小松由佳(ドキュメンタリー写真家) ・シリアの家族を撮り続けて
地中海沿岸に位置する中東の国シリア、文明の発生地としても知られ古代から東西を結ぶ交通の要所として栄えてきました。 しかし2011年から続く内戦により去年12月のアサド政権崩壊後も不安定な情勢が続いています。 ドキュメンタリー写真家の小松由佳さんは内戦前からシリアで暮らす人々に魅せられ、カメラでその姿を追い続けてきました。 2013年にはシリア人のラドワンさんと結婚、2人の子供の母にもなりました。 しかし夫ラドワンさんの家族も内戦によって故郷を奪われ、難民となります。 平和に暮らしていた家族が内戦によって翻弄される姿を記録した小松さんの「シリアの家族」は今年7月第23回開高健ノンフィクション賞を受賞しました。
小松さんは秋田出身の登山家としても知られています。 2006年に日本人女性として初めてK2の登頂に成功、植村直己冒険賞を受賞しました。 K2は世界第2位の高峰で最も困難と言われている山です。 祖父母が田んぼで働く姿を見て育って、その向こうには大きく青い山がそびえていて、いつかあの山の頂に立ってみたい、そこから見てみたいという気持ちがずっとありました。 高校時代は秋田県内の山を登って、大学は東海大学文学部へ進学し山岳部に入部して、本格的な登山を学びました。 K2に登る4人に一人は死亡するというデータもあって、非情のいただきとも言われている山です。 K2に登ったのは2006年の8月のことです。 山頂に立った瞬間地球が丸く見えました。 空の色が黒かった。 下山途中に8000mの最終キャンプまで下れずに、8200mの地点で一晩明かしたビバークの夜が忘れられません。 外気温がー20℃近かった。 酸素量も地上の1/3ぐらいしかない。 もしかしたら死んでしまうかもしれない危険な行為でした。 このビバークを乗り切ったことが、私のその後に繋がる大きな分岐点になりました。
K2で生と死の堺に幾度も立つ経験をする中で、人間が生きるという事がどういうことなのか、山のふもとで受け継がれてきた伝統と共に、どう土地に根差して生きているのか、という事を知りたくなりました。 モンゴルの草原、中東の砂漠などを歩きながら、どんなふうに人が生きているのかと言うのを、旅をしながら写真を撮るようになっていきました。(2007年から) シリアの暮らしを見たいという事でした。 シリアの国土の8割は砂漠です。 2008年にシリアに行きました。 シリアの砂漠は岩や石がごろごろしていて、冬になると一気に雨が降って一日に数センチ草が伸びて、一面緑の草原のようになる。 シリアには多様な自然があり、魅力的な家族に出会いました。 3世帯60人が暮らしていた家族で、今回の作品のなかでも中心に描かれています。
シリアの国土面積は日本の半分ほどです。 ユーフラテス川の流域は緑豊かな農耕地で、古代文明の発祥地としても知られています。 8割が砂漠で遊牧民が暮らしている。 首都のダマスカスは世界最古の町としても知られている。 多様な宗派が共存してきた。 訪れた2008年の時の人口は2240万人でした。
アブドゥルラティーフ一家に出会いました。 3世帯60人が暮らしていた家族でした。 生業は100頭余りのラクダの放牧です。 他にもいろいろな仕事をしていました。(果樹園の管理、サンドイッチ屋の経営とか) 後に夫となるラドワンさんもいました。 女性たちは10人ほど家にいて、ヒジャブを付けて髪を隠して、家族であろうとも配偶者以外には、自分の身体の線とか、髪の毛を見せないで、ゆったりとした服をまといます。 共同で料理をしたり子供を育てたりします。 アラブの春の影響をうけて2011年3月からシリアでは民主化運動が始まって行きます。 それまで50年余り独裁体制が続いていました。 アサド政権は武力で介入するようになります。 市民も武装して相対するようになり、武力衝突が各地広がっていきます。
「シリアの家族」の本では、アブドゥルラティーフ一家の或る兄弟が砂漠を逃げ回っているシーンがあり、内戦が迫って来て家族がバラバラになってゆくきっかけとなった出来事でした。 アブドゥルラティーフ一家の16人兄弟の末っ子のラドワンと私は2013年に結婚しました。 夫や家族を通して内戦間の人々がどのような思いで生きているのか、と言ったことを教えてもらったような気がします。 シリアが内戦となる2011年3月の直前に、夫は政府軍の兵士として徴兵されます。 民主化に対して政府が弾圧するようになる。 夫も加担しなければいけなかった。 悩んだ夫は脱走兵となって、国外に逃れる決断をしました。 民主化に参加した兄も逮捕されてしまう。 2016年に両親をはじめ、ほとんどの家族がトルコに逃れて難民となりました。 威厳の有った父も人が変ったかのように言葉を発することがなくなって行きました。
トルコはシリア難民の7割に相当する380万人以上のシリア難民が流入する国でした。 最初はシリア難民に寛容だったトルコでしたが、大量の難民の経済負担もあって、シリア難民に対する感情も変化していきました。 2020年以降コロナ禍で物価上昇が問題となり、シリア難民の排斥運動も盛んになって行きます。 ヨーロッパに向かう人々も増えて行きました。 移民となってヨーロッパに行くとなると、一人100~150万円ほどの支出をしながら命の危険のある海を小型ボートで渡って行かなければいけない。 私は人間の不平等を凄く感じました。
何年も前からアサド政権下のシリアを取材したいと思っていました。 当時単独で取材に入るという事は難しかった。 2021年に夫の父のガーゼンが難民として亡くなったという事を受けて、親族訪問ビザを利用して2022年に得ることが出来ました。 夫の故郷パルミラでは秘密警察の監視を受けながら取材を行う事になりました。 夫の実家は半分が破壊されて家具なども略奪されてからっぽで廃墟と化していました。 かつては6万5000人近く暮らしていたパルミラですが、その当時は500人ぐらいしか残っていませんでした。 2年後にアサド政変が崩壊して人々が戻って来るとは予想していませんでした。
アサド政変が崩壊したのを知って、8歳の長男を連れて、レバノンの空港で日本から来た夫と合流してシリアに入りました。 サイドナヤ刑務所は、多くの囚人が一度はいるとほとんど帰ってこられないという事から、人間虐殺の場とも呼ばれています。 実態はベールに包まれていた。 政治犯が行きつくと言われてきた場所です。 2012年に逮捕された夫の兄も収監されていました。 囚人の名簿のなかで兄は2013年には死亡していることが判明していました。 アサド政権下で行方不明になった人は10万人近いと言われています。 行方不明者を捜すビラがびしりと貼られていました。
今年6月にもシリアに行きました。 より新しいシリアを作って行こうという希望が増しているような気がしました。 難民も故郷に帰って来て、新しい生活が始まっていました。 夫の故郷のパルミラでも、夫の兄たちが戻って来て家の一部を補修したり、インフラの整備などもしていました。 パルミラでは学校は半分ぐらいが開いていない状態です。 病院では最低限の治療などは行われますが、手術、出産などは大きな町に行かないと設備がないという状況です。 不発弾、地雷などが一部の家屋に残されています。 地雷事故も起きています。 夫は13年間日本で暮らしてきましたが、彼は彼らしくいられる場所で生きた方がいいと思うんです。 彼や家族の姿をこれからも 見つめ続けたいと思います。