堀内恒夫(野球評論家・元読売巨人軍監督) ・巨人V9を支えた大エースに聞く 後編
堀内さんは18年間で560試合で203勝、200勝を達成した時には 32歳。 最近では田中投手が37歳、工藤投手が41歳、山本投手が42歳。
僕らの時代は酷使に近い状態だったと思います。 今は期間は長い、登板数も少ないし、それで勝てないんでしょうけれども。
3年目にアメリカのドジャースキャンプに3人で行きました。(北川さんピッチングコーチ、宇佐美 同期) いい経験でした。2試合投げました。
日本シリーズでの登板数27(シリーズの記録)、投球回数140回1/3(シリーズの記録)、勝利数11勝(シリーズ稲尾投手とタイ) 比較枝的器用なピッチャーだったので使い勝手が良かったのかも知れません。
昭和46年9月5日右手に打球を当てて亀裂骨折。 ボールが投げられず、住田?先生に1週間マッサージしてもらって気絶するような痛さでした。 盗塁の福本選手対策をいろいろやりました。 森さんは晩年で肩も弱くなってきていました。 森さんもセカンドへの投球練習をしました。 森さんはバッターの遠いところに投げられないと始まらないとよく言っていました。 ピッチャーにもキャッチャーにも第六感があるのでそれを大事にしようと言っていました。 年齢も一回りぐらい違うが、首を振ってもいいと言ってくれました。 キャッチャーの求めているところへ投げないとリードなんてできないわけですから。 球種はストレートと、カーブとチェンジアップでした。 チェンジアップは1970年にアメリカの選手に教わって、2年間練習をしてそれから使いました。 1972年は26勝9敗で、沢村賞、MVP(シーズン)も貰いました。(他には王、長嶋選手のみ)
川上監督はもう雲の上の人で、3,4年間話をしたことはないですし、食事を一緒にした事もないです。
もっと身体が大きければ、アメリアでも通用したかもしれませんが、小さすぎました。(身長が177cm) 昭和48年がV9になる年でした。 全5試合中3試合に登板して2勝0敗。 第3戦でホームランを打っています。 ピッチャーでホームランを打つというのは日本シリーズでは余りないのでは。(ホームラン2本)
川上監督は今日の試合は大事だというと、選手がパッと納得するんです。 そうすると勝ってしまうんです。 いい選手がいっぱいいましたが、9年続けて勝てるようなチームではなかったと思います。 川上監督だったからV9が達成できたんだと思います。(他の監督だったら3,4回ぐらいだったのでは) 僕の結婚式の仲人は川上さんがやる筈でしたが、やらないことになってしまって、川上さんが長嶋さんへ連絡をして、長嶋さんがOKという事で決まりました。
1983年5月の甲子園球場が最後の仕事になりました。 (203勝目) プレイイングコーチだったのでコーチの仕事の方が多かった。 出るピッチャーがいなくて飲んでいる席で明日登板してほしいと言われました。 朝何とか酒を抜くのが大変でした。 2年振りの先発でした。 6回が限界で最初で最後ですが、自分で手を挙げて交代を要望しました。 エースと言うのはコンスタントに力が出て、コンスタントに結果を出してゆくピッチャーが、エースだと思います。 (長いスパンで考えたもの) 9回投げることがエースの仕事です。