2021年3月31日水曜日

庄子ヤウ子(ぬいぐるみ工房代表)     ・ふるさとの空と今をつなぐテディベア

庄子ヤウ子(ぬいぐるみ工房代表)     ・ふるさとの空と今をつなぐテディベア

東日本大震災が引き起こした福島第一原子力発電所の事故から10年が経ちました。  庄子さんは被害が大きかった福島県大熊町出身で現在73歳。  原発事故の後会津若松市に避難しました。  新しい土地で生活を立て直し自立するために、会津木綿などで布小物を作る工房を設立しました。  そこで生み出したオリジナルのテディベアは「會空(あいくう)」と名付けられ、国内はもとより海外でも注目され人気商品となりました。 

今年は3月11日その時間に取材を受けていました。   当日は避難の気持ちとか不安だらけの状態でした。  揺れが収まってから梨畑に逃げました。 地割れが無いと思って。   防災無線で津波が心配だという事で、スポーツセンターに避難するように指示があり、行ったが誘導する人も誰もいなかったので、駅前の娘の家に行って一晩過ごして、翌日東電から非難するように言われたが放射能のことは知らされていませんでした。  田村市の体育館にいって2晩過ごしました。   情報が入ってきませんでした。 その後西へ移動という事で2000人ぐらい収容できるところに4月3日までいました。  そこではTVも見られたので津波、原発のことなどがわかりました。  もう大熊には帰れないと愕然としました。   その後民宿とかに割り当てられ、民宿に入り、その後仮設住宅が建てられ割り振られました。(6月26日)   現在、仮設住宅から1kmぐらい離れたところに住む事になりました。  元の家は中間貯蔵所の土地として売却しました。 虚しいです。

仮設にいるときに、物つくりしないかと誘われて、仲間4人とスタートしました。 「會空(あいくう)」という名前にしました。  最初は内職の仕事から始めました。  オリジナルを作ろうという事になって、熊をモデルにしようという事になりました。  デザインは色々苦労をして出来上がっていきました。  自立という事をイメージして、立たせられるようにしました。  会津木綿の良さを伝えつつという事で会津木綿を使っています。

2012年に立ち上がって、ネット販売を含め、大分広がってきました。  2014年パリに繋がりました。  50体作りました。  世界最高峰のインテリア・デザインの総合見本市「メゾン・エ・オブジェ」の福島県ブースに「會空」は県のマスコットとして並べられた。  奇跡だと思いました。   パリの舞台で「とにかく可愛らしい、ストーリーが見える」という理由から、出展した中でもダントツの高評価を得ました。  もう作ったものは1万個以上になると思います。   基本的にはスタート時の4人でやっています。  営業関係はパソコンを使ったりして、娘にやってもらっています。

東日本大震災の語り部活動を並行してやっています。  「會空」は相棒です。  「生き直し」という事で会津若松でやっています。  仕事をするという事は社会とつながるということだと思います。  このようにやっていける原動力は悔しいからです。  私たちは何にも悪いことをやっていなかった日常がありましたが、信じられない事があって悔しいわけです。  物つくりで支えられていると思います。   明日があれば生きていけるし、明日があれば何かをやらなければいけない、黙っていたら何も起こらないという事です。 私たちがやろうと言い始めたときに、みなさんからいろんな手を差し伸べてもらいました。皆さんの助けがあって「會空」が出来上がったので、感謝の気持ちでいっぱいです。













 

2021年3月30日火曜日

キーン誠己(浄瑠璃三味線演奏者・養子) ・【わが心の人】ドナルド・キーン

 キーン誠己(浄瑠璃三味線演奏者・養子) ・【わが心の人】ドナルド・キーン

ドナルド・キーンさんは1922年ニューヨーク生まれ、欧米に日本の文学作品や文化を広く紹介しました。   2011年3月の東日本大震災の後、日本人を励ましたいと日本国籍を取得しました。   2019年2月24日に亡くなられました。 96歳でした。  キーン誠己さんは音楽活動を通じて、ドナルド・キーンさんと出会い2011年から共に暮らし、ドナルド・キーンさんの晩年を支えました。

父が亡くなりあっという間に過ぎました。  「黄犬忌」と漢字にしました。 父はよく当て字でいろいろ書いていました。  黄犬も若いころから使っていましたので、これを使いました。   「黄犬忌」には講演会も行いました。  今年も色々企画がありましたが、中止になってしまいました。   

2006年11月、人形浄瑠璃の文学座で三味線弾きをしていましたが、辞めて新潟の実家に戻って家の手伝いをしていました。   ドナルド・キーンさんの講演会があって控室に何の連絡も無しに行きましたら、温かく迎えていただいて、親しくしていただきました。 父は手紙を書いたりするのが豆で日課になっていました。  英語、日本語、フランス語は同じスピードで書いていました。   2011年東日本大震災が起こると日本人になろうと決意しました。   2011年9月から東京で一緒に暮らすようになり、2012年3月に父が日本国籍を取得して、直後に養子縁組をしました。  自然に受け入れられました。 

寝食を共にしたのは8年足らずでしたが、大変充実した毎日で父も喜んでくれたと思います。   学者である、研究者である、教育者であるという事を強く意識していました。  自分は日本文学の伝道師であるという事をしょっちゅう言っていました。  第二次世界大戦でいろいろ見聞き、日本語の語学将校として経験しているので、根っからの平和主義者で、差別を極端に嫌う人でした。   ユーモアを持った人で話が旨い方でした。

勉強が好きで無理が好きですと言っていました。  音楽、特にオペラが好きでした。  「オペラへようこそ」という本は父が亡くなって一か月後ぐらいに出版しました。    ニューヨークに行けばオペラ座で3,4回と行きましたし、日本でも行きました。  オペラ映画も年間15本ぐらい見ていました。   歌手ではマリア・カラスが大好きでした。

日本の伝統音楽、浄瑠璃が好きで日本に来て観る前から好きで研究論文も出していました。 私が稽古したりするのを聞いていたりして執筆していました。  何度か二人で講演をしました。  演目は新潟県が舞台で、「越後國・柏崎 弘知法印御伝記」という作品で、日本には本が残っていなくて、大英博物館にあって1962年に鳥越先生が発見して、父がこれをやったらいいんじゃないかという事で、人形使いの方たちと協力し合って2009年に作り上げました。  300年ぶりに復活して注目されて2017年にはロンドンまで行って父がレクチャして講演しました。  全部やると3時間近くかかります。 

*「越後國・柏崎 弘知法印御伝記」六段目 クライマックスの部分 語り、三味線:キーン誠己

父もこういう世界が好きでした。  父は近所でも人気者で買い物を毎日のようにいって、いろんな店の人と気楽に声を掛け合っていました。   料理も好きでステーキは絶品でした。  俳句も時々作っていました。  代表作に「罪なくも流されたしや佐渡の月」いう句がありました。  「稲刈りや二百とせのかたみなり」? 金沢で作ったもので1976年の句だと判りました。  アメリカの建国200年を記念したものの句です。

ドナルド・キーン財団を作って、関係機関と連携してやっていきたいと思っています。  父の残した膨大な資料をきちっと整理して後世に残したいと思います。  来年は生誕100年という事で、記念のドナルド・キーン展を神奈川近代文学館で5月からやっていただく事になっています。




2021年3月29日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)          ・【絶望名言】「梶井基次郎」(初回:2020/3/23)

 頭木弘樹(文学紹介者)       ・【絶望名言】「梶井基次郎」(初回:2020/3/23)

https://asuhenokotoba.blogspot.com/2020/03/blog-post_63.htmlをご覧ください。


2021年3月28日日曜日

比留間榮子(薬剤師)            ・心を重ねる処方箋

比留間榮子(薬剤師)             ・心を重ねる処方箋

97歳、今でも朝8時半から夜7時半まで店に立ち95歳のときには世界最高齢の現役薬剤師に認定されました。  お父さんの薬局を継いで76年、ただ調剤をして薬を渡すだけではなく、お客さんの話を親身に聞き、心に寄り添う優しさから人はみな榮子先生と呼びます。  お客さんに手を添え心を重ね続けて、榮子先生が薬と共に寄り添って手渡してきた言葉の薬、人に寄り添う処方箋を伺います。

私が生まれた大正12年父が創業しました。 97年になります。  95歳のときには世界最高齢の現役薬剤師という事でギネスブックに載りましたが、孫がいろいろ動いてくれました。   朝8時半から夜7時半まで店に立ち、月曜日から土曜日までやっています。  昔は休みもなく日曜日もやっていて、朝6時ごろから夜10時までやっていました。    朝は家族には「おはようございます」と仏壇には「おはようございます」と「今日一日見守ってください」と、そして店について調剤室に向かっても一礼して「お客様のために元気で働けるよう、お薬を届けさせてください」と毎日挨拶を続けてきました。   お客様に納得していただくようにいろいろ説明したりしています。  一人暮らしの方が多くなってきて店で色々話をしてゆく人もいます。  

話をしっかりする薬剤師がいるという声を聞いたこともあります。  薬局には暖簾が下がっていて気軽に入ってこられます。  昔は余り医者にはいかないで薬局に来てすますようなことがよくありまして、いろいろアドバイスしていたりしました。  聞いてあげるという事が大事です。   湿布を張ってあげたりして、手当、手を当てて温もりを感じていただく、「困ったらいつでもいらっしゃい」というと、お客様の気持ちにも元気が出て、帰って行きます。

「疲れた」という言葉は出さないようにしています。  「疲れた」というとお客さんまで疲れた顔になってしまいます。    「ありがとう」、「お大事に」という言葉は大事にして言っています。   

70代の男性が薬を取りに来た時に混雑していてすぐに渡す事が出来なくて、怒って帰ってしまったので、後で家に謝罪に行ったんですが、玄関先でもういいと投げやりになっていて、なんとかお詫びをしたら根負けしました。  聞くと数か月前に妻を亡くした寂しさ、すべて一人でやらなくてはいけないとかいろいろあって強い口調になってしまったという事で、最後には「ありがとう」と言ってくれて理解してくれました。

新しい薬とかもあり色々薬の知識を覚えていくのが大変ですが、勉強します。  接客の合間にパソコンを開いて新しい医薬品の名前を調べたり、会議に参加しますし、LINEもやります。  勉強はこれで終わりという事はないです。  一生現役で行きたいです。  朝は酵素、夜は缶ビール一本飲みます。  病気はしませんが、股関節が痛くなり、入院して人工関節にし不自由になりました。   働けることは幸せだとつくづく感じます。

なんでも皆さんと相談できるのが薬剤師の仕事だと思います。  お客様と医療に携わる人達との間に立つ命の門番だと思っています。  でも薬だけに頼る生活はお勧めしてはいません。 ただ薬を飲むという事ではなくて、30分リラックスする時間を作って、心身をリセットすることが大切だと思います。   毎日を大切にして明るくやってゆくのが身体のためには一番いいことではないかと思います。



 

2021年3月27日土曜日

巻上公一(音楽家・プロデューサー)   ・【私の人生手帖(てちょう)】

 巻上公一(音楽家・プロデューサー)   ・【私の人生手帖(てちょう)】

ヒカシュー」のリーダー、ヒカシューは1978年に結成され、独創的な音楽世界を発信し続けています。  作詞、作曲はもちろん口琴を使ったコラボレーションなど、世界各地で行うなど、ソロとしても多彩な活動をしています。  近年は東京調布市仙川、故郷熱海の音楽祭のプロデュースなども手掛けて、去年は初めての詩集を上梓しました。  デビューから43年いまだに進化を続ける巻上さんの人生手帳です。

役者になりたくて、高校在学中に、劇団「東京キッドブラザーズ」のオーディションを受けて入りました。   ニューヨーク公演に一緒に行きました。  ロンドンにも行き英語でやったんですがニューヨークとロンドンでは全然違っていました。   劇団を辞めて日本に戻ってきて、作曲を始めてライブをやってみようという事になり、ヒカシュー」という名前で始めたのが音楽の最初でした。   両親は音楽とは関係なかったです。   

最初はプロダクションに所属していましたが、辞めて自由になりました。  お陰で40年以上続けられました。  その間に2人なくなりました、ドラムの谷口さん、サックスの野本さん。    その後15年ぐらいメンバーは全然変わっていません。   月に2,3回定期的にやっています。 新曲も毎月披露するという事もやっていました。  詩も大分鍛えられました。  今は先に詩からスタートします。  詩はもともと好きでした。  「幼虫の危機」「プヨプヨ」などの作品が生まれました。   

いろんな環境音、電車の音、バイクの音とかを含めて音楽ととらえると、環境にあるものを音楽にしてゆくことが出来る。   奇妙な音が僕は好きで、シンセサイザーなど面白いです。        コンピューターも使い始めました。  前衛的な音楽と民族音楽は地続きのように思っています。  1994年に、山梨県の白州フェスティバルに来日中のトゥバ共和国のホーメイ歌手の歌を聴いて魅了され、トゥバ共和国の音楽に興味を持って交流し始めました。  声が特別でだみ声を使ってさらに口笛のような音を紡ぎ出す。  トゥバ共和国モンゴルなどの伝統的な歌唱法「ホーミー ホーメイ喉歌)」  口の中で風が吹いている、小川が流れているような感じです。  ヒツジとか動物が好きな感じの音です。

ムックリ=口琴はユーラシア全体に分布しています。  オーストリアの口琴は一番作られています。     自分が一番気持ちいいです、歯を通じて身体全体に物凄い振動が伝わります。  長時間演奏するのが大変です。  空気を浄化してくれるような力を持っていると思います。  みんなに聞かせるポピュラーミュージックもいいと思うが、自分だけが楽しむ音楽もいいと思います。   

1985年に声がでなくなってしまったことがあり、恐怖感が激しくて、声の研究をしようと思いました。  膝の裏を緩めると声が出ます。  身体とつながっているでその構造を知ると割と声が上手く出るようになります。  その10年後に ホーメイ喉歌)とかムックリ=口琴に出会いました。  そのころが一大転機でした。  トゥバ共和国へは毎年訪問しては現地の演奏家と交流を続けています。(コロナでここの所駄目ですが)

 









2021年3月26日金曜日

市之瀬洋一(音楽ディレクター)     ・さつまの教えがディレクターの原点

市之瀬洋一(音楽ディレクター)     ・さつまの教えがディレクターの原点

ディズニー映画の吹き替え版の音楽監督を務める市之瀬さんは、俳優、声優、歌手と共に作品を作り上げるうえで大切にしている信念があります。  それが薩摩藩伝統の武士師弟の教え、郷中教育の教えです。  郷に入りては郷、上中下の中、の郷中教育の教えです。   西郷隆盛や大久保利通など薩摩藩に優れた人物が出したのも、この郷中教育にあると言われています。  市之瀬さんはその薩摩の教えを自分の業務に生かしていると話しています。

昭和28年(1953年)鹿児島県南九州市(旧・川辺郡川辺町)生まれ、鹿児島県立甲南高校に進学しました。   そこで衝撃的な音楽との出会いがあり、東京藝術大学音楽部声楽科に入学しました。  オペラ歌手を目指して研鑽しましたが、30代後半で断念、40歳で音楽制作の会社を立ち上げ現在に至っています。  

映画会社では日本語吹き替え版を製作しています。   替え版の中で歌われる音楽監督、音楽ディレクターを務めています。   ディズニー映画で最初に演出したのは 、1999年のターザンでした。  その後主なものではピーターパン、ブラザーベア、チキンリトル、リトルマーメイド・・・、近年ではマルフィセント、ジャングル・ブック、・・・ライオンキングなどがあります。

母校甲南高校で講演したものに3つのテーマがありました。  その一つが「さつまの教え」というものでした。  日本で世界で活躍するための最も求められるのが人間性、人格であり、人格を身に付けるためには「さつまの教え」が役に立つという趣旨の話をします。  

薩摩では郷中教育と呼ばれる薩摩独特の教育が行われていました。  青少年を年齢別に4つの世代にわけ、上のものが下の者に教える教育制度です。  武士としての心構え、四書、五経といった学習書、島津日新公いろはうたほか、軍事書として三国志、太閤記ほか、輪読書として曽我物語、赤穂義士伝、示現流をはじめとする武道、馬術なども教えられました。  郷中教育で最初に教わるのが、掟と呼ばれるもので、どんな場合でも刀は抜くな、抜いたらただでは鞘に納めるな、無刀なしで外出するな、・・・。

負けるな、嘘をつくな、弱い者いじめをするなという3つの掟です。  

「島津日新公いろはうた」の 

「いにしえの道を聞きても唱えても 我が行いにせずばかいなし」           (昔の賢者の立派な教えや学問も口に唱えるだけで、実行しなければ役に立たない。実践実行がもっとも大事である。)

「心こそ軍する身の命なれ そろゆれば生きそろわねば死ぬ」                 (戦いにおける教訓。衆心一致すれば勝ち、一致しなければ敗れる。)

西郷南洲遺訓」の

「道は天地自然の物にして、人は之れを行ふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給ふゆゑ、我を愛する心を以て人を愛する也。」

「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己れを尽て人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬ可し。」

を朗誦して行事や会議を行っています。

2つ目のテーマは名刺を頂いたら宝くじを頂いたと思え、それを当たりにするも外れにするも自分次第、というタイトルで、私がこれまでいろいろな人に助けられたエピソードを交えながら、人を、人との交わりを大切にすることの重要性を話しました。

3つ目が運、つき、流れを大切にという事で、そのためには来るべき時のために準備をすることが大切だという話をしました。

会社では不正が発覚し、その事務所をとびだし、自分の会社を設立しました。 「負けるな、嘘をつくな、弱い者いじめをするな」という掟の思いからでした。  何とか生活していましたが、或る会社から大きな仕事を任されました。 

「島津日新公いろはうた」の 「道にただ身をば捨てんと思いとれ かならず天のたすけあるべし」  (正しい道であれば一身を捨てて突き進め、そうすればかならず天の助けがあるはずである。)  まさにそれが起こって、それからは順風満帆でした。

或る有名なレコード会社から「音楽ディレクターをやらないか」という話がありました。  レッスン番組の講師をやってほしいとの話もありました。  断らないでやってきたので大変な時期でした。   その後ディズニーの仕事に挑戦することになりました。  次第に劇場物の映画も任されるようになり、現在に至る訳です。  

ディズニーの制作について話をしたいと思います。  制作過程を大きく、オーディション、翻訳、仮歌作成、本収録、トラックダウン、5つにわけます。

オーディションは日本を代表する歌手、俳優からお笑いタレント、ミュージシャンなど様々です。一人1時間で行います。  上手さではなく、求められる要素は役によってさまざまです。  

翻訳はプロの方が行いますが、時には作詞家をたててブラシアップします。 しかしさらに細かい注文がディズニーからくることもありますので、総力戦で行います。

子供の眼を意識しているので、教育の問題がある表現、過激すぎる表現、下品な表現などは極力さけなければなりません。  歌詞を譜面に書き入れて次が仮歌作成です。

本収録で歌っていただく歌手や、役者の方のお手本となる歌を収録する作業です。 非常に大切な作業です。 映像とのタイミングとか合わないという問題などがあります。  スタジオシンガーが時間をかけて合わせ込んでいきます。  

本収録では、歌い手とディレクターとのやり取りがあります。 ディレクターは歌いやすい環境作りを行います。 異和感が無いように注意深く行います。  

トラックダウンは音楽のお化粧のようなものです。  ちょっとした音程のズレ、タイミング、言葉を聞き取りやすくしたりする作業です。  パソコン上でほとんど修正は可能になってきていますが、感情表現などは人間でないと駄目なところです。

出来上がったものの評価が悪いという事はディレクターの問題だと思っています。

「日本人とユダヤ人」の本のなかで人間には頼るべきバイブルのようなものが必要ですが、日本人は日本人独特の道徳感がその代わりをしていて、それを称して日本教みたいであるという風に記憶していますが、その日本教的な道徳観念が薄れてきているように懸念しています。  学ぶツールが私の場合は、郷土の先輩たちが学んできた「島津日新公いろはうた」を代表とする薩摩の教えであり、「西郷南洲遺訓」です。  他の地方にもいろいろ教えがあると思います。   福島県会津藩の「十の掟」、長州藩吉田松陰の教え、上杉鷹山の生き方、藤田東湖の「水戸学」、橋本左内の「啓発録」、佐賀藩の「葉隠れ」などあります。









2021年3月25日木曜日

佐藤香(現代美術家)          ・【私のアート交遊録】故郷への思いを土に込めて

佐藤香(現代美術家)        ・【私のアート交遊録】故郷への思いを土に込めて 

1987年福島県田村市出身、東京芸術大学大学院壁画専攻終了制作展で発表した実家の土で描いた「私の故郷福島」をきっかけに、故郷福島や滞在したところの土で絵を描いています。  実家が原発からおよそ40kmのところにあるという佐藤さんの作品「私の故郷 福島」は和紙に実家の周辺で採取したおよそ9種類の土で、土本来の色だけで表現しています。   佐藤さんは汚染された土を使う事は鑑賞する人を怖がらせたり、原発問題に物申したいわけではなく、ただ故郷自慢のようなもの、私の故郷は視覚的には美しいままだという事を絵で表現したいと考えていると話します。  東日本大震災から10年、美術家佐藤さんの故郷やアートにこめる思いを伺いました。

その土地を勉強しながら制作することをポリシーに、主に土などを素材に描く活動をしています。   土は皆さんが想像する以上にいろんな色があります。   表現で重要なのは土の豊かさだけではなくて、その土そのものの存在を実現させて、見てくださる人がその土地のことを知ってもらうきっかけになるということが大事です。  最初に土で描いたのが大学院の卒業制作展のために描きました。   コンセプトは私の故郷は眼に見えない汚染にあっても変わらずに美しいままだという事で、どう感じるんだろうという事を知りたかった。  怖いと言うよりも土の美しさ、色の多様性に驚いているのが印象的でした。 

フレスコ画を東北芸術工科大学で学んでいて、それを本格的に勉強したくて大学院では東京芸術大学の壁画専攻を選びました。   生きているような感じで、乾いてしまうと描けなくなって、自然現象を感じながら描くのが面白いと思いました。  ラスコーの有名な壁画がありますが、芸大の日比野克彦さんがみて、もうここから人類の美術は進歩していないのではないかとおしゃっていましたが、私もそう思います。

小さいころから絵が好きでした。  父も美術大学を目指してもいましたし、美術館にもよく行きました。   震災があった時には茨木にいました。  5月にボランティアで参加しました。   瓦礫の山が渦のように見えて、若葉,胎児などこれから生まれるであろうものも渦に見えて、生まれるものもと終わりの形は共通していると思った時に、目の前の風景に絶望しました。   自然は循環しているものだから、人間も又作り直して始まればいいのかなあと思いました。  そこから渦が絵のモチーフになりました。  石巻のいろんな経験を経て卒業制作展に取りかかる時期になり、自分の土地に向かい合いたいと思って、題材にして見ようと思いました。

「私の故郷 福島」は縦10m×横3mの大きさです。   当時は放射線のことが騒がれていましたが、東京の人が見たときに福島の人と同じく向き合ってもらいたいと思って選んだのもあります。  福島の土を茨木のアトリエに持ち込んだので、先生と喧嘩をしたことがあります。   先生自ら放射線量を測って安全証明書を書いてもらって展示できますという証明をしました。  自分の故郷も安全だという思いもありました。

土の色見票を作っていろいろ土を集めていきました。   故郷自慢の様なものでそれを絵にしたものです。   怖がるか心配なところもありましたが、土ってこんなに綺麗な色がいっぱいあるねという感想のほうが多かったです。  自分自身も土に魅力を感じました。

進みゆく復興の中で、そこで生きる人がどのように考えて生きているのかと言う、リアルタイムな動きに寄り添ってゆくことが必要だと思いました。    そのためには福島の人が生活環境が変わって抱く説明できない喪失感を描き出す、例えば土着の神様を見ると心から安心するというインスピレーションを頂いて、遠い祖先との繋がりを連想する祠とか、祭りとか、土着的なものをモチーフに具現化しようかなと思っています。   汚染されて価値が見いだせなくなった土地、自然素材を別の価値を見出してゆく事はできないかなと考えています。   自分の住む土地の魅力や土地を再発見するきっかけになってくれればいいと思っています。   

現地のものを使っているところ大きいと思います、素材の力は大きいと思います。

お薦めの一点ですが、岡本太郎さんが書いた「今日の芸術」という本です。  爆発の意味が本を読むと判ります。  芸術の本質を教えてくれるような本です。








2021年3月24日水曜日

湯浅浩史(一般財団法人 理事長・所長) ・【心に花を咲かせて】不思議な植物を世界に訪ねて思うこと

 湯浅浩史(一般財団法人 理事長・所長) ・【心に花を咲かせて】不思議な植物を世界に訪ねて思うこと

マダカスカルなど世界の植物の生態を研究している湯浅さんは、植物を尋ねて世界中を旅しています。  訪れた国は60か国を越えるそうですが、そこでどんな植物と出会ったんでしょうか。   そうした植物を見つめていると様々なことが見えてきて、それは私たちの未来へのメッセシージでもあるとおっしゃいます。   珍しい植物の話、そして植物から見えてくるものについてお聞きします。

昨年1月~2月、チリとボリビアに行きました。  チリはそこにしかないサボテンを見に行きました。  サボテンはカナダからチリの南の方まで広く分布して、地域によって種類が違います。  チリのコピアポアというところの中心に俗名コピアポアというサボテンがあります。    小さくて親指ぐらいから一抱えもあるものがあり、変わっているのがあり一斉に北を向いていて日本では国王丸といって、肌は白くてとげが黒いんです。  ボリビアではウユニ湖という3000mぐらいのところに塩の湖があります。  そこにサボテンが生えています。  インカワシという島があり、世界一ハシラサボテンが密集しているところです。  塩に強いサボテンです。  

海外へは60か国を越えています。   食虫植物のウツボカズラの最も大きいのはボルネオのキナバル山の中腹で見ました。  長さが30cm、中にたまっている量が2Lを越えています、ほとんど雨水でしたが。   日本では握りこぶしぐらいですね。  時にはネズミが堕ちておぼれ死んで栄養にされるという話も聞きました。   花でおおきいのだとラフレシアでしょうか、1980年頃にスマトラで見ましたが、直径が1mぐらいでしょうか。 寄生植物で花だけで葉、茎もありません。  夜開いていって音がするそうです。  臭いにおいを発してハエを呼んで、この花の花粉を運びます。   大阪万博の時に現地で許可を貰って取りに行って、日本に運んできて展示しました。  

生まれが神戸で2歳の時にソテツを見て吃驚しました。  ディズニーの映画「砂漠は生きている」見てびっくり仰天しました。  特にサボテンが一雨降ったら一斉に赤や黄色の花を見事に咲かせてくれるシーンを見て心にグサッときました。   日本にも乾燥に強い植物があることを知ってマンネンソウ、ベンケイソウ、キリンソウだとかを栽培しました。  後に私のドクター論文の元になっています。  乾燥しているのになぜ生きられるのかという謎からスタートしました。  段々海外の植物にも興味が湧いて来ました。   マダカスカルに初めて行ったときにバオバブを見て、乾季が8か月も続く中でなんでこんなに大きいんだろうと思いました。   植物は温度が低いと呼吸が止まるが、温度が高いと呼吸をしてエネルギーを使う、マダカスカルでは乾季には葉っぱを落としたりするが、そんな時でも30度ぐらいになる。  何故巨体が維持できるのか、幹を一皮剥くと葉緑素を持っている。  呼吸に伴うエネルギーぐらいの光合成はやっているという事が判りました。  サバンナの木は樹皮の下に大概葉緑素を持っています。   オーストラリアの先住民は水筒代わりにバオバブの枝をしゃぶって水分を賄うそうです。  オーストラリアの北西部では最近バオバブの種を植えて、まず根が太りますので、その根を野菜として食べています。 

メキシコの湿地で生える杉があり、凹凸のある周囲が58mというのがあり、高さが20数mあります。   アメリカのヒューストンでも同様なものがありました。  アフリカではバオバブがすべて傷んでいますが、原因は像です。   国立公園で移動が妨げられて、巨体を保つためにはバオバブの水分で補給するわけです。   

バンバラビーンという豆がありますが、乾燥地で出来ます。   砂地の中にさやがあり、一粒で栄養価のバランスが取れています。  一番豆の中で栄養価が高いのが大豆です。  バンバラビーンはカメルーン、ナイジェリアなどで多く栽培しています。  イクラを食べるような感じでプチプチしています。   

一般的に実から油を取りますが、コパイフェラは幹から油を取ります。 重油のようなドロッとしたものが出てきて、殺菌作用があり薬用としても使われます。  精製して車の燃料にもなります。 乾燥地に植林すればいざという時に役に立つと思いますが。   サボテンも食べられています。

ハシラサボテンの実をジャムを作ったり、発酵させてワインみたいなお酒を造ったりお菓子を作ったりしています。   サボテンは元々は木で変化していきました。  枯れてしまったものは幹は材木のようにして使っています。  

世界を回って気が付いたことは、、バオバブとか次の世代が育っていないんです。 若木ですらなくなってきていて非常に深刻な問題だと思います。  世界中で乾燥化が進んでいます。  バランスが崩れることが乾燥地ほどひどいです。   親は一生懸命種を作っても、生えられるだけの水分が無い、たとえ生えたとしても大量に雨が降らないと、次の世代が育たない。  現在の乾燥地の乾燥化はさらに進んでいるので次世代が育っていないと思います。  今は偏りがあり乾燥地はさらに乾燥化して雨が降る所はさらに雨が降るとか、バランスが崩れつつあると思います。   森を増やしていかないと大変なことになると思います。  ベネズエラあたりは悲惨な状況です。









2021年3月23日火曜日

花井敏夫(古書店代表社員)       ・古書に陽を当て、次世代に引き継ぐ 

 花井敏夫(古書店代表社員)       ・古書に陽を当て、次世代に引き継ぐ 

1951年生まれ、東京目白に92年続く古書店の3代目当主です。  花井さんが入社したのは1971年20歳の時でした。  目白の店を中心に営業を続けていましたが、1983年12月に東京八重洲の地下街に進出、本がよく読まれた時代に業績を伸ばしました。 しかしその後の活字離れや電子書籍の普及など古書をめぐる環境が変化したこともあって事業を縮小、2015年には八重洲店を閉店しました。  現在は目白の店舗を拠点に本や資料を売りたいというお客のところに出向く出張買取がメインの業務です。  花井さんは創業以来の書物を次世代に引き継ぐという使命を受け継ぎ、より多くの書物を集め、世の中に広めるよう努めています。

去年は緊急事態宣言で古書店も対象になりました。  インターネットでの窓口しかなくなりました。   神田の古本祭りも中止になりました。    インターネットでは前年の3,4割は増えました。  古本屋は日本全体で2800店舗ぐらいありましたが、今は2000店舗ぐらいで東京では800~900店舗ありましたが、600店舗を割るぐらいになりました。

新規に古書組合に入ってくるのは、ネット販売をやる為に入ってきて、本を仕入れることが出来るので本を仕入れてネットで売ってゆくというのが増えています。  私のところでは祭事販売は年3回やっています。  新古書店は一時話題になりましたが、厳しいようです。  最近はベストセラー本は売れるがそれ以外は売れなくなってきているので、今の新古書店は売るものに困っていると思います。  

古物営業法の元でおこなうので、古本も古物なのでチェックする機能もある意味持たされています。  交換会という形で選別して買い取って行くという形です。  頻度は東京の場合は毎日月曜から金曜日まで毎日やっています。  値段は経験プラス交換会の中で買値を参考にしてそれらをもとにして値段をつけてゆく形になります。

昭和4年(1929年)東京の目白に創業、小売りという意味では期待はしていなかったようですが、文化人が住んでいたので仕入れができる場所ではあったと思います。     初代が金井和夫、2代目が娘婿で花井で、1971年に私が入社しました。 兄は自分の好きな書道に進んで、3代目を継ぐことになりました。    交換会の運営委員などをやりました。 いろんな沢山の本を見る事、いろんな本屋さんの商売の仕方が大変勉強になりました。   東京の八重洲地下街に店舗を構える事を発案して、1983年12月に開店しました。   反対もありましたが、業績は右肩上がりでした。  その後面積も拡張していきました。  八重洲古書館、RSブックを開業。 (R:レトロ、リバリュー、リサイクル S:サティスファクション)     手軽に読める文庫本がよく売れました。 お昼時とか、休憩時間に一時期身近に使っていただきました。

八重洲は6年前に閉店しました。   書物の変化、団塊の世代の人たちの頃は本が手元にないと落ち着かない人が多かったが、次の世代の方は読書量が違って、活字離れだけではなくて、年齢構成も変わってきて売れ方も下っていきました。  出張買取を行うようになりました。   八重洲の時代は幅広いジャンルを扱っていました。   今はお客さんがいろんな本を持ってきてくれるので、いろんなものを扱う事にしています。

「古本ロマン」、新宿で開いている祭事では本以外にポスターとか映画のパンフレットなども扱っています。  昭和30年前後の少年、少女雑誌は5000円というのがあります。 本の好きな方はそれなりに価値を判っているのでありがたい話で、不要になったら古書のほうに還流させてもらえればありがたいです。   おじいさんなどが残した本、資料なども本人は興味がないかもしれないけれど、どんな価値があるかわからないので、古書店に電話してお聞きになったほうがいいと思います。  残すべきものはまだまだたくさんあると思います。  文化を大切にしてゆくという事に繋がって行くと思います。        そろそろ100年になるので私の手で迎えたいと思います。















  


2021年3月22日月曜日

田中朋清(石清水八幡宮権宮司)     ・【にっぽんの音】

田中朋清(石清水八幡宮権宮司)     ・【にっぽんの音】 

案内役 大藏基誠

宮司の下に権宮司がいて、権宮司の下に禰宜がいて、禰宜の下に権禰宜がいて、権禰宜の下に、出仕がいたりします。  宮司の補佐をするのが権宮司になります。

石清水八幡宮は、全国に八幡宮が沢山ありまして、祠まで入れると全部で4万ぐらいあります。  宗教法人として登録されているのが8千ぐらいあります。  平安時代前期に八幡宮総本社の宇佐神宮(大分県宇佐市)から勧請された神社で、京都の裏鬼門(南西の方角)の神様としてまつられたところです。   表鬼門が比叡山延暦寺の方向です。  疫病が大流行りして843年あたりで4年に一度発生していました。  怨霊の仕業と考えて、京都に神社仏閣がたくさんできました。  貞観元年(859年)に行教空海の弟子)が豊前国宇佐神宮にて受けたとの神託により、翌貞観2年(860年清和天皇が石清水寺(現・摂社石清水社)の境内に社殿を造営したのが創建とされる。   緑、赤、紫、白、の色は能、狂言、歌舞伎などのほか相撲などに方向を示す色になっています。  石清水の名前の由来は、石清水山寺が昔からその場所にあったようです。  正式には石清水八幡宮寺と言います。(神仏習合)  平和的な考え方だと思います。

明治時代に廃仏毀釈がありましたが、また柔らかな形に戻ってきたと思います。   最近では神社とお寺が一緒にお祭りをしたり、もともとあったお祭りを復活したりしています。   祝詞、基本的に祝詞でお願いするのは、その地域のみんなが心から笑顔で幸せに病気もすることもなく平和な家で生活がずーとできますように、という事を神様や仏様万物に対して祈る。  八百万について祝詞として祈る。  お祓いをするときにはを述べます。  大祓は神様がいる高天原を含めたすべてを清らかな状態に祓い清める、世の中全体の罪、穢れをはらうのが大祓です。  日本では6月30日と12月31日に大祓を行います。  祓はお祭りのたびに清らかな状態に戻すという事で行います。  清く明るく正しく素直に、人間の本質的な姿(赤ちゃんの状態)にお祓いを通じて戻って行くことを、言霊によってかなえようという事です。

かけまくもかしこき」は祝詞の頭に必ず付くが、神様に直接申し上げる言葉で、「口に出すのも大変奥がましい恐れ多いことですが」 神話によると、伊邪那岐(イザナギ)神死者の国へ行き心身が穢、帰って来た。  そこで筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原と言う場所河原でみそぎ祓いをされる。  そういった物語をで奏上している。

大藏基誠:実は狂言にも「禰宜山伏」という狂言があり、その中で禰宜さんがお祈りをします。  やってみます。 ・・・・・。  

神楽のおおもとに「御神楽」がありその発祥の地が石清水八幡宮と言われていますが、神主さんが全国から神様が集まって神様と一緒に「楽」を楽しみます。 夕方から延々と神様と一緒に宴会を行います。 古い形式のお琴、これが日本の音だと思っています。

京都大学で日本の文化を研究もしていて、日本の伝統的価値観について研究をしています。 先人たちが受け継いできた知恵をブラシアップして、戦争で文化が途切れてしまった国もありますが、日本は地政学的にも恵まれた場所で、自然に恵まれていて、災害がありますが、知恵を合わせて文化を繋いできた。  日本の文化をさらにブラシアップして、それが世界の平和、持続可能性とかに凄く貢献できる考え方だと思います。










  

2021年3月21日日曜日

鈴木登紀子(料理研究家)        ・【美味しい仕事人】ばぁばのレシピ、永遠に

鈴木登紀子(料理研究家)        ・【美味しい仕事人】ばぁばのレシピ、永遠に 

去年暮れ「ばぁば」の愛称で親しまれた鈴木登紀子さんが亡くなられましした。   96歳でした。  長年にわたり今日の料理で名物講師として活躍、家庭料理を通じて和食の魅力、もてなしの心を伝えました。  平成28年11月28に放送した鈴木登紀子さんの「明日への言葉」「食べることは生きる事」、の再放送です。     

https://asuhenokotoba.blogspot.com/2016/11/blog-post_28.htmlをご覧ください。


2021年3月20日土曜日

棚橋昭夫(元 NHKプロデューサー)   ・【上方演芸おもしろ草子】「『おちょやん』の時代 浪花千栄子の人生」

棚橋昭夫(元 NHKプロデューサー)   ・【上方演芸おもしろ草子】「『おちょやん』の時代 浪花千栄子の人生」 

『おちょやん』 明治、大正、昭和と貧しく生まれた大阪の少女がやがて女優の道を生き抜いてゆくという姿を描いています。  戦後はラジオ,TVで活躍し大阪のお母さんとよばれた、浪花千栄子さんの人生を題材に描 いた物語です。  元 NHKプロデューサー棚橋昭夫さんが語った、私の面白交遊録の中から1996年6月22日放送の「大阪のお母さん 浪花千栄子の巻」を聞いていただきます。  30年代の人気ラジオドラマ「お父さんはお人よし」で共に仕事をした棚橋昭夫さんがまじかに見た女優浪花千栄子さんの仕事ぶり、人柄、エピソードをお聞きください。

おしん顔負けの少女時代、道頓堀の役者時代は涙なくして聞けないエピソードが山ほどあります。  そんな苦労の蓄積が信仰心や優しさを作り出したのではないでしょうか。 

作家の長沖一さんの「上方笑芸見聞録」、浪花千栄子さんが残したたった一冊の著書自叙伝の「水のように」を参考にしながら、私自身との交友の思い出も交えてお話を進めたいと思います。

昭和36,7年私は「お父さんはお人好し」の特集番組を企画しました。  題して「妻をめとらば」、お母さんのお千栄のお里を浪花千栄子の生まれ故郷大阪府南河内郡大伴村大字板持(現・富田林市東板持町)に設定しました。  

作家の長沖一さんの「上方笑芸見聞録」で浪花千栄子のくだりで、放送の取材で彼女の生家あたりに行った事がある。  貧しい村だったが、その中で最も貧しい家に生まれ育ち、一懸命に生き抜いた彼女の姿が三つ子の魂百まで晩年まで生き残ったと思う。  父は卵と鶏の行商でほとんど家にいたことがない。   母は彼女が5歳の時に亡くなります。 弟を抱えて小学校さえもいかせてもらえず、鶏のエサを作る毎日です。  或る日友達がぴったりと来なくなります。  訳は母親に髪をすいてもらったり洗ってもらったりできない彼女の頭におびただしいシラミがわいていたんです。  彼女は竹やぶに弟と安息の場所を見つけました。  その場所は自叙伝の「水のように」のなかで夢の国の様だという風に描いています。 一年中竹と遊び竹と語り、竹を愛することに自分の喜びを見出すようになりました。

後年京都嵐山天龍寺の近くに料亭「竹生(ちくぶ)」を経営するほどになりました。    襖、障子、座布団、夜具、お銚子、食器類、庭、などすべてに竹があしらわれていて、竹は女優浪花千栄子の命であったことがよく判ります。   彼女が自ら名付けた双竹庵と呼ばれた離れは、心ない週刊誌、ゴシップに追われた女性たちが傷ついた心と体を休めるためのねぐらにもなりました。

本名を「南口 キクノ」と言います。  幼い日々は竹やぶの中で遠くから聞こえてくる本場の河内音頭を聞きながら唇を噛みしめながら苦しみの時を送りました。  学校に通う友達をうらやましく見送る日々、父の再婚、再婚相手との不幸な生活、弟との家出の旅、9歳の秋、大阪に連れて行かれました。   初めてみる道頓堀の色彩的な美しさと賑わいは度肝を抜きました。  自分の運命の激変、子守り兼下女として雇われることになった仕出し屋弁当屋に冷たい重苦しい空気の流れを敏感に感じました。  誰が来ても長続きしなかったという定評のあったその店で営々と8年を過ごしました。   彼女を支えていたものが二つあった。 尋常小学校6年出たぐらいの読み書きが早くできる様にならないといけないという事、劇場の幕の袖から大好きになった名優、花形たちの芝居が毎日ただで観られるという事でした。

2代目渋谷天外との結婚、スターの道を歩み始めた彼女はそれと引き換えのように離婚という不幸に見舞われ、、京都の裏町の二階に身を潜めます。  NHK大阪放送局はアチャコ青春手帖』という企画をたてます。  相手役に白羽の矢が立ったのは浪花千栄子ですが、行方が分からず、浪花千栄子探しが始まる。

「水のように」の中で彼女は、NHK大阪放送局のプロデューサー・富久進次郎さんがわざわざ京都まで探しに来てくれました。 ・・・なかなか簡単にはわからなかった。  飲み屋で情報を得ました。  相手役ならば花菱アチャコと心に決めていました。 その機会を与えてくださって、そのことで女優として身も心も新しく再出発の基礎ができたのは富久進次郎さんのお陰です。    お父さんはお人好しにも二人で出演、これが長寿番組となる。

台本の本読みの時に小学校のしん子から台本の文字を悪びれることなく日常茶飯事にみんなの前で教わってもらっていました。  知らないことを知っている人に教えてもらうのは当たり前、教えてもらわない方が恥ずかしいんです、と言っていました。 

彼女は動物が好きで特に猫が大好きです。 お茶屋の時代全くの濡れ衣で、彼女がお金を取ったという事件がありました。 どういい訳をしても駄目だと観念した彼女は、死ぬことが自分を解放してくれる一番いい道だと思いました。  死ぬ場所は文字が勉強できた場所、自分を取り戻すための唯一の場所であった便所の中と決めて、便所の梁に帯を釣り下げて首をくくることでした。   窓のところにいた蟻が敷居の端にいったら台を蹴ろうと思っていました。  飼い猫が便所に入ってきて彼女の裾を引っ張り、追い払おうとしても離れようとせず、じゃれつく始末、死と対決する気持ちは霧のようになくなってしまいました。   自分の命を救ってくれたのは猫なので一生猫を可愛がりました。

休憩時間にある子が天津甘栗を買って来てみんなで食べ始めたが、彼女は甘栗が大好きだったが、彼女は手を出さなかった。   道頓堀の仕出しのお茶屋の時の話をし始めた。  11歳の時に天津甘栗が大評判になった。   主人に毎日のように甘栗を買いにやらされる。   3分で栗を買ってきたら褒美に栗をやるという事でした。  帰ってくると8分かかってしまって、次は7分、そして5分、裸足でなりふり構わず疾走して、主人に渡すと、褒美という事でそこから一個取り出して割ってくれて実を取りだし、手を差し出すと、自らの口に放り込んだのでした。    40年後この話を徳川夢声さんとの対談でこの話をしましたら、夢声さんと編集部から大量の甘栗が届いて、神棚にお供えして、食べようとしてもどうにも喉を通らない。  食べてしまえばもうあの思い出ともお別れになってしまう、もっと楽しみは後に残そうと彼女は思ったんです。

昭和40年3月、10年間続いたお父さんはお人好し』の最終回のエピソード。       全員で蛍の光を歌いながら泣いてしまいましたが、彼女が突然ステージから降りてきて、最前列のおじいさんの手を取りました。   驚くおじいさんをステージに引き上げました。  出演者がみんなが取り囲みました。  おじいさんは難聴でいつも早くきて行列の最前列に並んでいました。 公開録音に通う事を何よりの楽しみにしていた、なぜか彼女は知っていました。  一生に一度の一番華やかな主役の場を彼女はそのおじいさんに提供したんです。

昭和48年12月22日 養女のてるみさんから電話がかかってきて、亡くなったという事でした。   彼女の顔を見てはっと息をのみました、ほんのり桜色の貌には血が通っていました、綺麗で安らかな顔でした。  てるみさんにあなたしか出来ないことをやってほしいと生前言っていたそうです。  私が息を引き取ったらすぐに、私の顔を力いっぱい何べんも叩いて欲しいという事でした。  そうすると顔に血が上ってきて綺麗な顔になるという事でした。  その顔色がかなりの時間もつそうです。  私は役者だから来てくれた人にむさくるしい顔は失礼です、という事でした。  役者はサービスを忘れたらいけません、判ったら稽古しようという事で私は呆然と聞いていました。  私はお母さんの顔を何度ともなく叩きましたと、てるみさんは涙を流しながら言いました。   

亡くなって中一日おいて浪花千栄子の追悼番組が行われました。  言葉がはっきりとした大阪弁という事で、浪花女という事でした。  ファンを大切にするという事は有名でした。  信仰に徹していて芯が通っていました。  こんなに早く亡くなられて惜しくてしょうがない。 奥ゆかしい方でした。  もう二度とこのような人は出てこないでしょうね。  悩み相談係でした。 



2021年3月19日金曜日

山崎菊乃(NPO法人代表理事)     ・【人権インタビュー】あなたは悪くない(初回:2020/12/10)

 山崎菊乃(NPO法人代表理事)    ・【人権インタビュー】あなたは悪くない(初回:2020/12/10)

https://asuhenokotoba.blogspot.com/2020/12/blog-post_10.htmlをご覧ください。

2021年3月18日木曜日

中山七里(作家)            ・寝食を忘れるミステリーを

 中山七里(作家)            ・寝食を忘れるミステリーを

岐阜県生まれ59歳、大学卒業後サラリーマン生活を続けて48歳の時にさよならドビュッシー』で第8回このミステリーがすごい!大賞を受賞、以来幅広いテーマでミステリーを書いてきました。  作家生活10年になった去年12月には東日本大震災に正面から取り組んだ作品「境界線」も上梓されています。

名刺には肩書が無いです。  最初文章芸人と書きましたが、その後辞めました。  単行本で60冊、年間6冊になり、連載もやっていて2026年まで決まっています。   月間執筆枚数は約500枚で、一日に20枚~25枚になります。   睡眠は基本は2,3時間ぐらいですが、3日寝ないで3日目に6時間寝るとか、しています。 連載も6本は並行してやってきました。   この10年間ずーっとそうでしたから、大丈夫だと思います。   病気も全くしないです。  息抜きはほかの原稿を書きます。 アルコールが入ると眠たくなくなるので、眠気覚ましにアルコールを飲みながらやるという事を結構やっています。

皆さんが読みたいもの、出版社が書いて欲しいものを提供するのが一番いいと思っていて、自分の書きたいものを書いたというのは一つもないです。

三崎陽介シリーズ、御子柴礼二シリーズ、、刑事犬養隼人シリーズ、「ヒポクラテスの誓い」シリーズ、毒島シリーズ、違う出版社でカラーも違います。 

テーマを頂いて、そこからストーリーを考えて、ストーリーに合うキャラクターを考えて演劇的に組み立てていきます。   トリックを考えて作って行くよりも、キャラクターがどういうトリックだったらいいか、考えたほうが自然だと思って全部そうしています。   人の名前は難しくて頭の5割を使っています。  テーマと人の名前は浮かんだ段階でストーリーが作れるので、3日間で頭の中で500枚目まで全部書いてから、あとはダウンロードするだけです。  デビューした時に沢山オファーを頂き、一つ一つ片づけて行くのでは皆さんに迷惑がかかると思って、同時並行でやるためにこの方法を思いつきました。
中学時代映画が好きで、一期一会で観る、絶対忘れるものかと思って目を皿のようにしてみていたら、一コマ一コマを記憶できるようになりました。

飛騨の中山七里という渓谷があり、それをペンネームにしました。  子供のころから本が好きで、明智小五郎、ルパン、ホームズからはいりました。   図書館の蔵書は小学、中学と全部読んでしまいました。  ミステリーのいろいろな作家が好きになりました。  高校に入ったころミステリーの黄金期で、森村誠一さん、赤川次郎さんなどそうそうたるメンバーが文芸誌に競って出していました。  自分も書いて出そうと思って、高校3年生の時に江戸川乱歩賞に出しました。  予選は通ったが2次で落ちました。  才能がないと思ってそれからは28年間は小説は一切書いていませんでした。  
趣味は映画観賞中学1年生の時に『ジョーズ』を観てのめり込み中学・高校時代は土曜日の最後の授業を休んでまで毎週末映画館に通い詰め、夜岐阜駅で新聞にくるまって寝ていました。  手当たり次第に観ていました。

一般企業に就職しました。  地図を観たら立体的な街が大体わかります。  趣味で仕事を働いていたようなもので仕事は凄く面白かったです。 土、日も自分で好き勝手に出勤して仕事をしていました。   持ち家をもった途端に転勤になり、大阪に行きましたが、それが転機になりました。   島田荘司さんの『UFO大通り』のサイン会があり、サインしたての本を抱えて電気屋さんに行ってパソコンを購入してしまいました。   その日に書き始めて書いたのが『魔女は甦る』で、このミステリーがすごい!大賞に応募したところ、最終審査まで残るも落選してしまいました。   さよならドビュッシー』で第8回このミステリーがすごい!大賞を受賞しました。   オファーが沢山あり、二足のわらじでこのままやっていると死ぬなと思って、50歳で退職しました。(早期退職扱い)  
オファーがあれば何でも受けました。

「境界線」 東日本大震災の復興の闇を描いたもの。  仙台市を舞台にしてほしいという事でオファーがあり前作が好評だったので震災と個人情報を絡めた話を作りました。  取材をしたかったが、時間がありませんでした。  TVでNHKなどが報道されたものを全部覚えていました。
あの時皆さんが思っていたことを言語化したと僕は思っています。  
自分が書きたいものは一切書きたくない、皆さんが読みたいと思うようなもの、出版社がこういうものを出したいというものを書いていきたい。  いつ死ぬかわからないので、、最後の瞬間までトップスピードで走らないとしょうがないと思っています。  立ち止まらない事、休みたいとか、遊びたいとか思った瞬間に筆を折ろうと思っています。

2021年3月17日水曜日

前田三夫(帝京高校野球部)       ・【スポーツ明日への伝言】監督50年目の挑戦

 前田三夫(帝京高校野球部)       ・【スポーツ明日への伝言】監督50年目の挑戦

高校野球夏の選手権大会で2回、春の選抜大会で1回、合わせて3回の全国優勝を成し遂げて、甲子園で通算51勝、今年監督就任50年目を迎えた帝京高校野球部監督の前田さんに伺いました。

昭和47年大学卒業して帝京高校の監督としてスタートしましたが、もう50年経ちました。   大学4年間は公式戦に出たこともありませんでした。   当時帝京高校は指導者がいませんでした。   昭和47年1月からグラウンドに立ちましたが、当時選手は40人ぐらいいました。   「甲子園を目指そう」と言ったら、選手が笑ったんです、なんで夢がないんだろうと感じました。  きつい練習から始まりました。 Ⅰ週間経つと半分になり、次のⅠ週間経つと半分になり、最終的には4人になりました。  当時はサッカーが帝京は強かったので、サッカー部は250人ぐらいで、野球部は4人でした。   4月に正式な監督になりました。   4人に辞められたら成り立たないので、私のアパートの家に4人を泊めて私が食事なども担当して、昼の弁当も作りました。   夕食のおかずを買って3時過ぎに練習をして夕方には夕食を作りました。   そういう生活を1か月やりました。

初めて甲子園に行くのが昭和53年選抜の初出場でした。  その2年後の春には準優勝しました。  強くはなかったので選手を見つけることから始めました。  ほとんど名門校に行きましたので厳しかったです。   ある選手と会う約束をしたが、ちょうど台風で交通が駄目で自転車でびしょ濡れで行ったら、まさか来るとは思わなかったらしくてその子はびっくりしましたが、それに感激して帝京に入ってくれることになりました。  昭和58年の春に池田高校と対戦するが、0-11と大敗しました。  相手の監督は蔦監督でした。  いい選手もいたので優勝を狙っていきましたが、一回戦が池田高校でした。   座談会があり、蔦監督には風格があり、この時の座談会では負けたと思いました。  目には余裕があり、言葉の中には隙が無かったです。

蔦先生の本を熟読しました。  修羅場を潜り抜けた力はそのものずばりだと思いました。 平成元年夏初めて全国優勝、7年間で3回全国制覇となる。  教壇に登るという意志を持たしてくれたのが蔦先生でした。  教員免許を取って教室でのむずかしさ、教室での生徒のグラウンドとは違う表情に出会うことが出来ました。

トンネルズの石橋貴明もピッチャー志望でしたが、彼は人を引き付ける力がありました。 ある旅館で彼がやったら、旅館の人たちもみんな見に来てくれました。   グラウンドでも人を笑わせていて、卒業の時には芸能界に行ったらいいんじゃないかと言いました。  毒蝮三太夫さんのかばん持ちでもいいからという事でお願いしました。  しかし僕はプロ野球の選手になるんだと言っていましたが、或る時TVに出ていました。

プロ野球界ではソフトバンクの中村晃選手、日本ハムの杉谷拳士選手などがいます。   この二人で思い出すのは平成18年に智弁学園と物凄い試合あがありました。  8回終わって4-8とリードされていたが、9回に12-8、その後逆転されて12-13で負けてしまうという試合でした。   9回代打沼田から始まって得点してゆき一巡して沼田がホームランを打ちました。   それまで3人のピッチャーで回してきましたが、次に送り出した投手はストライクが入らず、次をどうしようかと思ったが、中村晃には顔を背けられてまって、バッティングピッチャーをやっていた選手を送り込むことになりましたが、結局逆転負けしてしまいました。  

指導方法はスパルタから自主性、ゆとりという流れでしたが、最近は選手ファーストと言われるが、しかし最終的には指導者がきっちり把握していないと選手は育たないのではないかと思います。  

昨年は東東京で優勝させてもらいましたが、甲子園には遠ざかっていますが、いつかはチャンスがあると思っているので、じっくり焦らずやるしかないのではないかなあと思っています。






2021年3月16日火曜日

川野一宇(元「ラジオ深夜便」アンカー)  ・「ラジオ深夜便」放送開始30周年 アンカートークショー 第四回

 川野一宇(元「ラジオ深夜便」アンカー)  ・「ラジオ深夜便」放送開始30周年 アンカートークショー 第四回

脳梗塞になって右半身がちょっと不自由になりました。  生まれは昭和18年、77歳です。  昭和42年に佐賀に赴任しました。   農業試験場の方と懇意になり勉強して農業のことが判るようになりました。   米は一表60㎏で、田んぼは10アール当たり何キロ獲れるとか、田んぼに入って苗を植えることもしました。   台風の中継をしたりしましたが、先輩からは大げさだといわれたりした。  佐賀で勉強したのは農業と、陶器、磁器作りでした。  その後名古屋に転勤しまして、佐賀での知識が役に立ちました。  四日市の公害が激しくて公害の勉強もさせてもらいました。   東京に来て、次に京都でお茶の勉強をしました。 又東京に戻り、仙台、東京、二度目の京都、福岡で東京に戻ったらラジオ深夜便にという話があり担当することになりました。 

青森県の洋野町というところから92歳の方からラジオ深夜便へ投書をいただきました。   今では100歳を超える方も多くいらっしゃいます。   「絶望名言」 2016年からの放送担当で、最初、希望名言なら判るが絶望名言とはどういう事だろうという感じがしました。  自殺をする人が2万人を越える中で、生き抜くことに結び付く絶望名言だったら、それなりに意義があるのではないかと思いました。  頭木弘樹さんがアイディアを温めていた方で、本人は潰瘍性大腸炎という難病に20歳の時にかかり、13年間病院で過ごしました。   13年後に手術を受けて生き延びて番組に出演することが出来るようになりました。  

取り上げている人がフランツ・カフカ、ドストエフスキー、ゲーテ、太宰治、芥川龍之介、シェークスピアなどそうそうたる方々です。   ちょっとおじけづきました。  頭木さんの本には悲しい時には悲しい曲を、絶望した時には絶望読書と書いてありました。     夏目漱石のところには「呑気とみえる人びとにも、心の底を叩いてみるとどこか悲しい音がする」 これなら理解できると思いました。

カフカは深い洞察にみちた衝撃的な文章を書いた人だと思っていましたが、恋人のフェリーツェ・バウアーに書いた手紙の中にこんな言葉があります。

「将来に向かって歩くことは僕には出来ません。  将来に向かって躓くことこれはできます。  一番うまくできるのは倒れたままでいる事です。」   頭木さんはこれだけは外せないといっていました。   頭木さんがベッドに寝ている時に出会った文章で、この文章が現在の自分にとって一番寄り添ってくれる文章でいい文章だと思ったそうです。  

次に太宰治の文章

「生きていること、生きていること、ああそれは何というやりきれない、息も絶え絶えの大事業であろうか。  僕は、僕という草はこの世の空気と陽の中に生きにくいんです。  生きてゆくのにどこか一つ欠けているんです。   たりないんです。  今迄生きてきたのもこれでも精いっぱいだったんです。」  (「斜陽」より)

「人間は何か一つ触れてはならぬ深い傷を背負って、それでも耐えてそ知らぬふりをして生きているのではないのか」  (「斜陽」、「火の鳥」の中の一節)

若い人には響いてくるのではないんでしょうか。  三島由紀夫などは嫌っているが。

シェークスピアの名言

「不幸は一人ではやってもない。  群れを成してやってくる。」(「ハムレット」より)   頭木さんは「わー いやなことをいっているなあ」と解説しながら言っています。    頭木さんは「次の不幸を招かないための、自分はまじないにている」といっています。

「どん底まで落ちたと言えるうちはまだ本当にどん底ではない。」 (「リア王」より)

「人生を恐れないからいい加減に生きてしまう、自然を恐れないから自然破壊をやってしまう、という事でいい加減に生きてしまう」と頭木さんから言われたときに私はぎくりとしました。

ステイホームでひき込まざるを得ないが、萩原朔太郎の名言があります。

「人は私に問うた。   2か月も病床にいたらどんなに退屈で困ったろうと。 しかるに私は反対だった。   病気中、私は少しも退屈を知らなかった。   天井にいる一匹の蠅を観ているだけでも、または給食の菜を想像しているだけでも、十分に一日を過ごす興味があった。   健康の時、いつもあんなに自分を苦しめた退屈が、病臥してから不思議にどこかへ行ってしまった。   この2か月の間私は毎日なすことがなく朝から晩まで無為に横臥していたのに関わらず、まるで退屈という間を知らずにしまった。    私は天井に止まる蠅を1時間も面白く眺めていた。  床に差した山吹の花を終日飽きずに眺めていた。  実に詰まらないこと、平凡無味なくだらないこと、それがすべて興味や私情を誘惑する。」  (「病床生活からの一発見」より)

引きこもりで観察が細かくなる、という事があらわされている。

私たち人間は多分普通は毎日大雑把に生きていると思います。  じーっと観察すると、それまでとは違った毎日が見えてくるなあという事です。  日々生活している自分の家の在り様があらためて見直されてきて、うーんそうかという風になってきていると思います。

人に対する特集が多いですが、引きこもり、不眠症というような形で特集を組んだこともあります。




2021年3月15日月曜日

太田義昭(太田雄貴の父)         ・【アスリート誕生物語】フェンシング銀メダリスト(初回:2017/7/15)

太田義昭(太田雄貴の父)      ・【アスリート誕生物語】フェンシング銀メダリスト(初回:2017/7/15) 

https://asuhenokotoba.blogspot.com/2019/07/blog-post_15.htmlをご覧下さい。

2021年3月14日日曜日

奥田佳道(音楽評論家)         ・【クラシックの遺伝子】

奥田佳道(音楽評論家)         ・【クラシックの遺伝子】 

*「ブエノスアイレスの春」  作曲:アストル・ピアソラ アルゼンチン生まれ

今年生誕100年 春の息吹、力強さを感じる。  ブエノスアイレスの四季 の中で最初に夏、秋、冬、春と作られている。 

ピアソラはアルゼンチンタンゴの作曲家ではあるが、伝統的なアルゼンチンタンゴのファンからはピアソラはタンゴを破壊してしまったといわれた。(前衛的、踊れない)

ピアソラの音楽が今の若い音楽家にどんな遺伝子をもたらしたのか、ピアソラはクラシックの人なのかタンゴの人なのか。

1921年生まれ バンドネオン奏者として活躍。  ピアソラはクラシックの作曲家を目指して渡仏し、パリナディア・ブーランジェに師事する。  タンゴを元にクラシックジャズの要素を融合させた独自の演奏形態であるTango Nuevoを産み出した。

*「プレパレンセ 」 (タンゴ) 作曲:ピアソラ  30歳の頃のもの

若いクラシックのアーティストやバンドネオン奏者たちが改めてピアソラの音楽に夢中になっている。

*「天使の死」 1962年の作品  作曲:ピアソラ  タンゴの遺伝子があるのか、フーガの遺伝子があるのか、といった曲。 フーガですが、ベースにタンゴの彩がある。  40代の作品

ジャズミュージシャンが一番夢中になる作曲家がバッハじゃないですか。 ピアソラはアルゼンチンの現代のバッハのような存在なのかもしれません。

アントニオ・ヴィヴァルディの「四季」を意識して、ピアソラも作りました。

「ブエノスアイレスの冬」   作曲:ピアソラ 

*「タンゴ」   作曲:ストラビンスキー  ピアノ曲

「オブリビオン(忘却)」  作曲:ピアソラ   1984年に公開されたイタリア映画『エンリコ4世』のために書き下ろされた5曲のうちの1曲  ピアソラ60代の曲

『リベルタンゴ』(Libertango)  作曲:ピアソラ 

Libertangoという単語は、libertad(自由)とtango(タンゴ)と合わせて作った混成語



2021年3月13日土曜日

白幡洋三郎(国際日本文化研究センター)   ・花見と日本人(初回:2013/4/6)

白幡洋三郎(国際日本文化研究センター)   ・花見と日本人(初回:2013/4/6) 

https://asuhenokotoba.blogspot.com/2013/04/blog-post_6.htmlをご覧下さい。

2021年3月12日金曜日

遠藤伸一(宮城県石巻市 木工作家)   ・東日本大震災10年シリーズ 「死んでもいい」から「精一杯生きる」へ

遠藤伸一(宮城県石巻市 木工作家)   ・東日本大震災10年シリーズ 「死んでもいい」から「精一杯生きる」へ

52歳になる遠藤さん、宮城県石巻市に生まれ育ち、高校卒業後に上京、1994年に妻と3人の子供を連れて故郷の石巻市に戻りました。   2011年に震災に遇い、長女で中学1年生の花さん、長男で小学4年生の侃太君、次女で小学2年生の奏さん、子供3人を亡くしました。   深い絶望から一時死ぬ事さえ考えたといいます。   遠藤さんはその後、自宅の跡地に仲間が集える拠点を設けたり、子供たちのための木製のモニュメントを作ったりと、妻の涼子さんと力を合わせ、地域の復興に取り組んできました。

或る公園で木製のスペースを見たときに、木製の仕事をしたいなと思いました。  木製の遊具を作っている会社に入れていただいて修行させてもらいました。   長女が小学校1年生になる時に、故郷に戻ってきました。   長女は言葉が判らないと泣いて学校から帰ってきたりしましたが、そのうち慣れてきました。   海に関係する遊びが珍しくて、田んぼは見たことないといったりして吃驚しました。    

当日は水産会社の工事の引き渡しをしていました。  地震で家が心配で自宅に戻ってきてら、母親と長女がいました。(卒業式で早帰りだった。)   侃太と奏は学校だという事で迎えに行きました。   家に連れて帰って、親戚との連絡にために家を出ていきましたが、津波のことは頭にありませんでした。    トラックで戻る途中に津波に会ってしまいました。  家とか車が向かってくる感じで、目を疑うような光景でした。   トラックが流され、外に出たが私も流されてしまいました。   死んでしまうのかなあと思っている時に、海面にあがったときに、流されてきた瓦礫ともに流されて、コンビニの壁のところで突き当り瓦礫に吊るされた形で生きていました。   右足が折れていました。 何時間後かわからないが、津波が引いて瓦礫が下がってきて、瓦礫につぶされてしまうと思って、瓦礫から出てきました。  コンビニの屋根に上って見たときには自分しかいないのかなあと思いました。    保育所に向かっていったら、火を焚いていた人がいたので、寒くてずぶぬれだったので火にあたらせてもらいました。  

保育所の2階に上がりました。  翌日、家がないことが判り、「誰かいないか」と叫んでいたのがおふくろでした。(骨折していた。)    妻は一番下の奏を抱いていましたが、助かったと思ったが、冷たくなっていました。   避難所に奏とおふくろを連れていき戻ってきました。  長女は冷蔵庫とかが食い込んでいて花を出せなくて、壁を壊しましたが、長女も冷たい状態になっていました。   周りの人に手伝ってもらって保育所に連れて行きました。   また戻って侃太を探していましたが、侃太は10日後に自衛隊の方が重機を使って見つけてくれました。

避難所扱いになっていなかったので、食い物がいただけなくて、津波で流されたものを火を通して食べたり、コンビニから流されてきたポテトチップスの袋などをわけて食べたりしていました。   畳3畳ぐらいのところに奏と花を安置して、顔を撫でても砂でボロボロしていて、眠っているような顔で、温めれば生きているのではないかというような感じでした。  公民館の体育館が借遺体安置所になっていたが、勝手に動かさない様にと言って、侃太を探していました。   本遺体安置所が青果市場になっていて、侃太が見つかったら3人一緒に安置して欲しいという事で、3人一緒に並べて貰いました。  悔やみきれない思いでした。   自分で自分を責めるしかなかったです。   学校から沿岸の家に連れ戻してしまったという、自分の判断で子供を死なせてしまったという思いが、悔やんでも悔やみきれません。

大きい支えがいっぱいありました。    東京で修行させてもらった会社の社長の奥さんから電話が入って、社長から何かできる事はないかという事で、軽トラ一台あったら凄く助かるといったら、社長から用意していただいて、流された道具もあったので持ってゆくように言われて、現金100万円もいただきました。  その代わり必ず再開するように言われました。    軽トラックに物資を一杯いただいて避難所を出て工房に寝泊りしていました。     テーラー基金(テイラー・アンダーソンさんは2011年3月11日に起きた東日本大震災の津波で報告された最初の米国人犠牲者でした。 「テイラー・アンダーソン ’04 記念基金」が設立されました。)で被災者学校に本と本棚を送りたいという事で本棚の依頼がありました。   子供たち3人が教えてもらっていた先生で、やらせていただきました。 子供の生きた証を作り、生きたかったのだったらまだ生きてていいのかなと思いました。      人の思いをかたちにできる仕事だと思えるようなりました。    

折角やらせていただくのでテーラー先生の思いを繋ぐような本棚にしていきたいという思いと、テーラー先生の思いが世界一大きくなるようにという事でアメリカ産のジャイアント・セコイヤ、世界一大きく高くなる木ですが、それを一部その本棚に使わせてもらって作りました。   遊具を自宅跡地に建てました。   私らが幸せだった場所を寂しい場所にならないようにという思いで建てました。    「虹の懸け橋」というタイトルにして、震災で流した涙、そのあとに出てくれた虹が人と人を繋いでくれて、今我々が生かされているという思いと、虹はつかめないが、3人の子供らと幸せに生きてゆくことはつかめなくなってしまったが、虹は綺麗だと感じる事は出来るので、感動は感じられると言う事で、感じられる幸せを感じられる人間になっていけば、まだ生きても行けると思いました。   自分の子らが虹になってくれたんだという思いもあります。  

土台しかない家に戻ってくるのはつらくて、子供たちの友達が玄関のところに瓶に花がさしてあったりして、それらを見ると切なくなる部分が多くて、来るのが辛かったが、それをこういう場所にしてもらえることは苦痛ではなく楽しく思います。  人が繋がる場所としても使えているので、今は本当にありがたい場所です。

この10年、いろんなことを感じ、学ばせていただけた10年だったと思います。 自分の人生の第一章はあの日で終わっています。  新たな第二章は人が作ってくれていて、10年人の輪のなかで生かされてきたというのが、私が3人の子供を亡くして壊れていない理由でもあると思います。  人の思いを感じて、今、人間捨てたもんじゃないという事と、人間であることに誇りを持てるようになりました。  いろんな人に支えてもらったものとして、支える側になれないものかと新しい目標みたいなものを、今人が場面を作ってくれたりしています。 生きていてもしょうがないと思っていた人間が、今はまだ生きていていいんだと思わせてもらったり、生かされた意味みたいなものを求めているというか探しているといった感じです。  





 

2021年3月11日木曜日

吉川彰浩(元東京電力・原発避難者)   ・東日本大震災10年シリーズ 加害者と被害者の「二重苦」を越えて

吉川彰浩(福島県南相馬市 元東京電力・原発避難者)   ・東日本大震災10年シリーズ 加害者と被害者の「二重苦」を越えて

1999年から東電社員として双葉町、浪江町で暮らしながら東京電力福島第一原子力発電所と第二原子力発電所で保守管理業務にあたっていました。  事故の後は避難生活を余儀なくされた一方、東電社員であることの後ろめたさによって、自分を隠していた過去があったといいます。  廃炉を支える人たちのリアルを伝えることが廃炉や被災された方々の日常を一日も早く取り戻すことにつながると、2012年に東京電力を辞めAppreciate FUKUSHIMA Workers 福島県で復興に取り組む方々への敬意と感謝の頭文字AFWと名付けた一般社団法人で活動しています。   元東電社員の加害者、原発事故によって住む場所を追われた被害者、二つの側面で福島を見てきた吉川さんに、震災と原発事故後の10年について、今後原発の廃炉や福島の復興にどのように向き合ってゆくのかについて伺いました。

現在南相馬市の小高にいます。  今42歳になるので、19歳の時に来たので20年以上になります。   自責の念に駆られていた自分が人との交流とかによって少しづつほぐされてきました。   1999年4月に東京電力に就職しました。  高校は社員育成用の高校でした。  原子力発電は未来のエネルギーとしてCMでもやっていました。  原子力発電という大きな仕事をやってみたくて福島に来ました。  最初の1年間は研修プログラムがあり2年目からは発電所の運転のプロになるか、メンテナンスのプロになるかの二択があってメンテナンスのほうを選びました。   約9年やっていてその後第二原発に移動して4年近くやっていました。   双葉町ではお祭りに参加したり、飲みに誘われたりとか色々していました。  生活を支えている場所が発電所で、協力企業の皆さんが育て上げた子供に対して東京電力の社員にさせたいというのもありました。 日常生活に溶け込んでいました。

地震の時には福島第二原子力発電所にいました。  運転中だった原子炉は緊急停止されました。   地震から40,50分で津波は押し寄せてきますが、多くの社員は津波を見ていませんでした。    丘を切り崩したようなところで高い場所でした。  山が崩れるような感じの音が聞こえてきました。   下に降りて行って街を見下ろすと、大震災、津波の風景になっていました。   12日午後3時36分に第一原発の1号機建屋が水素爆発、3号機、4号機建屋も水素爆発する。    死んでしまうのではないかと皆言っていて、恐怖感、起こしてしまったことの申し訳なさなど感じました。  対応するなか家族との連絡は合間にラインで送ったりしていました。

罪の意識などもあり、苦しいなか、汚れた人間としての扱い、差別偏見が重くのしかかりました。   起こした側なので黙るしかなかった。   お金のまわりもうまくいかなくて否応なく辞めていく人が多かったです。   

東京電力の姿勢というものは社会が求める姿勢とは違っていたと思います。  賠償金では窓口の対応も悪くて、あの対応では怒るよね、というような感じでした。

現場で働く人達、協力企業で働くみなさんは双葉郡、浜通りで暮らしていた方々で住民の皆さんで、労働環境の悪さ、社会的な地位の低さ、差別偏見は私は見過ごすことはできませんでした。  それを本気でやろうと思うと、東電社員としては不可能だと思って、辞めれば出来ると思って悩みましたが、辞めました。 (2012年6月ごろ)

労働環境の悪さ、社会的な地位の低さ、等々泥臭く訴えていきました。   心が追い込まれて自殺してしまう人もいました。  あの時には秒単位でものごとを解決しないと、人の人生は狂うし、人が死ぬと、危機感は強かった。   一般社団法人AFWを立ち上げて、敬意と感謝という意味でAppreciate FUKUSHIMA Workersとしました。   福島第一原発を開かれた場にするために民間として、視察を手段として訴えました。   視察には1000人ぐらい参加しました。   年間2万人以上はあの場所を視察している人たちがいます。    今でも視察のことはやっていますが、力を入れているのが中学、高校、大学生、などに対して講義、授業を行っています。   始めてから3年ぐらいになります。 福岡~北海道、アメリカの大学で5つぐらい回って授業をしてきました。  

相手のバックグラウンドを知ることも大事だと思っています。  この地で起きたことが社会を豊かにすることにつながらなければいけないと思っているわけです。  きちんと客観的に批評して変えていかなければいかないことは変えてゆくことが必要だと思いますが、自分に中心を置くのではなくて、今よりも良き未来のために、ある時代においてどんな政策をすべきかが大切なんじゃないですか、と思います。

自分も、組織も、周りもみんなで少しづつ変化していけば、きっとよい未来が待っていると思います。  沢山の方との出会いがあって、変われる自分がいて、自分は誰かの役に立てるかもしれないという感覚、自分自身も未来を作る当事者なんだと、今生きている実感がします。  





  







 

2021年3月10日水曜日

渡邉浩二(地域活動サポートセンター柏崎 職員) ・東日本大震災10年シリーズ 避難者を支え続けた避難者

渡邉浩二(地域活動サポートセンター柏崎 職員)・東日本大震災10年シリーズ 避難者を支え続けた避難者 ~"原発の町"に逃げた避難者たちの10年~

新潟県柏崎市に住む渡辺さんは51歳、10年前に東京電力福島第一原子力発電所の事故によって避難を余儀なくされて、当時住んでいた福島県の双葉町から同じく原発のある柏崎市に家族5人で避難しました。  東日本大震災の直後や原発事故の直後、新潟県では全国で最も多い8000人が福島県などから避難して、その中でも柏崎市には2000人ほどが身を寄せました。  渡邉さんは柏崎市に避難してきた人たちの元へ市の委託を受けて個別訪問し、生活で困っていることなどを聞きとる訪問支援員として働いてきました。  自らも避難者でありながら、支援者として歩んできたこの10年について伺いました。

この10年、立ち止まらずに走り続けた感じであっという間です。  地震の時はプールで水泳指導をしている最中で、海水パンツ一丁で外に飛び出しました。  娘の保育園に行きましたが、もぬけの殻でした。  生きていてくれという事だけでした。  小学校の娘には会えましたが、凄く不安な顔をしていました。   家族も無事でいてくれて、双葉中学校で家族5人が会うことができホッとしました。   2日目に校内放送が流れて、ただいまから西に向かって非難してくださいという事で、なぜなのかという事は言われてなかった。  安全神話を信じていたので、放射性物質が外に漏れだすという事は思ってもみなかった。  3日目の3時半ごろに次の避難所で爆発が起きたのをTVで見ました。 考えもしていなかったが。  もううちの町には帰れない、仕事も出来ないんだ、友達にも会えないんだ、と思いました。    

義理の父親が柏崎市でしたので、そちらに避難しました。   退職するように言われて、避難者が避難先を回って訪問する仕事があるのでやらないかと言われて、1年間やってみようと思ってやったら10年経ってもまだやっています。   避難の経緯とか健康状態などを聞く、情報提供もするという内容でしたが、いろいろ細かいところまで観察はしていました。    避難者であるがゆえにつらいところがありました。   心を開いてもらうためには方言丸出しで話しかけました。    話していて辛いことばっかりで、何回か僕も一緒に泣きました。   この人が死なないためにはどういうことをていきょうすればいいのか、ひとりでも考えていました。   母子避難で来ている人がいて、生きてゆく自信がないと言う事で、娘の上にまたがって首を絞めて自分でもその後一緒に死のうという方がいました。   あなた方がいたので今の私たちの今があるんですと、泣きながらいわき市に帰っていきました。   二人の命が守れたという事でやっていてよかったという瞬間でした。   

生活してゆく中での色々な苦労が見えてきています。   高校も柏崎市にするのか、福島にするのかとか、内容も変わってきていると思います。   語り部としても活動しています。  地震直後のことから、原子力発電所の事故とかですが、怖さよりも避難の仕方などを強く話していて、怖さなどはなるべく避けて話しています。   自分の持っている知識経験などを全部置いていきますという感じで、柏崎にいる自分の役割みたいなところだと思っていて、自分がやらなければいけない仕事の一個というところです。

柏崎とか県外に避難している人がどのように苦労しているか、福島県内にいる人にも伝えたいという事で、話をさせていただきたいとお願いして、講演をしました。  泣いて聞いてくれた人もいて、やる意味は物凄くあったと感じています。  今後もこの仕事を続けて行くことを考えています。   双葉の家は解体して、柏崎市に家を建てました。    多分柏崎で死ぬんだと思いますが、なんとなく福島に帰れる自分もいるんだと思いたいんです。   福島にいるときには渡邉浩二が100%でしたが、柏崎に来てからはあんまり自分を出さずに生活をしています、出したいけれど出せないんです、制御してしまっている。

故郷っていいところですよね、いつかはか帰る場所だと思います。   100%で笑える場所、気を使わない場所だと思います。   どんなに変わろうが双葉町は双葉町であり、人はそうそう変わらないわけで、僕たちの誇りですかね。    





 

2021年3月9日火曜日

渡邉昌子(「いいおか津波復興かわら版」編集長)・東日本大震災10年シリーズ "5時26分"を語り継ぐ

渡邉昌子(千葉県旭市「いいおか津波復興かわら版」編集長)・東日本大震災10年シリーズ "5時26分"を語り継ぐ 

千葉県旭市では地震から3時間近く経った午後5時台に、7.6mと最大の津波に襲われ、災害関連死を含めて16人が犠牲になりました。   震災の後特に被害が大きかった飯岡地区で発行されてきたのが「いいおか津波復興かわら版」です。  編集長の渡辺さん74歳に被災した人達の証言の聞き取りを続けてきた思いを伺いました。

10年前に震災があった年から「いいおか津波復興かわら版」という手作りの新聞を作って市内に配り始めました。  一人で被災者のところに行って話を聞いてA4サイズのフリーぺーパーに纏めて書いています。  月一回のペースで3年間続けて4年目からは隔月になって現在は3か月に一回となっています。  現在は7000部を作って配布しています。

被災者の証言と一緒に似顔絵を描いています。  写真よりも似顔絵のほうが本当の気持ちを載せることが出来るのではないかと思いました。   おたがいにつらさを分かち合うような形でお話ができるようになりました。   私の家も被害にあいました。 柱にも津波の跡が残っています。  襖にも残っていてこうだったという事を残しておこうという思いがありました。

長い事教員をしていまして、3月に退職の予定でした。  それで退職の会を夫の店で会食をしていましたが、その時に地震に会いました。  津波も来て高台で見ていましたが、まさか津波が押し寄せてくるとは想像できませんでした。   私たちの町内の被害が正確にわからなくて、被災状況を聞き取って記録に残した方がいいんではないかと思って5月から被災した人たちのところに行ってお話を伺って、記録して子供や孫に伝えようという活動につながりました。   

当時73歳の人の証言、防災無線で津波が来るから避難してくださいとの呼びかけがあったが、店が心配なので家にいた。  第一波が下水からあふれたぐらいで済んだので安心していたが、学校から帰ってきた子供たちが逃げようという事で、車でコンビニの駐車場まで避難したが、大丈夫だと思い店に戻ってしまった。  しばらくして海岸の様子を見たら高い波が見えて、子供を車に乗せて逃げようと思ったが、車が思うように動かず、車が浮き始めたので、子供たちはバラバラに逃げ、自分は津波の勢いで流されたが、救助され助かった。あの時帰ってこなければ被害にあわずに済んだのにと悔やんでいます。  第3波が最大の高さで7.6mにもなりました。 5時26分でした。

九十九里の浜には津波が来ないと聞いていたが、飯岡地区にも300年以上前に元禄津波が来て70人以上亡くなった方がいるという事を後で知りました。  このことを知っていればもっと津波への警戒心はあって、人的被害はなかったのではないかと思いました。  

小野良子さん、74歳。  津波が来るから避難するように防災無線の呼びかけがあった。第一波を堤防の近くまで見に行ったが、道路も濡れていなかったので、これならば大丈夫と思って家へ戻ることにした。  息子も帰ってきたので念のために避難しようと思って玄関のドアを開けた瞬間、目の前に大きな波が押し寄せてきた。  家の中に押し流されてしまい、家具の間などに挟まれて身動きが取れず、押し寄せる波で息も出来ずおぼれてしまった。   気が付くと海水で浮いていた畳の上にいた。  助かったのが不思議だった。  息子も流されたが瓦礫の上を渡りながら逃げ消防署員に救助された。  (息子さんには障害があり、避難先では辛かったと思います。)  助けられた命なのでなんとか生かしていきたいとおっしゃいました。  体験を防災に役立ててもらえれば一番いいと考えたようです。  このことを紙芝居にして知っていただこうと活動しました。

被災した方々は高齢者が多くて、10年経って直接被災した方々が表に出られなくなって、教訓をどうやって伝えてゆくのか大きな課題になってきました。 

夫婦二人で魚練り製品製造業を営む家庭。 製造機など全く使えなくなり大金がかかるので家を更地にしてしまった。  年齢、妻の体調を考ええると、再起不能と判断した。

復興どんぶりを考えました。    地元の食材を必ず使う事と値段は1000円にする、その中の10%を支援金として街の様々な支援活動に繋ぎたいという事で進めました。  23店舗が参加していただきました。

「いいおか津波復興かわら版」63号では震災後に作られた建物、当時の仮設住宅とかを特集にしようかと思っています。

旭いいおか文芸賞 「海へ」 と題して5回目になります。 自由詩、エッセー、作文,定型詩(俳句、短歌、川柳)

先日旭いいおか文芸賞 「海へ」の朗読発表会が行われました。 震災を語り継ぐ事にもなります。

話を聞いてもらいたいという人がいる限り、話を聞いてそれを記録に残していきたいと思っています。  つらい記憶はすぐには話せないという人もいますので、聞いて伝えていきたいと思います。  

2021年3月8日月曜日

金野靖彦(陸前高田 酒造会社元社長)  ・東日本大震災10年シリーズ 避難を語りつぎ、守る命

金野靖彦(陸前高田 酒造会社元社長)  ・東日本大震災10年シリーズ 避難を語りつぎ、守る命 

金野さんは津波で56人の従業員のうち7人を亡くしました。  災害時の避難の重要性を痛感したという金野さん、今震災での経験を語り伝える語り部を育成し、災害から一人でも多くの命を救いたいと考えています。

街の変化がありますが、複雑な思いがあります。  代替え地が高台で、10mかさ上げした商店街には住所名があるが、10m下にはかつて住んでいた自分たちの同じ番地を見ると何とも言えない気持ちになります。   10年前、海から2kmほどのところにあった酒蔵のすべてが津波で流されました。  従業員の安否を確認するため避難所を回って歩きました。  7人が津波の犠牲になってしまいました。   悔やまれるのは解散する時に戻らないようにとか、遠くから来ている人たちは海岸寄りの道は絶対通らないようにとか、もっとはっきり徹底させればよかったなあと思いました。   津波は3mでそれが順次、6m、9mと変わっていきました。  3mという事を聞いてここまでは来ないだろうとは思っていました。    「沿岸住民は・・・」という放送には自分では沿岸住民という意識はなかった。  地震津波の訓練は町内会ではやっているので、会社としてはやってこなかった。   

地震が収まって広場に集まってもらって、建物、酒の被害の確認をして問題はなかったので、解散することにしました。    防災無線が泣き声のように変わっていって、避難しました。(地震から30~40分後ぐらいだと思います。)   内陸側の安心感があったなあと思います。    他の酒造会社の支援を受けて震災後半年に酒作りを再開しました。   10月には出荷ができました。    会社は従業員にとっては金銭の繋がりだと思いますが、それだけではなくて心と心のつながりが醸成されて行って、いろんなものが出来上がってゆくものだと思います。   酒が出荷されると地元の人達から狂喜のさたで迎えてもらいました。 商品は社員の思いがそのままそこに乗っかって市場に出て行くものだと感じました。 

亡くなった従業員とのことをいつも思っているよとか、かっこよすぎるかもしれませんが、しかし実はそうなんです。   申し訳ないという思いではなくて、何とも言い難いそういうようなものでそのあと過ごしてきてると思います。

2013年に会社のめどがついたので、会社の社長を辞めて、兼務していた観光物産協会の会長に専念することにしました。   アメリカから来ていた女性の支援の方で、外国の方々に話をしてほしいという事で、通訳してもらって話をしました。   それをきっかけにして、別の社会とつながっていたいという風に思いました。    一人の災害に強い人間がいれば周りの人が強くなっていき、周りの人が強くなっていけば地域が強くなる、地域が強くなれば町、市が強くなる、災害に強い国になってゆくことになるのではないかと思いました。

自分の命は自分で守るという人が増えていかないといけないので、講演では強い人間になって行く事と言う風に話しました。   経験したものとしては伝えるという意味合いで取り上げていいんじゃないかと思います。    10年になるので今後これからはどういう形をとって行ったらいいのか考えています。   災害を経験した人としなかった人の差はどうしても出てくる、この差を埋めるという事ではなくて、理解度を広げてゆくことが大切なんじゃないかと思います。  「安全、安心」、「安心、安全」 どっちが先なのか。 「安全が確保されて安心がある」ものだと思うが、安全もいつまでもあるものではなくて、結局なくなって行く運命にある。  「安全」をいつもチェックしておかなくてはいけない。    まず命が根底で、この「安全」はこれで命が守れるのかという風に考えてゆく必要がある。

根底は命を大切にすることで、それに向かってどういう行動をとるのかという事、「大丈夫だ」という事を安易に発しないこと。   「想定外」はできるだけ控える事、想定外という事では我々のレベルではそこで終わってしまう。  

地震が起きて避難する時に、何を持ってゆくか、誰と非難するかという事を決めておく、それを強く覚悟しておく必要がある。   自分の命は自分で守るという事ですが、自分の命を守るという事は、結局は人の命も守っていることに繋がると思うんです。

2021年3月7日日曜日

田中星児(歌手)            ・【時代を創った声】

 田中星児(歌手)            ・【時代を創った声】

奈良県御所市生まれ、73歳、NHK「おかあさんといっしょ」の初代「うたのおにいさん」として知られています。

1976年大ヒットした「ビューティフルサンデー」  昭和45年にNHK「ステージ101」のヤング101のメンバーの一人としてデビュー、翌年からおかあさんといっしょ』の初代「うたのおにいさん」を6年近く務めました。   「ビューティフルサンデー」、「北風小僧の寒太郎」、「ヤンチャリカ」などといったヒット曲を歌いました。   現在も子供から大人まで楽しめるコンサートや作曲に励んでいます。  

2年前に心筋梗塞をやってしまって発見が遅れて心臓が1/3壊死してしまって、歩かなくては行けなくて一生懸命歩いています。   コロナ禍でイベントも無くなってしまいました。     

父親が高校の音楽の教師をしていて、ピアノを弾いていたりして、父親の足元で聞いたり、レコードを聴いていました。  童謡など子供のころ歌っていました。  ポール・アンカ、ニール・セダカ、中学でプレスリー、高校でビートルズが好きになりました。  ギターを買って歌っていました。   高校の頃に或る番組に出てプレスリーの歌を歌って或るプロダクションに推薦してもらいました。   冬休みの1週間だけやりましたが、声が枯れてしまって、プロダクションとは縁が切れてしまいました。   大学で東京に出てきて、歌番組があり「十人抜きのど自慢」とかで十人抜いたりとかして、NHKののど自慢に出て、ポピュラーの部で優勝しました。   大学4年の時に「ステージ101」が始まって、オーディションがあり(ヤング101)、受けました。   歌をやったり、踊ったり面接があり運よく受かることができました。   半年間後ろで一緒に歌って練習をして、その後出られるようになりました。   

「ステージ101」ではアメリカではやっていたものとか、オリジナル曲などをやっていました。  踊りはできなかったので最初は大変でした。  1971年に「おかあさんといっしょ」のチラシが回ってきて、受けて合格することができました。   「おもちゃのチャチャチャ」で腰を振るのがよかったと言われました。   「うたのおにいさん」として6年近くやることになりました。   「さっちゃん」とか歌っていきたいと思っていました。  いろんなジャンルの歌があって、楽しい歌があるんだなあとつくづく思いました。    子供だけではなくて、お母さんとかおじいちゃんおばあちゃんが一緒に歌うような感じでよかったです。  

*「北風小僧の寒太郎」  作詞:井出隆夫  作編曲:福田和禾子 歌:田中星児

この歌に出会って井出先生、福田先生には感謝しています。  子供用の演歌として作られたようです。   1976年に「ビューティフルサンデー」がヒット、紅白歌合戦にも出場することが出来ました。   

その後コンサートを中心にやっていきました。   いろんな時代の楽しい歌を歌っていきたいと思っています。   自作の曲をコンクールに出すとかやって来ました。  なかでも「エトはメリーゴーランド」は最初は1992年に放送され、何度も再放送され、去年の12月から今年1月にかけても再放送されています。

「エトはメリーゴーランド」   作詞:小黒恵子 作曲:田中星児  歌:田中星児



2021年3月6日土曜日

徳永 進(医師)              ・"豊かな終わり"を見つめて(初回:2018/11/3)

 徳永 進(医師)         ・"豊かな終わり"を見つめて(初回:2018/11/3)

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2021年3月5日金曜日

照井翠(俳人)             ・俳句で残す東日本大震災の10年

照井翠(俳人)             ・俳句で残す東日本大震災の10年 

照井さんは31年前俳句の会に入会し、平成14年に現代俳句新人賞を受賞します。  平成15年には第5句集『龍宮』により第12回俳句四季大賞および第68回現代俳句協会賞特別賞を受賞、このほど句集『泥天使』を上梓します。  句集には大震災の記憶をとどめたいという思いが込められています。   

東日本大震災から10年 になります。   当日、釜石高校に勤めていて、次の日が入試だという生徒たちを指導していました。   地響きと同時に床が盛り上がってきました。    学校に一晩過ごすことになりました。  3百数十名いました。  一般の人も来ました。  波に飲まれた家族の光景をみた父親が息子さんを抱いたりしていました。   

俳句はメモ用紙に浮かんだものを書いていました。   鎮魂の思い、亡くなられた方への御霊への私なりの祈りの思いを詠んで行けたらなあと思って、一句、一句詠んでいきました。

「春の星こんなに人が死んだのか」   その夜は満天の星で光り輝いていました。   なんでこんなに星があるの、浜で亡くなった人が昇天なさって、御霊が光っているんだと思えるほど美しい星空でした。

喪へばうしなふほどに降る雪よ」   三陸の沿岸って連日大雪が降ることはないのですが、毎日雪が降って、夢や希望も失いかけている時に、ひたすら雪が降ってきて、そういうところから生まれた句です。

「泥の底繭のごとくに嬰と母」   震災三日目にアパートがどうなっていつか見たくて出かけましたが、街は泥だらけでした。  泥の底に赤ちゃんを抱いたお母さんがまるで繭のように亡くなった様子をうかがって、こういう句ができました。   「戦争よりひどいよ」と年寄りの方がおっしゃっていました。   瓦礫から抜け出そうともがいて亡くなっている人、大変な状況で地獄だとおっしゃっていました。   釜石は鉄の街なので戦争で艦砲射撃を何百発もうけた街でもあります。

「朧夜の泥の封ぜし黒ピアノ」     消防車が横たわっていたり、パトカーが車の上に積みあがっていたり、介護の車が電信柱に寄りかかっていたりする中で、立派なグランドピアノが道路の真ん中に泥まみれでありました。  ピアノとしての命を失ったのかと思うと苦しい思いがしました。  見たことのない非日常的なものが眼の前にありました。   震災後2,3年後は復興に向けていくようなものだと思いますが、なかなか進んではいかなかった。   疑念がわいてきた時期でした。

「万緑の底で三年死んでゐる」  3年経ってもそこで死んでいるんだというつぶやきのような句です。

「草茂るずっと絶望してゐろと」  投げやりな感じ、はかない気持ちを持ったし、それではいけないという気持ちもあり、震災後3,4年は心が揺れ動いた時期でもあります。

『龍宮』に収めた句があり、その後8年間震災と向き合って来て、その間に詠み溜めた句を収めたのが 『泥天使』になります。   私にとって震災の本質、震災を象徴するものが泥です。

「黒波の来て青波を呑みにけり」  季語はないのですが、一方からどす黒い波が来て青い波を吞み込んでいってしまった。

「海からも海へも桜散りにけり」  海からもというのはこの世ではないところから桜が浜のほうに散り込んできているという句です。

「佇めば誰もが墓標春の海」  放心状態でみんなが無言で沖を見ていたが、棒立ちになっていて、墓標のように見えました。 

「逢へるなら魂にでもなりたしよ」    これも季語が無いですが、自分にとって大切な人に逢えるなら魂にでもなりたい。   魂になるという事は自分自身が霊魂になる事。 

「初螢やうやく逢ひに来てくれた」  ようやく会いに来てくれた。  螢の飛ぶ季節が来ましたが、螢が自分の袖口に止まってくれる、葉っぱの上に止まってくれる、それを見て震災で亡くなったあの方が、ようやく今会いに来てくれているんだと思った句です。

「卒業す泉下にはいと返事して」    務めていた学校の生徒は全員無事でしたが、他の学校では亡くなられた方がいて、亡くなった生徒の名も担任の先生は卒業で呼んであげたと思いますが、声はないんですが、おそらく泉下(あの世)ではいと返事をしてくれていたであろうなというところからこの句は生まれました。

寒昴たれも誰かのただひとり」   スバルという星、家族のようにこじんまりと集まっている、それを見ていて、誰かにとってはたった一人のかけがえのない存在だと思ってみたものですから、そういう思いで詠んだ句です。  

私自身が涙を流しながら、歯を食いしばりながら一句一句、鎮魂の思いで詠んでいった句なので他の人にも伝わればいいなあと思います。  句集を世の中に残すことで、紙でできた碑(いしぶみ)のようなもので、紙の碑という思いで作りました。

避難所の子供たちに薄い雑炊を「ラブ 注入」と言って注いで上げたら、子供たちは「ヤダ先生ったら」と言って笑ってくれて、一般の方々も「先生、私たちのも ラブ注入してくださいと」言われて、「ラブ 注入」、「ラブ 注入」と言いながら薄い雑炊を盛らしてもらいました。  腹の底から笑えない状態だったが、ようやく本当に笑ってもらう事ができました。










2021年3月4日木曜日

高橋雅子(ホスピタルアーティスト)   ・被災者の心に希望の色彩を

高橋雅子(ホスピタルアーティスト)   ・被災者の心に希望の色彩を 

病院内の壁などに絵を描いて入院患者や医療従事者を癒そうという取り組みをしています。  東日本大震災が起きた10年前からは活動拠点の東京と東北を何度も往復して、街の施設に絵をかいたり人形作りのワークショップを開いたりして、災害で傷ついた人たちに寄り添ってきました。   アートの力を信じて被災者の心に希望の色を添えたいという高橋さんに活動内容やアートへの思いを伺いました。

絵は花、山だったり自然の絵だとか気持ちいいものを描ています。  病院の受付、入院している部屋、集中治療室、子供たちが遊ぶプレイルーム、食事をする部屋などに描いています。   プレイルームでは虫が遊ぶところとか、太陽、子供たちが大好きそうなモチーフを描きます。   患者さん、先生に参加していただく物つくりの活動は何百と、これまでに日本全国の病院でやってきました。   アートで心の部分を前向きにしてゆくことだったり、心のケアを出来ると思います。   一緒にマスコットを作ったり病院の庭にガーデニングの様な 花いじりをしたりします。  コミュニケーションがとれるようなアートプログラムをしてほしいとか、暗い部屋を明るくしてほしいとか、具体的な相談が来る様になってきました。

ホスピタルアーティストとしては10年前ぐらいからです。  病院に入ったのは18年前ぐらいです。   母親が脳梗塞で一命はとりとめましたが、闘病生活の中で気持ちが前向きになるようなことが出来ないかなと思った時に、アートで出来るのではないかと思いました。   先ずは温かい色、雰囲気が欲しいなと思いました。   最初はけんもほろろでした。   入院生活経験者、患者さんとかにヒアリングをしたら、皆さんとても欲しいという人達がほとんどでした。    或る先生が共感してくれてそこから少しづつ軌道に乗っていきました。    心の色が変わってゆくのを感じました。(20年前ぐらい)

東日本大震災の時には、先ず視察をして、3月末に入って食べ物の支援などをしながら、絵の道具も持っていきました。    マスコットを作る針と糸、絵を描く材料などをもって向かいました。   5人ぐらいから30人ぐらい、場所によって違いますが一緒にやってきました。   自分を取り戻してゆく感じがうかがえました。   仮設住宅に変わっても集会所ができたので落ち着いた環境で作れるようになり、コミュニケーションも楽に出来るようになりました。   仮設住宅に絵を描いたりもしました。   

子供達は色彩のある所に育たないと、好奇心、喜怒哀楽とかが眠ってしまって元気がでるようには育たないと言うデータもあります。   地元の高校生が街がとても沈んでゆくので明るく元気にきれいにしたいという相談があって、街を再生してカラフルにしてゆこうという事が始まり、公園とか塗り替えてゆくことになりました。   感動しました。

車での移動の活動距離は地球を5周分になりました。   心の支援ではアート、音楽、暖かい言葉をかけるとかあると思いますが、アート活動での支援は自分と向かい合うという事を見ていたので、大変な状態ではありましたが、でも必要なんじゃないかなと思いました。自分が作ったという事で前向きになって行くと思います。   

アメリカに留学していた時にベトナム戦争の帰還兵がトラウマに落ちいって、悩んだりした人がいたり、自分の中の悩みとか、社会で違和感があるとか、価値観が違うとか、判る過程にアートが必要だったんだという事が感じられて、人の心を救ったり、人生に大きな効果があったりするんだという事を感じました。  救いを求めている人とかに対してサポートできるような活動をしたいと思いました。  家系が医者だったので、自分には出来なくてアートでもできるのではないかと思って役に立ちたいと思いました。

東京に拠点がありましたが、宮城県に拠点を移して、仕事の本拠地を仙台にうつしました。家族の反対は諦めなのか反対はないです、静かな応援ですかね。

ホスピタルアートが一つの芯になって、この被災地に年内に本拠地を構えてここからいろいろできることと、各地で必要な事を気付いたら飛んで行けるようにして、障害を持っている人たちの将来を含めて応援していきたいなと思っています。  



   

2021年3月3日水曜日

北島三郎(歌手)            ・「歌の道」を歩み続けて(2) 

 北島三郎(歌手)            ・「歌の道」を歩み続けて(2) 

座長公演、46年間で実に4578回に渡って、繰り広げられた公演はお芝居と歌のステージで構成され、華やかで大掛かりなセットも魅力の一つでした。   そこにはお客さんを何としても喜ばせようという北島さんの思いがありました。   そして作詞や作曲にも取り組み、「祭り」や「年輪」などの名曲なども生み出してきた北島さん、その音楽はどう作り上げてられてきたのか、北島さんの歌の哲学に迫ります。

劇場公演4578回、その一回は4時間あり、前半がお芝居、後半が歌謡ショー。   これで幕がさがると思った時にさらに幕が割れて、ペガサス、シャチホコ、虎、龍などに乗っかって最後に「祭り」を歌う。   お客様に満足してもらって帰ってもらうように、という思いがあり、自分で、作る方と相談しながら、歌いながら自分でやっています。   ラスベガスに何回か行って、これを日本風にして取り入れてやろうと思いました。   お客さんの中に飛び込んでいかないといけないと思っています。    壁を作ってしまっては駄目です。

いろんなものを見て、いろんなものを拾って、いろんなものをいただいて、それに味付けをして出すと又絶対喜んでもらえます。   舞台は私の戦場なんです。 

「祭り」は座長公演の締めくくりで歌われ、NHKの紅白歌合戦でも7回披露されました。 作詞:なかにし礼  作曲:北島三郎   

7回やっていますが、それぞれ違ってきています。  赤組も白組も全員集まって来てくれて歌う、感謝を感じて、今年一年有り難う、来年も頑張ろうね、という意味での「祭り」です。

作詞、作曲で「年輪」、「山」など数々作っていました。   波の音を聞いてもカモメの音を聞いても作曲はできます。  見たもの聞いたものを拾って一つのものに書き上げます。   アメリカはジャズ、フランスにはシャンソンがあり、日本には演歌、それは生活の歌です。   伝わらない歌を一所懸命やっていたのでは誰もいいと言ってくれない。   歌とは何だと言われても難しいですね。  歌は人生の肥やしかもしれない。   だから暗くなってゆく歌は歌いたくない。   慰めてくれたり、励ましてくれたり、元気づけてくれたり、心の支えになってくれるのが、歌かなあ。   84歳になりましたが、いろんな人との出合い、いろんな障害もあるが、道を歩いてきて、このごろは歌わせて貰ってありがたいという気持ちに変わってきた。   ライバルは誰かと聞かれるが、一緒に出た人、これから出てくる人たちはみんなライバルで、先輩は尊敬です。      思い出やら今迄の生き様を、戻れない人達のために、歩いてきた道にいろんな足跡があるだろうと、そんな思い出を思い出させてあげる歌必要だろうと、そういう歌を歌ってあげようと思います。   

今歌いたいという思いは、よぼよぼした身体で体調がよくないのにお客さんに迷惑を掛けちゃうなあという事は凄く感じることで、プロとしては恥ずかしい事ですが、でも座っても倒れても歌わなければならないのがプロかもしれない。   体調が悪いと思いながらも舞台に上がる事で生かされるわけです。   戦いがまだ出来るうちは何を歌いたいというよりも、この人達に喜んでもらえる歌を歌いたい。   こんにち思うには歌わせてもらえるんだという気持ちに変わってきています。   生かされているので、何かお役に立てることをしたいが、歌しかないので、歌を通じてみんなが元気になってもらえる、土の匂いのする歌、潮の匂いのする歌、ネオンが重なる歌とか、そういった歌を歌っていくのが自分の使命だと思っています。  お客様にかついでもらってこんにちまで来ているので、終わりまで頑張りぬかなければいけないのかと思っています。

2021年3月2日火曜日

北島三郎(歌手)            ・「歌の道」を歩み続けて(1) 

北島三郎(歌手)            ・「歌の道」を歩み続けて(1) 

昭和11年生まれ、84歳、昭和37年にデビューして以来、「まつり」、「風雪流れ旅」、「与作」、「函館の人」など数多くのヒット曲を世に出し、NHK紅白歌合戦のステージには特別出演を含めて51回立たれています。   故郷は北海道の南西部津軽海峡に面した人口4000人ほどの町、知内町です。  北島さんは小さいころから歌が好きで、函館の高校に通っていた時にはのど自慢にも出場、歌手を夢見て上京してからは下積みの生活も長く続きました。   そんな北島さんの歩みを振り返るインタビューです。

NHKホールは3000人程度あり、椅子、壁、ライトもみんな俺の歌を聞いたのかなと思っています。   紅白を出してもらった頃は大先輩がいっぱいいました。  始めて「トリ」を務めることになり、出ようとしたら「頑張って」、という声が聞こえました、美空ひばりさんの声でした。  「大トリ」が美空ひばりさんでした。  映像と歌声がすごかった、流石だと思いました。   オーラというか芸の凄さを感じ、感動させられる歌を歌わなくてはいけないと思いました。    紅白は来年への橋渡しの番組だと思いました。

知内町は生まれ故郷です。  漁師の息子として生まれイカ干しとか、畑いろんなことをしました。   生まれたときから芸事が好きでした。   流行歌が好きで聞いていました。   高校へ行った頃「のど自慢に出ろ」って友達が言って、出たときに司会が宮田輝さんで、「いい声をしてるね」と褒めてくれて、俺も歌手になれるのではないかという気持ちになりました。   東京に行こうと思ったが、長男なので親に反対されると思って、一週間ほど東京に遊びに行ってもいいかと言う事で、東京に出てきて東京声専音楽学校に入学、親に反対されたが本科を卒業すると小学校の音楽の先生になれるから、と嘘をついて説得しました。  おやじから言われた言葉が「俺も漁師は好きではなかった」といったことを今でも覚えています。    昭和30年3月青函連絡船で函館を出発しましたが、おやじが一人で涙を浮かべて送ってくれました。   知内町から函館まで約1時間半、函館から青森まで4時間、青森から東京まで20時間かかりました。(今は4時間でついてしまう。)  遠かったからよかった、近くだったらすぐ帰ってしまったと思う。

歌手募集の新聞広告を見て、行って歌ったら採用という事になりましたが、実は「流し」で、一日300円という事でした。  民謡から、軍歌から、校歌から、歌を覚えて勉強しました。     お客さんとのキャッチボールという事で6年やってきました。    「流し」で一番いやだったのが、或る時「大野」と呼ぶ声がありずーっとついてきました。  案の定、同級生で「歌手になると思っていたが、流しかよ」という一言でした。   修行中だという事で別れたが、両親が流しをやっていると聞いたらどうしようと思ったら、ばれてしまって、帰って来いという手紙を受け取りました。   焦りもありましたが、大晦日に明治神宮にお参りして、「どうぞ歌手にしてください」とお祈りしました。      ギターを弾く相方が体調を崩して、一人でやるようになり、或る時「さっきからあんたの来るのを待っていたんだ」と言っていきなり1000円をくれました。  翌日その人と合う事になり一緒についてきた人が作曲家、船村徹さんでした。  これを契機に船村門下となり、レッスンの日々となりましたが、レッスン料が5000円で大変でしたが頑張りました。  

スケート場に連れていかれて、10代から20代の人たちがいっぱいいて、「俺たちが何十年か前に置いてきた匂いがいっぱいある、この道を歩いてゆくにはそういうものをなくしちゃダメなんだ、たまに、置いてきたものを貰いに行くんだ」と言ってくださいました。    なるほどなと思いました。    音楽に関しては、得意なところはいいと、得意ではないところをしっかり歌えと、言われました。    「悲しい寂しい歌を辛さをこらえて笑って歌えと、悲しさが倍悲しく聞こえる」と言われました。   

船村さんから譜面を渡され、最初のヒット曲となったのが『なみだ船』だった。

この歌は誰が歌っても俺でなければ歌えないという信念を持つんです、そうして歌います。   普段は浪曲か、民謡か、あとはジャズを聴きます。  ジャズは自分にないもので、リズム、黒人の歌の中にはなんか生活もあります。  ジャズも歌います。   演歌も叫びですよね。  

素人の人でいい歌を歌う人がいて、アマチュアの方から教わることもあります。








2021年3月1日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)         ・【絶望名言】樋口一葉

頭木弘樹(文学紹介者)         ・【絶望名言】樋口一葉 

「たけくらべ」、「にごりえ」の小説などで名高い樋口一葉は、24歳6か月で肺結核のために亡くなりました。  

「これが一生か、一生がこれか、ああ嫌だ嫌だ。」   樋口一葉

日記が随分残されていて、日記の中の言葉も紹介しようと思っています。

明治5年生まれ、夏目漱石が5歳の時に生まれたことになります。  樋口一葉の父親の上司が夏目漱石の父親だったことがある。   夏目漱石の兄と樋口一葉の縁談話が持ち上がったこともある。  そうなると樋口一葉の人生も随分違っていたと思われる。   樋口一葉は、24歳6か月で1896年に亡くなるが、同年に宮沢賢治が生まれています。

「これが一生か、一生がこれか、ああ嫌だ嫌だ。」 これは「にごりえ」の小説の一節。  自身の気持ちに近いと思います。

『どうぞお下りなすって、もう引くのが厭やに成ったので御座ります、もうどうでも厭に成ったのです。  何が楽しみに轅棒(かじぼう)をにぎって何が望みに牛馬の真似をする、銭を貰へたら嬉しいか、酒が呑まれたら愉快になるか、考えれば何も彼も悉皆(しっかい)厭で、お客様を乗せようが空車からの時だろうが嫌やとなると用捨なく嫌に成りまする』 「十三夜」の一節   

自分のやっていることが嫌で嫌で、という事はいろいろあると思います。  仕事もいくら厭になっても辞められない場合もある。 もう嫌だ、車を引きたくない、もう降りてくれと言いたくなることはあると思うんです。  自分のこれまでの人生を振りかえった時に、「これが一生か、一生がこれか、ああ嫌だ嫌だ。」という事になると思います。  私(頭木)も自分の人生を振り返って、一度しかない人生が難病で、これが自分の人生なのか、これしかないのかと思うと本当に嫌でした。

「女の踏むべき道、ふまばやと願へども成り難く、さはとておの子の行く道、まして伺いしるべきにしもあらずかし」        樋口一葉 日記の中の言葉     

女性の進むべき道を進むのも難しく、かと言って男性の進むべき道を進むのも難しい、女性はこう進むべきという道を進めなかった。 樋口一葉は自分で小説を書いて稼ごうとしたが、これもまた難しい。  生きづらい事になる。  社会は男性社会であると同時に健常者社会でもある。  病人にも生きにくい。  自分たちのために作られていない社会で生きる辛さはわかる気がします。

樋口一葉は小学校の途中で辞めている。   小学校の成績が良くて主席になる。 勉強ができたのでかえって母親が心配した。  女の子が学問をするのが将来のためによくないという思いだった。  父親は学校を辞めさせるのには反対する。   樋口一葉は問われるが何も言えなくて小学校を辞めることになる。   樋口一葉は死ぬほど悲しかったと書いている。  父親が知り合いを辿って、和歌を教えてくれる歌塾「萩の舎」(はぎのや)に樋口一葉は入門するが門人が1000人以上いて、上流階級が多くて肩身の狭い思いをするが、発会の歌会で一葉は最高点を取っている、才能を発揮して、のちに塾の後継者という話もあり、女学校の教員にも推薦してもらえることにもなる。   両方ともうまくいかなかった。   兄が結核で亡くなり、父親も事業に失敗して病気になってなくなってしまう。  17歳で母親と妹を養っていかなくてはいけなくなる。   学歴もない女性としては厳しく暮らしむきが厳しくなってゆく。   婚約者がいたが、言い訳をして逃げてしまう。  学歴もなく、女性だと働ける場所も凄く限られてしまう。  借金をしながらの生活が続いてしまう。

「ぜひの目印あらざらん世になお漂う身とかし、寄せかえる波は高し、わが身はか弱し」                          樋口一葉 日記より

小説を書いて収入を得ようとした。  

私(頭木弘樹)も収入を得ようとして考えたが、ベッドで原稿かくことしかなかった。

樋口一葉は小説では収入が得られなくて、借金であら物、雑貨店を吉原遊郭の近くに開く。   そこで見聞きする女性たちを描いたのが「たけくらべ」で、ここに住んで樋口一葉の作風は大きく変化する。   店もうまくいかずに引越しをする。  引っ越し先は隣がお酒を売る店だが、実際には売春している店で、女性たちは吉原よりもさらに虐げられて辛い暮らしをしている。   樋口一葉は女性たちが客寄せのために出す恋文の代筆をする。    そして「にごりえ」という名作が生まれる。  

歌塾「萩の舎」(はぎのや)での上流女性から辛い生活をする女性まで知ることになる。   苦しみを描くことこそ大事だと思います。

「菜根譚」のなかに 「清いものは常に穢れたものの中から生まれいで、光り輝くものは常に暗闇の中から生まれでる」   樋口一葉の小説もまさにそういうものだと思います。

『利欲にはしれる浮(うき)よの人、あさましく、厭(いと)はしく、これ故(ゆえ)にかく狂へるかと見れば、金銀はほとんど塵芥(ちりあくた)の様(よう)にぞ覚えし。』   樋口一葉の日記より     

このころ自叙伝を書こうとして、子供のころ思っていたこと。   5000円札に樋口一葉が描かれている。

「われは誠に窮鳥のとびいるべき懐なくして、宇宙の間にさまよう身にはべる。」

助けが欲しい時に、もう助けを求める先さえないという事はきついですね。

「秋の夕暮ならねど思ふことある身には、見る物聞ものはらわたを絶たぬはなく、ともすれば身をさへあらぬさまにもなさまほしけれど、親はらからなどの上を思い初れば、我が身一ツにてはあらざりけりと思ひもかへしつべし。」」  樋口一葉の日記より 

自殺をしたいという気持ちがここに現れている。

『、、、たはやすきものはひとの世にしてあなどるまじきも此人のよ成り 其こゑの大ひなる時は千里にひひきひくきときは隣だも猶しらさるか如し』   樋口一葉の日記より    (聞き取りにくく正しく記載されていないかもしれません)

『たけくらべ』が一括掲載されると、森鷗外幸田露伴は同人誌『めさまし草』で一葉を高く評価、世間で認められた。  しかし、素直には喜べなかった。

世の中はこんなふうに簡単にこのように有名になって、たやすいところがあるけれども、一方で世の中は非常に恐ろしいものであって、自分の声が広く世の中に届くこともあれば、本当に困っている時には隣の家の人さえ助けを求める声が届かない、という意味です。

樋口一葉が代表作を次々に書いたが、それはたった14か月の間だった。           「患って知る病人の味、かくばかりいやなものとは知らざりき。」              樋口一葉の様な人でも病気がこれほど嫌なものとは、病気になって初めて判る。

樋口一葉は本当は小説ではなく歌の道に進みたかった。   

小学校の時の樋口一葉の和歌  樋口一葉の人生の全体を表している様である。       (筆の命毛→命毛は筆の穂先にもなるし、芯ともなる毛のこと。)

「細けれど人の杖とも柱とも思われにけり筆の命毛」    樋口一葉