。  武蔵野美術大学視覚伝達デザイン学科卒業後、外資系広告代理店に就職、アートディレクターとして勤務。  在職中に友人の歌人錦見映理子さん歌集『ガーデニア・ガーデン』を初めとしてブックデザインの仕事を始め、2005年に独立、フリーで活動を始めました。  平成26年川上未映子さんの『愛の夢とか』ささめやゆきさんの『イタリアの道』、辻村 深月さん 『島はぼくらと』などの装丁で第45回講談社出版文化賞ブックデザイン賞を受賞されています。  穂村さんとはもう20年以上のお付き合いです。

名久井:初めてお会いしたのが、2001年かと思います。  新入社員でした。  100万円たまったら会社を辞めるということで、貯まってスパッと辞めました。   いろいろデザインの仕事をさせていただきましたが、その反応が全然わからなくて、規模が小さくてもいいから手に触れる仕事のほうが、性に合っていたという気がします。   本は好きでした。  私の場合は向こうから来る本を読むだけで、いろいろな本に無理矢理出会わされるのでありがたい仕事でした。 

 穂村:昔は微妙に白っぽくて簡素で上品な美しさの本ばっかりでしたが、化粧が濃いみたいなものだといわれた時にはびっくりしました。

名久井:歌集は誰かが見えるとしても、それは歌人本人かあいまいで、それを形にするのが難しいし仕事で、抽象的なイメージになりがちになります。   辞書は長く使うものなので嫌がられるのは駄目なので緊張します。   歌集、詩集などは、私は温度とか湿度という感じでとらえているんですが、暑くるしいとかクールだとか、そういう温度、湿度の種類は微妙に違っていて、そこに近い温度、湿度で仕上げると違和感はないと思ています。  とがったものになるほど好みが少なくなるので、親しみやすい感じのほうがいいと思います。

穂村:自分では気に入っていた本があったんですが、書店さんから不評で、「この本は積み重ねると崩れます」といわれてしまいました。  摩擦ですかね。

名久井:摩擦は気にします。  

名久井直子さんの選んだ短歌                           **「心から人を愛いしてしまったと触角をふるわせる弟」    笹井宏之

『えーえんとくちから』という歌集からこれは持ってきましたが、笹井さんの歌は細かい所に行っていないというか、命とか、風とか、違うものにもなりきれている感じというか。

穂村:2009年に26歳で病気に亡くなったんでわれわれも驚きました。  この歌集は亡くなった後に作られたものですね。  

名久井:毎回読むたびに好きな歌が変わるというか、そこも彼の歌集の魅力かと思います。

穂村:すごく強い片思いとかすると相手と自分の距離があり過ぎてこんな気分になるよなという感じの、相手がかぐや姫みたいな。

名久井:憧れの強さが出ているのかなという気がします。

 とても私きましたここへ。とてもここへ。白い帽子を胸に ふせ立つ」  雪舟えま

雪舟さんの短歌はかわいいものがたくさんあって、「憂いなく楽しく生きよ娘達熊銀行に鮭をあずけて」  というのもとても好きです。   一緒にウキウキする気持ちになるような、そういうところへ連れて行ってくれるような感じがします。

穂村:「 とても私きましたここへ。とてもここへ。」というのは不思議な日本語ですよね。   何か特別な場所なんでしょうね。  感情があふれた時にはこういう混乱した感じにあふれるということがあるのかなあという気がします。 詩集「たんぽるぽる」 装丁の力もあってロングセラーになっています。

雪まみれ の頭をふってきみもう絶対泣かない機械となりぬ」   飯田有子

名久井:「絶泣かない機械」というのは逆に人間ポイっというか強い表現だと思います。  飯田さんの歌は決心みたいな単語が浮かぶが、強い気持ちを持つというか、そういうのがいっぱい詰まっていて切ない気持ちになってしまいます。

好きだった 世界をみんな 連れてゆくあなたのカヌー 燃えるみずうみ」   東直子

名久井:若い時って、より遠くにより遠くに連れて行ってくれる歌みたいなっものに魅力を強く感じた時期で、読み直してみるとその時の自分みたいなものが出てくるような感じの歌ですね。

穂村:お別れの歌で悲しい感じがありますね。 すべてを焼き尽くしてしまうような。

名久井:私はあまり悲しさは感じなくて、悲しさを通り越して成仏に近いというか、そんな感じがします。

*「訪ね人として私を探すときあなたの選ぶ写真が見たい」  「新短歌教室の歌集1」から

穂村:これも一種の愛についての歌だと思いますが、面白い心理ですね。

*「ひとんちのにおいが好きでたまらない何もとらないタイプの空き巣」「新短歌教室の歌集1」から

穂村:こう幾つか並べてくると、名久井さんの好みが判る感じです、ちょっと柔らかくてかわいい。

*印の短歌は正しいかな、漢字にはなっていない可能性があります。