原口泉(歴史学者・大河ドラマ「西郷どん」時代考証)・郷土の英雄に魅せられて
来年は1868年の明治維新から数えて150年の節目の年になります。
これを記念して西郷隆盛の生涯を描いた大河ドラマ「西郷どん」を1月7日から放送します。
林真理子さんの原作をドラマ化したもので時代考証は地元の歴史学者原口さんが担当します。
原口さんは東京大学で日本の近代史を学んだ後、永らく鹿児島大学教授として近代日本史の講座を担当しました。
その幅広い知識から「篤姫」や「翔ぶが如く」などの大河ドラマの時代考証を手掛けて来ました。
原口さんに言わせますと、西郷隆盛の国民的な人気は庶民性や大衆性にあるが、その原点は西郷の人格にたどり着くと言っています。
幕末期の鹿児島では西郷のほかにも魅力的な人物がたくさんいると言います。
林さんが鹿児島空港で「西郷どん」と言うタイトルの本が目について、それでこれにしようと言うことで原作のタイトルがそうなったと言います。
大河の時代考証は3つ目か4つ目ですが、こんなに盛り上がっているのは初めてです。
1月7日には鹿児島市内だけではなくてパブリックビューイングがあります。
オンエアー前から盛り上がってます。
西郷隆盛役が鈴木亮平さん、大久保利通役が瑛太(えいた)さん、二大俳優の共演です。
田辺聖子さんが1994年 20年以上前に西郷隆盛を書きたいと言うことで取材した時のお供した時がありました。
女性として西郷隆盛を描こうとしたが、御主人を亡くされてから幻の女性に依る西郷隆盛伝になりましたが、女性として西郷隆盛を描いてみたいと林さんが取り組みました。
西郷隆盛と3人の妻、京都でお世話をしたおとらさんらとのきめ細やかな交流を描くのは男性ではないでしょう。
篤姫の世話役をした西郷が恋心を抱いていたと言うことが、原作ではそうなっている。
林さんには心の中までは判らないでしょうと言われてしまいました。
(そういったフィクションの部分もある)
心の内は作家、脚本家にお任せする。
大きな筋は皆で合意する。
「篤姫」では家定はうつけのふりをしていると言うことで、嫁いでから篤姫はそれに気づくと言うことになった。
心の内に立ちいる居ることはドラマですよね、、人間の喜怒哀楽、羨望、嫉妬、憎悪、尊敬、憧れそういったもろもろの感情がドラマの人物に投影されている。
徳川慶喜と島津久光との2人の政治的対立、駆け引きと言う政治の世界、久光と西郷との対立、奄美大島の3年間の逆境、試練の時に女性の力によって人間性を取り戻してゆく、そういったことが心を打たれます。
愛加奈といと夫人が話をする場面が原作にはあるが、指摘したがそれは変えられませんでした。(事実としてはそれはないが)
ドラマでは菊次郎をめぐっての会話がある。
「西郷どん紀行」では史実に従って伝えたいと思っています。
1963年にケネディーが暗殺されて、ドラマで桜田門外の変で井伊 直弼が暗殺されて、歴史を身近に感ずるショッキングな体験がありました。
1964年にはアメリカに留学。
先の大戦とは鹿児島では西南戦争でした。
父も先の大戦とは西南戦争でした。
留学先はネブラスカ州でさきの戦争は南北戦争なんです。
対立はいまでも引きずっている訳です。
明治維新を成し遂げた最大の功労者は西郷隆盛ですし、私が通った甲南中学は近隣三地域の48名の偉人たちの名前が書かれた石碑のある学校でした。
近所は川村純義という海軍大将の家で、明治天皇の信任が厚くて昭和天皇がお生まれになった時に、3年間川村家で育ったんです。
父も薩摩藩の研究をやっていましたし、そういった処で育ったので、明治維新、廃藩置県、武士が一日で特権を自らかなぐり捨てた社会変革で、200万人いた武士が一挙に特権を失った明治維新、廃藩置県は凄い革命だと思いました。
自分の研究の主題に据えたのは、逆にアメリカの体験が有ったのかもしれません。
内村鑑三さんが西郷隆盛を世界に紹介しましたが、西郷さんの人格を評価したのは「ラストサムライ」というハリウッドの映画でしたね。
桂久武は親友として子供のころから育った。
沖永良部島に西郷が流されたときに家族の面倒をみたのは桂久武です。
愛加奈、菊次郎、お菊の面倒を見ています。
禁門の変、薩長同盟でも桂久武がアシストしている。
慶応3年討幕に藩論を纏めたのは桂久武、桂久武は薩摩藩の家老ですから。
藩主が3000人を率いて11月に京都に昇ると言うことはいままでに無かったことです。
その兵力が鳥羽伏見で旧幕府、合津、桑名に圧勝するわけです。
西南戦争では共に闘って城山で西郷と命運を共にする訳です。
桂久武は討幕戦争は新しい時代を作るので武士の時代を終わらせるので刀を鍬に持ち替えて開墾することを家来に命じている。
西郷が薩摩に帰って来て農本主義の思想を唱えるが、それを教えた上司がいて、迫田太次右衛門利濟と言う人です。
郡奉行に迫田がいて、迫田は痛烈な藩政批判をして、自分で職を去るが下士の西郷に歌を残している。
「虫よ虫よ 五ふし草の根を断つな たたば己も共に枯れなむ」
農民に対しては慈愛を持って農政しないといけない、と上司として身を持って教えた。
奄美に行ったときに、究極の目標、四民平等に辿り着いたのではないかと思う。
そのためには農民に対して慈愛の眼を持って接する「敬天愛人」の思想にたどり着いたのだと思う。
明治維新の革命は西郷隆盛の「敬天愛人」の思想に裏打ちされていると思う。
西郷さん、大久保さんが倒れてから農業を犠牲にして工業を偏重して資本主義化を図った、産業革命にもいち早く成功した。
農業と工業を一緒になって発展する自然な姿というものがおざなりになって、私たちが取り戻さなければいけない時代になっていると思う。
これからは農本主義に基盤を据えて安心、信頼、すぐれた日本の物を世界に提供する、食のジャポニズムという時代が到来していると思う。
2017年12月31日日曜日
2017年12月30日土曜日
高橋睦郎(詩人) ・母を語る(H21/2/17 OA)
高橋睦郎(詩人) ・母を語る(H21/2/17 OA)
昭和12年福岡県生まれ、福岡教育大学を卒業後上京、広告会社に勤務、コピーライターなどの仕事に関わります。
中学時代から雑誌、詩や短歌、俳句などの投稿を始め注目されるようになります。
読売文学賞や高見順賞などを受賞、これまでにオペラ、新作のギリシャ悲劇などの台本作りも手掛けられました。
平成29年には蛇笏賞、11月には文化功労者に選出されました。
湘南に住んで23年になります。
育ったのが門司で海辺に帰ってきたと言うような感じです。
24歳の時に東京に来ました。
兄弟は3人ですが、僕が生まれて105日目に父が急性肺炎で亡くなって、その次の日に姉が亡くなっています。
次の姉は健在です。
父が亡くなったので父の妹の処に子供がいないので姉をやってほしいと言うことになりましたが、母がそれに耐えきれずに、僕と姉に毒(睡眠薬)を飲ませて、自分も飲んで、家に釘を打ちつけ死のうとしていた。
その時にたまたまじいさんばあさんが訪ねて来て、くぎ抜きでこじ開けて瀕死の親子を医者を連れて来て、蘇らせたわけです。
僕が生まれて200日ぐらいの時でした。
母は苦労ばっかりしてきた人で父と暮らした6年間が一番幸せの時だったようです。
ですから喪失感が凄かったみたいです。
思い出としての形見が二人の子供だけだったので、その半分が奪われることが耐えられなかったんでしょうね。
父が亡くなった後はいつまでも骨壷をお墓に入れないで父の身体の形にお骨を畳に並べてじーっとみていた人ですから。
回復したら伯母の処に姉を連れて行ってしまいました。
母は僕を育てるために色々なところに、旅館の仲居などをして働きに行きました。
そのうちにずーっと年上の世話をしてくれる人(愛人)が出来て中国に行っています。
母から預かった育てるお金の何分の一かで、じいさんばあさんは僕を他人に家に預ける訳です。
小さい時には他人の家を転々として、ままっ子扱いされたりしていました。
姉も僕のことを自分の兄弟とは思っていませんから、僕はつまはじきされていました。
小学校に入るちょっと前に母が帰ってきました。
親戚の人に連れていかれて、下関に行きました。(海を初めてみました。)
母が縁側に支那服を着て、ヒスイの指環をして煙草を吸っていて、よその人という感じがしました。(最後までそんな思いは抜けなかった。)
母と部屋を借りて住みましたが、母の世話をした人(妻子のある人)が訪ねて来る時の為の家でもあったわけです。
僕はその人をお父さんと言うように言われていた。(父ではないと言うことを知っていた。)
母は僕に対して厳しかった。
言葉使いも敬語を厳しく母に教えられ、中国での日本人の標準語と地元の子供達の喋る言葉を使い分けていた。
学校の試験で15点取ってきたら、鍋敷きで叩かれ釘が頭に刺さる位血が噴き出して、それから80点以下を取ってきたことはない。
一方、近所の子に虐められると、その子供を追っかけて行って、親がいる前でも鳥小屋に入って行って糞だらけになる子を引きずり出す人でした。
男の人ともそのうち別れて二人だけになり、生きていけないから死のうと言うんです。
一人で死んでください、でも僕は生き残りますと言ったら、その言葉に引かれて母も生きてきたと後に言ったようです。
母は少女時代から凄く映画が好きで、映画館の仕事があると言う話があったが子供がいると無理と言っているのを聞いて、僕がいなければ楽しく映画が見られると思って、小学校の4年の時に家出をしました。
ばあさんのところしかなくてそこにいたら、母がたずねて来て、その後母ともしばらく話が出来なくなった。
そのうち学校に行ったら英雄のように扱われました。
母は担ぎ屋になって一緒に付いて行ったりしました。
物凄く涙もろい人でした、人によくしてやることが大好きで、亡くなった後で随分借金がありましたが、人の代わりにお金を借りてやったりしていて、母のボランティアの為に僕は見も知らぬ人の借金を払っていました。
母は面白い人でした。
小さい頃のことですが、霊を呼び出す定型の言葉があったり、降りてくる定型の言葉があり、それを聞いていてそれを覚えてしまい、この世の言葉以外に言葉がある、目の前の人以外の遠くからと通信できる言葉があると言うことを知ったのが、詩歌体験だったと思います。
4つ位の時だったと思います。
友達と遊ぶよりも一人で遊ぶことが多かったので、何にも要らず遊べるのが言葉でした。
本を読み、書くことになって行きました。
母はどこかに行くと本を買ってきてくれました。
父の蔵書がありましたが米とかいもとかに変わりましたが、改造社の日本文学全集の中に少年文学集と言う本がありました。
「こがね丸」巖谷 小波、小川未明、白秋、最後に鈴木三重吉の「古事記物語」がある。
その本が僕にとっての文学の繋がりでした。
「こがね丸」は文語体、「番茶会談」が幸田露伴、「小公女」を若松賤子さんの訳、わたしの初めての文学の本でした。
その後古文に出会っても全く物怖じしなかった。
判らなくても子供にはとにかく本を与えたらいいと思う。
中学では働いて借金に使って、修学旅行には高校ではいきませんが、母も苦しんでいるのでそのことを恨んだことは一度もないです。
(中学の時の修学旅行はお金を出してくれた人がいましたのでなんとかいけました)
反抗期は無かったです、母も働き詰めだったし、そんな間もなかったが、たまに喧嘩もしますが私に対しやることはちゃんとやって一言も言わなかった。
そうすると堪える訳で、母の会社に行って謝ると、うちの子は謝りに来る子だと他で自慢していたようですが。
小学校4年ぐらいから書いたりしていましたが、習慣的に書くようになったのが中学校1年生からです。
詩をノートに書いて先生に渡して評価してもらっているうちに習慣になりました。
「ピン止め」
金色に光るピン止め。 セメントに埋もれたピン止め。 指先ではじいて見たとて絶対に取れぬピン止め。 いったい誰が落としたのでしょう。 キラキラと光るピン止め」
一番古い記憶の残っている詩です。
福岡学芸大学に進む。
中学卒業後就職する予定だったが全部落ちてしまった、高校卒業後も全部落ちたが、ある受験先の支店長から聞いた話では、成績は本当に良かったが母子家庭だから入れられないと言われてしまいました。(それだったら何故試験を受けさせるのかと思いましたが)
大学に進み教師になるつもりだったが、結核になってしまって、しかたがないから東京に出て来ました。
コピーライターになるが向いていなくて編集の方に回されました。
私の稼ぎで母を養ってゆくようになりました、母が亡くなったのは17年前でしたが、「私がお前を育てたよりも何倍もお前に生かしてもらっている」と言っていました。
「12の遠景」と言う本を出しましたが、母のことを洗いざらい愛人のこととか書きましたが、母がそれで寝込んでしまい、訴えようと姉に言ったそうです。
倍の仕送りを送って、最後には5倍ぐらい仕送りをしました、なにも訴えられませんでした。
山本健吉賞を貰ったことがあるが、会場に母と姉が来て、「うちはどなたかが発明した文字を原稿用紙にうずめているだけなので大したことはございません」と言ったようです。
父は読書家で母は話がおかしい人でした、昔話とかとんち話とかを物凄く頭の中にしまいこんでる人でした。
だから私は学校のお話会のスターでした。
表立った教育ママ的なことは全然ない人でした。
母も本はよく読んでいました。
70歳になった時に母にあてて書いた詩
「お母さん、僕70歳になりました。 16年前78歳で亡くなったあなたは今も78歳。
僕とたったの8歳違い。 お母さんと言うよりも姉さんと呼ぶ方がしっくり来ます。
来年は7歳、再来年は6歳、 8年後にはおないどし、9年には僕の方が年上に、その後はあんたはどんどん若く、姉さんでなく妹、そのうちに娘になってしまう。
年齢ってつくづく奇妙ですね。」
「母が亡くなった後、母が僕を抱いている写真を机の前に飾っていますが、60数年前の若い寡婦が幼い男の子を抱いた写真、毎日見ているうち奇妙なことが起こりました。僕の記憶の中の晩年のあなたが日に日にぼやけ薄れついには消え、写真の若いあなたがあなたになった。 今ではもう老いたあなたの像を再生することはほとんどできない。
一体僕はなにをしたんでしょう。 僕の完遂の結果あなたは写真の中に入って若い寡婦になりおうせた。 僕も写真の中の男の子になりおうせた。 と言いたいところだがではこの写真の前にいて写真の中のあなたと僕を見ている老人はだれでしょう。
今僕がしなければならないのは写真の前の奇妙な老人を殺すこと。
見事殺しおおせた暁にはその時こそ言えますね。 僕1歳になりました、もう2歳にも3歳にも勿論70歳にもなりません。 安心してずーと25歳の若い母親でいてくださいね。 僕の大好きなたった一人のお母さん。」
息子にとっては母親は何時までも母親だし、こっちは息子ですね。
母はこの子を育てなければと言う思いで愛人という立場がありましたが、そういうことがあったために或る距離がいつもあり、母の胸で泣いたと言うようなことはなく、その寸前で止まって、結果的には距離があったと言うこと良かったと言う気がします。
母は正直な人でした、全く嘘が付けない人でした。
それはなによりも僕にとって宝と言うか、そういう人だったと思っています。
昭和12年福岡県生まれ、福岡教育大学を卒業後上京、広告会社に勤務、コピーライターなどの仕事に関わります。
中学時代から雑誌、詩や短歌、俳句などの投稿を始め注目されるようになります。
読売文学賞や高見順賞などを受賞、これまでにオペラ、新作のギリシャ悲劇などの台本作りも手掛けられました。
平成29年には蛇笏賞、11月には文化功労者に選出されました。
湘南に住んで23年になります。
育ったのが門司で海辺に帰ってきたと言うような感じです。
24歳の時に東京に来ました。
兄弟は3人ですが、僕が生まれて105日目に父が急性肺炎で亡くなって、その次の日に姉が亡くなっています。
次の姉は健在です。
父が亡くなったので父の妹の処に子供がいないので姉をやってほしいと言うことになりましたが、母がそれに耐えきれずに、僕と姉に毒(睡眠薬)を飲ませて、自分も飲んで、家に釘を打ちつけ死のうとしていた。
その時にたまたまじいさんばあさんが訪ねて来て、くぎ抜きでこじ開けて瀕死の親子を医者を連れて来て、蘇らせたわけです。
僕が生まれて200日ぐらいの時でした。
母は苦労ばっかりしてきた人で父と暮らした6年間が一番幸せの時だったようです。
ですから喪失感が凄かったみたいです。
思い出としての形見が二人の子供だけだったので、その半分が奪われることが耐えられなかったんでしょうね。
父が亡くなった後はいつまでも骨壷をお墓に入れないで父の身体の形にお骨を畳に並べてじーっとみていた人ですから。
回復したら伯母の処に姉を連れて行ってしまいました。
母は僕を育てるために色々なところに、旅館の仲居などをして働きに行きました。
そのうちにずーっと年上の世話をしてくれる人(愛人)が出来て中国に行っています。
母から預かった育てるお金の何分の一かで、じいさんばあさんは僕を他人に家に預ける訳です。
小さい時には他人の家を転々として、ままっ子扱いされたりしていました。
姉も僕のことを自分の兄弟とは思っていませんから、僕はつまはじきされていました。
小学校に入るちょっと前に母が帰ってきました。
親戚の人に連れていかれて、下関に行きました。(海を初めてみました。)
母が縁側に支那服を着て、ヒスイの指環をして煙草を吸っていて、よその人という感じがしました。(最後までそんな思いは抜けなかった。)
母と部屋を借りて住みましたが、母の世話をした人(妻子のある人)が訪ねて来る時の為の家でもあったわけです。
僕はその人をお父さんと言うように言われていた。(父ではないと言うことを知っていた。)
母は僕に対して厳しかった。
言葉使いも敬語を厳しく母に教えられ、中国での日本人の標準語と地元の子供達の喋る言葉を使い分けていた。
学校の試験で15点取ってきたら、鍋敷きで叩かれ釘が頭に刺さる位血が噴き出して、それから80点以下を取ってきたことはない。
一方、近所の子に虐められると、その子供を追っかけて行って、親がいる前でも鳥小屋に入って行って糞だらけになる子を引きずり出す人でした。
男の人ともそのうち別れて二人だけになり、生きていけないから死のうと言うんです。
一人で死んでください、でも僕は生き残りますと言ったら、その言葉に引かれて母も生きてきたと後に言ったようです。
母は少女時代から凄く映画が好きで、映画館の仕事があると言う話があったが子供がいると無理と言っているのを聞いて、僕がいなければ楽しく映画が見られると思って、小学校の4年の時に家出をしました。
ばあさんのところしかなくてそこにいたら、母がたずねて来て、その後母ともしばらく話が出来なくなった。
そのうち学校に行ったら英雄のように扱われました。
母は担ぎ屋になって一緒に付いて行ったりしました。
物凄く涙もろい人でした、人によくしてやることが大好きで、亡くなった後で随分借金がありましたが、人の代わりにお金を借りてやったりしていて、母のボランティアの為に僕は見も知らぬ人の借金を払っていました。
母は面白い人でした。
小さい頃のことですが、霊を呼び出す定型の言葉があったり、降りてくる定型の言葉があり、それを聞いていてそれを覚えてしまい、この世の言葉以外に言葉がある、目の前の人以外の遠くからと通信できる言葉があると言うことを知ったのが、詩歌体験だったと思います。
4つ位の時だったと思います。
友達と遊ぶよりも一人で遊ぶことが多かったので、何にも要らず遊べるのが言葉でした。
本を読み、書くことになって行きました。
母はどこかに行くと本を買ってきてくれました。
父の蔵書がありましたが米とかいもとかに変わりましたが、改造社の日本文学全集の中に少年文学集と言う本がありました。
「こがね丸」巖谷 小波、小川未明、白秋、最後に鈴木三重吉の「古事記物語」がある。
その本が僕にとっての文学の繋がりでした。
「こがね丸」は文語体、「番茶会談」が幸田露伴、「小公女」を若松賤子さんの訳、わたしの初めての文学の本でした。
その後古文に出会っても全く物怖じしなかった。
判らなくても子供にはとにかく本を与えたらいいと思う。
中学では働いて借金に使って、修学旅行には高校ではいきませんが、母も苦しんでいるのでそのことを恨んだことは一度もないです。
(中学の時の修学旅行はお金を出してくれた人がいましたのでなんとかいけました)
反抗期は無かったです、母も働き詰めだったし、そんな間もなかったが、たまに喧嘩もしますが私に対しやることはちゃんとやって一言も言わなかった。
そうすると堪える訳で、母の会社に行って謝ると、うちの子は謝りに来る子だと他で自慢していたようですが。
小学校4年ぐらいから書いたりしていましたが、習慣的に書くようになったのが中学校1年生からです。
詩をノートに書いて先生に渡して評価してもらっているうちに習慣になりました。
「ピン止め」
金色に光るピン止め。 セメントに埋もれたピン止め。 指先ではじいて見たとて絶対に取れぬピン止め。 いったい誰が落としたのでしょう。 キラキラと光るピン止め」
一番古い記憶の残っている詩です。
福岡学芸大学に進む。
中学卒業後就職する予定だったが全部落ちてしまった、高校卒業後も全部落ちたが、ある受験先の支店長から聞いた話では、成績は本当に良かったが母子家庭だから入れられないと言われてしまいました。(それだったら何故試験を受けさせるのかと思いましたが)
大学に進み教師になるつもりだったが、結核になってしまって、しかたがないから東京に出て来ました。
コピーライターになるが向いていなくて編集の方に回されました。
私の稼ぎで母を養ってゆくようになりました、母が亡くなったのは17年前でしたが、「私がお前を育てたよりも何倍もお前に生かしてもらっている」と言っていました。
「12の遠景」と言う本を出しましたが、母のことを洗いざらい愛人のこととか書きましたが、母がそれで寝込んでしまい、訴えようと姉に言ったそうです。
倍の仕送りを送って、最後には5倍ぐらい仕送りをしました、なにも訴えられませんでした。
山本健吉賞を貰ったことがあるが、会場に母と姉が来て、「うちはどなたかが発明した文字を原稿用紙にうずめているだけなので大したことはございません」と言ったようです。
父は読書家で母は話がおかしい人でした、昔話とかとんち話とかを物凄く頭の中にしまいこんでる人でした。
だから私は学校のお話会のスターでした。
表立った教育ママ的なことは全然ない人でした。
母も本はよく読んでいました。
70歳になった時に母にあてて書いた詩
「お母さん、僕70歳になりました。 16年前78歳で亡くなったあなたは今も78歳。
僕とたったの8歳違い。 お母さんと言うよりも姉さんと呼ぶ方がしっくり来ます。
来年は7歳、再来年は6歳、 8年後にはおないどし、9年には僕の方が年上に、その後はあんたはどんどん若く、姉さんでなく妹、そのうちに娘になってしまう。
年齢ってつくづく奇妙ですね。」
「母が亡くなった後、母が僕を抱いている写真を机の前に飾っていますが、60数年前の若い寡婦が幼い男の子を抱いた写真、毎日見ているうち奇妙なことが起こりました。僕の記憶の中の晩年のあなたが日に日にぼやけ薄れついには消え、写真の若いあなたがあなたになった。 今ではもう老いたあなたの像を再生することはほとんどできない。
一体僕はなにをしたんでしょう。 僕の完遂の結果あなたは写真の中に入って若い寡婦になりおうせた。 僕も写真の中の男の子になりおうせた。 と言いたいところだがではこの写真の前にいて写真の中のあなたと僕を見ている老人はだれでしょう。
今僕がしなければならないのは写真の前の奇妙な老人を殺すこと。
見事殺しおおせた暁にはその時こそ言えますね。 僕1歳になりました、もう2歳にも3歳にも勿論70歳にもなりません。 安心してずーと25歳の若い母親でいてくださいね。 僕の大好きなたった一人のお母さん。」
息子にとっては母親は何時までも母親だし、こっちは息子ですね。
母はこの子を育てなければと言う思いで愛人という立場がありましたが、そういうことがあったために或る距離がいつもあり、母の胸で泣いたと言うようなことはなく、その寸前で止まって、結果的には距離があったと言うこと良かったと言う気がします。
母は正直な人でした、全く嘘が付けない人でした。
それはなによりも僕にとって宝と言うか、そういう人だったと思っています。
2017年12月29日金曜日
藤岡弘(俳優) ・ヒーローを貫く人生(H29/11/29 OA)
藤岡弘(俳優) ・ヒーローを貫く人生(H29/11/29 OA)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2017/11/blog-post_29.htmlをご覧ください。
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2017/11/blog-post_29.htmlをご覧ください。
2017年12月28日木曜日
望月明義(日本白鳥の会会長) ・スワンのなみだ
望月明義(日本白鳥の会会長) ・スワンのなみだ
長野県安曇野市住まい、74歳、傷付いた動物の医療をする動物の病院を開設しています。
近くの川や湖には多くの白鳥が渡ってきます。
その中には人が捨てた釣り道具などに含まれた鉛を飲みこんで死亡するケースも後を立ちません。
望月さんは苦しむ多くの鳥たちのために新しい施術法を工夫して命を救って来ました。
環境汚染で苦しむ動物たちは身を持って人間に警告を発しているとの望月さんのお話を伺いました。
犀川の河原に行ってみると150羽程度、去年は600数十羽、多い時には2000羽を越えていたこともあるが、1がつに向けて増えて来ます。
ここの白鳥は東北から新潟経由なので、新潟に落ち穂が十分にあると、こちらは増えてこない。
シベリアで子供を産んでやってくるわけです。
11月頃から来て3月いっぱいで帰って行来ます。
世界中で6種類あり、日本に来るのはオオハクチョウ、コハクチョウで7万羽が来ます。
コハクチョウが3万5000位です。
くちばしが黄色と黒の模様で見分けるポイントがあります。
トランペッターと言う大きな鳥が時たま迷ってきたりします。
クロエリ白鳥:アルゼンチンにしかいない。
黒白鳥もいます。
平成2年から動物病院をやっています。
その前は長野県の職員で動物と携わってきました。
犀川が流れていて、昭和45年に白鳥の餌付けをして飛来地になっていた。
ダム湖で幼鳥が十字ブロックにあたって、私のところにかつぎ込まれてよくなってきました。
白鳥の病気が直せると言うことになってしまって、長野県の白鳥が全部来るようになりました。
他の動物も来るようになりました。
昭和48年に白鳥の会が出来ています。
白鳥は白く、大きい、美しい、家族のきずなが強い、夫婦は離れないので興味を持っている。
場所をちゃんと覚えて、太陽、地球の磁気、など色々言われているが不思議です。
3000km飛んでくると言われている。
日本には南は鳥取県辺りまで飛んできています。
最近鳥に無線機を取り付けて、人工衛星で追跡してフライウエイ、繁殖地までのコースがよく判るようになってきました。
コハクチョウはシベリアの北の方からやって来る、オオハクチョウはそのちょっと手前です。
オオハクチョウは北海道から東北地方に越冬して、コハクチョウは鳥取あたりまで来ます。
ロシアの極東で繁殖するときにも一つのつがいで1平方kmのテリトリーを築きます。
こちらのように集団でいるわけではないです。
羽の上と羽の下では空気の流れが違っていて、羽の後に渦が生じて上昇気流を作るので、次の白鳥はその位置に行くと楽に飛べる。
それが次々になりV字型の群れをつくって飛び、先頭は交代すると言われている。
白鳥は90羽ほど治療しています。
最初は鉛中毒が白鳥の主体を占めていました。
それが段々下火になってきた、法律、モラルの問題、釣りおもりを鉛から鉄に変えるなどの対策で効果が出てきたが、無くなった訳ではない。
鉛中毒は体力がなくなるので群れから離れる、胃腸が壊死するので焼ける感じがして水を多く飲み、青い下痢便をして歩けなくなり必ず死にます。
二羽の鉛中毒の白鳥が平成5年に運ばれてきました。(レントゲンで鉛の玉が写っていた)
北海道の情報を手に入れて、鉛解毒剤を朝晩注射しましたが死んでしまいました。
その頃は不忍池でカモに矢が刺さっていたとか山形県でも同様なことがありました。
白鳥はくちばしで水草などを食べて食道を通って腺胃があり、PH2.5ぐらいの強烈な胃酸を出して次に筋胃(砂肝)に来ます。
白鳥は無理に筋胃(砂肝)の中に小石を飲み込み、胃酸にまみれた食べ物を凄い力で揉んで消化して小腸などがありうんちになってでる訳です。
川の底に釣りおもりなどがあると、恰好な小石と思って飲みこんで、撹拌すると鉛は酸に融け込み吸収されて肝臓、胃、じん臓、神経がやられたりして鉛中毒になり亡くなってしまう。
鉛解毒剤では上手くいかなかった。
鉛そのものを取り出せばいいと思ったが、砂肝の筋肉が厚くて手術出来ないと言うことが常識だった。
マガモのメスが鉛中毒で近所の人が持ってきて、腺胃と筋胃の中間辺りを切って鉛を取り出すことに成功しました。
3日後には元気になり、米をパクパク食べましたが、4日目には亡くなってしまいました。
解剖したら、手術したところが不適当で(癒着しにくいところだった)、急に硬い米粒を食べさせてしまった事がよくなかった。
胃の下を切るといいと言うことをマガモから知りました。
亜成鳥(幼鳥の次)はまだ頭が黒いが、それが運び込まれて、手術をすることになり、レントゲン下で取り出しました。
3日目には元気になり物を食べるようになり、12日後には放鳥することになり、日本とロシアを行ったり来たりするように「環」と言う名を付けて、最初はうまく飛べなかったが1カ月後には飛ぶことが出来て帰って行きました。
諏訪湖にも同様なことが起きており、当方に4羽来ました。
もう体温が冷たくなっていて処置したが亡くなってしまいました。
次に1週間後また幼鳥がきましたが、体温が38℃ある。(正常の場合は40℃位ある)
手術をして、鉛を取り出して12日後には元気になり諏訪湖に返しました。
「マアちゃん」と言う名を付けました。
その時には家族が迎えに来ました。
母親は何処へ行っていたんだと言うばかりに離れてしまったが、父親がその後1週間一緒にいて面倒を見てその1週間後位には母親も機嫌を取り直して一緒になりました。
野生動物救護獣医師協会が有り、鉛中毒に関係した人が集まり、現状、今後に対するシンポジュウムがあり、状況と手術の方法を発表しました。
法律の規制、モラルの問題、子供たちへの教育などを話して帰ってきました。
11月に観に行ったら足輪を付けた白鳥がいると言うことで子供から連絡を受けました。
まさしく「マアちゃん」で嬉しくてカメラを向けました。
「ミサちゃん」夫婦も来て、その夫婦に子供を連れて来てくれました。
餌付けの問題もあります、鳥インフルエンザが有った以降餌付けは控えるようになっています。
環境キャパシティーに応じてくることが自然のことだと思います。
鉛汚染についてはいけないことなので、人間にも他の生物にも影響することなので法律、モラルにうったえて行動にうつさないといけないと思う。
長野県安曇野市住まい、74歳、傷付いた動物の医療をする動物の病院を開設しています。
近くの川や湖には多くの白鳥が渡ってきます。
その中には人が捨てた釣り道具などに含まれた鉛を飲みこんで死亡するケースも後を立ちません。
望月さんは苦しむ多くの鳥たちのために新しい施術法を工夫して命を救って来ました。
環境汚染で苦しむ動物たちは身を持って人間に警告を発しているとの望月さんのお話を伺いました。
犀川の河原に行ってみると150羽程度、去年は600数十羽、多い時には2000羽を越えていたこともあるが、1がつに向けて増えて来ます。
ここの白鳥は東北から新潟経由なので、新潟に落ち穂が十分にあると、こちらは増えてこない。
シベリアで子供を産んでやってくるわけです。
11月頃から来て3月いっぱいで帰って行来ます。
世界中で6種類あり、日本に来るのはオオハクチョウ、コハクチョウで7万羽が来ます。
コハクチョウが3万5000位です。
くちばしが黄色と黒の模様で見分けるポイントがあります。
トランペッターと言う大きな鳥が時たま迷ってきたりします。
クロエリ白鳥:アルゼンチンにしかいない。
黒白鳥もいます。
平成2年から動物病院をやっています。
その前は長野県の職員で動物と携わってきました。
犀川が流れていて、昭和45年に白鳥の餌付けをして飛来地になっていた。
ダム湖で幼鳥が十字ブロックにあたって、私のところにかつぎ込まれてよくなってきました。
白鳥の病気が直せると言うことになってしまって、長野県の白鳥が全部来るようになりました。
他の動物も来るようになりました。
昭和48年に白鳥の会が出来ています。
白鳥は白く、大きい、美しい、家族のきずなが強い、夫婦は離れないので興味を持っている。
場所をちゃんと覚えて、太陽、地球の磁気、など色々言われているが不思議です。
3000km飛んでくると言われている。
日本には南は鳥取県辺りまで飛んできています。
最近鳥に無線機を取り付けて、人工衛星で追跡してフライウエイ、繁殖地までのコースがよく判るようになってきました。
コハクチョウはシベリアの北の方からやって来る、オオハクチョウはそのちょっと手前です。
オオハクチョウは北海道から東北地方に越冬して、コハクチョウは鳥取あたりまで来ます。
ロシアの極東で繁殖するときにも一つのつがいで1平方kmのテリトリーを築きます。
こちらのように集団でいるわけではないです。
羽の上と羽の下では空気の流れが違っていて、羽の後に渦が生じて上昇気流を作るので、次の白鳥はその位置に行くと楽に飛べる。
それが次々になりV字型の群れをつくって飛び、先頭は交代すると言われている。
白鳥は90羽ほど治療しています。
最初は鉛中毒が白鳥の主体を占めていました。
それが段々下火になってきた、法律、モラルの問題、釣りおもりを鉛から鉄に変えるなどの対策で効果が出てきたが、無くなった訳ではない。
鉛中毒は体力がなくなるので群れから離れる、胃腸が壊死するので焼ける感じがして水を多く飲み、青い下痢便をして歩けなくなり必ず死にます。
二羽の鉛中毒の白鳥が平成5年に運ばれてきました。(レントゲンで鉛の玉が写っていた)
北海道の情報を手に入れて、鉛解毒剤を朝晩注射しましたが死んでしまいました。
その頃は不忍池でカモに矢が刺さっていたとか山形県でも同様なことがありました。
白鳥はくちばしで水草などを食べて食道を通って腺胃があり、PH2.5ぐらいの強烈な胃酸を出して次に筋胃(砂肝)に来ます。
白鳥は無理に筋胃(砂肝)の中に小石を飲み込み、胃酸にまみれた食べ物を凄い力で揉んで消化して小腸などがありうんちになってでる訳です。
川の底に釣りおもりなどがあると、恰好な小石と思って飲みこんで、撹拌すると鉛は酸に融け込み吸収されて肝臓、胃、じん臓、神経がやられたりして鉛中毒になり亡くなってしまう。
鉛解毒剤では上手くいかなかった。
鉛そのものを取り出せばいいと思ったが、砂肝の筋肉が厚くて手術出来ないと言うことが常識だった。
マガモのメスが鉛中毒で近所の人が持ってきて、腺胃と筋胃の中間辺りを切って鉛を取り出すことに成功しました。
3日後には元気になり、米をパクパク食べましたが、4日目には亡くなってしまいました。
解剖したら、手術したところが不適当で(癒着しにくいところだった)、急に硬い米粒を食べさせてしまった事がよくなかった。
胃の下を切るといいと言うことをマガモから知りました。
亜成鳥(幼鳥の次)はまだ頭が黒いが、それが運び込まれて、手術をすることになり、レントゲン下で取り出しました。
3日目には元気になり物を食べるようになり、12日後には放鳥することになり、日本とロシアを行ったり来たりするように「環」と言う名を付けて、最初はうまく飛べなかったが1カ月後には飛ぶことが出来て帰って行きました。
諏訪湖にも同様なことが起きており、当方に4羽来ました。
もう体温が冷たくなっていて処置したが亡くなってしまいました。
次に1週間後また幼鳥がきましたが、体温が38℃ある。(正常の場合は40℃位ある)
手術をして、鉛を取り出して12日後には元気になり諏訪湖に返しました。
「マアちゃん」と言う名を付けました。
その時には家族が迎えに来ました。
母親は何処へ行っていたんだと言うばかりに離れてしまったが、父親がその後1週間一緒にいて面倒を見てその1週間後位には母親も機嫌を取り直して一緒になりました。
野生動物救護獣医師協会が有り、鉛中毒に関係した人が集まり、現状、今後に対するシンポジュウムがあり、状況と手術の方法を発表しました。
法律の規制、モラルの問題、子供たちへの教育などを話して帰ってきました。
11月に観に行ったら足輪を付けた白鳥がいると言うことで子供から連絡を受けました。
まさしく「マアちゃん」で嬉しくてカメラを向けました。
「ミサちゃん」夫婦も来て、その夫婦に子供を連れて来てくれました。
餌付けの問題もあります、鳥インフルエンザが有った以降餌付けは控えるようになっています。
環境キャパシティーに応じてくることが自然のことだと思います。
鉛汚染についてはいけないことなので、人間にも他の生物にも影響することなので法律、モラルにうったえて行動にうつさないといけないと思う。
2017年12月27日水曜日
ボニージャックス(男声コーラスグループ) ・ボニージャックス“還暦”の歌声(2)
ボニージャックス(男声コーラスグループ) ・ボニージャックス“還暦”の歌声(2)
大町 正人さんが2011年に亡くなって、そのあとに吉田 秀行さんが継いでいます。
*2010年深夜便の歌「そして葉桜の時」 作詩 山本恵三子 作曲 西脇 久夫
ボニージャックスのファンには結構好評でした。
仲良しであるとか仲良しでないと言う感覚はないです、学生時代から当たり前に自分の周りにいる奴ら、と言う感じです。
吉田:声がかかるまではソロでやっていました。
彼の一番いいところは、コーラスの中で邪魔をしないです。
大町の代わりに彼が入って来て変わったという印象がないです、音色が変わっていない。
亡くなった時に3人でやろうかとの話もありましたが、3人では男性コーラスはやりにくいです。
彼に教えることになるから練習量は増えました。
*「青春の一ページ」 作詩:いではく 作曲:大谷明裕
ボニージャックス60周年記念で作った曲(早稲田に稲門歌謡会)
ダークダックスもぞうさん一人になってしまって、デューク・エイセスも今月で解散と言うことになってしまってさみしいです。
我々は呼んでくれる人がいるうちは辞めることが考えていなくて、呼んでくれる人がいる限りやるつもりでいます。
ベイビーブーとの出会いがあり、一緒にやったりしています。
ベイビーブーは5人のグループで2002年にデビューしたボーカルグループです。
7年前から歌声喫茶に行って活動しています。
ユースケ(水野裕介)君がCDを持ってきて贈呈しますと言われたが、「絶対に贈呈するな、売れといったんです、貰ったら聞かないよ」と言って買いました。
5000曲の譜面があるから全部あげるからいいのをアレンジして歌ったらと云うことで、交流を始めて3年ぐらいして、一緒にやるようになりました。
*「神田川」 作詩:北條誠 作曲:南こうせつ(ボニージャックスとベイビーブー)
ボニージャックスさんと一緒にさせていただいてから、ユニゾンが本当は一番大事なハーモニーの武器と言うことを改めて感じました。
(ユニゾン=「1つの音」の意味。2つ以上の音が同時に重なった場合をいう。)
ボニージャックスさんの精神性と言うか、綺麗な日本語、優しい日本語、響きのいい日本語を歌っていけば、5000曲にも通ずるものがあると思います。
*「じいじのシンデレラ」 作詩:じいじプロジェクト 作曲:宮川 彬良
(ボニージャックスとベイビーブー)
大町 正人さんが2011年に亡くなって、そのあとに吉田 秀行さんが継いでいます。
*2010年深夜便の歌「そして葉桜の時」 作詩 山本恵三子 作曲 西脇 久夫
ボニージャックスのファンには結構好評でした。
仲良しであるとか仲良しでないと言う感覚はないです、学生時代から当たり前に自分の周りにいる奴ら、と言う感じです。
吉田:声がかかるまではソロでやっていました。
彼の一番いいところは、コーラスの中で邪魔をしないです。
大町の代わりに彼が入って来て変わったという印象がないです、音色が変わっていない。
亡くなった時に3人でやろうかとの話もありましたが、3人では男性コーラスはやりにくいです。
彼に教えることになるから練習量は増えました。
*「青春の一ページ」 作詩:いではく 作曲:大谷明裕
ボニージャックス60周年記念で作った曲(早稲田に稲門歌謡会)
ダークダックスもぞうさん一人になってしまって、デューク・エイセスも今月で解散と言うことになってしまってさみしいです。
我々は呼んでくれる人がいるうちは辞めることが考えていなくて、呼んでくれる人がいる限りやるつもりでいます。
ベイビーブーとの出会いがあり、一緒にやったりしています。
ベイビーブーは5人のグループで2002年にデビューしたボーカルグループです。
7年前から歌声喫茶に行って活動しています。
ユースケ(水野裕介)君がCDを持ってきて贈呈しますと言われたが、「絶対に贈呈するな、売れといったんです、貰ったら聞かないよ」と言って買いました。
5000曲の譜面があるから全部あげるからいいのをアレンジして歌ったらと云うことで、交流を始めて3年ぐらいして、一緒にやるようになりました。
*「神田川」 作詩:北條誠 作曲:南こうせつ(ボニージャックスとベイビーブー)
ボニージャックスさんと一緒にさせていただいてから、ユニゾンが本当は一番大事なハーモニーの武器と言うことを改めて感じました。
(ユニゾン=「1つの音」の意味。2つ以上の音が同時に重なった場合をいう。)
ボニージャックスさんの精神性と言うか、綺麗な日本語、優しい日本語、響きのいい日本語を歌っていけば、5000曲にも通ずるものがあると思います。
*「じいじのシンデレラ」 作詩:じいじプロジェクト 作曲:宮川 彬良
(ボニージャックスとベイビーブー)
2017年12月26日火曜日
ボニージャックス(男声コーラスグループ) ・ボニージャックス“還暦”の歌声(1)
ボニージャックス(男声コーラスグループ) ・ボニージャックス“還暦”の歌声(1)
ボニージャックスは昭和33年早稲田大学の男性合唱団グリーンクラブ出身の4人で結成されました。
1962年に「小さい秋見つけた」で日本レコード大賞童謡賞を受賞、童謡や叙情歌、世界の民謡などレパートリーは5000曲を越えています。
最近では 60周年記念アルバム、昭和歌暦や、若手コーラスグループ「ベイビーブー」と新グループ「ボニーさんとブー」など活動を続けています。
バスの玉田 元康(83歳)、バリトンの鹿島 武臣(83歳 1月1日で84歳))、セカンドテナー吉田 秀行(52歳)、トップテナー西脇 久夫(81歳)。
*「はるかな友に」 作詞作曲 磯部 俶 (いそべ とし)
昭和33年12月24日が初ステージ。
4人でライトミュジックやろうとしたらはまってしまってそれがきっかけになりました。
(大町 正人を含めて)
就職は決まっていたが、のど自慢みたいな番組に出てみようと言うことで出たら、審査員をやっていた笈田敏夫さんが大変褒めてくれて、先輩にダークダックス(慶応)が居て、やって見ようかということになりました。
ジャズばやりで進駐軍のキャンプ回りで鍛えられました。
磯部 俶 (いそべ とし)さんがボニージャックスと言う名前を付けてくれました、「愉快な野郎」と言うような意味合いです。
磯部 俶 (いそべ とし)さんにはみんな仲人をして貰いました。
私(吉田 秀行)は2003年に入りました。
*「あの人が居た夏」 作詞:喜多條忠 作曲:大谷明裕 新曲
ボニージャックス60周年記念で出そうとした。
早稲田に稲門歌謡会があり、プロの作詞作曲家、レコード会社の会長社長、プロダクションなど音楽関係の人たちが飲み会ばっかりやっていたが、ボニージャックス60周年記念と云うことで味のあることをしようと言う事で、会長の鈴木淳(作曲家)さんが副会長いではく(作詞家)さん、幹事長が大谷明裕(作曲家)さん、喜多條忠(作詞家)さん等が私たちのためにCDを作ってくれました。
オリジナルシングでヒット作を出さなければいけない様な立場だったらしいが、歴史唱歌、世界の花、世界の街とかを歌うLPを作ってくれました。(ヒット狙いではない)
レパートリーは5000曲以上になりました。
ロバの会(磯部 俶、中田喜直、中田一次など)が新しい童謡を作る会を主催して童謡が物凄く増えました。
*「小さい秋みつけた」 作詩:さとうはちろう 作曲:中田喜直
(一)誰かさんが 誰かさんが 誰かさんが みつけた
ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 みつけた
めかくし鬼さん 手のなる方へ 澄ましたお耳に
かすかにしみた 呼んでる口笛 もずの声
ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 みつけた
(二)誰かさんが 誰かさんが 誰かさんが みつけた
ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 みつけた
お部屋は北向き くもりのガラス うつろな目の色
とかしたミルク わずかなすきから 秋の風
ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 みつけた
(三)誰かさんが 誰かさんが 誰かさんが みつけた
ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 みつけた
昔の昔の 風見の鳥の ぼやけたとさかに
はぜの葉ひとつ はぜの葉あかくて 入日色
ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 みつけた
紅白歌合戦に出場する。
ロシア民謡、親しみやすいメロディー。
ソ連に行ったときにはロシア民謡ではなくて日本語で日本の歌を歌ってほしいと言われた。
「ブルーシャトー」、「シクラメンの香り」、「恋のバカンス」などが受けました。
「車いすのおしゃべり」、身体障害者の施設に慰問に行っていたが、詩集を貰ったりして、そこから作曲したりして、作ってくれた施設に行って歌ってあげていたりしていました。
その後LPにすることになり、世の中に広めようと言うことで「車いすのおしゃべり」というタイトルを付けました。
ボニージャックスは昭和33年早稲田大学の男性合唱団グリーンクラブ出身の4人で結成されました。
1962年に「小さい秋見つけた」で日本レコード大賞童謡賞を受賞、童謡や叙情歌、世界の民謡などレパートリーは5000曲を越えています。
最近では 60周年記念アルバム、昭和歌暦や、若手コーラスグループ「ベイビーブー」と新グループ「ボニーさんとブー」など活動を続けています。
バスの玉田 元康(83歳)、バリトンの鹿島 武臣(83歳 1月1日で84歳))、セカンドテナー吉田 秀行(52歳)、トップテナー西脇 久夫(81歳)。
*「はるかな友に」 作詞作曲 磯部 俶 (いそべ とし)
昭和33年12月24日が初ステージ。
4人でライトミュジックやろうとしたらはまってしまってそれがきっかけになりました。
(大町 正人を含めて)
就職は決まっていたが、のど自慢みたいな番組に出てみようと言うことで出たら、審査員をやっていた笈田敏夫さんが大変褒めてくれて、先輩にダークダックス(慶応)が居て、やって見ようかということになりました。
ジャズばやりで進駐軍のキャンプ回りで鍛えられました。
磯部 俶 (いそべ とし)さんがボニージャックスと言う名前を付けてくれました、「愉快な野郎」と言うような意味合いです。
磯部 俶 (いそべ とし)さんにはみんな仲人をして貰いました。
私(吉田 秀行)は2003年に入りました。
*「あの人が居た夏」 作詞:喜多條忠 作曲:大谷明裕 新曲
ボニージャックス60周年記念で出そうとした。
早稲田に稲門歌謡会があり、プロの作詞作曲家、レコード会社の会長社長、プロダクションなど音楽関係の人たちが飲み会ばっかりやっていたが、ボニージャックス60周年記念と云うことで味のあることをしようと言う事で、会長の鈴木淳(作曲家)さんが副会長いではく(作詞家)さん、幹事長が大谷明裕(作曲家)さん、喜多條忠(作詞家)さん等が私たちのためにCDを作ってくれました。
オリジナルシングでヒット作を出さなければいけない様な立場だったらしいが、歴史唱歌、世界の花、世界の街とかを歌うLPを作ってくれました。(ヒット狙いではない)
レパートリーは5000曲以上になりました。
ロバの会(磯部 俶、中田喜直、中田一次など)が新しい童謡を作る会を主催して童謡が物凄く増えました。
*「小さい秋みつけた」 作詩:さとうはちろう 作曲:中田喜直
(一)誰かさんが 誰かさんが 誰かさんが みつけた
ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 みつけた
めかくし鬼さん 手のなる方へ 澄ましたお耳に
かすかにしみた 呼んでる口笛 もずの声
ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 みつけた
(二)誰かさんが 誰かさんが 誰かさんが みつけた
ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 みつけた
お部屋は北向き くもりのガラス うつろな目の色
とかしたミルク わずかなすきから 秋の風
ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 みつけた
(三)誰かさんが 誰かさんが 誰かさんが みつけた
ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 みつけた
昔の昔の 風見の鳥の ぼやけたとさかに
はぜの葉ひとつ はぜの葉あかくて 入日色
ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 みつけた
紅白歌合戦に出場する。
ロシア民謡、親しみやすいメロディー。
ソ連に行ったときにはロシア民謡ではなくて日本語で日本の歌を歌ってほしいと言われた。
「ブルーシャトー」、「シクラメンの香り」、「恋のバカンス」などが受けました。
「車いすのおしゃべり」、身体障害者の施設に慰問に行っていたが、詩集を貰ったりして、そこから作曲したりして、作ってくれた施設に行って歌ってあげていたりしていました。
その後LPにすることになり、世の中に広めようと言うことで「車いすのおしゃべり」というタイトルを付けました。
詩を貰って作ってあげると言うことではなく、一緒に作ろうというスタンスです。
始めたのは1970年代でした。
社会のルールに従って製作作りをやって、作った人にはそれだけの権利があると言う、そういう作り方をしてきました。
三方一両得(著作権)子供達、歌い手、レコード会社と言うことです。
*「ちんちん千鳥」 作詞:北原白秋 作曲:近衛秀麿
ちんちん千鳥の啼く夜さは、
啼く夜さは、
硝子戸しめてもまだ寒い、
まだ寒い。
ちんちん千鳥の啼く聲は、
啼く聲は、
燈を消してもまだ消えぬ、
まだ消えぬ。
ちんちん千鳥は親無いか、
親無いか、
夜風に吹かれて川の上、
川の上。
ちんちん千鳥よお寢らぬか、
お寢らぬか、
夜明けの明星が早や白らむ、
早や白らむ。
2017年12月25日月曜日
頭木弘樹(文学紹介者) ・【絶望名言】ベートーヴェン
頭木弘樹(文学紹介者) ・【絶望名言】ベートーヴェン
「私は何度も神を呪った。
神は自らが作り出したものを、偶然のなすままにして顧り見ないのだ。
そのために最も美しい花でさえ滅びてしまうことがある。」(ベートーヴェン)
手紙、手記、耳が聞こえなくなったときに筆談するときの手帳などが残っていてそれを紹介します。
子供時代は父親がアルコール依存症で、自分は働かないで、子供に働かせていた。
思春期には母親が亡くなって、さまざまな病気に悩まされ続けて、恋愛はすべてうまくいかなくて一生独身で、お金にも困ることが多くて、晩年に甥(弟の子供)にも悩まされ続ける。
一生次々苦難が襲ってくる。
「人生は美しい、しかし私の人生にはいつも苦い毒が混じっている。」(若い頃の言葉)
27歳頃からかなり難聴で、30歳でほぼ聞こえなくなる。
ずーっと隠していたが、2人の親友に手紙で打ち分ける、その一節が冒頭の物。
その続きが「私にとって最も大切な聴覚が、どうにも駄目になってきたんだ。
私はなんて悲しく生きなければならないのだろう。」
私も難聴になったことがあり、思っていたことと違う。
聞こえないから静かだと思うが、難聴って凄くうるさい。
①耳鳴りがひどい。
②聞こえないがある種の音が非常につらく響く。
③人間は音で気配を察知するが、気配が失われる、そうすると不安が入って来る。
(不気味な気配を逆に感じてしまう。)
ベートーヴェンは①,②について書き残している。
作曲しようとしたら大変なことだと思う、良く作曲できたと思う。
他にいつも腹痛下痢に悩まされていた。
目もよくなかったし、天然痘、肺の病気、リュウマチ、黄疸、結膜炎とか色んな病気になって悩んだ。(元々身体が弱かった。)
28歳で「悟った人間になることは簡単なことではない」と言っている。
「神が与えた試練で乗り越えるべきものだとは思っていないで、偶然なったと、偶然のなすままに神はするんだ」と、文句を神様に言っている。
そうはなかなかとらえきれないものです。
偶然と思ったときに苦しみは倍増すると思います、必然を人は求めると思う。
因果関係を人は求めたがる。
現実には全くの偶然にひどいことが起きてしまったりする。
それを受け止めかねてベートーヴェンはくるしんでいて、それをあくまでベートーヴェンは偶然ととらえていて素晴らしいと思います。
*「運命」
「出来ることなら私は運命と戦って勝ちたい、だがこの世の中で自分が最もみじめな存在なのではないか、と感じてしまう事が何度もある。
諦めるしかないのだろうか。
諦めとはなんて悲しい隠れ家だろう。
しかもそれだけが、今の私に残されている隠れ家なのだ。」
1801年 30歳の時の親友あての手紙の一節。
「運命」はこの手紙の何年も後に作曲されたもの。
最初のフレーズは難聴になったころにつくられたものらしい。
最初の処はどういうものかと聞かれて、運命がドアを叩く音だと、ベートーヴェンが答えたので「運命」と言うタイトルになったと言われている。
「これらすべての不幸を超越しようと私も頑張ってはみた、しかしどうしたら私にそんなことが出来るだろうか」
「諦めしかないのか、しかし、諦めとはなんと悲しい隠れ家だろうか」と言っている。
受け入れて静かに心を落ち着けると言うこともあるかと思うが、ベートーヴェンは悲しい隠れ家と言って諦めない。(しかし苦しみ続ける。)
「希望よ、悲しい気持ちでお前に別れを告げよう。
いくらかは治るのでないか、そういう希望を抱いてここまで来たが、今や完全に諦めるしかない。
秋の木の葉が落ちて枯れるように私の希望も枯れた。
ここに来た時のまま私はここを去る。
美しい夏の日々が私を励まし、勇気も沸いたがそれも今は消え去った。
ああ、神よ、一日でもいいから私によろこびの日を与えてください。
本当の喜びが心に響き渡る、そういうことからなんと遠くなってしまったことでしょう。
再びそんな日が来るのでしょうか。
もう決して来ない。
そんな、それはあまりにも残酷です。」 (ハイリゲンシュタットの遺書から)
ハイリゲンシュタットに温泉治療にやって来て、遺書を書くと言う展開になる。
腸の調子も悪く、難聴の治療に来たが腸は良くなるが、耳は良くならないまま去ることになる。
自殺しかかるが、思いとどまった後に書いている。(希望に別れを告げている。)
これから10年間の間に、さまざまな名曲を次々生み出す。
「英雄」、「運命」、「田園」など生涯に作った半分ぐらいは、この時期に生み出されている。
希望を持ち続け過ぎてゆがんでしまうこともある。
あがかないで難聴のなかで曲を作って行く決意をする。
絶望はなにも取れない土地ではなくて、色んなものが収穫できる土地でもあると思う。
「辛いことを辛抱しながら考えてみると、一切の災いは何かしら良い物を伴ってきている」、とも言っています。
しかし絶望はない方がいい、「ああ、この病気が治りさえしたら、私は全世界を抱きしめるだろう」、「今の不幸の重荷の半分だけでも減らすことが出来たらどんなにいいだろう」ともベートーヴェンは言っている。
「不機嫌でうち解けない人間嫌い、私のことをそう思っている人は多い。
しかしそうではないのだ。
私がそんなふうに見える本当の理由を誰も知らない。
私は幼いころから情熱的で活発な性質だった、人との付き合いも好きなのだ。
しかしあえて人々から遠ざかり。孤独な生活をおくらなければならなくなった。
無理をして人々と交わろうとすれば、耳の聞こえない悲しみが倍増してしまう。
辛い思いをした挙句、又一人の生活に押し戻されてしまうのだ。」
服装もどんどん無頓着になって行く。
「汚れた熊」とあだ名されたり、汚い為逮捕されたこともある。
潔癖症でよく手を洗っていて、何か精神的な疾患があったのではないか言われるが、そうは思わない。
人に会わなくなって服装に無頓着になるのは当たり前だと思う。
胃腸の弱い人はよく手を洗う傾向がある。(これらは何ら矛盾はない)
孤独と身体の不調のため。
映画でスマホ操作をしている人がいるが、マナーが悪いと言われるが、視覚障害の人がスマホで音声ガイドを聞いていたりする人がいる。(何か事情があるのではないかと思うことも必要)
優しく注意すると向こうも言いやすい。
*「歓喜の歌」
「苦悩を突きぬけて、歓喜に到れ。
羊飼いの謡う歌が聞こえてきて、みんながそれに耳を傾けているときに、私だけが全然聞こえ無かった時、それはなんという惨めさだっただろう。
自ら命を断つまで後ほんの少しの所だった。
私を引きとめたのは芸術だった。
自分が使命を感じている仕事を成し遂げないで、この世を見捨ててはいけないように思われた。」 (友人への手紙よりの引用)
「私たちはひたすら悩むために、そして歓喜するために生れついているのです。
最善なのは苦悩を突きぬけて歓喜に到るところでしょう。」と言っている。
「苦悩を突きぬけて、歓喜に到れ。」
「いちばん深い地獄にいるものほど清らかな歌を歌うことが出来る。
天使の歌だと思っているのは、実は彼らの歌なのです」 (カフカの言葉)
暗い谷の底にいる人間ほどうえの明るさを求めて、明るさに感激するし、明るさの値打ちを一番知っているのは暗い谷底にいる人間だと思う。
ベートーヴェンは絶望の中にあったからこそ、歓喜の素晴らしさをだれよりもわかっていてそれを凄く願った。
歓喜の歌を作曲したが、まだ谷底に居て歓喜を求め続けて、そこから歌っている歌だと思います。
歓喜の値打ちが一番身にしみているから、そこから歌ってくる歌声が一番歓喜のうつくしい歌なんではないか。
ベートーヴェンの歓喜の歌もそういう曲だと思う。
めでたしのお祝いの曲ではなくて、苦悩から見た歓喜の輝きの曲、だから苦悩している人々に非常に響くのではないかと思う。
第九はベートーヴェンが生きている間は評価されなかった。
第一次世界大戦の後、年末に平和を願って第九が演奏されて、そこから年末に演奏することが始まっている。
日本の初演も第一次世界大戦の時に、日本のドイツ人捕虜収容所でドイツ人が演奏したのが日本での最初です。
大変悲惨な戦争が有ってそこから平和を求めるとか、捕虜収容所から平和を求めるとか、大変悲惨な状況から歓喜を求めるときに、演奏されて再評価は進んで行った。
彼が一番大事に思ってるのは「人間の善良な心だ」と言っている。
悲惨な中で、何とか生きる、生きると言うことだけでほかの人の励みになるのではないかと思っていたのが、ベートーヴェンの思っていた事だと思います。
「私は何度も神を呪った。
神は自らが作り出したものを、偶然のなすままにして顧り見ないのだ。
そのために最も美しい花でさえ滅びてしまうことがある。」(ベートーヴェン)
手紙、手記、耳が聞こえなくなったときに筆談するときの手帳などが残っていてそれを紹介します。
子供時代は父親がアルコール依存症で、自分は働かないで、子供に働かせていた。
思春期には母親が亡くなって、さまざまな病気に悩まされ続けて、恋愛はすべてうまくいかなくて一生独身で、お金にも困ることが多くて、晩年に甥(弟の子供)にも悩まされ続ける。
一生次々苦難が襲ってくる。
「人生は美しい、しかし私の人生にはいつも苦い毒が混じっている。」(若い頃の言葉)
27歳頃からかなり難聴で、30歳でほぼ聞こえなくなる。
ずーっと隠していたが、2人の親友に手紙で打ち分ける、その一節が冒頭の物。
その続きが「私にとって最も大切な聴覚が、どうにも駄目になってきたんだ。
私はなんて悲しく生きなければならないのだろう。」
私も難聴になったことがあり、思っていたことと違う。
聞こえないから静かだと思うが、難聴って凄くうるさい。
①耳鳴りがひどい。
②聞こえないがある種の音が非常につらく響く。
③人間は音で気配を察知するが、気配が失われる、そうすると不安が入って来る。
(不気味な気配を逆に感じてしまう。)
ベートーヴェンは①,②について書き残している。
作曲しようとしたら大変なことだと思う、良く作曲できたと思う。
他にいつも腹痛下痢に悩まされていた。
目もよくなかったし、天然痘、肺の病気、リュウマチ、黄疸、結膜炎とか色んな病気になって悩んだ。(元々身体が弱かった。)
28歳で「悟った人間になることは簡単なことではない」と言っている。
「神が与えた試練で乗り越えるべきものだとは思っていないで、偶然なったと、偶然のなすままに神はするんだ」と、文句を神様に言っている。
そうはなかなかとらえきれないものです。
偶然と思ったときに苦しみは倍増すると思います、必然を人は求めると思う。
因果関係を人は求めたがる。
現実には全くの偶然にひどいことが起きてしまったりする。
それを受け止めかねてベートーヴェンはくるしんでいて、それをあくまでベートーヴェンは偶然ととらえていて素晴らしいと思います。
*「運命」
「出来ることなら私は運命と戦って勝ちたい、だがこの世の中で自分が最もみじめな存在なのではないか、と感じてしまう事が何度もある。
諦めるしかないのだろうか。
諦めとはなんて悲しい隠れ家だろう。
しかもそれだけが、今の私に残されている隠れ家なのだ。」
1801年 30歳の時の親友あての手紙の一節。
「運命」はこの手紙の何年も後に作曲されたもの。
最初のフレーズは難聴になったころにつくられたものらしい。
最初の処はどういうものかと聞かれて、運命がドアを叩く音だと、ベートーヴェンが答えたので「運命」と言うタイトルになったと言われている。
「これらすべての不幸を超越しようと私も頑張ってはみた、しかしどうしたら私にそんなことが出来るだろうか」
「諦めしかないのか、しかし、諦めとはなんと悲しい隠れ家だろうか」と言っている。
受け入れて静かに心を落ち着けると言うこともあるかと思うが、ベートーヴェンは悲しい隠れ家と言って諦めない。(しかし苦しみ続ける。)
「希望よ、悲しい気持ちでお前に別れを告げよう。
いくらかは治るのでないか、そういう希望を抱いてここまで来たが、今や完全に諦めるしかない。
秋の木の葉が落ちて枯れるように私の希望も枯れた。
ここに来た時のまま私はここを去る。
美しい夏の日々が私を励まし、勇気も沸いたがそれも今は消え去った。
ああ、神よ、一日でもいいから私によろこびの日を与えてください。
本当の喜びが心に響き渡る、そういうことからなんと遠くなってしまったことでしょう。
再びそんな日が来るのでしょうか。
もう決して来ない。
そんな、それはあまりにも残酷です。」 (ハイリゲンシュタットの遺書から)
ハイリゲンシュタットに温泉治療にやって来て、遺書を書くと言う展開になる。
腸の調子も悪く、難聴の治療に来たが腸は良くなるが、耳は良くならないまま去ることになる。
自殺しかかるが、思いとどまった後に書いている。(希望に別れを告げている。)
これから10年間の間に、さまざまな名曲を次々生み出す。
「英雄」、「運命」、「田園」など生涯に作った半分ぐらいは、この時期に生み出されている。
希望を持ち続け過ぎてゆがんでしまうこともある。
あがかないで難聴のなかで曲を作って行く決意をする。
絶望はなにも取れない土地ではなくて、色んなものが収穫できる土地でもあると思う。
「辛いことを辛抱しながら考えてみると、一切の災いは何かしら良い物を伴ってきている」、とも言っています。
しかし絶望はない方がいい、「ああ、この病気が治りさえしたら、私は全世界を抱きしめるだろう」、「今の不幸の重荷の半分だけでも減らすことが出来たらどんなにいいだろう」ともベートーヴェンは言っている。
「不機嫌でうち解けない人間嫌い、私のことをそう思っている人は多い。
しかしそうではないのだ。
私がそんなふうに見える本当の理由を誰も知らない。
私は幼いころから情熱的で活発な性質だった、人との付き合いも好きなのだ。
しかしあえて人々から遠ざかり。孤独な生活をおくらなければならなくなった。
無理をして人々と交わろうとすれば、耳の聞こえない悲しみが倍増してしまう。
辛い思いをした挙句、又一人の生活に押し戻されてしまうのだ。」
服装もどんどん無頓着になって行く。
「汚れた熊」とあだ名されたり、汚い為逮捕されたこともある。
潔癖症でよく手を洗っていて、何か精神的な疾患があったのではないか言われるが、そうは思わない。
人に会わなくなって服装に無頓着になるのは当たり前だと思う。
胃腸の弱い人はよく手を洗う傾向がある。(これらは何ら矛盾はない)
孤独と身体の不調のため。
映画でスマホ操作をしている人がいるが、マナーが悪いと言われるが、視覚障害の人がスマホで音声ガイドを聞いていたりする人がいる。(何か事情があるのではないかと思うことも必要)
優しく注意すると向こうも言いやすい。
*「歓喜の歌」
「苦悩を突きぬけて、歓喜に到れ。
羊飼いの謡う歌が聞こえてきて、みんながそれに耳を傾けているときに、私だけが全然聞こえ無かった時、それはなんという惨めさだっただろう。
自ら命を断つまで後ほんの少しの所だった。
私を引きとめたのは芸術だった。
自分が使命を感じている仕事を成し遂げないで、この世を見捨ててはいけないように思われた。」 (友人への手紙よりの引用)
「私たちはひたすら悩むために、そして歓喜するために生れついているのです。
最善なのは苦悩を突きぬけて歓喜に到るところでしょう。」と言っている。
「苦悩を突きぬけて、歓喜に到れ。」
「いちばん深い地獄にいるものほど清らかな歌を歌うことが出来る。
天使の歌だと思っているのは、実は彼らの歌なのです」 (カフカの言葉)
暗い谷の底にいる人間ほどうえの明るさを求めて、明るさに感激するし、明るさの値打ちを一番知っているのは暗い谷底にいる人間だと思う。
ベートーヴェンは絶望の中にあったからこそ、歓喜の素晴らしさをだれよりもわかっていてそれを凄く願った。
歓喜の歌を作曲したが、まだ谷底に居て歓喜を求め続けて、そこから歌っている歌だと思います。
歓喜の値打ちが一番身にしみているから、そこから歌ってくる歌声が一番歓喜のうつくしい歌なんではないか。
ベートーヴェンの歓喜の歌もそういう曲だと思う。
めでたしのお祝いの曲ではなくて、苦悩から見た歓喜の輝きの曲、だから苦悩している人々に非常に響くのではないかと思う。
第九はベートーヴェンが生きている間は評価されなかった。
第一次世界大戦の後、年末に平和を願って第九が演奏されて、そこから年末に演奏することが始まっている。
日本の初演も第一次世界大戦の時に、日本のドイツ人捕虜収容所でドイツ人が演奏したのが日本での最初です。
大変悲惨な戦争が有ってそこから平和を求めるとか、捕虜収容所から平和を求めるとか、大変悲惨な状況から歓喜を求めるときに、演奏されて再評価は進んで行った。
彼が一番大事に思ってるのは「人間の善良な心だ」と言っている。
悲惨な中で、何とか生きる、生きると言うことだけでほかの人の励みになるのではないかと思っていたのが、ベートーヴェンの思っていた事だと思います。
2017年12月24日日曜日
池谷幸雄(体操クラブ代表) ・【スポーツ名場面の裏側で】高校生メダリストから30年
池谷幸雄(体操クラブ代表)・【スポーツ名場面の裏側で】高校生メダリストから30年
1988年のソウルオリンピックで日本男子体操史上初めて高校生として出場、現在47歳。
大阪の清風高校3年の時、同級生西川大輔さんとともにソウルオリンピックで団体銅メダルの立役者となり、人気を集めました。
バルセロナオリンピックでも種目別の床で銀メダルを獲得し、現在の男子体操の復活のきっかけを作ったと言われています。
タレントと体操指導者として活躍している池谷さんに伺います。
あっという間に30年が経ちました。
西川さんは日本大学スポーツ科学部教授、入試関係でどうしても来られないと言うことでした。
1988年のソウルオリンピック。
日本体操は5連覇を達成後、1984年ロサンゼルス大会の3位以降メダルは取れず苦しい状況でした。
ソウルオリンピック、男子団体の規定でソビエト、東ドイツに次いで3位につく。
床、跳馬、てつぼうの3種目で9.90をマーク、西川選手との活躍で4位中国に1.25の差を付ける。
団体自由、ソビエトが1位、2位が東ドイツが確定。
3位は日本、中国、ブルガリアの3チームが大接戦となる。
日本は5種目修了後、4位に落ちる。
あん馬で西川選手、水島選手が共に10点満点を出して3位に入る。(4位中国とは0.75差)
団体でとれたことは一番の喜びでした。
個人総合に3人(池谷、西川、水島)が出場、8位(池谷)に入る。
プレッシャーはなかった、立場的に楽でした。(初出場だったのが良かった。)
韓国なので日本の応援がメチャクチャ多かった。
個人床運動、9.950で銅メダルを獲得。
清風中学で全国中学大会3連覇をして清風高校に入り、高校1年の時に高校総体で優勝。
1年の終わりころ、当時の山口 彦則監督からソウルオリンピックを目指さないかと西川選手とともに誘われる。
オリンピックなんて夢のまた夢の話だと感じ、ポカンとしていました。
最終代表選考会までは1年半しかなかった。
代表選考用の規定演技はほとんどやっていなかった。
日体大にお世話になって、泊りながら、合宿をやってました。
具志堅 幸司さんの処に泊らせてもらってやったりもしました。
全日本選手権がオリンピックの第一次予選としてあるが、その前に高校総体予選(大阪の市予選、府大会、近畿予選、インターハイ)、1ヶ月後にそこから上位24名が高校選抜に出て、そこから上位7名が全日本選手権に出られる。
高校の規定内容と全日本選手権での規定内容は違う。
西川選手は25位だったが、わたしが3位に入ったので、同じ実力と言うことで推薦で 二次予選に通してもらった。
二次予選は西川選手が1位、わたしが2位だった。
NHK杯代表選手権では西川選手が1位で私が2位でした。
注目されていたので凄くプレッシャーを感じました。
ソウルオリンピックから帰って来て吃驚しました。
送りだされた時にはメダルは多分取れないだろうと言う雰囲気で報道陣もいなかったが、帰って来て空港ではもみくちゃでした。
私はどちらかと言うとダイナミック(床、跳馬、鉄棒が得意)な感じが特徴で、西川選手はしなやかさ(鞍馬、平行棒が得意)で対照的。
気の強さなど性格は同じ。
彼は繊細で日本人の審判には受けるが、外国に行くと私の方が受ける。
1992年バルセロナオリンピック 当時21歳。
団体で銅メダル。
もうメダリストだったので、今度は金メダルをとってこいと言うような使命を帯びたオリンピックだったのでメチャクチャ大変でした。
種目別決勝床、前の選手の演技で時間が凄く待たされた。
その間世界中に自分が映っているんで嬉しかった。
床の最後ムーンサルトを決めることが出来た。
得点が9.787で銀メダルを獲得する。
チャンスはあるかなと思ったがメダルは取れるかどうかはわからなかった。
22歳で現役引退を発表する。
次のオリンピックには出られるかとは思ったが、メダルは取れる自信はなかった。
怪我にも悩まされていて、だましだまし練習をしてバルセロナには出られた。
芸能界の世界は自分の性格にも合っていて、芸能界に入りたいと言う気持ちはありました。
日本体操協会の理事をしていたり、現在全日本ジュニア体操クラブ連盟理事として、体操指導者として8割、タレント2割の比率です。
体操教室をたちあげ、全国で1200人の子供を指導。
夢目標を持つ事、人間としてちゃんとしていないといけない。
私の目標値としては
①自分のクラブからオリンピックの金メダリストを出すこと。
②街に体操教室がある環境を全国に作っていきたい。
10月モントリオール世界選手権で女子種目別床で村上茉愛(まい)選手(1期生)が金メダルを取る。
1988年のソウルオリンピックで日本男子体操史上初めて高校生として出場、現在47歳。
大阪の清風高校3年の時、同級生西川大輔さんとともにソウルオリンピックで団体銅メダルの立役者となり、人気を集めました。
バルセロナオリンピックでも種目別の床で銀メダルを獲得し、現在の男子体操の復活のきっかけを作ったと言われています。
タレントと体操指導者として活躍している池谷さんに伺います。
あっという間に30年が経ちました。
西川さんは日本大学スポーツ科学部教授、入試関係でどうしても来られないと言うことでした。
1988年のソウルオリンピック。
日本体操は5連覇を達成後、1984年ロサンゼルス大会の3位以降メダルは取れず苦しい状況でした。
ソウルオリンピック、男子団体の規定でソビエト、東ドイツに次いで3位につく。
床、跳馬、てつぼうの3種目で9.90をマーク、西川選手との活躍で4位中国に1.25の差を付ける。
団体自由、ソビエトが1位、2位が東ドイツが確定。
3位は日本、中国、ブルガリアの3チームが大接戦となる。
日本は5種目修了後、4位に落ちる。
あん馬で西川選手、水島選手が共に10点満点を出して3位に入る。(4位中国とは0.75差)
団体でとれたことは一番の喜びでした。
個人総合に3人(池谷、西川、水島)が出場、8位(池谷)に入る。
プレッシャーはなかった、立場的に楽でした。(初出場だったのが良かった。)
韓国なので日本の応援がメチャクチャ多かった。
個人床運動、9.950で銅メダルを獲得。
清風中学で全国中学大会3連覇をして清風高校に入り、高校1年の時に高校総体で優勝。
1年の終わりころ、当時の山口 彦則監督からソウルオリンピックを目指さないかと西川選手とともに誘われる。
オリンピックなんて夢のまた夢の話だと感じ、ポカンとしていました。
最終代表選考会までは1年半しかなかった。
代表選考用の規定演技はほとんどやっていなかった。
日体大にお世話になって、泊りながら、合宿をやってました。
具志堅 幸司さんの処に泊らせてもらってやったりもしました。
全日本選手権がオリンピックの第一次予選としてあるが、その前に高校総体予選(大阪の市予選、府大会、近畿予選、インターハイ)、1ヶ月後にそこから上位24名が高校選抜に出て、そこから上位7名が全日本選手権に出られる。
高校の規定内容と全日本選手権での規定内容は違う。
西川選手は25位だったが、わたしが3位に入ったので、同じ実力と言うことで推薦で 二次予選に通してもらった。
二次予選は西川選手が1位、わたしが2位だった。
NHK杯代表選手権では西川選手が1位で私が2位でした。
注目されていたので凄くプレッシャーを感じました。
ソウルオリンピックから帰って来て吃驚しました。
送りだされた時にはメダルは多分取れないだろうと言う雰囲気で報道陣もいなかったが、帰って来て空港ではもみくちゃでした。
私はどちらかと言うとダイナミック(床、跳馬、鉄棒が得意)な感じが特徴で、西川選手はしなやかさ(鞍馬、平行棒が得意)で対照的。
気の強さなど性格は同じ。
彼は繊細で日本人の審判には受けるが、外国に行くと私の方が受ける。
1992年バルセロナオリンピック 当時21歳。
団体で銅メダル。
もうメダリストだったので、今度は金メダルをとってこいと言うような使命を帯びたオリンピックだったのでメチャクチャ大変でした。
種目別決勝床、前の選手の演技で時間が凄く待たされた。
その間世界中に自分が映っているんで嬉しかった。
床の最後ムーンサルトを決めることが出来た。
得点が9.787で銀メダルを獲得する。
チャンスはあるかなと思ったがメダルは取れるかどうかはわからなかった。
22歳で現役引退を発表する。
次のオリンピックには出られるかとは思ったが、メダルは取れる自信はなかった。
怪我にも悩まされていて、だましだまし練習をしてバルセロナには出られた。
芸能界の世界は自分の性格にも合っていて、芸能界に入りたいと言う気持ちはありました。
日本体操協会の理事をしていたり、現在全日本ジュニア体操クラブ連盟理事として、体操指導者として8割、タレント2割の比率です。
体操教室をたちあげ、全国で1200人の子供を指導。
夢目標を持つ事、人間としてちゃんとしていないといけない。
私の目標値としては
①自分のクラブからオリンピックの金メダリストを出すこと。
②街に体操教室がある環境を全国に作っていきたい。
10月モントリオール世界選手権で女子種目別床で村上茉愛(まい)選手(1期生)が金メダルを取る。
2017年12月23日土曜日
末澤輝之(製塩会社代表取締役) ・美味しい塩は淡路の自然と向き合う心から
末澤輝之(製塩会社代表取締役) ・美味しい塩は淡路の自然と向き合う心から
淡路市の西側洲本市の海岸で、瀬戸内海の海水を使って鉄の釜と薪で煮詰めると言う手間暇のかかる製法で塩作っていると言う製塩業の代表取締役末澤さんに伺いました。
塩作りを目指すようになった経緯を聞いてゆきますと、仕事を通して何を求めているかが判ります。
ざらめ系のしっとりした感じ、塩辛い中にもちょっとしたホロにがみとゆっくりと塩辛い味が立ちあがって来て余韻がながいような感じ。
海そのままを塩に閉じ込めているので、複雑な味がします。
素材を活かすような事を作りをしたいと思ってやって来ました。
自然食に興味がある方、食用される方、海の成分を含んだ塩をとりたい方、淡路市内のお土産や、レストランなどにも愛用されています。
月平均500~600kg生産しています。(天候に左右される。)
経営的には最初物凄く大変でしたが、やっと生きていけるぐらいにはなりました。
1980年神戸市生まれ、両親ともに公務員です。
母は食べることが好きで、自分で料理を作るのが好きです。
地元の大学で経営学を学ぶ。
大学時代に飲食業のアルバイトをして、料理を作って人に出して、感謝してくれてお金を払ってくれるという、何て凄い仕事だと感激しました。
就職氷河期でしたが、営業の仕事に就きましたが、飲食業とは毛色が違っていて自分には合わなくて辞めてしまいました。
半年後アルバイトをしていた外食産業に入りました。
人をよろこばして仕事をしたいと言うところを目指したいと思いがありました。
7,8年前にお店をやろうとお金を溜めて辞めようと思ったときに、仕入れ食材にフォーカスして、調べて行くと遺伝子組み換え、農薬の問題などがあり、塩は1997年からは専売制が廃止されたが、関西では自然塩が少ないという状況でした。
そこで塩を作りたいとの思いに到りました。
人間、水がないと死ぬと言うことがあり、後は塩ですね、おろそかに出来無いと思いました。(30歳の頃)
実際に作っているところに電話をかけて観に行ったりしましたが、おおくは大分の方で教えて頂いたことがベースになっています。
自分でも勉強しました。
自分で書いてまとめて本にして両親にプレゼンテーションしました。
2012年頃に淡路島に移って始めました。
自分が納得いくものを作って喜んでもらいたいと言うことが第一でした。
自信はありませんでしたが、欲しいと思ってくれた方が何人かいたことが大きかったと思います。
工場と言うよりは漁師の番屋の様な雰囲気の処。
1.5m四方の黒い鉄の釜が3つ並んでいて海水を煮詰めている。
塩は引き算のようなもので、どういった成分を海水の中から引き取るか、最初は沸騰釜、次が結晶釜に近い。
海水には80種類ぐらいのミネラルが入っているが、硫酸カルシュウムをしっかり除くことが大事です。
それを取り除いて3つ目の釜に持ってゆきます。
最後の釜まで行くのに、40時間かかります。(薪で焚くと言うところだけの時間)
一日1~1,5トンの薪を使います。
日中はほとんど薪切り作業になります。
薪をくべるときに、木の材質、くべる場所を考えながらやらないといけない。
薪を入れ過ぎると温度があがらない、入れた瞬間に温度下がる。
ガスは青い火、薪はオレンジ色で温度が全然違う、ガスは1200℃以上になる、薪は700~1000℃位。
温度が高いと海の成分が壊れてしまうと言う思いがある。(海水が気持ちいい温度が必要)
作り始めた最初ころの塩と今とではやはり違ってきている。
3つ目の釜から杉の中に一日寝かせてあげて、冷やしてから脱水をしてあげるとニガリが抜けて、ふるいにかけてその後に目視でごみ取りをして、パッケージ詰めとなります。
いい塩の定義としては、単純に煮詰めただけではぱさぱさになって苦い塩になってしまうがぱさぱさにしない、煮詰めすぎると苦くなりすぎてしまうので煮詰めすぎない。
そういった理由で薪を選んでいます。
雨の日は薪の作業が出来ないし、西風が凄い時には海水がとれない。
多少幅があり、毎回同じものは出来ないです。
ずーっとデータをとって段々安定して出来るようになりました。
冬の方が塩作りがやりやすい。(空気が乾燥している。)
僕は人に喜んで貰って生きていきたいと思っていて、提供した結果「有難う」と言ってもらえる仕事であると言うことが大前提だと思っている。
高級車に乗りたいとか、毎日おいしいものを沢山食べたいと言うようなことは思っていない。
お金ではなく自分の中のやり甲斐、その仕事をした結果生きていけるかどうか、だと思っています。
社会とかかわりるにはどうすれば一番いいのかと考えた結果なんです。
ビジネスではなくて生業としてやっていきたい。
ビジネスは数字を追い求めると言うようなところがあるが、自分のやっていることは非常に不効率で時代に逆行していて、感覚を非常に大事にしていると言うことも一つかと思います。
なるべく顔の見える方と付き合ってゆくと云うのも生業のポイントかと思います。
大きな組織の問題点、無理と矛盾、現場と経営の乖離が非常に出てくるのが今の結果だと思います。
海は世界中に繋がっていて、何億トンと言えない多く海水があるが、その中から4トンの海水を引いて40kgの塩になるが、凄い確率でここにいてくれると思う。
作ったものがその人の身体の中に入って良くなればいいなと思ったりしています。
淡路島では自然と自分だけになるので、自分と向き合うことが増えたと思います。
薪をくべながら荒れた海を見ていると自然にはかなわないなと思います。、
他人の幸せと自分の幸せは違うので、自分と向き合わないと幸せにはならないと思います。
今は情報が多すぎるのではないのか。
今は会う人会う人の話をしっかり聞くようになり、深い関係性になったと思います。
この仕事を死ぬまで続けるのが一番の目標ですが、生業として人が喜んだ結果として僕と云う人間とうちの組織が生きていけるような環境を目指すのが第一です。
淡路市の西側洲本市の海岸で、瀬戸内海の海水を使って鉄の釜と薪で煮詰めると言う手間暇のかかる製法で塩作っていると言う製塩業の代表取締役末澤さんに伺いました。
塩作りを目指すようになった経緯を聞いてゆきますと、仕事を通して何を求めているかが判ります。
ざらめ系のしっとりした感じ、塩辛い中にもちょっとしたホロにがみとゆっくりと塩辛い味が立ちあがって来て余韻がながいような感じ。
海そのままを塩に閉じ込めているので、複雑な味がします。
素材を活かすような事を作りをしたいと思ってやって来ました。
自然食に興味がある方、食用される方、海の成分を含んだ塩をとりたい方、淡路市内のお土産や、レストランなどにも愛用されています。
月平均500~600kg生産しています。(天候に左右される。)
経営的には最初物凄く大変でしたが、やっと生きていけるぐらいにはなりました。
1980年神戸市生まれ、両親ともに公務員です。
母は食べることが好きで、自分で料理を作るのが好きです。
地元の大学で経営学を学ぶ。
大学時代に飲食業のアルバイトをして、料理を作って人に出して、感謝してくれてお金を払ってくれるという、何て凄い仕事だと感激しました。
就職氷河期でしたが、営業の仕事に就きましたが、飲食業とは毛色が違っていて自分には合わなくて辞めてしまいました。
半年後アルバイトをしていた外食産業に入りました。
人をよろこばして仕事をしたいと言うところを目指したいと思いがありました。
7,8年前にお店をやろうとお金を溜めて辞めようと思ったときに、仕入れ食材にフォーカスして、調べて行くと遺伝子組み換え、農薬の問題などがあり、塩は1997年からは専売制が廃止されたが、関西では自然塩が少ないという状況でした。
そこで塩を作りたいとの思いに到りました。
人間、水がないと死ぬと言うことがあり、後は塩ですね、おろそかに出来無いと思いました。(30歳の頃)
実際に作っているところに電話をかけて観に行ったりしましたが、おおくは大分の方で教えて頂いたことがベースになっています。
自分でも勉強しました。
自分で書いてまとめて本にして両親にプレゼンテーションしました。
2012年頃に淡路島に移って始めました。
自分が納得いくものを作って喜んでもらいたいと言うことが第一でした。
自信はありませんでしたが、欲しいと思ってくれた方が何人かいたことが大きかったと思います。
工場と言うよりは漁師の番屋の様な雰囲気の処。
1.5m四方の黒い鉄の釜が3つ並んでいて海水を煮詰めている。
塩は引き算のようなもので、どういった成分を海水の中から引き取るか、最初は沸騰釜、次が結晶釜に近い。
海水には80種類ぐらいのミネラルが入っているが、硫酸カルシュウムをしっかり除くことが大事です。
それを取り除いて3つ目の釜に持ってゆきます。
最後の釜まで行くのに、40時間かかります。(薪で焚くと言うところだけの時間)
一日1~1,5トンの薪を使います。
日中はほとんど薪切り作業になります。
薪をくべるときに、木の材質、くべる場所を考えながらやらないといけない。
薪を入れ過ぎると温度があがらない、入れた瞬間に温度下がる。
ガスは青い火、薪はオレンジ色で温度が全然違う、ガスは1200℃以上になる、薪は700~1000℃位。
温度が高いと海の成分が壊れてしまうと言う思いがある。(海水が気持ちいい温度が必要)
作り始めた最初ころの塩と今とではやはり違ってきている。
3つ目の釜から杉の中に一日寝かせてあげて、冷やしてから脱水をしてあげるとニガリが抜けて、ふるいにかけてその後に目視でごみ取りをして、パッケージ詰めとなります。
いい塩の定義としては、単純に煮詰めただけではぱさぱさになって苦い塩になってしまうがぱさぱさにしない、煮詰めすぎると苦くなりすぎてしまうので煮詰めすぎない。
そういった理由で薪を選んでいます。
雨の日は薪の作業が出来ないし、西風が凄い時には海水がとれない。
多少幅があり、毎回同じものは出来ないです。
ずーっとデータをとって段々安定して出来るようになりました。
冬の方が塩作りがやりやすい。(空気が乾燥している。)
僕は人に喜んで貰って生きていきたいと思っていて、提供した結果「有難う」と言ってもらえる仕事であると言うことが大前提だと思っている。
高級車に乗りたいとか、毎日おいしいものを沢山食べたいと言うようなことは思っていない。
お金ではなく自分の中のやり甲斐、その仕事をした結果生きていけるかどうか、だと思っています。
社会とかかわりるにはどうすれば一番いいのかと考えた結果なんです。
ビジネスではなくて生業としてやっていきたい。
ビジネスは数字を追い求めると言うようなところがあるが、自分のやっていることは非常に不効率で時代に逆行していて、感覚を非常に大事にしていると言うことも一つかと思います。
なるべく顔の見える方と付き合ってゆくと云うのも生業のポイントかと思います。
大きな組織の問題点、無理と矛盾、現場と経営の乖離が非常に出てくるのが今の結果だと思います。
海は世界中に繋がっていて、何億トンと言えない多く海水があるが、その中から4トンの海水を引いて40kgの塩になるが、凄い確率でここにいてくれると思う。
作ったものがその人の身体の中に入って良くなればいいなと思ったりしています。
淡路島では自然と自分だけになるので、自分と向き合うことが増えたと思います。
薪をくべながら荒れた海を見ていると自然にはかなわないなと思います。、
他人の幸せと自分の幸せは違うので、自分と向き合わないと幸せにはならないと思います。
今は情報が多すぎるのではないのか。
今は会う人会う人の話をしっかり聞くようになり、深い関係性になったと思います。
この仕事を死ぬまで続けるのが一番の目標ですが、生業として人が喜んだ結果として僕と云う人間とうちの組織が生きていけるような環境を目指すのが第一です。
2017年12月22日金曜日
竹石研二(NPO法人市民シアター・エフ理事長) ・シネマで街に潤いを
竹石研二(NPO法人市民シアター・エフ理事長) ・シネマで街に潤いを
埼玉県深谷市にある深谷シネマは座席数が60席の小さな映画館です。
芸術性の高い作品を中心に年に150本ほどの作品を上映しています。
映画館を運営しているのはNPO法人市民シアター・エフです。
繁華街から映画館が無くなった深谷の街に市民のための映画館がつくれないか、こう考えた竹石さんは1999年に署名活動を始め、法人市民シアター・エフを結成、2002年銀行の跡地を改装して深谷シネマをオープンさせました。
その後リーマンショックの際には客足が大きく落ち込むなど、そういうこともありましたが、積極的なPR活動などをして現在では黒字の経営が続いています。
全国のコミュニティーシネマの先駆けともなっています。
元々は酒造会社で昔の建物がそのまま残っています。(江戸中期創業)
宿場町の面影がまだ残っています。
ここを拠点として、生活街と云うコンセプトで楽しいエリアになっていくものと期待しています。
座席数としては60で小さな映画館ですが、中はしっかり音響、映写効果も手をかけているので見やすい映画館だと思います。
年間約150本近くの上映になります。
ドキュメンタリー映画をやったり、話題の映画もやります。
35mmの映写機があるので日本映画の旧作、ヨーロッパ映画の懐かしい映画も上映することも心掛けています。
1948年生まれで、来年で70歳になります。
高校卒業後、建築設備の会社に入り、5年後に倒産して、地元の板金会社で2年働き、診療所で事務をやりながらケースワーカーもいいと思って夜の学校などに行っていました。
20代の後半に、もっと自己表現したいと思っていたときに、今村昌平監督が横浜に放送映画専門学院を立ち上げ、そこに飛び込みました。
共働きだったが、赦してもらいました。
二年生の時に二人目が生まれて、クラスのみんなに浦山監督から助けてやるようにとのことで周りからも寄付を貰いました。
淀川長治さんが毎週来てくれて、推薦映画を見て、解説もしてくれました。
映画製作の時は現役監督、カメラマンがチームに入ってくれて卒業制作を一緒にやってくれました。
自分の才能が判った2年間でした。
4,5人が今村監督の処の製作会社にいけると言うことが出来ました。(200人の生徒がいました。)
卒業後、地元でアルバイトをやっていたら、日活の児童映画があり年に1本作っていましたが、欠員があるから来ないかとの話がありそこで10年近く仕事をしました。
親子映画の運動があり、ホール、学校でいい映画を見て行こうと言う、そこの流れの中に提供する作品としてありました。
そういった映画の企画、上映の仕事をしていました。
児童映画の部署が無くなり、深谷の協同組合の職員として働くことになり、10年ぐらいやって来ました。
生まれは墨田区の下町でしたが、深谷の街も段々シャッターを締めてきて寂しい状況になりました。
50歳になった時に、自分でやりたいことをメモってみたら、映画の勉強、仕事をしてきたので、商店街の空いたスペースを活用してそこに映画の文化を置くことで人の流れ、にぎわいが作れるのではないかと、ひらめきがあり、NPOを介してその夢が実現できるのではないかと思いました。(20年前)
職場も辞めて、NPOの件を県に提出、新聞にも書いてもらうように依頼して、その記事を読んだ人が共鳴してくれて10人ぐらいの人から連絡があり一緒にNPOを立ち上げて行くことになりました。
そのうちの一人は大宮から20年間車で通って来てくれています。
行政にたいして街に映画館、映画文化を誕生させたいと署名活動をして3300人の方が署名して、それを市の方に持ってゆきました。
赤字もある中で深谷のTMO(タウンマネージメントオーガニゼーション)事業で、市街地の活性化、商店街の空き店舗で映画館をやりたいと言うことがOKになり、銀行が統廃合のため閉っていたが、市が借りてくれてオープンすることになりました。(2002年)
500万円融資を受けて借金があったが、前を向いてやっていけばいつかは返せるという勢いはありました。
最初の上映作品は中国映画の「山の郵便配達」という感動する映画でした。
ワーッと詰めかけると言う訳ではないが、お客さんが来てくれました。
初めは低空飛行でしたが、ようやく二桁になり、3年目ぐらいからお客さんが増えてきて、フィルムも直接借りられるようになり、いい感じでお客さんが来てくれるようになりました。
観たい映画はアンケートをとったり、自分たちからセレクトした作品を選んでもらったして、決めて来ました。
採算性は永遠のテーマだと思っていて、両方を大事にしながら、微妙ですが、味わいのある映画をやっていて、それがいいところだと思います。
十人十色で、最大公約数をとったり、スタッフでこれは見てもらいたいと言うこともあります。
ドキュメンタリー映画が3・11以降沢山出来ているので、忘れてはいけないことだし、意識的に観て行くようにしています。
2008年リーマンショックの時には3割ぐらいお客さんが減ってしまってスタッフも辞めて行く人もいました。
行政からの補助金は全く無くて、近隣でホール上映をしてそこからの収入もすこしありました。
PR活動(ポスター、チラシなど)をしました。
少しづつお客さんが増えて来ました。
上映作品を通してお客さんとのコミュニケーションも出来てきて、それも寄与してきたのかと思います。
年度末になると経営状態が心配でしたが、行政に依る映画会が年に何回かありそれが収入にもなり、僅かですが物の販売とかも行って、ここ数年ギリギリの黒字になっています。
スタッフの改善もしていきたいと思っています。
2010年、区画整理事業で無くなることになり、900坪の酒造会社の跡地と出会うことが出来ました。
山田洋次監督のBSのドラマ「祖国」のワンシーンで朽ちた造り酒屋と言うのがあり、それが縁となりオーナーとの出会いがあり、山田洋次監督には感謝です。
改装する訳ですが、国の補助金が申請出来て費用の半分ぐらいと、市民の皆さんから1000万円寄付していただき、残りは銀行から借りて、月々返済しています。
他にも15店舗店が出来て、それぞれが頑張っています。
年間5万人の方がここに訪れてくれて、商店街全体と連携して商店街から生活街とコンセプトとのイメージで一日ゆったり楽しめる場にしていけたらと思っています。
歴史文化が感じられる、温故知新の街興しをしっかりつなげていきたいと思います。
大林監督に名誉館長になってもらっています。
大林さんは「映画館は街の必需品だ」と言っています。
映画をきっかけに楽しめる生活街を作っていけたらいいなあと思います。
埼玉県深谷市にある深谷シネマは座席数が60席の小さな映画館です。
芸術性の高い作品を中心に年に150本ほどの作品を上映しています。
映画館を運営しているのはNPO法人市民シアター・エフです。
繁華街から映画館が無くなった深谷の街に市民のための映画館がつくれないか、こう考えた竹石さんは1999年に署名活動を始め、法人市民シアター・エフを結成、2002年銀行の跡地を改装して深谷シネマをオープンさせました。
その後リーマンショックの際には客足が大きく落ち込むなど、そういうこともありましたが、積極的なPR活動などをして現在では黒字の経営が続いています。
全国のコミュニティーシネマの先駆けともなっています。
元々は酒造会社で昔の建物がそのまま残っています。(江戸中期創業)
宿場町の面影がまだ残っています。
ここを拠点として、生活街と云うコンセプトで楽しいエリアになっていくものと期待しています。
座席数としては60で小さな映画館ですが、中はしっかり音響、映写効果も手をかけているので見やすい映画館だと思います。
年間約150本近くの上映になります。
ドキュメンタリー映画をやったり、話題の映画もやります。
35mmの映写機があるので日本映画の旧作、ヨーロッパ映画の懐かしい映画も上映することも心掛けています。
1948年生まれで、来年で70歳になります。
高校卒業後、建築設備の会社に入り、5年後に倒産して、地元の板金会社で2年働き、診療所で事務をやりながらケースワーカーもいいと思って夜の学校などに行っていました。
20代の後半に、もっと自己表現したいと思っていたときに、今村昌平監督が横浜に放送映画専門学院を立ち上げ、そこに飛び込みました。
共働きだったが、赦してもらいました。
二年生の時に二人目が生まれて、クラスのみんなに浦山監督から助けてやるようにとのことで周りからも寄付を貰いました。
淀川長治さんが毎週来てくれて、推薦映画を見て、解説もしてくれました。
映画製作の時は現役監督、カメラマンがチームに入ってくれて卒業制作を一緒にやってくれました。
自分の才能が判った2年間でした。
4,5人が今村監督の処の製作会社にいけると言うことが出来ました。(200人の生徒がいました。)
卒業後、地元でアルバイトをやっていたら、日活の児童映画があり年に1本作っていましたが、欠員があるから来ないかとの話がありそこで10年近く仕事をしました。
親子映画の運動があり、ホール、学校でいい映画を見て行こうと言う、そこの流れの中に提供する作品としてありました。
そういった映画の企画、上映の仕事をしていました。
児童映画の部署が無くなり、深谷の協同組合の職員として働くことになり、10年ぐらいやって来ました。
生まれは墨田区の下町でしたが、深谷の街も段々シャッターを締めてきて寂しい状況になりました。
50歳になった時に、自分でやりたいことをメモってみたら、映画の勉強、仕事をしてきたので、商店街の空いたスペースを活用してそこに映画の文化を置くことで人の流れ、にぎわいが作れるのではないかと、ひらめきがあり、NPOを介してその夢が実現できるのではないかと思いました。(20年前)
職場も辞めて、NPOの件を県に提出、新聞にも書いてもらうように依頼して、その記事を読んだ人が共鳴してくれて10人ぐらいの人から連絡があり一緒にNPOを立ち上げて行くことになりました。
そのうちの一人は大宮から20年間車で通って来てくれています。
行政にたいして街に映画館、映画文化を誕生させたいと署名活動をして3300人の方が署名して、それを市の方に持ってゆきました。
赤字もある中で深谷のTMO(タウンマネージメントオーガニゼーション)事業で、市街地の活性化、商店街の空き店舗で映画館をやりたいと言うことがOKになり、銀行が統廃合のため閉っていたが、市が借りてくれてオープンすることになりました。(2002年)
500万円融資を受けて借金があったが、前を向いてやっていけばいつかは返せるという勢いはありました。
最初の上映作品は中国映画の「山の郵便配達」という感動する映画でした。
ワーッと詰めかけると言う訳ではないが、お客さんが来てくれました。
初めは低空飛行でしたが、ようやく二桁になり、3年目ぐらいからお客さんが増えてきて、フィルムも直接借りられるようになり、いい感じでお客さんが来てくれるようになりました。
観たい映画はアンケートをとったり、自分たちからセレクトした作品を選んでもらったして、決めて来ました。
採算性は永遠のテーマだと思っていて、両方を大事にしながら、微妙ですが、味わいのある映画をやっていて、それがいいところだと思います。
十人十色で、最大公約数をとったり、スタッフでこれは見てもらいたいと言うこともあります。
ドキュメンタリー映画が3・11以降沢山出来ているので、忘れてはいけないことだし、意識的に観て行くようにしています。
2008年リーマンショックの時には3割ぐらいお客さんが減ってしまってスタッフも辞めて行く人もいました。
行政からの補助金は全く無くて、近隣でホール上映をしてそこからの収入もすこしありました。
PR活動(ポスター、チラシなど)をしました。
少しづつお客さんが増えて来ました。
上映作品を通してお客さんとのコミュニケーションも出来てきて、それも寄与してきたのかと思います。
年度末になると経営状態が心配でしたが、行政に依る映画会が年に何回かありそれが収入にもなり、僅かですが物の販売とかも行って、ここ数年ギリギリの黒字になっています。
スタッフの改善もしていきたいと思っています。
2010年、区画整理事業で無くなることになり、900坪の酒造会社の跡地と出会うことが出来ました。
山田洋次監督のBSのドラマ「祖国」のワンシーンで朽ちた造り酒屋と言うのがあり、それが縁となりオーナーとの出会いがあり、山田洋次監督には感謝です。
改装する訳ですが、国の補助金が申請出来て費用の半分ぐらいと、市民の皆さんから1000万円寄付していただき、残りは銀行から借りて、月々返済しています。
他にも15店舗店が出来て、それぞれが頑張っています。
年間5万人の方がここに訪れてくれて、商店街全体と連携して商店街から生活街とコンセプトとのイメージで一日ゆったり楽しめる場にしていけたらと思っています。
歴史文化が感じられる、温故知新の街興しをしっかりつなげていきたいと思います。
大林監督に名誉館長になってもらっています。
大林さんは「映画館は街の必需品だ」と言っています。
映画をきっかけに楽しめる生活街を作っていけたらいいなあと思います。
2017年12月21日木曜日
菊本照子(ケニア・マトマイニ孤児院院長) ・アフリカの大地に生きる(2)
菊本照子(ケニア・マトマイニ孤児院院長) ・アフリカの大地に生きる(2)
目の前にいる困窮状態に陥った子供たちに、手を差し伸べる意味で、孤児院の存在があるが、本当はそういう子供達を路上に追いやったりするその根本要因は貧困層の女性達で、14、15歳で母親になってしまう女性が沢山いて、子供達は面倒を見てもらえないから路上にという悪循環が今でも続いている。
シングルマザーを支える、自分の家族を支えてゆく手伝いができたらより良くなると思っていたので、孤児院をやって10年たった時に、助成金もいただいたので女性の職業訓練する処を建てて、そのひとつが今ではフェルト工房と言うことで残っています。
羊の原毛を購入して、手を加えて染色したりしてアフリカの動物たちの人形に仕上げて行くもの作り工房を作りました。(色んなものをやった結果これが残った。)
14、15歳で母親になってしまう女性は子供の育て方も知らない。
職業訓練をする時にはスラムの周りの人が面倒見たりそばに建てた託児所で対応したりしました。
最終的には稼げる人に育ってゆく。
日本だけでなく、ほかの海外にも送っています。
作った人の名前が書いてあって自動的に給料に繋がります。
立派な給料(2万円以上)をもらう人もいて、人数は少ないですが自分の家族を養っています。(周りにいい影響を与えています)
色んな方の知恵を頂きながらやって来ました。
今は総勢21人です。
下手な人からどんどん伸びて行った人もいます。
売上高払いなので辞めて行った人もいますし、その前の加工の単純作業に加わった人もいます。
或る方からフェルト針を使って動物を作るヒントを頂きました。
作ってみたら売れて、ピンクのキリンをある人が作ったらこれはかわいいと言うことになり色んな色の動物が出来て来ました。
デザインもいろいろ工夫して色んなものが生まれつつあります。
1カ月で500~600個作ります。(約1日一人1体です。)
最初は物乞い的な人が段々ものを作っていくうちに感覚的にも斬新なものが生まれて褒められて、収入につながって行くことによりとっても嬉しいことで、そして生活を支えて行く。
貧しくっても誇りを持って生きていると言うこと、色んな向こうのエピソードを語ることによっていい意味でのインパクトにはなっていると思います。
物として価値があると見ていただいていると思います。
地域にもいい影響を与えていると思います。
風土、政治的なことも変わっていないと思うが、ちょっとした刺激を与えるとチャンスがあると伸びて行く人がいると言うことを知ったことは私にとっては大きな目を開く、わたしにとっても成長の大きな糧にもなりました。
人々の目を見ることが変わってきたと言うことで社会そのものは変わらないが、そういうものを見るチャンスに恵まれていると言うことで幸いだと思います。
皆の持っている能力を引き出すチャンスがなかった。
一緒に何かをしながら歩んでゆく、長い年月でようやく判った事があります。
チャンスを作る役目が私の仕事の一つでもあります。
日本人の物差しで相手を見ると言うことは多々ありました、それは反省です。
日本では水道をひねると水が出てくる、そういったことは当然ですが、当然ではない国が多くあって人々は1日かけて水を汲みに行くのが今でもあるわけです。
日本は本当に恵まれていて、それを有難いと思わないことは残念と思って、そういう目で日々の生活を送っています。
自分たちの生き方をちょっと違う目で見てみると言うことは学びのチャンスを得ると言うことになると思います。
日本は基本的に人様の眼を気にして生きている社会、ケニアはあまり気にしない社会、
向こうから学ぶべきものもたくさんあると思います。
ワンガリ・マータイさん (ケニアのノーベル平和賞者)は人権問題、環境分野の活動をしているがグリーンベルトムーブメント(身の回りに木を植えようと言う活動)を進める。
最近、気候変動を皆が言います。
植林啓蒙を行ってきた人たちがいたが実現されなかったが、段々広まって来ている。
砂漠化は大きな問題です。
足元の土が劣化していき、作物が段々できなくなってきていると言うことは、今でも起きています、木の伐採も続いています。
木を植えようと植林活動をやってきています、大きなテーマです。
最初からやって来ました。
サバンナの土地が森になり、今後も木を植えること、私なりのグリーンベルトムーブメントの活動を続けていきたいと思っています。
木が伐採されて炭になったり、木材にして送られたりして、どんどん森が少なくなって行く土地柄なので水も無くなって来る。
植林活動は次の世代に伝える大きなメッセージだと思っている。
植林の時の水は雨水を逃さないように、工夫利用して木を育てていくようにしています。
テロの集団の影響、今年選挙があったが、いつ何か起こるか分からないと言う治安の問題はあります。
安全な国とはいえないので、今日一日を大事にと言うことは心得ています。
マラリアには今のところなっていないです。
2013年に大きなショッピングモールに無差別射撃があり色んな方が亡くなりましたが、その場にいたらということもありました。
私の国籍は日本人です。
普段はこんなににこにこしていなくて机を叩いたりしていますが、苦が九、楽が一の生活、それでよしと思ってその一に出会うととっても嬉しいし、次の一歩を踏み出すエネルギーになっています。
違う歴史、文化、植民地だったこと、伝統が違う、その中から気づくことがある。
日本の自分の尺度で計ろうとしていたという反省があって、厭なことの中にも面白いことがある。
自然、動物なども新発見がありドキドキわくわくします。
多様性に富んでいるのが魅力的で、色んな人々の生き方を今でも学び続けています。
目の前にいる困窮状態に陥った子供たちに、手を差し伸べる意味で、孤児院の存在があるが、本当はそういう子供達を路上に追いやったりするその根本要因は貧困層の女性達で、14、15歳で母親になってしまう女性が沢山いて、子供達は面倒を見てもらえないから路上にという悪循環が今でも続いている。
シングルマザーを支える、自分の家族を支えてゆく手伝いができたらより良くなると思っていたので、孤児院をやって10年たった時に、助成金もいただいたので女性の職業訓練する処を建てて、そのひとつが今ではフェルト工房と言うことで残っています。
羊の原毛を購入して、手を加えて染色したりしてアフリカの動物たちの人形に仕上げて行くもの作り工房を作りました。(色んなものをやった結果これが残った。)
14、15歳で母親になってしまう女性は子供の育て方も知らない。
職業訓練をする時にはスラムの周りの人が面倒見たりそばに建てた託児所で対応したりしました。
最終的には稼げる人に育ってゆく。
日本だけでなく、ほかの海外にも送っています。
作った人の名前が書いてあって自動的に給料に繋がります。
立派な給料(2万円以上)をもらう人もいて、人数は少ないですが自分の家族を養っています。(周りにいい影響を与えています)
色んな方の知恵を頂きながらやって来ました。
今は総勢21人です。
下手な人からどんどん伸びて行った人もいます。
売上高払いなので辞めて行った人もいますし、その前の加工の単純作業に加わった人もいます。
或る方からフェルト針を使って動物を作るヒントを頂きました。
作ってみたら売れて、ピンクのキリンをある人が作ったらこれはかわいいと言うことになり色んな色の動物が出来て来ました。
デザインもいろいろ工夫して色んなものが生まれつつあります。
1カ月で500~600個作ります。(約1日一人1体です。)
最初は物乞い的な人が段々ものを作っていくうちに感覚的にも斬新なものが生まれて褒められて、収入につながって行くことによりとっても嬉しいことで、そして生活を支えて行く。
貧しくっても誇りを持って生きていると言うこと、色んな向こうのエピソードを語ることによっていい意味でのインパクトにはなっていると思います。
物として価値があると見ていただいていると思います。
地域にもいい影響を与えていると思います。
風土、政治的なことも変わっていないと思うが、ちょっとした刺激を与えるとチャンスがあると伸びて行く人がいると言うことを知ったことは私にとっては大きな目を開く、わたしにとっても成長の大きな糧にもなりました。
人々の目を見ることが変わってきたと言うことで社会そのものは変わらないが、そういうものを見るチャンスに恵まれていると言うことで幸いだと思います。
皆の持っている能力を引き出すチャンスがなかった。
一緒に何かをしながら歩んでゆく、長い年月でようやく判った事があります。
チャンスを作る役目が私の仕事の一つでもあります。
日本人の物差しで相手を見ると言うことは多々ありました、それは反省です。
日本では水道をひねると水が出てくる、そういったことは当然ですが、当然ではない国が多くあって人々は1日かけて水を汲みに行くのが今でもあるわけです。
日本は本当に恵まれていて、それを有難いと思わないことは残念と思って、そういう目で日々の生活を送っています。
自分たちの生き方をちょっと違う目で見てみると言うことは学びのチャンスを得ると言うことになると思います。
日本は基本的に人様の眼を気にして生きている社会、ケニアはあまり気にしない社会、
向こうから学ぶべきものもたくさんあると思います。
ワンガリ・マータイさん (ケニアのノーベル平和賞者)は人権問題、環境分野の活動をしているがグリーンベルトムーブメント(身の回りに木を植えようと言う活動)を進める。
最近、気候変動を皆が言います。
植林啓蒙を行ってきた人たちがいたが実現されなかったが、段々広まって来ている。
砂漠化は大きな問題です。
足元の土が劣化していき、作物が段々できなくなってきていると言うことは、今でも起きています、木の伐採も続いています。
木を植えようと植林活動をやってきています、大きなテーマです。
最初からやって来ました。
サバンナの土地が森になり、今後も木を植えること、私なりのグリーンベルトムーブメントの活動を続けていきたいと思っています。
木が伐採されて炭になったり、木材にして送られたりして、どんどん森が少なくなって行く土地柄なので水も無くなって来る。
植林活動は次の世代に伝える大きなメッセージだと思っている。
植林の時の水は雨水を逃さないように、工夫利用して木を育てていくようにしています。
テロの集団の影響、今年選挙があったが、いつ何か起こるか分からないと言う治安の問題はあります。
安全な国とはいえないので、今日一日を大事にと言うことは心得ています。
マラリアには今のところなっていないです。
2013年に大きなショッピングモールに無差別射撃があり色んな方が亡くなりましたが、その場にいたらということもありました。
私の国籍は日本人です。
普段はこんなににこにこしていなくて机を叩いたりしていますが、苦が九、楽が一の生活、それでよしと思ってその一に出会うととっても嬉しいし、次の一歩を踏み出すエネルギーになっています。
違う歴史、文化、植民地だったこと、伝統が違う、その中から気づくことがある。
日本の自分の尺度で計ろうとしていたという反省があって、厭なことの中にも面白いことがある。
自然、動物なども新発見がありドキドキわくわくします。
多様性に富んでいるのが魅力的で、色んな人々の生き方を今でも学び続けています。
2017年12月20日水曜日
菊本照子(ケニア・マトマイニ孤児院院長) ・アフリカの大地に生きる(1)
菊本照子(ケニア・マトマイニ孤児院院長) ・アフリカの大地に生きる(1)
36年前にアフリカのケニアにわたり恵まれない子供たちと共に生きる菊本さんは孤児院経営の傍ら女性の自立のために羊毛から作る工芸品フェルトアニマルを販売したり寄付をつのる為に今年も来日しています。
ケニアは赤道直下ですからこちらが冬の時には夏になります。
四季は無いが微妙に夏と冬はあります。
私が住んでいるナイロビ近郊は1700mですから、さわやかな高原と言う感じで朝夕は寒いです。
夜は暖房をたいたりします。
温暖化が進んでいるので天候不順が続いています。
国土の7割ぐらいが乾燥地、半乾燥地です。
木が伐採されて国土の僅かしか森林は残ってないです。
私的な用事、公的な用事がいろいろあり年に一度は日本に来ます。
講演をしてある人が作ったフェルトアニマルの事を話したりします。
ケニアに1981年に行きました。(36年前 33歳の時)
私が住んでいる東アフリカにアフリカの大地溝帯があり、そこが人類発祥の地になります。(そこから北に向かって行って世界中に広がった。)
北にエチオピア、南にタンザニアなどに囲まれている。
政情は今も揺れ続いています。
多民族国家なので色んな民族がせめぎ合いを繰り返しながら、5年ごとの選挙ありますが、そのたびに色々問題が浮上してきて民族間の争いが起きています。
ケニアはマラソンでは有名ですが、ある部族と云った感じで国としての意識がないです。
ケニアは各民族の部族語があり、その上に東海岸から入ってきたスワヒリ語があり、更に上にケニアが独立する前のイギリスの英語があり、3重の構造になっています。
学校ではスワヒリ語の勉強をしています。
マトマイニ孤児院の「マトマイニ」は希望と言う意味です。
おばあさんは尊敬の意味合いもあり「ショウショウ」と言います。
若い頃東南アジア旅行をして、人々の生きる姿に心を打たれるものがあり、中学の教師をしていましたが思いきって辞めて、東南アジアに行きました。(1970年代)
高度成長のピークに向かう時で、そこでクーデターに出会って一旦引き揚げて、次にだめだったらアフリカに行こうと思いました。
新しいものに出会うととてもドキドキして、魅力にあふれた感じをうけました。
私は戦後日本に引き上げる途中急遽バナナ畑の鳥小屋で(台湾)で生まれました。
島根県に帰って、教師をして、OLもして結婚して長男1歳4カ月を抱いて家族3人でケニアに1981年に渡りました。
周りからはみんな反対されましたが。
最初は周りからみられる存在でちょっと怖かったこともありますが、みなさんいい感じでとても良くしてもらいました。
文化の違いがありすんなりとは溶け込むと言うことはありませんでしたが。
おととい息子からメールがあり、孤児院の子供達で14歳の子供たちが割礼をしないといけないけど、と言ってきたが向こうのしきたり通りやってほしいと、ケニアのスタッフにお願いしなさいと、返事を出しました。
日常のなかに色々驚きもあり新しい発見があります。
現地の在ケニア大使館の受付の仕事をして、現地採用の日本大使館の仕事を8年間続けました。
食べ物も多様性に富んでいます。
1日1ドル以下で暮らしている国民が60%以上占めています。
先生をしていたのでどうしても子供に目が行って、仲間と一緒にスラムに行きました。
電気、水、お手洗い、下水、学校もない、無いないづくしでしたが、子供が学びたいという勢いがありそれに感動して色んな活動の原点になっています。
3畳1一間に5,6人いるのが普通のスラムの生活です。
Save the Children Centre(SCC)
当時の政府関係者はスラムに入って欲しくはないと言われて、活動するんだったら団体にするように言われて、ケニアのNGOに登録して認定されました。
そうしないとスラムの子供たちに会えないので仕方なく立ち上げました。
その第一の活動として「マトマイニ孤児院」を立ち上げました。(1987年 30年前)
多くの子供が巣立っていきました。
あそこに行けば3食食べれる、病院にもいける、学校にもいけると言うことで、無責任な親もいるし、シングルマザーも沢山いるので、そう言う子供を保護養育することが必要だと言うことでたちあげました。
最盛期は54人いました。
食糧調達が大変でした。
資金は日本からのサポートなどからで,ケニア等の公の機関からの助成は無いです。
18歳までが制限でしたが、なかなか線をひけない。(24歳が歳年長 半分スタッフ仕事)
社会に出すのに四苦八苦しています。
社会に出た子が来てくれて資金、生活に役立つものを持ってきてくれたりします。
クリスチャン関係のサポートの孤児院、現地の人が立ちあげた孤児院、政府の孤児院など今では1000位の児童養護施設(ピンキリ)があります。
「風に立つライオン」小説、映画 さだまさし
ヒロイン 草野若子のモデル的存在。(菊本照子)
3・11の時には皆が祈ってくれました。
人として困った時には手を差しのべる、あげるものがなければあるものを一生懸命届けると言うことは皆持ち合わせていて、ヒューマニティーの部分があり、貧しくても心豊かに、人の生き方から学ぶ事は私がケニアの貧しい人たちと一緒に活動してきて私が学んだ事です。
36年前にアフリカのケニアにわたり恵まれない子供たちと共に生きる菊本さんは孤児院経営の傍ら女性の自立のために羊毛から作る工芸品フェルトアニマルを販売したり寄付をつのる為に今年も来日しています。
ケニアは赤道直下ですからこちらが冬の時には夏になります。
四季は無いが微妙に夏と冬はあります。
私が住んでいるナイロビ近郊は1700mですから、さわやかな高原と言う感じで朝夕は寒いです。
夜は暖房をたいたりします。
温暖化が進んでいるので天候不順が続いています。
国土の7割ぐらいが乾燥地、半乾燥地です。
木が伐採されて国土の僅かしか森林は残ってないです。
私的な用事、公的な用事がいろいろあり年に一度は日本に来ます。
講演をしてある人が作ったフェルトアニマルの事を話したりします。
ケニアに1981年に行きました。(36年前 33歳の時)
私が住んでいる東アフリカにアフリカの大地溝帯があり、そこが人類発祥の地になります。(そこから北に向かって行って世界中に広がった。)
北にエチオピア、南にタンザニアなどに囲まれている。
政情は今も揺れ続いています。
多民族国家なので色んな民族がせめぎ合いを繰り返しながら、5年ごとの選挙ありますが、そのたびに色々問題が浮上してきて民族間の争いが起きています。
ケニアはマラソンでは有名ですが、ある部族と云った感じで国としての意識がないです。
ケニアは各民族の部族語があり、その上に東海岸から入ってきたスワヒリ語があり、更に上にケニアが独立する前のイギリスの英語があり、3重の構造になっています。
学校ではスワヒリ語の勉強をしています。
マトマイニ孤児院の「マトマイニ」は希望と言う意味です。
おばあさんは尊敬の意味合いもあり「ショウショウ」と言います。
若い頃東南アジア旅行をして、人々の生きる姿に心を打たれるものがあり、中学の教師をしていましたが思いきって辞めて、東南アジアに行きました。(1970年代)
高度成長のピークに向かう時で、そこでクーデターに出会って一旦引き揚げて、次にだめだったらアフリカに行こうと思いました。
新しいものに出会うととてもドキドキして、魅力にあふれた感じをうけました。
私は戦後日本に引き上げる途中急遽バナナ畑の鳥小屋で(台湾)で生まれました。
島根県に帰って、教師をして、OLもして結婚して長男1歳4カ月を抱いて家族3人でケニアに1981年に渡りました。
周りからはみんな反対されましたが。
最初は周りからみられる存在でちょっと怖かったこともありますが、みなさんいい感じでとても良くしてもらいました。
文化の違いがありすんなりとは溶け込むと言うことはありませんでしたが。
おととい息子からメールがあり、孤児院の子供達で14歳の子供たちが割礼をしないといけないけど、と言ってきたが向こうのしきたり通りやってほしいと、ケニアのスタッフにお願いしなさいと、返事を出しました。
日常のなかに色々驚きもあり新しい発見があります。
現地の在ケニア大使館の受付の仕事をして、現地採用の日本大使館の仕事を8年間続けました。
食べ物も多様性に富んでいます。
1日1ドル以下で暮らしている国民が60%以上占めています。
先生をしていたのでどうしても子供に目が行って、仲間と一緒にスラムに行きました。
電気、水、お手洗い、下水、学校もない、無いないづくしでしたが、子供が学びたいという勢いがありそれに感動して色んな活動の原点になっています。
3畳1一間に5,6人いるのが普通のスラムの生活です。
Save the Children Centre(SCC)
当時の政府関係者はスラムに入って欲しくはないと言われて、活動するんだったら団体にするように言われて、ケニアのNGOに登録して認定されました。
そうしないとスラムの子供たちに会えないので仕方なく立ち上げました。
その第一の活動として「マトマイニ孤児院」を立ち上げました。(1987年 30年前)
多くの子供が巣立っていきました。
あそこに行けば3食食べれる、病院にもいける、学校にもいけると言うことで、無責任な親もいるし、シングルマザーも沢山いるので、そう言う子供を保護養育することが必要だと言うことでたちあげました。
最盛期は54人いました。
食糧調達が大変でした。
資金は日本からのサポートなどからで,ケニア等の公の機関からの助成は無いです。
18歳までが制限でしたが、なかなか線をひけない。(24歳が歳年長 半分スタッフ仕事)
社会に出すのに四苦八苦しています。
社会に出た子が来てくれて資金、生活に役立つものを持ってきてくれたりします。
クリスチャン関係のサポートの孤児院、現地の人が立ちあげた孤児院、政府の孤児院など今では1000位の児童養護施設(ピンキリ)があります。
「風に立つライオン」小説、映画 さだまさし
ヒロイン 草野若子のモデル的存在。(菊本照子)
3・11の時には皆が祈ってくれました。
人として困った時には手を差しのべる、あげるものがなければあるものを一生懸命届けると言うことは皆持ち合わせていて、ヒューマニティーの部分があり、貧しくても心豊かに、人の生き方から学ぶ事は私がケニアの貧しい人たちと一緒に活動してきて私が学んだ事です。
2017年12月19日火曜日
岡崎彬(NPO法人日中新世紀協会 前会長) ・親子二代の日中友好
岡崎彬(NPO法人日中新世紀協会 前会長) ・親子二代の日中友好
1929年昭和4年生まれ88歳、父親の嘉平太さんの仕事の関係で、小学校を中国の上海で卒業しています。
務めた日本航空では航空貨物の仕事に長く携わり、日中友好のパンダの初来日にも深くかかわった経験をお持ちです。
呼吸器の病気で一日寝たきりですが、顔色はいいです。
日中国交回復45年の節目の年、親子2代の日中交流。
父親の嘉平太が中国で銀行の理事、参事官をした関係で、子供の時に上海の小学校を卒業。
日本の小学校に行っていたら絶対にできない経験をしました。
遠くに点々と家があり、ウサギ、雉、ふくろう、野ネズミなどが居て毎日追っかけて成長しました。
色んな会社の社宅が出来ていて、日本町が出来ていました。
イギリス人はアヘン戦争の賠償として上海香港をもらったわけで、上海をそだてていって今の上海になっているわけです。
日本は満州で、イギリスと比べたらどうってことないと思って、あとになって満州に行ってみると凄いことをやっている。
日本人の考えるようなことではないことを日本人はやっている。
車が回るロータリー(直径が1kmある)を作ってみたり、下水(当時日本にはない)もちゃんと作っている。
マンホールをちゃんと残してあるが、中国が残している。(いいものはちゃんと残している)
生まれて3カ月後に父親が転勤でドイツに行ってしまって、4歳になるまで父親なしで過ごしたが、父親が欲しくてしょうがなくて、帰って来た時には親爺のズボンに絡みついて、香水ではないがちょっといいにおいだった。
父は岡山で生まれて岡山一中に入って、上位5位に入ると第三高等学校に無試験で入れたがその権利を捨てて、一高を受けて入ってしまいました。
日銀に入って何年後かにドイツに送られ、帰って来た時にはえらいオシャレでした。
私は東京中央中学校にいましたが、戦争中の勤労動員で動員先が陸軍航空本部でトラック乗りをやっていて、立川に行って貨物を飛行機に積むことをやっていて、日本航空に入って最初の1年半は千歳に行って、貨物に行きたいと言って本気かと言われましたが転勤になり、貨物部門にいきました。
貨物部門は人気の無いところでしたが、結構楽しんでいました。
パンダを運ぶことは簡単だと思ったが、会社中が大変でした。
ルーブル博物館にあるダビンチの絵を運ぶことがあったが、飛行機が事故を起こして海に沈んでしまったと云う想定で、海に沈んでも絶対大丈夫だと言う金庫みたいなものを作れと言われて、調べて作ったらそれだけで80万円ぐらいかかるわけです。
日本航空ではお手上げになり断わりました。
その後運ぶことになったが行きはエールフランスが運び、帰りに日本航空が運びました。
パンダの時はロンドンとモスクワの動物園に行って、運び方を調べに行ったが、ロシアはあまり協力的ではなかったが、ロンドンでは夜に運ぶと言ったらそれは大変だと、記者がたくさん来てフラッシュをたくのでパンダはそういうものにたいして凄い神経質なので、必ず蓋をするようにしてパンダに光が入らない様なものを作った方がいいと言われて作って、それが良かったです。
報道陣が何百人か来ると思っていたら2000人が来ました。
直ぐ蓋をしたら開けろと大声で言われたりしました。
カナダからマグロを移送などしたり、中国人の留学生の奨学基金の設立、岡山の地元の中学生と周恩来首相の地元の中学生の交換訪問などをやってきた。
中国では外国人をホームステーをすることは法律で禁止されていた。
中国の要人の一人が父の墓参りに来た時に、交換留学をやりたいと言ったら出来ると言ってきて(法律の問題もあり本当に出来るのかなとは思ったが)、こっちもやるようにしただけです。(25年たちますが今も続いています。)
周恩来首相に父親が初めてあった翌年昭和38年香港支店に勤務していて、突如父から声がかかって初めて周恩来首相に初めて会いました。
父親は公私をはっきりする人で、電話が有ったことには吃驚した。
支店長に話をしたら行って来てくれと言われて、行きました。
休暇で来たと言ったら、父からよしよしと言われました。
パーティーがあり、周恩来さんと握手をしましたが、ジーンときました。
柔らかい、暖かくて力強い、周恩来と握手したのはもう100人居ないと思います。
あの時手を洗いませんでした。
キッシンジャー回顧録、「公人としての生活の中で周恩来よりも人の心をつかんで離さない人物に会ったことはない」と言っている。
人間が大きい、度量の広さは色々話して判るが、人間の広さは何にもしなくても判る、迫って来る。
父は実業人として企業再建、池貝鉄工、丸善石油、全日空などを立て直す尽力をして、貿易を糸口に日本と中国の国交回復したいとしました。
最初は倉敷レーヨン、プラント輸出は通産省が反対するものと中国は思っていた。
周総理も吃驚したと言っていました。
中国で私が子供の頃相手に怪我をさせてしまい、夜10時ごろに父親と一緒に怪我をさせた子供の家を色々探し回って、一緒に土下座して父から頭をゴーンとやられまして、中国人をいじめてはいけないと身にしみました。
その子に奨学金を出していたし、日本人が真夜中に来ることにはその家では物凄く怯えていました。
父親も鉄壁でしたが、母親も凄かった、父親が中国で成功したのは母親のお陰です。
中国の国慶節で旗を揚げるが、日本も敬意を表して日の丸の旗を揚げるが、家では中国の旗もあげます。
中国人の運転手が中国の旗の上に日本の旗をあげたら、君の所の旗が上だと言った。
憲兵がそれを見つけてどなりこんできたが父親はいなくて母親がこれは中国のお祭りなんだから中国の旗を上にあげることは当たり前だと言ったら、憲兵は帰ってしまった。
母親にくっついて部隊長に会って、こういうことは良くないと言って、そして縄でつながれた捕虜がいましたが、それを見たらどう思うと言って、判りましたと言っていました。
母親の方が強かったかもしれない。
「信は縦糸、愛は横糸織りなせ人の世を美しく」 嘉平太氏の言葉。
10年前のNHKスペシャル 「国交回復35年 ラストメッセージ 命をかけた日中友好」
岡崎構想を基にした貿易交渉は1962年北京で始まる。
自民党の高碕達之助が団長、民間人岡崎は副団長として参加。
迎えたのは周恩来、「日清戦争以来日本は我が国を侵略し人民を傷てけ苦しめて来ました。
我々は深い恨みがあります。
しかし中国と日本の間には2000年に渡る友好の歴史があります。
戦争に依る不幸な歴史は僅か数十年に過ぎません。
我々は日本に恨みを持っていますが、それを忘れようと努力しています。
これからは 日中が力を合わせてアジアをよくしていこうではありませんか。」
(劉 徳有(りゅうとくゆう)さんが通訳)
周総理は大きくうなずく。
外交儀礼を越えた響き合うものを感じていた。(劉 徳有)
中国人の若い者にたいして何をやったか、全日空の中に岡崎嘉平太財団が別にあり留学生をとっている。
他にも沢山あると思いますが、お互いにはあまり関係ない。
仲間を選んで大ぺージェントをやってみて中国大使、文化省などを呼んで、見てもらって、そうしたら今度日本を呼んでもらうとか、若者から作っていかないといけないと思う。
役人がもうすこし見方を変えるようにすることだと思います。
大ぺージェントを介して親中思想と云うのが出てくると思う、日中関係に熱心な人を作っていかなければ駄目ですね。
1929年昭和4年生まれ88歳、父親の嘉平太さんの仕事の関係で、小学校を中国の上海で卒業しています。
務めた日本航空では航空貨物の仕事に長く携わり、日中友好のパンダの初来日にも深くかかわった経験をお持ちです。
呼吸器の病気で一日寝たきりですが、顔色はいいです。
日中国交回復45年の節目の年、親子2代の日中交流。
父親の嘉平太が中国で銀行の理事、参事官をした関係で、子供の時に上海の小学校を卒業。
日本の小学校に行っていたら絶対にできない経験をしました。
遠くに点々と家があり、ウサギ、雉、ふくろう、野ネズミなどが居て毎日追っかけて成長しました。
色んな会社の社宅が出来ていて、日本町が出来ていました。
イギリス人はアヘン戦争の賠償として上海香港をもらったわけで、上海をそだてていって今の上海になっているわけです。
日本は満州で、イギリスと比べたらどうってことないと思って、あとになって満州に行ってみると凄いことをやっている。
日本人の考えるようなことではないことを日本人はやっている。
車が回るロータリー(直径が1kmある)を作ってみたり、下水(当時日本にはない)もちゃんと作っている。
マンホールをちゃんと残してあるが、中国が残している。(いいものはちゃんと残している)
生まれて3カ月後に父親が転勤でドイツに行ってしまって、4歳になるまで父親なしで過ごしたが、父親が欲しくてしょうがなくて、帰って来た時には親爺のズボンに絡みついて、香水ではないがちょっといいにおいだった。
父は岡山で生まれて岡山一中に入って、上位5位に入ると第三高等学校に無試験で入れたがその権利を捨てて、一高を受けて入ってしまいました。
日銀に入って何年後かにドイツに送られ、帰って来た時にはえらいオシャレでした。
私は東京中央中学校にいましたが、戦争中の勤労動員で動員先が陸軍航空本部でトラック乗りをやっていて、立川に行って貨物を飛行機に積むことをやっていて、日本航空に入って最初の1年半は千歳に行って、貨物に行きたいと言って本気かと言われましたが転勤になり、貨物部門にいきました。
貨物部門は人気の無いところでしたが、結構楽しんでいました。
パンダを運ぶことは簡単だと思ったが、会社中が大変でした。
ルーブル博物館にあるダビンチの絵を運ぶことがあったが、飛行機が事故を起こして海に沈んでしまったと云う想定で、海に沈んでも絶対大丈夫だと言う金庫みたいなものを作れと言われて、調べて作ったらそれだけで80万円ぐらいかかるわけです。
日本航空ではお手上げになり断わりました。
その後運ぶことになったが行きはエールフランスが運び、帰りに日本航空が運びました。
パンダの時はロンドンとモスクワの動物園に行って、運び方を調べに行ったが、ロシアはあまり協力的ではなかったが、ロンドンでは夜に運ぶと言ったらそれは大変だと、記者がたくさん来てフラッシュをたくのでパンダはそういうものにたいして凄い神経質なので、必ず蓋をするようにしてパンダに光が入らない様なものを作った方がいいと言われて作って、それが良かったです。
報道陣が何百人か来ると思っていたら2000人が来ました。
直ぐ蓋をしたら開けろと大声で言われたりしました。
カナダからマグロを移送などしたり、中国人の留学生の奨学基金の設立、岡山の地元の中学生と周恩来首相の地元の中学生の交換訪問などをやってきた。
中国では外国人をホームステーをすることは法律で禁止されていた。
中国の要人の一人が父の墓参りに来た時に、交換留学をやりたいと言ったら出来ると言ってきて(法律の問題もあり本当に出来るのかなとは思ったが)、こっちもやるようにしただけです。(25年たちますが今も続いています。)
周恩来首相に父親が初めてあった翌年昭和38年香港支店に勤務していて、突如父から声がかかって初めて周恩来首相に初めて会いました。
父親は公私をはっきりする人で、電話が有ったことには吃驚した。
支店長に話をしたら行って来てくれと言われて、行きました。
休暇で来たと言ったら、父からよしよしと言われました。
パーティーがあり、周恩来さんと握手をしましたが、ジーンときました。
柔らかい、暖かくて力強い、周恩来と握手したのはもう100人居ないと思います。
あの時手を洗いませんでした。
キッシンジャー回顧録、「公人としての生活の中で周恩来よりも人の心をつかんで離さない人物に会ったことはない」と言っている。
人間が大きい、度量の広さは色々話して判るが、人間の広さは何にもしなくても判る、迫って来る。
父は実業人として企業再建、池貝鉄工、丸善石油、全日空などを立て直す尽力をして、貿易を糸口に日本と中国の国交回復したいとしました。
最初は倉敷レーヨン、プラント輸出は通産省が反対するものと中国は思っていた。
周総理も吃驚したと言っていました。
中国で私が子供の頃相手に怪我をさせてしまい、夜10時ごろに父親と一緒に怪我をさせた子供の家を色々探し回って、一緒に土下座して父から頭をゴーンとやられまして、中国人をいじめてはいけないと身にしみました。
その子に奨学金を出していたし、日本人が真夜中に来ることにはその家では物凄く怯えていました。
父親も鉄壁でしたが、母親も凄かった、父親が中国で成功したのは母親のお陰です。
中国の国慶節で旗を揚げるが、日本も敬意を表して日の丸の旗を揚げるが、家では中国の旗もあげます。
中国人の運転手が中国の旗の上に日本の旗をあげたら、君の所の旗が上だと言った。
憲兵がそれを見つけてどなりこんできたが父親はいなくて母親がこれは中国のお祭りなんだから中国の旗を上にあげることは当たり前だと言ったら、憲兵は帰ってしまった。
母親にくっついて部隊長に会って、こういうことは良くないと言って、そして縄でつながれた捕虜がいましたが、それを見たらどう思うと言って、判りましたと言っていました。
母親の方が強かったかもしれない。
「信は縦糸、愛は横糸織りなせ人の世を美しく」 嘉平太氏の言葉。
10年前のNHKスペシャル 「国交回復35年 ラストメッセージ 命をかけた日中友好」
岡崎構想を基にした貿易交渉は1962年北京で始まる。
自民党の高碕達之助が団長、民間人岡崎は副団長として参加。
迎えたのは周恩来、「日清戦争以来日本は我が国を侵略し人民を傷てけ苦しめて来ました。
我々は深い恨みがあります。
しかし中国と日本の間には2000年に渡る友好の歴史があります。
戦争に依る不幸な歴史は僅か数十年に過ぎません。
我々は日本に恨みを持っていますが、それを忘れようと努力しています。
これからは 日中が力を合わせてアジアをよくしていこうではありませんか。」
(劉 徳有(りゅうとくゆう)さんが通訳)
岡崎に突然周恩来が顔を向け、ところで岡崎さんはどう思いますかと尋ねる。
刎頸の交わりの古事を持ち出す、対立していた二人が和解し友のためなら死をいとわぬ仲になったという物語にたとえて、日中が手を携えて行くことの大切さを語った。周総理は大きくうなずく。
外交儀礼を越えた響き合うものを感じていた。(劉 徳有)
中国人の若い者にたいして何をやったか、全日空の中に岡崎嘉平太財団が別にあり留学生をとっている。
他にも沢山あると思いますが、お互いにはあまり関係ない。
仲間を選んで大ぺージェントをやってみて中国大使、文化省などを呼んで、見てもらって、そうしたら今度日本を呼んでもらうとか、若者から作っていかないといけないと思う。
役人がもうすこし見方を変えるようにすることだと思います。
大ぺージェントを介して親中思想と云うのが出てくると思う、日中関係に熱心な人を作っていかなければ駄目ですね。
2017年12月18日月曜日
元井秀治(鋳物メーカー社長) ・【にっぽんの音】能楽師狂言方 大藏基誠
元井秀治(鋳物メーカー社長) ・【にっぽんの音】
能楽師狂言方 大藏基誠
12月の風物詩の音、「ゴーン」大晦日に鳴り響く除夜の鐘、梵鐘を作っている、元井さん。
富山県の高岡市は鋳物の街で400年ぐらい鋳物を生産している街です。
江戸時代は鍋釜など生活必需品を作っていた。
鋳物は鋳型に溶けた金属を流して作る製品の事を全部鋳物と言います。
うちは200年位になり、江戸中期から末期の頃の創業になります。
お寺の鐘を作っているのは日本で現在5社ぐらいです。
西本願寺、成田山新勝寺、広島の平和の鐘などを作っています。
仏教伝来以来、鐘も伝わって来たようで、一番古い鐘は京都の妙心寺の鐘に700年代の後半の年号が入っています。
梵鐘の「梵」は限りなく清浄と云う意味で、梵鐘は限りなく清浄な音を出す器ということになったんだと思います。
昭和17年金属召集令と言うものが出て、日本中の梵鐘が拠出されました。
出兵兵士の様に釣鐘にたすきをかけて、鐘の前に御膳を置いて水杯でおくったという、お国のために送って戦艦の部品などになったと聞いています。
飛鳥時代から順々に作って来た鐘が第二次世界大戦でほとんど消えてしまうと言う不幸な歴史があります。
鐘は銅と錫の合金で錫は15%位です。
戦争が終わってから梵鐘の大生産時代に入りますが、うちが一番作らせていただきました。
日本中の二つに一つがうちの作ったものと思います。
形や、音色でうちのものかどうかわかります。
兵庫県のお寺に収めたものが一番大きくて、高さ5、5m、直径3.3m、重さが50トン、これを二つ作りました。
ふたつ作るのに3~4年かかりました。
金属の湯を流し込むのは10分足らずです。
型を作ってから終わってから仕上げるまでの時間が長くかかります。
今年作ったのは30個弱です。
ここ数年で海外からは数本です。
普通の鐘で日本の高級車から会社の一台分ぐらいの価格と言ってもらえればいいと思います。(鐘もピンキリがあり車のピンキリと同じ)
一番上のフック、龍頭と言いましが、ぼつぼつは乳と言ったりしますが、仏様の螺髪(らほつ)を模したものだと言われます。
縦と横に筋がはいっていますが、お釈迦様の袈裟からきてると言われます。
突くところを突き座と言いますが、天国で咲いていると言う蓮の模様をしています。
一番下の処を草の間と言いますが、龍の模様か、宝相華(ほうそうげ)、これも天国で咲いていると言う草の模様です。(唐草文様の一種。唐草に、架空の5弁花の植物を組み合わせた空想的な花文。)
釣鐘に出ている模様は全部この世にはなくて、あの世のものがあらわされています。
池の間 と云う所に時々天人模様を入れますが、あの世で筝曲を鳴らす人達と言う人達であの世の者です。
現在ガス炉でクレーンとかは使ってはいますが、それ以外の工程はおそらく1300年ぐらい変わっていないです。
鐘の音の聞き比べ
*東大寺の鐘の音、堂々とした感じ、大きな鐘なので重低音。
*京都知恩院の鐘の音 16人の僧侶が除夜の鐘を鳴らす。
アインシュタインが日本に来た時に、鐘を突くのを見て「鐘のまん中に音の聞こえなくなる場所があるでしょう」といって、真ん中に入ると全く音の聞こえなくなる場所1ポイントあり、皆は吃驚したと言う話があります。(物理学者なので見聞きしただけで分かったと言う)
鐘は鳴らすと震えていないように感じるが、湾曲しているのでほとんど真ん中に音の聞こえなくなる場所がある。
どの鐘にもあります。
鐘を突いて鐘の周りをゆっくり回ると、鐘を突いた方向と90度方向に強い音が出ていて、45度方向は音が消えるとまではいかないが、大きな音は出ていないです。
そのことが鐘を湾曲させながら楕円運動させているので、真ん中に音の聞こえなくなる場所が出てくる訳です。
*池上本門寺の鐘の音、余韻がながい感じがする。戦後にうちで作った鐘の音でしみじみいい音だと思います。
形状の設計、肉厚のバランス、砂の吟味、合金の成分をどうするか、鋳込みの温度(非常に重要)、枯らし(何もしないで放っておく期間)の期間、場所が音に関係するがそれも重要、突く木の材質、重さも音に重要な要素となる。
場所、山の鐘は重く、平地の鐘は軽くという格言もあります。
低音の方が遠くに聞こえるので、平地は家などの遮蔽物があるので大きくする、山寺の鐘は山が反射板になってくれるので小さくてもいい。
高さ1.8m、重さ11トンの高岡の平和の鐘をうちで作った時は、どのくらい音が飛んでいくかの実験をしたが、最大7kmのところまで聞こえた。
「鐘の音」と言う狂言があるが、建長寺の鐘の音が良かったと言う話。
*建長寺の鐘の音 特徴は細長い、すっきりした鐘の音。(突き座がちょっと上にある)
*狂言での鐘の音を声で発する。能楽師狂言方 大藏基誠
鐘の音は段々長い余韻と、重低音が好まれる傾向にある。
昔から「良い鐘は一里鳴って、一里響いて一里渡る」と言われている。(12km)
釣鐘は音圧が100dB前後で、50~160Hzの周波数 2km位しか音は飛ばない。
渡る、は気配だけが伝わって行く、日本人しかわからない感性だと思うが。
渡る気配が12km先まで判ったと言うことでいい鐘は3里と言われる所以と思う。
広島の平和の鐘、あれは世界で一番悲痛なセレモニーと思っていますが、それと同じ様な音を出してくれと言うことで、東日本大震災の後に釜石市の皆さんが来て鐘を作りたいと言うことで、釜石の駅前に釜石復興の鐘と言う鐘が鳴っていますが、広島の平和の鐘とほぼ同じ音を出すように工夫して作ったが、釜石市の皆さんの思いがこもっていて、誰でも鐘を突くことが出来ます、この音も好きですが思いもこもっています。
長い余韻と程よい唸りを求めて作っていますが、日本の風土、宗教観、無常観、わびさびとか色んなものが入っている音、皆さんに除夜の鐘の音を聞いてもらいたいと思います。
「花の雲鐘は上野か浅草か」 桜が爛漫になって鐘の音がある、何処の鐘だろう。芭蕉の句
川越の「時の鐘」も有名。
祈りの対象になるものなので、一つ一つ丁寧に作る、音を聞いて涙を流す人もいて、それを見ることで又我々も感動して感謝の循環の場が生まれるわけです、有難い仕事だと思っています。
若い人たちにもずーっと続けて行って欲しいと思っています。
20歳代2人、中核の人は40歳代です。
梵鐘の数もだんだん減っていくと思うので、鎮魂、哀悼、慰霊、平和の鐘と言うものを社是として一つ一つ丁寧に作っていきたいと思います。
能楽師狂言方 大藏基誠
12月の風物詩の音、「ゴーン」大晦日に鳴り響く除夜の鐘、梵鐘を作っている、元井さん。
富山県の高岡市は鋳物の街で400年ぐらい鋳物を生産している街です。
江戸時代は鍋釜など生活必需品を作っていた。
鋳物は鋳型に溶けた金属を流して作る製品の事を全部鋳物と言います。
うちは200年位になり、江戸中期から末期の頃の創業になります。
お寺の鐘を作っているのは日本で現在5社ぐらいです。
西本願寺、成田山新勝寺、広島の平和の鐘などを作っています。
仏教伝来以来、鐘も伝わって来たようで、一番古い鐘は京都の妙心寺の鐘に700年代の後半の年号が入っています。
梵鐘の「梵」は限りなく清浄と云う意味で、梵鐘は限りなく清浄な音を出す器ということになったんだと思います。
昭和17年金属召集令と言うものが出て、日本中の梵鐘が拠出されました。
出兵兵士の様に釣鐘にたすきをかけて、鐘の前に御膳を置いて水杯でおくったという、お国のために送って戦艦の部品などになったと聞いています。
飛鳥時代から順々に作って来た鐘が第二次世界大戦でほとんど消えてしまうと言う不幸な歴史があります。
鐘は銅と錫の合金で錫は15%位です。
戦争が終わってから梵鐘の大生産時代に入りますが、うちが一番作らせていただきました。
日本中の二つに一つがうちの作ったものと思います。
形や、音色でうちのものかどうかわかります。
兵庫県のお寺に収めたものが一番大きくて、高さ5、5m、直径3.3m、重さが50トン、これを二つ作りました。
ふたつ作るのに3~4年かかりました。
金属の湯を流し込むのは10分足らずです。
型を作ってから終わってから仕上げるまでの時間が長くかかります。
今年作ったのは30個弱です。
ここ数年で海外からは数本です。
普通の鐘で日本の高級車から会社の一台分ぐらいの価格と言ってもらえればいいと思います。(鐘もピンキリがあり車のピンキリと同じ)
一番上のフック、龍頭と言いましが、ぼつぼつは乳と言ったりしますが、仏様の螺髪(らほつ)を模したものだと言われます。
縦と横に筋がはいっていますが、お釈迦様の袈裟からきてると言われます。
突くところを突き座と言いますが、天国で咲いていると言う蓮の模様をしています。
一番下の処を草の間と言いますが、龍の模様か、宝相華(ほうそうげ)、これも天国で咲いていると言う草の模様です。(唐草文様の一種。唐草に、架空の5弁花の植物を組み合わせた空想的な花文。)
釣鐘に出ている模様は全部この世にはなくて、あの世のものがあらわされています。
池の間 と云う所に時々天人模様を入れますが、あの世で筝曲を鳴らす人達と言う人達であの世の者です。
現在ガス炉でクレーンとかは使ってはいますが、それ以外の工程はおそらく1300年ぐらい変わっていないです。
鐘の音の聞き比べ
*東大寺の鐘の音、堂々とした感じ、大きな鐘なので重低音。
*京都知恩院の鐘の音 16人の僧侶が除夜の鐘を鳴らす。
アインシュタインが日本に来た時に、鐘を突くのを見て「鐘のまん中に音の聞こえなくなる場所があるでしょう」といって、真ん中に入ると全く音の聞こえなくなる場所1ポイントあり、皆は吃驚したと言う話があります。(物理学者なので見聞きしただけで分かったと言う)
鐘は鳴らすと震えていないように感じるが、湾曲しているのでほとんど真ん中に音の聞こえなくなる場所がある。
どの鐘にもあります。
鐘を突いて鐘の周りをゆっくり回ると、鐘を突いた方向と90度方向に強い音が出ていて、45度方向は音が消えるとまではいかないが、大きな音は出ていないです。
そのことが鐘を湾曲させながら楕円運動させているので、真ん中に音の聞こえなくなる場所が出てくる訳です。
*池上本門寺の鐘の音、余韻がながい感じがする。戦後にうちで作った鐘の音でしみじみいい音だと思います。
形状の設計、肉厚のバランス、砂の吟味、合金の成分をどうするか、鋳込みの温度(非常に重要)、枯らし(何もしないで放っておく期間)の期間、場所が音に関係するがそれも重要、突く木の材質、重さも音に重要な要素となる。
場所、山の鐘は重く、平地の鐘は軽くという格言もあります。
低音の方が遠くに聞こえるので、平地は家などの遮蔽物があるので大きくする、山寺の鐘は山が反射板になってくれるので小さくてもいい。
高さ1.8m、重さ11トンの高岡の平和の鐘をうちで作った時は、どのくらい音が飛んでいくかの実験をしたが、最大7kmのところまで聞こえた。
「鐘の音」と言う狂言があるが、建長寺の鐘の音が良かったと言う話。
*建長寺の鐘の音 特徴は細長い、すっきりした鐘の音。(突き座がちょっと上にある)
*狂言での鐘の音を声で発する。能楽師狂言方 大藏基誠
鐘の音は段々長い余韻と、重低音が好まれる傾向にある。
昔から「良い鐘は一里鳴って、一里響いて一里渡る」と言われている。(12km)
釣鐘は音圧が100dB前後で、50~160Hzの周波数 2km位しか音は飛ばない。
渡る、は気配だけが伝わって行く、日本人しかわからない感性だと思うが。
渡る気配が12km先まで判ったと言うことでいい鐘は3里と言われる所以と思う。
広島の平和の鐘、あれは世界で一番悲痛なセレモニーと思っていますが、それと同じ様な音を出してくれと言うことで、東日本大震災の後に釜石市の皆さんが来て鐘を作りたいと言うことで、釜石の駅前に釜石復興の鐘と言う鐘が鳴っていますが、広島の平和の鐘とほぼ同じ音を出すように工夫して作ったが、釜石市の皆さんの思いがこもっていて、誰でも鐘を突くことが出来ます、この音も好きですが思いもこもっています。
長い余韻と程よい唸りを求めて作っていますが、日本の風土、宗教観、無常観、わびさびとか色んなものが入っている音、皆さんに除夜の鐘の音を聞いてもらいたいと思います。
「花の雲鐘は上野か浅草か」 桜が爛漫になって鐘の音がある、何処の鐘だろう。芭蕉の句
川越の「時の鐘」も有名。
祈りの対象になるものなので、一つ一つ丁寧に作る、音を聞いて涙を流す人もいて、それを見ることで又我々も感動して感謝の循環の場が生まれるわけです、有難い仕事だと思っています。
若い人たちにもずーっと続けて行って欲しいと思っています。
20歳代2人、中核の人は40歳代です。
梵鐘の数もだんだん減っていくと思うので、鎮魂、哀悼、慰霊、平和の鐘と言うものを社是として一つ一つ丁寧に作っていきたいと思います。
2017年12月16日土曜日
南定四郎(ゲイリブ運動の先駆け) ・85歳の同性愛者が歩いてきた日本
南定四郎(ゲイリブ運動の先駆け) ・85歳の同性愛者が歩いてきた日本
1972年に自らが編集長となって当事者に依る初めてのゲイ雑誌を創刊し、80年代には同性愛者の権利を求める団体を結成、1994年に日本で初めてレズビアンゲイパレードを開催するなど先駆的活動を行って来ました。
現在は沖縄で同性愛者のほか、男女両方を好きになるバイセクシャル、心と身体の性が一致しないトランスジェンダーの人を含めLGBTと言われる性的マイノリティーに関する相談員を務めています。
戦後同性愛者はどのように生きてきたのか、現在の性的マイノリティーの状況をどう感じるのか伺いました。
今年の1月から月に一度沖縄市の社会福祉協議会でLGBTの相談員を務めています。
相談に入る前までに手間取ります。
電話相談です。
名前は聞けないのでイニシャルから入ります。
もやもやを言語化させるのが大変な苦労なんです。
自分が悩んだことなどを話すとようやく話しだします。
男性のことが好きだと言う前に身体的な関心、身体的に触れてみたいと思ったのが小学校3年生の時でした。
近くにお菓子屋さんがあり、10歳上の跡取り息子との付き合いが、性に目覚めるきっかけでした。
公園に遊びに行こうと誘われたが、どんどん丘の頂上に行って彼が突然下半身を脱いで射精することを見せつけて、それが性の体験の始まりでした。
それ以来、あずき洗いの手伝いをしたり、カルタ遊びに誘われたり、百人一首のカルタ遊びに誘われたりして、嬉しい、楽しい感じでした。
私を抱きしめるとかと云うことをすると言うことは何にもありませんでした。
自然な感情でその人が好きでした。
高校を卒業して秋田地方検察庁に就職しました。
本屋に行って立ち読みしようと思って、風俗雑誌を見ていたら、そこに書かれている内容そこに集まって来る人の会話などがちょうど自分と同じだと思って、それが同性愛者なのかと初めて同性愛者と言うことを発見した訳です。
自分を得体の知れない人物だと思っていたが、なんかほっとしたような感じでした。
相談したら罵倒されて私の周りからいなくなってしまうのではないかと思っていました。
書かれていた東京の秘密の場所に行ってみたいと思いました。
東京に出てきて仕事をするようになりましたが、その場所には行っていませんでした。
放送局の音響効果の仕事を担当することになりました。
私のところに近寄って来る人がいて、案内したいところがあると言って、行った処がゲイバーでした。
そこから同性愛者との交流が深まっていきました。
その後色々な仕事をしました。(出版社、大工、陸橋を作る現場、専門誌の記者など)
気づかれるとまずいと思って3年程度で職を変えました。(首になると思った)
差別されているような感覚はありました。
30歳台になって結婚しましたが、子供を作らなくてはと言う思いがありました。
結婚生活は苦しかった、二重の人格を生きている訳ですから。
帰らない日がだんだん増えて行って最後には自分が家出をすることになり別居しました。
1974年に「アドン」を創刊、提案されてやった仕事でした。
すでに他に雑誌がありましたが、その内容が気に食わないと言うような話があり、新しい雑誌を作らないかと言われました。(40歳過ぎ)
ほとんどの時間は普通の人と同じような社会生活をしているので、そこに起きてくる問題などを解決する、アドバイス、実体験の投稿を載せると言うことが、わたしの編集方針でした。
いかにして同好の志を見付けるか、結婚をどうするか、小説、外国のゲイライフ情報、など。
私はその時に同性愛者だと言うことを公にしました。
雑誌の出版でもう私を首にすることはなくなると思いました。
社会からはじき出されることもありませんでした。
初版3万部を全部売り切りましたが、読者に嫌われずにこの仕事をしていれば生きていけると思いました。
大きな転換でした。
ある外国人がIGA(国際ゲイ協会)で役員をしているが、アジアから参加していないので日本のあなたが参加して欲しいと言われました。
断わったが、どうしても引き受け手がいないと言うことで引き受けることにしました。
その後電話の相談をしました。
母親からの相談、私の育て方がいけなかったのかなどあるが、その人のいうことをまず聞いて当人の生きやすいようにしてやった方がいいのではないかと言うようなアドバイスをしました。
その後同性愛者の人権と云う事に結び付いていくようになって行く訳です。
1994年にレズビアンゲイパレードを開催、1年前に講演をして来年レズビアンゲイパレードを開催したいが実行委員に応募したい人が居ないか聞いたら10人もいて、それがきっかけです。
最初は50人、新宿駅南口を通ったらそこから一気に100人になり原宿あたりで250人になり、終点では300人になりました。
開催する前に止めろと言う電話がガンガンかかって来ましたが。
2回目は1000人、3回目は2500人、その時には決議文を読みました。
異議ありと言う人達が50人ほどきて、演説を始めました。
解散宣言をしてスタッフがみんな帰ってしまいましたが、現場責任者が1人残りましたが、翌年2月15日に私たちの事務所のビルの7階から飛び降り自殺をしてしまいました。
これからは大言壮語は止めようと雑誌を廃刊し、全ての活動から引退しました。
身体の都合から沖縄に移住する事になりました。
誘いがあり沖縄の運動に参加するようになり、電話相談を引き受けるようになりました。
振り返る機会がありましたが、理想を掲げて皆に納得する手続きは踏んではいるが、かなり強力に主張してリードしてきたが、自分のことよりも大きな社会的な理想とか、理念として正しいんだからついてこいと言うようなやり方に終始していたが、今は大いに反省をしています。
今では代々木公園ではLGBTのイベントでは10万人規模になった。
10万人はそれぞれが1人で、基本的にはばらばらだと思います。
世の中が変わってLGBTの環境は良くなったが、ブームを仕掛ける色んなことがあって成り立っていて、仕掛けが取れてしまえば崩れてしまうと思う。
当事者が強くならなければいけない、そして流れを作っていかないといけないと思う。
人権と言うものは、当たり前だと思うことだと思う。
自分たちが成り立つことが重要です、自分を確立することが人権の基本だと思います。
1972年に自らが編集長となって当事者に依る初めてのゲイ雑誌を創刊し、80年代には同性愛者の権利を求める団体を結成、1994年に日本で初めてレズビアンゲイパレードを開催するなど先駆的活動を行って来ました。
現在は沖縄で同性愛者のほか、男女両方を好きになるバイセクシャル、心と身体の性が一致しないトランスジェンダーの人を含めLGBTと言われる性的マイノリティーに関する相談員を務めています。
戦後同性愛者はどのように生きてきたのか、現在の性的マイノリティーの状況をどう感じるのか伺いました。
今年の1月から月に一度沖縄市の社会福祉協議会でLGBTの相談員を務めています。
相談に入る前までに手間取ります。
電話相談です。
名前は聞けないのでイニシャルから入ります。
もやもやを言語化させるのが大変な苦労なんです。
自分が悩んだことなどを話すとようやく話しだします。
男性のことが好きだと言う前に身体的な関心、身体的に触れてみたいと思ったのが小学校3年生の時でした。
近くにお菓子屋さんがあり、10歳上の跡取り息子との付き合いが、性に目覚めるきっかけでした。
公園に遊びに行こうと誘われたが、どんどん丘の頂上に行って彼が突然下半身を脱いで射精することを見せつけて、それが性の体験の始まりでした。
それ以来、あずき洗いの手伝いをしたり、カルタ遊びに誘われたり、百人一首のカルタ遊びに誘われたりして、嬉しい、楽しい感じでした。
私を抱きしめるとかと云うことをすると言うことは何にもありませんでした。
自然な感情でその人が好きでした。
高校を卒業して秋田地方検察庁に就職しました。
本屋に行って立ち読みしようと思って、風俗雑誌を見ていたら、そこに書かれている内容そこに集まって来る人の会話などがちょうど自分と同じだと思って、それが同性愛者なのかと初めて同性愛者と言うことを発見した訳です。
自分を得体の知れない人物だと思っていたが、なんかほっとしたような感じでした。
相談したら罵倒されて私の周りからいなくなってしまうのではないかと思っていました。
書かれていた東京の秘密の場所に行ってみたいと思いました。
東京に出てきて仕事をするようになりましたが、その場所には行っていませんでした。
放送局の音響効果の仕事を担当することになりました。
私のところに近寄って来る人がいて、案内したいところがあると言って、行った処がゲイバーでした。
そこから同性愛者との交流が深まっていきました。
その後色々な仕事をしました。(出版社、大工、陸橋を作る現場、専門誌の記者など)
気づかれるとまずいと思って3年程度で職を変えました。(首になると思った)
差別されているような感覚はありました。
30歳台になって結婚しましたが、子供を作らなくてはと言う思いがありました。
結婚生活は苦しかった、二重の人格を生きている訳ですから。
帰らない日がだんだん増えて行って最後には自分が家出をすることになり別居しました。
1974年に「アドン」を創刊、提案されてやった仕事でした。
すでに他に雑誌がありましたが、その内容が気に食わないと言うような話があり、新しい雑誌を作らないかと言われました。(40歳過ぎ)
ほとんどの時間は普通の人と同じような社会生活をしているので、そこに起きてくる問題などを解決する、アドバイス、実体験の投稿を載せると言うことが、わたしの編集方針でした。
いかにして同好の志を見付けるか、結婚をどうするか、小説、外国のゲイライフ情報、など。
私はその時に同性愛者だと言うことを公にしました。
雑誌の出版でもう私を首にすることはなくなると思いました。
社会からはじき出されることもありませんでした。
初版3万部を全部売り切りましたが、読者に嫌われずにこの仕事をしていれば生きていけると思いました。
大きな転換でした。
ある外国人がIGA(国際ゲイ協会)で役員をしているが、アジアから参加していないので日本のあなたが参加して欲しいと言われました。
断わったが、どうしても引き受け手がいないと言うことで引き受けることにしました。
その後電話の相談をしました。
母親からの相談、私の育て方がいけなかったのかなどあるが、その人のいうことをまず聞いて当人の生きやすいようにしてやった方がいいのではないかと言うようなアドバイスをしました。
その後同性愛者の人権と云う事に結び付いていくようになって行く訳です。
1994年にレズビアンゲイパレードを開催、1年前に講演をして来年レズビアンゲイパレードを開催したいが実行委員に応募したい人が居ないか聞いたら10人もいて、それがきっかけです。
最初は50人、新宿駅南口を通ったらそこから一気に100人になり原宿あたりで250人になり、終点では300人になりました。
開催する前に止めろと言う電話がガンガンかかって来ましたが。
2回目は1000人、3回目は2500人、その時には決議文を読みました。
異議ありと言う人達が50人ほどきて、演説を始めました。
解散宣言をしてスタッフがみんな帰ってしまいましたが、現場責任者が1人残りましたが、翌年2月15日に私たちの事務所のビルの7階から飛び降り自殺をしてしまいました。
これからは大言壮語は止めようと雑誌を廃刊し、全ての活動から引退しました。
身体の都合から沖縄に移住する事になりました。
誘いがあり沖縄の運動に参加するようになり、電話相談を引き受けるようになりました。
振り返る機会がありましたが、理想を掲げて皆に納得する手続きは踏んではいるが、かなり強力に主張してリードしてきたが、自分のことよりも大きな社会的な理想とか、理念として正しいんだからついてこいと言うようなやり方に終始していたが、今は大いに反省をしています。
今では代々木公園ではLGBTのイベントでは10万人規模になった。
10万人はそれぞれが1人で、基本的にはばらばらだと思います。
世の中が変わってLGBTの環境は良くなったが、ブームを仕掛ける色んなことがあって成り立っていて、仕掛けが取れてしまえば崩れてしまうと思う。
当事者が強くならなければいけない、そして流れを作っていかないといけないと思う。
人権と言うものは、当たり前だと思うことだと思う。
自分たちが成り立つことが重要です、自分を確立することが人権の基本だと思います。
2017年12月15日金曜日
久山公明(片目失明者友の会代表) ・健常者と障害者の狭間で(H28/12/6 OA)
久山公明(片目失明者友の会代表) ・健常者と障害者の狭間で(H28/12/6 OA)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2016/12/blog-post_6.htmlをご覧ください。
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2016/12/blog-post_6.htmlをご覧ください。
2017年12月14日木曜日
湯原悦子(介護殺人”研究者) ・大切な人を殺さないために!
湯原悦子(介護殺人”研究者) ・大切な人を殺さないために!
介護に疲れて家族の命に手をかけてしまう介護殺人が後を立ちません。
20年にわたって介護殺人を研究している日本福祉大学准教授、湯原さん47歳に依ると、確認できるだけでも 年間40件ほど、その数は年々緩やかに増えていると言います。
湯原さんは精神障害者の母親の介護を経験し、福祉に付いて学ぼうと大学に再入学して研究を続けて来ました。
介護殺人を減らすにはケアマネージャー等の支援者が介護を担う人をどう支えるかが重要なポイントだと指摘しています。
大切な人を殺さないために何が必要なのか伺いました。
私が育った家には障害のある姉と病気の母が居ました。
介護は身近な問題でした。
それで研究者になりましたが、介護者自身の言葉を分析している研究が無くて、支援者側から見た事件や虐待の研究が多かった。
介護者はきっとこうは考えていないのではないかと思って、介護者自身の声を伝えていきたいと思ったのが研究のきっかけです。
OLをやっていたが、母の病気がひどくなって辞めました。
母は精神疾患だったのですが、ほんとうに困ったことが有って、私は我慢が出来ない、わたしを困らせないでと思ったときに、瓶を机で割ってかけらを掴んだ時に血が出て正気が保ったことが有って、10年傷が治らなかった。
瓶を持って向かって行ったら母も向かってきたかもしれず、介護殺人になってしまっていたかもしれない。
大切な母親だと思っているが、カッと来てしまって自分を押さえることが出来ないことがある事を実感しました。
集合住宅に住んでいて、母の行動にたいして近所の方から色々苦情が来て、地域の中でも孤立してしまい、なんとかしてほしいと言われて追い詰められました。
大学院に入ったのは1998年で、児童虐待が世間を騒がしていた状況でしたが、高齢者虐待についてはほとんど研究されていなくてそれをテーマにしました。
加害者にインタビューしたかったが、支援者にたいしての調査研究しかできなかった。
加害者はそうは考えていないのではないかと思いました。
法学部出だったので裁判例を使えばいいと思って、介護殺人の研究をしようと思うようになりました。
当時は誰も介護殺人を専門に研究する人はいませんでした。(いまでもあまりいないと思います。)
この問題は是非世の中に出して行かなくてはいけないと思いました。
法廷の場にも何度も行きました。
裁判官から、あなたはこの事件を起こして反省しているかと問われて、「自分は何にたいして反省したらいいかよくわからない」と言った人がいました。
(夫が奥さんを殺してしまったと言う事例)
夫としては出来る限り一生懸命やって、痩せて夜も眠れない位してきた、反省しているかと問われた時に「自分は何にたいして反省したらいいかよくわからない」と答えたことは、凄く正直な気持ちとして私のなかに響きました。
「父は良くやっていたので父を責めるのなら私を責めてください」と、娘さんがいって、その光景は頭に焼きついています。
ぎりぎりまで追い詰められたけれど事件を起こさなかった人の手記を集めた本があるが、自分にたいして支援者が声をかけて、話を聞いて冷静になれたとか、手をかけた瞬間相手が反応して自分に気が付いたとか、そういうちょっとしたことで戻ってきた人もかなりいますので、声を掛けてあげるとかはまわりが出来ることかなと思います。
介護している方そのものが高齢だったり、自身病気だったり、障害を抱えていたり、介護する人がこんなに大変な介護を一人で背負わなければらないのかという状況が見られる。
これが一つの大きな要因だと思います。
介護者を支援する制度はほとんど無いんです。
介護者を支援する方法しかないと思います。
殺してしまった介護者、色んな事情から殺してしまった人をどうしたら事前に食い止められるかと思ったときに、介護者支援を本気で考えないといけないと思いました。
あるケースでは、介護者が重いうつ状態になり痩せて行きアルコールを飲み、気付けるはずだったが、まわりがその時に気づいて声を掛けてあげれば防げたと思います。
介護者自身が病気、あるいは85歳以上とか、が大変な介護をしなければいけないとかと思う場合もあるし、若い方で外部とのコミュニケーションが取れない方が親の介護をしなくてはいけなくなったときに、外部と交渉したりするには介護者としてやって行くのは難しいと思います。
不適切な介護状況にあれば外部からの支援はあるが、それなりに介護している状況にあれば介護者に任せることになってしまう。
介護者支援はだれがやるのか、お金はどうするのかとなると、システム的に出来ていない以上無理をお願いすると言うことになってしまうと思いました。
海外に行ったときに介護をする人とされる人の両方が居ないと成り立たない行為、何故日本では介護を必要とする制度はあるが、介護をする人への支援は薄いのかと言われて、はっとして介護者支援は介護の両輪としてふたつが必要だと意識を変えています。
介護をするきっかけ、その人の守りたい生活などを聞きながら相談にのってくれるソーシャルワーカーが居て一緒に考えてくれる。
イギリスが一番先行していますし、社会的排除をしないようになっている。(人権の問題)
日本とは根本的に違う。
南オーストラリアでの実践は衝撃的でした。
介護者の方々が自ら集まって、社会にたいしてどういうふうな存在で、どういうふうなことを求めているのかと言う事を自分たちでまとめた介護者憲章を作りました。
当事者が自分たちにたいしてどう見てほしい、どう支援してほしい、どういうふうなかかわりを持ってほしいと言うことで、力を感じましたし、重要だと思いました。
参考にして欲しいと憲章をプレゼントをされました。
日本でも作りましょうという事で、愛知県支部として介護者憲章を作りました。
介護者憲章を学会で報告しましたが賞を頂きました。
介護をしていて介護を代わってほしいと言うようなときにも、誰かが代わってくれると言うことがなくて、我慢して追い詰められてしまう介護者の現状があると思います。
代わって介護する為の手段として地域で考えて出来るといいですね。
愛知県ですと、認知症の人と家族の会等当事者の団体が自分たちも支援を求めてもいいんだということを確認しましょうと、希望、やれることを支援者に伝えるシートを作ってみたりとの取り組みはあります。
法制度は遅々として進まない。
実践は実践で進みつつあります。(介護支援者へのツールとか、支援者への勉強会)
誰が、予算は、と言うことに最終はなるので、法律のあるないは大きい。
虐待防止法はあり、介護者支援の視点が入っていて法的な枠組みの中で行うことが出来ていてネットワークはあるが(法律があるから)、それ以外は出来ないこともあるので法律は是非作っていきたいと思います。
介護殺人を無くすためには介護者支援をするという発想と、介護者の方がどれぐらい介護を出来るかを見極めて出来ない部分を助けると言う発想が必要だと思います。
また事件を振り返って、その後気づいた点をサービスの充実に生かしてゆくことも必要だと思います。
「助けて」と周りに表現することも大事だと思います。
そして支援が出来るところに繋いで欲しいと思います。
介護に疲れて家族の命に手をかけてしまう介護殺人が後を立ちません。
20年にわたって介護殺人を研究している日本福祉大学准教授、湯原さん47歳に依ると、確認できるだけでも 年間40件ほど、その数は年々緩やかに増えていると言います。
湯原さんは精神障害者の母親の介護を経験し、福祉に付いて学ぼうと大学に再入学して研究を続けて来ました。
介護殺人を減らすにはケアマネージャー等の支援者が介護を担う人をどう支えるかが重要なポイントだと指摘しています。
大切な人を殺さないために何が必要なのか伺いました。
私が育った家には障害のある姉と病気の母が居ました。
介護は身近な問題でした。
それで研究者になりましたが、介護者自身の言葉を分析している研究が無くて、支援者側から見た事件や虐待の研究が多かった。
介護者はきっとこうは考えていないのではないかと思って、介護者自身の声を伝えていきたいと思ったのが研究のきっかけです。
OLをやっていたが、母の病気がひどくなって辞めました。
母は精神疾患だったのですが、ほんとうに困ったことが有って、私は我慢が出来ない、わたしを困らせないでと思ったときに、瓶を机で割ってかけらを掴んだ時に血が出て正気が保ったことが有って、10年傷が治らなかった。
瓶を持って向かって行ったら母も向かってきたかもしれず、介護殺人になってしまっていたかもしれない。
大切な母親だと思っているが、カッと来てしまって自分を押さえることが出来ないことがある事を実感しました。
集合住宅に住んでいて、母の行動にたいして近所の方から色々苦情が来て、地域の中でも孤立してしまい、なんとかしてほしいと言われて追い詰められました。
大学院に入ったのは1998年で、児童虐待が世間を騒がしていた状況でしたが、高齢者虐待についてはほとんど研究されていなくてそれをテーマにしました。
加害者にインタビューしたかったが、支援者にたいしての調査研究しかできなかった。
加害者はそうは考えていないのではないかと思いました。
法学部出だったので裁判例を使えばいいと思って、介護殺人の研究をしようと思うようになりました。
当時は誰も介護殺人を専門に研究する人はいませんでした。(いまでもあまりいないと思います。)
この問題は是非世の中に出して行かなくてはいけないと思いました。
法廷の場にも何度も行きました。
裁判官から、あなたはこの事件を起こして反省しているかと問われて、「自分は何にたいして反省したらいいかよくわからない」と言った人がいました。
(夫が奥さんを殺してしまったと言う事例)
夫としては出来る限り一生懸命やって、痩せて夜も眠れない位してきた、反省しているかと問われた時に「自分は何にたいして反省したらいいかよくわからない」と答えたことは、凄く正直な気持ちとして私のなかに響きました。
「父は良くやっていたので父を責めるのなら私を責めてください」と、娘さんがいって、その光景は頭に焼きついています。
ぎりぎりまで追い詰められたけれど事件を起こさなかった人の手記を集めた本があるが、自分にたいして支援者が声をかけて、話を聞いて冷静になれたとか、手をかけた瞬間相手が反応して自分に気が付いたとか、そういうちょっとしたことで戻ってきた人もかなりいますので、声を掛けてあげるとかはまわりが出来ることかなと思います。
介護している方そのものが高齢だったり、自身病気だったり、障害を抱えていたり、介護する人がこんなに大変な介護を一人で背負わなければらないのかという状況が見られる。
これが一つの大きな要因だと思います。
介護者を支援する制度はほとんど無いんです。
介護者を支援する方法しかないと思います。
殺してしまった介護者、色んな事情から殺してしまった人をどうしたら事前に食い止められるかと思ったときに、介護者支援を本気で考えないといけないと思いました。
あるケースでは、介護者が重いうつ状態になり痩せて行きアルコールを飲み、気付けるはずだったが、まわりがその時に気づいて声を掛けてあげれば防げたと思います。
介護者自身が病気、あるいは85歳以上とか、が大変な介護をしなければいけないとかと思う場合もあるし、若い方で外部とのコミュニケーションが取れない方が親の介護をしなくてはいけなくなったときに、外部と交渉したりするには介護者としてやって行くのは難しいと思います。
不適切な介護状況にあれば外部からの支援はあるが、それなりに介護している状況にあれば介護者に任せることになってしまう。
介護者支援はだれがやるのか、お金はどうするのかとなると、システム的に出来ていない以上無理をお願いすると言うことになってしまうと思いました。
海外に行ったときに介護をする人とされる人の両方が居ないと成り立たない行為、何故日本では介護を必要とする制度はあるが、介護をする人への支援は薄いのかと言われて、はっとして介護者支援は介護の両輪としてふたつが必要だと意識を変えています。
介護をするきっかけ、その人の守りたい生活などを聞きながら相談にのってくれるソーシャルワーカーが居て一緒に考えてくれる。
イギリスが一番先行していますし、社会的排除をしないようになっている。(人権の問題)
日本とは根本的に違う。
南オーストラリアでの実践は衝撃的でした。
介護者の方々が自ら集まって、社会にたいしてどういうふうな存在で、どういうふうなことを求めているのかと言う事を自分たちでまとめた介護者憲章を作りました。
当事者が自分たちにたいしてどう見てほしい、どう支援してほしい、どういうふうなかかわりを持ってほしいと言うことで、力を感じましたし、重要だと思いました。
参考にして欲しいと憲章をプレゼントをされました。
日本でも作りましょうという事で、愛知県支部として介護者憲章を作りました。
介護者憲章を学会で報告しましたが賞を頂きました。
介護をしていて介護を代わってほしいと言うようなときにも、誰かが代わってくれると言うことがなくて、我慢して追い詰められてしまう介護者の現状があると思います。
代わって介護する為の手段として地域で考えて出来るといいですね。
愛知県ですと、認知症の人と家族の会等当事者の団体が自分たちも支援を求めてもいいんだということを確認しましょうと、希望、やれることを支援者に伝えるシートを作ってみたりとの取り組みはあります。
法制度は遅々として進まない。
実践は実践で進みつつあります。(介護支援者へのツールとか、支援者への勉強会)
誰が、予算は、と言うことに最終はなるので、法律のあるないは大きい。
虐待防止法はあり、介護者支援の視点が入っていて法的な枠組みの中で行うことが出来ていてネットワークはあるが(法律があるから)、それ以外は出来ないこともあるので法律は是非作っていきたいと思います。
介護殺人を無くすためには介護者支援をするという発想と、介護者の方がどれぐらい介護を出来るかを見極めて出来ない部分を助けると言う発想が必要だと思います。
また事件を振り返って、その後気づいた点をサービスの充実に生かしてゆくことも必要だと思います。
「助けて」と周りに表現することも大事だと思います。
そして支援が出来るところに繋いで欲しいと思います。
2017年12月13日水曜日
小林由佳(乳がんブラジャー製作者) ・片胸が無くてもお洒落を諦めない!
小林由佳(乳がんブラジャー製作者) ・片胸が無くてもお洒落を諦めない!
39歳 小林さんは3年前に乳がんが発覚、医師からは2,3年以内に再発、転移しやすいタイプのがんと伝えられ、右胸の全摘手術を受けます。
その後離婚を経験、闘病生活の中で鬱状態になった時もありましたが、乳がん患者だからわかると、乳がん患者専用のブラジャーを製作する会社を立ちあげます。
片胸がなくても胸を張って生きていこうと呼びかける小林さんに伺いました。
私自身右胸の全摘手術をして、その傷が当たっていたかったりとかあって、下着で困った経験からこういったブラジャーを作っています。
普通のブラジャーを付けるとパットを入れて生活するが、パットが徐々に飛び出してくるんです。
うちはレモン型のパットを作って患者さんに渡しています、パットはS,M,Lで展開していますが、それの中間もあるのでそれぞれに工夫もしています。
がんになっていない人は色々選べるが、乳がんになると地味な下着しか選べなくて、不公平だと思って自分で作るようになりました。
乳がんが判った時は、胸がブラジャーに収まらなくなってきて、右だけが大きくなって病院に行きました。
不思議だなと思ってから3カ月後に病院に行きました。
腫瘍が4cm位になっていました。
最初病院から良性と言われて、念の為細胞診をしたら病院から電話が来て悪性だと言われました。
頭が真っ白になってしまいました。
主人に報告しないといけないと思ったが、大事な会議があると言うことでラインで報告しました。
主人との関係がうまくいかなくなってしまって離婚しました。
片胸が無くなってしまったことで、女性であるのに女性で無くなったという自分自身にたいする自信が無くなったことが大きかったと思います。
抗がん剤を強めに打ってもらったことで、生理も止まってしまって、良い細胞も壊してしまって、卵巣の機能も低下してしまって子供を産めない状況になってしまいました。
そうなることになるとは判らず治療をしました。
医師に話したら抗がん剤の為に生理が止まっているとの話だった、それを前に聞いていれば卵子を凍結して取っておく方法も可能だったとは思います。
友人からは胸がなくても命があるから大丈夫と言われたが、でも胸は無いんだよなと、立場の違いを感じました。(友人には子供がいたし、自分は子供が産めない身体になってしまった)
離婚後実家に戻って、暫く引きこもりになってしまいました。
インターネットで乳がんの患者が集まるグループを見つけまして、そこに入ったのが変わるターニングポイントだったと思います。
グループには300人ぐらいいました。
好きな人ができたが、胸がないというハードルが出来てしまい、自分自身に自信が無くなってしまって、恋愛にたいして前向きにできないのだがどう思いますか、という内容を投稿しました。
もっと重い患者の人がいるのに、と言うような反感の内容もありました。
数人から温かいメッセージを頂き、凄い励みになりました。
或る方からは自分の命を日々燃やして生きていると言うような状況の中で、温かいメッセージを頂きました。(その方はそんなに重症だとは知らなかった。)
その方は私にメッセージを送った2カ月後に亡くなってしまいました。
悲しみに暮れましたが、私にしてくれたことを今度は私が何かしようと思いました。
下着に困ってしまっていて下着を調べて行くほど、機能はいいが可愛くないものが多いと言うことと、輝くことをあきらめてほしくないと言うことがありました。
結婚式の時のブライダルインナー、美に対してのこだわりがある。
カウンセリングをして、現状困っている事を全部話を聞かせていただいて、その方に合った下着を選んで着けてもらって、加工して出すようにしています。
患者さんに寄り添ってあげることが言葉をかけるのではなくて、そばにいてあげることだと思います。
乳がんの患者さんは胸をカバーしたいので、洋服の上に洋服をみたいな感じできたりしますが、Tシャツ1枚、シャツ1枚、身体のラインが出るドレスを着ることが嬉しいみたいなので、一つ一つ解決してきたのが良かったと思います。
乳がんブラジャーのファッションショーを今年の夏に札幌で開催。
私自身も参加して下着を付けて歩きました。
前向きに生きていることを見ていただきたくて、歩かせていただきました。
患者にとって希望の星だと言われて、先導して歩いていけるような存在になっていけたらいいなあと思います。
会社を立ち上げて両親が凄く応援してくれて、母は私が子供が産めなくなったことに対して、「あなたは今乳がんの患者さんのために下着を作ると言う仕事をやることに決めたのだから、あなたが社会に遺伝子を残しなさい」と言ってくれたのが励みになっています。
39歳 小林さんは3年前に乳がんが発覚、医師からは2,3年以内に再発、転移しやすいタイプのがんと伝えられ、右胸の全摘手術を受けます。
その後離婚を経験、闘病生活の中で鬱状態になった時もありましたが、乳がん患者だからわかると、乳がん患者専用のブラジャーを製作する会社を立ちあげます。
片胸がなくても胸を張って生きていこうと呼びかける小林さんに伺いました。
私自身右胸の全摘手術をして、その傷が当たっていたかったりとかあって、下着で困った経験からこういったブラジャーを作っています。
普通のブラジャーを付けるとパットを入れて生活するが、パットが徐々に飛び出してくるんです。
うちはレモン型のパットを作って患者さんに渡しています、パットはS,M,Lで展開していますが、それの中間もあるのでそれぞれに工夫もしています。
がんになっていない人は色々選べるが、乳がんになると地味な下着しか選べなくて、不公平だと思って自分で作るようになりました。
乳がんが判った時は、胸がブラジャーに収まらなくなってきて、右だけが大きくなって病院に行きました。
不思議だなと思ってから3カ月後に病院に行きました。
腫瘍が4cm位になっていました。
最初病院から良性と言われて、念の為細胞診をしたら病院から電話が来て悪性だと言われました。
頭が真っ白になってしまいました。
主人に報告しないといけないと思ったが、大事な会議があると言うことでラインで報告しました。
主人との関係がうまくいかなくなってしまって離婚しました。
片胸が無くなってしまったことで、女性であるのに女性で無くなったという自分自身にたいする自信が無くなったことが大きかったと思います。
抗がん剤を強めに打ってもらったことで、生理も止まってしまって、良い細胞も壊してしまって、卵巣の機能も低下してしまって子供を産めない状況になってしまいました。
そうなることになるとは判らず治療をしました。
医師に話したら抗がん剤の為に生理が止まっているとの話だった、それを前に聞いていれば卵子を凍結して取っておく方法も可能だったとは思います。
友人からは胸がなくても命があるから大丈夫と言われたが、でも胸は無いんだよなと、立場の違いを感じました。(友人には子供がいたし、自分は子供が産めない身体になってしまった)
離婚後実家に戻って、暫く引きこもりになってしまいました。
インターネットで乳がんの患者が集まるグループを見つけまして、そこに入ったのが変わるターニングポイントだったと思います。
グループには300人ぐらいいました。
好きな人ができたが、胸がないというハードルが出来てしまい、自分自身に自信が無くなってしまって、恋愛にたいして前向きにできないのだがどう思いますか、という内容を投稿しました。
もっと重い患者の人がいるのに、と言うような反感の内容もありました。
数人から温かいメッセージを頂き、凄い励みになりました。
或る方からは自分の命を日々燃やして生きていると言うような状況の中で、温かいメッセージを頂きました。(その方はそんなに重症だとは知らなかった。)
その方は私にメッセージを送った2カ月後に亡くなってしまいました。
悲しみに暮れましたが、私にしてくれたことを今度は私が何かしようと思いました。
下着に困ってしまっていて下着を調べて行くほど、機能はいいが可愛くないものが多いと言うことと、輝くことをあきらめてほしくないと言うことがありました。
結婚式の時のブライダルインナー、美に対してのこだわりがある。
カウンセリングをして、現状困っている事を全部話を聞かせていただいて、その方に合った下着を選んで着けてもらって、加工して出すようにしています。
患者さんに寄り添ってあげることが言葉をかけるのではなくて、そばにいてあげることだと思います。
乳がんの患者さんは胸をカバーしたいので、洋服の上に洋服をみたいな感じできたりしますが、Tシャツ1枚、シャツ1枚、身体のラインが出るドレスを着ることが嬉しいみたいなので、一つ一つ解決してきたのが良かったと思います。
乳がんブラジャーのファッションショーを今年の夏に札幌で開催。
私自身も参加して下着を付けて歩きました。
前向きに生きていることを見ていただきたくて、歩かせていただきました。
患者にとって希望の星だと言われて、先導して歩いていけるような存在になっていけたらいいなあと思います。
会社を立ち上げて両親が凄く応援してくれて、母は私が子供が産めなくなったことに対して、「あなたは今乳がんの患者さんのために下着を作ると言う仕事をやることに決めたのだから、あなたが社会に遺伝子を残しなさい」と言ってくれたのが励みになっています。
2017年12月12日火曜日
本田理沙(元アイドル・ストーカー被害者) ・逃げる勇気を
本田理沙(元アイドル・ストーカー被害者) ・逃げる勇気を
大分県中津市出身、17歳でアイドル歌手としてデビュー、雑誌のグラビア、TVドラマ、バラエティー番組など幅広く活動しました。
親元を離れ一人東京で暮らしていた間、たびたびファンに付きまとわれたり、見知らぬ男性に襲われたりする被害に悩まされました。
中には命の危険を感じる出来事もあったと言います。
度重なるストレスから、本田さんの身体には耳が聞こえなくなるなどと言う異変が現れ26歳で芸能界引退を余儀なくされました。
46歳になった今は故郷の大分で地元FMラジオ局のパーソナリティーやダンススクールの講師を勤めながら2人の娘と暮らしています。
本田さんの体験や女性が身を守るために必要な事などについて伺います。
絶対的なアイドルと言うよりは、時代が下がって放課後のアイドルとか、ちょっと距離が近くなった感じのアイドルの時代でした。
接点が多くなり、男の子だったら彼女みたいに思われていたんだろうなと言うことを感じることはありました。
ファンレターも内容が激しい感じのものもありました。
営業先で1泊することがありましたが、楽屋泥棒にあった時もありました。
関係者しか入れない様な場所だったが、下着、着替え、メーク等無くなってしまったことがありました。
後から手紙で実は僕が盗みましたと、独占欲が強くてというような内容のものでした。
必要なファンだけれど、紙一重的で、でも根はそんなに悪くない様な、微妙な状況でした。
警察沙汰になったのは、エレベーターで自宅に帰ろうエレベーターに乗ろうとしたら、一緒に男性が乗って来て、閉ったら急にはがいじめにされてしまいました。
身体を触られたりして、ナイフを持っているから騒ぐなと脅されました。
その時はGパンをはいていて良かったとその後では思いました。
刺されるれるよりはと思って無抵抗でいました。
ドアがあいたら、小学生がいたが、異常な雰囲気を察して逃げて行ってしまいましが、顔をみられたと思ったのか、犯人もその子を追いかけるように逃げて行きました。
警察に来てもらったが、自分では顔を見ていなくて判らないと答えるしかなかった。
その後エレベーターには乗らないようにしました。
ファンから家が見つからない様な工夫はしました。
ファンからのぬいぐるみには盗聴器がないか、注意しました。
プレゼントに電話を貰ったこともありました。
使い始めてしばらくした頃聞かれているのではないかと思うようになりました。
そのほかやはり盗聴されているのではないかと心配で友達とは筆談したりしました。
色々積み重なってそのうちファンを見ると具合が悪くなるようになりました。
夜の9,10時位に家に侵入されたこともありました。
引き戸が5cm位開いて、棒状の懐中電灯の赤いライトが見えて、恐怖のため耳鳴りのような感じがして音が一切遮断されて音が聞こえなくなり、その場を逃げてベランダで叫んでいたようです。
警察を呼ぶからという声がその時しました。
2階から飛び降りようとしたら、俳優の金山一彦さんと二人で自転車で来てくれて、「男がいる」と叫んだら、肩車をしてベランダから降ろしてくれました。
その男は見ることはできなかった。
洗面所のドアが開いていてそこから侵入していた事が判った。
警察が調べたがつかまってはいませんでした。
事務所からはあなたの自己管理がなっていないと怒られて終わってしまう。
自分だけの問題では無いと思いましたが、公には言わなかった。
公にすると両親も心配するし、何倍、何十倍にも尾ひれがついて大変なことになると事務所からも言われました。
一人でいることが厭でした。
親が亡くなったり、TVを見ることが無くなった状態なので今言わなければと思いました。
耳鳴りは今も続いています。(メンタル的にびくっとした時などにおきます。)
低音が大きく聞こえてしまって、通常の音が聞こえなくなる。
娘が2人いますが、高校生の時に痴漢にあいました。
電車内の出来事で、寝ていたら高齢者に腿を触われ、周りの人と一緒に捕まえて警察に行きました。
自分は自分で守らなければいけないと話しています。
私が言える範囲のことは言うようにしています。
追ってしまってとんでもないことに巻き込まれては大変だし、追わない勇気も大事だと思います。
私ももっと早く言えば良かったと思います。
自分の身を守るのは自分しかないと思います。
周りとはコミュニケーションをとってほしいと思います。(話しやすい環境作り)
大分県中津市出身、17歳でアイドル歌手としてデビュー、雑誌のグラビア、TVドラマ、バラエティー番組など幅広く活動しました。
親元を離れ一人東京で暮らしていた間、たびたびファンに付きまとわれたり、見知らぬ男性に襲われたりする被害に悩まされました。
中には命の危険を感じる出来事もあったと言います。
度重なるストレスから、本田さんの身体には耳が聞こえなくなるなどと言う異変が現れ26歳で芸能界引退を余儀なくされました。
46歳になった今は故郷の大分で地元FMラジオ局のパーソナリティーやダンススクールの講師を勤めながら2人の娘と暮らしています。
本田さんの体験や女性が身を守るために必要な事などについて伺います。
絶対的なアイドルと言うよりは、時代が下がって放課後のアイドルとか、ちょっと距離が近くなった感じのアイドルの時代でした。
接点が多くなり、男の子だったら彼女みたいに思われていたんだろうなと言うことを感じることはありました。
ファンレターも内容が激しい感じのものもありました。
営業先で1泊することがありましたが、楽屋泥棒にあった時もありました。
関係者しか入れない様な場所だったが、下着、着替え、メーク等無くなってしまったことがありました。
後から手紙で実は僕が盗みましたと、独占欲が強くてというような内容のものでした。
必要なファンだけれど、紙一重的で、でも根はそんなに悪くない様な、微妙な状況でした。
警察沙汰になったのは、エレベーターで自宅に帰ろうエレベーターに乗ろうとしたら、一緒に男性が乗って来て、閉ったら急にはがいじめにされてしまいました。
身体を触られたりして、ナイフを持っているから騒ぐなと脅されました。
その時はGパンをはいていて良かったとその後では思いました。
刺されるれるよりはと思って無抵抗でいました。
ドアがあいたら、小学生がいたが、異常な雰囲気を察して逃げて行ってしまいましが、顔をみられたと思ったのか、犯人もその子を追いかけるように逃げて行きました。
警察に来てもらったが、自分では顔を見ていなくて判らないと答えるしかなかった。
その後エレベーターには乗らないようにしました。
ファンから家が見つからない様な工夫はしました。
ファンからのぬいぐるみには盗聴器がないか、注意しました。
プレゼントに電話を貰ったこともありました。
使い始めてしばらくした頃聞かれているのではないかと思うようになりました。
そのほかやはり盗聴されているのではないかと心配で友達とは筆談したりしました。
色々積み重なってそのうちファンを見ると具合が悪くなるようになりました。
夜の9,10時位に家に侵入されたこともありました。
引き戸が5cm位開いて、棒状の懐中電灯の赤いライトが見えて、恐怖のため耳鳴りのような感じがして音が一切遮断されて音が聞こえなくなり、その場を逃げてベランダで叫んでいたようです。
警察を呼ぶからという声がその時しました。
2階から飛び降りようとしたら、俳優の金山一彦さんと二人で自転車で来てくれて、「男がいる」と叫んだら、肩車をしてベランダから降ろしてくれました。
その男は見ることはできなかった。
洗面所のドアが開いていてそこから侵入していた事が判った。
警察が調べたがつかまってはいませんでした。
事務所からはあなたの自己管理がなっていないと怒られて終わってしまう。
自分だけの問題では無いと思いましたが、公には言わなかった。
公にすると両親も心配するし、何倍、何十倍にも尾ひれがついて大変なことになると事務所からも言われました。
一人でいることが厭でした。
親が亡くなったり、TVを見ることが無くなった状態なので今言わなければと思いました。
耳鳴りは今も続いています。(メンタル的にびくっとした時などにおきます。)
低音が大きく聞こえてしまって、通常の音が聞こえなくなる。
娘が2人いますが、高校生の時に痴漢にあいました。
電車内の出来事で、寝ていたら高齢者に腿を触われ、周りの人と一緒に捕まえて警察に行きました。
自分は自分で守らなければいけないと話しています。
私が言える範囲のことは言うようにしています。
追ってしまってとんでもないことに巻き込まれては大変だし、追わない勇気も大事だと思います。
私ももっと早く言えば良かったと思います。
自分の身を守るのは自分しかないと思います。
周りとはコミュニケーションをとってほしいと思います。(話しやすい環境作り)
2017年12月11日月曜日
清水宏保(男子500m 金メダリスト) ・【“2020”に託すもの】オリンピックのむこうに見る夢
清水宏保(長野オリンピックスピードスケート男子500m金メダリスト)・【“2020”に託すもの】オリンピックのむこうに見る夢
見た目にも筋力が多いなあと伝わる様です。
太ももは今は64cm、現役当時は68cm位ありました。
現在札幌市内でジムとリハリビの施設を経営、最初は治療の方から始めて、リハリビ施設、訪問看護ステーション、そして昨年念願のスポーツジムをオープンしてきた。
運動がメインになりながらスポーツと医療が融合する施設作りを心がけています。
他のスポーツジムとはない形になってきたので、面白いかなあと思いながら運営しています。
医療の観点、アスリートの観点、リハリビを行うのは病院と決まっていたが、病院は在日数が決まっているが、退院した後もリハリビを続けられるジムは、若者だけではなく70,80歳の方でもスポーツジムに通いながらリハリビをしていくことが求められている。
80,90歳の方がスポーツジムに行っても何をやっていったらいいかわからないと言う時に、医療スタッフ、理学療法士を配置しているので、医療の観点からのスポーツジムと言うのも凄く需要としてあります。
1998年長野オリンピック(来年で20年)は、自分の人生を大きく変えてくれた出来事でした。
当時の事を鮮明に覚えています。
500m、2回滑ってその合計タイムとなる。
*当時のラジオ放送を再放送。
36秒08で金メダルを獲得することが出来るが、35秒59でゴール。
この種目オリンピック初めての金メダルを獲得。
私たちが滑る少し前の組の外国勢が転倒して競技が20,30分遅れてしまい、どうしようかとあわただしい状況がありました。
準備番たんの時にそのアクシデントがありました。
1分単位で準備して待っているスケジュールで組んでいたので、動揺が生まれました。
集中力、体力的なものも左右されます。
あわてても仕方がないと思って、スケート靴を脱いで戻って気持ちを落ち着けようと思いました。
リンクの中央部分で大の字に寝たことを覚えています。
1回目のスタートが合わなかった。
何故リスタートなのか、怒りが起きました。
1/100秒を争うスケートなのでスタートの第1歩が物凄く大切になって来る。
僕の場合は1歩目が決まればそのときのレースは9割がた決まってくる。
2回目もいいスタートを切れたと思う。
300mまでは失敗をしないように頑張っていこうと思って滑り、最終カーブを回った時にふっとスローモーションの感覚があり、もうオリンピックは終わってしまうのかこの感覚を味わっていたいと言うような感覚が残り150mでありました。
凄く冷静な判断が出来た様な感覚がありました。
一発勝負に強くなる練習はしていました。
練習のすべて全力でこなすのではなく、一日1本でもいいから全力でこなす練習をして自然と集中力が身に付きました。
ヘッドフォンで音楽を聞いて外からの音を聞こえなくすることも、話しかけないでくださいと言うアピールでもある訳です。
肉体を知り尽くすことも心がけていました。
私の場合はぜんそく患者なので肺が弱くて、皆の練習についていけないと言うことが有った。
ハードな練習をして肉体を鍛えて、肺を鍛えて行くと言うことをしました。
精神的な強さも作り上げることにもつながっていきました。
北海道帯広生まれで、喘息をコントロールしていこうとして、父親が色んなスポーツをやらせてくれて、スケートだけは続けたいと思っていました。
30歳を越えたぐらいから身体がいうことを聞いてくれない、なかなか回復しなくなった。
1本にかける勝負も出せなくなってきた。
世界記録を4回塗り替えたが、33秒台をだしたい気持はありました。
勝負と記録への挑み方、ふたつの勝負ポイントがあったが、それでモチベーションを保っていた。
レースの前は身体をほぐし過ぎてもいけないし、方法も大事。
マッサージを受けながら画像診断しているようなイメージでマッサージを受けるが、受け身ではない。
自分とトレーナーと一緒に身体を仕上げて行く作業をしています。
喘息、腰痛との戦いがありそれが今のビジネスに繋がっています。
30歳を過ぎてから、次の人生をどうしようかと悩んでいました。
35歳で現役引退しました。
1年間はどうたらいい判らず、講演などをしていました。
その後大学院に入って自分がどうして行ったらいいか、気付き始めた時期でもありました。
どんな選手であろうと、アスリートのセカンドキャリアーは一度は悩むことだと思います。
現役時代もっとぼろぼろになるまで挑戦してれば良かったなあというような、悔いがちょっとあります。(そういった処から得るものがある。)
ピークを過ぎると何故自分が思い通りの動きが出来ないんだろうとか、自分と向き合う事が出来るが、ピークの時には何も考えない場合が多い。
企業スポーツは福利厚生の中でスポーツが成り立つというところでやっていたが、それではスポーツは続かないと言う思いと、スピードスケートを少しでも企業から注目してもらいたい、メディアに扱ってもらいたいと言うふたつの思いがあった。
橋本聖子さんとも相談してプロ化の道もあると言う話もあり、前提としては長野オリンピックで金メダルをとることが絶対条件と言うことがありました。
今はプロ化の選手は多く輩出している。
多くの子供達がスポーツとしっかり向き合って、将来的にもお金を稼げるんだと言うことをしていかないとスポーツ人口はなかなか増えていかないのかなあと思いました。
今度のオリンピックは期待してもらいたいです。
高木美帆選手、小平奈緒選手、今シーズンも最高に状態がいいです。
自分を客観視することが出来る選手でなければいけない。
オリンピックなどで戦う選手はもう一人の自分を作り上げていかないといけないと思う。
2020年に託すものとしては、全体的に見ていく時には、経済面でオリンピックを縮小化して行く事業モデルになってほしいと思います。
日本のスポーツがいま変わろうとしているタイミングで、スポーツ省が出来て、選手たちのセカンドキャリアーの指導も行ってきて、支えて行こうとしていて、今までになかった流れになって来ている。
まだ形がはっきりしていないかもしれないが、2020年には大きな形として示されていくのかなと思っています。
2020年以降の選手たちには、退いた後の生活も支える様な文化になっていくのではないのかなと感じています。
すそ野が広がれば、世界で活躍するアスリートがたくさん生まれてくるのではないのかなあと思っています。
見た目にも筋力が多いなあと伝わる様です。
太ももは今は64cm、現役当時は68cm位ありました。
現在札幌市内でジムとリハリビの施設を経営、最初は治療の方から始めて、リハリビ施設、訪問看護ステーション、そして昨年念願のスポーツジムをオープンしてきた。
運動がメインになりながらスポーツと医療が融合する施設作りを心がけています。
他のスポーツジムとはない形になってきたので、面白いかなあと思いながら運営しています。
医療の観点、アスリートの観点、リハリビを行うのは病院と決まっていたが、病院は在日数が決まっているが、退院した後もリハリビを続けられるジムは、若者だけではなく70,80歳の方でもスポーツジムに通いながらリハリビをしていくことが求められている。
80,90歳の方がスポーツジムに行っても何をやっていったらいいかわからないと言う時に、医療スタッフ、理学療法士を配置しているので、医療の観点からのスポーツジムと言うのも凄く需要としてあります。
1998年長野オリンピック(来年で20年)は、自分の人生を大きく変えてくれた出来事でした。
当時の事を鮮明に覚えています。
500m、2回滑ってその合計タイムとなる。
*当時のラジオ放送を再放送。
36秒08で金メダルを獲得することが出来るが、35秒59でゴール。
この種目オリンピック初めての金メダルを獲得。
私たちが滑る少し前の組の外国勢が転倒して競技が20,30分遅れてしまい、どうしようかとあわただしい状況がありました。
準備番たんの時にそのアクシデントがありました。
1分単位で準備して待っているスケジュールで組んでいたので、動揺が生まれました。
集中力、体力的なものも左右されます。
あわてても仕方がないと思って、スケート靴を脱いで戻って気持ちを落ち着けようと思いました。
リンクの中央部分で大の字に寝たことを覚えています。
1回目のスタートが合わなかった。
何故リスタートなのか、怒りが起きました。
1/100秒を争うスケートなのでスタートの第1歩が物凄く大切になって来る。
僕の場合は1歩目が決まればそのときのレースは9割がた決まってくる。
2回目もいいスタートを切れたと思う。
300mまでは失敗をしないように頑張っていこうと思って滑り、最終カーブを回った時にふっとスローモーションの感覚があり、もうオリンピックは終わってしまうのかこの感覚を味わっていたいと言うような感覚が残り150mでありました。
凄く冷静な判断が出来た様な感覚がありました。
一発勝負に強くなる練習はしていました。
練習のすべて全力でこなすのではなく、一日1本でもいいから全力でこなす練習をして自然と集中力が身に付きました。
ヘッドフォンで音楽を聞いて外からの音を聞こえなくすることも、話しかけないでくださいと言うアピールでもある訳です。
肉体を知り尽くすことも心がけていました。
私の場合はぜんそく患者なので肺が弱くて、皆の練習についていけないと言うことが有った。
ハードな練習をして肉体を鍛えて、肺を鍛えて行くと言うことをしました。
精神的な強さも作り上げることにもつながっていきました。
北海道帯広生まれで、喘息をコントロールしていこうとして、父親が色んなスポーツをやらせてくれて、スケートだけは続けたいと思っていました。
30歳を越えたぐらいから身体がいうことを聞いてくれない、なかなか回復しなくなった。
1本にかける勝負も出せなくなってきた。
世界記録を4回塗り替えたが、33秒台をだしたい気持はありました。
勝負と記録への挑み方、ふたつの勝負ポイントがあったが、それでモチベーションを保っていた。
レースの前は身体をほぐし過ぎてもいけないし、方法も大事。
マッサージを受けながら画像診断しているようなイメージでマッサージを受けるが、受け身ではない。
自分とトレーナーと一緒に身体を仕上げて行く作業をしています。
喘息、腰痛との戦いがありそれが今のビジネスに繋がっています。
30歳を過ぎてから、次の人生をどうしようかと悩んでいました。
35歳で現役引退しました。
1年間はどうたらいい判らず、講演などをしていました。
その後大学院に入って自分がどうして行ったらいいか、気付き始めた時期でもありました。
どんな選手であろうと、アスリートのセカンドキャリアーは一度は悩むことだと思います。
現役時代もっとぼろぼろになるまで挑戦してれば良かったなあというような、悔いがちょっとあります。(そういった処から得るものがある。)
ピークを過ぎると何故自分が思い通りの動きが出来ないんだろうとか、自分と向き合う事が出来るが、ピークの時には何も考えない場合が多い。
企業スポーツは福利厚生の中でスポーツが成り立つというところでやっていたが、それではスポーツは続かないと言う思いと、スピードスケートを少しでも企業から注目してもらいたい、メディアに扱ってもらいたいと言うふたつの思いがあった。
橋本聖子さんとも相談してプロ化の道もあると言う話もあり、前提としては長野オリンピックで金メダルをとることが絶対条件と言うことがありました。
今はプロ化の選手は多く輩出している。
多くの子供達がスポーツとしっかり向き合って、将来的にもお金を稼げるんだと言うことをしていかないとスポーツ人口はなかなか増えていかないのかなあと思いました。
今度のオリンピックは期待してもらいたいです。
高木美帆選手、小平奈緒選手、今シーズンも最高に状態がいいです。
自分を客観視することが出来る選手でなければいけない。
オリンピックなどで戦う選手はもう一人の自分を作り上げていかないといけないと思う。
2020年に託すものとしては、全体的に見ていく時には、経済面でオリンピックを縮小化して行く事業モデルになってほしいと思います。
日本のスポーツがいま変わろうとしているタイミングで、スポーツ省が出来て、選手たちのセカンドキャリアーの指導も行ってきて、支えて行こうとしていて、今までになかった流れになって来ている。
まだ形がはっきりしていないかもしれないが、2020年には大きな形として示されていくのかなと思っています。
2020年以降の選手たちには、退いた後の生活も支える様な文化になっていくのではないのかなと感じています。
すそ野が広がれば、世界で活躍するアスリートがたくさん生まれてくるのではないのかなあと思っています。
2017年12月9日土曜日
尾崎健一(元少年通信兵) ・少年兵の見た“地獄” ルソン島からの生還
尾崎健一(元少年通信兵) ・少年兵の見た“地獄” ルソン島からの生還
高知県出身、89歳、12月8日は76年前人本がアメリカ、イギリスなどを相手に太平洋戦争を始めた日です。
尾崎さんは開戦から3年後、すでに戦況が悪化していた昭和19年(1944年)12月に通信兵としてルソン島に送られました。
16歳の少年でした。
着任早々アメリカ軍の猛攻に会い、ジャングルに逃げこんだ尾崎さんたち、それからおよそ7か月間飢えや病気、アメリカ軍やゲリラの攻撃にさらされ、何度も死を覚悟しながらさまよい続けました。
そこで尾崎さんが見たのは人が人で無くなって行く地獄だったと言います。
戦後尾崎さんが長い間、この体験を人に語りませんでしたが、戦争の記憶が風化するのを防ぎたいと、自らルソン島現場を訪れ戦死者の記録を調べ手記にまとめ、公表しました。
少年兵が見た戦争の姿とはどのようなものだったのか伺いました。
手記の一部。
「配属された部隊が壊滅し食糧が無くなり、山へ逃げ込んだ私たちは文字通り草木をかじって生き延びた。
アメリカ軍の執拗な空爆砲撃、ゲリラの狙撃があって死亡者が続出した。
あの時から70年過ぎたが、今でも思い出すと眠れない夜がある。
彼ら兵隊は使い捨てにされた消耗品だったのではないか、単なる犬死ではなかったのか。
いまでもなお、彼らの遺骨は山奥に雨ざらしのまま散乱しており、、見捨てられ寂しく眠っていると思うと、胸が締め付けられる思いがして、わたしの心の中の戦後はいつまでも終わらない。」
73年もたつが、私にとってはまるで昨日のように思い出される。
実に悲惨でした、それを考えると今でも眠ることはできない。
当時旧制中学の4年だったが、中退して志願しました。
戦況は悪化しつつありまして、志願兵の募集をしていました。
相当に危機と云う風な気持ちがあり、親に話しましたが大反対でしたが、親を説得して一人で決めました。
15歳の時に東京陸軍通信少年兵学校に入学しました。(2年の予定)
10カ月後に30人が選抜されて私もその中に入りました。
行き先は中隊長が小声でいったんです。
兄から死ぬなよ、絶対帰ってこいよと言われました。
当時の戦況についての説明が全く無かった、1944年の秋にレイテ島の海戦で日本軍が負けていて、フィリピンの戦況は悪化していたが知らなかった。
九州の門司から出発しますが、行くときに「貴様ら全員が目的地に着けると思うな、輸送船に積み込んだ物資、船員の半分が着けば成功である。」こう言うんです。
半分死んでもいいと言う事で、消耗品扱いする軍の考え方に失望と怒りを覚えました。
志願をしたことを後悔し始めました。
1944年11月に門司港を出発。
畳1枚の広さに10人以上、横になって寝ることが不可能で、蒸し暑くてたまに30度を超える状況だった。
トイレに行くのもやっと行くような状況だった。
潜水艦が来てることが判り、爆発音が響きましたが、後の記録では30分間魚雷を投下し続けて何とか逃げ切りました。
20日間恐怖を帯びながら行きました。
幸いに私が乗った船だけが着くことが出来ました。
12月の初めにルソン島の北に上陸、南下してマニラで配属される。
日本が管理する航空基地があったが、そこが毎日のようにアメリカ軍の空爆を受けていた。(一方的)
1月9日に米軍が上陸してマニラの方に侵攻した。
私達の通信隊は海外との交信で発信出力が非常に大きいために探知されて、戦闘機による爆撃でたちまち破壊されました。
通信が出来なくなり、約10km程上流に移動しました。
今までにない数の戦闘機の爆撃に会い怖かったです。
川から上がった時は20人ぐらい死者が居て、周辺はわたし一人でした。
部隊が壊滅しまして、敗残兵として山の中を逃げまわる生活、それから7カ月大変な経験をしました。
武器は小銃弾が20発位、他に飯合ほか(良く聞き取れず)、食糧は靴下に7合ぐらい入れて持っていた。
食糧はすぐに無くなり、食える雑草はあまりなくて、雑草を飯合で煮て食うが腹の足しにならないから水をがぶ飲みして何とか我慢できるようになるが、後は蛇、とかげ、かえるおたまじゃくし、沢ガニ、バッタ、食えるものは何でも食いました。
靴底がはがれて、最後には靴を捨てて後は裸足でした。
足から血が出てきてしまい辛かった。
病魔、マラリア、熱帯性胃潰瘍、(そのほか良く聞き取れず)全部かかりました。
身体はガラガラに痩せて歩くのがやっとでした。
新しい死体の肉を切り取ってある跡があるのを2回ほど見たことがあります。
私たちは3人で行動していましたが、或る部隊が肉を焼いていてトカゲだと言ったが、人肉だろうと口から出かかったが出来なかった。
人が人ではなくなる。
白骨化した死体を70体は見たと思います。
怖いと言うよりも、今日も何とか生き延びた、明日の食うものはどうしようか、その事ばかり考えるだけでした。
これ以上逃げても仕方がない一か所にとどまって、農耕作しようと言うことになり、30人ぐらい集まってそういう生活をしているうちに、出す煙を段々警戒しないようになって、大変な惨劇に会いました。
攻撃がやんでから恐る恐る元の所に戻ったら、一人の兵隊が呻いていた。
同期の戦友だった、歯が吹っ飛んでいて無かった。
朝小屋に戻った時にはこの世の地獄絵を見ました。
30人ぐらいが色んな形になり、ちぎれたり、内臓が出たりして死んでいました。
残っていたのは他にも一人でした。(重症)
どうせ生きてはいられないと思ってその人は名前を言いませんでした。
山の中の生活を生き延びて、飛行機が低空を飛んでビラをまいていました。
ビラを見たら、日本軍の無条件降伏と、武装解除の勧告が書いてありました。
戦陣訓で、帝国軍人は捕虜になってはいけないと言うことを徹底的に学校で鍛えられました。
その後も1カ月程雑草を食う生活を続けましたが、限界にきてもうこれ以上耐えられない、死を待つばかりに残った3人は追い詰められて、死を覚悟の上で武装解除をしようと山を降りました。
おおきなトラックが来て真っ先に小銃を取り上げられ、荷台に放りあげられました。
1946年11月、18歳になってから日本に戻ることになりました。
家に帰ると焼け野原で家も焼けていました。
親戚の家に行って迎えてくれました。
家族は母と兄が疎開をしていました。
父は空襲で壕の中で焼け死んだと聞きました。
戦後、戦争の体験は話しませんでした、山中の逃避行、戦友の無残な死など到底理解してもらえないと思いました。
1978年、偶然に街を歩いていたら卒業生に出会い、ある会合に行きましたが、来ていた当時の教官に「全滅した彼らのことを忘れたのか」と大声で抗議しました。
当時の苦しみなどを知らせる義務があると思ってそれから手記を書き始めました。
この戦争は何だったんだろうと思います。
極限状態になると人間は鬼にも獣になることも知りました。
戦争は人類が犯す最大の悪だと思います。
平和を大切にしてほしい。
誤った過去の歴史を学んでそれを教訓にして、二度と戦争を起こすことの無いように恒久的な平和の確立をして欲しい。
高知県出身、89歳、12月8日は76年前人本がアメリカ、イギリスなどを相手に太平洋戦争を始めた日です。
尾崎さんは開戦から3年後、すでに戦況が悪化していた昭和19年(1944年)12月に通信兵としてルソン島に送られました。
16歳の少年でした。
着任早々アメリカ軍の猛攻に会い、ジャングルに逃げこんだ尾崎さんたち、それからおよそ7か月間飢えや病気、アメリカ軍やゲリラの攻撃にさらされ、何度も死を覚悟しながらさまよい続けました。
そこで尾崎さんが見たのは人が人で無くなって行く地獄だったと言います。
戦後尾崎さんが長い間、この体験を人に語りませんでしたが、戦争の記憶が風化するのを防ぎたいと、自らルソン島現場を訪れ戦死者の記録を調べ手記にまとめ、公表しました。
少年兵が見た戦争の姿とはどのようなものだったのか伺いました。
手記の一部。
「配属された部隊が壊滅し食糧が無くなり、山へ逃げ込んだ私たちは文字通り草木をかじって生き延びた。
アメリカ軍の執拗な空爆砲撃、ゲリラの狙撃があって死亡者が続出した。
あの時から70年過ぎたが、今でも思い出すと眠れない夜がある。
彼ら兵隊は使い捨てにされた消耗品だったのではないか、単なる犬死ではなかったのか。
いまでもなお、彼らの遺骨は山奥に雨ざらしのまま散乱しており、、見捨てられ寂しく眠っていると思うと、胸が締め付けられる思いがして、わたしの心の中の戦後はいつまでも終わらない。」
73年もたつが、私にとってはまるで昨日のように思い出される。
実に悲惨でした、それを考えると今でも眠ることはできない。
当時旧制中学の4年だったが、中退して志願しました。
戦況は悪化しつつありまして、志願兵の募集をしていました。
相当に危機と云う風な気持ちがあり、親に話しましたが大反対でしたが、親を説得して一人で決めました。
15歳の時に東京陸軍通信少年兵学校に入学しました。(2年の予定)
10カ月後に30人が選抜されて私もその中に入りました。
行き先は中隊長が小声でいったんです。
兄から死ぬなよ、絶対帰ってこいよと言われました。
当時の戦況についての説明が全く無かった、1944年の秋にレイテ島の海戦で日本軍が負けていて、フィリピンの戦況は悪化していたが知らなかった。
九州の門司から出発しますが、行くときに「貴様ら全員が目的地に着けると思うな、輸送船に積み込んだ物資、船員の半分が着けば成功である。」こう言うんです。
半分死んでもいいと言う事で、消耗品扱いする軍の考え方に失望と怒りを覚えました。
志願をしたことを後悔し始めました。
1944年11月に門司港を出発。
畳1枚の広さに10人以上、横になって寝ることが不可能で、蒸し暑くてたまに30度を超える状況だった。
トイレに行くのもやっと行くような状況だった。
潜水艦が来てることが判り、爆発音が響きましたが、後の記録では30分間魚雷を投下し続けて何とか逃げ切りました。
20日間恐怖を帯びながら行きました。
幸いに私が乗った船だけが着くことが出来ました。
12月の初めにルソン島の北に上陸、南下してマニラで配属される。
日本が管理する航空基地があったが、そこが毎日のようにアメリカ軍の空爆を受けていた。(一方的)
1月9日に米軍が上陸してマニラの方に侵攻した。
私達の通信隊は海外との交信で発信出力が非常に大きいために探知されて、戦闘機による爆撃でたちまち破壊されました。
通信が出来なくなり、約10km程上流に移動しました。
今までにない数の戦闘機の爆撃に会い怖かったです。
川から上がった時は20人ぐらい死者が居て、周辺はわたし一人でした。
部隊が壊滅しまして、敗残兵として山の中を逃げまわる生活、それから7カ月大変な経験をしました。
武器は小銃弾が20発位、他に飯合ほか(良く聞き取れず)、食糧は靴下に7合ぐらい入れて持っていた。
食糧はすぐに無くなり、食える雑草はあまりなくて、雑草を飯合で煮て食うが腹の足しにならないから水をがぶ飲みして何とか我慢できるようになるが、後は蛇、とかげ、かえるおたまじゃくし、沢ガニ、バッタ、食えるものは何でも食いました。
靴底がはがれて、最後には靴を捨てて後は裸足でした。
足から血が出てきてしまい辛かった。
病魔、マラリア、熱帯性胃潰瘍、(そのほか良く聞き取れず)全部かかりました。
身体はガラガラに痩せて歩くのがやっとでした。
新しい死体の肉を切り取ってある跡があるのを2回ほど見たことがあります。
私たちは3人で行動していましたが、或る部隊が肉を焼いていてトカゲだと言ったが、人肉だろうと口から出かかったが出来なかった。
人が人ではなくなる。
白骨化した死体を70体は見たと思います。
怖いと言うよりも、今日も何とか生き延びた、明日の食うものはどうしようか、その事ばかり考えるだけでした。
これ以上逃げても仕方がない一か所にとどまって、農耕作しようと言うことになり、30人ぐらい集まってそういう生活をしているうちに、出す煙を段々警戒しないようになって、大変な惨劇に会いました。
攻撃がやんでから恐る恐る元の所に戻ったら、一人の兵隊が呻いていた。
同期の戦友だった、歯が吹っ飛んでいて無かった。
朝小屋に戻った時にはこの世の地獄絵を見ました。
30人ぐらいが色んな形になり、ちぎれたり、内臓が出たりして死んでいました。
残っていたのは他にも一人でした。(重症)
どうせ生きてはいられないと思ってその人は名前を言いませんでした。
山の中の生活を生き延びて、飛行機が低空を飛んでビラをまいていました。
ビラを見たら、日本軍の無条件降伏と、武装解除の勧告が書いてありました。
戦陣訓で、帝国軍人は捕虜になってはいけないと言うことを徹底的に学校で鍛えられました。
その後も1カ月程雑草を食う生活を続けましたが、限界にきてもうこれ以上耐えられない、死を待つばかりに残った3人は追い詰められて、死を覚悟の上で武装解除をしようと山を降りました。
おおきなトラックが来て真っ先に小銃を取り上げられ、荷台に放りあげられました。
1946年11月、18歳になってから日本に戻ることになりました。
家に帰ると焼け野原で家も焼けていました。
親戚の家に行って迎えてくれました。
家族は母と兄が疎開をしていました。
父は空襲で壕の中で焼け死んだと聞きました。
戦後、戦争の体験は話しませんでした、山中の逃避行、戦友の無残な死など到底理解してもらえないと思いました。
1978年、偶然に街を歩いていたら卒業生に出会い、ある会合に行きましたが、来ていた当時の教官に「全滅した彼らのことを忘れたのか」と大声で抗議しました。
当時の苦しみなどを知らせる義務があると思ってそれから手記を書き始めました。
この戦争は何だったんだろうと思います。
極限状態になると人間は鬼にも獣になることも知りました。
戦争は人類が犯す最大の悪だと思います。
平和を大切にしてほしい。
誤った過去の歴史を学んでそれを教訓にして、二度と戦争を起こすことの無いように恒久的な平和の確立をして欲しい。
2017年12月8日金曜日
大林宣彦(映画作家) ・シネマと歩んだ人生(2)
大林宣彦(映画作家) ・シネマと歩んだ人生(2)
TVのコマーシャルの草分けとしても知られます。
話題のコマーシャルを数多く手掛け、CM界の巨匠とも言われる存在です。
大林さんは1977年「ハウス」で商業映画に進出し映画作りに新しい風を吹き込みました。
映画と言うのはそれを作る制度があり、映画会社に就職し社員になって、監督はいわば部長と同じ職能だった。
私はフリーなので部長とは名乗れない、自分は父親から貰った小さな8mmと言うカメラで、医者になるなら全て譲るが、映画と言うことでは譲るものがないので、自分がやりたいことを一生やるのは平和の印だから、映画をやると言うならそれをやり抜きなさいと言われました。
父親の平和への祈りの象徴である8mmを譲ってもらって、東京に出て来ました。
映画は1960年代まで見られる映画はほぼすべて観ていたと思います。
9つの映画館で2,3本立ての映画を全て見ていました。
月、火、水、木、金、土、土、日、日と1週間に9つの映画館で観ていました。
我が家に活動写真機があり、蒸気機関車のおもちゃだと思って遊んでいたが、実は映画を写す機械だと知って、遊んでいるうちに映画の作り方を自分で覚えてしまいました。(3~5歳)
今でも自分が映画を作っている自覚はない。
黒沢明監督も、「大林君なあ、俺だって作りたい映画の20,30本はいつでもあるよ、でも今なにを作るかだけは俺には決められない。
上の方にいる神様が、黒沢明よ、この映画を今作れと言われたときに作らないと、人に伝わらない、果物と同じで、おいしく味わいよく育つには、環境と旬が有ってそこだけは間違えてはいけない」、と言っていました。
世の中の事をしっかり観察して、いい事、いけないこと、特に危うい事を人に伝えて自覚してもらうことで、世の中が平和に一歩近づくことを力強くやれるのが、映画だと思っています。
かつて戦争をしていたから、子供なりにより純粋に受け入れていたから、だから今戦争の映画を作っているんですよと、60年前から変わっていないと思う。
16mmで始めて作った映画(「食べた人」)を60年ぶりに観たが、サツマイモで育った子供の日本人が大人になって飽食に時代を迎えてフォーク、ナイフで洋食を食べたのを我々はせせらわらっていました。
それをパロディーにしました。
後半、お腹一杯になった客たちが何故か包帯を吐き出して、レストラン中を巻いてしまう。
どうしてこんなことをするのかと言われ、日本人は飽食以上に戦争で傷ついたのだから地球上を優しい包帯で巻いてやりたいと思って撮った映画ですが、「花筐(はながたみ)」にも、包帯は出て来ます。
恋に傷ついたり、友情に傷ついたりした人たちをその包帯が包んでやると言う風な表現をしているのは本質はなにも変わっていない。
監督をして脚本を書き、出演もして、編集をして、作曲をして映画音楽の演奏もピアノで自分でやる、一人で作るのが映画だと思っています。
活動写真機と一緒に音の出ないピアノがあったが何なのか分からず積み木の遊びをしていたら、母親が「それはピアノと言ってとってもいい楽器で音がするんだけれども、音を出す金属が供出と言って、お国のためと金属を戦地に差しだされていったんだ」と言われました。
「お父ちゃんと同じように戦地に行ってタンクか軍艦になって敵と戦っているから音がしないんだよと、ピアノの音も、お父ちゃんも無事に帰ってくればいいね」と言われました。
父親は無事に帰って来て、父親が中古のピアノを買ってくれました。
叩いたらポーン、ポーンと音がして、音の積み木だと思いました。
その後映画館に行くようになって、ショパン、ブラームスにであったりしてそれを真似て、家で弾くと言うふうなことをやっていました。
中学生のころに中国地方の先生方が参観に来ると言うことで、先生からピアノを弾くように依頼される。
ショパンのように頭から身なりを整えて行こうと思ったが、ショパンの映画では彼は肺結核でチャリティーコンサートで演奏するのが映画のラストで、真っ赤な血を吐きながら演奏するが、それをやらないとショパンではない訳で、母親に相談したらトマトケチャップがあるからそれを持っていって口に含んで吐けばいいと言われて、血を吐きながら演奏したが、周りは静まり返ってシーンとしていた。
校長先生が来て、お前のおかげでピアノが滅茶苦茶になってしまったが、「これはただの道具でショパンはこの道具を上手に誰よりも愛して使ったから何世紀後の我々がショパンの思いも愛も全て味わう事が出来る、お前も信じる道を一生懸命勉強して、ショパンのように偉い芸術家になったら、このピアノも人様のお役に立ったかと、よろこんでくれるだろうと、このピアノを直すことはお前も先生もできないが、ピアノを幸せにすることはお前にはできるぞ、頑張ってみろ」とそれだけしか言われなかった。
今でもあのピアノは赦してくれたかなあと、もっと頑張っていい映画を作ろうと、励みにしてます。
経済的には厳しかったが母親は貯金をしていて、「今日宣彦が学校でピアノを壊すから弁償しないといけないから」と言って、貯金を全部持っていって、学校に行った。
そこまでやって当時の大人は自分たちが果たせなかった平和の喜びを、子供たちに味あわせてやろうと、ひしひしと伝わってきた。
僕自身はあくまでも医者であると、映画家があるとしてそこの医者であると、巻きごこちのいい包帯、良く効く薬のような映画を作ろうと、映画人生を生きて来ました。
作曲、演奏もしている。 映画「絵の中の少女」で30分演奏している。
*その一部を演奏。 大林宣彦 ピアノ演奏
最初にピアノに出会っていたら音楽家になっていたかも知れません。
子供が最初に何に出会うかが、実は重要な人生を決めるものですね。
システムと言うことは嫌いです、全ての世の中の犯罪はシステム犯罪。
コマーシャルは興行主義の極地ですが、僕にとってはコマーシャルを全部自分の作品だと思って、結果は逆に映画少年よりはコマーシャル少年と云うものを当時生みだすぐらいの人気になりました。
海外のスターをコマーシャルの登場と言うことをした草分けでもありました。
短編映画として世界の俳優さんとお付き合いするのが楽しかったです。
チャールズ・ブロンソン、3分の作品だが自分としては初めての主演映画なので、僕が頑張ると一生懸命頑張るからということでいい作品になりました。
カトリーヌ・ドヌーブ、ソフィア・ローレン、ビートルズのメンバーとか会いたい人を先ず決めて、スポンサーを決めてやって楽しかったです。
コマーシャルで稼いだもので映画につぎ込み、ここで全部使い切りました。
私が映画会社から企画を頼まれた時には日本映画を観ようと言うお客さんはいなくなっていた。
「ハウス」 自分が自分を食べに来る。
7人の娘が食べる話に私が家をくっつけて、そこに住むおばあちゃんが戦争中に恋人を戦争に取られて一人きりで暮らして、戦争を知らない子供たちに戦争の恐ろしさを伝えるためにパクパク食べちゃうという話にして、企業の方に渡したら、監督が居ない、こんなばかばかしい映画は撮れないと。
2年がかりで私が一人プロモーションやって、コマーシャルで行く先々で、漫画、小説、音楽、ラジオドラマになる、みんなイエスとなるが、最後に映画にしなければいけなくなったがスイスに行っていた私が呼び戻されて、そこから若い監督たちが器用に進出すると言う新しい時代が来て、岩井 俊二、手塚眞、とか大林チルドレンと自からいってくれる僕の息子の世代にとってはこれぞ僕たちの映画だったんでしょうね、時代が新しく変わったと言うことになるかと思います。
尾道を舞台にした映画を作る、1980年代。
故郷で映画を撮ってお客さんを集めると言うことを最初にやったのが、尾道シリーズの作品でお客様が勝手に来てくれましたが。
観光行政的なことは大嫌いで、汚い街のくずれたりしたところばっかり撮るから行政からは 「転校生」という映画は行政からは上映中止命令が出たりしていたが、一見汚い皺だらけの街だからこそ皆が愛してくれた。
僕は皺を撮ろうとズーっと思っていた。
おふくろの皺を汚いと思ったことは一度もない、町にも皺があるから愛情こめて撮影したら、観光客は来ないと言うことで、街守り映画を撮った。(街興しとは違う)
それが故郷映画の出発になりました。
がんでは死ななくなりました、健康な皆さんに気を付けてもらいたいのは寿命が延びてしまう、自分の意志を越えて伸ばしてくれる。
100歳、120歳まで元気で生きるかも知れない、老いとの戦いは自分でしないといけない。
ただ生きているので無くて、好きな仕事をちゃんとやって好きな人たちと楽しくご飯も食べられ、そこで長生きをする。
がんに罹って本当に良かったと思うのは、変わった所があります。
がんを意識する前は道を歩いていて蟻の2、3匹、10匹は踏んづけていたかもしれない、道端の草など意識しないで踏んでいたでしょうね。
去年の8月25日、がん宣告以来蟻一匹、蚊一匹殺していません、草も踏んでいません、同じ命に見えるんです。
全ての命にたいして優しく出来ると言う能力を貰ったんです。
よりいい映画を作れる力をがんに貰ったと言うふうに思っています。
130歳まで生きようと決めました。(理想は高い方がいい)
新藤兼人さんが99歳まで撮ったので、30年は若い私としては30年はプラスしないといけないと思っています。
これからは病との闘いではなくて老いとの戦いですね。
新藤さんがやりたかったのは、原子爆弾、しかし組織では描けない、庶民はお金がない、20億円あれば素晴らしい原爆を告発する映画が出来ると新藤さんは言って、ピカとドンの間の2秒間を2時間にする映画、人間の狂気を正気に戻して描くのが私達表現者の仕事なので、私は新藤さんが描けなかった作品(平和への遺志を継いで)を原爆と向き合って描いてみようかなと覚悟しています。
TVのコマーシャルの草分けとしても知られます。
話題のコマーシャルを数多く手掛け、CM界の巨匠とも言われる存在です。
大林さんは1977年「ハウス」で商業映画に進出し映画作りに新しい風を吹き込みました。
映画と言うのはそれを作る制度があり、映画会社に就職し社員になって、監督はいわば部長と同じ職能だった。
私はフリーなので部長とは名乗れない、自分は父親から貰った小さな8mmと言うカメラで、医者になるなら全て譲るが、映画と言うことでは譲るものがないので、自分がやりたいことを一生やるのは平和の印だから、映画をやると言うならそれをやり抜きなさいと言われました。
父親の平和への祈りの象徴である8mmを譲ってもらって、東京に出て来ました。
映画は1960年代まで見られる映画はほぼすべて観ていたと思います。
9つの映画館で2,3本立ての映画を全て見ていました。
月、火、水、木、金、土、土、日、日と1週間に9つの映画館で観ていました。
我が家に活動写真機があり、蒸気機関車のおもちゃだと思って遊んでいたが、実は映画を写す機械だと知って、遊んでいるうちに映画の作り方を自分で覚えてしまいました。(3~5歳)
今でも自分が映画を作っている自覚はない。
黒沢明監督も、「大林君なあ、俺だって作りたい映画の20,30本はいつでもあるよ、でも今なにを作るかだけは俺には決められない。
上の方にいる神様が、黒沢明よ、この映画を今作れと言われたときに作らないと、人に伝わらない、果物と同じで、おいしく味わいよく育つには、環境と旬が有ってそこだけは間違えてはいけない」、と言っていました。
世の中の事をしっかり観察して、いい事、いけないこと、特に危うい事を人に伝えて自覚してもらうことで、世の中が平和に一歩近づくことを力強くやれるのが、映画だと思っています。
かつて戦争をしていたから、子供なりにより純粋に受け入れていたから、だから今戦争の映画を作っているんですよと、60年前から変わっていないと思う。
16mmで始めて作った映画(「食べた人」)を60年ぶりに観たが、サツマイモで育った子供の日本人が大人になって飽食に時代を迎えてフォーク、ナイフで洋食を食べたのを我々はせせらわらっていました。
それをパロディーにしました。
後半、お腹一杯になった客たちが何故か包帯を吐き出して、レストラン中を巻いてしまう。
どうしてこんなことをするのかと言われ、日本人は飽食以上に戦争で傷ついたのだから地球上を優しい包帯で巻いてやりたいと思って撮った映画ですが、「花筐(はながたみ)」にも、包帯は出て来ます。
恋に傷ついたり、友情に傷ついたりした人たちをその包帯が包んでやると言う風な表現をしているのは本質はなにも変わっていない。
監督をして脚本を書き、出演もして、編集をして、作曲をして映画音楽の演奏もピアノで自分でやる、一人で作るのが映画だと思っています。
活動写真機と一緒に音の出ないピアノがあったが何なのか分からず積み木の遊びをしていたら、母親が「それはピアノと言ってとってもいい楽器で音がするんだけれども、音を出す金属が供出と言って、お国のためと金属を戦地に差しだされていったんだ」と言われました。
「お父ちゃんと同じように戦地に行ってタンクか軍艦になって敵と戦っているから音がしないんだよと、ピアノの音も、お父ちゃんも無事に帰ってくればいいね」と言われました。
父親は無事に帰って来て、父親が中古のピアノを買ってくれました。
叩いたらポーン、ポーンと音がして、音の積み木だと思いました。
その後映画館に行くようになって、ショパン、ブラームスにであったりしてそれを真似て、家で弾くと言うふうなことをやっていました。
中学生のころに中国地方の先生方が参観に来ると言うことで、先生からピアノを弾くように依頼される。
ショパンのように頭から身なりを整えて行こうと思ったが、ショパンの映画では彼は肺結核でチャリティーコンサートで演奏するのが映画のラストで、真っ赤な血を吐きながら演奏するが、それをやらないとショパンではない訳で、母親に相談したらトマトケチャップがあるからそれを持っていって口に含んで吐けばいいと言われて、血を吐きながら演奏したが、周りは静まり返ってシーンとしていた。
校長先生が来て、お前のおかげでピアノが滅茶苦茶になってしまったが、「これはただの道具でショパンはこの道具を上手に誰よりも愛して使ったから何世紀後の我々がショパンの思いも愛も全て味わう事が出来る、お前も信じる道を一生懸命勉強して、ショパンのように偉い芸術家になったら、このピアノも人様のお役に立ったかと、よろこんでくれるだろうと、このピアノを直すことはお前も先生もできないが、ピアノを幸せにすることはお前にはできるぞ、頑張ってみろ」とそれだけしか言われなかった。
今でもあのピアノは赦してくれたかなあと、もっと頑張っていい映画を作ろうと、励みにしてます。
経済的には厳しかったが母親は貯金をしていて、「今日宣彦が学校でピアノを壊すから弁償しないといけないから」と言って、貯金を全部持っていって、学校に行った。
そこまでやって当時の大人は自分たちが果たせなかった平和の喜びを、子供たちに味あわせてやろうと、ひしひしと伝わってきた。
僕自身はあくまでも医者であると、映画家があるとしてそこの医者であると、巻きごこちのいい包帯、良く効く薬のような映画を作ろうと、映画人生を生きて来ました。
作曲、演奏もしている。 映画「絵の中の少女」で30分演奏している。
*その一部を演奏。 大林宣彦 ピアノ演奏
最初にピアノに出会っていたら音楽家になっていたかも知れません。
子供が最初に何に出会うかが、実は重要な人生を決めるものですね。
システムと言うことは嫌いです、全ての世の中の犯罪はシステム犯罪。
コマーシャルは興行主義の極地ですが、僕にとってはコマーシャルを全部自分の作品だと思って、結果は逆に映画少年よりはコマーシャル少年と云うものを当時生みだすぐらいの人気になりました。
海外のスターをコマーシャルの登場と言うことをした草分けでもありました。
短編映画として世界の俳優さんとお付き合いするのが楽しかったです。
チャールズ・ブロンソン、3分の作品だが自分としては初めての主演映画なので、僕が頑張ると一生懸命頑張るからということでいい作品になりました。
カトリーヌ・ドヌーブ、ソフィア・ローレン、ビートルズのメンバーとか会いたい人を先ず決めて、スポンサーを決めてやって楽しかったです。
コマーシャルで稼いだもので映画につぎ込み、ここで全部使い切りました。
私が映画会社から企画を頼まれた時には日本映画を観ようと言うお客さんはいなくなっていた。
「ハウス」 自分が自分を食べに来る。
7人の娘が食べる話に私が家をくっつけて、そこに住むおばあちゃんが戦争中に恋人を戦争に取られて一人きりで暮らして、戦争を知らない子供たちに戦争の恐ろしさを伝えるためにパクパク食べちゃうという話にして、企業の方に渡したら、監督が居ない、こんなばかばかしい映画は撮れないと。
2年がかりで私が一人プロモーションやって、コマーシャルで行く先々で、漫画、小説、音楽、ラジオドラマになる、みんなイエスとなるが、最後に映画にしなければいけなくなったがスイスに行っていた私が呼び戻されて、そこから若い監督たちが器用に進出すると言う新しい時代が来て、岩井 俊二、手塚眞、とか大林チルドレンと自からいってくれる僕の息子の世代にとってはこれぞ僕たちの映画だったんでしょうね、時代が新しく変わったと言うことになるかと思います。
尾道を舞台にした映画を作る、1980年代。
故郷で映画を撮ってお客さんを集めると言うことを最初にやったのが、尾道シリーズの作品でお客様が勝手に来てくれましたが。
観光行政的なことは大嫌いで、汚い街のくずれたりしたところばっかり撮るから行政からは 「転校生」という映画は行政からは上映中止命令が出たりしていたが、一見汚い皺だらけの街だからこそ皆が愛してくれた。
僕は皺を撮ろうとズーっと思っていた。
おふくろの皺を汚いと思ったことは一度もない、町にも皺があるから愛情こめて撮影したら、観光客は来ないと言うことで、街守り映画を撮った。(街興しとは違う)
それが故郷映画の出発になりました。
がんでは死ななくなりました、健康な皆さんに気を付けてもらいたいのは寿命が延びてしまう、自分の意志を越えて伸ばしてくれる。
100歳、120歳まで元気で生きるかも知れない、老いとの戦いは自分でしないといけない。
ただ生きているので無くて、好きな仕事をちゃんとやって好きな人たちと楽しくご飯も食べられ、そこで長生きをする。
がんに罹って本当に良かったと思うのは、変わった所があります。
がんを意識する前は道を歩いていて蟻の2、3匹、10匹は踏んづけていたかもしれない、道端の草など意識しないで踏んでいたでしょうね。
去年の8月25日、がん宣告以来蟻一匹、蚊一匹殺していません、草も踏んでいません、同じ命に見えるんです。
全ての命にたいして優しく出来ると言う能力を貰ったんです。
よりいい映画を作れる力をがんに貰ったと言うふうに思っています。
130歳まで生きようと決めました。(理想は高い方がいい)
新藤兼人さんが99歳まで撮ったので、30年は若い私としては30年はプラスしないといけないと思っています。
これからは病との闘いではなくて老いとの戦いですね。
新藤さんがやりたかったのは、原子爆弾、しかし組織では描けない、庶民はお金がない、20億円あれば素晴らしい原爆を告発する映画が出来ると新藤さんは言って、ピカとドンの間の2秒間を2時間にする映画、人間の狂気を正気に戻して描くのが私達表現者の仕事なので、私は新藤さんが描けなかった作品(平和への遺志を継いで)を原爆と向き合って描いてみようかなと覚悟しています。
2017年12月7日木曜日
大林宣彦(映画作家) ・シネマと歩んだ人生(1)
大林宣彦(映画作家) ・シネマと歩んだ人生(1)
昭和13年広島県尾道市出身、79歳、子供のころから映像の世界に親しんで来ました。
1960年代、大林さんが自主製作した映画は全国の大学などで上映されて高い評価を受けています。
1980年代には故郷尾道を舞台にした映画を発表し、世代を超えて支持されました。
近年は戦争と平和をテーマにした映画に取り組んでいます。
最新作「花筐(はながたみ)」は、去年の夏、肺がんで余命半年と告知されながら真夏のロケを終えて今年 5月に完成されました。
以前より13kg痩せました。
自覚症状としてはとても元気です。
肺がん第4ステージの余命3ヶ月です、診断上は、でも余命3カ月と言われて1年3カ月生きていて現実には余命未定です。
映画の仕事はいつも想定違いが起きるので、それをついてないとか思うとその一日は負けなので、映画に生かてたやろうと言う事で、お陰さまでがんも映画の力になってます。
2010年ペースメーカーを入れて、初めて病院通いを始めてレントゲンを撮ったりしていたら、骨にがんが転移しているとのことで、映画撮影どころではないと言われたが、九州の唐津に行きますと言って、唐津に行って唐津の病院で診察を受けたら間違いなくがんの転移ですと、胃、大腸OK、肺がんが見つかり余命半年と言われました。
それを聞いた時、あー肺がんか、身体がポーっと温まってきて嬉しくなっちゃったんです。
それには理由があり、この映画は40年ぶりの念願の映画なんです。
原作者の壇一雄さんが能古島についの住処として住んでいて、40年前に映画化の権利を頂いていたんです。
その時に壇さんは肺がんで末期で口述式で代表作の「火宅の人」を書いていて、親爺たちと同じ世代で、親爺も戦争で人生をもぎ取られた人だし、壇さんもそうであるし、そういう人たちの断念と絶望と、そこで覚悟を決めて表現した事を、平和ボケと言われたわたしたちの世代が映画にする資格があるのだろうかと、親爺たちの戦争中の青春時代の悔しい悲しい絶望的な思いを映画にする資格があるのだろうかと、40年間おびえていたんです。
それが同じがんになったので壇さんと結ばれたと、親爺らの心の痛みも映画にする資格が少しは出来たのかなあと、40年ぶりに集大成と言われるような映画が出来たのも、わたしにがんを与えてくれた神様のおかげと言うんでしょうか。
原作は「花筐(はながたみ)」 花筐と云うのは謡曲にあります。(花筐:漢字でははながたみと読む。)
佐賀県唐津市で治療を続けながら去年の夏にロケを1カ月以上続ける。
最初2日間徹夜で撮影した。
3日目の朝、病院に行ったら余命3ヶ月ですと言われて、がんは倍々ゲームであと数日で余命が無くなりますと言われて、娘が先生に相談して撮影が終わればいいと言うわけではなく、編集し上げで1年かかるので1年は元気に過ごすにはどうしたらいいかと聞いたら、東京の先生を紹介してくれて、重体ではあったが妻としては映画の現場にいる僕が一番元気になると信じていて、やりとりした挙句先生がじーっと私の顔をみて「じゃあ、唐津にお帰りなさい」といってくれました。
錠剤を飲んで、薬の治療をしながらロケを続けました。
原作の頭に、「その町はまず架空の町であってもよい」と、わざわざ書いてあります。
意図があるとおもって、当時壇さんに聞いたら、それじゃあ唐津に行って御覧なさいとおっしゃって、その後壇さんは亡くなってしまい息子の太郎君と唐津に行きました。
原作にあるような風景など無くて、その謎を秘めたまま40年、それがようやく3・11以降の映画の長岡の花火の「この空の花 -長岡花火物語」、樺太の戦争を描いた9月5日まで続いていた戦争を描いた「野のなななのか」の映画を作って、それを唐津で上映してもらってトークショーをやっていたら、もう少し唐津を勉強してみませんかと言われて、唐津の「おくんち」というお祭りを見る機会があり、「おくんち」と言えば長崎、見せていただいたら長崎と違って地味なんです。
山車を曳いている人たちが妙にまじめ、本気、自分たちの魂を曳いているような雰囲気で、翌日町を散策すると、城内と城外がくっきり別れていて、「おくんち」は城外の町民の庶民のお祭りで山車を曳く人は代々決まっている。
昔戦争が有って曳き手が居ないと軍隊を逃れてもやって来て曳いたり、上官が山車を曳きに帰れと言ってこっそり帰してくれたと言う内々の言い伝えがある。
女性たちは家にこもって世界中から何処から来ても、「おくんち」の間は盛りだくさんのお料理でもてなす。(おくんちの翌日からまたそのための貯金を始める。)
名護屋城というお城が唐津にあって、豊臣秀吉の朝鮮出兵の出城だった。
日本中から権力者が集まっていたが、唐津の町人たちは権力にだけは屈しないぞと、唐津は町人の街だという自治のために、「おくんち」という祭りを作って、自分たちの命がけの祭りと町人の心息だった。
城内の人たちは交通整理をしています。
そういう祭りだと言うことがわかって、壇さんがおっしゃったのは唐津の風景ではなくて、唐津の精神であったと言うことが判りました。
壇さんは18歳の時に、自由に憧れた壇さんは、社会主義の運動に連座する(自由を求める気持ちで)、1年間唐津で放浪する。
町人の自治、誇りを学んでこれこそ自分が生きる街だと、そういう中で書かれて小説が
「花筐」だと言うことがようやく判りました。
ややこしい小説で、三島由紀夫がこの小説を読んで、「花筐」にたいする賛美がある。
「いまどき若者に出来ることは、命がけで恋をすることと不良になるしかないじゃないか」と云っていて、それが戦争中の若者です。
そののちの三島が書く小説、彼の死にいたるまで、「花筐」と同じように生きてきたんだと言うことがわかって来ました。
命がけで恋をすることと不良になるしかない、それ以上はなにも書けなかった時代ですから。
この小説を映画にして唐津に行ってみようと言うような、観光客が増えるとは思えなかったが、唐津の町民たちが、唐津とは関係なく日本にとって作るべき映画だと思うので唐津でやらせて下さいといわれて、唐津の精神で人々に唐津にほれ込んでもらお言うと言うことで作ったのがこの映画です。
壇さんが25歳でこの本を出版された時が昭和12年。
日中戦争が始まって太平洋戦争に繋がっていって4年後に原子爆弾に繋がる戦争の始まりだった。
これから戦争になるだろうと僕は最近とてもおびえていて、若者に伝えるには太平洋戦争から原子爆弾までを背景に描くべきだと、その方がいまの時代のリアリティーがでるだろうと思いました。
僕たちにとって一番信頼できなかったのは敗戦後の日本の大人たちで、戦争に負けたのに自決しないのか、僕たちを殺してもくれないのか、そういう約束だったのではないのか、
なのにふわふわと平和だといって踊りだしてしまって、今の若い人に伝えるにはどうしたらいいのか。
どうもきなくさいぞと、この頃感じ始めて、80歳になるこの頃、最後の皮膚感で体験した世代なんです。
反戦でもなくて、厭戦なんです。
でも世界では戦争は絶えない、でも何故かと言うと必要なんです、経済が豊かになるためには戦争が必要だと言う人がいるから。
食べるものがなくて水しか飲めなくても平和の方がいいんだと、言えるのが体験者である僕たちだけだから、それを今こそ言わなければいけないと言うのが、この映画を今やろうと決めた大きな原因でもあります。
観た人は不思議ですと、人ごとではない、自分ごととして受け止めてしまって反戦映画でもなくて、戦争というもののいかがわしさ、いやらしさが自分の問題としてズシっと来て、戦争は嫌だなという気持ちだけがはびこるように心に残ってしまう、不思議な映画ですと言います。
3時間近い映画ですが始まったらあっという間です。
たった70年前に痛みを持って家族を殺され、自分も死ぬ覚悟で味わった戦争が何故伝わらないのか、伝える手段がないんです。
壇さんが「花筐」と云う小説に戦争は嫌だということを書いたら出版できない。
言えないから肺病で病んでいる少女に命がけでほれ込む、裸で抱き合いたいほどの親友を殺すぞと言って不良になるしか表現できない。
自分が一番信じたいことを表現したいのに、それを封じられてしまって、結果伝わってこなかった、それを僕たちは伝えるわけですから、その気配を伝えていこうと思いました。
観たらそれなりに、自分の知っている戦争を思いだしてもらいたいと思います。。
大林的戦争三部作、「この空の花 -長岡花火物語」 新潟県の長岡花火は戦争で亡くなった人の魂を弔うための花火、「野のなななのか」は2014年 樺太での厳しい戦争の経験、
時代への状況への危機感、我々は平和の中の子供のふりをして、何も語らず生きてきた、昭和10~15年の頃の敗戦少年と呼ぶ世代、戦前を知っていれば違うが意識が芽生えたのが、戦争中なので完全な軍国少年であるがゆえに戦争が持っているいかがわしさも十分に感じていた。
その子供たちが3・11の時に一番思ったのは、日本の間違いだらけの敗戦後の復興のやり直しではないかと思った。
物、便利、快適だけで日本人は生きてきたけれども、3・11の時は日本人本来の姿に戻って、「清貧」と言う言葉がある、清らかに生きようと思えば貧しく生きるのが当たり前である、(明治の思想)、日本人はとても精神は美しかったと思う。
高度成長経済期ですっかり無くなってしまったが、3・11で東北の人達の生き方を見たときに、世界が手を差しのべてくれた。
戦争の歴史を描いた映画をつくって思ったが、日本人ぐらい戦争の事を知らない、学んでない国民はいないとつくづく思いました。
8/15は「終戦の日」と言うけれども、戦争は勝つか負けるかで終わると言う事はない。
ソビエト侵攻で戦っていた樺太、北海道の方では9月5日まで続いた。
「花筐」が出来上がって、婦人雑誌、ファッション雑誌までが取材させてほしいと言ってきて、今の時代がここにあるぞと、その中で生きている自分はこれに参加しなければいけない、そんな感じが伝わったんじゃないかと思います。
特に若い人がその気配を感じたと思います。
昭和13年広島県尾道市出身、79歳、子供のころから映像の世界に親しんで来ました。
1960年代、大林さんが自主製作した映画は全国の大学などで上映されて高い評価を受けています。
1980年代には故郷尾道を舞台にした映画を発表し、世代を超えて支持されました。
近年は戦争と平和をテーマにした映画に取り組んでいます。
最新作「花筐(はながたみ)」は、去年の夏、肺がんで余命半年と告知されながら真夏のロケを終えて今年 5月に完成されました。
以前より13kg痩せました。
自覚症状としてはとても元気です。
肺がん第4ステージの余命3ヶ月です、診断上は、でも余命3カ月と言われて1年3カ月生きていて現実には余命未定です。
映画の仕事はいつも想定違いが起きるので、それをついてないとか思うとその一日は負けなので、映画に生かてたやろうと言う事で、お陰さまでがんも映画の力になってます。
2010年ペースメーカーを入れて、初めて病院通いを始めてレントゲンを撮ったりしていたら、骨にがんが転移しているとのことで、映画撮影どころではないと言われたが、九州の唐津に行きますと言って、唐津に行って唐津の病院で診察を受けたら間違いなくがんの転移ですと、胃、大腸OK、肺がんが見つかり余命半年と言われました。
それを聞いた時、あー肺がんか、身体がポーっと温まってきて嬉しくなっちゃったんです。
それには理由があり、この映画は40年ぶりの念願の映画なんです。
原作者の壇一雄さんが能古島についの住処として住んでいて、40年前に映画化の権利を頂いていたんです。
その時に壇さんは肺がんで末期で口述式で代表作の「火宅の人」を書いていて、親爺たちと同じ世代で、親爺も戦争で人生をもぎ取られた人だし、壇さんもそうであるし、そういう人たちの断念と絶望と、そこで覚悟を決めて表現した事を、平和ボケと言われたわたしたちの世代が映画にする資格があるのだろうかと、親爺たちの戦争中の青春時代の悔しい悲しい絶望的な思いを映画にする資格があるのだろうかと、40年間おびえていたんです。
それが同じがんになったので壇さんと結ばれたと、親爺らの心の痛みも映画にする資格が少しは出来たのかなあと、40年ぶりに集大成と言われるような映画が出来たのも、わたしにがんを与えてくれた神様のおかげと言うんでしょうか。
原作は「花筐(はながたみ)」 花筐と云うのは謡曲にあります。(花筐:漢字でははながたみと読む。)
佐賀県唐津市で治療を続けながら去年の夏にロケを1カ月以上続ける。
最初2日間徹夜で撮影した。
3日目の朝、病院に行ったら余命3ヶ月ですと言われて、がんは倍々ゲームであと数日で余命が無くなりますと言われて、娘が先生に相談して撮影が終わればいいと言うわけではなく、編集し上げで1年かかるので1年は元気に過ごすにはどうしたらいいかと聞いたら、東京の先生を紹介してくれて、重体ではあったが妻としては映画の現場にいる僕が一番元気になると信じていて、やりとりした挙句先生がじーっと私の顔をみて「じゃあ、唐津にお帰りなさい」といってくれました。
錠剤を飲んで、薬の治療をしながらロケを続けました。
原作の頭に、「その町はまず架空の町であってもよい」と、わざわざ書いてあります。
意図があるとおもって、当時壇さんに聞いたら、それじゃあ唐津に行って御覧なさいとおっしゃって、その後壇さんは亡くなってしまい息子の太郎君と唐津に行きました。
原作にあるような風景など無くて、その謎を秘めたまま40年、それがようやく3・11以降の映画の長岡の花火の「この空の花 -長岡花火物語」、樺太の戦争を描いた9月5日まで続いていた戦争を描いた「野のなななのか」の映画を作って、それを唐津で上映してもらってトークショーをやっていたら、もう少し唐津を勉強してみませんかと言われて、唐津の「おくんち」というお祭りを見る機会があり、「おくんち」と言えば長崎、見せていただいたら長崎と違って地味なんです。
山車を曳いている人たちが妙にまじめ、本気、自分たちの魂を曳いているような雰囲気で、翌日町を散策すると、城内と城外がくっきり別れていて、「おくんち」は城外の町民の庶民のお祭りで山車を曳く人は代々決まっている。
昔戦争が有って曳き手が居ないと軍隊を逃れてもやって来て曳いたり、上官が山車を曳きに帰れと言ってこっそり帰してくれたと言う内々の言い伝えがある。
女性たちは家にこもって世界中から何処から来ても、「おくんち」の間は盛りだくさんのお料理でもてなす。(おくんちの翌日からまたそのための貯金を始める。)
名護屋城というお城が唐津にあって、豊臣秀吉の朝鮮出兵の出城だった。
日本中から権力者が集まっていたが、唐津の町人たちは権力にだけは屈しないぞと、唐津は町人の街だという自治のために、「おくんち」という祭りを作って、自分たちの命がけの祭りと町人の心息だった。
城内の人たちは交通整理をしています。
そういう祭りだと言うことがわかって、壇さんがおっしゃったのは唐津の風景ではなくて、唐津の精神であったと言うことが判りました。
壇さんは18歳の時に、自由に憧れた壇さんは、社会主義の運動に連座する(自由を求める気持ちで)、1年間唐津で放浪する。
町人の自治、誇りを学んでこれこそ自分が生きる街だと、そういう中で書かれて小説が
「花筐」だと言うことがようやく判りました。
ややこしい小説で、三島由紀夫がこの小説を読んで、「花筐」にたいする賛美がある。
「いまどき若者に出来ることは、命がけで恋をすることと不良になるしかないじゃないか」と云っていて、それが戦争中の若者です。
そののちの三島が書く小説、彼の死にいたるまで、「花筐」と同じように生きてきたんだと言うことがわかって来ました。
命がけで恋をすることと不良になるしかない、それ以上はなにも書けなかった時代ですから。
この小説を映画にして唐津に行ってみようと言うような、観光客が増えるとは思えなかったが、唐津の町民たちが、唐津とは関係なく日本にとって作るべき映画だと思うので唐津でやらせて下さいといわれて、唐津の精神で人々に唐津にほれ込んでもらお言うと言うことで作ったのがこの映画です。
壇さんが25歳でこの本を出版された時が昭和12年。
日中戦争が始まって太平洋戦争に繋がっていって4年後に原子爆弾に繋がる戦争の始まりだった。
これから戦争になるだろうと僕は最近とてもおびえていて、若者に伝えるには太平洋戦争から原子爆弾までを背景に描くべきだと、その方がいまの時代のリアリティーがでるだろうと思いました。
僕たちにとって一番信頼できなかったのは敗戦後の日本の大人たちで、戦争に負けたのに自決しないのか、僕たちを殺してもくれないのか、そういう約束だったのではないのか、
なのにふわふわと平和だといって踊りだしてしまって、今の若い人に伝えるにはどうしたらいいのか。
どうもきなくさいぞと、この頃感じ始めて、80歳になるこの頃、最後の皮膚感で体験した世代なんです。
反戦でもなくて、厭戦なんです。
でも世界では戦争は絶えない、でも何故かと言うと必要なんです、経済が豊かになるためには戦争が必要だと言う人がいるから。
食べるものがなくて水しか飲めなくても平和の方がいいんだと、言えるのが体験者である僕たちだけだから、それを今こそ言わなければいけないと言うのが、この映画を今やろうと決めた大きな原因でもあります。
観た人は不思議ですと、人ごとではない、自分ごととして受け止めてしまって反戦映画でもなくて、戦争というもののいかがわしさ、いやらしさが自分の問題としてズシっと来て、戦争は嫌だなという気持ちだけがはびこるように心に残ってしまう、不思議な映画ですと言います。
3時間近い映画ですが始まったらあっという間です。
たった70年前に痛みを持って家族を殺され、自分も死ぬ覚悟で味わった戦争が何故伝わらないのか、伝える手段がないんです。
壇さんが「花筐」と云う小説に戦争は嫌だということを書いたら出版できない。
言えないから肺病で病んでいる少女に命がけでほれ込む、裸で抱き合いたいほどの親友を殺すぞと言って不良になるしか表現できない。
自分が一番信じたいことを表現したいのに、それを封じられてしまって、結果伝わってこなかった、それを僕たちは伝えるわけですから、その気配を伝えていこうと思いました。
観たらそれなりに、自分の知っている戦争を思いだしてもらいたいと思います。。
大林的戦争三部作、「この空の花 -長岡花火物語」 新潟県の長岡花火は戦争で亡くなった人の魂を弔うための花火、「野のなななのか」は2014年 樺太での厳しい戦争の経験、
時代への状況への危機感、我々は平和の中の子供のふりをして、何も語らず生きてきた、昭和10~15年の頃の敗戦少年と呼ぶ世代、戦前を知っていれば違うが意識が芽生えたのが、戦争中なので完全な軍国少年であるがゆえに戦争が持っているいかがわしさも十分に感じていた。
その子供たちが3・11の時に一番思ったのは、日本の間違いだらけの敗戦後の復興のやり直しではないかと思った。
物、便利、快適だけで日本人は生きてきたけれども、3・11の時は日本人本来の姿に戻って、「清貧」と言う言葉がある、清らかに生きようと思えば貧しく生きるのが当たり前である、(明治の思想)、日本人はとても精神は美しかったと思う。
高度成長経済期ですっかり無くなってしまったが、3・11で東北の人達の生き方を見たときに、世界が手を差しのべてくれた。
戦争の歴史を描いた映画をつくって思ったが、日本人ぐらい戦争の事を知らない、学んでない国民はいないとつくづく思いました。
8/15は「終戦の日」と言うけれども、戦争は勝つか負けるかで終わると言う事はない。
ソビエト侵攻で戦っていた樺太、北海道の方では9月5日まで続いた。
「花筐」が出来上がって、婦人雑誌、ファッション雑誌までが取材させてほしいと言ってきて、今の時代がここにあるぞと、その中で生きている自分はこれに参加しなければいけない、そんな感じが伝わったんじゃないかと思います。
特に若い人がその気配を感じたと思います。
2017年12月6日水曜日
田口ランディ(作家) ・生きる力を取りもどして
田口ランディ(作家) ・生きる力を取りもどして
今年10月東京都内で命のエール、「初女お母さんから娘たちへ」というイベントが開かれました。
初女お母さんと言うのは昨年2月に94歳で亡くなられた佐藤 初女(さとう はつめ)さんのことです。
様々な悩みを抱えて訪れる人々の心に耳をかたむけ、自然の食材を生かした心のこもった手料理で心も体も癒し、日本のマザー・テレサと言われた社会活動家です。
イベントを主催した作家の田口さんも初女さんと向き合って生きる力を頂いた一人です。
田口さんに初女さんから貰った生きる力とその後の活動について伺います。
「森のイスキア」と云う小さな教会の様なところで、昨年2月に94歳で亡くなられた佐藤初女さんの生き方と、講演と初女さんがたいせつにされていたおむすびのむすび方を伝えるイベントでした。
おむすびに代表される自然からの恵みの料理で色んな方の心をいやされた方です。
一日目は初女さんのむすび方の講習会、2日目は私たちがむすんで、初女さんの言葉を聞いていただく、3日目は10/3で私と初女さんの誕生日なので、初女さんの代わりに私が言葉を伝えると言う催しをしました。
人と人との縁を結ぶと言うことでお結びと、初女さんは言っていました。
はじめておあいしたのは2000年の冬でした。
龍村仁監督の『地球交響曲 第二番』という映画に初女さんが登場していて映画を通して知っていましたが、監督から誘ってもらって会いに行きました。
青森に降りたち、吹雪いていた中を教会にいき、鐘を鳴らして迎えてくれジーンときました。
ご飯を食べることになり、初女さんが一人ひとり挨拶に来ました。
とっても優しい方ですが、凄く迫力のある方だと思いました。
何故かこの人にちゃんと自分を出さなかったら永遠にこの人とは繋がらないと、切羽詰まった気持ちになりました。
急に何故か「私の兄は引き込もりの末に、餓死して亡くなってるんです。」といきなり言ってしまいました。(周りはしらっとしました。)
微動だにせず、「そうですか、たいへんでしたね。」と言われました。
その場はそれで終わった。
その後、急に私の方を向いて「あなたは私の娘になりましょう。」といったんです。
どういうことだろうと吃驚しました。
私の家は問題を抱えていて、父はアルコール依存症で酒乱、家庭内暴力もあり、自分も結婚したが娘に伝えられる母親の味は私にはないと思っていて、家事もあまりやらずに働いて生きてきて、このひとに娘になって色々勉強したいと思いました。
父は特攻の予科練に行っていて出陣の前に戦争が終わって帰って来てから酒を飲むようになったようです。
父と兄の仲はとっても悪かったです。(子供のころから殴られていました。)
高校卒業と同時に、身の危険を感じる様だったので、自分の好きなように生きたいと思って自立しました。
1995年に兄は亡くなりました。(42歳、兄は8歳上でした。)
それまで就職したり辞めたりを繰り返すうちに、働けない時間がどんどん長くなって、亡くなる10年前には完全な引きこもり状態になり家から一歩も出なくなりました。
両親と住んでいるといつかだれか死んでしまうよ、誰かを殺しちゃうよ、そういう前に私のところに来るようにと説得して、しばらくは私と一緒に住んでいました。
しかし、或る日突然兄が居なくなってしまった。
父に電話をしたら、あいつには手切れ金100万円をやって親子の縁を切ったと言いました。
兄は埼玉県にアパートを借りて、或る時点で生きるのをやめてしまった様です。
衰弱死していました。
兄が亡くなってから5年後に初女さんに会いました。
それを告白しましたが、それが初女さんの力だと思います。
それで「あなたは私の娘になりましょう。」と言われた訳です。
朝ご飯を一緒に作りました。
釜をじーっと見ていて、水加減を見ていて、一滴、二滴と足すんです。
元気に炊きあがっていて、噛んでもおいしいし凄いと思いました。
滞在していたのはたったの2日でした、料理の仕方が厳しかったです。
野菜に優しくするように言われて、急がす丁寧に丁寧にやりなさいと言われました。
普通の家庭料理ですが、身体にしみ込んでくるんです、不思議だなあと思いました。
自慢ではないですが、わたしはガサツなんです。
帰るときに、手を取って「言葉を越えてね」と私の耳に囁いたんです。
「えっ」と聞きかえしたが、「うん」とうなずいて背中を押された。
考えたが、どういうことかわからなかった。
寡黙な方で、ただただ人の話を聞く方でボソボソと話すだけでした。
10年かかってようやく判りました。
「人は行為を通して何かをしていかなければいけない。
出来るかどうかは問題ではなくて、やるかどうか。」と言う事。
私はあなたに言葉では教えられないけれど、自分のやってることを見て、わたしに学んでほしいと願っていた、と思いました。
「する」、という覚悟を決めること。
私は贈り物をもらうと、ガサツに包みを開けてよく見ないのに嬉しいと言って表現してしまうが、私が初女さんにハンカチをプレゼントした時、「有難うございます。」といってそうーっと、そうーっとパッケージを開いて「ワー」と言って、手触りを感じながら「こんな素敵なものを有難うございます。」と言うんです。
初女さんに手を握られると、本当にフワーッと包み込むんです、それが響くんです。
漬けものは大好きで亡くなる前の年に遊びにいらっしゃいといって、(初女さんはめったに人を自分から呼ぶと言うことはない)、よっぽどのことかなと思って伺いました。
糠どこを作っていて、あなたも作ったらいいと言われました。
「色んな菌が糠どこの中で、助け合って野菜のいいものを一杯引き出してきて、あれが生物多様性と言うことだと思うの」と言って、「じゃあ糠どこを観に行きましょう」と言われて今回は糠どこを見せてもらう為に呼ばれたのか、と思いました。
糠どこをかき混ぜてきゅうりの漬け方を教わって来ました。
糠どこの糠を食べたが、信じられないほど美味しかったです。
なにもかも丁寧だと思いましたが、でも初女さんから言わせるとまだまだだと言っていました。
糠も分けて頂きましたが、でもうまくいかず駄目にさせてしまいました。
まだいろいろなことを初女さんみたいにできないとは思っていましたが、初女さんが亡くなってしまったので、ここはもうやろうとイベントを行いました。
最新作は4年かけて書きましたが、オウム真理教の地下鉄サリン事件を題材に「逆さにつるされた男」と云う小説を書きました。
地下鉄サリン事件の実行犯で確定死刑囚Yさんが、私の本の読者で10年ほど前から文通、面会を通して交流しています。
会ってみると感じのいいかたでどうしてこんないい人が事件を起こしたのか素朴な疑問でした。
手紙のやり取りをするようになって、死刑が確定して、連絡が取れなくなると思ったら、正式な外部拘留者になってほしいと言われて、悩んだがその後も続ける事にしました。
2011年に東日本大震災が起きて、逃げていたオウム真理教の関係者が出頭して、こんな大事が起きているのに自分が逃げているわけにはいかないと言うようなコメントが有った。
裁判を傍聴することで、もっと色々な人に知ってほしいと思うようになり、執筆を始めました。
自分にはテーマが大きすぎると思いながら執筆をつづけて、初女さんが亡くなってその後、原稿をYさんに読んでもらったら、動揺してYさんの具合が悪くなってしまった。
本を出すのをやめようと思ったら、夢で初女さんが出てきて、「どうしたあんなに悩みを抱えている人の話をいつも長い時間聞いていられるのか」と私が聞いたら、「私はあんまり良く聞いてないのよ」、「私は信じてるの、信じて待っているだけなの、その人が自分の力でたち直るのを」と云うんです。
Yさんは落ち着かれて、思うように書いて、出版して下さいと言われて、出版することにしました。
「愛と忍耐」 愛は語れると思うが、初女さんは忍耐の人と言われていて、忍耐とは信じて待つことなんだとはじめて判りました。
今年10月東京都内で命のエール、「初女お母さんから娘たちへ」というイベントが開かれました。
初女お母さんと言うのは昨年2月に94歳で亡くなられた佐藤 初女(さとう はつめ)さんのことです。
様々な悩みを抱えて訪れる人々の心に耳をかたむけ、自然の食材を生かした心のこもった手料理で心も体も癒し、日本のマザー・テレサと言われた社会活動家です。
イベントを主催した作家の田口さんも初女さんと向き合って生きる力を頂いた一人です。
田口さんに初女さんから貰った生きる力とその後の活動について伺います。
「森のイスキア」と云う小さな教会の様なところで、昨年2月に94歳で亡くなられた佐藤初女さんの生き方と、講演と初女さんがたいせつにされていたおむすびのむすび方を伝えるイベントでした。
おむすびに代表される自然からの恵みの料理で色んな方の心をいやされた方です。
一日目は初女さんのむすび方の講習会、2日目は私たちがむすんで、初女さんの言葉を聞いていただく、3日目は10/3で私と初女さんの誕生日なので、初女さんの代わりに私が言葉を伝えると言う催しをしました。
人と人との縁を結ぶと言うことでお結びと、初女さんは言っていました。
はじめておあいしたのは2000年の冬でした。
龍村仁監督の『地球交響曲 第二番』という映画に初女さんが登場していて映画を通して知っていましたが、監督から誘ってもらって会いに行きました。
青森に降りたち、吹雪いていた中を教会にいき、鐘を鳴らして迎えてくれジーンときました。
ご飯を食べることになり、初女さんが一人ひとり挨拶に来ました。
とっても優しい方ですが、凄く迫力のある方だと思いました。
何故かこの人にちゃんと自分を出さなかったら永遠にこの人とは繋がらないと、切羽詰まった気持ちになりました。
急に何故か「私の兄は引き込もりの末に、餓死して亡くなってるんです。」といきなり言ってしまいました。(周りはしらっとしました。)
微動だにせず、「そうですか、たいへんでしたね。」と言われました。
その場はそれで終わった。
その後、急に私の方を向いて「あなたは私の娘になりましょう。」といったんです。
どういうことだろうと吃驚しました。
私の家は問題を抱えていて、父はアルコール依存症で酒乱、家庭内暴力もあり、自分も結婚したが娘に伝えられる母親の味は私にはないと思っていて、家事もあまりやらずに働いて生きてきて、このひとに娘になって色々勉強したいと思いました。
父は特攻の予科練に行っていて出陣の前に戦争が終わって帰って来てから酒を飲むようになったようです。
父と兄の仲はとっても悪かったです。(子供のころから殴られていました。)
高校卒業と同時に、身の危険を感じる様だったので、自分の好きなように生きたいと思って自立しました。
1995年に兄は亡くなりました。(42歳、兄は8歳上でした。)
それまで就職したり辞めたりを繰り返すうちに、働けない時間がどんどん長くなって、亡くなる10年前には完全な引きこもり状態になり家から一歩も出なくなりました。
両親と住んでいるといつかだれか死んでしまうよ、誰かを殺しちゃうよ、そういう前に私のところに来るようにと説得して、しばらくは私と一緒に住んでいました。
しかし、或る日突然兄が居なくなってしまった。
父に電話をしたら、あいつには手切れ金100万円をやって親子の縁を切ったと言いました。
兄は埼玉県にアパートを借りて、或る時点で生きるのをやめてしまった様です。
衰弱死していました。
兄が亡くなってから5年後に初女さんに会いました。
それを告白しましたが、それが初女さんの力だと思います。
それで「あなたは私の娘になりましょう。」と言われた訳です。
朝ご飯を一緒に作りました。
釜をじーっと見ていて、水加減を見ていて、一滴、二滴と足すんです。
元気に炊きあがっていて、噛んでもおいしいし凄いと思いました。
滞在していたのはたったの2日でした、料理の仕方が厳しかったです。
野菜に優しくするように言われて、急がす丁寧に丁寧にやりなさいと言われました。
普通の家庭料理ですが、身体にしみ込んでくるんです、不思議だなあと思いました。
自慢ではないですが、わたしはガサツなんです。
帰るときに、手を取って「言葉を越えてね」と私の耳に囁いたんです。
「えっ」と聞きかえしたが、「うん」とうなずいて背中を押された。
考えたが、どういうことかわからなかった。
寡黙な方で、ただただ人の話を聞く方でボソボソと話すだけでした。
10年かかってようやく判りました。
「人は行為を通して何かをしていかなければいけない。
出来るかどうかは問題ではなくて、やるかどうか。」と言う事。
私はあなたに言葉では教えられないけれど、自分のやってることを見て、わたしに学んでほしいと願っていた、と思いました。
「する」、という覚悟を決めること。
私は贈り物をもらうと、ガサツに包みを開けてよく見ないのに嬉しいと言って表現してしまうが、私が初女さんにハンカチをプレゼントした時、「有難うございます。」といってそうーっと、そうーっとパッケージを開いて「ワー」と言って、手触りを感じながら「こんな素敵なものを有難うございます。」と言うんです。
初女さんに手を握られると、本当にフワーッと包み込むんです、それが響くんです。
漬けものは大好きで亡くなる前の年に遊びにいらっしゃいといって、(初女さんはめったに人を自分から呼ぶと言うことはない)、よっぽどのことかなと思って伺いました。
糠どこを作っていて、あなたも作ったらいいと言われました。
「色んな菌が糠どこの中で、助け合って野菜のいいものを一杯引き出してきて、あれが生物多様性と言うことだと思うの」と言って、「じゃあ糠どこを観に行きましょう」と言われて今回は糠どこを見せてもらう為に呼ばれたのか、と思いました。
糠どこをかき混ぜてきゅうりの漬け方を教わって来ました。
糠どこの糠を食べたが、信じられないほど美味しかったです。
なにもかも丁寧だと思いましたが、でも初女さんから言わせるとまだまだだと言っていました。
糠も分けて頂きましたが、でもうまくいかず駄目にさせてしまいました。
まだいろいろなことを初女さんみたいにできないとは思っていましたが、初女さんが亡くなってしまったので、ここはもうやろうとイベントを行いました。
最新作は4年かけて書きましたが、オウム真理教の地下鉄サリン事件を題材に「逆さにつるされた男」と云う小説を書きました。
地下鉄サリン事件の実行犯で確定死刑囚Yさんが、私の本の読者で10年ほど前から文通、面会を通して交流しています。
会ってみると感じのいいかたでどうしてこんないい人が事件を起こしたのか素朴な疑問でした。
手紙のやり取りをするようになって、死刑が確定して、連絡が取れなくなると思ったら、正式な外部拘留者になってほしいと言われて、悩んだがその後も続ける事にしました。
2011年に東日本大震災が起きて、逃げていたオウム真理教の関係者が出頭して、こんな大事が起きているのに自分が逃げているわけにはいかないと言うようなコメントが有った。
裁判を傍聴することで、もっと色々な人に知ってほしいと思うようになり、執筆を始めました。
自分にはテーマが大きすぎると思いながら執筆をつづけて、初女さんが亡くなってその後、原稿をYさんに読んでもらったら、動揺してYさんの具合が悪くなってしまった。
本を出すのをやめようと思ったら、夢で初女さんが出てきて、「どうしたあんなに悩みを抱えている人の話をいつも長い時間聞いていられるのか」と私が聞いたら、「私はあんまり良く聞いてないのよ」、「私は信じてるの、信じて待っているだけなの、その人が自分の力でたち直るのを」と云うんです。
Yさんは落ち着かれて、思うように書いて、出版して下さいと言われて、出版することにしました。
「愛と忍耐」 愛は語れると思うが、初女さんは忍耐の人と言われていて、忍耐とは信じて待つことなんだとはじめて判りました。
2017年12月5日火曜日
玉地任子(医師) ・人生を全うさせる“希望の力”
玉地任子(医師) ・人生を全うさせる“希望の力”
73歳、精神病院で勤務した経験から、末期がん患者の心のケアの必要性を感じホスピスで働き始めました。
やがて患者が自分の家で過ごす時間を大切にしたいと、平成6年当時は珍しかった在宅ホスピスをスタートさせます。
しかし、仕事に打ち込んでいた時に夫が末期がんと診断されます。
自身もがん患者の家族となり、妻そして医師として支え続け夫を看取った後、再び医師として患者の心のケアに取り組んでいます。
自分の夫を含めて、がん患者さん200人のがん患者さんを看取りました。
19年やってきたクリニックを閉じました。
前から夫がスキルス胃がんで肝臓に転移していたことが分かった時点で、もうそれは決めていたことです。
最後の患者が自分の夫になるわけですから、複雑な気持ちもありました。
実際夫が亡くなって、もやもやした感じがよどんでしまい、一人になった時に本当に自分の夢の終わりがこれでいいのかと思って、もう一度がん患者さんに関われたらいいなあと思うようになりました。
大事な夫を亡くした遺族として、前よりももっと深く患者さん、家族に共感できるのではないかと、そんな気持ちがだんだん強くなって横浜のクリニックに伺いました。
そこには治療法が他にない、再発して何かやりたい、そういうようながん患者さんが多くこられています。
医師が患者さん、家族と向き合って点滴を40分位してますが、その間に患者さん、家族の話をじっくり聞くようにしています。
治療の副作用、不安、死ぬのが怖いとか、痛みのことなど様々ですが、それを聞いて、助言できることは助言すると言う様な事をやっています。
主治医の先生とのコミュニケーションに悩んでいることのアドバイスなどをしています。
ここに来る前と帰る時では心に希望が持てるような気がしますと、患者さんからは言われます。
希望は生きる力だと思います。
医学は日進月歩なので希望持ちましょう、頑張りましょうと声かけをやっています。
栃木県宇都宮市生まれ、4歳の時に兄は小学校の一年生で、頭が痛いと言って帰って来て一日で亡くなってしまいました。
母が肩を震わせて泣いている姿を見てかわいそうで怖くて、強烈な印象として残りました。
野口英世の偉人伝を読んで、父に野口英世の生家に連れて行ってもらいました。
大学は名古屋市立大学医学部に進みました。
精神科の臨床実習に各科回りますが、患者さんの話を聞いて、言葉だけで患者さんの苦しみを解きほぐす精神科の教授の仕事に魅せられてすごいと思いました。
来た時と診察室を出る時では全然違って、言葉のマジシャンみたいに感じ、迷いなく精神科に進みました。
ある女性の患者さんが診察室に車いすで来られて、他の整形外科などに行っても原因が判らなかった。
話を聞いていて長い間お姑さんを看取った後で、歩けなくなったということだったが、色々な話を聞いて、帰る時にはその人は立てたんです、そういうことがありました。
夫と結婚して、北海道の精神病院に勤めました。
27歳の時に運命の本に出会いました。
「死ぬ瞬間」というタイトルでアメリカの精神科の女医、エリザベス・キューブラー・ロス(Elisabeth Kubler-Ross)という方が、がんの末期患者さんにインタビューしてまとめた本です。
序文「絶望的な病人に接することにためらうのではなく、進んで彼らに近づき彼らの最後の幾時間かの間、より多く彼らを助けるようにさせられればと望むのみである」、これは私の進む道だと思いました。(昭和47年の時)
このころは日本ではほとんどがん患者さんには告知されていませんでしたが、向こうでは本当の病名を伝えて心のケアまでしていることに心を打たれました。
心のケアを出来るような精神科の医者になりたいと大きな夢を持ちましたが、そんな時代はなかなか来なかった。
昭和50年に神奈川に移って来ましたが、患者さんに本当の事を伝えて心のケアと言うような時代ではなかった。
昭和57年日本で初めて浜松三方が原病院にホスピスが出来て研修させてもらいました。
絶対必要だと思いました。
埼玉県上尾で宗教にとらわれないホスピスが出来て研修させたもらいました。
平成4年になってホスピス病棟が出来て、自分の夢のスタートとなりました。(ホスピス病棟長)
当時はまだホスピスと云う言葉が知られていなくて、スタッフもなかなか育てられない状況でした
厚木で理想的なホスピスを作ったらどうかとのオーナーからの誘いがあり、平成6年に「ホスピスヒューマンネットワーク夢クリニック」を開業します。(元厚生病院のオーナーだった人)
そこの市長と二人で立ち上げました。
開業して2カ月たたないうちにオーナーの資金繰りが失敗して、後は二人でやってねと言われてしまいました。
いろいろ見てきたが、在宅の患者さんの表情は全然違います。
患者さんでも家では食事、洗濯などをして凄いと思いました。
在宅ホスピスで頑張ろうと市長と話をしました。
当時は在宅ホスピスはなかなか理解してもらえなかった。(誤解偏見があった)
厳しい状況の中、夫に支えてもらえたから出来ました。
夫は元気で東京の病院に通っていましたが、平成23年5月、お寿司を食べていたら、喉になにかつかえる様で苦しいと言った4日後に、スキルス胃がんで肝臓に転移していると言われてしまいました。
必死に出来ることはしないといけないと思いました。(在宅治療)
夫は9月に亡くなるが7月まで仕事をしていました。
昼夜逆転があり、寝ようと思う頃夫が目が覚めて、いらいらしたり背中さすったり足を揉んだりして、私を寝させてくれませんでした。
穏やかだった人が凄い形相になったり、耐えられなくなり、亡くなる前の2カ月は凄く苦しみました。
悩みながら(もやもや感があり)も穏やかな別れをしました。
がんと分かった後も、主人は仕事をしている時には何ともないように患者に優しく元気に仕事をしていて、吃驚しました。
70代の大腸がんの女性、18歳まで北京で育つが、私が出会ったころは壁伝いに歩いているような人だったが、中国の事になると元気にしゃべり続けるのでもう一度中国を見せてあげようと思って家族と同伴して中国に行って、昔住んでいたあたりを車いすに乗せて見てきたがとっても喜んで、日本に戻って自分ではもうできないと中断していた中国文学の翻訳を3冊目をやり遂げて旅立っていかれました。
希望を持つ、楽しい事をすると言うことは患者さんにとってはすごく大切です。
余命3カ月と言われた40代の肺がんの男性、在宅が凄く気にいって、病院、看護学校での講師にして下さる処を探して、彼が在宅の素晴らしさを語ってくれて、生きがいになって3か月が2年以上生きられました。
追い込まれた患者さんでも心ときめいたり、楽しかったことなどあると思うので、小さな幸せ探しみたいなことも私の仕事だと思っています。
余命短いから何もできないと言うような人でも、まだやることがある、まだ楽しめることがあると言うと、なんか人って蝋燭の炎の様に、なえた心が膨らんでぱっと輝く時があるんです。
人間の命って凄いと感動させられ、わたしも勇気をもらいます。
がんの末期状態の人に関して、まだ楽しむことがある、まだ出来ることがあると言うことを知った時に、活力が出てくるのでもうダメと思わない、何か希望(小さな希望でいい)を探してほしい。
73歳、精神病院で勤務した経験から、末期がん患者の心のケアの必要性を感じホスピスで働き始めました。
やがて患者が自分の家で過ごす時間を大切にしたいと、平成6年当時は珍しかった在宅ホスピスをスタートさせます。
しかし、仕事に打ち込んでいた時に夫が末期がんと診断されます。
自身もがん患者の家族となり、妻そして医師として支え続け夫を看取った後、再び医師として患者の心のケアに取り組んでいます。
自分の夫を含めて、がん患者さん200人のがん患者さんを看取りました。
19年やってきたクリニックを閉じました。
前から夫がスキルス胃がんで肝臓に転移していたことが分かった時点で、もうそれは決めていたことです。
最後の患者が自分の夫になるわけですから、複雑な気持ちもありました。
実際夫が亡くなって、もやもやした感じがよどんでしまい、一人になった時に本当に自分の夢の終わりがこれでいいのかと思って、もう一度がん患者さんに関われたらいいなあと思うようになりました。
大事な夫を亡くした遺族として、前よりももっと深く患者さん、家族に共感できるのではないかと、そんな気持ちがだんだん強くなって横浜のクリニックに伺いました。
そこには治療法が他にない、再発して何かやりたい、そういうようながん患者さんが多くこられています。
医師が患者さん、家族と向き合って点滴を40分位してますが、その間に患者さん、家族の話をじっくり聞くようにしています。
治療の副作用、不安、死ぬのが怖いとか、痛みのことなど様々ですが、それを聞いて、助言できることは助言すると言う様な事をやっています。
主治医の先生とのコミュニケーションに悩んでいることのアドバイスなどをしています。
ここに来る前と帰る時では心に希望が持てるような気がしますと、患者さんからは言われます。
希望は生きる力だと思います。
医学は日進月歩なので希望持ちましょう、頑張りましょうと声かけをやっています。
栃木県宇都宮市生まれ、4歳の時に兄は小学校の一年生で、頭が痛いと言って帰って来て一日で亡くなってしまいました。
母が肩を震わせて泣いている姿を見てかわいそうで怖くて、強烈な印象として残りました。
野口英世の偉人伝を読んで、父に野口英世の生家に連れて行ってもらいました。
大学は名古屋市立大学医学部に進みました。
精神科の臨床実習に各科回りますが、患者さんの話を聞いて、言葉だけで患者さんの苦しみを解きほぐす精神科の教授の仕事に魅せられてすごいと思いました。
来た時と診察室を出る時では全然違って、言葉のマジシャンみたいに感じ、迷いなく精神科に進みました。
ある女性の患者さんが診察室に車いすで来られて、他の整形外科などに行っても原因が判らなかった。
話を聞いていて長い間お姑さんを看取った後で、歩けなくなったということだったが、色々な話を聞いて、帰る時にはその人は立てたんです、そういうことがありました。
夫と結婚して、北海道の精神病院に勤めました。
27歳の時に運命の本に出会いました。
「死ぬ瞬間」というタイトルでアメリカの精神科の女医、エリザベス・キューブラー・ロス(Elisabeth Kubler-Ross)という方が、がんの末期患者さんにインタビューしてまとめた本です。
序文「絶望的な病人に接することにためらうのではなく、進んで彼らに近づき彼らの最後の幾時間かの間、より多く彼らを助けるようにさせられればと望むのみである」、これは私の進む道だと思いました。(昭和47年の時)
このころは日本ではほとんどがん患者さんには告知されていませんでしたが、向こうでは本当の病名を伝えて心のケアまでしていることに心を打たれました。
心のケアを出来るような精神科の医者になりたいと大きな夢を持ちましたが、そんな時代はなかなか来なかった。
昭和50年に神奈川に移って来ましたが、患者さんに本当の事を伝えて心のケアと言うような時代ではなかった。
昭和57年日本で初めて浜松三方が原病院にホスピスが出来て研修させてもらいました。
絶対必要だと思いました。
埼玉県上尾で宗教にとらわれないホスピスが出来て研修させたもらいました。
平成4年になってホスピス病棟が出来て、自分の夢のスタートとなりました。(ホスピス病棟長)
当時はまだホスピスと云う言葉が知られていなくて、スタッフもなかなか育てられない状況でした
厚木で理想的なホスピスを作ったらどうかとのオーナーからの誘いがあり、平成6年に「ホスピスヒューマンネットワーク夢クリニック」を開業します。(元厚生病院のオーナーだった人)
そこの市長と二人で立ち上げました。
開業して2カ月たたないうちにオーナーの資金繰りが失敗して、後は二人でやってねと言われてしまいました。
いろいろ見てきたが、在宅の患者さんの表情は全然違います。
患者さんでも家では食事、洗濯などをして凄いと思いました。
在宅ホスピスで頑張ろうと市長と話をしました。
当時は在宅ホスピスはなかなか理解してもらえなかった。(誤解偏見があった)
厳しい状況の中、夫に支えてもらえたから出来ました。
夫は元気で東京の病院に通っていましたが、平成23年5月、お寿司を食べていたら、喉になにかつかえる様で苦しいと言った4日後に、スキルス胃がんで肝臓に転移していると言われてしまいました。
必死に出来ることはしないといけないと思いました。(在宅治療)
夫は9月に亡くなるが7月まで仕事をしていました。
昼夜逆転があり、寝ようと思う頃夫が目が覚めて、いらいらしたり背中さすったり足を揉んだりして、私を寝させてくれませんでした。
穏やかだった人が凄い形相になったり、耐えられなくなり、亡くなる前の2カ月は凄く苦しみました。
悩みながら(もやもや感があり)も穏やかな別れをしました。
がんと分かった後も、主人は仕事をしている時には何ともないように患者に優しく元気に仕事をしていて、吃驚しました。
70代の大腸がんの女性、18歳まで北京で育つが、私が出会ったころは壁伝いに歩いているような人だったが、中国の事になると元気にしゃべり続けるのでもう一度中国を見せてあげようと思って家族と同伴して中国に行って、昔住んでいたあたりを車いすに乗せて見てきたがとっても喜んで、日本に戻って自分ではもうできないと中断していた中国文学の翻訳を3冊目をやり遂げて旅立っていかれました。
希望を持つ、楽しい事をすると言うことは患者さんにとってはすごく大切です。
余命3カ月と言われた40代の肺がんの男性、在宅が凄く気にいって、病院、看護学校での講師にして下さる処を探して、彼が在宅の素晴らしさを語ってくれて、生きがいになって3か月が2年以上生きられました。
追い込まれた患者さんでも心ときめいたり、楽しかったことなどあると思うので、小さな幸せ探しみたいなことも私の仕事だと思っています。
余命短いから何もできないと言うような人でも、まだやることがある、まだ楽しめることがあると言うと、なんか人って蝋燭の炎の様に、なえた心が膨らんでぱっと輝く時があるんです。
人間の命って凄いと感動させられ、わたしも勇気をもらいます。
がんの末期状態の人に関して、まだ楽しむことがある、まだ出来ることがあると言うことを知った時に、活力が出てくるのでもうダメと思わない、何か希望(小さな希望でいい)を探してほしい。
2017年12月4日月曜日
本郷和人(東京大学史料編纂所教授) ・山県有朋【近代日本150年 明治の群像】
本郷和人(東京大学史料編纂所教授) ・山県有朋【近代日本150年 明治の群像】
講談師 神田蘭
山県有朋は旧日本陸軍創設者、タカ派の軍人政治家と言うイメージが強いが、なんとなく悪そうな感じがするが。
講談に依る紹介。
明治新政府は海外の列強諸国に追いつけ追い越せと、富国強兵をスローガンに掲げます。
政府は帝国陸軍を作ると徴兵制を行う。
この制度の基本を作ったのが大村益次郎、実現させたのが山県有朋。
1838年長州藩の足軽よりももっと低い身分の家に生まれる。
尊王攘夷の影響を受けて松下村塾に入門、高杉晋作が騎兵隊を作ると、山県有朋は下級武士が頭角を現すには騎兵隊しかないと思う。
高杉晋作に気にいられて騎兵隊で活躍して行く。
その後、4カ国連合艦隊と長州藩が戦った下関戦争で、武器の必要性と軍隊の必要性を痛感し、尊王攘夷論から開国論に変わっていった。
その後討幕へ向け沢山の武功をあげ出世して行く。
明治2年ヨーロッパに渡り各国の軍事制度を視察して回る。
帰国後、軍制改革を行い徴兵制を決行。
徴兵制をおこなうにあたり、沢山の反対に会ったがこの時、協力してくれたのが西郷隆盛。
西郷隆盛のもとで山県有朋は明治新政府でも出世して行く。
西郷隆盛は新政府と反りが合わなくなり、鹿児島に下野、部下とともに西南戦争を起こすが、西郷隆盛を制圧する新政府軍の指揮を執ったのが山県有朋。
徴兵制導入に協力してくれた大恩人を責めなくてはいけなくなる、という運命。
立てこもる西郷隆盛に一通の手紙を送る。
「あなたとこうして戦うことになるとは思わなかった。
今回の戦があなたの本心でないことを知っています。
あなたの偉大さは十分に証明されました。
これ以上無駄な血を流さないためにも自ら命を断つ決断をしてください」
西南戦争が終結、西郷さんの首を調べた山県はハラハラ涙を流しながら、伸びた髭をなでたそうです。
(山県は85歳まで生きる)
司馬遼太郎が山県を嫌っていた、性格が明るくないのがいけないのかも。
(笑顔の写真がない)
伊藤博文は明るいが、山県は陰気な感じ。
短歌を詠んでいる。
天保9年(1838年)萩の城下で生まれる。
槍が得意だった。
騎兵隊に入るが、ここがチャンスではないのかと思ったのかもしれない。
軍事の才能を司馬はあまり買っていない。
山県は「富国強兵」の強兵の部分を築き上げた。
明治2年にヨーロッパに行くが、普仏戦争(プロシャとフランス)の直前だった。
フランスが破れて、帝政が倒れる。(ナポレオン3世が退位に追い込まれる。)
プロシャ(ドイツ)の軍制を山県が取り入れて行く。
明治6年(36歳)陸軍卿になる。
政治を行う軍人、参謀タイプなのかもしれない。
明治に入っても、ロシア、イギリス、ドイツ、アメリカなど欧米列強が虎視眈々と狙っている状況の中で、軍隊をもたないと独立は保てないとの信念だったと思うが、説明責任を果たしているのかと思うと、果たしていないように感じる。
明治10年西南戦争
城山陥落の時に山県が和歌を詠む。
「山もさけ海もあせんとみし空の. なごりやいずら秋の夜の月」
源実朝の有名な和歌
「山は裂け海は浅せなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも」
を踏まえている。
山が裂けてしまうようなとんでもない事態、西郷さんが亡くなってしまったが、でも秋の空には月が輝いている、と言うような意味合い。
人間のはかなさを詠んでいると思う。
参謀本部長になる、天皇に直結している。
明治23年には陸軍大将になる。
明治22年三代目内閣総理大臣になる。(初代伊藤博文、二代黒田清隆)
演説で「主権線、国境のみならず利益線、朝鮮半島の確保のため軍事予算の拡大が必要」、と説いている。
後々の拡大路線に繋がってゆく。
朝鮮半島を植民地化した時の損得勘定が間違っていたのではないかという学説がある。
利益線の考え方自体が正しかったのか、疑問視する考え方がある。
朝鮮半島、満州も、と言うふうになり、日本の軍部の理屈がどんどん進展してゆく。
列強を含めた時代の波もあったんだろうと思います。(日本は後追い)
朝鮮、中国と手を結び列強と対抗しようという考え方もあったが、山県は甘いだろうと跳ね付けただろうと言う気がします。
日清日露戦争
人の配置、兵站などを考えるのは山県は上手かったと思う。(後方統括)
明治42年伊藤博文が暗殺されてしまい、権力が集中して行く。
その時に詠んだ和歌
「語りあいてふくしし人はさきだちぬ今より後の世をいかにせむ」
友を亡くした後、この世をどうしていったらいいのか、という内容だが目の上のたんこぶがなくなったので、自分のやる方向は確固としたものになったのでは?
天皇を後ろ盾に絶対的権力を掴んでゆく。
明治天皇、大正天皇にも嫌われている様な事がいろいろな本を読むと書いてある。
山県自身が愛情を持って天皇陛下に接している感じがしない、利用する、そこが伊藤との違いがある。
山県の子分、桂太郎が亡くなった時の和歌。(大正2年 山県76歳)
「したしきもうときも友は先立ちてながらふるみぞかなしかりける」(?)
親しき友は判るが、友人でうとい思うと言うところが、この人の内面が出てしまったのかなあとも思います。
当時50歳前の時代なので85歳まで生きたのは、めちゃめちゃ長いです。
7人子供がいたが、一人の女性を除いて全て亡くなってしまった。妻も亡くす。
「あかの水注ぎながらに思うかな昨日はともにたむけしものを」(?)
3男が亡くなり奥さんとともに悲痛な思いで、又子供を亡くしてしまったと言って見送ったことが、又嘘のように奥さんが亡くなってしまった、これは切ないですね。
奥さんが亡くなってから25回忌にも歌を詠んでいる。
「かたらいし事は昨日の心地して過ぎし月日におどろかれぬる」(?)
大正11年(1922年)に亡くなる。(85歳)
国葬が行われたが、さびしかった。(人望がなかった様に思う)
普請道楽、造園好きとしても知られる。
東京の椿山荘、京都の無鄰菴、小田原の古稀庵庭園は、山縣が自ら想を練り岩本勝五郎や7代目小川治兵衛をして築かせたものである。
講談師 神田蘭
山県有朋は旧日本陸軍創設者、タカ派の軍人政治家と言うイメージが強いが、なんとなく悪そうな感じがするが。
講談に依る紹介。
明治新政府は海外の列強諸国に追いつけ追い越せと、富国強兵をスローガンに掲げます。
政府は帝国陸軍を作ると徴兵制を行う。
この制度の基本を作ったのが大村益次郎、実現させたのが山県有朋。
1838年長州藩の足軽よりももっと低い身分の家に生まれる。
尊王攘夷の影響を受けて松下村塾に入門、高杉晋作が騎兵隊を作ると、山県有朋は下級武士が頭角を現すには騎兵隊しかないと思う。
高杉晋作に気にいられて騎兵隊で活躍して行く。
その後、4カ国連合艦隊と長州藩が戦った下関戦争で、武器の必要性と軍隊の必要性を痛感し、尊王攘夷論から開国論に変わっていった。
その後討幕へ向け沢山の武功をあげ出世して行く。
明治2年ヨーロッパに渡り各国の軍事制度を視察して回る。
帰国後、軍制改革を行い徴兵制を決行。
徴兵制をおこなうにあたり、沢山の反対に会ったがこの時、協力してくれたのが西郷隆盛。
西郷隆盛のもとで山県有朋は明治新政府でも出世して行く。
西郷隆盛は新政府と反りが合わなくなり、鹿児島に下野、部下とともに西南戦争を起こすが、西郷隆盛を制圧する新政府軍の指揮を執ったのが山県有朋。
徴兵制導入に協力してくれた大恩人を責めなくてはいけなくなる、という運命。
立てこもる西郷隆盛に一通の手紙を送る。
「あなたとこうして戦うことになるとは思わなかった。
今回の戦があなたの本心でないことを知っています。
あなたの偉大さは十分に証明されました。
これ以上無駄な血を流さないためにも自ら命を断つ決断をしてください」
西南戦争が終結、西郷さんの首を調べた山県はハラハラ涙を流しながら、伸びた髭をなでたそうです。
(山県は85歳まで生きる)
司馬遼太郎が山県を嫌っていた、性格が明るくないのがいけないのかも。
(笑顔の写真がない)
伊藤博文は明るいが、山県は陰気な感じ。
短歌を詠んでいる。
天保9年(1838年)萩の城下で生まれる。
槍が得意だった。
騎兵隊に入るが、ここがチャンスではないのかと思ったのかもしれない。
軍事の才能を司馬はあまり買っていない。
山県は「富国強兵」の強兵の部分を築き上げた。
明治2年にヨーロッパに行くが、普仏戦争(プロシャとフランス)の直前だった。
フランスが破れて、帝政が倒れる。(ナポレオン3世が退位に追い込まれる。)
プロシャ(ドイツ)の軍制を山県が取り入れて行く。
明治6年(36歳)陸軍卿になる。
政治を行う軍人、参謀タイプなのかもしれない。
明治に入っても、ロシア、イギリス、ドイツ、アメリカなど欧米列強が虎視眈々と狙っている状況の中で、軍隊をもたないと独立は保てないとの信念だったと思うが、説明責任を果たしているのかと思うと、果たしていないように感じる。
明治10年西南戦争
城山陥落の時に山県が和歌を詠む。
「山もさけ海もあせんとみし空の. なごりやいずら秋の夜の月」
源実朝の有名な和歌
「山は裂け海は浅せなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも」
を踏まえている。
山が裂けてしまうようなとんでもない事態、西郷さんが亡くなってしまったが、でも秋の空には月が輝いている、と言うような意味合い。
人間のはかなさを詠んでいると思う。
参謀本部長になる、天皇に直結している。
明治23年には陸軍大将になる。
明治22年三代目内閣総理大臣になる。(初代伊藤博文、二代黒田清隆)
演説で「主権線、国境のみならず利益線、朝鮮半島の確保のため軍事予算の拡大が必要」、と説いている。
後々の拡大路線に繋がってゆく。
朝鮮半島を植民地化した時の損得勘定が間違っていたのではないかという学説がある。
利益線の考え方自体が正しかったのか、疑問視する考え方がある。
朝鮮半島、満州も、と言うふうになり、日本の軍部の理屈がどんどん進展してゆく。
列強を含めた時代の波もあったんだろうと思います。(日本は後追い)
朝鮮、中国と手を結び列強と対抗しようという考え方もあったが、山県は甘いだろうと跳ね付けただろうと言う気がします。
日清日露戦争
人の配置、兵站などを考えるのは山県は上手かったと思う。(後方統括)
明治42年伊藤博文が暗殺されてしまい、権力が集中して行く。
その時に詠んだ和歌
「語りあいてふくしし人はさきだちぬ今より後の世をいかにせむ」
友を亡くした後、この世をどうしていったらいいのか、という内容だが目の上のたんこぶがなくなったので、自分のやる方向は確固としたものになったのでは?
天皇を後ろ盾に絶対的権力を掴んでゆく。
明治天皇、大正天皇にも嫌われている様な事がいろいろな本を読むと書いてある。
山県自身が愛情を持って天皇陛下に接している感じがしない、利用する、そこが伊藤との違いがある。
山県の子分、桂太郎が亡くなった時の和歌。(大正2年 山県76歳)
「したしきもうときも友は先立ちてながらふるみぞかなしかりける」(?)
親しき友は判るが、友人でうとい思うと言うところが、この人の内面が出てしまったのかなあとも思います。
当時50歳前の時代なので85歳まで生きたのは、めちゃめちゃ長いです。
7人子供がいたが、一人の女性を除いて全て亡くなってしまった。妻も亡くす。
「あかの水注ぎながらに思うかな昨日はともにたむけしものを」(?)
3男が亡くなり奥さんとともに悲痛な思いで、又子供を亡くしてしまったと言って見送ったことが、又嘘のように奥さんが亡くなってしまった、これは切ないですね。
奥さんが亡くなってから25回忌にも歌を詠んでいる。
「かたらいし事は昨日の心地して過ぎし月日におどろかれぬる」(?)
大正11年(1922年)に亡くなる。(85歳)
国葬が行われたが、さびしかった。(人望がなかった様に思う)
普請道楽、造園好きとしても知られる。
東京の椿山荘、京都の無鄰菴、小田原の古稀庵庭園は、山縣が自ら想を練り岩本勝五郎や7代目小川治兵衛をして築かせたものである。
2017年12月3日日曜日
水島裕(声優) ・【時代を創った声】
水島裕(声優) ・【時代を創った声】
NHKの連想ゲームで1981~88年までレギュラー回答者、スター・ウォーズシリーズのルーク・スカイウォーカー役の吹き替え、六神合体ゴッドマーズのロボットアニメ(明神タケル / マーズ)、愛の戦士レインボーマン等の数多くのキャラクターを演じているとともに、舞台でも活躍されています。
NHKの連想ゲーム、男女でやっているので、女性チームが勝つとか負けるとか、力んではしまいますが、その人が連想する事柄が、それが実はその人が伝わることだったりする。
日本語を駆使してやる番組としては最高だったんじゃないでしょうか。
元々はジェスチャーにあったワンコーナーだったらしいです。
回答席に座っているとなかなかわからないです。
傾向として季語から出題されることが多いとは、なんとなく判ったので季語集をちょくちょく読んでいました。
男性は加藤キャプテン、渡辺文雄さん、大和田獏さん、私水島。
女性は中田キャプテンを中心に固まって、仲はいいですが一歩スタジオに入ると負けないよと言うことがありました。
中学1年の時に劇団若草と言う児童劇団に入りました。
もうひとつの放課後が出来たと言う感じでした。
妹が先にNHKの放送劇団に入っていて、妹の活動を見て楽しそうだなと思って、入ろうとしたが年齢的に無理だと言われて、近くの劇団若草に入ることにしました。
バレエでタイツを履くが、凄く恥ずかしかった、日舞、歌のレッスンもあり良い経験をさせてもらいました。
最初、声の仕事だった。(入ってすぐにオーディションがあり受かりました)
「王様と私」で、勘九郎さんが声変わりして、勘九郎さんの影歌を最初にやりました。
アニメの最初の声は「くまのプーさん」のクリストファー・ロビンの声をやったのが最初です。
大学の途中まで劇団若草にいました。(学生のアルバイトとしては破格に良かった)
愛の戦士レインボーマンの主題歌を歌わせてもらいました。(高校1年生の時)
1972年からの放送で主題歌だけ担当、歌が浸透して、替え唄がはやった。
歌は得意ではなかったが、あの歌に巡り合わせて幸せでした。
大学のころはアルバイト感覚でした、楽しかったです。
大学の専攻には演劇、放送、文芸、音楽、美術、とかの中から、写真学科を受けたら受かってしまいましたが、カメラを持っていなかったのは僕だけでした。
写真は個人行動なので孤独でしたので、自分には合わないと思いました。
クリエーティブすると言う事では演劇と共通するが、孤独は好きではないと思いました。
たまたま運が良かったと思います。
古谷 徹さんが友人で遊んでいる中に、小山 茉美(まみ)さんとかがいて、大学卒業後にどうするのか考えている時に、小山さんからうちに来ればと誘われました。
ここだったらいいかなと思って伺って、準所属のような形で入ってみたら、三ツ矢 雄二さんとか、井上 和彦さん等が居ました。
初めてのメインキャラクターとしてロボットアニメ「超人戦隊バラタック」に出演。
下手だとは思ったが、でもあの初々しさは今は出せない。
未熟だと思うが、周りから助けてもらいました。
真摯にはやって来た自信はあります、取り組み方は一生懸命でした。
自分の色を発揮できているかどうか、それが大事だと思います。
役との出会いは大きいです。
三ツ矢 雄二さん、井上 和彦さんと3人でCDを出し、コンサートをやりました。
40年来の付き合いで、不思議な関係で、僕にとって大事な2人です。
寝ると忘れるタイプなので辛かったと言うよりも、楽しかったと言う方が強いです。
仕事が来ない時などは、煮詰まると習い事を始めます、空手、スキューバダイビング、ガラス工芸とかいろいろ、人から教わることは凄く新鮮です。
習うことによってリフレッシュします。
本当に尊敬している人から習うのが大事です、そうしないとはいってこない。
ガラス工芸は10何年やって来ましたが、先生が亡くなってやめてしまいました。
習うと言うことが気持ちを切り替えさせてくれるし、力をくれたのかなとも思います。
さだまさしさんとも付き合いがあるが、元気の時は歯車がかみ合っているが、歯車が空回りしている感覚があり、さだまさしさんから好奇心があればまた歯車はしっかりかみ合うようになると言われて、これは一生忘れてはいけないと思いました。
「別に」と言う言葉は使わない方がいいと思います、好奇心がないのは自分を殺す、心を殺してしまう。
人の気持ちに敏感なことが大事ですね。
声優という職業は努力が報われる世界ではない、でてきたもので判断される。
運が不可欠で、頑張っても出てきたものに魅力がなければ駄目だし、なにも訓練してこなくてもポーンと言ったセリフが魅力的な人もいるので、そこは不条理だと思うがそういう
世界で、一番大事なのは文字を声にすることではないと言うことです。
文字を書いた人の思いをくみ取って自分のフィルターでセリフにすることが大事。
その人の色は必ずあるので、その理由を自分で作ってそれをアピールしないといけないと思います。
自分の方向性に近い先輩を見付けてその人の真似をして見ることがいいと思います。
腕白クラシックコンサート、来年に渡辺俊幸さんが曲を作ってくれて、岩崎宏美さんと行う予定があり、子供達たちに聞かせたいと思っています。
NHKの連想ゲームで1981~88年までレギュラー回答者、スター・ウォーズシリーズのルーク・スカイウォーカー役の吹き替え、六神合体ゴッドマーズのロボットアニメ(明神タケル / マーズ)、愛の戦士レインボーマン等の数多くのキャラクターを演じているとともに、舞台でも活躍されています。
NHKの連想ゲーム、男女でやっているので、女性チームが勝つとか負けるとか、力んではしまいますが、その人が連想する事柄が、それが実はその人が伝わることだったりする。
日本語を駆使してやる番組としては最高だったんじゃないでしょうか。
元々はジェスチャーにあったワンコーナーだったらしいです。
回答席に座っているとなかなかわからないです。
傾向として季語から出題されることが多いとは、なんとなく判ったので季語集をちょくちょく読んでいました。
男性は加藤キャプテン、渡辺文雄さん、大和田獏さん、私水島。
女性は中田キャプテンを中心に固まって、仲はいいですが一歩スタジオに入ると負けないよと言うことがありました。
中学1年の時に劇団若草と言う児童劇団に入りました。
もうひとつの放課後が出来たと言う感じでした。
妹が先にNHKの放送劇団に入っていて、妹の活動を見て楽しそうだなと思って、入ろうとしたが年齢的に無理だと言われて、近くの劇団若草に入ることにしました。
バレエでタイツを履くが、凄く恥ずかしかった、日舞、歌のレッスンもあり良い経験をさせてもらいました。
最初、声の仕事だった。(入ってすぐにオーディションがあり受かりました)
「王様と私」で、勘九郎さんが声変わりして、勘九郎さんの影歌を最初にやりました。
アニメの最初の声は「くまのプーさん」のクリストファー・ロビンの声をやったのが最初です。
大学の途中まで劇団若草にいました。(学生のアルバイトとしては破格に良かった)
愛の戦士レインボーマンの主題歌を歌わせてもらいました。(高校1年生の時)
1972年からの放送で主題歌だけ担当、歌が浸透して、替え唄がはやった。
歌は得意ではなかったが、あの歌に巡り合わせて幸せでした。
大学のころはアルバイト感覚でした、楽しかったです。
大学の専攻には演劇、放送、文芸、音楽、美術、とかの中から、写真学科を受けたら受かってしまいましたが、カメラを持っていなかったのは僕だけでした。
写真は個人行動なので孤独でしたので、自分には合わないと思いました。
クリエーティブすると言う事では演劇と共通するが、孤独は好きではないと思いました。
たまたま運が良かったと思います。
古谷 徹さんが友人で遊んでいる中に、小山 茉美(まみ)さんとかがいて、大学卒業後にどうするのか考えている時に、小山さんからうちに来ればと誘われました。
ここだったらいいかなと思って伺って、準所属のような形で入ってみたら、三ツ矢 雄二さんとか、井上 和彦さん等が居ました。
初めてのメインキャラクターとしてロボットアニメ「超人戦隊バラタック」に出演。
下手だとは思ったが、でもあの初々しさは今は出せない。
未熟だと思うが、周りから助けてもらいました。
真摯にはやって来た自信はあります、取り組み方は一生懸命でした。
自分の色を発揮できているかどうか、それが大事だと思います。
役との出会いは大きいです。
三ツ矢 雄二さん、井上 和彦さんと3人でCDを出し、コンサートをやりました。
40年来の付き合いで、不思議な関係で、僕にとって大事な2人です。
寝ると忘れるタイプなので辛かったと言うよりも、楽しかったと言う方が強いです。
仕事が来ない時などは、煮詰まると習い事を始めます、空手、スキューバダイビング、ガラス工芸とかいろいろ、人から教わることは凄く新鮮です。
習うことによってリフレッシュします。
本当に尊敬している人から習うのが大事です、そうしないとはいってこない。
ガラス工芸は10何年やって来ましたが、先生が亡くなってやめてしまいました。
習うと言うことが気持ちを切り替えさせてくれるし、力をくれたのかなとも思います。
さだまさしさんとも付き合いがあるが、元気の時は歯車がかみ合っているが、歯車が空回りしている感覚があり、さだまさしさんから好奇心があればまた歯車はしっかりかみ合うようになると言われて、これは一生忘れてはいけないと思いました。
「別に」と言う言葉は使わない方がいいと思います、好奇心がないのは自分を殺す、心を殺してしまう。
人の気持ちに敏感なことが大事ですね。
声優という職業は努力が報われる世界ではない、でてきたもので判断される。
運が不可欠で、頑張っても出てきたものに魅力がなければ駄目だし、なにも訓練してこなくてもポーンと言ったセリフが魅力的な人もいるので、そこは不条理だと思うがそういう
世界で、一番大事なのは文字を声にすることではないと言うことです。
文字を書いた人の思いをくみ取って自分のフィルターでセリフにすることが大事。
その人の色は必ずあるので、その理由を自分で作ってそれをアピールしないといけないと思います。
自分の方向性に近い先輩を見付けてその人の真似をして見ることがいいと思います。
腕白クラシックコンサート、来年に渡辺俊幸さんが曲を作ってくれて、岩崎宏美さんと行う予定があり、子供達たちに聞かせたいと思っています。
2017年12月2日土曜日
米川明彦(梅花女子大学教授) ・時代を映す若者ことば
米川明彦(梅花女子大学教授) ・時代を映す若者ことば
最近の若者たちの言葉がわからない、と言うことはないでしょうか。
「とりま」は「とりあえず、まあ」のことです。
「ふろりだ」はアメリカの「フロリダ」州のことではありません。
「まんじ」(今流行っている)は何のことかわかりますか?
若者言葉、業界用語、隠語、流行語など俗語を40年前から研究しているのが、梅花女子大学教授の米川さん、62歳です。
若者言葉の変遷をたどりながら、時代と若者気質の変化を、米川さんに読み取ってもらいます。
女性ばかりの学校です、若い女性は会話を楽しんでいる、笑いを取ろうとしているので、研究の環境としてはいいです。
「まんじ」(今流行っている)は何だろうと聞いたら、学生は色々言うんです。
面白いことはなんでも「まんじ」と言いますとか、仲間の絆を強める時に「まんじ」と言いますとか、調子に乗っている時には、「あんたまんじだね」とか、まったくわかりません。
「やば」とおんなじようなことかもしれません。
「草生える」は笑いを取るとか、笑えるとかという意味です。
Wで笑う、わ(wa)Wを重ねると wwwwとなり草が生えているように見える。
「それな」関西の共感する時に使う言葉ですが、関東でも使うそうです。
「ふろりだ」ラインを使ってグループで参加するが、風呂に行ってくることを「風呂りだ」と言うんです。
風呂の為に離脱しますと言う意味です。
「ほかる」(ホカホカしてくる)ともいいます。
省略する言葉を使います、「おか」=お帰り、「おけ」=OK、「おこ」=怒っている。
省略形を打ってしまう。
若者言葉は寿命が3年ですが、中に残る言葉もある。
「て、よ、だ、わ言葉」女性が使っていた文末に使う言葉、(綺麗だわ、よくってよとか)明治の初めにこの言葉が出どころが悪いと言って非難されたが、女学校の生徒が使って、卒業した生徒が当時の一流の人たちと結婚して、高級な家庭にも広がって、「て、よ、だ、わ言葉」は一般的な丁寧な言葉になって行く。
大正時代にラジオ放送が始まるが、アナウンサーが新しい言葉としてできる。
告知者と云うような言い回しもしたが、告げ口をする言葉と言うことで、消えていった。
戦後「エッチ」と言う言葉がはやったが、元々は変態=HENTAI(ローマ字)、の「H」でしたが、余り使われなくなりました。
80,90年代は「超」と云う言葉がよく使っていましたが、関西ではあまり使われなかった。
「なうい」、「ちょべりば」=超ベリーバッド、などと言う人は40代ですね。
スマートフォン、インターネット等通信機器を使った言葉、SNSなどで広く使われる言葉、手間を省こうとして省略語として使われる。
「了解」→「り」とか一音節で済ませる。
「お疲れ」→「おつ」 変換ミスで「乙」を使う。それで使って行くと言うこともある。
「KY」アルファベットの頭文字を使う言葉、「空気読めない」、「恋の予感」
「る」で済ませようとする。 「誤字になってしまった」→「誤字る」
口頭でも喋る様にもなってきた、新しい傾向です。
「挙動不審な行動をとる」→「挙どる」
「こん」=「こんばんわ」、「こんにちわ」
「あり」=「有難う」
「いみふ」=「意味不明」
こういった言葉が口頭で話す様になった。
父親が言葉にうるさい人だったが、子供の頃色んな言葉を教えてくれた。
「坐るとばーとる」と言う言葉を教えてくれた、坐ったら場を取るものだ、とか「おすとあんでる」、押したらあんがででくるもの(饅頭)、ひねるとジャー=水道 などなど。
その影響を受けて言葉の研究者になろうと思いました。(国語学)
大学生の時に日本で一番大きな国語辞典「日本国語大辞典」20巻が出て欲しくてしょうがなかった、10万円以上した(40年前)。
自分では買えなくて付き合っている彼女に買ってもらった。
きっちり読まないといけないと思って、本当に隅から隅まで読みました。
或ることに気づきました、こんな大きな辞典なのに載っていない言葉がいっぱいあると思いました。
新語辞典(大正、昭和)、流行語辞典で買い集めていたが、そこの言葉が載っているのか、調べたら載っていないのが色々あった。(用例も書いてなかった)
新語辞典、大正初期に出たもので、面白い言葉がたくさんあります。
「ハイカラ」(大流行語)→動詞になる 「ハイカる」等
「脱線する」は電車が走り始めてから出来た言葉だがそれが転じて、正しい道正しい順序を離れて、全ての行動を脱線する、当時の新語だった。
今は一般語になっている。
俗語には若者言葉、業界用語、隠語、卑語(卑猥な言葉)、流行語、砕けた口頭語など。
「ランナー」→遅れて飛行機に走って行って乗る人。(業界用語)
大学のスクールバスは全部女性で、聞こえる言葉が判らなくて、メモを取って聞いたり、色んな方法を使って言葉を集めました。
「若者ことば辞典」1993年に出版。
新聞に載り3か月間取材にあいました。
昔新しい言葉を集めていた頃に教授から何の役に立つのだと言われてしまいました。
明治時代の新語、セブン→質屋、キャット→芸者(猫をつかって三味線を作るがそれを弾く人) エム→マネー(頭文字を使う、当時から流行っていた)
旧制高等学校の言葉(ドイツ語由来の言葉が出てくる)、落第する→どっぺる(ドッペルン 落第)、女の子→メッチェン 恋人→リーベ、飲みに行く→ドリンケン。
現代になると大学生はどこにもいて、エリートの言葉ではなくなる。
男女共学になり「性」に関する言葉が出てくる。
Aライン(元々はファッション用語)→キスが出来る仲、とか言うようになって来る。
ルート8→ニヤニヤ
学生運動が激しい時代、ゲバ棒を担いだ学生の「げばる」(ゲバルト=暴力)
高度成長期、言葉が遊ばれるようになる、「マジ」 真面目から出ているが。
野菜語、「ピーマン」(話の中身がない)、「トマト」(話がぐちゃぐちゃ)とか。
80年代、豊かになりバブルと重なり遊びが言葉にも及び、ちょべりば(「超ベリー・バッド(very bad)」の略)、ちょべりぐ(「超ベリー・グッド(very good)」の略)、みつぐ君、アッシー、とか消費を謳歌している。
メディアが流して若者言葉は表に出てくる。
真面目から遊びにシフトしてくる。
楽社会が生まれたと思う。(楽と楽しいを価値基準にしている)
そこから現代の若者言葉が出てきてると思う。
TV見ない、新聞見ない、インターネットを見る。
見る社会が狭くなってきて、関心事も狭くなり、言葉も狭くなる。
ラインのグループ自身は無数にあるが、しかし人数は小さい、グループごとに新しい言葉が生まれる。
昔は同じ様な価値観だったが、共有できなくなり、価値観が多様化して、自分さえよければいいと言うような、それぞれが別の方向を向いている。
ネット社会が若者に大きく影響している。
時代がどんな時代かによって、若者言葉の質が全く違う。
今の社会は、お笑い、楽しい、楽、そこから出てくる。
俗語を広く考えて、大人の世代の言葉も俗語があり、間違った言葉も平気で使ったりして、一般化して辞書にも載って行くと正しい日本語では無くなる。
「大丈夫」(箸は大丈夫ですか?)、「むかつく」(胃がむかつくが従来使われていた)と言う言葉の使い方も変わってきている。
厭な感情をどう発散するか、親しみのある言葉、俗語だと上手く表現できたり感じることが出来る。
一緒に楽しめる、作りだす楽しみが俗語にはある。
息苦しい世の中の息抜き、ほっとできる、楽しくできるなどいい意見があると思っています。
若者も仲間内の言葉と、そうでない言葉をわきまえていると思う。
最近の若者たちの言葉がわからない、と言うことはないでしょうか。
「とりま」は「とりあえず、まあ」のことです。
「ふろりだ」はアメリカの「フロリダ」州のことではありません。
「まんじ」(今流行っている)は何のことかわかりますか?
若者言葉、業界用語、隠語、流行語など俗語を40年前から研究しているのが、梅花女子大学教授の米川さん、62歳です。
若者言葉の変遷をたどりながら、時代と若者気質の変化を、米川さんに読み取ってもらいます。
女性ばかりの学校です、若い女性は会話を楽しんでいる、笑いを取ろうとしているので、研究の環境としてはいいです。
「まんじ」(今流行っている)は何だろうと聞いたら、学生は色々言うんです。
面白いことはなんでも「まんじ」と言いますとか、仲間の絆を強める時に「まんじ」と言いますとか、調子に乗っている時には、「あんたまんじだね」とか、まったくわかりません。
「やば」とおんなじようなことかもしれません。
「草生える」は笑いを取るとか、笑えるとかという意味です。
Wで笑う、わ(wa)Wを重ねると wwwwとなり草が生えているように見える。
「それな」関西の共感する時に使う言葉ですが、関東でも使うそうです。
「ふろりだ」ラインを使ってグループで参加するが、風呂に行ってくることを「風呂りだ」と言うんです。
風呂の為に離脱しますと言う意味です。
「ほかる」(ホカホカしてくる)ともいいます。
省略する言葉を使います、「おか」=お帰り、「おけ」=OK、「おこ」=怒っている。
省略形を打ってしまう。
若者言葉は寿命が3年ですが、中に残る言葉もある。
「て、よ、だ、わ言葉」女性が使っていた文末に使う言葉、(綺麗だわ、よくってよとか)明治の初めにこの言葉が出どころが悪いと言って非難されたが、女学校の生徒が使って、卒業した生徒が当時の一流の人たちと結婚して、高級な家庭にも広がって、「て、よ、だ、わ言葉」は一般的な丁寧な言葉になって行く。
大正時代にラジオ放送が始まるが、アナウンサーが新しい言葉としてできる。
告知者と云うような言い回しもしたが、告げ口をする言葉と言うことで、消えていった。
戦後「エッチ」と言う言葉がはやったが、元々は変態=HENTAI(ローマ字)、の「H」でしたが、余り使われなくなりました。
80,90年代は「超」と云う言葉がよく使っていましたが、関西ではあまり使われなかった。
「なうい」、「ちょべりば」=超ベリーバッド、などと言う人は40代ですね。
スマートフォン、インターネット等通信機器を使った言葉、SNSなどで広く使われる言葉、手間を省こうとして省略語として使われる。
「了解」→「り」とか一音節で済ませる。
「お疲れ」→「おつ」 変換ミスで「乙」を使う。それで使って行くと言うこともある。
「KY」アルファベットの頭文字を使う言葉、「空気読めない」、「恋の予感」
「る」で済ませようとする。 「誤字になってしまった」→「誤字る」
口頭でも喋る様にもなってきた、新しい傾向です。
「挙動不審な行動をとる」→「挙どる」
「こん」=「こんばんわ」、「こんにちわ」
「あり」=「有難う」
「いみふ」=「意味不明」
こういった言葉が口頭で話す様になった。
父親が言葉にうるさい人だったが、子供の頃色んな言葉を教えてくれた。
「坐るとばーとる」と言う言葉を教えてくれた、坐ったら場を取るものだ、とか「おすとあんでる」、押したらあんがででくるもの(饅頭)、ひねるとジャー=水道 などなど。
その影響を受けて言葉の研究者になろうと思いました。(国語学)
大学生の時に日本で一番大きな国語辞典「日本国語大辞典」20巻が出て欲しくてしょうがなかった、10万円以上した(40年前)。
自分では買えなくて付き合っている彼女に買ってもらった。
きっちり読まないといけないと思って、本当に隅から隅まで読みました。
或ることに気づきました、こんな大きな辞典なのに載っていない言葉がいっぱいあると思いました。
新語辞典(大正、昭和)、流行語辞典で買い集めていたが、そこの言葉が載っているのか、調べたら載っていないのが色々あった。(用例も書いてなかった)
新語辞典、大正初期に出たもので、面白い言葉がたくさんあります。
「ハイカラ」(大流行語)→動詞になる 「ハイカる」等
「脱線する」は電車が走り始めてから出来た言葉だがそれが転じて、正しい道正しい順序を離れて、全ての行動を脱線する、当時の新語だった。
今は一般語になっている。
俗語には若者言葉、業界用語、隠語、卑語(卑猥な言葉)、流行語、砕けた口頭語など。
「ランナー」→遅れて飛行機に走って行って乗る人。(業界用語)
大学のスクールバスは全部女性で、聞こえる言葉が判らなくて、メモを取って聞いたり、色んな方法を使って言葉を集めました。
「若者ことば辞典」1993年に出版。
新聞に載り3か月間取材にあいました。
昔新しい言葉を集めていた頃に教授から何の役に立つのだと言われてしまいました。
明治時代の新語、セブン→質屋、キャット→芸者(猫をつかって三味線を作るがそれを弾く人) エム→マネー(頭文字を使う、当時から流行っていた)
旧制高等学校の言葉(ドイツ語由来の言葉が出てくる)、落第する→どっぺる(ドッペルン 落第)、女の子→メッチェン 恋人→リーベ、飲みに行く→ドリンケン。
現代になると大学生はどこにもいて、エリートの言葉ではなくなる。
男女共学になり「性」に関する言葉が出てくる。
Aライン(元々はファッション用語)→キスが出来る仲、とか言うようになって来る。
ルート8→ニヤニヤ
学生運動が激しい時代、ゲバ棒を担いだ学生の「げばる」(ゲバルト=暴力)
高度成長期、言葉が遊ばれるようになる、「マジ」 真面目から出ているが。
野菜語、「ピーマン」(話の中身がない)、「トマト」(話がぐちゃぐちゃ)とか。
80年代、豊かになりバブルと重なり遊びが言葉にも及び、ちょべりば(「超ベリー・バッド(very bad)」の略)、ちょべりぐ(「超ベリー・グッド(very good)」の略)、みつぐ君、アッシー、とか消費を謳歌している。
メディアが流して若者言葉は表に出てくる。
真面目から遊びにシフトしてくる。
楽社会が生まれたと思う。(楽と楽しいを価値基準にしている)
そこから現代の若者言葉が出てきてると思う。
TV見ない、新聞見ない、インターネットを見る。
見る社会が狭くなってきて、関心事も狭くなり、言葉も狭くなる。
ラインのグループ自身は無数にあるが、しかし人数は小さい、グループごとに新しい言葉が生まれる。
昔は同じ様な価値観だったが、共有できなくなり、価値観が多様化して、自分さえよければいいと言うような、それぞれが別の方向を向いている。
ネット社会が若者に大きく影響している。
時代がどんな時代かによって、若者言葉の質が全く違う。
今の社会は、お笑い、楽しい、楽、そこから出てくる。
俗語を広く考えて、大人の世代の言葉も俗語があり、間違った言葉も平気で使ったりして、一般化して辞書にも載って行くと正しい日本語では無くなる。
「大丈夫」(箸は大丈夫ですか?)、「むかつく」(胃がむかつくが従来使われていた)と言う言葉の使い方も変わってきている。
厭な感情をどう発散するか、親しみのある言葉、俗語だと上手く表現できたり感じることが出来る。
一緒に楽しめる、作りだす楽しみが俗語にはある。
息苦しい世の中の息抜き、ほっとできる、楽しくできるなどいい意見があると思っています。
若者も仲間内の言葉と、そうでない言葉をわきまえていると思う。
2017年12月1日金曜日
中山欽吾(東京二期会理事長) ・エンジニアのオペラ改革
中山欽吾(東京二期会理事長) ・エンジニアのオペラ改革
大分県出身、昭和38年九州大学工学部を卒業後、三井金属鉱業株式会社に入社しました。
エンジニアとして日本各地を飛び回り、平成7年には同社米国社長となりニューヨークに赴任します。
アメリカ在任中に叔父で二期会創立者のひとりでもある、バリトン歌手、中山悌一に請われて二期会に入ります。
技術屋から声楽団体という全く畑違いの分野に転身、それまでの経営状態を分析、新しい改革を打ち出すなどして、成果を上げ、平成26年に二期会理事等に選出されました。
又出身地である大分の芸術活動にも熱心に取り組み、大分芸術短期大学学長、大分県総合文化センター館長などを勤めています。
音楽の世界に身を置いて今年で20年になります。
音楽の専門家は一杯いるので、私はその方たちが一番いいコンディションで演奏が出来るような、縁の下の力持ち的な働きが要請されていると思っています。
オペラを一回やると、大抵物凄い赤字が出ますので、赤字をどうやってキャンセルするとか、ビジネスをやってきた中で培われた経営してきたスキルとかが役に立っていると思います。
大分芸術短期大学学長としては後進を育てると言うことです。(美術もあり)
絵はずーっと何十年も描いてきました。
1940年生まれ、高校までは大分、九州大学の応用化学科に行って、プラスチックが世の中に勢い始めたころですが、無機の世界で勉強していました。
先生からこの会社が合っているからと言われたのが三井金属鉱業でした。
高校時代に絵の道にも進もうかと思ったが、自分よりはるかに上手い人が2人いたのであきらめました。
音楽は1年生の時に合唱部に入っていました。(テノール)、2年から美術部に入りました。
父は長男で医者でしたが、歌ったりしていました。
私は中山悌一(6男)の甥にあたります。
高校、大学時代は演奏旅行で九州に来た時などは泊って休んでいきました。
代々医者の家系なので兄は医学部に行きました。(私は次男)
会社では現場に行って亜鉛を作っていて、ふたつ会社を渡り歩いて、その後研究所に行って、金属の粉を利用して新しいものを開発する研究を10年やってその後、その開発したものを売るようにと言われて、新しいものを売って歩く業務もやりました。
当時日本の自動車会社がアメリカに移して、部品も来るように言われて、全米で会社を10か所作って、全体を見るようにと言われてニューヨークに行きました。(50歳頃の時)
メトロポリタンでは片っ端からオペラを観ました。
定年で辞めたら叔父の仕事を手伝う様になるのかなとは、なんとなく思っていました。
叔父とは養子縁組もしていましたので。
こんなにお金がかかるオペラが日本では出来るのかなとは思っていました。
アメリカにる時に叔父から、会社を辞めて手伝うように電話がかかって来ました。
当時、歌い手さんが800人いました。
その人たちを使っていろんなオペラ、コンサートをやっていましたが、オペラを1本やると凄く赤字が出てしまうので、どうやって赤字を出さずにやれるのか、プロの経営者の問題なのだがそういう人はいなかった。
叔父は手を引いて後輩が中心になり経営の方もやっていたが、その道のプロではなかった。
あつれきもあったが強引にやってゆきました。
以前の決算報告書を調べたりして、レポートもずーっと書いて来ました。
会社を辞めて、経営を立て直すのも一つの魅力かなと思っていました。
めどが立つのに10年近くかかりました。
赤字がどんどん減って行ってついに黒字になりましたが、全部データが残っていますが、それは宝です。
会社時代にそういう仕事をさせてもらったのはラッキーだったと思います。
二期会の人々が路頭に迷うことは、大変なので叔父は内心凄く心配していたと思います。
現在二期会には3000人近くいます。
研修所には実際オペラを歌ったことのある先生方を講師に据えて、若い人たちを鍛えることが絶対将来良いぞと思って力を入れました。
先生方のアルバイトにもなるし、若い人が育つのでいまだに続いています。
その研修所から会員になり、トップを歌うようになった人が何人もいます。
上手くシステムが回るようになりました。
「中山悌一メモリアル」と言うCDが出ましたが、中山悌一の家の大掃除をしたらNHKが放送する目的で録音されたものだったが、何かの理由で放送されなかったものだった。
ピアニストが判らなかったが、調べてみたら小林道夫先生と言うことが判りました。
私家版として作ったものも含めて、一つにまとめ上げました。
*シューベルトの「盲目の少年」 歌 中山悌一(バリトン) 演奏紹介
中山悌一は自ら律すると言うことで非常に厳しかったです。(89歳で亡くなる)
故郷の短期大学で900名位の生徒が全国から集まってきています。
卒業すると頑張って、いい大学に編入学をするというようなことも進めてきています。
女性が多いので県内に就職してもらう様に、インターンシップという制度を作って、企業と一緒になって、学生が企業に行って勉強してくることをやっていて、それが即戦力になって会社の方からも喜んでもらっています。
「小さくてもキラキラ輝く宝石のような大学になろう」と着任の時に言いましたが、今そうなりました。
どうやったらいいオペラを廉価なコストでお客様に見ていただけるか考えたときに、ヨーロッパは各都市に沢山のオペラ劇場がある。
毎日やっていて、新しいバージョンに替えると言う事になり、要らなくなって捨てるのにも費用がかかるので東京に捨ててと思って、コンテナ船を利用して空の時に乗せてきて、茨城県の山奥の倉庫に保管する、それを今やっています。
歌うのは日本人でどんどん歌う場が増えてくる。
ヨーロッパで活躍する有名な指揮者にも来てもらうと言うこともやっています。
大分県出身、昭和38年九州大学工学部を卒業後、三井金属鉱業株式会社に入社しました。
エンジニアとして日本各地を飛び回り、平成7年には同社米国社長となりニューヨークに赴任します。
アメリカ在任中に叔父で二期会創立者のひとりでもある、バリトン歌手、中山悌一に請われて二期会に入ります。
技術屋から声楽団体という全く畑違いの分野に転身、それまでの経営状態を分析、新しい改革を打ち出すなどして、成果を上げ、平成26年に二期会理事等に選出されました。
又出身地である大分の芸術活動にも熱心に取り組み、大分芸術短期大学学長、大分県総合文化センター館長などを勤めています。
音楽の世界に身を置いて今年で20年になります。
音楽の専門家は一杯いるので、私はその方たちが一番いいコンディションで演奏が出来るような、縁の下の力持ち的な働きが要請されていると思っています。
オペラを一回やると、大抵物凄い赤字が出ますので、赤字をどうやってキャンセルするとか、ビジネスをやってきた中で培われた経営してきたスキルとかが役に立っていると思います。
大分芸術短期大学学長としては後進を育てると言うことです。(美術もあり)
絵はずーっと何十年も描いてきました。
1940年生まれ、高校までは大分、九州大学の応用化学科に行って、プラスチックが世の中に勢い始めたころですが、無機の世界で勉強していました。
先生からこの会社が合っているからと言われたのが三井金属鉱業でした。
高校時代に絵の道にも進もうかと思ったが、自分よりはるかに上手い人が2人いたのであきらめました。
音楽は1年生の時に合唱部に入っていました。(テノール)、2年から美術部に入りました。
父は長男で医者でしたが、歌ったりしていました。
私は中山悌一(6男)の甥にあたります。
高校、大学時代は演奏旅行で九州に来た時などは泊って休んでいきました。
代々医者の家系なので兄は医学部に行きました。(私は次男)
会社では現場に行って亜鉛を作っていて、ふたつ会社を渡り歩いて、その後研究所に行って、金属の粉を利用して新しいものを開発する研究を10年やってその後、その開発したものを売るようにと言われて、新しいものを売って歩く業務もやりました。
当時日本の自動車会社がアメリカに移して、部品も来るように言われて、全米で会社を10か所作って、全体を見るようにと言われてニューヨークに行きました。(50歳頃の時)
メトロポリタンでは片っ端からオペラを観ました。
定年で辞めたら叔父の仕事を手伝う様になるのかなとは、なんとなく思っていました。
叔父とは養子縁組もしていましたので。
こんなにお金がかかるオペラが日本では出来るのかなとは思っていました。
アメリカにる時に叔父から、会社を辞めて手伝うように電話がかかって来ました。
当時、歌い手さんが800人いました。
その人たちを使っていろんなオペラ、コンサートをやっていましたが、オペラを1本やると凄く赤字が出てしまうので、どうやって赤字を出さずにやれるのか、プロの経営者の問題なのだがそういう人はいなかった。
叔父は手を引いて後輩が中心になり経営の方もやっていたが、その道のプロではなかった。
あつれきもあったが強引にやってゆきました。
以前の決算報告書を調べたりして、レポートもずーっと書いて来ました。
会社を辞めて、経営を立て直すのも一つの魅力かなと思っていました。
めどが立つのに10年近くかかりました。
赤字がどんどん減って行ってついに黒字になりましたが、全部データが残っていますが、それは宝です。
会社時代にそういう仕事をさせてもらったのはラッキーだったと思います。
二期会の人々が路頭に迷うことは、大変なので叔父は内心凄く心配していたと思います。
現在二期会には3000人近くいます。
研修所には実際オペラを歌ったことのある先生方を講師に据えて、若い人たちを鍛えることが絶対将来良いぞと思って力を入れました。
先生方のアルバイトにもなるし、若い人が育つのでいまだに続いています。
その研修所から会員になり、トップを歌うようになった人が何人もいます。
上手くシステムが回るようになりました。
「中山悌一メモリアル」と言うCDが出ましたが、中山悌一の家の大掃除をしたらNHKが放送する目的で録音されたものだったが、何かの理由で放送されなかったものだった。
ピアニストが判らなかったが、調べてみたら小林道夫先生と言うことが判りました。
私家版として作ったものも含めて、一つにまとめ上げました。
*シューベルトの「盲目の少年」 歌 中山悌一(バリトン) 演奏紹介
中山悌一は自ら律すると言うことで非常に厳しかったです。(89歳で亡くなる)
故郷の短期大学で900名位の生徒が全国から集まってきています。
卒業すると頑張って、いい大学に編入学をするというようなことも進めてきています。
女性が多いので県内に就職してもらう様に、インターンシップという制度を作って、企業と一緒になって、学生が企業に行って勉強してくることをやっていて、それが即戦力になって会社の方からも喜んでもらっています。
「小さくてもキラキラ輝く宝石のような大学になろう」と着任の時に言いましたが、今そうなりました。
どうやったらいいオペラを廉価なコストでお客様に見ていただけるか考えたときに、ヨーロッパは各都市に沢山のオペラ劇場がある。
毎日やっていて、新しいバージョンに替えると言う事になり、要らなくなって捨てるのにも費用がかかるので東京に捨ててと思って、コンテナ船を利用して空の時に乗せてきて、茨城県の山奥の倉庫に保管する、それを今やっています。
歌うのは日本人でどんどん歌う場が増えてくる。
ヨーロッパで活躍する有名な指揮者にも来てもらうと言うこともやっています。
2017年11月30日木曜日
吉沢久子(家事評論家・エッセイスト) ・今が一番幸せ(H29/7/13 OA)
吉沢久子(家事評論家・エッセイスト) ・今が一番幸せ(H29/7/13 OA)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2017/07/blog-post_13.htmlをご覧ください。
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2017/07/blog-post_13.htmlをご覧ください。
2017年11月29日水曜日
藤岡弘(俳優) ・ヒーローを貫く人生
藤岡弘(俳優) ・ヒーローを貫く人生
特撮TVドラマ仮面ライダーを初め、去年の大河ドラマ真田丸では勇猛な武将、本田忠勝役などを演じるなど50年以上活躍してきた藤岡さん、役者人生と並行して、国内の施設や被災地、世界の難民キャンプや紛争地を訪れて支援を行ってきました。
これまでに訪問した地域はアフリカの国々、イラク、カンボジア等100以上に上ります。
支援活動を行う理由、故郷愛媛県での少年時代のことなどを伺います。
紛争地の難民に対する救済、支援、必要とされる物資、食糧を持っていったり、義援金などを仲間と一緒に運んでみなさんに渡してゆく。
特に子供を中心に考えました。
40年以上になります、世界100カ国以上になります。
世界の色んな修羅場を見てくると自分の目のうろこが取れるごとく、今までの人生観や価値観が変わります。
生で見て、こういう中でも生きている子供達を見て、涙が出て止まらなくなる様な体験を何度もさせてもらい、私の中が変化してきました。
仮面ライダーが始まった当時、子供達の声が高まってきたときにふっと思い出して、孤児施設などをまわって子供達を励ましたりしていました。
デパートのサイン会、ファンとの交流とか有ったので、色んなものを貰うのでそういうものを届けていて、そのころから始まりました。
子供達は私と会うことで喜んで、子供が物凄く元気になって行くのを見て、こんなに影響が有るんだと、子供との触れ合いの中で感じるものがありました。
ヒーロー像はこんなに影響力があるんだと初めて知りました。
当時はボランティアなどと言う言葉もありませんでした。
わたしが生まれ育ったところが愛媛県の44番目の札所の大寶寺という所の近くにある駐在所で生まれました。
お遍路さんが行き交う中で両親が接待している姿に触れていました、それが普通なんだと思っていました。
それの延長線上で人にやってあげることが、人間として当たり前なんだろうと思っていましたが、実は特別なものでボランティアだと言うことが後になって判りました。
お米、柿、みかん、いも、トウモロコシなどをあげて、子供連れにはお菓子等、おはぎを渡していました。
良い方を、大きい方を上げるようにとの両親の教えがあったので、そういうのが当たり前のごとく自分の中で育くんでいったと思います。
母は厳しかったです。
お花、お茶、琴、和裁、和食などを村の娘さんたちに教えて居て、父は武道をやっていまして、両親の影響を大分受けました。
或る時に、喧嘩して相手を傷つけてしまい、仏壇の前に坐らせられて懺悔させられて、これ以上人様にご迷惑をおかけするのならあなたの命を頂戴しますと言われて、真剣に涙を流して怒られました。
母の真剣さに打たれて言いたいことが一杯あったが、土下座させられて、その時の怖さは今でも忘れられません。
母の人のために一生懸命奉仕する姿を見ていた、特にお遍路さんの話を聞いていたりお年寄りに親切にしていました。
当時は洋服などもボロボロでいつ風呂に入ったのか判らないような人にも風呂に入れてやり、父の服に着替えさせて、おいしいものを食べさせておにぎりも持たせて、送ってた姿を見ていました。
その後の私のボランティア活動に影響を与えました。
紛争地に行くと、難民の人たちは着の身着のままで食わず飲まずに逃げてくるのを見たときに、母の事を思い出して自分の中で人生観が変わって来まして、感謝、今自分が生きていることは普通ではないんだと、多くの先祖の犠牲のもとに今自分が有るんだと感じました。
エチオピア、ガーナ、ギニア、カンボジアなど紛争地は国が崩壊している状況で、地位、名誉、金、物などは関係なくなって、生き残っているものの本能、欲望がどんな立場だった人も一般の人も関係ない、生きるための欲望がそのままもろだしになってしまう、醜い状況が見えてしまう。
生きるために相手を殺してでも生きるとか、くれなければ食ってでもいきる、人間の本質が出てしまう、地獄です。
人間の醜いものが全てさらけ出される。
理不尽、矛盾、非常識、容赦がない。
そこには何があってもおかしくない、死ぬか生きるか、それしかないです。
行く前には遺言を書いて、なにかあった時のために仏前に置いて行っていました。
普通は国の玄関で物資を渡して帰って来るのが普通らしいが、物資を渡すと消えてゆく、難民キャンプまで届かない(税関の処でも無くなって行く)、届いても数少ないと言うことで、実際にキャンプまで届けると言うことが重要で、危険ですがそこまで運びました。
物資を持っているとねらってくる危険もありますから、明け方に運ぶとかしました。
危ないので渡したらすぐにスピードをだして引き返すようにしました。
砲弾の音や、銃撃の音が聞こえるところまで行っていましたので、危険が身に迫る感覚が絶えず付きまとっていました。
子供たちに一人でも何とかしたいと思って来ると、つい何とかしたいと思ってしまいます。
たった一個の抗生物質があればこの子は助かったと思うのに無い、コーヒー一杯分、それで子供の命が失われて行く、それを目のあたりにして凄くショックでした。
生き抜いた子は天が残した子ではないかと思うような存在で、真剣に生きようとする子供の目に触れて、目の輝きと生きようとする生命力に感動してしまっていつも頭から離れなかったですね。
民主化になって6カ月の時のエチオピア、キャンプが爆破されて数千人の難民が亡くなったキャンプ場に行ったが、子供たちがいきなり「ジャポン、ジャポン」と手を叩きながら感謝の声をあげてメンバー全員涙が止まらなかった。
子供たちと別れるときに数百人の子供たちが車のあとを追っかけてきて、手を振りながら叫びながら感謝して手を振るのを見て涙が止まりませんでした。
日本の子供達はどんなに幸せかなと思って、そのギャップが辛かった。
ある国では、子供にアンパンを渡すが取らない、何故かと思うと、親や兄弟が虐殺されて奇跡のごとく親が銃弾の弾よけとなってその下からはいでて、親の死を見て生き残った子だから人が信用できない状況が有ったんだろうと、食べ物そのものも信用していない。
先ず自分たちが食べて安全だと知らせたとたんにワーッと押し寄せて食い始めました。
それぐらい信用できないと言うような、大きなきなショックが有ったんだと思います。
救いに来たんだと判った瞬間に、目の色も変わるし、心を開いて抱きついて来て、抱きしめてやることが安心感を持って喜ぶ。
去ろうとしてもしがみついて離れない、離れがたかった。
(連れて行ってほしいと願ってくる)
そういった体験を何度もすると再びまた行くようになりました。
色んな国々を見ると、日本はこんな満たされた幸せな国はないと思います。
多くの国に影響を与える立場の人にそういうことを知ってもらいたい、体験してもらいたい、日本は本当に幸せな国だと思います。
何かを求めて我欲、自己中心主義というか蔓延してくると感じますね。
世界の現状をもっと知ってもらって、変わってもらいたい、国際的無知、そういったものが一番問題だと思います。
国家も個人も真価が問われる大転換期が始まって、問題意識を持って自己を見つめて未来を見つめる、そういうふうな考えを持って動かないと人ごとではない状況が来ていると感じています。
仮面ライダーの企画にもかかわり、生き抜くと言うことはどういうことか伝えようかと自分でアレンジして、生きる事にたいして気付いてもらえればと思って、生き抜くと言うメッセージを伝えました。
自分としてはやりがいのある仕事でした。
仮面ライダー1号を演じたことも45年ぶりで、色んな世界を回らしていただいて、色んな民族との出会いながらそこで生き抜くのを見て、日本を見ると歴史観が変わってきました。
自分が出来ることは何かと思ってみると、映像は影響を与える立場にあるので子供たちに影響を与える事は出来る、メッセージを送りながら、与えられた使命、責任を果たせればいいかなあという気持ちに変わってきて、そういう思いを込めて今の映像界で、ドラマなどを通じて伝えてたいと活動をしています。
縁があって初代の仮面ライダーとの出会いがあり、まさかヒーローを演ずることがこれほど大きな影響を与え、今も与えているということは考えてもいななった。
人間って出会いによって人生が変わって、運勢、歴史まで変わっていくということが本当にそうだなと思いました。
子供は未来、人類の宝だと思います。
子供のために何を残さないといけないのか、頭に引っ掛かっています。
一人ひとりだれしも使命を与えられていると思う。
未来のためになにをすべきか、問題意識を持って、平和に豊かに争いの無いような世界になるような方向にどうやったらそうなるか、自分と言う存在が貢献して少しでもどう役に立つのか、考えて行動してもらいたい。
限られた時間の中で我々は何を残すか、金、地位、名誉、財も持っていけないので、どれだけ人を愛して、どれだけ感動の旅をしたかといった思い出、感動しか持っていけないので、いい感動、いい思い出を残して去るべきだと思います。
特撮TVドラマ仮面ライダーを初め、去年の大河ドラマ真田丸では勇猛な武将、本田忠勝役などを演じるなど50年以上活躍してきた藤岡さん、役者人生と並行して、国内の施設や被災地、世界の難民キャンプや紛争地を訪れて支援を行ってきました。
これまでに訪問した地域はアフリカの国々、イラク、カンボジア等100以上に上ります。
支援活動を行う理由、故郷愛媛県での少年時代のことなどを伺います。
紛争地の難民に対する救済、支援、必要とされる物資、食糧を持っていったり、義援金などを仲間と一緒に運んでみなさんに渡してゆく。
特に子供を中心に考えました。
40年以上になります、世界100カ国以上になります。
世界の色んな修羅場を見てくると自分の目のうろこが取れるごとく、今までの人生観や価値観が変わります。
生で見て、こういう中でも生きている子供達を見て、涙が出て止まらなくなる様な体験を何度もさせてもらい、私の中が変化してきました。
仮面ライダーが始まった当時、子供達の声が高まってきたときにふっと思い出して、孤児施設などをまわって子供達を励ましたりしていました。
デパートのサイン会、ファンとの交流とか有ったので、色んなものを貰うのでそういうものを届けていて、そのころから始まりました。
子供達は私と会うことで喜んで、子供が物凄く元気になって行くのを見て、こんなに影響が有るんだと、子供との触れ合いの中で感じるものがありました。
ヒーロー像はこんなに影響力があるんだと初めて知りました。
当時はボランティアなどと言う言葉もありませんでした。
わたしが生まれ育ったところが愛媛県の44番目の札所の大寶寺という所の近くにある駐在所で生まれました。
お遍路さんが行き交う中で両親が接待している姿に触れていました、それが普通なんだと思っていました。
それの延長線上で人にやってあげることが、人間として当たり前なんだろうと思っていましたが、実は特別なものでボランティアだと言うことが後になって判りました。
お米、柿、みかん、いも、トウモロコシなどをあげて、子供連れにはお菓子等、おはぎを渡していました。
良い方を、大きい方を上げるようにとの両親の教えがあったので、そういうのが当たり前のごとく自分の中で育くんでいったと思います。
母は厳しかったです。
お花、お茶、琴、和裁、和食などを村の娘さんたちに教えて居て、父は武道をやっていまして、両親の影響を大分受けました。
或る時に、喧嘩して相手を傷つけてしまい、仏壇の前に坐らせられて懺悔させられて、これ以上人様にご迷惑をおかけするのならあなたの命を頂戴しますと言われて、真剣に涙を流して怒られました。
母の真剣さに打たれて言いたいことが一杯あったが、土下座させられて、その時の怖さは今でも忘れられません。
母の人のために一生懸命奉仕する姿を見ていた、特にお遍路さんの話を聞いていたりお年寄りに親切にしていました。
当時は洋服などもボロボロでいつ風呂に入ったのか判らないような人にも風呂に入れてやり、父の服に着替えさせて、おいしいものを食べさせておにぎりも持たせて、送ってた姿を見ていました。
その後の私のボランティア活動に影響を与えました。
紛争地に行くと、難民の人たちは着の身着のままで食わず飲まずに逃げてくるのを見たときに、母の事を思い出して自分の中で人生観が変わって来まして、感謝、今自分が生きていることは普通ではないんだと、多くの先祖の犠牲のもとに今自分が有るんだと感じました。
エチオピア、ガーナ、ギニア、カンボジアなど紛争地は国が崩壊している状況で、地位、名誉、金、物などは関係なくなって、生き残っているものの本能、欲望がどんな立場だった人も一般の人も関係ない、生きるための欲望がそのままもろだしになってしまう、醜い状況が見えてしまう。
生きるために相手を殺してでも生きるとか、くれなければ食ってでもいきる、人間の本質が出てしまう、地獄です。
人間の醜いものが全てさらけ出される。
理不尽、矛盾、非常識、容赦がない。
そこには何があってもおかしくない、死ぬか生きるか、それしかないです。
行く前には遺言を書いて、なにかあった時のために仏前に置いて行っていました。
普通は国の玄関で物資を渡して帰って来るのが普通らしいが、物資を渡すと消えてゆく、難民キャンプまで届かない(税関の処でも無くなって行く)、届いても数少ないと言うことで、実際にキャンプまで届けると言うことが重要で、危険ですがそこまで運びました。
物資を持っているとねらってくる危険もありますから、明け方に運ぶとかしました。
危ないので渡したらすぐにスピードをだして引き返すようにしました。
砲弾の音や、銃撃の音が聞こえるところまで行っていましたので、危険が身に迫る感覚が絶えず付きまとっていました。
子供たちに一人でも何とかしたいと思って来ると、つい何とかしたいと思ってしまいます。
たった一個の抗生物質があればこの子は助かったと思うのに無い、コーヒー一杯分、それで子供の命が失われて行く、それを目のあたりにして凄くショックでした。
生き抜いた子は天が残した子ではないかと思うような存在で、真剣に生きようとする子供の目に触れて、目の輝きと生きようとする生命力に感動してしまっていつも頭から離れなかったですね。
民主化になって6カ月の時のエチオピア、キャンプが爆破されて数千人の難民が亡くなったキャンプ場に行ったが、子供たちがいきなり「ジャポン、ジャポン」と手を叩きながら感謝の声をあげてメンバー全員涙が止まらなかった。
子供たちと別れるときに数百人の子供たちが車のあとを追っかけてきて、手を振りながら叫びながら感謝して手を振るのを見て涙が止まりませんでした。
日本の子供達はどんなに幸せかなと思って、そのギャップが辛かった。
ある国では、子供にアンパンを渡すが取らない、何故かと思うと、親や兄弟が虐殺されて奇跡のごとく親が銃弾の弾よけとなってその下からはいでて、親の死を見て生き残った子だから人が信用できない状況が有ったんだろうと、食べ物そのものも信用していない。
先ず自分たちが食べて安全だと知らせたとたんにワーッと押し寄せて食い始めました。
それぐらい信用できないと言うような、大きなきなショックが有ったんだと思います。
救いに来たんだと判った瞬間に、目の色も変わるし、心を開いて抱きついて来て、抱きしめてやることが安心感を持って喜ぶ。
去ろうとしてもしがみついて離れない、離れがたかった。
(連れて行ってほしいと願ってくる)
そういった体験を何度もすると再びまた行くようになりました。
色んな国々を見ると、日本はこんな満たされた幸せな国はないと思います。
多くの国に影響を与える立場の人にそういうことを知ってもらいたい、体験してもらいたい、日本は本当に幸せな国だと思います。
何かを求めて我欲、自己中心主義というか蔓延してくると感じますね。
世界の現状をもっと知ってもらって、変わってもらいたい、国際的無知、そういったものが一番問題だと思います。
国家も個人も真価が問われる大転換期が始まって、問題意識を持って自己を見つめて未来を見つめる、そういうふうな考えを持って動かないと人ごとではない状況が来ていると感じています。
仮面ライダーの企画にもかかわり、生き抜くと言うことはどういうことか伝えようかと自分でアレンジして、生きる事にたいして気付いてもらえればと思って、生き抜くと言うメッセージを伝えました。
自分としてはやりがいのある仕事でした。
仮面ライダー1号を演じたことも45年ぶりで、色んな世界を回らしていただいて、色んな民族との出会いながらそこで生き抜くのを見て、日本を見ると歴史観が変わってきました。
自分が出来ることは何かと思ってみると、映像は影響を与える立場にあるので子供たちに影響を与える事は出来る、メッセージを送りながら、与えられた使命、責任を果たせればいいかなあという気持ちに変わってきて、そういう思いを込めて今の映像界で、ドラマなどを通じて伝えてたいと活動をしています。
縁があって初代の仮面ライダーとの出会いがあり、まさかヒーローを演ずることがこれほど大きな影響を与え、今も与えているということは考えてもいななった。
人間って出会いによって人生が変わって、運勢、歴史まで変わっていくということが本当にそうだなと思いました。
子供は未来、人類の宝だと思います。
子供のために何を残さないといけないのか、頭に引っ掛かっています。
一人ひとりだれしも使命を与えられていると思う。
未来のためになにをすべきか、問題意識を持って、平和に豊かに争いの無いような世界になるような方向にどうやったらそうなるか、自分と言う存在が貢献して少しでもどう役に立つのか、考えて行動してもらいたい。
限られた時間の中で我々は何を残すか、金、地位、名誉、財も持っていけないので、どれだけ人を愛して、どれだけ感動の旅をしたかといった思い出、感動しか持っていけないので、いい感動、いい思い出を残して去るべきだと思います。
2017年11月28日火曜日
山崎理恵(NPO法人「みらい予想図」理事長)・重症心身障害児のあしたのために
山崎理恵(NPO法人「みらい予想図」理事長)・重症心身障害児のあしたのために
50歳、この9月に重度の肢体不自由と重い知的障害のある子供、重症心身障害児、重症児を対象にしたデイサービスの施設「いっぽ」を高知市に開きました。
山崎さんは3人の子を持つシングルマザー、12歳の次女音十愛(おとめ)さんは全盲で重複障害のある重症児です。
音十愛(おとめ)さんを育てる中で、山崎さんが痛感したのは重症治の介護や看病に当たる母親の休まる場が無いと言うことでした。
同じ境遇にある親たちが支え合い休らぐ場所を作りたいと施設を立ち上げました。
しかし事業の経験もなく経済的な余裕もなかった山崎さんにとって、これまでの道のりは決して平たんなものではありませんでした。
事務所として使われていた建物を改装して作られた。
身体障害者手帳と知的手帳があるが、両方の手帳が共に最重度であるということが認められた子、プラス高度な医療が必要な子(気管切開されている子等)、医療的なことがとても高度で何処にも行くところがないお子さん(医療的ケア児)も含めて総称を重症児と言われています。
ほとんど寝たきりのお子さんが多いです。
常に何かの介護が必要、医療的なケアが必要なお子さんが多いです。
事業するにあたっての人員配置では、普通のデイサービスよりもうんと厳しくて、全てが有資格者でなくてはいけない。
私自身も看護師の資格を持っています。
音十愛(おとめ)は3人目だった、途中から育ちが悪くて羊水がほとんどなくなって緊急オペになり、オギャと小さい声で泣いたが直ぐに連れていかれて、2日間会わせてもらえなかった。
ただ事ではないと思ったが、2日後に本人に会わせてもらったが、そのときのショックはいまだに忘れられない。
見た瞬間、管がいっぱい入っていた。
顔は鼻から下が全部裂けていると言う感じでした。
手足も不揃いでした、それを見た瞬間血の気がスーッと引きました。
お腹の中の児に私は何をしたんだろう、普通に産んでやれなかった事を物凄く罪と思いました。
目の事はその時は言われなかったが、部屋に帰ってから先生が目がないんですと言われ、目の中に眼球がないと言われてしまいました。
どうやって育てていこうかとずーっと考えていて、どうしてと受け止められなかった。
これほどの障害のある子はどういうふうに育ってゆくかは予測が出来ない、内臓にも異常があるかもしれないので、とにかく普通に育ててくださいと、簡単に医師から言われました。
最初は泣いて泣いて、一生のうちの涙はその時流したと思うくらい、泣きました。
助産師さんには今でも感謝していますが、泣いて暮らしている私に毎日ベッドサイドに来てくれて、ただ私の話を聞き出そうとしてくれて、「そうやね」といって受け入れて、或る日助産師さんが「赤ちゃんは頑張って生きようとしている、凄く元気よ、この子は生きたいと思っているから、お母さんがしてあげられることは何かないかね」と言ってくれました。
心配ごとの高い順番から並べて言って、と言われて、「一番は目が見えない目がないといういうことが一番ショックです、どうやって育てていいのか、わたしの顔も一生判らないんですよね。」といったときに「わかった」と、その心配事を少しでも和らぐために、相談できる人を探そうと言うことになりました。
ソーシャルワーカーが探してくれて、高知女子大学にいた助教授の先生を紹介してくれました。
その方自身が弱視でほとんど見えない方でした。
話を聞いてくれて、全然普通に育てていいよと言われました。
色んな事が出てくるかもしれないが、出てきたら出てきた時に考えればいいと言われました。
最初そういう人達に支えられました。
全てが困難の連続でした。
口が割れていたので、ミルクが飲めない。
鼻に管を入れて退院したが、口から飲む練習をしましたが、口から飲ませて体重を増やすことが物凄く大変でした。(体重が増えないと口の手術もできない)
1、2年かけて1kg増やす目安で5kg目指すのが、物凄く大変でした。
自傷してしまう子で、昼夜の区別が出来ないので睡眠時間が凄く不規則で、夜通し泣いて、自分の思いが伝えられなくて、いらいらして頭を壁にぶつけたり色々やっていました。
一晩中抱っこして、また朝が明けたと言う日が毎日続いて、3時に主人が起きて主人に交代してもらって出勤するまでやってもらって二人三脚でずーっとやっていました。
それが長く続いて5歳までは入退院のくり返しで、その間おおきな手術が2回して、生死をさまよいました。
兄弟が有ると、兄弟の行事とかで外に出ていかないといけない時もあり、外に出ると好奇な目が降り注いできて、心ない言葉も浴びました。
スーパーに行ったりすると子供が寄って来て、「ワー気持ち悪い」と言って走って逃げてゆくことが何度もありました。
大人の方も「こんな子が生まれるのは親の責任や」といって言ってしまう人もいました。(見ず知らずの人から言われた)
社会に出ていく怖さがありましたが、何を言われようと出て行こうと腹をくくりました。
「ワー気持ち悪い」と言っていた子が、2回、3回と会ってゆくうちに段々寄って来るんです、そのうち「可愛いね」と言ってくれるんです。
経験を重ねるごとに人は受け入れてくれるんだと、経験しました。
社会に出て行って傷付いたことも沢山ありましたが、教えてもらったこと、学んだ事が沢山ありました。
外に連れ出したと言うことは、私の心も強くなりました。
成長とともに命の峠がある、落ち着くんです。(5歳ごろからでした)
医療的なことが必要な子は単独では保育園には通えない状況でした。
3歳のころはミルクを鼻からチューブで入れる様なので、受け入れてくれるところはなかった。
盲学校の幼稚部に入れないかなど色々と相談したが無理だった。
いつかは私が先に亡くなるので、この子が何もできなければどうするんでしょうか、社会の中で生きていける力を少しでも付けられるように、そのために社会性を身につける場所に通わせてくださいと、お願いしましたが、駄目でした。
盲学校の先生に、高知にはいられないので高松(実家)に帰ると言ったら、とにかく発信しなさい、聞いてもらいなさいと言われて、高知県母親大会と言うところを紹介されて、そこで全てさらけ出しました。
最初一個人の問題は取り上げられない場合が多いが、真剣に聞き始めてくれて、音十愛(おとめ)さんだけの問題ではなく先に繋がるお子さんがいるはずだと言うことで重要課題に取り上げられました。
世論に訴えなさいとも言われて、新聞の投書欄(声広場)にだして、それが一つの流れになって、署名活動にもつないでいこうと言うことで、「音十愛(おとめ)ちゃんを幼稚部に入れる会」が結成され、全国に署名依頼して2万筆位集まり、それを持って県の教育委員会にいき、2カ月しないうちに特例で認めてもらいました。
子供たちの中で活動することで、育まれることが色々あると思いました。
今は鼻からのチューブを止め胃瘻(いろう)にしています。
主人は仕事もしていて、子供を見ながらと言う事は介護疲れがとってもあって、家庭の中の歯車がおかしくなって、或る日突然仕事にいけなくなった。(鬱病だった)
結果的に離婚という選択になってしまった、一緒にいていたら共倒れになっていたと思いました、決断としては良かったと思います。
離婚する前から、このままこの子を育てていく人生なのか、音十愛(おとめ)は自分が居なくなった後にどんな世界で生きていくんだろうと思ったときに、施設に入ると言う道しかなかったが、もっと選択肢があってもいいのではないか、この子が笑顔の素敵な子だったので、誰かを元気にさせる力があるのではないかと漠然と思っていました。
シングルマザーで経済的にも厳しく生きて行くのが精いっぱいで、私もうつ病にもなり、実家に帰ろうかと思っていたときに、あるきっかけで地元の新聞に私たちのことが連載されることになりました。
重症児のデイサービスを全国で当事者のお母さんが立ちあげることを手伝っている方に出会うことになりました。
その人の「無ければ作ればいい」という言葉にピーンと来たのは、ずーっと自分は何をしたらいいか判らなかった殻?にならなかった部分が、パーンと殻?になりました。
重症児で、高度の医療的なことが必要な重症児を預かる、お母さんの介護疲れを支援出来る施設がないと思って、これをしようと思いました。
同じ様な環境のお母さんがいたりして、頑張るお母さんがいましたが、彼女は自殺をしてしまいました。
大事なお子さんが先に旅立たれて後を追ってしまいました。
何もしてやれなかった自分を攻める気持ちが凄く大きくなって、自分の中に引っ掛かりました。
同じ様な経験をしたお母さんたちから貰う勇気はおおきい、人から貰った一言から明日に繋がると言うことは結構あるので、出会いが結ばれる出会いの場は多ければ多いほどいいと思って、二度と悲しい出来事がないようにとの願いです。
まずこれを選んで、次にもしたいものがあるので、「みらい予想図」としたんですが、制限をかけないように自由にすごせるような場所も作りたいと思っていました。
この事業は通過点だと思っています。
一つ一つのヤマを考えると怖くてできなかったと思います、先の殻?が見えたんです。
誰かの力を借りながらクリアしてゆくしかないと思いました。
色んなことが山の様にありましたが、諦めなかったらクリア出来ました。
強い思いは子供たちの未来です、それからここまで来るのには本当に沢山の人にお世話になりました。
そういう人達の顔が浮かぶし、そういう人達に甘えてきたので、何か返したいと思います。
どんなに障害が重くても、その子なりに発達って絶対あるんです。
音十愛(おとめ)の場合は言葉が増えていきましたし、歩けない子が歩き出したと言うような発達もあります。
脳性まひのお子さんで本当に反応あるのかなと言うようなお子さんでも、お母さんにはよろこんでる反応とかが判るんです、それを第三者が判るまでには時間がかかります、微々たる反応ですから。
自分を表現できることが嬉しいことに変わって、僕をわかってくれる人がいると言うことが、また反応に繋がる。
ここは始まりの一歩で(0から18歳まで)、要求が高いのは、卒業した方が行き場がないと言うこともあるので、18歳以後の方が過ごせる場所が必要だと思って作らなければいけないと思います。
夜もケア出来るところもないので、家族が休息できる場所も必要だと思います。
どんな人でも共存できる、笑顔で過ごせる場所が最終目標です。
手をつなぎながら未来を作っていきたいです。
音十愛(おとめ)は、自分の人生を導いてくれる大事な先生ですね。
50歳、この9月に重度の肢体不自由と重い知的障害のある子供、重症心身障害児、重症児を対象にしたデイサービスの施設「いっぽ」を高知市に開きました。
山崎さんは3人の子を持つシングルマザー、12歳の次女音十愛(おとめ)さんは全盲で重複障害のある重症児です。
音十愛(おとめ)さんを育てる中で、山崎さんが痛感したのは重症治の介護や看病に当たる母親の休まる場が無いと言うことでした。
同じ境遇にある親たちが支え合い休らぐ場所を作りたいと施設を立ち上げました。
しかし事業の経験もなく経済的な余裕もなかった山崎さんにとって、これまでの道のりは決して平たんなものではありませんでした。
事務所として使われていた建物を改装して作られた。
身体障害者手帳と知的手帳があるが、両方の手帳が共に最重度であるということが認められた子、プラス高度な医療が必要な子(気管切開されている子等)、医療的なことがとても高度で何処にも行くところがないお子さん(医療的ケア児)も含めて総称を重症児と言われています。
ほとんど寝たきりのお子さんが多いです。
常に何かの介護が必要、医療的なケアが必要なお子さんが多いです。
事業するにあたっての人員配置では、普通のデイサービスよりもうんと厳しくて、全てが有資格者でなくてはいけない。
私自身も看護師の資格を持っています。
音十愛(おとめ)は3人目だった、途中から育ちが悪くて羊水がほとんどなくなって緊急オペになり、オギャと小さい声で泣いたが直ぐに連れていかれて、2日間会わせてもらえなかった。
ただ事ではないと思ったが、2日後に本人に会わせてもらったが、そのときのショックはいまだに忘れられない。
見た瞬間、管がいっぱい入っていた。
顔は鼻から下が全部裂けていると言う感じでした。
手足も不揃いでした、それを見た瞬間血の気がスーッと引きました。
お腹の中の児に私は何をしたんだろう、普通に産んでやれなかった事を物凄く罪と思いました。
目の事はその時は言われなかったが、部屋に帰ってから先生が目がないんですと言われ、目の中に眼球がないと言われてしまいました。
どうやって育てていこうかとずーっと考えていて、どうしてと受け止められなかった。
これほどの障害のある子はどういうふうに育ってゆくかは予測が出来ない、内臓にも異常があるかもしれないので、とにかく普通に育ててくださいと、簡単に医師から言われました。
最初は泣いて泣いて、一生のうちの涙はその時流したと思うくらい、泣きました。
助産師さんには今でも感謝していますが、泣いて暮らしている私に毎日ベッドサイドに来てくれて、ただ私の話を聞き出そうとしてくれて、「そうやね」といって受け入れて、或る日助産師さんが「赤ちゃんは頑張って生きようとしている、凄く元気よ、この子は生きたいと思っているから、お母さんがしてあげられることは何かないかね」と言ってくれました。
心配ごとの高い順番から並べて言って、と言われて、「一番は目が見えない目がないといういうことが一番ショックです、どうやって育てていいのか、わたしの顔も一生判らないんですよね。」といったときに「わかった」と、その心配事を少しでも和らぐために、相談できる人を探そうと言うことになりました。
ソーシャルワーカーが探してくれて、高知女子大学にいた助教授の先生を紹介してくれました。
その方自身が弱視でほとんど見えない方でした。
話を聞いてくれて、全然普通に育てていいよと言われました。
色んな事が出てくるかもしれないが、出てきたら出てきた時に考えればいいと言われました。
最初そういう人達に支えられました。
全てが困難の連続でした。
口が割れていたので、ミルクが飲めない。
鼻に管を入れて退院したが、口から飲む練習をしましたが、口から飲ませて体重を増やすことが物凄く大変でした。(体重が増えないと口の手術もできない)
1、2年かけて1kg増やす目安で5kg目指すのが、物凄く大変でした。
自傷してしまう子で、昼夜の区別が出来ないので睡眠時間が凄く不規則で、夜通し泣いて、自分の思いが伝えられなくて、いらいらして頭を壁にぶつけたり色々やっていました。
一晩中抱っこして、また朝が明けたと言う日が毎日続いて、3時に主人が起きて主人に交代してもらって出勤するまでやってもらって二人三脚でずーっとやっていました。
それが長く続いて5歳までは入退院のくり返しで、その間おおきな手術が2回して、生死をさまよいました。
兄弟が有ると、兄弟の行事とかで外に出ていかないといけない時もあり、外に出ると好奇な目が降り注いできて、心ない言葉も浴びました。
スーパーに行ったりすると子供が寄って来て、「ワー気持ち悪い」と言って走って逃げてゆくことが何度もありました。
大人の方も「こんな子が生まれるのは親の責任や」といって言ってしまう人もいました。(見ず知らずの人から言われた)
社会に出ていく怖さがありましたが、何を言われようと出て行こうと腹をくくりました。
「ワー気持ち悪い」と言っていた子が、2回、3回と会ってゆくうちに段々寄って来るんです、そのうち「可愛いね」と言ってくれるんです。
経験を重ねるごとに人は受け入れてくれるんだと、経験しました。
社会に出て行って傷付いたことも沢山ありましたが、教えてもらったこと、学んだ事が沢山ありました。
外に連れ出したと言うことは、私の心も強くなりました。
成長とともに命の峠がある、落ち着くんです。(5歳ごろからでした)
医療的なことが必要な子は単独では保育園には通えない状況でした。
3歳のころはミルクを鼻からチューブで入れる様なので、受け入れてくれるところはなかった。
盲学校の幼稚部に入れないかなど色々と相談したが無理だった。
いつかは私が先に亡くなるので、この子が何もできなければどうするんでしょうか、社会の中で生きていける力を少しでも付けられるように、そのために社会性を身につける場所に通わせてくださいと、お願いしましたが、駄目でした。
盲学校の先生に、高知にはいられないので高松(実家)に帰ると言ったら、とにかく発信しなさい、聞いてもらいなさいと言われて、高知県母親大会と言うところを紹介されて、そこで全てさらけ出しました。
最初一個人の問題は取り上げられない場合が多いが、真剣に聞き始めてくれて、音十愛(おとめ)さんだけの問題ではなく先に繋がるお子さんがいるはずだと言うことで重要課題に取り上げられました。
世論に訴えなさいとも言われて、新聞の投書欄(声広場)にだして、それが一つの流れになって、署名活動にもつないでいこうと言うことで、「音十愛(おとめ)ちゃんを幼稚部に入れる会」が結成され、全国に署名依頼して2万筆位集まり、それを持って県の教育委員会にいき、2カ月しないうちに特例で認めてもらいました。
子供たちの中で活動することで、育まれることが色々あると思いました。
今は鼻からのチューブを止め胃瘻(いろう)にしています。
主人は仕事もしていて、子供を見ながらと言う事は介護疲れがとってもあって、家庭の中の歯車がおかしくなって、或る日突然仕事にいけなくなった。(鬱病だった)
結果的に離婚という選択になってしまった、一緒にいていたら共倒れになっていたと思いました、決断としては良かったと思います。
離婚する前から、このままこの子を育てていく人生なのか、音十愛(おとめ)は自分が居なくなった後にどんな世界で生きていくんだろうと思ったときに、施設に入ると言う道しかなかったが、もっと選択肢があってもいいのではないか、この子が笑顔の素敵な子だったので、誰かを元気にさせる力があるのではないかと漠然と思っていました。
シングルマザーで経済的にも厳しく生きて行くのが精いっぱいで、私もうつ病にもなり、実家に帰ろうかと思っていたときに、あるきっかけで地元の新聞に私たちのことが連載されることになりました。
重症児のデイサービスを全国で当事者のお母さんが立ちあげることを手伝っている方に出会うことになりました。
その人の「無ければ作ればいい」という言葉にピーンと来たのは、ずーっと自分は何をしたらいいか判らなかった殻?にならなかった部分が、パーンと殻?になりました。
重症児で、高度の医療的なことが必要な重症児を預かる、お母さんの介護疲れを支援出来る施設がないと思って、これをしようと思いました。
同じ様な環境のお母さんがいたりして、頑張るお母さんがいましたが、彼女は自殺をしてしまいました。
大事なお子さんが先に旅立たれて後を追ってしまいました。
何もしてやれなかった自分を攻める気持ちが凄く大きくなって、自分の中に引っ掛かりました。
同じ様な経験をしたお母さんたちから貰う勇気はおおきい、人から貰った一言から明日に繋がると言うことは結構あるので、出会いが結ばれる出会いの場は多ければ多いほどいいと思って、二度と悲しい出来事がないようにとの願いです。
まずこれを選んで、次にもしたいものがあるので、「みらい予想図」としたんですが、制限をかけないように自由にすごせるような場所も作りたいと思っていました。
この事業は通過点だと思っています。
一つ一つのヤマを考えると怖くてできなかったと思います、先の殻?が見えたんです。
誰かの力を借りながらクリアしてゆくしかないと思いました。
色んなことが山の様にありましたが、諦めなかったらクリア出来ました。
強い思いは子供たちの未来です、それからここまで来るのには本当に沢山の人にお世話になりました。
そういう人達の顔が浮かぶし、そういう人達に甘えてきたので、何か返したいと思います。
どんなに障害が重くても、その子なりに発達って絶対あるんです。
音十愛(おとめ)の場合は言葉が増えていきましたし、歩けない子が歩き出したと言うような発達もあります。
脳性まひのお子さんで本当に反応あるのかなと言うようなお子さんでも、お母さんにはよろこんでる反応とかが判るんです、それを第三者が判るまでには時間がかかります、微々たる反応ですから。
自分を表現できることが嬉しいことに変わって、僕をわかってくれる人がいると言うことが、また反応に繋がる。
ここは始まりの一歩で(0から18歳まで)、要求が高いのは、卒業した方が行き場がないと言うこともあるので、18歳以後の方が過ごせる場所が必要だと思って作らなければいけないと思います。
夜もケア出来るところもないので、家族が休息できる場所も必要だと思います。
どんな人でも共存できる、笑顔で過ごせる場所が最終目標です。
手をつなぎながら未来を作っていきたいです。
音十愛(おとめ)は、自分の人生を導いてくれる大事な先生ですね。