富澤輝実子(染織・絹文化研究家) ・着物の魅力を伝えたい ①
普段の生活の中で着物を着る機会はほんとんどありません。 この40年余りで着物離れが進み、着物の売り上げは減少傾向が続いています。 その一方でSNSの普及に伴って着物を愛好する人たちがインフルエンサー(SNS等で世間に与える影響力が大きく、ビジネスとして情報発信している人物のこと)となったり、リユース市場が活況を呈したりしています。 コロナ過で自宅で動画で着付けを勉強したり、手軽な通信販売を利用して着物を購入したりと、これまでの伝統的な着物の着方とは異なるカジュアルな着物のファンが増えつつあります。 日本の伝統文化であり民族衣装でもある着物、これからどうなって行くんでしょうか。 着物に携わる方にご自身の着物ストーリーを伺いながら、着物の魅力をどのように次の世代に伝えてゆくのかを考えて行きます。
富澤さんは1951年新潟県の生まれ。 長く着物編集雑誌に携わり、当時数少なかったママさん編集者として全国各地の産地にも足を運び取材を続けてきました。
着ているものは、江戸小紋の中で一色染めで同じ柄がずっと繰り返し染められている。 これは島を背景に水と紅葉が染められています。
呉服、呉は昔の中国の国の名前。 反物、反も単位です。 着物は、着るものと言う意味でしょうが、和服を着物と言って共通の言葉になっています。 明治以降男性の方が早く洋装化していきます。 公務員に制服が出来てきます。 勤めの方も洋装になって行きます。 家に帰ると和服に着替えていました。 女性は洋装化が大分遅れて、既製服が無くて、和服ならば自分で作ることも出来るので、戦後も着物でいました。 着物の販売のピークが昭和になってからで高度経済成長とリンクしています。 エポックは美智子様のご成婚の時でした。 昭和35年池田内閣が所得倍増計画を打ち出し、凄く景気が良くなりました。 女性も外に出て働く時代が来て、高学歴化して来て、着物の買い方が変わりました。 番頭さんが丁稚を連れてお座敷に上がって反物を広げていました。 高収入を得てゆくお嬢さん方が自分の目で買うようになりました。 (決定的な違い) 昭和40年代後半から50年代に着付け大ブームが来ます。 花嫁修業の1位が華道、2位が茶道、3位が着付けでした。
高校時代の茶道がきっかけになりました。 母はがんで亡くなりましたが、貯金通帳を出して、東京の大塚末子先生のところに行って着物デザイナーになって貰いたいと言われました。 人間はどういう形をしているのか、動く時はどうなるのかという事をよく勉強しなさいと言われました。 クロッキー、染色、刺繍など習いました。 デザイナーは才能がなければできないと判りました。 出版社に入社しました。 編集部員が着物のコーディネートをするのでいい勉強になりました。 或る時に日本の染色研究をやってもらいたいという話が来ました。 産地に行って、読者に紹介すると言う事しました。 読者の紹介もしました。(お茶会等) 社交の場でもあるので、着物をいろいろ工夫してきますので勉強になります。
仕事をしながら2人の子育てもしました。 当時、会社では私一人でした。 主人に助けてもらいました。 産地では製品を作るために力を込めてやっています。 又風土と密接についています。 寒くて雪が降る、暑くて鉄分の濃い品質のいい泥の田んぼがあるところ、では出来上がって来るものが全く違います。 そこで授かったものを材料にして、最高の物を作り出してゆくのが、どこの産地もそうなんです。 そこに知恵を働かせて行く。 日本は産地ブランドです。 大島では小さな「かすり」にするために大変な工夫をしたようです。
私は絹に大変な愛着があります。 冨岡製糸場を初めて見た時に、明治5年、レンガの立派な建物がいくつもあり、これは江戸時代の大工さんが作ったと思ったんです。 繭と生糸に興味を持ちました。 絹文化に興味が広がっていきました。 海外の方が着物を簡単に着るようになって、日本の女性も気軽に着てもらえるといいなあと思います。 何もないのに着物を着るという事は難しいと思いますから、何かのきっけけに着ていただけるといいなあと思います。 着物は民族衣装と思っています。 民族衣装の持っている力があります。 どこの国の民族衣装にもあります。