2025年11月4日火曜日

田中清(手話通訳士)           ・「手話は言語」 手話と笑顔でつなぎ続ける60年

 田中清(手話通訳士)           ・「手話は言語」 手話と笑顔でつなぎ続ける60年

聴覚障害の有る人たちのスポーツの国際大会、デフリンピックが11月15日から日本で初めて開催されます。 この大会では聞こえない人、

聞こえにくい人たちとのコミュニケーション手段として、手話が大きな役割を果たします。 今日は手話は見える言葉、手話と笑顔でつなぎ続ける60年と題して手話通訳士の田中清さんにお話を伺います。 

田中さんは横浜市生まれ、77歳。ご本人に障害はありませんが、耳が聞こえない両親との暮らしで手話を身に付け、長年に渡って手話の普及、啓蒙に取り組んでいます。 1990年からNHK手話ニュースのキャスターを務め、聴覚障害者への情報提供に貢献しました。 田中さんに手話の理解がなかった時代から現在までの思い出や、手話の力、魅力についてお話を伺います。

デフリンピックには、世界各国から70~80か国が参加します。 3000人ぐらいの選手の方が来ます。 スポーツを通してろう者の方も理解して貰いたい。 父は昭和11年からろう者有志の方を集めて、国に陳情したり、住みやすい生活環境を整える事の運動していました。  手話も猿真似と言われたりして笑いの種になっていました。  人間以下に扱われたり、安い賃金で働かせられたりしました。   父と友人が手話で話をしていたら人垣ができまいたが、父は平気で話をしていました。 私が童謡(カラス何故なくの・・・)を歌ったら散って行ったことをよく覚えています。   父は「忘れなさい。」、母は「我慢しなさい。そのうちよくなる。」とよく言っていました。 両親は大好きで不幸せだと思った事は無いです。 

父は和裁をやっていたので、ろう者のいろんな方が父に相談に来ました。  結婚、仕事、家庭での問題等々、持ち込んできました。  家に来て手話の会話でホッとする人もいました。  母から手話を習い始めました。(小学1,2年生 テレビを通して)  手話は手だけではなくて表情が物凄く大事なんです。  一番最初に通訳として舞台に引っ張り出されたのが小学4年生の時でした。  嫌で一番前の座席に座って、ろう者が壇上の脇にたって、私の手話に倣ってやったのが、最初でした。  高校生ぐらいからは父と一緒にいろいろなところに行きました。(通訳のお手伝い)  

横浜で手話通訳者を養成しようと始ったのが昭和42年でした。  地域によって手話もちょっと違いました。(方言みたいな感じ) 新幹線は母が鼻をのばすようなしぐさをして、それが他の人にも判る様になったりもしました。  NHKの手話ニュースは全国版ですから、どうなるかと思いましたがやりました。  地方で手話をやった時に、「貴方の手話は表情でほぼ察しがつきます。」と言われました。  個人通訳では質問したことに対してうまく答えられない、という事もあります。 ろう教育の問題があると思いました。 考えさせるというよりも一方的に教える。  ですから聞いても、「わからない。」、「仕方ない。」とかという返答が来る。

健常者にあわせるように、しゃべることを訓練する。 聞いたことがない言葉を話すという事は難しい。  少しは聞こえる人はしゃべれるという事で優秀という事になり、学校でも差別があったようです。  口の動きを読みとりなさいとか、簡単ではないです。  口の動きを読みとる、発語するという教育が戦前から戦後にかけてやってきました。  言葉は人間形成に関わるものなので凄く大事だと思います。  手話を学校教育に取り入れてゆく流れが出てくる。  手話が一般的な市民権を取りました。  手話は広がったが、手話を使うろう者を理解してほしいです。  手話の最も大切なことは目を見て話すという事です。(視覚言語)

小学校3,4年生の時に、男の子たちにいじめられたことがありますが、隠しても母から指摘されてしまいました。  「私がろう者だからあなたがいじめられた。」と言って母が畳に額を擦りつけて土下座しました。  母の責任でも父の責任でもないし、誰にも謝る事ではないと思いました。  何を言われても強くなりました。  父母は何か嫌なことがあっても。「あの人は自分たちのことを知らないんだから。」と言うんです。  「そのうちにわかる時が来る。」と言う風に、と言う考え方でした。 

障害者ではなく、ろうの若い方で自分はこれでよかったという風に捉える人も出てきました。 自分たちが変ると社会が変って行くと思います。(社会はなかなか変わりにくい。)  デフリンピックには日本の方は270人ぐらい出ると思いますが、わくわくします。
































 








2025年11月3日月曜日

竹見昌久(ろう学校教諭・日本デフ陸上競技協会)・ろうの子ども達の思いに寄り添って

竹見昌久(ろう学校教諭・日本デフ陸上競技協会)・ろうの子ども達の思いに寄り添って

 竹見さんは昭和49年東京生まれ。(50歳)  大学卒業後東京都の教員になりました。 20年ほど前にろう学校に赴任し、聴覚に障害の有る子供たちに指導を始め、陸上部の監督になりました。 竹見さんは短距離走に出場した生徒がスタートの音が聞こえず、悔しい思いをしたことに心を痛めます。 子供たちのために何とかしたいと思い、音と同時に光るスタートランプを作りたいと考えました。 試作品を作って改良を重ね、2019年に完成したスタートラインランプは、現在国内をはじめ海外の大会でも使われています。  今月の15日から聴覚に障害の有る人達のスポーツ国際大会、東京デフリンピックが日本で初めて開催されます。 デフリンピック陸上競技大会の運営に携わり、ろうの子供たちについて知って欲しいと取り組む竹見さんに伺いました。

デフリンピックは聴覚に障害の有る聞こえない、聞こえにくい人たちの大会ですが、聴力が片耳が55デシベル以上の人が条件です。(補聴器も外す。)  パラリンピックと一緒にやっていた時代があります。  今では70~80か国ぐらい、3000名ぐらいの方が参加しています。  コミュニケーションで大きな壁が出来てしまいます。  手話通訳をどういう風に配置するとか、細かく調整しているところです。  

スタートランプを開発しました。  色が変化することによってスタートの瞬間が判る様な装置になっています。  音を見えるようにする装置でして、「位置について」は赤が光ります。  「用意」は黄色、「ピストルの音」と同時に緑が光ります。  ボタンに合わせて光らせますが、「ピストルの音」の信号をスタートランプが貰って光ります。  同じ条件でスタートが出来るようになりました。  

大学卒業後9年目に東京ろう学校に赴任しました。  手話も出来ない状態でろう学校に行ったので、最初は生徒とコミュニケーションが取れない状況でした。  手話のできる先生に通訳してもらっていました。  筆談もしていました。  子供たちは観る力、周りを観察する力、愛で情報を得る力は物凄く長けていました。  全員が私の目を見て話をしてくれるので、聞くという事はこういう事なんだなと思いました。  高校、大学では陸上の100m、200m、走り幅跳びをやっていました。  

陸上部の監督を任された時には、遣り甲斐を感じました。  聞こえないためにスタートがでれないと努力が水の泡になってしまう。  高校3年生の女の子がいて、インターハイへの大事な大会で決勝へ行けそうな子がいましたが、結局予選で敗退してしまいました。 努力してきても聞こえなかったら意味がないじゃないか、 という事を言われました。  自分は何もやっていなかったと思った瞬間でした。  補聴器を使ったりしていましたが、他の雑音のためにピストルの音が判断しにくいとか、隣のスタートの動作を観てスタートするとかで対応していました。 

恩師の青山先生に何とかスタートランプを作って欲しいと相談に行きました。 先生の紹介で機器メーカーさんがやってみましょうという事で始めました。  筑波大のろう学校の岡本三郎先生と一緒に開発に携わりました。  試作品が出来て全国7か所ぐらい回ったんですが、なかなか理解されませんでした。  使ってくれる子供たちにアンケートを取ったり、審判の方にも聞いたいりして、改良を重ねていきました。  国内の普及活動をしながら、2016年ブルガリアのデフ世界陸上競技選手権大会の3か月前に行きました。 大会期間中全部使っていただきました。 素晴らしいという声を頂きました。  それから広がっていき、製品化されて行きました。  試作から完成まで8年ぐらいかかりました。 大きさは手で握れてしまうぐらいの大きさです。  互角に戦っている様子を見るとこっちも鳥肌が立ちます。 実際記録も伸び、関東大会に進む子も増えました。  スタートランプを置くことによって、聞こえない人の理解も自然と深まってゆきます。  全部の競技に使います。(マラソンまで)

スタートランプをドミニカ共和国に寄贈しました。 喜んでくれて、大会が盛り上がりました。一番伝えたいことは聞こえない方たちはまだまだ世の中に沢山困っていることがあります、という事です。   東京デフリンピックではアナウンサーが競技を紹介しますが、その音声を字幕に変えるのに、競技場の真ん中に大きなLEDのボードを2枚置いて、日本語と英語で字幕を流すという事をやります。(手話通訳と字幕が同時に観れる。) 

ろう学校を20年務めるなかで、聞こえないからこの仕事は駄目と言うような世の中の固定概念がまだ残っていて、もっともっとこういう仕事ができるよね、と言う子が沢山います。 テクノロジーを工夫しながら、障害者の方がもっと世の中で活躍できる世界に向かいたいと思います。  大学は障害者の受け入れが非常に進んできています。  進学の幅は広がりました。  自分の原動力は子供たちの笑顔です。  子供たちのお陰で今の自分があります、恩返しをしたい。 















2025年11月2日日曜日

富澤輝実子(染織・絹文化研究家)     ・着物の魅力を伝えたい ①

 富澤輝実子(染織・絹文化研究家)     ・着物の魅力を伝えたい ①

普段の生活の中で着物を着る機会はほんとんどありません。 この40年余りで着物離れが進み、着物の売り上げは減少傾向が続いています。  その一方でSNSの普及に伴って着物を愛好する人たちがインフルエンサー(SNS等で世間に与える影響力が大きく、ビジネスとして情報発信している人物のこととなったり、リユース市場が活況を呈したりしています。  コロナ過で自宅で動画で着付けを勉強したり、手軽な通信販売を利用して着物を購入したりと、これまでの伝統的な着物の着方とは異なるカジュアルな着物のファンが増えつつあります。 日本の伝統文化であり民族衣装でもある着物、これからどうなって行くんでしょうか。 着物に携わる方にご自身の着物ストーリーを伺いながら、着物の魅力をどのように次の世代に伝えてゆくのかを考えて行きます。

富澤さんは1951年新潟県の生まれ。 長く着物編集雑誌に携わり、当時数少なかったママさん編集者として全国各地の産地にも足を運び取材を続けてきました。

着ているものは、江戸小紋の中で一色染めで同じ柄がずっと繰り返し染められている。 これは島を背景に水と紅葉が染められています。  

呉服、呉は昔の中国の国の名前。 反物、反も単位です。 着物は、着るものと言う意味でしょうが、和服を着物と言って共通の言葉になっています。  明治以降男性の方が早く洋装化していきます。  公務員に制服が出来てきます。 勤めの方も洋装になって行きます。  家に帰ると和服に着替えていました。 女性は洋装化が大分遅れて、既製服が無くて、和服ならば自分で作ることも出来るので、戦後も着物でいました。 着物の販売のピークが昭和になってからで高度経済成長とリンクしています。  エポックは美智子様のご成婚の時でした。  昭和35年池田内閣が所得倍増計画を打ち出し、凄く景気が良くなりました。  女性も外に出て働く時代が来て、高学歴化して来て、着物の買い方が変わりました。  番頭さんが丁稚を連れてお座敷に上がって反物を広げていました。  高収入を得てゆくお嬢さん方が自分の目で買うようになりました。 (決定的な違い) 昭和40年代後半から50年代に着付け大ブームが来ます。  花嫁修業の1位が華道、2位が茶道、3位が着付けでした。 

高校時代の茶道がきっかけになりました。  母はがんで亡くなりましたが、貯金通帳を出して、東京の大塚末子先生のところに行って着物デザイナーになって貰いたいと言われました。  人間はどういう形をしているのか、動く時はどうなるのかという事をよく勉強しなさいと言われました。  クロッキー、染色、刺繍など習いました。 デザイナーは才能がなければできないと判りました。  出版社に入社しました。  編集部員が着物のコーディネートをするのでいい勉強になりました。  或る時に日本の染色研究をやってもらいたいという話が来ました。  産地に行って、読者に紹介すると言う事しました。  読者の紹介もしました。(お茶会等)  社交の場でもあるので、着物をいろいろ工夫してきますので勉強になります。 

仕事をしながら2人の子育てもしました。  当時、会社では私一人でした。  主人に助けてもらいました。  産地では製品を作るために力を込めてやっています。  又風土と密接についています。  寒くて雪が降る、暑くて鉄分の濃い品質のいい泥の田んぼがあるところ、では出来上がって来るものが全く違います。 そこで授かったものを材料にして、最高の物を作り出してゆくのが、どこの産地もそうなんです。 そこに知恵を働かせて行く。 日本は産地ブランドです。  大島では小さな「かすり」にするために大変な工夫をしたようです。 

私は絹に大変な愛着があります。  冨岡製糸場を初めて見た時に、明治5年、レンガの立派な建物がいくつもあり、これは江戸時代の大工さんが作ったと思ったんです。 繭と生糸に興味を持ちました。  絹文化に興味が広がっていきました。   海外の方が着物を簡単に着るようになって、日本の女性も気軽に着てもらえるといいなあと思います。  何もないのに着物を着るという事は難しいと思いますから、何かのきっけけに着ていただけるといいなあと思います。  着物は民族衣装と思っています。  民族衣装の持っている力があります。 どこの国の民族衣装にもあります。  





























2025年11月1日土曜日

宮川大助・宮川花子(漫才師)       ・生かされている感謝を夫婦漫才で伝えたい

 宮川大助・宮川花子(漫才師)       ・生かされている感謝を夫婦漫才で伝えたい

宮川大助・宮川花子さん、コンビを組んで40年あまり、夫婦漫才の第一人者として上方漫才のお笑いを牽引してきました。 その二人が今向き合っているのはがんとの闘いです。 花子さんの腰椎にがんが見つかったのは2018年、血液がんの一種の形質細胞腫と診断されました。 一時は放射線治療が功を奏して回復へと向かいましたが、翌年事態が悪化し身体のあちこちにがんが発生する多発性骨髄腫(白血球の中のリンパ球のうち、B細胞から分化(未熟な細胞が変化して特定の働きを持つようになること)した形質けいしつ細胞さいぼうががん化して骨髄腫細胞になり、骨髄腫細胞が主に骨髄で増える病気)と診断されました。 厳しい痛みと治療に耐える花子さんの介護をにない支え続けたのは夫の大介さんでした。  二人は病気に向き合い、一つ一つ困難を乗り越えながら目標としていた舞台の復帰もはたしています。 大助さんと花子さんの闘病の日々、漫才への思いを伺いました。(2024/8/3のインタビュー)

大助:基本的には完治がしない病気で、科学療法で頑張ってくれています。 

花子:舞台に出て、お客さんがカンフル剤になります。 

大助:90%は僕が台本を書いて演出をやっていて、後の10%は佐藤先生?から貰った台本とかでした。  あの時の舞台では嫁さんが体力がないので、稽古が出来ない。  NO稽古、NO打ち合わせでやりました。 やり方を変えようじゃないかという事で嫁さんは車椅子に乗ったまま、僕は椅子を置いてもらって、二人が座ってこれがほんまの「座漫才」と言いながらやっています。 高齢者をテーマにして、病気をしたりして迷惑をかけるかもしれないが、こんな年寄りにも実は夢と希望を抱えて明日に向かって生きているというのを、漫才で一つづつ一つづつ表現できたらと思っています。

花子:入院生活が長いので面白いことがいっぱいあるんです。 

がんが見つかったのが2018年6年前。転移性骨腫瘍が疑われて余命半年かもしれないと言われたが、形質細胞腫で放射線治療が功を奏して一旦は治まる。 その後多発性骨髄腫と判明。

花子:ショックもええところでした。 抗がん治療が嫌だった。 段々悪くなって歩けなくなってしまいました。  

大助:8か所に転移して、科学療法でしかもう取られへん。 右目の眼球の真裏に10cmぐらいの腫瘍が出来ていて、右目が飛び出すんです。 眼鏡を圧迫するわけです。  首筋にも出来て呼吸がちょっとおかしくなったりしました。  病院に連れて行ったときには意識がもうろうとしていました。 先生からは治っても生涯車椅子は覚悟するように言われました。 抗がん剤の治療が始まりました。(1週間持つか持たないかの状態だったらしい。) 抗がん剤の新しいのが出ました。 それが当たりました。 

花子:当たって6年経ちました。 諦めたらあかんと思いました。 首から下がしびれて全く感覚がありませんでした。  或る時に左足がぴくっと動いたんです。  お腹のところも痒い感覚があり、神経が戻ってきていました。 

大助:先生はこういう事は無いとおっしゃっていました。

花子:リハビリも頑張ってトイレもお風呂も自分で行けるようになりました。 しかし抗癌剤の影響かどうか判りませんが、肺に水が溜まって入院しました。 

大助:すごく汗をかいて、それが外に出ないと肺に水が溜まる様になるんです。 直ぐに救急車を呼びました。(自宅療養中) 今は嫁さんを24時間介護していますが、介護ベットの横の床に寝ています。  世間は介護をして居る大助は凄いなと思うかもしれないが、僕は嫁さんからとんでもない宝物をもろうてる最中です。  人の心の優しさ、とか一生懸命渡してくれています。  大便、小便も両手で受けています。  食べるものも排便も、全部人間が生きているとういう証じゃないですか。  90%は私がやっていて10%は娘がやっています。 大助花子の人生を40年、50年送って来て、嫁さんがひっくり返った時に初めて本名の松下 美智代、松下 孝美になりました。  昔・・・・?姉さんに説教されたことがあります。 寝ても覚めても漫才の稽古、台本のことでした。  「花ちゃんはあんたにとって宝物や。 子供も宝物や。 漫才は宝物とは違うぞ。」と怒られたことがります。 それが今骨身にしみて、ストレスをかけてがんになって、僕が面倒を見るなんておこがましいです。  宝物と思えるようになったのは最高にうれしいです。  主治医、リハビリ、介護士などの方々のほかに身内、友達の応援でいま命を貰っているというのは実感です。 

花子:最初はしんどいし、もうあかんのかなあと思いました。  看護師さんは同じ様に戦っている同士だと思っています。  がんとの闘いにも変化がありました。 諦めたらあかんと思うようになりました。  同じやるんやったら上を向いていこう、死ぬかもわからへんが、もったいない、一日二日。  明るくしとこうと思います。

大助:訪問看護師さんに、「どういう患者さんが一番やりやすいですか。」と聞いてみましたが、「同じ目的を持ってくれる患者さんがいいです。」と言ってくれました。 以前は「あわてず、あせらず、あきらめず」と言う本を出しましたが、今回「なにわ介護男子」を出版しました。  

花子:病気のことをみんなに教えてあげたい。 内容は面白くしたい。  

大助:お客さんから「頑張れ。」とエネルギーを貰えるんです。  お手伝いさんと台本を読んで、それを嫁さんが聞いていて、本人との読み合わせは一切ないです。 ぶっつけ本番です。 嫁さんが休むと僕も休みですからね。  嫁さんが大黒柱です。

花子:漫才をやっていたお陰で安心できる、生きるというのがあります。  この歳にはこの歳の漫才のやり方がると思います。  

大助:嫁さんは夫婦漫才は最初のころは余りやりたくなかったが、今は漫才師だと思っています。  段々僕は介護士の方になっています。 

花子:助けてもらっている命ですので、有意義に使いたいと思います。 色々な方にお礼をしたいと思います。

大助:人が生きるという事は素晴らしいんで、命のある限りご縁に感謝しながら、皆さん頑張りましょう。