2019年11月30日土曜日

柳生博(俳優・日本野鳥の会名誉会長)     ・確かな未来は懐かしい風景の中にあります

柳生博(俳優・日本野鳥の会名誉会長)    ・確かな未来は懐かしい風景の中にあります
俳優・日本野鳥の会名誉会長で山梨県北部の八ヶ岳のふもとに生活の拠点を置いている。
昭和12年生まれ、茨城県の霞ケ浦のほとりで生まれ育ちました。
13歳の時、初めての一人旅で訪れたのが八ヶ岳でした。
24歳の時、今井正監督の「あれが港の灯だ」で映画デビュー。
数々のドラマや映画への出演だけでなくTV番組のナレーターや司会者としても活躍しています。
40歳を過ぎたころ柳生さんはかつて訪れた八ヶ岳のふもと北斗市大泉町に家族と生活拠点を移します。
自ら雑木林を再生し、カフェやギャラリーのあるパブリックスペースとしてオープンさせてから、今年でちょうど30年です。
82歳、今も自然に囲まれ野良仕事に精を出しています。
その暮らしの中から得た柳生さんの人生哲学をお聞きしました。

今年は紅葉が1週間遅れています。
北に八ヶ岳連峰があり1360m地点に僕の森があります。
今は高い木の枝打ちをやっています。
40年前から木を植えて1万本ぐらいになります。
まず最初の年はクマザサを6回ぐらい切って、切ってゆくうちに背丈が短くなり光が入ってきて、草花が生えるようになり虫が寄ってきて、実も付いてくるといろんな動物が来ます。
葉っぱが散ってゆくと冬は鳥が来ます。
鳥の好きな実の木を植えるとそのうち冬になると真っ赤な鳥オオマシコがロシアから来ます。
4月になるとカタクリの芽が出てきます。
孫が7人いますが、朝起こしに来て「ジイジ、カサコソしよう」と言います。
森の中を歩くとカサコソと音がして、孫たちは落ち葉の中からダンゴムシ、ミミズなどを探します。

野良仕事は野が良くなる仕事です。
日本は海、川、里、山でもこんなに沢山の種類の生き物が人間のそばにいて暮らしている国はないと思います。
40歳ぐらいの時は『いちばん星』というTV小説で野口雨情の役をやらせてもらいました。
年間700本ぐらいやっていて、つらいことがありました、
妻とも会えない、子どもとも会えないという様な時期で、ある時に小学校4年の長男が顔に血が流れていました。
父親がTVに出ていて、お前の親父は人を殺しただろうとか、不倫しただろうとかで上級生から虐めに会って頭に傷を負ったとのことだった。
このまま行ったら俺の家族は溶けていってしまうのではないかと考えました。
子どもの頃ぐじぐじしていると、おじいさんが「博、ぐじぐじしている時には野良仕事をやれ」とよく言われていました。
草刈りなどをやったりしていると、体重が軽くなっていくような感じがしました。
13歳になったら一人旅をしなさいという事を我が柳生家では言われていました。
小淵沢から高原列車が走っていて、白樺が好きで、1000mぐらいのところで、そこは小海線、八ヶ岳そこしかないと思い出かけました。
駅のベンチで寝たりして1か月旅をしました。

そのころの森は本当に素晴らしかった。
たぬきはいたし、山鳥もいたし、どうしたら友達になれるのかなあと思いました。
掘っ立て小屋で野宿していたら、ある人が風呂に入っていないんだったら来いと言われて、五右衛門ぶろに入れさせてもらいました。
腹が減ってんだろうといわれて、じゃがいもを出してもらい食べました。
建物は粗末ではあったが、本がたくさんありました。
おじいさんから教わった間伐の方法などを教えてやったり、逆にそこからいろいろなことを学びました。
孫に好かれる方法は強引に孫を連れだして野良仕事の体験をさせることは絶対大事だと思います。
クワガタいるところとか説明してやるとうちのおじいちゃんはなんて凄いんだろうと思います。

生き物だらけのところに身を置くと、子どもたちの感覚は猿や鳥や虫と一緒だと思います。
命の短さ長さとかそういうものではなくて、いい塩梅に折り合いをつけて、確かな未来
の真の髄は懐かしい風景をどれだけ小さいころからどれだけこの歳になっても持ち続けているかではないかと、一つだけ例を挙げておきます。
長男が主催してやっていた自然学校田んぼの学校があり、大都会に子ども30,40人に野良仕事の授業をしてもらって、必ず作文を書いてもらいます。
7割ぐらいはとっても懐かしかったですと書きますが、なぜか体験したこともないのにそう書くわけです。
専門の先生に聞いてみるとDNAの作用だというんです。
おじいちゃんがそう行った体験のことを伝えていかないといけないと思います。










2019年11月29日金曜日

大竹しのぶ(女優)              ・ことばの贈りもの

大竹しのぶ(女優)              ・ことばの贈りもの
大竹しのぶさんは映画で本格的にデビューした後、第一線で仕事をしながら二人の子どもを育てお母様の介護も経験されました。
どのようにして両立してきたのか、子どもと向き合う中で何を得たのか、子育ての苦労と喜びについて伺いました。

62歳になりました。
歳はあまり意識しないで生きてきました。
NHKの大河ドラマいだてんの池部幾江役にでて、もう撮り終わっています。
息子の「二千翔(にちか)」が34歳、娘の「いまる」は30歳になりました。
一年前までは母とも同居していました。
娘は近くに住んでいます。
息子と同居しています。
27歳の時に長男にちかを出産、髪の毛がふさふさで大人っぽい顔でした。
3984gありました。
穏やかな性格でした。
世界で一番この子を愛しているのは自分だと確信を持って言える相手ができたのはすごく幸せだと思いました。
おっぱいを上げる幸福感を味わいながら授乳していました。

出産後2か月後には映画の仕事をしていました。
夫が後押しをしてくれました。
夫は子どもが2歳の時にがんで亡くなってしまいました。
当時は告知はしない時代で私だけが知っていて、治ると信じていました。
時間が限られているという事が大きかったかもしれませんが圧縮された時間でした。
沢山写真を撮ってこういう父親だったという事を知ってもらいたかった。
15歳への息子へと、しのぶへという手紙を書いて2000年の朝に年賀状が届くという風に二人で書きっこしました。
2000年の1月1日に届きました。
15歳になっていて年末に旅行に行こうという話があったが、息子は珍しく反対したんです。
その手紙が来ることを楽しみにしていることを知ったんです。

明石家さんまと結婚して長女「いまる」が誕生します。
子育てに関していえば協力的でしたが、私が気を使い過ぎたところもあるかもしれませんでした。
子どもが好きなので今でも一緒に食事したりしてくれたりします。
子どもの誕生日なども一緒に集まって、子どもの友達もきて一緒に過ごした仲間がいるという事は楽しいなあと感じます。
子どもが小さい時には子どもがいかに楽しい顔をしてくれるかが親としての喜びだったので、子どもが笑顔でいられることを考えていたかもしれませんが、仕事をしていたので寂しい思いをさせてしまったかもしれません。
仕事をしながらの子育てだったので、その状況の中では必至でやってきたので、精いっぱいやってきたというしかないですね。

「スノーマン」の絵本 映画にもなりました。
寝る前は絵本はよく読んで聞かせていました。
作った雪ダルマが起きだして、一緒に楽しい時間を過ごすという絵本です。
最後は朝になって少年が起きてスノーマンのところに行ったら溶けてしまったというかなしい話ですが、きれいな絵だと思います。
息子は最期のページをに行くのが嫌がっていて、又来年会おうねと言っておしまいにしましたが、娘は全然違っていました。
両親が食卓で教えてくれたこと、生き方を見せて教えてくれたことが私を作り出しているわけで、そして私が子どもを育てていって、何かが受け継がれていっていると思うが、それぞれの人生を歩んでいけばいいと思いますが、人に対して優しくあることとか、真面目であるという事など、それは判っているとおもいます。

母は強い人だったので最後のほうまでトイレも行けたし、24時間見ていなければいけない時間が去年続いたんですが、息子と娘が入院させたらおばあちゃんではなくなるので、家にという事で、決心して最後まで在宅でという事で覚悟しました。
苦しかったし必死に生きようとしていて、励ますしかなくて励ますのですが、息子と娘の励まし方が全く違っていました。
生き切ることを最後に孫たちに見せてくれたんだと思ってよかったと思います。
いつも苦しいなかで、時々ふっと気持ちよく口にする時間があって、スープを一口飲んでくれただけで幸せになりました。
母の強さは受け継いでいると思います、決して弱くはないです。
起こるべくして起こっているとして受け止めて、受け止めながら前に進んで行くという事が、母の生き方とか父も思っているので、20代の大きな試練を潜り抜けてきた分、人間というのは強くなれると思います。
楽しく生きるという事がモットーなので、自分の時間を大事にしながら自分の為に楽しいことをやっていきたいなあと思います。



























2019年11月28日木曜日

森本千絵(アートディレクター)      ・【私のアート交遊録】夢をカタチに、人をつなげる!

森本千絵(アートディレクター)・【私のアート交遊録】夢をカタチに、人をつなげる!
森本さんは武蔵野美術大学を卒業後、大手広告代理店に入社、31歳の時にデザイン事務所「goen°」を設立します。
これまでNHKの大河ドラマや朝の連続TV小説のタイトルワークを始め大手企業の広告、映画や舞台の美術、「ミスターチルドレン」のジャケットや組曲のCMなどその活動は多岐に渡ります。
この間数々の賞にも輝いています。
映画「男はつらいよシリーズ」の最新作のキャラクターやポスターのデザインも製作、現代的で可愛らしい寅さんの通信アプリ、ラインのスタンプも製作しました。
物つくりは常にだれと向き合い、誰かに届けるための心を込めた手段だという森本さんに伺いました。

ご縁あるものはデザイナーという形で創造し発揮できるご縁あるお仕事は、初めての事でも想像つかない案件でも全部引き受けてしまうという感じです。
広告、から始まっていろいろと広がってゆき、建築家、保育士とかのプロの力を借りながら、こういうものができたらいいなあと着手してゆく形です。
出合って行くと依頼主を好きになって行ってしまって、自分事のように何とか成功させたいと夢中になって、気付くとこんな場所に来てしまったとたびたび思います。
他力本願という事があり依頼主に手伝ってもらって、いい方向に導いてゆく自信はあります。
心配性な楽天家だと思います。
常に心配はしていますが、迷ったらこっちに向かった方が明るいなと思う明るい方を選びます。
損得勘定ではなくてそうしています。
沢山失敗しますが、それが必ず次の仕事に生かされていきます。

一つの仕事がありがたいご縁で手がけさせていただいて、結果次の御依頼を頂いて有難いと思っています。
ご縁は外国語では一言では言えません。
2006,7年ごろにご縁を可視化して、ご縁を形にできるようなデザイナーになりたいと確信して会社名も「goen°」にしました。
右上の丸は温度の単位のような、次につなげるフックが欲しくて入れました。
私は人の中に自分を見てゆくので、誰かに出会うとそのなかに新しい自分を発見したり、そうするうちに少しだけ気持ちを解放してゆくと、自分の体から離れて大きくなってゆくような、物事を柔らかくとらえていけるようになってゆくので、出会う数だけ自分が増えて行く、それをSNSを通して文字を通してという事もありますが、身体を通して出あってゆくと気持ちは開放されてゆくので一歩踏み出してほしいとは思っています。
若い時には社会と自分との思いの違いにどのように対応するかとか思っていましたが、この頃は耳を傾けて、だったらどうしよう、こういこうかと一緒に向かうようになりました。
2011年の震災を経て自然の中に人間は生かされているんだなと、もっとそれぞれとつながって支えあって作っていかなければならないなと思いました。
普段競合する会社同士がつながって、大きな一つにしないと実現できなかった広告で協力させていただいた時に、こうなった方が一人でも多くの人に届く力になるとは実感しました。
子どものころからこうしたら面白いというようなことを書いたりして、そういったものを通して友達も増えていきました。
あまり喋らない存在感のない子でしたが、書くことは好きでした。
これをするとみんなが喜んでくれて私に話しかけてくれるんだと思って、そこからは演劇、手を動かして参加できるものとかには参加してその延長で中学、高校ときて、答えにできないことを絵でやる仕事はいいなあと思って、商業デザインのようなことはしたいと思いました。
「人と考えは違っても、その考えが無ければ今の世界は変わっていない」というアップルの広告に強く感銘を受けて、広告でも世界を動かしていく、世界を動かしてゆくべき人たちの心を動かす可能性があるという事を感じて、ここで何かしらやろうと思いました。
子どもたちの教育、医療、街つくりでも人が介在する限り必要なんだと実感してそれで仕事の幅も広がっていきました。
「男はつらいよ」 50作目の「お帰り寅さん」という最新作。
家族の触れ合い、ご縁、人情を大事にする世界で、日本には寅さんが必要だとより強く思いました。
サウンドオブミュージックと寅さんは大好きです。
2011年の時に落ち込んで行ったときに、寅さんのDVDを見ていったら、尊い命、家族の温かさに勇気を頂いてSNSでつぶやいていたら、寅さんの恰好をして一日館長をして、山田監督が見て劇場に現れて、しゃべり方を練習させられました。
それがご縁で付き合いあがあり、今回のお話に繋がりました。
数年後何をやっているのか見当もつかないが、この輪が広がっていって世界での仕事を増やしていきたいと思っています。
クリスマスを尊敬していて且つ嫉妬しています。
世界中でそれぞれ参加していて、頂いた仕事もそれぐらいにしたいです、うらやましいと思っていたら、二子玉川でクリスマスツリーを担当させていただくことになりました。





















2019年11月27日水曜日

山澤清(ハーブ研究所主宰)        ・【心に花を咲かせて】moreオーガニックを提唱

山澤清(ハーブ研究所主宰)   ・【心に花を咲かせて】moreオーガニックを提唱
野菜の話です。
今野菜売り場にいくと多種多彩な野菜が並んでいますが、昔から食べていた品種とは微妙に違っていて品種改良して作られたものがほとんどです。
一方、古くから日本に定着して地域の野菜として世代を超えて種を取って受け継がれてきた野菜を在来野菜と言って、消えていったものが多いとはいえ最近は生きた文化財といわれ注目され始めました。
在来野菜の種を全国から集めて種の銀行シードバンクを個人で作った方が山形県鶴岡市に居ます。
作り方もmoreオーガニックな野菜の作り方という事です。
山澤清さんは72歳、学校卒業後農業エンジニアになりましたが、31歳の時に会社を辞めて農薬も科学肥料も使わないハーブ栽培を始め、以後在来野菜の種を保存し、作り、自然化粧品も作って製造販売の資格も取っています。
最近では在来野菜の温室の隣に土遊農という野菜レストランを作って人気だという事です。
食材を地元食材にこだわって料理して今や世界的に知られる奥田政行シェフは山澤んは私の師だと著書の中に書いています。

在来野菜はもともと日本にはなくていろんなところから来て何千種類とありましたが、どんどん消えつつあります。
日本には四季があり、梅雨、秋梅雨があり、細長くて同じ時期でも北海道と九州では何か月も違う、素晴らしい食の豊かな国なんです。
大陸産のものを工夫して作りこんで来た訳です。
植物は自分で動かない分だけ自立型で全うできる。
実家は農家でした。
食べ物に興味がありました。
21歳から31歳まで農業の手伝いをしていましたが、今から50年前肥料、除草剤など画期的なものができて、大型機械ができて、労働は楽になった。
家族の畑と売る畑は違って、うちで食べるものは虫がついても構わないが、売る方は出荷するときには虫がついてはいけないという事で防虫が必要という事になり、同じ形、味を濃くなくして料理しやすいようにしてきたのがこの40年の流れになります。
一つ置いてきぼりになったのが心の寄り添いが無くなりました。

今のキュウリはなんか違う、昔のキュウリはなんでとげがあるかとうと、未熟だからまだ食わないでと、とげがあるわけです。
白くなっているが、水をはねて微生物が付かないように、すばらしい工夫で長い時間かかって進化してそうなってきたが、人間がこれは農薬と間違われるからなくそうと作って行った。
とげがあると運搬時に傷がつくという事でとげも色せんぼ?もないから人間の意図と関係なくキュウリは皮を厚くした。
キュウリは南の方から来たが、皮が黒っぽかったが、見栄えが悪いという事でそれを除いていった。
私が古い野菜を作ったらなんか違って美味いというんです。
大規模農家はそういったことはできない。
完全無農薬でmoreオーガニック。
窒素、リン酸、カリは化学肥料で作れて作物はそれを吸収するが、土は劣化する、土の中の微生物は食べるものがないわけです。
土作りをすると味が変わってくる。

味なんて表現できない、私に必要なものだと思う心がおいしさだと私は思っています。
昔は旅館と料亭をやっていて資金を借りるのにフルに利用して研究につぎ込めました。
在来種を求めてきましたが、次に引き継いでくれる人を見出すのが私の仕事だと思っています。
人を作ることは私にはできない。
奥田さんが私の師匠だと思っています。
土遊農という野菜レストランではメニューはなく、あるもので作ります。
単純に生で、煮て、焼いてとかして作るわけです。
遠くからもきて人気になっています。
F1という種は一瞬はすごくいいものは作れるが、後がなおせないというのは生物ではない。

40年間やってきて評価され始めたのが2,3年前でした。
500年前にはどんなナスを食ったのかなあと興味があるわけです。
食材そのものの気持ちになった料理しないといけないと思っています。
レストランの主役は野菜でお客さんははわき役になってもらわなあいと。
昨日のお客さんは水を入れないで野菜だけのエキスのスープを飲んで感動して涙を流したというんですが、今の世の中おかしいんじゃないかと思うぐらいですね。
お客さんの心だけを思って流通とか無視してやっています。

桑畑を作って蚕を飼うのをしています。
庄内には蚕の歴史があります。
蚕も改良して大きく、太くて長い(1500mぐらい)のものにしてきましたが、小石丸といって昔の繭の長さが500mぐらいしか取れないものを作っています。
繭をパウダーにして化粧品の製造業までもっています。(今は株式にしたが)
人間の外皮、内皮(口内とか)があり、外皮(皮膚)は常在菌で病原体が入らない、こすったりすると生物の生きている防御が無くなるわけです。
出来るだけ石鹸を使わない、垢がひとりでにはがれるようになっている。
化粧品で微生物(常在菌)を健やかに育てる、野菜と同じ考えでやっているわけです。
農薬と蚕は相反するするものです。
かなりの面積が必要で桑畑と蚕を飼うところ1平方kmには農地?があってはいけない。
蚕からパウダーを作って化粧品を作っています。(すごくいい蛋白なので)
どうしたらいい小石丸ができるか研究しています。
インドネシアから頼まれて、中国からも従来野菜のことで話が来ています。





2019年11月26日火曜日

早川基(JAXA プロジェクトマネージャ)・人生は水星探査とともに 

早川基(JAXAべピコロンボプロジェクトマネージャ)・人生は水星探査とともに
今日本とヨーロッパの2機の探査機が太陽に最も近い惑星 水星に向かっています。
水星は太陽に近く大変厳しい灼熱環境にあり、また太陽の強大な重力の影響を受けるので探査機を送ることが非常に難しい惑星です。
太陽系惑星の探査は数多く行われていますが、水星の探査は過去2回しか行われていませんでした。
この探査計画はべピコロンボプロジェクトといい、水星を多角的的総合的に観測しようと日本のJAXA宇宙航空研究開発機構と、ヨーロッパのISA欧州宇宙機関が共同で進めていて、日本側のリーダーがプロジェクトマネージャーの早川基さん(63歳)です。
早川さんは20年以上プロジェクトにかかわってきました。

紆余曲折がありましたが、昨年の10月20日に上がって順調に進んでいます。
出て行って12月ぐらいに一度地球の軌道よりも内側に入って、そのあと又来年の4月に地球に戻ってきて、フライバイをして速度をおそくして金星に向かいます。
(フライバイ:惑星間飛行を行う宇宙機が,目標の惑星に衝突したり,その惑星の衛星になったりすることなく,接近してその近傍を通過する飛行のこと。また惑星の近傍を通過するとき,その惑星の重力や運動量 (その惑星の公転運動量など) を利用し,宇宙機の速度や方向を変えることができ,その後は特定の方向に向って飛行を続行する。燃料を消費せずに軌道変更と加速ができるこのような飛行方式)
来年の10月に金星で同様に速度を遅くしてというのを繰り返して、最後は水星に向かいます。
フライバイは地球で一回、金星で二回、水星で六回行います。
水星は太陽の一番近い所を回っています。
見える時間が少ないので地上からの観測ではなかなかよくわからない。
大気が凄く厚い層で大気が揺らいでいるので望遠鏡では綺麗な像が撮れない。
人工衛星を持ってゆくしかないがそれがまた大変です。

水星は半径が2400kmです。
公転が楕円に近く、太陽との距離が5割ぐらい違い、公転の周期が88日ぐらいで、自転が57日ちょっとで3対2になっていて、不思議な現象があります。
一日が2年に相当します。
大気がなくて昼間は太陽に照らされて熱くなり、夜になると冷えてしまって(マイナス170度ぐらい)昼と夜の差が600度ぐらいあります。
火星は昔磁場があったが今はない。
金星も磁場がありません。
惑星が磁場を持つためには中心が流体になっていてそれが対流、動いていないといけない。
水星は中まで固まっているが、水星自身が固有の磁場を持っていないと変だというデータが出てきて、惑星そのものに興味を持っている人には、周回衛星を打ち上げたいという思いがありました。
べピ・コロンボ(ジュゼッペ(ベピ)・コロンボ)はイタリアの数学者、天体物理学者の名前です。(ベピはジュゼッペの愛称)
水星の自転と公転が2対3に同期をしているという事を数学的に示した方です。

欧州では1990年代に計画をしていて、日本では1997年に計画が始まりました。
1999年にISAのほうから一緒にやりませんかと声がかかりました。
日本では宇宙開発委員会に提出して認められました。
計画開始から打ちあがるまでは一番長いプロジェクトだと思います。
アメリカはメッセンジャーで一番乗りを目指しました。
実際のものを作り出すと想像以上にハードルが高くて、技術開発がいろんな面でトラブって、遅れていきました。
メッセンジャーが行って疑問をすべて解いてしまうのではないかと思いましたが、難問を一杯残してくれました。
①磁場の中心が惑星の中心にはなくて北にずれていてずれ方が非常に大きくて、どうしてそんなにずれているのかわからない。
②表面の鉱物組成を観測したがボラタイルという蒸発しやすい物質が多かった。
普通に考えたら蒸発してしまっているものと考えられるが、今の位置で水星が最初にできたとしたら、そういうものが残っていられるだろうかという疑問があります。
火星の位置で水星ができて、大きな惑星の摂動で今に位置に動いてきたのではないか、という説も出てきています。

見た目には月とよく似ていますが、水星と月の鉱物組成は全然違っています。
水星を知ろうと思ったら水星に行くしかないわけです。
MPO水星探査機は水星の表面御組成、地形などを調べて水星がどういう風にできて進化してきたのかを目的にしています。
MIO(JAXA)は水星が持っている固有地場によって太陽からのプラズマの相互作用をするのでそれによっておこる物理現象を調べます。
水星を調べることで地球のこともより分かってくる。
私は1996年の立上げ時期からプロジェクトに入っています。
初代のプロジェクトマネージャーは京都大学に転出してお前やれという事になりました。
マネージメントはしたことがなかったのでやりたくなかったが、引き受けることになりました。
太陽電池の開発には凄く苦労しました、5年ぐらいかかってしまいました。

子どもの頃は星を見るのが好きで神話とか伝説が好きでした。
望遠鏡は20cmの反射望遠鏡を中学の時に購入し土星を見て感動しました。
中学、高校はスポーツをやっていました。
理系に興味を持っていて、文化系に行こうとは全く思っていませんでした。
大学では1年の秋には地球物理の方に進みました。
プロジェクトするうえでは基本的には人の話を聞くというのを大事にしています。
いろんなかかわってくれる人たちが、自分のやりたいことをできるようにしています。
若い人たちに一番言っているのは自分の体が第一だと、絶対無理はするなと言っています。

健康維持に私は歩くことをやっています。(往復7km)
3歳ぐらいから15km歩くことをやっていたので歩くことは苦にならないです。
水星を調べることで太陽系がどうやってできてきたのか、宇宙の惑星系がどうできてきたかという事につながってきて、我々はどこからきてどこへ行くのかという、天文も似たようなところになりますが、そういうところの一部という風に思っていただけるといいなあと思いあす。
2026年ぐらいからいろんなデータが出ると思いますので判っていなかったことが判って来るように期待しています。
分離後15mの細いアンテナ4本、マストと呼ばれるもので5m2本を素早く伸展しなければいけなくて、流せる情報量が非常に少ない状態でやらなければいけなくて、一番危険な作業でいかに安全にするかという事を必死になってやっています。








2019年11月25日月曜日

11/26,27,28は休みます。

11/26,27,28は小旅行のために休みます。
後日,投稿する予定ですが、ちょっと時間が掛かるかもしれません。
秋田

頭木弘樹(文学紹介者)          ・【絶望名言】不眠症

頭木弘樹(文学紹介者)          ・【絶望名言】不眠症
不眠症についての絶望名言
「夜は生きているのが最もつらい時間で午前4時は私の秘密をすべて知っているの。」
ポピー・Z・ブライト(Poppy Z. Brite )

不眠症に対して6人を紹介。
難病になり13年間闘病している時には眠れない夜が多かったです。
ラジオ深夜便をイヤホーンで聞いていました。
ポピー・Z・ブライトはアメリカの作家です。
夜暗くしていると打ち明けてしまう事があるかもしれないし、自分自身で思いめぐらすこともあると思います。
午前4時台までは眠れないという様な人もいます、4時ごろは夜と朝の境目なのかもしれない。
夜は生きることについて考えてしまう事が多いと思います。
夜眠れない人は人生の半分は実は闇の中にあるという事をいやおうなしに感じるわけです。

「今日はひどい不眠の夜でした。 何度も寝返りを打ちながらやっと最後の2時間になって無理やり眠りに入りましたが、夢はとても夢とは言えず、眠りはなおさら眠りとは言えないありさまでした。」 フランツ・カフカ
不眠症の3つの特徴をよく表している。
①なかなか寝付けない。
②眠りが浅い。
③睡眠時間が少ない。
ぐっすり眠りたいという人は多いですね。
人間も昔はぐっすり眠るという事は危険だったと思います。
ぐっすり眠れる環境が整ってきたのは人類の歴史の中では割と最近のことだと思います。
理想の睡眠を求めすぎているところがあるのかもしれない。

「私は小学3,4年のころから不眠症にかかって、夜の二時になっても三時になっても眠れないで夜寝床の中で泣いた。・・・さまざまな眠る方法を聞いたがあまり効き目がなかったようである。
私は苦労性でいろいろなことをほじくり返して気にするものだから尚のこと眠れなかったのであろう。」 太宰治 思い出 晩年から引用

「安らかな深い眠りに恵まれる夜は年のうちに幾日もなく、不眠症や睡眠不足も40年の習わしではむしろそれが常とありまして、まともに寝入りそうな夜はかえってなにか不安を感じます。 川端康成 時雨(49歳の時の作品)
9歳の頃から不眠症という事です。

「たちまちのうちにまた不眠の夜のラッパが鳴り響くのです。」 フランツ・カフカ

「どうにもならぬことを考えていて夜が深まる。 どうにもならぬことを考えていて夜が深まる。」 住宅顕信(すみたくけんしん)
これは自由律俳句です。
夜眠れなくなるのはいろいろ思い悩んでという事が一番多いのではないか。

「人一日一夜をふるにだに。人一日一夜をふるにだに。八億四千の思いあり。」
能の求 塚(もとめづか)(観阿弥の作)より
八億四千の思いがあったらとても眠れない。

「ふと夜中に自分ではどうしようもないものについての不安で、目を開けている。」
山田太一
AにするかBにするか、選択するどうにかなる事でも悩むし、どうしようもないものについても悩む。

住宅顕信は22歳で病気になって妻とも離婚して、生まれたばかりの子どもを病室で育てながら闘病していたが、そういう中で俳句を作り始める。
281の句を残して25歳で亡くなる。
「若さとはこんな寂しい春なのか」 住宅顕信

「あなたは夜眠る、私は眠れない。 あなたの寝姿を見ていると悩ましい。
あなたの閉じた口、寝そべった大きな身体、変な形。
でも見ていると泣けてくる。 それからだしぬけにあなたは笑い出す。
眠っているのにゲラゲラ笑う。 その時あなたはどこにいるの。
本当にどこへ出かけたの。 もしかしたらほかの女と遠い遠いほかの国でその女と私のことを嗤っているの。」  ジャック・プレヴェール 「眠れないとき」
シャンソンの『枯葉』の詞や、映画『天井桟敷の人々』もこの人の作品です。

「ねむらないただ一本の樹となってあなたのワンピースに実を落とす」 笹井 宏之 
短歌 「あなた」
眠らないで大切な人を見守る、という事です。
「風。そしてあなたがねむる数万の夜へわたしはシーツをかける」 笹井 宏之 短歌
15歳から難病で寝たきりで、26歳で亡くなっている。
そんな境遇の中で透明感のある軽やかなイメージの短歌が書けるということはすごいと思います。

「夜になるとさけは川を出て街にやってくる。 フォスターレートとか、A&Wとかスマイリーレストランといった場所には近寄らないように注意はするが、でもライトアベニューの集合住宅のあたりまでにやってくるので、時々夜明け前なんかには彼らがドアノブを回したりケーブルTVの線にドスンとぶつかったりするのが聞こえる。
僕らは眠らずに連中を待ち受け、裏の窓を開けっぱなしにして、水の跳ね音が聞こえると呼んでみたりするのだが、やがてつまらない朝がやってくるのだ。」
 レイモンド・カーヴァー
「夜になるとさけは川を出て街にやってくる。」と夜に空想を楽しむ、これも豊かな生き方だと思います。
「やがてつまらない朝がやってくるのだ。」
空想は無駄なものではないと思います。

カフカは夜には二つあると言っている。
「僕の夜は二つあります。 目覚めている夜と眠れない夜です。」 フランツ・カフカ

*取り上げた文章、短歌などの文字が違っているかもしれません。























加藤澤男(元筑波大学教授 体操)     ・【スポーツ名場面の裏側で】五輪メダリストの証言(初回2018/10/14)

加藤澤男(元筑波大学教授 体操)・【スポーツ名場面の裏側で】五輪メダリストの証言
(初回2018/10/14)
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2018/10/blog-post_14.htmlを御覧ください。

2019年11月23日土曜日

為末 大(スポーツコメンテーター)    ・【舌の記憶~あの時、あの味】

為末 大(スポーツコメンテーター)    ・【舌の記憶~あの時、あの味】
為末さんは1978年広島市生まれ、41歳。
オリンピックは2000年にシドニー、アテネ、北京と出場し、世界陸上選手権では2001年、エドモントン大会、2005年ヘルシンキ大会2大会で銅メダルを獲得しました。
2012年現役を引退、以後はスポーツとテクノロジーに関するプロジェクトを行う企業の代表やスポーツを通じた国際交流など幅広く活動しています。
為末さんは現役時代から何をどのタイミングで食べるか、など食とスポーツの関係に関心を持ち実践してきました。
一方スポーツ選手の中でも読書家と知られる為末さんには多くの著書がありますが、このほど絵本を出版されました。
トップアスリート為末さんの食に対する考察とご自身の舌の記憶、出版したばかりの絵本について伺います。

絵本「生き抜くチカラ」 僕は言葉で絵は松岡さんが担当しました。
絵本のコンセプトは大人も判る本当のこと、本気のことを子どもにも伝わるようにという事でやっています。
僕にも5歳の子がいて、生きていく中でこれは知ったり考えた方がいいのではないかという事を伝える方法はないかなと思ったのですが、絵本という形で作れないかと思ったのがきっかけです。
言葉の中には「せっかくここまでやったんだからには要注意」、このまま行っても上手くいかないんじゃないかと思う時でも「せっかくここまでやったんだから」と変わられないでいることもあると思う。
これから続けるにしても今までやってきたから続けるのではなくて、今日が新しい一日で、今までやってきたことが全部なかったにしても、昨日やったことを今日もやりたいのか、という事を毎日自分に質問するのが、大事なんだと思うようになったことがきっかけになりました。

100mではスランプもあり世界ではとても差があり無理だと思って、400mハードルならば行けるのではないかと思いました。
難しい競技だと思ってしっかり技術を磨けば行けるのでは、と直感的に思いました。
オリンピックに初めて出たのが22歳で、この道を行ってよかったんだと思うようになりました。
自分がこれを続けるという事は、選べなかったもう一つの人生があるんだという事を頭の中で考えてみることも必要だと思います。

「人からの評価に自分が乗っ取られては駄目だ。」
18,9までは陸上競技を好きでやっていると思たのですが、オリンピックに出たのが22歳、初めてメダルを取ったのが23歳ですが、応援する人の数が急に増えました。
みんなの期待に応えなければと思うようになり、自分がやりたいのか、人の期待に応えたいのかというのが混じってきてしまいました。
勝たなければいけないという思いが強くなり、自分の心が苦しくなる時期があり、父親からシンプルに「やりたいようにやれ」と言われ、心が楽になったという事があります。
深刻に考えるか楽観的に考えるか、見方を転換してくれるようなことも大事です。
父親は食道がんで余命半年といわれていて、最後の頃は「やりたいようにやれ」としかいいませんでした。
会社を辞めてプロになったのも、それが一つのきっかけでした。
本が好きで、自分の人生にとってもとても大きかったです。
本が多かった家で父親が読み聞かせをしてくれて、小学校の頃には本が好きになっていました。
自分の子どもにも一日5冊ぐらい読み聞かせをしています。
子どもも言葉が好きになると思っています。

一番記憶の残っている食べ物は、2001年に世界陸上選手権エドモントン大会があり、予選、準決勝を抜けて全体の2,3番目で通過しました。
急にメダル候補になり、寿司を食べたかったが朝原さんから生ものは明日どうなるかわからないからという事で渋々うどんを食べました。
そしてメダルを取ることができました。
その風景を覚えています。
食べ物はバランスよく自分の頭でいろいろ選択する必要があると思います。
食べるべきというのは試合の前は炭水化物を少し多めに食べます、だからうどんは正解でした。
揚げ物、生ものは避けたりします。
自分の国の炭水化物をみんな食べたがります、パン、パスタ、お米、麺類など。
日本の選手は餅、お米が多いです。
心にとっていいもの、身体にとっていいものを混ざったちょうどいいものを食べます。

子どもの頃は好き嫌いがありましたが、中学生の頃本を読んで、嫌いなものも食べるようになりました。
大学では寮に入って、1週間に一回40人分を2人で作るという事があり、料理をするという事を体験しました。
それから料理はちょくちょくやるようになり、子どものお弁当を週4日毎日作るようになりました。
おにぎり3つ、ウインナーとか卵焼きとかおかず、野菜とか作ります。
現役時代もその後も食事で体重制限をするという事はなくて、自分の舌がご飯、魚、お吸い物など低カロリーのものが好きになったという事は大きいです。
2012年に現役を引退しましたが、体重はあまり変わっていないです。
一日1万1000歩ぐらい歩いています。
食べ物は普通に食べています。
現役の時には4回食べていて、量は今の3倍ぐらいは食べていたと思います。
或る人から「あなたはあなたの食べたもので出来ている」と言われたことがあり、現役の時にはそういった目線でとらえていました。
言葉も自分の発した言葉で自分が作らているようなところもあると思います。

アジアの選手たちの支援をやっていて、ブータン、ネパール、ラオス、スリランカ、カンボジアで今ちょっとずつ増えてきています。
現地に行っての指導と、年に一回日本に招いて共同合宿という事を2月にやっています。
各国の交流ができるのではないかと思ってやっています。
いつでも選手が出入りできるような常設の選手村みたいなものがあればいいと思っています。
仲間のコミュニティーができてきています。(スポーツ外交)
2020年はやりたいことが一つあって、三段跳びの織田 幹雄さんが大会後自宅を半分解放して世界中の跳躍選手を招いてお茶を飲んだりお酒を飲んだりして開いていたらしいですが、交流が生まれてその後世界にネットワークみたいな形で残って行ったという事で、こういうことに近いことが2020年にできないかと思っています。
只試合をしに来るだけではなくて、日本が縁結びになって世界にネットワークが残ればいいなと思っています。
祖母が被爆者で普段は話さなかったが、亡くなる前に原爆の話をしたり、平和とはどういう事だろうと思った時に、世界中で交流している状態、個人的に友達がいる状態というのは、戦争をするという選択がしにくくなる抑止力が働くと思うので、スポーツを通じて世界中に友達を作っておくことで多少なりとも平和、世界の安定に貢献できればいいなあと思っています。





















2019年11月22日金曜日

小田貴月(高倉健 養女)          ・【わが心の人】高倉 健

小田貴月(高倉健 養女)          ・【わが心の人】高倉 健
高倉 健さんは1931年〈昭和6年〉福岡県中間市出身です。
昭和30年ニューフェースとして映画の世界に入り、任侠映画での存在感ある演技で生きづらさを感じている男性たちの心を捉えました。
その後は「幸せの黄色いハンカチ」など人情味あふれる役で女性たちのファン層をひろげました。
海外でも高く評価されています。
平成26年11月10日亡くなられました、83歳でした。
養女の小田貴月さんは17年間高倉健さんとともに暮らして最後を看取りました。
先月高倉健さんとの日々をつづった本「高倉健その愛」を出版されました。

亡くなる2年前に「僕のことを書いてね」と或る日脈絡もなく話しました。
病気もなくまだ元気の時でした。
「判りました」と返事をしました。
自身が出演したもののインタビュー記事などが丁寧に残っていました。
まず目を通すことから始めました。
ファンの皆様が何よりも増して大切なものだったと聞かされていたので、高倉の思いをファンの皆様にお伝えする機会を頂いたと思って丁寧に目を通す事から始めました。
高倉は写真を撮られるのが苦手な人でした。
時たま撮ってくれという様な時がありました。
2014年亡くなる年の元旦ですが、戦中戦後の人なので食事を残さないというのが第一希望でしたので、食べたい分量だけ出すようにしていましたが、残したことのない人がお雑煮を残したんです。
残すことが徐々に増えたんです。
仕事が決まっていましたので念のために検査をすすめたんですが、行かないといったんです。
自分の体調が悪くなって仕事に支障をきたすことを心配して泣いて頼んだら、泣いて頼まれるんだったら行ってやると言ったんです。
4月7日に検査入院したら、そのまま入院することになりました。

一旦よくなり仕事もしましたが、悪性リンパ腫という病気で、一旦は収まるが体調次第だという事でしたが、11月に入って急に家で測った数値が今までとは全く違って急遽入院しました。
最後の最後に担当医の人が来てくださって、「高倉さんはご自分で逝けます、大丈夫です、だからそばにいてあげてください」といって・・・お別れをさせてくださいと言って・・・。(泣きながら言葉を詰まらせる。)
次に決まっていた映画のことなどを話して、映画としてみたかったなあと思いました。
担当医の先生に映画のことの話をして、担当医の先生は映画のストーリーは全部ご存じでした。

女性誌の連載がありいろいろなところに行きましたが、香港のホテルで食事をしている高倉健さんをお見掛けしました。
パーテーションを挟んでデザートを頂いていたところに高倉健さんがわざわざきてくださって、「わざわざ気を使ってくれてありがとうございました。素敵なお仕事を続けてくださいね」とスタッフとともにいたところに来て、言って去っていきました。
担当の方からスタッフ全員に名刺をくださいました。
気を使っていただきどうしたらいいんだろうと思って、いろんな思いを手紙に書いて名刺の住所に送りまして、それから文通が始まりました。
私の知る限りどんな方のお手紙にもタイムラグはありますがお返事を出していました。
当時ドラマを撮っていたその感想を書いた雑誌と自身の著書を送ってくれました。
「僕は幸せになれていない」という風なことが読みとれました。
文通が1年ぐらい続きました。
イランに取材の時にお見送りしてくださって吃驚しました。
高倉さんは以前イランへ長期ロケで行ったことがあり、状況を知っているので非常に心配だったようです。
イランでいろんなドラマがありました。
ファクシミリ、電話などで心配してくれる連絡があり、その後一緒に暮らすという事になりました。

60代の後半、こちらはまだ若かったですが、気にはなりませんでした。
人間高倉健が何を求めているのか、という事を高倉が周波数を変えながらいろんな情報を出してくれることに対して必死についていった、戸惑いをおぼえつつ本当に役に立てるか立てないのか、そこしか考えていなかったです。
公のところには一切でかけてはいませんでした。
希望としてはお化粧はしないでほしいという事だけでした。
夏に日焼け止めをぬったんですが、ジーっとみられて「おかしい」と言われました。
17年間お化粧を買ったことがなかったです。
高倉は一輪挿しが好きでした、凄く感受性が豊かでした。
魚は駄目でした。
魚介類の匂いが駄目で、肉は好きでした。
アルコールは一切飲みませんでした。

自分の主演映画は自宅では見ませんが、デビュー作「電光空手打ち」1956年の映画を一緒に家で楽しんで見ていました。
寡黙なイメージがありますが、ロケ先でのいろんなことを家ではすべて話してくれました。
「ぽっぽや」平成10年公開映画 一緒に暮らしたころの最初の映画でした。
北海道の極寒の地でのロケで大変だったようです。
どんな役にも対応できるようにしておきたいというのが高倉健だったので、家でリラックスすることと、待っている間にいかに体調をキープし続けるかという事で、ストレッチ、木刀を振る、ウオーキング、声の鍛錬などをしていました。
ハリウッド映画に出演した時には発音に関してはトレーナーの方から物凄く教えられて、メモを取って英語の早口言葉をずーっと定期的にやっていました。
貿易商になりたくて大学に入って英語だけはという思いがあったようです。

興が乗ると好きな曲をかけて、日本舞踊を踊ったりしました。
「風雪ながれ旅」(歌 北島三郎)は大好きでした。
曲をかけて途中から一緒に歌い始めて、そのあとは踊っていました。
コメディー的なものも本人の中にはとってもあって、それを映画にできたら面白かったのになあと思いました。
本も好きで5000冊ぐらいありました。
CDも沢山、車の中で聞くことが好きでした。
本も出版していて、独特の感性で、少年の目を持った、どんな人に対してもまっすぐに向き合ったと感じています。
生き方の姿勢にも宗教者に通じるようなものを感じます。
看取った私としては、全力で寿命を全うした人、そして初めて小田 剛一(本名)に戻ったと思いました。







2019年11月21日木曜日

秋山武雄(アマチュア写真家)       ・東京の下町を撮り続けて

秋山武雄(アマチュア写真家)       ・東京の下町を撮り続けて
東京浅草橋の洋食屋の御主人で今年82歳、16歳でカメラを手にしてから洋食屋の仕込みが始まる前の早朝に都内各地にでかけ、撮りためたネガは数万枚と言います。
下町の街角や庶民の日常を切り取った写真は、図らずも戦後復興、変わりゆく東京の記録となりました。
今年は8年間にわたって新聞に連載している写真をまとめた「東京懐かし写真帖」も出版しました。
秋山さんに時にフライパンをカメラに持ち替えて70年近く撮り続けた下町の情景暮らしの変遷を伺います。

3代続いている洋食屋です。
小学校のころから映像のことが好きで中学に入って、写真を好きだとアンケートに書いたら先生からよばれて、カメラの好きな先生の写真の手伝いをすることになりました。
高校に入ったが家庭の事情で父から3か月ぐらいで学校を辞めさせられてしまいました。
辞めるにあたって写真の引き延ばし機を購入することを条件にしました。
昭和28年にはカメラブームが始まり、出前の旦那衆がカメラを持つようになりました。
見よう見まねでできるようになってDPE屋さんへもっていくものを私が引き受けることになりました。
それが月に2000円ぐらいの収入になり月賦でカメラを買うことができました。(16歳)
自転車でカメラを持って写し回るようになりました。
活気のある魚河岸にはよく通いました。
左官屋、畳屋などの作業風景なども撮りました。
自転車で片道1時間半の浦安までも行きました。(漁村風景)
あさり、シジミ売りなども撮りました。
撮る時間は5分程度の短い時間でした。

日曜日もめちゃめちゃ忙しかったので写真は撮れませんでした。
当時は写真を撮るという事は道楽のように思われて、道楽息子と言われないように近所では写真は撮りませんでした。
昭和45年ぐらいから近所でもいろいろ変わってきましたが、それが撮れなくて残念でした。
いつでも撮れると思っていたが、大八車を作る作業なども撮れなかったです。
人物がどんどん変わっていきます。
これは撮っておかないと消えて行ってしまうという様なものを撮りました
30代にカメラを向けたこれは下町の人だと思われるのは60,70代の人たちでした。
下町の人のしぐさなども撮りました。
失礼のないように気を付けて撮りました。
背景をまず決めてこういう人が来たら撮ろうと決めて撮っていました。
5年越しで撮ったものもありました。(「浅草慕情」 評価されてうれしかったです。)

白黒のフィルムでずーっと撮ってきました。
記録に残そうという思いがあるので色はいらないと思っています。
今の60,70代の人たちを見ると生活に根差した「粋」というのが無くなってしまっています。
いかに取撮りこぼしの無いように撮れるかという、長くやっているとそれが一つの訓練でもあります。
自分自身に入り口から出口論という事があり、見つけたときが入り口で、もうちょっと先には出口がありこれだと撮りきれたのが出口で、10カット2分ぐらいで入り口から出口までを処理する訳です。
街のたたずまいが違ってしまっています、木造はもうほとんどないですから。
興味を持つような対象はないですね。
街が雑多だったのが、魅力的でしたが、今はきちんとしてしまっていて、モチーフが面白くなくなってきています。
外に撮りに行くことは殆ど亡くなりましたが、今写真教室を持っていて2か月に一回ぐらい表の撮影会があるので、そういう時に外に撮りに行きます。










2019年11月20日水曜日

小笠原悦子(順天堂大学女性スポーツ研究センター長)・【スポーツ明日への伝言】女性スポーツの未来を拓く

小笠原悦子(順天堂大学女性スポーツ研究センター長)・【スポーツ明日への伝言】女性小笠原さんはスポーツの未来を拓く女性スポーツを支援するNPO法人を立ち上げて、国際的な学術交流意見交換のために2006年熊本市において世界女性スポーツ会議熊本を開催、成功へと導きました。
その後も日本最初の女性スポーツの支援拠点として設置された 順天堂大学女性スポーツ研究センターの活動を通じて、女性アスリートを取り巻く環境の整備やスポーツリーダの育成などに力を注いでこられました。
平成30年度JOC日本オリンピック委員会の女性スポーツ賞も受賞されています。

完全に別世界に入りたいという時に音楽で満たされたいという感じです。
昔はスポーツは男性がするものだった。
女性がすることも見ることもできない時代だった。
長い歴史を経て第2回パリ大会1900年に初めて女性が参加するところから女性がスポーツに参加するようになった。
ルールを変えていかないと女性にはフィットしなかったのでルールをどんどん変えていった。
1988年のソウルオリンピックの時にコーチングスタッフをやらせていただいたが、女性がコーチになるという事はあまりポピュラーではなかった。
海外では当たり前にコーチになっていたが。
私は水泳でしたが、トップレベルの女性コーチはほんの一握りしかいなかったし、今でもそんなに大きくは変わっていない。
1988年の時にはコーチという名前はもらえずシャペロンという風に言われました。
名前と実践が一致していなかった。
オハイオ州立大学に留学、スポーツマネージメントという学問を学びました。
男性女性をフィフティーフィフティーにしていったプロセスを見せてもらって私のバックグラウンドになっていると思います。

1998年に世界女性スポーツ会議がアフリカであり参加しました。
2002年にカナダ、2006年にアジアで開かれるという事のアナウンスを聞いてしまって、私の次の人生が始まりました。
当時は日本がリードしない限り間違いなくアジアは進まないと思っていました。
NPO法人が作れるようになり世界女性スポーツ会議を誘致するという勝負にでました。
13名でスタートしました。
アジア女性スポーツ会議をその前にやらなければいけないという事で2001年に行うことにしました。
日本オリンピック委員会への相談、熊本市、県と組もうと思いました。
400人のボランティアなどを含め、2006年熊本市において世界女性スポーツ会議熊本を開催することができました。
参加者がそれ以上の会議はできないといったぐらい凄い会議ができたと思います。
変化への参加、市民、県民が参加していきました。
東京ではなく熊本市だからよかったんだと思います、熊本市全部が会場になって信じられませんでした。

準備の2年間熊本市に住み込んで地元の人と飲んだりして交流を深めました。
ゴルフの先生の清元 登子さん、水泳の木原 光知子(きはら みちこ)さんには特に協力を頂きました。
会議が終わってから4年間ブランクがありましたが、いいクーリングダウンになったと思います。
2010年時に文科省が女性アスリートをサポートするというプロジェクトを来年始めるという事で相談がありました。
2011年から順天堂大学に移動して、女性アスリートをサポートするための方策を考えるプロジェクトを頂きました。
関係者に声をかけて2年間でのプロジェクトを完成させました。

プロジェクトが終了後、女性スポーツ研究センターを立ち上げて実行するというチャンスが2014年に回ってきました。
課題は①身体生理的な課題、②心理社会的な課題、③組織環境的な課題、一つ一つやれるところからやってい行こうという事になりました。
①身体生理的な課題
女性アスリートの場合にはFAT(Female Athlete Triad)、あるエネルギーが保たれていれば、生理がコンスタントに来ますが、十分な骨密度が保たれて疲労骨折を起こさないが、エネルギーが不足するとそういったことに支障をきたすことが判っていました。
そのための教育、起きてしまった人々に対していろんな方々がチームを作ってアスリートをサポートすることが重要ですが、なかなか知らされていない。
アスリート自身がこのことをきちんとマネージメントできないといけない。
教育的プログラムをやっています。

②心理社会的な課題
女性の指導者があまりにも少ない。
コーチ、トレーナー、役員など。
女性リーダーコーチアカデミーをスタートしました。
女性リーダーコーチの養成。
コーチングとは何なのかとか、指導者的立場にたつということはどんな状況に置かれているのかという様なことを学ぶという事がまず一つです。
自分の事を理解してゆく。
リーダーというのは全員がリーダーになれるというとことからスタートします。
このプログラムはオーストラリアのアスリートアセスメント社が開発したものですが、我々が日本語にしたものです。

③組織環境的な課題
指導者の問題。
指導者を育てることを含む。
どうやって女性を増やせるかという事になるがなかなかこれが変わらない。
IOCが2000年末までにさいていでも10%、2005年が20%、日本政府は2020年に30%という女性の役員の目標を掲げているが、今は10%ぐらいですかね、非常に後れを取っていると思います。
どうしても男性中心のカルチャになって行ってしまう。
LGBTの事もどう配慮しないといけないかとかありますが全然できていないが、世界では結構センシティブにやっています。
アメリカのラピノー選手は女子のサッカーワールドカップで優勝した後にスピーチをしましたが、彼女のスピーチは凄いスピーチでした。
LGBTの問題とか、男性と女性がそれだけの成果を現したのなら同じ給与も払ってもらう必要があるのではないかと訴えました。
みんなのいろんな思いを背負って私たちアメリカのチーム全員が戦ったから勝てるんですという様な言い方をしました。
こういうスピーチは今までなかったです。
どんどん女性の地位が上がったことで彼女がそういうような表現をすることに対してみんなが拒まないという様な時代になりました。
受け入れる側も門戸を広げてほしいと思います。




















2019年11月19日火曜日

めぐみ(芸者・置屋女将)         ・八王子の花街復活

めぐみ(芸者・置屋女将)         ・八王子の花街復活
東京八王子市の生まれ、22歳で芸者になりました。
芸事は好きだったようですが、三味線や日本舞踊のの稽古でようやく自分の居場所を見つけたといいます。
めぐみさんは身に付けた芸をたくさんの人に見てもらいたいと、お座敷にとどまらず八王子祭りに参加して町内会の仲間を増やしたり、芸者募集のポスターを街角に貼るなど斬新な手法で支援の輪を広げました。
八王子市も織物業で栄えた当時の花街を復活させようと動き出し、石畳や黒塀の復活に取り組みました。
めぐみさんは数年前に放送されNHKBSドラマに出演され、八王子の花街の知名度は一段と高まりました。
新しい観光資源として八王子の花街復活の活動をする芸者で、置き屋の女将めぐみさんに伺いました。

弓張提灯、芸者衆の名前が入った提灯です。
建物は築75年になり、置き屋として使っています。
三味線、歌、お茶のお稽古などもできます。
お化粧の部屋、着替え、住み込みの方の部屋もあります。
昔の建築の名残が残っています。
今は9名の芸者がいます。
八王子全部では19人になります。
置き屋は7軒になります。
昨日も昼間に15,6人の女子会があり芸者さん3人呼んでいただきました。
お座敷体験とか増えたような気がします。

会社員でしたが、和風のことに憧れがあり、料理屋さんのお運びのパートを始めて、芸者さんの置き屋のお母さんが仕事で来ていてその時に声をかけられたたのが初めです。
何回か声をかけられて飛び込んでしまいました。
芸者さんになってからお稽古事をして毎日新しい発見がありました。
22歳ではいりました。
当時は若い芸者さんは一人もいませんでした。
周りからいろいろ応援していただきお客さんに育てていただきました。
三味線、日本舞踊は基本的なことと思います。
書道、お花、お茶、歴史の勉強、人とのコミュニケーションの勉強もしました。
ニュースとか最新のものは読むようにしていますが、お客さんがお話をすることは私たちの知ることのないこともいろいろあるので伺う事も特権になっていると思います。
芸者さんとしては専門的な何かがあったとしても、ひけらかすのではなくて上手に相槌を打てるように、お客様が会話が楽しくしていただけるような間を取り持てるような空気を作れれば良いなあと思っています。

まだまだやってみたい事が沢山あります。
身に付けた芸をたくさんの人に見てもらいたいとお座敷にとどまらず、街の中に持ち出すことになりました、
町会の皆さんと相談しながら、お祭りなどにも参加しています。
花街が縮小していく中で何とかしたいという思いと、芸者さんのことをもっと知ってもらえるのではないかと思いました。
大きなきっかけになったのは夏祭りの宵宮の屋台に芸者さんが乗って三味線、歌を披露したことでした。
最初は本当の手作りでいろいろ失敗談もありました。
知恵を出し合っていろんなことを改善して今まで来ました。
「黒塀に親しむ会」という後援会を作っていただきいろいろな芸者衆の催し、置き屋を出させていただくときの応援とか大変お世話になっています。
小学校の女性の校長先生がいろんな職業の人を呼んで、公開授業をしていてその一環で芸者さんを知ってもらいたいと相談が来ました。
4年生を対象に行いましたが、とっても楽しかったです。
3年間連続で呼んでいただきました。
病院の院長さんが自分でピアノを弾いていて、正月に芸者さんを呼んで「ロビーコンサート」をやろうという事になり15年続けています。

2011年東日本大震災の時に釜石の最後の芸者さんと言われた艶子さんが被災されて大事な三味線等となくしてしまって、駆けつけました。
中学校の体育館に避難されていて4月の最後に伺いました。
芸能も一流の方でいろんな方に教えていたそうです。
避難所で釜石の歌を私に教えてくださったんです。
周りの方も手拍子をしていただきました。
何か月に一度伺って踊りと歌を習いました。
当時84歳で今は亡くなってしまいました。
「これは仏の縁ね」、といっていろんなことを教えていただきました。
このことがドイツの映画監督の目に留まって映画化されて、出演することになりました。
市役所をまきこんで、応援団がひろがってきて、黒塀通り、石畳みにつながっていきました。
古い歴史のある街だからこその魅力が伝わっていけるように楽しみにしています。
地元の人たちといろいろの芸を楽しんでいきたいとも思っています。
見番も60年ぶりに復活しました。
八王子だから続けてこれたと思うし感謝の言葉しかないです。












2019年11月18日月曜日

辻本好美(尺八奏者)           ・【にっぽんの音】

辻本好美(尺八奏者)           ・【にっぽんの音】
進行役 能楽師狂言方 大藏基誠
海外向けに放送されているNHKワールドの番組でマイケル・ジャクソンのヒット曲「Smooth Criminal」演奏して、インターネットで世界的に有名になる。
*「Smooth Criminal」 バンブーフルートオーケストラ(女性尺八奏者5人組の音楽グループ)の演奏。
日本らしさが前面に出ている。
色んなところに配信できるので、いいツールだと思っています。
バンブーフルート=尺八
三味線を弾いていたのは小山豊さんです。
洋楽を尺八で演奏することで、タンギング’(管楽器の演奏における舌による奏法の総称 管楽器奏法の最も基本的なものの一つ。)で音を短くする奏法は古典ではないですし、「Smooth Criminal」に関していえば最初のところをタンギングにしましたが、いろいろ考えたりするのが新しい発見になったりします。
シングルタンギング、ダブルタンギングなどいろいろな技法があります。

*「Scatman」 バンブーフルートオーケストラとジャズトリオとのコラボレーション
 ドラム、ピアノなどの西洋楽器も入っています。

海外では楽器は言葉がいらないので、楽器を介してのコミュニケーションができます。
尺八の音色は生命感を感じます。
「間」というものは素敵な部分だと思います。
尺八の音色は性格が出てくると思います。
優しい音色とか癖のある音色とか感じます。
尺八演奏で山口五郎先生(人間国宝)は本当に素晴らしかったらしくて、いろんな方から言われていて、亡くなってしまわれましたが、一度でいいから生演奏を聴いてみたかったです。

*「巣鶴鈴慕(そうかくれいぼ)」  奏者 山口五郎
 雛鶴の誕生から親鳥の愛情,子鶴の巣立ちを経て親鳥の死にいたる一連の物語を共通の
 曲想としている。

尺八を始めたきっかけは完全に父親(尺八奏者・辻本公平)の影響です。
朝から晩まで尺八を吹いているような父親でした。
本業は整骨院をやっていますが。
小さいころから尺八があるのが当たり前な環境の中で尺八の道に進んできました。
音を出すのは気が付かないうちにやっていました。(小学校低学年)
父の演奏会の時に一緒にやったことがありましたが、親子でやる居心地の悪さを感じたことがありました。
高校生の時に邦楽部に入って尺八を吹いてゆく中で、進路を芸大に決めて、今の自分があるのかなあと思います。
自分に合った尺八であれば安くても高くてもいいというのがあります。

*「Wake me up」 バンブーフルートオーケストラ
 初めてのCD「尺八」で一番最初にアレンジとしてあがってきた曲。

絹ずれの音が日本の音という風に感じました。
ステージに向かう時に歩いているときに着物の音を感じ凛とした気持ちになります。





2019年11月17日日曜日

後藤加寿子(料理研究家)          ・【"美味しい"仕事人】和食の心を子どもたちに

後藤加寿子(料理研究家)      ・【"美味しい"仕事人】和食の心を子どもたちに
和食がユネスコ世界無形文化遺産に登録されたのが平成25年12月、これを受けて一般社団法人和食文化国民会議が発足して和食文化を次世代に継承していこうと活動しています。
活動の中心は和食の出前授業、11月の24日和食の日を中心に全国の小学校を対象に和食に関する授業を行ています。
その陣頭指揮を執るのが、料理研究家で和食会議の副会長の後藤加寿子さん(71歳)です。
後藤加寿子さんは京都出身で茶道、武者小路千家13世家元の長女として生まれ、懐石料理の第一人者だった母の薫陶を受けました。
そもそも和食とは何かを再確認しながら次世代を担う子供たちに、和食とその文化を継承してもらう意味について伺います。

和食がユネスコ世界無形文化遺産に登録されたのが平成25年12月4日でした。
和食会議は学者さんばっかりで右往左往しています。
日本料理は大きく分けて二つあり、料亭さんなどのお店の料理と家庭で毎日作る料理だと思います。
今その敷居が区別が無くなってきて、普段の日本の和食が作れなくなってしまったというか、お手本になるのが料亭の料理のような気がします。
昔は煮干し、鰹節をそのまま入れて野菜もそのままコトコト煮ていました。
プロの味と家庭の味は全く違うものだと思います。
日本の地形により野菜も魚もおいしい。
森を守ってこそおいしい魚が獲れるという事で山に大漁旗を立てています。
日本食は栄養的にもバランスがいいと世界的にも言われています。
ご飯おかず、ご飯お汁という風に交互に食べる食べ方も、これをご存じの方も非常に少ないです。(口中調味)
これも気になります。

日本人はもともと自然を大切にしますし、信仰も自然信仰という山を神様にという様な考え方で、その時に出来たものを頂くという、旬なものを頂くことが、科学的に分析しても一番おいしい時であり栄養価も一番高い。
旬なものは安いという事もあります。
年中行事で、おせち料理などいろいろ国の文化がありました。
お祭りでおさがりを頂くという事を何とか取り戻しましょうというのも和食会議の目的の
一つでもあります。
只胃袋を満たすというのではなくて文化でもあると思っています。
和食がユネスコ世界無形文化遺産に登録されましたが、日本の食文化を次世代に伝えているという姿、それが無くなりかけているから伝えてくださいねという事だと思います。
私は関西ですが、晴れの日にはちらしずし、お赤飯が必ず出てきていたなと思います。
いろいろ伝えたいと思ってやってきましたが駄目で、今は給食に頼るしかないというのが現状です。
京都などは熱心にやってくださったりします。

お茶も急須が無い家が多くなり、ペットボトルでお茶を飲んでいたりします。
小さいころに本物の味を覚えていると忘れないです、だから子どもたちに教えることは大切です。
フランスは食は文化なりとはっきり言っている国なので、30年前ぐらいから三ツ星シェフが小学校に教えに行っていて、そこで日本の旨味が5つ目の味に加わりました。
しょっぱい、甘い、酸っぱい、苦いの4つにプラス旨味が加わりました。
昨年度は全国で8000校、生徒数でいうと204万人にだしの旨味を飲んでもらって体験をしてもらっています。
食器は合成樹脂が多いです。
口を食器に近づけるとかして、和食の食べ方が伝わらないです。
箸を持てない人がいますが、本来家庭で教えておくものですが、そうすると鉛筆はスッと持てます。
日本は水がいいので、だから良い出汁が取れるわけです。
味噌、醤油、いろいろな出汁などなど手間暇かけて作ってくださっています。

茶道、武者小路千家13世家元の長女として生まれました。
食べる話題が多かったです。
母は懐石料理の第一人者として活躍していました。
調理法はシンプルで旬のものを焼いたり煮て食べるとか、手間暇かけずにやっていました。
塩、醤油など調味料はちょっと入れて素材の味をぐっと引き立てる。
ハーブ 山椒、柚子は一年中使います。
母はよく自然に任せて生きるのが楽だと言っていました。
難しいことにぶち当たったときに、あまり無理をしてはいけない、大きな流れに沿うように自己修正するという様に言っていました。
世の中とつながりを持っていたら人生が楽しいとも言っていました。
和食文化国民会議としては日本の小学校和食の日に日本料理が出たらどんなにいいだろうと思っています。






















2019年11月16日土曜日

山中伸弥(京都大学 iPS細胞研究所所長)  ・研究の原点、人生のモットー

山中伸弥(京都大学 iPS細胞研究所所長)  ・研究の原点、人生のモットー
ノーベル医学・生理学賞 受賞者
人間の体のほとんどの組織や臓器の細胞になることができるiPS細胞の作成に成功して2012年ノーベル医学生理学賞を受賞した山中伸弥さん(57歳)。
山中さんは大阪で生まれ神戸大学の医学部に進学し整形外科医を目指しましたが、やがて研究で患者を救いたいと考えるようになり,研究者としての道を歩みます。
アメリカへの留学も経験しました。
iPS細胞は新たに臓器や神経の細胞を作って移植することで病気を治す再生医療や新たな薬の開発に役立つと期待されています。
iPS細胞が実際にどこまで治療への応用に近づいているのか、又そもそもiPS細胞の作製に成功するまでの道のり、山中さんの人生の大きな転機となったアメリカで出会ったモットーとなる言葉について伺いました。

再生医療は登山でいうと5合目ぐらいという感覚を持っています。
基礎研究の成果を患者さんのところに届けるのには20、30年かかります。
臨床試験では効果、安全性を検証しましたが、ようやく実際の人間の患者さんに協力していただいて、効果、安全性を慎重におこなう必要がありますが、その入り口に来ました。
これからの方がより大切で大変になります。
登頂するには臨床医、製薬医療、企業であったりするのでどこかでバトンタッチする必要があります。
まだバトンを渡せるところまでは来ていません。
患者さんご家族には希望は持ってもらいたいのですが、過度な期待を与えてしまうと患者さんなどを苦しめることにもなりかねないので、正しく伝えるという事はできるだけ心がけています。

生まれは大阪市で、直ぐに東大阪市に移転して小学校3年生までいました。
父母が小さな町工場(ミシンの部品を作る会社)を経営していて周りは機械だらけでした。
時計、ラジオなどを分解して元に戻せなくてよく怒られました。
祖父、父が技術者だったので、技術者としての血の流れはあったと思います。
父がけがをして輸血をしましたが、輸血が原因で肝臓の病気になってしまいました。
治療法もなく悪くなっていって、それを見ている間に医学への興味が生まれたのも一つの理由でした。
やすりの一部が足の骨に刺さってしまい、骨髄まで入っていて金属片を取り出すのに大変で分からなくて、取り出せなくて沢山出血してしまい輸血をしました。
当時は原因もわからず、治療法もありませんでした。
1987年に医学部を卒業しましたが、翌年には父が亡くなりました。
その翌年に原因のウイルスが見つかり、C型肝炎と言われるものでした。
治療法の開発が始まって数年前にアメリカで特効薬ができました。
それを飲みさえすれば父も助かったと思います。

神戸大学を卒業して通常は神戸大学の附属病院等に行くのですが、父親のそばで何かできないものかと大阪の父親の近くに勤務しましたが、翌年亡くなってしまいました。
対処療法しかできなかったので、父親を含めた患者さんに研修医の2年間でたくさんの方に接しました。
それが大きかったです。
ある女性は最初診たときには元気だったのが半年で寝たきりになって点滴をするだけとか、高校生の男性が骨肉腫になり両足を切断しなければいけなくなり、抗がん剤の投与で一回分小さなガラスのアンプルを50分ぐらいかけて看護師さんとやっていて、そういう事しかできないという無力観を感じました。
今の手術方法とか薬が無いことにはどうすることもできない、そこを乗り越えようとするには医学研究で、もう一度大学に入りなおして研究者の指導を受けてアメリカにも行ってトレーニングを続けました。
臨床医は教科書に書いてあることをきちっと守り、上の先生に指導してもらったことをその通りにやる、違う事をすると怒られたりしますが、研究は逆で何でも好きにしろという事でびっくりしました。
何をしたいか自分で考えろと言われました。
自分ではまっさらなところに自分で道を切り開く方があっていると感じました。

最初は薬理学という薬の研究をする教室に入りました。
数か月して動物実験をするようになりましたが、予想と正反対の結果が出てしまいました。
血圧をあげる薬が逆に下がってしまいました。
それが或る意味わくわくしました。
アメリカに行こうと思って片っ端から応募しましたがいい返事をもらえなくて、唯一サンフランシスコのグラッドストーン研究所(心臓、血管などの研究)へ留学することになりました。
動脈硬化にかかわっていると思われる遺伝子の研究を始めました。
遺伝子工学の研究が始まったころでした。
研究では動脈硬化よりもがんにかかわってるという事が判り、予想外の結果でした。
予想外の結果からがんの研究を始めました。
がんの研究をしていると別の新しい遺伝子を見つけて、新しい遺伝子の研究を進めてゆくとがんよりも幹細胞が大事だという事で幹細胞の研究を始めました。

父親のような人達の病気を治したいと必要に駆られて研究を始めましたが、予想外の実験結果が何度もあり、偶然の結果に引きずられて今にたどり着いたので、「必要は発明の母」といわれますが、「偶然は発明の父」と僕はよく言います。
意外な展開、それを楽しめる醍醐味の一つでもあります。
アメリカで人生に大きな影響を与えることになる「ビジョン&ワークハード」という言葉に出会ったことでした。
毎月アメリカに来ます。
京都では研究所全体を見ていますが、こちらでは一研究者として仕事をしています。
若い研究者が4,5人いて実験していて彼らとディスカッションしています。
日本では寄付を集める運動とか、組織の運営とかが中心ですから全く違う仕事をしています。
今も名誉所長をやっているロバート・マーレー先生、当時は所長をされていて、「ビジョン&ワークハード」というモットー、(しっかりした目標をもってそれに向かってぶれずに努力する)いまだに心の支えになっています。
日本人は「ワークハード」が得意だと思いますが、ついつい何のために一生懸命働いているのかという事を忘れてしまう事が多いと思うので、しっかりしたビジョンは非常に大切だと思います。

将来は研究をやる事によって今は直せない病気とかを治したいと思って研究者になってそれがビジョンでしたが、留学してきて毎日研究に追われていると根本的なことをわすれてしまって、マーレー先生と話している中で、自分のビジョンを思い出しました。
最近は具体化してきてiPS細胞というツールを手に入れることができましたので、iPS細胞を一日も早く患者さんに届けるというのが、僕のビジョンでありiPS研究所全員のビジョンでもあります。
臨床医から研究分野に変わりましたが、研究という仕事を通して医学に貢献したいという気持ちは強くあります。
一回しかない人生の或る時間を使うわけなので、その人なりの長期目標があると思いますが、僕の場合は研究という仕事を通して医学に貢献したいというのがビジョンです。
特に若い方にはそういったビジョンを見つけてほしいと思います。
自分が本当に何をしたいのか、夢中になれることを探すことが、すごく大切だと思います。
それには色んな事をやってみないと判らないと思います。














































2019年11月15日金曜日

澤登翠(活動写真弁士)           ・今、語りたい無声映画の力

澤登翠(活動写真弁士)          ・今、語りたい無声映画の力
東京生まれの澤登さんは1972年に無声映画に出会ってから46年間、活動写真弁士の道を歩み続けています。
澤登さんは来月公開が予定されている周防正行監督の映画「活弁」に弁士の監修として参加しました。
音声がない古い映画には力がある、と話す澤登さんに伺いました。

周防正行監督には以前から私たちの会でお世話いただいていて、「活弁」という弁士の主役の映画という事で心強く思っていました。
恩師の松田春翠先生が設立しまして、60年も経つ会です。
春水先生が集めた国内外のフィルムを月に一回無声映画の鑑賞会を都内で行っています。
周防監督は物腰が柔らかくて、若いころから映画館に通って弁士に注目してくれてありがたいです。
今は弁士を知らない人がいます。
100年近く前に人間こんなことを考えていたんだ、こう喜怒哀楽を表現できていたのかという発見と驚きです。
毎回発見があります。
スターも素敵です。
坂東妻三郎、ドルフ・バレンチノ、長谷川一夫、田中絹代、入江たか子、大河内伝次郎、チャップリン、ロイド、キートン百花繚乱のスターがいて、熱狂的なファンがいて、とても素敵です。
弁士の魅力も大きかったと思います。
言葉の美しさもありました。

1972年に無声映画鑑賞会に行き松田春翠先生の語る「滝の白糸」を見ました。
すっかり感動して弁士の世界に憧れて弁士の世界に行きました。
松田春翠先生の弟子にしていただいて有難く思っています。
両親は応援してくれました。
先生は少年弁士として戦前にデビューされて、戦後になって貴重なフィルムを集めて6000巻ぐらい集めて、無声映画の上映形態を復元しました。
外国から入って来た無声映画時代の30、40年間は弁士が活動していました。
一番多い時には7千数百人いましたが、今は10数人です。
始めた当初は再生装置がなかったので、観て頭の中に記憶して書いていって、語って、台本を作っていきました。
難しいのは喜劇です、タイミングがずれても駄目だし、説明しても駄目だし難しい。

ベルギーに行ったときに「滝の白糸」を語らせてもらいましたが、日本語で語り英語の字幕がついているが、終わってもお客さんが帰らないで、急遽質疑応答の時間を設けて、日本語がわかる大学の先生がいて、先生を介していろいろ質問がありました。
楽屋から外に出たが興奮冷めやらずまだいらっしゃいました。
胸に焼き付いています。
失敗は、最初のころ北海道に行ったときに機械の故障で緞帳が上がらなくなった時に、お客さんが退屈しないようにお話していなさいと言われたが30秒ぐらいで帰ってきてしまって先生からすごく怒られました。
若いころ気付かなかったことが一杯気付くことがあります。

*「瞼の母」の場面を語ってもらう。
1931年の時代劇 原作 長谷川伸 主演 片岡千恵蔵
ナレーション、忠太郎、お母さんなどを演じ分ける。
映画の心情を思いやっているうちに、自分なりにその人の性格表現を編み出しました。
小唄、義太夫を習いました。
腹式呼吸、音読、歌を歌うなども声の訓練にはいいと思います。
TVの音を消して自分でやる事も楽しいです。
無声映画を初めてみた人はエッと思う方が多いです。
今に通じるテーマを最大限に表現していて、凄いなあと思いますとか、何とも言えない暖かさなどを感じます、という感想を聞きます。
映画に生きる人たちのその姿に人間の基本的な在り方、喜怒哀楽、奥底にある情動を100年前の映画に発見するという事、そういったことに無声映画の力を感じます。
私たちが直面しているいろいろな問題をすでに100年前の映画で取り入れられていたことにまず驚きがあり、物凄く数多くつくられていて、多ジャンルにまたがり、琴線に触れます。
無声映画を皆さんに知っていただきたいというのが願いです。
夢としては無声映画常設館があるといいと思います。
自分で無声映画を作りたいという思いもあります。



























2019年11月14日木曜日

内山雅代(駄菓子屋13代当主)       ・雑司ヶ谷鬼子母神の駄菓子屋238年

内山雅代(駄菓子屋13代当主)       ・雑司ヶ谷鬼子母神の駄菓子屋238年
池袋サンシャインから歩いて15分、静かなたたずまいのケヤキ並木の奥に雑司ヶ谷鬼子母神堂があります。
境内の一角に一軒の駄菓子屋があります。
ずらりと並んだ瓶や平台にはばら売りの駄菓子が詰まっています。
色とりどりのセロハンにくるまれたポン菓子、糸で釣る糸引き飴、ノシイカ、のし鱈の串のばら売り。
この店の主、内山雅代さん(79歳)は1781年の創業以来238年続くこの店の13代当主です。
内山さんは小学生のころから祖母と叔母がやっていた店を手伝うようになり、以来70年雑司ヶ谷鬼子母神境内のこの店を守り続けてきました。
店は明治大正と時代の荒波を潜り抜け、昭和の戦火に耐え、江戸の気配を今に伝えているといいます。
お菓子の値札をつけていないので買う時には一つ一つこれいくらと声をかけます。
内山さんは小気味よいテンポでお客さんとおしゃべりを楽しみながら商いをしています。
戦中戦後を生き抜き、平成、令和の時代へと雑司ヶ谷鬼子母神境内の駄菓子屋の店先から内山さんは子どもたちの移り行く姿を見守り続けてきました。
内山さんが238年の歳月を越えて店から受け継ぎ今も守り続けているのは何なのか、伺いました。

ここは関東大震災、東京大空襲から免れているのでこうやって続けられています。
1781年の創業、将軍が10代、11代の家斉、家治の時代だそうです。
ここはもともと加賀百万石の自昌院さんがお建てになっています。(1664年)
本堂は335年になります、国の文化財にも指定されました。
この店を建てたのが明治以前です。
段飾りが低くなっていて昔は膝をついて商いをしていたようです。(お大名だけかもしれませんが)
有名な飴もの屋でしたが、材料が手に入らなくなって現在は駄菓子屋になっています。
10歳ごろから学校から帰ってくるとお店番をしていました。
お菓子は100種類ぐらいありますが、砂糖菓子、お米菓子などです。
昔は30、40種類でした。
きなこ飴は素朴な味です。
外国の人はきなこ飴、おふ菓子、イカ系も買ってくださいます。
糸引き飴も人気があります。
イカとサンマはとれなくなって高くなりました。

若いころは継ぐのは嫌でしたが、覚悟はありました。
母が亡くなって子どもも独立して、一人でやってきました。
鬼子母神は鬼ですが、お釈迦様から諭されて角の無い子育ての神様として祀られています。
お宮参り、七五三、成人式などできます。
子どもが育って、きてくれるのが嬉しいです。
70年以上店構え、並べ方も変わっていないです。
よく店はこんなに小さ家だったっけと言います。
昭和15年生まれ、戦争の記憶があります。
終戦が5歳の時でした。
或る家が翌日には無くなっていたことは記憶に残っています。

その後の食料難があり、お腹がすいて立って歩けない状態で、毎日さつまいもで1,2日食べられない時もありました。
段々食べられる様になり10歳で養女に入りました。
養母は私の祖母の妹です。
70年近くいて母を看取って、今は一人でここで頑張っています。
昭和23,4年には徐々に品ぞろいが出来始めました。
祖母と一緒に大きな風呂敷をもって仕入れをし私がしょって帰って来ました。
昭和30年から45年頃が一番繁盛しました。
オリンピックは24歳の時でした。
今は午前中は外国人の方が多いぐらいです。

実家が川崎で店で仕事をするのが嫌で川崎に逃げたこともありますが、説得されて戻されました。
今は店に携わっていてよかったなと思っています。
この境内は江戸時代と全く変わっていません。
ここに来ると落ち着くといいます。
養母は代々やってきて12代として責任感があったゆえ、後継ぎはないといけないとよく言っていました。
結婚して子供を実家に預けてこの店に通いました。
雨の日以外は店を開けています。
昔風の家なので雨の日は家の構造上店を開くことは難しいです。
14代目がいますが、受け継いでくれると思っています。
店は生きがいですし、勉強の場でもあり、遠方から来る人もいて、いろいろい付き合いをしています。













2019年11月13日水曜日

白井操(料理研究家)           ・兵庫の酒造りの情熱を伝えたい

白井操(料理研究家)           ・兵庫の酒造りの情熱を伝えたい
白井さんは関西を中心に活躍している料理研究家。
TV、ラジオの料理番組に出演したり、ご自身のクッキングスタジオで教えたりと忙しい日々を過ごされています。
白井さんは日本酒について特に詳しいという訳ではなかったんですが、震災をきっかけに山田錦をつくっている人に出会い、酒の奥深さを知りました。
酒米の最高峰といわれる兵庫県の山田錦に特化して、日本酒を調べ実際に酒蔵を取材し、インタビューをして「兵庫の酒がつなぐ30の物語」という一冊の本にまとめました。

料理のレシピ、番組とか本をつくったりしていますが、レシピを考えることはわくわくします。
企業のお仕事が多いです。
NHKの今日の料理で「お父さんの台所塾」を2005年から2007年に渡って担当しました。
昔は台所に入らないような教育がありましたが、段々長生きをしてきて、家族が倒れたときにちょっと楽しく料理ができたらという事が「お父さんの台所塾」のモットーでした。
長いも、ジャガイモなどを簡単にできる方法を紹介したりもしました。
温かいものを家の人に食べさせてあげるだけで料理ができるかもしれないと思うわけです。
料理を通してちょっとしたことで会話が生まれるというのも、病気になっても仲良くできるという事かなというのが番組のコンセプトかなと思います。

「兵庫の酒がつなぐ30の物語」は3年ぐらいかかって出版しました。
阪神淡路大震災の20年後に、ある方がおむすびを1日6000個も作って配ったという話を聞きました。
その方のご主人が山田錦という酒米をつくってるという事を聞いてお会いして日本酒の奥の深さを知りました。
地域に役に立つ本をつくりたいと思ってお酒の本をつくりました。
山田錦を作るのは難しいのですが、農家の方たちの熱い思いに感動しました。
山田錦の特性を維持してゆくという事はずーっと一人の方が(それにかかわる人はいますが)原々種の種を約500本ずつ田んぼで栽培して、収穫したものを1本1本手作業で確かめて、次の年の原々種となる1本を選ぶんです。(一種送伝)
今回の本はいろんな蔵のオーナーさんにインタビューしたり、問屋さん、料理屋さんとかの人柄を伝えつつ本を作っていこうと思いました。
兵庫県は酒蔵が71ぐらいいありますが、今回は30蔵という事になりました。

山陽盃酒造という酒蔵に行ったら当日が火事になっていました。
辛くて一緒に泣きました。
再度取材に行きました。
お酒を造る家でこの場所が燃えたらもうできなかったというところまで10mちょっと離れていて無傷でした。
お見舞いのお菓子を送ったが、のし紙に「みんな応援しているよ」と書いて応援しました。
山名酒造の山名さんが言うにはお坊ちゃんでピアノを習っていたりしたら虐められて、おばあちゃんのところに逃げていたが、何年かたって父親の苦労を思い出して作ったが、当時荒れていてあまりうれなくなっていたが、南部杜氏を探して何年か苦労して「木札」というのを作って、物凄く売れて、これからという時に南部杜氏の高橋さんという方が雪の中で倒れてなくなってしまったりして、涙なくして語れません。

日本酒の良さもようやく判ってきました、飲めたら楽しいですね。
高い酒はそれなり理由があることも判りました。
旨味浸け、魚に塩と酒を振りかけておいて密封袋にだし昆布を加えて入れておくと、昆布締めのようになって、料理も楽しくなります。
お酒は奥行き、幅とか料理がおいしくなります。
自費出版しましたので、蔵元に置いてもらったりインターネットで販売したりしています。
普通の料理の本よりもメッセージが熱いです、心がつながったと思います。
小学校の終わりごろ母がぎっくり腰になって、ご飯を作ったのが最初でそれから料理が好きになりました。
いつの間にか40年が経ってしまいました。
タンパク質とか野菜とかバランスのいい食卓だったらいいなあとお伝えしています。
魚がおろせるようになると楽しいです。
鋏でおろすのをTVでやったことがありますが、最初はたたかれましたが、最近は普通にやるようになりました。

神戸大使として2003年に就任しました。
震災の時の神戸方式というのがあります、助け方、料理、トイレなどがあります。
「食から学ぶ震災の記録」 ホームページから入ることができてコピーも可能です。
次の世代がもし同じ様な災害に見舞われたとき、この時の記憶がひとつでも心に残っていたらそれは何かの助けになるはずだと思いました。
昔からの知恵が、きっとそのことを作ることが自分の体にも有難い、料理を通じてみんなが楽しくなれば、健康であればいいなあと思います。














2019年11月12日火曜日

田中稔子(七宝焼きアーティスト)     ・【戦争・平和インタビュー】(4)次の世代へ種を蒔くヒバクシャ(初回2019/8/15)

田中稔子(七宝焼きアーティスト)     ・【戦争・平和インタビュー】(4)次の世代へ種を蒔くヒバクシャ(初回2019/8/15)
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2019/08/blog-post_15.htmlをご覧ください。

2019年11月11日月曜日

平野美恵(平野早矢香の母)        ・【アスリート誕生物語】卓球ロンドン五輪銀メダリスト

平野美恵(平野早矢香の母) ・【アスリート誕生物語】卓球ロンドン五輪銀メダリスト
栃木県鹿沼市では平野早矢香卓球大会が毎年行われている。
小中学生対象の大会で市長さんが2013年から開催してくれるようになりました。
主人も私も卓球をそれぞれやっています。
早矢香は明るくて何にでも興味を持つ子でした。
考え方は前向きで負けず嫌いなところもありました。
私と主人が試合に行くときに小さいころから連れてきました。
そういうわけで卓球というスポーツ自体は知っていました。
私が中学で教えていただいた先生とばったり会って、子どもの卓球が盛んだからやったらどうかと言われました。
本人に聞いてみたらやってみたいという事で連れていきました。(5歳)
やりたいなあと直ぐに言いました。
小学校1年生で全国大会にでましたが直ぐに負けて、2年生の全国大会では2位になりました。
家には卓球台はなかったのでクラブの先生にお任せしていました。
自由な時に親が教えると喧嘩になってしまい、私が教えるのは無理だと思いました。
小学校6年生の時に偶然娘と試合で当たってしまいましたが、その時負けてしまいました。

アスリートという意識が無くて、仕事も忙しくて時には夕食にコンビニの弁当を食べさせたこともありました。
小学校の卒業アルバムにはオリンピックに出たいという事が書いてあったようですが、私は記憶にはありませんでした。
言葉として聞いたのはミキハウスで全日本で優勝した頃でした。
北京でメダルを目指したいと言っていました。(18,9歳)
小学校の高学年の頃は毎日の練習は6時半から9時まで、休みの日は水曜日だけでした。
宿題と私が与えたドリルを終わらないと卓球場へは連れて行かないよとは言っていました。
卓球はあくまでプラスアルファだと思っていました。
送り迎えは30分程度ですので車の中でできるだけ話せる場にしようと思っていました。
6年生の6月ごろに仙台育英の校長先生と監督が栃木に勧誘に来ました。
当時は東は仙台育英、西は四天王寺と言われていて、私と主人で見学に行きました。
本人が11月になって行くと言ってきましたが、反対しました。
いじめとか、全日本には行けないかもとか、病気になっても直ぐに飛んではいけないよとか話しました。
高校からならいいといったんですが、勝てなかった人に勝ちたい、高校からでは遅いと言ってきました。
覚悟を聞いていいよと言いました。
でも寂しさがありました。
寂しさは下の2人に救われました。
次女は喧嘩していじめられたりしましたが、早矢香に「お菓子を買って」といって2000円を渡して、帰りの東北道は次女と私は泣きっぱなしでした。

高校時代も仙台で過ごしました。
携帯電話は禁止だったので、公衆電話で決まった時間の15分間話をしていました。
こちらの心配事ばかり話していて失敗したと思いますが、その後なるべく本人からの話を聞くようになりました。
高校3年生の時に進路が決まっていなくて、迷っていたようです。
ミキハウスに就職しました。
北京オリンピックの代表になって本当にうれしかったです。
予選リーグの入場の時にはちょっと涙が出ました。
団体で4位になりました。
ロンドンでは団体しか出られませんでした。
福原さん、石川さんと3人で確実にレベルが上がっていたので、メダルを取りに行ける位置にあると思いました。
銀メダルを取ることができて凄くうれしかったです。

もう一度リオを目指すと言っていました。
シングルスと団体に出たいという思いがあった様ですが、リオの代表を逃して引退を決意しました。
東京があるので迷いもあったようですが、早矢香に任せました。
全日本で優勝するとかの新たな目標はやはりオリンピックとは違ってできないという事でした。
本人の努力とか目標が一つづつ、一歩づつでもクリアすることで夢がかなってくと思うので、スポーツを経験して自分の人間力を高めてゆく事が最終的には大事なことだと思います。
スポーツ選手は引退してからの人生が長いので、その時に自分がどんな存在であるかというのがきちんとできるような人になってもらいたいので、選手本人も周りの指導者の方も考慮して育てていっていただけたらと思います。。
























2019年11月10日日曜日

奥田佳道(音楽評論家)          ・【クラシックの遺伝子】

奥田佳道(音楽評論家)          ・【クラシックの遺伝子】
9月に亡くなられた音楽家。
88歳で亡くなられたチェコの名指揮者、ラドミル・エリシュカ
幅広いジャンルで活躍して多くのファンに愛されたソプラノ歌手の佐藤しのぶさん。
アメリカ出身の偉大なソプラノ歌手、ジェシー・ノーマン

ラドミル・エリシュカ
1931年生まれ 73歳になって初めて日本に来る。
プラハ音楽アカデミーの教授として若い人を育てることに捧げていた。
日本から来日を要請して来たのが2004年。
2006年に札幌交響楽団との素晴らしい出会いがある。
2008年4月から札幌交響楽団首席客演指揮者(2015年から名誉指揮者)として2017年まで活躍。
ドクターストップがかかっていたが愛する札幌で演奏会を行いたいと強い思いがあり2017年10月に最後の来日をする。
*ドボルザーク作曲 チェコ組曲 作品39から第二曲ポルカ(ラドミル・エリシュカ指揮 札幌交響楽団 2017年定期演奏会)
*ベドルジハ・スメタナ作曲 「我が祖国」(ラドミル・エリシュカ指揮 札幌交響楽団)
ラドミル・エリシュカさんは日本全国のオーケストラから、いろいろな大学での演奏会を開催したことから若い音楽家からも愛された。

61歳で亡くなられたソプラノ歌手の佐藤しのぶさん。
プリマドンナの中のプリマドンナでした。
オペラ、オーケストラとの共演、リサイタル、1987年ヵら4年連続で紅白歌合戦にも出演されています。
毎年5月の母の日に「母の日のコンサート」を行い今年が25回目の開催でした。
*ドボルザーク作曲 「我が母の教えたまいし歌」     歌 佐藤しのぶ
*プッチーニ:作曲 歌劇「ジャンニ・スキッキ」「私のお父さん」 歌 佐藤しのぶ

ジェシー・ノーマン 佐藤しのぶさんが亡くなった翌日、9月30日にニューヨークで亡くなる、74歳。
ジョージア州オーガスタ生まれ、アメリカ、ヨーロッパ、日本のステージで愛された歴史的なソプラノと高い評価を受けた歌手。
クラシックではワーグナー、ベルディー(「アイーダ」)、ビゼー(「カルメン」)などに彫りの深い歌を聞かせました。
リサイタルも素晴らしかった、リヒャルト・シュトラウスの歌曲、ブラームスの歌曲など。
フランスの音楽に大変な愛着がありました。
初来日が1985年
*リヒャルト・シュトラウス作曲 歌曲「明日の朝」 歌 ジェシー・ノーマン
ジェシー・ノーマンはホールが共鳴するという感じで抱かれるような感じです。
*ビゼー作曲 「カルメン」 歌 ジェシー・ノーマン
4歳の頃から教会で歌っていたといわれます。
*エリック・サティ作曲 シャンソン『ジュ・トゥ・ヴー』(「あなたが欲しい」)    歌 ジェシー・ノーマン



2019年11月9日土曜日

高嶋弘之(元レコードディレクター)    ・音楽ビジネスを愛して60年(2)

高嶋弘之(元レコードディレクター)    ・音楽ビジネスを愛して60年(2)

1964年ザビートルズの日本での最初のシングル「抱きしめたい」が発売されます。
そしてその売り出し作戦はどうなったんでしょうか。

ザ・ビートルズも売れてきたが、オールディーズの方が売れていた。(ロックンロールミュージック ミスタームーンライト、プリーズミスターポストマン、ツイストアンドシャウト、ロング・トール・サリー)全部ビートルズ以外の曲が売れました。
オールディーズの方が売れるのが判ったので、2年間で26,7枚出しました。
それで活気づいたと思います。
タイトルなども私が全部手がけました。
最大誤訳といわれているのが「ノルウエーの森」ですね。
原題の"Norwegian Wood"が何を意味するか歌詞中に明確に描かれていないため、邦訳には、「ノルウェーの森」や「ノルウェー製の家具」などがある。
ノルウェー産の木材、安物の松材。
彼女の部屋に入ってみるとノルウェー産の木材で内装された「ウッド調の部屋だった」ということをあらわしており、woodは木材を指している。
元々のスラングを置き替えた言葉で"Norwegian Wood"自体あまり意味がなかったといわれる。

1966年6月29日未明に羽田に降り立った。
ヒルトンホテルにビートルズに上司と加山雄三さんと私と3人で会いに行きました。
部屋に入ると3人が並んで待っていて、ジョン・レノンが我々の後ろにいて後ろから加山さんを羽交い絞めにして振り回したんです。
加山さんがびっくりしましたら、ポール・マッカートニーがワーッと笑い出しました。
彼らはいたずら好きなんです。
マネージャーが私と上司を別室に呼ぶのでどんな話かと思ったら、ビートルズの話は一切なくて、お礼の言葉もなかった。
後で腹が立ってきて、これだけやってきて何で平伏するのと、俺はこれから日本人を売るぞと思いまして、黛ジュン、フォーククルセダーズ(「帰ってきた酔っぱらい」)、由紀さおりなどその後日本のニューミュージックと言われるものを立ち上げました。
当時の洋楽の売り上げが85%でした。
今は逆転して日本のものが85%ぐらいです。
僕の思いが到達したのかと思いました。

サンプル盤をつくってOKが出ると、一杯プレスして売り物になるレーベルが張り付けられて売り物になってゆくが、ビートルズの本国から駄目という事になり、2枚だけが手元に残っています。
理由は何もわからなかった。
出すと言ったら、出すとビートルズとの契約が無くなるといわれたんです。
そういう事件がありました。
EMIのオリジナルをそんなに触るなという事ですよね。
アルバムのコンセプトが変わってきた時代でした。

1967年黛ジュンの売り出しにかかわることになる。
我々も洋楽のセンスを身に付けていて、日本のユーザーも洋楽のセンスを身に付け始めていたんだろうと思います。
ブルーコメツにしても洋楽担当者でした。
色々いきさつがあり顔も見てない、声も聞いていないのに担当したのが黛ジュンでした。
歌声だけ聞いて顔を見ないで決めたのが由紀さおりでした。
レコード会社のなかで原盤をつくるのが普通だったが、黛ジュンの場合は外部のスタジオで外部のスタッフが吹き込むという作業をするようになりました。
勝手にやってしまって、どうなるかと思ったが、編成会議の或るところで常務が後ろから肩に手をかけて「いいなあ」と言ってくれて涙が出そうになりました。
どんな曲にも当たらないかもしれないという事はありますから。
黛ジュンのデビュー曲は48万枚売れ、1968年「天使の誘惑」でレコード大賞を取りました。
作品もよかったが黛ジュンのボーカリストの魅力は十分あったと思います。
1967年12月10日 フォーククルセダーズの「帰ってきた酔っぱらい」。
最初聞いた時には何を歌っているのかわからなかったが、「帰ってきた酔っぱらい」のよさが判ってきて、「常務に聞く前にOKと言ってください、今だったら権利を取って抑えてうちの原板になります。」といったら「日本放送の高崎さんを通しなさいといわれました。
フォーククルセダーズに会いに関西に飛びました。
学生たちが勝手に作った曲がミリオンセラーになったことに驚きました。
僕は聞くフォークから自ら歌うフォークに来たなと察知しました。
そして戸倉俊一、谷村新司などを見出しました。
シンガソングライターのさきがけとなりました。
ヤマハと組んで中島みゆきをはじめとしてキャニオンで売って行って、1970年代以降のニューミュージックの流れにつながってゆくわけです。

今はクラシックのアーティストの育成や聞かせ方の企画をやっています。
これまでには大きな変遷がありました。
原版がレコード会社からプロダクションや事務所の方に移る。
レンタルレコードが1980年代隆盛を極め、並行輸入の輸入盤も入ってくるようになった。
最近はインターネットでダウンロードしてイヤホーンで聞くような時代になりました。
スピーカーで聞く楽しさを若い人にも知ってもらいたいと、泣き言的に言いたいです。
LPをスピーカで聞くと入っている素晴らしい情報が入ってきます。
いろいろ形は変わるけれども、いい音楽を作り出す努力は音楽業界の人はやらなければいけないと思います。













2019年11月8日金曜日

山下幸雄(旧満州開拓団 集団自決生存者) ・【戦争・平和インタビュー】(2)ひとり、孤児として生き(初回2019/8/13)

山下幸雄(旧満州開拓団 集団自決生存者) ・【戦争・平和インタビュー】(2)ひとり、孤児として生き(初回2019/8/13)
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2019/08/blog-post_13.htmlをご覧ください。

2019年11月7日木曜日

兼元謙任(インターネットサイト運営会社経営)・ホームレスから会社上場へ

兼元謙任(インターネットサイト運営会社経営)・ホームレスから会社上場へ
53歳、在日韓国人3世として生まれた兼元さんは小学生時代いじめにあい、一時は車椅子生活を余儀なくされたこともありました。
高校生の時に日本に帰化、大学を卒業した後デザイナーとして働き始めました。
ところがあてにしていた仕事ができず、工事現場や公園で寝泊まりするホームレスの日々が続きました。
そのころ知り合った人から甘えるなと一喝されたことが契機となり再び仕事を探しようやくデザインの仕事を受注することができました。
その後インターネット上で利用者が質問と解答を利用するサイトを立ち上げ、会社は急成長、2006年に株式の上場を果たしました。
兼元さんに軌跡やそこから生み出された考え方について伺いました。

今会長になったからやる事は社長時代より少なくなりました。
名古屋で在日韓国人の3世として生まれました。
在日だという事で小学5年生の時友達に知られていじめがありました。
髪の毛をつかまれたり、殴られたり、トイレに押し込められたりと、あらゆることを経験しました。
韓国の言葉がしゃべれなくて国籍が違うという事だけで、いじめにあったこと自体理不尽の一言だったと思います。
ただ耐えることしかなかったです。
ストレスが溜まって、免疫系が壊れたしまって神経に菌が入るところまで免疫が落ちてしまって、ギラン・バレー症候群という診断を下されて車椅子に乗らざるを得ないところまで行ってしまった経験をしました。(小学校6年~中学1年生の頃)
ステロイドの集中投与をしていただきそのことで助かったが、つい先ごろまで実はその女医を恨んでいて、人をモルモットのように扱って、背中から髄液をぬいたり、手に針を刺して筋力を測ったりして治療していました。
恨んでいたが実はそれが一番効力があったと、つい先ごろ知っていい方向に向かったんだと思います。
段々回復するようになりました。

祖父が韓国から中学校の時に渡ってきて、両親も学校に行けなかったりして、このまま日本にいるいるならば国籍を取ることが必要であろうという事で、日本国籍を取ることを両親が決断してそれに従いました。
いじめ、両親の体験を見ていると、先々かなり悲観的に見ていました。
愛知県立芸術大学のデザイン科に入学しました。
周りは2浪、3浪している人たちが多くて、絵も上手いし経験も積んでいるので私は落ちこぼれでした。
課題を彫刻の人とか他の分野の人と相談して作成したり、自分の経験を生かして身障者のデザイン(ユニバーサルデザイン)をどうしたらいいか研究会を立ち上げました。
色々コンペがありそこで志を同じにする人たちがいて研究会は大きくなっていきました。
京都のデザイン事務所に就職しました。
研究会を通して知った或る社長さんからうちに来ないかとヘッドハンチングされて、名古屋の建築会社に入ることになりました。
そこでは働くことが上位で、デザインでは体を動かさないでクーラーの効いた室内でパソコンを扱って遊んでいるのがデザイナーだという様な偏見がありバッシングがありました。

ある経営者の雑誌を見て社長さんが或る街をデザインで作り替えるんだと言っていて、直接電話しました。
研究会のことは並行してやっていたので、いきさつ、成果などを説明しました。
身障者でも使えるパソコンのデザインをしてそれを提案して、それをアメリカで作ろうという事になりました。
メンバーも選定した時に、活動資金を持っていかれたようなところもあり、賞とかでお金をもらっていたが、一緒にやってきた仲間が新しい活動に使っていたもので皆さんに還元しなかったので、付いて行っても利用されるだけだと思い、仲間から離反がありうまくいきませんでした。
そのころは結婚していましたが、妻から離婚の届けがありました。
社長さんから研究会から離脱したあなたにはもう価値がないといわれてしまって、いじめ、離婚よりもダメージがあり、目の前が真っ暗になってしまいました。
東京駅の再開発工事をやっていて大きな下水管のところで一夜を明かしました。
翌朝工事に来た人がお弁当を廃棄処分するものを配っていてそこに連れて行ってくれて、消費期限切れのお弁当をわけてくれました。
嬉しくて涙が止まらなくなりました。
公園、駅のロータリーなどで寝泊まりすることになりました。
気持ち的に自由な感じがして楽な気持になりました。
思い出すのは妻と子どもの事だけでした、家族は大事だんだなあと思いました。

ホームレスは2年程度続きました。
働きながらホームレスをやっている人がいて、自分と同じようだという中国人の女性がいるということでその女性に自分の鬱積をきいてもらいましたら、その女性から顔を殴られました。
彼女は中国の田舎で育って貧しい生活をしていたが、どうしたらいいか考えたところ、ある本を開いたら日本という国は原爆を2発落とされたくさんの街が絨毯爆撃され、それでもGNP2位まで這いあがったという記事を見て、これは絶対行かなくてはいけないと思って、いろんな手を尽くして日本に来た。
赤々と24時間電気がつけっぱなし、食べれるだろうというお弁当を捨て、水はだらだらで止めない、30そこそこでちょっと虐められたぐらいのやつがこんなところでホームレスをしているのかというゲンコツを受け、心に響く一発でした。
甘えていたんではないかという事と、今の自分にも何かできるんじゃないかという風に思わせてもらった。

もう一度東京の流通会社の社長さんに仕事をくださいと申し出ました。
デザインの仕事を発注を頂きました。
名刺マークのリデザイン、会社のカタログなどを持っていきました。
いいねと受け取って、報酬は1000円でした。
金額に変えられないお金だったと思いました。
会社の紹介をしてもらって段々デザイン料も多くなっていきました。
自分に生活費として一日400円としてそれ以外は妻に送りました。
それまでは不安に駆られた欲だったような気がいますが、正しい道を見つけられたような感じになりました。
ウエブ、ホームページのデザインがちょっとづつ出はじめて来た時で、ホームぺージのデザインをやる事になり、知識がないのでインターネットにつながったパソコンから質問をさせていただく機会がありましたが、自分の知りたいことがインターネット上でわからなかった。
インターネットで質問したら回答を得られればこんなにいいことではないかと思いました。

Q&Aサイトを立ち上げました。
子育ての悩みで自殺まで考えたという様なことに対しての質問と解答がありましたが、300万ビュウを越えて皆さんに閲覧されることになったというのがつい最近の事です。
こういうサイトを立ち上げたいと、いろいろ持ちかけたがすべて断られてしまい、妻と子どものことを思い浮かべて、こういうサイトをつくりたいと名古屋に帰って妻に報告しました。
今までの謝りとこういうサイトをつくりたいと言ったら、今まで送っていた400万円ぐらいのお金を使わずに持っていて、このお金を使ってほしいと妻が言ってくれました。
それをもとにサイトを立ち上げました。
Q&Aサイトで3000人ぐらいのお客さんが来た時に、或る企業がQ&Aサイトをベースに新しいシステムをつくってくれないかという依頼を受けたのが収益のきっかけになりました。
ショッピングモールとか、車会社さんのお問い合わせの窓口にシステムを提供させていただき、一般のお客さんのQ&Aサイトと連携する形で、月額の費用を企業さんからいただくという事になりました。

2006年 会社の株式が上場されることになりました。
株式の時価総額については証券会社さんと相談する中で思っていた以上の価値を評価されました。
こんな友達がいたのかという様ないろいろな友達から、お金を貸してほしいという事でお金を貸してばらまいてしまって、その後音信不通になったりしました。
今は1年間で売り上げは40億円ちかくになっていて、従業員は300人近くになっています。
すべては繋がっているんだなと思っています。
虐めにあったことも、妻との関係も、友人に裏切られたことも含めて、その時にはショックでしたが、いろんな学び教えを頂いたような気がします、それがあったからこそ今続けられているし、ここに立てているんだなあと思います。
20年前のインターネットで変わったように、今また転換期が来ていると思います。
会社もピラミッド構造ではなく、それぞれが有機的に繋がってくる新しい組織形態、考え方も必要になって来るのではないかと思って、皆さんと一緒に考え啓蒙していけたらと思っています。




















2019年11月6日水曜日

中村一雄(唄三線奏者)          ・元銀行員の人間国宝

中村一雄(唄三線奏者)          ・元銀行員の人間国宝
中村さんは沖縄県久米島出身の73歳、今年国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されました。
銀行員として長年働いた経歴を持ちながらも、ひたむきに芸を磨き続けている中村さんに伺いました。

前触れもなく発表されたので周囲も吃驚私も吃驚です。
重要無形文化財の組踊、琉球舞踊の唄三線の保持者として総合認定では二つ前に頂いているのですが、今回は前触れもなく連絡を受けて大変なことだと思いました。
NHKでまず全国放送されてまずメールなどが舞い込みました。
昭和21年久米島の生まれで、農業が盛んでした。
祖父が三線をやっていて、父も三線で活躍していたので耳に入っていました。
戦争が終わったあとですが、久米島の人が宣伝広報して歩いていたら日本兵からスパイだといわれて家族を含めてやられた(殺された)というのがあり、今でも一つの悲しい出来事として伝えられています。
父は左利きでしたので左で演奏していました。
宴会場とかに父と一緒についていったりしていました。(土)
高校を卒業してから三線を始めて本格的に習い始めたのは24歳の頃からです。
急に思い立って一挺しかない父の三線を黙って持ち出して師匠に習い始めました。
家でも徹底的に人の2、3倍ぐらい稽古をしました。

就職して銀行員になり24歳の頃結婚もして、何か芸を身に付けようという思いもあり、やるんなら徹底的にやろうと思いました。
朝1時間稽古して出勤して、家に戻ってきて又夜中まで毎日稽古をしました。
久米島に「白瀬走川節(しらしはいかわぶし )」というのがあり、愛しい人にあげようと女性から男性へ思いを花に託して表現するという歌の形で、それでは歌います。
声をよく出すために海にのどまで浸かって稽古をしなさいと言われて、よくそれをやりました。
山から集落が見えるが、その集落に聞こえるようにという事で山の上から声の稽古もやりました。
家は農業はやっていましたが、借地で出来上がった米とかサトウキビを地主に渡すわけですが、厳しい条件でした。
久米島では食えないと思って、中学2年の頃に移民予備隊という事で、挫折もあり思うように出来ない時がありました。

農協に入っているころに銀行の支店長が銀行に来ないかとお誘いがあり、沖縄本島に来て本格的に唄三線ができるようになりました。
久米島では激励があったが、本島では仕事をしっかりやらないと唄三線の稽古への影響もあると思って仕事も頑張りました。
シフト勤務だったのでうまく時間を利用して稽古をして、職場の皆さんにはいろいろ助けられました。
54歳で辞めましたが、銀行も芸も忙しくて、そのまま続けたら両方とも中途半端になるという時期がありました。
子どもも3人とも大学も卒業したし、家の借金も無くなったのも重なって芸の道に進むことにしました。
沖縄では芸事だけでは食ってはいけないです。
すべてが芸能人で、誰でも三線が弾けるし誰でも踊りも踊れるという事で、高い出演料をもらえるという事はないです。
沖縄の人口も少ないのでロングランの公演もできない、1,2回の公演ということになってしまう。

色んな関係の役員とかもあって、稽古の時間も取られてしまってきて、重要無形文化財保持者に認定されましたので、役員も減らして時間をつくっていかなければと思っています。
毎月舞台もあり、舞台監督とか演出の依頼もありやはり毎月舞台があるので、来年からはこれも遠慮しようと皆さんに言っています。
組踊も年間6件、平成7年からずーっとやっていますし、海外にも行っています。
40年ぐらい前に南米に行きましたが、久米島から移民していった親戚などもいて、唄三線を歌ったら沖縄を思い出して涙して、話もできないほどでした。
やはり生半可にしては駄目だと思いました。
三線の魅力は、琉球王国時分から上流階級の教養を高めるために始めた音楽ですが、いろんな苦難の歴史がありました。
琉球処分、第二次世界大戦とか途絶えてもいいようなほどいろんな苦難に会いながらも、それを受け継いでこられたのは先達が頑張って来られたという事もあるが、何かがあるのではないかと思います。

沖縄は琉歌(8,8,8,6調)が盛んでそれを三線に乗っけて歌うという事で、感情をあらわす演奏、歌に魂を入れるという事があるものですから、琉球古典音楽は地味ですが、組踊もなくてはいけないし、お祝いであれ悲しい告別式でも歌われる訳です。
魂のこもった唄三線だと思います。
場面場面によって色々と歌詞を変えて歌います。
古典伝統音楽の会長として500名の会員がいますが、ハワイ支部も作って、関東支部も作って発表会をやってきまして、頑張っています。
若い人を中心に久米島の古い民謡も歌っていただく行事も始めて10回目になります。
琉球古典音楽は「死するまで学ぶべし」という言葉があり、一生懸命精進して、伝承して後輩の指導もしていきたいと思っています。


2019年11月5日火曜日

豊竹咲太夫(文楽太夫)          ・命ある限り芸の道を

豊竹咲太夫(文楽太夫)          ・命ある限り芸の道を
今年75歳にして重要無形文化財保持者(人間国宝)認定されました。
父と同じ人間国宝になるまでの道のりを伺いました。

八代目竹本綱太夫の長男として生まれる。
家では生まれてこの方三味線の音が聞こえてきて、父が義太夫に限らず他の邦楽が好きでしたので三味線音楽など聴いていました。
劇場が歩いて5,6分にありましたので、遊び場になっていました。
入門は9歳でした。
民放局で7歳の時に収録があり、父親に連れらてきましたが、子どもを出そうという事になって初舞台を文楽座ですることになりました。
その時の演題が『伽蘿先代萩』(めいぼく せんだいはぎ)という伊達騒動を扱ったお芝居でした。
舞台稽古の時に恐れ多いことですが、僕が鶴千代君役で一番上座に座って当時は豊竹山城少掾と言えば一番偉い人でその師匠が脇に座ってくださったんです。
今から思えばそんなことはないですが。

昭和19年生まれです。
当時は物資も乏しいし、興行成績も上がらないし、いろんな事情が重なって、その道にいらっしゃた太夫、三味線、人形の御子息たちが戦死なさって後継者が少なかったという事ですね。
松竹株式会社だからできたことだと思います。  
マスコミが盛んに取材してくれました。
初舞台のときには右も左もわからず、当時生意気で新富町の旅館からで公演先の新橋演舞場に人力車で通っていました。
小学校、中学校に進んでいって、中学になると声変りをしてそうすると限られた演目しかできないようになってしまって、しばらくでたりでなかったりしまして学業に重きを置いた時期がありました。
高音が出にくくなって、舞台に立ってもやってみないとわからないような感じでした。
義太夫の場合は洋楽でいう4オクターブでないといけないので、限られたものしか出られませんでした。
楽屋にはしょっちゅう遊びに行っていたというのが正直なところで、そうすると自然と演目に関することを教えられなくても入ってきました。
楽屋の空気を吸うという事は自然と覚えてくるものです。

今は義太夫の字幕が出るのでわかるようになりましたが、数を見ていただく以外にないです。
今は忠臣蔵が判らなくなってきたり、源平の戦いでも源氏と平家の区別が判らないし、こんな時代で本当に難しい時代になりました。
古典芸能の場合は一番上はお能、狂言、二番目が文楽、三番目が歌舞伎と言われて、その順番で世界遺産になりました。
どういう風にしてお客さんにわかっていただけるか、近松門左衛門は外国の人が知っていただけるが、日本では近松門左衛門を知らない人もいて、大阪にいたという事も知らないという事があります。
近松門左衛門の作品は入っていただくと判り易いが、こんがらがって難しいものは嫌だという事になってしまいます。
判り易いものだけをやるというのも、いわゆる「通」と言われる人たちが離れて行ってしまうので、プロデューサーとしては難しい所です。

20歳の時に咲太夫に改名して、それからずーっと咲太夫で来ています。
竹本綱太夫から咲太夫の襲名の時にいろいろな候補がありましたが、師匠の裁断で咲太夫になりましたが、9代目が明治3年に亡くなっており、竹本咲太夫を名乗っていました。
昔は竹本流と豊竹流がありトレードがあったみたいです。
初代豊竹咲太夫という名前に改名し、紋は島津家と同じ丸に十字の紋でした。
或る学者が本を持ってきてくれて、それが初代豊竹咲太夫の墓石の図が見つかって、(義太夫大系図)拝名が男徳斎と言って、その墓石の上に丸に十の紋があったんです。
その人の生まれ変わりかと思いました。
9代目の命日の日にそれが判ったんです、運命的な思いがあり、一生豊竹咲太夫という名前は変えないようにしました。

10年前に「切り場語り」という文楽のクライマックスをかたる最高峰の地位に就く。
実際には20歳ぐらいから語っていますが、「切り場」になったからと言ってどうといった感じは無いですが、責任は感じます。
シリアスなものをやるときには気が重いです。
落語を聞いたり、演劇を見たりして勉強しています。
「知らないよりも知っている方がいい、やらないよりもやった方がいい」これは父親の口癖でした。
50歳の声を聴いてようやく、太夫らしい声になってきたのかなあと思います。
関西の演劇の人たちは割と悪声です、義太夫に縁があるんでしょうね。
今の子はしつこく言うのをあまり良しとしないところがあり難しいし、大阪出身の人が少ない。
後進を育てるというのが一番頭が痛いです。
昔はこうやらなくてはいけないとか、心理描写はどうとか、いろいろ考えましたが、いまは考えないでやっています。


2019年11月4日月曜日

穂村弘(歌人)              ・【ほむほむのふむふむ】

穂村弘(歌人)              ・【ほむほむのふむふむ】
「シンジケート」1986年に俵 万智さんが受賞した角川短歌賞の次席となった連作の「シンジケート」が元になっている。
1990年に会社に入って3年後ぐらいでした。
会社に入って全部ためたお金を全部吐き出しての自費出版でした。
歌集の編集をした時には短冊にして紙で床一杯に広げてやりました。
最もいい構成を考えなくては行けなくて、必死に紙を並べ替え、並べ替えしました。
一緒にやったのが出版社に勤めていた編集者の山崎郁子さんでした。

「こんなにも風が明るくあるために調子っぱずれの僕の口笛」 山崎郁子
短歌の中の作中の主人公が僕なんです、作者は女性なんですが。
風が明るくという表現は一首全体を読むと雰囲気が判る様な感じがする。

「昨晩の事であります星月夜推進運動家よりの速達」 山崎郁子
童話みたいな感じです。
実際には星月夜推進運動家なんていないのですが。
宮沢賢治風の感じがします。

「ひなにんぎやうのかたなのつばやすらかなねむりにおちるためのおまじなひ」山崎郁子
全部ひらがなになっていて旧かな使いになっている。
落語を聞きに行って、演目にひな人形の刀の鍔が出てきて、彼女は覚えていてそのあとの会で作った短歌にした。

「空からはゆめがしぶいてくるでせう手にはきいろい傘のしんじつ」 山崎郁子
空からしぶいてくるのは普通は雨ですが、比喩でここではゆめがしぶいてくる。
雰囲気的な歌ですが、なんかリアルな感じもちょっとあるかなあと思います。
ひらがなが多くなっている。
山崎郁子さんの歌風は夢のような感じ、文体的には話し言葉でありながら全体的には旧かなつかいが使われている。
歌集のタイトルは「麒麟の休日」
麒麟は伝説上の麒麟。

歌集の帯をどうしようかと思った時に大島弓子さんにお願いしようと思って、何とか家を見つけたが緊張してブザーを押せなくて、依頼状とゲラ刷を大きい封筒に入れて、ポストに入れました。
そんなやり方でも引き受けてもらいました。
「水滴が雪になるように言葉が結晶化して歌になる。
そして降り積もって雪野原のような本になった。
今年始めて積もった雪、穂村弘の初めての歌集」 大島弓子
ありがたかったです。

「子どもよりシンジケートをつくろうよ壁に向かって手を上げなさい」 穂村弘
前回「当方は二十五銃器ブローカー秘書求む桃色の踵の」 塚本邦雄 というのがありましたが、あれも恋愛とか違う共同体、同士を求めている歌ですが、これもそうです。
それをシンジケートという風に詠んでいるわけです。
壁に向かって手を上げなさいというのはホールドアップ、銃器ブローカーが危険な感じがあった様に、それはどこか非合法なものなんだという、非合法な世界へのあこがれです。
歌集のタイトルにもなりました。
当時はカタカナのタイトルの歌集はない時代でした。

「酔ってるの私が誰かわかってるブーフーウーのウーじゃないかな」 穂村弘
「ブーフーウー」はNHKの「お母さんと一緒」の人形劇の3匹の子豚。
女性側が初めに恋人だと思われる相手に、「酔ってるの私が誰かわかってる」という風に呼びかけるが、答えが「ブーフーウーのウーじゃないかな」という冗談が返ってくる。
ウーは末っ子で賢い、賢い子豚ちゃんだよと戯れて言っている。
これは完全フィクションですが。

「呼吸する色の不思議を見ていたら火よとあなたは教えてくれる」 穂村弘
火は原始的なイメージを想起させてくれるから、じっと見つめていると火だという日常の認識が溶けてしまい、呼吸する色みたいに表現している。
ぼんやり火を見ていると突然「火よ」と教えてくれる人がいたという、広い意味での恋愛の歌です。
僕の中に理想の人のイメージがあって、ぼんやり見ていると火よと教えてくれるような人だという。
女の人の中に女神のようなイメージがある。
僕の感じ方の原型みたいなものがこの時にはもうあったんだと思います。

「朝の陽にまみれて見えなくなりそうなお前を足で起こす日曜」 穂村弘
日差しが入ってきて日差しに溶け込んだしまっていて、どこかに行ってしまいそうで、不安になってわざと乱暴に起こす。
裏返しの思いがある。

「駄目な歌が入ってしまう事よりも、良い歌があるのに入れないという事を恐れろ」といわれて凄いいいアドバイスだと思い、ほかの人たちにも言っています。

*記載した短歌の文字が違っているかもしれません。


















2019年11月3日日曜日

TARAKO((たらこ)俳優))        ・【時代を創った声】

TARAKO(たらこ)(俳優)            ・【時代を創った声】
アニメ「ちびまる子ちゃん」のまる子ちゃん役30年目、あっという間でした。
私も20代でみんな若かったが、今では座りながらではないと声をとれない方とか、あの世に行ってしまった方とか、時間が経つのは怖いなと思う事があります。
ベテランの方が多いのでぎすぎすしません。
私とまる子ちゃんは似ていますが、さくらももこさん(漫画の原作者)もそっくりです。
喋り方がそっくりで、歌手のイルカちゃんも似ていて、3人でラジオで一緒にしゃべっていても、誰が誰だかわからないといわれました。
声が似ていると顔も似ています、3人で写真を撮っても顔が似ていたのにはびっくりしました。

子どものころからアニメは好きでした。
中学の時には保母さんになりたいと思っていました。
高校の時には保母の専門学校に行こうか、芝居の世界に行こうか悩んでいましたが、親から「好きなほうに行きな」と言われて芝居の方に行くことにしました。
2年間演技の専門学校に行きました。
声優になって最初の頃古川登志夫さんからはいろいろ学びました。
『名探偵コナン』の江戸川コナン役の高山みなみさんからはちょっとしてテクニックを教えてもらいました。
技術もハートも高山みなみさんは天才だと思った時期もありました。
声優デビューは1981年、テレビアニメ『うる星やつら』で演じた幼稚園児役でした。
生活が厳しくてアルバイトはまる子が始まる前までやっていました。
1983年にシンガーソングライターとしてもデビューしました。

漫画「サザエさん」のタラちゃんに似ているといわれて、タラと言われていたが、それに子をつけて「TARAKO(たらこ)」で行こうということになりました。
アニメ「ちびまる子ちゃん」では一次予選に呼んでいただけなくて、見本をとったらももこ先生が違うという事で、オーディションをもう一回やる事になり、35,6人の中の最後の最後に5人選ばれて、ももこ先生にこの子がいいという事になり決まりました。
「ちびまる子ちゃん」の人気がでてきてびっくりしました。
変な声だという事は声優になった後にも言われていました。
家に帰って泣くとか、現場ではトイレで泣いたりしていました。
支えてくれた人が一杯いたのとまる子ちゃんが好きだというファンがいたので、まる子がある限りは続けていいんだという事で続けられてきました。
声にコンプレックスがあったが、「スプーンおばさん」の子ネズミのどんちゃんの役をやったときに、のどを締めたり形からはいったら、これがまる子の原型になりました。

自分の声は好きになろうとしています。
一番楽なしゃべり方はまる子に近いです。
私はナレーションは第三者的にはできないです。
ナレーターと声優は或る意味一緒です、もっと淡々と読まないと聞いている方には伝わらないといわれて、その時はちゃんとナレーションしました。
ずーっとしゃべりぱなしではなく言葉を止めるという事そういうしゃべり方もしました。
想像することが大好きで延長線で脚本へと向かいました。
1992年頃にまる子が一回終わった後に、或る番組が拾ってくださって、そこで書くようにになりました。
自分だけがそのキャラに命を吹き込める喜び、キャラと声で楽しませることができる、いくつになってもできる、それが声優の魅力だと思います。
好きでいることが続けられる元になっていると思います。
この世にはいろんな声の持ち主がいますが、自分だけというものを見つけてほしいと思います。
そのためには一杯物まねをすることだと思います、そうすると新しい自分がひろがると思います。
映画、ドラマを一杯見ること、そのほかいろいろなものを見ること、本を読む、自分の引き出しを増やしてゆくといいと思います。
何があっても自分が好きでいて欲しいと思います。
怒ったときには1秒息を止めて、大きな深呼吸を3回してから、自分の心にこれは今言って大丈夫か自分に聞いてほしい。
これは許せないと思ったら言葉を選んでいう事ですかね。
夢は多くの方に笑ってほしいので笑顔が増えればいいなあと思って、その一個のお手伝いができればいいなあと思います。
映画をつくりたいです。


2019年11月2日土曜日

平野暁臣(岡本太郎記念館館長)      ・ベラボーなものを作る(初回2018/9/22)

平野暁臣(岡本太郎記念館館長)   ・ベラボーなものを作る(初回2018/9/22)
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2019年11月1日金曜日

高橋久美子(作家・作詞家)        ・音楽と言葉と私

高橋久美子(作家・作詞家)        ・音楽と言葉と私
高橋さんは昭和57年愛媛県生まれ、平成16年徳島県鳴門市にある鳴門教育大学在学中にロックバンド「チャットモンチー」にドラム、作詞家として加入、翌年平成17年大学卒後メジャーデビューを機に上京、平成23年に「チャットモンチー」を脱退します。
現在は作家、作詞家として活躍中です。
絵本の翻訳なども幅広く活動されています。

今は愛媛と東京を行ったり来たりしています。
メインは作詞家をしています。
幼少期は走り回って遊んだり、みんなを集めて先生役などをしたりしていました。
天真爛漫に思われましたが、小学校高学年ぐらいから人の中に入っていけなくなりました。
自己表現ができないような感じでした。
中学生ぐらいからはクラスで友達という様な人はいなくなりました。
そんな時に中学3年生の時に詩を書くようになりました。
点数ではない自己表現、正解も間違いもない世界があることを始めて思いました。
授業をボイコットするような子も詩を書く授業の時には参加して詩を書いて、先生から褒められたりしていました。
吹奏楽部でクラリネットもやっていました。
音楽と詩を一生懸命やっていました。
高校時代はますます学校へ行くのが嫌で学校を休んだりしました。
そんな時に詩を書くと自分が浄化されるような気がしました。

吹奏楽部でも当時名門だったところに通いました。
大学は鳴門に行って心が解き放された気がしました。
自分の弱さ、自分の思い通りに行かなかったことなどを詩に書いていました。
軽音部に入って楽譜を見ながらドラムをたたいていたらダサイと言われました。
1年生の時にはフィルハーモニー管弦楽団と軽音部に入っていましたが、いつの間にかフィルハーモニー管弦楽団はやめて軽音部だけになり、歌詞も書くようになりました。
ドラムの人口が少なくてほかのいろいろなバンドにも入ってやっていました。
「チャットモンチー」に入ったのは大学4年生の時でした。
「チャットモンチー」ではドラムと歌詞を担当しました。
歌詞が先で曲を作っていました。
大学時代は音楽と勉強で一日が60時間だったような気がしました。
大阪など関西に出かけて音楽を聴いてもらった方がいいということになって、3人で車で運転して寝泊まりをしたりしていました。
2005年にデビューして2011年に脱退しました。
半年後に依頼が来るようになり、歌詞をつくるようになりました。
若い人も年配の方でも人間の核の部分は変わらないのではないかと思いました。
脱退後は詩の朗読を自分でしていましたが、朗読合唱団みたいなものをつくって、歌うのではなくて声を楽器のようにして朗読をやり始めました、
「コール アンド レスポンス」 (会場の人たちと行う)

詩「湯舟」 朗読 (会場の人たちと行う)

詩「十年」 朗読
「背骨は真ん中で辛抱強く立つ楠木  まつげは先端で風に耐える小鳥
血は滝のように命を叫ぶ 落ち葉が重なって腐葉土ができるように
湧水が山際を滑り 海へたどり着くように 私の身体は地球だ
3652日洗って干してアイロンかけて又汚れて くたくたになって
破れて繕って 私の地球は何度も何度も再生する
そして今日も新しい朝の中で目を覚ます
ベッドから足のばし カーペットを踏みしめ3653本目の旗を立てる
10年 10年」