2013年6月1日土曜日

北方謙三(作家)        ・世界で感じた多様な文化と人との絆

北方謙三(作家)  ・世界で感じた多様な文化と人との絆
佐賀県唐津市で生まれる 1983年 昭和58年に 「眠れ無き夜」で日本冒険小説協会大賞と吉川英治文学新人賞、その後2004年 平成16年には「楊家将」で吉川英治文学賞 2006年 平成18年には水滸伝全19巻で司馬遼太郎賞 2011年 平成23年には「楊令伝」では、毎日出版文化賞特別賞などを受賞しています 
直木賞、吉川英治文化賞、江戸川乱歩賞の選考委員などもしています

小学校5年まで唐津市にいた 目の前が海で実にきれいな海だった
潜ると砂紋ができていて、そこにめごちとかが腹ばいになっていて、手を突っ込むと赤貝があり、それがおやつだった 取り方、貝の割り方はガキ大将が知っていて、教えてくれた
ガキ大将はほかにも一杯知っていて指示する(子供社会のルールを知る)
農業も、米と西瓜を作っていて、秋になると柿の実がいっぱいあり、取って食べると口が動かなくなる(渋柿)  熟柿になると上手い   実に良い自然があった

ミャンマー(ビルマ)は、水が豊かで3期作  佐賀のコメはおいしい   酒もうまい(常温でのむ)
ミャンマーはちょうど昭和30年代の農村の風景が広がっている
ミャンマーはイギリスが統治していた ベトナム、ラオス、カンボジアはフランスが統治していた
食物まで統治していて、食文化まで残した フランス統治領は食べ物はうまい  
ミャンマーはカレーだけ   ミャンマーもやっと民主化した   
前回行った時は軍事政権で、あってはいけない人に1時間ばかりあった 
そうしたら、つかまって国外退去にされた(それからはビザを貰えなかった)
今年、行こうかと思ってビザがとれないかと思ったら、簡単に取れた

ラオスに行った時は、お金はほとんど使わなかった 腹いっぱい食べても凄く安い
カンボジアに行って、トンレサップ湖がある 湖の上に100万人以上が住んでいる
乾季は縮まって琵琶湖の4倍ぐらいになるが、雨季になると琵琶湖の10倍ぐらいになる
奥地に日本語を話す爺さんがいるというので、会いに行った
爺さんは、私はポルポトつかまっていたという
ずらっと人が並んで殺された 銃ではなくなたで頭をたたき割る
ポルポトは 眼鏡をかけたら殺された インテリはいらないという事で

こうやって死ぬのかと思ったので、ジャングルに逃げて、逃げ通せた
ポルポトが死んで、段々自由になって、いろんな事が出来るようになったときに教育を始めた
その教育の中で、ノート、鉛筆、学用品をすこしずつ、すこしずつ寄付してくれるところがあった、それが佐賀なんです
「フロム佐賀」 カンボジア人の心の中にいる
佐賀の人はあまり宣伝は上手くない  佐賀の人はひっそりと、つつましやかに、でも心をこめてやっている

私の旅行は変な旅行が多い 11時30分から2時ぐらいまでは、暑くて誰もいない
そこを歩く  都会ではなく、田舎をゆく
東ドイツにいったら、人々に元気がなかった  或る時窓から見ていたらぞろぞろ歩いている
一緒に歩いて行ったら、ブランデンブルグ門があるが、壁沿いに歩いて行ったら、広場があり広場に2000人ぐらいが集まっている(5人以上の集会は禁止されている) なんだろうと思って見たら、壁際に、ずら―っとシェパードが20頭ぐらい並んでいる 
シェパードが一挙に放たれた 必死で逃げて、息を切らせながら店の人に聞いたら、こいつらはなんか聞きたくて集まったらしい デヴィッド・ボウイだという  デヴィッド・ボウイが西側の壁の方でコンサートをやっているとのこと  微かに風に乗って、音が聞こえてくる それを聞くのだという

とぎれとぎれで良いからライブを聞きたかったという 馬鹿かと思ったが、それは純粋で一途 それが青春だと思う  それから2年後に壁を人々が崩したのは
壁が崩壊した後に行ってみたが、もうすでに西側のタクシーが走っていた

時計に4つの国の時間を示す時計を使っている  日本以外に3つの国の時間をセットしているタクラマカン(中国大陸の一番西の端)ペルーアンデス(4500mのところに村がある) コートジボワール(西アフリカ 内戦が起きてしまった)
ペルーアンデス3日かかって登った  
高度順応して時間をかけなくてはいけないので、時間が無く結局、行くことはできなかった 
そこは本当に素朴なところで、夜は星が凄くて、家の隅に囲いがあってハムスターみたいなものを飼っていて、今日どれ食うと言って、きゅっとひねって焼いて、それを蛋白源にする
じゃがいも 食えない 紫外線が強くて毒がある  そのじゃがいもを家の周りにばらまく
昼間の光に当たる 夜凍る  昼間は40から50度 夜は零下10度~20度になる
それの繰り返しによって、ぶよぶよになる それを村人が全員で足で踏み潰す、そして水を取り除く、そうすると おせんべいみたいなジャガイモになり、焼いたり、あぶったりして食べる

そういうところ人は想いやりを持ってたりする 人はあまり豊かだといけないのかなあと言う気がする
モロッコ 内戦やっていたが、奥地ではゲリラがいる 
国連停戦監視団が来ていて、安全かときいたら、モロッコはパーフェクトに安全だという 
国連停戦監視団が入って一週間になるからという  モロッコは目が合うと金をくれという 
働いたらどうかと言うと、おまえは富める者、俺は貧しいもの、富めるものが貧しいものに施しをすると、アラーの神に救われるという
絶対金をやらない  安全だというので一人で砂漠を車で行く  
岩山から15人ぐらいが現れて全員が手りゅう弾、自動小銃を持っている パーフェクトに安全だと言われていたが、自動車もパスポートも、全部取られてしまった 無事だったのが腕時計  自動車に15人乗って行ってしまった

運任せで歩いて行ったら、30分ぐらいで村があった この村で助けてもらおいうと思って、ゲリラにみんな持っていかれたと、車まで持って行かれた、パスポートも持って行かれた、やっぱり金をくれと言われたが、僅かですけど金をくれたんです。
その状況では、彼らが富める者、私が貧しきもので、アラーの神に救われるためにわずかな金をくれました 水を飲ましてもらって、トラックがあるから乗っていくかと言われて、乗ってゆく
豚が一杯乗っていて、豚と一緒に街まで載せていってもらった

軍隊に乗り込んでいって、「安全だと言ったじゃないか」と怒鳴りこんだ マラケッシュと言う街
強盗だから、警察に行けと言われる フランス語しか通じない 英語をしゃべる人間を呼んでくる
それが囚人で手錠をかけられてべらべら英語をしゃべる
どうしようもないから、大使館に行って再発行してもらうようにと言われる
写真屋に行って撮ってもらう  東洋人でその写真屋で取ったのは初めてだという事で写真が展示されていると思う

車での事故で車が5回、回る (ラリー試走隊に加わった時の事) 死にそうになった
手を動かせ と言われて手が動く 足を動かせと言われて足も動いた 
立ち上がれと言われて立ち上がれなかった(シートベルトをしっかりしていた) 
そしてそんな状態で北京までゆく
別れ際、一緒に行っていたジャンマリーと言う人間が 世界チャンピオンシップを取った時のバッチをくれて別れた(私は東京に帰る)

その年の年末のパリダカールのラリーにジャンマリーが参加して、私と同じ事故で死んだ
私は運転のシートをしっかりして、シートのなかで振られなかった
緩く締めているとシートの中で振られてしまう
2ヶ月後にパリに行く ジャンマリーを偲んできたのに、みんなが謙よく来た、一緒に飲みに行こうという   なあ謙 おまえはあの時に死んだかもしれない、だが おまえは死んでない 俺はお前を忘れない みんなお前を忘れない
忘れない限り、生きているんだよ  だから、ジャンマリーは生きているんだよ

そうか、それがフランス人の死生感かと思うと、やっと納得できて、ジャンマリーは生きているんだんなあと、私がここでこういう話をしても、ジャンマリーは生きてるなあと思います
だから、人にとっては生き残った人が、死んだ人間にできることは何一つないいんです
お経をあげても、お線香をあげても、生き残った人間のためなんです
唯一つできることは、忘れない それだけなんです  それさえあれば、死と言うものは死ではなくなる
死と言うのは忘れないという言葉に重ね合わして、受け止めておけばいいんだろうと思います
こうして生きていて、旅をしてみて、何が大事か きちんと明日を持つこと 明日ちゃんと生きよう
今日ちゃんと生きた それをもうちょっとちゃんと生きようと思うと何か新しい事が出来るんですよ
私はいつもそう思って生きています 故郷でこうやってしゃべれることは、私の喜びです
疲れたときに帰ってこいよと言ってくれたガキ大将がいる
こういった講演をして、皆さんと顔見知りになる 皆さんがどっかで歩いていると こないだの講演聞いたぞと言ってくれる それが人生のえにしだと思います
一期一会だとおもちゃいけません もう一度会える そう思いましょう