2013年6月30日日曜日

五木寛之           ・歌の旅人(沖縄)

五木寛之        歌の旅人(沖縄県)
初めて行ったのが本土復帰の前  数年前に沖縄の新聞の連載小説を担当した
海がきれいで、砂浜が真っ白  近代日本の歴史のなかでも特色を持った地域
独特の文化がある 
「島人ぬ宝」(「しまんちゅぬたから」ビギン 作詞作曲  明るく伸びやかでいながら、内容が重い
民謡酒場が各地にあり、この歌がかかると、踊り出す
相互扶助 人の絆の強いところと言う感じを受ける
「いちゃりばちょうべい」 一回やったらみんな兄弟 
仏教の「慈」  フレンドシップ ブラザーと言うような意味と聞いたことがある
「なんくるないさー」 まあいいよ 大丈夫だよ   心がほどけてゆく土地

安らかさの背後には、厳しい自然、搾取とかの中で、生き抜いてきた人たちの絆があるわけだから、難しい
明治以来の歴史とかを考えてみても、ずしっとやっぱり重いものがこちらに伝わってくるところがあるわけですから複雑ですよ

仲宗根 美樹 歌声喫茶から 「川は流れる」 その時代が彷彿するような歌
南さおり 安室 奈美恵
文学 大城立裕  1970年 九州沖縄文学賞を立ち上げる  そこから沢山の作家が生まれている  沖縄が上位に入ってくる  目取真俊(水滴) 又吉栄喜(豚の報い)とかドンドン出てくる
九州芸術祭文学賞と名前が変わる  文学的風土の高いところ

ここ数年来 モダンになってきて、沖縄独自の色が薄くなってきていることが気になっている
私は40数年 ずーっと選考委員を続けている
スポーツ 具志堅用高(13回防衛) 宮里藍 宮里美香 諸見里しのぶ 伊良部秀輝 大嶺 祐太
名嘉睦稔 版画家  悲しい時には悲しい歌を聞きたい (老人慰問の時の老人からの話)
さとうきび  ざわわ
さとうきび畑 昔はハワイのマウイ島はサトウキビの畑がずーっと続いているそういう島だった
そこへは日本人の移民の方が随分出稼ぎに、さとうきび畑で働く労働者として、来ていたが、その人たちの亡くなった後の墓地があった 広島 北陸 沖縄が多かった
アルゼンチン、ブラジルなどを回ると、沖縄出身の方が沢山いらっしった 世界に開かれた土地でもある

160島があって そのうち49の島に人が住んでいる 亜熱帯気候 
「池間の主」 宮古島民謡 
失業率は全国ワーストワン  離婚率、出生率が一番 
男女ともに長寿日本一だったが、最近は男性が肥満 ランクがぐーんと下がってきた
推測するとアメリカ統治の時代に、ステーキが入ってきて、沢山食べるようになった
揚げ物が多い(長持ちをさせるように) 酒も飲むし アメリカ的な食事をする
食生活の見直しを始める

島豆腐 チャンプルにぴったり  沖縄そば 沖縄の塩 島とうがらし 
沖縄の本屋は照明が凄く明るい
女優 仲間 由紀恵 黒木メイサ 満島 ひかり 山田優 比嘉愛未 
男性 ガクト  フィンガーファイブ キロロ ブギン 等グループが多くある

沖縄 古い昔の根強い歴史を背負った芸能、文化と新しい文化とぶつかり合って、その潮流がぶつかりあう中に、潮目ができて、魚が集まってくるように、ぶつかりあうなかに一つの新しい動きが出来てくるような、気がする
「二見情話」 作詞作曲照屋朝敏   首理に帰るときに、お礼の意味でつくった曲
二見 自然の風景の美しいところ 二見の娘はみんな姿、形がよく、美人
志も、気持ちもとても素直で、いい娘さんたちが多い  二見の自然も海も山も美しいという意味の歌(そのあとに、戦争の話が出てくる その思いが残っていて普通の民謡とはちょっと違う 2番、3番で)  九州の民謡と似ている 五木の子守唄と似ている

民俗学、歴史等を話せば、きりがないが



















 














2013年6月29日土曜日

渡辺玉枝(登山家)        ・富士山から世界へ

富士は日本一の山 をテーマに甲府放送局がつたえてきた 最後の一時間
皆様からの便り
「富士登山の思い出」
昭和16年の登山の様子  中等学校、学友と3人で登山  当時の日本は対戦不可避と見て軍部を始め、国民の全ての人が緊張した時代だった
まず吉田の浅間神社に参拝、バスで馬返しまで行く、そこからは草履ばきで、杖を頼りに歩く
5合目を抜け出ると、広大な赤茶色の山肌が見えてきた
その夜は8合目の山小屋に泊まる  夜、小屋から外に出ると、富士吉田の町明かりや、暗い山肌に捨てられた空き缶が月の明かりに照らされて、とてもきれいだった
翌朝は暗い中を頂上を目指して、登った  
頂上でご来光を拝んだ  綿のような雲の上からオレンジ色の太陽が見えると、その景色の素晴らしさに居合わせた人々から万歳の声も聞かれた
しばらく休んだ後、お鉢めぐり 火口巡りに出かけた
この素晴らしい富士山に夢多き多感な少年時代の私が登山を体験することができ、89歳の今も幸せに思っている   

「富士山の氷」
今から70年前 私が10歳のころ 父が一人で富士登山に出かけたときの事です
当時は山形から東京経由で登山口に行くのに、夜行列車を乗り継いで2日半、登山、下山に2日半、帰るのに2日半 合わせて1週間の長旅でした
お土産はなんと富士山の氷 麻布に包まれた 1辺が50cm 長さが1mの氷の柱が車いっぱいに横たわっていた 息がとまる思いでした
考えてみれば、真夏の8月に列車の中で2日も3日も氷が解けないはずは無いのです
後で解った事なのですが、実は隣町の製氷所から買ってきて、子供たちを喜ばせようとした、父の最初からの計画だったようです これが富士山の氷だと子供に感動を与えた父の子育てこそ、日本一の富士山に負けない日本一の親心だと今でも思っています  その父は35歳の若さで招集され、フィリピンで戦死しました  恥ずかしながら私も80歳になりましたが、父の足もとまでも及びません

渡辺玉枝(登山家)     富士山から世界へ
富士河口湖町の出身  短期大学を卒業後 神奈川県庁に勤務 1965年神奈川県庁山岳会に入会をきっかけに登山を本格的にはじめ、19977年北米大陸最高峰マッキンリーの登頂その後4810mのモンブラン アフリカ大陸最高峰 キリマンジェロ 南米最高峰のアコンカグアなどにも登頂
退職後は地元に戻り、青木が原樹海のネーチャーガイド 自然の魅力を伝えるガイドをする傍ら 
登山を続けて、2002年、世界最高峰のエベレストに、63歳で登頂される
それは女性世界最高齢記録となりました
去年2012年 73歳でチベット側ルートからエベレストに挑戦して、女性世界最高齢記録を更新されました

富士山が世界文化遺産になる  富士山は生れて来て、毎日ずーっと見続けてきた
肉親の様な思いでいつも眺めてきた 
故郷に、大きな山から帰ってきて、身の回りにきれいな緑があって、その緑の中にすくっと立っている富士山を見ると、あっ、日本に帰ってきたという、そういう感じを持って、やっぱり富士山はいいなと思います
10年前に、ネパール側からのぼった チベット側は全く環境が違うと聞いて、やっぱり行ってみないと解らないという事で、ルートはどうなっているのかと いろいろな興味をもって昨年行きました
運良く、それほど苦労せずに登れることができた 外国の山 22回のぼっている
22回全部頂上からの景色を見ることができた 

高い山は 自分の体調と、隊の組み方によってもよる
1998年 定年の1年前 「ガッシャーブルムⅡ峰」  
遠藤京子さんがマナスル、田部井淳子さんがエベレストに登り、田部井さんが一躍有名になる
素晴らしい登山家とも一緒に登ることができた
8000m 4回一緒に登っているカメラマンの村口徳行さんと一緒に登った
シェルパ ネパール人のなじみのシェルパさんがいる  日本語で解るシェルパさんだった
こっそり登って、こっそり帰ってくるのは出来ない時代になった(無線連絡等)

高度順化 1週間かけて行う チベット側は車で5200mのところまで行ってしまうので注意が必要
8000m超えるとかなり急斜面 岩場 滑落すると体がバラバラになってしまうという想いがあった
絹の布(長さ2m~2.5m 幅30cm) 頂上においてくる   3000人ぐらいは登頂している
登頂日 2日おいてあるかどうか 秋は1日あるかどうか 運が結構ある

昨年3月27日 日本を出発した トレーニングはなかなか苦手で、日本ではしなかった
畑で草を取ったり、昔ながらの鍬でやっているので、それがトレーニングかと思っている
山で使う筋肉は違うので、最低一回だけは近所の山に出かける
富士山は毎日毎日 私が小さい頃、用水が流れていて、飲料水をカメに汲んできて、そこで自分の顔を洗ったりする  富士山を眺めて、今日は富士山はご機嫌がいいぞとか、今日は雲がくっついているとか、そんな感じで富士山は日常生活の中に一緒にある山
青木が原樹海の自然の魅力  河口は樹海とは離れているが樹海と言われているところは東京都と同じ面積ぐらいがある広いところ、886年の噴火で溶岩が流れてきて、その上に木が生えて森になったのが、青木が原樹海  

富士山の裾野の魅力も、もうちょっと知りたいし、そういう自然を大事にしなければいけないと思って、いろいろ研修とかうけて、ネーチャーガイドもやるようになった
高い山に登るのに、それほど過酷かとは私は思わない
頂上に登ってみると、地球は丸いなあと感じる 
1回目は40分ぐらい 無酸素状態を感じた  今回は無理のない程度、無酸素状態を味わった
自然は容赦は無いけど、それを乗り越えた感激はある

もし大人になって、いろいろな国にいけるかも入れないけど、絶対に富士山のふもとから見る景色はどこへ行っても負けないよと、両親から言われたが、富士山はやっぱり素晴らしい
逆さ富士、素晴らしい 






















2013年6月28日金曜日

眞理 ヨシコ          ・四世代を越えて歌い継ぐ 2(再放送)

眞理 ヨシコ        ・四世代を越えて歌い継ぐ 2(2013・4・18再放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2013/04/2.html ご覧ください

2013年6月27日木曜日

2013年6月26日水曜日

奥村弘(神戸大学大学院教授)    ・被災地の歴史資料を守ろう

奥村弘(神戸大学大学院教授)       被災地の歴史資料を守ろう
地震や津波など、自然災害に見舞われた時に、家屋の崩壊や流出と共に、家庭や公民館などに眠っていた貴重な古文書や日記、あるいは民具などが水浸しになったり、破損したりして捨てられてしまうケースが少なくありません
その消滅を出来る限り防いで、次世代につなげていこうという活動を展開しているのが、歴史資料ネットワークです
阪神淡路大震災をきっかけに誕生しました
鳥取県西部地震、新潟中越地震、東日本大震災などの、地震災害だけでなく、台風や豪雨などの災害地にも出かけて、資料保全活動を展開しています

専門は日本の近代史 幕末から明治期の地域社会がどういう風に変わってゆくのかと言う事が専門  阪神淡路大震災以降 歴史の資料をどのように社会の中に活かしてゆくか、学問的に考えてゆくか と言う事で歴史資料学をもう一つの専門にしています
保存品 200箱 点数にして、5万点ある   阪神淡路大震災以前の物もある
歴史資料ネットワークを立ち上げて18年になる
歴史資料と言うと有名な人が書いた書簡、日記を考えることが多いが、地域の歴史資料と呼んでいるのは、身近にあるもの 自治会、町内会が日常的に記録しているが、そういったものが歴史的に溜まってゆくと、地域やコミュニティーを唯一する手掛かりなので、そういったものを含めている(生活を物語るもの  あらゆるものが資料になる可能性がある)
阪神淡路大震災で手押しポンプを使って水を井戸から取り出したが、そういったものも保存している

大災害に遇うと一挙に無くなってしまう  家の建て替えなどでも無くなってしまう
災害直後は、人命優先なので、資料保存のタイミングは難しい
活動をやるべきかどうか、最初は議論があった 地域の記憶をなくしては駄目だと、ボランティアが入ってきていた 最後に活動をしてゆこうという事で入って行った
最初は関西の若手 30~50人 その後増えていって100人 さまざまな形で参加してくれる人は300人ぐらいになった
水浸し、汚れてしまったりした資料の保存は? 和紙と墨は水には強い もう一度洗って、伸ばしてあげればちゃんと読めるものとして、救済できる
定着した墨は広がらないでそのまま残る

新聞、キッチンペーパーを使う事がいい あるいは一旦凍らせる(マイナス25度)、その後直接氷を飛ばす方法がある
乾燥するために直射日光は変色、劣化したりするので避ける 日陰干しは可能
人命救助が最優先なので、4日後ぐらいからスタートする
地域に住む方が残さなければいけないと、活動を早めに動くこともある
全国で20ぐらいの団体ができている 東日本大震災 宮城資料ネットワーク、福島、岩手、茨城県でも出来ている  
瓦礫の中から家族の写真、位牌、お地蔵さんとか、18年前に比べると定着し始めた

地域の歴史資料に関係するような方、郷土誌にかかわる方、自治体の職員の方と一緒にできるかが要のところであります   3~5人がチームを組むのが多い
村の中心だったところに資料は多くある  古い家、蔵のあるところ
阪神淡路大震災以後 2年単位で震度6ぐらいの地震が発生している
水害の場合は、歴史に関係する資料は 水害に強いところに置かれている事が多い
ところがここ数年間は100年間ぐらい浸かることが無かったのに、浸かってしまったという水害が多いので、活動が増えてきた
津波は今回が初めて、 海水の場合は、(カビに対して強いのではとか、紙繊維の劣化が大きいのではとか)対応を考えて研究している

写真に撮る作業をするも大事 公開出来るものは早く公開する
基本的には全て一定の修復が終われば、その地域の方のところに戻す
ふすまの下張 日常に関したものが基本(領収書とか、地域の当たり前のこととしてやっていたものの書き残しとか)  歴史資料の宝庫
はがし方が難しい へらを使う 形状はそれぞれ地域の人が考える

神戸 江戸時代には水路があった もう一遍見直して、水路を活かした街作りをしようしたときに、被災した資料から、一緒に考えたことがありました
石巻 蔵 古文書が残っていた 津波で周りは何にもない 津波の高さを示す線が残っている
どういう災害だったのか、気がついたら何も残っていないというような事があるので
安政時代 大きな津波が大阪を襲った 大阪市中の半分水没、橋が全部壊れる 
河口部分に石碑ができる 経験を伝えてゆく活動がある

歴史資料保全活動は いわば街作りの基礎の部分を作る作業と考えている
ヨーロッパでは結構ある ドナウ川が氾濫して資料が無くなるとかで、地域の資料を保存する活動
江戸時代からの古文書の数は世界でも格段に多い
歴史文化と言うものは、広い分野の方々に支えられて、初めて出来るんだなあと凄く感じている
こういう事ですよと歴史を語りかけるだけではなくて、地域の方々、市民の方が自分で書いたり、作ったりしてゆくという、そういう力が強まってきている
成熟した社会を持っているなあと感じた
70~80歳の方々、大きく生活、日常のありかたが変わっている  それをつたえたいという気持ちが凄く強くて、知らない世代に引き継ぎたいという想いが物凄く強い
深いレベルの歴史認識が社会の中でも大事だと思っています


























































2013年6月25日火曜日

竹内昌彦(視覚障害者理事)     ・見えないからこそ見えてきたこと

竹内昌彦(社会福祉法人岡山県視覚障害者理事)  見えないからこそ見えてきたこと
昭和22年 当時乳幼児だった竹内さんは、中国からの引き上げ船内で肺炎にかかり、九死に一生を得ましたが、命と引き換えに右目は視力を失い、僅かに見える左目だけでの、生活を余儀なくされました
小学校二年生で網膜剥離の手術をしますが、退院後盲学校に転校し、5年生の時に完全に目が見えなくなりました
建築設計士になりたかった夢が消え、新たな道に踏み出します

子供の順応能力は凄い ぱっと見えなくなったというよりは、段々見えなくなってきたので、それほどにショックではなかった(そんなに不便とは思わなかった)
網膜はく離 網膜は神経でできていて、この膜で光を感じて脳に送っている
この膜が離れてしまう 離れてしまうと幕が揺れるので、例えばたっている棒が揺れる、地面が揺れる その症状が出てきたのは小学校の2年生の時だった
その夜のうちに病院に行った

家族が良かった めくらがいると、当時は隠すような傾向にあったが、兄以上にいろいろなところに連れて行ってもらって、なんにでも触れさせてくれた なんでも怖がらずに経験しろと言われた
うまにも像にものったし、ニシキヘビの尻尾も握った事がある 
父は警察官だったので、警察官舎に住んでいた  対等に遊んでくれた仲間がいた
弱いものいじめは当時では恥だった 馬鹿にされた
小学校でも素晴らしい先生に出会った 1クラス60人 私を最初から、みんなの前で竹内は目が不自由だと、だから不自由な目を助けるためにはどうしたらいい、まずどこに座ったらいいか、みんなで考えようと、提案した  私を助ける子が出てくると先生が物凄く褒める
先生のやり方一つで、こんなに子供は変わるのかと思った(後で感じる)

絵が好きだったので、地理を教えてくれるのに、海岸線 川、県境線 判別できないので、最初海岸線だけを教えて、次に県境線をいれてゆく そのあとに線路を入れると 何段階にも分けて教えてもらう  県の形が物凄く印象に残った
勉強には普通の人よりも倍の時間をかけなさいと言われた
大学受験でも、参考書を作ることから始まる  粘り強さを持たないと追いつけない
泳ぎもできたし、山ものぼった 運動も卓球をする  パラリンピックに参加
どうやって打つ?  小さな鉄の球が入っていて、転がすとガラガラと言うのでその音を頼りに、打つ  ネットはあげる ネットの下を転がす ネットに当たるようであれば、浮いているのでアウト
ネットの下を転がすと当てやすいので、転がすことで正しく打った事になる   金賞を取る

建築設計図を書く仕事がしたかった  当時は、あんま、針灸の仕事しかなかった
夏休みに近所のおばさんが、肩が痛いとぼやく(五十肩) 練習台にされる
良く効いたので非常に喜んでくれて、これが発端になった(開き直った)
親を安心させたいとの思いがあったので、筑波大学に行く
あんま、針灸の免許を取ったものが受験しなさいとの方針だった
教育指導だけの2年間勉強するコースだった
エリートが大勢いる  20人 皆それぞれ卓越した能力を持っていた

教員は迷う事が多い 迷ったら、生徒のためを思って行動する  若い教員にもよくいう
生徒は千差万別、  生徒にこの先生のもとで勉強して、得をしたといわれるようにしてきた
点字ブロックを作ったのは岡山が一番最初 昭和42年3月18日に点字ブロックの上の横断歩道を渡って、渡り初めをした日です
三宅精一 目の見える方 目の見えない人に安全に歩けないのかと思って作った
自分のお金で建設省に掛け合って、作ることになる  駅のプラットホームとかに作るようになる
世界に広がった  
よその国には視覚障害者による、あんま、針灸はないので、マッサージを教える学校を作りたかった  モンゴルで2011年3月9日に開校式をした  帰った日が大地震だった
寄宿舎、食堂も作った 定員10人の予定であったが、30名が集まる

この話を聞いた白鵬が是非会いたいという事で、会う事が出来た
私の長男が重度脳性小児麻痺 言葉も出ない、歩けもしない、7歳で死んでしまった
パラリンピックに行って思ったが、目の障害は軽いなあと  他の障害の人が本当に苦労して生きておられる  目はまだ軽いなあと思った
粘り強く、がまん強く、目の見える人の努力にくらべれば、何倍も時間がかかるが、時間をかければ、追いつく だから粘り強く、戦ってゆく、挑戦してゆく、続けてゆくという事は、障害を克服する一番の方法だと思います

点字ブロックの発祥の地 として石碑を作ろうと思って、一人で始めたら(100万円ぐらいなら出来ると思い 石材業の友人がいたので相談したら、おまえひとりだけにさせるわけにはいかないという事になり)、すぐに賛同者が増えてくれて、20人くらいになり650万円集まり、大きな石碑が3つできた






 



 

2013年6月24日月曜日

天野祐吉            ・隠居大学(美輪明宏)

天野祐吉          隠居大学(美輪明宏
黒蜥蜴(江戸川乱歩 原作 三島由紀夫 脚色)が再演で全国を回っている最中、来年春に又、東京で再演する   その間に講演のスピーチを行い、TVのレギュラー、雑誌のコラムだとか、時事評論を書いたりしているので、休みらしい休みは無い(78歳)
「明るい明日を」  5年間新聞で時事評論をまとめたもの 芸術文化大賞をいただいた
シルバーランド 日本にはない  年寄りの遊び場
日本は何の資源も無いのだから、勝負するのは文化しかない  
それで太刀打ちしていかなけばいけない  
上村 松園 中原 淳一 高畠 華宵  等の美人画 昭和の軍部が軟弱であると批判された
戦時中は、戦争画を描けと、筆をおろされた  描かなかったら、非協力的であると睨まれて、終戦のその日に疎開先から、帰ってきてすぐに描いたと言っていた   
女はドレスはいけない、ワンピースはいけない 日本の色でけばけばしいものは駄目(とき色、なんど色)  国防色一色

戦後、美しいとか、たおやかさ、控えめ、謙虚さ  修身教育をなくしたので、いじめる人間(劣等感の固まりで、最も卑怯で、卑劣、恥ずべきもの)に対して、恥と誇りを教えていたが、修身教育は全部悪であるという事でどうにもならなくなった それをなんとか取り戻さなければいけないと思って、私の戦いで、それに協賛してくださったのが、三島由紀夫さん、川端康成さん会ったりとか有識者が賛同してくださった
村おこし ゆるキャラ作ったって、村おこしにはつながらない
如何に若者が出ていかないで、いついてしまう魅力ある街のデザインから機能、インフラから、ノウハウを盗んで、活かして、やるべき
日本は改良がうまいので、それをシルバー産業にいかすべき

戦後、アメリカ文化が入ってくる アメリカ浸け 
1940年代までのアメリカ文化はヨーロッパとの複合文化だった  それが日本に入ってきた
音楽もプレスリーから変わった  段々エスカレートしていった
日本には美しいメロディーがあった  
建物も自然色だったが、情緒が無くなった 手作りの人間らしさを排除してしまった
人間は精神と肉体と二つで出来ている 肉体の方はビタミンを飲んだり、サプリメントを飲んだり、一生懸命栄養をやっている  現代人は  しかし精神の方は何にも、栄養になるもの、サプリメントのようなものを何にも取っていない  精神が栄養失調になっている

精神のビタミン 本、良い芝居を見る 歌舞伎 等々 行く人は限定されている(アメリカなどでは世代で別れていない)
戦時の、文化は女々しいものである と言う事が、尾を引いている
一億火の玉、一億玉砕 と言っていたが、なんの権利があって、ほかの人までの命まで、玉砕と言って、権利があるのだと私は言うんです
私は色街で育った 丸山遊廓  カフェ、質屋さんも、風呂屋もやっていた
裕福な家庭の人が立派なみなりの方が裸になると、貧相だったり、貧しい身なりの人が裸になるとマイヨールの彫刻みたいに立派な体をしてたりして、着る物って何なのと思い、その人の裸を見るようになった  
 
料亭もやっていたので、街のえらいさんが普段はえばっているのが、酔うほどにスカートの真中に手を入れたり、頭を突っ込んだりして、ひっぱたかれて、ビールを掛けられて、エヘラエヘラしている、この人の昼間の顔はなんだと、ふてぶてしい態度に出るのは、人間の後ろの恥部を見ることから始まってますから、偉そうな、でかい顔をしているのかとか、人間の裏側を見ている
人身売買で娘が売られてきて、最初は純情で気の毒ぐらいめそめそしていたのが、段々強くなって先輩の女郎をやっていけるようになったりする 
苦しみ、悲しみ、いたみ、人間の裏側 比較するようになる
人間を俯瞰してみるようになる   よいとまけ の歌を作る様になる

「祖国と女たち」終戦後 遊廓が再開して、3人の中に私が聞いて 筆舌に変えがたい思いがあり、それを歌にした   50年前に作った歌がほとんど
一時期、社会派だとか、共産党だとかいろんなことを言われて、すぐにレッテルをはる 
今でも家の事務所に脅迫電話などがかかってくる
78年間 戦いの人生だった  性差別  
武将には小姓の愛人を持っていた  第二次大戦、戦時中は、産めよ増やせよの時代で、同性愛者は国賊であるという事で全部禁じられた  終戦後、平和になったんだから、復活すればいいじゃないかと、たった一人で始めて、戦いが始まったわけです

江戸時代は文化大国だと思っている
アインシュタインもエジソンもチャップリンにしても、天才たちが全部日本に憧れてきている
アインシュタインなんかは1週間も日延べしてしまったぐらい
チャップリンは2・26事件で命を狙われていたのにもかかわらず、その後2回も懲りずにきている
安藤広重葛飾北斎の絵だとか長谷川 等伯が、向こうに紹介されて、ゴッホゴ-ギャンロートレック
モネマネピカソもみんな日本に影響を受けて、アールデコアールヌーボーと言う様式が出来て、あの頃までは日本は世界もっとっも尊敬されていた文化国家だった

軍事大国を目指し、経済大国を目指したが、行き詰まっている
文化大国だった血が残っているはずなので、もう一回育てていかなければいけないと思う
アニメとか諸外国でひっぱりだこ  
日本もまんざらではないと思っている

「冬のそなた」  は「愛染かつら」「君の名は」の復活  美男美女で不良系が一つもない
だからブームになった(そういったものを待ち望んでいた)
正統派の若い人がぼろぼろ出てきているが、これはいい傾向だと思っている
(斎藤祐樹、錦織、石川遼、浅田真央とか)  礼儀正しく、親孝行で、言葉使いもちゃんとしていて、対戦相手の悪口を言わない、周りとも仲良くしている、世界的な技量を持っていながら自惚れていない  昔の日本少年に出てくるような

里山資本主義  Uターンして、故郷に伝わる伝統的な芸能、芸術を再現しようと、もう一回生活を立て直そうという動きが出ている
若い人が楽しく過ごせるようなインテリア、建築と古いわびさびの世界の農家は別にあって 複合的な街作りをすると、これは楽しいと思う

シルバーランド  昔の映画  無声映画 トーキー初期の映画  言葉も美しくて  ふんだんに美しい言葉が出てくる  緩やかに和めるような空間   海を眺めるベンチがあって しびれるような退屈さを味あうとか  音楽も柔らかい音楽がながれるとか
そうすると食べ物も美味くなる   文化を上手に生活の中に取り入れる事が必要









2013年6月23日日曜日

嘉数道彦(琉球舞踏家33歳)     ・21世紀を生きる沖縄の組踊

嘉数道彦(琉球舞踏家33歳)      21世紀を生きる沖縄の組踊
沖縄の伝統芸能の組踊は、セリフを通して歌と踊りで物語を展開してゆく沖縄独特の歌舞劇です
この芸能は中国や東南アジアと交易が盛んだった琉球王朝の時代に発展しました
伝統と格式のある組踊ですが、沖縄戦後はしばらく衰退の道を辿ってきました
しかし、ここ10数年 保存会の地道な活動や、ユネスコの無形文化遺産に指定されてから、見直される様になってきました
今日お話を伺う琉球舞踏家の嘉数さんは若手のリーダーとして活動しており、今年の4月からは、国立劇場沖縄の芸術監督にも就任し、今後の活躍が期待されています

国立劇場沖縄の企画制作課長兼芸術監督をしている
年間30公演が琉球芸能、伝統芸能を中心に企画され行われている  どういった方向性の公演を行っていくのかを決めながら、公演内容を検討、公演してゆく  実演家でもある
作品も書いている 演出家でもある       現在は沖縄劇場に専念している
幼いころ、祖母が一緒にいて、実演はしないが、沖縄芝居が大好きで、私を手を引いて通った
それが沖縄の芸能に興味を持つようになり、関心を持った(2~3歳頃)
自然と違和感が無く入って行った
沖縄言葉が聞ける方、使う方が少なくなってきているが、伝統芸能には残されているので、憧れることによって、おばあさんに聞いて、答えてくれてこの繰り返しで、徐々に言葉にも親しんでいけるようになり、どうにか理解もできるようになった

熱心に真似をしたりするので、両親が琉球舞踊の研究所に通わせた方がいいという事で、4歳から通った 初代の宮城能造先生の門を叩いたが、おさない4歳なので 月謝もいいのでいらっしゃいという事になった
小学生はいたが、なかなか続か無い 中学に行くと辞めてしまった
中学、高校になると部活動が中心となってしまうが、私の場合は剣道部に在籍して、部活の中途でも行かせてくれたので良い環境だった
大学は沖縄県立芸術大学  琉球舞踊、組踊の専門的に学べる場
本土復帰した後にできた学校 伝統芸能が学べる学校として大きな影響を及ぼしている
県立芸大を卒業した人が活躍している

琉球舞踊を中心に大学に入るまでは、勉強してきたが、沖縄古典劇 組踊は大学に入学するまでは本格的に取り組んでいなかった
組踊に関しては、それほど興味は無かったが、学んでいるうちに変化が起きてとても興味を持つようになった
琉球王朝時代に本土の歌舞伎、能を題材にして、歌舞劇に発展した
中国から皇帝の使者が来たときに、宴席で演じられる演目の一つとして、作られた ジャンルのひとつとして組踊がある
我々世代にはとっつきにくい、芸能だったが、やはり知ってゆくことによって中身が分かってきて、見方が変わってきて、深みが分かるようになった

大学2年、3年となると組踊にはまってしまった
題材が古いし、言葉が古すぎて良く分からない、動作がゆっくりで、中身が分からないと難しい
一番最初に興味を持ったのは、「執心鐘入」  能の「道成寺」に影響を受けて作られたもの
演じて学んでゆくと、お客さんの反応とか肌で感じつつ演じることで、更に表現の深さが舞台の上で気付かされた点が多くある
宮城能鳳(人間国宝)先生のもとで先生のお話、芸を真近で見ることができて、自分たちも発表の場を与えられて、今があるのかなあと思って非常に感謝している
大学院まで進む  組踊をもっと学びたいとの思いがあった
新作の組踊も作った  組踊に関しての関心が薄いので、どう今後演じてゆくのかと思って、同世代、若い世代が会場に足を運ばないのが現実で、20年後、30年後の客席はどうなるのだろうろ思って、現在演じている古典では伝わりにくいのでなないだろうかと思って、未熟ではあるのですが、若い世代、子供たちに解ってもらえる作品を作ってみたらどうかと、いう事がきっかけです

絵本のお魚の話を 子供用に 10分 組踊の様式にはめて、教えて、子供と一緒に発表した
卒業の際に新作組踊を取り込もうと 「宿納森の獅子」 と言う作品を作った
実はディズニーの美女と野獣が原案なんです  それを沖縄版に置き換えて、言葉、音楽、動きも組踊版に置き換えて、作品を作りなおした
従来の組踊では、考えられないような内容  従来の組踊は古典的な忠孝の精神、儒教道徳を重んじた作品がテーマになっているが、若い世代、観客層求めるには、テーマをすこし共感するようにするのがいいのではないかと、美女と野獣に題材を借りて、行った
基本形は組踊を踏襲しながら作っていった  多くの方から優しい言葉をかけていただいた

男性舞踊家は芸一つで生きてゆくことは、厳しい  3か月稽古して1日の本番で終わってしまうのが、現状で、芸能一本で生計を立てて、家族を持ってゆくというのは非常に大変です
今に限らず、これまでもずーっとその現状で来ているので、昼間は別の仕事をしながら、稽古に臨むのが現状ですね
私も非常勤職員として、県の住宅課に行ったり、パスポートを作る旅券センターに行ったりしてきた
夜も7時から始まって2時間、3時間行う  
発表の数が多い時には稽古が深夜に及ぶ時も多々ある   志を高く持ってやっている

今年の3月、歌舞伎の坂東玉三郎さんをお呼びして 東京と国立劇場沖縄 組踊の参加していただいた
いろんなジャンルに挑戦する人なので、同じ古典芸能なので挑戦したいと言う事で、大城立裕先生が新しく作ろうという話になって、今回の公演にこぎつけた
新作組踊の「聞得大君誕生」  琉球王朝の宗教的なトップ 聞得大君の誕生前を描いた物語
(聞得大君は琉球国王の妹)  聞得大君の恋物語を絡めた作品に仕上げられている

沖縄の芸能界をあげて、公演にこぎつけた 夢のような公演だった
勉強になったことは? 自分の納得いくところで舞台に立つという姿勢でしょうか
教えられたものをやってゆく様な状況ですが、玉三郎さんは自分が納得するまで、納得して動く
細かい点まで提案し、議論を重ねながら作ってゆく事など勉強になった
ぶつかりあわなければ、良いのは生まれないし、決してぶつかりあったからと言って、駄目になることは無いとおっしゃっていました
聞く耳を持ちながら、ぶつかって、ぶつかって、良い舞台を作るのがお客さんのためであると心構えをおっしゃった

発売と同時に完売となる非常に好評だった
組踊に対する考え方が大きく変わってきたと思う
継承と創造が両輪のように出来ていければなと、考えています


















 





















2013年6月22日土曜日

小田兼敏(販売会社会長71歳)   ・世界中で安全な水が飲めるように

小田兼敏(水質浄化剤開発販売会社会長71歳)     世界中で安全な水が飲めるように
世界の開発途上国では日本では考えられない様な、汚れた河川の水が飲料水や、料理に使われています
小田さんは、そうした地域に自ら乗り込み、自身が開発した水質浄化剤を使った安全な水の提供に取り組んでいます
世界中の貧困層に、安心して飲めるような水の提供を図るとともに、水事業によって貧困層への雇用の創出も目指している小田さんに、その思いと将来への展望を伺います

もともとは水の浄化とは関係ない会社に勤めていた  大学は工学部 専門は自動制御
当時、オートメーションと言って能率を上げる盛んな時期だった 非常に大事な学問だった
自動制御にかかわる会社に就職したが、15年勤めて、独立する
当時は自動制御に関する事は、先輩には知っている人がいなくて、私自身が或る意味で天狗になっていたものと思う
それでは自分でやろうと独立をすることにした   自動制御にかかわる仕事
ラインの自動化などの事で、いろいろな会社の顧問を引き受けていた
その間に、光電マークを発明 印刷位置をずらさない様に光で見て、それからカットする位置を自動調整する装置  (特許を取らなかった 当時特許とるのに7~8年かかるし、お金もかかった)
そのうちいい機械が出来てそのような事は必要亡くなるだろうと思っていて、自分の技術を重要視していなかった 今は世界中で使われている

オートドアーロックの仕組みも発明した  符号合わせのキー (これも特許取って無い)
ある弱電メーカーと共同で、発売のところまで来たが、消防法とかで問題があり発売できなかった
その会社のオーナーから、小田さん、10年はやい商品ですねと言われた
水の浄化への転換は?  発明は専門家ではないとできないというわけではないと思う
阪神大震災で、神戸に住んでいて、池があるが汚い水 飲料水は並んでいたら、自衛隊で給水を受けた
頭洗ったり、体拭いたり、食器を洗ったりするかなりの量の水がいる 困った
池の水を綺麗にできたらと思って、持ち前の好奇心で、これを作ってみようという事で取り組んだ

濾過することが必要、京都大学 40年ほど前の文献で 納豆のねばねば成分 (ポリグルタミン酸
が凄い保湿性がある 質量の5000倍の水を抱き込む力がある
これを利用すれば、水質浄化ができるのではないかという文章を思い出して、それを一度実験して見ようと思った  それがでだしです
3gで15万円 買って実験した  いきなり反応があった それからが苦労の始まりだった
後でわかった事だが、水に質 薬剤の量が非常に難しい 
これがいきなり反応 出るというのは万分の1の可能性もない(後で神がかり的なものを感じた)
当時はこんなものかと思ったが、他でやっても駄目だった
一度反応出たものは必ず何かあるものだと思って、いろいろ組み合わせたものを作って、やっていて、ようやく今のものができ上った

ねばねば成分は、納豆菌が自分の身を守るためと、生きてゆくために、作りだしているもの
これを水質浄化に役立てようと、工業化するのは大変なこと、6年ぐらい苦労する 
ひと儲けしたいと思って、道頓堀に、売り込んでやろうとしたが 幅が22m、深さが3.5m、長さが1.5km これを大阪府に1500万円 原価でいいから 3日間で透明にするからと言ったが、返事さえくれなかった  行政は新しい技術に飛びつかない(最近は少し変わりだしてはいるが)
見向きもしない   タイでスマトラ沖地震があった 2004年 
タイ政府から要請があった 是非救援してほしいといわれて行った
ヨーロッパの大型浄水器が据え付けられていたが、埃をかぶっていた
据え付けて帰ってしまったら、現地の人は操作できない  
浸透膜を使ったいいもので数千万円する装置 

私の装置は行って、30分したら、バケツ、ドラム缶とかの水がみんなきれいになる  
それで大喜びしてくれて、1週間滞在して、帰ったら、しばらくしたら、また来てくれと言うのでまた行った
ポリグルハウスと書いた小屋を作って、日章旗とタイ国旗がひるがえっていた
それを見て私もジーンときて、自分のやるのはこういうところなのかなと、日本では冷たくされていたので   次にメキシコ原住民の困っている地域へも行く(ボランティア)
次にツドルというサイクロンがベンガル湾にあって、国際ライオンズクラブから、TVでみて、100kg送ってくれと言われた  1kgで10トンの水を綺麗にする 100kg 1000トン 無償で送ってくれと言ったので無償で送った (原価で6~7万円)  
あれは非常に役にたったので、今度は有償にするので、すぐに300kg送ってくれと言われる

魔法の薬剤だとは思われては困る  農薬、毒物は綺麗にはできないので、飲み水に使うのであれば、最低限、原水は生き物がいる水を使うように注意を喚起している
正しく使われているかどうか、心配なので、バングラディッシュへ直に、見に行く
3000人亡くなる悲惨な状況だった  行ったら、神様扱いだった
サイクロンの時以外でも、常時汚い水を飲んでいるのでぜひ欲しいといわれる
値段を行ったら、それならば買えるといわれる  
村長が是非日本人の手でやってほしいといわれる  最初いった値段から変えていない
1000リットル綺麗にするのに、現地まで薬剤を送って100円かかっていない

薬剤を売ることは簡単には出来ない  最初は潜りでやっていた(使わしてやりたいとの思い)
その後説明販売員の組織を作って、始めた
或るときに、経済産業省の課長が会いたいという事で、あったら、いきなり 小田さんがやられているのはまさに BOPビジネスですと言われた
base of the pyramid  底辺部にいる人たちが40億人いる この人たちに対するビジネスを数年前から欧米では進めている  日本ではまだ一つもない 小田さんがやってるのはまさにそうだと
我が国の経済復活させるのには、40億人市場を開拓するしかないと思っている
大企業にいっても、そこが経済力がついてから、進出しようという意見ばかり言う
それからでは遅すぎる、だから是非自分たちの計画している事に協力してほしいと頼まれた

貧乏会社に国が助成してくれた バングラディッシュの政府が積極的に許認可をしてくれる様になった
それ以後海外 年間30ぐらいの国に行っている  
ソマリア 去年の12月に行った(民間人としては21年ぶり 日本政府としても21年ぶりに援助する)
18か所の給水所を設ける  1ヶ所30トンを作る装置
大手の製薬会社に委託生産している  計量と混合技術はほかの国にはなかなかできない
ようやく売れ出して、いけるような感じになった
日本の社会でもポリグルを使うようになった(工場排水等) 自動車会社のアメリカ工場での排水処理に使ったところ好評であったので、逆に日本で使って見るように逆提案があった

水の分野は幅広くて、産業排水、飲料水、それぞれの国々  
バングラディッシュはバングラディッシュの人が社長になって、独立した会社になっている
日本でもいろんなものに使われる 産業廃棄物をやっているところとか、それもそれぞれ独立した会社にしようとしている
自分の装置に全て日の丸を付けているので、愛国心も出てきて、この国の発展の為には、企業家を育てないといけないと思っている
若い人にその気にさせないといけないと思っていて、常に社長を目指せと言っている
企業家が増えれば増えるほど、国はよくなってゆく わが国だけでななくて、途上国もそうだと思っている
 
企業家を育てたい 大企業では出来ないと思うので
ボランティアでは絶対解決できない 永遠にはやれない 
金のやり取りは必要 いやっというほど経験した  
頑張れば頑張るほど利益が出る(ウィン、ウィンの関係)
今後? 自分では大変だとは思っていない 登山家と同じだと思っている
一つの目標を征服したら、やっぱり次を挑戦したくなる  やっているのが楽しい
水を武器にして、きっかけで社会を変えれるものなら、変えてゆきたい、みんなの貧困をなくしたい  
貧困をなくしたいというのが、最大の目標だと思っている




















2013年6月21日金曜日

米沢冨美子(物理学者)      ・人生はいつでもチャレンジ 2

米沢冨美子(物理学者・慶應義塾大学名誉教授) 人生はいつでもチャレンジ 2
日本物理学会は2万人の会員がいる  100年の歴史があるが、女性が会長になった事は無く会員の3%  500人ぐらいなんです
直接選挙で選ばれたので、立候補したのではなくて、推薦も勝手にされて、自分も候補者になっているのも知らなかった  
選ばれて、どうしてだろうと思っていた
或る時アメリカで国際学会があり、女性が会長になるというのは、アメリカでも100年の歴史の中でも、2人ぐらいしかいない 
日本は女性が会長になったんだってね、凄いじゃないかとアメリカ人の物理学者の人が言ったら
それを聞いた日本人の物理学者の人が 「え、女 誰 とか言って 米沢なったんでしょうと言ったら米沢は女だったね」と そういう感じだった  
じゃあ なんだと思っていたのかとの問いに 科学者だと思っていたと答えて、男、女の前に科学者であるとの認識に嬉しかった

会長就任の翌年に、「金属、非金属転移の新機構」という新たな論文
私の人生の中で、年に5本の新しい論文を書いてきて、200数十偏の論文を書いたのですが、その中で一番大きなものをあげなさいと言われたら、不規則系に対する理論と 金属から非金属(絶縁体、半導体)に移る条件が変わったら(温度、圧力の条件) どういう風にうつるか、のメカニズムがいくつかあって、今まで知られていなかった新しいメカニズムを理論的に発見した
後で他の人が実験をして、裏付けられた

発見 或る日 突然降ってわいたように出来るものではなくて、毎日毎日 毎日毎日 積み重ねて、考えに、考えた末に 或る時、ふっと、半分起きているようなときとか、風呂に入っているときとか、リラックスしているときに、思い浮かぶことが多い
ちいさな発見がいくつもあって、時によって大きな発見があるような感じ
発見の喜びがしばらく有って、これをどうやって論文に書こうかと、思いが来る
恩師に言われたが、研究は 実際に研究している時だけが研究ではなくて、全ての時間とエネルギーを3分割して、最初の1/3はどういうテーマで研究をするかを探しなさい  テーマを選んだ段階で勝負がついてきてしまう  次の1/3で実際に研究して、最後の1/3でどのようにこれを世に知らせるか、どのように論文を書くかが大事だと 言われた

2005年 ロレアルユネスコ女性科学賞 授賞式で女性と科学に関して話をする
この賞は女性科学者のノーベル賞と言われていて、ユネスコの事業 本部がパリにあり、パリに行って賞をいただく ここで受賞する
科学は直感と忍耐が必要 その席で生物学的に女性の方が科学の方に向いているといった
みんなが凄い喜んで大喝采でした  (実際には性差はない)
日本はあらゆる分野で女性の社会参加、社会進出が遅れていると思います
世界中で、100数十カ国あるが、下から数えて10番以内にはいっているのが日本なんですね
国会議員とか、地方自治体の議員とか  リーダーになる人が少ない

ながい時間(何百年 何千年)をかけてきた構図だとすると、一朝一夕には変えられない
何百年かかるかもしれないが、その方向に持ってゆくように、少しでもと考えています
輝ける星がいると、そういう風に向かっていくことができる
米沢賞が2010年、吹田市の市長が発案されて、市内の小学校、中学校に自由研究を出して、9月に米沢賞、市長賞、教育委員会賞を選ぶ事になる
第一回、第二回も400件ぐらいの応募があった 大賞を選んだが、第一回も第二回も小学6年生の女子だった  第三回、昨年は小学5年生の女子だった

研究成果を見ると親のサポートがあるとわかるが、そのサポートをしているのがお母さんです
それが嬉しかった 
親は大事 そういう親は理系に子供が進むことに対して、寛容であるように思う
母親の介護にかなりの時間を占めている 母親は95歳 介護は7年目に入る
私にとっては遠距離介護   要介護5なので 24時間誰かが付いていないと、いけないという状況なんですが、母自体が凄い意気健康で 寝ている状態から、座る状態に手を借りないと自分で座れないが、30分、1時間座って 新聞を端から端まで全部読む、口も達者ですし

母が5歳の時から住んでいるうちなので、ここから出てはいかない
母の介護は、将来の自分を見ているような気がするし、人間の生きるという事、死ぬという事を毎日突きつけられているような、生命力と言うようなものを、かえって母から学んでいる様な面がある
とても厳しい作業ですが、今世の中を見てみると、親の介護、配偶者の介護、兄弟の介護をしている人がたくさんいる  
そういう話を聞きながら自分一人ではないのだと思う事もとても心強い
人生はチャレンジだと思う 
育児、研究の両立もなんだ、と思ってやってきたので、だから介護と研究の両立ぐらいなんなのさ、と言う風に自分で思っている
そう思えば生きて行く上で、平坦な人生なんて退屈じゃないですか、いろんな事があってそれをチャレンジしながら、生きていくというのが面白いわけで、私にとって今一番大きなチャレンジの一つと思って、チャレンジしています(新しいプロジェクトだと思っている)

時間的な制約はある 自分自身が高齢になってきているので、残された時間と私自身がやりたいことを較べると、1分、1秒が大事だと思います
自分自身の体力を保つことも大事 食べ物に注意したり、太極拳、ウオーキングしたりしている
生きるモットー 
①自分の可能性に限界を引かない  
②まず行動に移す  
③見切り発車すると壁にぶつかるが、そこでめげないで新しい道を探す  
④限られた時間なので優先順位を付ける
⑤集中力を養う

映画、コンサートよりも、なによりも研究をして、新しいことを発見するその喜びに勝るものは無い  70何年、一番やりたいことしかしてこなかった
ネガティブに考えることが欠落していると思う 
前向きにしか見ない、それが効率がいいような気がする
「金属、非金属転移の新機構」は本に昨年、しっかりした専門書にすることができた
「不規則系の新理論」の本を書いている 今年中に仕上げたいと思う
日本語だけにはとどめたいとは思わないので、世界的読んでもらうために、英語の本を出版する計画中です
今日私があるのは、父が戦死したあと、一人で働きながら育ててくれて、大学まで行かせてもらったので、母を世界一幸せなお母さんにしてあげたい それが私自身の喜びでもあるわけです


























2013年6月20日木曜日

米沢冨美子(物理学者)     ・人生はいつでもチャレンジ

米沢冨美子(物理学者・慶應義塾大学名誉教授) 人生はいつでもチャレンジ
昭和13年大阪生まれ 理論物理学者で、特に不規則系の研究で世界的に知られている
1996年に女性で初めて日本物理学会の会長になりました
研究と同時に、3人の娘さんの子育て、夫の米沢允晴さんの看取り、お母さんの介護など幾多の経験をなさっていらっしゃいます
苦労と言う言葉が大嫌い 、人生は常に前向きと言う米沢さんに伺います

物理は物のことわりを解き明かす学問    物 森羅万象、宇宙に存在する一切の物
ニュートン力学でいうと、天体はどう動いているとか、日食がいつ起きるのかとか、地上のさまざまな落下運動とか、放物線運動とか、皆さん中学、高校で勉強されたと思います
古典力学、量子力学がある  半導体が20世紀における産業革命を起こしたもの
電子情報技術も元は物理 
生命も元をただせば、一番基本的なものは物理の言葉で解明できる

1938年生まれで小さいころから数学が好きだった 母が数学が好きだったが、時代が許さなかったので、進学が出来なかった
5歳の時に三角形の内角の和は2直角であることを、母から教えてもらって、それが分かって、感動して、それから母から教えてほしいとせがんだ(証明の仕方を教えてもらった  証明の仕方に感動した)
中学の時に出会った数学の先生も、才能を持っていると判って、中学の間に高校の数学を全部教えてもらったり、微分、積分とか随分先まで勉強していた
京都大学に入学、理学部に入る 3年になるときに、湯川秀樹先生の湯川効果で目覚めて物理を選んだ(ノーベル賞をもらった後)

当時理学部 120人の中で4人いた クラス分けした後で50人のクラスで紅一点
男子と話をするような状況にはなかった(向こうからは話しかけてこないし、こっちから話そうとすると逃げてしまう)  情報を得られなかった(来週どんな講義があるかとか、いつ試験があるのかとか、どんな本を読めばいいかとか)
湯川先生に聞けばいいと思って、アポを取ってもらって、会議の間の5分間に会ってもらって、話をした それから助教授を紹介してもらった(情報を得られるようになる)
物理 こんな面白いのは無いと思った  理論では数学の世界 数学をフルに生かせた
大学時代に允晴さんと出会う (経済学部)  エスペラント部で出会う
エスペラント語は政治の世界から離れて、そこに憧れた

つきあってすぐに、結婚の約束をする 最初は、物理は片手間にはできそうにない 
家庭も大変で 結婚は断ろうと思っていたが、物理と僕の奥さんと両方取ることをどうして考えないのだといわれて、目からうろこでした  
人生これか、あれかではなくて、これも、あれもという人生が可能なのだという事が分かって、それ以来、私はあれも、これも全部取って、暮らしてきた
大学院に進む、その時に結婚する
允晴さんは証券マンとなる  
社員を留学生派遣する方針ができて  夫は一番になって、ロンドン大学に1年間留学する
私もイギリスの学長(30校)に手紙を出した  2つの大学から返事が来た
キール大学 授業料免除 食費、寮費免除 多少のおこずかいも貰えるという条件
夫が行ってから3ヵ月後にイギリス、ロンドンに行くことになる

取りえは 行動力だと思う   3人の子供を出産する  
ある年までは大変だが、それを過ぎると子供同士で遊んだりするので、それほどの大変さは無かった(パートタイマーで頼んだりもした)
京都大学の基礎物理研究所(湯川教授)の助手となる  夫も京都に来てくれることになる
研究も時間を決めて、終わりと言う事ではないので、睡眠時間を削った(一日4時間ぐらい)
今でも睡眠不足で仕事をしてるので、何が一番欲しいかと言われれば、ぐっすり眠りたいと答えている

忙しい中(長女が1歳、次女がお腹にいるころ)、不規則系の新理論を発表する
家事も全てやる事にしていた(夫は何もやらなかった)  パートタイマーの利用もしたりもした
允晴さんが強い剣幕で、「君が勉強している姿を最近見なくなった 怠けているんじゃないか」 と言われてそれなら手伝ってくださいと言おうと思ったが、それは彼なりの激励の言葉であって、それを言ってもらわなかったら、多分私は、育児の忙しさ、つらさに負けて、研究はおろそかになったと思う
意地で机にかじりついて、不規則系の新理論にたどり着いた
子供が3人になってからニューヨークに行く事になる(研究のため)
世界的に認められるようになり、世界で勝負したいと思った(夫もニューヨークで仕事を希望)

京都大学5年間助教授 その後慶応義塾大学に教授として迎えられる
子供たちには直接、教えた事があるが 一番力を入れたのは、英語と水泳 
夫が60歳の時に亡くなる  
自分では気がつかなかったが、夫がいなくなったのは大きな影響をを与えた  
大学院時代から年に平均5本の論文を書いていた 唯書けばいいというものではなく、オリジナルでなくてはいけないし、ちゃんとした科学雑誌に投稿して、レフリーがいてそれを通らないといけない、凄くハイピッチで、それを出産したときも、育児の時も、ずーっとコンスタントに続けてきたが、夫が他界した1年は論文は一つも書けなかった(その時は気がつかなかった)
後で整理して判った

別れの時に、最後10時間以上意識が戻らなかったときに、夫にずーっと支えてもらったお礼を言ってなかったことに、気がついて、夫の耳に「マーちゃん ありがとう ずーっとマーちゃんが支えてくれたから、私はやってこられたんだよ」と 言った  聞こえないと思ったが
10時間 ぐらい手をにぎっても反応しなかった人が、目を開けて、寝たまま手を動かして、私を自分の胸に引きよせて、抱き寄せてくれたんです
物凄く、凄い嬉しかったですね  その話をするたびに涙が出てしまう
奇跡が起こったような別れがあったので、その後の1年間は私は何にも考えられなかった
見かねて周りが、授業とかも代わってくれたりした

2年経ってから 200人ぐらいいるある会議の席で、2年前は夫のこともあったしと言うようなことを、ちらっと言ったら、とたんに聴衆の前で涙が出ちゃって、声が涙声になって、聴衆がシーンとして、凍りついちゃったりとかあって、思いだすたびに涙いっぱいになりますね
17年になるが、週に2,3回夢に出てくる  (はっきりした形で出てくる)
私の心の中に夫が生きている
(一人で生きている感じはしなくて、身体は一つだが、二人で生きている  二人の人間が一つの体の中で生きていると言うような感じがする)
























2013年6月19日水曜日

林聖子(バー経営者)       ・太宰治を想う

林聖子(風紋・バー経営者)          ・太宰治を想う
6/19 桜桃忌 作家太宰治が昭和23年に三鷹の玉川上水で入水し、遺体が発見された日です
新宿で52年間にわたってバーを経営している、林聖子さんは85歳 その林さん お母さんが太宰の知り合いで、近所に住んでいたことから太宰と親交がありました
太宰の短編小説 メリークリスマスで林さんは小説の中のヒロインのモデルにもなっています
今では太宰を直接知る人は、数少なくなってきました 
太宰治と林聖子さん どんな交流があって、太宰はどんな人だったのでしょうか
又文壇バーと呼ばれ、多くの作家や出版関係者が集まるお店の経営者として、どのように生きてこられたのでしょうか

新宿5丁目のビルの地下の一階にある林聖子さんのバーに伺っています
お母さんの富子さんが太宰と知り合いだった  母が父と離婚した後に、新宿のバーに勤めだして、そこは作家の方がお見えで、そこで太宰さんと最初にお会いしたのが、初めなんです
そのころは父の方に一緒に住んでいた  母のところに泊りがけで行っていたが、太宰さんも時々ご一緒されました
母は絵描き志望で絵を描いていた 太宰さんの似顔絵を描いていた
遮断機のところで、太宰さんに出会ったことがある 母の家でビールを飲みながら、楽しい話をしていた(父は絵描きだったので、タイプが違うと思った)

タバコを持っている手が綺麗だなあと思った 小学校を上がる前だったような気がする
昭和20年に母が焼きだされて、母の実家のある岡山県の津山に疎開する
ちょうどそのころに太宰さんも三鷹で、焼かれて、甲府の方に罹災された  青森に帰る
2通手紙が来る (おかあさんも聖子ちゃんも二人とも無事でよかったね と言うような内容)
昭和20年暮れになってから私たちは知り合いの紹介で、三鷹の社宅の一角にやっと帰れた
太宰さんも三鷹に戻ってきた(昭和21年)

駅のそばの本屋で本を探していたら、レジに聞きに行こうかと思ったら、そこに太宰さんがいて、本当に偶然本屋さんでお会いした(2年ぐらいはあっていなかった)
私の方は大分大きくなっていたので判らないのかなと思ったら、太宰さんが気がついてくださって「聖子ちゃんか」と声をかけてくれた 母が家にいるので、そのまま太宰さんを我が家に案内した
それがメリークリスマスの本屋さんから家に行くまでの会話がそのまんま書かれている
メリークリスマスは太宰の短編小説で、青森に疎開していた主人公が、東京に戻ってきて、ひさしぶりに知り合いの女性にあうと それがヒロインが「シズエ子」という
父が林倭衛(しずえ) 字で書くと全く男の名前だが、発音するとしずえなので太宰さんは女みたいな名前だねとおっしゃった事があった

雑誌を太宰さんが着流しの着物の懐からからポンと取り出して、クリスマスプレゼントだと言って渡してくれた  目次を見たら、メリークリスマスというところに、太宰さんの名前があり 太宰さんの前で読んだ (その時のことがしっかり再現されているので、その通りに書きながら、文章になって行くんだと思った)
太宰さんの紹介で、昭和22年出版社に私は勤めることになる
太宰さんが家にふらっと現れて、聖子ちゃん 出版社に勤めないかと言われる 
あの頃の太宰さんは 「斜陽」の前でしたので、いろんなところから原稿依頼が多くなってきた時だったので私を入れられると思ったのでしょうね

私は出版部に配属された 三鷹で近いので校正とか、原稿を頂きにいたり、した
太宰さんと以前は呼んでいたが、まずいと思って、「先生」と言ったが、ばつが悪くて、けじめをつけなくてはいけないと思った 
太宰さんが私よりもきまり悪そうな表情をしていた
昭和23年三鷹の玉川上水で女性と入水する  行方不明になったことは 野平さん 当時雑誌の担当だった人がご夫婦で家に朝早くいらっしって、なんか行方不明ときいた
母はその時になんか感じたようだったが、私は自殺なさるとか、ゆめゆめ思っていなかった
昭和22年 太宰さん自殺するんじゃないのかしらと 母が言ったことがあった

そのことが太宰さんに伝わったらしくて、太宰さんから 駅から帰る道で「聖子ちゃん 僕は死ぬんじゃないかと言ってるんだって」 という 私ではありません 母です と言えなくて
「僕は死なないよ あの子を置いては死ねないんだ」 とはっきりおっしゃった
あの子は  坊やがいらっしゃって、病気を持っている
その話を母にも言った  行方不明になった事を知らせた野平さんと 玉川上水のどてのところを歩いていた
しばらく行ったところに、ガラスのお皿と小さい瓶が二つ落ちていた
ガラスの皿は、山崎富栄さんの部屋で、いつもピーナツなどをちょっと載せたりして、酒のおつまみに使っていたものです(見覚えがあった)
じゃあこの瓶はなんなんだろう 茶色、緑色の小さい瓶だった
上水の左側を見たら、60~70cm 二本のレールを引いたように、草が倒れていて、下の土が黒々見えていた 

間違いなくここから入水したんだろうと感じた(えぐれ方が凄かった)
16日ぐらいに、筏を組んで上流をせき止めて、遺体を探す  当時毎日そこらをうろうろしていた
連絡が入り、走って井の頭に近いほう 崖の下に遺体があった 急なところを降りた
雨が降っていたので、2人にさしかけたが、むしろがかかっていて、そのうちに段々と人が集まってきて、ひとだかりがした
信じられなかった 新聞に連載されて、油に乗ってきたころで、書きたくて、書きたくて、しょうがない方だと思っていたので、太宰さん自身は死ぬ理由は無かったんじゃないんですか
前にも自殺未遂をしているが、その時はまだ結婚もしていなかったし、子供もいない時代、
しかしあの時には結婚もしていたし、子供もいたし、ドンドンと書きたいものがあった方ですから死にたくは無かったと思うんですが、前とは全然条件が違う
山崎さんは多分生真面目な方で、言われたことをその通りに取られてんじゃないですかね

私は一時期劇団にいた 新劇熱がおおくて、劇団の試験を受けに行った そこに入れた
収入がなくて食べられない 夜の仕事はご法度 研究生として通うと、夜しか働けない
食べていけなくなって断念する  新宿に自分の店を出す
どっかに働くにいっても、収入が少ないので、資本が少なくても済むところ、飲み屋もなかったとことなので、開店した  
出版関係の知り合いに連絡して、来てもらう  
作家も外に出かけていろいろ話をすることが多かった
最初は檀 一雄  かんずめになっている状態から解放されるために、気分展開に来てくださる
肉とか、ニンニク、野菜とかを茶色の袋に抱えてきて、店にガス台ひとつしかないガス台を使って、大きな鍋に牛たんを入れて、とろ火でことことと、煮る(ガス台を乗っ取られる)

2~3時間立たないとでき上らない とにかく時間がかかる 
大分してから、中上健次さんを檀さんが紹介してくれた
新宮の火祭りに中上さんに数人と共に、連れて行ってもらった
店は開店から52年になる 経営の方は上手くいってないのかもしれないが、近頃は皆さんお亡くなりになってしまって、25年の時に出した文集なんかも、半分以上の方がいらっしゃらない
寂しくなりました 
長男が一緒にやってくれている  私より皆さん必ず歳が下ですから、こうやって動ける間は、来て、皆さんの話を聞いたりしているのが楽しいので、毎日来ている











   
























2013年6月18日火曜日

村松謙一(弁護士)        ・会社をよみがえらせることが私の使命

村松謙一(弁護士)    会社をよみがえらせることが私の使命
村松さんは30年間、中小企業を助け、再建している弁護士です
彼の事務所は日本各地から訪れる相談者のために、交通の便が良い東京駅近くのビルの中にあります
訪れる人の中には衣類を質屋に入れて旅費を作ったり、片道切符で来るなど、その窮乏ぶりがうかがえると村松さんはいいます
そうした中小企業の経営を後押ししてきた、中小企業金融円滑化法を国は2009年末から運用してきましたが、この3月31日で終了しました
その結果アベノミクスの中でこれから困窮する中小企業が、30万~40万社に上るのではないかと危惧されています
村松さんは会社再建のために、中小企業の社長や銀行の人と交渉を重ねてきますが、その交渉の時に熱が入ってくると、膝やテーブルを叩きながら、リズムを取って、話します
今回もそんな場面がありました

円滑化法が3月31日で終わって劇的に変わったかと言うとそうではない
中小企業がとても資金繰りが大変だと、特に中小企業にとっては金繰りが命、です
その資金繰りの中で、金融機関への返済が重たいと、沢山払っている 
それをちょっと待ってよと言う事で、金融機関に対する返済を待って待ってほしいとお願いをした場合に、金融機関はそれは待てんと、すぐ払えと言ってはいけないと、少し待ってあげることを見てあげなさいと、そういう意味では円滑化法で、支払いが少し伸びるという話を銀行も了解しなければいけないと、いう話の法律を作って、でも延長延長と言う事できていたが、3月31日に終わってしまいました

倒産の危険にさらされるかも知れない 日本には中小企業が420万社ある 99.7%  
0.3%が大企業ですね  
中小企業がほとんど日本の経済を支えていると言っても過言ではない
ただその中で円滑化法で助けてくれと、支払いを待ってほしいという方々が、30万社、とも40万社とも言われている  約1割に相当する
九州から北海道まで助けてほしいという声があがっている
365日、西に行ったり、東に行ったりしています
弁護士 裁判所での仕事が大半だと思います  
私のように地方に行って金融機関に頭を下げて、なんとか会社を助けてくださいというような弁護士は数は本当に少ないと思います
全国に弁護士が1万5000人いるといわれるが、100人いるか、50人いるかいないかだと思います

専門的に企業を再建するために、弁護士が関与するという事を私のポリシーに中に、私の使命に入れているという事でしょうね
もともと、学生のころは体を使っている方だった、法学部にいたので、弱者の救済ができればいいかなと思って、弁護士の道を目指す  
司法試験と言う非常に厳しい 100人に1、2人受かるかどうか大変だったが、それを何とか乗り越えて合格した
どんな弁護士になろうかなと思っているときに、事務所の師匠である、清水直先生が書いた [臨床倒産法]と言う本に出会って、これを読んで、本当に涙して、企業を助けることが、かくも過酷で意義のある事で、これだなと思いました

生活が守れて、人生が守れて、命が救われるかもしれない、と思った
小さいころから、正義感は強かったほうだと思う
私は清水に育ちました(清水次郎長のところ)
慶応大学時代に身体を壊して、挫折を味わって、野球一筋から、勉強一筋に集中する
清水先生の人間性を学ばせていただいて、中小企業の方々には弁護士と言う支えがないとやっぱり心が折れてしまうというのを真近に見て、これだという事で、ずーっと清水先生のもとで勉強してきた  
それが素地、土台だと思った (小さいころから次郎長伝 を聞いてきた)

幕末も薩長が強くなってきて、江戸幕府が劣勢になってきて、戦ったときに江戸幕府の人たちがみんな死んじゃった
そうすると駿河湾に大きく死体が浮かんだ
その時に死体を手をつけてはいけないと、言う事で誰も手を出せなかった
それを次郎長さんは、そんなのを放っておくのは人間かと、言う事で、俺は縛られてもいいからという事で、みんなに引き揚げさせて、そこでお墓に埋葬させたという話を聞いて、それは強いものに逆らうよりも、人間としてやるべきこと、正しい事 それを人間として正しい道は何かこれが一つの道徳でもある 
人情を持つものが人間として一番正しいのではないかと思った

今年弁護士として30年になる 救済は100、200社ではきかない
中小企業はお金が無い でも約束は守らなくてはいけない  
適正な借り入れは、売り上げが背丈とすると、その半分が適正な借り入れだと思うが、身長をはるかに超える借り入れをしてしまう
出ていくお金を少なくしてしまうか、全く止めてしまう
これをバンドエイド効果という 出血を止める  
それが活力になる それが円滑化法だった
それだけではだめで、問題はその次、ばんそうこうをはがす時期 
この2、3年 血が止まっていることに甘えてしまったのかもしれない
デフレで売り上げが少なくなってしまう 
社長と一緒に銀行に行って、返済を待ってもらう、あるいは2億、3億の負債を5000万円にカットしてもらう あるいは無しにしてもらう と言うようなお願いをする 
 
1億円を借りていると1年間で500万円かえすが、10年間で5000万円をかえしてゆくと、裁判所では5000万円払って、5000万円は無しですよという法律がある(民事再生という手法がある)
でも私はそれをやらないで、あくまで銀行と交渉しながら、解決してゆく手法を行う 
私的な民意整理 裁判所を使わない債権  それを私は第一義にやっている
銀行に行く回数が、裁判所に行く回数よりも多くなる
正直に交渉する  潰した方が得なのか、少しでも生かして沢山回収した方が得なのか、銀行さんにどれが得なのかを考えてもらう  
例えば1億円借りて、100万円ずつかえすとして 10年返済で1000万円 100年かかって1億円、どっかで限界が生じますから、会社を潰してしまうのか  会社を抜本的に治すのには債権カット 
これを我々としてもお願いする  
銀行はそうすると非常に困る でも銀行のためにもなるように考えている (これはお金の話)

会社が倒産すると地域の従業員、取引先、 仕事が無くなってしまうので、生活が困る
一つの会社が残ると言う事はいろいろ波及効果はある   
みんながちょっと犠牲を払う事で立ち直ることはいっぱいある 
ところが人間と言うものは、みんな自分さえ良ければいいというのが多い
だからそんなことは知ったことでなない、と 俺のところだけは返せ とそれをやるから倒産する
それをやらないで、みんながしょうがないなあ、みんなが平等に、しょうがないなあと言う人たちが集まると、立ち直ってくる  底力があるので
債権者の気持ちは等しからざるもの、不平等を嫌がる、平等ならいい

情報を知らない、のもいけない いくら損したか、いくら得したか 中小企業の人は隠したがる
情報を全部出してもらって、みんなで考えましょうと、そうすると良い考えが出てくるかもしれない
合意すると、上手くいくし、残念ながら足の引っ張り合いは、大変 3方1両損が得ですよ、と説明している
相談に来る人は、夜も眠れない、食事ものどが通らない (典型的な鬱状態)
話していても上の空  まず我々が付いて話を聞いてあげる 気が楽になる 
一人でいるのが一番不安ですよ  先ず眠ることから始める(睡眠導入剤とか)
まず後押しをしてあげましょうと言ってあげると明るい顔になる
いろんな体験の話をしてあげる  
あなたの会社よりも、もっと大変なこのような会社があると 話してあげる 精神的な安定を得る

社長さんと同じような心境(夜眠れなかったり、脂汗を流したり)になったことはたくさんある
関わっていた社長さんの中には、自殺されてしまった事もあるし、それが本当に弁護士としての無力感でもあるし、そういった経験もいろいろ踏まえて、弁護士をやめてしまおうかと思ったときがあったし自己嫌悪に陥る、いまでもそう思う時がある
皆さんは期待してくれているが、がんばっても結果が出せないことはある
みんなが見離したら、社長さんは死んでしまうかも知れない、そういう意味では一生懸命、努力した、努力した結果、社長としては、将来に取っては大きな宝になってくる

かばんの中には、亡くなられた社長さんの遺書、私の娘の作文が入っている
地獄を見てきた私ですから、その地獄だけは皆さんに見せたくない  
それが私の役 そういう役割もあるのかもしれない  神様が私に与えた役割かもしれない
娘は高校1年生の時に急折してしまった  
また明日ねと別れたが会えなかった 彼女も会えると思っていた 次の日に急変して、 医者の処置のミスもあったが、急変してしまった
明日が来るという事は奇跡的ですよ   素晴らしいことですよ
布団に入ったら、また翌朝がくる    
もし私が10億円でその明日が買えたらそうしますが、そういうわけにもいかない
今日一日が、 過ごせるだけでも、いろんな苦痛があって、いろんな苦しみがあるけれども幸せかもしれない   
今は絶望かもしれないが、絶望の中に必ず光は、絶対にあるんですよ

どんなことでも、自分の命を大事にしなければならない 経営者のかたにも言いたい
3万人が亡くなっているが、これも何とかしないといけない、中小企業の再生に結びつくと思う
2001年 参議院財政金融委員会に参考人に呼ばれる
中小企業がなかなか立ち直らないので、潰してしまった方がいいのではないかと言うような、意見がでたが、(グローバルなアメリカ的な発想が出てきた)  
違うのではないかと、頑張りたいと思っている人にカンフル剤を打つ、救済すべきだ と異論を唱えた
何故かというと、どんな会社にも命がついてくる  40万~の命がある 
自殺をしてしまう予備軍かもしれない(会社としても、国としても、弁護士としても守らなければ)
会社はコンクリートで出来ているものではなく、会社は赤い血が流れている人たちが、手をつなぎながら、生きている組織なんだ そこにようやく気がついて、いろんなことを今やろうとしている
銀行も3月31日で急に変わらないのも、ようやく、そういう事に気がついてくれた、と言う事もある
昔と違って銀行も違ってきた (全部が全部ではないが、相変わらず厳しい人もいる)
中小企業の社長さん、従業員の人たちは、ここは、もう一回見て見ぬふりをしない事

時代が変わってきた 昔は会社そのものを会社としか見なかった
会社再建に対しては、弁護士なんか出る幕ではない  会社は再建なんか出来っこない
駄目なものは潰れるという組織とコンクリートの世界でした 
我々はすこしずつあきらめずに30年間やってきた 
徐々に我々の言っていることも、ドンキホーテでなく、すこしずつ浸透し始めて、銀行内部にも自分で社長さんを死に追いやった方々が、たくさん出て来たことに、自責の念を持っている方が出てきたり、銀行をやめられて、会社を助ける側に回る人がでてきて、会社と言うものは命にかかわるものだと、社長さんは死ぬかもしれないという、救済をしなければいけないと、命の救済なんだと少しずつ変わってきて、政府もようやく気がついて、会社を助けるという事は、経済を助けるという上っ面ではなくて、命を助けるんだという風にシフトしてきた

そこまで言えるのは弁護士しかいない  (人権、ですし、社会正義なので)
みんな会社が立ち直ってくれるのが一番大事  雇用を確保
一つの会社を作るのに、10年、20年かかる、お金も何億もかかるが、会社を潰すのはたった1日で潰せる  そういう意味ではもったいない
企業救済 会社救済に対してもう少し理解してもらう
新しい会社を作るのは大変、むしろ今の会社を残すことの方がむしろ容易いかもしれない
経営者の方が今は、甘えているかも知れない、甘えるのはよくない、30年前の方が経営者の方は、身を律していたというのはありますね































































2013年6月17日月曜日

遠藤功(早稲田大学ビジネススクール教授) ・パソコン社会を見直そう

遠藤功(早稲田大学ビジネススクール教授)   パソコン社会を見直そう
パソコンは今や車と同じように、私たちの生活になくてはならないものです
しかしパソコンを上手く使うのではなく、パソコンに使われてしまっているとの反省の声が、上がっています
早稲田大学ビジネススクール教授の遠藤さんは、このままではパソコンに頼りすぎ、人と人との思考回路が止まってしまう恐れがある、一度パソコンから離れて、アナログの世界をさまよったらどうかと、IT断食という言葉を提唱しています
ITは道具だという遠藤教授にお話を聞きます

IT中毒 IT情報技術 と言われているが、ITの便利さに、あまりにも人間が毒されてしまって、中毒症状を起こしているのではないかと、いう風に見られる事象が社会のいろんなところで、感じる
ICT(information communication technology)ともいわれるようになった 
情報通信技術非常に便利ではあるが、社会に大きな影響を与えている 負の部分が相当大きくなっている
負の部分に目を向けてもっともっと賢く、IT、ICTを使っていく必要がある
企業、通勤、 ほとんど新聞紙を読んでいる人はいなくて、特に若い人はスマートホン、見ている
多くの方はゲームをやっている ITに時間を奪われてしまっているのではないか
本当にかしこく使って、仕事の質、チームワーク、 が良くなったり、良い商品が生まれたりするのに、活かされているかと言うと、実はそうではないケースがたくさんある

みんな机に座って、オフィスはシーンとしている  インターネットの検索、メール、資料製作をしている事に忙殺されている 
コミュニケーションの向上、みんなで突っ込んだ会議、みんなで知恵を出して新しいものを作ろうとするよりも、一人ひとりがパソコンに向かって、パソコンの中で閉じてしまって、仕事をしてしまっている事がおおくの会社で見られる     
上手に使いこなせていない状況
ITを過剰に摂取してしまい、ITメタボになってしまって、中毒症状になってしまっている
見直さなくてはいけない時期に来ている
1940年代に最初のコンピューターが出てきて、パソコンの普及が1970年代 2000年にインターネットが登場  ITからICTに変わってきた

10年ちょっとしかたっていない 技術が進歩して ICTの恩恵を受けるようになった
情報処理 一人1台パソコンになって、便利になってよりパワフルになった
どう賢く使うのかと言うのに、人間が追い付いていない マイナスの方が色濃く出てしまっている
IT断食 ITを断つ  離れる時間を意図的に作らない事には、健全なアナログ時間が奪われてしまっている
基本的に人間はアナログな存在なわけです  喜怒哀楽 理不尽がある
アナログにしかできないことを、もう一回見直す必要がある
デジタルはアナログの代替えにはならない 
学生に調べろというと、インターネットで検索する  調べることと、検索は違う
実際に会社に訪問して、むこうの人に直接会って、話を聞いたり、インターネットにはない今起きていることを聞いたり、将来の事とかを聞いてくることが私にとって、調べる事ですが、学生は検索がイコール調べること

初期情報は便利ですぐ手に入る それをベースとしての情報として、 それを受けた上で、自分の足を使って、現地に赴いて、ひとにあって、自分の目で見て、自分の耳で聞いて、自分で感じるという事がじつは根幹の重要な事だと思う
それがあくまでも主であって、パソコン、インターネットは従に過ぎない
今は主と従が、入れ替わってしまっている怖さがあると思う
質が劣化している 検索すると或る意味でみんな同じ情報に行きついてしまう
そうするとそこから出てくる考えは同質的なものになってしまいがち
自分で取材をして、自分で話を聞けば、そこで感じること、聞いたことは自分なりの解釈をして、考えて、自分なりの意見を持つことができる 個性を生かすことにつながるが、デジタルの世界と言うのは非常に便利なようで、同質化する傾向にある

リアリズムを大切にしないといけないと思う
間接情報、二次情報に依存していて、さも判ったような気になるんだけれども、本当に判ったのか、と言う怖さがある  現実の世界を見る、直接経験する 直接経験に勝るものは無い
手間暇、時間はかかるかもしれないがリアリズムを経験する、そうすると或る意味で仕事の質を担保する
情報と言うものと、事実は違いう訳ですね  情報は間違いがあるかもしれないし、過去は正しかったかもしれないが、今は違うかも知れない  インターネットの情報はすべて事実ではない
事実は自分の目で確かめて、自分の耳で聞いて、目の前で起きていることをちゃんと把握する
という、事実と言うものをベースとして話をしてゆくとう事が、歪んできてしまうおそれがある
そういったことが質への影響が否めない事実でしょうね

企業 みんなインターネットで情報を集めて、非常に綺麗なプレゼンテーション用資料、報告書を作ったり、すごく便利になった 
正直中味を見ると、表面的でうわっついた資料 見た目には非常に綺麗  
資料の作成に膨大な時間をかける 
中身よりも、見てくれの方を、修正加工ができるので、さももっともらしくお化粧ができる
お化粧に時間をかけて、さも仕事をしたような気になってしまう これが企業にとって見ては問題

いろんな壁にぶち当ったり、失敗をして、それをみんなで協力しあいながら、知恵を出して乗り越えてゆく、まさにアナログ  そういう事によって企業の競争力が高まってゆく
大手食品メーカーがIT断食を全社的に取り組もうとやっている
極端なIT依存が進んでITが主役に置き換わってしまった  コミュニケーションの基本は人と人が直接 交わす フェース ツー フェース である事はどんなに進化しようと変わらない
 
1週間の中でITから離れる時間を作りなさい と言う事を進めている
3時間、パソコンを閉じる  
ITでは出来ないことをその時間を費やしなさい と言っている
若い世代 20代  アナログとは何かを判らない  
若い人には体験することによって認識させる
IT関連会社 研修を担当する 20人対象   何故業績が悪いか、最初の場面で判った
常にパソコンをあけて、聞いている  
他社事例の話をするとすぐにその会社の検索を始める
先ずは私の話に専念してもらって、聞いて理解してもらい、考えてもらいたいわけですが、彼らはパソコンを叩いている  
パソコンを閉じてくれといった  彼らにとって、不満だった
みんなで違う意見を戦わせて、議論を深めてゆく、違う考え方があるんだという事を体験することによって人間の器が広がってゆくものと思う

パソコンは便利かもしれないけれど、パソコンというものとは違うところで、自分を鍛える事が出来なくなってしまっているのだと思う  パソコンに使われてしまっている
機械は文明の利器ではあるが、決して人間がいなくて全てをコントロールできるわけではない
ITを使いこなす知恵がまだ足りないのが今の状況だと思う
文明の利器はプラスもあればマイナスもある  
自動車の場合は時間をかけながら、進んできているが、ITの場合は折り合いが付いていない時期だと思う

経営者自身が認識する必要があると思う
ITの断食を一番最初に始めたのは、アメリカのある大手の半導体の会社だった
ITの怖さを一番よく知っている 使い方を間違えると人間の良さが失われてゆくことを、彼ら自身が一番わかっていて、或る一週間の時間をパソコンを閉じましょう、みんなで話しましょうと始めた
使いこなす為の知恵をいかに提供してゆくか、講習、研修があってもいいのかもしれない
住宅会社は植林して取り組みをしているが、ITなんかも、そういうようなやり方があるのかもしれない
一人一台、インターネットの普及 この二つによって、急速に変化した
便利になると手抜きになる  めんどくさいから手を抜く これが大半
めんどくさい 事に直面した時に、人間の行動が試されると思うんですよ めんどくさいからやらないが大半  
めんどくさいからやるんだと、いう風なことによって、初めて周りの人とは変わっていけるんで、めんどくさいことは非常に重要な分岐点ですね
昔はめんどくさいことが当たり前、今はめんどくさい事を避けるようになった
めんどくさいことに挑戦することが、かっこいいし、他の人とはたぶん違う価値を見出すことにつながってくると思います
ドロドロになって頑張るとか、一心不乱になって頑張るとか、最前線に行って自分で情報を取ってくるとか、一見かっこ悪いと思われていること、そういう事に価値があると思う

アナログ的なものが、今後ますます価値が高まってくると思います
現場は全てアナログ インターネットにないことを教えてくれる  
わざわざ行くことに価値がある
1万の情報よりもたった一つの事実の方が価値があると思う
自分の得た事実に依って考えることが大事   受け売りは情報ではあって、事実ではない
アナログが主 アナログすなわち人間 人間が主になってデジタルは補完的なもの、道具























































2013年6月16日日曜日

夏苅郁子(児童精神科医59歳)  ・統合症の母との歩み(再放送)

夏苅郁子(児童精神科医59歳)     ・統合症の母との歩み(再放送)
興味のある方は2013・2・22 ご覧ください
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2013/02/59.html

2013年6月15日土曜日

村主康瑞さん(僧侶62歳)     ・サボテンに学んだ命と仏道

村主 康瑞(僧侶・大学長62歳)     サボテンに学んだ命と仏道
兵庫県宝塚市にある中山寺は真言宗の寺で西国33所の第24番札所として知られ、各地から参拝者が訪れます
戌の日には安産を願う夫婦や、生まれて間もない赤ちゃんを抱いた、多くの家族連れがやってきます
この寺の長老 村主康瑞さん(62歳)は50年以上にわたって、様々な種類のサボテンを育てています
その数は300株にものぼります  サボテンを通じて、生と死を見つめること、そして仏の道を教えられたことを伺いました  22年から種智院大学長を務めています

サボテンを訪ねて、メキシコに行く サボテンを見ての発見は 感動した 生きているという この条件の中で命をつないでいるという事に非常に感動した
巧みに限られた自然、地域の中で懸命に生きているというところに大きな感動を受けた
残念ながら、日本で現在育てられているサボテンは種子によって育てられている、いわば温室育ち、ワイルドではなくて、メタボなんです
今現在日本で作っているサボテンをむこうに植えたら、おそらく死ぬと思います
種が落ちて、大きくなってゆくのは日本の1.5倍から2倍は時間がかかる
持ってる気質は同じですね 

物を育てておられる方、農家の方などは同じ様な経験をなさっていると思われる
種をまいて、収穫まで持ってゆく間に、いろんな世話をする中で、植物たちが育ってゆく中で、いろんな、我々と同じような人生観なり、感情なりを垣間見る事はおそらく多いと思う
命を持っているもの、それには全て仏性を持っていると、そういう風に感ずることができる
サボテンと語り合う事、すなわち、自分の中におられる仏と話をすること、サボテンを介して仏となる性質を、それを探り当てようとしている、そういう事だと感じています

中山寺は亡くなった方、新しい命にも迎える これを昔からやっている
新しい命を迎えるという事は、命が前からずーっと続いてきて、現実の姿として、この世にお迎えする   
お迎えしてそれがずーっと大きくなって、年を取って、又この世から姿を消してゆく、消していってその後もまだずーっと命は続いているというのを、実感できる場所でもあるわけです
腹帯を境内で授かって、お産が済んで、腹帯を返しに来られる
昔は帯は高価なので、洗って又次の人が使用する (次の人も頑張ってという想い) 
今は衛生上の事もあるので、新しい帯を使用している

その子が大きくなったときに、寺に来たことを話と、又次に来る
かつて来た親の、情景や空気を感じることができる(境内は24時間オープンしている)
人間不安になったりするときに、あそこへ行って拝んでこようと思ったときに、コンビニみたいな要素があると思う
人が宗教に目覚めるときは、生と死なんですね  生死観を持たない宗教はない
死ぬ時も重要ですが、生れる時も非常に重要な場面なんです
神秘さ、感動、繋いできた命が自分の腕の中に、抱いて実感するわけですから
送るときも、あなたの想い、面影、やってきたことは、絶対どっかに伝わっている

教育畑 中、高で16年ほどやる 生徒と接して自分も勉強する
仏の慈悲 あなたの慈悲を目覚めることができますように ということです
あなたと一緒に悲しんで、あなたと一緒に喜びましょう と言うことなんです
このサボテンは5年で花が咲くが、7年ぐらいが一般的
みんな違って、みんないい(金子みすずではないが)  
見てやれる目、耳、言葉、そういうものが大切になってくる  特に学校の先生はそう
可能性を将来、もっと高めることができる、次につながるためには、この全体を見ている人間たちの責任はすごく大きいと思う

大学に入ってくる人たちに言うのですが、今までとは違い自分を見つけるチャンスでもある
人間はつい人と比較して、自分を見つめるが、違うよ、おまえはおまえでいいんだと言ってくれる人がいないと駄目
相手の慈悲心に答えられるという事はともに喜び、ともに悲しめる、仏になれている
阪神淡路大震災の時は、炊き出しを100日間行った
復興に向けて、手を携えて、いこうという気概が生まれて、助かった
一番大事なのは心の救い  
財を持って貧者を救う 愚かなるものを法を持って裁く 
これは普通のことだけれども、貧者を救うのに心を持って救う事が出来たら、愚かなるものを法を用いないで、諭すことによって救うことができる、それが一番最高ではないか 
物やお金では埋められない心の隙間は、心で埋めないと埋まらない
あなたは気がついていないかもしれないけれども、あなたを必要としている人はまだどこかにいるかも知れませんよ、と言う事に気がついていただく 
そのことは大事なことだと思います









































2013年6月14日金曜日

渡邉研太郎(南極観測隊長)    ・自然を恐れず侮らず 2

渡邉研太郎(第54次南極地域観測隊長)  自然を恐れず侮らず 2
延2000名くらいの人が南極に行っている  オゾンホールの見つけるきっかけになった(23次隊の時) 地表から上空に向かってどのくらいのオゾンがあるかという全体の量を観測する事を定期的にやっていたが、9月10月とドンドン少なくなっていった  
最初は機械がおかしいのではないかと思ったぐらい数値が減っていった
装置を確認したが問題無くて、これは本当の値として低くなったので、帰国後、国際学会でその報告をしたのが一番最初の報告だった

宗谷のころは探検隊的な色彩が濃かった  
1年、人が安全に観測できるのだろうかとか、建物はそういう風なものがいいのかとか、食べ物はどのようにできるのかとか、最初は越冬隊員は水杯を交わしたといわれている
その後段々設備も整って観測機材を沢山持っていけるようになって、いろんな観測が本格的に立ち上げられた(富士になって)
地球温暖化についても、断続的に取ったデータでは十分なことが言えない、毎年同じようなやり方で、気温を測って、50数年分溜まったのですが、それを解析して初めて傾向がはっきりするようになる

一番最初にオゾンを観測したのは1961年ごろに行った  
継続してデータを得るようになったのは1970年代の後半だったと思います(それまでは時々だった)
1982年の観測データで1983年に発表した   
イギリスの基地でも同様な観測が出ていたといわれる  結果と原因を結び付けて論文を書いた 
世界的にはそのグループが論文としてオゾン層の破壊が起きているという報告をしている 
これがオゾン層破壊では有名な論文となる
観測データで最初に報告したのは、日本の研究者だと言われている
人間が作った物質、フロンがオゾン層を壊する主要な犯人だとなる

オゾンが破壊されてオゾンホールが南極大陸の上に広がっているのが分かったのは、アメリカの人工衛星の観測データを解析したのがきっかけですが、それでこのままだとオゾンが壊されてしまって、生物に有害な紫外線が地表に届くようになるという事で、なんとしてもとめなければいけないという事で、フロンを作って使うのをやめましょうと、モントリオール議定書、オゾン層を保護するためにフロンの使用を禁止する条約ができる
最近はもともとのフロンの排出が無い状況にはあるが、それまでに放出されたフロンが地球を取り巻く大気にずーと蓄積されているので、すぐにはオゾンの破壊はとまらなかったが、このところの観測結果はオゾンの破壊の増加はおさまって、回復に向かってるようだと、ただし破壊が始まる前になるまでには、まだまだ20年、30年かかるだろうといわれている

裸氷帯と言って雪が無く氷がむき出しになっているところがあるが、そこで隕石を発見、他でも同様に隕石を発見した(隕石が集まっている)   
成因を調べた  沢山の隕石を集めた
雪が降り積り、何百年と経つと氷になる 
低い方に向かって流れだしてゆく 
動きと一緒に内陸でも氷が動いていて、ところどころ岩盤が突き出ているような山のようなところがあって、そういうところに流れてゆくと、表面が太陽、風などで氷が無くなってしまう
ちょうどベルトコンベアーに乗った隕石を含む氷が、山にぶつかると上の方に上がってくると太陽のエネルギーで氷が無くなる、そこが裸氷帯、氷の中に含まれた隕石がそこに残ってその結果集まったような結果になる

氷の上ですから、すぐに区別がついて採集しやすい
火星と木星との間にある原始天体が一杯集まっているところから地球の重力に引かれて地表に落ちてくる、あるいは月とか火星に隕石がぶつかって、もともと月の石だったものが、宇宙に放出されて、なんかの拍子に、地球の引力に引かれて、地球に落ちてくる 
そういうものが南極にぽつぽつ出てきている  
かなり日本は南極隕石で大きなコレクションを作った
アメリカも隕石探査をやっていて、隕石の数ではアメリカがトップになっている

別働隊は3つある 4人の隊員がベルギーと一緒に隕石探査をやった  ベルギー隊の近く
420個位 75kgを極地研究所に持ち帰っている 18kgが一番大きい
有機物を含んだもの、 地球上の岩石にはないような結晶を持ったものとか ある
火星からは岩石を持ち帰っていないので、貴重な隕石となっている
氷床掘削 昔の氷を持ち帰る 雪が固まって氷になるので当時降った雪だったもので、当時の空気と一緒に氷になっている  
氷を分析すると、当時の大気の組成が分かったり、気温が何度ぐらいのところで雪になったのかを推定できる 

ドーム富士 昭和基地よりも1000kmぐらい内陸にある 
3000mくらいの氷の柱を切り抜いた  
一番深いところの氷はおそらく72万年位前の雪が氷になった部分と言われる  
72万年前の大気の様子が分かる
地球温暖化の犯人と言われる、二酸化炭素が当時どのくらいの濃度だったのかと、言うのも分析することによってわかる
過去70万年までの大気中の成分が推定できるという事になる
ロシアのボストークと言う基地は世界で最初に深い氷のサンプルを取っているが、40数万年前の
大気中の成分の分析結果を出している
フランスとイタリア の内陸基地でも氷の柱を取っていて、分析して論文にして、過去の大気の組成はこうだったと、言う結果が出ている

同じ様な分析項目で、同じような結果がでれば、南極大陸でこの辺りは大体同じような結果、違った結果が出たとすれば、何か別の理由があるのではないかと研究が進む
近年人が増えて、北半球での大気の成分は、活動が増えると、人為的な要素を含んでいるが、南半球はそういうところから離れていて、工場も少なくて、人間の数も少ないので、そう言う影響が少ない  平均化したようなデータが取れる   
古い氷が残っているのは南極大陸しかない
放射性物質は精度を高く分析できる物質なので、核実験をやった後、(初めのころは大気圏でやっているので、地球全体を循環して覆ってしまう  
南極にもそういう物質が飛んでくるようになり、それが雪と一緒に大陸に降り積もって、コアの一部になって採集できる様な状況ですね

放射性物質の多い層は1950年代、何年のものだという事が成分を分析することによって特定できる
火山の爆発で噴煙が大きいと成層圏までゆくので、噴煙なども記録されている
冬の間暗くはなるが、外に出られなくなるわけではないので、一番明るい時刻帯ですと、新聞が読めるが、すぐ暗くはなる  外作業はあまり向かない やりたいこともできない
いつ寝ればいいのかとか、いつ起きるかとか、時計を見ながら時間管理しないと、経験のある人たちは食事の時間は同じようにしておいて、朝起きたらば明るい蛍光灯を浴びるとかして、体内時計を調整している
越冬初めて3カ月すると、なかなか眠れないとか、仕事がはかどらないとか、たまに出てくる

越冬は4回している 最初は週に一回は氷を取るような作業をしていたので、体調が崩れるようなことは無かった   
最近の昭和基地は大きくなっているので、寝室は個室を与えられている
そこでパソコンを使ってデータ解析をする  
22次隊の時に海事衛星 インマルサット 電話ができるような仕組みを昭和基地に持ちこんだ  
それまでは短波無線で昭和基地の場合は電電公社の無線局と電報のやり取りをしていた  
電話は高かった 1700円/分
電話でやり取りしなくては行けないようなこともあり(子供が生まれて間もないころで声を聞かせようとしていつの間にか時間が経ってしまい)、越冬して帰ってきたら、100万円以上払わなくては行けなかった

インスタント食品 宗谷のころにお湯を入れれば食べられるカップラーメンとか、今でもお世話になっている  
乾燥食品  野菜は? 第一便は鮮生品が主、でも国内で有れば賞味期限が切れたようなもの、卵とか、ビールとか、いろいろ   でも第一便のビールは感激する
オーロラが出る位置に昭和基地がある  
オーロラに関する研究は進んだ
太陽の活動のピークに当たってるといわれるが、ピークの高さにもいろいろあって、結構低く過ぎそうだと言われる   
北極と南極では対称形で出ている
オーロラの元は太陽から来る電気を持った粒子が地球の大気にぶつかって、光をだす(ネオンサインと同じような原理で光を出す)
同じタイミングで北極と南極で画像を較べることができた  理屈が実際に確認できた

南極おきあみ 一番多くいる ペンギン クジラ、アザラシが食べるが どのくらいいるのか、それの共同調査をする  資源量と言うのがいろんな場所のデータを総合して判る
国際共同研究が南極では多い  
オーストラリアの観測船に乗ったり、中国の観測隊と一緒にやったりもした
最近は地球規模の環境の変動、温暖化とか 言われていて気象観測を毎日観測している
日本は観測のために昭和基地を維持している 
   
国によっては越冬するが研究者は気象観測するだけ、あとは陸軍の人たちだけ、と言う国もある
南極は領土権の主張は凍結されている、といっても、もしその条約が無くなった時には、凍結する前の状況になってしまうので、でも今のところそういう状況をどこのくにも望んでいないので、続いているが、なんかの拍子にそのバランスが崩れると、いろんなところでいろんなことが起きてしまう
隕石なんかの、どういう隕石なのか一次カタログを作る 
研究者に利用できるように、研究者がどういう研究をしたいかを申請して、了解されれば、それを利用してもらうような形になっている
生物資料 20年前にどこで取ったサンプルかがあるので、当時の主組成はどうだったかとか
アザラシの脂肪の中にどういうものが含まれているとか、汚染物質の調査などのもサンプルによってはできる状況にある








2013年6月13日木曜日

渡邉研太郎(南極観測隊長)    ・自然を恐れず侮らず

渡邉研太郎(第54次南極地域観測隊長)  自然を恐れず侮らず 
1956年 昭和31年に宗谷で出発した第一次南極観測隊から数えて、今回は第54次南極観測隊となります
第54次南極観測隊長を務めた渡辺さんは、東京大学大学院博士課程出身で60歳、現在は国立極地研究所教授で、専門は海洋生物生態学の研究です
渡辺さんは第22次隊から第54次観測隊長まで、越冬隊長の2回を含めて7回の南極観測隊を経験しています

宗谷が第6次隊まで動いていたが、古くなって砕氷が難しくなり得るという事で、退いて、大事な国家事業であるので、継続すべきだという事になり、政府の方もその方向で再開を決めた
その間に3年ぐらいのブランクがある
越冬できない年もあった 2次隊では氷の状況が1次と比べると非常に厳しい
これまで50何年やってきたが、接岸 近いところまで行くことができたのが珍しい
一次隊がいけたのは奇跡だといわれるぐらいの状況だった
2次隊は越冬を断念した その時樺太犬一緒に連れ帰ることができなかった
映画にもなる   犬係をやっていた北村泰一先生が原作者 

昨年の11月に発って、3月に帰ってきた 観測隊、昭和基地以外でも観測隊がある 3つ
最近は大きくは報道されないが、海水が凍って大陸から沖合に向かって張り出している 定着氷というエリアがあって、その沖に流氷がある  流氷は風、海流で行ったり来たりしているが、時にはびっちりしてしまう
昨年度は流氷にもつかまってしまった  昭和基地に向かってある定着氷も厚さが、4mとか5mとか8mとか、かなり普段よりも厚くて、接岸を断念せざるを得なかった
流氷帯は53隊では2週間ちょっとつかまっていたが、54隊では人工衛星の画像を見ながら、航路を決めることができたので、1日ちょっとで通過できた
定着氷域 接岸できると、ホースで燃料を燃料タンクに移送できるが、接岸できないと燃料の運搬に酷く厳しくなってしまう

54次では雪の状態が悪くて雪が、ぐちゃぐちゃに溶けてしまっていた
積雪はあるが、雪上車が走ること自体が非常に難しい状況になってしまった
大きなクラック(氷の割れ目) 2mぐらいあり、ヘリコプターでなければ運搬できなかった
大型ヘリコプターを持っていないと昭和基地に運べないとの経験があって、2機を搭載していたが、1機が故障になり、残りの一機も予算も厳しくて部品のスペアーが無い状況だった(綱渡り)
研究用の費用を削って、輸送のために小型へりを2機チャーターした
貨油の77%運ぶことができた 貨油をどれだけ運べるかが死活問題となる
53次は50%強にとどまった  備蓄していた燃料を使わざるを得なかった
大きなコンテナに入っていたものも、ごくわずかしか運べなかった(コンテナから分散して)
最悪のケースは氷上輸送も僅かしかできない その場合は貨油が十分なくて、越冬するメンバーも減らさなくてはいけないと、関係者の中ではしていたが、そこまですることもなく済ますことができた 

30名の越冬するのに十分な物資を運ぶことができた 40名の時もあったが観測者の人数確保が難しくなってきた(研究のみに1年間専念することが難しくなった)
22次隊の時に行く  海洋生態学をやっていて、研究しながら学位をとれるという事で採用してもらって、今に続いている
趣味でダイビングをやって言えて、潜水調査をやることにもなっていて、タイミング良く入れた
調査も計画通り出来た  藻類の研究 (アイスアルジー)  底生生物 (うに、ひとでとか)
砂のあるところから潜ったが、植物プランクトン非常に増えていて、水は濁っていて、あまりきれいではなかったが、他に岩場で潜って、そこには、うにとかひとで、海綿なんかが生きていた
氷の下は豊かな底生生物がいた   砂場以外のところは氷に穴をあけて潜った、命綱を付けてペアで潜る 
 
24次隊では危険なことがあった 7月14日(真冬)  1×2mの穴をあけて潜ったが、レギュレーターのある部分が氷ついた 
急に空気が出るようになった 水の中で何か起きたか分からなかった   
命綱をたぐったら明るい穴が見えたので、そこに向かって一生懸命に戻った(比較的浅い場所にいたので助かった)
調査深さは20m程度の範囲  6月22日を中心に1月半は太陽が出ない 光合成ができない  
アイスアルジーは氷の下の境界中心に増える  海水が凍っているので塩分の高い液体部分がポチぽつとあって、気温がちょっと上がると上から下まで繋がって海水がちょっと動いたりして、そこに藻類が増殖している

植物プランクトンと藻類が氷が溶けたり、暗くなってきたりすると増殖がスローダウンして、海底に向かって沈んでゆくと、海底の生物が利用する うに、ひとで、ほやなどは利用している
基礎生産者 太陽と水と二酸化炭素を原料に有機物を作りだす(自分の体を作る) それが無いと動物も生きていけない
条件が厳しいところで生き物の本質が見えてくる
南極大陸はほとんど雪と氷におおわれているが、部分的岩が出ているところがある
スカルブスネス と呼ばれる露岩があって、そこにはいろんなタイプの水たまり(湖沼)がある
ほとんど真水の物から塩分の濃い湖沼がある   海の水で増える植物は湖沼にはない
真水で増える植物 ラン藻類 シアノバクテリア コケなどが見られる

「コケ坊主」 湖沼の底から高さが60cmから80cmの円錐形の物が、湖底から飛び出していたりして見える
10cmになるのに100年以上になるという結果がある
地球温暖化が言われるが、印象は?  1年いただけでは分からないが、5年前に昭和基地で観測された気温のデータを統計的に解析した人たちがいまして、その結果からすると気温については有為な増加傾向は無い  南極にもいろいろな場所があり、半島のようなところでは気象のデータでは確実に気温が高くなってきていることはわかっている
昭和基地のあたりでは、そういう事ではなくて、統計的には天候の悪い日が増えてきている

















 

2013年6月12日水曜日

平岩弓枝(作家)         ・時代を創った女たち 2

平岩弓枝(作家)              ・時代を創った女たち 2
新鷹会  主人がそこに入っていた  その頃主人は飲んで歩いていた  パイロットになろうと思っていたが、先天性高血圧で挫折した(私よりも半年早く新鷹会に入った)
紛らわすために、良く飲み歩いていたようだった    口もきくようになったのはずーと後だった
雪が降っていて、心配なので奥様(長谷川氏)から送っていってほしいといわれた
送っていったのが最初、2回目は古書を探すので、一緒についてきた
(いつも二日酔いみたいで、気にはなっていた  変な人だと思っていた)

結婚するようになっても、これは友達婚だなと先生に言われた
二人とも作家と言う事は、やりずらさはある でも彼は書くものが全然違ったので、
伊東さんに、小説を書けるような家庭にしてくださいと先生はアドバイスしてくれたようだ
私には、人間が前に進むには、片足ずつ前にでる だから両足が前に一遍に出たらひっくり返る
だから上手に両足で(二人で)歩いて行くように、と言われた(小説だけでなく)
同門の先輩の伊東昌輝と結婚した
結果的にそういう形になった   夫は小説よりも宮司に興味を持つようになる

温厚なタイプで寛容がある、(彼の父親も亡くなっていたので、伊東家を継がなくてもいい)
新鷹会 自分で書いてきたものを全員の前で読む、その時にいろいろ批評されるが、私はそれほどでもなかったが、こっぴどくやられる人もいた
書き直してくる人もいる 先生は作品に対して、救える道を言ってくれた
「鏨師」(直木賞) 父が刀剣鑑定家だったので、それで子供のころから否応なしに刀を見ていた
当時は直木賞貰っても、マスコミに取り上げられなかった
素材が良ければ、或る程度の物は書ける 「鏨師」は典型的なもの
良かったのは、候補になった時に、この作品が直木賞を取れるとは思っていなかった

時代物は急には書けない(物を調べないと書けない) 
小説は人間をかくものであって、ストーリーを書くものではないよ と先生から言われた
現代ものを書く   「女と味噌汁」「肝っ玉かあさん」  ドラマを書いたら素晴らしい
直木賞を取って、ちやほやされるのは、せいぜい半年間 「鏨師」がTVで放映されて、それが縁でTVドラマを書く気はないかと言われた  
(先生に相談したところ、TVドラマはまだ出来たばかりで、一線に鉈んでいるので、君がそこに入るのはおかしくないので、大いにやり給えと言われた)
10年目に 女の顔 新聞の連載小説を書いた 高松さん(編集者)が「上手くなられましたね」と 言われて感激した  それから落ちつけるようになった  10年間は修業時代だったと思う

物書きは良く壁にぶつかるというが、君もいつか壁にぶつかるいかいとおっしゃったので「はい」といったら、本当に壁にぶつかったら、君は泣き虫で弱虫だから、僕は幽霊になって出てきた上げよう 君の前に現れなかったら、君は本当の壁にぶつかっているのではないと心得たまえと、おっしゃってくださった
書けなくなったときに、先生出てきてくださいと叫んだことはある
「御宿かわせみ」 方言辞典をよく読みなさいと言われた
全部で264話ある 34冊  
「はやぶさ新八」を再開する
糸口を見つけるのが、昔の何倍も努力が必要  体力が無いと頭脳が動かないみたい


































2013年6月11日火曜日

平岩弓枝(作家)         ・時代を創った女たち

平岩弓枝(作家)     時代を創った女たち
平岩さんの小説と言えば、「御宿かわせみ」や「はやぶさ新八」の時代ものが有名ですが、「女の味噌汁」、「肝っ玉母さん」、「新平家物語」など、数多くの、TVドラマの原作、脚本を書かれました
昭和7年(1932年)東京、代々木八幡宮の大切な一人娘としてお生まれになりました
昭和34年には第41回直木賞を受賞されています
今も新しい作品と取り組んでいる、平岩さんに伺いました

代々木八幡宮 近くの地域には近親感を持つ
地域の人たちの平和、心の平和を守るのが一つの重要な役割だった
歴史のある八幡宮 草創は鎌倉時代  村の鎮守の神様ですから 本来は 村舎
子供のころ環境は、野っぱらだった  池が多かった そこで金魚飼っていた
沼地なんかが多かった (今では想像もつかない)
昭和20年 一人っ子だったので、両親が私が死んでしまうと、跡取りが無くなってしまうので、福井の叔母のうちに行っていた  
福井の学校に行っていた 学校も焼けてしまった(8月) 疎開の生活はとっても良かった
私のあだ名が「吃驚さん」 すぐに吃驚していたので

草刈りに動員させらりした 鎌を見ただけで震えてしまった
僅かな間だけれども、いろいろかばってもらった  子供心に人の親切を身にしみた
半年で東京に戻る(父が何がなんでもかんでも戻す)
演劇部、それらしいものが無かった  (友人が演劇部を作り出す 高等女学校のころ)
学校が二つになり そこではリーダーが無くなり、私がまとめ役をするようになる
脚本を書く (当時東洋史に興味を持っていたのでその中から書いた)
私は裏方が好きだった  擬音(馬の音、波の音等)が好きだった

小説を書こうと思ったのは、偶然 大学を卒業すると結婚か、行く先が決まっていたが、私の場合は考えてもいなかった
踊り仲間 素晴らしい友人がいた  或る日、どうするのかと言われる
一人娘でお婿さんを迎えるならば、ろくなのが来ないという
一人で何かやってゆくものを、考えた方がいいのではないかとアドバイスしてくれる
踊りの先生は駄目かと言うと駄目と言う あなたは踊りの手順を覚えるのはやいが、でも一曲上がって次におけいこが始まると前の事はすぐに忘れるでしょうと言われる
小学校の一年の時に、作文を書いた  素材が良ければ或る程度いけると思う
かわいがっていた犬が亡くなってしまって、そのことを書いたが、渋谷区の文集に出たらしい
父が大喜びで喜ぶ  父は物を書く人になるのではないかと思ったらしい
その後の作文は良くなかったが、友人に対して書くことは、ちょっと好きと言った

彼女に父は大銀行の頭取だった 彼女は父に指導してくれる人はいないかどうかを聞いた
父親がつきあっている人が「直木賞」をもらった様な気がすると言う事で、前年に直木賞をとった戸川幸夫先生    父が連絡を取って、友人が一番良い服を着てきてほしいと言われた
毎日新聞の受付に行って、コーヒー店に入る  
友人はコーヒーと言った 私はコーヒーは駄目だったのでソフトクリーム頼んだ   
そうしたら友人が私に足をいやっと言うほど蹴飛ばしたが、時すでに遅く、結局 運ばれてくると
嘗めてないと溶けてしまうのでしゃべることができない
私のことを全部友人は知っているので、先生の質問に全部答える
話が終わって、友人がこうやって、先生にお願いしたから、一生懸命勉強してちゃんとした小説家になるのよ、と私に言った  
先生は椅子から転げ落ちて、今でも目に浮かぶ
後でそれほど絶望したことは無いと、何回も言われた  先生の弟子になる

先生との出会いが無ければ、作家にはならなかったと思う
我が家から近い 遊びにおいでと言われて、犬がいるから気楽においでと言われて 気楽に に飛びついてしまって、伺って、 先生の奥さんがプロ並みの料理家で、小さい子供もいて、一緒にさわいだりして、先生は気がつかなかった
一階には書庫があり、そこで本でも読んでいるのかと思ったら、キャーキャーさわいでいて、先生は吃驚されて、これは行けないと思って、テーマを指定するから、書きなさいと言われた

その年に、売春防止法案 神近市子さん中心 売春防止法案が通った年で、それについて
書きなさいと言われた
その時も又別の友人が、神近さんの事務所につれて行って、日記とか、パンフレットになってあった  それを頂いてきた
彼女が兎に角、本物を見ないとしょうがないと、言う事で、吉原に行った
何にも知らない二人が行った  真昼間に行ったので、乾いたようなところにたどりついた
黒眼鏡の人が出てきて、ねえちゃん、稼ぐのならあと半年は稼げるよと言われて、私はぼーっと立っていたら、友人が突然私の手をつかんで逃げ出した(走りに走った)

命ぜられた、遂行せねばならないというような気持ちは持っていた
とにかく書いて、戸川先生に持って行った  一生懸命先生がそんなところではないと訂正される
9回書き直しさせられる   先生は最も忙しい時だった
君は動物作家になるわけでもない  君は君の小説を書く人だと思う
僕の恩師 自分は何を書くのが適しているか、こういうものを書いたらどうかとサゼスチョンしてくれる、そういう素晴らしい作家を恩師として仰いでいる
君の話をしたので、お許しを頂いたので、大作家もいるが、みんなわけ隔てなく文学を学んでいる  新鷹会  一足先に行くようにと言われる それが長谷川伸先生

そこは超有名な小説家の人が一杯入っている  山岡荘八 村上元三 そういう方々がいた
当時の時代小説の方々いて、一番若いのが池波正太郎さんでした(私より10歳上、私が26歳の時で女は私一人  なんにも知らないでいった)
部屋の障子を開けたら、壁際に先生が座っていた  
お辞儀をしたら、お入りと言われて、入って、言われるままに座ったら、門下生としては一番上席になる(知らなかった)
年を聞かれたが、慌てふためいて、絶句してしまった  
生年月日を 昭和7年3月15日生れと言ったら、長谷川先生が 明治17年3月15日が誕生日だといった  キャッキャとさわぐ
(後で池波先生から、あんなずうずうしい女は初めてだと言われた)

  








2013年6月10日月曜日

豊田直之(写真家53歳)      ・海の森から山の森へ、好奇心は宝箱(再放送)

豊田直之(写真家53歳)       ・海の森から山の森へ、好奇心は宝箱(再放送)

興味のある方は2013・5・2 ご覧ください

2013年6月9日日曜日

杉江五十鈴(主婦)        ・50万羽の折り鶴に囲まれて

杉江五十鈴     50万羽の折り鶴に囲まれて
50万羽の折り鶴とは 静岡市に住む、杉江光一さんと五十鈴さんの長男 孝之さん(46歳)が30年にわたって折り続けてきた鶴の数なんです  
毎日、夕食後に5cm四方の紙を折り続けています
6歳の時に、孝之さんは自閉症と診断されました  40年前に自閉症と言われても、情報や相談する相手も、施設も無く、自閉症は親の愛情不足ともいわれ、五十鈴さんは大変に苦しい時期を過ごしました 
孝之さんは思春期を迎えるころ、家庭教師から指先を刺激すると情緒が安定するといわれ、折り鶴を始めました

次第に折り鶴に打ち込むようになり、夕食後は必ず自分の部屋で、100羽ずつ折るようになり、両親との会話も増え、表情も穏やかになり、自閉の症状も和らいできました
一方毎日のように折り続けてゆく鶴で家は一杯になってしまいます
長年鶴を折り続ける孝之さんを理解してもらおうと、折り鶴の張り絵 菜の花と富士山 縦60cm横が90cmの作品を創作 静岡のギャラリー展に出品 見事銀賞を受賞しました
これを機に孝之さんは制作意欲を高め、展示会では笑顔で折り鶴の実演をするなどこれまで見せなかった力を発揮します
交流の輪も広がったそうです

菜の花と富士山  素晴らしい作品ですね  36歳の時に初めて作った作品で2360羽のミニ鶴で作った作品  静岡県障害者の愛護ギャラリー展で銀賞受賞で賞状を受け取るときに、本人がとてもうれしそうだったのを記憶しています
夜に自分の作品を頬ずりして喜んでいました
小さい鶴 5cm四方の紙 出来上がりは大人の親指大 手先は器用だと思う 
普通は7.5cmが多い  

張って絵にしてみようと思って夢中で張ってきた
それから10年 27作できた  「牧場の母牛と小牛」 今でもお母さん お母さんと言います
富士山を真中に茶畑  富士山が右上で全体が桜が覆っている 120×90cm 6600羽
色も沢山ある 18色  桜の濃淡をつける 一つの花が4羽
題材も最近は主人が行うようになった(それまでは長い単身赴任だったので)
原画は私の友人が書いてくださった    孝之さんが打ち込めるものが見つかった
小さい頃は言葉が通じなかったので、癇癪を起して泣き叫ぶことが多かった
気性的には激しかったと思います   
人の感情みるのすごく判りますね 
感受性がとても鋭くて、感じているんですが表現できなかったり、返事ができなかったたり、怒ってたことが多いと思う持っているものが気性が激しい  
張り絵をしているときは、注意すると受け入れて、我慢できるようになりました

6年ぐらい前から、「これどこにだしてくれるの?」という言葉が出た
今まで自発的な言葉は無かった  喜びにつながっているとこの言葉で感じた
一日のなかでも言葉のやり取りができるようになった 
見ていただいて、ほめていただいた事が良かったんだと思います

一日の生活のパターンに拘りがある
朝は6時起床(起こしに行く)  着替え、洗面、食事 ひげそり等 順番に狂わない様に支度する
体温測定の体温計の取りだしは絶対私でないといけない いないとそれまで待っている
駅までは主人が車で送っている(私も同乗) 帰るときは5時30分 一人で帰ってくる
鶴は100羽  40秒に1羽ぐらいで折る  漢字の練習、音楽を聴く 3つを行う
中学生から折り始めて50万羽  34万羽までは千羽鶴にしているので確認している
27作品で7万6000羽   そのほかにも一杯押し入れの中にあるので50万羽は越えていると思う

孝之さんが自閉傾向がありますよと言われたのが、4歳の時 保育園に入った時に集団行動ができないので、病院に行ってみるように言われて、そこで自閉傾向の重い情緒障害だと言われてた 
ちょうどその頃、下の子が生れて、毎日が夢中で唯食事を作ったり、下の子を面倒みるという事で、日々が流れて行ったように思います
孝之の場合には2時間ぐらい泣き叫ぶ事があった(自分の事を理解してもらいたいけど、言えないのかと) 泣き方が尋常ではなかった  毎日同じ時間帯に泣いていた
その時の要求が何だったのかいろいろ対応したが、判らなかった
昭和48年ごろ 名古屋ではっきり自閉症を言われた その頃は自閉症という事は判らないような状況だった(親の愛情不足と言われていたころの時代)

私は愛情が無い人間なのか、一般の愛情と言うのはどういうものなのか、一般の人とは違うのかなあと本当に不思議で自分を責めたというか、愛情ってどういうものかわからない事がいっぱいあった
転勤が多くて小学校が4回変わる 
中学、高校が静岡大学の付属養護で卒業 就職するが、仕事はできるが休憩時間にいたずらをする  
一緒について仕事をやったりしたものですから、私までも理解してくれないと思ったらしくて、やったことが逆効果になって、外に出て行った夜中まで帰ってこなかった事がありました (横浜に主人が初めて単身赴任した時期でもあった)
8月には仕事も辞めて、外をうろつくようになって、夜中の2時、3時までウロウロして、家の階段のところでぐったりして、寝込んでしまう 呼ぶとふらふら入ってきてご飯もたべたかどうかそこそこに、ぐったりして寝る生活が続いた  その頃が一番つらかった(私だけに反抗する)

どうしようもなく県立の富士見学園に入れていただき、そこで8年間お世話になった
集団行動ができなくていたが、やっと落ち着いて帰ってきた
(4人部屋で机を占領することはできなかった  鶴を折る事は無かった)
鶴を折ってみたほうがいいと言われたのは、通学のころ落ちつかなくて、いろいろやってみたが誰かが一緒にやらないと続けなかったが、鶴は一人でできるので、鶴に落ち着いたのではないかと思う

周りの人の力も借りて今日に至った  鶴を折ることが人生の大部分になった
増えてゆく鶴をどうしたらいいかと悩んでいたら、友人に張ってみたらどうかとのアドバイスを受ける それがきっかけになった
下絵を作って張りはじめた  1作目 
誰かに作品を知ってもらいたいと思って、県の総合福祉会館で1週間やらせてもらったのが最初
とても勇気がいりました  
1週間で終わる予定だったが、展示室に移動して1カ月延長させていただいた(合計40日)
孝之さんの反応は?  小学校の生徒が来てくれて、教えてほしいと言われて、折って見せることができた それから徐々に皆さんに見ていただく喜びを感じたようです
アビリンピック 国際障害者技能大会の会場でも折り鶴の張り絵を行う

折り紙を配って折ったものを回収して、張り始めた  空間を残しておいて、外国の方に張ってもらって完成させる  隆行も3日間行う  とてもいい経験になった
しゃべる事が出来る様になって、自分の子供でも知らなかった事が見えてきたように感じました
記憶力も凄くある 学園生活のころは 100名の園生と先生は50名ぐらいいたが、当時は言わなかったが、全員の方の名前を知っていた(当時は心を開かなかった)
こういう人柄だったんだという事が40歳過ぎてから解るようになった

うちの場合は続くものが、鶴を折ることだったので 自閉症の方にはいろいろ試されて、続くものがあったら、それを見守ってあげて続けさせてあげてくださいと申し上げています
みんな一人ずつ違う 
個性、輝くものを何か持っていると思うのでみんなで見つけてあげてください
言葉を発するようになって、自分が何かを言えば、返事が来るという事を判って、言葉が増えてきたと思う  喜びを感じる
笑顔を見ることが私たち両親の喜びでもあるんです

東京大学名誉教授 江川滉二氏の言葉  静岡新聞の「窓辺」という欄に掲載 
「何故障害者が生れてくるのか、その理由は多くの場合、判らない  
現在の医学では障害者が生まれてくることを、完全に予防することなど出来はしないのだ
単にある確率で障害者が生まれるのである  
確率の問題と言うのはだれがそれに当たるかという事は判らないと言う事である 
私だったかもしれないし、あなただったかもしれない
逆にいえば私たちが健常で入られるのは自分の力によるものでは全くあるまい 
障害者として生れた人がそのくじを引き当てて、運の悪さを引き受けてくれたのにすぎないのだ
自らの意志ではないとしても、障害者として生れてくる事を引き受けてくれた人がいるお陰で、我々が健常でいられるという事は数学的な事実であって、疑う事が出来ないと思う
だから障害者は障害を持って生れた瞬間に、すでに我々に対してこれ以上が無いほどの大きな貢献をしてくれているのだ
世の中に大きな貢献をして、引退した人に対するのと同様に、私たちは感謝を持って障害者を遇すべきではないか   
かわいそうだからではない、私はそう考える」

この文章が私の心の中にあるから、こんなに大変だったけど頑張れた、と言うのがとってもありまして、この文章は私に取って大事な文章なんです
現在、28作目を構想中(富士山と桜を題材に)































2013年6月8日土曜日

ニシャンタ(准教授)        ・スリランカから夢を抱いて

ニシャンタ(准教授)     スリランカから夢を抱いて
大阪堺市にあるはごろも国際大学、現代社会学部の准教授で社会学を教えています
タレントとして、社会人落語家として、幅広く活躍しています
スリランカの出身で、高校生の時にボーイスカウトの代表として、日本での大会に参加、その後もっと日本を知りたいと、立命館大学に入学しました
平成17年には日本国籍を取得しています
日本で活躍するまでには、様々な困難にぶつかりましたが、負けずに前に進もうをモットーに壁を乗り越えてきました
ニシャンタさんはどんな生き方をしてきたのか、今日本人に伝えたいのは、何なのか伺いました

日本では26年目になる  スリランカのキャンディーと言う街の生れ 街そのものが世界遺産
小さい頃は学校に牛車(乗合の)で通っていた
道端にある像を数えながら、学校に行った 奇数だと良いことが起きる 
偶数だと悪いことが起きるというジンクスがあったので、そんなことをした
父親は銀行員、母親は学校の教員 妹の4人家族
英国民が作ったホテル、 王様のお城等  街そのものが世界遺産
①湖、(経済基盤をささえる部分)  ②仏舎利塔(精神面の支える部分) ③あなたと私
この3つで街は構成されるといわれている

牛車だったのが、ある時期から一気に車が増えた 車は日本車だった(信じられなかった)
何故かというと、当時TVで「おしん」が放映されていた  同じ国とは思えなかった
似ていると思ったのは、物がないけれども、内面的には豊かだよね とおしんは教えてくれた
中古車がやってきた 何を教えてくれたかと言うと、おしんのようにがんばっていたら、車を持てるんだという事   
それで日本に行ってみたいと思った ボーイスカウトで日本に来る(1週間だけ)
おしんのような姿は日本では無かった  見たっことない世界(スリランカとは似たものは無かった)  もう一度来たいなあと思いながら、帰った
ホームステーで日本人は豊かだなあと実感した 優しくもしてくれた

スリランカではお金がある事はゆとりにつながる 人を助ける事に通じる
2回目に日本に来た時に、ステー先で又泊めてもらって、面倒を見てくれると思った
7万円しかもっていなかった  半年面倒みるので、帰ってくれと言われた(ワンワン泣いた)
アルバイトを見つけてくれたりした   結局3か月ぐらいしかいなかった
アルバイトの旅館先に、住みこみとして、その後住むようになって、日本語学校に2年間通う
大学を受けて立命館大学に入学する  物理的にアルバイトをする時間が無くなった
新聞配達するアルバイトを見つけてくれる人がいて、そこでアルバイトをするようになる
朝3時に起きて配って、朝食を食べさせてもらって、そのまま学校にいく 授業を受けて、日本拳法をやって、3時頃に帰って、又配達に行く(夕刊を配る) 大学に戻ってラグビーかボディービルをやったりして、あまり眠らなかった  全てが楽しかった

ゆくゆくスリランカに戻ろうと思った 学位をたてに社会の良いポストに就きたかった
スリランカでは階層が厳しかったので
途中で考えが変わった 日本の事が判るようになる 日本の面白さが判る
帰ることが、面白いだろうかと思うようになった
日本の会社に進みたいと思った  時代はバブル期だった 
国際交流パーティーとかが、盛んで 国際感覚を養う仕事などもした
学部総代で卒業した その間 、いろんなことにチャレンジした  スピーチコンテストに参加
優勝した(賞金が20万円だった)  
これは行けると思って、結構スピーチコンテストがありそこに参加して、全部優勝してしまった 
賞品が豪華だった

大学院に進むことになる  国際は自分に一番強みであろうと思って、就職口を当たったが、外国人ではまずいという事があって、就職口は見つからなかった
友人から大学院を勧められる   日本人と結婚する
今は20組に1組は国際結婚なんです   結婚してくださいと言ったらすぐにできると思っていたが、そうはいかなかった  父親から反対だと言われた 
①墓の問題  私は仏教徒で長男
日本に来ていていいのかと 墓守はどうするのかと  スリランカではお墓は無い 輪廻転生の世界  お釈迦さんは墓守をしなければいけないと、言っていないとスリランカでは思っている
②結婚する前から日本の国籍を持っているが、それもいけないという(喜んでもらえると思った   が)  自分の故郷を平気で捨てられる人間は家族も大事にしない、と言う事で反対される
③黒い孫は困る と言われた (いじめが待ち構えている  
自分の孫がいじめられるのを見ていられないと)

2008年の正月に、迎えてくれて、その時点では結婚を許してくれるものと、思われた
家に泊めてもらって、「留学生が愛した国 日本」という本を以前、書いたことがあって、その本を母親に、私はこういう人間です、読んでくださいと渡した
一晩で読んでくれて、その感想文を手紙にして枕元に置いておいてくれた
その手紙に感動した(宝物にして今も持っている)
「ニシャンタさんへ  昨日あなたの本を読みました  あなたはとても強く、優しく、立派な人です
あなたは今の日本人にはない、心を持っている本当の日本人です  
今まで私たちは、文化の違いや肌の色であなたのことを誤解した自分が恥ずかしいです
ごめんなさい 何を書いていいかわかりませんが、私たちは立派な息子が一人増えて、幸せです
あなたのご両親に感謝しています」 という手紙です
昔は うーうーと泣いてしまって読めなかった (今では読めるようになったが)

なんで大事にしているかと言うと、まさに人間とは、違う者同士がつきあってゆくに当たって、心の壁があるが、心の壁が突破られた瞬間が、この手紙なんだろうなと、思います
生きる道、わがままは言えないし、生きていかなければいけないし、どこかで突破口を見つけて生きてきたのだと思います
人間になりたい と言うのが口癖だった どこか管理されているような気がして 厳しかったビザ一つ貰いに行くにも、鍛えられて、お陰で今の自分ができたのかなあと思います

日本は豊かな国 私たちはスリランカにいて、貧しさを知っている 
だからちょっとしたことでよろこびを感じる事が出来る 貧しさを知った上で、豊かさを知っている人が、最近の若い人は少ないのかなあと感じる
豊かさしか知らないというのはある意味貧しさのような気がする
若い学生さんとかに、いろんな生き方、いろんな人生があるんだなあとかを知ってほしいと思います
40歳で結婚したが、やっとおしんを見つけたんだねと、周りから言われた
私がおしんになりましたと、言った(もう一回、おしんを流してほしいと思う)
なんで世界中でおしんが受け入れらたかと言うと、普遍的な豊かさを探すための一つのたたき台的な物も含めておしんはそういうドラマだったと思う
日本人の無くしてしまったものは?
①循環性(ちいさな)失っている  家族の循環 地域の地産地消の循環 食べ物の循環(大きな循環に乗っている)
大きな循環に乗っかれば乗っかるほど、ぬくもりが無くなったり、どんな人が作っているのか判らなくなっている  
子供を作るのも減っている 絆、循環が弱くなっている 
②多様性が無くなっている  単一化されていっている 欧米化されていている  景色も同じ
地域の多様性が無くなってきている
③関係性が希薄になってきている  過剰な商品化 なんでもかんでも商品化 ちょっとしたやさしさもお金が行き来しないとなりたたないという
非人格化 人間関係性も商品化されている 人間そのものも商品化されている

日本の良いものを世界に教えてほしい
商品化の大きな流れは今後益々大きくなってゆくと思われるが、関係性の部分 お金では無い
ところの部分をどんだけ確保するかが、今後の日本の課題だと思いますね
循環性、多様性、関係性を取り戻す これが日本が一番豊かな文化を持っているんだと思います




















































 

2013年6月7日金曜日

山口健(静岡ガンセンター総長)    ・癌患者の立場に立って

山口健(静岡県立静岡ガンセンター総長)     癌患者の立場に立って
2002年に開設されました 山口さんは東京の癌センターで28年間、治療と研究に携わり、治らない患者には、一体どうしたら、良いのかを考え続けてきました 
静岡ガンセンター開院に際しては、治すだけの医療から、患者と家族にとって最も望ましい医療を目指して、よろず相談を始めました
相談は治療だけに限らず、医療費や仕事の相談まで、どんな悩みにも応じています、
電話や直接面談で相談を聞き、よくある質問はインターネットで閲覧できるようになってます

計画は1996年ごろから決まっていますので、当時国立がんセンターに勤務していましたので、それからのお付き合いです
病院でのよろず相談  21世紀に初めて出来るようなガンセンターだと思っています
どういう病院にしようかと、数年考えたところ、患者の視点を重視することを起点にするという、患者さんの立場に立って、凡てを運用していこうというのがポリシーとする
そうすると今までの病院と違って、患者さんにとって何が大切かを考えたときに、患者さんが自分自身でいろんなことを、しっかり決定していただくことも必要なんじゃないかと考えました
それまでは上から目線的に医療関係者が指示的にやっていたのが多かった

患者さんの疑問な点、不安な点をしっかり打ち明けていただいて、それをアドバイスしながら、心通う対話、そういう場が実現できないかなあと、考えたときに、よろず相談と言うのが一つのやり方かなあと考えた
今までに医療だと、患者さんがなかなか疑問な点を医者に聞きにくいところがある
出来るだけ敷居の低いものを作る   医療処置とは、別部隊 振り分ける
セカンドオピニオンはあくまで、治療方針の第二の意見で、患者さん、ご家族が困られるのはそういう治療を受けると決まった時に、本当にこの病院でいいのか、この医者でいいのかとか、痛みとかが、どれぐらいあるのかとか、非常に不安で困っているのだけれどどうしたらいいのだろうかと、癌の治療ともなるとさまざまな不安、悩みが襲ってくる
本当に治療奉仕以外のところで患者さんの悩みや様々なご負担に対してよろず相談を設けた

患者さんの反応は? 日本でも初めてだったので、お客さんが来なかったらどうしようかと心配だったので、最初は2人だった 
沢山来て、あっと言う間に2人では対応できなくなって、2、3年に間に7,8人に人を増やしました
ニーズは高い  本当に心底困っていれば訴えることはあるが、そこまでいかなくても、何となく不安の時に今までの病院には訴えることはあまり無かった
解決できなくても言葉を出して誰かに伝えると、随分気持ちは晴れるもの
そう簡単には解決できない  
口に出して、話を聞いてもらって、難しいですが、でも一緒に考えてみましょうかと 「一緒」という言葉が重要なキーワードです  随分心が晴れたという

病気が非常に厳しい状況で患者さんとご家族がよろず相談にお見えになった
担当者も病気を治すこともできないし、これ以上の治療法は無い
結局何の解決策は出ないんですけれども、その患者さんのご家族は涙を流して、嬉し涙だと言うんですよ
病気そのものは治せないけれども、話を聞いてもらって、心がすっきりしたと、覚悟もできたと、対話がこんなに心を慰めてくれるものだとは思わなかったと、いうような出来事があった
医師は或る意味、クールです、癌告知、状況告知をしなければならない
命を救う事は出来ないと、或るときには、患者さんに言わねばならない 
家族は納得ができない場合があり、ソーシャルワーカーや臨床心理師を置いているので、その方々がしっかり受け止めて、困難であるが、こういう考え方もあるといろいろお話してゆく
(傾聴カウンセリング的)  一緒に考えてゆく過程で自分自身の心に思うところが出てくる

他人に話すことで自分の心の整理がつくんです それがよろず相談の一つの役割だと思う
良い回答を得られることは少ない場合が多いと思うが、だけど話すことで自分の心の整理がつきましたと言われる場合が多い
心に悩みを抱えていられる方は一人で考え込まずに、どなたでもいいですから、周りの方にその心の思いのたけを話をされて、それは結局自分の心の整理につながっているんじゃないかなと良く経験します

医師の責任は、癌の場合は6割の方が完治、治癒しますが、4割の方が治せない
治せない方にも出来るだけ長くお元気で、日常生活をしていただけるように、延命と言うと言葉がきついですが、元気で過ごしていた頂ける時間を、できるだけ日常生活を元気で長く生きられるように提示して、と言う事が医師の役割です
そうはいっても完全に治せないのかというのは心の負担になるので、それを様々な形で引き受ける、カウンセリングを含めて と言うのが癌センターではやっています

解決策がないと、相談に乗っている方の負担になるのでは?  相談担当の心の負担は大きい
実際には多くの相談される方が、それはわかっているんだけれども、何とかしたいという気持ちと、話を聞いてもらいたいと、後者の場合はお話をすることで、或る程度はご満足いただいているのではないかと思う

相談の内容は? セカンドオピニオン的な 医学的な事 治療はこれでいいのだろうかと言う事
副作用強くでているが何かいい方法はないかとか、生活上のつらさを和らげる方法は無いか、暮らしの問題で、医療費がかかっているのだけれど、何かいい手立てなないかとかいろいろある
20世紀は暮らしの問題には手を出さなかったが、静岡ガンセンターにきてからは、やれるだけやろうと、そういう気持ちでよろず相談を作ったわけですから
患者さん、の悩み負担をどう和らげるか そこまでやらないと真の意味での患者、家族の支援にはならないが、スタッフとしては経験のないことだったので、そこを10年かけてすこしずつ、積み重ねてきた

ここで考えてきたことが、全国に広まってきた よろず相談と言う機能そのものも、癌の拠点病院が400あるが、そのすべてにこれと同じものを作ることが法律、又政府の計画で決まった
全国の拠点で相談に乗っていただけるようになってきている
心のケアもここで経験したことを、項目整理して、静岡分類を作った 1万件以上(1万種類)の事をリスト化して皆さんに使っていただいている(400の拠点病院に情報提供している)
就労の問題 癌になって仕事をやめなければいけなくなったという人が3割 解雇されることは少なくて自分自身で辞めることに決めたとかが、結構いらっしゃる 
お金の事が問題になる 収入が途絶える  再就職を何とかしなければいけないと、そういう相談も頂いていたので、このよろず相談が中心になって、地域の企業に紹介をすることも2.3年前から始めて、どういう形でハローワークと連携するかとか、そうい言う事が始まっている

企業はなかなか難しい 非常に脳力が高い人が沢山いますので、是非努めてくださいという方が何名かはいらっしゃいます  
雇用する側からするとなかなか雇いにくいと思う
ただ今は日本人2人に1人になるので癌が完全に治れば、元通りに働けるし、完全に治らなくても何年か働けますし、働くことが生きがいでもあるので、患者さんの心の問題としては重要な問題だと思って一生懸命にやっている
1年間に12000件が直接お越しになって相談される
後の5,6000件が電話で受けている   
静岡県民の方としているが、日本の他のところからもある

数年前からほぼ12000件 になっている   
共通した悩みはある(文章にすれば同じでも、けっして同じになることは無い)
本来は癌を治療する人間 国立癌センターに勤務していたので、何とか治したいと、研究者指向だったと思うが、一人ひとりが悩みを抱えながら、治療している
そうすると研究も大事だが、患者さん一人ひとりの悩みや負担をすこしでも和らげる方法は無いかと、年をとって考えが変わって、このプロジェクトにはいったもので、研究指向型で無く、患者指向型の病院を作るとどうなるかが、静岡ガンセンターの原点だった
その中の重要なパートがよろず相談だった

患者さんの背景になるものをもう少し手掛けないと、本当の意味で治していることにはならない
全人的医療、 病変を治すのでなく、患者さんとう人間を治す、治せない場合は苦痛を和らげる
苦痛の中には身体の苦痛も勿論あるが、心の苦痛もあるので、」両方にケアをするこれが21世紀の医療かなあとしたので、こういうものをできるだけ、取り込んで来た
治せなかった場合  4割は治せない 心の問題まで踏み込んでおかないと、その患者さんが悔いを残してしまう  一番大事なのは万が一完全に治せなかった場合は、命を落とすのは残念だけど悔いは無いよ、ありがとうと最後に言っていただけるかどうか、が勝負だと思っている
悔いがないという言葉を言っていただくと言う事は、やはり出来るだけの事をやらせていただけなければいけないと思っている

患者さんとしては、困ったことは一番理解する 相談すれば一回吹っ切れて休めますね
心をもらう様な場所がよろず相談であるといえます
暮らしが厳しいと担当医に訴えても、医者も困るが、ほっておいていいかと言うと、そうもいかない
行政が、こういう支援をしてますよとお伝えする部門があるべきだと思います
病院にもよくそういうところがあるが、敷居が高い
医者に聞くことでもないが、誰かに聞きたいが、窓口があまりはっきりしない その一つがよろず相談
医師、看護師に対する苦情 それも受け入れなければいけない 相談の1割がそういう相談
(対応としては指導あるいは担当医を変えるとかをやっている)

病院である以上、病気を治すのが1にも2にもそうなんですが、
、がないかもしれないが悩みをしっかり聞いてやる、あるいは出来れば解決して上げる
ここを今一生懸命にくっつけてやろうと思っている
脳梗塞、脳卒中は発作を起こして、3時間以内に治療をしないと良い結果が得られないことが多い 患者さんの訴えを聞いているよりも治療を先行しないといけない
癌は患者さんが考える時間がある  癌は或意味慢性の病気 時間があるので余計に悩みが出てくるし、深くなってしまう  それの対処がいわばよろず相談になる

癌の相談は癌と言う病気に関連した相談が多い
認知証、精神的な疾患 気楽に相談できる部門はこれからの医療には必要だと思う
一番大事なことは全国の癌の患者さんを診療している医療機関が相談部門が必要だと気付いた事だと思う(あっと言う間、400箇所出来たというのは、医療関係者がみんな必要だと思っていたからなのでは)
相談に乗る人のレベルを高めることが必要 講習会をやっているが、より実践的な相談をやっていて喜ばれている)
病気そのものの悩みは別にあるので、この部分を別な相談部門を考えている(患者さん)
患者さん、ご家族の方が、困った時に電話一本、あるいは直接お話しをしていただく
それが対話となって、つらさを少しでも和らげる、心の整理につながる

癌は高齢化と共に一般的には起きてくる  人間として生きている以上動脈硬化、癌は絶対に避けられない
働き盛りの癌を治すような時代は必ず来ると思うが、人間が癌から完全に命を落とすことが無くなる事は無いと思う
癌を治すことと、平行に治せない方にケアをしっかりやっていくことは今後50年100年は必要だと思っている









































2013年6月6日木曜日

香月修(作曲家)         ・和の心でオペラを作る

香月修(作曲家)  和の心でオペラを作る
新国立劇場開場 15年の節目に創作オペラ「夜叉が池」が完成し、今月25日からの講演に向けて連日稽古が行われています
このオペラは明治時代の作家 泉鏡花がちょうど100年前に書いた原作をもとにしたものです
香月さんは35年以上前に出会って、作曲の機会を狙っていましたが、今回念願がかなって自身の2作目のオペラとして完成しました
作曲の狙いは日本の美しい旋律で物語を描くことで、このオペラを見た後は、だれでも口ずさめる歌を目指したという事です

オペラに対する考え方は作曲者に取っていろいろ違うと思いますが、オペラは歌と音楽と言うものがあるのでそれを中心に舞台を作ろうと思います
演劇的な要素と音楽とのバランスですよね  演劇が主体になっているオペラが多いといわれているので、私は歌、音楽でこのオペラを作りたいとの考えが、基本的にあるので、多分そうなっていると思う
オペラのある部分だけをコンサートとして、取り出して歌える 
そういうものがたくさんあるようなオペラ、そういうイメージを持って作曲した

1913年に出来た作品 思いがけずに吃驚している
もう一回作りたいとの想いがあって、良い題材を探していたときにたまたまこの泉鏡花の作品をいろいろ知ることになって、私はこれが一番向いていると、直感的に思ったものですから、その時からこれをオペラにしたいとずーっと思っていた
越前 三国ヶ岳に伝わっている伝説を基にしたもの 言われているが

概要 あきらさんが日本全国にいろんな伝説があるわけですが、それに興味を持っている人で、探すために旅行していて、夜叉が池の 鐘つきのおじいさんのところにとめてもらった時に、ちょうどその四つに発作を起こして、死んでしまう  龍神との約束があって、日に3回突かないと、洪水になって、村の人の命は全部奪われてしまうと、言う事で誰か鐘をついてくれと言う事であきらさんが鐘をつくことになる
なぜそうなったかと言うと、百合さんと言う素晴らしい女性がいて、その人に惹かれて、妻にして一緒に住んでいる 親友が探して、あきらさんが住んでいるところに来た 再開する
百合さんは来たことを知って故郷に帰ってしまうのではないかと気をもむ
村が雨が降らなくて、村人が苦しむ状況だった 村で一番美しい人をいけにえにすることで雨を降らせるという迷信を信じて、とんでもないことをしようとする

あきらは抵抗する  村の人たちと争いになるが、百合さんはどうしようもなくなって自分で命を落としてしまう あきらも絶望して後をついで死んでしまう
鐘を突く約束が崩れてしまう 村全体が流されて、みんな死んでしまう
2人は浄化された世界で永遠の愛を誓う、と言うところで終る

台本がオペラを作るときに如何に大事かを考えているので、良いオペラが作れないと思うので、台本作りには凄く気を使った  セリフが沢山あるので音楽が長くなってしまうので、それを基本的にはカット、大事なセリフは残す  
或るところでは舞台が停止してしまうので、タイムスリップの技術を使ったりした

台本に合う音楽を作曲した  一番良い形で台本ができたと思う
深刻な場面が延々と続くと、お客さんも見ていてつらいので面白い場面も(非現実社会) コミカルな場面も作れた
台本作りは楽しかった 作曲は辛かったが
一番つらかったのはある場面ができ上って、下書きをして清書する 清書が全部終わってしまうと先が全くない状態になる お先真っ白になってしまって、その時が一番つらい 
清書を遅くらしてもらいながら、次の下書きをして、ずらしながら、やってきた(止まってしまうのが怖い)

そういった事が2年間続いた
あきら役 望月哲也  百合役 幸田浩子  「水は美しい」
ヨーロッパでは長調、短調とかあるが、その前は旋法と言うものがあり、日本の民謡とか、童歌にちょっと共通するものがある 旋法に凄くひかれる
今回の物は、日本的な音楽になっている

生まれ育った風土は、知らぬうちに何か身体の中に入ってきていると思う
この作品に惹かれた理由  百合と白雪  (二人の女性)
あきら と友人の学円 村人を引っ張ってゆく代議士、鉱蔵(悪役  アクセントになる人間)
いろんな要素がある (これは絶対オペラになるとずーっと思っていた) 
「夕鶴」にも子供たちが出てくるが、こちらにも出てきているが、和やかな雰囲気があり、重要な要素になる
歌の楽しさ、歌手に気持ちよく歌ってもらいたいと思っている

これからの日本のオペラの進むべき道?  演劇の要素の方がパーセンテージが多い
歌の場面が判って期待しているような歌の場面ができればと思っている
一番うれしいのは私の全く知らない人が、知らないところで演奏してくれること
曲は演奏すると育つ 自分の作ったのだが、自分の物では無くなってくる
曲が自立してゆく(子供のように成長してゆく 独り歩きを始める)





































2013年6月5日水曜日

山崎博道(獣医師)       ・島の獣医さんは愛馬に乗って

山崎博道(獣医師)      島の獣医さんは愛馬に乗って
瀬戸内海の淡路島  獣医の仕事を携わる山崎弘道さんは68歳 愛馬に乗って畜産農家に毎日往診に出かけています
一般道路を馬に乗って、往来する山崎さん 地元では誰一人知らない人はいない、名物獣医さんです
山崎さんが馬を飼うようになったのは、35年前からです  往診の合間に、いつしか近所の人に無料で乗馬体験の指導を行うようになりました
馬に乗りたい、馬に乗せてほしいという希望者が増えてきたために、最近では馬をもう一頭増やして、二頭で乗馬体験の指導をしているそうです
愛馬に乗って、往診を続ける傍ら、地域の人々に馬とのふれあいの場を提供している獣医師、山崎さんにお伺いしました

現在の馬は、2000年に生れて、2004年に競馬を引退して、それからずっと家にいるので9年になるので13歳になる   馬の名前はフランシス号と名乗る
往診にこの馬で行っている 出だしは ウォーミングアップが必要なので1kmは並足 時速8km
その後は早足 時速13km 淡路島は山や谷があるので 時速10kmぐらい(往診時)
瞬歩 時速70kmぐらい (短時間でではあるが)

馬は一般道路でも可能 軽車両に相当する
フランシスは人混みが好き  
蹄鉄は最大2カ月までには交換しなければいけない     爪も月に1cm伸びる 
ひずめの手入れは 35年前は蹄鉄師がいたが、淡路島にはもういない
道具を一式揃えて、最近はそれ用の蹄鉄を売っている
かなり時間はかかる 爪が割れたり、ひびが入ったりする  
誤魔化し誤魔化し、しながら打っていく

もう一頭 今年、引退した馬  馬を飼い始めたきっかけは?
高校生ぐらいから、淡路島で馬の居るところがあって、自転車で観に行ったりしたたことがある
大学をでて、研修医として、北海道にいた  
馬が放牧してあって、背中に乗ってみたら、飛び上がった瞬間に、ぱくっとかまれてしまって
あきらめた方がいいと言われた
淡路島は花とオレンジとミルクの島と言われていた
今でもウシは相当いる 県内では多いほう  3万頭ぐらいいる
20~30人の人が観ている

獣医としての仕事  繁殖障害 子供を産んでもらわないことには、乳が出ないので
ホルモンとかを使って早く妊娠してもらう  そういう仕事です
このごろは牛も減っていたので、往診件数は3~5件程度   件数が多いと車でも回りきれない
バスとか、ダンプと同じ目線  
常用馬はすべて、競走馬を引退した馬を使っている
引退したら肉になるか、あるいは極々一部は乗馬クラブに行ったり、種馬として活躍するが、大半は肉になってしまう 
馬主さんも、買ってくれる人があれば、喜んでゆずる

ハイセイコーは30歳ぐらいまで長生きしている  シンザンは36歳まで生きた
ムーンバラック号をくわえて二頭になる
どうぞ乗ってくださいと言いましたら、大体二人組で来るんですが、30代~60代までくる
夫婦とか限らない 友達  初めてのってもらって、一般道にでる
一頭ではと言う事で、もう一頭をもらいうける(園田競馬場 兵庫県尼崎にある競馬場の馬)

障害のある子供さんなどは乗せてもらうと、表情がまるっきり違ってくる
NPO法人を立ち上げて、障害児を持っているお母さんのグループで、力を入れた
最近は中高年の方にも利用していただいている(看護師の50代の友代同士とか 60代の人)
あぶみはつま先だけにする  落馬したときにすぐに抜けるように、そうしないと馬に引きずられてしまう
上下に揺られるので振動に合わせて、腰を上げたり下げたりする(2回に一回)
馬に乗ってればいい、馬が勝手に動いてくれるので 人間が馬に従う

ホースセラピー いろんな効果ができている    馬は究極のペットだという人がいる
動物たちとの触れ合いも段々少なくなってきている
馬、ヤギ、雉 ミツバチ などを飼っている 
新しい馬は強情で、恐る恐る乗ったが、凄くおとなしい馬だった
人には沿ってみよう、馬には乗ってみよう

















 












 




 

















2013年6月4日火曜日

藤崎憲治(京都大学名誉教授)   ・昆虫社会から学べ人間社会の未来

藤崎憲治(日本昆虫科学連合代表・京都大学名誉教授)
私たちの住んでいる地球は虫の惑星とも呼ばれます
さまざまな昆虫の生態を知ることで、その昆虫が持つ優れた機能を我々の生活に役立てようと、バイオミミクリーという学問が最近注目されてきています
藤崎さんは、あの臭いにおいを出すカメムシを研究の通して人間社会の在り方を見つめてきた研究者のお一人です

我々の時代は(昭和22年生れ)身の回りの自然しかなかった
自然の中に何が多いかと言うと、昆虫です 昆虫友達になるという人生から出発している
大なり、小なり、みんな昆虫少年だった   中学ごろから脱皮してゆくが(いろいろな方向に)
人間は生物が好き  蝉取りが夢中だった(とりもちで) 蝶は物凄く取りたいという気持ちになる
ヘルマン・ヘッセ エッセーの中で書いているが、 黄アゲハを取る時の心理的な高揚を長い文章でつづっている、これがある日本人の特殊な子供たちの真理ではなくて、人類の子供たちの持っている普遍的な物、あるいは大人の持っているものだと思う

モチベーションがないと、なかなか続か無い 北杜夫  東京の青山は当時原っぱが沢山あったそうなんですね 昆虫と戯れたそうですね 
なにか原点がある  原っぱがある   ここ岡山は里山がまだ残っている
今はリタイアして、自然観里 珍しい姿を写真に撮る 持ち帰ったデジカメで撮ったものを楽しむ
生態学 今西 錦司先生  棲み分け理論  エコロジーって面白いと思った
巌?先生 ホオズキカメムシを研究  集団でいることが多い 集団でいることの意味を解明したいと思った

先生からカメムシをやったらどうかと言われたが、カメムシは最初いやいやだった
ホオズキカメムシは面白かった 円陣隊形を組んで集まる(なんだろう?)
捕食者 彼らに攻撃されると、攻撃された個体は臭気を出す 
ほかの個体が感知して、蜘蛛の子を散らすように、逃げてゆく
臭気は警報フェロモンなんです  天敵を嫌がらせる、臭いにおい そういう機能を持っているだけでなく、警報フェロモンを持っていることが分かった
散った虫たちは、集まりもする(なんで集まるのか?)

臭気が濃度によって、集まったり、警報を知らせたりするのではないかと思った
化学者が濃度が高い時 突発的に出されると警報フェロモンとして機能する 濃度が遅くてゆっくり出すと良いにおいになってみんなを集める と言う事が判ってきた
臭いが情報手段 同じ物質を使い方によって、全く違う機能を持たせる
カメムシのにおいを一番嫌うのは?   鳥が一番カメムシをとらえるが、鳥は賢いので学習をして、結局は食べてしまうが、あまり効果は無いと思うが、目などを狙って放つと、一瞬ブラインドになってはっとたじろぐ、そのすきに逃げる という効果はある

一番嫌っているのは、蟻なんです 蟻は徹底的に嫌う 
科学的構造が一緒なんです  蟻の警報フェロモンは、逆にいえば科学的に、化学的に擬態をしている  同じような物質を生産して、蟻に食べられない様にしている
蟻と言うのは、自然界の中で最大の捕食者なんです  
圧倒的な数、社会性を持っている、優れた昆虫なんです
カメムシは臭いにおいを蟻のフェロモンに似た物質を放出することで、自然界で上手い事成功している

科学にはいろいろあると思っている 
①社会のための科学 応用的にいろんなものに役立つ
②科学のための科学 知りたいと思う気持ち それを提供する それも科学の役割だと思う
ミツバチ 蜜を取る昆虫と思われているが、もっと大きな役割は花粉媒介 なんです
これがなければ果実は生産できない 
実らない ミツバチとかの存在がなければ、食糧生産の凄い減産になる 
自然の生態系がくずれてしまう 
ミツバチが1年間でそのような仕事をお金に換算したら、3500億円と言われています

研究して、人間の生活に役立てている  生物が持っているデザイン、機能、生活様式を真似て、 ミミクリー (模倣) 真似て、新しいテクノロジーを作る
自然を真似ることによって環境に優しい、より持続的な新しいテクノロジーができるのではないかと言う信念を持っている
工学者が昆虫学者、生物学者と手を組んで、そういう学問をどんどん進展させていこうという機運が、盛り上がってきている

撥水性 水をはじく性質  甲虫の羽根、蝶の羽 を真似た物質を作る 塗装とかに使おうとする
玉虫 綺麗な虫  科学的に構造を解析して、塗料に応用する 太陽に当たると脱色してきてしまうが、構造色なので、いくら太陽に当たっても脱色しない 
繊維、車の塗料などに応用されている(市販されている)
アフリカのある都市で使用されているが、アフリカに生息するオオキノコシロアリという大きなアリ塚を作るシロアリの巣の構造、 構造解析をすると、素晴らしい構造になっていて、地中から吹き抜けの様になっていて、無数の穴があって、風が循環している、外気温が40度、50度になっていても30度を維持している

地中からシロアリが水を持ってきて、充散してと言う事もありますし、吹き抜け構造になっているので、空気が流れる素晴らしい構造になっている
これを真似て、新しい人間のための夏でも涼しい、エアコンがいらない、建物ができるのでは
ジンバブエと言うところでは、ショッピングセンターで真似て作っている
モスアイ  無反射構造になっている  モバイル画面、TVは反射して見にくいが、そういったものを使うと凄く見やすい
目指すところは省エネの持続性のある技術 石油に依存しないで、そういうものを作っていかないと人類は先が危ないねと言う事になる

昆虫が小さいメリット 使っている資源が少なくて済む   小さいからこそ飛べる
昔、羽根の長さが1mぐらいあるトンボ  絶滅した
小さいものは世代の交代が早い  環境変化に素早く対応できる
昆虫はそれに対応してきた   足をいろんな羽根にしてみたり、触角にしてみたり、形態を変えて、別の機能を持てるように作りかえる天才なんです
進化は偶然と必然とのミックスの産物 
頭部  触角(臭い感じる感覚、触る感覚、目、脳、 感覚の中枢が頭部
脳は頭部、胸部、腹部、(各節にある)  分散脳 頭が無くても飛べる
胸部に足があり、羽根があるから危険な時は動作が速くできる

抽象観念は人間が一番得意とするところ
ミツバチでの研究 同じ色 赤を連続して与えたら報酬を上げる 赤と黄色(色を違えたら)を与えたら報酬を与えない  連続した色の場合のトレーニングをする
色だけでなく、形とか連続した同じものを与えられたら報酬を与える まるを連続して与えたら報酬をもらえると思うんです  ○と△だと駄目  
連続しているという抽象的な事に対して識別している  
ミツバチは脳の重さが体重との比で比べると、人間と変わらない

人間て、人間じゃないですか、人間中心に考えてしまう
視覚、嗅覚  人間より鋭敏  自分が見ている、接している環境は全て生物にとって普遍的
人間中心主義を出してみて、違う論理でもう一回見直してみる  
人間中心主義から如何に脱却できるか それがこれから重要なポイント
そうなれば他の生物だって賢く生きているのだなと、尊敬、畏啓の念が出てくる
人類のために私たちはしているという観念、目的意識 そうじゃなくて 一番の文明の目標は如何に絶滅する種類を少なくできるか、そういうことを最大の目標にすれば、自分たち、人類に還元される  
自分たちの存続のためにとは思わない事 地球上のすべての生物の存続に意識をスイッチングする
人間がいないほうが、自然生態系は存続する 逆に自然生態系がなければ、存続できない
これが自明の理
他の生物たちと共存するしかない  人類によって沢山の種類を絶滅されている
10~20%は人類によって絶滅されていると思われる
温暖化、熱帯雨林の伐採  何とかしないと人類も危ない
生物多様性をどの程度理解しているのか  分類学は古いものだと思われてしまっているが生物学の本当の基礎なんです(危機に直面している)
しっかり、整えていかないといけない
生物側の方から思考することが求められる







































 




















2013年6月3日月曜日

小泉和子(館長)         ・昭和30年代に暮らし、昭和30年代の暮らしに学ぶ

小泉和子(館長)     ・昭和30年代に暮らし、昭和30年代の暮らしに学ぶ
昭和8年 東京生まれ 昭和33年に女子美術大学の洋画科を卒業、昭和45年から5年間東京大学の建築史研究室の研究生として、日本の家具、室内衣装史を研究して、工学博士号を取りました
小泉さんは14年前から、かつて一家が住んでいた、東京、大田区にある住宅を家財ごと、昭和の暮らし博物館として保存し、昭和の暮らしを考える様々な企画やイベントを行ってきました
最近は昭和の暮らしの学校を立ち上げています
これは高度経済成長期以前の日本人が持っていた生活技術や、人を育てる力を体験講座などを通して、取り戻そうというものです

1999年に博物館、設立 14年間になる  暗闇の海に一人で漕ぎ出すような気持ちで始めた
ここに昭和が有るというたたずまい  子供は小学生が来て、「おかあさんなつかしいねえ」と言う  「あんた知らないでしょう」というと 懐かしいという  何人もが言う
あのようなたたずまいが、懐かしいという言葉にあっているのではないかと、子供ながらに思うのではないんでしょうか
こんな小さいところに良くいましたねとか、逆に言われたりすることもある

1951年 昭和26年に父が建てた  住宅金融公庫を利用した  
9坪~18坪が規制基準になっていた  建てた家を担保として国が貸してくれる
住宅金融公庫の一つの例として、平成14年に国の登録文化財に指定されている(18坪)
土地は80坪から100坪用意しろと言われていた
平成4年まで住んでいた  空き家になってしまったが、取っておきたいと思った
父が自分で設計して、自分で監督して作りましたから、割と傷まないで残っていた
当時の家財道具も残っていて、どのように暮らしていたかの記憶が残っている

昭和の暮らし博物館 30年代前半が色濃く残っている
昭和33年に大学を卒業 34年に結婚 38年に目黒に移転 東京オリンピックが39年
昭和34年~40年まで岩戸景気(35年に池田内閣の所得倍増計画)
43年になると GNPの自由世界の第2位になる
昭和30年  55年体制  このころ電気がま、トランジスターラジオが発売
29年に3種の神器が登場 TV、洗濯機、冷蔵庫  団地も発足
35年 冷蔵庫が5% の普及率 
40年 冷蔵庫が50%になり、53年になると99%となる 凄い普及率だった
41年に新3種の神器 と言われて、カラーTV、クーラー、車 

生活の面では
32年にはスーパーマーケットのダイエー1号店が、大阪で開業
33年は東京タワーが完成(年末) 即席ラーメンが登場 
36年にレジャーブーム 39年に海外旅行が自由化  45年が万博

どの時代も光と影があるが  
30年代は敗戦後の混乱から立ち上がって、経済成長に進んだ時代  
日々生活の豊かさを実感していた まだまだ30年代は貧しかった 
家電製品が次から次へと出てくる  アイロン、扇風機が買えるとは思えないようだったが
アメリカの生活様式がモデルとして、入ってきた  そういった大きな目標があった
戦争がないという安ど感 家父長制の廃止 男女同権 地主小作の廃止 それまで人々を縛っていたさまざまなものから、解放されていった (実感して行った)
家族、地域社会のつながりはあった (近所仲良くしていた)  家族構成は多かった
子供たちも手伝ったりしていた 一家団欒という時代 ラジオ聞きながら食事をすると言うような

経済成長こそ、何より大事と言って工業化に突き進んでいった
物を持つ事、お金を儲けることが目標になって、進んでいった、公害、環境汚染、環境破壊とかが凄く進んで 3大公害病 喘息、イタイイタイ病、水俣病 40年代に入って顕在化する
お金第一と言う事になって、お金に対して貪欲になり、義理も人情も振り捨てちゃうというように、これによって荒廃していったと思う
政治に対して絶望したり、無関心になっていった  格差社会になってしまった(現代)

豊かな生活だけが目標になっていった  
便利で快適であることが生活の豊かさだと勘違いしてきたと思います
具体的に言うとアメリカの生活様式  それが素晴らしいという事で伝統的な生活様式 文化を否定してきちゃったので、家を壊して、街を壊して、共同体を壊して、家族崩壊、孤独死と言うような社会になってしまう元を、30年代には気付かずに、どんどんそっちの方に進んでいってしまった
そこが出発点で有ったなあと、日本の伝統文化も否定されたものですから、日本人としてのアイデンティティーというか、基盤を失ってしまった

唯なつかしむだけではなく、今の生き方に当時の利点を、どう生かしていくかになると思う
一番落としてきたものが、精神的なもの 物質ではなく精神的な豊かさと言うものを、生きる目標と言うか、回顧されて懐かしい、注目されているかと言うと、現在の生活に人々が幸福感を感じていない
物は豊かになって、車は持った、エアコンも持った、しかし充実感がない
何となく将来への不安と言うものがあって、生きる目標が見つからない 精神的な空虚感がカルト集団が沢山出るようになったりもした
軌道が間違っていたと思う  物質的にはもう充足してしまった

昭和30年代の暮らしが日本人にとっていいのではないかと思っている
日本は貧乏文化を洗練してきた国だと思う  金持ち文化は日本にはない
生活文化は歴史的に形成されてきたものが、生活文化としてあるので、日本は大金持ちになった事がない しかし、恵まれた自然があった
自然を大事にして勤勉に働けば生きていけることができる、という そういう事で自然を非常に大事にする

あまり電気を使わず、自分でやれるような力を持たなくてはいけないと思う
多少の不便はある 人間の絆、つながりがあって、人々が助け合っていたという事が皆さん良いと受け取られている
そのためには働かなくてはいけない、骨を折らなくてはいけない 我慢もしなければいけない、自己犠牲もしなくてはいけない  こういったことが30年代の生活を支えてきた
ところが、それが嫌 嫌なことはしたくないというのが、ずーっと一貫している
しかし嫌なことをすることによって人間が育つ  子供もお手伝いして、理解してゆく

地域社会 今から見るとおせっかいと言われるような感じだったが
昭和暮らしの学校 震災以後絆は大事だと判ってきているが、自分で生きてゆく力を取り戻す必要があると思っった
石見銀山にある熊谷家住宅という重要文化財の建物の館長もしているので、石見に良くいく
そこと、昭和の暮らしの家で 夏休みに親子教室を開く
定期講座で資格認定 教える人も育てようと思っている(先生になっていただく)  修了証書
および教えることの出来るような資格認定

「家を残し、暮らしを伝えて、思想を育てる」 
イベント、勉強をする中でいろいろ考えていただきたいと思う
物で無い、精神的なものを目標にしてゆく





























 

2013年6月2日日曜日

大竹史郎(シンガーソングライター)    ・南米フォルクローレ・ギターに魅せられて

大竹史郎(シンガーソングライター)   ・南米フォルクローレ・ギターに魅せられて
東京都出身 単身ニューヨークに渡って、25年 ニューヨークに住んで、南米アルゼンチンを中心としたフォルクローレ・ギターのシンガーソングライターとして、ファンが多く活躍しています
5月25日に東京表参道の能舞台でのコンサートの為に、日本に滞在中の大竹さんにこれまでの
人生を伺いました

5月7日に日本に帰国 8日にアルゼンチン大使館でミニコンサートを行った
日本の「ユパンキ」 と言われている ユパンキは亡くなって20年経つ 
スペインと先住民との血を受ける 父は先住民系 母はスペイン系 
ユパンキ の大図鑑のような本がアルゼンチンで出た その中に4人 直系の弟子として考慮されるような文があるが、その4人にアルゼンチンから2人、ブラジルから1人、日本人から私が選ばれた
ユパンキのまねをしてギターを弾いているだけでなく、彼の音楽を自分が日本人なので、日本人の魂とか心になんとかそれを融合させて、自身の音楽を作ろうと、その自分の音楽の中からユパンキが見えてくれば、精神性が反映できればと、そういう考えでいます

ユパンキとは違うスタイルでありながら、各々の個性を出して、それをさらにユパンキの精神性を反映させるというアーティストが4人直系の弟子として認められる
コピーとかまねでなくて、自分の中に融合させて、それに自分の音楽を磨いてゆくと考え方でいるので選ばれたのは嬉しい
ニューヨークにいると刺激に敏感になる 歩いているだけで、地面の下からゴンゴンゴンと鼓動が伝わってくるような感覚 音楽を作るのはいつもニューヨークです
街自体が移民を受け入れて、発展してきた街なので、独特な力強さ、独特なエモーションがあるし、エネルギーがある

25年ニューヨークにいるが、あの街を一言で言うならば、みんなの故郷になり得る街、そういう印象を持ちます
最近バッハの音楽を南米の調べに取り入れているが、「アルゼンチン風バッハ」 なんて言う風に名を打っているが、ユパンキの文学 (ユパンキは音楽家だけでなく素晴らしい詩を書いた) その詩を私がバッハの音楽を演奏する バッハの音楽にあわして詩を朗読してもらう
ジュリヤードという音楽学校があって、知り合いがピアノで講座を持つというので、参加した
そこで彼女がバッハの名曲中の名曲と言われた無伴奏バイオリン パルティータ 第二番シャコンヌ
シャコンヌのリズムがもともと中米のマヤにルーツを持つという、そういう話をして、それが今の自分を支えているぐらい、凄いインスピレーションを受けました

ユパンキもやはりバッハが好きで、自分の好きなバッハのシャコンヌがマヤ文明のルーツを持つという事で、これは自分がバッハを演奏する大義名分を得たような気がした
マヤ文明はスペインが滅ぼしたわけですが、スペイン軍がマヤの土着の踊りであったシャコンナをヨーロッパに持ち帰ってそれが爆発的にはやった
これは自論ですが、もしかするとこれをバッハが踊りを見て、聞いて、これはとても面白いなあと思って作ったんじゃないかと思う バッハは子供のころペルーの歴史に興味を持って研究していたと本に記載されている

バッハの宇宙的エネルギーというかエモーションはラテンアメリカにも少しはそのルーツがあるのではないかと自論を立ち上げて、「アルゼンチン風バッハ」と言うものをやりだした
「アルゼンチン風バッハ」を2度ほど東京でリサイタルした
ニューヨークへはダンスを勉強しようとして出かけた 大家のところで踊りの練習をしていた 或る日ギターが一本置いてあって、懐かしいなあと弾きだした 「ユパンキの栗毛の馬」という曲が出てきた  そうしたら大家のおじさんが顔色変えて出てきた  
「おーいなんでその曲を知っているんだ」と怒鳴った  私はアルゼンチン出身でユパンキの大ファンだと大家が言う   ユパンキに子供のようにかわいがられたギター奏者の友達がいて、彼が聞いたら感激するから、彼を家に呼ぶから彼と話してくれと言われる 

彼はエドワルドという名前 これは驚いたという これはまるでユパンキと同じ音だと言って アルゼンチンに行ってあってこいと言われる(ダンスではそこそこやっていてようやく面白くなってきた時期で3か月後ぐらい)  
「ギジェルマおばさんにささげる歌」も好きだといった  エドワルドがニコっとした
ギジェルマおばさんは私のおばあさんだよという 吃驚した(ニューヨークでないと起こらない出会い)
行った方がいいのではないかと思った 天命に近いものではないかと思った
ユパンキは別荘を持っていて、風光明美なところ そこに呼んでくれた
ユパンキが来る前に、バーの様なところで飲んで、若い男性、特に若い女性が多くいる、歌を歌えて、ギターができて、踊りも踊れるという事でアイドルみたいになってしまった 
夜中に一段落してスペイン語講座が始まるが 綺麗な女性が10人ぐらい周りにいてスペイン語を教えてくれる(まるで竜宮城のような感じだった)
その後ユパンキにあって、歌ったり、演奏したりした

ユパンキはちょっとがっかりしたらしい(踊りで来ていたのでギターはあまりやっていなかったので)
でもちゃんとクラッシックギターを勉強しているなあと思ったらしく、一曲クラシックを弾いてほしいといわれて、バッハの曲を一曲弾いた  そうしたらユパンキが、バーっと身をのりだして聞いていた
凄い良いと感動する 俺のギターの曲を何か弾けないかと言われる
「恋するハトの踊り」を弾く  と違いを指摘してギターを持ちだして、教え始めてくれた
村の川のせせらぎ、風の音、小鳥のさえずり、と音が同化した
13歳の時に聞いたユパンキの音とタイムスリップして、感動がワーッときた
いまこの巨匠が出してくれた音を追い求めることができるならば、一生追い求めても、悔いはないのではないかと、直感した  この村で自分の人生は180度転換した

ユパンキが書いた詩に「広島 忘れ得ぬ街」 がある  その詩を私が見て、本当に感激した
それに曲を付けた 自然にメロディーが直ぐに湧いてきた(演奏許可をもらった)
1992年に広島に迎えられて、そこで披露した  10分近くある(朗読ふう)
今回、能舞台でコンサートがある 一番期待しているのは、様式美なんです 
能舞台は日本の伝統芸能の中で最も様式美にみちたアート  能舞台が持つスタイリッシュと音楽にあるスタイリッシュは パフォーマーとしてのスタイリッシュは面白いものになるのではないかと思う
「はるか遠方より来る語りべ」である自分が一体、どんな形で融合するのか、楽しみです
子供たちの指導にも力を入れているが、アメリカの子供たちは目が輝いている(すぐ反応する)
日本に来て、今日ここまで歩いてきたが、肩で風を切っている奴はほとんど見ない
ニューヨークでは肩で風を切って歩いている奴が多い 見ていて気持ちがいい








































2013年6月1日土曜日

北方謙三(作家)        ・世界で感じた多様な文化と人との絆

北方謙三(作家)  ・世界で感じた多様な文化と人との絆
佐賀県唐津市で生まれる 1983年 昭和58年に 「眠れ無き夜」で日本冒険小説協会大賞と吉川英治文学新人賞、その後2004年 平成16年には「楊家将」で吉川英治文学賞 2006年 平成18年には水滸伝全19巻で司馬遼太郎賞 2011年 平成23年には「楊令伝」では、毎日出版文化賞特別賞などを受賞しています 
直木賞、吉川英治文化賞、江戸川乱歩賞の選考委員などもしています

小学校5年まで唐津市にいた 目の前が海で実にきれいな海だった
潜ると砂紋ができていて、そこにめごちとかが腹ばいになっていて、手を突っ込むと赤貝があり、それがおやつだった 取り方、貝の割り方はガキ大将が知っていて、教えてくれた
ガキ大将はほかにも一杯知っていて指示する(子供社会のルールを知る)
農業も、米と西瓜を作っていて、秋になると柿の実がいっぱいあり、取って食べると口が動かなくなる(渋柿)  熟柿になると上手い   実に良い自然があった

ミャンマー(ビルマ)は、水が豊かで3期作  佐賀のコメはおいしい   酒もうまい(常温でのむ)
ミャンマーはちょうど昭和30年代の農村の風景が広がっている
ミャンマーはイギリスが統治していた ベトナム、ラオス、カンボジアはフランスが統治していた
食物まで統治していて、食文化まで残した フランス統治領は食べ物はうまい  
ミャンマーはカレーだけ   ミャンマーもやっと民主化した   
前回行った時は軍事政権で、あってはいけない人に1時間ばかりあった 
そうしたら、つかまって国外退去にされた(それからはビザを貰えなかった)
今年、行こうかと思ってビザがとれないかと思ったら、簡単に取れた

ラオスに行った時は、お金はほとんど使わなかった 腹いっぱい食べても凄く安い
カンボジアに行って、トンレサップ湖がある 湖の上に100万人以上が住んでいる
乾季は縮まって琵琶湖の4倍ぐらいになるが、雨季になると琵琶湖の10倍ぐらいになる
奥地に日本語を話す爺さんがいるというので、会いに行った
爺さんは、私はポルポトつかまっていたという
ずらっと人が並んで殺された 銃ではなくなたで頭をたたき割る
ポルポトは 眼鏡をかけたら殺された インテリはいらないという事で

こうやって死ぬのかと思ったので、ジャングルに逃げて、逃げ通せた
ポルポトが死んで、段々自由になって、いろんな事が出来るようになったときに教育を始めた
その教育の中で、ノート、鉛筆、学用品をすこしずつ、すこしずつ寄付してくれるところがあった、それが佐賀なんです
「フロム佐賀」 カンボジア人の心の中にいる
佐賀の人はあまり宣伝は上手くない  佐賀の人はひっそりと、つつましやかに、でも心をこめてやっている

私の旅行は変な旅行が多い 11時30分から2時ぐらいまでは、暑くて誰もいない
そこを歩く  都会ではなく、田舎をゆく
東ドイツにいったら、人々に元気がなかった  或る時窓から見ていたらぞろぞろ歩いている
一緒に歩いて行ったら、ブランデンブルグ門があるが、壁沿いに歩いて行ったら、広場があり広場に2000人ぐらいが集まっている(5人以上の集会は禁止されている) なんだろうと思って見たら、壁際に、ずら―っとシェパードが20頭ぐらい並んでいる 
シェパードが一挙に放たれた 必死で逃げて、息を切らせながら店の人に聞いたら、こいつらはなんか聞きたくて集まったらしい デヴィッド・ボウイだという  デヴィッド・ボウイが西側の壁の方でコンサートをやっているとのこと  微かに風に乗って、音が聞こえてくる それを聞くのだという

とぎれとぎれで良いからライブを聞きたかったという 馬鹿かと思ったが、それは純粋で一途 それが青春だと思う  それから2年後に壁を人々が崩したのは
壁が崩壊した後に行ってみたが、もうすでに西側のタクシーが走っていた

時計に4つの国の時間を示す時計を使っている  日本以外に3つの国の時間をセットしているタクラマカン(中国大陸の一番西の端)ペルーアンデス(4500mのところに村がある) コートジボワール(西アフリカ 内戦が起きてしまった)
ペルーアンデス3日かかって登った  
高度順応して時間をかけなくてはいけないので、時間が無く結局、行くことはできなかった 
そこは本当に素朴なところで、夜は星が凄くて、家の隅に囲いがあってハムスターみたいなものを飼っていて、今日どれ食うと言って、きゅっとひねって焼いて、それを蛋白源にする
じゃがいも 食えない 紫外線が強くて毒がある  そのじゃがいもを家の周りにばらまく
昼間の光に当たる 夜凍る  昼間は40から50度 夜は零下10度~20度になる
それの繰り返しによって、ぶよぶよになる それを村人が全員で足で踏み潰す、そして水を取り除く、そうすると おせんべいみたいなジャガイモになり、焼いたり、あぶったりして食べる

そういうところ人は想いやりを持ってたりする 人はあまり豊かだといけないのかなあと言う気がする
モロッコ 内戦やっていたが、奥地ではゲリラがいる 
国連停戦監視団が来ていて、安全かときいたら、モロッコはパーフェクトに安全だという 
国連停戦監視団が入って一週間になるからという  モロッコは目が合うと金をくれという 
働いたらどうかと言うと、おまえは富める者、俺は貧しいもの、富めるものが貧しいものに施しをすると、アラーの神に救われるという
絶対金をやらない  安全だというので一人で砂漠を車で行く  
岩山から15人ぐらいが現れて全員が手りゅう弾、自動小銃を持っている パーフェクトに安全だと言われていたが、自動車もパスポートも、全部取られてしまった 無事だったのが腕時計  自動車に15人乗って行ってしまった

運任せで歩いて行ったら、30分ぐらいで村があった この村で助けてもらおいうと思って、ゲリラにみんな持っていかれたと、車まで持って行かれた、パスポートも持って行かれた、やっぱり金をくれと言われたが、僅かですけど金をくれたんです。
その状況では、彼らが富める者、私が貧しきもので、アラーの神に救われるためにわずかな金をくれました 水を飲ましてもらって、トラックがあるから乗っていくかと言われて、乗ってゆく
豚が一杯乗っていて、豚と一緒に街まで載せていってもらった

軍隊に乗り込んでいって、「安全だと言ったじゃないか」と怒鳴りこんだ マラケッシュと言う街
強盗だから、警察に行けと言われる フランス語しか通じない 英語をしゃべる人間を呼んでくる
それが囚人で手錠をかけられてべらべら英語をしゃべる
どうしようもないから、大使館に行って再発行してもらうようにと言われる
写真屋に行って撮ってもらう  東洋人でその写真屋で取ったのは初めてだという事で写真が展示されていると思う

車での事故で車が5回、回る (ラリー試走隊に加わった時の事) 死にそうになった
手を動かせ と言われて手が動く 足を動かせと言われて足も動いた 
立ち上がれと言われて立ち上がれなかった(シートベルトをしっかりしていた) 
そしてそんな状態で北京までゆく
別れ際、一緒に行っていたジャンマリーと言う人間が 世界チャンピオンシップを取った時のバッチをくれて別れた(私は東京に帰る)

その年の年末のパリダカールのラリーにジャンマリーが参加して、私と同じ事故で死んだ
私は運転のシートをしっかりして、シートのなかで振られなかった
緩く締めているとシートの中で振られてしまう
2ヶ月後にパリに行く ジャンマリーを偲んできたのに、みんなが謙よく来た、一緒に飲みに行こうという   なあ謙 おまえはあの時に死んだかもしれない、だが おまえは死んでない 俺はお前を忘れない みんなお前を忘れない
忘れない限り、生きているんだよ  だから、ジャンマリーは生きているんだよ

そうか、それがフランス人の死生感かと思うと、やっと納得できて、ジャンマリーは生きているんだんなあと、私がここでこういう話をしても、ジャンマリーは生きてるなあと思います
だから、人にとっては生き残った人が、死んだ人間にできることは何一つないいんです
お経をあげても、お線香をあげても、生き残った人間のためなんです
唯一つできることは、忘れない それだけなんです  それさえあれば、死と言うものは死ではなくなる
死と言うのは忘れないという言葉に重ね合わして、受け止めておけばいいんだろうと思います
こうして生きていて、旅をしてみて、何が大事か きちんと明日を持つこと 明日ちゃんと生きよう
今日ちゃんと生きた それをもうちょっとちゃんと生きようと思うと何か新しい事が出来るんですよ
私はいつもそう思って生きています 故郷でこうやってしゃべれることは、私の喜びです
疲れたときに帰ってこいよと言ってくれたガキ大将がいる
こういった講演をして、皆さんと顔見知りになる 皆さんがどっかで歩いていると こないだの講演聞いたぞと言ってくれる それが人生のえにしだと思います
一期一会だとおもちゃいけません もう一度会える そう思いましょう