2025年2月6日木曜日

小林旭(俳優)              ・マイトガイは永遠! 後編

 母親は戦前は芸者で小唄・端唄の師匠で三味線などの芸を身に付けていました。 子供の頃はよく民謡等を歌っていました。 

*「アキラのダンチョネ節」 作詞:西沢爽 作曲:遠藤実 歌:小林旭

役者は台本があり、作られた世界の中で台本通りにしゃべってそれに感性を乗せて、それなりの世界を演じないといけないという役目があるけれど、歌の場合は書かれたものにメロディーがついて、メロディーという隙間の間でもって出てくる言葉は自分なりに解釈が付くから、全然世界が違う。 歌の場合には一つの言葉についても自分の解釈の中で表現の仕方が変って来る。  制約されないから歌の世界は八方破れで、とっても気持ちがいい。 芝居の方は制約されるだけに、堅苦しいところがあり、やりにくいところはやりにくいところがあります。

ひばりが持っていた歌の世界は裕ちゃんと同じようなオーラを持っていて、歌が始まった時の世界は360度どこから何を突っついてもゆとりばっかりの大変な世界です。 別の道を歩むようになって偶然福岡で再会しました。  「何故待っていてくれなかったのか」と言われましたが、よく判らないが考えると思い当たることはいっぱいあります。 一緒にいたかったという事はあるのかも知れません。 美空ひばりという人の周りの連中が、一人の歌手美空ひばりとして取り扱っゆく世界が別個にあったのが良くなかったんじゃないかな。   人間加藤和江という中で、美空ひばりという世界に溶け込まずにいる部分でもって生活する別の路線があれば、小林旭とも上手く行っていたかもしれない。 

1967年(昭和42年)には女優青山京子と再婚。 長女の真実と長男の一路の二子に恵まれる。 青山京子さんは回顧録のなかで、家庭での素顔について、「スクリーンのうえでは華々しく観られる小林旭はその実仕事を離れると孤独な一面がございます。 内気でもございます。 その人の好さのためから、弱さを女の強い一本芯、そっと目立たない程度に末永く支えることが出来たと思っております。」と述べています。  莫大な負債を抱えている時も支えていきました。 何十億という負債を平気な顔をして後ろで計算していてくれた。 大変で凄かったと思う。 

歌の仕事があって小林旭は助かったと思います。 借金の返済が出来た。

昔の名前で出ています」  作詞:星野哲郎 作曲:叶弦大 歌:小林旭

昔はスターが頂点にいて、憧れがあった。 今は平べったくなってしまって、憧れというものがない。 それだけ世の中がつまらなくなってきている。  

オンラインだけで学ぶサイバー大学に入って4年間ITなどを勉強して卒業しました。 パソコンをやるうえで必要なことは学べたけれど、どこにどう活用できるかというと、ただ自分で楽しむだけになっちゃっています。  ユーチューブを開設する。 ユーチューバーでお金が儲かるみたいなバカげた世界になってきて、ユーチューブは今はピンとこない。 

熱き心に」 雄大な歌です。 1年ぐらいは歌を掌握できなかった。 或る時歌っている時にピリッと掌握しました。 

*「熱き心に」  作詞:阿久悠 作曲:大瀧詠一 歌:小林旭

86歳になりますが、言われるままに好き勝手なことをバリバリやってきて、よくやってきたと思います。 来年は芸能活動70周年になります。  ここまで来られたことがとっても不思議です。 目に見えない多数の力に対して、責任感は感じます。 やれるうちはやろうと思います。















2025年2月5日水曜日

小林旭(俳優)              ・マイトガイは永遠! 前編

小林旭(俳優)              ・マイトガイは永遠! 前編 

小林旭さんは1938年東京生まれ。  1956年映画デビューし、マイトガイの愛称で国民的スターとなりました。 歌手としても多くのヒット曲があります。 映画の黄金時代を中心に伺います。 

マイトガイは死なず 小林旭回顧録」を昨年出版。 すべての歯車が良好に回っていた時期で、何をやっても許されると言う様な感覚を持つぐらいに大事にされた時代です。 昭和36年にアメリカに行きましたが、そのころはまだあまり海外に行くことは盛んではありませんでした。 日活に入ったのが昭和30年、デビューが昭和31年。 川島雄三監督映画『飢える魂』で正式にデビュー。  1959年(昭和34年)、映画『南国土佐を後にして』がヒットし、石原裕次郎と並ぶ日活を代表するスターとなる。  シーンを撮るのにも奇跡的なことが映画の中に仕事中の最中にありました。  アクションでもギリギリのところで上手くいっていました。 

昭和36,37,38年ぐらいまでの、ひばりが結婚を申し込んできてごちゃごちゃいう様なことが起きるまでの3,4年の間はやりたい放題やってはしゃぎまわっていました。  すべてついていました。 その後「渡り鳥シリーズ」、「流れ者シリーズ」など沢山あります。 石原裕次郎らとともに日活の黄金時代を築く。 毎月1~2本撮っていました。  1本撮るのに2週間ぐらいでめちゃくちゃでした。 当時は興行成績で会社の株価が上がったり下がったしました。 映画が産業と言われた時代でした。 ですからアクション一つでもいい加減なことはやらないと、仕事で死んだら本望だとそういった責任感で仕事をしていました。 ビデオでは消せるけれどフィルムの世界は一遍撮ると消えないんだと、厭というほど言われました。 

ジャッキー・チェインは幼少のころから日活の映画をよく観ていたそうです。 その中で小林旭のアクションというのは、とっても面白かったといっていて、小林旭の作品は全作品を観て、アクションが目に焼き付いて、そのアクションを少しでも良く見せようという事をやっていきたくて鍛えて努力した。 だから貴方は俺のアイドルだと彼は言っていました。  会場で「マイ アイドル」と言って飛びついてきましたが、ちょっと照れ臭かった。

石原裕次郎さんは4歳上ですが、錆びたナイフ』で共演することになりましたが、ツーカーの中で兄弟みたいに付き合っていました。 彼は「役者なんていう仕事は男一生の仕事じゃあねえぞ」と言っていましたが、彼は早死したけれど死ぬ間際まで石原軍団を大事にして頑張っていたので、やっぱり男一生の仕事だったんだね。 

銀座で裕ちゃんと飲んで、酔った勢いで京都に行こうと言いう事になり、萬屋錦之助さん、勝新太郎さんと一緒に遊びました。 石原裕次郎という人は稀代のスターですよ。 何ともいえない人間の魅力、でかさは皆さんお持ちではなかったですね。 360度どこから突っついても隙がなくふんわりと受け止めてくれるゆとりがあった。   

歌手デビュー第二弾のレコード「ダイナマイトが百五十屯」がヒットし、ダイナマイトのマイトの部分だけを取って、マイトガイと命名されることになる.。 宍戸ジョーにはエースのジョーと付けることになりました。 ○○ガイというのではなかったので不貞腐れてはいました。 ○○ガイとつけて売り出したかった時代の産物です。  ダイアモンドラインと称していましたが、そこが崩れて新しく赤木圭一郎、和田浩治を加えて新しいダイアモンドラインを作りましたが、中途半端に終わってしまいました。 

アクションがあり正義が勝ち、悪が滅びてというような単純な映画を作るものは今はないです。 












2025年2月4日火曜日

若竹千佐子(作家)            ・作家デビューから7年 今も毎日賢くなる!

若竹千佐子(作家)            ・作家デビューから7年 今も毎日賢くなる!

 若竹さんは岩手県遠野市出身。(70歳)  63歳にして小説「おらおらでひとりいぐも」で作家デビュー、2017年に文芸賞を最年長で受賞し、翌年には芥川賞も受賞、その後映画化もされました。 若竹さんは20代を臨時採用教師としてすごしたのち結婚、現在千葉県に暮らしています。  夫の死をきっかけに長年の夢だった作家を目指し、55歳で小説講座に通いました。 「おらおらでひとりいぐも」は世界で10か国を越える国々で翻訳され、ドイツでは著名な文学賞リベラトゥール賞を受賞しました。  第二作は「かっかどるどるどぅ」でフリーターや高齢女性たちの共同生活を描き、好評を得ました。 昨年秋には初のエッセー集「台所で考えた」を出版しました。  作家デビューから7年、70歳を迎えた若竹さんに、老いや一人暮らし、作品に込めた思いなどを伺いました。 

おらおらでひとりいぐも」ですが、主人公が方言で内面を語るという小説は今までなかったという事で、属性としてある登場人物を語るために方言で語ることはあっても、主人公が方言を言うのはとても珍しいという事で、印象的だったみたいです。 台所で考えた」の最初のところに最初に受賞した文芸賞受賞した言葉が有ります。 「いつかきっと小説を書くのだと子供の頃から思っていました。」と書いてありますが、本当にそうです。 目指すは青春小説とは対極の玄冬小説(老いとか)。 私自身がそういう風に生きていかなくてはいけないと思っていたので、自分を励ます小説を書こうと思っていました。

子供の頃は本は読みましたが、たくさん読んだという風ではありませんでした。 小説家がキラキラした目標でした。  そこそこ幸せではあったが、自分が学んだことを生かしてなくて、家庭で収まているという事が悔しいというい思いはありました。  その想いが63歳まで続いたと思います。  テーマが見つからなかった。 55歳ぐらいで夫が亡くなったり、考えることが一杯あって、判ったことを書くんだと思いました。 夫は急逝したのでショックでした。 想っていることなどをノートに書き記しました。 長男からのすすめをきっかけに、小説講座に通い始めました。(四十九日の翌日) 小説講座には8年通いました。 

おらおらでひとりいぐも」を書いたのは60歳過ぎてからです。 2017年、『おらおらでひとりいぐも』で第54回文藝賞を史上最年長で受賞しました。  夫が亡くなった悲しみもありましたが、自由というものもありました。 私は私の責任で何もかもやってゆくんだと思いました。  私が経験して判ったことが小説のテーマなので、探しているものがやっと見つかったという感じです。  老いは今までの経験を通して、自分が生きることはどういうことかという結果で成案を得る。  

一作目は一人で力強く生きる70代の女性、二作目は人とつながりを求める、分かち合う喜び、助け合う喜び、但し弱者です。  強い女で孤独を良しとしている人間ですが、世のなかにはそうではない人がいっぱいいる。  その人たちが孤独をどう生きるんだろう見たいな、桃子さん(主人公)は内側に向かう人間ですが、それだけではいけないなあと思っていました、後は私の個人的な体験で、100日入院したこともあり、リハビリで老人ホーム的なところもあり、そこでの生活も結構楽しく過ごせました。 皆とわいわいしているのが楽しかったです。  皆で連帯して生きてゆくというような小説を書いてみたかった。

20代を臨時採用教師としてすごし、挫折の時代でした。 非正規の人の気持ちはよくわかります。 (非正規の人が)4割とかで子供がいないというのが少なくなっているのは当たり前ですよね。 世の中は絶対おかしいなと思っています。  

台所で考えた」はエッセー集です。 エッセーを書くという事は好きじゃないです。 小説の方がやりがいがあるような気がします。  感情がこもった文体、語り物の文体が好きです。 私は若い頃は判らないことが一杯ありました。 歳を取って来ると判ることがいっぱいあります。  衰えはあるが、知性、物事の判断、洞察する力は絶対大きくなっている。  人間は経験を通して大きくなるんだと思います。