2021年12月31日金曜日

戸田奈津子(映画字幕翻訳者)      ・いくつになっても学びはある

 戸田奈津子(映画字幕翻訳者)      ・いくつになっても学びはある

コロナ禍で作品も来ないで空白の時間でした。    本の翻訳をしたり今までにないことをやってそれはそれなりによかったと思います。   ワーグナーのオペラなども楽しみました。     映画字幕翻訳のきっかけとなった映画「地獄の黙示録」の中にワルキューレの騎行」というワーグナーの曲が使われている。  ヘリが行くところが有名なシーンですが、コップラ監督が演出でしたかと思われるが、実際は違って本当にアメリカ軍がワーグナーの曲を掛けていたんです。   

映画字幕翻訳は20年間チャンスがなくて、40歳過ぎてようやく仕事が来て、ブレークしてそれからは本当に沢山仕事が来るようになりました。    年間50本の翻訳が来ました。   時間が限られているので一本1週間から10日でやらなければいけません。    映画が好きだったので忙しかったけれど苦にはなりませんでした。  ダントツに難しいのはコメディーで、言葉の遊びですから、日本語を知っていてもどうにもならない問題です。   アメリカンジョークをそのまま伝えても全く意味が通じない。   映画字幕翻訳は今までに1500本ぐらいになります。 

「枯れてこそ美しく」 先月刊行。  村瀬実恵子さん(元コロンビア大学の名誉教授にして、海外における日本美術史研究のパイオニアとして知られる。との対談本で、私より一回り上の96歳でした。  ニューヨークでお会いして、凄く感銘して日本に帰ってきて、たまたま出版社の人にこのことを言ったら、本にしましょうという事になりリモートで対談することになり本が出来上がりました。    共通なことが多くあり、戦争体験、体験を通して感じたこと学んだこと、性格的にも似ていて、先生は美術が好きで私は映画が好きでお互いに好きでやってきて、そういったところも似ていました。   仕事が面白くて先生も私も結婚していません。   1時間余りで3回対談しました。  

私が知らないことを伺うというのが中心になっています。   この歳になって友達は宝物だと思います。   本や映画を読んだり見たりすることは未知を知りたいという事だと思います。    人間一人が人生で経験できる事なんてほんの少しですよ。  コンピューターにはできないイマジネーションほど人間にとって素晴らしいものはないと思います。  

9歳で終戦を迎えました。  鬼畜米英が日常だったのが、大げさに言うと一夜にしてアメリカ万歳なったわけです。     本当に私は戸惑いました。   焼け野原で文化が何にもない中に、ある日突然アメリカの映画が入ってきました。    灰色の世界にバラ色の世界が降ってきました。   見るもの聞くもの驚くことばっかりでした。  映画にはまってしまいました。    「風と共に去りぬ」は戦争中に作られたが、日本にはずーっと入ってこなくて、戦後10年ぐらい経ってきました。    子供の頃は親とかに連れられて行っていましたが、中学、高校では自分で観に行くようになりました。  「第三の男」を観て決定的に映画のすばらしさを感じました。   50回ぐらいは観ていると思います。  中学で初めて「A B C」を見ました。  映画があったから英語に興味を持ちました。    「第三の男」の字幕の中に「今夜の酒は荒れそうだ。」というのがあり気になりました。  何て言っているのか聞いたら 「俺はこれを吞んじゃあいけない」という言葉でした。  字幕は全然違うがその場にぴったりだと思って、字幕は翻訳ではないと思いました。   字幕翻訳になりたいという根本はそこに有ったと思います。  ドラマのなかでかっこよくちゃんとその人の気持ちが現れるような表現をすることが重要なんです。   AIでの翻訳は感情がかかわって来るので難しいです。  






2021年12月30日木曜日

小池恭子(絵手紙作家)         ・ぬくもり贈る手紙文化を残したい

 小池恭子(絵手紙作家)         ・ぬくもり贈る手紙文化を残したい

葉書に大きく描かれた絵と短い言葉が添えられた絵手紙、小池さんは講師として指導するほか、手紙を書いて送るという手紙文化を残したいと普及活動に努めています。  小池さんが絵手紙を始めたのは書道家で絵手紙の創始者として活動する夫、邦夫さんの影響でした。  小池さんが力を注ぐ手紙文化の普及活動や絵手紙の魅力又夫婦二人三脚の歩みを伺いました。

可愛い寅、強そうな寅、二つの寅を描いてありますが、今どちらにしようか考えています。  絵手紙のキャッチフレーズが「下手でいい、下手がいい」 が合言葉で、素直に自分の気持ちを伝えようと一生懸命書いたものは伝わると思っています。  だれでもすぐに出来ます。

書道の墨と筆を使って輪郭を描いて、絵の具も日本画で使う絵具を使います。  筆の一番上の部分を軽く持って、筆を真っ直ぐ立てる。(線香花火を持つような感じ)   対象物(虎のバッジ)を見ながらゆっくりと線を引いてゆく。  大きく大胆に描いた方がいいです。   色付けは手早く線に重ならないようにファンデーションを塗るような感じで行う。  下書きもなしです。  消しゴムに名前の頭文字をひらがなでハンコを作って押します。   自分の気持ちを短く添えて送ってください。  相手を思い浮かべて描くということ、相手が受け取ったところで一つの絵手紙が完成します。   

夫の小池邦夫が昔、絵手紙教室を開いたら生徒が二人しか来なかった。   私も一緒に描けと言われて、描いてみたのが始めです。  その日の晩から毎日描いていました。   息子が幼稚園の頃で、幼稚園のいろいろなことを晩に描いて母に送っていました。    今思うといい思い出になります。  3年続いたら本にしてあげるとか、展覧会を開いてあげると夫から言われて、「おかあさんは3年生」と言いう本を作ってもらいました。    書き溜めたものを銀座で展覧会をしてもらいました。   それをきっかけに絵手紙教室の依頼が入るようになりました。   

夫は四国の松山出身で、子供の頃に書道家になりたいと思ったらしいです。    大学でも書道を勉強したが、手本を習って展覧会に出したり賞を貰ったりするのが主流の書道ですが、それでは自分の考えて居た書道家になるのとはちょっと違うと思ったらしくて、独自にいろんな勉強をして、自分らしさを出すには手紙が一番いいという事に気が付いたらしいです。  友達に手紙を送り続けて、絵のある手紙なので絵手紙という名前を付けて展覧会を開いたりして描き続けてきました。    結婚した当時もアルバイトをして年に1,2回展覧会などをしていました。   50歳になった時にアルバイトを辞めて絵手紙一本でやりたいと言いました。   不安もあったが、応援しようと思いました。

東京の狛江市に住んで40年ぐらいになり、狛江郵便局で夫が初めて絵手紙教室と絵手紙展を開かせていただいて、2007年に絵手紙の発祥の地という事で、街おこしの実行委員会を立ち上げて、絵手紙の体験教室とか絵手紙を街中に飾ったりとか、狛江市が応援してやれるようになりました。   小、中学生にも絵手紙を描いてもらうという事が始まって、教えに行ったりしています。   子供は邪念がないので素晴らしい絵を描いています。   手書きが減っているので、手紙を描くことと手書きをこれから先も残したいと思います。  

60歳を過ぎて検査入院した時に、絵手紙を夫に出したら、家族には出していなかったと気づいて、それから毎日私に絵手紙を送ってくれるようになりました。  80歳になった今も続いています。  最初の頃は切手を貼っていましたが、今は貼っていないものをポストに入れてもらっています。  手紙の中でしか知り得ないこともあります。   手紙を送ったら添削されたような感じの手紙が来て、これまで手紙は受け取り専門ですが、今日はチャレンジという事で夫に送る手紙を持ってきました。



2021年12月29日水曜日

佐藤由巳子(建築・庭・環境コーディネーター)・【心に花を咲かせて】がん患者を支える庭のある空間

 佐藤由巳子(建築・庭・環境コーディネーター)・【心に花を咲かせて】がん患者を支える庭のある空間

江東区豊洲地区に癌と共に生きる人々のための素敵な場所があるそうです。   そこはイギリスのマギーズセンターのコンセプトに沿って作られたもので訪問介護士の秋山正子さんを中心に多くの人の力で完成して今年5年目を迎えています。    そのコンセプトの中にがん患者には庭がとても重要だと書かれているという事です。   イギリスのマギーズセンターを何度も訪問し、マギーズ東京の建物や庭など空間作りをコーディネートされた佐藤由巳子さんにそれはどういう事なのか、伺いました。

(参照 https://asuhenokotoba.blogspot.com/2017/01/blog-post_12.html

センター長の秋山正子さんが新宿区で長く訪問看護師をしていて、癌患者の皆様を看ていました。   イギリスのマギーズセンターを知って、私たちも誘われて訪問に行きました。  無料でチャリティーで運営されていて、いつでも自由に約束もなく訪問できる場を病院の前に作っている。  そんなものが日本にあったらいいなあという事で、見学に行こうという事でした。   エジンバラのマギーズセンターというところです。    癌でももっと元気なころに一緒に相談に乗ってあげたいという思いがあったようです。   6人で行きましたが、私は建築という立場で誘われました。    現在は30近くありますが、そのうちの3か所見ました。   有名な建築家たちがチャリティーで建築の基本プランとして出来ます。   庭は世界的に有名な庭園デザイナーがデザインしています。   

マギーさんという方(中国庭園史家)が癌の再発で56歳で亡くなるわけですが、エジンバラの無味乾燥な病室にいて、医療従事者などにいろいろ相談したいがそれには空間が必要だ、というアイデアからそういった施設を作りたいと遺言に残しました。   日本では厚労省が癌病院内に患者の相談室を作ろうという機運が高まっているので、これからできるんだから要らないよという感じでした。   余命数か月のマギーさんの思いを具現化しようという事でご主人の国際的建築評論家が具現化しようとして財団法人マギーズケアリングセンターができました。   すべてチャリティーで賄う組織です。  秋山正子さんはぜひ日本でも欲しいと言っていました。   

日本支部というわけではないですが、国際ネットワークの一員であるという契約を結んでいます。  ハードとソフトが揃っていないといけないという条件があります。  ソフトはOKですが、自然を重視するハードが問題でした。   屋内でも屋外のような空間作りは日本では上手だと思います。  マギーズ東京はそういった工夫がしてあると思います。     まず暮らしの保健室というのを開設しました。   マギーズ東京は今年で5年目を迎えますが、発足にあたって現在の共同代表の鈴木美穂さんの提案で資金の調達をクラウドファンディングでという事で予定の半分をまかなうことが出来ました。      東京オリンピック会場の豊洲に無料で借りられるところがありそこに仮設を作りました。   病院の敷地内ではありませんが、周りに幾つか大病院があります。    借用地なので不安定ですが、希望をもってやっています。   

イギリスではマギーズセンターが最も評価されているチャリティー活動だと言われています。日本でも徐々に有名になりつつあります。   木材普及のための期間限定の施設をもらい受け、廃材などを貰ったりして、建築家の阿部勤先生にコーディネートしてもらいました。猫の額の様ですが中庭も作りました。   前の敷地の一部を借りて花畑活動もして訪問者に花束を持ち帰ってもらっています。   イギリスでは病院の敷地内ですが、ここの施設は病院外ですが同じような機能が果たされるものと思っています。    活動が地域の企業、江東区の方にも評価されて、存在意義を高めているところです。   マギーズで穫れた種を無料で差し上げたりして、良い循環が地域で回ってるなと思います。    



  

2021年12月28日火曜日

根本要(シンガーソングライター)    ・40年続けるこだわり

根本要(シンガーソングライター)    ・40年続けるこだわり 

埼玉県行田市出身、64歳、「スターダストレビュー」は1981年にデビューして来年で42年目です。   現在も年に80公演を越えるツアーを展開するバンドです。  メンバーはバンドの結成時から一人抜けましたが、その後はメンバー不動の息の長いバンドです。  この10月、11月の深夜便の歌「やっぱり会いたいよ」で評判になりました。   ライブが大好きという根本さんにこのコロナ禍でのバンド活動のことや、バンドを長く続けられるこだわり、3年前に脳梗塞で入院したことなどを伺います。

*「やっぱり会いたいよ」     歌:根本要

ラジオは昔からお世話になっていて、テレビよりもラジオの方が双方向といった感じがあります。  去年はコロナでどうしようかと思いましたが、ガイドラインが出て、こういった対策をすればできるんだという事で、出来る様にはなりました。   配信をやってみて、気が付いたのはいかに拍手に救われたかという事を痛感しました。  新しい手法を見つけたり学ぶものが多かったです。  

木蘭の涙」         歌:根本要

1957年生まれ、64歳。  「スターダストレビュー」は4人組のロックバンドで今年41年目。(1981年デビュー)  2500回ぐらいライブをやってきました。  1979年の「ジプシーとアレレのレ」というグループだった。  「スターダストレビュー」で「シュガーはお年頃」でデビュー。  最初5人でしたが、その後三谷君が辞めて4人になりました。 

リーダーは二つのタイプがあると思っていて、自分がまっさきに歩いてそこに皆が付いてくるタイプと、メンバーの意見を聞いてじゃあこういう方向でというタイプで、僕らは後者のバンドです。  僕らのツアーでは毎日7,8曲変っていきますので、全部で60~80曲になります。  

2018年  唇がしびれていて、おかしいなと思いました。  病院に行って心電図を測って、MRIを撮ったら、その場で入院になりますから、と言われてしまいました。  画像を見せてもらったら、ここに脳梗塞の症状が見られますと言われてしまいました。   早期発見だったので点滴のみで入院は一週間で済みました。   僕の音楽を待っていてくれるんだという事が判ってすこしは成長したと思います。   救急車を呼ぶかどうか相談できる電話があることは初めて知りました。   世の中っていろんなところで自分が知らないところで、自分たちを助けてくれるシステムがいっぱいあるので、大変だと思ったら抱え込まずに、是非人の力を利用しながら頑張っていきましょう。  

父親は医師で兄も医師なので、親としては最初はそう思っていたかもしれませんが、自分はバンドを組んで音楽をやっていて、いろいろ賞をもらってきていたりするので、プロになるのに余り反対されたりしませんでした。   医師は治療という事で直してあげるが、僕は心の中のわだかまった思いとか、心の疲れとかを、音楽で自分自身も癒されたり直せたりしたので、父や兄は行田市界隈の患者さんを直したりするかもしれないが、僕は音楽で日本中の人たちに心の健康に多少でも貢献できているんじゃないかと思います。  僕もたくさんライブを見に行きます。  がんばっていけばあと10年ぐらいは歌えるかもしれない。何を伝えたいかはその年齢年齢で出てくると思うので、その時々の全力投球が僕には合っているんだと思います。  僕はバンドが好きなので何よりもメンバーが健康であってほしいと思います。   









2021年12月27日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)         ・【絶望名言】お金

頭木弘樹(文学紹介者)         ・【絶望名言】お金 

「私はぎょっとした。  私は金のためにずーと働いていたのだ。」  佐野洋子   

昔はツケがきいて、大みそかにはツケを何としても取らなければいけない。

「大みそか首でも取って来る気なり」 川柳  

「大みそか首でよければやる気なり」 川柳

「大みそか越す

に越されず越されずに越す」 狂歌

「私はぎょっとした。  私は金のためにずーと働いていたのだ。」  佐野洋子  

佐野さんは代表作として、絵本『100万回生きたねこ』、エッセーも書いています。     改めて考えてみるとお金のために働いてたんだなあと言う思いにとらわれます。   人生の終わりという時に自分の一生を振り返ってみて、金のためにずーと働いていたと思ったら、ちょっと悲しいかもしれない。  

「お金は仕事をした後のカスだよ。」           渋沢栄一 

日本の資本主義の父ともいわれる。  約500の企業を育てて約600の社会公共事業に関わった。  これは晩年に息子に言った言葉です。  仕事が大切なのであってお金は仕事によって生じるだけのものだと思えというようなことですね。  お金が目的ではないはずが、ついつい、いつの間にかお金が目的になってしまう。 

アメリカの実話で、店を開店したが、子供が石を投げて窓ガラスを割ってしまって困ってしまう。 主人は子供たちに、「これから毎日お金をあげるから毎日石を投げて窓ガラスを割ってくれ」と頼むんです。  毎日お金を渡して窓ガラスを割るが、毎日お金を渡す金額を減らしていった。  そうすると子供たちのやる気が減ってしまう。  お金をやらなくなると子供たちは窓ガラスを割らなくなり解決した。  いつの間にかお金が目的になってしまう。

「財布が軽ければ心は重い。」            ゲーテ   

原文を直訳すると、「空の財布 病んだ心」という意味になる。  お金が欲しい時は何かを買いたいだけではなく、安心が欲しいとか、不安を消したいとか気持ちのせいが多いと思う。   お金がいくらあっても不安は消えない。  減っても不安は残る。  お金だけには頼れない。   

「わずかに売り買いすと言えども、なお銭を蓄うる人無し。  その多少に従いて、節級して位を授けよ。」        続日本紀 

711年10月23日  畜銭叙位令の言葉  お金を貯めた人には地位を与える。  お金で地位を買えるということです。   意図的にお金と権力を結び付けたという点で、凄い法令だと思います。  最初の流通貨幣の和同開珎が発行されたのが708年。   お金と権力が結びつかなかったら、ここまでお金儲けにこだわる人はいなかったと思う。  

「高利貸の金を借りる様になった。  段々深みに落ちて行ったので再び這い上がることが困難になっているのがその場の自分にはよくわからなかった。  足の裏に皮底の砂が触れるところまで沈んでいった。」       内田百閒 

最初友達に借りて、質屋に通うようになり、質屋に持ってゆくものが無くなり、金貸しからお金を借りる。  高利貸しから借りるようになる。   段々深みにはまってゆく様子が自分ではよくわからなかった。   

カエサルは 有力者に物凄くたくさんの借金をしていて、借金のせいで出世できたという話もあります。  カエサルが失脚したら借金を返してもらえなくなるので困るわけです。 だから有力者が一生懸命カエサルを応援したわけです。                 借金が少額のうちは債権者が強者で債務者は弱者だが、額が増大するにこの関係は逆転するという点をカエサルは突いたのであった。  

「賭博は運命が普通には長い年月をかけてしか生み出さないあまたの変化を一瞬にしてもたらす術でなくて何であろうか。  ほかの人々にあってはその緩慢な生涯に散らばっている数々の感動を一瞬にしてかき集める術でなくて何であろうか。  全生涯を数分にして生きる秘訣でなくて何であろうか。」     アナトール・フランス

お金に関してはギャンブルも大きなテーマです。  ギャンブルは胴元が儲けてほかの人は損する仕組みなんです。   ギャンブルだと一瞬にしてお金を手に入れることができる。 あるいは一瞬にして破滅する。   人生が凝縮されていて感動や衝撃も大きい。     ドストエフスキーは大のギャンブル好きで、何度も破滅しかけている。  すっからかんになって帰りの旅費を妻に頼む。  旅費が届いて最終列車に間に合わなかった。  賭博場があり、見るだけだと心に誓ってはいってみるが、自分の予想した目が次々に出るわけで、ギャンブルをしろという神のお告げではないかと思う。   ギャンブルに参加すると思った目が出なくてすっからかんになる。   ギャンブルはやってはいけないものだと思います。 

「友人の一人が離婚した時、マンションを奥さんにあげてローンを僕が払う事になった、と言いながら満面の笑みを浮かべていたことを思い出す。  そんなにも離婚したかっただなあと思って感動する。」       穂村弘 

このエッセーを読むとお金より大切なものがあるんだなあと思います。  きれいごとではなく言われると実感します。   

「ひどい貧乏だった。 貧乏は嫌だったが一方貧乏だという事が気休めにはなった。 

 俺はこの世で得をしているわけじゃない。  うまいことをしているわけじゃない。」     尾崎一雄 

今の時代は抜け目なくうまくお金をかせぐほうが尊敬されますが、昔は抜け目なく立ち回るのは恥ずかしい事でお金儲けしないことはそれだけ立派な人格だからという風にまったく逆の考え方もあった。   自分の貧乏に誇りを持つことが出来た。  そういうことは今にもあって良いんじゃないかと思います。   







2021年12月26日日曜日

宮里直樹(オペラ歌手)         ・【夜明けのオペラ】歌が教えてくれた無限の世界

宮里直樹(オペラ歌手)      ・【夜明けのオペラ】歌が教えてくれた無限の世界 

東京出身、34歳 幼いころからヴァイオリニストの両親に演奏の手ほどきを受け、高校入学時にジュニアフィルハーモニーオーケストラに入団します。  高校3年の夏声楽に転向し、東京芸術大学声楽科主席卒業、大学院オペラ専攻終了、奨学金を受けて2014年から2年間ウイーン国立音楽大学オペラ科で学び、2018年にはイタリアのミラノでも研鑽を積みました。  第48回日伊声楽コンコルソ第一位、数々の受賞歴を持ち2020年からNHKのニューイアーオペラコンサートに連続出演、去年に12月NHK交響楽団の第九にもソリストとして登場しました。

12月は第九は6回歌わせてもらう事になっています。  もともとはヴァイオリンをやっていました。  4,5歳から始めました。  父からのレッスンは怖かったので、段々母から習うようになりました。  物心つく頃には音楽家(ヴァイオリン)になりたいと思うようになりました。   小、中学校の先生からは歌をやったらいいのにと言われましたが、歌はやりませんと言い続けていました。   高校1年生の時に或る先生を付けてもらって1年間だけレッスンに行っていました。(イタリア古典歌曲)   妹がクラシックバレエをやっていて、突然ミュージカルの方に行きたいと言い出して、宝塚に行きたいという事で、妹が歌のレッスンに行くようになりました。   妹のピアノの伴奏として一緒について行ったら、歌うように言われて、歌ったら是非来いという事になりました。  断ったが翌日電話が掛かってきて、歌をやってほしいとの要請がありました。   父はヴァイオリンの才能はないが、歌だったらやって行けるかもしれないと言って、習う事になりました。高校入学時にジュニアフィルハーモニーオーケストラに入団しましたが、あとから入って来る小学生が僕のヴァイオリンよりうまいんです。   高校3年の夏から毎日歌のレッスンに通いました。  

東京芸術大学声楽科に入ってからオペラも見るようになりました。  

『リゴレット』から 「風の中の羽のように」 歌:宮里直樹 ピアノ:河原 忠之

大学院オペラ専攻終了、奨学金を受けて2014年から2年間ウイーン国立音楽大学オペラ科に留学しました。  5人の先生にかわるがわる教わりました。  コンクールも受けました。  第23回リッカルド・ザンドナーイコンソルで第二位を頂きました。   

日本でのオペラデビューは「愛の妙薬」で主役のネモリーノ でした。   難しい曲でした。 

*「愛の妙薬」から人知れぬ涙 作曲:ドニゼッティ  歌:宮里直樹

テノールは二枚目の役が多いが、ネモリーノは三枚目の役なので、ヒーローであってはらないと心の中で思って居るわけです。   純粋に一人の人を愛してるという気持ちをずーっと持ち続けることを目標に歌っています。  

去年のN饗の第九で、父がN饗のヴァイオリニストで一緒の舞台に立つ事が出来ました。  12月のNHK交響楽団の第九があり、NHKのニューイアーオペラコンサートも3回目になります。   

オー・ソレ・ミオ』作曲:」エドゥアルド・ディ・カプア、アルフレード・マッツッキ 歌:宮里直樹

2021年12月25日土曜日

仲里心平(伯州綿シャツ職人)      ・伯州綿に魅せられて

仲里心平(伯州綿シャツ職人・元境港市地域おこし協力隊)    ・伯州綿に魅せられて 

シャツと言っても肌着ではなく、カジュアルなシャツ、女性でいうとブラウスに当たります。 地元で古くから栽培されてきた貴重な国産の綿、伯州綿を使った生地で一人一人に合わせたオーダーメイドで仕上げるのが特徴です。  仲里さんに貴重な伯州綿について、地元で育てた原料を使いすべて手仕事で仕上げるものつくりをなぜ始めたのか、どんな思いで取り組んでいるのか、伺いました。

鳥取県の西部はかつて伯耆の国と呼ばれていて、場所を意味する州と合わせて伯耆の国の綿を伯州綿地位われていました。   

私の出身は神奈川県横浜市です。  大学卒業後アパレル会社に勤めて、洋服の企画、製造を経験して、その後織物職人となり、生地の企画、製造に携わりました。  4年前鳥取県の境港に移住して、伯州綿の栽培に携わったのちに、伯州綿のシャツ屋を立ち上げ現在に至ります。 大学では陶芸研究科に入りました。   このころから原料であるもの作りへのこだわりや、憧れがあったんだと思います。    この体験が現在行っている、原料からの物つくりの伯州綿へ繋がっていきます。  会社では机上でほとんどが進んでゆく仕事場でした。  思い描いていた物つくりとは違って、意を決して山梨県に移住して機織り職人の道に進みました。   原料からの物つくりをやりたいと思うようになりました。   境港市では伯州綿の栽培を通して、地域の活性に取り組んでいるという事を知りました。 地域おこし協力隊を募集していることを知り、境港に移住して地域おこし協力隊になりました。   2020年8月末地域おこし協力隊を満了して、昨年9月から伯州綿のシャツ屋を始めました。  

山梨県ではたくさんの素材に触れることが出来、そこで和綿の存在を知りました。  和綿は江戸時代に各地で生産され流通されていました。  明治時代の関税撤廃をもとに外国の綿が大量に輸入され、和綿が衰退していきました。  現在の衣類のほとんどは原料は海外製です。  そこで山梨県で見よう見まねで和綿の栽培を始めました。   綿を十分に収穫できませんでした。  境港市では伯州綿の栽培を通して、地域の活性に取り組んでいるという事を知りました。  伯州綿で様々な製品の企画、製造をしています。  伯州綿は5月ゴールデンウイークを過ぎた頃に種をまき秋に収穫します。   伯州綿のPRも行ってきました。  

鳥取県は雪国と言われていますが、鳥取の夏は意外と暑いんです。  初めて伯州綿を収穫した時に境港に来て正解だったと思いました。   伯州綿のことについて歴史などを含めて詳しく調べて行きましたが、それを通して多くの方々と関わることができました。   伯州綿の多くは弓浜半島で栽培されていました。    弓浜半島は17kmに渡る砂州で出来ていて、この砂地が綿栽培に適していると言われています。  綿は水はけがよく養分が少ない方がよく育つと言われています。   砂地からの反射熱により、開いた綿は繊維のねじれが強くなり、弾力を増してよい綿が生産されます。  

綿井戸は綿に水やりのための井戸です。  7月から8月の成長期には多くの水を必要とします。   弓浜半島では3m程度掘ると地下水が湧きあがり綿栽培には困らなかったと言います。   綿井戸は直径2~4mで深さは2~3mで、明治時代のころは弓浜半島全体で約8750か所の綿井戸があったと言われて、水やりは女性の仕事だったそうで一日100回ぐらい水をくみ上げていたそうです。         

綿栽培の肥料はニシンかすや油粕が多く使われていました。   弓浜半島ではナカウミやホキから採取される藻葉と言われる肥料藻の存在でこれが重要なものでした。  ニシンかすに比べて1/15程度の価格。  自力で入手でき野菜の肥料にもなる。   

「弓浜かすり」というものがあります。  伯州綿を原料に300年以上前から受け継がれてきました。   深い藍の色と綿の白さで表現された多彩な絵柄です。  鶴、亀、花鳥風月、幾何学模様等様々です。   機織りは女性の手で行われていました。 

伯州綿のシャツ=歴史や文化の薫るシャツ   今は完全フルオーダーをやっています。 お客さんと3回程度相談ながら制作を進めていきます。   ようやくスタート地点に立ったという思いです。  今後は販路をひろげしっかりと伯州綿のシャツが売れています、と言えるように精進していきます。  伯州綿の特徴や歴史を紹介する活動として、定期的に年3回綿講座を行っています。  




2021年12月24日金曜日

高濱正伸(教育者)           ・【ママ☆深夜便ことばの贈りもの】飛び出せ野外に

高濱正伸(教育者)        ・【ママ☆深夜便ことばの贈りもの】飛び出せ野外に 

1959熊本県生まれ、1993年に思考力や野外活動を重視した小学校低学年向けの学習塾を設立、2年後に小学校4年生から中学3年生を対象とした進学塾を始めました。  高濱さんの教育の目標は飯が食える大人に育てる事、生きる意欲にあふれどんな状況でもやり抜こうとする意志力や行動力は、子供の頃の野外活動で味わったわくわく感が培うとオリジナルな教育方法を実践してきました。   情報機器の発達と普及、コロナ禍でのeラーニングの導入と子供たちの取り巻く状況が変化している中、子供にとって大切なものはなにか、野外体験でなぜ子供は伸びるのか、ご自身の子供の頃の経験を交えてお話を伺いました。

野外体験に参加する子は4歳(親子)から中学生まで参加しています。  他に塾の教育、受験指導などしています。   回り道して大学を卒業したのは29歳でした。   24歳の時に子供のそばにいることが、音楽が、一生のめり込んでやって行けるなと思って、30歳になる時にどうも子供が本当にに好きだという事が判って、家にこもってしまっている20代、30代の人が相当な数いるなという事が判りました。  いろいろ調べているうちにどうも幼児期が重要だという結論に達しました。   5年生だと急に心の壁が分厚くなって、3、4年生ぐらいから違う生き物に変身しているんだなあと思いました。  第二次性徴で、全体が変わってしまう、(友達、世界の見え方等々)その前段階での自己像、世界観、安心感、意欲とかが一番大事なんだなと思いました。   その大きい関数として、外遊びと家(親)という事です。  

目の前の子供が可愛い仕草をしたとか、無防備なふるまいをしている時が一番感動しました。   もう一つ音楽も感動します。    子供らしい世界観があり可愛いと思い惹きつけられます。   褒めてやる、肯定という事は凄く大事だと思います。   小学校になると評価が始まってしまって、ネガティブな言葉で段々こわばってきてしまって、成績が落ちてきてしまったりする。   どこかで嫌いにさせてしまっているだけで、絶対人間は学びは好きだと信じています。  「やらされ」て辛いなと思ってくる。   

家という関数は凄くでかくて、特にお母さんに注目しました。   母親が曇ったり、自信なくしたり、イライラしていると子供はたちまち曇り空になってしまう。   その一つが「躾」だと思って、親子で一緒に考えてもらおうと思ってそんな絵本を作りました。   幼児期までは子供は親に基準を求めている、言い切ってほしいというのが子供の感覚なんです。   昔は地域があって、隣のおばちゃんが平気で家に入っていた。  一人のお母さんの周りにはたくさんの大人がいて、アドバイスなどをしてくれて安心感があったが、この60年ぐらいで変わってきてしまった。    お母さんには一人で頑張らないで周りに頼りましょうといっています。    アフリカのことわざで「子供一人が育つには村一つが必要だ」というのがありますが、象徴的に言っていると思います。   長年言っていたのは、「お母さん自身の仕事に対し自分がニコニコになることだけに集中してください」と言っています。  そうすると子供に一番いい影響を与えます。  父親には母親がニコニコするように母親に対して自由研究してくださいと言っています。  

幼児期の非認知能力が重要だと言われています。   頑張り抜ける、凄く集中できる、基本的モラルとか、自分を騙さない、楽しい、魅力的とか数値では表せないようなものが大事だと言われるようになりました。   計算できる、字が書けるとかは誰にでもできる土台です。  本当に凄い力は遊びの中にありますと言い続けてきました。   

発想力の指導はなかったので、そういったことは一生懸命取り組んでいます。    同じことが起きていても気づくかどうか、気づく力は本当に大きいです。   それには外遊びが一番いいと信じています。   本当の底力みたいな能力は田舎で自然の中で自由に遊んだ力が一番大きいんだと思います。   義務教育では評価が高いが、大学になると世界にきゅーっと抜かれてゆく。  知識教育一辺倒が弊害です。   気付く力、自分の言葉にする力、発表する力、みんなを巻き込んで説得する力とかそういうものが次の時代には大事だろうと思います。   子供の脳の芯の部分は絶対抱きしめて欲しいし、追っかけてほしいとか持っているんです。  そこは学校へ行く意味だと思います。   自分で決めたことをやりきるという事をひたすらやるという事が一番大事だと思います。   日本の部活は探求の場になっていると思います。   どんな時代になっても仕事を作れるし、楽しめるし、周りを幸せに出来る、周りを笑わせる面白い人、そう言う人になってほしいと思います。  

母親は高校に行けなくてNHKの通信教育でずーっと勉強してきて、「学ぶのは楽しいよ」といって、学びを好きにさせてくれた。  5年生の時に頭がでかいことに関して深刻ないじめを受けて、母親が「学校のことは良く判らないが、お母さんはあなたが元気ならばよかとよ。」と言ってギューッと抱きしめてくれました。   それが1か月続いて、強くなって1か月後に児童会の副会長に立候補して、1500人ぐらいいるなかの朝礼で「頭のでかい高濱す。・・・。」と言って、頭をマイクにぶつかってしまってそれが大うけして、いじめがぴたりと止みました。  支えてくれたのは母で、母が絶対の味方として存在してくれた。  




2021年12月23日木曜日

井上順(歌手・俳優)          ・【私のアート交遊録】いつも前向き!

 井上順(歌手・俳優)          ・【私のアート交遊録】いつも前向き!

75歳、最近でもツイッターを始めたり、初のエッセーを出したりと、その勢いは止まりません。  いつも前を見て突き進む元気の塊のような井上さんですが、実は50代で難聴になり深刻に落ち込んだ時期がありました。   しかし持ち前の前向きの明るさはこの時も自分にできることは何かを考えさせ、社会貢献も強く意識するようになったと言います。   新たな楽器を習得したり、コロナ禍でも発信したいとツイッターを始めたりするなど、表現者として挑戦を続けています。   75歳の今も常に前を向き新たなジャンルへの挑戦を続ける井上さんに若さを保ち人生を楽しむ秘訣を聞きました。

舞台を見に行ったら役者さんの声が小さい、隣の人に聞いたらまあまあですね、いう様な感じでした。   或る時、本読みがあって声が小さいんです。   耳鼻科に行ったら難聴だと言われ治らないといわれました。   原因は若いころから大きな音をたえず聞いていて、自分らも声を大きく出していたりしていて、耳を痛めて行ったようです。  ショックでしばらく落ち込み人と話すのがおっくうになってきてしまいました。  これではいけないと思って、難聴のことを話して補聴器を付けたらこんなによく聞こえるのかと思いました。  2006年の調査では聴覚障害のある方はおよそ27万6000人と推定、高齢化によってさらに増加しているようで実態はわからない。   公開して行くことが大事だと思います。 正直でいたいと思っています。   補ってくれる人たちもいます。   三谷幸喜さんからNHKの「真田丸」に話があった時に、補聴器をやってるのでだめだといわれたが、織田有楽斎(信長の弟)役で頭巾をかぶるんです。   

両親のいいところを全部頂戴した様に思います。   兄、姉、僕で歳がちょと離れていて、両親と一緒に映画などの時間を過ごして、帰っては兄、姉にしゃべっていて、笑顔が絶えない家庭でした。   そういった環境を作ってくれた両親には感謝感謝です。   15,6歳の頃に「六本木野獣会」という遊び人の仲間に入った時には止めずに勧めていました。  楽器を演奏している人たちとの出会いがあり一緒に過ごす時間があり歌わせてもらったりしました。  練習後ご飯を食べに六本木に行きました。  「六本木野獣会」には峰岸徹大原麗子田辺靖雄ジェリー藤尾さん等との出会いがありました。    スパイダースに呼ばれましたが、そこでも歳が一番下でした。   田邊昭知さんはそれほど厳しい怖いという感じではなかったです。    

解散した時に、写真家の立木義弘さんの家に出入りするようになって、「何とかなるよ。」と言ってくれました。   或る時母親が誘ってくれて、演劇評論家の日下さん、奥さんが吉田名保美さんで事務所をやっている方とお会いすることになりました。   奥さんからうちに来なさいと言われて、即決しました。  行って吃驚しました。  森光子さん、黒柳徹子さん、平幹二郎さんなどスターの方たちが一杯いました。  

「ありがとう」という番組に出演して全国に知られるようになりました。  いろいろな出会いがあり、それを無理なく体に取り入れて行ったと言うような感じです。   黒柳さんと一緒に司会をするようになりましたが、黒柳さんは何を言いだすかわからないような人でしたが、段々驚かないようになりました。   それが土台になり芳村真理さんと楽しい時間を過ごせました。  困ったという事は生まれませんでした。  

73歳でツイッター、エッセー「グッモー! 」を最近出版しました。  渋谷生まれの育ちなので、区から名誉区民を頂戴して、何かお返しにと思って、昔からの渋谷を紹介しようと思ってツイッターを始めました。   出版社の方が目にとめてくれて、エッセーを書く話になりました。  やっている間に枝葉が広がって行って、楽しいことを迎えいれてくれました。   ファン層も広がりました。    出会いがいろいろなことを教えてくれます。好きな言葉は「ドウー」 思ったらやる、失敗しちゃったっていいじゃないですか。  ダジャレはいい頭の体操になります。   西川 悟平さん東京パラリンピックの閉会式でフィナーレを飾った名曲「この素晴らしき世界」を演奏。  この曲が私のお勧めの一点です。



   


2021年12月22日水曜日

松本薫(女子柔道金メダリスト)     ・【スポーツ明日への伝言】"野獣"のセカンドライフ

松本薫ロンドンオリンピック女子柔道金メダリスト)   ・【スポーツ明日への伝言】"野獣"のセカンドライフ 

現役時代は鋭い眼光と攻撃的な柔道から野獣と呼ばれていた松本さん、女子57kg級でロンドン、リオデジャネイロ2つのオリンピックで金と銅のメダルを獲得しました。  2019年に現役を引退、現在は2人のお子さんの子育てをしながら、所属先で始めたアイスクリーム店で商品の開発、販売に携わっています。    この夏のオリンピック放送ではNHKのスタジオなどから柔道を判り易く、なおかつ選手の気持ちに寄り添った解説をしてくださいました。   現役時代のこと、それを終えた現在のセカンドライフについて伺いました。

今度のオリンピックの解説をやらせてもらって凄く楽しかったです。  今まで応援するという事がなかったが、気づいたらすごく応援していました。   芳田 司さんへのインタビューの時にはなかなか言葉が出なかったです。  

4歳の姉と2歳の男の子がいます。  姉には家で週一回楽しく柔道をやっています。  私は6歳から始めました。 兄と姉二人、弟との5人兄弟で、 兄が柔道を始めたのをきっかけに順番にはじめました。  最初あまり柔道はやりたくありませんでした。  道場は厳しかったです。   私よりはほかの兄弟の方が才能がありました。   辞めるなら自分で言いに行きなさいと母から言われて、いけませんでした。    高校ぐらいで本格的に柔道と向き合って、周りとの目標設定がかみ合わなくて、一時期畳から遠のいてしまいました。  高校を転校して、しっかり自分の意志で強くなろうと思ってやりました。    或る時に世界との差に壁を感じて、自分でのやり方ではどうなるものでもないと思いました。   段々顔が野獣になってきて、相手が吃驚して勝てない相手に勝てちゃたということがありました。   これも一つの戦い方だと思って身に付けて行きました。   結果を出すことに集中していきました。   

母からはところどころで刺激となる言葉を貰って、小学生の頃は「虫見たいな柔道だったね」と言われショックでした。   全国中学校大会で優勝して強化選手になって外国などにも行って、母は石川県から出たこともなくて、「薫はいろんなところへ行けていいね」と言われた時には、「私がお母さんを世界につれて行くね」と約束をした時期でもありました。  これが大人になった時に私を助けてくれました。   最後のひと踏ん張りは人のためという事が大きいと思います。    父からはいつも言ってくれる言葉に「薫には千里眼がある、だから大丈夫だ。」と言ってくれて、何故かその言葉が嬉しかったです。

帝京大学2年生の時に道場で「妖精」を見ました。  多きなバケツがパカッと開いて緑色をしたちっちゃい人がきょろきょろしていて、出て玄関から外へ出て行きました。  友達に話したら「それは麦茶の妖精だよ」、と言っていました。  誰も信じてくれないが本当なんです。   

ロンドンオリンピック、インタビューを受けた時に何をしたいかと言われて、パフェを食べたいと言ってしまいました。  日本に帰ってきたら沢山いただき、2週間5食食べていました。   優勝した瞬間初めてうれし泣きしました。   リオデジャネイロオリンピックでは銅メダルを獲得しました。   

現在はアイスクリームの事業の製造販売をしています。   大学2年の時に主人との出会いがありました。  同部屋の彼氏の親友でした。  彼は四国で6年間は遠距離恋愛という事でした。   リオデジャネイロオリンピックの代表に決まった日が、プロポーズを受けた日でした。  2016年11月に結婚し翌年長女が生まれました。   2019年現役引退。  会社の中にアイスの事業があってやりたいと思いました。   柔道で学んだことがいろいろ役に立ちました。   コロナが始まって店は閉めて、通販に力を入れています。    柔道とのかかわりは迷っていますが、柔道から学んだマインドを伝えていきたいと思っています。   どんな世界でも最初はキラキラした世界に見えて、頑張ってみたけどうまくいかないという事はよくあることだと思いますが、うまくいかなくて当たり前だと思います。 うまくいかないからと言って逃げて欲しくない、うまくいかない時が一番成長するチャンス、一番自分を知るチャンスでもあるので、乗り越えた時を想像しながらわくわくしながら乗り越えて行って欲しい。と思います。  夫とは血がつながっていないので、子供以上に「ありがとう」、「愛しています」と毎日伝えています。

2021年12月21日火曜日

小泉和子(小泉和子)            ・令和に語る昭和の暮らし

小泉和子(小泉和子)            ・令和に語る昭和の暮らし 

88歳、70年前に建てられた木造二階建ての実家を博物館にして、昭和の暮らしを伝える場所として公開しています。   又このほど母のすずさんがこの家で毎日行っていた家事の記録が「すずさん昭和の家事と家族の物語」というドキュメンタリー映画になり、話題になっています。  小泉さんが令和の時代に残したい昭和の暮らしとは、どういうものなのでしょうか。

スズさん〜昭和の家事と家族の物語〜」というには、今から30年ほど前に私の母をモデルにして、昭和の家事を記録した映画というのがもとになっています。   私は道具、家具、住宅とかを研究していて、動体保存をやろうという事で記録映画にして、それをもとに昭和の家事と家族の物語という事でストーリーを作って、母の名前が付いた映画になりました。   家事がなければ人は生きていけない。  民俗学ではいろいろと記録されているが、普通の家の家事の記録はどこにもないんで記録を撮り始めました。   母は3年後に転んで骨折してしまってその後亡くなってしまいました。    こちらが考えていた家事全部はやってないです。    難しい手間のかかる家事は最初の頃にやっています。   

元々私は女子美を出て油絵を描いていました。   昭和33年に卒業して、家具の設計の会社に入りました。  駒場にある民芸館に行ったら面白い箪笥などがありました。   仙台で作ったものだという事で仙台に行ったら、新しい箪笥ばっかり並んでしましたが、奥の方に行くとおじいさんが 昔話をしてくれて、金具は岩手でまだ作っているという事で岩手に行きました。   金具などを作る伝統産業は全く駄目でした。   古いものは捨ててる状況で、家具の文献もなければ、その歴史もないんです。   調べて60年代に本を書いて、70年代に東大の建築史の研究室に入って、建築史の研究をしながら家具史の研究をしました。   和家具を研究していましたが、洋家具の原稿を書いて欲しいという事になり、洋家具の研究もするようになりました。   1980年代に重要文化財に指定された家具とか室内意匠の復元、修理などの仕事をするようになりました。   日本とイタリアの交換留学制度で選んでいただいて、3か月間修復学校に行って、勉強しました。  文化庁の方の入ろんな文化財を国宝に指定したり修理したりして、日本の文化財状況が判りました。

私の実家の家は昭和26年に住宅公庫を利用して出来ている家なので、今はほとんど建て替えられてしまっています。   庶民住宅として残しておきたいと思い、博物館という形にして公開することにしました。   家具とかだけではなく、生活全般に広がっていきました。  生活史という事で今の状況です。   1999年に公開を開始しました。    

木造2階建てで18坪です。   入口が引き戸で鍵はなく、チリチリンと音がして人が入ってきたことがわかるわけです。    下駄箱があり、洋間があり、階段を上がると一つは子供部屋、もう一つは下宿人に貸すつもりで作ってあります。  洋間になっているのは当時としては珍しい。 洋間の奥が茶の間と台所と6畳の座敷になっています。   ちゃぶ台、茶箪笥、真空管ラジオなどがあります。   竹のざる、氷での冷蔵庫、(半分は氷保存のため)    4DKで家族6人(両親と4人姉妹)と下宿人2人が住んでいました。 私は長女で当時高校2年生でした。   60坪の土地だったので畑を作ったり鶏をみんな飼っていました。   江戸時代は水だけで洗濯していたが、昭和に入って戦前はたらいに洗濯板、石鹸を使うようになる。   腰巻、ふんどし、襦袢などで洗うものが少なく月に何回かしかやらなかった。   洋服がだんだん入ってきてそれも洗うようになってきました。

モットーとして家を残し、暮らしを伝え、思想を育てる、という事にしています。  昭和は家事が重労働の時代でほとんど女性でした。    家電製品、食品、衣服、など企業がやるようになって、便利で、快適にはなってきた。   現在はグローバル資本主義で、温暖化、地球資源の枯渇してくる状況になってしまっている。   オール電化ではなくハーフ電化に戻さなくてはいけないんじゃないのか。    家事は人を育てる力を持っている。   家事は家族みんなでやらなければいけないと訴えています。  不自由があってもいいと思います。  

体操して、6000歩歩いて、週に一回プールに行って体を鍛えています。  老化の記録(78歳開始 パソコンに記録)と、衣類カードを作って44年間継続中です。  衣類カードは衣類の種類、材料の種類、季節、購入場所(今は中国が多い)、金額そして絵を描きます。  1年ごとに保存。   死ぬまで続けていきます。   粗大ごみの家具をリサイクル会社を作って見たいが、研究の集大成をしなければいけない。

2021年12月20日月曜日

宮田まゆみ(笙奏者)          ・【にっぽんの音】(初回:2021/2/22)

宮田まゆみ(笙奏者)          ・【にっぽんの音】(初回:2021/2/22)

 https://asuhenokotoba.blogspot.com/2021/02/blog-post_59.htmlをご覧ください。

2021年12月19日日曜日

平野レミ(料理愛好家)         ・【美味しい仕事人】キッチンから幸せ発信

 平野レミ(料理愛好家)         ・【美味しい仕事人】キッチンから幸せ発信

料理は楽しくて美味しければルールはいらない、という言葉通り自由で斬新それでいてホッとできる味わいのレシピを生み続けている平野レミさん、そのアイディアはすべて家庭のキッチンから誕生しています。   仕事から帰宅してお腹を空かした、二人の息子たちを待たせないで食べさせたいという思いが、スピード料理に繋がりました。   最愛の夫イラストレーターの和田誠さんが亡くなって2年ですが、心の空白はとても埋めることはできないとおっしゃいます。   でも今は夫と共に楽しんだ家族のおいしい味と愛情を料理で孫たちにも伝えていきたいと平野さんに伺いました。

私は料理学校にも行っていないんで、料理愛好家と言っています。   NHKの「今日の料理」の番組で初めて出演した時に、トマト料理で手でつぶしました。  手でつぶすと表面積が広くなるので、うどんとかパスタに味が浸み込む。   しかしクレームがきたそうです。  新聞の評価は斬新という事でした。   昔はトマトは観葉植物だったが、祖父は外国人(ヘンリイ・パイク・ブイでした、「牛トマ」を父に継いで、父親から私たちに、子に孫にと継いできました。  (父はフランス文学者平野威馬雄。夫はイラストレーターエッセイスト映画監督和田誠。長男はTRICERATOPS和田唱。 長男の妻は女優の上野樹里。次男和田率の妻はモデルで食育インストラクターの和田明日香。従兄弟はトークライブハウス経営の平野悠。)    

シャンソン歌手として、レコード、CDも出している。   パンフレットの写真に名前が辺見マリと平野レミを間違えてしまっていて、可愛いいからこの子を使おうという事になり、行ったら吃驚された、そこから私の人生は変わってしまいました。   ラジオ番組を聞いて和田誠さんからある人に紹介してほしいという事で、会ってしゃぶしゃぶを食べておいしかったのでタレの作り方とか聞いて、その聞き方がとっても良かったという事で、結婚する事になりました。   夫は一昨年83歳で亡くなりました。   東京で「和田誠展」が開催されていました。  作品集が2800ですが、その5,6倍あります。   映画監督でもあります。  マザーグースの翻訳もしてご夫婦マザーグースという作品があり、120曲になって作詞もしてます。  夫とは会って10日で結婚を決めました。   交際範囲の広い人でした。   顔を出すのが嫌いな人で、結婚式もしていなくて、地味な人でした。   ステーキを食べながら結婚行進曲を掛けて、シャンパン飲んで、それから47年間、あっという間でした。    

あんないい人と結婚して、一番の人と結婚しないほうがいいと思いました。  後がつらいなと思いました。  会いたくて哀しくて寂しくてどうしようもならない。  でも47年間楽しかった方がいいと思います。    日常の細かなことをよくメモに絵も描いて渡してくれました。   結婚して亡くなるまで食べさせてあげる回数を計算してみたら、意外とすくないので、この人のために真面目に一生懸命にご飯を作ろうと思いました。   

夫から簡単なスープの作り方(5秒もかからないぐらい)を教えてもらい、目からうろこでした。   夫、子供たちへの料理を作ることで、早くうまく作れるようになりました。  息子二人も料理はうまいようです。   「ごっくんコロッケ」 キャベツの千切りに上にチンしたポテトを置いて、ひき肉と玉ねぎのみじん切りにしたものを炒めて、塩コショウしてその上にソースをかけて、ハイ出来ましたと、子供たちに出しました。  パン粉がないと言われて、コーンフレークをボロボロにして置いたら、本当にコロッケになっちゃったと言われました。  ごっくんすると味がコロッケになってしまう。   買うよりも家庭料理を作ってほしい。   「台満餃子」  餃子の具を色々混ぜて平らにしてチンして、その間に熱湯の中に餃子の皮をいれて、透き通ってきたら、水切りして、チンした皿の上にのっけます。   その上に酢とラー油と醤油をかけて食べてもらいました。  これは怠慢だと言われ、「台満餃子」としました。   家族の絆、ベロシップと言っています。   楽しかった思い出と、大きくなったがっちりした子供の手を握った時に夫が半分入っていると思ったら、心のつかえがストーンと取れた感じがしました。 夫の絵、写真を見て過ごそうと思います。










  



2021年12月18日土曜日

サキタハヂメ(作曲家・のこぎり奏者)  ・「〈2〉人や自然と共鳴したい」(初回:2014/4/17)

サキタハヂメ(作曲家・のこぎり奏者)  ・「〈2〉人や自然と共鳴したい」(初回:2014/4/17) 

https://asuhenokotoba.blogspot.com/2021/04/blog-post_17.htmlをご覧ください。

2021年12月17日金曜日

葛西聖司(元「ラジオ深夜便」アンカー) ・「ラジオ深夜便」アンカートークショー

 葛西聖司(元「ラジオ深夜便」アンカー) ・「ラジオ深夜便」アンカートークショー

ラジオ深夜便』を50代なかばで担当し、60歳前にNHKを退職しました。   初任地が鳥取放送局 コールサインがJOJG、次が宮崎放送局 JONG。  次が大阪放送局 jOBK、東京JOAK。  放送の科学が進んでいきます。  テレビでは大河ドラマ「独眼竜正宗」を担当しました。   連続テレビ小説澪つくし』(みおつくし)も担当しました。  沢口靖子さんが20歳の時です。  大正時代末期から第二次世界大戦後にかけての千葉県銚子市を舞台に、醤油屋の旧家の娘であるヒロインと漁師の網元の長男との純愛を描く。    次に歌謡曲の番組を担当しました。    「昼の散歩道」など番組をいろいろラジオ、テレビで担当してラジオ深夜便』を50代なかばで担当しました。  「昼の散歩道」のスタジオがラジオ深夜便』でも使われ、窓のあるスタジオで好きなところです。  時々の外の情景を話すことが出来ました。  フリートークなので自分らしい表現をしたいとは思いました。午前零時には「まもなく午前零時、今日から明日になります。」というようなことを言っていました。  日をまたぐという事を意識しました。  江戸時代は夜明けから翌日になります。  

「おしゃべりクイズ疑問の館」という番組を担当していた時に、私がクイズを出して4人のゲストの方が答える自由なトークをやっていましたが、言葉のなかでいろいろ部屋を変える(畳の部屋、ティールーム等々)という事をしていました。   ラジオで聞いてる方は色々と想像するわけです。   ラジオ深夜便』でもやってみたいと思って午前2時にあることを始めました。  午前2時は丑三つ時 午後3時ごろを「おやつ」と言いますが、これは「八つ時」なんですが、昼間の「八つ時」で、真夜中にも「八つ時」ありこれが午前2時ごろです。 それで真夜中の「おやつタイム」を設けてしまいました。   駄菓子とか地方に行ったときに土産を買ってきて、例えばマイクの前でおせんべいをパチンと割って見せたり、いろいろ紹介したりしていました。  音で想像力を高めてもらうようなことをしていました。  中には真夜中におやつの話をするのは辞めてくださいという、手紙が来たことがありました。  病気でものが食べられない、食べたくなるから困ります、という事でした。  

NHKを辞めたのが2011年の3月です。   ラジオ深夜便』と「きらめき歌謡ライブ」が私の最後の番組でした。  3月11日はラジオ深夜便』の担当の日ではなかったが、アナウンス室にいました。  13階にいて、東京には高層ビルが沢山あるので、ガラスが割れたら大変だと思いましたが、それがなかったことを目視したことを覚えています。ラジオを聴きながら歩いて帰りました。  家に帰ったら本棚が全部倒れていました。  全部震災報道に変わりました。  

音曲停止は私の人生で3回ありました。  阪神淡路大震災、昭和天皇が崩御された時、東日本大震災の日々、放送は有りましたが、音楽は絶えました。  放送担当しないまま退職することを覚悟ししていましたが、ラジオ深夜便』が復活したのが私の担当からでした。   好きなテーマ曲は流れましたが、いうべき言葉がありません。  何を言っていいか判りせんでした。  アナウンサーとして何を言うべきか、私の卒業試験だと思いました。  この後、・・・(言葉を詰まらせる。)    「震災のための必要な情報は伝えます」と言いました。   合間合間には話さなければいけないことがいくつもあり、どうやるかを考えました。   真っ暗で寒い中どうやって聞いているんだろうと思いました。   朝まで繋いでゆくこと、これがアンカーの役目だと思いました。  便りが届いていて一つの手がかりでした。 (地震の前の便り)    確かに届いていますと、消印、住所、年齢、年齢、沢山言おうとしました。   

ラジオは音だけで想像していただく世界です。  「暗闇の中で毛布にくるまって眠れない夜をお過ごしの皆さんどうぞ想像してください。」と言いました。  お便りにあるものを伝えていきました。  例えば押し花の貼ってある手紙、その花の様子だけを伝えました。 想像した時間だけ寒さを忘れてくれるだろうと思いました。 イラストの絵はがきには色があるので色を伝えるだけで、又形を伝える、そのほか富士山、風景、旅に行った時の話など、闇の世界で聞いている方も判って想像するだろうと思いました。   皆さんにひと時、放送と言う音の世界に生きて、つらいことを忘れて欲しいから言いました。  これが私のラジオ深夜便』の最後の放送ですと言って、5時に終わりました。  「きらめき歌謡ライブ」が放送出来ました。  歌謡曲、のど自慢が聞きたいという声を聴きました。     1年後BS衛星放送だけは大阪城ホールから震災チャリティーコンサートを和田アキ子さんと私の司会で放送しました。  








  


2021年12月16日木曜日

高橋町子(審判員)           ・女子野球のストライクを目指して!

 高橋町子(審判員)           ・女子野球のストライクを目指して!

今年8月23日甲子園球場で70年代の夢をかなえた元女性野球選手がいます。  高橋町子さん(85歳)  子供の頃から野球に魅せられて社会人野球の選手、市民野球チームの監督、硬式審判員など85歳の今もボールを追い続けています。   全国高校女子硬式野球大会の晴れ舞台を甲子園球場でという長年の夢が実現した今年、高橋さんは始球式を務め見事なストライクを投げました。   性別や年齢、障害の有無にかかわらず、誰にでも野球の楽しさを感じて欲しいと市民野球の審判、監督、グラウンド整備、子供たちの野球教室にと日々情熱を燃やす高橋町子さんに生涯追い求め続けてきた野球の魅了を伺いました。

8月23日甲子園球場で女子の決勝戦があった時に、栄誉ある始球式を務める事になり、びっくりしました。  今年25回目を迎えた、全国高校女子硬式野球選手権大会、決勝戦が初めて甲子園球場で行われ、神戸弘陵学園高校が4-0で優勝。  四津さんが一番の功労者だと思います。   「女子硬式野球の父」と呼ばれる「これをやっていなければ家の2軒は建っていたと思います。」 と言っていました。    四津さんの思いを背負ってマウンドに立たせていただきました。   私を応援してくださった方々に感謝の気持ちを込めて、跪いて「ありがとうございます。」と感謝の気持ちを述べました。 何とかノーバウンドでという思いで投げました。   

宮城県鬼首村旅館をやっていてそこで生まれました。  川で石を小さいころから投げて遊んでいました。   山からゼンマイを取ってきてわたをタコ糸で丸めるとボールのようになりそれで近所の男の子たちと野球をやっていました。   姉たちからはいつも辞めろと言われていました。   中学では男の子たちがチームに入れてくれるが、他校との試合となると女子は駄目でした。   高校では野球部がなくて、朝5時からバスで1時間、電車で1時間のところの共学の高校に転校しまた。  硬球を初めて手にすることができました。  その重みがずーっと忘れられなくて、いつかは女の子も絶対このボールでやらなければいけないんだと、その時から思っていました。    ソフトボールで第8回四国であった国体にださせてもらいまして、「女子野球団来る。三共、わかもと古川遠征」とポスターがあり、、そこへ3人で出かけキャッチボールなどをして、今年12月に東京でテストがあるから受けてみないかと誘われました。  2人で受けに行き合格通知をもらいました。  家からは反対されましたが、押し切って行きました。  クラスメートは喜んでみんなで駅で「頑張れよ」と送ってくれました。   今でも忘れられません。  それが支えになってずーっと続けられました。  

社会人野球のわかもとに入って、直ぐサードに抜擢されてレギュラーに成れました。   肩は凄くよかったですし、力があってバッティングもよかったです。   島津雅男監督との出会いがありました。 素晴らしい監督さんでした。   ミスをしても怒鳴らない、いいところを見ては褒めて伸ばしてくれる、監督さんでした。   以前学習院大野球部監督をしていました。  数年してわかもとは解散になり、野球部のある会社を捜しました。  42,3年にバッティングセンターで模範打撃をして、長嶋選手とも一緒になってやったことがありました。   気さくな方でした。   北区で野球チームを作ろうと募集しましたら、高齢な方もいました。  ボールの持ち方からそういった人たちにも教えました。(中学1年生から70歳代まで)   私、娘、孫までチームに入ってやりました。   東京都還暦連盟と言って60歳以上のチームがあり、女性だけでは足りないので混成チームでいいか問い合わせたらOKという事で、エンジェルスという男女混成チームでやっています。  最初は女性という事で厳しい目で見られましたが、段々馴染んでいきました。

43歳で審判の道に進みました。   審判技術講習会というものがあり、申し込んだら入れていただきました。     東京都軟式野球連盟の公認審判員、全国高等学校女子硬式野球連盟の審判員もしています。   アメリカのジム・エバンス審判学校にも連れて行っていただきました。  世界中の審判の憧れの審判学校です。   審判になってよかったのは、審判は公平でなくてはいけないので、人に対して公平になれたという事、いろんな方との交流が持てるようになりました。   聴覚、視覚障害者、肢体不自由の方々は障害を乗り越えて野球をする姿に感動、感銘しました。   手話を覚えれば通訳を介さなくても試合などがスムースに出来ると思って、手話を習いました。  チームのメンバーに取ってもいろいろといい勉強になりました。   一球,一球の大事さ、すばらしさを感じます。

70年ぐらいをずーっと続けてこられたのはやっぱり野球が好きだから、という事に尽きます。  生ある限り野球に関わり、野球に恩返しをしたいと思います。  雨の日も出かけて行って、水たまりになったグラウンドの整備して選手を迎えたり、終わったら、使った道具、ベースなどを水道できれいに洗って、収納したりしています。  河川敷なのですべて審判員がやります。    この年齢までできているのは皆さんに支えていただいているお陰で、やらせて頂いていると思って感謝しかないです。  島津流で褒めて伸ばしていきたいと思います。    自分がやりたいことがあったら、やっぱり自分の意志を一途に持ち続けて自分の意志を貫き通してほしいと思います。



2021年12月15日水曜日

梅田純一(陶芸家)           ・ドナルド・キーンさんが遺してくれたことば

 梅田純一(陶芸家)           ・ドナルド・キーンさんが遺してくれたことば

昭和25年東京都駒込生まれ、71歳。  20歳の時に独り立ちして物作りの道に進むことを決心し、日本一周徒歩の旅で見聞を広め、本格的に陶芸に取り組みます。   梅田さんがドナルド・キーンさんと出会ったのは33年前のことです。   キーンさんが梅田さんのお皿を買い求めたのがきっかけです。   その後おおよそ30年間キーンさんが亡くなるまで二人の交流は続きます。   キーンさんは徳島県海陽町の梅田さんの工房を5回訪れています。 日本初のドナルド・キーン文庫を海陽町に残しています。     

東京の個展の時にキーンさんが来て鉢を買い求めてくれました。   キーンさんは日本文化研究者で2008年外国人学術研究者として初めて文化勲章を受章。   東日本大震災の後日本に帰化する。  震災の時に外国人が日本から離れることに対して、励ます意味でこの機会に帰化することを決めたそうです。   日本の文化、歴史等様々な、厚みのある研究者です。  

僕は陶芸家は借りの姿だと思っています。   本職は人間と思っています。  キーンさんは好きなことだけをしてきたと言っています、もともとそういう人です。   僕は京都で修業をし、独学で出会うものすべて師とする、という教えに出会いました。   池田諭という人で 『独学のすすめ』という彼の本を読んで、感激しました。  その後日本一周の旅に出ました。   一番出会わなければいけないのが自分自身、そのためにいろんな人と会って自分自身を見る。   歩くことはものを考えるのにもちょうどいい速さで、人と出会う機会も多い。     キーンさんは日本の文化は良いというのではなくて、日本の良い文化という考え方です。   歩く旅は辞められなくなってしまうので、1年と決めてあとは実践するという風に考えました。   26歳で本格的に陶芸の道に入りました。(所帯を持っていた。)   バブルがありましたが、これは必ず終わるので値段を上げずにいて、それが今日まで続けられることになったと思います。    いいものを作ることを使命として考えてゆけば、たまたま食べられた。 長男はシルバーアクセサリーの作家、次男は石垣島で皮の小物を作っています。  

43歳で徳島県の海陽町に移住しました。   旅で出会った海陽町の人と夢を語り合って、後に住むとしたら、海陽町だといったら、場所は探すと言ってくれました。   それから20年、廃校になった学校を紹介してもらいました。   周辺には人家がありません。   「人は皆生まれた時はアーティスト」と言っています。   大人になり切れない人たちがいて、感性が鋭いからそうなってしまうんで、上手に生かす場所を本人が見つけて周りが援助してあげれば、素晴らしいアーティストとして生きてゆける。   回りを明るくする人だったらその人はアーティストだと思います。   

2007年1月6日、日本経済新聞の海陽町をコメント。  初めて海陽町に来た時のことを紹介している。    キーンさんは地方を重要視していた方でした。   ドナルド・キーン文庫を作りました。   その後5回訪問する。  「ゆく夏や 別れを惜しむ 百合の昼」という俳句をキーンさんが残してくれました。    山百合が群生している場所があり、そこでスケッチをしていたが、そこの場所をキーンさんに見せました。  僕が描いている絵にその句を書いてくれました。   この地は明治維新の前、新しい夜明けを信じて土佐藩を脱藩 した二十三士の生き死にを決めた場所です。  あまり世に知られていないこの悲劇を後世にも伝えようと地元の仲間と活動していた時期でした。  二十三士は殿様に新しい世をと提言し、ものを申して殺された。  白虎隊は殿様に殉じて殺された。   白虎隊は有名だが、二十三士は国にとっては都合が悪いので消し去られた。  二十三士は本当は素晴らし生き様だと思います。  

シロツメクサ(白詰草)をキーンさんは好んでいました。  その絵皿を買っていただき、自身のブログに載せていただきました。  鎖国の時にオランダの出島にガラス食器が入って来るが、クローバーの干し草を詰めてくるが、その種が生えてきて白い花が咲き、この白い詰めてきた花はなんだという事になり、白詰草となったとキーンさんに説明したら、キーンさんは自分を指さしていました。(自分も同様に日本に来ていろいろな種をまき花を咲かせていった。)  

新潟の柏崎にキーンセンターがあります。  地元菓子のメーカーがセンターを管理していて、キーンさんのニューヨークの書斎を移築してある。 いろんな資料を展示してある。  私の展覧会もそこであります。  

「益々仕事を頑張りなさい。 仕事に励みなさい。 人生を楽しみ続けなさい。」と廃校の黒板に英語で書いてくださいました。  その裏には私のように、という事だと思います。 

大きな組み絵皿を100枚作って、ラクダの命、蝶の愛、千羽鶴の平和、命と愛と平和の3部作で柏崎に展示して発信して、ほかでも発信していきたいと思っています。  来年はキーンさんの生誕百年でいろいろ行事が企画されています。  キーンさんは日本のノーベル文学賞の推薦者でもありました。 谷崎潤一郎だったらしいが、亡くなってしまって、三島由紀夫ではなく年功序列で川端康成になって行った。  「ペリー以来100年後、文化を開国させたのはドナルド・キーンだ。」と或る編集者が言っていました。






2021年12月14日火曜日

熊谷真実(俳優)            ・いつも心に太陽        

熊谷真実(俳優)            ・いつも心に太陽  

1960年(昭和35年)東京都生まれ、1978年つかこうへい演出家の舞台「サロメ」で俳優デビューしました。  翌年連続テレビ小説マー姉ちゃん』の主役、磯野マリ子役で出演し、人気となりました。  その後も舞台を中心に活動しています。    2015年「マンザナ、わが町」のオトメ天津役で第50回紀伊國屋演劇賞個人賞、第23回読売演劇大賞女優賞を受賞。

現在、BSプレミアムとBS4Kでマー姉ちゃん』を再放送、42年振り。   連続テレビ小説マー姉ちゃん』は現存する最も古い 朝ドラなんです。   自分の娘の様で不思議な感覚です。   原作は漫画家長谷川町子自伝エッセイ漫画サザエさんうちあけ話』で、主人公マリ子は、長谷川町子の姉・毬子です。  私に重なるところも大いにあります。 私は三姉妹の真ん中です。  中高一貫校で演劇部にいましたが、人気者でした。   高校3年生の時に先生から何になりたいかを聞かれ「スターになります。」と答えました。  結果、マー姉ちゃん』になりました。   私自身は普通にしているのですが、「太陽みたいだ。」と言われます。   いつも口と心と行いを一緒にしようと心がけています。   中学の時に「少女パレアナ」という小説を読んで、喜びのゲームという、どんな辛い事でも喜びに変えてしまうゲームをするんです。  感銘を受けて私は彼女になろうと思いました。   思考回路がそのようになってしまったみたいです。   発する言葉を脳の奥の方で聞いているようで、いつも前向きな言葉を発していたいと思います。

コロナになって人生の価値観、今までやってきたことなどがすべて一度まっさらになりました。   そのなかでますますポジティブになったというか、強固になりました。    母が私が35歳で亡くなった時に、母が好きで、10年間ぐらい悲しみの中にいました。   今思うと介護の必要はないし、自由でいられる、目も前にいないのは寂しいが、どこかで私を見ていてくれるという風に考えを変えれば、今は豊かで明るい毎日が暮らせていると思います。   離婚もしましたが、離婚をどうとらえるかで、今後の人生が変わってゆくと思うので、そこすらもポジティブです。     役に依って実生活を乗り越えることが出来たり、熊谷真実の役者人生と、実人生とを重ねたり離したりしながら生きている、プラスに変えているという感じがします。  人生「まさかの坂」はいつ来るか判らないので、これをどうやってクリアしようか、と思っています。   人生、心の持ちようで多分準備されているんです。   マイナスにならないように考える、これも人生の癖ですね。   中学の「喜びのゲーム」を自分で癖にしてしまいました。   齢を重ねるという事は私には楽しいし、経験が役に立つ、そしてそれをポジティブに変換してゆける。

去年元夫の故郷の浜松に引っ越しましたが、緑に囲まれた田舎をずーっと探していました。  コロナになって浜松に戻ろうと直感でそう思いました。   土地に呼ばれた、空気に、空に呼ばれたそんな気がします。     静岡県PRの観光のポスターにもなってしまっています。  「浜松市やらまいか大使」にも選ばれました。  父の故郷、福岡県添田町と埼玉県寄居町(映画のロケで滞在したことがある。)の故郷大使もやっています。   

井上ひさし先生の作品には何本か出させていただいていて、マンザナ、わが町」では浪曲師の役をやりました。   演劇賞を二つもいただきました。   井上ひさし先生の“昭和庶民伝三部作”の第三作「雪やこんこん」という大役を頂きました。  これまで市原悦子さん、宮本信子さん、高畑淳子さんと錚々たる女優たちが務めてきて全部見ていて、今度座長・中村梅子役に私が初めて挑戦することになりました。  2年かけてセリフをゆっくり覚えましたが、コロナで飛んでしまいました。  でも今稽古していて、コロナの2年は必要だったのかもしれません、中村梅子役を気負わずに出来るような気がします。  

「悲しみのヒロインは2時間が限度」、「人生試練なんてない」とか言っています。    人生自分が主役で回りはわき役です。  綺麗でいたい、綺麗さっぱりで生きたいという事です。  さっぱりさわやかな言葉を使って自分を掃除してゆく。 自分をちっちゃくして周りの人に助けてもらう。   


 


2021年12月13日月曜日

佐藤美奈子(佐藤彩香選手の母)     ・【アスリート誕生物語】

 佐藤美奈子(一輪車インストラクター佐藤彩香選手の母)     ・【アスリート誕生物語】

佐藤彩香は今、タレントとインストラクターをしています。   勉強よりは愛嬌のある子にという事で、元気で朗らかに育ってほしいと思いました。    明るい子に育ちました。 小さいころは甘い親だと思っていましたが、鬼だと言われました。   門限、片づけ、喧嘩の時にはやめなさいという程度でしたが。   聞きわけは良くないほうでした。  自分でやりたいことしかやらないほうでした。    叱り方は自信を無くすようなことは言わないようにしていました。   私自身があまり褒められずに自信がなかったです。  

兄が水泳をやっていたので2歳から水泳をやっていました。  運動は好きでしたが、運動会で活躍するという事はなかったです。   子役の事務所にも2歳から行きました。   小学校1年生の時にテレビで2組の兄弟が対決するという企画があり、我が家の息子と娘に話が来ました。   兄が逆上がり、娘が一輪車に挑戦という事になりました。   最初は全然ダメでした。  プロの手ほどきを受けて1週間で乗れるようになりましたが、対決としては負けました。   その後も1輪車は続けてクラブに入りたいという事でした。(小学校1年生)  子役の事務所は辞めました。    クラブには週に5日行きました。  土、日もレースがありました。   練習には必ず付き添いが必要なので行っていました。   一輪車のメンテナンスは父が、私は衣装を担当しました。   娘からデザインの要求がありましたが、洋裁の経験がないので苦労しました。    タイムをはかったり、ビデオを撮ってフォームの修正したり、技の練習では手を貸して手伝ったりしました。

アドバイスは自信を無くすような言葉はしないで、前向きな言葉を投げかけました。   褒めると乗っかることが多かったです。   3時ごろ学校から帰って練習に備えて昼寝をしていました。  練習から帰って9時過ぎから夕ご飯、お風呂、宿題をやっていました。  待って家族全員で夕食はしていました。   私もクラブに行ってしまうので、中途から兄も一輪車クラブに入会させました。    勉強はあまりうるさくは言いませんでした。 魚、野菜、果物はあまり食べませんでした。  食べたいものを食べさせればいいなと思っていました。   

小学校5年生の時に、全日本一輪車競技大会のスプリント競技で初めて優勝しましたが、その時に世界チャンピオンになると言いました。    前年は8位で、優勝を総なめにしていた子がいたので、優勝したのでびっくりしました。    トップアスリートを育てる監督、コーチはいないので、クラブの先輩の父親、母親からいろいろ聞いたり、先輩から直接聞いたりしていました。     中学生になると身体が急に大きくなってバランスを崩してタイムが出なくなるようになりました。   スランプだと気づかせないようにしようと思て、前向きになるように気を使いました。    スランプは自覚させてはいけないと思っていました。 中学2年生の冬から調子が悪くなって、3年生の夏まで続いたと思います。  練習は毎日続いたし、やめたいという事も言いませんでした。  高校2年生で世界大会で優勝して世界チャンピオンになり、我が子ながら凄いと思いました。  

兎に角負けず嫌いでした。  種目によって日本選手と海外の選手では違ったりするので、海外よりは日本人の選手の方が手ごわい感じがします。  日本人がかなり上位を占めています。   負けると物凄く悔しがって一人で泣いていたようです。   愚痴は聞いてやるようにしていました。   見てあげると子供は頑張るので、付き合ってあげたら出来るようになるのかも、と思ったりしていました。   綾香の望む親孝行とは愛嬌のある人でいる事です。


2021年12月12日日曜日

山田火砂子(映画監督)         ・女性も活躍できる世に~矢嶋楫子の人生を描く

山田火砂子(映画監督)       ・女性も活躍できる世に~矢嶋楫子の人生を描く

山田さん(後2か月で90歳になる)は お子さんに知的障害があったことをきっかけに64歳で監督デビュー、福祉に関する映画を何本も撮り厚生労働省児童福祉文化賞などを受賞、その後日本で初めて国家資格を持つ女医となった荻野吟子など、女性が活躍出来る社会の先陣を切った女性たちの映画を撮るようになりました。   今回の映画は公娼制度の廃止や禁酒運動、婦人参政権の獲得に力を尽くした団体、矯風会の設立者矢島 楫子の人生です。  大手配給会社を通さず資金は寄付を募り、ボランティアが多く参加するいわば手作りでの映画制作を続ける山田監督に映画作りの思いや、年齢に負けないパワーの元を伺いました。

荻野吟子さんを映画にした時に、荻野さんが矢島 楫子先生を尊敬しているし大好きなんですね。 三浦綾子さんの「われ弱ければ 矢島 楫子伝」を読んで、これは映画にできると思いました。   荻野吟子さんは苦労して女性第一号の医者になった人ですが、女性の学校がなかったので男に成りすまして、トイレに不自由するのでお茶も飲まないで、頑張って通ったという話が残っています。   矢嶋楫子さんは教育者として婦人矯風運動禁酒運動)に率先して参加、矯風会、女学校を設立する。  矢嶋楫子さんが最初結婚した相手が武士でしたが、酒乱なんです。  小刀を振り回した時に腕に刺さってしまって、女性から離婚届けを出して、世間から批判された様です。    当時250石というとお金持ちの部類ですが、綿から木綿を作って行って、下着は全部自分の家で作るんです。   洗濯物は男性と女性とでは別々に洗わなくてはいけないし、干すのも別々です。    食べる時も男性が上でそこから先に行ってはいけない。   特に鹿児島、熊本など男尊女卑の凄いところです。  矢嶋楫子さんは熊本出身です。  1男7女の6女(末子)に生まれますが、父親は又女かと名前を付けない。  姉が「かつ」という名前を付ける。   

船に乗って東京へ来る時に、船は舵で動くと、私も自分の人生を「かじ」で動かしてやるという事で、名前を「楫子」と変えてしまうんです。   兄の元に行く。  兄は大参事(副知事)兼務の左院議員で、神田の800坪の屋敷に書生、手伝いらはもとより千円という借金を抱えていた。楫子さんはその放漫財政を正し、3年で借金を片付ける。  生来の向学心から教員伝習所に通うこととなる。   1年通っただけで先生になってしまいます。  当時、明治三十数年まで戸籍のなかにお妾を入れるんです。 吃驚しました。  楫子さんは怒って一夫一婦制にしてくださいと論文を書いて、切腹させられるかもしれないと白装束で陳情に出すんです。   荻野吟子さんと共に女性議員になりたくて、女性のためにという事で世の中を動かしたかった。   何しろすごい女性です。  

映画にして知らせなければと思いました。  当時は40歳過ぎるとおばあさんでしたが、彼女が40歳を過ぎて、「ここで楽をしようなんて考えないで、ここからが勉強です。 ここから政治、経済の本を読むとか日本のためになることを勉強してください。」と、これは良い言葉だなあと思います。  コロナ禍で大変な撮影でした。    

楫子さんがいろいろ陳情の文章を書いていますが、書道の先生でなければ書けないような素晴らしい文字を書いています。(小学校がない時代なのに)   楫子さんの甥が国民新聞を作った徳富蘇峰さんでその後東京新聞になります。  徳富蘆花も甥です。  7人の姉妹ほとんど全員が女学校を作ったり、姉妹4人は「肥後の猛婦」、「四賢婦人」と呼ばれています。   当時馬一頭の値段が8円で同じぐらいの値段で売春婦として女性が売られて行きました。    女性の位置が本当に低かった。   

明治39年(1906年)、74歳にして渡米、万国矯風会第7回大会に出席、ルーズベルト大統領と会見します。  軍縮運動にも参加します。(87歳)    世界軍縮運動があり、軍縮運動には1万人の女性の署名をもっていっています。  この映画を作りたいと思ったのはもう一つ、或る新聞記者が「日本の女性が立ち上がってください。 あなた方が立ち上がったならば日本の国はいい国になりますよ。」と書いてくださいました。   女性が弱かったからあんな戦争になってしまった要因があるかもしれない、私たちが強かったら違った形で終わっただろうに、あんな戦争はしないで済んだんだろうにと思って、これから絶対に日本女性が頑張ってほしいという思いです。  三浦綾子さんをして、「もっと若くして矢嶋楫子さんを知っていたら、違った人生を送ったと思います。」と書いてあります。    私ももっと早く知っていたら、違った人生を送ったかもしれないと思います。 

滝乃川学園もだれが作ったのか、どうして出来たのか全然知りませんでした。  留岡 幸助さん 「不良少年の父」と言われた。  日本の社会福祉の先駆者で、感化院(現在の児童自立支援施設のこと)教育の実践家。東京家庭学校、北海道家庭学校の創始者として知られる。  石井 亮一さん孤児3000人を助けたが、この人がどういう生涯を送ったのか知りませんでした。 映画を作るためには生まれてからの人々を調べなければいけないので、いろんなことを知り得ました。

何とか障害者の親が少しでも楽ができるようにしてくれないかなと思って、それには映画という武器だなと思ってやったのがいい結果になったから、日本で良いことをした人が知られていないから、映画にして残しておこうと思って、特に女性問題は絶対やろうと思って、滝乃川学園の女性園長になった石井筆子さんを映画にしました。(「筆子・その愛 -天使のピアノ-」)

音楽でバンドをやったり、舞台に出て、その後長女が障害者になったのをきっかけにして映画の世界に入りました。    50年前はお化けと言われたりしてダウン症の子などは大変でした。   山田典吾(映画プロデューサー、監督 「蟹工船」「真昼の暗黒」などを制作)と結婚。  福祉の問題、女性の自立をテーマにやってきています。  あまり作品にお金を掛けると回収能力がないので手作り的にやっています。  いい作品だと有名な俳優さんも協力して安い金額でも出演してくれます。   いろいろ協力者も関わってくれます。  エキストラとして出させてくださいと言って今度の映画に東大生が3名程度出ています。  プロデューサーとして14本、監督として9本。  テーマは何かという事を追及しているので、世の中が変わったらいいなあとか、喜んでもらえればと思って作っています。    私が戦争で死にそうになったのを助けてもらって何にも言わずに去って行った人もいれば、鬼みたいな人にも騙されたりして、人間にはいろんな人がいるんだという事が判ったのが、生きる源でしょうね。   良いことをした人を発掘して、こういう人もいるんだということを示してあげたい、日本の国もいい国になってほしいと思うので、そういう気持ちで映画を作り続けて行きたい。


2021年12月11日土曜日

寺内順子(シンママ大阪応援団・代表理事)・シングルマザーの"実家"ができました

 寺内順子(シンママ大阪応援団・代表理事)・シングルマザーの"実家"ができました

シングルマザーを「シンママ」と呼んでそのSOSを受け止める「シンママ大阪応援団」が生活に困窮する母子家庭を物心両面から支える活動をしています。   およそ4年前のこの時間に紹介した時に、「シンママ大阪応援団」は単にホームページの名前で寺内さんが民間団体、大阪社会保障推進協議会の事務局長を務めていたことから、大阪社保協に間借りをしていました。  その後2018年春に一般社団法人化を実現させて独立、大阪市内で家を借りて念願の拠点 ZIKKA(実家)を設ける事にも成功しました。   ZIKKA(実家)はシンママと子供たちのいわば帰る場所で、寄付によって集まった食材を使っておいしい料理を食べたり、宿泊したりして、ほかのシンママたちと語り合い元気を充電する場となっています。   どのように運営されているのか、伺いました。

(参照:https://asuhenokotoba.blogspot.com/2018/01/blog-post_20.html ) 

組織的に団体運営することになり、理事さんには弁護士、司法書士、保健士、精神保健福祉士、社会福祉士、坊さんもいます。   シングルマザーと子供たちの自立した生活と心のサポートを目的とした事業をしますという事が明記されています。  日常生活支援事業、法的対応支援事業、居場所作り、仕事作り、居住支援事業、ママたち、支援者たちへの講座、広報活動、情報発信などをしています。  2018年4月には念願のZIKKA(実家)を設ける事にも成功しました。  そこで一番よくやっているのがご飯会でみんなが食べながらしゃべるという事をやっています。   子供はゲームをしたり漫画を読んだり、YouTubeを見たりして遊んでいます。   相談ごとを受けたり泊りにくる子もいます。  家にいられない女の子の緊急一時保護もやっています。 いろんなことをやっています。 サポーターが440人ぐらいいます。  食糧支援、電気器具類が壊れた時の代用品支援、などもしています。  ボランティアでやっていただています。 

大阪社会保障推進協議会というところが、2014年に生活保護問題で、全国調査の取り組みを行い、その一環で生活保護ホットラインというものをさせてもらって、或るシングルマザーと出会ったのがきっかけでした。   夫のDVから逃れて、離婚調停中で赤ちゃんを抱えて困窮していた。  そのお母さんとお付き合いするなかで、シングルマザーの困難さを知り支援活動をしたいと思ってスタートしました。

多いのが夫、パートナーからのDVです。   暴力よりも相手を傷つける言葉を毎日するとか、生活費を渡さない経済的暴力、友達になどに会わせない社会的暴力、性的暴力など、自分の支配下に置く。   お金がないのでなかなか逃げられない。  東北地方で1月の雪に中にママと赤ちゃんが置き去りにされたというケースもあり、警察を通してうちに結びついたというケースもあります。  逃げる先が本当の実家であれば、子育てなど協力してもらえるが、うちに繋がるママさんはそれがないので、働きだすが、子供を預かる保育所がなかなかない。  子供が小さいのでフルタイムで働けない。 

2014年ホームページ「シンママ大阪応援団」を立ち上げました。  最初は来なかったです。   コロナ禍で学校が休校になり、子供たちが家にいるようになり困難になり、飲食、旅行関係で働いていた人たちが仕事が無くなったり、勤務の縮小等で収入が減りました。   子供に満足に食べさせられないで、悲鳴にも似たSOS、なんでもいいから食べるものを送ってほしいという問い合わせが物凄く増えています。  

米5kg、玉ねぎなど日持ちする野菜、菓子、缶詰め、衣類、布団(中には要望がある)、カイロなど(暖房がない)など月2回送っています。  スペシャルボックスと呼ぶようになりました。   コロナ前は62世帯に送っていましたが、2021年11月には170世帯に送るようになり約3倍になりました。   ママさん達からものだけではない励ましをいただいたという事で感謝の手紙を頂いています。   子供たちが凄く喜んでいますという手紙も受けます。   旅行にも行けないような子供たちなので、京都に行ったり、花見を見に行ったりとかいろいろな企画をして楽しんでもらうような行事をしていますが、コロナで出来ないのでスペシャルボックスに全力を挙げています。    ZIKKA(実家)に集まるのも少人数づつという事になってしまいます。   何かを食べながら、何かをしながらというのが打ち解けるコツになります。    

「大丈夫?」より「ごはん、食べよう!』2020年に出版しました。   レシピ本です。手作りケーキは特別な思いがあるようです。(誕生日を連想するとか)   一番人気は鳥のから揚げでした。(子供よりもママたちが沢山食べます。  お腹がすいているんだと思います。 家では子供優先)  感想文も本の中に記載されています。  

「シンママ大阪応援団」のスタンスは、何も言わず、何も聞かず、ご飯食べよう、月に一回必ずボックスを送る、本人がボックスは卒業しますというまではボックスは送り続けます。   ママ達にはメッセージをくださいとお願いしています。   だんだんにその方を理解できるようになるのでフィードバックの参考にもなります。    来年度はママたちが就職できるようなスキルを勉強する機会とか、荒れてきている子もいるので子供たちへのケアも取り組みたいと思っています。  政策提言、国の制度、自治体のサービス向上などの活動もたいし、シンママ大阪応援団を全国にもっと作っていきたいです。  今、熊本、福岡にもあります。


    


2021年12月10日金曜日

山本晃ニ(受刑者向け求人誌発行人)   ・【人権インタビュー】やり直したい人に働く場を

 山本晃ニ(受刑者向け求人誌発行人)  ・【人権インタビュー】やり直したい人に働く場を

今、日本では犯罪加害者の就労支援が再発防止に向けて大きな課題となっています。   犯罪白書によりますと平成29年において、刑務所に戻ってくる人のうち7割を超える人が再犯時に無職であったことが判っています。   広島県福山市で建設会社を経営している山本晃ニさん(43歳)は、そのような罪を犯し入っている人向けの求人誌、獄中求人誌「NEXT」を発行しています。   「NEXT」は毎月一日に発行、山本さんが把握しているだけで年間40~50人が「NEXT」を介して就職をしています。   山本さん自身も刑務所に6年間入所していた元暴力団員です。   働く場を得たことで更生できた自身の経験から、やり直したい人に働く場を与えて欲しいと願う山本さんに伺いました。

受刑中の方たちが社会に出てくるまでに、自分が応募して帰る場所、就職先だったりを決めてもらうための求人誌です。   手紙で応募して、面会も緩和されてきまして、面会して迎え入れる形です。  今、50社弱になっています。  最初は知り合いの社長さんにお願いして協力を頂いてというところから5,6年前からスタートしました。   最初から全国の刑務所に送っています。    刑務所、少年院、少女院、更生保護施設、などです。  犯罪は様々です。   受け入れてもらうためには通常の履歴のほかに、犯罪歴、犯行動機などを具体的内容を履歴書に書き入れ理解してもらったうえで、いいよと言ってもらった方が続けられると思います。   服役回数も書き入れます。  再生への決意なども書き入れてもらいます。   罪名,刑期とかで人は判断しやすいですが、スタンスとしては極端に言うと無期懲役の人が引受人になっているし、出れることになれば必ず引き受けるというようなこともあります。   罪名,刑期とかに関係なく応募は出来ますというスタンスになっています。   しかし広告主になかなか浸透していかないという現状もあります。

僕も服役してから5年ぐらい経ったときに、社会に受け入れてもらう時に、次のステージへ、ほかの受刑者の方々も次のステージへ行くわけで、そういう意味で「NEXT」という事にしました。  不真面目な人もいれば、手紙のやり取りで頭もよくて心に感じるところがあるから、会いに行きたい人も沢山います。    あそこに預ければ何とかしてくれる、みたいにはき違えている人がいますが、そうではないです。  ボランティアでやっているわけでもないし。 

小さいころは父親は歯科技工士の会社を経営していて、母親は専業主婦でした。  僕が4歳の時に父親が他界しました。   兄弟3人で一般的な家庭でした。    兄弟皆同じように母は育てたかったのかもしれないが、「なんであなたは出来ないの」とかいわれて、段々疎外感が出来てきて、寂しさを忘れるために非行に走ってゆくようになりました。   学校もろくにいかなくなりました。(中学2年)   22歳の頃暴力団に入りました。  使い走りではなく自分から入りました。    一回目は組織に起きた事件で刑務所に入りました。(服役4年)    刑務所ごとに工場があり、そこに出勤して一日中仕事をして夕方になると部屋に戻され一日が終わって行きます。  所内でも人間関係、勢力争いみたいなものもあり、何十人での乱闘もありました。   出所した時には自分が想像していた環境と違っていて組織を辞めてしまいました。    いろいろありましたが、今いる広島に落ち着きました。   組織は辞めたが中身は変わってはいなくて、仕事はなく悪いことはしていました。   又次の事件を起こして刑務所に行く事になってしまいました。   その時には妻もいたし生後半年の子供もいました。   

一回目とは違って後悔もしました。  2年間服役しました。  面会は一回だけでしたが、手紙のやり取りはして、求められたのは「真面目になってください。」という事でした。   妻は良く待ってくれたと思いますが、そこでも働かなかったです。   資金も底をついてどうにもならなくなりました。  妻に泣かれて「仕事をしてください。」と言われました。   知り合いを通して、建設現場の足場の工事の仕事をすることになりました。  そこの社長さんがよく褒めて期待してくれ、飲みにも連れて行って貰いました。   1年半後に給料は減るが営業を担当してもらえないかと言われました。    仕事を取って来ると嬉しいし、4,5年その会社にいました。   

建設現場に人が不足していて、僕のところにも要請があり、刑務所にも素敵な人がいることを思い出して、その人たちを雇用できるような道筋を作ってしまえば、と思って行動して行って今の形になって行きました。    当初はアパートを借りて冷蔵庫、洗濯機などを買い入れて、迎え入れ1カ月でいなくなると赤字になってしまい、そんな繰り返しでした。  辞めようという思いもありましたが、段々居ついてくれる人も増えてきて、質もよくなってきました。   ずーっとやって行きたいし、僕でなければできないことでもないので、思いを共有できる人達とやっていけたらいいなあと思います。   もっと良いやり方があるならどんどん取り入れて、受け入れやすいようにやってゆくべきだなあと思います。

本人が望むこともありますが、本人よりも望んでいるのはご家族の方だと思います。  その部分もケアしたいと思います。  偏見は変わらないと思います。   立ち直って行くためには、いろいろあると思いますが、信じてくれる人、変わろうとすることを喜んでくれる人、努力を喜んでくれる人、だと思います。 








  

2021年12月9日木曜日

西山夏実(起立性調節障害の高校生)   ・【人権インタビュー】"負け犬"だけど 寄り添って

 西山夏実(起立性調節障害の高校生)・【人権インタビュー】"負け犬"だけど 寄り添って

朝起きられない、目が覚めてもしばらく起き上がることができない、起立性調節障害という病気があります。    自律神経の働きが悪くなって体や脳への血流が低下することで、様々な症状が出ますが、午後には回復し夜は目がさえて眠れなくなるのも特徴で、周囲から怠けているだけではないかとみられがちです。  思春期の子供に多く成長するにつれて治るケースも多いんですが、日本小児心身医学会のガイドラインによりますと、中学生のおよそ1割、不登校の子供の3~4割がこの病気に苦しんでいるという事です。   今年7月この病気をテーマにした映画が上映されました。   監督を務めたのは高校3年生の西山夏実さん。   中学時代から悩んできた自身の経験をもとに同年代の仲間たちと制作しました。  オンラインを活用した上映会の反響は大きく全国からメッセージが寄せられています。  病気について多くの人に知ってほしいという西山さんに伺いました。

今は発症して5年目ぐらいで、朝起きれなかったり、夜興奮状態で眠れなかったり、ご飯が食べられなくなったり、立ち上がる時にバタンと倒れてしまったり、ずーっとマラソンしているような動悸で疲れやすかったりとか、毎日つきまとうというような状況です。  酷い時には夕方までベッドから起き上がれずにいます。   そういう時は血圧が上が80台、変動して150ぐらいになってしまう。    治療法もないです。  テストも寝ないままとか眠いまま受けて3年間乗り切ってきました。  

中学1年から2年になる春休みに突然発症しました。  最初極度の食欲不振があり、豆腐を一日一個という風で、1カ月過ごしました。   栄養失調で倒れてしまい、救急病院に運ばれ検査をして最終的に診断されたのが起立性調節障害でした。   3か月ぐらいで急速に悪化してしまい怖かったです。   集中力低下とかで5だったのが1になってしまったりしました。  部活もできなくなり友達にも会えなくなり寝れなくなりました。  孤独でした。   先生から「もっと頑張りなさい」と言われましたが、ナイフが胸に刺さるような感じで精神的に参りました。  カッターで手を切ろうと自傷行為をしたりしました。笑わなくなって性格も変わりました。    母は私が起きたい3時間前ぐらいから起こし始めます。  血流をよくするためにマッサージをしてくれたりいろいろしてくれましたが、申し訳無い気持ちでした。  父も理科の実験などを夜やってくれたりしました。  

高校は受かってもやめる事になると周りから言われました。  どうしても全日制の高校に行きたかったので、夜中に頑張りました。  高校では映画を製作して 今年7月に福岡市内の映画館を借りて手作りの上映会を行いました。  オンラインも活用。  オンラインを含めて2000人ぐらいの人が見てくれました。  コロナで休校中に最初は本を書きネットで売ったのがきっかけになりました。    映画にしてみようと思いSNSで募りました。  すべて検索で映画作りのイロハから調べました。  辛いシーンもあり、つい思い出してしまい投げ出したくなったりしました。    反響がいろいろありました。   いかに負け犬映画を作るか、みたいな、上からではなく横から寄り添える映画を作りたいと思いました。  タイトルは「今日も明日も負け犬」。  映画を見た母親と中学生の女の子が泣きながら「救われた。 ありがとう」と言ってくれて、ちゃんと届いたんだなと思いました。

まずは知る事、知る事が一番大きな一歩だと思います。   この映画も知ってほしいという思いで作りました。   会社には行けないと思うので、同じ苦しみを抱えて社会に馴染めない人たちが働ける場所を作って、一緒に何かできたらいいなあと思っています。







  

2021年12月8日水曜日

沖侑香里(きょうだいケア経験者)    ・【人権インタビュー】「偉いね」と言わないで

 沖侑香里(きょうだいケア経験者)    ・【人権インタビュー】「偉いね」と言わないでヤングケアラーの苦悩

ヤングケアラーとは家族の介護やケアなどを担い、年齢や成長の度合いに似合わない重い責任を負っている子供のことを言います。   国は今年初めて全国で実態調査を実施し、中学生のおよそ17人に1人、クラスに1人はヤングケアラーがいることが判りました。   静岡県出身の沖さんは重い身体障害と知的障害がある妹の介護を27歳まで続けました。  沖さんのように障害がある子供の兄弟や姉妹のことをひら仮名表記で「きょうだい」と言います。 ヤングケアラーそして「きょうだい」として幼いころからケアを続けてきた沖さんがどんな悩みを抱えてきたのでしょうか。 

ようやく社会的にヤングケアラーという言葉とか、その言葉をさしている子供とか若者がどういう状況に置かれているか、知れ渡り始めたととらえています。  妹とは5歳離れていました。    気が強い妹でしたが、生まれて1,2歳の頃に進行性難病を発症して、身体障害と知的障害の重複障害でした。   段々いろんなことが出来なくなり、妹が小学校高学年、私が中学、高校の頃はほとんど寝たきりで、誰かの介助がないと生きて行けない状況になりました。   私が小学校低学年から3,4年生の時には妹が転ばないように見守るとか、食事も普通のものからミキサーでとろみをつけるものに変化していったので、母親が作ったものをミキサーでとろみをつけるというようなケアから始まりました。   病気も進行してきて痰の吸引とか医療的ケアも必要になってきました。(中学生の頃)  当時は当たり前だったので負担になるとは思っていませんでした。   祖父母、両親との6人家族でしたが、私が母親の次に妹のケアの範疇に入っていました。   

学校には問題なくいけましたし、友達と遊ぶ時間も比較的確保できていました。   ありのままを友達、先生に話せない精神的負担感は有りました。   母親が大変でしたし、私は妹を支えるという思いしかなくて、気持ちに蓋をする感覚が強かったです。  我儘は言わないとか自然と身に付いてしまっていました。  大学進学の時に周りも県外に行くことが当たり前な学校だったので、その流れのなかで私も県外の大学に行きました。  心の中では負担をかけてしまうので離れて良かったのかなあとか、そういう思いはありました。   

学生生活を謳歌していましたが、人の顔色をうかがうとか、自分の意見がないという事に気付いて、そのつらさを感じてゆきました。   つい先に相手がどう思っているのか、考えてしまう。  自分を変えていきたいと思いました。   学校での或るミッションのあるプロジェクトに参加していましたが、どうにもならなくて、或る時そこの社長に泣きながら相談しました。  これまでの妹との生活について話し始めて何時間も話しました。    社長が「沖さん これまで頑張ってきたんだね」と言ってくれました。   その言葉がとっても衝撃的でした。   妹のことをちょっと話すと、それまでは「もっと頑張れ」というような言葉がけが多かった。  社長の言葉で自分は頑張ってきたんだという思いが湧き肩の荷が降りたような感覚がありました。   ありのままに聞いてくれたという感覚を私には持てた、という事があったと思います。

テレビ番組で病気や障害のある方の兄弟の特集が二夜連続であり、それを見ていたら私と同じようなことを言っていました。   自分の意見が持てない、将来の生活の不安、親の顔色を見てしまう、というようなことでした。  原点は子供時代の家庭環境とか妹とのかかわりにあるんだということに繋がっていきました。  社長との件とこれが転機になったと思います。

愛知県の会社に就職して25歳の時に母が亡くなりました。   妹のケアのために静岡県に戻りました。    平日の夜間と週末は母親が面倒を見ている生活で、母親が入院したと同時に妹の生活が立ち行かなくなりました。   最初は3か月の介護休暇を取って、妹の環境を整えて会社に戻ろうと決めていましたが、居なくてはいけなくなって生活していましたが、2年後に妹が亡くなりました。   大人になってからのケアは自分で出来る範囲のケアを決めたり、これは無理ですと言えたり、とかが大きな違いかも知れません。

「静岡きょうだい会」の代表を務めています。   兄弟、姉妹に障害のある方たちの居場所作り、語り場を作っているところです。   10~70代までの年齢の方が子供時代の話、今悩んでいること、将来の不安などについての語り合いの場を作ったりして、延べ300人ぐらいの方と出会ってきました。    同じ仲間がいることを知って、話し合える場が出来たこと、それがよかったという意見が多いです。   社会のなかでの病気、障害の偏見を理由に口止めされるケースもあると聞きます。  家族の悩みとかはなかなか話せない。 問題のある家庭とは思われたくないとか、可哀そうと思われたくないとか、いろいろあると思います。   ケアしている人には自分を責めたり、一人で我慢しなくていいよ、という事は伝えたいと思います。   目の前の人が何を言いたいのか、その人の目線に立とうとするとか、受け取ろうとするとか、という目線があるとお互いが優しくなれる気がします。一人で抱えていることを、話したり聞いたり一人で抱え込まない社会であってほしいと思います。  子供は言葉で表現すること、状況を説明する事が難しいところがあり、そういったことを理解したうえで、寄り添う姿勢、ちょっとしたサインを見逃さないようにアンテナを高くして、引き出しを沢山持っていることが必要かと思います。










 

2021年12月7日火曜日

杉本肇(水俣病語り部)          ・【人権インタビュー】いま水俣病を語り継ぐということ        

 杉本肇(水俣病語り部)      ・【人権インタビュー】いま水俣病を語り継ぐということ

水俣病は熊本県南部の水俣市で最初に確認されました。   チッソ水俣工場が海に流した有機水銀が魚介類に取り込まれ、それを人間が長くたくさん食べることで中毒症を引き起こす公害病です。    今年で公式確認から65年となりますが、今もなお症状に苦しむ人達、患者として認定してもらいたいと訴える人たちが後を絶ちません。  杉本さんは60歳。   祖父母と両親が水俣病の認定患者でした。   ご自身も感覚障害などの症状があり、水俣病の被害者手帳を持っています。   幼いころから身近に患者を見つめ、向き合って来た自らの人生を今水俣病の語り部として多くの人に伝えています。 

今日も目の前にある海でシラスを獲ってきました。 無添加で加工します。  祖父母と両親が水俣病の患者であり、食べ物は安全でなくてはいけないと心から感じていたので、こだわっています。   水俣の海は生活の一部ですし、大好きなところで、これを守りたいと生涯にわたって水俣に接していたいと思うような、そんな海です。    水俣湾はかつて汚染され、たくさんの生命が亡くなりました。  ここは水俣湾から少し離れているので毎日魚を捕るという日常です。   真の水俣を知っていただきたいと語り部をやっています。   

小学校6年の時が家族が大変な時期でした。  5人兄弟でにぎやかに過ごしていました。    うちは網元で人が20,30人出入りしていました。   この茂道地区で症状が出たのは祖母が最初でした。  そこから我が家の苦しみが始まりました。   症状はろれつが回らなくて草履をはいてるのがわからないので、草履をなくしたりしていました。(感覚障害)   湿布薬が家にはたくさんあり漁師が貼っていて大変なんだろうぐらいにしか思っていませんでした。   小学校に行って両親が運動会などには来てくれるが走れない。  そのころから段々両親の身体が弱いことが判って来ました。  おじいさんが小学校の2年生の時に亡くなりショックでした。   母の具合が悪かったので、次は母が亡くなってしまうのではないかと考え心細くなりました。    3年生ぐらいから父も具合が悪くなり、周りには相談できないというのがこの水俣病にはあるんです。   水俣には加害者であるチッソも一緒にいるという事です。   子供も大人も水俣病に関しては何も言えない状況でした。   隠したいという思いが働き始めました。

先生にも言えないし、ストレスを溜めながら学校に通っていました。 小学校5年生の時に父は精神的ストレスで胃潰瘍になり、母は手に痛みがあったり足が腫れたりして、握力が4~5kgでした。   ごはんが入った茶碗が持てなくなりました。   二人が病院に入り子供たちで暮らすことになりました。    長男ですし、不安で夜眠れない時がありました。    水俣の魚が売れなくなってきた状況では漁師をあきらめるしかないと思うようになりました。    水俣の町が嫌になって出ていろいろ学びたいと思いました。    

高校卒業後東京に就職しましたが、周りに出身地を隠していました。   目の前で水俣病の患者の物まねをされた時にはショックでした。    結婚しようと思った人が水俣の人だったら結婚するなと言われて破談になったという人もいました。   僕たちは田舎自慢が出来なかったです。    後になって親と一緒に海に行って漁をしたことを話すと羨ましがられるようなことでしたが。   32歳の時に水俣に戻る事になりましたが、もう一度漁師をやってみないかという両親からの手紙でした。    少年の頃の心が動きました。 家族でもう一回漁が出来たんです、それが一番良かったです。(平成5年)  その後徐々に水俣病のことは語られるようになりました。     母が語り部になりましたが、なんでつらい話を人前でするのかと、賛成ではなかったです。    

母が亡くなって、全国から800通ぐらいの手紙を頂いて、母から励まされたという内容の手紙が多かったです。     母が「国も県もチッソも許す。」という言葉を残しましたが、一番の母の思いというのは「人が人ととも思わない。」というのが一番つらかったことで、それが差別、いじめだったと思います。    もう私(母 栄子)で終わりにしたい、私は許すから、同じ失敗をもうしないでくれ、という願いが含まれていると思います。  

母が亡くなって3か月後に語り部になりました。  小学校5年生の俺を救えるのではないかと思いました。   水俣の子供たちがこの町に生まれて良かったと思うようにしたいんです。    水俣市民が率先して水俣を伝えるという、そんな機運が高まっています。   水俣は公害との戦いなので、市民がどう戦って来たかという歴史が一番重要ではないかと思うし、原点だと思います。  水俣病の患者さんが一番つらかったことは差別だと母が言っていましたので、日本や世界に伝わってゆくようなメッセージを水俣から発信してゆきたい。

   


2021年12月6日月曜日

松中権(LGBTQ社会活動家)       ・【人権インタビュー】故郷を帰れる街に

松中権(LGBTQ社会活動家)       ・【人権インタビュー】故郷を帰れる街に 

今月10日までは人権週間です。   LGBTとはレズビアン(Lesbian)、ゲイ(Gay)、バイセクシュアル(Bisexual)、トランスジェンダー(Transgender)という各単語の頭文字をとってLGBT。  最近はもっと広くとらえたLGBTQという言い方もします。  Qはクィア(Queer)もしくはクエスチョニング(Questioning)。  今年夏に開催されたオリンピックでは多様性と調和が大会の理念として掲げられ、LGBTQなど性的マイノリティーであることを公表して出場した選手が180人と過去最多となりました。   ここ数年の間にLGBTQをめぐる社会の意識がすこしづつ変化してきています。  一方広告会社の調査によると日本のLGBTQ当事者に自分がLGBTQであることをカミングアウト(公表する)出来る社会ですかと質問すると、まだまだそんな社会ではないという回答が7割以上もあり、日本の社会では差別や偏見が根強く残っていることが判ります。   自身も当事者であり、長年この問題の理解、促進に取り組みを続けているNPO代表の松中さんに、日本の現状や、目指す社会の思いについて伺います。

保育園のころから男の子の友達といると楽しいなとか、その子が誰かとおしゃべりをしていると悔しいなとか、という感覚は有りました。   誰かが好きかなと感じ始めたのは小学校の高学年からですかね。    もやもやしていましたが、パッと霧が晴れたような感覚になったのは、ある番組に登場したキャラクターのお陰でした。  ホモだという事でした。  同じ人がいたと思いました。    図書館で調べて、このことを誰かに知られてしまったら、自分の居場所がなくなってしまうだろうし、両親からも追い出されてしまうかもしれないし、友達からいじめられるかもしれないと思って、空元気を演じる子供時代を過ごしてきたと感じます。    LGBTQは子供の頃気づくと言われています。  自分が当事者であるという恐怖と親の期待に応えられない、親を裏切ってしまうんじゃないかという怖さ、プレッシャーを感じて居場所を失ってしまう若者が多いのではないかと思います。   

東京の大学に行きたいと思ったのは、金沢に居場所がないと気づき始めて、いつかは東京、いつかは海外に行きたいと思っていました。  大学ではフィールドホッケー部に入っていましたが、合コンとかでは盛り上がっているふりをしていました。  このままだと自分の人生はどうなっちゃうんだろうと、大学4年生の頃は考えました。   オーストラリアでは国を挙げて多様性を大切にしているという事で、1999年、4年生の冬から2年弱メルボルンに留学することにしました。   一番最初にしたことはカミングアウトでした。    クィア(Queer)ルームがあり、そこで物凄く緊張してカミングアウトしました。  そうしたら「I See」 でした。  こんなに素直に受け止めれくれるんだと吃驚しました。 「ちなみに彼氏は?」と次に聞かれました。 凄い開放感があり恐怖感が無くなりました。 

2001年大手広告会社に就職したが、カミングアウトはしませんでした。   3年目にこの上司なら伝えてもいいかなと思って、タイミングを計っていましたが、機会を失ってしまいました。   なんで又同じ人生を歩んでいかなければいけないのか、という思いがあり研修制度を利用してニューヨークに行く機会を得ました。  2008年オバマ大統領が誕生して「We can change」という事で凄く盛り上がっていました。  自分も社会を変えて行くことに関わりたいと思って、帰国後NOP法人を立ち上げ、会社でもカミングアウトしようと思いました。  2010年二足のわらじがスタートしました。  ばれないように過ごしてきたので皆さん吃驚しました。   私の場合は周りに恵まれていると感じます。LGBTQの活動を通してカミングアウトしやすいような社会つくりをしていきたいと思います。  まだ差別や偏見が根強く残っています。   

一橋大学アウティング事件、 一橋大学法科大学院に通う学生が自分がゲイであることを友達に告白したが、本人の許可を得ずに周りにばらしてしまった。  悩み心身に変調をきたし最後には校舎の6階から転落死した。  ニュースを読むとまさにそこにいたのは自分ではないかと思い、全身の血が引いてゆくような感覚でした。   たまたま自分は生き残っているという感覚でした。   社会が変わらないと命を落として行く人たちは毎年生まれてくると感じて、仕事を辞めることを決意して、2017年6月に退社(16年間勤務)、以降LGBTQ活動一本で生活しています。   35年ローンでマンションを買っているし、給料もぐっと減るのですが、どうやって生活するかは考えていませんでした。  回りから応援を頂いて今日にいたっています。  

今年10月10日には地元金沢の有志の方と共に北陸初の金沢プライドパレードも開催。   北陸は保守的な街でどうにかして金沢の街を変えてゆきたいと思うようになって、地元の人とチームを組んで活動しています。  差別、偏見があるのは情報がないという事も一つの原因かなと思います。   パレードの準備段階ではポジティブな反応があり大丈夫かなと思っていましたが、街に暮らす人々が不安に思えてきて、当日を迎えました。  当日は全国から300人以上の方が参加しました。   街の多くの方々が手を振ってくれたり、笑顔で迎えてくれて、北陸も変わり始めているんだと体感しました。  

LGBTQ活動をしていて知った言葉は「アライ(ally)」という言葉で「同盟」とか「仲間」という意味の英単語ですが、そこから転じて「LGBTを理解・支援する人」を指します。 アライ(ally)」という考え方がLGBTQ活動を通して全国に広がっていくといいなあと思っています。 







 

2021年12月5日日曜日

津久井教生(声優・演出家)        ・【時代を創った声】

 津久井教生(声優・演出家)        ・【時代を創った声】

津久井さんはNHKのEテレで放送中のニャンちゅう!宇宙!放送チュー!」の猫のキャラクター「ニャンちゅう」を演じています。    現在身体を動かすのに必要な筋肉が徐々に痩せて力が無くなってゆく難病 筋萎縮性側索硬化症(amyotrophic lateral sclerosis:ALS)と診断されて闘病中です。 

声優、俳優、演出家、音響監督、ミュージシャンなど実に多くの肩書を持っています。    3年ほど前にはALSと診断されて現在闘病中です。   足から始まった症状が手にまで進行してほとんど手足が動かなくなってしまっています。   しゃべる事以外は自分一人ではできる事が無くなってしまいました。   重度障害者の訪問介護の24時間体制という風になっています。   悲しくしゃべるには性分があっていないのでこんな感じでしゃべっています。(凄く明るい声でしゃべっている。)     

ALSなのでコロナ禍ではほとんど自宅で過ごしています。   ニャンちゅう!宇宙!放送チュー!」でのキャラクター「ニャンちゅう」というキャラクターは手に装着して装演する方式なので、ワンハンドパペットと呼ばれ、現場に行って「ニャンちゅう」を動かす人と同時進行でやるのが一番「ニャンちゅう」が生きている状態になるので、ニャンちゅう」の収録日だけはNHKにいって、5mの周りには人がいない状態で収録しています。   

小さいころは運動が大好きで好奇心旺盛な子でした。   中学は水泳部でしたが、陸上は借り出されていました。   100mのクロールでは大学1年の時に1分を切りました。   高校では漫画研究会に入ってまして、小さいころから漫画が大好きでした。    ショートアニメ―ションを作って発表会にだしたところ、大学生、セミプロ、声優の人たちとも知り合いになりました。   曽我部和恭さん中尾隆聖さんなどプロの声優と知り合う事が出来ました。    舞台のお芝居にも誘われるようになりました。(高校3年生)    日本大学芸術学部放送学科に入りました。  3年生の時にすでに事務所に所属していたので中退しました。  野沢那智さん主宰の劇団薔薇座に入り大変影響を受け勉強になりました。   お金にはなりませんでしたが、快感は有りました。   1990年頃から『アンパンマン』や『ちびまる子ちゃん』に出演するなど仕事が来るようになりました。    1992年にオーディションがありニャンちゅう」役が得られました。   岡部さんが人形を作って「オカベー」という名前でした。   名前の出し方をいろいろ工夫しているうちに今のニャンちゅう」の声が出来上がってしまいました。   来年でニャンちゅう」も30年になり声優としては幸せです。   

最初なんだか足が上がらないぞ、というところから始まり、転ぶようになり、変だと思って2019年4月に整形外科に行きました。  大学病院に1か月ぐらい検査入院して病名が判りました。   ALSと判ってショックはショックでしたが、ホッとしました。  病名も判りこれで方向性がっ決められるなと思いました。   病名が判らないという事は患者にとっては足踏み状態なので。    3~5年で自力呼吸が出来なくなり死に至ると書いてありました。   不安は有りましたが、どういう風に歩んでいくかは、結構早く切り替えられました。   その3年前にスキルス胃癌で弟を亡くしています。   判ってから6か月で弟は51歳で亡くなりました。   僕はALSと判ってから2年半でこうしてしゃべっていられます。    死生観、病気に対するものに対して、両親、弟も亡くしているし、自分の心の中に準備があったのかもしれません。   不安や焦りを出すよりも、そういった中で何かできたらいいなと、思いますし、弟も最後まで前向きでしたので、その影響もあります。   SNSでもいろいろ発信しています。  僕は死にたくはないです、死ぬ気もさらさらないです。   だから今の状態でどう生きようかなあという事を、周囲の人たちと楽しくさせて頂ければいいかなあと思います。   泣く時には思い切り泣きますが、どちらかと言えばそこのところから立ち上がれないよりも、さあスッキリしたぞと、さあ今できる事は何かなという風に周りの人たちと乗っていけたらいいねというのが今の現状です。僕一人のポジティブパワーだけではなくて、周りの人が支えてくださっていると多々感じるところがあります。  特に妻には。  

若い声優に対しては、「よく声優を目指してきてくれたな」と、「声優も仕事だよ」と、声優の仕事の基盤をしっかり習う方がいいと思います。  どの仕事も同じです。  声優はなかなか食べられないので、食べられるものを見つけながらでも結構いけるんじゃないかというあたりをしっかり学び、良い先輩諸氏に恵まれてゆくといいと思います。

今できる事をやるしかないんだなという事になってくるんじゃないでしょうか。    悲観、絶望とかあると思いますが、悲観、絶望のなかで出来ることは、ちょっとでもパワーに変えていって明日につながっていくんだったらいいなあという風に思います。  生きていると楽しいことが続くし、新しい何かに遭遇出来るんだなあと思う事なんじゃないかと思います。










2021年12月4日土曜日

サキタハヂメ(作曲家・のこぎり奏者)  ・笑いと泣きの音世界<前編>(初回:2021/4/3)

サキタハヂメ(作曲家・のこぎり奏者)  ・笑いと泣きの音世界<前編>(初回:2021/4/3) 

https://asuhenokotoba.blogspot.com/2021/04/blog-post_3.htmlをご覧ください。

2021年12月3日金曜日

宇多喜代子(俳人)           ・いさかいのない日々を子どもたちに残したい

 宇多喜代子(俳人)           ・いさかいのない日々を子どもたちに残したい

昭和10年山口県周南市生まれ。  俳句の雑誌「草苑」の編集長や現代俳句協会会長などを歴任するなど、現代俳句を代表する俳人の一人で多くの評伝や評論などでも俳句界をけん引してきました。  とりわけ過酷な戦場などで俳人たちがどのように戦争と向き合い、俳句を作ってきたかを克明に調べて後世に伝えようと研究を続けてきました。    又心の奥底に刻まれた幼いころの戦争体験から、子供たちには平和な日々を残してやりたいという思いが強いと言います。    俳句の魅力と共に、平和への強い思いを伺いました。

11月の立冬の日から冬になります。    障子に囲まれた部屋で冬を過ごしているので、「 亡き人の亡きこと思う障子かな」という私の句があります。  この歳になるとみんな先にあっちへ行っちゃうんですよ。   「 日短いつもふさがっている両手」 自画像です、いつも何かを持っています。   

12月は何といっても12月8日の戦争開戦の日ですね。  祖父が職業軍人でラジオがありこのニュースを聞きました。   「戦闘状態に入れり」という言葉が今でも耳に残っています。   祖父は日露戦争に行きました。  父の戦争は日中戦争、太平洋戦争、我が家は戦争を過ごしてきています。   祖母が戦地の兵隊さんはご苦労しているので、8日は梅干だけのご飯でした。    終戦後、昭和30年ぐらいまで12月8日は梅干だけでした。

八月の赤子はいまも宙を蹴る」  赤子が手足を上に向けて宙を蹴っているような形で死んでいるのを見ました。   中東戦争でのニュースでも黒焦げになった赤ちゃんが同じように亡くなっているのを見ています。  東日本大震災の時の赤ちゃんを亡くした人と話をすると手足を上に向けていたと言っていました。  手足をあげてお母さんに助けて欲しいんじゃないかと思いました。    赤ちゃんは足で蹴って話をするんです。

飛行機が100機ぐらい来て、焼夷弾がぱらぱらと落ちてきました。  我が家にも火がついて母が夏掛けの布団に水を掛けてそれを被って母と逃げていきました。   途中で亡くなっている人を見たし、1時間ぐらいの爆撃がありましたが、周南市だけで500人ぐらいの犠牲者が出ました。   燃料廠があったためやられて市街地も回ってきました。(7月27日)   火が付いたものが空から降ってきましたが、かろうじて免れました。   橋のたもとに一人残されて、母が必ず来るからと言って去っていきましたが、心細くいてその時に「永遠」という言葉を想って、俳句を作る時に用います。   親しくしていた或るお姉さんが亡くなった姿も見ました。   矢絣のモンペを着ていて、矢絣の着物を見ると体が硬直します。   母とは祖母と一緒にお風呂に入って心が癒されていったと思います。 今何があっても戦争よりはましだと思います。   

俳句との出会いは戦後で昭和27,8年でした。  遠山麦浪さんからなんでもいいから目についたものを詠んでご覧と言われて、作りました。    料理も好きで栄養士さんになりたかったので武庫川学院女子短期大学家政学科へ行きました。    旬のものを食べるといいです。  旬は食べ物だけではないです。   鱧は夏の魚です。  土地土地にお魚のおいしい時期があります。  麦わらタコは麦が黄色くなった頃のタコがおいしい。  そういった言葉の暮らしの知恵があった。   

第一句集『りらの木』  父が戦争で中国から帰ってきて、りらの花がきれいだったという話をして、そこから付けました。   2歳で出征して12歳の時に帰ってきました。

「父までの瓦礫を越えるりらの枝」  段々お父さんだと思えるようになりました。

片山桃史という人の俳句を目にして、戦地からの句が多かったんです。  30歳で戦場でなくなっています。  この人の句を集め始め『片山桃史集』を刊行しました。       「透明な紅茶軽快なるノック.」    片山桃史                   「一斉に死者が雷雨を駆け上がる」  片山桃史                      「屍らに天の喇叭が鳴りやまず」   片山桃史

段々歳を取ってきて孫が戦死したような感じになってきています。 私自身の体験があるからジッとしていられない。   たくさんの片山桃史が日本にいたと思います。  

俳句は時代のもの、今生きている人のものですね。   風景とか時代とは無縁のものがありますが、それも大事だと思います。    俳句は私の血肉ですね。  俳句をやって退屈と生憎といういう事がない。   どんなことでも好きなことがあるという事が大事です。    日本のこの国土に森と水があって言葉が変わらないで欲しいと思っています。 戦争のない日々が何物にも代えがたいです。