2024年3月31日日曜日

向笠千恵子               ・心の味に出会うために~フードジャーナリストの道を歩いて~

 向笠千恵子       ・心の味に出会うために~フードジャーナリストの道を歩いて~

向笠さんには2011年から「ラジオ深夜便」に出演頂き、日本各地に根付いた郷土料理やその背景にある歴史、また各地の朝ご飯など興味深いお話をお聞きしてきました。 今年度をもって向笠さんは番組を卒業されます。 改めて向笠さんが歩むフードジャーナリストの道のお話を伺いました。

向笠さんには2017年「ご飯の知恵袋」のコーナーが始まってから7年間お話を伺ってきました。  その前に大人の旅ガイド「おいしい旅」に6年間生出演。 「ラジオ深夜便」とも長くお付き合いいただきました。 

国土が狭い日本と言われがちですが、実際各地を訪ね歩いてきますと、海、山があり、峠一つ越えるだけで食習慣がガラリ変わっていたりして、日本は広くて様々な食文化があります。   それを眼で舌で実際それを確かめ皆様にお伝えしたいという事が、私の背中を押してきたと思います。 歴史的背景まで考察したりすると、興味深い事ばかりです。   様々な食材、野菜、お魚、果物、納豆などの素晴らしい加工品、巧みに食宅に取り入れている郷土料理、など、お伝えしたいとやって来ました。 

東京の下町で、父は食いしん坊で、母も新しい料理にチャレンジするのに熱心でした。  学生時代進路に迷いました。  好きなことを考えたら食と旅する事、歴史も好きでした。 そこで料理の編集の仕事の道に入りました。   大学時代は図書館情報学科を勉強していました。  食材を切り口にしたテーマを担当するようになって、漁港、漁船に乗せていただいたりして、現場の大変さ、空気を目の当たりにしました。 30歳の時に独立して、仕事も継続しているうちにフリーランスの編集者として仕事の幅が広がって、コーディネーター、プロデューサーをしているうちに小さな会社を興して、食品メーカーさんの仕事などもさせてもらうようになりました。  取材するほど知らないことに次ぎ次ぎ出会って、もっと知りたい、もっと食べたいということにつながったと思います。  

無農薬梅作り60年一筋とか、いろいろ出会うたびに食品と生産者の方には感動してきました。 「百聞は一見にしかず」で直接会って、体験しないと判らないです。 伝える言葉が自分の課題になって来ます。  フードジャーナリストというものを名刺に印刷しました。 藩政時代、例えば津軽藩、南部藩での味と言うのは、はっきり違うし現代まで繋がっている。 秋田県とか、他の県でも同様です。 藩のお殿様が培ってきた気質、国替えもあり、そこの食習慣、野菜の種などを持って行って、新しい食文化が生まれたりしています。  それぞれの食材に素晴らしいドラマを秘めていて、わくわくする思いがあります。      

「朝ごはん」 或る時にふっと気付いて、能登半島の珠洲に親子で営む小さな宿があって、そこの朝ご飯が素晴らしいという情報を得てお訪ねしました。 豆腐も前夜から手作りでやって、豆腐を作り上げる。 干物、漬物なども手をかけて作り上げる。 漬物、みそ汁など素晴らしかったです。  日本各地にはそれぞれの風土に育まれた素晴らしい魚、野菜などで作られている朝食があるんだということを気付かせてくれました。 日本の朝ご飯の取材を始めました。  食の職人的な生産者さんを探るテーマに段々移行していきました。

鯖街道に代表されるような食の伝播について関心を持って、「食の街道を行く」と言うテーマに広がって行きました。 「食の街道を行く」の本は世界的にも評価されて、料理本のアカデミー賞とも言われるグルマン世界料理本大賞グランプリを受賞。(2011年)   「塩の道」の中でも、もっとも有名なところを本に書きました。  東京の食、江戸の食も別の視点から関心を持って、自分の下町のことももっと知っておかなければいけないと思いました。 今も江戸前の味、東京の伝統的な食べ物とか、そういったものもテーマにしていますし、大好きです。  紅葉した葉を添えるとか、日本人が育んできた食卓演出法などトータルで和食は構成されている。  流通なども含めて多面的に伝えることで、味だけではなく食の醍醐味をお伝えできたらいいなあと思っています。 

温暖化などで海から取れるものが劇的に変わってきています。 食文化を担ってきた農村、山村、漁村部の女性たちの高齢化によって、姿が消されつつあり、食の職人たちも代替わりしたり、後継者に恵まれなかったところは消滅したりして、20年ぐらい前から今は正念場に直面しているところです。 どうしたら食の明るい未来が展望できるようになるか、励んでいる方々の姿を伝えるとか、応援する仕事が出来ればいいなあと思います。 

取材したことを如何に表現するかという事をもっと努力しなければと思っています。 楽しみながら表現していきたいと思っています。 「一期一会」では無いですが「一食一会」と言う思いでやっています。 

























2024年3月30日土曜日

戸田菜穂(俳優)             ・「素敵な大人の女性を目指して」

 戸田菜穂(俳優)             ・「素敵な大人の女性を目指して」

中途からになります。

「NHK俳句」の司会を3年やらせてもらいました。 嬉しかったです。 小学校の頃にたまに書いたりしていました。 国語の授業参観の時に私が一番に選ばれました。 詩とか俳句を書いていました。 大人になってから「東京俳句クラブ」に入りました。 現在もはいっています。 月に一回あって4句を詠みます。 5 7 5で言葉のセンスを問われる。 一番に選ばれると短冊がもらえて、その短冊も家に一杯あって宝物になっています。 

3月で50歳になるんですが、一つのいい区切りで、もう一回新しい自分が生きれるというような感じで、楽しみにしています。 向上心の塊みたいだったので、まだまだと思っていました。 最近は一個づつを大切に向き合って、演じて行きたいなと思っています。 ゆっくり味わいながら実生活も楽しみながら、子育ても楽しみながら余裕をもっていけたらいいなあと思います。 20代はわき目を振らずにやる時がありますが、それはそれでいいと思いますが、周りの評価と自分自身の評価が同じぐらいになってゆくとちょっと楽になるという感じはあります。 

生まれが広島で、広島は大好きです。 「お帰り」と言われて嬉しいです。 







2024年3月29日金曜日

山本 學(俳優)             ・〔出会いの宝箱〕 朗読編

山本 學(俳優)             ・〔出会いの宝箱〕 朗読編 

山本學さんは昭和12年生まれ。(87歳) 1958年のデビュー以来存在感のある演技で活躍しています。 山本學さんがライフワークとおっしゃる朗読を再構成してお送りします。

「軍師官兵衛」で演じた快川和尚の言葉  織田信長は明智光秀に交渉に当たらせるが、快川和尚は断固拒否、焼き打ちという事になる。 ドラマでは心頭滅却すれば火もまた涼し」という場面はなかったです。 もしやらされたらこうだという感じでやってみます。

心頭滅却すれば火もまた涼し

吉田忠左衛門の辞世の歌  吉田忠左衛門は禄高200石で、忠臣蔵の中で侍とはどういうものかと命がけで主張して死んでゆく。 統領を補佐する役。 出陣の前に詠う。

「君がため 思いぞ積もる白雪を 散らすは今朝のみねの松風」  君=浅野内匠頭  

平家物語の冒頭の部分。

「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり。 沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の世の夢のごとし。 たけき者もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。」

人間死ぬときはみんな同じで、「風の前の塵に同じ。」という、どんなに偉そうにしていても、でも皆生きてきたんだよと言う、なんか不思議な世界です。

高杉晋作  小唄  「三千世界の烏を殺し、主と朝寝がしてみたい」  高杉晋作が唄ったとされる都々逸(どどいつ)の歌詞。


高村光太郎の詩を三篇読む。

記憶せよ、十二月八日

「この日世界の歴史あらたまる。

アングロ サクソンの主権、

この日東亜の陸と海とに否定さる。

 否定するものは我等ジヤパン、

 眇たる東海の国にして、

また神の国たる日本なり。

そを治しろしめたまふ明津御神なり

世界の富を壟断するもの、

 強豪米英一族の力、

われらの国において否定さる。

われらの否定は義による。

 東亜を東亜にかへせといふのみ。

 彼等の搾取に隣邦ことごとく痩せたり。

われらまさに其の爪牙を摧かんとす。

われら自ら力を養いてひとたび起つ。

 老若男女みな兵なり。

 大敵非をさとるに至るまでわれらは戦ふ。

 世界の歴史を両断する。

 十二月八日を記憶せよ。」 


終戦の時の詩

「一億の号泣」

「綸言一たび出でて一億号泣す

昭和二十年八月十五日正午

われ岩手花巻町の鎮守

島谷崎神社々務所の畳に両手をつきて

天上はるかに流れ来る

玉音の低きとゞろきに五体をうめる

五体わななきてとゞめあへず

玉音ひゞき終りて又音なし

この時無声の号泣国土に起り

普天の一億ひとしく宸極に向ってひれ伏せるを知る

微臣恐惶ほとんど失語す

ただ眼を凝らしてこの事実に直接し

荀も寸豪も曖昧模糊をゆるさゞらん

鋼鉄の武器を失へる時

精神の武器おのずから強からんとす

真と美と到らざるなき我等未来の文化こそ

必ずこの号泣を母胎として其の形相を孕まん」

 

昭和22年の詩

暗愚小伝に中の「山林」の一部

「私はいま山林にゐる。

生来の離群性はなほりさうもないが、

生活は却て解放された。

村落社会に根をおろして

世界と村落とをやがて結びつける気だ。

強烈な土の魅力は私を捉へ、

撃壌の民のこころを今は知つた。

美は天然にみちみちて

人を養ひ人をすくふ。

こんなに心平らかな日のあることを

私はかつて思はなかつた。

おのれの暗愚をいやほど見たので、

自分の業績のどんな評価をも快く容れ、

自分に鞭する千の非難も素直にきく。

それが社会の約束ならば

よし極刑とても甘受しよう。」

高村光太郎は空襲で、智恵子と暮らした家も失い、岩手県の花巻で小さい家で独り暮らしを始める。  自分を見つめ終戦。

「一億の号泣」僕も聞いて泣きました。 
高村光太郎はそれまで体験したことがないような不自由な暮らしを強いられる。 土に親しむ喜びみたいなものも言っている。                            「山林」では非難する人は非難してくださいと言い切っている。 

戦中戦後、私も飢えを教えられたことは大きかったです。 

映画監督山本薩夫(叔父) 僕は医者の役でした。 エッセーを読みます。

「白い巨塔」を映画で発表したのが1966年。

「白い巨塔」エッセー 朗読

「私の撮ってきた作品を見てみると、権力というものに対して反抗してゆくような内容を持った映画には、自分でもなんか張り切ってぶつかってゆくようなところが見える。 だがそうでない作品になるとどうも気持ちが乗らない。 大映で1966年に撮った「氷点」などもその一つだ。朝日新聞に当選した三浦綾子の原作で映画は評判がよく、興行的にもかなりヒットしたものだ。 人間の原罪と言うモチーフとして展開される話の内容に戸惑い、私自身もう一つ乗り切れないところがあった。・・・ 山崎豊子の「白い巨塔」は派閥抗争に明け暮れる医学界の内幕を暴く中で、一つの権威を突くという要素を持っており、題材としても非常に面白いものだ。 ・・・私としても撮りたい作品のひとつであった。 ただ問題は撮影である。医学界の派閥や権威が絡んでどの病院も協力してくれない。・・・だが世の中には権威に対して反感を抱いている医者も必ずいるものである。 ・・・一人は日大病院の医者で彼がセットなどの面倒を全て見てくれることになった。 ・・・映画が嘘にならないように指導してもらったわけである。・・・手術はなかなかセットで撮影するというわけにはいかない。・・・ 東京女子医大の手術室を見せてもらう事にした。・・・偶然にも主人公のモデルになった医者がそこで手術をしていた。・・・映画では彼を悪として描いており、これはまずいなと思ったが、ここの手術室だけは貸してもらわないとならない。・・・ 日曜日だけを利用して撮影することに決めた。・・・たまたま噴門癌の手術の患者がいたので、不道徳なことだとは思ったが、私は撮らせてもらう事を頼んだ。・・・そして撮影されたのがこの映画のトップシーンとなった。 白黒にした。 カラーでは刺激が強すぎて出せなかったからである。・・・ 

病院内は色々な病院を撮影してつなぎ合わせた。・・・ 白い塔についてはやっと聖路加病院の許可を得たのだが、この病院の塔には十字架がついている。・・・十字架を上手く切って「白い巨塔」とした。  この映画はモスクワの映画祭に出品され、トップシーンの手術実写が残酷だと問題になり、グランプリには取れず、銀賞になってしまった。 ・・・ 医者で小説を書く人たちがグループを作っており、そこへ呼ばれていったことがある。・・・これまで医者を扱った日本映画はすべて嘘だけれど、これだけは本物だと言って褒めてくれた。 これはどんな賞を貰うよりも嬉しかった。・・・役者たちもよくやってくれたと思う。 ・・・ 世の中には派閥や権威に反駁している人間が必ずいるという事、そういう人たちの協力が無ければ、こういう映画は出来ないという事を、この映画を通して私はつくづく学ぶことが出来た。」 

映画を作る側は色々な苦労があるという事を知りました。 監督となると全体的な苦労があるんだなと思いました。 反骨の塊の人でした。

中原中也は長男文也を僅か2歳で亡くしました。 中也の悲しみは深く精神のバランスを崩し、療養所に入ります。 退院して一月後に発表したのが「春日狂想」でした。

「春日狂想」

愛するものが死んだ時には、
自殺しなけあなりません。

愛するものが死んだ時には、
それより他に、方法がない。

けれどもそれでも、業(ごふ)(?)が深くて、
なほもながらふことともなつたら、

奉仕の気持に、なることなんです。
奉仕の気持に、なることなんです。

愛するものは、死んだのですから、
たしかにそれは、死んだのですから、

もはやどうにも、ならぬのですから、
そのもののために、そのもののために、

奉仕の気持に、ならなけあならない。
奉仕の気持に、ならなけあならない


奉仕の気持になりはなつたが、
さて格別の、ことも出来ない。

そこで以前(せん)より、本なら熟読。
そこで以前より、人には丁寧。

テムポ正しき散歩をなして
麦稈真田(ばくかんさなだ)を敬虔(けいけん)に編み――

まるでこれでは、玩具(おもちや)の兵隊、
まるでこれでは、毎日、日曜。

神社の日向を、ゆるゆる歩み、
知人に遇(あ)へば、につこり致し、

飴売爺々(あめうりぢぢい)と、仲よしになり、
鳩に豆なぞ、パラパラ撒いて、

まぶしくなつたら、日蔭に這入(はひ)り、
そこで地面や草木を見直す。

苔はまことに、ひんやりいたし、
いはうやうなき、今日の麗日。

参詣人等もぞろぞろ歩き、
わたしは、なんにも腹が立たない。

    《まことに人生、一瞬の夢、
    ゴム風船の、美しさかな。》

空に昇つて、光つて、消えて――
やあ、今日は、御機嫌いかが。

久しぶりだね、その後どうです。
そこらの何処(どこ)かで、お茶でも飲みましよ。

勇んで茶店に這入(はひ)りはすれど、
ところで話は、とかくないもの。

煙草なんぞを、くさくさ吹かし、
名状しがたい覚悟をなして、――

戸外(そと)はまことに賑やかなこと!
――ではまたそのうち、奥さんによろしく、

外国(あつち)に行つたら、たよりを下さい。
あんまりお酒は、飲まんがいいよ。

馬車も通れば、電車も通る。
まことに人生、花嫁御寮。

まぶしく、美(は)しく、はた俯(うつむ)いて、
話をさせたら、でもうんざりか?

それでも心をポーッとさせる、
まことに、人生、花嫁御寮。


ではみなさん、 喜び過ぎず悲しみ過ぎず、
テムポ正しく、握手をしませう。

つまり、我等に欠けてるものは、
実直なんぞと、心得まして。

ハイ、ではみなさん、ハイ、御一緒に――
テムポ正しく、握手をしませう。

中原中也は可哀そうな人だったんです。 

「まぶしく、美(は)しく」となっていますが、いちいち説明するのも面倒なので、僕は「まぶしく、麗しく」と読んでしまっています。 僕は正確さよりもリズムを大事に思うので、詩を解説して読むというんじゃあないんですよ。








 


2024年3月28日木曜日

藤井フミヤ(ミュージシャン)       ・〔アート交遊録〕 アートワールド~藤井フミヤの世界

 藤井フミヤ(ミュージシャン)   ・〔アート交遊録〕 アートワールド~藤井フミヤの世界

ミュージシャンとしてだけではなく、画家としての顔を持つ藤井フミヤさん、1983年にチェッカーズのボーカリストとしてデビューし、当時の音楽シーンを席巻しました。 歌手として活躍する一方、子供のことから絵を描くことが好きだったフミヤさん、本格的な画家としての活動はデジタル技術を駆使したCG作品の製作からでした。 その後16年の長い沈黙の後再びアート活動を再開、油絵や水彩画にとどまらずシールや針金を使った作品を生み出し、海外や全国の美術館で展覧会を開くなど、クリエーターとしてのマルチな才能が注目されています。 今年に入ってからもデジタルとアナログで創造する藤井フミヤ展「フミヤアート2024年」を開催すると同時にステージでも全国で精力的に活動を続けています。 音楽とアートで時に甘美に時にファンタジックに表現の世界を広げ続ける藤井フミヤさんにお話を伺いました。

八戸市美術館で展覧会が開かれている最中です。 モチーフが女性が多いんですが、見やすいというのがあるのかもしれない。  自分でも作ってみようという気持ちになってくれたら嬉しいです。 ミュージシャンとしてのファンは40,50代ですね。 2世代目もいます。(30代)  材料も色鉛筆、クレヨン、針金、シールとかいろいろあります。 女性を美しく描こうと思っているんで、女神みたいな気持ちで描いています。 

音楽の成績などは良くなくて、美術は100点でした。 デザインとかに行くのかなあと思っていたら、テンエージャーのころバンドをやり始めて、音楽になって行きました。   子供のころは絵を描いたりするのが好きでした。  東日本大震災の時には歌わせてもらったり、チャリティーアート展をやって、それを全部寄付しました。 接して元気を貰うような気がしました。 チェッカーズを解散して最初にやったのがアートの仕事でした。   その後3,4年はデジタルアートを作っていました。  いろんなものに興味を持って自分が何者か判らなくなりました。 一回すべてやめました。 音楽だけをやることにしました。 趣味程度に絵を描いていたら、或る人が個展でもやってみないかと言われて個展をやったら反響がありました。 グッズとかも自分でデザインしたりしていましたし、パンフレットとかなんでも自分でやっていました。  

16年のブランクの後はアナログになってしまいました。 コンピューターで描くよりも筆で描いたほうが面白いと思いました。  油絵なども本を購入して勉強しました。  チェッカーズのころは週に5本ぐらいのレギュラー番組がありましたが、今は自分たちがでられる歌番組はほぼないです。  最初は真似ですが、自分のオリジナルを描くことが大切に思っています。 アンテナは張り巡らしています。 細密画、日本画も好きです。 伊藤若冲はブレークする前から好きでした。 一番最初は宗教画が好きでした。 何で厳粛な場なのに裸なの、という疑問がありました。  背中に羽が生えていたりして、宗教画にSF感を感じました。 最初のCGの作品もデジタル宗教画を描きました。 きれいな女性の裸婦を描くようになりました。(宗教くさくはない)  女神というイメージ、それと生命は意識せざるを得ないです。 生とセックスと死と。 アートは面白い世界です。

チェッカーズのボーカルとしてスタートしてから40年になります。 紅白に出場しましたが年齢は上から三番目になってしまいました。  グループで活動していた時には援護射撃が有ったような思いがしますが、一人になると自由な気楽さはあります。  音楽の世界は愛しか描いていない。(ラブソング)  歌は団体を動かす力、一体感といったものがあります。  音楽はもう仕事ですね、ライフワークと言うか。 ファンとのの長い付き合いもあるので「辞めた。」という訳にはいかない。  音楽も、絵もここまでに仕上げるというものがないと作品は中々上がらない。 

細かい作品を長い時間かけて描く時には首を保護するためにコルセットを付けてやっています。  水も飲まずトイレもいかず、気が付いたら4,5時間集中していたという事は結構あります。 画家は長生きが多いです。 ストレスがないのかもしれない。 歌もコンサートなど発散性はあります。 陰と陽と言った感じです。 40周年記念で全国を回って行こうとしています。 習っていないので油絵は一番難しいです。歌も時代時代で作りたいものが出てきてしまいます。 お薦めの一点。 衝撃を受けたのはバチカンの中にあるミケランジェロのピエタ聖母子像の一種であり、磔刑に処されたのちに十字架から降ろされたイエス・キリストと、その亡骸を腕に抱く聖母マリアをモチーフとする彫刻)です。 人間技ではないと思いました。 





















2024年3月27日水曜日

イトウマサトシ(編集者)         ・〔心に花を咲かせて〕 日本庭園の素晴らしさを発信

イトウマサトシ(編集者)      ・〔心に花を咲かせて〕 日本庭園の素晴らしさを発信 

イトウさんは「おにわさん」という日本庭園の情報を発信しているサイト、ホームページなどを個人で作って、庭園の魅力や情報を発信している方です。 IT関係の仕事をされているそうですが、日本庭園をめぐるのは大好きだったと言う事です。 「おにわさん」というサイトを2016年から始めました。 まだ10年経ちませんが、現在までに2000庭園を訪ねてその情報を載せているという事です。 日本庭園のどこに惹かれて何を発信したいと思っているのでしょうか。 沢山の庭を見続けていてどんなことを感じているんでしょうか。

趣味で日本庭園を巡っていましたが、日本庭園の情報が載っているウエブサイト、ホームページがあまり存在していませんでした。 そこでホームページを作りました。 交通情報などを含めて作りました。 写真と行き方を紹介出来ればいいと思っていました。  親しみを込めて「お庭さん」という名前にしました。 

日本庭園の魅力としては歴史、デザイン性と言ったものが好きでした。  植物、生き物、建築物とかいろいろ幅広く楽しむ事が日本庭園の魅力だなあと今は感じています。 最初は歴史的なものでしたが鳥とか花とか、毎回景色と自分が見るものが変って行っています。 どんな人が庭に手を入れてどんなところを見せたいのかと言うような事に、思いを巡らします。   

東京都では旧浜離宮恩賜庭園、東京にこんなに開放的な広い空間があるのかと感動しました。 江戸時代初期に作られた日本庭園で、将軍徳川家の別荘だった庭園です。 背景には高いビルが立ち並んでいて、東京ならではの懐の深さを感じます。 

新潟県の柏崎市にある貞観園という庭園が私は好きです。 国指定の文化財は200~300か所ありますがそのうちの一つで、柏崎市の山間部にある庭園です。 吃驚するぐらいの苔一面の庭園が広がっています。  元庄屋さんだった家のところです。 6月から11月ぐらいまで公開されています。 ぼーっとするには最適な場所だと思います。 

島根県の旧豪農屋敷に大きな枯山水庭園があります。 一面に白い砂を敷き詰めてその中に石を置いて歩ける庭園がいくつか残っています。 歩けるという事がとても面白いと思いました。 回遊式枯山水庭園です。 

日本全国には独特のデザイン性があるものがあります。 青森県独自の庭園のデザインの流派があります。 必ずその庭園に津軽富士岩木山をかたどった石を置き、それを拝むための礼拝石(平べったい大きな石)をビューポイントに置くという一貫したデザインがあります。 

京都で修業した方が各地散らばって行って、学んだことに地域の独自性を組み合わせていろんな庭園を造って行った。 どこに行きたいという場所が先にあって、どういうお寺が残っているとか、文化施設があるのか調べて行って、それを巡ると言う形です。 見つけた時の楽しみが大きいです。  島根県は面白い場所だと思っています。 松江市にはお茶の文化が強く残っています。  庭園文化が松江には残っています。  松平不昧(ふまい)公(7代・松平治郷は特に有名な藩主)は趣味であった茶道に傾倒して不昧流を創設。 お茶室が必要になるとお庭が必要、お菓子も必要となり、松江には和食の美味しい店が多いです。  歩ける枯山水庭園は冬は雪が降るので、飛び石は高くなっている。 

「おにわさん」には外国からのアクセスもあり、外国人が来るきっかけにもなっています。 6~7割は海外からのフォロワーさんになっています。 足立美術館を注目したのも海外の方です。 兼六園には年間300万人ぐらいの方が来ます。  有名ではない場所では年間1000~2000人程度になっています。 穴場が沢山あります。 個人的には海外の方から学ぶことは多いです。 海外の方には古民家の坪庭が物凄く人気があります。 私も坪庭にも興味を持つようになりました。 歴史のある坪庭を中心に紹介しています。 2016年から2000か所ぐらいになりました。 

少子高齢化が庭園に影響している点がいくつかあります。  所有者の高齢化、相続の問題で庭がつぶされてしまう。  庭師の高齢化などで管理が行き届かなくなる。  SNSをやっていると、海外の有名なロックミュージシャンの方が来日公演して、盆栽、日本庭園が好きで「おにわさん」をフォローして下さったり、映画監督、プロサッカー選手、建築家、美術家、アーティスト等がフォローしてくださっています。 若い方も見て下さっています。知られないまま時間がずっと過ぎてしまってゆくことが一番残念なことだと思うので、興味を持ってもらえることで、何か次につながって行くと思います。 

庭園の或る所(ビューポイント)で立ち止まってゆっくり回ると言う事をお勧めしたいです。  我々が思っている以上に、海外の方は日本庭園が凄いと思っています。 

















2024年3月26日火曜日

目黒祐樹(俳優)             ・父と兄に学んだこと

目黒祐樹(俳優)             ・父と兄に学んだこと 

目黒祐樹さんは1947年東京都出身。 6歳の時に子役としてデビューしますが、時代劇ドラマ「風小僧」に主演した後、一旦学業に専念し、アメリカに留学しました。 帰国後再び映画やテレビドラマで活躍しています。 父は時代劇の剣豪スターと呼ばれた近衛十四郎さん、兄は俳優の松方弘樹さんです。  

「チコちゃんに叱られる」に、出演したこともあります。 岡村さんと似ているとも言われますが、圧倒的に兄に似ているといわれ、又父に似ているとも言われます。父が近衛十四郎、母が水川八重子で兄が松方弘樹です。 父に撮影所に連れて行ってもらって、撮影所が遊び場のような感じでした。 子役の話があり、躊躇なく受けました。(6歳)  「やくざ狼」と言う作品でした。  主役が嵐寛寿郎さんで私がその息子役でした。 兄よりも何年か先に芸能界入りをしました。 嵐寛寿郎さんはとっても優しかったのを覚えています。 遊びの合間に撮影をするような感じで、撮影を嫌がったりするんで、撮影が中断すると大変なんで、よく嵐寛寿郎さんが機嫌を取ってくれました。 周りの大人たちはハラハラドキドキだったそうです。 

成人して時代劇シリーズで主演した時に、嵐寛寿郎さんがお寺の和尚さんとして出演していただいたことがあります。 或る時、遅れて行った時、2時間半ほどが嵐寛寿郎さん待っていて肩に手をポンと叩いて、「ユー坊おおきゅうなったな。」と言って下さって一気に涙でした。(20年以上振りでした。)  チャンバラごっこと言うとみんな鞍馬天狗になりたがるんです。 嵐寛寿郎さんの鞍馬天狗をやらせてもらって不思議なご縁を感じました。   嵐寛寿郎さんの立ち回りは日本一でした。 迫力があると同時に華麗で美しかった。 

勝新太郎さんとは撮影で一緒になったことはないですが、或る時にお会いすることが出来て、私のテレビ出演している時代劇を見て「よかった。」と褒めていただき一層フアンになりました。 いつ見てくれているか判らないと思うと下手なことはできないと思うと、そういう意識を与えてくださったと言う事には、大感謝です。 座頭市の立ち回りは凄いですね。 座頭市と言えば勝さんです。 勝さんに要望されて、勝さんの前で座頭市を歌った事があります。 座頭市シリーズでは必ず強敵が現れるが、座頭市が勝つんですが、相手が死ななかったのは、素浪人シリーズのうちの親父と三船さんだけは斬られなかった。 二人が右と左に別れて行くという感じです。  親父と勝さんの立ち回りを見て、相手の動き、気合いそんなものをお互いが感じ合いながら、立ち回りをやっているように見えました。  あの場面を見て幸せな二人だなあと思いました。(僕らには出来ない。) 

親父は存在感の塊みたいな人でした。 母親のお通夜の席で父親と兄と3人で飲んでウイスキーが5本空いてしまいました。 飲み終える潮時を母親がたしなめていましたが、もう母親はいないので、僕が言ったら、「なにい、お前みたいなものに言われる筋合いはない。」と僕を睨んで、周りの人々もシーンとしてしまって、その後に「 お前みたいなものは破門だ。」と言ったんです。 半年間破門状態でした。 或る時親父の背中が寂しげで小さく見えた時があり、その時に「言い過ぎてすみませんでした。」と謝ったんです。 今までこっちの顔を一遍も見ていなかったのに、ピッと僕の顔を見て「ウン わかりゃいいんだ。」と一言言いました。  急にいろいろしゃべりだしましたが、それから4か月後に親父は亡くなりました。 

親父の晩年の素浪人シリーズの「いただき勘兵衛旅を行く」では共演させて貰えたことがありました。 私には宝物です。 親父と兄、僕の立ち回りはよく似ていると殺陣師さんから言われます。 「矢張りDNAですね。」と言われました。  兄松方弘樹は2017年74歳で亡くなりました。 兄は子供のころはシャイでした。 ただ喧嘩は強くて学校を仕切っていました。  兄とは5歳違っていて、子供のころはとても敵わなかったですが、大人になって或る時ふっと相撲をとろうと兄が言いだして、やったら僕が勝ってしまいました。 相当ショックだったようです。 今年77歳になります。 身体には気を付けてウオーキング、プールで泳いだりしています。















 

2024年3月25日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)          ・【絶望名言】「安部公房」(初回:2020/4/27)

 頭木弘樹(文学紹介者)      ・【絶望名言】「安部公房」(初回:2020/4/27)

https://asuhenokotoba.blogspot.com/2020/04/blog-post_27.htmlをご覧ください。

2024年3月24日日曜日

キャロル・サック(デイレクター)    ・ハープの調べで、心によりそう

キャロル・サック(リラ・プレカリアプログラム・デイレクター)    ・ハープの調べで、心によりそう

キャロル・サックさんは祈りの竪琴と言われるアイリッシュハープを奏で、東京山谷の希望の家でのボアランティアなど多くの場所で人の心を癒す活動を長く続けています。 2011年3月の東日本大震災では、家も学校も教材も失った子供たちに希望を持っても貰おうと、「アイ ユー ウィー」という歌を作ってハープの音色に合わせて、子供たちと一緒に歌い励まし続けてきました。

ハープは心に深く届く音色だと思います。  ハープは何千年前から心を癒すために用いられてきました。(最も古いハープの記録は、紀元前4000年のエジプトと紀元前3000年のメソポタミアのものではないかと言われている。) 聖書の旧約聖書にもそういう話がります。    音楽死生学、アメリカではこういった学問があります。 1970年代から始まりました。  患者さんと1対1で向き合ってハープの音色と歌声を通して、貴方は大事ですよ、貴方の存在はとっても大事ですよ、と言葉なしで音楽を通して伝えようとします。 私たちが使っているハープは34弦です。 振動がとっても豊かで、患者さんの身体全体に伝わります。

アメリカ、ミネソタ州で生まれ、父親は牧師さん、母親は聖歌隊の指導をしていた。   人間にはみんな尊厳を持っていることは小さいころから教育されました。  大学では看護学、教育学を勉強しました。 21歳の時に音楽クラブの一員として日本に来ました。   歌が大好きでした。 日本が大好きになり、再度日本にきて嬉しかったです。 九州の高等学校で英語の先生をやりました。(3年間) アメリカに戻って結婚して、3人の子を設けました。 長男が生まれた後に日本に又来ました。 3歳でペダル・ハープに憧れました。 ハープに触ったのは40歳になった時でした。(中型の小さいハープ) 人前での演奏は諦めて、祈りとして病に苦しむ人のそばでハープの音色を届けようかなと思いました。 音楽死生学の学校がありました。50歳の時に2年間勉強しました。  音楽死生学の資格を持っているのは日本では私だけだと思います。 

東京山谷にある「希望の家」というホスピスがあり、毎週火曜日にボランティア活動で行きました。 むしろ自分が希望を与えられる気がします。 アメリカでは音楽死生学は臨床医学の一つとして用いられています。 日本人にも教えませんかという依頼が来ました。 パストラルケアーとしてはどうなのか、考え始まました。 身体的ケアよりも心のケア。  ハープはとってもふさわしい気がします。 2006年から12年間養成講座を行い、全国13都道府県で40名近い人が育っています。  終了した人たちが講師をしています。

患者さんと出会う時に、患者さんの過去は何にも知りません。 その人に何が一番必要かも知りません。 そのために私たちは知らない音楽、なじみのない言葉(スウェーデン語とかいろいろ)を使います。 日本語はほとんど使いません。 大事なことは患者さんの呼吸に合わせて奏で、歌います。 吸う時には筋肉が緊張します。 吐く時にはリラックスします。 リラックスするところに合わせようとしています。 患者さんが中心になります。   息と魂とスピリットの意味が同じです。 息に注意を向ける時はスピリチャリティーの実践ではないかと思います。 反応は眠く成ったり、涙を流したり、天井をぼーっと見て居たりしています。(心の旅をしているのかなあと思います。) 

山谷の患者さんからの手紙。

「最初は半信半疑だった。 2回目の時に今まで思い出したこともなかった父のことを思い出した。 親不孝をしたのかなと身体から感じ出した。 現実から離れてそれは地上の音楽ではなくて、天上の音楽、・・・こんな音楽を聞けたらいいことがあるんじゃないかと思ってしまうね。 楽園の入口にいるような。 こんな気持ちになれるんだって、自分でも驚いた。 俺も捨てた無んじゃないなと思ったよ。 」

「俺も捨てた無んじゃないなと思ったよ。」と言う一行が、私の人生の宝物と思いました。

東日本大震災の時には小、中学校にお邪魔しました。  「アイ ユー ウィー」と言う歌を作りました。  15分間で歌詞も曲も現れ、自分でも吃驚しました。 戦争をしましたが、実は私たちは兄弟です。 貴方は愛を求めている。 大事にされることが必要です。  私も同じです。 だから友達だけではなくて、本当は家族です。 兄弟です。と言った曲です。 

*「アイ ユー ウィー」  作詞、作曲、演奏、歌:キャロル・サック













2024年3月23日土曜日

三山ひろし(歌手)          ・日々小さな花を咲かそう

三山ひろし(歌手)          ・日々小さな花を咲かそう 

*「どんこ坂」 作詞:さいとう大三 作曲:弦哲也 歌:三山ひろし

1980年高知県南国市出身の演歌歌手三山ひろしさん(本名、恒石 正彰) 2009年「人恋酒場」で歌手デビューしました。 大ヒット曲「お岩木山」を発表した2015年からNHK紅白歌合戦に9年連続出場するなど、大活躍しています。 歌手として長年努力を重ねながらけん玉の普及活動にも余念がない三山さん、そうした人生を支える考え方を、デビューに至る家族の支えなど、エピソード盛沢山でお話頂きました。

けん玉を操りながらの登場。 デビュー15周年。 けん玉でも初めてのタイトルを頂きました。(社会人新人王) 「日々小さな花を咲かそう」と言うタイトルは自分で決めました。  夢と言うと壮大なものを考えがちですが、日々の達成はかなかなか感じにくい。  日々小さな目標を積み重ねて行くのもいいんじゃないかと思いました。  気が付いたら夢に近づて行ってるんじゃないかという事で、小学校でも話をしました。 「一所懸命」 今日は茶碗を洗おうとか、わずかな事でいいんです。 その積み重ねが前向きになれる。 生き生きとしてきます。 

自分が親になって、両親への感謝など出てきます。 小学生の時に母子家庭になり、育ててくれて、子守りは祖母がしてくれました。 母親は仕事に出掛けて愚痴一つ言わずに常に働いてやって来ました。 自分もそのようにやらなければいけないと、母親の背中が教えてくれました。 小遣いを欲しいとも言えないので、中学校では新聞配達を始めました。(5年間)  母親も「日々小さな花を咲かそう」と思ってやっていたのではないかと思います。母は常に笑顔で前向きで明るくて、僕も譲り受けているところがあると思います。    

2004年(20年前)祖母がNHKのど自慢に出て、優勝しました。 僕が3歳ぐらいの時から演歌歌手にさせたいとずっと言っていました。  僕が高校卒業するころにNHKのど自慢に出場しました。 鐘が二つで落ちてしまいました。 一旦諦めましたが、祖母が詩吟教室に通うようになって、僕もついて行きました。 再度NHKのど自慢に挑戦することになり今週のチャンピオンになりました。 節目節目で祖母が歌の道に導いてくれました。  海に向かって叫んで、歌って練習していました。  四国大会に行ったりすると3,4番でした。 四国大会で優勝して全国大会に行くと入らなかったりするんです。(23,4歳)  

高知は三方向が山で囲まれているので、「三山」にしました。 もう一つ意味があって、師匠の山が左右にあって、真ん中に自分の山があるんです。  真ん中に山を積み重ねて、高くなればなるほど綺麗な山の形になるという願いを込めて、芸名を考えました。 山を築くには土台をしっかりしなければいけない。 土台に欠けたところが見つかると、積み重ねないで、土台の部分へ手間をかけないといけない。 

けん玉の技は一見簡単そうに見えますが、積み重ねが非常に大事になって来ます。 「慌てず、焦らず、諦めず」という三つの「あ」があるんです。 集中力が大事です。 ちっちゃなことが凄く大事です。 歌の世界でも同じです。 息の取り方を間違えても、歌謡浪曲は歌えないんです。 10分ぐらいあるので、それを歌いきるという事は集中力が大事です。 「三山家とさ春」と言う名前で落語をやっています。 名付け親は「立川志の春」師匠です。 3年前から高座を務めさせてもらっています。 落語と歌謡曲が一緒になった作品がかつてはなかった。 新しく落語歌謡と言うジャンルを作りました。(昨年11月) 全体で9分です。  私とディレクターさん、編曲の先生、作曲の先生、詩を作ってくれた志の春師匠と5者でいろいろ練りながら作りました。 太陽のような光を照らせませんが、世間の隅をぽっと照らせるような、そんな灯りでありたいと思っています。(小さな花)


















2024年3月22日金曜日

松木志遊宇(篠田桃紅作品館館主)    ・作品を守り生き方を伝える

 松木志遊宇(篠田桃紅作品館館主)    ・作品を守り生き方を伝える

2021年に107歳で亡くなった篠田桃紅さんは、日本を代表する芸術家として墨を用いた抽象表現と言う新た案ジャンルを切り開き、作品は国内外の美術館や宮内庁などに収納されています。 エッセーの名士としても知られています。 その篠田さんの作品を個人で収集展示しているのが松木さんです。 松木さんは1943年新潟の生まれ。 大学を卒業後高校教諭となり、かねて憧れていた篠田さんに研究会の講師として依頼したことから交流が始まりました。 2005年篠田桃紅作品館をオープンしました。 2013年に放送した篠田さんへのインタビューから聞いていただきます。その後松木志遊宇さんに伺います。

参照  水墨抽象画一筋に一世紀  篠田桃紅https://asuhenokotoba.blogspot.com/2013/05/100.html

私は100年生きて来たなかで、自分はいくつ迄生きてきたんだという感慨を持つとか、覚悟を決めるとか、歳によって生きてきた?ことは一度もありません。 昨日と今日、明日も同じ毎日です。 歳によって考えるという事は自主的ではないという事ですよ。 自分の気に入っている道具を使って仕事をしてきただけです。 自分が作りたいと思うものが先にあるんです。 道具を使って可視にするのがアートなんです。 道程がアートなんです。 出来たものは一つの証拠物件みたいなものです。 子k炉の中にあるぼーっとしたものを眼に見えるようにしたい。 心の思いを形にしたい。 

もう二度と会えない偉大な芸術家だと思います。 初めて篠田桃紅と言う人を知ったのは子供の時です。 絵と書が大好きな子供でした。 こんな人が居るんだと吃驚しました。   エッセーの繊細な文章から来る美意識、角度を変えた美しさを見せてもらいました。 土壁に水を打った図柄が涼を呼ぶという事は品等に新鮮でした。 うちの作品館の突き当りは土壁にしました。 

私は嫌われる先生をモットーにしていました。(書道と国語の先生)  嫌われてもいいから本当のことを彼らに伝えて導きたいという姿勢でいました。 でもそれは言い逃れだったかもしれません。 自分自身きつい性格だと思います。 好かれていないからいい訳に使っていたかもしれないです。 でも半分は嫌われてもいいからと言うような指導者でした。  子供のころから学校の先生になりたいと思っていました。 大学卒業後県立高校に就職しました。  書道の教授になっている時に研究会が出来て、講師をお招きすることになりました。 篠田桃紅さんをお招きしたいと思いましたが、最初は断られました。 何回となく交渉するなかで先生も根負けしました。  先生は「束縛されれのが嫌いなので、お迎えお見送り無用に願います。」と言われました。 私と先生とは30歳違います。

私の家庭は夫も子供も好きなことを勝手にやっているという雰囲気でした。 ですからお互いに縛るという発想がなかったですね。 作品を購入するという事に関しては大変身内にお世話になりました。 いずれは個人の美術館をやって行きたいと、先生には申し入れました。 それから20年近くになりました。  芸術は主要5教科には入っていませんが、人間にとっては一番重要な教科だと私は自負しています。 先生も熟慮して「協力します。」とおっしゃって下さいました。(私は涙が出ました。) これが今日を決めた大きな大きな出来事です。 2005年にオープンしました。 最初マンションでの作品館では50点前後でした。 夫も賛成してくれました。 先生が亡くなってマスコミにも取りあげられて、全国から連絡が来るようになりました。 「山上焚火」 片方は鋭い直線、もう片方は曲線で、山上にたどり着き、情熱を細々と燃やし続けて、やりたいと言う一念が岩おも通すと言う願いがあったかなあと私は思います。

作品の散逸はしたくないです。 先生の人間性にすっかり傾倒しました。 「上の目線でものは言いたくない。」と先生はおっしゃっていました。 「戦争は厭だ。」と言う姿勢も一貫しています。 「人間にとっての癒しは芸術なんだ。 戦いではないんだ。 戦いたかったらスポーツをやりなさい。」と言っています。  「心を作って心を育てて、心を癒せる表現の世界は芸術だ。」と言っています。 先生は新しい表現の世界を作ってきた。 自分自身を自由にしているからなんです。 先生は弟子を取りません。 「芸術と言うのは心の中で作る出すもので、心の中のものを伝授なんてどうしてできるんですか。」とおっしゃるんです。

ある時、先生が「新潟の人にお判りになるかしら。」とおっしゃったんです。 どうしてなのか初めて先生に聞きました。 先生の作品は見る人の心情の動きによって変化するんです。 外の光の力で、朝、昼、夕方の光の力で作品が変化するんです。 新潟の人は四季を感じ取っています。 感じ止めている人が先生の作品を観ることは、都会の人以上に感じます、と先生には反論したいんです。  天上で「あらそうかしら。」と言っているかもしれません。
















2024年3月21日木曜日

ちば てつや(漫画家)           ・〔わたし終いの極意〕 ひねもすのたりと生きていく

ちば てつや(漫画家)       ・〔わたし終いの極意〕 ひねもすのたりと生きていく 

ちばさんは東京都出身(85歳) 1968年に発表して大きな人気を呼んだ「あしたのジョー」や角界を舞台にした「のたり松太郎」などヒット作を多数手がけてきました。 現在は自身の半生を描く「ひねもすのたり日記」をコミック誌に連載中、自身の戦争体験や若きの思い出、日々思う事などを気の向くままに書いているということです。 

今年でデビューして68年ぐらいです。 だけどあっという間でした。 「ひねもすのたり日記」は少年時代、戦争の記憶、コロナ禍に思う事、ウクライナ、能登半島地震など多岐に渡っています。  俳句みたいなもので、季語があるから季節も書けるし、現在のことを書いたり、昔のことをふっと思いだして、その時その時を思い出しながら書いたりしています。  長い話ばっかり書いていたので、短いものを書くのは難しいですが、自分の人生を深く考えることがあったし、自分も楽しんで書けるし、妻、家族に手伝ってもらえるぐらいの仕事なので楽しみながらやっています。 

以前はずーっと時間に終われっぱなしでした。 デビューして2年ぐらいで精神的な病気をして、辞めようと思った時期もありました。  野球漫画を描く時に、編集者が野球のことをいろいろ私に教えてくれました。 身体から汗が噴き出る程キャッチボールをやった後で、頭がすっきりして悩んでいたことがスラスラできました。 運動不足だったことに気付いて、一日一回は必ず汗をかくようにしました。  野球をやるようになって、手塚治虫さんのところには虫プロという野球チームがあり、野球チームを作りました。  今でも続けています。 屋根裏に4畳の仕事部屋を作りました。 汗をかきに外に出る以外は部屋に閉じ籠もっています。 

漫画は小さいころは知りませんでした。 家にはいっぱい本があり、読んだりしていました。 少年少女名作全集、絵本などはありましたが、漫画はありませんでした。 中国から日本に引き揚げてきて、祖母の千葉の飯岡に住むことになりました。 8歳の時に紙くずを拾ってみたら、手に入るような小さな本でした。 それが漫画でした。 その本の世界にいっぺんに引き込まれました。 兄弟で読んでいたら、母親が来て見せたらバリっと破られてしまって、七輪にくべられてしまいました。 「漫画は読んじゃあ駄目。」と言われました。 母親は編集者をやっていたので漫画の面白さを知っていたと思います。 

親に内緒で弟たちに書いて見せていました。 その人間の気持ちになってキャラクターを描いていると、自分でも楽しいんです。 漫画家のデビューは17歳でした。 

朝起きてベランダに出てお日様に当たり、ちょっと身体を動かしたりします。 近くにテニスコートがあるのでそこで遊んで、シャワーを浴びて仕事をします。  9,10時には休む準備をします。  寝る時、朝起きる時など「ありがとう」と言う気持ちになります。   中国から引き揚げる時には人間って簡単に死んじゃうんだなあと思いました。 自分もいつ死ぬかわからないと、いつも思っていました。 6歳の時に1年間引き揚げの旅をしました。(零下20℃、30℃の時もあり)  食べるものもなく栄養失調だった。 

帰国の船の中で亡くなると腐敗がすぐ始まります。(夏)  数体が集まると船尾から海に投げて、その遺体の周りを大きな船が3周して、家族は声を張り上げてお別れを言って、博多港に向かうわけです。 3,4回はありました。 死と言いうものに対しての怖さはあまりないです。  病気になって死んでしまうのではないかという事もあり、遺言を書いたりしました。  今日も充実した一日を送れてありがとうと、一日一日を大事に思っています。 漫画家の高井研一郎さんは生前葬を3回やっています。 葬儀委員長は私なんです。    皆忙しいんだからもうおしまいと言ったら、もうそのすぐ後に亡くなってしまいました。  

「あしたのジョー」で力石徹が亡くなって、実際に葬儀が行われた。 葬式をやると言った時には冗談はやめて欲しいと思いました。 誰が言い出したのかを聞いたら、寺山修司さんとかファンの人たちが言ったという事で吃驚しました。 出掛けて行ったら、平日なのに子供から大人まで居て、喪服を着て中には泣いている人もいました。 読んでいる人たちは真剣になって読んでいるんだなと思いながら書くようになりました。

「ひねもすのたり日記」には目もよく見えない、耳もよく聞こえない、身体がガタガタになっていても楽しく生きられるんだという事を書きたいし、戦争って何なんだろう、なんて馬鹿なことをするんだろうという事を伝えたい。 もっともっと住みやすい日本になって行かなくてはいけないと思いながら書いています。 身近な人間が亡くなった連絡を受けると愕然とします。 亡くなった人にはいろいろお世話になったりしたので「ありがとう。」と言いたいです。 「ひねもすのたり日記」を書いて、随分いろいろな人にお世話になったという事を思い出します。 わたし終いの極意は、「あしたのジョー」と一緒に完全燃焼ですね。 自分の持っているエネルギー、生命力、などすべてを使い切って、燃やし切って、真っ白になって少し微笑んで、ありがとうと言う気持ちを持ちながら逝ったらいいなあと思います。 














2024年3月20日水曜日

小早川 毅彦(NHK野球解説者)      ・〔スポーツ明日への伝言〕 さあ春だ、開幕だ!~新たな一歩を踏み出すために~

 小早川 毅彦(NHK野球解説者)      ・〔スポーツ明日への伝言〕 さあ春だ、開幕だ!~新たな一歩を踏み出すために~

いよいよ野球シーズンを迎えるわけですが、選手や監督、関係者にとって長いシーズンの始まりである開幕とはどんなものなのか、どんな気持ちで迎えるものなのか、開幕をテーマに小早川 毅彦さんに伺います。

開幕と言うと選手もワクワクしますし、ドキドキもします。 1シーズンちゃんと乗り切れるか、不安も入り混じって複雑な心境です。 1997年の開幕戦、広島からヤクルトに移った年、巨人戦で齊藤雅樹投手から3打席連続ホームラン。 前年指導者として契約してくれないかと言われました。 現役に未練があったので移籍をしました。 野村克也監督でした。開幕では5番一塁手で先発出場しました。 ミーティングでは齊藤投手に対して7,8割の時間と内容を使ってやって、あとの2人に対しては1,2割だったのでびっくりしました。  「斎藤投手は3ボール、1ストライクで変化球でストライクを取って来て、そのボールを見逃してしまって、3ボール-2ストライクになってしまって押さえられてしまうので、そのカウントになったら誰かそのボールを打ってくれ。」と切なる一言がありました。

第一打席初球を打ってセンター方向のホームランになりました。(私のスタイル)  576日ぶりのホームランでした。 第二打席目は2アウトランナー無し。 カウントが3ボール1ストライクにたまたまなりました。  監督を見たらうなずいていました。 100%カーブを待って臨みました。 その通りカーブが来たのでうまく捉えることが出来ました。 ライトへのホームランになりました。  戻ってきたら監督がニコッとしていました。  三打席目は3-2でヤクルトリードで6回表1アウトランナー無し。 第一打席がストレート、第二打席目がカーブで、監督が「もう判っているだろうな。」と一言言ったんです。 自分でもシンカーしかないと思っていて、シンカーを狙って打席に立ちました。 全部シンカーでした。 ちょっと高めのボールを捉える事が出来ホームランになりました。 

開幕戦がいいスタアートを切れるかどうかによって、後に大きく響いて来るので一試合の重みはあると思います。 そのシーズンは西武を破って日本一になりました。 野村監督は開幕戦が大事だったといっていました。(私個人にも言ったし、マスコミにも言っていました。) 

広島県出身、高校は大阪のPL学園、甲子園は2回出場、卒業後法政大学に進学、春にリーグ戦からいきなり4番を務める。 2年の秋のリーグ戦では3冠王、4年間でリーグ優勝4回、明治神宮野球大会、全日本大学野球選手権大会でそれぞれ優勝、日米大学野球でも日本代表としても活躍。 1983年(昭和58年)ドラフト2位で広島東洋カープに入団、新人王を獲得、1997年にヤクルトに移籍、1999年に現役を引退、2006年から2009年まで広島の打撃コーチも務める。 

江川投手(大学の先輩)を引退に追い込んだ一発、1987年9月20日の巨人戦。 1-2とリードされていた。 9回裏2アウトランナー一塁でした。 江川さんの気迫が感じられました。 盗塁には気を使わなかったので2塁に盗塁する。 ストレートしかないと言う予感を感じました。 キャッチャーはアウトコース低めに構えるが、インコース高めでした。 完璧なスイングが出来て捉えることが出来ホームランとなりました。 江川投手の談話で「ホームランを打たれて野球人生が終わったと感じた。」と言うコメントがありました。  

*「ゴールデン・スランバー」 ビートルズ

昭和53年春の高校野球選抜で3打数ヒットなし、大学1年立教大学との初戦4打席ヒットなし。 プロ野球開幕は1984年中日戦、ピンチヒッターで出てセンターフライでした。ヤクルトに移籍して野村監督との出会いがあり、野球の奥深さを知って、意外な発見があるという事を知りました。  野村監督からは「お前は器用なのか、不器用なのか。」言われて「自分としては不器用です。」とっ答えたのですが、「お前は器用な選手のようなやり方をしている。」と言われました。  後でいろいろ考えて、器用な選手は何も考えないで物事を器用にこなす、不器用な選手はいろいろ工夫をしたり、自分で考えてやるという、結局はそういったところに結びつけて行きたかった、という事なんです。 野村さんと出会って一日が楽しかったです。 野球の話と言うよりも社会人としてどうあるべきかとか、チームがどういうチームになって欲しいとか、人としてこうあるべきだと言った話の方が多かったです。

毎日ミーティングをしますが、その後で1年目の選手を集めて1時間から1時間半ミーティングをします。 野村さんが喋りながらホワイトボード書き込んで行って、それを大学ノートに書き込んで行って、キャンプが終わるとあっという間に大学ノート一冊溜まりました。広島で13年間厳しく学ぶことが出来て、その後野村さんの元に行ったので、だからよく判りました。 逆だったら今のような私になっていなかったかもしれません。

大谷翔平選手がバッターとしてどういった実績を残すんだろうという事が一つ、山本由伸選手と言うピッチャーがどれだけ貢献できるのか、と言うところが楽しみです。 個人的にはホームラン、打率など想像できないような数字になる可能性もあるのではないかと思っています。






2024年3月19日火曜日

秋田道夫(プロダクトデザイナー)     ・機嫌のデザイン

 秋田道夫(プロダクトデザイナー)     ・機嫌のデザイン

秋田さんは1953年生まれ(70歳)。 現役のプロダクトデザイナーです。 大手メーカーで製品デザインを担当したのち、フリーランスに転身、代表作にLED式薄型信号機、六本木ヒルズや虎ノ門ヒルズのセキュリティーゲート、交通系ICカードのチャージ機などがあります。 2020年には現在世界一受賞が難しいと言われる国際的なGerman Design AwardのGold(最優秀賞)を獲得するなど、受賞多数。  最近はSNSでの情報発信や本の出版など活躍の場を広げています。 

この土鍋は陶器でもなく磁器でもない、その間ぐらいの材質で薄くて6mmで出来ています。 直径24cmぐらい、蓋のついた鍋です。 取っ手がなくて、鍋の一部を内部に弧を描く様に持つところが2か所ついている。 いかに使う人がスムースに使えるかと言う事を考えています。 通系ICカードのチャージ機も斜めになっています。 平らだと上に何か乗せて忘れたりするので、上には乗せられないように斜めにしました。  アイディアは自分の失敗体験から来ます。 観察はデザインに勝ると言っています。 使い勝手のいいものが自分の仕事だとすると、よく観察されたものを作るものが使い勝手がいい。 

中学生の時にバインダーを買って、駄目になってしまってこういう方法にすればいいのではないかと思って、絵を描いて送ったんです。 それが工業デザイナーのスタートかなと思います。 色々なものを知るという好奇心がないと衰退してゆく。 何故機嫌が悪いのかという事も面白かったりして、それを解決すれが多くの人が機嫌が良くなるのではないかと思っています。 「機嫌のデザイン」、曇りの日が一番おおくて、晴れたり雨になったりして、感情が上がったり下がったりするよりも、曇りでいいと思うなら機嫌がいい、と言っています。 期待をし過ぎるなとも言っています。 

客観性があってそれが今でも続いていますね。  47,8歳のころには自分で売り込みに行った時代もありました。  具体的な仕事もなくて実力の発揮のしようがなくて、そこで思ったのが、月になぞらえて、月は球体で同じ面を見せていて陽も当たらない。 信号機、セキュリティーゲートもあまり気にはしない。 それとは逆に土鍋などは注目を浴びる。 一番注目を浴びたのは一本用ワインセラーです。 月の裏側の仕事も大事だと思って、信号機などもやっています。 両方やってみようと言うつもりでやっています。

使っている人が「これっていいだろう。」と言うようなものを作りたい。 言い過ぎない、言い足りないぐらいがちょうどいい。 「それ風」と「それ」とは違うと思う。 「匙を投げない」、細かいところに機微がある。 機微を感じるというのがこれからのデザインなのかなあと言う気がします。  ATMも会社によって手順が違ったりする。 手順、所作も大切なデザインだと思います。 一つの手順を減らすだけで、利用者が1000万人だったら1000万手順が減らせるわけです。  力の原動力は好奇心、観られてる意識です。 
























2024年3月18日月曜日

林家正楽(紙切り)           ・〔にっぽんの音〕(初回:2023/6/19)

 林家正楽(紙切り)           ・〔にっぽんの音〕(初回:2023/6/19)

https://asuhenokotoba.blogspot.com/2023/06/blog-post_19.htmlをご覧ください。

2024年3月17日日曜日

黒川勇人(缶詰博士)           ・〔美味しい仕事人〕 缶詰に魅せられて

 黒川勇人(缶詰博士)           ・〔美味しい仕事人〕 缶詰に魅せられて

黒川さんはこれまで世界53か国、数万個の缶詰を食べて来た缶詰通です。 世界の缶詰にはそれぞれの国の食文化が現れていて、実に多様です。日本の缶詰もグルメ志向にこたえる品そろえが増えてきていて、日常の食卓だけでなくアウトドア―の場面で人気を呼んでいる様です。 一方非常食の役割を持つ缶詰です。 防災食の観点から缶詰をさらにおいしく活用する考え方や方法についても黒川さんにお話を伺いました。

ブログで缶詰のことを発信してもう20年ぐらいになります。 海外に赴任した友だちに送ってもらったりとか、旅行に行ってその国の缶詰を送ってもらったりとか、それらを足すと今までに53か国の缶詰を食べていたことになります。 約2万缶になります。 ポルトガルでぜひ買って来てほしいのは干しだらのパテの缶詰です。 干したたらを一度塩抜きしながら水に浸して戻して、柔らかくなったらオリーブオイルとかニンニクを混ぜるパテがありますが、ポルトガルに行くとこれがちゃんと缶詰になっているんです。 とてもおいしいです。 首都のリスボンに行くと缶詰をメインにおつまみとして出す缶詰バーが沢山有ります。 缶詰が主役のレストランもあります。 世界で唯一と言う缶詰専門料理レストランには世界中から旅行客が来ます。 缶詰協会がありその直営店では20社ぐらいのメーカーで300種類ぐらいの缶詰が並んでいて、それを買いに行く観光客もいっぱいいます。 日本でも真似してほしいと思っています。 

フランスは缶詰のもとになった食べ物は瓶詰ですが、瓶詰を発明したのがフランスです。(1804年)  ナポレオンがいろんな国と戦争をしていて、兵隊の食料として便利なものはないかと国民にアイディアを出してもらった。 保存食の研究をしていた方が、煮沸消毒した瓶の中に熱々の料理を詰めて、それを鍋に入れて加熱した後でコルクで蓋をして密封したんです。 何故か半年、1年経っても腐らない、という事に気付いて、政府にお見せしたところそれが採用されました。 瓶詰が出来た最初でした。  6年後にその技術がイギリスに渡って、ブリキで缶を作ったんです。 缶詰が誕生したのはイギリスと言うことになります。(1810年)   フランスには鯖缶があって、ソースに漬けてあり、ソースが非常に凝っていて、蜂蜜味のカレーソース味とか、バジル風味のホワイトソース味とかいろいろあります。 

イギリスではベークドビーンズというのがあり、甘めのケチャップに浸った柔らかい豆料理なんです。 焼き豆と言うより煮豆です。 朝、食パンをカリカリに焼いて、バターをたっぷり塗ってその上にベークドビーンズをかけて、ナイフとフォークで食べるらしいです。 ぼーっとした味ですが、365日欠かさず食べる人が居るそうです。 ほうれん草の缶詰は味付けされていなくて、くたくたになっています。 くたくたになっているほうれん草をミキサーで粉々に砕いて、カレーで味付けをするために使うものだとわかりました。

アメリカで一番衝撃を受けたのは、スパゲッティーの缶詰です。 茹でたスパゲッティーが味付けされた状態で入っています。 おおきめの缶に入っています。 麺は伸びちゃっていて、ふにゃふにゃになっています。 旨いとは思わないが売れています。  コンビーフが誕生したのはシカゴです。 

日本ではツナ缶が売り上げのトップになっています。 モルディブ共和国ではマグロとカツオが良く獲れます。 1980年代水産加工ができる工場を建てて、日本のメーカーが支援して、缶詰を売れば外貨が稼げるという事でツナの缶詰をヨーロッパに売りました。   2011年の東日本大震災の時に、モルディブの政府が恩返しをしようという事で、8万6000缶日本の被災地に送ると発表して、一般市民もツナ缶を持ち寄ったそうです。 合計で60万缶被災地に送られたというエピソードがあります。 被災地では缶切りが無いだろうという事で、缶切りがなくても大丈夫なように缶を開け直して、熱湯消毒をして、作り直した缶を送ったそうです。 感謝の気持ちを伝えたいと思って2013年にモルディブに行きました。

最初缶詰を認識したのは4歳の時でした。  父親のキャンプに同行して翌朝、鍋に缶詰を入れて温めていました。 缶詰とは知らなっかった。 ごもくご飯の缶詰で感動しました。以後缶詰に興味を持ち始めました。 2000年ごろに仕事がうまくいかない時期があり、鯖缶での節約生活をしました。(数年) 自分で缶詰が好きなことに気付きました。   缶詰を真剣に見なおそうと思いました。 2004年に缶詰のブログをだしました。   研究しているうちに缶詰が仕事になってしまいました。   

アヒージョの缶詰、アヒージョはスペインの料理で、ニンニクを利かせたオリーブオイルでぐつぐつと肉とか魚を煮た料理です。 キャンプなどで鉄なべに中身を入れて一緒に野菜などを煮込むと美味しいです。 脂が残るが具の旨味が溶け出ているので、パンに脂を吸わせて食べます。 

缶詰は非常食に向いていると思います。 東日本大震災の時に、宮城県の沿岸の缶詰工場はストックしてあった缶詰がヘドロまみれになりました。 石巻では丸2日ぐらい食べるものがなくて、缶詰工場の人たちがヘドロまみれの缶詰を取り出して、缶詰でしのいだという事でした。 防災食審査委員を務めて5回目になります。 防災安全協会が年に一度あり、僕は缶詰を審査しています。 毎年新しい商品が出てきています。 非常食も普段食べているものに近いものへと変わってきていて、ローリングストックが推奨されてきています。  或る時にまとめ買いをしておいて、普段使って、減った分を購入する。 ご飯、パンの缶詰もあります。 肉、魚のほかに煮物などの副菜があります。 食後のデザート、スイーツ缶があり,美味しいです。 (精神的ショックを受けているときには甘いものが大事です。)
















 













2024年3月16日土曜日

藤本秀弘(次の世代に引き継ぐ会」理事)  ・「生物多様性の森」のまもりびと

 藤本秀弘(「山門水源の森を次の世代に引き継ぐ会」理事) ・「生物多様性の森」のまもりびと

昭和18年滋賀県多賀町生まれ、81歳。 長浜市西浅井町山門の森とのかかわりが始まったのは今から37年前でした。 当時は高校の理科教師でしたが、専門は地質学、生き物は専門外どころかむしろ嫌いな方だったそうです。 そんな藤本さんがどのようにしてこの森の保全に関わるよになり、現在も理事を務める団体、「山門水源の森を次の世代に引き継ぐ会」を設立し、今に至っているのか、そして森の将来についてどんなことを考えているのか伺いました。

当初数年続けばいいという考えはありました。 植物関係の研究会に入っていて、こちらは地質学なのでどこか総合的な研究が出来る場所がないかと探しました。 琵琶湖の西側の今津と言うところの近くにフィールドがあると言ったら、別の人が山門を紹介しました。 その場所を選定しました。 1987年3月21日に最初行きました。 その後10人ぐらいで月に一回5年に渡って活動しました。 「奥びわ湖・山門水源の森」は広さ63ヘクタールぐらい(甲子園球場が16個入る。)、そこに3つの湿原がある。 森や水源が生物多様性を持っている。 滋賀県の一番北で、少し行くと敦賀湾が見えるんです。 冬場は豪雪地帯です。 前には琵琶湖があるので夏場は逆の風が入っています。 面白い植物があります。 ブナとアカガシがちょうど境目になっている。 豪雪地帯のユキツバキと平地のヤブツバキがあります。 その雑種が出来てユキバタツバキと言います。 

森全体は薪炭木(炭焼き用の木)です。 平安時代の後期にはすでに炭焼きをやっていたという記録があります。 900年にもなり、20年に一回切ってゆくとなるとかなりの回数になります。 人の手が関わり合って今日まで来ています。 琵琶湖周辺には湿地が多数あったが、高度経済成長の中、湿地がつぶされて山門湿原が最後に残っている湿原となります。 湿原そのものが酸性なので、栄養がないところに生える植物が結構多く観られます。 絶滅滅危惧種などもあります。 日本にはトンボは約200種いると言われていますが、そのうちの100種類ぐらいは滋賀県にはいます。 そのうちの半分はこの狭い湿原にいます。 ミツガシワと言う植物が可成り広いの面積を占めています。 元北大の湊?先生の本の中にミツガシワがあり、それは生きている化石だという文章を覚えていました。 それが一つのきっかけになったかもしれません。 白い星のような花びらがあり、そこに繊細な毛が生えています。

一時期そこに開発の手が加わろうとしました。 1960年代ゴルフ場ブームがあり、ゴルフ場に植える芝を湿原で栽培しようという話が持ち上がり、一部工事をはじめました。  保安林でもあったのでその事業は中断しました。 その後ゴルフ場として開発しようという事が表面化しました。(1990年 新聞報道で知る。) 重要性を県、地域に説明ししました。 アマチュアのメンバーだったので行政への圧力はなかった。 1992年に調査した報告書を作って、一旦終わりという事にしました。  自然の貴重性とかなんか惹かれるものがありました。 バブル経済の崩壊と言うことでゴルフ場開発もとん挫しました。 

1996年に滋賀県が買収をして県有地化されました。 しかし盗掘などに困っていました。 専従の件の職員を置いて欲しいという要望を出しましたが、人件費の問題もありかなえられませんでした。 我々の方で保全に関われるようなグループを作ることになりました。 それが「山門水源の森を次の世代に引き継ぐ会」になって行きました(2001年)

最初はコース管理と湿原に入って来る土砂の管理で精一杯でした。 1960年代に一部芝の育成用に開発した部分がありましたが、すでに40年近く経っていました。 もともとは湿原だったが、樹林に変っていました。  湿原に戻そうと、県と相談して、最初は狭い範囲で取り組みました。 10m×10mの樹木を取って3年経過を見ました。 湿原の植物、トンボなども戻ってきました。 その後全面積に対して進めて行きました。 2007年から復元作業に入りました。 終了したのは2010年でした。 呼び掛けて手伝ってもらって574名最大でかかっています。 作業した日は152日になります。 切り倒した木は人手で湿原の外に運び出しました。  湿原を維持するためには人手を加えて行かないと維持できない。  

1990年代ミツガシワが結構ありましたが、2000年代に入って鹿の食害が進みだして、2010年には全く咲かない状態になってしまいました。 2011年から防獣ネットを張って、再生を試みました。 8,9頭ネットにひっかかりましたが、ネットを破って中に入って食べるという事もあり、毎日見回りをしました。 数年やっていて、現在は中に入って食べられるという事はありません。 ほぼ従来と同程度までは再生してきました。 冬場は2m近く雪が降るのでネットを外す作業があり取り付けの作業もあります。 山頂にある笹も鹿に食べられてしまって、その対策でネットを同様に張って、笹も回復しています。

生物多様性の保全は難しいです。 昔は保全と言う意識はなかった。 人と自然との営みの中で多様性が維持されてきている。 人が引きあげてしまうと保全しようとすれば、当然なにがしかのテコ入れをしないと実現しない。 2050年にどういう森であって欲しいか、という議論をやっています。 引き継げる森にしたいと思っています。 若い人たちに入って議論してほしいと思っています。 会員は130名程度で推移しています。








2024年3月15日金曜日

小澤俊夫(口承文芸学者)        ・〔人生のみちしるべ〕 心を励ます声~昔話と我が人生 後編( 初回:2023/2/10))

 小澤俊夫(口承文芸学者) ・〔人生のみちしるべ〕  心を励ます声~昔話と我が人生 後編 (初回:2023/2/10))

https://asuhenokotoba.blogspot.com/2023/02/blog-post_10.htmlをご覧ください。

2024年3月14日木曜日

原岡見伍(俳優)            ・子役から半世紀の空白を経て高年俳優へ

原岡見伍(俳優)            ・子役から半世紀の空白を経て高年俳優へ 

原岡見伍さんは1951年兵庫県西宮市の生まれ。  NHKのアナウンサだった父親の転勤で過ごした大阪で、1957年から60年までの3年半NHK大阪放送児童劇団に所属し、テレビやラジオの子役として活躍しました。 その後東京の高校、大学時代は野球に熱中し、大学卒後は就職した証券会社や民放テレビ局などでも演劇とは無縁の生活をしました。 2002年から2011年チーズ輸入自社加工メーカーの常務や子会社の社長を務めましたが、東日本大震災により全事業を手放し退任、破産に追い込まれました。 体調を崩し、長期療養を1年半が終了した時点で、俳優の仕事が心から好きだったと改めて判り、芸能会社のオーディションを受けて合格、養成学校で学びました。 2015年4月から子役時代より半世紀余りの空白を経て、後年俳優の道を歩んでいます。

今年公開される映画に端役で出ているのと、ユーチューブに一本出ています。 NHKBSに初めて出させていただきました。 「プラトニック」と言う題名のフレンチレストランのマネージャーとして出ました。 「チコちゃんに叱られる」にも出ました。 昨年健康サプリのCMにも出ました。 

父が原岡一郎で元NHKのアナウンサーでした。 1934年に入局しました。 父が大阪に転勤になった時にNHK大阪放送児童劇団に入りました。 1957年に子役デビューしました。 「子犬と線路と少年」の主役の少年として出ました。 「赤いほっぺのほっぺちゃん」というラジオ番組にも出ました。  稽古でリアルさを習ったりしました。 父が広島に転勤になり3年半ぐらいで辞めることになりました。 広島では放送劇団はなかったので何もしませんでした。  その後東京に来て少年野球チームに入りました。 都立戸山高校、一橋大学に行きました。   高校ではピッチャーを主にやりましたが、上級生と意見が合わず2年で辞めてしまいました。 大学でも野球部に入りました。  東都大学の3部でしたが、レベルは高かったです。  3年生でレギュラーになりました。 

高校2年の時に哲学、思想に興味がでてきました。 大学ではフランス語が第二外交語で、シャンソンが好きになり、演歌とは違った乾いた悲しさがあると感じました。 大学卒業後は野村証券に入りました。 11年務めてその後フジテレビでも12年務めました。   その後ソニーのコンピューターエンターテイメント、そのほかの関連会社に行きました。  父が病に倒れてしゃべれなくなってしまって、父の世界を継ごうかなと言うような思いが出てきて、新聞にフジテレビの採用の広告が出ていました。  それを見て行ったら受かってしまいました。 

ソニーミュージックとコンピューターエンターテイメントのトップを兼ねていた人から声がかかって移ることにしました。  その方が辞める時には私も辞めるというような契約でしたが、思ったより早く辞められて、私も独立してプロデューサーの会社を立ち上げました。イタリアの食品関係の会社から役員としてフルタイムで来てほしいという事で、会社をたたんで行きました。 順調に行っていましたが、2011年の東日本大震災で原料を保管してもらっている倉庫が全部だめになってしまいました。  資金繰りと工場再開に向けて半年間奔走していましたが、或る時にドクターストップがかかってしまいました。 1年半療養をして、その時に全部を捨てました。 辞めて2か月後に会社を倒産という事になりました。 

体調も良くなって、今後どうするか考えた時に、演劇とか思想とか表現の方の世界が好きなんだろうと改めて思いました。(62歳)  役者がやれるかなあと思いました。 今入っている所属事務所のPRがガラ系で見かけました。 縁だろうと思って申し込んで、授業料を払って2年間研修をしました。 2015年にプロダクションとしての契約をして、芸名も「原岡見伍」にしました。  最初はエキストラから始まりました。 かつてやっていた仕事が役でもいろいろ生きています。 73歳になりましたが、自分では年を取ったとは思わないんです。 50代中、後半ぐらいからの役を含めてやれたらいいなあと思いますし、夢ですが端役でもいいからカンヌのレッドカーペットに行きたいです。 昔のフランス人の恋人に見て欲しいと思います。  シャンソンでも何かできたらいいなあと思います。

人生49:51で51を選ぶときには、以前は僕は大変そうな方を選んできましたが、大変でも苦労しても大丈夫なほど好きなもののほうを選んでいった方がいいと思っています。 そうするともっと努力も出来るし、我慢、耐えることも出来るだろうと思います。











2024年3月13日水曜日

坪川拓史(映画監督 俳優)        ・室蘭から世界へ

坪川拓史(映画監督 俳優)        ・室蘭から世界へ 

坪川さんは1972年北海道長万部町出身、高校卒業後上京して1991年に劇団オンシアター自由劇場に研究生として入団、同時期に独自で映画製作も始めます。 1996年故郷長万部町にあった映画館の解体をきっかけにして、初長編映画作品美式天然」の製作を開始して10年がかりで完成させ、「第23回トリノ国際映画祭 (グランプリ)、(最優秀観客賞)」を受賞しました。 その後2007年にアリア」、2013年にハーメルン」、20221年にモルエラニの霧の中」を公開し、ほぼすべての監督作で脚本、編集、音楽の作曲とピアノ演奏を担当、2011年に故郷室蘭市に戻って室蘭市から映画製作を続けています。 自主映画のために上映する映画館の交渉まで全て自ら行っているという事です。 来月は短編映画2作品と長編映画4作品の全作品が東京と京都で公開されるという事です。

美式天然」は2005年に製作して19年目にしてようやく公開されることになりました。高木均さんが完成の前に2004年に亡くなられて、追悼試写会流行っていましたが。   イタリアのトリノ国際映画祭でグランプリと最優秀観客賞を頂きました。                 2作目がアリア」で完成が2007年でしたが、17年目でちゃんとした劇場公開となりました。 試写会とかもあんまりやっていないです。 脚本もいつも自分で書くので、この人にやって欲しいと書いてしまって、俳優さんに貴方を想定して書きましたという事で、交渉して9割7分ぐらいの確率になっています。 キャスティングもロケ場所も全部自分でやっています。3作目がハーメルン」、最近の作はモルエラニの霧の中」です。 2020年に完成しましたが、コロナで延期になって2021年に岩波ホールで公開されました。

子供のころは映画館のない街でした。 函館、室蘭が近い都会で、18歳までに見た映画は3本だけでした。 「キタキツネ物語」「南極物語」「ネバ―エンディング・ストーリー」だけでした。東京に行った途端に一杯観ました。 小学校5年生の時に男子を集めて、お話を書いて、演出みたいなことをして、美術、衣装を作って発表したりしました。

東京に来て専門学校に入って寮生活を始めました。 同宿の人が朝までゲームをやっていたりして僕が飛び出しました。(2か月で中退)  大田区洗足池公園でホームレス生活を送る。 11月ごろに親にもばれたりして正式に退学届を出しに行ったら、芝居のタダ券を上げると言われて、行ってみたのがオンシアター自由劇場」の「ティンゲルタンゲル」の芝居でした。 これをやりたいと思ってしまいました。 基礎も何にもないので、2年ぐらい悶々としました。 20歳の時に入団のオーディションがあり、受けに行きました。 そうそうたるメンバーの方たちが怖そうな顔をしていましたが、小日向文世が中央にいてニコニコしていました。 小日向さんに何か楽器は出来るのか聞かれて、とっさにアコーディオンが出来ますと嘘をついてしまいました。 合格しまして慌ててアコーディオンを買いに行きました。 今はアコーディオンが食い扶持になっています。 

近所に映画学校があり、「映画に出てくれませんか。」と言われて、出ることになりました。(8mmフィルムで撮影する学校)  製作中にいろいろ注文を付けていたら、「だったらお前が撮れよ。」と言われて、撮ることになりました。 そう言った彼とはカメラマンとして長い付き合いをしています。  20代は俳優としても10作品ぐらいは出させてもらいました。 30歳過ぎてからは映画を撮るだけになってしまいました。  撮っていると出たくなり、出ていると撮りたくなります。 本当は絵本作家になりたかったが、絵が下手だったので駄目でした。 

本が出来上がった時には頭に浮かんでいてロケ場所などは決まってしまっています。 ハーメルン」は福島県の会津の昭和村がロケ現場でした。 2009年から始めていたので、東日本大震災は2011年で丁度真ん中でした。 廃校に関する検索をして気にいったものを壁に貼って書いたんですが、いざその廃校を60か所捜してもなくて、2009年の1月に知り合いが似た廃校があるという事で、理想通りではなかったらハーメルン」を撮るのは辞めようと思って行ったら、まさしくそれでした。 

モルエラニの霧の中」では香川京子さんに出ていただいたことが信じられませんでした。 撮影開始が2015年でしたので、当時香川さんは80歳を過ぎていました。 小松政夫さんも出演しましたが、亡くなったのが2020年の12月でした。 小松さんには5作品出てもらっています。  最初に小松さんは舞台があるので出られないという事でしたが、僕が「何年でも待ちます。」と言ったら真剣な顔になって「出る。」と言ってもらえました。美式天然」は撮影で8年かかりました。 以後作品に出ていただきました。

吉田日出子さんからは大きな影響を受けました。  美式天然」では吉田日出子さんの撮影だけで5年ぐらいかかっています。 名女優です。 山田吾一さんは父親の先輩で美式天然」に是非出てもらいたくて、お会いした時には送った本には赤線が一杯入っていてよれよれになっていました。 大杉漣さんが皆さんに行ってくださった言葉が有って、「映画と言うのはみんなで同じ船に乗って旅をするのと一緒です。 モルエラニの霧の中」も途中いろんなことがあるかもしれないが、いつかきっと 素敵な港に着くと思うので、その乗組員の一員いなれて嬉しいです。」と言ってくださいました。 

こういう絵が欲しいと思ったら待っちゃう。「美式天然」に満開の一本桜のシーンがありますが、ちゃんと咲くのに3年待ちました。 CGは使ったことがないです。 資金がない分を時間を贅沢に使っています。 大丈夫と言っていたらいつかは大丈夫になると信じてやっています。  モルエラニの霧の中」の続編を撮りたいと思っています。









 

2024年3月12日火曜日

三浦律子(主婦)             ・NHK障害福祉賞受賞者に聞く 「生きた時間を生きる」

三浦律子(主婦)         ・NHK障害福祉賞受賞者に聞く 「生きた時間を生きる」

NHK障害福祉賞は障害のある人やその家族が綴った優れた体験記に送られるもので、三浦さんは優秀賞3点のうちの一つに選ばれました。 三浦さんの障害は内部障害で腎臓が一つしかありません。 幼いころ医師に10歳まで生きられないと宣告されました。 さらに言語障害もあり小学校卒業までは自分の名前も正確に発音できなかったと言います。 三浦さんは現在43歳、余命宣告をされた10歳を大きく越え、2人の子どもの母になりました。

 長崎県佐世保市出身。 郡上は夫の故郷でして、郡上の豊かな自然、草花や蝶を追いかけて暮らしています。 27歳の時にこちらに来ました。  

「生きた時間を生きる」

「私は43歳、身長166cm、体重58kg物理的に外見でかけているものはなく、白髪のない長髪で一見とても健康な健常者です。 私の障害は内部障害、腎臓が一つしかない点です。 小学校卒業までは自分の名前も正確に発音できない言語障害を抱えていました。」

ほとんど普通の人として暮らしています。 私は4歳の時に体内に腫瘍が見つかりました。その腫瘍が腎臓に癒着してしまいました。  手術をして腫瘍と一緒に腎臓も摘出しました。 摘出した腫瘍の中に髪の毛とか小さな歯のようなものが入っていて、人間を形成できるであろうというものが沢山入っていた、おそらくバニシングツイン(双子のうちの片方が妊娠初期の段階で、お腹のなかで亡くなり、子宮から消えたように見える現象)という見解でした。 母親の胎内で消えてしまうらしいが、たまたま私は内包して何かの拍子に急に成長しだしたのではないかという事でした。 10歳までは生きられないだろうと言われました。 身体がパンパンにむくんだりして大変でした。 

ちゃんと喋れずに小学校に入ると言葉の学校に通うようになりました。  母は罵声を浴びたりただ泣くばかりでした。 母は夜台所で泣いていたりしていました。 私自身は仲間外れにされたりからかわれたりいろいろありましたが、幼稚園、小学校と仲良くしてくれた子が一人居てくれたおかげで、人を憎まず、恐れず済んだんだと思います。 理恵?ちゃんと言いますが、今も仲良くしています。 

「定期的な検診、尿検査、傷跡の癒着や腸閉塞など痛い思いを多々しながら、私は死ぬはずだった10歳を越え、少しづつ体力がつきました。 身長も平均より伸び、小学校を卒業するころには言語障害もほぼ克服、正しく発音できる言葉が増えて行きました。 スモールゴールを越えながら、私は少しづつ少しづつ普通に話せる様になって行きました。」 

読書感想文発表大会があり、大会に出るごとに言葉をしゃべらざるを得ない状況に追い込んでゆくわけです。  そのたびに私の言葉は増えて行きました。 10歳を越えても母は安心していないし、今でも安心していない、心配しています。 

部活もできなかったし、外で遊び廻るという経験はなく、家に帰って来て寝るというような生活でした。 たまたまテレビを見ていたらスキーを滑っている場面があり凄いなあと思って居たら片足のスキーヤーでした。(長野パラリンピックだった。)  腎臓も一個ないから駄目なんだと思っていたが、一個あるんだと思いました。 好奇心を押さえたままだったがそれを辞めようと思いました。 岐路の節目節目で障害のある方に3回出会っています。その出会いのお陰で一歩、二歩前に進みました。  まずは両親の反対を押し切って京都の大学に進学しました。 親からは自分でやりなさいと言われて、奨学金とアルバイトでやりました。 大学を無事卒業しました。 二輪免許も取りました。(父にバイクに乗せてもらった経験とどこへでも行けると思いました。)  

名古屋で就職をして、結婚、出産、二人の娘の母親となりました。 子供を理由に諦めるという事はしたくなくて、バイクを再開しました。 楽しくてうずうずしている姿を子供には見せたいです。 バイク仲間とあちこち行っています。 

「或る日バイクで出かけた先、道の駅で左ハンドルについいている筈のクラッチレバーが右ハンドルについている二輪車両の隣にバイクを止めました。 良く観る中年男性のバイク乗りで、バイク屋さんをしているからと名刺を貰い、帰途に就きました。 帰宅後名刺を見ると片腕ライダー肩書がありました。」

福井勝一さんです。  最初気が付きませんでしたが、吃驚しました。 片腕でバイクの整備をいろいろしている姿を見た時に、障害の有無は関係ない、個人差だなと思いました。目標に向かって何かに取り組むと言う事を忘れていました。 一般人に混ざって演説大会で日本一になりたかった。 中学生で弁論大会、その後30大会近く参加して、30年目で演説の全国大会で優勝することが出来ました。 

私はアコースティックギターで弾き語りをするのが趣味の一つです。 地元のライブにも出させてもらえるようになりました。 素敵な人が居て調べたら長谷川きよしさんでした。 今年活動55年目を迎えるそうです。 全盲の方です。 ライブに行ったら吃驚、感動しました。 同じテーブル席の方々から凄く親切にして頂いて、感謝でした。 長谷川きよしさんとファンの方に力を貰って今回障害福祉賞の原稿を書こうと思いました。 ギターを弾くことにも熱が入って行きました。 ファンレターを出そうと思ったが、私自身の文字を読んでもらえる事はないと思って、点字を覚えて送ったら直に触れてもらえると思って、昨年の夏から点字を習い始めました。 全盲の方の弁論大会を見ることがあり、いろいろ便利な使い方が有ることも判りました。  

どんな境遇にあっても、父親母親が楽しく笑って家庭での時間を過ごせたら、障害のある無いにかかわらず子供はみんな穏やかで幸せになれるんじゃないかと考えています。

「私は太く長く生きるつもりです。 太く短く何て悲観的にはなりません。 私の好奇心は4歳の時と変わらず旺盛です。 お母さんは強いんだから。 我が人生の本舞台は将来にあり。 これからも楽しく生きて、生きた時間を私は過ごしていきます。 有名なアフリカのことわざに「高齢者が一人亡くなることは、図書館が一つなくなることに等しい。」と言う言葉が有ります。 私が亡くなった時に「お母さんは図書館と言うぐらいなんでも知っていたよね。」と娘たちに言ってもらえるように、沢山の知識、経験を積んで、日々有意義な時間を生きる、それを「生きた時間」と私は呼んでいます。  好奇心の鈴を鳴らし続けて行きたいと思います。

































2024年3月11日月曜日

きじまりゅうた(料理研究家)       ・〔師匠を語る〕 料理研究家の家庭で育って

きじまりゅうた(料理研究家)       ・〔師匠を語る〕 料理研究家の家庭で育って

台所の残り物でちょっとした食事を作る料理バラエティー番組「きじまりゅうたの小腹すいてませんか」などでの親しみやすいキャラクターでも人気のきじまりゅうたさん、その活躍の陰には祖母の村上昭子さん母の杵島直美さんと言う二人の名だたる料理研究家の存在があるようです。 

祖母の村上昭子さんが亡くなったのは2004年。 生まれた時から祖母と同居していました。 初孫で子供心に祖母が溺愛していたのを実感していました。 祖母のそばでずっと台所にいました。 ステーキナイフを渡されて人参の皮とか、キュウリのヘタなどを渡されてい切っていなさいと言われて遊んでいました。  台所は撮影できるスタジオ場所でもありました。 小学校上がる前には一人で卵焼きができました。 祖母から天才だという風に褒めれてやっていました。 小学校の卒業アルバムにはコックさんと書きました。 高校生で自分の将来を考えた時に、料理メディアの業界に生きたいと思い、祖母に料理研究家になりたいと言いました。 祖母は「男がやる仕事ではない。」と言いました。  収入の安定するサラリーマンになりなさいと言われて、選択肢から外してしまいました。 

大学2年の時に友人に誘われてアパレルショップを手伝うようになりました。 そしてアパレルショップの社員になりました。 24歳までそこの会社にいました。 この先どうしようと悩んでいる時に祖母が亡くなりました。 周りからも言われたりして料理の道への気持ちが動きました。 1年間は会社に残って欲しいという要望があり、その間で夜の調理師学校に行くことにしました。 母にアシスタントになりたいと言ったら了解してもらいました。 母のことは杵島さんと呼んでいて、未だに杵島さんと呼んでいます。 アシスタント時代は時給でした。 

母の動き、カメラマンさんの動き、などを見てタイミングを見計らうとか、いろいろな段取りを学びました。  レシピの書き方は見て覚えました。  アシスタントになって5年後ぐらいに独立しました。(27,8歳)  そのころ「弁当男子」が流行り始めました。(2008年)  出版社と話し合いがあり「弁当男子」と言う本を出すことになりました。  「料理研究家の仕事は料理の作り方を伝えるプロであるべき。」という事は言われてきました。  うちは家庭料理研究家なので店に憧れても駄目で、家で作るものを家で作り易く、そこを考えろとはうちの家訓のような感じです。 母が業務用のガスコンロのカタログを取り寄せた時には、祖母は激怒しました。 理由は「火加減が強くなってしまったら家庭料理ではなくなるでしょう。」という事でした。 42,3年前に家を新築するときに、料理家の動線、カメラマンのスタイリストの動線、編集者の動線などを建築士がチェックしてくれて、完璧な動線を組んで撮影しやすい家を作りました。 祖母は良く可愛がってくれました。 今となっては尊敬する偉人みたいな感じです。     母は現役でやっているので、先輩であり師匠であります。 ライバルの様な部分もあると思います。  

祖母、母への手紙

「・・・俺が料理家になったことをバアバに伝えたらどんなリアクションをするんだろうか。 ・・・なくなって20年以上経った今でもちょいちょい夢には出てくるが、料理の話題には全然ならないんだよね。・・・料理家一族の家訓めいた大事な教えを聞いて来たけど、子供のころから働くバアバと直美さんを間近に見てきて、言葉にできない感覚を受け継げたことが俺にとっては財産です。・・・これからも料理研究家として芯の部分を大切にしながら、料理を軸に自由気ままにいろんなことをしたいと思っています。 直美さんも年を重なるごとに自由になって仕事もプレイベートも元気に飛び回っています。他の一層に70代を迎えていることが息子として弟子として、人生の後輩として凄く頼もしく感じています。 俺はまだ40代に入ったばかり、これからの人生も楽しみだは、と思えるのは二人のお陰だね。  これからも引き続き、宜しく。」

引き継がれてきたハートは、結局誰かに喜んでもらいたいのかなあと思います。







奥田佳道(音楽評論家)         ・〔クラシックの遺伝子〕

奥田佳道(音楽評論家)         ・〔クラシックの遺伝子〕 

幻想交響曲の第二楽章「舞踏会」、2010年12月カーネギーホールでの演奏、小澤征爾指揮、斎藤記念オーケストラ演奏。 2024年2月6日に88歳で亡くなった小澤征爾さんに思いを寄せてお送りしたいと思います。 斎藤秀雄さんが1974年に亡くなって1984年に小澤征爾さんと秋山和義さんを中心にして斎藤秀雄メモリヤルオーケストラを作って、東京文化会館と大阪のシンフォニーホールでコンサートをやって、それがきっかけとなって斎藤記念オーケストラが出来て、松本での音楽祭、内外でのステージがありました。  晩年は小澤さんは病との闘いでしたが、最後まで若い人に音楽をと、世界に飛び出しなさいというメッセージを最後まで送り続けた方でした。

小澤征爾音楽塾があってオペラを若い人に教える機関があります。 ヘルベルト・フォン・カラヤンレバード・バーンスタインに可愛がられた。 生涯音楽家として二人と付き合い続けた。 小澤さんの集中力、人間力が素晴らしかったです。 小澤さんは30歳の時にウイーンの音楽界、ザルツブルク音楽祭に名乗りをあげました。(1966年)   60年、70年代は小澤さんとウイーンでは蜜月関係にはならなかった。(お互いが探り合う時代) 1980年代の半ばにストラビンスキーの春の祭典をウイーンフィルの指揮をして、大絶賛となる。 ヴェートーベン、ブラームスを聞いてみようじゃないかという空気が生まれた。 2002年のニューイヤーコンサートに出る。 一番評判になったのが、ヨーゼフ・ヘルメスベルガー作曲「悪魔の踊り」。 ヘルメスベルガーは19世紀から20世紀の世紀転換期に活躍した作曲家、ウイーンフィルのコンサートマスター、ウイーンの指揮者でした。 ヨーゼフ・ヘルメスベルガー作曲「悪魔の踊り」を一気に世界の音楽ファンが知ることになる。 

*「悪魔の踊り」 作曲:ヨーゼフ・ヘルメスベルガー 指揮:小澤征爾  ウイーンフィル管弦楽団  2002年ニューイヤーコンサートのライブ録音。

ウイーンフィルに新しい風を吹かせたことが、ウイーンでの小澤さんの活動のキーワードになっている。 1990年代から小澤さんとウイーンフィルは蜜月になりました。 

*交響曲第8番 「第3楽章」 作曲:ドヴォルザーク  指揮:小澤征爾 ウイーンフィル管弦楽団  1992年定期公演での録音

*交響曲第9番 新世界より 「第4楽章」 作曲:ドヴォルザーク  指揮:小澤征爾 ウイーンフィル管弦楽団  1991年定期公演での録音  小澤さんとウイーンフィルの大きな転換点になった演奏。  小澤さんはボストン交響楽団の監督を29年間を続ける。

*ディヴェルティメント ニ長調から第1楽章 作曲:モーツアルト 指揮:小澤征爾 水戸室内管弦楽団  2017年演奏。












2024年3月9日土曜日

鎌田浩毅(京都大学名誉教授)      ・正しい知識が命を救う~前編・地震のメカニズム~(初回:2023/3/11)

鎌田浩毅(京都大学名誉教授)・正しい知識が命を救う~前編・地震のメカニズム~(初回:2023/3/11) 

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2024年3月8日金曜日

生島 淳(スポーツジャーナリスト)    ・故郷のためにできること

 生島 淳(スポーツジャーナリスト)    ・故郷のためにできること  

生島さんは宮城県気仙沼市出身、56歳。 早稲田大学社会科学部社会科学科卒業後、広告代理店を経てフリーのスポーツジャーナリストとして活躍中です。 フリー―アナウンサーの生島ヒロシさんの弟でもあります。 アメリカ大リーグをはじめNBAやNFLなどのメジャースポーツから日本のプロ野球やラグビー、ロードレースなどを中心に幅広く取材し、様々なメディアで作品や文章を発表しています。 今月11日に東日本大震災から13年になりますが、生島さんは当時気仙沼市に住んでいた実の姉を震災で亡くしました。 その出来事をきっかけに高校時代を過ごした故郷、気仙沼を改めて見つめ直し故郷のためになにが自分にできるのかを考え続けています。 震災から13年になるのを前に故郷のためにできることと題して生島さんに伺います。

ドジャースは日本の方にも親しみのある球団だと思います。 野茂はじめ日本人を一番多く取得した球団ですね。 僕は広い視点で見て行きたいと思いますが、大谷がどの程度打てるのかは楽しみです。 50本は期待したいです。 エンジェルス時代は敬遠も多かった。 しっかり勝負する機会も増えると思います。 40本40盗塁は期待したい。 山本投手はフロントスタートか2番手でいきそうです。  1シーズンコンディショニングに気を付けて頑張って欲しいです。  バッターでは吉田正尚選手もいい成績を残したので、期待したいです。 ヤンキース、レッドソックスもここの所苦戦していて、ヤンキースも2009年以来ワールドシリーズに行っていない。 1990年代の後半からの黄金時代はジーターを筆頭に品格と素晴らしいチームが出来上がって行った。

*「花は咲く」 作詞:岩井俊二 作曲:菅野よう子 東日本大震災復興支援ソング

姉は57歳で亡くなりました。 『気仙沼に消えた姉を追って』と言う本を2011年11月にだしました。  気仙沼はいい街だったという事を書き残しておきたかった。 5月23日に見た光景はまだ覚えています、モノクロームになっていました。 なぜ逃げなかったのか、僕には釈然としないものがありました。 判断の積み重ねで、姉は姉でそういう人生を生きてきたんだなと思いました。 逃げないという判断をしたのは僕としては残念でした。 母が2月に亡くなっていて、納骨の日で上京する日でもあって、午前中の大船渡線の列車を取っていれば助かったかも知れない。 残念だが何でそうなってしまったのかを知りたかった。  

姉から電話があって長男が受けました。 僕の携帯に電話をかけてくれていたら、「「逃げろ」とか言ったかもしれない。 ちょっとしたことで人生大きく変わって行ってしまう事がある。 3月18日にすべての携帯電話が復活しました。  その時点で繋がらないのはもう無理なんだろうなと思いました。 うつうつとした日々を過ごしました。 2か月経って気仙沼に行き取材をしました。  家からこんなに海に近かったんだと驚きを覚えました。 道路も新しくなって運転していても、故郷だという感覚も薄まって来てしまいました。  本、雑誌なども沢山かいましたが、そういったものもみんな流されてしまったんだなあと思いました。   安心する場所が気仙沼にはなくなっちゃったというのは正直思います。    

母親の骨壺は姉の家にありました。 家にいても大丈夫だろうと判断したものと思います。 避難先として公民館が200m先にあって、そこに逃げて助かった人たちもいました。  書くことで自分を納得させたかった。  母の介護を姉に任せてしまっていたことは申し訳なかったと思います。  姉が欠けたという事で帰る家がなくなり、故郷が希薄になって、13年経ち、町の区画も変わって行くと、故郷への思いも難しいものだと思います。 僕を形作ってくれたのが気仙沼にあると思います。 


































2024年3月7日木曜日

佐々木道彦(ワイナリー代表)       ・ワインで地域の食と人をつなぐ

 佐々木道彦(ワイナリー代表)       ・ワインで地域の食と人をつなぐ

宮城県南三陸町この町で地域の食材と人を繋ぎたいと地道な活動を続ける人が居ます。 ワイナリー代表の佐々木道彦さん(50歳)です。 佐々木さんは震災後に町で初めてとなるワイナリーをオープンし、地域の活性化を担っています。 町に賑わいを取り戻そうと奮闘する佐々木さんに活動内容と今後の目標などを伺いました。 

2020年10月に南三陸町に新しい産業としてワイナリーを興しました。 醸造したワインを販売するだけではなくレストランを併設して、ワインと地元の味を楽しむことができる。  今はカキを使ったグラタン、春はサーモンとかです。 季節によって食材が変って来ます。 海産物だけではなく、77%は山で里山では野菜、米などが栽培されているので、美味しい食材が沢山あります。  最近はツアーのお客様も沢山来ていて、又地元の方も少しづつ増えてきています。 収穫ワイン会を毎年ブドウ畑でやっています。 

400ヘクタールの畑で植樹しながら増やしています。 9割ぐらいは契約農家さんからブドウを購入してワイン作りをしています。  山形県は全国4位の生産量で岩手県は全国5位の生産量です。 宮城県が45位ぐらいです。 果樹に頼らなくても農水産業で成り立ってきたからかと思います。 最初に植え始めたものが8年目になり500本ぐらいあって1トンぐらいが収穫できるようになってきました。 同じ品種でもその地域の気候風土によって味が違ってきて、同じ土地から取れる野菜、海産物と相性がいいのではないかと思います。  

南三陸町に移住して5年目となります。 山形県出身で、横浜国立大学卒業後、静岡県浜松市に本社のある大手楽器メーカーに務め、東日本大震災が起きた時にボランティアで駆けつけ、その後宮城県の仙台に移住する。 最初に実際の光景を見た時にはショックでした。  がれきの撤去とかおこなって、段々町が綺麗になって行ったものの、人口は減って行って、地域に元気をもたらすのは地域に根ざした新しい産業、事業を起こさないといけないと感じていました。 会社では新規事業開発に携わっていたので、何かできないかと思って3年後に家族と共に移住しました。  たまたまワイングラスを作る機械があり、それを通してワインの魅力に引き込まれました。  ワインは人を笑顔にさせるお酒だなという事を感じました。  勉強してワイナリーを作りたいと思うようになりました。  

仙台で仕事をしながらワイナリーの起業についての勉強をしました。  2015年に秋保温泉という仙台から車で30分ぐらいの所に震災後初めてワイナリーが出来て、そこでワインの仕事をやらさせて貰いました。  2017年に南三陸ワインプロジェクトがスタートしたことを知り、期待感を持ちました。  移住してから5年近くはいろんなことをしてきて、本当にこれでいいのかという思いはありました。  ワインは出来ていたので、販売については免許が必要で、法人として免許を取って行かないといけないという事です。   2019年1月南三陸地域おこし協力隊にはいって、2月に南三陸ワイナリー株式会社を立ち上げました。 4月からワイン販売スタートしました。 

我々が作ったのは辛口の白ワインで、お食事と一緒に楽しむお酒なので、牡蠣、ホタテとか、鮭とか合わせて飲んで下さいと言い続けてきました。 甘めのワインが好まれるのと、ワインそのものを飲む方が当時は少なかったです。  ワイナリーをオープンさせたという事が一番の転機だったと思います。 地域おこし協力隊と言っても事業はあくまで個人のリスクでやってゆくので、何千万円と言うお金を銀行から融資をしてもらい、立ち上げたもので、ワイン作りを証明できた、理解していただいたと思っています。 水産加工場だったところを利用させてもらったり、多くの方々のご協力があって出来ました。  

新しいことをやるのは自分での遣り甲斐でもあります。  大地に囲まれて季節を感じながら、自然を感じながら生きていけるというのが支えになっていると思います。  自分の毎日の楽しみが、自分でもそれが出来ていて、生活も楽しめているところが支えになっていると思います。 

三陸沿岸部には「きりこ」と言う文化があり、三陸沿岸部は水害、冷害が多くて不漁、不作の時に神社へのおそなえ物として、紙を形どって神様に奉げていた。 創作きりこを作るようになって、神社以外でも創作きりこが使われるようになりました。 神社の方からきりこを切っていただいて、それをワインのラベルとして使っています。

海中熟成、ワインを海中に沈めて熟成させる。(海中の振動で熟成が早まる。) イベントとしてみんなでやります。 いろいろな異業種の方々と一緒に活動をしています。 ワインツーリズムを一昨年から始めました。  南三陸、気仙沼、陸前高田、大船渡の4都市を結んでシャトルバスを走らせて、三陸のワインを楽しむようなツアーを今年は6月に2日間やることが決まりました。 7割以上が東北以外の方が来ます。 継続していきたいと思っています。