小林旭(俳優) ・マイトガイは永遠! 前編
小林旭さんは1938年東京生まれ。 1956年映画デビューし、マイトガイの愛称で国民的スターとなりました。 歌手としても多くのヒット曲があります。 映画の黄金時代を中心に伺います。
「マイトガイは死なず 小林旭回顧録」を昨年出版。 すべての歯車が良好に回っていた時期で、何をやっても許されると言う様な感覚を持つぐらいに大事にされた時代です。 昭和36年にアメリカに行きましたが、そのころはまだあまり海外に行くことは盛んではありませんでした。 日活に入ったのが昭和30年、デビューが昭和31年。 川島雄三監督映画『飢える魂』で正式にデビュー。 1959年(昭和34年)、映画『南国土佐を後にして』がヒットし、石原裕次郎と並ぶ日活を代表するスターとなる。 シーンを撮るのにも奇跡的なことが映画の中に仕事中の最中にありました。 アクションでもギリギリのところで上手くいっていました。
昭和36,37,38年ぐらいまでの、ひばりが結婚を申し込んできてごちゃごちゃいう様なことが起きるまでの3,4年の間はやりたい放題やってはしゃぎまわっていました。 すべてついていました。 その後「渡り鳥シリーズ」、「流れ者シリーズ」など沢山あります。 石原裕次郎らとともに日活の黄金時代を築く。 毎月1~2本撮っていました。 1本撮るのに2週間ぐらいでめちゃくちゃでした。 当時は興行成績で会社の株価が上がったり下がったしました。 映画が産業と言われた時代でした。 ですからアクション一つでもいい加減なことはやらないと、仕事で死んだら本望だとそういった責任感で仕事をしていました。 ビデオでは消せるけれどフィルムの世界は一遍撮ると消えないんだと、厭というほど言われました。
ジャッキー・チェインは幼少のころから日活の映画をよく観ていたそうです。 その中で小林旭のアクションというのは、とっても面白かったといっていて、小林旭の作品は全作品を観て、アクションが目に焼き付いて、そのアクションを少しでも良く見せようという事をやっていきたくて鍛えて努力した。 だから貴方は俺のアイドルだと彼は言っていました。 会場で「マイ アイドル」と言って飛びついてきましたが、ちょっと照れ臭かった。
石原裕次郎さんは4歳上ですが、『錆びたナイフ』で共演することになりましたが、ツーカーの中で兄弟みたいに付き合っていました。 彼は「役者なんていう仕事は男一生の仕事じゃあねえぞ」と言っていましたが、彼は早死したけれど死ぬ間際まで石原軍団を大事にして頑張っていたので、やっぱり男一生の仕事だったんだね。
銀座で裕ちゃんと飲んで、酔った勢いで京都に行こうと言いう事になり、萬屋錦之助さん、勝新太郎さんと一緒に遊びました。 石原裕次郎という人は稀代のスターですよ。 何ともいえない人間の魅力、でかさは皆さんお持ちではなかったですね。 360度どこから突っついても隙がなくふんわりと受け止めてくれるゆとりがあった。
歌手デビュー第二弾のレコード「ダイナマイトが百五十屯」がヒットし、ダイナマイトのマイトの部分だけを取って、マイトガイと命名されることになる.。 宍戸ジョーにはエースのジョーと付けることになりました。 ○○ガイというのではなかったので不貞腐れてはいました。 ○○ガイとつけて売り出したかった時代の産物です。 ダイアモンドラインと称していましたが、そこが崩れて新しく赤木圭一郎、和田浩治を加えて新しいダイアモンドラインを作りましたが、中途半端に終わってしまいました。
アクションがあり正義が勝ち、悪が滅びてというような単純な映画を作るものは今はないです。