森雪之丞(作詞家・詩人) ・「カッコいい日本語のミュージカルを!」(初回:2019/12/6)
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2019/12/blog-post_6.htmlをご覧ください。
2020年4月30日木曜日
2020年4月29日水曜日
山中麻須美(英国キュー王立植物園公認植物画家)・「植物のいのちと響きあう(1)」
山中麻須美(英国キュー王立植物園公認植物画家)・「植物のいのちと響きあう(1)」
ユネスコ世界遺産に登録されているイギリスのキュー王立植物園、通称キューガーデンといいますが、5人の公認植物画家がいます。
山中麻須美さんはその中のおひとりでキューガーデン初めての日本人の公認植物画家です。
山中さんはイギリス在住31年、日本人初のキュー王立植物園公認植物画家として2011年には英国国立園芸協会のボタニカルアートショーで金賞を受賞されました。
2016年に日本の植物だけの日本の植物画家によるボタニカルアート展を企画立案して、キュー植物園でその展覧会を開催し 大変好評だったということです。
その展覧会を日本でも開催したいと奔走して2017年に実現し、24万人がその展覧会を訪れました。
展覧会の開催に合わせて来日された山中さんに植物画家になった経緯、植物園に公認植物画家がいるという、どういうことなのか伺いました。
5人の公認植物画家がいますが、植物学者の方に直接頼まれて、文献などに使う科学的な植物画を描いています。
5人のうち2人はもともと植物学者です、たまたま絵がうまかったので植物画家になった方たちで、残りの二人はご主人がキューガーデンの植物学者で奥様が絵を描いています。
私だけが違っています。
200年、300年前に大陸から持ち帰った新しい植物を、あるいは新大陸へ連れて行って植物だけではなく動物、魚、昆虫、民族などをカメラ代わりに正確に記載するために学術的に描いたのが博物画で、その中の植物を描いたのが植物画のスタートだと思います。
写真が発明された後も、続きました。
花びら、雄しべ雌しべなどいろんな部分を分解して入れていました。
時間経過的な変化のことも意図的に入れています。
カメラだけではできない内容を描き入れています。
花なども実物大で描きます。
基本は科学的に正しいこと、実物大で描かれていること。
植物学者と二人三脚で描いているアーティストは非常に少なくなってしました。
水彩で描いたり、ペンで描く場合があります。
顕微鏡を使って描くときもありますが、それはボタニカルアートではなく、サイエンティフィックイラストレーションといわれています。
サイエンティフィックイラストレーションは動物の分解図、昆虫の分解図もサイエンティフィックイラストレーションであり必ず植物というわけではありません。
発見された新しい植物を通常描きます。
5人のうち私だけは比較的自由に描いています。
文献用も頼まれて描きますが、キューガーデンを最初に作ったジョージ三世のお母さんだったオーガスター皇太子妃が植えた木が6本残っています。
他を含めて重要な木が13本指定されています。
ヒマラヤが原産のインドトチノキがあり、そのインドトチノキを一年を通して描いたシリーズでGoldメダルを受賞しました。
そのインドトチノキの木が13本の中の一本だということに気が付きました。
そうして13本を描くことにして、全部描けたら展示会をしてほしいと言われました。
めったに来ない台風で13本の中の一本が大きく折れて姿を変えてしまいました。
もう一本も折れてしまって、冗談で13本の木に頼まれて描いていたといっていましたが、折れる前の姿を描けていて、ほんとうになってしまいました。
キューガーデンの歴史としての木をそのままの形で描き残すことも大事だと思って、みなさんとは違った形で描いています。
いろんなタイプの人がそれぞれ描いています。
イギリスのファッションデザイナーのヴィヴィアン・ウエストウッドが標本を元にして描いた絵を見て、テキスタイルを作らせてほしいと言ってきました。
ドレスを作ってファッションショーにデビューしたんです。
私の場合には木を描くときには原寸ではなく縮尺サイズで描いています。
花、葉っぱ、実などはボタニカルアートとして正確に科学的に描いています。
2015年に個展を開きました。
私はもともと食器のデザイナーをしていました。
マークス&スペンサーと知り合いになり、イギリスに来ないかと誘われました。
30歳ちょっと前ぐらいのときで、イギリスに行きました。
一か月の予定だったが、だんだん伸びていってそれが5年になり永住権が取れて、一旦フリーランスになり食器デザイナーとして仕事をしていましたが、44歳の時に乳がんを患いました。
手術後、抗がん剤治療、放射線治療をあわせて7か月行いました。
仕事もできない状態でいて、リハビリとして右手を動かすために送られてきた花を描こうと思って植物画を始めました。
放射線治療をするときに毎日塗ってくださいと言われたのが、アロエ100%のクリームでした。
アロエのパワーの凄さに気がつきまして、病院で治療を受けている間に植物について考えさせられました。
気が付かなかったが、空気も全部植物が作ってくれているわけです。
植物を描いていると元気になり、ボタニカルアートについての知識をいろいろ本から学びました。
正しい植物画を習いたいと思って、退院後キューガーデンのアーティスト、パンドラ•セラーズさんにボタニカルアートの指導を受けました。
医師の先生からは再発の可能性は50%といわれました。
2年後に転移があり子宮と卵巣の全摘手術を受けました。
もしかすると自分の人生が短くなるかもしれないと思って、家も売って、キューガーデンに毎週通い始めました。
自分が地球からいなくなってしまうのではないかと考えたときに、地球と対話をするようになりました。
残された時間を自分のやりたいことをやってみようと、地球のために、自然とのかかわりに少しでも貢献できることができるのではないのだろうかという風に思って、できるだけ科学的な絵を描きたいと思いました。
キューガーデンには20万枚以上の植物があります。
図書館に通って勉強していましたが、図書館が新しくなり絵を入れている箱の移し替え作業がありその作業の仕事をしているうちにいろんな作業を任されるようになりました。
絵を描いているうちに植物学者の人がこの植物を描いてみてくれないかと言ってくるようになりました。
たまたまキューガーデンのアーティストに空席ができまして、植物学者からの仕事も引き受けるようになりました。
キューガーデンにいって10年ちょっとになりますが、最初の3年間ぐらいは不法滞在者だったと思います。
2007年に後任になりました。
常設展示場があり企画展があり、日本人ばっかりの展示がしたいと思っていましたが、日本の植物が多くイギリス、ヨーロッパには入ってきていましたので、日本の植物の美しさを知ってもらいたいと思いました。
小石川植物園の加藤竹斎の絵、高知の牧野植物園の牧野富太郎博士の原画、練馬の牧野記念館から服部雪斎の絵だとか江戸から明治にかけての歴史的な日本の植物画を展示させていたいただき、併せて現代作家の植物画を展示して対比が面白いと言われて高い評価を得ました。
ユネスコ世界遺産に登録されているイギリスのキュー王立植物園、通称キューガーデンといいますが、5人の公認植物画家がいます。
山中麻須美さんはその中のおひとりでキューガーデン初めての日本人の公認植物画家です。
山中さんはイギリス在住31年、日本人初のキュー王立植物園公認植物画家として2011年には英国国立園芸協会のボタニカルアートショーで金賞を受賞されました。
2016年に日本の植物だけの日本の植物画家によるボタニカルアート展を企画立案して、キュー植物園でその展覧会を開催し 大変好評だったということです。
その展覧会を日本でも開催したいと奔走して2017年に実現し、24万人がその展覧会を訪れました。
展覧会の開催に合わせて来日された山中さんに植物画家になった経緯、植物園に公認植物画家がいるという、どういうことなのか伺いました。
5人の公認植物画家がいますが、植物学者の方に直接頼まれて、文献などに使う科学的な植物画を描いています。
5人のうち2人はもともと植物学者です、たまたま絵がうまかったので植物画家になった方たちで、残りの二人はご主人がキューガーデンの植物学者で奥様が絵を描いています。
私だけが違っています。
200年、300年前に大陸から持ち帰った新しい植物を、あるいは新大陸へ連れて行って植物だけではなく動物、魚、昆虫、民族などをカメラ代わりに正確に記載するために学術的に描いたのが博物画で、その中の植物を描いたのが植物画のスタートだと思います。
写真が発明された後も、続きました。
花びら、雄しべ雌しべなどいろんな部分を分解して入れていました。
時間経過的な変化のことも意図的に入れています。
カメラだけではできない内容を描き入れています。
花なども実物大で描きます。
基本は科学的に正しいこと、実物大で描かれていること。
植物学者と二人三脚で描いているアーティストは非常に少なくなってしました。
水彩で描いたり、ペンで描く場合があります。
顕微鏡を使って描くときもありますが、それはボタニカルアートではなく、サイエンティフィックイラストレーションといわれています。
サイエンティフィックイラストレーションは動物の分解図、昆虫の分解図もサイエンティフィックイラストレーションであり必ず植物というわけではありません。
発見された新しい植物を通常描きます。
5人のうち私だけは比較的自由に描いています。
文献用も頼まれて描きますが、キューガーデンを最初に作ったジョージ三世のお母さんだったオーガスター皇太子妃が植えた木が6本残っています。
他を含めて重要な木が13本指定されています。
ヒマラヤが原産のインドトチノキがあり、そのインドトチノキを一年を通して描いたシリーズでGoldメダルを受賞しました。
そのインドトチノキの木が13本の中の一本だということに気が付きました。
そうして13本を描くことにして、全部描けたら展示会をしてほしいと言われました。
めったに来ない台風で13本の中の一本が大きく折れて姿を変えてしまいました。
もう一本も折れてしまって、冗談で13本の木に頼まれて描いていたといっていましたが、折れる前の姿を描けていて、ほんとうになってしまいました。
キューガーデンの歴史としての木をそのままの形で描き残すことも大事だと思って、みなさんとは違った形で描いています。
いろんなタイプの人がそれぞれ描いています。
イギリスのファッションデザイナーのヴィヴィアン・ウエストウッドが標本を元にして描いた絵を見て、テキスタイルを作らせてほしいと言ってきました。
ドレスを作ってファッションショーにデビューしたんです。
私の場合には木を描くときには原寸ではなく縮尺サイズで描いています。
花、葉っぱ、実などはボタニカルアートとして正確に科学的に描いています。
2015年に個展を開きました。
私はもともと食器のデザイナーをしていました。
マークス&スペンサーと知り合いになり、イギリスに来ないかと誘われました。
30歳ちょっと前ぐらいのときで、イギリスに行きました。
一か月の予定だったが、だんだん伸びていってそれが5年になり永住権が取れて、一旦フリーランスになり食器デザイナーとして仕事をしていましたが、44歳の時に乳がんを患いました。
手術後、抗がん剤治療、放射線治療をあわせて7か月行いました。
仕事もできない状態でいて、リハビリとして右手を動かすために送られてきた花を描こうと思って植物画を始めました。
放射線治療をするときに毎日塗ってくださいと言われたのが、アロエ100%のクリームでした。
アロエのパワーの凄さに気がつきまして、病院で治療を受けている間に植物について考えさせられました。
気が付かなかったが、空気も全部植物が作ってくれているわけです。
植物を描いていると元気になり、ボタニカルアートについての知識をいろいろ本から学びました。
正しい植物画を習いたいと思って、退院後キューガーデンのアーティスト、パンドラ•セラーズさんにボタニカルアートの指導を受けました。
医師の先生からは再発の可能性は50%といわれました。
2年後に転移があり子宮と卵巣の全摘手術を受けました。
もしかすると自分の人生が短くなるかもしれないと思って、家も売って、キューガーデンに毎週通い始めました。
自分が地球からいなくなってしまうのではないかと考えたときに、地球と対話をするようになりました。
残された時間を自分のやりたいことをやってみようと、地球のために、自然とのかかわりに少しでも貢献できることができるのではないのだろうかという風に思って、できるだけ科学的な絵を描きたいと思いました。
キューガーデンには20万枚以上の植物があります。
図書館に通って勉強していましたが、図書館が新しくなり絵を入れている箱の移し替え作業がありその作業の仕事をしているうちにいろんな作業を任されるようになりました。
絵を描いているうちに植物学者の人がこの植物を描いてみてくれないかと言ってくるようになりました。
たまたまキューガーデンのアーティストに空席ができまして、植物学者からの仕事も引き受けるようになりました。
キューガーデンにいって10年ちょっとになりますが、最初の3年間ぐらいは不法滞在者だったと思います。
2007年に後任になりました。
常設展示場があり企画展があり、日本人ばっかりの展示がしたいと思っていましたが、日本の植物が多くイギリス、ヨーロッパには入ってきていましたので、日本の植物の美しさを知ってもらいたいと思いました。
小石川植物園の加藤竹斎の絵、高知の牧野植物園の牧野富太郎博士の原画、練馬の牧野記念館から服部雪斎の絵だとか江戸から明治にかけての歴史的な日本の植物画を展示させていたいただき、併せて現代作家の植物画を展示して対比が面白いと言われて高い評価を得ました。
2020年4月28日火曜日
観世清和(能楽・観世流二十六世家元) ・銀座で出逢う新しい能(初回:2017/4/17)
観世清和(能楽・観世流二十六世家元)・銀座で出逢う新しい能(初回:2017/4/17)
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2017/04/blog-post_19.htmlをご覧ください。
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2017/04/blog-post_19.htmlをご覧ください。
2020年4月27日月曜日
頭木弘樹(文学紹介者) ・【絶望名言】「安部公房」
頭木弘樹(文学紹介者) ・【絶望名言】「安部公房」
芥川賞、読売文学賞、フランス最優秀外国文学賞などを受賞し、ノーベル文学賞に最も近い作家と言われた安部公房の絶望名言。
「弱者への愛には何時だって殺意が込められている。」 安部公房
頭木:13年間難病のため病院に入院しているか自宅にひきこももっていた時期がありました。
免疫力は今も落ちていて、コロナウイルスに対しては怖いです。
安部公房の代表作には「砂の女」、「箱男」、「密会」などがあります。
以前から安部公房は大好きでした。
安部公房は1924年生まれ。
「弱者への愛には何時だって殺意が込められている。」という言葉はいろいろな作品の中で何回も使っています。
「弱者を憐れみながらもそれを殺したいという願望、つまり弱者を排除したい、強者だけが残るという事なんだね。」と安部公房は説明している。
これだけだと弱肉強食ということのように感じる。
ウサギとライオンに例えるとウサギが圧倒的に多いとウサギが強者となりライオンは弱者となる。
個としての強者と社会的な強者は違って、社会的な強者とは多数派のことです。
「現実の社会関係の中では必ず多数派が強者なんだ。
平均化され体制の中に組み込まれやすいものがむしろ強者であって、はみ出し者がむしろ弱者とみなされる。」 安部公房
「共同体に復帰したい、共同体の中に逆らわずに引き返して、決められた場所の穴の形に自分を合わせたいと、強者願望とは意外に似通っているんだね。」 安部公房
社会に適応したいという気持ちはだれにもある。
一生懸命適応したい強者になろうとしているときに、適応しようとしていないもの、できない者に対して苛立たしい存在になる。
多数派にみんなでなろうというときに、その輪を乱すものに対して排除したくなる。
「例えば発明発見などについて考えても弱者が自分の弱い欠落を埋めるための衝動じゃないか。
いい服を例にとってみようか。
非常に体が強健で寒くても平気な奴にはいい服はいらない。
すぐにブルブルっと来る奴が寒さしのぎに衣服を発明する。
そういう弱者の組織力というものが社会を展開し、構築してゆくわけだ。
強者の論理に対しての弱者の復権、人間の歴史というものは根本的にはそうなんだね。
逆に言えば弱者の或る部分が強者に転化していく歴史でもあったわけだ。
よくよく見るとそこに踏まえている一つの殺意みたいなものが、我々の未来に対する希望みたいなものに水を差している部分が非常に多いわけだ。」 安部公房
弱者がその生きずらさ故に何とかしなければと社会を改革してゆくわけですが、弱者を切り捨ててしまったら、社会の進歩もとまってしまうわけです。
少数の弱いものは切り捨てても仕方がないという、そういう言葉の背後には安部公房のいうような殺意が少し込められているんではないかと思います。
でもそういう殺意は未来への希望に水を差すことになる。
「人類の歴史は弱者の生存権の拡張だった。
社会の能力が増大すればするほど、より多くの弱者を社会の中に取り込んできた。
弱者を如何に多く取り込むかが文明の尺度だったとも言える。」 安部公房
「ふと未来が今までのように単なる青写真ではなく、現在から独立した意志を持つ凶暴な生き物のように思われた。」 SF長編小説の「第四間氷期」の一節 安部公房
未来は日常の連続の先にあるのではなくて、もっと断絶したものではないか、というテーマです。
未来を生きてきた延長線上に描いてきたが、未来は延長線上ではなくて、ある時突然見なれない受け入れがたい未来が不意に現れるんじゃないかと、そういうことを言っている。
今の私たちには納得いくことではないでしょうか。
いま世界中であわてています。
「未来は個人の願望から類推のできないほど断絶したものであり、しかもその断絶の向こうに現実の我々を否定するものとして現れ、しかもそれに対する責任を負う断絶した未来に責任を負う形以外には、未来に関わり合いを持てないということなのです。」安部公房
理解できないほうが幸せで、断絶した未来ということを理解できるようになってしまった今の私たちのほうがちょっと悲しいです。
「未来は日常的連続間で有罪の宣告をする。」 安部公房
まあまあこのまま何とかやっていけるだろうとたかをくくっていた私たちも、今は有罪を宣告されてしまっている。
「失明宣告を受けた人間が最後に見る目で街を描写すること。」 安部公房
山田太一の「川の向こうで人が呼ぶ」という戯曲で、もう死ぬかもと思ってマンションの屋上から夕暮れの街を眺めるシーンで
「どうってことのない街並みの灯りなのに、文字通り胸がふるえるぐらい感動した。
どこかで子どもの泣く声がする。
遠くで誰かを呼ぶ声がする。
車の発進音、見降ろすと小さく人が歩いている。
みんななんだか少し急ぎ足だ。
あーその何もかもが懐かしくて悲しくて綺麗だった。
その興奮は翌日も続いた。
何を見てもよかった。
歩道の石の間から草が生えているのに物凄く感動したり、車の排気ガスの臭いまでもうじき別れると思えば懐かしいんだ。」
もう見られないかもと思って見るということは、こういうことだと思います。
萩原朔太郎の「病床生活からの一発見」という随筆の一節。
「子規の歌は長い間私に取っての謎であった。
何のために何の意味であんな無味平坦なただ事の詩を作るのか。
作者に取ってそれが何の詩情に値するのかということがいくら考えても疑問であった。
ところがこの病気の間初めてようやくそれがわかった。
私は天井に止まる蠅を一時間も面白く眺めていた。
床に差した山吹の花を終日飽きずに眺めていた。
実につまらない事、平凡無味なくだらないことが、すべて興味や詩情を誘惑する。
あの一室に閉じこもって長い病床生活をしていた子規が、こうした平坦無味な歌を作ったことが、はじめて私に了解された。」 萩原朔太郎
ずーっと寝ていることでものの見方が変わるわけですね。
今は世のみんながある程度命の危険を感じて家にこもっていたりしますが、安部公房、山田太一、が書いているように、世の中が美しく見えたり、正岡子規、萩原朔太郎のように部屋の中を見つめているだけで感動したり、そういう境地になったりすることはだれでもできる事かもしれません。
今までと違う見方で周囲を見てみるのもいいんじゃないかと思います。
安部公房はバッハが大好きで「バッハにはなによりも精神の塗り薬になってくれる優しさがある。」と言っています。
*バッハ 「ブランデンブルク協奏曲第五番ニ長調」
「選ぶ道がなければ迷うこともない。
私は嫌になるほど自由だった。」 「鞄」という短編小説の最後の文章 安部公房
ある青年が大きな鞄を持って雇ってほしいと言ってくる。
「この鞄のせいでしょうねえ。
ただ歩いているだけなら楽に運べるのですが、一寸でも階段のある坂に来るともう駄目なんです。
お陰で運ぶことのできる道がおのずから制約されていしまうわけですね。
鞄の重さが僕の行き先を決めてしまうのです。」 安部公房
私の場合はこの鞄が病気だと思いました。
難病という鞄を持ったことで、恐ろしいほど限られました。
自分で道を選ぶのではなくて、病気という鞄を抱えてても進める道しかなかった。
「ユープケッチャの説明をしておきますと、これは甲虫の一種で足が退化し、自由に移動することができない。
代わりに自分の排便を餌にして、グルグル小さな円を描いて生きているわけです。
一日一回回るので時計虫とも言われている。 安部公房
ユープケッチャは安部公房「方舟さくら丸」という小説に出てくる安部公房が考えた架空の虫です。
自給自足のできる虫。
部屋の中にいて動かずに食べていける、これは一つの理想で、煩わしい人間関係もなく好きでもない仕事をするとか、そういったことから一切解放される。
「これは実際にはありえないんだけれど、僕らの中にはこういうものに対するあこがれというか、そう言う生き方をできればしたいと思うんだよね。
一方で同時に今度は外に拡張してゆく自己拡張の願望が自動的に対立物として出てくるんだ。」 安部公房
今はみんなが引きこもっているが、外に出たくなる。
今後は人に触れ合うという渇望が高まって来ると思います。
だんだん気晴らしとか癒しとかではやっていけなくなる時が来ます。
そういう時に重い文学が必要になってきます。
耐えきれなくなった時には重いものを読むと逆にそういうものがいいんです。
ドストエフスキーなどいざ読んでみるとはまります。
もやもやしていたものが本を通してくっきり見えてくる事もあります。
芥川賞、読売文学賞、フランス最優秀外国文学賞などを受賞し、ノーベル文学賞に最も近い作家と言われた安部公房の絶望名言。
「弱者への愛には何時だって殺意が込められている。」 安部公房
頭木:13年間難病のため病院に入院しているか自宅にひきこももっていた時期がありました。
免疫力は今も落ちていて、コロナウイルスに対しては怖いです。
安部公房の代表作には「砂の女」、「箱男」、「密会」などがあります。
以前から安部公房は大好きでした。
安部公房は1924年生まれ。
「弱者への愛には何時だって殺意が込められている。」という言葉はいろいろな作品の中で何回も使っています。
「弱者を憐れみながらもそれを殺したいという願望、つまり弱者を排除したい、強者だけが残るという事なんだね。」と安部公房は説明している。
これだけだと弱肉強食ということのように感じる。
ウサギとライオンに例えるとウサギが圧倒的に多いとウサギが強者となりライオンは弱者となる。
個としての強者と社会的な強者は違って、社会的な強者とは多数派のことです。
「現実の社会関係の中では必ず多数派が強者なんだ。
平均化され体制の中に組み込まれやすいものがむしろ強者であって、はみ出し者がむしろ弱者とみなされる。」 安部公房
「共同体に復帰したい、共同体の中に逆らわずに引き返して、決められた場所の穴の形に自分を合わせたいと、強者願望とは意外に似通っているんだね。」 安部公房
社会に適応したいという気持ちはだれにもある。
一生懸命適応したい強者になろうとしているときに、適応しようとしていないもの、できない者に対して苛立たしい存在になる。
多数派にみんなでなろうというときに、その輪を乱すものに対して排除したくなる。
「例えば発明発見などについて考えても弱者が自分の弱い欠落を埋めるための衝動じゃないか。
いい服を例にとってみようか。
非常に体が強健で寒くても平気な奴にはいい服はいらない。
すぐにブルブルっと来る奴が寒さしのぎに衣服を発明する。
そういう弱者の組織力というものが社会を展開し、構築してゆくわけだ。
強者の論理に対しての弱者の復権、人間の歴史というものは根本的にはそうなんだね。
逆に言えば弱者の或る部分が強者に転化していく歴史でもあったわけだ。
よくよく見るとそこに踏まえている一つの殺意みたいなものが、我々の未来に対する希望みたいなものに水を差している部分が非常に多いわけだ。」 安部公房
弱者がその生きずらさ故に何とかしなければと社会を改革してゆくわけですが、弱者を切り捨ててしまったら、社会の進歩もとまってしまうわけです。
少数の弱いものは切り捨てても仕方がないという、そういう言葉の背後には安部公房のいうような殺意が少し込められているんではないかと思います。
でもそういう殺意は未来への希望に水を差すことになる。
「人類の歴史は弱者の生存権の拡張だった。
社会の能力が増大すればするほど、より多くの弱者を社会の中に取り込んできた。
弱者を如何に多く取り込むかが文明の尺度だったとも言える。」 安部公房
「ふと未来が今までのように単なる青写真ではなく、現在から独立した意志を持つ凶暴な生き物のように思われた。」 SF長編小説の「第四間氷期」の一節 安部公房
未来は日常の連続の先にあるのではなくて、もっと断絶したものではないか、というテーマです。
未来を生きてきた延長線上に描いてきたが、未来は延長線上ではなくて、ある時突然見なれない受け入れがたい未来が不意に現れるんじゃないかと、そういうことを言っている。
今の私たちには納得いくことではないでしょうか。
いま世界中であわてています。
「未来は個人の願望から類推のできないほど断絶したものであり、しかもその断絶の向こうに現実の我々を否定するものとして現れ、しかもそれに対する責任を負う断絶した未来に責任を負う形以外には、未来に関わり合いを持てないということなのです。」安部公房
理解できないほうが幸せで、断絶した未来ということを理解できるようになってしまった今の私たちのほうがちょっと悲しいです。
「未来は日常的連続間で有罪の宣告をする。」 安部公房
まあまあこのまま何とかやっていけるだろうとたかをくくっていた私たちも、今は有罪を宣告されてしまっている。
「失明宣告を受けた人間が最後に見る目で街を描写すること。」 安部公房
山田太一の「川の向こうで人が呼ぶ」という戯曲で、もう死ぬかもと思ってマンションの屋上から夕暮れの街を眺めるシーンで
「どうってことのない街並みの灯りなのに、文字通り胸がふるえるぐらい感動した。
どこかで子どもの泣く声がする。
遠くで誰かを呼ぶ声がする。
車の発進音、見降ろすと小さく人が歩いている。
みんななんだか少し急ぎ足だ。
あーその何もかもが懐かしくて悲しくて綺麗だった。
その興奮は翌日も続いた。
何を見てもよかった。
歩道の石の間から草が生えているのに物凄く感動したり、車の排気ガスの臭いまでもうじき別れると思えば懐かしいんだ。」
もう見られないかもと思って見るということは、こういうことだと思います。
萩原朔太郎の「病床生活からの一発見」という随筆の一節。
「子規の歌は長い間私に取っての謎であった。
何のために何の意味であんな無味平坦なただ事の詩を作るのか。
作者に取ってそれが何の詩情に値するのかということがいくら考えても疑問であった。
ところがこの病気の間初めてようやくそれがわかった。
私は天井に止まる蠅を一時間も面白く眺めていた。
床に差した山吹の花を終日飽きずに眺めていた。
実につまらない事、平凡無味なくだらないことが、すべて興味や詩情を誘惑する。
あの一室に閉じこもって長い病床生活をしていた子規が、こうした平坦無味な歌を作ったことが、はじめて私に了解された。」 萩原朔太郎
ずーっと寝ていることでものの見方が変わるわけですね。
今は世のみんながある程度命の危険を感じて家にこもっていたりしますが、安部公房、山田太一、が書いているように、世の中が美しく見えたり、正岡子規、萩原朔太郎のように部屋の中を見つめているだけで感動したり、そういう境地になったりすることはだれでもできる事かもしれません。
今までと違う見方で周囲を見てみるのもいいんじゃないかと思います。
安部公房はバッハが大好きで「バッハにはなによりも精神の塗り薬になってくれる優しさがある。」と言っています。
*バッハ 「ブランデンブルク協奏曲第五番ニ長調」
「選ぶ道がなければ迷うこともない。
私は嫌になるほど自由だった。」 「鞄」という短編小説の最後の文章 安部公房
ある青年が大きな鞄を持って雇ってほしいと言ってくる。
「この鞄のせいでしょうねえ。
ただ歩いているだけなら楽に運べるのですが、一寸でも階段のある坂に来るともう駄目なんです。
お陰で運ぶことのできる道がおのずから制約されていしまうわけですね。
鞄の重さが僕の行き先を決めてしまうのです。」 安部公房
私の場合はこの鞄が病気だと思いました。
難病という鞄を持ったことで、恐ろしいほど限られました。
自分で道を選ぶのではなくて、病気という鞄を抱えてても進める道しかなかった。
「ユープケッチャの説明をしておきますと、これは甲虫の一種で足が退化し、自由に移動することができない。
代わりに自分の排便を餌にして、グルグル小さな円を描いて生きているわけです。
一日一回回るので時計虫とも言われている。 安部公房
ユープケッチャは安部公房「方舟さくら丸」という小説に出てくる安部公房が考えた架空の虫です。
自給自足のできる虫。
部屋の中にいて動かずに食べていける、これは一つの理想で、煩わしい人間関係もなく好きでもない仕事をするとか、そういったことから一切解放される。
「これは実際にはありえないんだけれど、僕らの中にはこういうものに対するあこがれというか、そう言う生き方をできればしたいと思うんだよね。
一方で同時に今度は外に拡張してゆく自己拡張の願望が自動的に対立物として出てくるんだ。」 安部公房
今はみんなが引きこもっているが、外に出たくなる。
今後は人に触れ合うという渇望が高まって来ると思います。
だんだん気晴らしとか癒しとかではやっていけなくなる時が来ます。
そういう時に重い文学が必要になってきます。
耐えきれなくなった時には重いものを読むと逆にそういうものがいいんです。
ドストエフスキーなどいざ読んでみるとはまります。
もやもやしていたものが本を通してくっきり見えてくる事もあります。
2020年4月26日日曜日
池内響(オペラ歌手) ・【夜明けのオペラ】「世界に一つの自分という楽器を磨きたい」
池内響(オペラ歌手)・【夜明けのオペラ】「世界に一つの自分という楽器を磨きたい」
新しく始まったコーナー 【夜明けのオペラ】
31歳、東京芸術大学後大学院オペラ科を終了、第25回宝塚ベガ音楽コンクールで第一位に入賞、その後2015年日生劇場主催NISSAY OPERA2015《ドン・ジョヴァンニ》にてタイトルロール、2017年2017《ラ・ボエーム》にてショナールを演じました。
2018年からはイタリアで研鑽を積み、その年G.B.ルビーニ国際コンクール、オルテ市声楽コンクールでそれぞれ1位を獲得、去年ミラノで行われた第10回サルヴァトーレ・リチートラ声楽コンクールで第1位に選ばれています。
日本には年に2回ほど帰ってきています。
今年は東京でリサイタルをしました。
日本歌曲が好きです。
*「星巡りの歌」 作詞、作曲:宮沢賢治 歌:池内響
あかいめだまの さそり
ひろげた鷲の つばさ
あをいめだまの 小いぬ、
ひかりのへびの とぐろ。
オリオンは高く うたひ
つゆとしもとを おとす、
アンドロメダの くもは
さかなのくちの かたち。
大ぐまのあしを きたに
五つのばした ところ。
小熊のひたいの うへは
そらのめぐりの めあて。
両親が音楽にかかわる仕事をしていたので、家庭内にも音楽があったので、音楽が好きでした。
ピアノ、フルートなども習いましたが、最終的には歌でした。
声楽を勉強しようと思ったのが高校1年生の時に、母親からいい声をしているといわれて、校歌を歌う試験で音楽の先生にも認められました。
高校生に向けた滝廉太郎の記念の全国高等学校声楽コンクールがあり、出てみないかといわれて、そこから声楽の先生につきました。
3年生の時に1位をいただいて瀧廉太郎記念全国高等学校声楽コンクールに出させていただきまた。
課題曲は瀧廉太郎の「秋の月」を歌いました。
音楽に囲まれた環境で仕事をしたいという思いがありました。
東京芸術大学の学生のコンサートを見に行った時に感動して、大学は東京芸術大学に行くことにしました。
オペラを見に行ったのは大学に入ってからでした。
オペラは嫌いでしたが、オペラができるようにならないといけないからオペラ科に入ったという感じです。
大学院2年生で《ドン・ジョヴァンニ》をやる事になり、プレッシャーを感じながらも良き指導者、同級生たちの助けもあり、カーテンコールがありそこでオペラは楽しいものだと思いました。
そこからオペラをやろうという気持ちがわいてきました。
第25回宝塚ベガ音楽コンクールにて1位、併せて会場審査員特別賞受賞しました。
本物を肌で感じたことがないということがあり、海外に行って自分の五感で直接感じるしかないと思ったのがイタリアに行くきっかけでした。
26歳の時にイタリアに行き、短期留学をして、先生を紹介され、レッスンを受けて、次に長期留学の時にはその先生の所に行きました。
いいめぐりあわせに出会いました。
イタリア語の歌詞を読むレッスンをした後に歌のレッスンがありました。
レッスンだけだとだめだと思ってコンクールにも出ました。
2018年イタリアのオルテ市のコンクールで1位になり、イタリアオペラデビューしました。
うれしかったのはある人の評論に完璧な発音だと評価されて、実った瞬間だと思いました。
第10回サルヴァトーレ・リチートラ声楽コンクールにて1位受賞。
日本では一カ月おきになるような日程が、このコンクールでは初日予選で、2日目の昼がセミファイナル、2日目の晩がファイナルというコンクールでした。
*《ドン・ジョヴァンニ》から「カタログの歌」 歌:池内響
ファイナルに残ったのが10人で回りは重い感じの曲が多くて、楽しくのびのび歌えたらいいなあと思って歌いました。
歌とか表現にも性格は出ると思うし、歌は自分自身からそのまま出すのでいろいろ出易いです。
バリトンですがバリトン歌手ではなくて、池内響という楽器をどんどん磨いていきたいと思っています。
新しく始まったコーナー 【夜明けのオペラ】
31歳、東京芸術大学後大学院オペラ科を終了、第25回宝塚ベガ音楽コンクールで第一位に入賞、その後2015年日生劇場主催NISSAY OPERA2015《ドン・ジョヴァンニ》にてタイトルロール、2017年2017《ラ・ボエーム》にてショナールを演じました。
2018年からはイタリアで研鑽を積み、その年G.B.ルビーニ国際コンクール、オルテ市声楽コンクールでそれぞれ1位を獲得、去年ミラノで行われた第10回サルヴァトーレ・リチートラ声楽コンクールで第1位に選ばれています。
日本には年に2回ほど帰ってきています。
今年は東京でリサイタルをしました。
日本歌曲が好きです。
*「星巡りの歌」 作詞、作曲:宮沢賢治 歌:池内響
あかいめだまの さそり
ひろげた鷲の つばさ
あをいめだまの 小いぬ、
ひかりのへびの とぐろ。
オリオンは高く うたひ
つゆとしもとを おとす、
アンドロメダの くもは
さかなのくちの かたち。
大ぐまのあしを きたに
五つのばした ところ。
小熊のひたいの うへは
そらのめぐりの めあて。
両親が音楽にかかわる仕事をしていたので、家庭内にも音楽があったので、音楽が好きでした。
ピアノ、フルートなども習いましたが、最終的には歌でした。
声楽を勉強しようと思ったのが高校1年生の時に、母親からいい声をしているといわれて、校歌を歌う試験で音楽の先生にも認められました。
高校生に向けた滝廉太郎の記念の全国高等学校声楽コンクールがあり、出てみないかといわれて、そこから声楽の先生につきました。
3年生の時に1位をいただいて瀧廉太郎記念全国高等学校声楽コンクールに出させていただきまた。
課題曲は瀧廉太郎の「秋の月」を歌いました。
音楽に囲まれた環境で仕事をしたいという思いがありました。
東京芸術大学の学生のコンサートを見に行った時に感動して、大学は東京芸術大学に行くことにしました。
オペラを見に行ったのは大学に入ってからでした。
オペラは嫌いでしたが、オペラができるようにならないといけないからオペラ科に入ったという感じです。
大学院2年生で《ドン・ジョヴァンニ》をやる事になり、プレッシャーを感じながらも良き指導者、同級生たちの助けもあり、カーテンコールがありそこでオペラは楽しいものだと思いました。
そこからオペラをやろうという気持ちがわいてきました。
第25回宝塚ベガ音楽コンクールにて1位、併せて会場審査員特別賞受賞しました。
本物を肌で感じたことがないということがあり、海外に行って自分の五感で直接感じるしかないと思ったのがイタリアに行くきっかけでした。
26歳の時にイタリアに行き、短期留学をして、先生を紹介され、レッスンを受けて、次に長期留学の時にはその先生の所に行きました。
いいめぐりあわせに出会いました。
イタリア語の歌詞を読むレッスンをした後に歌のレッスンがありました。
レッスンだけだとだめだと思ってコンクールにも出ました。
2018年イタリアのオルテ市のコンクールで1位になり、イタリアオペラデビューしました。
うれしかったのはある人の評論に完璧な発音だと評価されて、実った瞬間だと思いました。
第10回サルヴァトーレ・リチートラ声楽コンクールにて1位受賞。
日本では一カ月おきになるような日程が、このコンクールでは初日予選で、2日目の昼がセミファイナル、2日目の晩がファイナルというコンクールでした。
*《ドン・ジョヴァンニ》から「カタログの歌」 歌:池内響
ファイナルに残ったのが10人で回りは重い感じの曲が多くて、楽しくのびのび歌えたらいいなあと思って歌いました。
歌とか表現にも性格は出ると思うし、歌は自分自身からそのまま出すのでいろいろ出易いです。
バリトンですがバリトン歌手ではなくて、池内響という楽器をどんどん磨いていきたいと思っています。
2020年4月25日土曜日
渡辺美佐子(女優) ・【舌の記憶~あの時、あの味】(初回:2019/8/24)
渡辺美佐子(女優) ・【舌の記憶~あの時、あの味】(初回:2019/8/24)
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2019/08/blog-post_24.htmlをご覧ください。
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2019/08/blog-post_24.htmlをご覧ください。
2020年4月24日金曜日
さだまさし(シンガーソングライター・小説家)・ことばの贈りもの
さだまさし(シンガーソングライター・小説家)・ことばの贈りもの
68歳、数々の名曲を世に送り出すだけでなくTV番組のパーソナリティーとしても人気を博しています。
一方でプライベートでは一男一女の父親でもあります。
子育てという日常が自身にどのような影響をあたえたのか、緊急事態宣言が出ている今、親子、家族についてどのように考えているのか伺いました。
不要不急の外出はしないという前提で動ています。
必要最低限の外出はせざるを得ないときはあります。
東日本大震災などで避難所に行きましたが、子どもたちは元気に張り切っています。
子どもたちは両親と一緒にいられるので幸せなんだなあと思いました。
世の中が不安になっている時だから、大事にするということは一つの教えになるかと思います。
曲「緊急事態宣言の夜」地球人同士が戦争している時ではなく、宇宙からの敵をみんなでどうやってやっつけるか、これは戦争だと思っています。
音楽の自由が止められいる、コンサートが止められている。
音楽家は生活できなくなる、平和の上でしか音楽は聴いていただけない脆弱な文化なんだと思い知ったと思います。
音楽が楽しめるような時期を早くするためには、みんなが頑張って乗り越えるしかないと思います。
インフラにかかわる人たち、スーパーの人たちなどは自分たちが働かないと世の中は回っていかない。
医療関係者は命がけで頑張っています。
「頑張れ 頑張れ 病院」の歌詞の後に「頑張れ 頑張れ 子育て」というところがありますが、子育てができる幸福を感じながら、子どもを守るという大切な戦いを生き抜いてほしいと思います。
僕の母が僕の子どもには何時辞めてもいいという前提で音楽を始めましたが、大人になってもやっています。
息子は「大陸」娘は「詠夢」という名前で僕がつけました。
祖母はエンでエムと言っていましたので娘には詠夢という名前にしました。
子どもたちは自然豊かな信州で過ごしました。
子どもには普通は駄目だとは言いました、みんなと一緒ではつまらないからそれはだめだと言っていました。
子どもが僕に言えば何か買ってくれると思うような時期があって、「欲しいんだったら言ってみなさい、それを作るから」と言ったら、「勉強机が欲しい」と言われて、僕は工作が下手でしたが子ども二人分作りました。
なければ作るという発想が大事だと思います、マスクでもそうだと思います。
僕の兄弟は僕だけ音楽をやっていましたし、周りも全部音楽はやっていませんでした。
人と違っているということを自分で認める、そこから自我の目覚めがあったみたいです。
楽器なども上手いから感動するというわけでもなく、下手でも感動するということはあります。
音楽で大事なことはアイデンティティー、声を聴いただけであいつだとわかるのは、宝くじに当たったような感じです。
1991年の曲「息子へ~父からの風~」
*「息子へ~父からの風~」 作詞、作曲、歌:さだまさし
落ち着きのない子だと 言われて育つだろう
俺がそうだった
受験も一度くらい 失敗するだろう
俺がそうだった
きっと女には 結構もてるだろう
俺がそうだったかな
借金なんかも するかもしれない
俺も親父もそうだった
愛する人と別れる苦しみや
憎しみという切ない苦しみや
生きることは辛く恥ずかしいことと
お前も少しずつ覚えてゆくだろう
生まれて来た以上 いつか消えてゆくのだ
それも選んだのだよ
駄目なら駄目で、駄目な自分を笑って認めるようなおおらかさがあるといいですね、なかなか思い通りにならないので。
自分の悪いところは自分が一番わかっているので、この子は自分と同じ欠点を持っていると思えば、叱り方は変わりますね。
幸せはすごく不安定な言葉で、不幸せという言葉と対になって使うんです。
不幸せな人がいないと幸せというのはどういうもの株式会社は判然としない。
幸せは相対的なものだと思います、つまり自分で決める事なんです。
僕は自分でポケットに幸せを持って歩いていると思っています。
取り出せば生きているだけで幸せだと思いますから。
心のポケットを掃除して不平不満を掃き出していって、後に残ったのが幸せですから。
みんなが家にいるということは、いろいろ考える時間を与えられているということですから、自分を解放するにはどんな考え方をしていったら自分が幸せか、楽しいのかまさに幸せと向かい合う時間だと思います。
「コロナショック」は人間と人間を引き離す病気だということを初めて僕が体験するんです。
会えない時期にどう構築していくかだと思います。
「存在理由」グレープ通算46枚目となる2年ぶりオリジナル・ アルバム。
存在理由を簡単に言うと生き甲斐です。
私にとって私はなぜここにいるんだろうということは 他人が決めることではなくて自分が決める事だから生き甲斐です。
駄目な自分も許しちゃおうという提案です。
*「お母さんへ」 作詞、作曲、歌:さだまさし
親が生きているうちに親孝行するのではなくて、親が元気なうちにしなければいけないことかもしれません。
そのためには自分が頑張らないといけないと思います。
68歳、数々の名曲を世に送り出すだけでなくTV番組のパーソナリティーとしても人気を博しています。
一方でプライベートでは一男一女の父親でもあります。
子育てという日常が自身にどのような影響をあたえたのか、緊急事態宣言が出ている今、親子、家族についてどのように考えているのか伺いました。
不要不急の外出はしないという前提で動ています。
必要最低限の外出はせざるを得ないときはあります。
東日本大震災などで避難所に行きましたが、子どもたちは元気に張り切っています。
子どもたちは両親と一緒にいられるので幸せなんだなあと思いました。
世の中が不安になっている時だから、大事にするということは一つの教えになるかと思います。
曲「緊急事態宣言の夜」地球人同士が戦争している時ではなく、宇宙からの敵をみんなでどうやってやっつけるか、これは戦争だと思っています。
音楽の自由が止められいる、コンサートが止められている。
音楽家は生活できなくなる、平和の上でしか音楽は聴いていただけない脆弱な文化なんだと思い知ったと思います。
音楽が楽しめるような時期を早くするためには、みんなが頑張って乗り越えるしかないと思います。
インフラにかかわる人たち、スーパーの人たちなどは自分たちが働かないと世の中は回っていかない。
医療関係者は命がけで頑張っています。
「頑張れ 頑張れ 病院」の歌詞の後に「頑張れ 頑張れ 子育て」というところがありますが、子育てができる幸福を感じながら、子どもを守るという大切な戦いを生き抜いてほしいと思います。
僕の母が僕の子どもには何時辞めてもいいという前提で音楽を始めましたが、大人になってもやっています。
息子は「大陸」娘は「詠夢」という名前で僕がつけました。
祖母はエンでエムと言っていましたので娘には詠夢という名前にしました。
子どもたちは自然豊かな信州で過ごしました。
子どもには普通は駄目だとは言いました、みんなと一緒ではつまらないからそれはだめだと言っていました。
子どもが僕に言えば何か買ってくれると思うような時期があって、「欲しいんだったら言ってみなさい、それを作るから」と言ったら、「勉強机が欲しい」と言われて、僕は工作が下手でしたが子ども二人分作りました。
なければ作るという発想が大事だと思います、マスクでもそうだと思います。
僕の兄弟は僕だけ音楽をやっていましたし、周りも全部音楽はやっていませんでした。
人と違っているということを自分で認める、そこから自我の目覚めがあったみたいです。
楽器なども上手いから感動するというわけでもなく、下手でも感動するということはあります。
音楽で大事なことはアイデンティティー、声を聴いただけであいつだとわかるのは、宝くじに当たったような感じです。
1991年の曲「息子へ~父からの風~」
*「息子へ~父からの風~」 作詞、作曲、歌:さだまさし
落ち着きのない子だと 言われて育つだろう
俺がそうだった
受験も一度くらい 失敗するだろう
俺がそうだった
きっと女には 結構もてるだろう
俺がそうだったかな
借金なんかも するかもしれない
俺も親父もそうだった
愛する人と別れる苦しみや
憎しみという切ない苦しみや
生きることは辛く恥ずかしいことと
お前も少しずつ覚えてゆくだろう
生まれて来た以上 いつか消えてゆくのだ
それも選んだのだよ
駄目なら駄目で、駄目な自分を笑って認めるようなおおらかさがあるといいですね、なかなか思い通りにならないので。
自分の悪いところは自分が一番わかっているので、この子は自分と同じ欠点を持っていると思えば、叱り方は変わりますね。
幸せはすごく不安定な言葉で、不幸せという言葉と対になって使うんです。
不幸せな人がいないと幸せというのはどういうもの株式会社は判然としない。
幸せは相対的なものだと思います、つまり自分で決める事なんです。
僕は自分でポケットに幸せを持って歩いていると思っています。
取り出せば生きているだけで幸せだと思いますから。
心のポケットを掃除して不平不満を掃き出していって、後に残ったのが幸せですから。
みんなが家にいるということは、いろいろ考える時間を与えられているということですから、自分を解放するにはどんな考え方をしていったら自分が幸せか、楽しいのかまさに幸せと向かい合う時間だと思います。
「コロナショック」は人間と人間を引き離す病気だということを初めて僕が体験するんです。
会えない時期にどう構築していくかだと思います。
「存在理由」グレープ通算46枚目となる2年ぶりオリジナル・ アルバム。
存在理由を簡単に言うと生き甲斐です。
私にとって私はなぜここにいるんだろうということは 他人が決めることではなくて自分が決める事だから生き甲斐です。
駄目な自分も許しちゃおうという提案です。
*「お母さんへ」 作詞、作曲、歌:さだまさし
親が生きているうちに親孝行するのではなくて、親が元気なうちにしなければいけないことかもしれません。
そのためには自分が頑張らないといけないと思います。
2020年4月23日木曜日
平常(人形劇俳優) ・【私のアート交遊録】「心も体も自由に!」
平常(人形劇俳優) ・【私のアート交遊録】「心も体も自由に!」
小劇場から大ホールのでの大型人形劇ミュージカルまですべてを一人で演じ分け、演出、脚本、音楽、美術も自らプロデュースし、一人芝居と人形劇を融合させた独自の表現方法を確立しています。
平さんは物心ついたころには、息をする事と同じくらい当たり前に人形劇を見たり演じたりしていたといいます。
三味線奏者であった父と薩摩琵琶奏者の母は文楽や腹話術など息子が興味を持ちそうなあらゆる番組を録画して見せてくれたといいます。
人形と一人遊びをする自分を両親は認めて応援してくれたといいます。
人形が表現の引き出しを次々に開けてくれたという平さんに伺います。
人形劇というものは私にとっては昔から総合芸術です。
文学的な要素、美術的な要素、いろんなもの、音楽、ダンス、舞台芸術のいろんな要素がはいっています。
皆さんが思っているよりもダイナミックなスタイルになっていると思います。
大きいと1000~2000人収容できるホールで上演しますし、10トントラックも出して大掛かりな人形劇です。
いろんな感情が一人の人間にはあると思います。
一人の人間がいろんな役をやる事によって見ている人、一人一人がいろんな感情に気が付いてもらえるきっかけになってもらえればいいと思っています。
この物語を取り組みたいと思ったときに、完成した舞台が色から形から音楽から全部頭の中にあり、それを具現化してゆくという作業があり自分でやらないと気が済まないんです。
でも今後は演出だけをやることも考えています。
2013,4年ごろから音楽家の人とコラボレーションするようになりました。
北海道では人形劇が一番盛んで、いろんな人と組んでやっていて19歳で上京してから10何年間は一人でやってきました。
レパートリーは広くて、文学作品が大好きで最も多く上演しているのが寺山修司さんの戯曲「毛皮のマリー」で新国立劇場ほか各地で上演させてもらっています。
水上勉さんの「はなれ瞽女おりん」、シェークスピアの「ハムレット」、オスカーワイルドの「サロメ」、泉鏡花の「天守物語」などが数多く上演されています。
「サロメ」などもそうですが、人形がやる事によって人のイマジネーションを上手に刺激しながら今まで感じなかった、見えなかった想像の扉が開かれる。
サン=テグジュペリの「星の王子さま」は大人にこそ読んでもらいたかったのではないかと思います。
小ども向けもいろいろやっています。
道を歩いていてもいろんな作品が頭の中をグルグルしています。
生まれた時から人形劇が好きでした、呼吸することと一緒でした。
身の回りのものを握って感情表現していたと両親は言っていました。
父はフラワーデザイナーから金属工芸家になって津軽三味線奏者になって、そのころ生まれました。
母はピアノを弾いて薩摩琵琶奏者になったころ私が生まれました。
家の中に音楽があふれていて、日替わりでいろんな楽器奏者が家に来ました。
10歳になっても人形が大好きで精神的に遅れていると先生も心配していました。
母親は肯定的にとらえていました。
高校卒業する時には進路については物凄く悩みましたが、ある人から「そんなに自分でやりたいことがあるなら旗揚げしてしまえば」と言われて、それがきっかけになりました。
上京してアルバイトをしながら生活をしなければならず、一時人形劇が嫌いになりましたが、母親から電話があり、「よかったね嫌いになって、嫌いになってからが本物なのよ」と言われました。
やる気が芽生えて事務所の社長さんと出会って、人形劇で生計が立てられるようになりました。(23歳)
社会にどういう風に還元ができるのかとか、どういう風に人の役に立てられるのかとか、自分の考えも整理されていきました。
そのころ10作品以上レパートリーがあり「毛皮のマリー」もやっていました。
小学生の時に映画に出たことがあり、佐藤浩市さんが主演で僕がその息子役で、その映画の助監督さんが寺山修司さんの義理の弟さん(森崎偏陸さん)で私の才能を認めてくれました。
義理の弟さんの家(寺山修司さんの母親寺山はつさんが住んでいた家)に3年間下宿していました。
そこには寺山修司さんの資料などがいっぱいありました。
2003年1月に「毛皮のマリー」の本に吸い寄せられて、頭の中に演技プラン、演出プランがバーッと浮かんで上演することができるようになりました。
「星の王子さま」に出てくる言葉で「物事の一番大切な部分は目には見えない」というセリフがありますが、まさにそうだと思いました。
誰かがこうしたいと思ったときに、周りが背中を押す、子どもは自分の力ではお膳立てができないので、親とか周りがお膳立てすることが必要だと思います。
文楽などを録画して見せてくれたり、親が創意工夫していろんな事をやってくれました。
順風満帆というわけではなくて、周りの支えがあって、一人ではやめていたと思います。
人形劇を広めてゆくためには、時間が限られているので何を選択してやっていったらいいのか今でも悩んでいます。
一人で10役、20役とやるわけで若いころは大丈夫でしたが、今では公演の後はぐったりしてしまいます。
体調管理が仕事の9割といった感じです。
血行を良くするために身体を温めたり、身体を伸ばしたり、栄養管理、食べ物も気を付けています。
劇場は心のレストランと思っています、心に栄養を与える。
子どもさんたちとの触れ合い、出会いを大切にしています。
大人の方には大人の想像力をどれだけ引き出せるか意識しながら、人形の顔は変わらないが、見ている人の心が人形の顔を悲しく見えたり優しく見えたり変えてくれる。
子どもたちが家に帰って同じものを作ってくれたりするので、段ボール人形劇など身近な素材を使うのもそのこだわりです。
想像することの面白さ,すばらしさ、楽しさを子どもたちに伝えたいという思いがあります。
大人の人形劇は愛,死をテーマにします。
人の命ははかないもので、その中で何をして生きるのか、何を支えに生きるのかということが伝えたいテーマになってきています。
どうやって人形劇を普及させてゆくのか、まだ答えはないが普及活動はこれからの大事な仕事になってゆくのかなあと思っていて、自分が死んでからも人の役に立ちたいという思いがあり、書くこと、演出など裏方の仕事を大事にしたいと思います。
是非ヴェートーベンの交響曲第6番「田園」の全楽章を聞いていただきたいと思います。
小劇場から大ホールのでの大型人形劇ミュージカルまですべてを一人で演じ分け、演出、脚本、音楽、美術も自らプロデュースし、一人芝居と人形劇を融合させた独自の表現方法を確立しています。
平さんは物心ついたころには、息をする事と同じくらい当たり前に人形劇を見たり演じたりしていたといいます。
三味線奏者であった父と薩摩琵琶奏者の母は文楽や腹話術など息子が興味を持ちそうなあらゆる番組を録画して見せてくれたといいます。
人形と一人遊びをする自分を両親は認めて応援してくれたといいます。
人形が表現の引き出しを次々に開けてくれたという平さんに伺います。
人形劇というものは私にとっては昔から総合芸術です。
文学的な要素、美術的な要素、いろんなもの、音楽、ダンス、舞台芸術のいろんな要素がはいっています。
皆さんが思っているよりもダイナミックなスタイルになっていると思います。
大きいと1000~2000人収容できるホールで上演しますし、10トントラックも出して大掛かりな人形劇です。
いろんな感情が一人の人間にはあると思います。
一人の人間がいろんな役をやる事によって見ている人、一人一人がいろんな感情に気が付いてもらえるきっかけになってもらえればいいと思っています。
この物語を取り組みたいと思ったときに、完成した舞台が色から形から音楽から全部頭の中にあり、それを具現化してゆくという作業があり自分でやらないと気が済まないんです。
でも今後は演出だけをやることも考えています。
2013,4年ごろから音楽家の人とコラボレーションするようになりました。
北海道では人形劇が一番盛んで、いろんな人と組んでやっていて19歳で上京してから10何年間は一人でやってきました。
レパートリーは広くて、文学作品が大好きで最も多く上演しているのが寺山修司さんの戯曲「毛皮のマリー」で新国立劇場ほか各地で上演させてもらっています。
水上勉さんの「はなれ瞽女おりん」、シェークスピアの「ハムレット」、オスカーワイルドの「サロメ」、泉鏡花の「天守物語」などが数多く上演されています。
「サロメ」などもそうですが、人形がやる事によって人のイマジネーションを上手に刺激しながら今まで感じなかった、見えなかった想像の扉が開かれる。
サン=テグジュペリの「星の王子さま」は大人にこそ読んでもらいたかったのではないかと思います。
小ども向けもいろいろやっています。
道を歩いていてもいろんな作品が頭の中をグルグルしています。
生まれた時から人形劇が好きでした、呼吸することと一緒でした。
身の回りのものを握って感情表現していたと両親は言っていました。
父はフラワーデザイナーから金属工芸家になって津軽三味線奏者になって、そのころ生まれました。
母はピアノを弾いて薩摩琵琶奏者になったころ私が生まれました。
家の中に音楽があふれていて、日替わりでいろんな楽器奏者が家に来ました。
10歳になっても人形が大好きで精神的に遅れていると先生も心配していました。
母親は肯定的にとらえていました。
高校卒業する時には進路については物凄く悩みましたが、ある人から「そんなに自分でやりたいことがあるなら旗揚げしてしまえば」と言われて、それがきっかけになりました。
上京してアルバイトをしながら生活をしなければならず、一時人形劇が嫌いになりましたが、母親から電話があり、「よかったね嫌いになって、嫌いになってからが本物なのよ」と言われました。
やる気が芽生えて事務所の社長さんと出会って、人形劇で生計が立てられるようになりました。(23歳)
社会にどういう風に還元ができるのかとか、どういう風に人の役に立てられるのかとか、自分の考えも整理されていきました。
そのころ10作品以上レパートリーがあり「毛皮のマリー」もやっていました。
小学生の時に映画に出たことがあり、佐藤浩市さんが主演で僕がその息子役で、その映画の助監督さんが寺山修司さんの義理の弟さん(森崎偏陸さん)で私の才能を認めてくれました。
義理の弟さんの家(寺山修司さんの母親寺山はつさんが住んでいた家)に3年間下宿していました。
そこには寺山修司さんの資料などがいっぱいありました。
2003年1月に「毛皮のマリー」の本に吸い寄せられて、頭の中に演技プラン、演出プランがバーッと浮かんで上演することができるようになりました。
「星の王子さま」に出てくる言葉で「物事の一番大切な部分は目には見えない」というセリフがありますが、まさにそうだと思いました。
誰かがこうしたいと思ったときに、周りが背中を押す、子どもは自分の力ではお膳立てができないので、親とか周りがお膳立てすることが必要だと思います。
文楽などを録画して見せてくれたり、親が創意工夫していろんな事をやってくれました。
順風満帆というわけではなくて、周りの支えがあって、一人ではやめていたと思います。
人形劇を広めてゆくためには、時間が限られているので何を選択してやっていったらいいのか今でも悩んでいます。
一人で10役、20役とやるわけで若いころは大丈夫でしたが、今では公演の後はぐったりしてしまいます。
体調管理が仕事の9割といった感じです。
血行を良くするために身体を温めたり、身体を伸ばしたり、栄養管理、食べ物も気を付けています。
劇場は心のレストランと思っています、心に栄養を与える。
子どもさんたちとの触れ合い、出会いを大切にしています。
大人の方には大人の想像力をどれだけ引き出せるか意識しながら、人形の顔は変わらないが、見ている人の心が人形の顔を悲しく見えたり優しく見えたり変えてくれる。
子どもたちが家に帰って同じものを作ってくれたりするので、段ボール人形劇など身近な素材を使うのもそのこだわりです。
想像することの面白さ,すばらしさ、楽しさを子どもたちに伝えたいという思いがあります。
大人の人形劇は愛,死をテーマにします。
人の命ははかないもので、その中で何をして生きるのか、何を支えに生きるのかということが伝えたいテーマになってきています。
どうやって人形劇を普及させてゆくのか、まだ答えはないが普及活動はこれからの大事な仕事になってゆくのかなあと思っていて、自分が死んでからも人の役に立ちたいという思いがあり、書くこと、演出など裏方の仕事を大事にしたいと思います。
是非ヴェートーベンの交響曲第6番「田園」の全楽章を聞いていただきたいと思います。
2020年4月22日水曜日
田名部和裕(日本高等学校野球連盟理事) ・【“2020”に託すもの】高校野球と歩んだ半世紀(初回:2018/5/14)
田名部和裕(日本高等学校野球連盟理事) ・【“2020”に託すもの】高校野球と歩んだ半世紀(初回:2018/5/14)
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2018/05/blog-post_14.htmlをご覧ください。
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2018/05/blog-post_14.htmlをご覧ください。
2020年4月21日火曜日
武井勇二(諏訪交響楽団会長) ・「地域の音楽活動を支えて」
武井勇二(諏訪交響楽団会長) ・「地域の音楽活動を支えて」
1938年長野県下諏訪市出身、近くに社会人楽団の諏訪交響楽団の稽古場があったため子どものころから諏訪響の演奏を見て育ちました。
1956年地元の県立高校を卒業後、時計メーカーに就職、20歳の時にヴァイオリンを習い始め3年後諏訪響に入団しました。
演奏活動を続ける一方事務教員として裏方の仕事も担当しました。
武井さんは世界的指揮者の小澤征爾さんとの縁も大事にしました。
1980年代小澤さんは師の斎藤秀雄の門下生たちと斎藤記念オーケストラを結成しましたが、海外公演のスポンサーを探していると聞いた武井さんは、勤務先の社長に就任していた元上司と掛け合い、財政支援が実現しました。
指揮者の渡邉暁雄さんは1975年から15年間諏訪響を指導しました。
その意志を伝承しようと武井さんたちは1999年から毎年北欧音楽祭諏訪を開催しています。
去年11月文部科学大臣から地域文化功労者として表彰されました。
当時の諏訪響の人たちは毎週木曜日に近くの民家の倉庫を借りて練習していました。
小学校5,6年のころから見に行っていました。
音楽はいいものだなあと思って、いつか参加してみたいと思っていました。
1956年地元の県立高校を卒業後、時計メーカーに就職、技術課に入りました。
課長が中村恒也さん(15歳差)と言って後々社長になる人で、その出会いが大きかったです。
20歳の時にヴァイオリンを習い始め、23歳の時に諏訪響に入りました。
練習は木曜日の夜7時から2時間やって、演奏会は年に2回やりました。
当時は医者、教員、会社員、自営業など50人ぐらいでした。
第一回定期演奏会は1926年4月でした。
諏訪の音楽好きのメンバーが集まってやっていたようです。
1938年から1946年戦中戦後にかけて空白の8年間があります。
練習は絶やさずやっていたようです。
1948年諏訪交響楽団に名称変更。
1961年4月に私は入団しました。
第91回定期演奏会で悲願の第九初演。(1980年12月)
第100回定期演奏会は1985年10月、新たな演奏会にしようということで、ピアノ演奏が宮沢明子さんでした。
ラフマニノフを取り上げてやりました。
気に入っていただいてその後宮沢さんは何回かきてくれました。
私は雑用も結構やっていて25歳の時に、諏訪響の理事にしていただきました。
1964年1月に小澤さんが諏訪響を振ってくれました。
今井信雄さんが小澤さんの恩師で今井さんから声がかかったようです。
小澤さんがまさか来てくれるとは思わなかったが、これを機に交流をしていきました。
1987年に斎藤記念オーケストラを結成して、ヨーロッパに連れて行って鍛えたいということで、120名程度で行くと1億5000万円から2億円ぐらいかかるわけです。
小澤さんのためなら思って1988年10月に小澤さんから受けた話を上司の中村さんに文化にお金をかけるのも大事だと言ったら、1989年から91年までのオーケストラの海外ツアーの面倒をみましょうということになりました。
91年にはニューヨークのカーネギーホールまで行きました。
小澤さん松本でフェスティバルをやることになり、その資金面でも協賛を立ち上げて、斎藤記念オーケストラが松本でやってきて、今は「セイジ・オザワ 松本フェスティバル」ということになっていて、今年で29年目になります。
中村恒也さんは会社では斎藤記念オーケストラを応援するが、諏訪響は会社では応援できないので、僕が個人的に応援するということで中村さんは個人的に毎年100万円支援すると言ってくれてびっくりしました。
この人との出会いも私の大きな要因になっています。
腕時計はスイスを凌駕するほどになり、1064年の東京オリンピック時の掲示に水晶時計を用いて小型化して腕時計にしました。
北欧音楽祭諏訪の企画をした渡邉暁雄さんは世界的な指揮者ですが、1975年に諏訪響が50周年の時に渡邉暁雄さんの父親が諏訪出身だったもので頼みに行きました。
快く引く受けていただきました。
亡くなるまでお付き合いさせていただきました。
総合国際文化交流、21世紀の青少年の育成など教育面も生まれています。
最近の諏訪響の活動としては演奏家との付き合いが多く、ピアノの横山幸雄先生が諏訪響を大事にしてくれています。
ほかのアマチュア楽団との交流もやっています。
1999年にウイーンへ諏訪響のメンバー115人を連れて行って、有名なウィーン・コンツェルトハウスで演奏したことがあります。
資金面では中村さんから23年間支援していただきましたが、これからは大変だと思いますが、音楽だけは大事にしてゆきたいと思います。
若いメンバーを仲間に入れてやっていこうとしていますが、時間は掛かると思います。
諏訪でやってきたので東京の皆さんにいつかお見せしたいと思っています。
音楽は人間の行動だと思っています。
音楽は人間の感動を呼び起こす一つのきっかけを作ってくれるものだと思います。
1938年長野県下諏訪市出身、近くに社会人楽団の諏訪交響楽団の稽古場があったため子どものころから諏訪響の演奏を見て育ちました。
1956年地元の県立高校を卒業後、時計メーカーに就職、20歳の時にヴァイオリンを習い始め3年後諏訪響に入団しました。
演奏活動を続ける一方事務教員として裏方の仕事も担当しました。
武井さんは世界的指揮者の小澤征爾さんとの縁も大事にしました。
1980年代小澤さんは師の斎藤秀雄の門下生たちと斎藤記念オーケストラを結成しましたが、海外公演のスポンサーを探していると聞いた武井さんは、勤務先の社長に就任していた元上司と掛け合い、財政支援が実現しました。
指揮者の渡邉暁雄さんは1975年から15年間諏訪響を指導しました。
その意志を伝承しようと武井さんたちは1999年から毎年北欧音楽祭諏訪を開催しています。
去年11月文部科学大臣から地域文化功労者として表彰されました。
当時の諏訪響の人たちは毎週木曜日に近くの民家の倉庫を借りて練習していました。
小学校5,6年のころから見に行っていました。
音楽はいいものだなあと思って、いつか参加してみたいと思っていました。
1956年地元の県立高校を卒業後、時計メーカーに就職、技術課に入りました。
課長が中村恒也さん(15歳差)と言って後々社長になる人で、その出会いが大きかったです。
20歳の時にヴァイオリンを習い始め、23歳の時に諏訪響に入りました。
練習は木曜日の夜7時から2時間やって、演奏会は年に2回やりました。
当時は医者、教員、会社員、自営業など50人ぐらいでした。
第一回定期演奏会は1926年4月でした。
諏訪の音楽好きのメンバーが集まってやっていたようです。
1938年から1946年戦中戦後にかけて空白の8年間があります。
練習は絶やさずやっていたようです。
1948年諏訪交響楽団に名称変更。
1961年4月に私は入団しました。
第91回定期演奏会で悲願の第九初演。(1980年12月)
第100回定期演奏会は1985年10月、新たな演奏会にしようということで、ピアノ演奏が宮沢明子さんでした。
ラフマニノフを取り上げてやりました。
気に入っていただいてその後宮沢さんは何回かきてくれました。
私は雑用も結構やっていて25歳の時に、諏訪響の理事にしていただきました。
1964年1月に小澤さんが諏訪響を振ってくれました。
今井信雄さんが小澤さんの恩師で今井さんから声がかかったようです。
小澤さんがまさか来てくれるとは思わなかったが、これを機に交流をしていきました。
1987年に斎藤記念オーケストラを結成して、ヨーロッパに連れて行って鍛えたいということで、120名程度で行くと1億5000万円から2億円ぐらいかかるわけです。
小澤さんのためなら思って1988年10月に小澤さんから受けた話を上司の中村さんに文化にお金をかけるのも大事だと言ったら、1989年から91年までのオーケストラの海外ツアーの面倒をみましょうということになりました。
91年にはニューヨークのカーネギーホールまで行きました。
小澤さん松本でフェスティバルをやることになり、その資金面でも協賛を立ち上げて、斎藤記念オーケストラが松本でやってきて、今は「セイジ・オザワ 松本フェスティバル」ということになっていて、今年で29年目になります。
中村恒也さんは会社では斎藤記念オーケストラを応援するが、諏訪響は会社では応援できないので、僕が個人的に応援するということで中村さんは個人的に毎年100万円支援すると言ってくれてびっくりしました。
この人との出会いも私の大きな要因になっています。
腕時計はスイスを凌駕するほどになり、1064年の東京オリンピック時の掲示に水晶時計を用いて小型化して腕時計にしました。
北欧音楽祭諏訪の企画をした渡邉暁雄さんは世界的な指揮者ですが、1975年に諏訪響が50周年の時に渡邉暁雄さんの父親が諏訪出身だったもので頼みに行きました。
快く引く受けていただきました。
亡くなるまでお付き合いさせていただきました。
総合国際文化交流、21世紀の青少年の育成など教育面も生まれています。
最近の諏訪響の活動としては演奏家との付き合いが多く、ピアノの横山幸雄先生が諏訪響を大事にしてくれています。
ほかのアマチュア楽団との交流もやっています。
1999年にウイーンへ諏訪響のメンバー115人を連れて行って、有名なウィーン・コンツェルトハウスで演奏したことがあります。
資金面では中村さんから23年間支援していただきましたが、これからは大変だと思いますが、音楽だけは大事にしてゆきたいと思います。
若いメンバーを仲間に入れてやっていこうとしていますが、時間は掛かると思います。
諏訪でやってきたので東京の皆さんにいつかお見せしたいと思っています。
音楽は人間の行動だと思っています。
音楽は人間の感動を呼び起こす一つのきっかけを作ってくれるものだと思います。
2020年4月20日月曜日
竹本越孝(女流義太夫太夫) ・【にっぽんの音】(初回:2019/4/22)
竹本越孝(女流義太夫太夫) ・【にっぽんの音】(初回:2019/4/22)
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2019/04/blog-post_22.htmlをご覧ください。
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2019/04/blog-post_22.htmlをご覧ください。
2020年4月19日日曜日
井村辰二郎(農業法人代表) ・【美味しい仕事人】「"千年産業"の農業にかける」
井村辰二郎(農業法人代表) ・【美味しい仕事人】「"千年産業"の農業にかける」
井村さんはかつての大規模干拓地で耕作が放棄された土地を再生し、大規模に有機農産物を生産しています。
その農産物は豆腐、味噌、醤油、日本酒や焼酎、ワインに加工するなど、消費者と直接かかわる経営に取り組んできました。
大学卒業後広告代理店に勤めていた井村さんは、父親から農業を継ぐにあたって「千年産業を目指す」という経営理念を掲げました。
千年後まで継承できる持続可能な産業を目指すなら、環境に負荷をかけない有機農業しかないと考えたそうです。
金沢市内と能登を中心に約180ヘクタールぐらいの農地を預かっています。
もともと河北潟型干拓地という国が開いた農地がありまして、そこで耕作放棄地を開墾規模拡大していって、耕地放棄地もなくなって、能登にまとまった農地があると紹介していただき、それをきっかけに能登で少しずつ増やしていっています。
22年前に新規就農した時には河北潟型干拓地は約1100ヘクタールの形がありましたが、200ヘクタールが耕作放棄地として放置されていました。
毎年10ヘクタールぐらい開墾して現在そこの耕作放棄地はない状態になっています。
160ヘクタールが有機栽培になっていて残りの20ヘクタールは田んぼが小さかったり、都市部にあったりということで、特別栽培ということで作っています。
農薬、化学肥料は使わないというのが原則になっています。
コメ、大豆、大麦、小麦ハト麦などの穀物を中心に有機野菜、葡萄作りなどもやっています。
日本農林規格がありこの認証をとったものが初めて有機なものだということを表示することができます。
輸出もしたいと思って、ヨーロッパとアメリカの認証も取りました。
取得にはかなり苦労しましたが、取れたときには大変うれしかったです。
当時は国も農産物の輸出にはあまり積極的ではありませんでしたのでいろんなことを考えました。
22年前に会社を辞めて農業をすると決めたときに、自分はいったいどんな農業をしたいんだろうと自問自答しました。
その時に持続可能性、生物多様性を大切にする農業だと考え、有機農業に行きつきました。
昔は農薬,化学肥料もなかったわけで1000年、2000年の歴史を持っているわけで、そこに戻るということは持続性があるということだとイメージしています。
食料を作るのは農業、漁業などの一次産業が本来私たちのベースにあるものだということを子どもたちに伝えるようにしています。
22年前地域の農村の環境が変化していって、鳥、魚などが少なくなっていきました。
農業こそが環境と仲良くしないといけないという思いです。
古くからそこに住む人たちが自然と調和して、循環型の社会を築いてきたというのが日本の歴史だと思っています。
壊れていって耕作放棄地を再生して自然と調和した農業ができないだろうかと考えました。
大学は農学部農学科を卒業しましたが、父親が大きな病気をして帰ってきましたが、ほかの勉強もしたほうがいいと父親から言われてサラリーマンをして、その後1997年に農業に参入しました。(8年間サラリーマン勤務)
いろんな顧客とコミュニケーション活動をさせてもらいました。
企業が環境のことなどで悩んでいる時期でもありました。
消費者との関係作りが大事だと思いました。
大豆を作るだけではなくて豆腐とか、加工品を広げていきました。
双方向のトレーサビリティーをしたいと思いました。
農業の役割とは何だろうと考えて、段々夢がひろがって行きました。
2015年にSDGs(持続可能な開発目標)のアジェンダが出た時には、衝撃的でした。
17の項目を見たときにまさにこれだと思いました。
当時は有機農業で作った味噌、醤油などはほとんどなかった時代でした。
マーケットを作る処から始めたので苦労はしました。
大豆、麦は加工品になって初めて食卓に届くので、そこを生産者の責任での商品作りをしたいと思いました。
麦茶、きなこ、小麦粉など基礎調味料的なものはいろいろ作っています。
全国のいろいろなスーパーさんのところなどで扱ってもらっています。
小麦粉はパン、ケーキ、ソーメン、うどんなどいろんなものに加工されています。
北陸3県は大麦の産地で小麦は作られていないところでした。
まずは小麦粉でパンを作るという目標からスタートしました。
10年近く前に日本の米を海外に輸出しようと思ったときに、価格差があって太刀打ちできなくて日本酒など加工品にして、ヨーロッパにもっていけば評価してもらえると思って、日本酒を開発しました。
焼酎を作っていたメーカーは九州産の大麦を使っていて作っていて、地元の大麦を使いたいということを聞いて、能登の焼酎が開発されました。
日本酒はアメリカ市場に輸出されています。
減反政策があるネガティブな環境の米つくりでしたが、行動を起こしたのが日本酒です。
50歳の時に夢の棚卸をしてみたらと友人に言われて、それが去年ワイナリーとフレンチレストランという形で実現しました。
周りからの協力で何とかできました。
醸造技術については3年通って基本を身に付けました。
石川県産の葡萄をワインにするというのがワイナリーのルールになっています。
フレンチレストランの壁は3種類の葡萄畑の土を持ってきて、左官職人さんに塗り込んでもらったものです。
食材は有機農法でできた食材などを利用しています。
「アグリハグハグ」は造語でアグリはアグリカルチャー(agriculture)から、ハグハグは
農をはぐくみ、農を抱きしめる、そういったコンセプトで「アグリハグハグ」を活動のキーワードとして使っています。
古民家を拠点にして、中学の修学旅行生の引き受けを数校やっています。
農業を知ってもらういい機会にしてもらっています。
「千年産業を目指す」
井村さんはかつての大規模干拓地で耕作が放棄された土地を再生し、大規模に有機農産物を生産しています。
その農産物は豆腐、味噌、醤油、日本酒や焼酎、ワインに加工するなど、消費者と直接かかわる経営に取り組んできました。
大学卒業後広告代理店に勤めていた井村さんは、父親から農業を継ぐにあたって「千年産業を目指す」という経営理念を掲げました。
千年後まで継承できる持続可能な産業を目指すなら、環境に負荷をかけない有機農業しかないと考えたそうです。
金沢市内と能登を中心に約180ヘクタールぐらいの農地を預かっています。
もともと河北潟型干拓地という国が開いた農地がありまして、そこで耕作放棄地を開墾規模拡大していって、耕地放棄地もなくなって、能登にまとまった農地があると紹介していただき、それをきっかけに能登で少しずつ増やしていっています。
22年前に新規就農した時には河北潟型干拓地は約1100ヘクタールの形がありましたが、200ヘクタールが耕作放棄地として放置されていました。
毎年10ヘクタールぐらい開墾して現在そこの耕作放棄地はない状態になっています。
160ヘクタールが有機栽培になっていて残りの20ヘクタールは田んぼが小さかったり、都市部にあったりということで、特別栽培ということで作っています。
農薬、化学肥料は使わないというのが原則になっています。
コメ、大豆、大麦、小麦ハト麦などの穀物を中心に有機野菜、葡萄作りなどもやっています。
日本農林規格がありこの認証をとったものが初めて有機なものだということを表示することができます。
輸出もしたいと思って、ヨーロッパとアメリカの認証も取りました。
取得にはかなり苦労しましたが、取れたときには大変うれしかったです。
当時は国も農産物の輸出にはあまり積極的ではありませんでしたのでいろんなことを考えました。
22年前に会社を辞めて農業をすると決めたときに、自分はいったいどんな農業をしたいんだろうと自問自答しました。
その時に持続可能性、生物多様性を大切にする農業だと考え、有機農業に行きつきました。
昔は農薬,化学肥料もなかったわけで1000年、2000年の歴史を持っているわけで、そこに戻るということは持続性があるということだとイメージしています。
食料を作るのは農業、漁業などの一次産業が本来私たちのベースにあるものだということを子どもたちに伝えるようにしています。
22年前地域の農村の環境が変化していって、鳥、魚などが少なくなっていきました。
農業こそが環境と仲良くしないといけないという思いです。
古くからそこに住む人たちが自然と調和して、循環型の社会を築いてきたというのが日本の歴史だと思っています。
壊れていって耕作放棄地を再生して自然と調和した農業ができないだろうかと考えました。
大学は農学部農学科を卒業しましたが、父親が大きな病気をして帰ってきましたが、ほかの勉強もしたほうがいいと父親から言われてサラリーマンをして、その後1997年に農業に参入しました。(8年間サラリーマン勤務)
いろんな顧客とコミュニケーション活動をさせてもらいました。
企業が環境のことなどで悩んでいる時期でもありました。
消費者との関係作りが大事だと思いました。
大豆を作るだけではなくて豆腐とか、加工品を広げていきました。
双方向のトレーサビリティーをしたいと思いました。
農業の役割とは何だろうと考えて、段々夢がひろがって行きました。
2015年にSDGs(持続可能な開発目標)のアジェンダが出た時には、衝撃的でした。
17の項目を見たときにまさにこれだと思いました。
当時は有機農業で作った味噌、醤油などはほとんどなかった時代でした。
マーケットを作る処から始めたので苦労はしました。
大豆、麦は加工品になって初めて食卓に届くので、そこを生産者の責任での商品作りをしたいと思いました。
麦茶、きなこ、小麦粉など基礎調味料的なものはいろいろ作っています。
全国のいろいろなスーパーさんのところなどで扱ってもらっています。
小麦粉はパン、ケーキ、ソーメン、うどんなどいろんなものに加工されています。
北陸3県は大麦の産地で小麦は作られていないところでした。
まずは小麦粉でパンを作るという目標からスタートしました。
10年近く前に日本の米を海外に輸出しようと思ったときに、価格差があって太刀打ちできなくて日本酒など加工品にして、ヨーロッパにもっていけば評価してもらえると思って、日本酒を開発しました。
焼酎を作っていたメーカーは九州産の大麦を使っていて作っていて、地元の大麦を使いたいということを聞いて、能登の焼酎が開発されました。
日本酒はアメリカ市場に輸出されています。
減反政策があるネガティブな環境の米つくりでしたが、行動を起こしたのが日本酒です。
50歳の時に夢の棚卸をしてみたらと友人に言われて、それが去年ワイナリーとフレンチレストランという形で実現しました。
周りからの協力で何とかできました。
醸造技術については3年通って基本を身に付けました。
石川県産の葡萄をワインにするというのがワイナリーのルールになっています。
フレンチレストランの壁は3種類の葡萄畑の土を持ってきて、左官職人さんに塗り込んでもらったものです。
食材は有機農法でできた食材などを利用しています。
「アグリハグハグ」は造語でアグリはアグリカルチャー(agriculture)から、ハグハグは
農をはぐくみ、農を抱きしめる、そういったコンセプトで「アグリハグハグ」を活動のキーワードとして使っています。
古民家を拠点にして、中学の修学旅行生の引き受けを数校やっています。
農業を知ってもらういい機会にしてもらっています。
「千年産業を目指す」
2020年4月18日土曜日
保山耕一(映像作家) ・「一滴に命をうつす」(初回:2019/4/6)
保山耕一(映像作家) ・「一滴に命をうつす」(初回:2019/4/6)
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2019/04/blog-post_6.htmlを御覧ください。
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2019/04/blog-post_6.htmlを御覧ください。
2020年4月17日金曜日
さかもと未明(アーティスト) ・「生きづらさを乗り越えよう」
さかもと未明(アーティスト) ・「生きづらさを乗り越えよう」
さかもとさんは昭和40年横浜生まれ。
幼いころから親とうまくいかず、家庭の問題に悩み、同級生からもいじめられ学校にもなじめませんでした。
大学卒業後漫画家として活躍し脚光を浴びましたが、41歳の時難病の膠原病 皮膚・筋肉・関節・血管・骨・内臓に広く存在するコラーゲンに対して、慢性的に炎症が生じることから発症する病気です。コラーゲンの分布様式が全身各所に広がることから、膠原病では全身各所において障害がみられるという特徴があります。)と診断され5年間ベッドから起き上がることができない日々を過ごしました。
膠原病の治療を続ける中で幼少期からの苦しみの原因が発達障害であったということがようやくわかります。
発達障害と向き合いつらい体験を乗り越えたさかもとさんは苦しんでいる人を少しでも力づけたいと、膠原病の治療を続けながらが、画家としてシンガーとして随筆家として表現の幅を広げています。
何か一つやると足りない、言葉でも表現したい、言葉でいうと音楽にしたい、更に絵で見せたいと広がっていってしまうので、自分の体調と相談して、時間割をとってバランスさせています。
2006年に膠原病が発症して、2008年に難病認定を受けて、2009年には歩くのもできない状況になり、声も出なくなったので2011年から2015年の間はほとんど寝たり起きたり入院したりという状態が続いていました。
その時に今の主人と結婚することができて,医師なのでいい治療を受けさせていただき安心して休ませてもらって、生まれ変わったようにこうやって表現できるようになって、これからの人生はいつまでできるかわからないが、もらった命として精いっぱいの表現をしたいと思って活動をしています。
2008年にはずいぶん悪くなって、5年以内に最悪命が尽きるか、寝たきりになることを覚悟して人生設計を考え直してくださいと医師から言われてショックでした。
どうしていいかわからず泣いてばかりいました。
ふっと思い出したのは小さいころ読んだマザーテレサの「神様は乗り越えられない試練は絶対お与えになりません、それはあなたが選ばれたから与えられたんです」、というような意味の言葉を思い出しました。
何かできるか、その何かを見つけなければいけないと思って家に帰ったのを覚えています。
膠原病があるために1日10時間ぐらい寝ないと身体がもたないんです。
朝は身体が動かなくて3時間ぐらいはだめで、10時に起きてもスタートが1時ぐらいになってしまって、まず絵をかいて、夕方8時から12時ぐらいは主人を待ちながらいろいろメールなどをして、主人が帰ってきたら一緒にお風呂に入るという生活です。
発達障害が見つかったのは膠原病の治療の後で、膠原病の治療を始めても思い通りに体が動かないんです。
おかしいということで、アシスタントが発達障害の星野仁彦先生の本の症状とそっくりだからということで、行ったら発達障害を抱えているということがわかりました。(45歳)
親に変わった子だと言われたり学校でいじめられたりしたが、全部このせいで泣いて泣いて、それですごく楽になりました。
その治療も始めて身体もよくなっていきました。
一般的に発達障害の子は運動が苦手なんです。
運動会でも靴の紐が結べなくて転んでみんなに笑われ、友達もできなくて、いじめにも会いました。
学校にもいかなくなったり、学校時代は正直つらかったです。
祖母にかわいがってもらいましたが、10歳ぐらいから死ぬ死ぬといって騒いでいまして、祖母は死ぬなと言ってくれて祖母がいなかったらどうなっていたのか分からなかった。
落ち着きのない、常識がわからない子でした。
母は私を普通にしたかったが、普通ってどういうことだろうと思いました。
勉強ができたので、その分生意気になるんだといつも怒られました。
見た本を写真のように絵のまんま頭に入るんです。
数字も絵で覚えるんで、覚えたものを逆から言ってくださいと言われても簡単で、こんなにできる人はいないと言ってびっくりされました。
ものすごくできるところと全然できないところもありました。
なんで片付けをしなければいけないんだろうと、明日使うものをなんで片付けるんだろうと思いました。
昼夜逆転したりして、学校に行っても疲れて早退してしまうとか、全部発達障害からくるもので、判っていたら治療して楽しい学校生活ができたかもしれないです。
父がすごく優しい人でしたが、たまに酔っぱらうと暴れるという症状を持っていて、家が壊れたり母がぶたれたりということがあり、悩んでつらかった。
洗濯用のひもを持ち出して、死のうかと思ったところを祖母に見つかりました。
祖母は夫を早く亡くして「子どもを苦労して育ててきて、そんな中でお前がやっと生まれて10歳になってこれからだというときに死なれたら、60何年も苦労してきて生きてるようがないので、だから死んだらだめだ」と言われて、その言葉がなかったら私はいつくじけていたかわからないです。
40代半ばで発達障害だということがわかり楽になりました。
いじめにあった友達とか両親を恨んだりしましたが、「一所懸命教育しようと思ってできなかった両親もきっとつらかったんだと思うから許してあげなさい。あなたが悪いんじゃない、病気が悪いんだから。」、と星野先生が言ってくださいました。
どれだか楽になったかしれません。
星野先生ご自身も発達障害なので、患者の身になって考えてくださるんです。
発達障害のための薬を飲んですごく楽になりました。
着替えができるようになり、つえが必要なくなり、そのうち絵も描けるようになり、歌も歌えるようになりました。
拉致被害者の支援のために作った曲があってその歌も歌っています。
横田 滋さんと早紀江さんと知り合いになって、信頼してくださって、結婚をすることになって媒酌人をしてくださって、自分でできる恩返しが何かないかと思ったときに、歌を作っていろんな国の言葉に訳して世界の人に拉致被害者のことを知ってもらおうと思って、作詞して作曲をしてもらって「青い伝説」ができました。
ローマでの震災復興のコンサートでプログラムに入れていただき実現しました。
結婚式の内掛けを振袖に仕立て直して、その衣装で歌いました。
イタリアの方は拉致問題のことを知らなくて、終わってから100人以上の人が集まってきて「これは世界で解決しなければいけない問題だ」と言ってくださいました。
メッセージをローマ教皇が読んでくれたものと思いますが、ローマに帰る飛行機の中で声明をだされて、「北朝鮮の人権問題に対して、第三国が武力以外の方法で介入してこの問題を解決すべきです。」と声明を出してくださいました。
ローマ教皇がが実際に日本にお見えになり、「教皇の言葉」をわかりやすく本にして出版許可をくださって、来日のタイミングに出しました。
ローマ教皇のいろんなミサの追っかけをする許可証を取っていただき、長崎、東京ドームにもいって写真を撮ることができました。
特に好きな言葉が二つあり
①「皆さんはどのように生きたいですか、火をともしたともしびのように生きたいですか、それとも消えたともしびのように生きたいですか、ともしびに火をともしていますか、それとも消していますか。」
ともしびはろうそくの言葉の訳だと思います。
火をつけないとろうそくは無事だが仕事をしないで終わってしまうが、火をともされたろうそくは溶けていつかはなくなってしまう、命はなくなってしまうが、燃えている間自分は苦しくても人を温めたり、人を導いてくれることができ、自分の命を燃やして人の気持ちを照らせるようすにすることは素晴らしいと、この言葉から言ってもらっている気がします。
②「人の心を喜ばせるのは自分と同じようなものの心、自分を愛し孤独から救い出してくれる心のほかにはない。」
本当にありがたいと思うのは、人との出会いにものすごく恵まれています。
ジャズピアニストクリヤ・マコトさんとの出会いがあり、ミシェル・ルグランさんの息子さんとも出会いがありました。
歌手の次男のバンジャマン・ルグランさんとはクリヤ・マコトさんが共演したそうで、私とバンジャマン・ルグランさんとのデュエットが実現しました。
*「男と女」
秋にはバンジャマン・ルグランさんとコンサートが予定されています。
外国で絵の展示も予定していますが。
強く思ったことは必ずできます、だから皆さん諦めないでください。
さかもとさんは昭和40年横浜生まれ。
幼いころから親とうまくいかず、家庭の問題に悩み、同級生からもいじめられ学校にもなじめませんでした。
大学卒業後漫画家として活躍し脚光を浴びましたが、41歳の時難病の膠原病 皮膚・筋肉・関節・血管・骨・内臓に広く存在するコラーゲンに対して、慢性的に炎症が生じることから発症する病気です。コラーゲンの分布様式が全身各所に広がることから、膠原病では全身各所において障害がみられるという特徴があります。)と診断され5年間ベッドから起き上がることができない日々を過ごしました。
膠原病の治療を続ける中で幼少期からの苦しみの原因が発達障害であったということがようやくわかります。
発達障害と向き合いつらい体験を乗り越えたさかもとさんは苦しんでいる人を少しでも力づけたいと、膠原病の治療を続けながらが、画家としてシンガーとして随筆家として表現の幅を広げています。
何か一つやると足りない、言葉でも表現したい、言葉でいうと音楽にしたい、更に絵で見せたいと広がっていってしまうので、自分の体調と相談して、時間割をとってバランスさせています。
2006年に膠原病が発症して、2008年に難病認定を受けて、2009年には歩くのもできない状況になり、声も出なくなったので2011年から2015年の間はほとんど寝たり起きたり入院したりという状態が続いていました。
その時に今の主人と結婚することができて,医師なのでいい治療を受けさせていただき安心して休ませてもらって、生まれ変わったようにこうやって表現できるようになって、これからの人生はいつまでできるかわからないが、もらった命として精いっぱいの表現をしたいと思って活動をしています。
2008年にはずいぶん悪くなって、5年以内に最悪命が尽きるか、寝たきりになることを覚悟して人生設計を考え直してくださいと医師から言われてショックでした。
どうしていいかわからず泣いてばかりいました。
ふっと思い出したのは小さいころ読んだマザーテレサの「神様は乗り越えられない試練は絶対お与えになりません、それはあなたが選ばれたから与えられたんです」、というような意味の言葉を思い出しました。
何かできるか、その何かを見つけなければいけないと思って家に帰ったのを覚えています。
膠原病があるために1日10時間ぐらい寝ないと身体がもたないんです。
朝は身体が動かなくて3時間ぐらいはだめで、10時に起きてもスタートが1時ぐらいになってしまって、まず絵をかいて、夕方8時から12時ぐらいは主人を待ちながらいろいろメールなどをして、主人が帰ってきたら一緒にお風呂に入るという生活です。
発達障害が見つかったのは膠原病の治療の後で、膠原病の治療を始めても思い通りに体が動かないんです。
おかしいということで、アシスタントが発達障害の星野仁彦先生の本の症状とそっくりだからということで、行ったら発達障害を抱えているということがわかりました。(45歳)
親に変わった子だと言われたり学校でいじめられたりしたが、全部このせいで泣いて泣いて、それですごく楽になりました。
その治療も始めて身体もよくなっていきました。
一般的に発達障害の子は運動が苦手なんです。
運動会でも靴の紐が結べなくて転んでみんなに笑われ、友達もできなくて、いじめにも会いました。
学校にもいかなくなったり、学校時代は正直つらかったです。
祖母にかわいがってもらいましたが、10歳ぐらいから死ぬ死ぬといって騒いでいまして、祖母は死ぬなと言ってくれて祖母がいなかったらどうなっていたのか分からなかった。
落ち着きのない、常識がわからない子でした。
母は私を普通にしたかったが、普通ってどういうことだろうと思いました。
勉強ができたので、その分生意気になるんだといつも怒られました。
見た本を写真のように絵のまんま頭に入るんです。
数字も絵で覚えるんで、覚えたものを逆から言ってくださいと言われても簡単で、こんなにできる人はいないと言ってびっくりされました。
ものすごくできるところと全然できないところもありました。
なんで片付けをしなければいけないんだろうと、明日使うものをなんで片付けるんだろうと思いました。
昼夜逆転したりして、学校に行っても疲れて早退してしまうとか、全部発達障害からくるもので、判っていたら治療して楽しい学校生活ができたかもしれないです。
父がすごく優しい人でしたが、たまに酔っぱらうと暴れるという症状を持っていて、家が壊れたり母がぶたれたりということがあり、悩んでつらかった。
洗濯用のひもを持ち出して、死のうかと思ったところを祖母に見つかりました。
祖母は夫を早く亡くして「子どもを苦労して育ててきて、そんな中でお前がやっと生まれて10歳になってこれからだというときに死なれたら、60何年も苦労してきて生きてるようがないので、だから死んだらだめだ」と言われて、その言葉がなかったら私はいつくじけていたかわからないです。
40代半ばで発達障害だということがわかり楽になりました。
いじめにあった友達とか両親を恨んだりしましたが、「一所懸命教育しようと思ってできなかった両親もきっとつらかったんだと思うから許してあげなさい。あなたが悪いんじゃない、病気が悪いんだから。」、と星野先生が言ってくださいました。
どれだか楽になったかしれません。
星野先生ご自身も発達障害なので、患者の身になって考えてくださるんです。
発達障害のための薬を飲んですごく楽になりました。
着替えができるようになり、つえが必要なくなり、そのうち絵も描けるようになり、歌も歌えるようになりました。
拉致被害者の支援のために作った曲があってその歌も歌っています。
横田 滋さんと早紀江さんと知り合いになって、信頼してくださって、結婚をすることになって媒酌人をしてくださって、自分でできる恩返しが何かないかと思ったときに、歌を作っていろんな国の言葉に訳して世界の人に拉致被害者のことを知ってもらおうと思って、作詞して作曲をしてもらって「青い伝説」ができました。
ローマでの震災復興のコンサートでプログラムに入れていただき実現しました。
結婚式の内掛けを振袖に仕立て直して、その衣装で歌いました。
イタリアの方は拉致問題のことを知らなくて、終わってから100人以上の人が集まってきて「これは世界で解決しなければいけない問題だ」と言ってくださいました。
メッセージをローマ教皇が読んでくれたものと思いますが、ローマに帰る飛行機の中で声明をだされて、「北朝鮮の人権問題に対して、第三国が武力以外の方法で介入してこの問題を解決すべきです。」と声明を出してくださいました。
ローマ教皇がが実際に日本にお見えになり、「教皇の言葉」をわかりやすく本にして出版許可をくださって、来日のタイミングに出しました。
ローマ教皇のいろんなミサの追っかけをする許可証を取っていただき、長崎、東京ドームにもいって写真を撮ることができました。
特に好きな言葉が二つあり
①「皆さんはどのように生きたいですか、火をともしたともしびのように生きたいですか、それとも消えたともしびのように生きたいですか、ともしびに火をともしていますか、それとも消していますか。」
ともしびはろうそくの言葉の訳だと思います。
火をつけないとろうそくは無事だが仕事をしないで終わってしまうが、火をともされたろうそくは溶けていつかはなくなってしまう、命はなくなってしまうが、燃えている間自分は苦しくても人を温めたり、人を導いてくれることができ、自分の命を燃やして人の気持ちを照らせるようすにすることは素晴らしいと、この言葉から言ってもらっている気がします。
②「人の心を喜ばせるのは自分と同じようなものの心、自分を愛し孤独から救い出してくれる心のほかにはない。」
本当にありがたいと思うのは、人との出会いにものすごく恵まれています。
ジャズピアニストクリヤ・マコトさんとの出会いがあり、ミシェル・ルグランさんの息子さんとも出会いがありました。
歌手の次男のバンジャマン・ルグランさんとはクリヤ・マコトさんが共演したそうで、私とバンジャマン・ルグランさんとのデュエットが実現しました。
*「男と女」
秋にはバンジャマン・ルグランさんとコンサートが予定されています。
外国で絵の展示も予定していますが。
強く思ったことは必ずできます、だから皆さん諦めないでください。
2020年4月16日木曜日
柳美里(作家)村山由佳(作家) ・「南相馬便り」(初回:2018/8/1)
柳美里(作家)村山由佳(作家) ・「南相馬便り」(初回:2018/8/1)
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2018/08/blog-post.htmlをご覧ください。
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2018/08/blog-post.htmlをご覧ください。
2020年4月15日水曜日
宮越隆夫(寺子屋コーディネーター) ・「わがまちの寺子屋」
宮越隆夫(寺子屋コーディネーター) ・「わがまちの寺子屋」
新潟県出身73歳、川崎市で長年土木建設業を経営しています。
子育ては学校任せではなく住民の力も出そうということで、川崎市の地域教育会議の事務局長を20年も務め、中学生の職業体験、中学生と共に東日本大震災の被災地へのボランティアに行くなど様々な活動をしてきました。
6年前に始まりました子どもと高齢者が交流して、子どもの放課後の居場所を作る寺子屋には立ち上げからかかわりました。
大都会の中で子供や若者が生き生きできる舞台作りをこれからもやっていきたいと話しています。
寺子屋には学習支援と体験活動との二つの形でやっています。
私が担当している渡田小学校では、学習支援は毎週水曜日の放課後やります。
900人のうち150人が登録しています。
多いので子供たちは隔週になっています。
まず宿題をやって、そのあとに私たちが用意したプリントの勉強をやります。
その後紙芝居、将棋、トランプなど大人の先生たちと交流をします。
合わせて2時間ぐらいです。
寺子屋の学習支援の先生は、多彩な方々で元校長先生、リタイアされた方、町内会の役員紙芝居、将棋のできるかたなど様々です。
音読は人気があります。
「いるだけ支援」、特別なスキルがなくても子供たちは元気になります、教育のイノベーションではないかと思ってるぐらいです。
体験活動ではペットボトルで水ロケットを作って発射したり、科学に夢を膨らませて体験します。(JAXAの体験)
川の干潟で泥んこになって、カニと遊んだり、ブラインドサッカーをやって障害者への理解を深めたり、ボクシング教室やったりいろいろあります。
平成26年からスタートしました。
当時の川崎市長が高齢者と子供たちが触れ合う場を作りたいということで始まりました。
川崎市の地域教育会議へ打診がありました。
1980年代は校内暴力などで荒れる学校、少年事件が多発した時代でした。
川崎でも深刻な事件がありました。
4万人から出された中から6500件の意見を基にして地域からの教育改革を目指して、地域教育改革が提案されました。
平成2年に試行的に設置されて平成10年には川崎市内の51中学校区、7行政区すべてに地域教育会議が設置されました。
地域住民、先生、行政、青少年活動にかかわる団体などの代表が集まって運営することになりました。
私が事務局長になり20年以上ずーっとやってきました。
臨港中学校は荒れが常態化していて、平成4年には生徒が逮捕される事件もありました。
私の娘たちも怖がっていましたが、入学させました。
PTAの役員もなかなかやり手がなくてPTAの会長も引き受けました。
小学校の改築があり、2年間給食がなくなるということで、給食を何とかしようということで委員が集まってくれて、校長先生が教育委員会に掛け合って、臨時の教職室を作ってくださることになりました。
これがPTAに入るきっかけになりました。
PTAの改革で実行委員会制を考えました。
運動会担当委員会などを立ち上げました。(みんなでやれることをやる。)
成人旅行は人気がなかったが、親子遠足ということにしたら多くの人が参加してくれて、だんだん知り合う機会が増えて、自然ふれあいクラブができて四季折々の楽しい自然に案内をしていった経緯があります。
子どもと遊べる時期があるので、その時期と一緒に遊びたいという思いがありました。
新潟出身なので良寛さんに憧れました。
当時は中学校も荒れていて地域教育会議を立ち上げ、新しい風を送りこもうとしました。
地域が主体となって子供たちを応援しよう、というのが趣旨です。
悪いことをしたら諫めるというスタイルではなく、どうしたら子どもたちのいいところを引き出してあげられるか、ということで最初は神輿担ぎを考えました。
盆踊りも中学生が「よさこいソーラン」で躍動する姿を地域の人たちに見せてくれました。
地域の花になりました。
翌年職業体験実習を行いました。
子どもたちはどうやって将来を考えるんだろうというのが気になっていました。
それが夏休みでの職業体験実習ということになりました。
床屋、ラーメン屋、町工場、福祉施設など働いている姿を見るのが勉強ですから。
全校生徒の3割の希望がありました。
よく働くと評判になりました。
盆踊りの夜店で働いている子がるが、この子たちは正規に申し込んだ生徒ではなかったのですが、この子たちを体験学習として認めてほしいとの電話がありました。
認めてあげたら、その後も子どもたちが私の新聞配達を手伝っているとのことでした。
学校で先生たちの手を焼かせている子たちでした。
夏休みの終わりにお母さんがバーベキューをごちそうしたら、そのあとその家で今までしたことのない宿題をやったんですね。
以前夏休みでの苦情がありましたが、ぴたりとなくなりました。
体験学習は今もずーっと続いています。
「中学生の夏休み体験7年間の地域活動ドキュメント」という冊子を作りました。
そのなかに「地域は私たちにとって一つの大きな家です」という一節がありました。
卒業式に参加しましたが、この言葉には全身が震えるような感動を受けました。
神輿担ぎ22回、職業体験21回、ソーラン節演技が18回、東北被災地のボランティアは2012年から連続8回やりました。
知り合いの腹話術師のしろたに・まもるさんを通して宮城県のおやじの会が受け入れてくれました。
いろいろ復興支援の手伝いをしました。
(しろたに・まもるさん http://asuhenokotoba.blogspot.com/2013/03/72.html 参照)
被災地を肌で感じることもできました。
心の問題もあり5年ほどはできませんでしたが、ここ3年は現地の中学生との交流も行うようになりました。
最初11人で始まって、おととしは28人、去年が34人で校長先生は必ずいくようになっています。
子どもたちの心の財産になってくれればいいと思っています。
新潟県出身73歳、川崎市で長年土木建設業を経営しています。
子育ては学校任せではなく住民の力も出そうということで、川崎市の地域教育会議の事務局長を20年も務め、中学生の職業体験、中学生と共に東日本大震災の被災地へのボランティアに行くなど様々な活動をしてきました。
6年前に始まりました子どもと高齢者が交流して、子どもの放課後の居場所を作る寺子屋には立ち上げからかかわりました。
大都会の中で子供や若者が生き生きできる舞台作りをこれからもやっていきたいと話しています。
寺子屋には学習支援と体験活動との二つの形でやっています。
私が担当している渡田小学校では、学習支援は毎週水曜日の放課後やります。
900人のうち150人が登録しています。
多いので子供たちは隔週になっています。
まず宿題をやって、そのあとに私たちが用意したプリントの勉強をやります。
その後紙芝居、将棋、トランプなど大人の先生たちと交流をします。
合わせて2時間ぐらいです。
寺子屋の学習支援の先生は、多彩な方々で元校長先生、リタイアされた方、町内会の役員紙芝居、将棋のできるかたなど様々です。
音読は人気があります。
「いるだけ支援」、特別なスキルがなくても子供たちは元気になります、教育のイノベーションではないかと思ってるぐらいです。
体験活動ではペットボトルで水ロケットを作って発射したり、科学に夢を膨らませて体験します。(JAXAの体験)
川の干潟で泥んこになって、カニと遊んだり、ブラインドサッカーをやって障害者への理解を深めたり、ボクシング教室やったりいろいろあります。
平成26年からスタートしました。
当時の川崎市長が高齢者と子供たちが触れ合う場を作りたいということで始まりました。
川崎市の地域教育会議へ打診がありました。
1980年代は校内暴力などで荒れる学校、少年事件が多発した時代でした。
川崎でも深刻な事件がありました。
4万人から出された中から6500件の意見を基にして地域からの教育改革を目指して、地域教育改革が提案されました。
平成2年に試行的に設置されて平成10年には川崎市内の51中学校区、7行政区すべてに地域教育会議が設置されました。
地域住民、先生、行政、青少年活動にかかわる団体などの代表が集まって運営することになりました。
私が事務局長になり20年以上ずーっとやってきました。
臨港中学校は荒れが常態化していて、平成4年には生徒が逮捕される事件もありました。
私の娘たちも怖がっていましたが、入学させました。
PTAの役員もなかなかやり手がなくてPTAの会長も引き受けました。
小学校の改築があり、2年間給食がなくなるということで、給食を何とかしようということで委員が集まってくれて、校長先生が教育委員会に掛け合って、臨時の教職室を作ってくださることになりました。
これがPTAに入るきっかけになりました。
PTAの改革で実行委員会制を考えました。
運動会担当委員会などを立ち上げました。(みんなでやれることをやる。)
成人旅行は人気がなかったが、親子遠足ということにしたら多くの人が参加してくれて、だんだん知り合う機会が増えて、自然ふれあいクラブができて四季折々の楽しい自然に案内をしていった経緯があります。
子どもと遊べる時期があるので、その時期と一緒に遊びたいという思いがありました。
新潟出身なので良寛さんに憧れました。
当時は中学校も荒れていて地域教育会議を立ち上げ、新しい風を送りこもうとしました。
地域が主体となって子供たちを応援しよう、というのが趣旨です。
悪いことをしたら諫めるというスタイルではなく、どうしたら子どもたちのいいところを引き出してあげられるか、ということで最初は神輿担ぎを考えました。
盆踊りも中学生が「よさこいソーラン」で躍動する姿を地域の人たちに見せてくれました。
地域の花になりました。
翌年職業体験実習を行いました。
子どもたちはどうやって将来を考えるんだろうというのが気になっていました。
それが夏休みでの職業体験実習ということになりました。
床屋、ラーメン屋、町工場、福祉施設など働いている姿を見るのが勉強ですから。
全校生徒の3割の希望がありました。
よく働くと評判になりました。
盆踊りの夜店で働いている子がるが、この子たちは正規に申し込んだ生徒ではなかったのですが、この子たちを体験学習として認めてほしいとの電話がありました。
認めてあげたら、その後も子どもたちが私の新聞配達を手伝っているとのことでした。
学校で先生たちの手を焼かせている子たちでした。
夏休みの終わりにお母さんがバーベキューをごちそうしたら、そのあとその家で今までしたことのない宿題をやったんですね。
以前夏休みでの苦情がありましたが、ぴたりとなくなりました。
体験学習は今もずーっと続いています。
「中学生の夏休み体験7年間の地域活動ドキュメント」という冊子を作りました。
そのなかに「地域は私たちにとって一つの大きな家です」という一節がありました。
卒業式に参加しましたが、この言葉には全身が震えるような感動を受けました。
神輿担ぎ22回、職業体験21回、ソーラン節演技が18回、東北被災地のボランティアは2012年から連続8回やりました。
知り合いの腹話術師のしろたに・まもるさんを通して宮城県のおやじの会が受け入れてくれました。
いろいろ復興支援の手伝いをしました。
(しろたに・まもるさん http://asuhenokotoba.blogspot.com/2013/03/72.html 参照)
被災地を肌で感じることもできました。
心の問題もあり5年ほどはできませんでしたが、ここ3年は現地の中学生との交流も行うようになりました。
最初11人で始まって、おととしは28人、去年が34人で校長先生は必ずいくようになっています。
子どもたちの心の財産になってくれればいいと思っています。
2020年4月14日火曜日
荻野アンナ(作家・慶應義塾大学教授) ・「ユーモアと笑いを糧に 人生七十九転び八十起き」
荻野アンナ(作家・慶應義塾大学教授) ・「ユーモアと笑いを糧に 人生七十九転び八十起き」
荻野さんは落語家の11代目金原亭馬生に弟子入りした落語家でもあります。
画家である母と日本語を解さないフランス系アメリカ人の船乗りの父との間の一人っ子として生まれました。
大事なことは言葉では表現できないという母に対して、大事なことは言葉でしか伝わらないと信じ、文学表現の道を選んで歩んで来ました。
16年前の2004年にともに暮らすパートナーに食道がんが見つかります。
荻野さんはパートナーとともに闘病の過程を書くことで、状況を動かしていけるのではないかと克明に闘病奮闘記を書き続けました。
その本は『蟹と彼と私』として単行本になり2008年に伊藤整文学賞を受賞しました。
掛け替えのないパートナーをがんでみおくり、悲しむ間もなく今度は90代の両親の看護が始まります。
そんな中荻野さんが55歳の時に自身に大腸がんが見つかります。
荻野さんは介護が必要な母を一人で置いておけないと、自分のがん手術の病院に母連れで入院しました。
身の上に起きることをすべて受け散れ、「人生79転び80起き」だという荻野さんの今の思いを伺います。
大腸がんに8年前なりました。
気が付いたら3人私の大事な人を看送って、あと残るのは自分を看送ることだけですね。
パートナーとは結婚して子どもを産んでと思っていましたが、母が反対してずるずると来てしまいました。
私が40歳ぐらいまでには子どもをと思っていましたが恵まれず、父が病気になったり母が怪我をしたりして、介護の適齢期になってしまって子どもどころではなくなってしまいました。
彼は優しい人だがゲイバーに行ったりしていましたが、母に隠さなかったんです。
大反対にあいました。
画家の母の世界観に私はすごく影響を受けていました。
母は言葉とあんまり仲が良くなくて、いいとか悪いことは言うが説明はしなくて、『背負い水』で第105回芥川賞を受賞した時には、この作品は不潔だと、お前がこの人と付き合っているとどんどん不潔な、人が好まないようなものを書くだろうと言われて、作中の彼が不潔だと言いたかったようだが、作品が不潔だと言ってしまったので、大ショックを受けてしまいました。
それまでだったら言われると彼とは別れるはずでしたが、いうことを聞かなかったということが本当に意味で大人になれた、親離れしたと思います。
母自身明石の田舎の倫理観を持っていて、私も中身は明石の昔の気風です。
修羅場を書くことによって乗り越えるということがあるので、書くというのは客観的に自分を見る行為なので、書くと乗り越えてゆくことができました。
正月におみくじを引いたら凶で、父のことかと思っていたらパートナーに食道がんが見つかりました。
淡々と彼は受け止めていました。
私がいろいろと調べました。
状況を『蟹と彼と私』の本の中に克明に書いています。
メモ帳とペンを持って手術着を着せてもらって手術の時には実際に見ました。
がんが進行していたので心臓に転移していたので、背中から切って一つ取るのに1時間かかりました。
そのあと喉とお腹と同時進行で胃を切って残りを首とつなげるということで一日がかりでした。
判ったことは人間って殺すのは簡単だけれども助けるのは本当に難しいと思いました。
書き終わるころには治っているといいねということで書き始めました。
書いている途中で彼は旅立ってしまいましたが。
母は彼ががんになったときに「好きなだけ看ておあげ」と言ってくれまして、その後は母と父とも高齢でして、父は腸の悪性リンパ腫をやって一命を助かって翌年腸閉塞をしました。
助からないかもしれないと救急士は言っていたが、父は指さして一言言ったんです。
最後の言葉かなあと思って聞いたら、看護師さんを指さして「ビューティフル」といったんです。
こういう人は助かるんですね。
天寿を全うする95歳まで看ましたが、今は反省していて、父に手間をかけすぎました。
母にもっと手間を掛けてあげればと思っています。
母は晩年は身体がボロボロで腰椎すべり症で腰が二つに折れているし、たばこをやっていたので肺が悪くなり肺気腫になってゆくということでした。
母をそのまま置いておけないので、私が手術する段になって、母も入院することを考えて、部屋は違いましたが母も同病院に入院することになりました。
母は煙草を吸うのが本当に楽しみで、見舞客が来た時には車椅子を押してもらって、外へ出て吸っていましたが、いないときには私が片手で車椅子を押してもう一歩の手には点滴棒を持って連れてゆきました。
私は1週間で退院できました。
母は幼い私をあやしながらラジオで古今亭志ん生の落語を聞いていました。
父は若いころは遊びまわっていて家を返り見ることがないことがありましたが、介護を通じて父と初めて親子になったという実感がありました。
父に手間をかけた分をもう少し母にかけてあげればよかったと思いました。
母が亡くなってみて違う風に見えてくるところはあります。
家族というのは与えられているのではなくて、みんなして時間をかけて家族になってゆくものだと思います。
別離は人間に取って必然ですから、その事も受け入れないと本当の意味での家族は完結しないと思います。
看送るのに後悔しないためには全力投球しかないと思って、できる事はやりました。
送った後はほとんど倒れてしまったが後悔はなかったです。
ですから父の時も同じようにしようと思いました。
父の死も後悔なく受け入れることができましたが、母に対してはしてほしいと思っていたであろうほどはできなかったので後悔は残っています。
後悔という形で縁が残っているんだろうと思います。
孤独は贅沢だと思っています、リリアン・ギッシュという女優さんが「孤独って何。」と聞かれて「贅沢よ。」と答えたといいます。
ただ周りに人がいないというのではなくて、人間関係のしがらみがほどけて行って、ようやく自分のことを自分が考えてればいいという段階に達したという事だと思うんです。
ラブレーの作品の中にある「たまたま起こるような事柄には影響を受けない精神のゆるぎない快活さ・・・」、精神のゆるぎない快活さを目指したいと思います。
前向きな精神が孤独を楽しむ精神にも通じるし、妙に流されないで行くというのが快活という精神のあり方だと思います。
荻野さんは落語家の11代目金原亭馬生に弟子入りした落語家でもあります。
画家である母と日本語を解さないフランス系アメリカ人の船乗りの父との間の一人っ子として生まれました。
大事なことは言葉では表現できないという母に対して、大事なことは言葉でしか伝わらないと信じ、文学表現の道を選んで歩んで来ました。
16年前の2004年にともに暮らすパートナーに食道がんが見つかります。
荻野さんはパートナーとともに闘病の過程を書くことで、状況を動かしていけるのではないかと克明に闘病奮闘記を書き続けました。
その本は『蟹と彼と私』として単行本になり2008年に伊藤整文学賞を受賞しました。
掛け替えのないパートナーをがんでみおくり、悲しむ間もなく今度は90代の両親の看護が始まります。
そんな中荻野さんが55歳の時に自身に大腸がんが見つかります。
荻野さんは介護が必要な母を一人で置いておけないと、自分のがん手術の病院に母連れで入院しました。
身の上に起きることをすべて受け散れ、「人生79転び80起き」だという荻野さんの今の思いを伺います。
大腸がんに8年前なりました。
気が付いたら3人私の大事な人を看送って、あと残るのは自分を看送ることだけですね。
パートナーとは結婚して子どもを産んでと思っていましたが、母が反対してずるずると来てしまいました。
私が40歳ぐらいまでには子どもをと思っていましたが恵まれず、父が病気になったり母が怪我をしたりして、介護の適齢期になってしまって子どもどころではなくなってしまいました。
彼は優しい人だがゲイバーに行ったりしていましたが、母に隠さなかったんです。
大反対にあいました。
画家の母の世界観に私はすごく影響を受けていました。
母は言葉とあんまり仲が良くなくて、いいとか悪いことは言うが説明はしなくて、『背負い水』で第105回芥川賞を受賞した時には、この作品は不潔だと、お前がこの人と付き合っているとどんどん不潔な、人が好まないようなものを書くだろうと言われて、作中の彼が不潔だと言いたかったようだが、作品が不潔だと言ってしまったので、大ショックを受けてしまいました。
それまでだったら言われると彼とは別れるはずでしたが、いうことを聞かなかったということが本当に意味で大人になれた、親離れしたと思います。
母自身明石の田舎の倫理観を持っていて、私も中身は明石の昔の気風です。
修羅場を書くことによって乗り越えるということがあるので、書くというのは客観的に自分を見る行為なので、書くと乗り越えてゆくことができました。
正月におみくじを引いたら凶で、父のことかと思っていたらパートナーに食道がんが見つかりました。
淡々と彼は受け止めていました。
私がいろいろと調べました。
状況を『蟹と彼と私』の本の中に克明に書いています。
メモ帳とペンを持って手術着を着せてもらって手術の時には実際に見ました。
がんが進行していたので心臓に転移していたので、背中から切って一つ取るのに1時間かかりました。
そのあと喉とお腹と同時進行で胃を切って残りを首とつなげるということで一日がかりでした。
判ったことは人間って殺すのは簡単だけれども助けるのは本当に難しいと思いました。
書き終わるころには治っているといいねということで書き始めました。
書いている途中で彼は旅立ってしまいましたが。
母は彼ががんになったときに「好きなだけ看ておあげ」と言ってくれまして、その後は母と父とも高齢でして、父は腸の悪性リンパ腫をやって一命を助かって翌年腸閉塞をしました。
助からないかもしれないと救急士は言っていたが、父は指さして一言言ったんです。
最後の言葉かなあと思って聞いたら、看護師さんを指さして「ビューティフル」といったんです。
こういう人は助かるんですね。
天寿を全うする95歳まで看ましたが、今は反省していて、父に手間をかけすぎました。
母にもっと手間を掛けてあげればと思っています。
母は晩年は身体がボロボロで腰椎すべり症で腰が二つに折れているし、たばこをやっていたので肺が悪くなり肺気腫になってゆくということでした。
母をそのまま置いておけないので、私が手術する段になって、母も入院することを考えて、部屋は違いましたが母も同病院に入院することになりました。
母は煙草を吸うのが本当に楽しみで、見舞客が来た時には車椅子を押してもらって、外へ出て吸っていましたが、いないときには私が片手で車椅子を押してもう一歩の手には点滴棒を持って連れてゆきました。
私は1週間で退院できました。
母は幼い私をあやしながらラジオで古今亭志ん生の落語を聞いていました。
父は若いころは遊びまわっていて家を返り見ることがないことがありましたが、介護を通じて父と初めて親子になったという実感がありました。
父に手間をかけた分をもう少し母にかけてあげればよかったと思いました。
母が亡くなってみて違う風に見えてくるところはあります。
家族というのは与えられているのではなくて、みんなして時間をかけて家族になってゆくものだと思います。
別離は人間に取って必然ですから、その事も受け入れないと本当の意味での家族は完結しないと思います。
看送るのに後悔しないためには全力投球しかないと思って、できる事はやりました。
送った後はほとんど倒れてしまったが後悔はなかったです。
ですから父の時も同じようにしようと思いました。
父の死も後悔なく受け入れることができましたが、母に対してはしてほしいと思っていたであろうほどはできなかったので後悔は残っています。
後悔という形で縁が残っているんだろうと思います。
孤独は贅沢だと思っています、リリアン・ギッシュという女優さんが「孤独って何。」と聞かれて「贅沢よ。」と答えたといいます。
ただ周りに人がいないというのではなくて、人間関係のしがらみがほどけて行って、ようやく自分のことを自分が考えてればいいという段階に達したという事だと思うんです。
ラブレーの作品の中にある「たまたま起こるような事柄には影響を受けない精神のゆるぎない快活さ・・・」、精神のゆるぎない快活さを目指したいと思います。
前向きな精神が孤独を楽しむ精神にも通じるし、妙に流されないで行くというのが快活という精神のあり方だと思います。
2020年4月13日月曜日
瀬立キヌ子(パラカヌー選手 瀬立モニカの母)・【アスリート誕生物語】
瀬立キヌ子(パラカヌー選手 瀬立モニカの母)・【アスリート誕生物語】
瀬立モニカ選手はいつも笑顔のアスリートです、コメントにも力があります。
どんな環境でどう育ったのでしょうか。
瀬立モニカさんの母親の瀬立キヌ子さんに伺いました。
看護師でシングルマザーでしたので、保育園に0歳時から預けていました。
とにかく体を動かすのが好きな子どもでした。
小学校から男の子とよく遊んでいました。
中学はバスケットボールをしていました。
3歳ぐらいから水泳をやっていて区の大会ではよく優勝していました。
ほかのスポーツもいろいろやっていました。
江東区にカヌー部があり江東区へ通う中学に行ってれば入れるので参加していました。
反抗期もありましたが、成長の一環としてとらえるようにしました。
相手への思いやりのある大人になってもらいたいという思いがあり、明るく、文武両道を目指し、自分のできることをやって、人のためになることをやるというようなことを実行しなさいと言っていました。
医療的な分野に進んでもらいたいと思っていました。
高校でもカヌー部入っていましたが、高校1年の体育の授業中に事故に遭いました。
電話がありいろいろ症状を聞いて、病院に駆けつけました。
面会に行っても寝たきりで「歩くことはちょっと」、と言われてしまいました。
これから先は歩いたり走ったりすることができないんだと思いました。
家に帰ってからワンワン泣きました。
日常生活さえままならない状況になりました。
バリアーフリーになっていなかったので、仕事で出かけなければいけない時間帯もあるので、トイレに連れてゆくこともできなくておむつをするということに対していろいろ大変でした。
仕事もやめて、介護するようにして、徐々に外に出向くようになりました。
ペーパードライバーだったので車も購入して学校に送ってゆくようにしました。
すべてをこの子に費やしていかないと、という風な気持ちでやりました。
ある時期このままだと引きこもってゆくのではないかと思って、東京オリンピックパラリンピックが決まったのを見ていて、「水泳でパラリンピックを目指したらいいんじゃない」といったら、まだ受け入れられない頃だった様で、クッションみたいなものを投げつけられました。
ある時に意を決して、暗い表情をしていましたが、私が実践していましたが、朝ニコニコして患者さんに話しかけたりしていたので、「笑顔は副作用のない薬でしょう。」と言っていましたので、子どもにも実践しようと思いました。
ある時に駅員さんに手伝ってもらったときに、「ありがとう」と言って笑顔で答えたら、駅員さんが「どういたしまして、頑張って」といってくださったようです。
それで判って少しずつ、極力笑顔をつくるようにしていったら、笑顔が倍返しになってかえってきました。
ハワイに行った事があり、そこにはどこにもカヌーがありました。
江東区のカヌー連盟の事務局長からメールがあり、2020パラカヌーが採用されたので2020東京を目指しませんかということでした。
モニカは自分の体のことを考えたらできないと思っていたので、しばらく放っておいたが何回も来ました。
行って自分の体を見せれば納得できるだろうからと行ったら、カヌーにいろいろ工夫してあり漕いでみたらスーッと前に進んでいって、やれるかもしれないと自分の中で確信したみたいです。
それから「チームモニカ」ができてサポートしてくれる体制ができました。
そこから結構外に出るようにもなりました。
イタリア大会の一次選考で6位までが選ばれて、それ以外は翌年のドイツ大会で10位までにはいらないと選ばれませんでした。
モニカは11位でした。
リオデジャネイロに出られるということがわかりました。
10位の中国の選手が失格となり、モニカが繰り上がることができました。
どんなことが人間あっても最後まであきらめてはいけないということを身をもって体験しました。
日本からいろんなお菓子を持って行って地元の人たちにあげて、モニカを応援していただきました。
8位入賞でしたが、準備不足もあり本人は悔しがっていました。
2020を目指すにはどうしたらいいか、「チームモニカ」の作り直しました。
2019年のハンガリーの世界選手権で5位に入って内定という形になりました。
去年海の森で行われた大会でも、リオのイギリスのチャンピオンにも勝って5位入賞ができました。
今休学しているので、パラリンピックが終わったら筑波大に復学して卒業してからは、医学部に入ってリハリビ医になりたいと言っています。
私は今は仕事はしていないので、ボランティアでパラカヌーのことを生かしたことをやっていきたいと思っています。
競技としてのパラカヌーをもっと広げていきたいと思っています。
、
瀬立モニカ選手はいつも笑顔のアスリートです、コメントにも力があります。
どんな環境でどう育ったのでしょうか。
瀬立モニカさんの母親の瀬立キヌ子さんに伺いました。
看護師でシングルマザーでしたので、保育園に0歳時から預けていました。
とにかく体を動かすのが好きな子どもでした。
小学校から男の子とよく遊んでいました。
中学はバスケットボールをしていました。
3歳ぐらいから水泳をやっていて区の大会ではよく優勝していました。
ほかのスポーツもいろいろやっていました。
江東区にカヌー部があり江東区へ通う中学に行ってれば入れるので参加していました。
反抗期もありましたが、成長の一環としてとらえるようにしました。
相手への思いやりのある大人になってもらいたいという思いがあり、明るく、文武両道を目指し、自分のできることをやって、人のためになることをやるというようなことを実行しなさいと言っていました。
医療的な分野に進んでもらいたいと思っていました。
高校でもカヌー部入っていましたが、高校1年の体育の授業中に事故に遭いました。
電話がありいろいろ症状を聞いて、病院に駆けつけました。
面会に行っても寝たきりで「歩くことはちょっと」、と言われてしまいました。
これから先は歩いたり走ったりすることができないんだと思いました。
家に帰ってからワンワン泣きました。
日常生活さえままならない状況になりました。
バリアーフリーになっていなかったので、仕事で出かけなければいけない時間帯もあるので、トイレに連れてゆくこともできなくておむつをするということに対していろいろ大変でした。
仕事もやめて、介護するようにして、徐々に外に出向くようになりました。
ペーパードライバーだったので車も購入して学校に送ってゆくようにしました。
すべてをこの子に費やしていかないと、という風な気持ちでやりました。
ある時期このままだと引きこもってゆくのではないかと思って、東京オリンピックパラリンピックが決まったのを見ていて、「水泳でパラリンピックを目指したらいいんじゃない」といったら、まだ受け入れられない頃だった様で、クッションみたいなものを投げつけられました。
ある時に意を決して、暗い表情をしていましたが、私が実践していましたが、朝ニコニコして患者さんに話しかけたりしていたので、「笑顔は副作用のない薬でしょう。」と言っていましたので、子どもにも実践しようと思いました。
ある時に駅員さんに手伝ってもらったときに、「ありがとう」と言って笑顔で答えたら、駅員さんが「どういたしまして、頑張って」といってくださったようです。
それで判って少しずつ、極力笑顔をつくるようにしていったら、笑顔が倍返しになってかえってきました。
ハワイに行った事があり、そこにはどこにもカヌーがありました。
江東区のカヌー連盟の事務局長からメールがあり、2020パラカヌーが採用されたので2020東京を目指しませんかということでした。
モニカは自分の体のことを考えたらできないと思っていたので、しばらく放っておいたが何回も来ました。
行って自分の体を見せれば納得できるだろうからと行ったら、カヌーにいろいろ工夫してあり漕いでみたらスーッと前に進んでいって、やれるかもしれないと自分の中で確信したみたいです。
それから「チームモニカ」ができてサポートしてくれる体制ができました。
そこから結構外に出るようにもなりました。
イタリア大会の一次選考で6位までが選ばれて、それ以外は翌年のドイツ大会で10位までにはいらないと選ばれませんでした。
モニカは11位でした。
リオデジャネイロに出られるということがわかりました。
10位の中国の選手が失格となり、モニカが繰り上がることができました。
どんなことが人間あっても最後まであきらめてはいけないということを身をもって体験しました。
日本からいろんなお菓子を持って行って地元の人たちにあげて、モニカを応援していただきました。
8位入賞でしたが、準備不足もあり本人は悔しがっていました。
2020を目指すにはどうしたらいいか、「チームモニカ」の作り直しました。
2019年のハンガリーの世界選手権で5位に入って内定という形になりました。
去年海の森で行われた大会でも、リオのイギリスのチャンピオンにも勝って5位入賞ができました。
今休学しているので、パラリンピックが終わったら筑波大に復学して卒業してからは、医学部に入ってリハリビ医になりたいと言っています。
私は今は仕事はしていないので、ボランティアでパラカヌーのことを生かしたことをやっていきたいと思っています。
競技としてのパラカヌーをもっと広げていきたいと思っています。
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2020年4月12日日曜日
久本雅美(女優・タレント) ・【私のがむしゃら時代】
久本雅美(女優・タレント) ・【私のがむしゃら時代】(初回:2013/8/27)
TVや舞台で大活躍の久本雅美さんは昭和33年の大阪出身(61歳)。
子どものころから周を笑わすのが大好きだったという事ですが、お笑いの世界に入る積もりはなかったそうです。
転機はたまたま佐藤B作さん主宰の劇団東京ヴォードヴィルショーを見たこと。
それからは親の反対にも負けず上京、劇団員の募集が無いのにも関わらず押しの一手でついに団員になります。
その後劇団の若手たちとWAHAHA本舗を立ち上げますが、女性のお笑いタレントがそれほど多くない時代、試練が続きました。
人気が出てTVの仕事が忙しくなっても原点の舞台をおろそかにはしないと、笑いを届けるためにがむしゃらな日々が続く久本さんに伺いました。
父はトラックの運転手をしながら運送業、母は保育士でした。
兄弟3人です。
父の久本家はみんな明るく元気でした。
親戚中では私が一番無口だと言われていました。
私は完全な父親似です。
小学校1年生の時には静かでしたが、3,4年ぐらいから急に自分が前に出るようになって友達を集めてコントを作って発表したり、ギャグをつくったりドリフターズの真似をしたりしていました。
兎に角活発でした。
中学、高校でもワイワイやっていました。
この道に進むとは思わず、小学校の作文には男の人に交じって仕事がしたいと書いてあって、新聞記者と書いてありました。
短大の時にディスクジョッキーにもなりたいと思って話し方教室にも行きました。
話し方教室の友達が東京に行ってお芝居したいという事で一緒に行って、劇団東京ヴォードヴィルショーって面白いという事で二人で見に行きました。
そうしたらお腹を抱えて笑いました。
お笑いの劇団の女優さんになろうと、電撃が走りました。
22歳でしたが、親に内緒でお金を貯めて東京へ行く準備を進めて、2,3日前になって
話をしたら親が本当に驚きまして、劇団には通っていなかったが通ったと嘘をついて、弟がレンタカーを借りてきて、布団とちょっとした衣類、ラジカセだけを持って、友達の女性と出かけようとしたところに丁度親が来ましたが、「ちょっとドライブに」と言って東京にいってしまいました。
妹からの手紙があり、途中のドライブインで読んだら、「頑張ってね」という内容の手紙と一緒に5000円が入っていました。
当時妹は高校生だったので本当に貴重なお金で、それを見て泣けてしまいました。
ちょうどラジオから松山千春さんの「大空と大地の中で」という曲が流れてきて、「生きることがつらいとかいう前に、自分の足で生きて行け・・・」という、自分の心と曲がばっちりあって、応援歌に聞こえました。
*「大空と大地の中で」 作詞、作曲、歌:松山千春
友達と一緒に住んで、履歴書を持って劇団東京ヴォードヴィルショーの事務所、稽古場についたが、入る勇気がなかなかできなかったが、思い切って入って「東京ヴォードヴィルショーに入れてください」と言ったが誰もいなかった。
その後履歴書を渡して家に帰って来ました。
佐藤B作さんとの面接があり、「何ができるの」と言われたが、何にもできなかったが、「元気です」と大きな声で言ったら、何とか入団することができました。
やっぱりプロと素人の差はあって、しょっちゅう厳しく怒られていました。
ドンドン自信が無くなって、自分には才能がないのではないかと思って、辞めた方がいいのではないかなあと思う事はいっぱいありました。
意地もあったし、喰 始(たべ はじめ)さんからの励ましもあり、頑張っていきました。
いろいろ勉強もしましたが、やっぱり現場でのたたき上げで、やって失敗してその繰り返しの中から積み上げて行くという事は大きいと思います。
3年で辞めて1984年に劇団東京ボードヴィルショーのメンバーだった柴田理恵さんや佐藤正宏さんらと共にWAHAHA本舗を設立しました。
なかなか殻を崩せなかったが、二人羽織で顔を崩す舞台があり、それで一気に殻が破れましたが、2回、3回と客足は少なくなっていました。
大阪弁は封印されていたが、ある舞台で封印が解けて女子漫才をして、失敗に終わったらどうしようかと思いましたが、始まったら皆さん笑ってくれて感動しました。
TVの世界にも出られるようになりました。
舞台と比べてスピードの速さは半端ではなかったです。
あまりにも忙しくて、TVだけにしようかなと思った時もありましたが、或る舞台で演じて感動してこれが大事だと思って、原点に戻ってちゃんと舞台をやろうと思いました。
一番のファンは父と母だと思います、励まされました。
「実るほど頭を垂れる稲穂かな」何百回言わされたかわからないです、絶対謙虚になりなさいと言われていました。
母からは二つのことを言われました。
お金は大事だから価値ある使い方をしなさい、自分のために使うんだよと。
結婚はやらなくてもやってもどっちでもいい、但し彼氏を持ちなさい、心がギスギスするからと。
二つともできていないかもしれませんが。
私の目標は生涯現役でありたいと思っています。
結婚の夢もあきらめてはいません。
TVや舞台で大活躍の久本雅美さんは昭和33年の大阪出身(61歳)。
子どものころから周を笑わすのが大好きだったという事ですが、お笑いの世界に入る積もりはなかったそうです。
転機はたまたま佐藤B作さん主宰の劇団東京ヴォードヴィルショーを見たこと。
それからは親の反対にも負けず上京、劇団員の募集が無いのにも関わらず押しの一手でついに団員になります。
その後劇団の若手たちとWAHAHA本舗を立ち上げますが、女性のお笑いタレントがそれほど多くない時代、試練が続きました。
人気が出てTVの仕事が忙しくなっても原点の舞台をおろそかにはしないと、笑いを届けるためにがむしゃらな日々が続く久本さんに伺いました。
父はトラックの運転手をしながら運送業、母は保育士でした。
兄弟3人です。
父の久本家はみんな明るく元気でした。
親戚中では私が一番無口だと言われていました。
私は完全な父親似です。
小学校1年生の時には静かでしたが、3,4年ぐらいから急に自分が前に出るようになって友達を集めてコントを作って発表したり、ギャグをつくったりドリフターズの真似をしたりしていました。
兎に角活発でした。
中学、高校でもワイワイやっていました。
この道に進むとは思わず、小学校の作文には男の人に交じって仕事がしたいと書いてあって、新聞記者と書いてありました。
短大の時にディスクジョッキーにもなりたいと思って話し方教室にも行きました。
話し方教室の友達が東京に行ってお芝居したいという事で一緒に行って、劇団東京ヴォードヴィルショーって面白いという事で二人で見に行きました。
そうしたらお腹を抱えて笑いました。
お笑いの劇団の女優さんになろうと、電撃が走りました。
22歳でしたが、親に内緒でお金を貯めて東京へ行く準備を進めて、2,3日前になって
話をしたら親が本当に驚きまして、劇団には通っていなかったが通ったと嘘をついて、弟がレンタカーを借りてきて、布団とちょっとした衣類、ラジカセだけを持って、友達の女性と出かけようとしたところに丁度親が来ましたが、「ちょっとドライブに」と言って東京にいってしまいました。
妹からの手紙があり、途中のドライブインで読んだら、「頑張ってね」という内容の手紙と一緒に5000円が入っていました。
当時妹は高校生だったので本当に貴重なお金で、それを見て泣けてしまいました。
ちょうどラジオから松山千春さんの「大空と大地の中で」という曲が流れてきて、「生きることがつらいとかいう前に、自分の足で生きて行け・・・」という、自分の心と曲がばっちりあって、応援歌に聞こえました。
*「大空と大地の中で」 作詞、作曲、歌:松山千春
友達と一緒に住んで、履歴書を持って劇団東京ヴォードヴィルショーの事務所、稽古場についたが、入る勇気がなかなかできなかったが、思い切って入って「東京ヴォードヴィルショーに入れてください」と言ったが誰もいなかった。
その後履歴書を渡して家に帰って来ました。
佐藤B作さんとの面接があり、「何ができるの」と言われたが、何にもできなかったが、「元気です」と大きな声で言ったら、何とか入団することができました。
やっぱりプロと素人の差はあって、しょっちゅう厳しく怒られていました。
ドンドン自信が無くなって、自分には才能がないのではないかと思って、辞めた方がいいのではないかなあと思う事はいっぱいありました。
意地もあったし、喰 始(たべ はじめ)さんからの励ましもあり、頑張っていきました。
いろいろ勉強もしましたが、やっぱり現場でのたたき上げで、やって失敗してその繰り返しの中から積み上げて行くという事は大きいと思います。
3年で辞めて1984年に劇団東京ボードヴィルショーのメンバーだった柴田理恵さんや佐藤正宏さんらと共にWAHAHA本舗を設立しました。
なかなか殻を崩せなかったが、二人羽織で顔を崩す舞台があり、それで一気に殻が破れましたが、2回、3回と客足は少なくなっていました。
大阪弁は封印されていたが、ある舞台で封印が解けて女子漫才をして、失敗に終わったらどうしようかと思いましたが、始まったら皆さん笑ってくれて感動しました。
TVの世界にも出られるようになりました。
舞台と比べてスピードの速さは半端ではなかったです。
あまりにも忙しくて、TVだけにしようかなと思った時もありましたが、或る舞台で演じて感動してこれが大事だと思って、原点に戻ってちゃんと舞台をやろうと思いました。
一番のファンは父と母だと思います、励まされました。
「実るほど頭を垂れる稲穂かな」何百回言わされたかわからないです、絶対謙虚になりなさいと言われていました。
母からは二つのことを言われました。
お金は大事だから価値ある使い方をしなさい、自分のために使うんだよと。
結婚はやらなくてもやってもどっちでもいい、但し彼氏を持ちなさい、心がギスギスするからと。
二つともできていないかもしれませんが。
私の目標は生涯現役でありたいと思っています。
結婚の夢もあきらめてはいません。
2020年4月11日土曜日
山口文章(金剛峯寺 僧侶) ・「奇跡の森と真言密教」
山口文章(金剛峯寺 僧侶) ・「奇跡の森と真言密教」
1200年前に弘法大師空海が開いた真言密教の聖地高野山、高野山は標高800mの盆地でそれを取り囲む広大な森林は、人の手で守られてきた日本最古の人工林とも言われます。
もっとも古いものでは樹齢700年にもなる杉の大木が立ち並ぶ、全国でも類を見ない森です。
金剛峯寺 の僧侶山口さんは山林部という部署に所属し、この貴重な森を守っています。
高野山の森と真言密教の教えには深い繋がりがあると考える山口さん、大自然と共に歩んできた人生と真言密教の精神性について伺います。
金剛峯寺は昔から高野山を管理している山林が2000ヘクタールあります。
森林政策としては日本最古クラスの仕事をしていたと思います。
高野山は真言密教の根本道場ですから。
根本道場にふさわしい環境が大事です。
大学では農学部林学科で勉強していました。
日本全国の森林を勉強したり仕事をしに行ったりしましたが、どこにも該当しない様な森林です。
高野山の森林は奇跡の森で、物凄く高密度に植えられています。
本来ならあのようには育ちえないと言われています。
代々の山林部の人々、沢山の信者さんの力で集約的なお世話をしてきた結果と思います。
ほぼ毎日間伐作業が行われます。
高野山に117ある塔頭寺院の一つ報恩院の長男として生まれました。
子どもの頃大自然に囲まれて育ったことが自分の人生に影響していると思います。
遊び場は山の中しかなかった。
季節季節の山の香りを感じていた少年時代でした。
父からはお寺を継がなければ駄目だとは一回も言われませんでした。
12歳で仏門に入りました。
祖父から得度を受けました。
祖父は高野山の学問修行の師匠として多くの僧侶を育てました。
私は祖父の最後の弟子でした。
或る時に壇の上で祖父がポロポロ涙を流していて、どういう感覚なんだろうかという思いと、お寺に生まれたんだなあという感覚と、私もお寺をするんだなあという感覚があの時ありました。
県立高校で進路を決めかねずにいたときに、四手井綱英先生が書いた本に出合いました。
『進路の助言農学部 : ナチュラリストを志す若人へ』という農学部への案内の本でした。
四手井綱英先生は京都大学農学部教授で森林研究の第一人者として活躍しました。
本を見た瞬間に進路を決め、昭和55年京都府立大学農学部林学科に進学しました。
昭和55年の秋に四手井綱英先生が京都府立大学の学長としてこられることになり、運命的な出会いだと思って歓喜しました。
四手井綱英先生は「里山」という言葉の生みの親としても知られています。
直接の指導はありませんでしたが、見つけたら走って行っていろいろ聞きに行きました。
先生は現場主義者でした。
とちの実にはアルカロイド系の劇薬の成分が入っていて、食べると痺れます。
炭酸とか水にさらして毒を抜いてとち餅にして食べますが、同じ形をしているのに栗と違ってどうしてめんどくさいことをしてたべるのかと先生に聞きましたが、「これはな、神様が人間が食べるものと動物が食べるものをちゃんと分けてくれているものだ。」と言われました。
もっと大自然を考えなさい、人間も生きているが動物も生きているんだ、森もあって、空気もあって、太陽もあってみんな一緒なんだと、そういう事だと思います。
大学院まで進み林学の勉強をして平成元年大坂の材木の商社に就職しました。
全国の森林を回って観ることができました。
岩手県の湯田での山頂付近がはげ山になっていてどんなに植えても育たないところでした。
普通は苗木を植えると雪が積もって風から守ってくれるが、そこは風が強くて雪が積もらない。
物凄く冷たい風が吹くの木の中の水が凍ってしまって木の幹が割れてしまう。
しかし大きな切り株があり昔の人は育てる方法を知っていたということだった。
大自然の力を基本にしないとだめなんだという事だと思います、全部切ってしまうと駄目なんだという事だと思います。
会社に勤めて5年後に金剛峯寺から仕事の誘いが来ました。(32歳)
入って9年後に山林部の仕事を任されることになりました。
50年後、100年後、1000年後を見据えて山林部は管理すべきだと思っています。
1200年続いてきたことには訳があり、真言密教の神髄でもありますが、森林が持っている信仰の環境は絶対あると思います。
弘法大師が密教の大伽藍をここに建てようと思ったのは、大自然の力を受けやすいという事がここで確信できたからなんだと思います。
大日如来自体を宇宙の仏という事で、大宇宙の真理であり、大宇宙の不思議な力であるということで、いろんな力があり全部を含めて大日如来の現れだと考えるのが真言密教の考えです。
人間は動物としての本能的な大宇宙の力を感じ取れる力があるはずだが、あまり価値のないものだという風に評価されていると私は思っています。
本当の幸せを感じる力は、そういうものを感じる事が出来ないと、物質的なものだけでは幸せを感じる事は絶対できないと思います。
迷い、心配ごと、不安など、無明がすべての悪いものを生み出すという事を仏教ではあります。
「真言は不思議なり、甘受すれば無明を除く」
無明を除く為には甘受するための心を磨くという事、感覚(センサー)を綺麗にすることが必要な事かと思います。
「因縁」という言葉がありますが、本が私を森林に導いてくれましたし、高野山にもお世話になることができました。
振り返ったときにこうなるべきだったんだなあという感覚があります。
「因縁」がそうさせているんだと思います。
人との縁「仏縁」としては一般的に考えないが、一生人間が生きているのが幸せを感じるためだとすれば、幸せを感じるために生きているんだとすれば、すべての縁は絶対悪縁ではなくて良縁で等しく結び合うと考えていいんだと思います。
有難いという心を持つことが大事だと思います。
言葉では表しにくいが、気持ちいいという感覚をどれだけ気付けるか、どこにいても感じられるような瞬間を持てる状態を、自分で意識するという事が大事だと思います。
1200年前に弘法大師空海が開いた真言密教の聖地高野山、高野山は標高800mの盆地でそれを取り囲む広大な森林は、人の手で守られてきた日本最古の人工林とも言われます。
もっとも古いものでは樹齢700年にもなる杉の大木が立ち並ぶ、全国でも類を見ない森です。
金剛峯寺 の僧侶山口さんは山林部という部署に所属し、この貴重な森を守っています。
高野山の森と真言密教の教えには深い繋がりがあると考える山口さん、大自然と共に歩んできた人生と真言密教の精神性について伺います。
金剛峯寺は昔から高野山を管理している山林が2000ヘクタールあります。
森林政策としては日本最古クラスの仕事をしていたと思います。
高野山は真言密教の根本道場ですから。
根本道場にふさわしい環境が大事です。
大学では農学部林学科で勉強していました。
日本全国の森林を勉強したり仕事をしに行ったりしましたが、どこにも該当しない様な森林です。
高野山の森林は奇跡の森で、物凄く高密度に植えられています。
本来ならあのようには育ちえないと言われています。
代々の山林部の人々、沢山の信者さんの力で集約的なお世話をしてきた結果と思います。
ほぼ毎日間伐作業が行われます。
高野山に117ある塔頭寺院の一つ報恩院の長男として生まれました。
子どもの頃大自然に囲まれて育ったことが自分の人生に影響していると思います。
遊び場は山の中しかなかった。
季節季節の山の香りを感じていた少年時代でした。
父からはお寺を継がなければ駄目だとは一回も言われませんでした。
12歳で仏門に入りました。
祖父から得度を受けました。
祖父は高野山の学問修行の師匠として多くの僧侶を育てました。
私は祖父の最後の弟子でした。
或る時に壇の上で祖父がポロポロ涙を流していて、どういう感覚なんだろうかという思いと、お寺に生まれたんだなあという感覚と、私もお寺をするんだなあという感覚があの時ありました。
県立高校で進路を決めかねずにいたときに、四手井綱英先生が書いた本に出合いました。
『進路の助言農学部 : ナチュラリストを志す若人へ』という農学部への案内の本でした。
四手井綱英先生は京都大学農学部教授で森林研究の第一人者として活躍しました。
本を見た瞬間に進路を決め、昭和55年京都府立大学農学部林学科に進学しました。
昭和55年の秋に四手井綱英先生が京都府立大学の学長としてこられることになり、運命的な出会いだと思って歓喜しました。
四手井綱英先生は「里山」という言葉の生みの親としても知られています。
直接の指導はありませんでしたが、見つけたら走って行っていろいろ聞きに行きました。
先生は現場主義者でした。
とちの実にはアルカロイド系の劇薬の成分が入っていて、食べると痺れます。
炭酸とか水にさらして毒を抜いてとち餅にして食べますが、同じ形をしているのに栗と違ってどうしてめんどくさいことをしてたべるのかと先生に聞きましたが、「これはな、神様が人間が食べるものと動物が食べるものをちゃんと分けてくれているものだ。」と言われました。
もっと大自然を考えなさい、人間も生きているが動物も生きているんだ、森もあって、空気もあって、太陽もあってみんな一緒なんだと、そういう事だと思います。
大学院まで進み林学の勉強をして平成元年大坂の材木の商社に就職しました。
全国の森林を回って観ることができました。
岩手県の湯田での山頂付近がはげ山になっていてどんなに植えても育たないところでした。
普通は苗木を植えると雪が積もって風から守ってくれるが、そこは風が強くて雪が積もらない。
物凄く冷たい風が吹くの木の中の水が凍ってしまって木の幹が割れてしまう。
しかし大きな切り株があり昔の人は育てる方法を知っていたということだった。
大自然の力を基本にしないとだめなんだという事だと思います、全部切ってしまうと駄目なんだという事だと思います。
会社に勤めて5年後に金剛峯寺から仕事の誘いが来ました。(32歳)
入って9年後に山林部の仕事を任されることになりました。
50年後、100年後、1000年後を見据えて山林部は管理すべきだと思っています。
1200年続いてきたことには訳があり、真言密教の神髄でもありますが、森林が持っている信仰の環境は絶対あると思います。
弘法大師が密教の大伽藍をここに建てようと思ったのは、大自然の力を受けやすいという事がここで確信できたからなんだと思います。
大日如来自体を宇宙の仏という事で、大宇宙の真理であり、大宇宙の不思議な力であるということで、いろんな力があり全部を含めて大日如来の現れだと考えるのが真言密教の考えです。
人間は動物としての本能的な大宇宙の力を感じ取れる力があるはずだが、あまり価値のないものだという風に評価されていると私は思っています。
本当の幸せを感じる力は、そういうものを感じる事が出来ないと、物質的なものだけでは幸せを感じる事は絶対できないと思います。
迷い、心配ごと、不安など、無明がすべての悪いものを生み出すという事を仏教ではあります。
「真言は不思議なり、甘受すれば無明を除く」
無明を除く為には甘受するための心を磨くという事、感覚(センサー)を綺麗にすることが必要な事かと思います。
「因縁」という言葉がありますが、本が私を森林に導いてくれましたし、高野山にもお世話になることができました。
振り返ったときにこうなるべきだったんだなあという感覚があります。
「因縁」がそうさせているんだと思います。
人との縁「仏縁」としては一般的に考えないが、一生人間が生きているのが幸せを感じるためだとすれば、幸せを感じるために生きているんだとすれば、すべての縁は絶対悪縁ではなくて良縁で等しく結び合うと考えていいんだと思います。
有難いという心を持つことが大事だと思います。
言葉では表しにくいが、気持ちいいという感覚をどれだけ気付けるか、どこにいても感じられるような瞬間を持てる状態を、自分で意識するという事が大事だと思います。
2020年4月10日金曜日
泉和夫(元JR東日本広報) ・「人生の旅、駅弁の掛紙とともに」
泉和夫(元JR東日本広報) ・「人生の旅、駅弁の掛紙とともに」
4月10日は駅弁の日です。
掛け紙とは駅弁の上に載っている包み紙のことです。
現代のように情報が発達していなかった時代は、街の観光案内や広告の役割を担っていてその時代や世相を知らす媒体でもあったそうです。
只食べ終わった後には弁当の空箱と一緒に捨てられてしまう掛紙、この掛紙をこつこつと収集して1万枚以上集めた人がいます。
JR東日本の広報を担当していた泉和夫さん(64歳)です。
中学生から収集を始めて人生の傍らにはいつも駅弁の掛紙がありました。
掛紙は日本の食文化、と語る泉さんに伺いました。
平成5年に、一般社団法人の日本鉄道構内営業中央会という駅弁屋さんの団体があり、4月10日は駅弁の日と決めました。
駅弁を初めて販売した日が明確でなく、弁を分解すると弁=(ムと十?)という事で4月10日を駅弁の日に決めました。
昭和10年代の今治駅の二葉弁当の掛け紙が特に貴重で、戦前の駅弁の紙を集めた事は無かった。
30銭の掛紙になります。
ある百貨店の古本市で何気なく見ていたら、上等弁当(鯛の弁当で有名)をまだ売っているという事に驚いて、なんで二葉なのかと言うと九州の大友宗麟(義鎮)という大名のゆかりのある家らしく「立葵」の家紋で三つ葉は恐れ多いので二葉にしたという逸話を聞きました。
一枚の紙からそんな物語も潜んでいるというのが奥が深いと思っています。
当時は掛紙が無いと売れなかったようです。
明治から親しまれたものです。
観光案内や広告の役割をしていました。
近辺の名所案内、距離(何里とか)が書いてあります。
柳行李(衣装ケース)にはローマ字で名前を書いてくれと、駅弁の紙に書いてありまして、間違えたり,盗られれたりしないようにするためという事です。
御注意書きがあり窓から捨てないで腰掛の下に置くようにとか、いろいろ書かれています。
戦争当時には父が駅弁に関して御馳走と言う思いがあり、おいしそうに食べていてそこから私も駅弁が好きになりました。
幕ノ内弁当の中には3つ入っていなくてはいけないものがあり、卵焼き、カマボコ、焼き魚です。
掛紙の色んなデザインに感動して集めるようになりました。
高校の時に夜行列車で独り旅に行って、お腹がすいているときに沼津で駅弁を買いました。
当時幕ノ内弁当が200円で自分のお金で買った最初のもので思い出のあるものでした。
その掛紙も宝になっています。
旅の思い出、味が心に刻まれて、みんな持っているのではないかと思います。
駅弁は列車と言う動く空間で景色を見ながら食べるという事は贅沢なことだと思っています。
車窓風景を見ながら食べるという事は格段においしく感じていて、駅弁の持っているマジックなのかなあと感じます。
昭和50年に国鉄に入って平成28年にJR東日本を退職するまで主に広報を担当。
昭和62年4月1日に国鉄から民営化されましたが、実感はすぐには来なかったですね。
独身寮の寮長も何年か担当しましたが、その時に駅弁製造をやっている方々と親しくなってよりのめり込みました。
何かに打ち込むことは人生においては大切なことだと思います。
生きる励みになるし、知識がひろくなり人生が豊かになります。
人と人を繋ぐツールにもなると思います。
平成28年に東京駅がリニューアルして200種類以上のお弁当が並んでします。
地方だけでは売れない数が東京駅だと相当の数が売れます。
列車の窓が開けられなくなり、停車時間が短くなり、列車に乗って買うというのは至難の業となり、東京駅で売れれば弁当屋さんにとっては元気になれると思います。
100年以上同じ弁当とか、郷土色を生かした弁当とかいろいろあります。
交通運輸業界の総合専門誌にコラムを執筆しています。
掛紙について月に2回連載して150回ぐらいを越えています。
エピソード、風景などから物語を書いています。
蒸気機関車と掛紙との取り合わせたことを今後書きたいと思っています。
4月10日は駅弁の日です。
掛け紙とは駅弁の上に載っている包み紙のことです。
現代のように情報が発達していなかった時代は、街の観光案内や広告の役割を担っていてその時代や世相を知らす媒体でもあったそうです。
只食べ終わった後には弁当の空箱と一緒に捨てられてしまう掛紙、この掛紙をこつこつと収集して1万枚以上集めた人がいます。
JR東日本の広報を担当していた泉和夫さん(64歳)です。
中学生から収集を始めて人生の傍らにはいつも駅弁の掛紙がありました。
掛紙は日本の食文化、と語る泉さんに伺いました。
平成5年に、一般社団法人の日本鉄道構内営業中央会という駅弁屋さんの団体があり、4月10日は駅弁の日と決めました。
駅弁を初めて販売した日が明確でなく、弁を分解すると弁=(ムと十?)という事で4月10日を駅弁の日に決めました。
昭和10年代の今治駅の二葉弁当の掛け紙が特に貴重で、戦前の駅弁の紙を集めた事は無かった。
30銭の掛紙になります。
ある百貨店の古本市で何気なく見ていたら、上等弁当(鯛の弁当で有名)をまだ売っているという事に驚いて、なんで二葉なのかと言うと九州の大友宗麟(義鎮)という大名のゆかりのある家らしく「立葵」の家紋で三つ葉は恐れ多いので二葉にしたという逸話を聞きました。
一枚の紙からそんな物語も潜んでいるというのが奥が深いと思っています。
当時は掛紙が無いと売れなかったようです。
明治から親しまれたものです。
観光案内や広告の役割をしていました。
近辺の名所案内、距離(何里とか)が書いてあります。
柳行李(衣装ケース)にはローマ字で名前を書いてくれと、駅弁の紙に書いてありまして、間違えたり,盗られれたりしないようにするためという事です。
御注意書きがあり窓から捨てないで腰掛の下に置くようにとか、いろいろ書かれています。
戦争当時には父が駅弁に関して御馳走と言う思いがあり、おいしそうに食べていてそこから私も駅弁が好きになりました。
幕ノ内弁当の中には3つ入っていなくてはいけないものがあり、卵焼き、カマボコ、焼き魚です。
掛紙の色んなデザインに感動して集めるようになりました。
高校の時に夜行列車で独り旅に行って、お腹がすいているときに沼津で駅弁を買いました。
当時幕ノ内弁当が200円で自分のお金で買った最初のもので思い出のあるものでした。
その掛紙も宝になっています。
旅の思い出、味が心に刻まれて、みんな持っているのではないかと思います。
駅弁は列車と言う動く空間で景色を見ながら食べるという事は贅沢なことだと思っています。
車窓風景を見ながら食べるという事は格段においしく感じていて、駅弁の持っているマジックなのかなあと感じます。
昭和50年に国鉄に入って平成28年にJR東日本を退職するまで主に広報を担当。
昭和62年4月1日に国鉄から民営化されましたが、実感はすぐには来なかったですね。
独身寮の寮長も何年か担当しましたが、その時に駅弁製造をやっている方々と親しくなってよりのめり込みました。
何かに打ち込むことは人生においては大切なことだと思います。
生きる励みになるし、知識がひろくなり人生が豊かになります。
人と人を繋ぐツールにもなると思います。
平成28年に東京駅がリニューアルして200種類以上のお弁当が並んでします。
地方だけでは売れない数が東京駅だと相当の数が売れます。
列車の窓が開けられなくなり、停車時間が短くなり、列車に乗って買うというのは至難の業となり、東京駅で売れれば弁当屋さんにとっては元気になれると思います。
100年以上同じ弁当とか、郷土色を生かした弁当とかいろいろあります。
交通運輸業界の総合専門誌にコラムを執筆しています。
掛紙について月に2回連載して150回ぐらいを越えています。
エピソード、風景などから物語を書いています。
蒸気機関車と掛紙との取り合わせたことを今後書きたいと思っています。
2020年4月9日木曜日
竹下資子(NPO法人代表理事 元スクリプター)・「日本映画のこころを残したい」
竹下資子(NPO法人代表理事 元スクリプター)・「日本映画のこころを残したい」
竹下さんは東映や日活など日本映画を作る現場で、スクリプター(記録係)として働いていました。
久松静児監督や山本薩夫監督など数々の名監督と仕事をともにした経験から古き良き日本映画の心を伝えたいと様々な活動を行っています。
その一つが「監名会」(監督と名画を観る会)です。
過去の名作を監督や俳優など関係者に話を聞きながら観るというもので、1981年から開催し143回を数えます。
竹下さんが伝えたい日本映画の心とはどんなものなのでしょうか。
スクリプター(記録係)というのは、撮影現場の流れをすべて記録して、そこにいない編集部さんに伝えてそれを観て編集部さんが編集してゆく、と言うのが本来の目的だったらしいです。
映画は殆どバラバラに撮ってゆくものですから、共有して覚えて居られないので、それにこたえるように細かい場面の状況などをいってあげるようにしています。
凄いエキスパートの俳優さんには「いちいち注意に来なくても大丈夫だよ」、と言ってくれる人もいます。
高校卒業後、在京キー局で経理の仕事をしていました。
麹町にある中学校に通っていた時に日本TVの社屋を建て始めました。
私の行っていた学校で入社試験が行われて、そろばんができたので経理なら入ってほしいという事でした。
高校時代まで演劇部で演出などをやっていたので興味はあったが、経理の方に行くことになりました。
監督を目指すにはやっぱり大学を出た方がいいと思って、お金をためて明治大学の演劇に入りました。
紹介してもらって東映の下請けに行きました。
女性として助監督の道が無くてスクリプターがいいのではないかという事になりました。
常に監督の横にいて監督の分身みたいな感じでした。
たまたまいい監督に恵まれました。
スクリプターを辞めてしまおうかなあと言う時期がありました。
怒鳴られる、あざけられるという事がままありました。
日活に移籍して、最初ついたのが吉村公三郎さんとか久松静児さんとかでした。
私を指名してくださるようになりました。
山本薩夫監督の「金環食」(九頭竜川ダム汚職事件をモデルに、保守政党の総裁選挙に端を発した汚職事件を描いたという映画)についた時には200人を超えるスタッフ、キャストを率いて、その時にいろいろ池田勇人さんとか田中角栄さんとか色んな政治家たちの役を振られた人たちが服装から煙草ののみかたから研究してきていました。
山本薩夫監督と宇野重吉さんとは戦友だったそうですが、お互いに譲れないところがあるようで、そういう現場を思い出すたびに、監督も命を懸けていたしスタッフも監督の目指す方向を観て従って行ってそれは凄く印象に残っています。
スクリプターを10年間やって辞めることにしました。
数年後「監名会」(監督と名画を観る会)を主宰しました。
映画を観る時には出る俳優さんで映画を観に行ったと思うんですが、監督あってこそだと分かったんで、こんなすごい監督が映画を作っているんだという事を伝えたいと思いました。
1981年から始めて間もなく40年になります。
143回続いています。
監督がお亡くなりになっている場合はその関係者にお願いしています。
古い映画を掛ければかけるほど、「新しいですね」と言われます。
今風の内容なんです。
演技も小気味のいい演技で今通用する映画という感じです。
2002年から「子どもシネマスクール」を始めています。
映画・映像制作体験事業では、子どもたちがプロと一緒に映画の制作を体験するシネマスクールを開催しています。
「監名会」では段々年配者が多くて半減していったので、つなげなければいけないと思って、昔の傑作映画を観ることが一番の勉強になるので、観るだけではなくて、照明とか色んな助手に付いたりして13話まで続けてきて、14話は講座だけにして映画の作り方などを教えました。
15話はシネマスクールのプロたちも歳を取ってきてしまいましたが、今準備しています。
実際に、映像の世界に進み、毎年シネマスクールを手伝ってくれている卒業生もいます。
好きなことを努力というよりは無我夢中でやってきました。
子どもたちにつなげていきたい。
日本の最高の監督が、命がけで撮った過去の名作映画を子どもたちにもみてもらって学んでもらいたいですね
竹下さんは東映や日活など日本映画を作る現場で、スクリプター(記録係)として働いていました。
久松静児監督や山本薩夫監督など数々の名監督と仕事をともにした経験から古き良き日本映画の心を伝えたいと様々な活動を行っています。
その一つが「監名会」(監督と名画を観る会)です。
過去の名作を監督や俳優など関係者に話を聞きながら観るというもので、1981年から開催し143回を数えます。
竹下さんが伝えたい日本映画の心とはどんなものなのでしょうか。
スクリプター(記録係)というのは、撮影現場の流れをすべて記録して、そこにいない編集部さんに伝えてそれを観て編集部さんが編集してゆく、と言うのが本来の目的だったらしいです。
映画は殆どバラバラに撮ってゆくものですから、共有して覚えて居られないので、それにこたえるように細かい場面の状況などをいってあげるようにしています。
凄いエキスパートの俳優さんには「いちいち注意に来なくても大丈夫だよ」、と言ってくれる人もいます。
高校卒業後、在京キー局で経理の仕事をしていました。
麹町にある中学校に通っていた時に日本TVの社屋を建て始めました。
私の行っていた学校で入社試験が行われて、そろばんができたので経理なら入ってほしいという事でした。
高校時代まで演劇部で演出などをやっていたので興味はあったが、経理の方に行くことになりました。
監督を目指すにはやっぱり大学を出た方がいいと思って、お金をためて明治大学の演劇に入りました。
紹介してもらって東映の下請けに行きました。
女性として助監督の道が無くてスクリプターがいいのではないかという事になりました。
常に監督の横にいて監督の分身みたいな感じでした。
たまたまいい監督に恵まれました。
スクリプターを辞めてしまおうかなあと言う時期がありました。
怒鳴られる、あざけられるという事がままありました。
日活に移籍して、最初ついたのが吉村公三郎さんとか久松静児さんとかでした。
私を指名してくださるようになりました。
山本薩夫監督の「金環食」(九頭竜川ダム汚職事件をモデルに、保守政党の総裁選挙に端を発した汚職事件を描いたという映画)についた時には200人を超えるスタッフ、キャストを率いて、その時にいろいろ池田勇人さんとか田中角栄さんとか色んな政治家たちの役を振られた人たちが服装から煙草ののみかたから研究してきていました。
山本薩夫監督と宇野重吉さんとは戦友だったそうですが、お互いに譲れないところがあるようで、そういう現場を思い出すたびに、監督も命を懸けていたしスタッフも監督の目指す方向を観て従って行ってそれは凄く印象に残っています。
スクリプターを10年間やって辞めることにしました。
数年後「監名会」(監督と名画を観る会)を主宰しました。
映画を観る時には出る俳優さんで映画を観に行ったと思うんですが、監督あってこそだと分かったんで、こんなすごい監督が映画を作っているんだという事を伝えたいと思いました。
1981年から始めて間もなく40年になります。
143回続いています。
監督がお亡くなりになっている場合はその関係者にお願いしています。
古い映画を掛ければかけるほど、「新しいですね」と言われます。
今風の内容なんです。
演技も小気味のいい演技で今通用する映画という感じです。
2002年から「子どもシネマスクール」を始めています。
映画・映像制作体験事業では、子どもたちがプロと一緒に映画の制作を体験するシネマスクールを開催しています。
「監名会」では段々年配者が多くて半減していったので、つなげなければいけないと思って、昔の傑作映画を観ることが一番の勉強になるので、観るだけではなくて、照明とか色んな助手に付いたりして13話まで続けてきて、14話は講座だけにして映画の作り方などを教えました。
15話はシネマスクールのプロたちも歳を取ってきてしまいましたが、今準備しています。
実際に、映像の世界に進み、毎年シネマスクールを手伝ってくれている卒業生もいます。
好きなことを努力というよりは無我夢中でやってきました。
子どもたちにつなげていきたい。
日本の最高の監督が、命がけで撮った過去の名作映画を子どもたちにもみてもらって学んでもらいたいですね
2020年4月8日水曜日
さとう宗幸(歌手) ・「青葉城恋唄と共に43年」
さとう宗幸(歌手) ・「青葉城恋唄と共に43年」
昭和52年佐藤さんは大学卒後就職した東京の会社を辞めて、大好きな歌で生きていこうと、故郷宮城県の仙台で歌声喫茶で働きながら、NHK仙台放送局のラジオ番組「FMリクエストアワー」のディスクジョッキーを務めていました。
その番組に寄せられた詩が「青葉城恋唄」です。
その詩に曲をつけて歌ったことで、佐藤さんの人生が大きく変わります。
故郷の人は地震や災害で宮城県が傷つくたびにこの歌を口ずさみ、自らを励ましてきました。
「青葉城恋唄」誕生秘話とその歌が復興ソングとして大きくなっていく過程、さらに71歳になった佐藤さんが今後どう生きたいのかをギターで弾き語りする青葉城恋歌と共にお送りします。
1978年(29歳)の時に「青葉城恋唄」でした。
就職した東京の会社を1年で辞めて戻ってきました。
表面的には激変したように感じるかもしれませんが、心の内では常に仙台を拠点にしてそれほどの変化はなかったと思っています。
音楽活動をするんだったら、音楽環境としては東京でやるよりも仙台でやる方がベターだと思っていました。
昭和53年5月にデビューして、東京に出て来てほしいと様な事は一切言われなかったし、僕の空気の中で言わせない様な雰囲気があったのかもしれません。
東京に仕事があっても新幹線が無い時代でしたが、それでも朝行って戻るようにしていました。
「青葉城恋唄」との出会いは仕事を激変させたところはあるかもしれない。
NHK仙台放送局のラジオ番組「FMリクエストアワー」に出てみないかと言われたことは自分にとって大きなきっかけだったしチャンスでした。
始めた当初1週間に10通程度しか手紙が来なくてしょげていたら、ディレクターがこの1通のバックに200人ついているんだよと言われて、それを聞いて本当に嬉しかったです。
3時間の番組なので作詞作曲のコーナーを毎週やろうという事でやっていたら、星間船一さんから詩が届けられました。
完成度の高い詩で、曲を仕上げるまで10分もかからなかったです。
「・・・瀬音ゆかしき青葉城仙台」というところが気になって「・・・瀬音ゆかしき杜の都」に変えただけです。
杜の都 仙台と言うのが全国に知れ渡りました。
詩と曲のバランスが凄くいいバランスで仕上がったと思います。
こんなに大化けするとは思っていませんでした。
リクエストが増えてきて毎週歌うようになりました。
楽譜が欲しいという方が増えてきて、オープンスタジオにも多くの人が来るようになりました。
レコーディングの流れまではアッという間でした。
世の中に知らしめなくてはという事でディレクターがダークダックスとの競作と言う戦略をとりました。
実はという事で、後追いでのデビューとなりました。
朝のNHKの「スタジオ102」で青葉城の中で僕がギターを抱えて杉木立の中を歌いながら歩いたのをニュース番組のなかで放映されて、それから全国のレコード店からの注文がとんでもなかったらしいです。
仙台に僕が住んでいるという事を強く感じてくれたのかなあと思います。
詩の世界が青春時代の懐かしさも伴ったのかなあとも思います。
*「青葉城恋唄」 作詞:星間船一 作曲、歌:さとう宗幸
「青葉城恋唄」ができた直後に宮城県沖地震、2011年のは東日本大震災、昨年は豪雨で仙台の人、風景が傷つきました。
宮城県沖地震の時には家に電話しても繋がらなくて心配しましたが、この歌を聞いて励まされたとかと言う話を多くの人から頂きました。
東日本大震災の時には、仙台で番組をやっていましたが、兎に角一番最初にこの歌を歌おうという事になりました。
歌詞の中に「・・・もうあの人はいない」ですよね。
頭の中には全然なくて、歌った直後に電話、メールをいただいて、そのころの一週間から10日は全く日常というものが無くて、「青葉城恋唄」を聞いて、こういう日常もあったよねという内容の電話、メールを一杯頂きまして、音楽の持っている大きさ 、強さを改めて思い知らされました。
「青葉城恋唄」を歌う前で涙してくれているあの子(女子高生)の姿を見たときに、「青葉城恋唄」に新しい息吹をふっと送ってくれたなあという気がして、胸が熱くなってしまいました。
避難所、仮設住宅等で「青葉城恋唄」を歌うと、一緒に口ずさんでくれたりして繋がっていることを感じます。
若者は当時と変わってきているとは思います。
当時と比べるとフリーダムですね。
自分の周りの環境に満足しているような雰囲気が今の子たちにはあるような気がします。
失敗を怖がる風潮はあるような気がします。
失敗することを怖がってはいけないと思います。
僕は「青葉城恋唄」に巡り合わなくても苦労しながら歌っていたかもしれません。
夢を追い続けるという目標があったからこそ、詩が舞い込んできたという事があるのかもしれません。
基本的な姿勢はシンガーであると思い続けています。
昭和52年佐藤さんは大学卒後就職した東京の会社を辞めて、大好きな歌で生きていこうと、故郷宮城県の仙台で歌声喫茶で働きながら、NHK仙台放送局のラジオ番組「FMリクエストアワー」のディスクジョッキーを務めていました。
その番組に寄せられた詩が「青葉城恋唄」です。
その詩に曲をつけて歌ったことで、佐藤さんの人生が大きく変わります。
故郷の人は地震や災害で宮城県が傷つくたびにこの歌を口ずさみ、自らを励ましてきました。
「青葉城恋唄」誕生秘話とその歌が復興ソングとして大きくなっていく過程、さらに71歳になった佐藤さんが今後どう生きたいのかをギターで弾き語りする青葉城恋歌と共にお送りします。
1978年(29歳)の時に「青葉城恋唄」でした。
就職した東京の会社を1年で辞めて戻ってきました。
表面的には激変したように感じるかもしれませんが、心の内では常に仙台を拠点にしてそれほどの変化はなかったと思っています。
音楽活動をするんだったら、音楽環境としては東京でやるよりも仙台でやる方がベターだと思っていました。
昭和53年5月にデビューして、東京に出て来てほしいと様な事は一切言われなかったし、僕の空気の中で言わせない様な雰囲気があったのかもしれません。
東京に仕事があっても新幹線が無い時代でしたが、それでも朝行って戻るようにしていました。
「青葉城恋唄」との出会いは仕事を激変させたところはあるかもしれない。
NHK仙台放送局のラジオ番組「FMリクエストアワー」に出てみないかと言われたことは自分にとって大きなきっかけだったしチャンスでした。
始めた当初1週間に10通程度しか手紙が来なくてしょげていたら、ディレクターがこの1通のバックに200人ついているんだよと言われて、それを聞いて本当に嬉しかったです。
3時間の番組なので作詞作曲のコーナーを毎週やろうという事でやっていたら、星間船一さんから詩が届けられました。
完成度の高い詩で、曲を仕上げるまで10分もかからなかったです。
「・・・瀬音ゆかしき青葉城仙台」というところが気になって「・・・瀬音ゆかしき杜の都」に変えただけです。
杜の都 仙台と言うのが全国に知れ渡りました。
詩と曲のバランスが凄くいいバランスで仕上がったと思います。
こんなに大化けするとは思っていませんでした。
リクエストが増えてきて毎週歌うようになりました。
楽譜が欲しいという方が増えてきて、オープンスタジオにも多くの人が来るようになりました。
レコーディングの流れまではアッという間でした。
世の中に知らしめなくてはという事でディレクターがダークダックスとの競作と言う戦略をとりました。
実はという事で、後追いでのデビューとなりました。
朝のNHKの「スタジオ102」で青葉城の中で僕がギターを抱えて杉木立の中を歌いながら歩いたのをニュース番組のなかで放映されて、それから全国のレコード店からの注文がとんでもなかったらしいです。
仙台に僕が住んでいるという事を強く感じてくれたのかなあと思います。
詩の世界が青春時代の懐かしさも伴ったのかなあとも思います。
*「青葉城恋唄」 作詞:星間船一 作曲、歌:さとう宗幸
「青葉城恋唄」ができた直後に宮城県沖地震、2011年のは東日本大震災、昨年は豪雨で仙台の人、風景が傷つきました。
宮城県沖地震の時には家に電話しても繋がらなくて心配しましたが、この歌を聞いて励まされたとかと言う話を多くの人から頂きました。
東日本大震災の時には、仙台で番組をやっていましたが、兎に角一番最初にこの歌を歌おうという事になりました。
歌詞の中に「・・・もうあの人はいない」ですよね。
頭の中には全然なくて、歌った直後に電話、メールをいただいて、そのころの一週間から10日は全く日常というものが無くて、「青葉城恋唄」を聞いて、こういう日常もあったよねという内容の電話、メールを一杯頂きまして、音楽の持っている大きさ 、強さを改めて思い知らされました。
「青葉城恋唄」を歌う前で涙してくれているあの子(女子高生)の姿を見たときに、「青葉城恋唄」に新しい息吹をふっと送ってくれたなあという気がして、胸が熱くなってしまいました。
避難所、仮設住宅等で「青葉城恋唄」を歌うと、一緒に口ずさんでくれたりして繋がっていることを感じます。
若者は当時と変わってきているとは思います。
当時と比べるとフリーダムですね。
自分の周りの環境に満足しているような雰囲気が今の子たちにはあるような気がします。
失敗を怖がる風潮はあるような気がします。
失敗することを怖がってはいけないと思います。
僕は「青葉城恋唄」に巡り合わなくても苦労しながら歌っていたかもしれません。
夢を追い続けるという目標があったからこそ、詩が舞い込んできたという事があるのかもしれません。
基本的な姿勢はシンガーであると思い続けています。
2020年4月7日火曜日
小和田哲男(歴史学者) ・「戦国と現代をつなぐ放送文化」(初回2019/3/28)
小和田哲男(歴史学者) ・「戦国と現代をつなぐ放送文化」(初回2019/3/28)
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2019/03/blog-post_28.htmlを御覧ください。
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2019/03/blog-post_28.htmlを御覧ください。
2020年4月6日月曜日
穂村弘(歌人) ・【ほむほむのふむふむ】歌人 馬場あき子
穂村弘(歌人) ・【ほむほむのふむふむ】歌人 馬場あき子
1928年(昭和3年)東京生まれ、日本女子専門学校(現・昭和女子大学)国文科に入学、在学中の昭和22年に「まひる野」に入会、窪田章一郎に師事、同時期にお能の喜多流宗家に入門、喜多実に習う。
大学卒業後は中学、高校の教員を務め、退職後は昭和53年短歌結社「かりん」主宰。
古典,能、民俗学に造詣が深く、昭和30年に刊行した第一歌集『早笛』から平成30年の『朝餉夕餉』まで歌集は27冊。
これまでに第20回迢空賞、読売文学賞など受賞して朝日歌壇の選者を40年以上にわたって務めています。
日本芸術院会員であり去年古典的流麗さをそなえて説得力を持つ短歌を創作し、短歌の普及にも力を注いだと文化功労者になりました。
92歳です。
穂村:評論も素晴らしくて、論理と情緒みたいなものが同時にあったり、古典に精通されていて、戦後の民主主義の洗礼を受けたトップランナーでもあり続けている、大きな存在だと思っています。
馬場:歌の数は1万2000首ですが、与謝野晶子は私より若くて3万首ですから。
今は日本語を操るのは難しい時代かもしれませんね。
与謝野晶子の晩年の「白桜集」は現代短歌の一つの土台として吸収され日常化しているところがあります。
晩年の作風が今の女性の土台になっていると思います。
「 一 尺の雷魚を裂きて冷(れい)冷(れい)と夜のくりやに水流すなり」 馬場あき子
穂村:或る時代までは台所は女性の持ち場で、刃物も女性のものだった。
孤独な感じがする歌ですね、詠むとシーンとするような歌だと思います。
馬場:23,4歳の頃の歌だったと思います。
父と一緒に行ったときに獲れた魚で、寒い時で板の上にのせて、身体が凍るような中でこれしか食べるものがないという様な切迫した感情が自分では籠っています。
「ましろなる封筒に向ひ必要君が名を書かむとしスタンドの位置かへて書く」 馬場あき子
穂村:ラブレターを書いているんだと思います、文字を大事に書いている感じがあると思う。 可憐な歌だと思います。
馬場:このころの女性の感覚は恥ずかしいぐらい恋に対して縮こまっていました。
戦争が終わって私たちの上の世代の人はみんな独身で、結婚する相手がいなかった。
窪田章一郎はとても私を大事にしてくれて、推薦者の第一でした。
当時日本的なウエットな抒情を排するというのが世間一般傾向でドライになれというのが傾向でした。
甘っちょろいという様に評価されたのではないでしょうか。
「夭死せし母のほほえみ空にみちわれに尾花の髪白みそむ」 馬場あき子
穂村:お母さんを幼いころなくされていて、記憶にないという事らしい。
おぼろげなはずの母のほほえみが空一杯に満ちているような見守っているような感じがあり、母が亡くなった歳をとっくに越えてしまって、髪にも白いものが表れているような歌、孤独と愛の歌だと思います。
馬場:母を見たのは2,3度しかないです。
結核で隔離されて私を抱くと言いう事は無かったです。
透き通った青い空を見るとお母さんの笑いという感じがするんです。
40代に詠ったものです。
(1977年(昭和52年) 教員生活を終え「まひる野」を退会。)
自分でもやりたいことが出てきて、一大決心をしました。
夫も自立したがっていて、それに従って窪田章一郎先生のところにいって二人とも辞めさせてもらいました。
「夜半さめてみれば夜半さえしらじらと桜散りおりとどまらざらん 」 馬場あき子
穂村:夜中にふっと目が覚めて、窓の向こうに怖いほど桜の花びらが降っていて、映像美が凄い歌です。
馬場:京都で見た夜桜で、かなりな量の桜で力があるんです、命を懸けているような感じがしたんです。
穂村:「桜散りおりとどまらざらん 」というところは口語文ではどうやっても出す事ができないニュアンスです。
馬場:「早船」から「桜花伝承」まで20年掛かっています。
歌以外のことをやっていたのがこの20年だったと思います。
「サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい」 穂村弘
馬場:終りの方に付けたこれが、現代の若者の精神の内面なんだなあと思って、穂村さんには会っていませんがきっと繊細な青白い青年だと決めていました。
ある一種の圧迫感が自分の上層部にべったりとあることに対する突き抜けきれないような思い、孤独なさみしさがあるという事が非常によくわかりました。
どうして象を持ってきたのか、素晴らしいと思いました。
うんこは巨大で、どれだけのものを食べなければいけないのか、どれだけのものを消化しなければいけないのか、それに比べると現代人なんかくだらなくて、生命力もなく駄目なんです。
象のうんこに着目した、このひとに象のうんこに憧れがある。
食と排泄を考えながら象のうんこをするという事は、よほどの腹力があることだし体力があることだし、これからの自分のあこがれの一つが野生の力だと思っていたんだろうと思います。
短歌界にうんこが出てきたのは長い歴史の中で初めてだと思います。
「アトミック・ボムの爆心地点にてはだかで石鹸剥いている夜」 穂村弘
馬場:これを詠んだときには怖くて震えました。
これから洗おうとする肌だけど、死んだ人もたくさんいるその肌もここにあったんだという事、反戦歌だと思ってこれは凄いと思いました。
穂村:爆心地は上空であることを聞いて、高層のホテルで石鹸を剥いているときに、もしかしたかこのぐらいの高さが爆心地なのか、みたいな感触が襲ってきました。
「 都市はもう混沌として人間はみそらーめんのやうなかなしみ」 馬場あき子
穂村:都会はいろんなものがごちゃごちゃになっていて、混沌としていてそこで生きる人間には悲しみがあって、それが味噌ラーメン(濁っていて)みたいだというところがなんとも面白いです。
馬場:文明文化が全部混とんとしてかき回されてしまっている、そんなときに味噌ラーメンが出てきてまさに味噌ラーメンこそ現代を表現する食べ物だという気がしました。
漢字で味噌と書くとそのものになってしまうので、抽象化するためにひらがなとしました。
「 長浜に馬のクラブのありしなり 馬流れたること涙なり」 馬場 あき子
馬場:地震の後閖上にいったんです。
その人の家もめちゃくちゃに壊れたりしましたが、蔵から出してきてあらゆるものを売って自分が食べるものを売ってしまったことがあるという人に案内してもらった。
馬のクラブがあり、そこも全部流されたが、馬が繋がれていてもがいて繋がれたまま家ごと流されてゆくという凄惨さ、様子が目に浮かびました。
事実を言って「涙なり」と捧げたかった。
「手を振りてじゃあねと言いて別れ来ぬ又とは遠ほい遠ほいつの日」? 馬場 あき子
馬場:「じゃあね」とはいえるけどもう「またね」とは言えないですよ。
年寄りの歌としてまあこんなところですかね。
穂村:時間の無限感覚も出ていて胸に残る歌です。
リスナーの作品
「きっしりと積み込んでいるトラックの荷台に一人紛れ込みたい」?
「もう何もできない君の今住んでる長野の天気予報を見つめる」?
?の付いた短歌は漢字、文字などが違っているかもしれません。
1928年(昭和3年)東京生まれ、日本女子専門学校(現・昭和女子大学)国文科に入学、在学中の昭和22年に「まひる野」に入会、窪田章一郎に師事、同時期にお能の喜多流宗家に入門、喜多実に習う。
大学卒業後は中学、高校の教員を務め、退職後は昭和53年短歌結社「かりん」主宰。
古典,能、民俗学に造詣が深く、昭和30年に刊行した第一歌集『早笛』から平成30年の『朝餉夕餉』まで歌集は27冊。
これまでに第20回迢空賞、読売文学賞など受賞して朝日歌壇の選者を40年以上にわたって務めています。
日本芸術院会員であり去年古典的流麗さをそなえて説得力を持つ短歌を創作し、短歌の普及にも力を注いだと文化功労者になりました。
92歳です。
穂村:評論も素晴らしくて、論理と情緒みたいなものが同時にあったり、古典に精通されていて、戦後の民主主義の洗礼を受けたトップランナーでもあり続けている、大きな存在だと思っています。
馬場:歌の数は1万2000首ですが、与謝野晶子は私より若くて3万首ですから。
今は日本語を操るのは難しい時代かもしれませんね。
与謝野晶子の晩年の「白桜集」は現代短歌の一つの土台として吸収され日常化しているところがあります。
晩年の作風が今の女性の土台になっていると思います。
「 一 尺の雷魚を裂きて冷(れい)冷(れい)と夜のくりやに水流すなり」 馬場あき子
穂村:或る時代までは台所は女性の持ち場で、刃物も女性のものだった。
孤独な感じがする歌ですね、詠むとシーンとするような歌だと思います。
馬場:23,4歳の頃の歌だったと思います。
父と一緒に行ったときに獲れた魚で、寒い時で板の上にのせて、身体が凍るような中でこれしか食べるものがないという様な切迫した感情が自分では籠っています。
「ましろなる封筒に向ひ必要君が名を書かむとしスタンドの位置かへて書く」 馬場あき子
穂村:ラブレターを書いているんだと思います、文字を大事に書いている感じがあると思う。 可憐な歌だと思います。
馬場:このころの女性の感覚は恥ずかしいぐらい恋に対して縮こまっていました。
戦争が終わって私たちの上の世代の人はみんな独身で、結婚する相手がいなかった。
窪田章一郎はとても私を大事にしてくれて、推薦者の第一でした。
当時日本的なウエットな抒情を排するというのが世間一般傾向でドライになれというのが傾向でした。
甘っちょろいという様に評価されたのではないでしょうか。
「夭死せし母のほほえみ空にみちわれに尾花の髪白みそむ」 馬場あき子
穂村:お母さんを幼いころなくされていて、記憶にないという事らしい。
おぼろげなはずの母のほほえみが空一杯に満ちているような見守っているような感じがあり、母が亡くなった歳をとっくに越えてしまって、髪にも白いものが表れているような歌、孤独と愛の歌だと思います。
馬場:母を見たのは2,3度しかないです。
結核で隔離されて私を抱くと言いう事は無かったです。
透き通った青い空を見るとお母さんの笑いという感じがするんです。
40代に詠ったものです。
(1977年(昭和52年) 教員生活を終え「まひる野」を退会。)
自分でもやりたいことが出てきて、一大決心をしました。
夫も自立したがっていて、それに従って窪田章一郎先生のところにいって二人とも辞めさせてもらいました。
「夜半さめてみれば夜半さえしらじらと桜散りおりとどまらざらん 」 馬場あき子
穂村:夜中にふっと目が覚めて、窓の向こうに怖いほど桜の花びらが降っていて、映像美が凄い歌です。
馬場:京都で見た夜桜で、かなりな量の桜で力があるんです、命を懸けているような感じがしたんです。
穂村:「桜散りおりとどまらざらん 」というところは口語文ではどうやっても出す事ができないニュアンスです。
馬場:「早船」から「桜花伝承」まで20年掛かっています。
歌以外のことをやっていたのがこの20年だったと思います。
「サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい」 穂村弘
馬場:終りの方に付けたこれが、現代の若者の精神の内面なんだなあと思って、穂村さんには会っていませんがきっと繊細な青白い青年だと決めていました。
ある一種の圧迫感が自分の上層部にべったりとあることに対する突き抜けきれないような思い、孤独なさみしさがあるという事が非常によくわかりました。
どうして象を持ってきたのか、素晴らしいと思いました。
うんこは巨大で、どれだけのものを食べなければいけないのか、どれだけのものを消化しなければいけないのか、それに比べると現代人なんかくだらなくて、生命力もなく駄目なんです。
象のうんこに着目した、このひとに象のうんこに憧れがある。
食と排泄を考えながら象のうんこをするという事は、よほどの腹力があることだし体力があることだし、これからの自分のあこがれの一つが野生の力だと思っていたんだろうと思います。
短歌界にうんこが出てきたのは長い歴史の中で初めてだと思います。
「アトミック・ボムの爆心地点にてはだかで石鹸剥いている夜」 穂村弘
馬場:これを詠んだときには怖くて震えました。
これから洗おうとする肌だけど、死んだ人もたくさんいるその肌もここにあったんだという事、反戦歌だと思ってこれは凄いと思いました。
穂村:爆心地は上空であることを聞いて、高層のホテルで石鹸を剥いているときに、もしかしたかこのぐらいの高さが爆心地なのか、みたいな感触が襲ってきました。
「 都市はもう混沌として人間はみそらーめんのやうなかなしみ」 馬場あき子
穂村:都会はいろんなものがごちゃごちゃになっていて、混沌としていてそこで生きる人間には悲しみがあって、それが味噌ラーメン(濁っていて)みたいだというところがなんとも面白いです。
馬場:文明文化が全部混とんとしてかき回されてしまっている、そんなときに味噌ラーメンが出てきてまさに味噌ラーメンこそ現代を表現する食べ物だという気がしました。
漢字で味噌と書くとそのものになってしまうので、抽象化するためにひらがなとしました。
「 長浜に馬のクラブのありしなり 馬流れたること涙なり」 馬場 あき子
馬場:地震の後閖上にいったんです。
その人の家もめちゃくちゃに壊れたりしましたが、蔵から出してきてあらゆるものを売って自分が食べるものを売ってしまったことがあるという人に案内してもらった。
馬のクラブがあり、そこも全部流されたが、馬が繋がれていてもがいて繋がれたまま家ごと流されてゆくという凄惨さ、様子が目に浮かびました。
事実を言って「涙なり」と捧げたかった。
「手を振りてじゃあねと言いて別れ来ぬ又とは遠ほい遠ほいつの日」? 馬場 あき子
馬場:「じゃあね」とはいえるけどもう「またね」とは言えないですよ。
年寄りの歌としてまあこんなところですかね。
穂村:時間の無限感覚も出ていて胸に残る歌です。
リスナーの作品
「きっしりと積み込んでいるトラックの荷台に一人紛れ込みたい」?
「もう何もできない君の今住んでる長野の天気予報を見つめる」?
?の付いた短歌は漢字、文字などが違っているかもしれません。
2020年4月5日日曜日
関俊彦(声優・俳優) ・【時代を創った声】
関俊彦(声優・俳優) ・【時代を創った声】
57歳、関さんはNHKのアニメ「忍たま乱太郎」の土井先生役、最近では「鬼滅の刃」の鬼の親分などで知られています。
NHKの教育番組、「いちにのさんすう」や、「笛は歌う」のお兄さん役としても出演されていました。
振り返ってみると私の役回りは、学校の先生とかお坊さんとかの系統のものが多いと思い返しています。
悪役は途中から多くなってきて、一番最初にやった悪役は「冥王計画ゼオライマー」というロボットアニメの中で木原 マサキという悪い科学者のです。
悪役は癖があるのでそれをどうやってやるかなど楽しいです。
あの人がこんな役をやるんだと思ってもらった方がいいです。
祖父が高校の漢文の先生で、先生をやりながら剣道をやっていました。
小学生の頃に興味を持って、防具を引っ張り出して祖父からいろいろ教わったのがきっかけで中学で剣道を始めました。
高校では中学の時に主将をやっていた人達ばっかりなので強くて、選手に成れなくて厳しかったです。
当時はスタミナをつけるために水を飲むなと言われて、掃除して汚くなったバケツの水を本当に飲みたいなと思いましたね。
大学に入って、この世界に入っても多少嫌なことがあっても、剣道をやっていたころのことを思い出すと大丈夫だという自信がありました。
高校の頃に姉の部屋には劇団のミュージカルのポスターが沢山貼ってあって、それが頭に刷り込まれていたのと、深夜ラジオ番組で聞いているときに、野沢 那智さんと言う人が劇団の座長をやっているという事がだんだんわかってきて、いろいろ話を聞いているうちに演劇が体の中に刷り込まれていきました。
リスナーの手紙を読む番組だったので書いて出したら、何と読まれて体が震えるほどの感動でした。
そんなことがあって、大学に入学した時に近くにある元前進座の女優さんがやっている演技教室があってそこに跳び込んで芝居の勉強をしようと思いました。
習うんだったらプロに習いたいと思いました。
川路夏子先生という元女優でアニメの声優もやっていました。
体操、発声、発音、呼吸法、詩の朗読、演技術の基礎、などを習って、実際の小劇場での舞台稽古から始まって、小道具作りなど、本番をやって舞台のばらしまで、一通りを習いました。(19~25歳まで)
これがベースになりました。
剣道で習った「間と呼吸」が芝居の上においてもとっても大事だという事が判りました。
技術を一つ一つ習得してゆく楽しさが面白いです。
役者は感情論と技術論が二本柱でありますが、感情を表現しろと言いますが、技術のないやつにそんなことはできないというのが、先生の持論でした。
1年経って小さな舞台でやったらお客さんから拍手をもらった、これは凄い仕事だと思いました。
大学3年生の時に社長に預かってもらって、そこでラジオドラマとアニメ一本振ってもらいました。
親は教師か銀行員を望んでいたので、就職については親と揉めました。
何とか親を説得して25歳まではやってみろという事になりました。
今のことを頑張るしかなかった。
23歳の時にNHKの「いちにのさんすう」という番組があり、オーディションがあり受かりました。
TVに出て両親、親戚も喜んでくれまして、許してもらえました。
1987年 『学園特捜ヒカルオン』、『赤い光弾ジリオン』で初めての主役。
毎日緊張の連続でした。
周りのベテランの人が盛り立ててくれたお陰で、何とかこなすことができました。
今は声優になる人数が多くて若い人は大変だと思います。
レギュラーをたくさん持たしていただいているうちに、面白さが判ってきました。
そうすると間や呼吸が判ってきました。
出来上がっている絵に合わせて、おっしゃったような芝居を重ねると絵と全然合わないんでできないんですが、と言うとディレクターが[ちがうんです、関さんがやった芝居が絵をうごかすんです、芝居がそうであれば絵がそう見えてくるんです。」と言われて、感動しました。
NHKの番組「笛は歌う」のお兄さん役をやりました。。
笛は吹くものだと思っていたが、笛は歌うような息使いをする、これでリコーダーと言う楽器が命を吹き込まれた生きたものになるんだという信念が、リコーダーの先生にはありました。
8年間やってみて子どもたちへのメッセージが上手く伝えられたのかなと思います。
声優は簡単そうに見えて、誰でもできると思いますが、やってみてドラマの中でドラマの内容を際立たせるための合格点を取れる芝居ができるかどうかは別です。
面白さは自分と違う人生をやれることだと思うし、どれだけ素晴らしいドラマと出会えるかどうかという事ですね。
自分の琴線に触れる何かがあるドラマを自分がやれたら、自分として大きな仕事をこの世に残したと思えることになると思うので、それこそが望みです。
そこにむかっていくために残りの人生をやってゆくという事だと思います。
57歳、関さんはNHKのアニメ「忍たま乱太郎」の土井先生役、最近では「鬼滅の刃」の鬼の親分などで知られています。
NHKの教育番組、「いちにのさんすう」や、「笛は歌う」のお兄さん役としても出演されていました。
振り返ってみると私の役回りは、学校の先生とかお坊さんとかの系統のものが多いと思い返しています。
悪役は途中から多くなってきて、一番最初にやった悪役は「冥王計画ゼオライマー」というロボットアニメの中で木原 マサキという悪い科学者のです。
悪役は癖があるのでそれをどうやってやるかなど楽しいです。
あの人がこんな役をやるんだと思ってもらった方がいいです。
祖父が高校の漢文の先生で、先生をやりながら剣道をやっていました。
小学生の頃に興味を持って、防具を引っ張り出して祖父からいろいろ教わったのがきっかけで中学で剣道を始めました。
高校では中学の時に主将をやっていた人達ばっかりなので強くて、選手に成れなくて厳しかったです。
当時はスタミナをつけるために水を飲むなと言われて、掃除して汚くなったバケツの水を本当に飲みたいなと思いましたね。
大学に入って、この世界に入っても多少嫌なことがあっても、剣道をやっていたころのことを思い出すと大丈夫だという自信がありました。
高校の頃に姉の部屋には劇団のミュージカルのポスターが沢山貼ってあって、それが頭に刷り込まれていたのと、深夜ラジオ番組で聞いているときに、野沢 那智さんと言う人が劇団の座長をやっているという事がだんだんわかってきて、いろいろ話を聞いているうちに演劇が体の中に刷り込まれていきました。
リスナーの手紙を読む番組だったので書いて出したら、何と読まれて体が震えるほどの感動でした。
そんなことがあって、大学に入学した時に近くにある元前進座の女優さんがやっている演技教室があってそこに跳び込んで芝居の勉強をしようと思いました。
習うんだったらプロに習いたいと思いました。
川路夏子先生という元女優でアニメの声優もやっていました。
体操、発声、発音、呼吸法、詩の朗読、演技術の基礎、などを習って、実際の小劇場での舞台稽古から始まって、小道具作りなど、本番をやって舞台のばらしまで、一通りを習いました。(19~25歳まで)
これがベースになりました。
剣道で習った「間と呼吸」が芝居の上においてもとっても大事だという事が判りました。
技術を一つ一つ習得してゆく楽しさが面白いです。
役者は感情論と技術論が二本柱でありますが、感情を表現しろと言いますが、技術のないやつにそんなことはできないというのが、先生の持論でした。
1年経って小さな舞台でやったらお客さんから拍手をもらった、これは凄い仕事だと思いました。
大学3年生の時に社長に預かってもらって、そこでラジオドラマとアニメ一本振ってもらいました。
親は教師か銀行員を望んでいたので、就職については親と揉めました。
何とか親を説得して25歳まではやってみろという事になりました。
今のことを頑張るしかなかった。
23歳の時にNHKの「いちにのさんすう」という番組があり、オーディションがあり受かりました。
TVに出て両親、親戚も喜んでくれまして、許してもらえました。
1987年 『学園特捜ヒカルオン』、『赤い光弾ジリオン』で初めての主役。
毎日緊張の連続でした。
周りのベテランの人が盛り立ててくれたお陰で、何とかこなすことができました。
今は声優になる人数が多くて若い人は大変だと思います。
レギュラーをたくさん持たしていただいているうちに、面白さが判ってきました。
そうすると間や呼吸が判ってきました。
出来上がっている絵に合わせて、おっしゃったような芝居を重ねると絵と全然合わないんでできないんですが、と言うとディレクターが[ちがうんです、関さんがやった芝居が絵をうごかすんです、芝居がそうであれば絵がそう見えてくるんです。」と言われて、感動しました。
NHKの番組「笛は歌う」のお兄さん役をやりました。。
笛は吹くものだと思っていたが、笛は歌うような息使いをする、これでリコーダーと言う楽器が命を吹き込まれた生きたものになるんだという信念が、リコーダーの先生にはありました。
8年間やってみて子どもたちへのメッセージが上手く伝えられたのかなと思います。
声優は簡単そうに見えて、誰でもできると思いますが、やってみてドラマの中でドラマの内容を際立たせるための合格点を取れる芝居ができるかどうかは別です。
面白さは自分と違う人生をやれることだと思うし、どれだけ素晴らしいドラマと出会えるかどうかという事ですね。
自分の琴線に触れる何かがあるドラマを自分がやれたら、自分として大きな仕事をこの世に残したと思えることになると思うので、それこそが望みです。
そこにむかっていくために残りの人生をやってゆくという事だと思います。
2020年4月4日土曜日
木津川計(立命館大学名誉教授 上方芸能評論家)・大阪の文化を見つめて65年(1)
木津川計(立命館大学名誉教授 上方芸能評論家)・大阪の文化を見つめて65年(1)
~風前の灯(ともしび)の上方芸能に光を」
1968年大阪で雑誌上方芸能を創刊し、以来48年に渡って発行にかかわってきたのが木津川計さんです。
1986年からは京都の立命館大学で教壇に立ち若い世代に落語や歌舞伎、文楽、人形浄瑠璃、上方舞などの味わいを語り伝えてきました。
その活動が評価されて1998年に9は菊池寛賞を受賞、その受賞のコメントにはこう書かれています。
芸能の衰亡は民族の興亡にまで関わるとの信念に基づき、私費を投じて季刊上方芸能を刊行し続けて30年、上方の伝統芸能と大衆芸能の継承と発展に尽くし、次代を担う人材を育てた、とこのようにあります。
第一回目は「風前の灯(ともしび)の上方芸能に光を」 生い立ちから伺っていきます。
一人語り劇場が14年目です。
長谷川伸の新国劇、落語、歌舞伎、映画などの名作を一人で語ってきましたが、去年は浦島太郎、今年はかぐや姫で10分から15分で終わってしまいます。
しかし、その後なにを言い伝えようとしているのかと言うことを、解釈、解明してしてゆくという事をやっていきます。
高知県高知市江ノ口生まれ、1歳ちょっとで京都に移りました。
10歳で母親の故郷高知に戻って10年間過ごします。
大坂に20歳で出ていきました。
5人兄弟の長男です。
父親は離れて愛人と大阪で暮らして、母親は子どもたちを苦労しながら育てました。
高校3年の時に結核を宣告されて、母親は4人の子どもを連れて大阪にいきました。
高校卒業して友達のつてがあり国立療養所に入りました。
坂本昭という人が国立療養所の所長をしていました。
東大生の樺美智子がデモでなくなるが、最初の診察したのが坂本昭でした。
坂本昭は社会党の参議院議員になりますが、その後高知市長になります。
福祉に重点を置きました。
国立療養所には1年数か月いました。
謄写版印刷を父親が始めて、私と私の次の弟とでガリ版に書いてゆく作業をしました。
貧乏していましたが、父親が祇園で豪遊していたのには吃驚しました。
弟からの応援もあり大学に行くために必死で勉強しました。
大阪市立大学文学部社会学科に合格して、弟も目指す大学に入ることができました。
大学では学生運動の盛んなところで、文学部の学生委員会の副委員長になれという事で副委員長になりました。
10日に一遍大阪の学生連盟の大きな集会がありそこに行きました。
最大6000人が集まりました。
デモの最前線の誘導役をやりました。
印刷の依頼をきっかけに知り合い25歳の時に学生結婚をしました。
8月6日を結婚の日に選びましたが、戦後精神はアウシュビッツを再び繰り返さないという決意と、広島の惨劇を再び繰り返してはいけない、この二つを教訓に生きていかないといけないと思って8月6日にしました。
結婚して60年になりました。
弁護士、新聞記者、出版社を経営したい(絵本)という3つの夢がありました。
そのために大学に行きました。
憲法の講座を受講してその時に教授が黒田 了一教授で、のちに大阪知事を2期務められた方です。
黒田 了一教授は来た途端に黒板に
「秋の夜をひたすら学ぶ六法に恋という字は見いだせざりけり」
と書きました。
これを観て非人間的な感じに弁護士への道はあきらめました。
新聞記者については入社要綱を取り寄せたら、結核の 既往症があったら応募できないという項目がありました。
絵本の出版社については東京に行かなくてはいけなかったが、それが仕事の事情で出来なかった。
1968年(33歳)雑誌上方芸能を創刊。
上方歌舞伎、文楽もお客が入らない、伝統芸能があえいでいた時代でした。
当時どついたりする漫才が受けていました。
上方歌舞伎はお客が半分にも満たない状況でした。
文楽も600人入る劇場で夜の部では30人に満たないような状況でした。
住んでいるところを故郷にしないと、住んでいるところの芸能文化は駄目になってしまうと思いはじめました。
上方芸能は滅んでしまうのではないかと思って、上方芸能を復権復興させてゆくために働いてみようと思って、上方芸能という雑誌を出しました。
上方落語を聞く会を発足して、その時の会報として出したのが上方芸能の創刊号でした。
B5の8ページの粗末なものでしたが、廊下に捨てられないものがあり、それを踏んでゆく人たちがを見ました。
飲んでぼやいていたら、店の主人が「捨てられないもの、踏まれないものを作りなさい」といわれて、そこから上方芸能を懸命に私なりに拵えて行く出発点になりました。
創刊して1か月後、話をしているときに警察から電話がかかってきました。
どうやら父が自殺を図ったので、吹田の医院へすぐに行ってください、という事でした。
長椅子に毛布にくるまれた父親が転がっていまいた。
睡眠薬を大量に飲んで亡くなっていました。
今の金額でいうと5,6000万円の借金がありました。
そこから30代の難儀が始まってゆくわけです。
~風前の灯(ともしび)の上方芸能に光を」
1968年大阪で雑誌上方芸能を創刊し、以来48年に渡って発行にかかわってきたのが木津川計さんです。
1986年からは京都の立命館大学で教壇に立ち若い世代に落語や歌舞伎、文楽、人形浄瑠璃、上方舞などの味わいを語り伝えてきました。
その活動が評価されて1998年に9は菊池寛賞を受賞、その受賞のコメントにはこう書かれています。
芸能の衰亡は民族の興亡にまで関わるとの信念に基づき、私費を投じて季刊上方芸能を刊行し続けて30年、上方の伝統芸能と大衆芸能の継承と発展に尽くし、次代を担う人材を育てた、とこのようにあります。
第一回目は「風前の灯(ともしび)の上方芸能に光を」 生い立ちから伺っていきます。
一人語り劇場が14年目です。
長谷川伸の新国劇、落語、歌舞伎、映画などの名作を一人で語ってきましたが、去年は浦島太郎、今年はかぐや姫で10分から15分で終わってしまいます。
しかし、その後なにを言い伝えようとしているのかと言うことを、解釈、解明してしてゆくという事をやっていきます。
高知県高知市江ノ口生まれ、1歳ちょっとで京都に移りました。
10歳で母親の故郷高知に戻って10年間過ごします。
大坂に20歳で出ていきました。
5人兄弟の長男です。
父親は離れて愛人と大阪で暮らして、母親は子どもたちを苦労しながら育てました。
高校3年の時に結核を宣告されて、母親は4人の子どもを連れて大阪にいきました。
高校卒業して友達のつてがあり国立療養所に入りました。
坂本昭という人が国立療養所の所長をしていました。
東大生の樺美智子がデモでなくなるが、最初の診察したのが坂本昭でした。
坂本昭は社会党の参議院議員になりますが、その後高知市長になります。
福祉に重点を置きました。
国立療養所には1年数か月いました。
謄写版印刷を父親が始めて、私と私の次の弟とでガリ版に書いてゆく作業をしました。
貧乏していましたが、父親が祇園で豪遊していたのには吃驚しました。
弟からの応援もあり大学に行くために必死で勉強しました。
大阪市立大学文学部社会学科に合格して、弟も目指す大学に入ることができました。
大学では学生運動の盛んなところで、文学部の学生委員会の副委員長になれという事で副委員長になりました。
10日に一遍大阪の学生連盟の大きな集会がありそこに行きました。
最大6000人が集まりました。
デモの最前線の誘導役をやりました。
印刷の依頼をきっかけに知り合い25歳の時に学生結婚をしました。
8月6日を結婚の日に選びましたが、戦後精神はアウシュビッツを再び繰り返さないという決意と、広島の惨劇を再び繰り返してはいけない、この二つを教訓に生きていかないといけないと思って8月6日にしました。
結婚して60年になりました。
弁護士、新聞記者、出版社を経営したい(絵本)という3つの夢がありました。
そのために大学に行きました。
憲法の講座を受講してその時に教授が黒田 了一教授で、のちに大阪知事を2期務められた方です。
黒田 了一教授は来た途端に黒板に
「秋の夜をひたすら学ぶ六法に恋という字は見いだせざりけり」
と書きました。
これを観て非人間的な感じに弁護士への道はあきらめました。
新聞記者については入社要綱を取り寄せたら、結核の 既往症があったら応募できないという項目がありました。
絵本の出版社については東京に行かなくてはいけなかったが、それが仕事の事情で出来なかった。
1968年(33歳)雑誌上方芸能を創刊。
上方歌舞伎、文楽もお客が入らない、伝統芸能があえいでいた時代でした。
当時どついたりする漫才が受けていました。
上方歌舞伎はお客が半分にも満たない状況でした。
文楽も600人入る劇場で夜の部では30人に満たないような状況でした。
住んでいるところを故郷にしないと、住んでいるところの芸能文化は駄目になってしまうと思いはじめました。
上方芸能は滅んでしまうのではないかと思って、上方芸能を復権復興させてゆくために働いてみようと思って、上方芸能という雑誌を出しました。
上方落語を聞く会を発足して、その時の会報として出したのが上方芸能の創刊号でした。
B5の8ページの粗末なものでしたが、廊下に捨てられないものがあり、それを踏んでゆく人たちがを見ました。
飲んでぼやいていたら、店の主人が「捨てられないもの、踏まれないものを作りなさい」といわれて、そこから上方芸能を懸命に私なりに拵えて行く出発点になりました。
創刊して1か月後、話をしているときに警察から電話がかかってきました。
どうやら父が自殺を図ったので、吹田の医院へすぐに行ってください、という事でした。
長椅子に毛布にくるまれた父親が転がっていまいた。
睡眠薬を大量に飲んで亡くなっていました。
今の金額でいうと5,6000万円の借金がありました。
そこから30代の難儀が始まってゆくわけです。
2020年4月3日金曜日
田原総一朗(ジャーナリスト) ・「ニッポンへの遺言(2)」
田原総一朗(ジャーナリスト) ・「ニッポンへの遺言(2)」
タブーに挑戦し危険なディレクターと呼ばれた田原さんは、たびたび仕事を干され空いた時間に活字のノンフィクションに挑みます。
そしてTV局を辞めて、フリーのジャーナリストとなります。
そのきっかけとなったノンフィクション、原子力について伺います。
当時原子力船「陸奥」がつくられて、青森の陸奥湾から出て放射線が漏れて大騒ぎになりました。
陸奥の取材に行きました。
筑摩書房が「展望」という雑誌を出していたので、原子力問題をまともにやろうと「原子力戦争」という連載を始めました。
原子力推進運動もあり、調べていったら仕掛けていったのが最大手広告代理店で、それを書いたらスポンサーがこんなことを書いているやつの局にはスポンサーを紹介しないぞ、という事で、上から連載を辞めるか、会社を辞めるか判断しろと言われました。
僕はどっちもしなかったら、部長、局長を処分して社内で発表したのでやめざるを得なかった、そしてフリーになりました。(42歳)
それが結果的には良かったと思う。
妻は全く反対しなかった。
1976年の「原子力戦争」と同じ時期に「アメリカの虎の尾を踏んだ田中角栄」というルポを書いています。
山川 暁夫さんと、長谷川 慶太郎さんと共に勉強会をしていましたが、二人とも元共産党でした。
山川さんは日本は対米従属は良くない、長谷川さんは反ソで両方から学んで、田中さんが辞めたロッキード事件、どうもアメリカにやられたとう事でいろいろと取材して、やはりそうだという事で、当人ではなく周りを全部取材しました。
その後1982年に田中角栄氏にインタビューすることになる。
失脚した後初めてのインタビューでした。
11時からのインタビューだったが、1時間たっても始まらなかった。
秘書の早坂さんに聞いたら、私に関する資料3.75㎏を全部集めて読んでいるとのことだった。
インタビュアーを徹底的に調べたいと思ったという事で、田中角栄という男を改めて見直しました。
構想力が有る、これはNO.1ですね。
高校、大学と日本で一番信頼できる党は共産党だと思っていました。
共産党は最期まで戦争反対、進駐軍のことを共産党は解放軍と呼んでいました。
徳田球一も野坂さんも非常にアメリカ軍と仲が良かった。
朝鮮戦争が始まったときに、日本への戦略を変えた。
ソ連は世界で一番素晴らしい国だと思っていました。
1965年「世界ドキュメンタリー会議」がありモスクワに行きました。
前年フルシチョフが失脚したが、モスクワ大学で15人ほどとディスカッションしたが、失脚理由を誰も発言してくれなかた。
この国は言論の自由が全くないことがわかった。
共産主義は平等は大事にするが競争は認めない、この国は駄目だと思いました。
1971年に宮澤さんに会うことができて、宮澤理論に惚れ込みました。
自衛隊ができたのが1954年、自民党ができたのが1955年、最初の総理大臣が鳩山一郎、
鳩山は憲法と自衛隊は大矛盾しているという事で自主憲法を想定、憲法改正しようとした。
池田以降は国民を騙してる、嘘をついていると言ったら、宮澤さんは実は違うと、日本人というものは自分の身体に合った洋服を作るのは下手だと、押し付けられた洋服に身体を合わせるのは上手い、という事でした。
ヨーロッパ、アメリカは弱い国と戦争して勝って植民地化してきたが、ベルサイユ講和条約で侵略戦争を認めない。
日本は憲法9条第一項では侵略戦争を認めない、侵略戦争で奪った植民地は全部解放しなければいけないが、ヨーロッパ、アメリカは全く解放しない。
そこで昭和維新、昭和になって日本はアジアの国々 タイ以外は全部植民地だという事で
アジアの国々を独立解放させるのが日本の役割だと、日本が強くなって、満州がいろんな民族が入り組んでめちゃくちゃになっているという事で、満州国を独立させる、日本のものにするという事だが、満州事変は侵略戦争になってゆく。
実は日本政府は満州事変を始めるにあたって、国際連盟の理事国のトップのイギリスに満州は独立させたいと伝え、イギリスはOKするんです。
リットン調査団は満州は認めることになっていた。
国際連盟の最終会義の最中に、日本が熱河省(ねっかしょう)・・・?(聞き取れない)認めない、国際連盟が・・・(聞き取れず)いけない。
翌年1935年にイギリスが日本に特使を派遣して、蒋介石が金に困っているからイギリス日本で・・・?を作ってやろう、もしこれに乗ったら蒋介石を説得して、満州国を認めさせる、日本政府は乗ろうとする。
ところが前の年に5・15事件で総理大臣が殺されている。
2・26事件もあり1937年日中戦争が始まる。
大川周明、北一輝、石原莞爾は全部反対、近衛首相の勉強会昭和研究会も反対。
広田弘毅を外務大臣にしてヒトラーに頼んでトラウトマン、蒋介石との会談をしようとする、うまくいくようなときに南京陥落し、軍隊は自信過剰になって賠償金を出すように言うが出すわけがない。
本当はここで収めたかったが、その後訳の分からない太平洋戦争になった。
日本は自分の体に合った洋服を作ろうとすると、軍主導になり、そして戦争に負けた。
アメリカがあの憲法を日本に押し付けた。
こんな憲法ではまともな軍隊は作れない、日本の安全保障はアメリカに責任を持たして、憲法を逆手に取ってアメリカの戦争に巻き込まれない。
1965年にアメリカがベトナム戦争を始めた。
自衛隊の要請があったが、宮澤さんは憲法によって行くには行けないと言って行かずに済んで、これ以後日本はアメリカの戦争には巻き込まれないでやってきた。
自衛隊は誰も殺してはいない、これが日本だ、というのが宮澤理論です。
宮澤理論を田中角栄、中曽根みんなこれで賛成なんです。
トランプさんになって今の日本の安全保障はどうするのか大課題ですね。
日本の官僚は人間として一人一人は素晴らしいが、組織になると駄目になってしまう。
田中角栄が失脚したのちに三木、福田となり、再選の時に当然福田がなると思っていたが、田中角栄が全面的に大平の味方をして大平が勝ってしまった。
その後福田-大平戦争が起きて、財界は政治家の言う通り、政治家は金権だと、高度成長を支えたのが官僚だと、官僚でやろうと日本の官僚が出てくる。
官僚の問題点
①リスクを取らない
②無責任
③無主張
バブル崩壊すると地価が1/10になり、宮澤さんはお金を出すというと、公的資金に賛成するという事は大蔵省の金融政策が間違ったと認めなければいけない。
大蔵省は絶対認めないから反対、大蔵省が反対したら財界も反対、その時に宮澤さんはいいました、「この国は総理大臣よりも大蔵賞の方が強いんだ。」と。
官僚主導から政治主導にしようとしたのが小沢一郎です。
それをさらに強めたのが安倍政権で600人の人事が官邸に行ってしまう。
官僚たちが官邸にご機嫌伺いをやるようになる。
中曽根内閣までは官僚はしっかりしていた。
「朝まで生テレビ!」(政治関連を中心とする討論深夜長寿番組)1986年から。
本気の討議をやろうとした。
ベルリンの壁が崩壊して、冷戦時代が無くなり新しい時代の座標軸は何だろうとこれを求めて真剣勝負、徹底討論、一夫勝負をやろうとしました。
1988年の秋に昭和天皇が危篤になり自粛自粛となり、いまこそ天皇の戦争責任をやろうではないかと、言ったら馬鹿野郎といわれました。
4回目に企画を変えようという事で、日本の左翼と右翼が仲直りしようという事でやりました。
右翼も来なかった。
大島渚、野坂などとは本気で勝負したが、その世代の人がいなくなって行って、戦争を知っている世代が亡くなって行って、みんなおとなしくなってしまいました。
大島渚、野坂などとやっていたことをそのままやっていたので、田原は人の話を聞かない、という声が出始めて今は反省しています。
ジャーナリストとして大事にしていることは
①身体を張って言論の自由を守る、戦争していますから。
②自分と考え方の違う人達の存在を認めて徹底的に討論する。
③野党を強くしたい。
妻が乳がんになりましたが、看病はコミュニケーションが密接になりますから楽しいです。
その当時北朝鮮に行くという話が出てきて、主治医は帰ってくるまで持つかどうかわからないと言われましたが、妻に相談したら行きなさいといわれて、行っている間に妻は亡くなりました。
妻を亡くして辛かったが、娘がいてくれてありがたいと思います。
出来れば生涯現役でいたいと思っています。
若い人は好きな事、やりたいことを人生掛けて見つけてほしい。
日本は戦争をしない、だから世界から信頼されている。
これからは攻めの経営をどうするかという事を考えていかないといけないと思います。
*聞きづらいところがいろいろあり、正しく伝えられていないところがあるかもしれません。
タブーに挑戦し危険なディレクターと呼ばれた田原さんは、たびたび仕事を干され空いた時間に活字のノンフィクションに挑みます。
そしてTV局を辞めて、フリーのジャーナリストとなります。
そのきっかけとなったノンフィクション、原子力について伺います。
当時原子力船「陸奥」がつくられて、青森の陸奥湾から出て放射線が漏れて大騒ぎになりました。
陸奥の取材に行きました。
筑摩書房が「展望」という雑誌を出していたので、原子力問題をまともにやろうと「原子力戦争」という連載を始めました。
原子力推進運動もあり、調べていったら仕掛けていったのが最大手広告代理店で、それを書いたらスポンサーがこんなことを書いているやつの局にはスポンサーを紹介しないぞ、という事で、上から連載を辞めるか、会社を辞めるか判断しろと言われました。
僕はどっちもしなかったら、部長、局長を処分して社内で発表したのでやめざるを得なかった、そしてフリーになりました。(42歳)
それが結果的には良かったと思う。
妻は全く反対しなかった。
1976年の「原子力戦争」と同じ時期に「アメリカの虎の尾を踏んだ田中角栄」というルポを書いています。
山川 暁夫さんと、長谷川 慶太郎さんと共に勉強会をしていましたが、二人とも元共産党でした。
山川さんは日本は対米従属は良くない、長谷川さんは反ソで両方から学んで、田中さんが辞めたロッキード事件、どうもアメリカにやられたとう事でいろいろと取材して、やはりそうだという事で、当人ではなく周りを全部取材しました。
その後1982年に田中角栄氏にインタビューすることになる。
失脚した後初めてのインタビューでした。
11時からのインタビューだったが、1時間たっても始まらなかった。
秘書の早坂さんに聞いたら、私に関する資料3.75㎏を全部集めて読んでいるとのことだった。
インタビュアーを徹底的に調べたいと思ったという事で、田中角栄という男を改めて見直しました。
構想力が有る、これはNO.1ですね。
高校、大学と日本で一番信頼できる党は共産党だと思っていました。
共産党は最期まで戦争反対、進駐軍のことを共産党は解放軍と呼んでいました。
徳田球一も野坂さんも非常にアメリカ軍と仲が良かった。
朝鮮戦争が始まったときに、日本への戦略を変えた。
ソ連は世界で一番素晴らしい国だと思っていました。
1965年「世界ドキュメンタリー会議」がありモスクワに行きました。
前年フルシチョフが失脚したが、モスクワ大学で15人ほどとディスカッションしたが、失脚理由を誰も発言してくれなかた。
この国は言論の自由が全くないことがわかった。
共産主義は平等は大事にするが競争は認めない、この国は駄目だと思いました。
1971年に宮澤さんに会うことができて、宮澤理論に惚れ込みました。
自衛隊ができたのが1954年、自民党ができたのが1955年、最初の総理大臣が鳩山一郎、
鳩山は憲法と自衛隊は大矛盾しているという事で自主憲法を想定、憲法改正しようとした。
池田以降は国民を騙してる、嘘をついていると言ったら、宮澤さんは実は違うと、日本人というものは自分の身体に合った洋服を作るのは下手だと、押し付けられた洋服に身体を合わせるのは上手い、という事でした。
ヨーロッパ、アメリカは弱い国と戦争して勝って植民地化してきたが、ベルサイユ講和条約で侵略戦争を認めない。
日本は憲法9条第一項では侵略戦争を認めない、侵略戦争で奪った植民地は全部解放しなければいけないが、ヨーロッパ、アメリカは全く解放しない。
そこで昭和維新、昭和になって日本はアジアの国々 タイ以外は全部植民地だという事で
アジアの国々を独立解放させるのが日本の役割だと、日本が強くなって、満州がいろんな民族が入り組んでめちゃくちゃになっているという事で、満州国を独立させる、日本のものにするという事だが、満州事変は侵略戦争になってゆく。
実は日本政府は満州事変を始めるにあたって、国際連盟の理事国のトップのイギリスに満州は独立させたいと伝え、イギリスはOKするんです。
リットン調査団は満州は認めることになっていた。
国際連盟の最終会義の最中に、日本が熱河省(ねっかしょう)・・・?(聞き取れない)認めない、国際連盟が・・・(聞き取れず)いけない。
翌年1935年にイギリスが日本に特使を派遣して、蒋介石が金に困っているからイギリス日本で・・・?を作ってやろう、もしこれに乗ったら蒋介石を説得して、満州国を認めさせる、日本政府は乗ろうとする。
ところが前の年に5・15事件で総理大臣が殺されている。
2・26事件もあり1937年日中戦争が始まる。
大川周明、北一輝、石原莞爾は全部反対、近衛首相の勉強会昭和研究会も反対。
広田弘毅を外務大臣にしてヒトラーに頼んでトラウトマン、蒋介石との会談をしようとする、うまくいくようなときに南京陥落し、軍隊は自信過剰になって賠償金を出すように言うが出すわけがない。
本当はここで収めたかったが、その後訳の分からない太平洋戦争になった。
日本は自分の体に合った洋服を作ろうとすると、軍主導になり、そして戦争に負けた。
アメリカがあの憲法を日本に押し付けた。
こんな憲法ではまともな軍隊は作れない、日本の安全保障はアメリカに責任を持たして、憲法を逆手に取ってアメリカの戦争に巻き込まれない。
1965年にアメリカがベトナム戦争を始めた。
自衛隊の要請があったが、宮澤さんは憲法によって行くには行けないと言って行かずに済んで、これ以後日本はアメリカの戦争には巻き込まれないでやってきた。
自衛隊は誰も殺してはいない、これが日本だ、というのが宮澤理論です。
宮澤理論を田中角栄、中曽根みんなこれで賛成なんです。
トランプさんになって今の日本の安全保障はどうするのか大課題ですね。
日本の官僚は人間として一人一人は素晴らしいが、組織になると駄目になってしまう。
田中角栄が失脚したのちに三木、福田となり、再選の時に当然福田がなると思っていたが、田中角栄が全面的に大平の味方をして大平が勝ってしまった。
その後福田-大平戦争が起きて、財界は政治家の言う通り、政治家は金権だと、高度成長を支えたのが官僚だと、官僚でやろうと日本の官僚が出てくる。
官僚の問題点
①リスクを取らない
②無責任
③無主張
バブル崩壊すると地価が1/10になり、宮澤さんはお金を出すというと、公的資金に賛成するという事は大蔵省の金融政策が間違ったと認めなければいけない。
大蔵省は絶対認めないから反対、大蔵省が反対したら財界も反対、その時に宮澤さんはいいました、「この国は総理大臣よりも大蔵賞の方が強いんだ。」と。
官僚主導から政治主導にしようとしたのが小沢一郎です。
それをさらに強めたのが安倍政権で600人の人事が官邸に行ってしまう。
官僚たちが官邸にご機嫌伺いをやるようになる。
中曽根内閣までは官僚はしっかりしていた。
「朝まで生テレビ!」(政治関連を中心とする討論深夜長寿番組)1986年から。
本気の討議をやろうとした。
ベルリンの壁が崩壊して、冷戦時代が無くなり新しい時代の座標軸は何だろうとこれを求めて真剣勝負、徹底討論、一夫勝負をやろうとしました。
1988年の秋に昭和天皇が危篤になり自粛自粛となり、いまこそ天皇の戦争責任をやろうではないかと、言ったら馬鹿野郎といわれました。
4回目に企画を変えようという事で、日本の左翼と右翼が仲直りしようという事でやりました。
右翼も来なかった。
大島渚、野坂などとは本気で勝負したが、その世代の人がいなくなって行って、戦争を知っている世代が亡くなって行って、みんなおとなしくなってしまいました。
大島渚、野坂などとやっていたことをそのままやっていたので、田原は人の話を聞かない、という声が出始めて今は反省しています。
ジャーナリストとして大事にしていることは
①身体を張って言論の自由を守る、戦争していますから。
②自分と考え方の違う人達の存在を認めて徹底的に討論する。
③野党を強くしたい。
妻が乳がんになりましたが、看病はコミュニケーションが密接になりますから楽しいです。
その当時北朝鮮に行くという話が出てきて、主治医は帰ってくるまで持つかどうかわからないと言われましたが、妻に相談したら行きなさいといわれて、行っている間に妻は亡くなりました。
妻を亡くして辛かったが、娘がいてくれてありがたいと思います。
出来れば生涯現役でいたいと思っています。
若い人は好きな事、やりたいことを人生掛けて見つけてほしい。
日本は戦争をしない、だから世界から信頼されている。
これからは攻めの経営をどうするかという事を考えていかないといけないと思います。
*聞きづらいところがいろいろあり、正しく伝えられていないところがあるかもしれません。
2020年4月2日木曜日
田原総一朗(ジャーナリスト) ・「ニッポンへの遺言(1)」
田原総一朗(ジャーナリスト) ・「ニッポンへの遺言(1)」
滋賀県彦根市の出身、85歳。
昭和、平成、令和になった今もTVと活字の世界で現役を貫いています。
一回目は日常、生い立ち、TVディレクター時代を振り返っていただきます。
新型コロナウイルスは中国から始まって、アジア、ヨーロッパ、アメリカで今後南米などとなって行くでしょうね。
ツイッターは10年前からやっています。(フォロワー数は108万人)
反応がすぐあるので面白いです。
人に会うのが好きで一日に4組ぐらい会いますが、それ以外はほとんど原稿を書いています。
寝るのは夜中の一時前後で、起きるのは9時です。
朝食後2,30分散歩します。
朝食は自分で作ります、妻が生きているころからそうしています。
今日も生きているよと伝えるために朝と夜に娘たちに電話をします。
去年から今年にかけての本、日中問題、「伏魔殿」(総理官邸について)、「人は120歳まで生きられるか」(生命科学の最前線について)、「脱属国論」(対米従属を続けていいのか)など多彩なテーマ。
戦争を知っている最後の世代です。
小学校の5年生の夏休みに天皇の玉音放送がありました、これが大きいです。
小学校5年生の時の一学期に先生が「諸外国が植民地化しているアジアの国を独立解放させるための戦争である。君たちも早く大人になって戦争に参加して天皇陛下のために名誉の戦死をするように。」といわれてその通りだと思っていました。
戦争が終わったらしい、負けたらしいという事で2学期になり占領軍がやってきた。
先生のいう事、ラジオ、新聞のいう事が180度変わった。
一学期まで日本の英雄としてラジオ、新聞が褒めたたえていた人々が、二学期になると占領軍に逮捕された。
戦争中は東条英機は総理大臣でいかに素晴らしいかとか言われていたが、二学期になると逮捕されて、ラジオ、新聞も逮捕されて当然であると、いかに彼が悪いことをしたかと、価値観が180度変わって、これが私の原点で、先生、マスコミも信用できない、国も国民を騙すという事が原点です。
ジャーナリストになったきっかけでしょうね。
情報をきちん取材して自分で確かめないといけないと思っています。
新型コロナウイルスにしても韓国に比べて検査数が少ないので、本当は検査すべきなのにしていないのではないか、検査を多くすると感染者の数が多くなるのでそうしないために検査していないのではないかと、そういう疑いもあります。
滋賀県立彦根東高等学校に入学しました。
高校の時には作家になろうかと思いました。
作家を志して上京し日本交通公社(現JTB)で働きながら早稲田大学第二文学部日本文学科(夜学)に行きました。
家には必ず仕送りをするという事で親を説得して東京に行き来ました。
同人雑誌に投稿しましたが、駄目でした。
石原慎太郎さんの「太陽の季節」、大江健三郎の作品を読み、リアリティーがあり「二人の文章を読んでこれはダメだ、全く敵わない」と作家を目指すことを断念しました。
ジャーナリストになることを目指して、昼間の早稲田大学第一文学部史学科に再入学しました。
卒論は森鴎外にしました。(タイトルは「ドロップイン」)
軍医でありながら当時の政府を平気で批判することを書いていて、これはいいなあと思いました。
いろいろな放送局、新聞社を受けましたが、全部落ちてしまって、岩波映画製作所に入社しました。
カメラ助手で不器用で困りまして、降ろされてしまいました。
1960年安保反対のデモに参加していました。
「楽しい科学」という番組の助手をやらなかという事でやっていたら、TVなので毎週なので台本を書くことになりました。
小児麻痺が流行っていて、小児麻痺のウイルスのフィルムがあることが判って、小児麻痺の脚本を書いて現場を担当して、演出家に見せたらだめだと取り直してこい言われました。
一緒に入った清水邦夫さんから自分で編集したらどうかといわれて、ヌーヴェルヴァーグの手法を取り入れて初めて編集しました。
放送したら賞をとることになってしまいました。
TVのいい加減さに興味を抱き、TV東京が開局しようとしていて、何とか行けました。
製作費は他局と比べて1/3程度なので、対抗するにはどうしたらいいか考えて、危ない番組、スポンサーに直接売り込むしかないと思ってスポンサーがOKしてくれれば手前勝手な番組ができるので。
自由に番組が作れて有難いことでした。
『ドキュメンタリー青春』で寺山修司さんがが主宰していた劇団「天井桟敷」の舞台『青ひげ』に感銘を受け劇団に入団したカルメン・マキさんの取材をしました。
カルメン・マキさんが歌を歌いたいという事で、寺山修司さんが作ってやろうという事で「時には母のない子のように」(作詞:寺山修司、作曲:田中未知)ができました。
売れていろんなTV番組に出るようになった。
ジャズピアニスト・山下洋輔さんを撮ろうと思った時に山下洋輔さんが「ピアノを弾きながら死ねるといい」といったため、、バリケード封鎖されていた大隈講堂からピアノを持ち出して山下さんに弾かせることを考え、中核派から分裂した組織「反戦連合」のメンバーたちが運びだし、そのピアノを山下さんが演奏した、いろんな組織、先生も聞きに来ていたが、内ゲバは起きず静かに聞いていた。
私の音楽とは全く外れたが、山下さんは最高の演奏だったと言う事で、彼はその後レコードにしました。
例えば大隈講堂からピアノを持ち出す、これはやらせで、やらせ的な演出をして、その結果としてどうなるか、そういう手法を取りました。
対象と深くかかわっており、下手をすると相手を壊す可能性があり、これがドキュメンタリーの一番の問題だと思います。
滋賀県彦根市の出身、85歳。
昭和、平成、令和になった今もTVと活字の世界で現役を貫いています。
一回目は日常、生い立ち、TVディレクター時代を振り返っていただきます。
新型コロナウイルスは中国から始まって、アジア、ヨーロッパ、アメリカで今後南米などとなって行くでしょうね。
ツイッターは10年前からやっています。(フォロワー数は108万人)
反応がすぐあるので面白いです。
人に会うのが好きで一日に4組ぐらい会いますが、それ以外はほとんど原稿を書いています。
寝るのは夜中の一時前後で、起きるのは9時です。
朝食後2,30分散歩します。
朝食は自分で作ります、妻が生きているころからそうしています。
今日も生きているよと伝えるために朝と夜に娘たちに電話をします。
去年から今年にかけての本、日中問題、「伏魔殿」(総理官邸について)、「人は120歳まで生きられるか」(生命科学の最前線について)、「脱属国論」(対米従属を続けていいのか)など多彩なテーマ。
戦争を知っている最後の世代です。
小学校の5年生の夏休みに天皇の玉音放送がありました、これが大きいです。
小学校5年生の時の一学期に先生が「諸外国が植民地化しているアジアの国を独立解放させるための戦争である。君たちも早く大人になって戦争に参加して天皇陛下のために名誉の戦死をするように。」といわれてその通りだと思っていました。
戦争が終わったらしい、負けたらしいという事で2学期になり占領軍がやってきた。
先生のいう事、ラジオ、新聞のいう事が180度変わった。
一学期まで日本の英雄としてラジオ、新聞が褒めたたえていた人々が、二学期になると占領軍に逮捕された。
戦争中は東条英機は総理大臣でいかに素晴らしいかとか言われていたが、二学期になると逮捕されて、ラジオ、新聞も逮捕されて当然であると、いかに彼が悪いことをしたかと、価値観が180度変わって、これが私の原点で、先生、マスコミも信用できない、国も国民を騙すという事が原点です。
ジャーナリストになったきっかけでしょうね。
情報をきちん取材して自分で確かめないといけないと思っています。
新型コロナウイルスにしても韓国に比べて検査数が少ないので、本当は検査すべきなのにしていないのではないか、検査を多くすると感染者の数が多くなるのでそうしないために検査していないのではないかと、そういう疑いもあります。
滋賀県立彦根東高等学校に入学しました。
高校の時には作家になろうかと思いました。
作家を志して上京し日本交通公社(現JTB)で働きながら早稲田大学第二文学部日本文学科(夜学)に行きました。
家には必ず仕送りをするという事で親を説得して東京に行き来ました。
同人雑誌に投稿しましたが、駄目でした。
石原慎太郎さんの「太陽の季節」、大江健三郎の作品を読み、リアリティーがあり「二人の文章を読んでこれはダメだ、全く敵わない」と作家を目指すことを断念しました。
ジャーナリストになることを目指して、昼間の早稲田大学第一文学部史学科に再入学しました。
卒論は森鴎外にしました。(タイトルは「ドロップイン」)
軍医でありながら当時の政府を平気で批判することを書いていて、これはいいなあと思いました。
いろいろな放送局、新聞社を受けましたが、全部落ちてしまって、岩波映画製作所に入社しました。
カメラ助手で不器用で困りまして、降ろされてしまいました。
1960年安保反対のデモに参加していました。
「楽しい科学」という番組の助手をやらなかという事でやっていたら、TVなので毎週なので台本を書くことになりました。
小児麻痺が流行っていて、小児麻痺のウイルスのフィルムがあることが判って、小児麻痺の脚本を書いて現場を担当して、演出家に見せたらだめだと取り直してこい言われました。
一緒に入った清水邦夫さんから自分で編集したらどうかといわれて、ヌーヴェルヴァーグの手法を取り入れて初めて編集しました。
放送したら賞をとることになってしまいました。
TVのいい加減さに興味を抱き、TV東京が開局しようとしていて、何とか行けました。
製作費は他局と比べて1/3程度なので、対抗するにはどうしたらいいか考えて、危ない番組、スポンサーに直接売り込むしかないと思ってスポンサーがOKしてくれれば手前勝手な番組ができるので。
自由に番組が作れて有難いことでした。
『ドキュメンタリー青春』で寺山修司さんがが主宰していた劇団「天井桟敷」の舞台『青ひげ』に感銘を受け劇団に入団したカルメン・マキさんの取材をしました。
カルメン・マキさんが歌を歌いたいという事で、寺山修司さんが作ってやろうという事で「時には母のない子のように」(作詞:寺山修司、作曲:田中未知)ができました。
売れていろんなTV番組に出るようになった。
ジャズピアニスト・山下洋輔さんを撮ろうと思った時に山下洋輔さんが「ピアノを弾きながら死ねるといい」といったため、、バリケード封鎖されていた大隈講堂からピアノを持ち出して山下さんに弾かせることを考え、中核派から分裂した組織「反戦連合」のメンバーたちが運びだし、そのピアノを山下さんが演奏した、いろんな組織、先生も聞きに来ていたが、内ゲバは起きず静かに聞いていた。
私の音楽とは全く外れたが、山下さんは最高の演奏だったと言う事で、彼はその後レコードにしました。
例えば大隈講堂からピアノを持ち出す、これはやらせで、やらせ的な演出をして、その結果としてどうなるか、そういう手法を取りました。
対象と深くかかわっており、下手をすると相手を壊す可能性があり、これがドキュメンタリーの一番の問題だと思います。
2020年4月1日水曜日
南木佳士(小説家・医師) ・「尊厳死に向き合う」
南木佳士(小説家・医師) ・「尊厳死に向き合う」
この春公開された映画『山中静夫氏の尊厳死』、末期の肺がんを宣告された男性が生まれ故郷で死ぬために信州の病院に転院してきます。
家族の反対を押し切ってきたその患者は、動ける間はと外出許可を担当医に求めました。
医師はその患者との約束を守って、初めて尊厳死というものに向き合おうとします。
原作者の南木佳士さんは群馬県の生まれ、68歳。
1989年に「ダイヤモンドダスト」で芥川賞を受賞しました。
長野県の佐久市の病院で今も医師を務めながら作家活動を続けています。
あまりにも多くの死に出会う中でご自身もかつてうつ病を発症した経験をお持ちです。
『山中静夫氏の尊厳死』は今から26,7年ぐらい前に書いた作品です。
自分の体調が悪くて小説も書けないし、医者の仕事も満足にできない頃にようやく少し書けるという様になった作品です。
山中静夫氏は57歳、末期の肺がんを宣告されて主人公の今井医師の病院にやってきて、「楽に死なせてください」と医師に告げて故郷の誰も住まなくなった実家のそばで墓を作り始めるという話ですが。
呼吸器内科はどうしても肺がんの患者さんを診ますので、30年前の肺がんの患者さんは進行した形で見つかることが多かったです。
亡くなる方々はどこへ行くと思って亡くなってゆくんだろうと常に思っていました。
モデルになる方はいませんが、患者さんの平均的な思いはこういう事ではないかと思って想像しました。
自分でも体調が悪い時にも死を考えていたので、故郷の裏山に埋葬してほしいとは妻に言っては怒られていました。
病院の社宅みたいなところに住んでいたので、たえず重症の患者さんがいたので夜間の呼び出しはしょっちゅうでした。
小説も書いていたので書いている途中に呼び出されて、そのまま病院にいて朝を迎えるという事もありました。
今考えると無茶だと思いますが当時はそのようなことができると考えていました。
生まれは群馬県嬬恋村です。
中学2年になるときに父の都合で東京に転校しました。
都立高校2年生の頃に手に職をつけて田舎でもできる仕事をやりたいと思っていまいた。
田舎には医師が非常に少なかったので、田舎に戻って医師の仕事をしたいのが第一でした。
秋田大学の医学部に入って佐久の病院に行きました。
病院に勤めて3,4年後に難民の医療でカンボジアのタイ国境地帯に行きました。(28歳)
3か月で交代する医療チームでした。
そこでは人間ってしたたかに生きていくんだなと感じました。
若者たちと話し合う機会がありましたが、日本が何か災害戦争にあったらカンボジアに逃げてくるといいよと言っていました。(ちょっとした着るものさえあれば大丈夫だと)
難民の医療に携わっているときに宿舎に、文学界の新人賞を受賞しましたという、電話が無いので無線連絡がありました。
実際に人が亡くなってゆく状況を診る仕事なんだと医師になってみるまでわからなかった。
1年目から重症の患者さんを受け持ち、この仕事はしんどいなという事がありました。
しんどさを俯瞰するような形で文章にして捉えなおしておかないと、何をやっているのかわからないという事がありました。
医療現場の現実、患者と医療者の現場を伝えたいという事がありました。
死の現場としての病院、そこでは毎日起こっている。
死との出会いの後に家に帰って子どもが風呂から上がって拭いてもらった後に自分に跳びついてくると、どういう顔を返せばいいんだろうと、そういった中で私はどの位置に居ればいいんだという事がいつも疑問でした。
私が不幸なぐらいの方が患者さんを診るという状態にはあっているんじゃないかという事で家族サービスを全くしたことが無いという事になってしまいました。
1989年に「ダイヤモンドダスト」で芥川賞を受賞しました。
うつ病を発症した翌年の秋でした。
芥川賞候補には4回なって5回目で受賞することになりました。(37歳)
3,4回目になると書き続けなければという様な気持ちになりました。
受賞した時にはほっとしましたが、今後はプロの作家としてやらなければいけないと思って自分に課すハードルは高くなったという事はあります。
体調が悪くなったのは38歳でした。
芥川賞を取ると次の月の発売の文学界に新しい作品を載せるという事があります。
3日間で一作仕上げて送ったという事もありました。
3ケ月に一遍必ず短編を書けとか言われて書いていました。
やればできるとはおもっていましたが、ある日急にめまいがしてソファーで横になっていたが不安感がやまないで、妻に車で迎えに来てもらって家に帰りました。
妻が顔を見て生きている顔色ではなかったと言っていました。
翌日病院に行くが階段を昇ろうとするが足が出ていかなくて、検査入院したが大丈夫だと言われて、これは鬱かもしれないと思いました。
1ケ月して精神の外来に行ってみてもらったら、すぐに入院しなさいと言われてしまいました。
しかし頼み込んで自宅療養にしてもらいました。
子どもは1年生と3年生でしたし、眠ろうとしても眠れませんでした。
死のことを考えて得たいの知れない怖さがありました。
眠りに付けないと昔のことを考えてしまって、患者さんが亡くなってゆくところで、300人以上見ていたのでひとりひとり瞼の裏に出てくる、そんな感じでした。
症状が良くなるまで2年半ぐらいかかりました。
変えてくれたのは、一つは時で、もう一つは末期がんの診療医師と芥川作家という役を降りざるを得なかった、降りたという事です。
生きていられるだけで儲けものだという事でもう一回動き出したという事です。
諦める、事態を明らかに見る、それが一番だったと思います。
子どもたちには勉強しなさいと言っていましたが、そういうことは全く言わなくなりました。
子どもたちの遊び相手にトラ(猫)がなってくれて、私が何とか大丈夫な様になった頃に15年いたトラが亡くなってしまいました。
トラが亡くなったときには子どもたちも来てくれてみんなで見送りました。
研修医だったころに教えた若い医者が精神科医になって、不安でたまらなかった時に夜に救急で跳び込んだことがあって、彼が丁寧に対応してくれて諄々と諭してくれました。
鬱は良くなったり悪くなったり繰り返しながら徐々に良くなってゆく、確かに実感です。
鬱の直接の原因はないです、毎日の亡くなる方を看取る生活がボディーブローの様に少しずつ効いていて、或るとき普通の一回のパンチでガクッと来てしまうという事だと思います。
最期を看取る医者も沢山いるという事です。
患者さんが亡くなってゆくのを見ていると、人というものはいずれこういう風になってゆくのが当たり前なので、私に起こらないはずなないという発想になってゆきます。
周り周って自分の背中に張り付いてくるというような感じがします。
一人の人が段々呼吸を止めてゆく過程が診る者にとってはエネルギーを吸い取られてゆくような気がする仕事です。
エネルギーをもらう産婦人科医とは逆のような感じがします。
心身ともにタフではないとだめだと思います。
肺がんの患者さんは末期になると呼吸困難になりますが、酸素を投与するが苦しさが消えないとなると、モルヒネを点滴したりすることになりますが、そうすると呼吸は楽になりますが、呼吸が浅くなったり、意識がとろとろしてくるので、家族の人ときちんと話せなくなったりします。
患者さんを楽にしたいという事だったら、モルヒネを使い続けるんですが、やがて全身が衰弱してくるので、安楽死と尊厳死の間ってどこなんだろうなという事をいつも考えていました。
尊厳死をきちんとやろうとすると、あの映画のようにかなり患者さんもたいへんなことになるし、家族も大変なことになるし、という事です、難しいです。
なにか基準となるという事はないです。
30年前は末期ですよとは患者さんには伝えませんでしたが、今は告知するようになって現実の状況を医師がきちんと話してあげられればいいなあと思います。
本人の意志をみんなが共有するという事だと思います。
地方では末期の人を診る内科、外科の人数が足りないと思います。
30年前とは医学部卒業生が倍になっていると思いますが、そういったところを避ける傾向があるのではないかと思います。
今というのが或るときパタッと終わるんだなという、そっけない死生観になってしまいました。
明日踏み出せばもうそうかもしれないと思いながら生きていると、日々ちゃんと暮らそうという風になります。
山を歩いてみると気分がよくなりリラックスしました。
うつ病の再発の予防としては脳の血流の循環を良くするために、しっかりとした心拍数を上げる運動が有効であるという事が常識になっています。
この春公開された映画『山中静夫氏の尊厳死』、末期の肺がんを宣告された男性が生まれ故郷で死ぬために信州の病院に転院してきます。
家族の反対を押し切ってきたその患者は、動ける間はと外出許可を担当医に求めました。
医師はその患者との約束を守って、初めて尊厳死というものに向き合おうとします。
原作者の南木佳士さんは群馬県の生まれ、68歳。
1989年に「ダイヤモンドダスト」で芥川賞を受賞しました。
長野県の佐久市の病院で今も医師を務めながら作家活動を続けています。
あまりにも多くの死に出会う中でご自身もかつてうつ病を発症した経験をお持ちです。
『山中静夫氏の尊厳死』は今から26,7年ぐらい前に書いた作品です。
自分の体調が悪くて小説も書けないし、医者の仕事も満足にできない頃にようやく少し書けるという様になった作品です。
山中静夫氏は57歳、末期の肺がんを宣告されて主人公の今井医師の病院にやってきて、「楽に死なせてください」と医師に告げて故郷の誰も住まなくなった実家のそばで墓を作り始めるという話ですが。
呼吸器内科はどうしても肺がんの患者さんを診ますので、30年前の肺がんの患者さんは進行した形で見つかることが多かったです。
亡くなる方々はどこへ行くと思って亡くなってゆくんだろうと常に思っていました。
モデルになる方はいませんが、患者さんの平均的な思いはこういう事ではないかと思って想像しました。
自分でも体調が悪い時にも死を考えていたので、故郷の裏山に埋葬してほしいとは妻に言っては怒られていました。
病院の社宅みたいなところに住んでいたので、たえず重症の患者さんがいたので夜間の呼び出しはしょっちゅうでした。
小説も書いていたので書いている途中に呼び出されて、そのまま病院にいて朝を迎えるという事もありました。
今考えると無茶だと思いますが当時はそのようなことができると考えていました。
生まれは群馬県嬬恋村です。
中学2年になるときに父の都合で東京に転校しました。
都立高校2年生の頃に手に職をつけて田舎でもできる仕事をやりたいと思っていまいた。
田舎には医師が非常に少なかったので、田舎に戻って医師の仕事をしたいのが第一でした。
秋田大学の医学部に入って佐久の病院に行きました。
病院に勤めて3,4年後に難民の医療でカンボジアのタイ国境地帯に行きました。(28歳)
3か月で交代する医療チームでした。
そこでは人間ってしたたかに生きていくんだなと感じました。
若者たちと話し合う機会がありましたが、日本が何か災害戦争にあったらカンボジアに逃げてくるといいよと言っていました。(ちょっとした着るものさえあれば大丈夫だと)
難民の医療に携わっているときに宿舎に、文学界の新人賞を受賞しましたという、電話が無いので無線連絡がありました。
実際に人が亡くなってゆく状況を診る仕事なんだと医師になってみるまでわからなかった。
1年目から重症の患者さんを受け持ち、この仕事はしんどいなという事がありました。
しんどさを俯瞰するような形で文章にして捉えなおしておかないと、何をやっているのかわからないという事がありました。
医療現場の現実、患者と医療者の現場を伝えたいという事がありました。
死の現場としての病院、そこでは毎日起こっている。
死との出会いの後に家に帰って子どもが風呂から上がって拭いてもらった後に自分に跳びついてくると、どういう顔を返せばいいんだろうと、そういった中で私はどの位置に居ればいいんだという事がいつも疑問でした。
私が不幸なぐらいの方が患者さんを診るという状態にはあっているんじゃないかという事で家族サービスを全くしたことが無いという事になってしまいました。
1989年に「ダイヤモンドダスト」で芥川賞を受賞しました。
うつ病を発症した翌年の秋でした。
芥川賞候補には4回なって5回目で受賞することになりました。(37歳)
3,4回目になると書き続けなければという様な気持ちになりました。
受賞した時にはほっとしましたが、今後はプロの作家としてやらなければいけないと思って自分に課すハードルは高くなったという事はあります。
体調が悪くなったのは38歳でした。
芥川賞を取ると次の月の発売の文学界に新しい作品を載せるという事があります。
3日間で一作仕上げて送ったという事もありました。
3ケ月に一遍必ず短編を書けとか言われて書いていました。
やればできるとはおもっていましたが、ある日急にめまいがしてソファーで横になっていたが不安感がやまないで、妻に車で迎えに来てもらって家に帰りました。
妻が顔を見て生きている顔色ではなかったと言っていました。
翌日病院に行くが階段を昇ろうとするが足が出ていかなくて、検査入院したが大丈夫だと言われて、これは鬱かもしれないと思いました。
1ケ月して精神の外来に行ってみてもらったら、すぐに入院しなさいと言われてしまいました。
しかし頼み込んで自宅療養にしてもらいました。
子どもは1年生と3年生でしたし、眠ろうとしても眠れませんでした。
死のことを考えて得たいの知れない怖さがありました。
眠りに付けないと昔のことを考えてしまって、患者さんが亡くなってゆくところで、300人以上見ていたのでひとりひとり瞼の裏に出てくる、そんな感じでした。
症状が良くなるまで2年半ぐらいかかりました。
変えてくれたのは、一つは時で、もう一つは末期がんの診療医師と芥川作家という役を降りざるを得なかった、降りたという事です。
生きていられるだけで儲けものだという事でもう一回動き出したという事です。
諦める、事態を明らかに見る、それが一番だったと思います。
子どもたちには勉強しなさいと言っていましたが、そういうことは全く言わなくなりました。
子どもたちの遊び相手にトラ(猫)がなってくれて、私が何とか大丈夫な様になった頃に15年いたトラが亡くなってしまいました。
トラが亡くなったときには子どもたちも来てくれてみんなで見送りました。
研修医だったころに教えた若い医者が精神科医になって、不安でたまらなかった時に夜に救急で跳び込んだことがあって、彼が丁寧に対応してくれて諄々と諭してくれました。
鬱は良くなったり悪くなったり繰り返しながら徐々に良くなってゆく、確かに実感です。
鬱の直接の原因はないです、毎日の亡くなる方を看取る生活がボディーブローの様に少しずつ効いていて、或るとき普通の一回のパンチでガクッと来てしまうという事だと思います。
最期を看取る医者も沢山いるという事です。
患者さんが亡くなってゆくのを見ていると、人というものはいずれこういう風になってゆくのが当たり前なので、私に起こらないはずなないという発想になってゆきます。
周り周って自分の背中に張り付いてくるというような感じがします。
一人の人が段々呼吸を止めてゆく過程が診る者にとってはエネルギーを吸い取られてゆくような気がする仕事です。
エネルギーをもらう産婦人科医とは逆のような感じがします。
心身ともにタフではないとだめだと思います。
肺がんの患者さんは末期になると呼吸困難になりますが、酸素を投与するが苦しさが消えないとなると、モルヒネを点滴したりすることになりますが、そうすると呼吸は楽になりますが、呼吸が浅くなったり、意識がとろとろしてくるので、家族の人ときちんと話せなくなったりします。
患者さんを楽にしたいという事だったら、モルヒネを使い続けるんですが、やがて全身が衰弱してくるので、安楽死と尊厳死の間ってどこなんだろうなという事をいつも考えていました。
尊厳死をきちんとやろうとすると、あの映画のようにかなり患者さんもたいへんなことになるし、家族も大変なことになるし、という事です、難しいです。
なにか基準となるという事はないです。
30年前は末期ですよとは患者さんには伝えませんでしたが、今は告知するようになって現実の状況を医師がきちんと話してあげられればいいなあと思います。
本人の意志をみんなが共有するという事だと思います。
地方では末期の人を診る内科、外科の人数が足りないと思います。
30年前とは医学部卒業生が倍になっていると思いますが、そういったところを避ける傾向があるのではないかと思います。
今というのが或るときパタッと終わるんだなという、そっけない死生観になってしまいました。
明日踏み出せばもうそうかもしれないと思いながら生きていると、日々ちゃんと暮らそうという風になります。
山を歩いてみると気分がよくなりリラックスしました。
うつ病の再発の予防としては脳の血流の循環を良くするために、しっかりとした心拍数を上げる運動が有効であるという事が常識になっています。