2022年1月31日月曜日

今森光彦(写真家・切り絵作家)     ・【オーレリアンの丘から四季便り】冬

今森光彦(写真家・切り絵作家)     ・【オーレリアンの丘から四季便り】冬 

今回が最終回です。   正月早々にオーレリアンの丘に行ってきました。  春をイメージします。  この木はこういう芽吹きをするだろうなあとか、イメージします。  比良山は白く大きく見え存在感があります。   12月の下旬からいろいろ作業がありますが、基本的に枝打ちと剪定なんです。   竹林も部分的に残したのでそこの竹も20,30人集まって刈ります。    去年菜の花を植えたところに大麦を撒きました。   田んぼを休ませるのに撒きます。   農家でも最近大麦を撒いていて、地ビールにします。  

26歳で写真家としてフリーランスになって世界に飛び出しています。   生き物が大好きだったので生き物が沢山いる環境は熱帯雨林だという風に言われていて、インドネシアに生きました。   最初の年は熱帯雨林を見ずに帰ってきました。    遠くて到達できないんです。   連れて行ってもくれないです。  その間3か月ぐらいずーっと田んぼを見ていました。   棚田に感動しました。   この仰木地区にも棚田があるのを見て感動しました。(20歳)    バリ島のほかにスラウェシ島にも行きましたが、そこも田んぼが凄く多いです。  山があって、棚田があって海があるという景観が頭に焼き付いて帰って来ました。 地元の比良山と棚田、琵琶湖があり、その組み合わせに感動しました。   

里山という言葉も世の中に広めていきました。   インドネシアが好きになって50回以上言っています。   「神様の階段」という写真絵本を出しました。  出版が2010年。 儀式もされていて、信仰も残っていて、農業も近代化されていなくて古い形のバリ島が残っていまいた。   牛で耕していました。    

*「神様の階段」の一部を朗読

人々の精神力の強さに驚かされます。  自然への畏敬の念というか、そういう経緯がそうさせていることは間違いないです。   日本では収穫をあげるためにいろいろやってきましたが、田んぼはお米を獲るだけではなくて、ほかの副産物もいっぱいあるわけですから、そういうところにも目を向けて行かなければいけないという、そういう時代が来るのかもしれないです。  そうしないと風景は守られない。   バリ島での棚田の労働は信仰に近いものがあります。  収穫だけではなく、神様が本当に来ているようにふるまいます。  白い星の形をした花がありますが、指でつまんで、つまみながら拝むんです。  そんな仕草をさりげなくします。   きめの細かい精神がああいった棚田の雄大な風景を作っているんだなというのは判ります。  

小さな昆虫の命と自分の目線が一緒だというか、価値観が一緒だという事ですね。    全ての生き物がいるから人間も生きているという、仲間意識というか、そういうものを持ちたいと思って撮影しています。  それが里山の考え方の一番大事なところかもしれません。   自分が自然の中に入って一緒に暮らしているということが楽しいです。  科学的な目(外からの客観的な目)と芸術的な目(中に入って一緒に生きている目)、両方を持ちたいですね。   写真は外からの目ですね。 農家になりたかったのは中からの視点を持ちたかったからです。   60歳になってから決断して7年が経ちます。   30年近くそんな想いで来たんで、農家になってみると、農家の人って自然てこんなふうに見えていたのかと思います。  抱擁されている自然です。   農家になると蛙も友達になります、「おうお前生きていたか」、とか。  

夏には全国の親子たちと昆虫教室も開いていますが、大学生にも授業をしています。   芸術系の大学で、最初は写真をお願いされました。   自然を知らずに芸術を学ぼうとしている人が多い。  芸術の根幹は自然のことを理解していないと駄目ですね。  フィールドワークを主体とする科目を作って、1年間何回かやっています。  農家の視点を垣間見る行為です。   今後農業のあり方は変わってくると思います。  今の農業の問題は人間がいっぱいいるので生産性をあげないといけない。  一方、生物多様性の価値がどんどん見直されている。  絶滅危惧種のかなりの数が田んぼとか雑木林に住んでいるという事が判って来た。   それをどうやって守るのかと生産性は相反することです。   気候変動とかあったりするので、獲れる年と獲れない年が顕著です。   お米も建物の中の安定した環境の中でするとか、機械化が進んでロボットがするとか、環境重視をするところとかに二極化するのではないかと思います。   

環境活動、イベント、観察会、散策会などもあり、ホームページを見て参画してもらいたいと思っています。   自分の住んでいるところに里山環境を見つけて是非行って欲しいです。   開墾して環境がよくなって来ると、どんどん新しい種類が見つかって来るので、詳しく観察していきたいのと、仰木集落は古い集落なので歴史などにも触れて行きたいと思っています。  





2022年1月30日日曜日

林英哲(太鼓奏者)           ・太鼓と共に世界に飛び出す

林英哲(太鼓奏者)           ・太鼓と共に世界に飛び出す 

1952年広島県生まれ、1971年「佐渡・鬼太鼓座」、鼓童」の創設にも関わり、1982年に太鼓独奏者として活動を開始、1984年に和太鼓ソリストとして初めてカーネギーホールで演奏し、以降世界各地で演奏活動をしています。  伝統的な音楽をはじめクラシック、ジャズ、民族音楽などジャンルにこだわらず様々な演奏家やアーティストと共演をして、今年ソロとしての活動40周年を迎えました。  

太鼓を始めてから今年で51年目で、ソロ活動は40年になりました。  太鼓を独奏で人に聞かせるものがありませんでした。  よく続いたなと思いました。   太鼓に正対して打つという事は伝統芸能にも郷土芸能にもないんです。   独奏でやるには2人分のテクニックが必要で、ベースのリズムと和拍子というメインのリズムを一人で打ち分けなければいけない。   左手も右手と同じように使えなければ、リズムの構成が出来ない。  完全に太鼓に正対して、お客さんに背中を見せながら打つという形になりました。   伝統芸能にはないです。  一般化されるようになりました。  

実家は真言宗の寺院では男女4人、4人の兄弟で末っ子です。  孫みたいな子だったので、そのうち面倒みられないかもしれないという事で、甘やかされて育ったので、絵を描いたりドラムを始めても親は何にも云いませんでした。   ビートルズが好きでした。  ベンチャーズの影響で友人がギターを買ったりしたのでバンドを4人で結成しました。 

横尾忠則さんみたいな仕事をしたいと思って美大を受けましたが、落ちてしまって東京で浪人しました。  横尾忠則さんが参加する佐渡でのイベントがあるという事をラジオで聞いて、それに申し込むというのがこの道に繋がる最初のきっかけになりました。    佐渡の地域おこしのために太鼓を打つという事で、強引に誘われて7年で世界中を回って、という事でした。  11年やりました。   音楽的な経験を世界中で積むようになってはいました。  美術の方に戻るつもりでいましたが、小澤征爾さんとか音楽的にレベルの高いものを舞台でやるという経験を積んできて、美術はゼロからのスタートとなるし、太鼓しかないので、ソリストとしてスタートをしました。   

2年後に カーネギーホールから声がかかってきました。  ただ使える太鼓がないんです。  僕が舞台で使う太鼓は家が一軒建つような値段なんです。  それよりちいさくても数百万円です。   レンタル屋さんに相談したら、カーネギーホールで傷物では恥ずかしいという事で、出世払いでいいからという事で最上級の品質のものを用意してくださいました。    航空便なのでどうしようかと思ったら、永六輔さんが声を掛けてカンパしてもらってお金が集まることが出来ました。 航空会社の広報の方が僕の舞台など見て知っていて、航空会社で肩代わりしますと言っていただきました。  全部タダで出来ることになりました。   リハーサルを始めると大抵一悶着ありました。  太鼓の音が尋常ではないので。  なんとかこなして、結果大好評でした。  それをきっかけにベルリンフィルから声がかかったり、いろいろなところでやるようになりました。  

海外でやる方が多くなりました。  初めて聞いてもスタンディングオベーションでした。 リハーサルやってもオーケストラ団員が拍手してくれます。    太鼓は楽器という事ではとらえられない雑音成分の多い音なんです。  本来オーケストラと共演するのには無理があるんです。   倍音を含む雑音成分の多い音は人間の心理を掻き立てたり、興奮したり、懐かしい気分にさせたりするらしいんです。   海外ではよく泣いて聞く人が多いです。  楽屋まで来てなんで泣けてしまうんでしょうと聞きに来た人もいましたが、僕にもわかりませんでした。    書物を読んだりして気が付いたのは、母親のなかで胎児の時に聞いている音がそっくりらしいんです。    雑音成分が多い音で、母親の心臓の音がして、羊水の中なので皮膚感覚でその振動を受けて、ずーっと寝ているわけです。  生まれる前は人類はみんなあの音を聞いて育っているわけです。   日本固有の音と思っていたものが、実は人類共通の音で大人は懐かしいような切ないような感じになって涙が出たり、乳幼児はまず熟睡します。   50か国以上いっていますが、人種に関係ない、反応は国の違いはないんです。  

オーケストラの中に入ってもちゃんと音楽的に成立するという事が実現できたので、お祭りで打って居る太鼓ではないというところが、一つ扉が開いたという事はありがたいことだと思います。   或る美術ギャラリーで演出を含め、すべて一人で1時間以上やる機会がありました。  それが好評で大きなコンサートホールでもやらせてもらうようになりました。 去年の50周年の時には一人で2時間やりました。   演出、振り付け、衣装、照明等も自分で考えてやりました。   

自分のことを認めてくれなくてもコツコツ作ってゆく、おこがましいがゴッホのようでありたい、ゴッホは生前は全く無名だったが、亡くなってから大変な画家と認められた。   名前の出なかった美術家をテーマにして、光を当てて皆さんに知って貰おうと思って、無名ではないですが、写真家では有名なマン・レイを取り上げて見ました。  石をぶら下げて打つと金属的な音がして、僕なりのマン・レイを解釈して太鼓と組み合わせてやりました。  伊藤若冲も有名になる前にやりました。   ジャンルを超えていろいろ共演もしています。   2/4にサントリーホールで(2/2が誕生日で70歳になる。)ジャンルを超えた演奏会を行います。

2022年1月29日土曜日

浜内千波(料理研究家)         ・頑張らない健康食生活と私を育てた徳島の食

 浜内千波(料理研究家)         ・頑張らない健康食生活と私を育てた徳島の食

徳島県海部郡海陽町出身の料理研究家 浜内千波さん。  

小さいころワカメかなと思っていたのがアンロク(ヒロメ)で、アンロクおいしいと言っても東京のほうではチンプンカンプンなんですね。  毎日頂いている食材がどれだけ力があるか、確認していきたいと思います。   良く動くこと、しっかり睡眠をとる事、よく笑う事、偏りのない食生活というのがとっても大事になると思います。   頑張らなくても健康を意識した食生活の簡単なポイントを説明していきたいと思います。   

テーマは朝はドロドロ、昼はカミカミ。  30~50回噛みなさいそして胃に渡してあげてくださいという事です。  胃はもっと細かくして行きます。  よく噛めばドロドロになり体内の負担も胃の負担も軽くなって行く。   胃の働きは朝起きた時には活発ではないので、出来るだけ消化に良いもの、朝は脂分の少ないもの、柔らかいものがいいです。  昼ご飯は栄養を取り込む活発な時間帯で、出来るだけいろいろな食材たちを取り込んでいただくことがいいと思います。  栄養補給をして体を作るのが昼食になります。  夜は休んでゆく状態になって行くので、昼はしっかりと、夜は控えめにするのがポイントだと言えます。  

「便」は便りと言います。  「便」をよく見てください。  腸の状態が健康かどうかという事が「便」によって判って来るという事です。  野菜類を沢山取ることによって弱酸性となり便の色が黄色くなるんです。  肉とか脂分が多いとアルカリ性になり悪玉菌が多くなってきて、茶色、黒に近づいてくる。  

腸は小腸と大腸に分かれます。   胃からもらったものをもっと細かくして、吸収して全身に送るのが小腸です。  とっても大切な臓器で腸内環境を良くして、食べたものを栄養吸収する場所になります。  大腸は食べた残りかすとか、悪いものを排出する部分です。 腸は健康の要ともいわれます。        

善玉菌を増やすには発酵食品がいいと言われます。  キムチ、みそなどの発酵食品、乳酸菌飲料のヨーグルトなどは直接腸に影響してきます。  続けてゆく食生活を送っていただきたい。  いいものは腸内にはとどまってくれないので、口の中にいれてゆく必要があります。  善玉菌の栄養となるのがオリゴ糖なんです。  オクラ、タマネギ、アスパラガス、大豆、ゴボウ,蜂蜜なども天然のオリゴ糖が入っています。  

ネバネバ成分で生活習慣病を予防。  ネバネバ成分には水に溶ける食物繊維、糖タンパクが含まれていて、コレステロールの調整をしてくれたり、血糖値の急上昇を抑制してくれます。    食物繊維には2種類あり、水溶性食物繊維と、不溶性食物繊維があります。  不溶性食物繊維は水分を抱え込んでくれて、便を柔らかくして排便を促してくれます。   大麦、オクラ、ゴボウ、モロヘイヤ、アボガド、納豆、海藻類、キウイは優れものです。 少しでもいいから毎日取り入れる工夫をしてみてください。    

生で野菜を頂きましょう。  野菜に熱を加えていただくことも大事です。  ほうれん草の炒め物、とんかつ、大根おろしとか貝割れをちょっと添えるだけでも大丈夫です。   

お金は貯金できても栄養は貯金できない。   毎食こまめに継続して取ることがとっても大事です。   カルシュウムは毎日取ることが必要になります。   小学校から高校では身長も体重も骨量も増加します。  歳を重ねても密度を保つことが大事です。  牛乳が効率がいいです。 

タンパク質  三食バランスよく食べましょう。  1食で効率よく吸収されるタンパク質の量は約20gと言われています。   豚肉薄切り100gのタンパク質の量は17.4g入っています。 鮭80gでは18g入っています。  肉、魚は重量の約2割のタンパク質の量が入っています。  納豆50gで6.6g 卵1個50gで6.1g  豆類、卵は重量の約1割のタンパク質の量が入っています。   加齢とともに吸収率が悪くなるので、しっかりと取る必要があります。

カツオとコンブだけが旨味ではなく、材料にもそれぞれ力を持っています。   野菜にはカツオ、コンブと同様のグルタミン酸が含まれています。  肉、魚類にはイノシン酸が含まれています。  キノコも2種類にして炒めるだけでコンブよりも22倍旨味がアップするというデータがあります。   

病気の気配は薄味意識で薄めよう。  世界は減塩方向に向かっています。 目標は5gです。  日本は2倍取っているのが現状です。   高血圧になり、血管がボロボロになり、動脈硬化、心臓にも影響が出てきます。  腎臓にも負担がかかってきます。  減塩もそうですが、野菜や果物を取ることがとっても大事です。   野菜の持つカリウムが塩分を取ることができる。   しつこい料理には酸味をちょっと足してやると美味しくしてくれます。 

ゴミの中で多いのが野菜の皮くずで、その皮を出来るだけ頂いてもらいたい。   皮の近くに栄養が高いと言われている。  料理にうまく使ってほしい。  ポリフェノールは水に溶けやすいので注意が必要です。(ゴボウ、レンコン,ナスなど)    スダチのヘタを入れると煮崩れを防ぐ。(酸をちょっと入れる)

徳島産 鳴門ワカメ、ハモ、鳴門レンコン、徳島ニンジン、阿波雄鶏、鳴門キントキなど。  




  

2022年1月28日金曜日

板東あけみ(国際母子手帳委員会事務局長)・【ママ☆深夜便 ことばの贈りもの】日本の"当たり前"を世界に

板東あけみ(国際母子手帳委員会事務局長)・【ママ☆深夜便 ことばの贈りもの】日本の"当たり前"を世界に 

母子手帳は最初日本で作られました。   1948年(昭和23年)今から74年前のことです。坂東さんは1951年(昭和26年)生まれ、70歳。   小学校の特別支援学級の教員だった坂東さんは51歳の時に退職し、大学院で国際協力を学びます。  その縁で国際母子手帳委員会の仕事に携わるようになりました。   母子手帳を世界に広げる活動を30年以上している坂東さんに親や子に本当に必要としている支援とは何か、人とのつながりの中で生きるという事はどの様な事なのか伺いました。

約50余りの国や地域で使われていると言われていますが、全国で使っているかというとそうでもなくいろいろあります。    ベトナムの障害のある子をサポートするNGOの活動をやっていて、その関係でベトナムに母子健康手帳の導入をうちのNGOが提案しました。   2020年にはベトナムで母子手帳が全国展開しました。   独立行政法人国際協力機構(Japan International Cooperation Agency略称JICA)にお願いをして技術協力プロジェクトをやっていただいて3年間、4つの地域での試しをやってみました。  ベトナムの保健省もいいですねという事で全国展開を進めていきました。  日本の企業、ベトナムの企業、EUなどの機関などの協力を得て少しずつ広がって行きました。  政府の指導が出たのが2020年です。   

国際母子手帳委員会というのはメンバーは10人で大学の研究者、政府の母子手帳担当の方です。  各国の母子健康手帳の開発、改訂とかに協力しています。   2年に一回国際母子手帳国際会議を開催しています。  13回は8月にカナダのトロントで行われます。   ホームページを作ったり、どういう企画の中身にするかなどの準備をしています。    

51歳で教師を辞めて大阪大学の大学院で国際協力の勉強をして、その時の恩師が母子手帳を世界に推進する中村安秀教授で、事務的なことを担うようになりました。  中村先生が委員長で私が事務局長をやっています。   国が違うと文化、環境など物凄く違います。 そのまま日本の母子手帳を持って行っても合わない。  母子手帳は基本的には妊婦検診の記録、出産の記録、子供の発育の記録、予防注射の記録です。  国によって医療事情、価値観も違うので、それに合わて国で作ってもらいます。  文字が読めない地域だとイラストを多く利用して理解してもらうようにしています。   母子手帳は地域の横の医療ネットワークを強化します。  母子手帳があると村の診療所から郡、国の病院を紹介されて行っても経過をすることができるので、縦の医療ネットワークも作るわけです。  

10年以上いろんな大学で講義していますが、母子手帳の発育チェックの下に空欄がありますが、コメントを書いてくる人と、書いてこない人では学生の表情が凄く違います。  6歳で母子手帳は終わりますが、或る程度大きくなったら子供さんに渡してあげる時に、見通しを持った母子手帳の使い方を渡すときに説明してほしいです。  子供にとって母子手帳は親が育ててくれた証なんです。   

障害に関する件で海外に行ったのですが、防げたであろう障害のある子を見て、途中から母子手帳の導入を提案したわけです。  妊婦検診の回数を多くすると母体の異常が早く見つかります。   ベトナムのベンチェ省では全て子供の予防注射の記録がコンピューターで一括管理されています。  ナイジェリアでも母子手帳を作りたいという事で、オンラインで3日間参加しました   

39歳で初めてベトナムへ行って、事業を立ち上げて教師をしていましたが、国際協力は定年もないし、思い切って大学院に行って学びました。  障害児の教育に携わったことで子供たちに沢山教わったことがあるので、その経験が国際協力の現場で凄く生きていると思います。   

体重が1500g以下のリトルベビーの為の手帳にも取り組んでいます。   母子手帳と一緒に使うサブブックみたいな感じです。   リトルベビーハンドブックには先輩のお母さんのコメントがいっぱい入っています。   体重が1500g以下の赤ちゃんは07%なので経験者が少ない。  サークルがあるので問題点に関する連絡も取りやすい。   普通の母子手帳では賄えないような細かなチェックが出来るようになっています。  2016年に問題提起があり、静岡でリトルベビーハンドブックが出来たのが2018年です。  育児不安、育児うつになるのを予防するために、社会はどういうサポートをしたらいいのか、一緒に考えるベースが出来るんです。  39都府県、34のサークルにSNS、メールベースで働きかけてきました。  県庁などとのつながり役を行っています。

14歳の時に父と24歳の兄が12日間の間に心筋梗塞とかで亡くなって、今日生きているけど明日生きている補償はいなという事を擦り込まれてしまいました。  それで今日精いっぱい生きようとか、今日やれることはしっかりやっておこう、そんなうふに感じてきました。自分が辛い経験をしたことのある方は、同じような辛い思いををしている方を上手に傾聴します。  人で苦しめられることはあるかもしれないが、癒してくれる人を見つけることが大事かなと思います。  


2022年1月27日木曜日

金子信久(府中市美術館学芸員)     ・【私のアート交遊録】へそまがり日本美術

金子信久(府中市美術館学芸員)     ・【私のアート交遊録】へそまがり日本美術 

府中市美術館は江戸絵画から近現代美術まで幅広いテーマで展覧会を開いていますが、中でも恒例の春の江戸絵画祭りのシリーズでは、可愛い江戸絵画など既存の美術史にとらわれないユニークな企画が人気を集めています。  その府中市美術館が2019年に「へそまがり日本美術」と言う本を出しました。   そこには素朴、稚拙、へたうま、決してうまくはないけれども、綺麗とは言えないけれども、何故か心惹かれる作品の数々が並んでいます。  不可解さで人を引き付ける禅画、わざと緩い味わいを出すような俳画、あるいは江戸時代の禅僧白隠仙厓のぶっきらぼうな絵など中世の禅画から現代のへたうま作品までへそまがりな感性の作品が並んでいます。   何故日本人は効した決して綺麗とは言えないものに魅力を感じたり、不完全なものに心惹かれるのか、日本美術に関心が高まる今、日本の美術史に点在するへそまがりな感性が生んだ作品を通して日本美術の新たな味わい方、楽しみ方方などについて伺いました。

「へそまがり日本美術」と言う本は最初から図録兼書籍として出版しようと考えていました。   コンパクトな図録は喜ばれるので、真四角のかわいらしい図録にしました。  開きやすいように工夫しています。   楽しんでいただけるように編集を工夫しました。数年前に「日本おとぼけ絵画史 たのしい日本美術」という本を出して、その前書きでへそまがりの感性という言葉を初めて使ってみました。  そこから発展させたのがこの「へそまがり日本美術」の展覧会でした。   「へたうま」の日本美術の本を作りませんかと編集者から話がありましたが、「へたうま」という言葉は1970年代のイラスト、漫画の世界で出てきた言葉で日本美術を「へたうま」でくくるのはちょっと難しいと思いました。  現代の「へたうま」と共通するものが日本の美術をさかのぼってみると沢山あったという話です。   水墨画の禅画とか、俳句の世界の俳画、文人画、伊藤若冲や曽我蕭白など有名な人たちもへそまがりな感性に基づく絵を描いているわけです。   日本美術の中の大事な一面ではないかと思います。   狩野派も琳派も完成された世界と言っていいと思いますが、何故か日本の人たちはそういうものではないものにも何故か心を惹かれてきた。 

「へそまがり日本美術」には138点が取り上げられています。   禅そのものがへそまがりの世界かもしれません。   江戸時代の臨済宗の禅僧 白隠、仙厓の描き方は凄く型破りです。  うまい下手は人間の単なる一つの物差しに過ぎないのではないか、もっと価値っていろいろあるだろうと、いう事だと思います。  南画、文人画ともいわれるが、正当な美術を否定するという点では禅画と並んでいる。   純粋さを追求するために、取った手法はわざと素朴に描くという事です。   岡田米山人は大阪の有名な文人画家ですが、この人の寿老人画と丸山応挙の描いたものと比較すると応挙の方は姿形が整っていて描き方も完璧です。  米山人のは形の表し方がぶっきらぼう、輪郭もいびつで、目つきも悪いです。  朴訥な描き方の中に自分の俗ではない、高みを表現している。  若冲、長沢芦雪、曽我蕭白、歌川国芳なども入っています。   作品全部がへそまがりというわけではなくて、へそまがりを発揮した作品があります。  若冲の伏見人形などがそうで素朴さを強調しているような描き方をしている。      芦雪(丸山応挙の弟子)の作品に菊花子犬図というのがありますが、可愛いらしい。  応挙は写実的で利口そうな犬に見えるが、芦雪が描いた子犬はわざと一匹一匹をだらしない、やんちゃな感じに描かれている。 国芳の「荷宝蔵壁のむだ書」 蔵壁に歌舞伎役者の似顔絵が落書きされていて、それを写真に撮ったような絵で、写実的な絵を描くが、落書きの下手さをリアルに再現している。   

禅画は常識を超えたところに価値を求めるという事があると思います。  文人画は大衆、世俗を越える、自分は違うぞというそれを表現する事でもあるので、明確なポリシーがあります。  若冲、長沢芦雪、曽我蕭白、歌川国芳の場合にはありきたりの美術の魅力の物足りなさ、人間の欲深さから生まれたのではないでしょうか。

将軍のへたうま絵  「へそまがり日本美術」の本の表紙にもなっている家光のウサギを描いたもの。  大変な人気です。 

萬鉄五郎の「裸体美人」 人を吃驚させるような描き方。 「へそまがり日本美術」の方には「軽業師」が入っていますが、作品を見ると笑ってしまいます。  萬鉄五郎もへそまがりなんだろうなあと感じます。   

今年は「寅」年ですが、十二支で一番描かれていて魅力的な題材だと思います。  江戸時代は虎を実際に見たことはないと思いますが、中国、朝鮮からの虎の絵をもとに自由に想像して描けるので色々な虎があって江戸時代の虎は面白いですね。  仙厓さんの描く虎は傑作です、一言で言って愉快です。  仙厓さんはわざと虎を猫のように描いて、虎と猫の違いってあるのないのと、問いかけをしているんじゃないかと思います。  いろんな感じ方を自由に作品を前にしてゆくことの方がもっと美術を楽しめるのではないかと思います。















2022年1月26日水曜日

清水節江(ローズガーデンオーナー)     ・【心に花を咲かせて】原野を開拓し夢のバラ園を実現

 清水節江(ローズガーデンオーナー) ・【心に花を咲かせて】原野を開拓し夢のバラ園を実現

千葉県君津市の人里離れた山の中にとても綺麗なバラ園があります。  4000坪の原野だったところを ご夫妻はテントで寝泊まりしつつ開拓して作り上げたという手作りのバラ園で「ザ・ドリーミングプレイス・ローズガーデン」と言います。  何故原野を開拓しバラ園を作ったのか伺いました。  

バラの群植をしたかったので、そのためには広い土地が必要で、予算との兼ね合いがあるので探して探してたどり着いたのが、こちらでした。   移住前は普通の住宅街に住んでいましたが、気兼ねしながら農薬をまくこともあり、思いきり育てられたらいいなあと思いました。   こちらに来て夫がバラの無農薬栽培に目覚めてしまって、凄くはまり込みました。  今では無農薬で綺麗な花が咲いてくれるようになりました。   4000坪を購入して業者に見積もりをしてもらったら、天文学的な数字で、老後の楽しみとして自分たちでコツコツやろうと軽い気持ちで始めました。   全くの原野で手作業で草を刈って根っこを取って、大きな木はどかしたりしました。   金曜日の夜にこちらに入って、土、日作業して、月曜日の朝こちらから出勤するという事を繰り返していました。  当時は楽しくてつらいという思いはありませんでした。  テントに寝泊りして、かなり離れたお隣から井戸水を頂きました。   食材なども地元の方から頂いたりしました。  当時は怪しげな夫婦と思われた様です。  真夏に夫と延々と草刈りをやっていて、昼食が喉を通らなくて、夕食時も二人とも食べられなくて、熱中症だったようですが、そのまま寝てしまったら回復した様です。

仕事が過酷な場所のアートディレクター、現場監督のようなもので、体力には自信がありました。  小さな広告会社を2,30年都内でやっていましたが、私がバラにはまってしまって、先にフェードアウトして忙しくなったので、その後夫も辞めて手伝ってもらうようになりました。  人里離れた別天地を捜していました。  剪定も弱剪定で自然な形で育つように咲くようにしていきました。  こぼれ種とか球根の分球とか10年続けてきて少しづつ増やしていきました。   この土地は石ころも一個もないんです。  落ち葉が腐葉土になったようです。   井戸から水をくみ上げ噴水にしてそこから出た水を川にして池に行って巡回させています。   一生懸命やっていると不思議と手伝ってくれる方が出てきてくれます。   芝生の種をまいて大嵐になって全滅だと思っていたら、地元の方が大きなシートを被せてくれていたこともありました。  

この土地を見つけたのが2002年です。   開墾を始めたのが2004年です。  最初の2年間は週末に頑張ってやっていて、家を建てることにしました。  歳を取ってもずーっとバラとか草花を育てて行ければいいなあという夢があってそこからスタートしたんで、まさかこんなことに成ろとは思わなかったです。    アメリカのターシャ・テューダーさんも自分の庭をただ好きでやっていたのが有名になって行きましたが、気持ちは近いものがあったのかもしれません。  口コミでガーデンに来るようになり多くの人が来るようになりました。   イギリスの古い家を模して作りました。  インターネットで安く作り上げました。   要望があったりしてレストランなどもやるようにもなりました。 夫がバラの無農薬栽培に目覚めて、夫が主で世話をするようになりましたが、それでも足り無くなってきて週に何日かお手伝いしてもらっています。     500品種3000本あります。  

香りに興味があってバラに惹かれて育てたいという事になりました。  私が一番好きなのはイングリッシュローズのラジオタイムズと・・・・(聞き取れず)です。  香りが強いです。  花姿も綺麗です。  迷い猫、捨て猫が来て、ほっておけなくて面倒見るようになって住みつきました。  猫も人なつっこくなってそれぞれお客さんの接待するようになりました。   ガーデンは2010年4月にオープンさせていただきました。  彼は厨房に入って好評のカレーを作ったりパスタを作ったりしています。  あっという間に一日が過ぎます。  バラの世話は水曜日の休園日に行います。  動物もいっぱい来てモモンガも来ます。  鹿とかイノシシも軍団で来ます。   鹿に花と蕾をすべて食べられてしまったこともありました。  呆然としたこともありました。  いろいろ対策をしてやってこれました。    


    

 

  

2022年1月25日火曜日

藤野高明(元盲学校教師)        ・文字の獲得で道が開けた

藤野高明(元盲学校教師)        ・文字の獲得で道が開けた 

1938年(昭和13年)福岡市生まれ。  昭和20年4月国民学校に入学、翌年近くで拾った小さな鉄製のパイプで遊んでいたところこれが爆発、弟さんは即死、藤野さんは両目の視力と両手を失いました。   不発弾の爆発でした。  以来13年間、手と目が不自由では点字などの勉強ができないと学校は受け入れてくれませんでした。   しかし視力回復手術を受けるために入院した病院で、唇で点字を読む触読に出会いました。  視力は戻りませんでしたが、触読を身に付けた藤野さんは勉強に励み、20歳で大阪市立盲学校中学部2年生に編入、学べない子を作らないためにと教師の道を目指し、大阪市立盲学校高等部の世界史の教師を30年間勤めました。   83歳になった藤野さんのこれまでの歩みと視覚障害者の抱える課題をお話いただきます。

教職を目指す学生さんたちには親しみを感じますし、是非伝えたいなあという事もあって、1年に1,2回大学でゲストティーチャーとして講座を持って話しています。  熱心さと誠実に聞いてくれているなあというのが伝わってきます。   

「あの夏の朝から75年」昨年自費出版。   350ページに及ぶ労作。  手と光を失って75年を迎え自分の歩いてきた道を考えると、戦争をしないという新しい憲法のもとで生きることが出来たという事、家族を含め友達などに凄く恵まれたなあと思いがあり、その人たちに思い出とか、エピソードを書いて貰おうと思いました。   沢山の人に恵まれ、そして生きるには人生の目的、ロマンを持つんだという思いがあります。  

7歳の時に不発弾で 怪我をして学校にも行けなくなって、15歳まで家での生活でした。(8年間)  15~20歳までは目が見えるようになりたいという事で開眼手術のために、福岡の国立病院の眼科に5年間入院して手術等しましたが、回復は見込めないという事になりました。  20歳まで学校には行けず、つらかったです。   18歳ぐらいの時に心が荒れる事がありました。  看護師さんに本を読んで欲しいとお願いしたら、北条民雄の「いのちの初夜」を読んででくれました。  世の中には病気、怪我だけではなくて生きることに辛い思いをしている人がいることも知ったし、言葉に表せないような衝撃を受けました。 点字を唇で読むという事を知って、びっくりしました。  それで勉強を始めました。  人生の目標の一つのきっかけになりました。 光が差し込んでくるような気がしました。 文字の獲得は光の獲得でした。  

昭和21年7月18日に不発弾の事故に遭いました。   5歳の弟は即死しました。 私は両手、両目を失ってしまいました。  旧日本軍が使っていた小さな爆発物、単4の乾電池ぐらいの大きさでした。  両親が凄く悲しみました。  両手がないという事で盲学校にも行けませんでした。   20歳で大阪の盲学校に手紙を送って入ることが出来ました。   5年間猛勉強をしました。  生徒会長も担当しました。  頼れることに対して嬉しかったです。   1960年代の大学は障害者に対して冷淡で差別的でした。   教師になるための大学がなかなかなかったです。  日本大学の文理学部 歴史を勉強するために通信教育で入りました。    スクーリングが夏、冬にあり、それは苦労しました。 回りの人たちの援助で乗り越えました。  32歳で大学を卒業、教員の採用試験を受けて通ったんですが、採用までにはいかず、採用期限が切れてしまって、もう一度受けるよう指示がありました。   再度受けて通って、1973年9月29日採用の辞令を貰いました。     感激でした。  

世界史なんか嫌いだという生徒もいましたが、苦労して勉強して何かが判る、何かが見えてくる、歴史が見えてくる、そうすると人類の将来も見えてくる、そうすると楽しいものだと話ました。   全盲で離婚の縁にある生徒が相談に来て、私のことが信じられなくて、私の身体を触って貰ったら、急に黙ってしまい泣いて、「信じられない、これから頑張ります」と言ってくれました。   著書には「私は人と時代に恵まれた」と書いています。  時代というのは戦争のない、人権を大事にする、法の下に平等というような時代のことです。 障害者運動の高まりもありました。   障害者にとって学ぶ条件も改善されました。  いろいろな課題が改善されつつありますが、さらによくなっていくことを期待しています。 第37回NHK障害福祉賞を受賞しまして嬉しかったです。









2022年1月24日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)         ・【絶望名言】モーツァルト(初回:2018/12/24)

頭木弘樹(文学紹介者)       ・【絶望名言】モーツァルト(初回:2018/12/24)

https://asuhenokotoba.blogspot.com/2018/12/blog-post_24.htmlをご覧ください。 

2022年1月23日日曜日

豆塚エリ(詩人・出版社代表)      ・車いすの詩人「生きづらさ」に寄り添い続けて

(詩人・出版社代表)      ・車いすの詩人「生きづらさ」に寄り添い続けて

*都合によりここ4,5日 昼頃の投稿となります。(秋田 宏)

生きづらさを書く理由には豆塚エリさん自身の壮絶な経験があります。   高校生の時に自殺をはかり重度の障害者になり、首から下がほとんど感覚のないもののリハビリを経てかろうじて手を動かせるようになった豆塚さん、それでも温かさや冷たさを感ずることはできません。 豆塚さんが自ら命を断とうとした背景には日本人の父と韓国人の母を持つという出自や複雑な家庭環境がありました。  入院生活やリハビリを通じて生きる気力を取り戻して行ったという豆塚さん、現在は経験を詩やエッセーとして綴るほかメディアへの出演などを通じて、生きづらさを感じている人の力に成ろうと活動を続けています。   

最近になって「生きづらさ」という言葉が普及してきて、私が書き始めた頃はまだそんな言葉もなく、漠然とした将来に対する不安だったりだとか、死んでしまいたいとか、そういう気持ちを抱く人がいて、出発点は純粋に自分のそういう辛さとかをどう言葉にしていいのか、葛藤のなかで生まれてきたものを綴っていた。  飛び降りをして病院に入ってケアを受けていく中で生きづらさを客観視できるようになった。   自分と同じような子が今後出てきてほしくないという気持ちがまず一番にあって、10代の自殺率が上がってきていると聞いているので、「生きづらさ」を感じて居るひと、特に子供たちにに何か届けばいいなあと思って書いています。   

「生きづらさ」を感じたのは、小学生のころだったと思います。  両親の仲が余り良くなかった。   両親はどちらも再婚です。  私が3歳の時に再婚しました。  小学校に上がって妹もできました。(血は繋がっていない)    母は働きに出るようになって段々帰ってこなくなっちゃいました。   血の繋がっていない父は母に厭なことをいうし嫌いでした。  一緒にいたくない思いでした。    母は在日韓国人で言葉が判らない中で働いたり言葉を覚えたりしてきました。  文字は書けないし、しゃべるのも片言でした。子供ながらに母が可哀そうでした。  父からも守らなければいけないと感じていました。韓国人に対するヘイトは何となく快く思わなかったように感じてはいました。  それをしっかり意識し始めたのは中学、高校になって携帯でインターネットに接続できるようになってからです。  あからさまな言葉に多くで会うようになってからです。  日本国籍で日本で育っているが、血が混じっていることに対する、日本人ではないことに対する負い目みたいなものを自覚していきました。  

母も差別というものに対して、いろいろあったと思います。  日本人は薄情だとか言うんです、私は日本人なのに。  母は私が日本人であるという事に期待もするわけです。  期待にこたえたいという気持ちがありました。  或る意味嫉妬を感じていたのかもしれません。  大分県でも有数の進学校に合格、高校進学の前に両親は離婚、母と二人での生活が始まる。  二人に成ればよりよい生活ができるのではないかなあと考えました。   すべての原因を父親に押し付けたかったのかもしれません。   家に帰っても誰もいない、ほとんど一人暮らしの生活をしているような状況でした。   中学では料理もしていましたが、それもできなくなりました。  私も責められるようになり母との関係もどんどん悪くなっていきました。   家には居たくないように感じました。  自分にとっては生活そのものが煩わしいものでしかなかった。   夜中に家を飛び出したりもしましたが、結局居場所がないので家に帰るしかない。   誰かに気を留めてもらいたかった、鬱的状態になっていたと思います。 

高校2年生の12月に、急に朝起きれなくなりました。   2,3日続いて、朝、母が帰ってきました。  なんで学校に行かないんだと怒られて、喧嘩になって母が家を出て行ってしまいました。  本当に居場所がないなと感じて、あっ死ねばいいんだとその時に思って、その前にも漠然と死ねばいいんだとかという思いはありましたが、感覚が全然違っていました。   最後の時に母が「どうしたの」とか受け入れてくれたら、違ってたと思います。   アパートの3階のベランダに出て、これで生きていたら神様が「あなた生きなさいよ」と言ってくれているという事にしようと思って、半分賭けのような気持で、こわいという思いもあり、車が下にいなくなってから 30秒数えて落ちようと思って、数を数えて落ちました。

混濁していたというか、どこからが本当のことでどこまでが夢なのか、定かではありませんでした。   1回目覚めた時 、母が叫んでいて、部屋は暗かったようでした。  「あなたうちの子なんかじゃない。」と言っていました。  さすがに泣けてきて、ここまでしても私は否定されるんだなあと、思ってホロホロときちゃいました。   看護師さんから「大丈夫だから、寝てていいよ。」と言われて安心して又意識を失って・・・。   2年にわたるリハビリで、私は生まれ直しのように感じがして居て、・・・。  目覚めたら全く体が動かないんです。  最初はそれが苦痛で、悔しくて、悲しくて厭でしょうがなかった。 やってくれる人は迷惑かなと思っていたら厭そうではなかった。    生き生きと世話をしてくれて、こんな人たちもいるんだと初めて気が付きました。   しゃべれないのでお礼の気持ちで笑ったら、「笑顔が素敵だね。」と言われました。  そこから変わってゆく感じがしました。   立ったり歩いたりすることはできないと言われたときには、落ち込むこともありました。   少しづつ回復してゆくことに対して医師とか看護師さんが認めてくれて、満たされ度合いが大きかった。  今の自分を受け入れてくれたというのが、何よりも自分の中で回復できたと思っています。  

私が恩師だと思って居る人が詩人をされていて、その先生が入院間もないころ手紙をくださいました。  文芸部のOBでもあるその方が、OBの人たちに声を掛けて手紙を私宛にそれぞれ書いてくれたのを纏めて送ってくださいました。  「病室の窓は開いてますか。  心の窓は開いてますか。」・・・そういう文面が詩として綴られていました。  それが凄く心に残っていて、私という人間の存在を考えていてくれて、思っていたよりも自分は受け入れられていたのかもしれないとか、思いました。   指先が動くので、書いたりパソコンが出来るので、これは運命かもしれないと思って、お礼に詩集でもと思って、書き続けなければいけないなと、その時思いました。  

リハビリは一人ぼっちの作業で誰も判ってはくれない。   先生にもぶつけたこともありますが、「やらなくてもいいよ、だけど困るのは自分でしょ。」と言って突き放されました。  自分のためにやるもので誰かのためにやるものではないと思って、それに凄く感謝しています。 

*「かずらとふじ」? (リハビリ中につ擦った一編の詩) 

強く生きてゆく覚悟が描かれている。  

エッセー 「死にたい気持ちが消えるまで」  もう死にたいとは思わない。  それが一番大切なことで、それでいいのではないかと。  せめて自分の命を断とうとしない、思いとどまってほしい。   自分と向き合ってスッキリした感じはあります。  愛されていなかったんだなあという一面は有りますが、でも受け入れてくれていた人たちは確かにいましたし、今はそういう人たちが周りにいっぱいいると言えます。 今は凄く温かいものに囲まれていると再認識しています。   生きることそのものを愛せるように私もなって行かなければいけないし、みんなもそうなれたらちょっと生きやすくなるなるのかなあと思います。  




   

 

2022年1月21日金曜日

水上力(和菓子職人)          ・和菓子はサムライである

 水上力(和菓子職人)          ・和菓子はサムライである

和菓子作りを始めて修行時代を含めると50年余り、水上さんが作る和菓子は茶人から近所の子供たちまでをも満足させてきました。  海外のパティシエたちとのコラボレーションや講演を積極的にこなし、和菓子の魅力を世界に発信してきています。  水上さんに和菓子の世界の奥深い魅力や和菓子つくりにかける思いを伺いました。

わらび餅、わらびの根っこから取ったでんぷんで作りました。  根っこを4,5年寝かせます。  和菓子はあんこと皮が同じ硬さというのが基本的な考え方です。   今はお正月のお祝い用のお菓子になります。  時候を追ってゆく感じになります。  桜でもほぼ形は無限です。 職人の感性で作ってゆくわけです。   十五夜など見なくなってきていますが、和菓子屋などが掘り起こしていかなくてはいけないと思っています。  

あんこが命と言っていいと思います。   あずきの色も百人いれば百の色になります。   これが俺のあずき色だよというのは段々できてきます。    わらびも昔は自然のものを作っていたんですが、今は栽培です。  私は九州の垂水で作っているわらび粉(本わらび粉という)と岩手の西和賀

で作っている本わらび粉を使っています。   天然の物なので年によってでんぷんの質とかが違ってくるので職人の感覚で配合を変えながら作っています。   

大納言は粒あん用のあずきで、こしあん用のあずきは普通小豆です。 大納言は能登大納言、小豆は北海道です。  きんとんは青森の五戸の農家の方と取引しています。 

お客さんは和菓子の材料などを理解してくれる人が多いです。    海外のパティシエの方も来ます。  数年前、外務省の日本文化発信事業というのがあって派遣されたりして、製菓学校、料理学校、大使館などでワークショップをしました。  彼らはほとんど和菓子を食べたことも見たこともない。  和菓子は卵を除いて動物製の原材料を使わないわけです。  それが彼らにとって不思議、珍しいというわけで興味は物凄くあります。  海外のパティシエたちとのコラボレーションを最初にやったのがチョコレートでした。  お客さんも喜んでくれました。   

外国の方に和菓子を説明する時に「和菓子はサムライである」と説明しています。  お菓子は茶請けと言います。  請負ですから保証するという事で、お茶の味をよりおいしくするという事です。   お菓子を食べて口のなかに甘さが残る、その甘さがお茶の渋みを消して美味しくする、お茶には美味しくしてもらう権利があり、お菓子は美味しくする義務があるという事です。  お茶を殿様としてたとえた場合にはお菓子は侍ですから 、殿様のために献身しなければいけない。  お菓子を食べて口のなかに甘さが残り、その後お茶を飲んで「おいしいお茶だね」といったときには口の中にはお菓子はない。 「武士道と云うは死ぬことと見つけたり」とか言います。(「葉隠れ」より)  菓子の材料にお茶は使わない。(使うとお殿様を殺すことにもなる。)  香料は使わない。(殿様を隠してしまう事にもなる。)  「葉隠れ」の哲学みたいな部分で、底辺の哲学としては共通するものがある。こういったことを外国人に説明すると余計に興味を持ってくれます。

昭和23年生まれ、父は江戸菓子職人で和菓子屋をしていました。  虚弱な体質でバスで遠足などいけませんでした。(車酔い)  公認会計士を目指しましたが、大学4年の時にはあきらめました。   学生運動が盛んでした。  茶道のサークルに入って1年ぐらいやりその後町の先生に習いました。  後のお菓子つくりにも役立ちました。  三島由紀夫の割腹事件がありましたが、自分の人生を変えたことに近いものがありました。  卒論の替わりに和菓子に関する歴史を書きました。   大陸から唐菓子が伝わってきて禅宗の坊さんの・・・?、南蛮菓子とかについて書きました。  京都に修行に行き、その後名古屋、又虚とに戻って、通算で5年になります。  京菓子は「見立て」で抽象的な形、江戸菓子は「写し」と言って桜とか具体的なものです。  

徒弟制度ですから見て習う、これは大事です。  父は認知症ですが、桜を作ってというとちゃんと桜を作るんです、身体が覚えてしまっているんですね。   私たち職人はお菓子を食べる側の人の立場を理解してお菓子を作るという事を岡部伊都子さんの「四季の菓子」という本から学びました。  岡部さんとはその後もお付き合いをしています。  名古屋も京菓子の文化です。   28歳の時に独立しましたが、最初の10年はなかなかうれないので食うや食わずの生活で、段々自分のものになってきてその後段々売れるようになりました。   羽二重餅は10年経って、或る時これが羽二重餅なんだとはっと判りました。  

洋菓子に押されていますが、それには何が必要なのか考えてはいますが、結局はあんこのおいしさかなと思っています。   和菓子の伝統を守っているだけでは飯は食えないと思っていて、基本に戻って洋菓子を攻めてゆくという事に転換していかないといけないと思います。    

「IKKOAN 一幸庵 72の季節のかたち」 本を出版。 その後和菓子の文化論的なものを書いています。







 

2022年1月20日木曜日

佐藤仙務(起業家)           ・寝たきり社長がひらく 障害者の未来

佐藤仙務(起業家)           ・寝たきり社長がひらく 障害者の未来 

愛知県東海市在住、30歳。 生まれた時から脊髄性筋萎縮症という進行性の難病を患い自分の身体を自由に動かすことが出来ません。   寝たきりで生活する中、2011年ホームページや名刺の作成を手掛ける会社を幼馴染と共に起業、持ち前の熱意と工夫で会社を経営する上での様々な壁を乗り越えてきました。  佐藤さんに働くことへの思いを伺いました。

話をすることと、顔の表情と指先数センチ動かす程度です。   天井方向にパソコンのディスプレイがあり、目でパソコンを操作するのを補っています。   目で見ているところがマウスのカーソルポイントとなっています。  ホームページや名刺の作成、パンフレットのデザインの仕事を行っています。   ほかの人たちも一緒に仕事をしてパソコンの中で仕事が完結するようになっています。   メールも行います。  目で操作する前は手で操作していましたが、手の力が無くなってきて、目で操作するというものに出会って、以前と比べたら10,20倍の速さで行えるようになって、段々楽になっています。   

小学1年生から高校まで名古屋の養護学校に通っていました。   高校3年生になり重度障害者が働ける場所って世の中にないという事が気付きました。    会社を興して自分で仕事を作るというのが、働くための最終選択肢だったんです。   2011年に「仙拓」という会社を幼馴染と共に立ち上げました。   正当な対価を得たいと思っていました。    当時重度障害者にとって1か月1万円でも凄いと言われるような状態です。   私は男兄弟の3番目で、兄2人は健常者で通常に就職して生活費を稼いでいました。    自分も働いてお金を稼ぎたいという思いは強かったです。    アルバイトとかもしたことがなく人生で初めての仕事が社長業でした。  何にも分からない状態での怖さと不安はありました。  19歳で障害者で寝た切りでという事は前例がなかったので、自分たちがうまくいったら、ほかに障害を持っている人たちが自分にもできるかもしれないと思ってもらえるきっかけになってくれたらいいなあと思いました。    

実際会社を立ち上げましたが、仕事が全然来なくて、会社が空中分解するのではないかという不安のなかで、ビジネスの世界は私たちを特別な扱いをしないで、もしこの社会で稼げるようになったら、認めてくれるようになるかもしれないと、逆転の発想をしました。   こういう会社があるんだよという事を皆さんに知ってもらわないといけないと思って、フェースブック、ツイッター、SNSで日々の自分たちの活動を皆さんに見ていただくという事をやり始めました。  最初はほとんど相手にされませんでしたが、続けることで段々返事が増えて行きました。  最初は長文でしたが、パッと見て判るように工夫し始めました。   少しづつ仕事へと結びついていきました。   

自分は好奇心旺盛な性格だとは思います。   周りに亡くなった人もいて、毎日が当たり前のようにあるというのは絶対に思ってはいけないと思っています。   私も重篤な肺炎に罹って目の前に死が近づいたことがあって、物事の価値観、感覚というのは変わるなと思います。     仕事が全てでもないし、家族、友人、自分の大切な人と過ごす時間が大切だから、そのために仕事をして世の中と関わって役に立って、お金を稼いでという事が大事だと思います。   人生の中の優先順位というものは、自分が死を目前にして考え方が変わると思います。   何のために生まれてきたかというと、人と出会うために生まれてきたのかなあと思います。   いろんな人に出会うと自分の中で、あっ、こんな自分もいたんだなと、本当の自分にも出会えると僕は思います。  仕事はあくまで手段なので、手段を通じて人と出会って、人と関わってと言うほうが本当は大事なんだと思います。   周りから絶無理だといわれていたのをやってきて、今回も何とかなると思って頑張ろうというのも人とのつながりだと思います。   

他人よりできないことが多くて自分は弱いなあと感じることがありますが、人の本当の強さは弱さの中にあるのかなあと思っていて、2年前の入院の中から自分がこういうところが不便だから、もっとこうあったらいいとか、思ったところを今の仕事に生かしているところが沢山あると思うので、自分が弱いなあと思った部分がいろいろ感じるところがあります。

コロナ禍になって世の中がテレワークが多くなってきて、今まで以上に仕事はしやすくなったと感じます。   この2年で健常者と障害者というのがほんの少し縮まったように感じます。   入院していた時に医師からもうご飯を食べることはできませんと言われて、こんなに「食」という事は大切だったんだなあと思い知らされて、病院、施設などで外へ行って食べれない人とか、「食」って単に栄養を取るというだけではなくて、人に生きる力を与えるという風に考えた時に、自分の会社で仕事にしたいなあと考えました。  新たなチャレンジかなあと思います。  キッチンカーであれば障害の方へも行くことができると考えて、移動販売をやってみようかなあと考えました。   ホットサンド、・・・(聞き取れず)ず)、クレープなどの販売を考えています。  障害者に食べやすいように工夫しています。  

創業10年、こんな会社、社会だったらもっとみんなが幸せに暮らせると、描いたものを実現するにはまだ1/10にも行っていないと思います。  色々考えてはいますが、考えることも大切ですが、行動に起こすことがもっと大切だと思います。   凄くいい発想でも実現しないと何にもならない、考え抜いたものを実現するという事が大切だと思います。 

自分のことを好きになるのには、可成り努力が必要で、人に比べて自分には出来ないとか、自分にはないとか、人と比べるのは単なる嫉妬で、僕は人生で一番厄介だなと感じているのが嫉妬なんですね。   嫉妬はその人を駄目にしてしまうと考えていて、嫉妬を考えるとどんどんマイナスの方向になってしまう。  もっと自分のことを好きになろうという努力がかなり必要と思います。   何かを実現しようと思ったら、自分の心の中で約束することなので、必ず言葉に出します。  僕に取って起業は人生の選択肢を一つ新たに増やしてくれたものかなと思っています。  まだまだ障害者にとって日常の選択肢が少ないので、選択肢をご提案し続けられるような会社にしたいと思っています。  


  


2022年1月19日水曜日

平野早矢香(卓球女子団体銀メダリスト) ・【スポーツ明日への伝言】鬼の仮面を外して語る~卓球と私

平野早矢香(卓球女子団体銀メダリスト) ・【スポーツ明日への伝言】鬼の仮面を外して語る~卓球と私 

去年の東京オリンピックでは混合ダブルスの金メダルをはじめ、4つのメダルを獲得した日本の卓球ですけれども、1月24日からは東京で全日本選手権が始まります。   全日本卓球の女子シングルスで3連覇を含む5回の優勝、2012年ロンドンオリンピックの女子団体では卓球競技として男女を通じて初のメダルとなる銀メダルを獲得した平野早矢香さんに伺います。   現役時代は卓球の鬼と言われてしぶとい試合ぶりを見せてくれた平野さんですが、2016年に現役を引退、現在は卓球競技の解説、スポーツコメンテーターとして活躍中です。

現役の頃は卓球一筋というような生活でしたが、引退後は全く違う第二の人生をスタートしたと思っています。   両親が卓球をしていた影響で趣味みたいな感じで始めました。(5歳)小学校1年生で全日本選手権のバンビの部(2年生以下)に参加。   中学・高校時代は、仙台育英学園秀光中学校仙台育英学園高等学校に在学、高校1年生で全日本ジュニアで優勝。   その時の試合は今でも鮮明に覚えています。  

卓球はトップスピン、バックスピンが基本的な回転で、そこにサイドスピンが入ってきますが、「つっつき」という技術はバックスピンのボールで長く送るものです。   2004年全日本選手権で18歳で優勝。(優勝候補としてのレベルではなかった。)    決勝は藤井寛子選手で11ゲーム11点先取で7ゲームマッチ(4ゲーム先取)でしたが、第6ゲーム 10-8で相手のマッチポイントからの逆転、最終ゲームも前半かなりリードされてからの逆転でした。  

ミキハウスに入社して卓球のスタイルのチェンジをしなければけないという事で、新しいサーブを身に付けようという事で、巻き込みサーブと言って当時は主流ではなかったサーブの練習を始めました。   入社した当時から世界で活躍するために自分はどういった強化をするか、伸ばすべきことを、監督等と何度も話し合いをしました。   卓球以外の分野の人たちからも身体的な事、メンタル的な事とかをアドバイスしていただきました。   2008年 広州の世界選手権に出場し日本は3位になる。  その時に「鬼の平野」と言われました。  同年 北京オリンピックに出場し、個人シングルスは3回戦敗退、団体戦では3位決定戦で韓国に敗れメダルを逃す。  次のロンドンに対してどういう事をしなければいけないのか、いろいろ経験したうえで準備が出来たと思います。   負けた瞬間の写真を拡大してナショナルトレーニングセンターの卓球場のところに飾っていました。  ロンドンではこの悔しさを味合わない、自分たちがガッツポーズをするんだという事で強化練習に取り組みました。  

2009年 全日本選手権5回目の優勝。   決勝の相手は 輝選手(中国からの帰化選手)でカット(ディフェンス)の選手で中国代表としても世界選手権等で活躍していた選手でした。  それまで一度も勝ったことのない選手でしたし、スランプで迎えた全日本選手権でもありました。  30球ぐらいのラリーは何度もあったと思います。   最終ゲーム第7ゲームの前半 エッジボールが2回あり精神的にへこみました。  チェンジコートの時にスクリーンのビジョンを見た時に、2004年の決勝の逆転優勝のことを思い出して、このスコアーでも判らないなあと思って、粘ってゆく戦術の軸だったんですが、流れが悪いので思い切ってコースを変えて行こうと思いました。  フォアに送ったら今までにないような凡ミスをしました。  1-5から試合の流れがガラッと変わってそこから追い上げてきて、9-8とリードして最終的には11-9で勝つことが出来ました。  促進ルールが適用されましたが、なんとか対応できました。  全ラリー数が1076本 歴史に残る全日本選手権の試合でした。  

2012年ロンドンオリンピック福原愛さん石川佳純さんと共に団体戦のみに出場し、準決勝でシンガポールを下して男女通じて日本卓球として初めてのメダルを確定させる。    オーダーは決まっていて福原・石川ペアーで練習をしていましたが、試合前夜に村上監督から石川・平野ではどうかと言われて、吃驚しました。   今まで石川選手と組んだ経験と二人の戦術が決まれば何とか持っていけるかもしれないという気持ちはありました。   石川選手と相手のビデオを見てこう攻めようという意見が合い当日に臨みました。    結果は福原選手、石川選手がシングルスを取ってダブルスも取って、シンガポールを下しました。 

一番は自分の卓球を相手に対してのびのびと堂々と発揮できるかどうかという事と、卓球は対戦競技なので相手の動き、相手の心理を読むというところが非常に重要な勝敗を左右する重要な部分で、自分の能力を伸ばすとともに相手を見る、研究するという事を一緒に高めて行くというところが重要になってきます。   










2022年1月18日火曜日

安森ソノ子(詩人・エッセイスト)    ・京ことばを胸に詩を書く

 安森ソノ子(詩人・エッセイスト)    ・京ことばを胸に詩を書く

1940年京都市生まれ、同志社大学を卒業後デザイン関係の会社に勤務した後結婚、主婦業と子育ての傍ら、大阪文学学校で詩を書くことを学びました。  1979年初めての詩集紫蘇を摘む』を発行、この詩集は日本図書館選定となりました。  その後も詩作を続け、2021年発行の詩集「京言葉を胸に」まで出した詩集は10冊に及びます。   安森さんは2年ごとに開かれる世界詩人会議への参加など海外でも活躍しています。   日本舞踊や能で舞台に立つ事も多く、踊る詩人と呼ばれることもあります。  生まれ育った京都の言葉に改めて向き合おうとしている安森ソノ子さんに伺いました。

インドで世界詩人会議が開かれる予定でしたが、中止になりました。   学生時代から詩を書くことは好きでしたが、結婚したのが24歳で大阪文学学校にいって、詩の教室に入っていました。  1979年初めての詩集紫蘇を摘む』を発行しました。  その後「地上の時刻」「香格里拉で舞う」など10冊を発行。   同人誌「どうえ」に参加していたころ1編の詩の中に5個以上京言葉を使うように心がける。   「どうえ」というのは「こんな服どうえ」とか使うのでそれを用いました。  京言葉の会では、「京言葉辞典」というのがあり、イントネーションも違うので参考にしながらみんなで勉強し合ったり、京言葉で作った劇を舞台で発表したりしました。  2021年発行の詩集「京言葉を胸に」を発行しました。  3部構成で1部は「京女世界をめぐる」、2部が「日本文化の元で」、3部が「御所言葉で」となっています。    

*緑茶の芽(「日本文化の元で」)

「宇治のお茶の葉で染めた着物を着るとほっこりするのどす。  新緑の光沢に包まれてうちはお茶席に行かせてもらいます。   おおきに。    お茶色のはんがりとしたお着物はええもんどすなあ。   お茶会でお目にかかれます日を待っております。  床の間の掛け軸はうっとこに前からあるカキツバタの絵。  亡くならはったお姑さんが大切にしてはった書画の抹茶茶碗でお茶をたてお茶色に染まりましょ。  えらい昔みたいにまず石臼でお茶の葉っぱをひいて粉にしましょ。  ひきたての抹茶の香りのよさ。  このせわしない時代に葉緑素をぎょうさんいただくことを考えましょ。   健康にええことどすしなあ。」

はんがり:落ち着いて華やかで上品なというような感じ。

うっとこ:うちのとこが詰まった感じ。

*おめもじ(「御所言葉で」)  朗読

中坪:中庭のこと

おめもじ:面会

くもじながら:大変恐縮ながら

ゆめまがしい:現実にはないのであるが  めったにないことであるが

きょくんなこと:驚くこと  吃驚すること

すもじ:寿司 宮中の女官が使っていた。

今でも御所言葉は残っていて、「お冷ください」というお冷は御所言葉です。 「おかべ」は 豆腐のことを言います。  白い厚い壁という意味合い、  「おてしょ」は皿   

2020年  フランスのジャポニズム・スフセサール芸術勲章受賞。

2020年発行「紫式部の肩に触れ」 英文に訳す。

*「紫式部の肩に触れ」  朗読 (日本語、英語)

京都出身の山下智子さんが2か月に一回は京言葉で語る「源氏物語」の講演会を持っています。  それと共にNHKのカルチャーで講座を持っています。            私はユーチューブを立ち上げて世界の人々と友情を大切にして、人間が本当に望ましい一生を終えるように考えて行きましょうとやって行きたいのです。   

*「ゆずりはを活ける」?

「旅立とう。  道狭き難度であっても寿命ある日の 育て育ちゆく木々の花々のはんなりとした心音を抱き」



   

2022年1月17日月曜日

市川右團次(歌舞伎俳優)        ・【にっぽんの音】

市川右團次(歌舞伎俳優)        ・【にっぽんの音】 

今、新作歌舞伎「プペル~天明の護美人間」という演目に出演しています。  原作・脚本を西野亮廣さんが担当。  市川海老蔵さんの主演で娘、息子さんと出ています。  私はおじいちゃん役の「玄」という役です。  元旦は諸先輩の家に伺ってご挨拶することが通例になっていて 15,6か所回りますが、コロナという事で休みました。   3部制になっていて1部の人が出ないと2部の人は入れません。  次も同様です。  

1963年大阪府出身、父は 日本舞踊飛鳥流家元の飛鳥峯王。  1972年6月、8歳の時に京都南座での「天一坊」一子忠右衛門で初舞台。  1975年に上京して三代目市川猿之助に弟子入りし市川右近を名乗る。(11歳)   住み込みになりました。  

その後、大阪に帰って踊りの師匠をやるのか、歌舞伎をそのまま続けてゆくのか、それとも二足のわらじを履くのか、これからどうなるんだろうと、不安な3年間でした。  父が一生お預けする気持ちですと言って、では一生お預かりしましょうという事になりました。    高校になると大人の役をやらせてもらうようになりました。    市川猿之助師匠の元で朝の4時までとか8時まで稽古をして11時からの初日を迎えるというようなこともしていました。  2017年1月3日、新橋演舞場での『壽新春大歌舞伎』初日を以て正式に三代目市川右團次を襲名、長男が市川右近を襲名。    2008年に市川海老蔵さんが楽屋にふらっと入ってきて、外連( 歌舞伎人形浄瑠璃で、見た目本位の奇抜さをねらった演出。また、その演目。早替わり宙乗り仕掛け物など。)のパイオニアみたいな人の名前はどうかと言ってくださいました。  そして市川右團次をお勧めいただいたのが最初なんです。    それから9年後に襲名しました。  右團次襲名と共に屋号を高嶋屋と改めました。   海老蔵さんが自分の息子が団十郎になった時には右團次がいるだろうと、うちの息子に右團次になってほしいという事で、市川宗家としての海老蔵さんのビジョンが違いますね。   凄い方だと思いました。  

演目『雙生隅田川ふたごすみだがわ)』では猿之助さんと私と倅の宙返りもありましたし、倅の早変わりもありました。  最後に「鯉掴み」と言いまして、掛け軸の中から鯉が逃げてしまったのを奴の軍介が目を貫いて、再び掛け軸に戻すという「鯉掴み」とい場面がありますが、この「鯉掴み」を初代右團次さんが大変得意としていました。  その芝居には外連味がたっぷりありました。  その演目で襲名させていただきました。   年齢もいってきて、海老蔵さんとご一緒する舞台も増えて市川宗家というものも、もっと勉強しないといけないという事もあり、外連との狭間にいるような感じです。  

日本の音とは、いろいろ考えたんですが、鶯の声、風鈴の音、除夜の鐘だったり、いろいろあると思いますが、日本の言葉の中にも音があると思います。  そよそよとか、とうとうと流れる。  さらさら流れる、しんしんと冷え込む、とか、あります。  歌舞伎では自然現象を太鼓一つで表しています。   雨垂れ、川の流れ、海の波音、滝の音、雪の降る音など。  お化けの出る音。  僕なりの日本の音です。  

大藏基誠:今息子が13歳でどう接していいかわからないことも最近結構あります。  僕の敵がスマホで、スマホの中の視野が広くて、狂言と言う道をどう伝えて行ったらいいのか、スマホが目の敵になっています。  自分が本気で楽しんでいる舞台を見せてやろうかと思っていて、今取り組んでいます。  俺の背中を見ろ、というだけではなく話し合いの場を作るようにはなりました。   昔とは違って師弟関係もちょっと違うのかなという気がします。   お稽古事での厳しいことは大丈夫です。  

市川右團次:好きでいてくれていることが、親にとっては何よりの幸せなのかなあと思います。  18歳でヨーロッパ公演に行って、「俊寛」というお芝居で、シーンと聞いていて判らないだろうなあと思っていて、最後に嵐のような拍手をいただいた時に、歌舞伎は凄いと思って、その後は緊張で裸で立たされているような思いをしました。  スーパー歌舞伎は1986年にできました。   梅原猛先生との構想が5年以上あって、いろんなものを駆使して歌舞伎と認められました。 

大藏基誠:スーパー歌舞伎を聞いて、スーパー狂言をやろうとしたら、結果はスーパー歌舞伎になるんですね   歌舞伎のような演出になってしまう。  

市川右團次:シェークスピアの「マクベス」を能楽堂でやらせてもらった時に、判りにくいだろうなあと思ってお客さんに聞いたら、凄くよく判ったというんです。  見ている方の頭に中って無限の宇宙が広がっていて、その方がご覧になっている宇宙があると思うんです。   そぎ落としてそぎ落とした先にお客様の心理や頭の中に呼びかけて、それを膨らましてゆくという素晴らしさがあって、歌舞伎にせよスーパー歌舞伎にせよ、功を奏するのかそうじゃあないのか、これから先難しいところなのかなと思います。

大藏基誠:能楽と歌舞伎は似て非なる物で、能楽はそぎ落としてゆく引き算の芸能だと思います。  歌舞伎はいろんなものを足して、足し算の演劇だと思います。  この二つが存在する日本の長い歴史のなかで生まれて来た文化って、凄くおもしろいなあと思います。  

市川右團次:歌舞伎にも一つの枠があると思っていて、師匠三代目市川猿之助が作ったスーパー歌舞伎は9作品有りますが、絶対に枠を超えていないんです。  ぎりぎりまで行くが超えないんです、それが凄いと思います。   淡々と役者として喜んでいただける人間に成長できればなあと思います。









   

2022年1月15日土曜日

臼井真(元小学校教諭)         ・"しあわせ運べるように"は こうして生まれた(初回:2016/1)

臼井真(元小学校教諭)         ・"しあわせ運べるように"は こうして生まれた(初回:2016/1) 

*"しあわせ運べるように"   歌は神戸市立住吉小学校合唱部です。

今から27年前の平成7年(1995年)1月17日阪神淡路大震災が発生、6400人を超える人達が犠牲になり、建物の倒壊によって多くの方たちが学校の教室や体育館などで長期間の避難生活を余儀なくされました。  愛する人たちを亡くした絶望と先の見えない避難生活、そんな中、或る神戸の小学校のスピーカーから流れたこの歌が市内だけでなく、広く被災地に広がり多くの人たちを勇気づけました。  その後新潟中越地震や、東日本大震災の被災地でも歌われ、今では各国語に訳されて世界の被災地で歌われています。   この歌を作ったのが臼井真さん、現在61歳、去年まで小学校の音楽専科の教諭でした。  この歌が生まれるまでにはどのようなドラマがあったのか、臼井真さんに伺いました。  2016年1月16日のインタビューの再放送です。

(参照:https://asuhenokotoba.blogspot.com/2020/03/blog-post_21.html

あれからあっという間のようですが、神戸市の成人式に参加させていただいた時に、新成人の方たちが"しあわせ運べるように"を歌ってくれて、あの時に生まれた子供たちがこんな立派な大人になっているんだという事で時の流れを感じました。   平成7年(1995年)1月17日午前5時46分ごろ、地震が起きましたが、音楽指導のことがありいつもより早く4時半ぐらいに起きて、朝食を済ませ2階に上がった直後に地震がありました。   奇跡的に立っていた場所がよかったのか無事でした。   1階は完全に押しつぶされて、叔母が1階に寝ていましたが、ベッド毎横に押し出されて奇跡的に助かりました。 私がもし1階にいたら完全に死んでいたと思います。  二駅先に親類がいたので、スリッパで二駅歩きました。   電話もつながらず情報がつかめませんでした。   その後校長先生から連絡が入り避難所には2000人ぐらい入っていることを聞きました。    翌日学校である避難所に向かいました。    避難してきた人たちであふれかえっていました。    修羅場のような避難所でどうやって行けるだろうと何も頭に浮かびませんでした。  同僚の人々も大丈夫でした。  音楽何て何にも役に立たないと無力感を感じました。   

1月の末の夜に帰れた時に、ニュースで三宮の町が慣れ親しんでいた町ではなくなっているのにショックでした。   突然こみあげた思いをテーブルの上にあった紙に走り書きをしてその後に作曲、合計で10分ぐらいだったと思います。    2月中旬ぐらいに初めて授業らしいものが出来た時に、この歌を生徒に披露しました。  当時3年生だった子供たちが最初に歌いました。   ピアノが弾けて授業が出来たことがこんなに幸せだという事に涙が出ました。   ボランティアの方たちに子供たちが歌いましたが、多くの方が涙して聞いてくださいました。   2月27日に学校が再開するときに全校生で歌おうという事になり、ボランティアの人たちにも歌ってもらおうという事で子供たちが貼り紙をしたりしていました。  ボランティアの人たちからラジオ体操の前に流したいという要望がありました。   徐々に覚えていただきました。   全校生と避難者との橋渡しの役割にと言ってくださった先生が職員朝集で紹介した時に調理師さんなどを含め沢山の方が曲が終わった時に強い拍手が起こりました。   何もできないと思っていたのに自分にもできたことに感動しました。    

教員として「心のハーモニー」というキャンプファイアの歌を作ったのが最初でした。(教員として2年目)    4,5歳の時に友達のことを曲にしたことが最初でした。   シンガーソングライターになりたいと言う思いはありました。    ポピュラーソングコンテストがあり、「大和撫子」という曲を作詞作曲して出ましたが駄目で、その時に優勝したのが、「時代」を歌った中島みゆきさんでした。   子供たちと向き合う事によってどんどん曲が出来ました。  入学、卒業の行事の時の歌なども作りました。   天使の歌声合唱団で震災前から小学校では歌の活動はしていました。  神戸復興のシンボル曲になりました。   神戸市内の小学校をはじめ、追悼式、成人式、新潟中越地震、東日本大震災の被災地にも広がって行きました。   福島の小学校との交流がいまでも続いています。    10か国語に翻訳されて世界でも歌われています。   「神戸」をその土地の被災地名にすることで気持ちを共有することができます。   

最初、自分がこの歌で収入を得ることは絶対だめだと思って居まして10年ぐらい著作権を取りませんでした。   東日本大震災が起こった時、本が出版できた時に、直接的に目に見える形で支援が出来ることを知って、今は歌のCD、本とかの印税を全額東日本大震災で被災した子供たちへの支援のために使っています。  歌自体が語り部となってたくさんの人に届いているというのが嬉しいです。   歌自体が何かを届けているような気がして不思議な気持ちです。   20数年経って見ると、音楽の神様が何か力を与えてくれたのかなという感覚がします。   全国の子どもたちが知っている歌になってほしいと思っています。




 





2022年1月14日金曜日

杣田美野里(写真家・エッセイスト)   ・〝一世の終りに降るもの″がある(初回:2021/10/15)

杣田美野里(写真家・エッセイスト)   ・〝一世の終りに降るもの″がある(初回:2021/10/15)

https://asuhenokotoba.blogspot.com/2021/10/blog-post_15.htmlをご覧ください。


 

2022年1月13日木曜日

山根基世(「ラジオ深夜便」元アンカー) ・「ラジオ深夜便」アンカートークショー

山根基世(「ラジオ深夜便」元アンカー) ・「ラジオ深夜便」アンカートークショー 

「ラジオ深夜便」を担当していたのは20年前になります。  1998年4月から2000年3月までの2年間でした。    36年間NHKにいましたが、希望して手を挙げて叶ったのはラジオ深夜便だけでした。   当時50歳で定年が見えてくる頃でした。  旅の番組を5年間担当していました。   地方の普通の人の普通の暮らしを見つめてその中にある感動を見つけて番組にしていくものです。   その後働く女性をターゲットにした番組を担当しました。 自分の心から生まれた、その人の本当の言葉を聞きたいという思いが募ってきて、そういう場を持ちたいと思って、ラジオ深夜便はアンカーの自由裁量が利いていて、自分のやりたいことにテーマを絞って番組を出すことができる、そういう意味で私は「列島縦断女の暮らし」というタイトルで、女性たちの言葉を聞かせてもらいたいなという事でラジオ深夜便を希望して放送担当することになりました。  

午前3時台の「日本の歌 心の歌」の特集が昭和初期の歌の特集でした。   敬称略の歌手名紹介をしてしまったら、敬称を付けないとは何事だという手紙などが一杯来ました。   賛成の方もいましたが。  私の時代までは敬称略が普通でしたので、東海林太郎、藤山一郎って呼んでいました。   調べてみると歴史上の人物、有名人とかは、敬称略が原則であるとなっていました。   その件を話して、ご意見をお寄せくださいと番組の中で言いました。   深夜の番組なので5,6通ぐらいかなと思ったら敬称問題だけで195通も来ました。   敬称略に賛成が141通、どうでもいいという人が19通、反対が35通でした。 反対意見を述べてもう受信料は払わないというようなご意見もありました。   歌が自分の記憶と結びついて大切に胸にしまっておくものなので、その歌を歌っている歌手の名前に「さん」を付けないのは、自分の思い出の中に土足で踏み込まれるような気持がするんです、という手紙を頂いて、確かにそうだなあと思いましたが、どちらに決めなければいけないと思いました。  当時は「さん」を付ける方もいれば付けないアンカーの方もいました。  言葉というのは時代と共に変わってゆくものです。  「列島縦断女の暮らし」はほぼ私が望んだとおりに放送することが出来ました。  

「列島縦断女の暮らし」のなかでの山形の阿部敬子さんと再会しました。    毎日農業記録賞の最優秀賞を取った作文が新聞に載っていました。  傑作でした。 案の定本当に面白い人でした。  放送のなかで方言を話し続ける人って本当に少ないんです。   栃木のカワセミさん(あだ名)、峰岸信之さん  この人は毎月カワセミの決定的な写真を送ってくださいました。   私は岡山に出張した時に生まれて初めて生カワセミを見ました。  本当に綺麗だったので、その感動を放送しました。  そうしたら峰岸さんから手紙が来て、写真を送ってきていただきました。  家の裏の池にカワセミが飛来するそうで、滅多やたらと撮れない写真、1万枚撮ったなかの数枚のなかの1枚、1/8000秒の瞬間をとらえたものを送ってくださいました。 大きな魚をくわえている瞬間の写真です。   感激しました。  言葉でその状況を細かく説明しました。  カワセミさんのコーナーが出来てしまいました。   カワセミさんは国指定の難病が判明したのが48歳の時だったそうです。    その時に余命1,2年と言われたそうです。   かれこれ20年生き延びています。   写真を紹介していただくのが生き甲斐ですという手紙を頂きました。     2000年3月辞めるまでは続きましたが、業務命令で昼間のラジオに変更になり、そこでもカワセミのコーナー続けました。   その番組を降番する2004年までトータル5年間カワセミさんのコーナー続きました。  その後峰岸さんはカワセミの写真展を開催しました。  翌年2005年71歳で亡くなられました。    悔いのない人生だったのではないかと思いす。  写真を集めた本も出されています。   特に峰岸さんの手紙のなかの「求愛給餌」、その瞬間の写真、に感動しました。  

「列島縦断女の暮らし」の最終回には石垣りんさんに登場していただきました。   日本興業銀行に事務員として就職。以来定年まで勤務し、戦前、戦中、戦後と家族の生活を支えました。  そういった中で詩を書き続けました。  働く女性にとっては胸に染みる詩が多いと思います。  半身不随になった父親と4人目の母親と職のない弟たちと狭い家に暮らして、逃げ出したいと思っていたけれど、今振り返るとああやって愛し合ったり憎み合ったり、言いたいことを言い合ったりしていたあの暮らしが幸せだったのかもしれない、結局生きるという事はそういう事かもしれませんね、とおっしゃいました。  番組に来たのが80歳の時でしたが若々しく帰ってゆく姿を見ました。   私も頑張ろうと思いました。



2022年1月12日水曜日

小池真理子(作家)           ・今、夫の死に思う

 小池真理子(作家)           ・今、夫の死に思う

東京生まれ、69歳 現在長野県軽井沢で執筆活動をしています。  26歳の時にエッセー「知的悪女のすすめ 翔びたいあなたへ」で作家デビュー、1995年に「恋」で直木賞を受賞しました。   今年受賞から27年目になるという事です。  同じ直木賞作家藤田宜永さんとはオシドリ夫婦として知られていましたが、一昨年の1月に肺がんで亡くなりました。(69歳)   夫との別れを綴った「月夜の森の梟」が昨年11月に出版されました。

闘病が1年と10か月でした。  1月30日に亡くなりました。    末期がんだと宣告されて心の準備はしていたつもりでしたが、37年間一緒にいた相棒が食べられなくなって背中が痛くなってゆくのを間近で見てきて、或る意味では荘厳なんですが、最後の1か月ぐらいは言葉では言い表せないような状況でした。   最後の最後まで家でいて私自身の肉体のような感じになってきて、精神的なところも我がことのようになって行っちゃうんです。   病院でなく自宅でよかったなと思っています。   肺がんなので酸素吸入器をレンタルでセットして生活は出来ますが、肺がんの場合の最後は本当に酸素が足りなくなって、本人が苦しむので、ずーっと自宅ということは出来ないだろうから覚悟しておいてくださいと言われました。 最後に一日だけは病院でした。    

子供のころからの生活環境のせいでしょうが、妹とは8つ違いなので一人遊びをすることが好きでした。  彼が死んで一人になってもそこまでは寂しくないだろうとたかをくくっていましたら、やっぱり寂しいですね。   夫との別れを綴った「月夜の森の梟」というエッセーですが、そこにも書いているんですが、自分自身が分断されているんです。もう元には戻れないんじゃないかとか、そのぐらいの欠落感があります。   オシドリとかの次元はとっくに超えているんですよ。   自分の半身だったんだなというのが強いです。  半身失った虚しさは生涯埋まるという事はないと思います。   作家同士の夫婦だったので周りの人たちの事はほぼ一緒に知っているわけです。   そういうのも原因になっていると思います。  

1995年に小池真理子が「恋」で直木賞を受賞し、5年後に藤田宜永が『愛の領分』直木賞を受賞。 島清恋愛文学賞を「欲望」で受賞、翌年藤田宜永は「求愛」で島清恋愛文学賞を受賞。  吉川英治文学賞を2013年に『沈黙のひと』で受賞、4年後に藤田宜永が『大雪物語』で吉川英治文学賞受賞。  

夫は饒舌な人でした。  自分のことを正しく理解してもらいたいという事が根底にありました。   彼は一人っ子でした。  理解はしていたと思います。  子供を作らない選択をしたのでいつも家では二人でした。   酒を飲んで一晩中小説のこと、人間分析とかいろいろなことをしゃべっていた時期がありました。  

夫との別れを綴った「月夜の森の梟」というエッセーですが、追悼エッセーを引き受けて書いて新聞に掲載されましたが、編集部にいろいろな手紙が届いて、「藤田さんにまつわる心象風景を描いてみませんか」と言われて、一旦保留にさせてもらいましたが、言葉があふれ出てきて、書くことによって救われてゆくという事も知っていたので引き受けました。  彼の死から5か月後から連載を始め一冊にまとまったのが月夜の森の梟」です。    メール、ファクス、手紙が届いてきて終わった時は1000通を超えていました。   読むたびに励まされているというような内容でした。   嬉しく読んでいました。   藤田宜永の言葉で「齢を取ったお前を観たかった。 見られないと思うと残念だな。」というのがありますが、亡くなる3週間前ぐらいです。    共に一緒に生きたかったという事ですね。   パニクっていたという様な状況下だったので、直後に書いたという意味では二度と書けないですね。   夫婦がとりあえず健康で一緒にいられるという事以上の幸せってなかったなあと今さらながら思います。   

神よ憐れみたまえ」  570ページの長編小説  2011年ぐらいから書き始めて10年間かけて書いた作品です。  父を看送って、母を送り、夫を送って書き上げました。  「モンローが死んだ日」と「死の島」は連載が決まっていたので、そっちが優先になってしまいました。  モンローが死んだ日」は書いている時には全然気にならなかったが、後で考えてみるとまるで私みたいだと思いました。  「死の島」が単行本として刊行された直後にステージ4の肺がんだとわかりました。   モデルは藤田さんだったんでしょうと言われましたが全然違って創作に過ぎなかった。   ちょっと休みたいところですが、6,7月にだす作品があります。

  

2022年1月11日火曜日

米良美一(カウンターテナー歌手)    ・「難病」と「中傷」に苦しんだ故郷宮崎と いま向き合う

 米良美一(カウンターテナー歌手・西都市民会館館長)    ・「難病」と「中傷」に苦しんだ故郷宮崎と いま向き合う

「もののけ姫」の主題歌、この曲を歌ったのが宮崎県西都市カウンターテナー歌手の米良美一さん(50歳)です。  米良さんは生まれつき骨が折れやすい先天性骨形成不全症という難病と闘ってきました。   繰り返す骨折と子供の頃に受けた周囲からの心無い言葉、米良さんにとって宮崎はいつしかわだかまりのぬぐえない故郷になりました。   そんな米良さんは去年の春から地元西都市民会館の館長を務めています。  米良さんの故郷と向き合う心はどのような変化があったのか、又病やコロナ禍とどう向き合って来たのか、伺います。

皆さんのところに出向いて歌やお話をして、一緒に共感するというのが我々の仕事の醍醐味なので、宮崎に留まらず私も旅してます。    皆さんに迷惑をかけないように、コロナ禍の中、細心の注意を払いながら何とか毎日過ごしています。   宮崎の風土が私を育てました。  宮崎は焼酎の好きな人が多いです。   敬老会とか地区の寄り合いとかが絶好の舞台です。  3,4歳のころ歌うとおひねりを投げてくれました。   難病で15歳ぐらいまでに30回近く骨折をして、泣いているばっかりいるような家庭の雰囲気が、歌を歌うだけで皆さんが喜んでくださって、お金までもらって両親が喜んで、それを見るのがうれしくて、ほがらかな気持ちになっていました。  3歳頃は「岸壁の母」とか歌っていました。   しょちゅうギブスをして子供ながらにどうして自分は迷惑をかける存在なんだろうと思っていました。  自己憐憫の思いが両親も私もありました。   

6歳から親元を離れ全寮制の寄宿舎や小児病棟に入り僕は辛かった。   骨が折れるので痛いし発熱します。   そういったことを受け入れるしかなかった。   自己管理を学ぶ場でもありましたが、見張られているような感じでした。   月に一度迎えに来てくれて、又送り届けることが辛くて、一泣きしてから帰ったと、最近になって聞きました。  自分は自分で泣いていました。  小学校4年生の秋から、中学1年生の秋までは地元の学校に席を入れましたが、地元の病院に入院する生活が多かったです。   自分が被害を受けたことだけは良く覚えています。   身体的特徴のこととか、養護学校へ帰れとか嫌な言葉を投げかけられました。  「手曲がり、骨曲がり」という言葉が一番嫌でした。   両手とも変形しているし、両足も太ももなど骨が重なって付いている、先天性骨形成不全症という難病の特性です。   骨が変形していきます。  物まねも好きで、仕返しに言葉を投げかけてきた相手の特徴の真似をすると、輪をかけて又いじめられる、いやがらせされました。   

父は林業の仕事をしていましたが、輸入材が増えて仕事が無くなってきて、土木作業などをして、母も同様にやるようになりました。(医療費がかかる。)   両親に対しても、お前の親は土方、泥臭いなどと、罵声を浴びました。   自分のことよりも、一番いやだったのが両親が愚弄されることでした。  それを言われると言い返せなかった。   

「もののけ姫」でどうして宮崎駿監督は僕を選んだのか、でもあの映画は僕と被るんです。当時僕には分不相応な評価を頂いて、27,8,9歳と段々声が出なくなり、低身長を隠すために20cmのヒールを履いて歩くのも大変でした。  舞台をキャンセルするようになり、或る時理学療法士の方と巡り合いました。   或る時高い声が出なくなってきて、今歌える歌でレパートリーに加えてみたらどうかと言われて、「よいとまけの歌」を聞いて両親のことを思って歌ってみることにしました。   初めて歌ったのが西都市制40周年の記念の時でした。  母はわーわー泣いて聞いていました。   その都度録画して修正していきました。  「よいとまけの歌」とずーっと向き合い続けたという事は故郷宮崎とも向き合うという事にもなりました。  世の中のほとんどは善意で出来ていますが、一部の悪意によって人は物凄く不幸のどん底に突き落とされるから、出来るだけ周りの善意に触れてそこを信じてお互いが励まし合うという事が大事だと思います。  

2014年末、くも膜下出血でトイレの前で倒れてしまいました。  救急車で運ばれて手術をしましたが、ステージ4という事で重篤でした。   ジタバタしてもしょうがないという様な気持ちでした。   喉に管を入れられたりして声帯に違和感を感じていましたが、声が出てステージに戻れるようになりました。   その後前十字靭帯で2か月ほど入院生活をしてリハビリ生活をしていて、コロナ禍で仕事が無くなり、ショックですが、注射は辞めたほうがいいとかありますが、しっかり自分で判断して自分で選びとってやっているところです。   ご縁を頂き西都市民会館館長を引き受けさせていただきました。  西都市の未来に一寸だけでも貢献できればと思って、僕が生きた証にもなるかなと思います。  僕は、活動しているよという事を伝えさせていただくことがいかにありがたいか、職員の励みにもなるし、僕自身の励みにもなります。  





 

  

2022年1月10日月曜日

渡辺雅和(渡辺勇大選手の父)      ・【アスリート誕生物語】

渡辺雅和(東京オリンピックバドミントン混合ダブルス銅メダリスト  渡辺勇大選手の父)      ・【アスリート誕生物語】 

オリンピック3か月後の、ワールドツアー デンマークオープンで金メダリストの中国のペアを準決勝で破って優勝。  オリンピックが近づいた時にはオリンピックのことはあえて話をしなかったです。   地元大会のプレッシャーはあったと言っていました。   ペアの東野有沙は凄く明るいキャラです。   雄太は入学の頃はどちらかというと暗いタイプでした。 影響を受けて明るくなって行きました。  私から見ても素晴らしいペアだと思います。   

小さいころは友達と遊ぶのが大好きな子でした。   運動神経は敏捷でした。  共働きだったので自由にさせていて、勉強は嫌いで成績は中程度でした。   食事の好き嫌いはなかったです。  いろんなスポーツをやらせた方がいいと思っていろいろやらせていましたが、最後に選んだのがバトミントンでした。  野球、卓球、陸上、などやっていました。    土、日もやっていたのが東京都小平ジュニアバドミントンクラブでそこに入部しました。   小学校6年生での全国大会ではシングルス3位になる。   土、日だけで補うような集中力はあったと思います。  苦手な練習は丹念に集中してやっていたと思います。  私はインターハイでベスト8になりましたが、マンツーマンで教えることはなかったです。   

福島県の富岡第一中学に進学。  そこでは同郷の後輩が指導していましたので半強制的といった感じでした。  寂しさ、心配はありました。  新しい環境には全然だめで、入学式当日に号泣して携帯から辞めると電話をかけてきました。    週2日の練習がほぼ毎日の練習という事で(2,3日の体験練習で)無理だと思ったようです。   私としては想定内でした。  ゴールデンウイークまでは毎日電話が掛かってきましたが、段々減って行きました。   泣きながらの1時間の電話でしたが8割はお互いが無言でした。   バドミントンに関しては私に、勉強、生活面に関しては妻に電話をしていました。   

2011年3月11日 東日本大震災が発生、2時46分に地震発生、3時22分ごろには津波の第一波到来、続いて21.1mの大津波が街を襲う。   富岡町は第一原発から半径5~10km、第二原発からは半径5km、全町民が川内村に避難する。   無事が判ったのは13日の午前中でした。   本人からは13日の午後民家からの電話がありました。  当人は事態の深刻さを理解していないような感じでしたが、最悪のことも私は考えました。   卒業式に行っていた父兄の人に乗せられて、14日に栃木の中央辺りで落ち合う事が出来ました。 東京に帰ってからは私の会社のバドミントンチームに参加して練習をしていました。    ラケットをはじめウエアなども全部チームの方が賄ってくれました。   いろんな方に支えられて今があるのではないかと思います。    2か月後の5月8日に福島に戻って猪苗代で再活動しました。(猪苗代は放射線量が東京都と変わらないデータ値でした。)   猪苗代中学校では体育館がないので、町立の体育館を借りたり、市町村の施設を借りてやっていました。

小学校の卒業式では「オリンピックで金メダルを取ります」と 宣言したが、実は先生からの後押しによる言葉だったようです。   でもオリンピックはともかく半分はバドミントンを頑張ろうという思いはあったと思います。   東京オリンピックでは銅メダル,全英オープン、デンマークオープンでも金メダルに輝く。   大震災を経験したことは大きいと思います。   バドミントンがある日常は決して当たり前ではない、だからこそ一瞬たりとも時間を無駄にしてはいけない、という考えの元、練習に打ち込んだんだと思います。 バドミントンで活躍することで福島の皆さんが元気に繋がれば嬉しいという気持ちも大きく頑張れた要因の一つだと思っています。  、福島への思いも彼の中には大きいと思います。   震災という大きな起点があって、彼を大きくさせたのかなあと思います。

健康でいることが勿論のこと、これから沢山の試練が続くと思いますが、限られた競技人生を楽しく笑顔で全うしてくれることが、私の望む一番の親孝行だと思います。  富岡に行かなかったら今がなかったかもしれません。


2022年1月9日日曜日

奥田佳道(音楽評論家)         ・【クラシックの遺伝子】

奥田佳道(音楽評論家)         ・【クラシックの遺伝子】 

バロック音楽  バッハの第3番ガボットとして有名なメロディー。  イタリアのヴァイオリニスト ジュリアーノ・カルミニョーラの演奏。  装飾音が入っている。

バッハの遺伝子2022と題して、バッハの様々な演奏、編曲、バッハの音楽からは実はジャズが生まれている。

バッハの音楽は誤解を恐れずに言うならば楽器を選ばない。   バッハのチェンバロ曲 平均律クラヴィーア曲 、イタリア協奏曲とかチェンバロの曲やオルガンの曲を普通のグランドピアノで素晴らしく弾くとか、編曲もバッハ自身、自分の曲を別の編成にする、ビバルディーのメロディーを使ってバッハが別の協奏曲を作る、そうした編曲とかはバロックの時代にはよく行われていました。  そこからバッハの音楽は音色は自由に私たちが選んで、演奏してもいいんじゃないかという考え方があるんですね。  厳格バッハの様式美というものは有りますが、イタリアのヴァイオリニストは私たちの頬をゆるむ装飾音が入っていたりするというのはこれもバッハなんですよ。

モーツアルトもヴェートーベンもバッハを尊敬していました。  ロシアのピアニストのラフマニノフがバッハの無伴奏ヴァイオリン曲が大好きで、バッハのこのガボットを編曲するとどうなるのか、聞いていただきます。

*バッハ作曲 ラフマニノフ作曲、編曲 バッハの無伴奏ヴァイオリンパルティータ 第3番からの「ガボット」

バッハはジャズミュジシャンを魅了するんですね。  バッハのガボットをザ・スウィングル・シンガーズで聞いていただきます。

*「ガボット」  歌:ザ・スウィングル・シンガーズ

ザ・スウィングル・シンガーズは1962年の結成、グループは全部で8人のメンバーからなり、構成はソプラノ、アルトテノールバス、各2名。 ザ・スウィングル・シンガーズのテクニックの凄さを味わえる曲をお届けします。

*フーガの技法から「フーガ」

モーツアルトもヴェートーベンもバッハのフーガの技法を勉強しているんです。  それを自分の曲に取り入れたりしています。  バッハの遺伝子がヨーロッパじゅうに広がって行った。  それが現代までつながって行っている。

「G線上のアリア」が多くの作曲家に影響を与え、その一人にグスタフ・マーラーがいます。  1909,10年に管弦楽組曲をマーラーが編曲しています。

*バッハ作曲 マーラー編曲 管弦楽組曲「エア(G線上のアリア)

低音の響きにバッハの書かなかった強弱記号を書いて、低音をたっぷりと響かせる。 

モダン・ジャズ・カルテットの演奏ザ・スウィングル・シンガーズ 20世紀のジャズの古典と言ってもいいと思います。   

「エア(G線上のアリア)」  1966年録音 

 

*「二つのヴァイオリンのための協奏曲」  


パロディー音楽の巨匠 イギリスのヴァイオリニストのテディー・ボーアが「二つのヴァイオリンのための協奏曲」をジャズにしました。  

「スイングトリオのための二重協奏曲」 




2022年1月8日土曜日

中川眞(大阪市立大学 特任教授)     ・平安京の音を聴く サウンドスケープの世界

中川眞(大阪市立大学都市研究プラザ 特任教授)・平安京の音を聴く サウンドスケープの世界 

これは京都の下鴨神社の森の泉川のほとりを録音したものです。  京都の原風景みたいなところです。  雨が地面を打ち付ける音、カラスの鳴き声なども入っています。

サウンドスケープは新しい言葉です。   1960年代終わりに、カナダ作曲家マリー・シェーファーが創り出した言葉です。  サウンドスケープは音の風景です。

平安京にはいろんな音があったはずですが、音は残っていません。  絵巻物、文芸作品、日記、随筆などを調べてゆくと、そこに音が描かれて居たり書き込まれていたりします。   基本的には 今よりも明らかに静かだったと思います。   東西に市がありにぎやかでした。   特に東市の周辺には鍛冶職人の集落が形成されていて、その音が結構大きかったと思います。   貴族の館では雅楽が聞こえていた。   時を告げる太鼓の音がして2時間で一日12回音を鳴らします。  30分に一回鐘を鳴らしました。(単位が刻)   飛鳥浄御原の時代には伊豆諸島の海底火山の爆発音が飛鳥に聞こえていた。  天平宝字8年(764年)奈良の都に桜島の噴火爆発音が聞こえてきた。  静けさは夜になって行くと際立っていきました。   そうすると鬼などの霊的存在の声が聞こえてきたりするわけです。   風とか動物の鳴き声などからいろいろと想像してしまう。   

平安時代の音が僅かに残っているのがお寺の梵鐘の音です。    平安初期から江戸時代の直前までに作られた梵鐘のうち32個京都には残っていますが、全部国宝級のもので、実際に鳴っているのはもっと少なく15,6個です。    録音しました。   一つ一つに音の高さが違っていて、雅楽には12の調子があり、(ハ長調、ト長調とかに対して壱越調・平調・双調・黄鐘調・盤渉調・太食調とか)12の調子のどれかに合っている。   

*西・・・神護寺の鐘(875年制作)の音  平調という調子に合っている。 

*北・・・大徳寺の鐘の音       盤渉調

*東・・・高台寺の鐘の音       上無調 

*南・・・知恩院の鐘(70トン)の音  下無調

*中央・・・西本願寺の鐘の音     壱越調 

方位に意味があって五行思想というものがある、陰陽五行説ともいう。   方位、色彩、季節とかが意味づけされている。  北:水の方角 色彩は黒、季節は冬  音も紐づけされた  北:盤渉調  東:双調  南:黄鐘調  西:平調  中央:壱越調   全部が全部ピタッとあっているわけではなく梵鐘がお寺からお寺に動かされている。   仮説ですが京都の梵鐘の音によって五行思想が表現されているのではないかと思っています。  木靴の音、牛車の音、当時歌われた歌もあります。

中川さんはじめサウンドアーティストの長屋和哉さん、 京都芸術大学の教員 仲 隆裕先生等のチームが京都芸術大学の学生さんと一緒に百鬼夜行絵巻の妖怪たちの音を作ろうという試みをしました。

*百鬼夜行絵巻   鬼とか妖怪 器物の妖怪(捨てられて恨みを持つ)  妖怪が歩く音など様々な妖怪が登場する。  百鬼夜行の行進。  

現代の都会では過剰の音の世界が広がっている。   現代の私たちの耳は近くて大きな音に焦点があっている。   私はこれを変える必要があるのではないかと思います。   サウンドスケープは逆に遠くの小さな音に焦点を当ててみましょうよという風な提案をするわけです。   ビルの屋上とかに行くと町中の音が上に上がってきます。   大文字山に登ると京都中の音が聞こえます。  耳が鈍感だと町の音、騒音が増えるんです。  耳が繊細だと騒音が減ってきます。    サウンドウオーク、音の散歩をすると街を意識的に聞いて歩くわけで、そうするといろいろな発見があります。   

 






   

2022年1月7日金曜日

伊集院静(作家)            ・人生は回り道こそたのしい

 伊集院静(作家)            ・人生は回り道こそたのしい

1950年 山口県防府市出身、高校卒業後野球選手を目指して、立教大学に進学しましたが怪我で断念、卒業後広告代理店勤務を経て1981年に作家デビューしました。  1984年に女優の夏目雅子さんと結婚しましたが、翌年夏目さんが病気で亡くなり、その後阿佐田 哲也という名前でご存じと思いますが、作家の色川武大(たけひろ)さんと出会い、再び小説を書き始めます。 1991年「乳房」で吉川英治新人文学賞受賞、1992年「受け月」で第107回直木賞受賞、そのころ篠ひろ子さんと結婚、仙台と東京を往復する生活が始まります。  小説家としては「機関車先生」で第7回柴田錬三郎賞、「ごろごろ」で第36回吉川英治文学賞 『ノボさん 小説 正岡子規と夏目漱石』で第18回司馬遼太郎賞 2016年には紫綬褒章を授与されました。  野球やゴルフなどのスポーツや、競馬、競輪、美術にも詳しく多様なテーマで綴られるエッセーも好評です。  最近では野間出版文化賞、ベストドレッサー賞も受賞しています。  2011年東日本大震災が発生した時には自宅のある仙台で被災されましたが、直ぐに筆を執りその文章に多くの人が勇気付けられました。   又新成人、新社会人へのメッセージも送り続けています。  昨年11月に出版した「ミチクサ先生」は新聞連載している途中で、くも膜下出血で倒れ連載を中断するなど、ご自身にとっても思い出の深い作品となりました。  

2020年の1月にくも膜下出血で倒れ手術をして2年が経経ちましたが、2回目の手術が成功して、新しい本が出来るまでは何とか生きたいという希望があり、「ミチクサ先生」という本を出したことは、私の人生にとって大切で今後の自分の小説家の生活を占うというか。   一番知ってほしかったのは夏目漱石の生涯というのは、皆さんと何にも変わらないぐらいに面白くて、懸命に生きて、文豪と言われるから頬杖をついて何か考え込むような想像をするが、一生懸命生きてきた。  日本文学という言葉が現れたのは漱石が出てからですね。  漱石と子規が一番好きだったのは落語なんですね。  漱石は友情の熱い人なんですね。

母親がこれが小説だと言って持ってきたのが「坊ちゃん」でした。  小説家となって一番喜んだのは母親でしょうね。  明治の時代の手本のない時代に書いた小説家というのはどういう人だったんだろうというのは興味がありました。  夏目漱石はどんな人だったんだろう、どんな少年、青春、壮年時代を送って、どういう風に去っていたんだろうというの書きたかった。  やさしさ、樋口一葉に対する気持ちなど大したものですね。   樋口一葉の目の見つめている先がいいというんですね。   漱石はおおらかさがあるんですね、そうするとあっちでぶつかったりこっちでぶつかったり、それで「ミチクサ先生」がいいんだろうと思ったんですね。   漱石の「道草」があるのでカタカナにしました。   

ただ頂上を見る人生だと大切なものを観なかったことになるのではないかと思います。  AIは辿り着く短い方を正解とするが、私は違っていると、苦労してあちこちいったものの答えが正しいと、これは現代人に一番言えるのではないかと、「ミチクサ先生」で友情と家族愛というもの、日本人は自分たちの代表選手を代弁しなければ駄目ですよ。  夏目漱石を大切にしなければいけません。  文豪という言い方がいけない、敬遠して遠ざけてしまう。  頬杖をついて難しい顔をしているが、あれは明治天皇が亡くなった時なんです。 漱石は明治天皇が大好きでした。   中学生でも読めるように易しく書いています。

「機関車先生」「居眠り先生」「ミチクサ先生」 先生三部作、 色川武大(たけひろ)さんと出会い、過ごした時間は貴重でした。  人にやさしい、照れ屋の人だと思いました。 飼っていた犬のノボのことは一日7,8回思い出します。  想像力を重ねる程に悲しくなります。  犬が亡くなって人は経験してみないと広がり、乾いた感じ、濡れた感じ、悲しみの加減とかはわからない。  ミチクサというのはそういう感触のことでもあるんですね。  

若い人には苦しかったこと、つらかったことでしかあなたを豊かにしない、だから向かい風と追い風ならば、向かい風に向かって歩きなさいと、登坂、下り坂だったら、登坂を選びなさいと、こんな苦しさなんだとわかっていないと、きちんとした大人にはなれないよ、と言います。  お金では買えないものが世の中には山ほどある、お金では買えないものものほど貴重なものはない。  

くも膜下出血で倒れ2度の手術をして、文章が優しくなったと言われます。  事実は小説よりも奇なりと言いうますが、実際に見てきたことのストーリーの方がそれは素晴らしいだろうと思います。  人の死というものは、人は事故とか病気とか人は寿命で亡くなる。    先生とは先に坂があるとか、躓かないようにとかそういうことを知っている人か、失敗をしたことがある人だと思うんです。物事の手本を示すことをいつも考えている。   

井上ひさしさんに言われましたが「伊集院君、晩年がよい作家になりなさいよ。 天才で早熟で出ても晩年がよくなければ駄目です。」と。  勉年に出会った友は生涯の友というか、大切な友になる、とイギリスの諺にあるんですね。   失敗したり汗をかいたりそういった人生の方が、ストレートに行く人生より豊かなはずだという考えを漱石は持っている。     これから夫婦愛というようなものを書いてみたいと思っています。










2022年1月6日木曜日

滝田栄(俳優)               ・いつも挑戦、わたしの自分探し

 滝田栄(俳優)               ・いつも挑戦、わたしの自分探し

1950年(昭和25年)千葉県印西市出身 71歳。  高校を卒業したら好きな道に進みなさいと母親に自立することを促され、東京に出てアルバイトをしながら働き大学の夜間部に入ります。  そのころたまたま見た映画に感動し、その興奮した気持ちを友人に話すと、君は俳優になるべきだと勧められ俳優の道に進むことになりました。  文学座や劇団四季で演劇やミュージカルを経験し、「草燃える」「徳川家康」などNHK大河ドラマをはじめ、テレビ、舞台、ミュージカルで大活躍します。  特にミュージカル「レ・ミゼラブル」は14年ものロングランになり、大好評でした。

長野県の原村に住んでいて、八ヶ岳が見渡せて白銀の世界です。  ここにきて42年になります。   豊かな自然に恵まれています。  自分がやりたいもの、目指すものは何だろうと常に考えてやってきました。   俳優という仕事は個人なので、考え方など自分の中で整理して目標に向かって歩いてゆく、自由を堪能するわけですが、厳しさ、大変さはあります。 

 大学受験のための勉強が自分にとっては全く無駄だと感じてしまいました。   学校が嫌になり、母に高校を卒業したら本当に自分がやりたいもの、やってみたいものを捜しなさいと言われました。   自分でやりたいものだったら2,3倍10倍でも頑張れる力を出せると言われました。  アルバイトをしながら生活を始めましたが、自分自身では苦労したという感覚はなかったです。   兄(兄・詔生(つぐお)は成田高校陸上部の元監督)などから「お前は大きいことをやってみろ」と励ましの言葉を言われました。   

大学の夜間部に行ってその間にやりたいものが見つかればいいなと思っていたら、「アラビアのロレンス」という映画を見て、友人に話をしたら「君は俳優になるべきだ。」といったんです。  友人が調べてきて、文学座の養成所を受けてみました。  難問のところとは知らなかったが受かってしまいました。  2000人が受けて50人が選ばれて1年後には10人に翌年には3人になってしまいました。  劇団四季がミュージカルに力を入れようとしていて、そこから誘いがあり、或る女性(後の妻)から行きなさいと言われ移る事になりました。  ロックミュージック「ジーザス・クライスト・スーパースター」のユダ役が評判になりました。  日本のミュージカル史上で初めての大成功だったんじゃないでしょうか。   音楽には自信がありました。  

一番忙しい時期にNHKから「草燃える」の話が来ました。  ユダの役と並行してハードにこなしました。   疲労困憊の時に「草燃える」の或るシーンで背中がブチっと音がして、背中の筋肉が切れてしまいました。   撮影を中止して巨人軍のトレーナーのところに運ばれて、舞台に立てるようにしてほしいと言ったら、鍼を30何本打ち込んで、痛みを散らして、反対側の筋肉を痛めたら動けなくなるからだから絶対激しい動きは駄目だと言われました。  鍼を刺したまま劇場にも行って、ユダの役も急斜面を転がり落ちるような激しい役でしたが、その日だけはそのような事は出来ず、違った動きに変えました。      

「徳川家康」の主役をやってほしいと言う話が来てやらせてもらう事になりました。    台本を読んだら徳川家康という人がさっぱりわからなかった。    そのうちに怖さを感じました。   竹千代時代に人質になって住んだ臨済寺に行けば何かつかめると思って、電話をしてしばらく役作りをさせてもらえないかと言ったら、修行僧まで逃げ出してしまうような世界なので無理だと言われてしまいました。  家康が7歳から19歳まで居たんだと思うと、必死でお願いしたら了解を得ました。   幾つか家康の核心に触れるようなものがありました。  住職から声を掛けられて、お釈迦様の涅槃図を紹介され説明を受けました。   お釈迦様がお亡くなりになった時に、地球上の生きとし生けるもの命あるものがすべて涙を流しているという絵だという事でした。 「なんですべてのものが涙を流しているのかね。」と問われて、「お釈迦様の方ほどになるとお別れが悲しいんですよね。 それしかわかません。」と言ったら、「その通り、弱肉強食を繰り返してきた人類のなかで、今でも地球上はそうだ。 どうしたら消える事のない安心、幸福というものを自覚できるか、手にすることができるか、それが判らなかったら生きている価値がない、命を懸けてその安心の姿、宗教というものを、そこに至る道を人間の歴史のなかで初めて示してくださったのがお釈迦様です。  すべての生き物の大恩人が今亡くなられた。  それで生きとし生けるもの命あるものがすべて涙を流している。  竹千代に対しては「お前はお釈迦様のような人になるんだよ。」といってここで教えたところです。  「これだ」と僕には見えました。  ほかの武将とは全く違う心の魂の姿と思います。  欲望成就、今の人間も変わらないと思います。  すべての生き物が安心して暮らせるような世の中を実現するんだという核心がここで出来たと思いました。  一時の役だと思っていましたが、その思いは続いていきました。    

「レ・ミゼラブル」のジャン・バルジャン役   見た人が人間って素晴らしい、生きるって素晴らしいと根本にかかわるような大本の力を、なんかヒントでもいいから示すことができるような仕事をしたいとずーっと思い続けていました。  「草燃える」「徳川家康」があり、「レ・ミゼラブル」のオーディションを受けました。  難関でしたが、演じる事になりました。  1秒たりとも気を抜くことなく、14年間演じさせてもらいました。肉体的な限界を感じました。   演じ終えて自分でもよかった、これをしたかったんだと思いました。    試練、妨害とかいっぱい出てくるけれども、ジャン・バルジャンは道を外さずによく生きたという、たったそれだけの話ですが、それを舞台でやらせてもらう事が出来た。  ジャン・バルジャンはイエス・キリストの愛という思い、よく生きよういう思い、家康はお釈迦様が教えてくれた大きな慈悲、自分を戒め、人類一人一人が幸せになる大きな生き方をはっきり示してくれた、この二人だと電気が頭に点きました。  今でも仏教にアプロ―チしています。  お釈迦様の好きな言葉は「人間は百万の敵に打ち勝つことは簡単だが己という一人の自分に打ち勝つことは一番難しいことだ。」という事です。  大事なのは「この今という瞬間」を真剣に生きるという事で、その連続なんだという事だと思います。




2022年1月5日水曜日

落合恵子(作家)             ・ もう一つの"夜のしおり" ~この人に聞きたい     

 落合恵子(作家)           ・ もう一つの"夜のしおり" ~この人に聞きたい 

今日のゲストは在宅診療専門診療所院長 山崎章郎さんです。

山崎さんは1947年生まれ、外科医として病院に勤務する中で、終末期医療への医療に疑問を感じていた山崎さんは、ふっとであった一冊の本、アメリアの精神科医エリザベス・キューブラー・ロスが死とその過程について書いた「死ぬ瞬間」に心を動かされ、新たな道を模索し始めます。  1990年の初めの著書「病院で死ぬこと」を発表、人間らしく穏やかに最後を迎えるためにどうしたらよいか、患者さんやその家族と真摯に向き合う姿は後に映画化されるなど、大きな反響を呼びました。  その後日本のホスピス運動をけん引してきましたが、2005年地域に根差した在宅での看取りに取り組みたいと、訪問診療専門の診療所を東京小平市に開設し、現在に至ります。

 落合:いかに生きるかと同じようにいかに最後を迎えるか、という事を考えていいんだという事をそろそろ言葉に出していいんですよと、おっしゃってくださったのが、山崎章郎さんです。  ファイナルステージについて一緒に考えてみませんか。

山崎:我々の役割は専門的な知識や経験で患者さんの病気を治してゆくという役割ではなくて、どうしてもその病気が治ることが難しくなってきても患者さんたちの状況は変えられないけれども、自分が生きていることを肯定しながら、生きて行けるようなお手伝いをしたいと思っているので、患者さんたちが何を考えているのか、どんなことに悩んでいるのか、ご家族はその患者さんをどんな風な思いで見ているのか、という事をお聞きしてゆく、それをしないと自分たちの役割は答えがないという気持ちがあります。   癌は38万人が亡くなりますが、そういうような人たちに対しても果たすべき役割はある筈です。  医者ですよという立場では向き合えない場面にも直面するわけです。   解決可能な苦痛を改善させてあげたいと、思っています。   ある意味では先を歩く我々の師匠でもあるわけです。 有限の命を持つ人と人というところが一番根底にあるのではないかという気がしています。   

 落合:山崎さんは外科医として長いキャリアがあり、南極にも行かれたり、その後エリザベス・キューブラー・ロスにお目にかかったりしていますが、最初からそういうお気持ちでしたか?

山崎:学生運動が激しいころ学生時代を過ごし、自分が生きてゆく方向性を見失ってしまいました。   取り敢えず医者の道を選びました。  つぶしが利くのは外科医だと思って外科を選びました。   高校3年生の夏にサリドマイドに関しての医師の姿勢の記事を読んで、感動して医師を目指そうと思って、決めました。   解決できない問題に関してどんなふうに向きあったらいいのか、解決しようとした自分が僭越だなあと思いはじめました。  上から目線があったのではないかと思ったとたんに、自分が何を目指すのかわからなくなってしまいました。   どんな時代でも生きて行けるのが外科医だろうというのが発端です。   南極に行く船医となるきっかけは、北杜夫さんの「どくとるマンボウ航海記」を読んで、良いなあと思っていつか船医になろうという憧れは持っていました。   調査船で55名程度の乗組員でした。  暇そうなので本だけはたくさん持ち込みました。 そのうちの一冊が「死ぬ瞬間」でした。  患者のためご家族のためという大義名分のためにという風に思っていたが、よくよく考えると医療者の自己満足のためにやっていたのではないかという事に気が付きました。  

 船を降りたのちに、ご家族に状況を話して、まもなく時間が迫っているけれども、私は医者として心臓を動かし続けることもできるが、どうしましょうと言うとほとんどの家族から「もう結構です。」と言われました。   極めて稀で医師や看護師から白い目で見られていました。   話し合いをしてゆくと「信頼してきたこの人をこのまま死なせるわけには行けません、私たちがささえるので先生話してください。」と言われました。  外科医として180人ぐらい看取りましたが、ご家族の同意を得て、患者さんに「残念ながら治らない病気なんですよ 時間が限られています。」とお伝えした方は23名 14%でした。  86%は真実を伝えないままに最後の時を迎えてしまったという事です。   

 落合:医師や家族がいくら「元気に頑張りましょう。」と言っても、誰よりも知っている事実があって、そこにはコミュニケーションがないわけですね。   お互いが目をそらしてしまう。   

山崎:患者さんはますます疎外感を得ますね。  ある時点から患者さんは無口になって行きます。  話をしても答えてくれないのなら口を閉ざしますよね。  私が勇気を出してご家族にお話を伝えると喜んだ人は誰もいませんでした。  中には一週間私と口をきいてくれませんでした。   段々と理解をしていって家へ帰りたい、点滴はもうやめて欲しいと言います。   スタッフも判ってくれるようになりました。

落合:尊厳という言葉がありますが、本当は大事な概念ですね。

山崎:寄り添うという事は 治らない病気があったとして、直面している苦痛、痛みを改善しないで寄り添う事は出来ないです。   経済的困難を含めて苦痛を緩和したうえで初めて聞く耳を持つ、言葉を聞くことによって、寄り添うという言葉が成立するんじゃないかと思います。  具体的な解決の努力なしに寄り添うという言葉は使ってはいけないと思っています。   自宅であろうと仕事場であろうと、どこであろうと、そこでそうなることがその人の生き様の結果としてあるならば、それはすべて尊厳がある、と思う。  自分らしく生きてゆくことが尊厳ではないのかなあと思う事もあります。   この病気は直せないとか、治るのが難しいと泣てしまった時点から、エビデンスをあまり表に出してしまうと、その人の生き方を凄く制限してしまったりとか、エビデンスに合わない生き方も切り落としてしまうようなことも感じてしまって、医師の専門家として果たせなかったとしても、その生き方もいいのではと認めるおおらかさと謙虚さも持ってほしいと思います。  

これから最後の時間を迎えてゆく悲しい場面ではなくて、今まで生きてきたことをお互いに共有して肯定できる、そしてこれから行く道に対して、その時まで一緒に同じ思いを持つものとして、歩んでいこうという事が出来ますから、お別れですから涙が出るのは当然ですけど、その時に出る涙は喪失の涙だけではなくて、達成の涙なんですよ。  同じ思いを達成できたね、嵐を乗り越えてたどり着いたねという、それは新しい世界への入り口ですよね。 生き切ったことはどこかに消えてゆくことではなくて、それは新しい世界への始まり。  死を一つの言葉で語ってしまうと、いろんな意味があるのだけれど、生きてきた一つのプロセス、通過点ですよ。  死という言葉にあまり意味を持たせなくてもいいのかなと、今この時を生き切る、やがて頂点に立つ日が来るという風に考えられればいいと思います。  頑張ってくださいというわけにはいかない、我々も一緒に山に登りますし、一緒に嵐の海を行きましょうと。

落合:医療の枠組みを越えて哲学の話を聞いているような、読ませていただいているような気がするのは、何故なんだろうと自分でも判らないのですが。

山崎:哲学という事は全く意識していなくて、目の前に同じ時間を過ごしている人達と会話をし、何が今課題であり問題なのかなあと、問題、課題がその人を苦しめているのならば、何が一体出来るのか、という事をいつも考えているし、自分の力だけではではとてもできないので、看護師さんたちヘルパーさんたち、ご家族、友達などみんなが共有して行くこと、どんなふうにしたらうまくいくのかという事を考えてゆくと自然にそうなってゆくんですよね。  医療としての死ではなくて、地域社会のなかで、同じ時間同じ場所を生きてきた人たちもやがて同じ日が来るんだという事を皆がともに歩んでゆくような、その人たちの歩みを見て、いつか自分たちのも来るだろうなあと。だからこそ今をしっかり生きようと。  子供たちもおじいちゃんおばちゃんの変化してゆく処を毎日見ていると恐れないですよ。 亡くなってゆく現実も見るわけで、その経過が苦痛に満ちたものではないならば、両親、自分自身に重ねてゆくことができるだろうと思います。    亡くなってゆく人が自分たちの生き様を通して次の人たちにしっかりと残せる大きなプレゼントなんだという見方もできる。   死んだらどうなりますかと聞くと、半数以上の人たちは「死んでも次の世界がありますよ。」とおっしゃいます。  次の世界では誰に会いたいかと聞くと「お母さん」と言いますね。  

(なかなかうまくまとめることが難しかった。)

2022年1月4日火曜日

落合恵子・澤地久枝(作家)        ・もう一つの"夜のしおり"~この人に聞きたい

 落合恵子澤地久枝(作家)        ・もう一つの"夜のしおり"~この人に聞きたい

今日のゲストは澤地久枝さんです。  1930年生まれ、4歳の時に家族と一緒に満洲に移り住み終戦を迎えました。  およそ1年の難民生活の後、日本に引き上げ1947年東京の原宿でバラック生活を始めます。  その後出版社の勤務を経て、1972年に『妻たちの二・二六事件』で作家デビュー、その後菊池寛賞を受賞した『滄海(うみ)よ眠れ ミッドウェー海戦の生と死』『記録ミッドウェー海戦』をはじめ歴史に翻弄された普通の人々の人生に光を当てて来ました。2015年にはご自身の引き上げ体験を赤裸々に描いた、『14歳〈フォーティーン〉満州開拓村からの帰還』を出版、戦争の悲惨さが忘れられてゆく中で、平和の尊さを伝えています。

落合:去年から"夜のしおり"を担当させていただいています。  

澤地:今度誕生日が来ると92歳です。  振り返るとよく生きてきたなと思います。  80代は自分の無力感で嫌だなと思いました。  ここまでくると生きていることが仕事だと思っています。  人は一生懸命生きても、できる事はわずかだなといつも思っています。

落合:華やかに生きているわけではないのでダサくていいと言っていますが。

澤地: まさに私はそういう人生だと思います。  いつも一生懸命生きてきたという事で逃げちゃうんですね。  だから自分を許そうと思います。  名もない人を最初から書こうと思ったわけではなくて、私としては気になる人、歴史の上では名前も残っていないような人に心を惹かれました。 そういう人をいつの間にか探すようになっちゃいました。  

落合:余分な形容詞を使わないのが凄いですね。

澤地:私は書いていてどんどん削って行きますね。  でも文章が下手ね。 でもかれこれ50年物書きでやってこれたんだから、文章を書けない人も自信をお持ちになった方がいい。私は五味川純平さんんという人にいわば拾われたの。  会社をに勤めていて、夜の学校に行っていて、編集部に行って、いびられました。  生活上辞められませんでした。  そういう自分を振り返った時によく死ななかったと思います。   最後は体が悲鳴を上げて職場で失神して倒れました。   速達で退職届を出しました。   長女で下に妹、弟がいました。   父が51歳でした。   中央公論社には18歳で入りました。(昭和24年)   経理の事務員でした。  算盤が出来なくて朝早くいって先輩から教えてもらいました。  夜の大学に行くためにまずは夜の高校(旧制都立向丘高等女学校)に1年間行き早稲田大学第二文学部にて学びました。   

落合:本のなかに「私の原罪、自分自身の罪として、あの戦争の時代に全く無関係とはいえない。 そのことの責任は私は死ぬまで背負うつもりだ。・・・昭和の日本人だったという原罪を背負っていたいと思います。・・・。」と書いていますが。

澤地:空襲がどんなに凄まじいものなのか、日本全土ですから。  一面の焼け野原です。

落合:辛いことがあったりすると銀座の町を歩いてさやかな贅沢としてハンカチーフを買われた。

澤地:買った後なんか心が落ち着くんですね。  

落合:正月は?

澤地:満州を引き上げてきてからはまるっきり違います。   中国人へは砂糖とか米の配給がなくて、日本人と中国人との間には食べるもので凄い差別があることがわかりました。落合:原風景、差別があり、貧富の差があり、同じ人間だが上下があり、その時に体験されてきたんですね。

澤地:子供のころに見てしまって、感じたことは間違いではないですね。  

落合:きっとどこの社会でも同じような差別があると思いますが。  澤地さんは差別される側の痛みに対して黙っていられない、と書いてくださっていた。

澤地:私は変わりようがないと思っている。  私は私であり続ける事を大事にしようと思っています。 

落合:澤地さんの文章のなかで、「人は誰でも心の底に 悲しみをたたえた泉を持っている。  時にその泉は溢れそうになるけれど、人には告ぐべきことではない。(誰かに言うべきことではない)  ・・・告げたい思いは誰にもある。  それを察して優しい気持ちで相手に対するとき、異性間の愛情とは別の愛、いとおしみが生まれそうに思える。 鰯雲の乾いた心は似合わない。」と書いていますが。 

澤地:自分のことはわかっている様であるけれど、そうであるかどうかはちょっとわからないところは有る。  怖いところは有るかもしれないが、人に対しては優しくありたいと思っています。    私はいつも赤ちゃんや子供をというのはこんなに楽しいのかなあと、自分で感心するぐらい楽しい。  お父さんたちは世代的に見てゆくと変わったと思います。    15歳まで植民地にいたという事が体に染みついていて、今になるとしょっちゅう蘇ってきている。  こんなに子供たちが可愛いと思ってる私は何なんだろうと思うが、如何に自分が哀れな子供時代を送ったかという事の裏返しだと思います。   

落合:これからの社会はどんな社会、どんな世界であってほしいと思いますか。?

澤地:今生きている人たちが志みたいなものがごまかされないで、志が実を結んで、命が脅かされないようにという事を思っています。  それぞれの人がちゃんと生きられる世の中。    母が生きてる時には特に泣けなかった。  でもお風呂で泣けば判らないという事が判った。   お風呂で泣くという事は自分の人生の中でつかんだ結論ね。 

焼け跡の銭湯のお風呂は物凄く混んでいて、経血の跡が残っているのが見えたり、ひどい状況だったし、バラックにはのみがいっぱいいました。  今の若い人は知らなくて当たり前ですが、90歳以上はもっとすごい体験をしているので、もっと聞いた方がいいです。 でも齢を取った人たちは中々言わない。  しっかり言って行かなくてはいけないと思います。





  

2022年1月3日月曜日

穂村弘(歌人)             ・【ほむほむのふむふむ】

穂村弘(歌人)             ・【ほむほむのふむふむ】 

ゲストは歌人 山田航さん。 北海道出身、在住。 2012年「世界中が夕焼け」という本を一緒に出しています。   1983年生まれ、立命館大学を卒業、北海学園大学大学院を終了。  2008年同人誌「かばん」に入会、2009年「夏の曲馬団」で第55回角川短歌賞、「樹木を詠むという思想」で第27回現代短歌評論賞を受賞。  2012年に刊行した第1歌集『さよならバグ・チルドレン』で第27回北海道新聞短歌賞、第57回現代歌人協会賞を受賞翌年、第4回早稲田大学坪内逍遙大賞奨励賞を受賞。  2015年には現代短歌のアンソロジー「桜前線開花宣言」2016年第2歌集「水に沈む羊」と「ことばおてだまジャグリング エッセイ」などを出版しました。  

穂村:インターネットで自分のことを検索していて、僕の短歌を「百首鑑賞」と名打って読んでくれている人がいる。  僕の知らない人がいたりして凄いなと思いました。

山田:2000年代の半ばぐらいに短歌を作り始めたんですが、その前に読者専門だった時期があり、現代短歌は面白いと思ってインターネットで検索して読んでいたら、「今週の短歌」が終わってしまって替わりに自分が書けないかと思って始めたのが「現代・・・」(聞き取れず)ですね。  毎週一人を取り上げることをしないと、読まなくなってしまうような気がしました。   最初は寺山修司がきっかけでしたが、決定的にはまったきっかけは「世界音痴」(穂村氏38歳ごろの出版)を読んだ時でした。

穂村:公開対談をした時に、会場の人が「お二人が短歌と出会わなかったら、どうしていたと思いますか」という質問があり、僕が一瞬考え込んだら山田君が即答して、「自殺していました。」と言って衝撃を受けて、一人で毎週図書館に通って何百人の歌人の歌を分析して書くというように孤独な営為みたいなものが、自分のイメージに結びついた。  その後とんとん拍子でたくさんの賞を取って、人生が短歌で逆転した例がここにあるなと思いました。

山田:会社に入って首同然で1年で辞める事になり、地元の札幌に帰ってきて、自分に何か目標を課さないと死んでしまうのではないかと自分でそう思っちゃいました。  札幌中央図書館の短歌を「あ」から順番に読んでいきました。   自分と近い世代の人を読むようにしようと思いました。

穂村:「たぶん親の収入超せない僕たちがペットボトルを補充してゆく」が山田君の第一歌集の『さよならバグ・チルドレン』の中に入ってますが、青春を詠う時、ちょっと甘くて傷があるけれども、それすらも素敵みたいな、青春というとこういう感じというイメージがあるが、こんな身もふたもない青春ってあるのかという、文体も素っ気ない。  異議申し立てもしている世代の特徴だと思います。

山田:第一歌集「シンジケート」に入っている「ワイパーをグニュグニュに折り曲げたればグニュグニュのまま動くワイパー」  歌集全体のなかで異彩を放っている。 グニュグニュという擬態語の言葉。   

穂村:「僕らには未だ見えざる五つ目の季節が窓の向こうに揺れる」 素敵な青春の歌で教室をイメージ、外には四季のほかにもう一つあるような気がするという、その五つ目が未来が何時か自分の目の前に現れる、それが遠くで揺れている感じがしている。 

山田:組み合わせの母音が面白いなと思って先に決めたりします。             「オール5の転校生がやってきて弁当がサンドイッチって噂」 『水中翼船炎上中』   昭和のSF的ドラマに出てきそうな漫画的キャラクターとしての転校生。 異質的存在への驚きの歌。  

穂村:山田君の世代がギリギリ判る世代かと思います。 サンドイッチはもうごく当たり前だし。  第2歌集「水に沈む羊」から2首選びます。

*「母に手を引かれ歩いた記憶あり地元に多いお店テナント」  我々の時代ではあり得ない時代の或る場所で育った人の歌。  或る都市が寂しくなって行くそんな時代の歌ですね。    

*「電灯を付けよう参加することがきっと夜景の意義なんだから」  ボロボロに生きてゆくが、希望をぎりぎりの生きる意志みたいなものを表明した歌の様です。 

山田:当たり前に思っていたものがどんどんなくなって行っているというのが自分としても 不思議なところだった。  小学校2年の時に引っ越してきた時に最寄り駅の名前がアイヌ語地名に由来した名前だったが、ある日突然変わってしまって、歴史の残り香が消えてしまうような感じで寂しかった。  寂しい街だと思ってずーと育ってきた。  

第二歌集 『ドライ ドライ アイス』に入っている歌。  「隕石!」 めちゃくちゃ面白いと思いました。  短歌として詠んでいいのか?

穂村:隕石!と大きな文字で書かれている。  

山田:第三歌集を出したいですね。  

穂村:歌集を出したいところです。

リスナーの作品

*「カセットをかけてみるのはカセットが遠い昔の宝石だから」  白井義彦

*「つわの花あまたさきたり日の暮れにそこのみぼーっと明るみており」  あやめ

*印はかな文字、漢字などが違ってる可能性があります。