高橋睦郎(詩人) ・母を語る(H21/2/17 OA)
昭和12年福岡県生まれ、福岡教育大学を卒業後上京、広告会社に勤務、コピーライターなどの仕事に関わります。
中学時代から雑誌、詩や短歌、俳句などの投稿を始め注目されるようになります。
読売文学賞や高見順賞などを受賞、これまでにオペラ、新作のギリシャ悲劇などの台本作りも手掛けられました。
平成29年には蛇笏賞、11月には文化功労者に選出されました。
湘南に住んで23年になります。
育ったのが門司で海辺に帰ってきたと言うような感じです。
24歳の時に東京に来ました。
兄弟は3人ですが、僕が生まれて105日目に父が急性肺炎で亡くなって、その次の日に姉が亡くなっています。
次の姉は健在です。
父が亡くなったので父の妹の処に子供がいないので姉をやってほしいと言うことになりましたが、母がそれに耐えきれずに、僕と姉に毒(睡眠薬)を飲ませて、自分も飲んで、家に釘を打ちつけ死のうとしていた。
その時にたまたまじいさんばあさんが訪ねて来て、くぎ抜きでこじ開けて瀕死の親子を医者を連れて来て、蘇らせたわけです。
僕が生まれて200日ぐらいの時でした。
母は苦労ばっかりしてきた人で父と暮らした6年間が一番幸せの時だったようです。
ですから喪失感が凄かったみたいです。
思い出としての形見が二人の子供だけだったので、その半分が奪われることが耐えられなかったんでしょうね。
父が亡くなった後はいつまでも骨壷をお墓に入れないで父の身体の形にお骨を畳に並べてじーっとみていた人ですから。
回復したら伯母の処に姉を連れて行ってしまいました。
母は僕を育てるために色々なところに、旅館の仲居などをして働きに行きました。
そのうちにずーっと年上の世話をしてくれる人(愛人)が出来て中国に行っています。
母から預かった育てるお金の何分の一かで、じいさんばあさんは僕を他人に家に預ける訳です。
小さい時には他人の家を転々として、ままっ子扱いされたりしていました。
姉も僕のことを自分の兄弟とは思っていませんから、僕はつまはじきされていました。
小学校に入るちょっと前に母が帰ってきました。
親戚の人に連れていかれて、下関に行きました。(海を初めてみました。)
母が縁側に支那服を着て、ヒスイの指環をして煙草を吸っていて、よその人という感じがしました。(最後までそんな思いは抜けなかった。)
母と部屋を借りて住みましたが、母の世話をした人(妻子のある人)が訪ねて来る時の為の家でもあったわけです。
僕はその人をお父さんと言うように言われていた。(父ではないと言うことを知っていた。)
母は僕に対して厳しかった。
言葉使いも敬語を厳しく母に教えられ、中国での日本人の標準語と地元の子供達の喋る言葉を使い分けていた。
学校の試験で15点取ってきたら、鍋敷きで叩かれ釘が頭に刺さる位血が噴き出して、それから80点以下を取ってきたことはない。
一方、近所の子に虐められると、その子供を追っかけて行って、親がいる前でも鳥小屋に入って行って糞だらけになる子を引きずり出す人でした。
男の人ともそのうち別れて二人だけになり、生きていけないから死のうと言うんです。
一人で死んでください、でも僕は生き残りますと言ったら、その言葉に引かれて母も生きてきたと後に言ったようです。
母は少女時代から凄く映画が好きで、映画館の仕事があると言う話があったが子供がいると無理と言っているのを聞いて、僕がいなければ楽しく映画が見られると思って、小学校の4年の時に家出をしました。
ばあさんのところしかなくてそこにいたら、母がたずねて来て、その後母ともしばらく話が出来なくなった。
そのうち学校に行ったら英雄のように扱われました。
母は担ぎ屋になって一緒に付いて行ったりしました。
物凄く涙もろい人でした、人によくしてやることが大好きで、亡くなった後で随分借金がありましたが、人の代わりにお金を借りてやったりしていて、母のボランティアの為に僕は見も知らぬ人の借金を払っていました。
母は面白い人でした。
小さい頃のことですが、霊を呼び出す定型の言葉があったり、降りてくる定型の言葉があり、それを聞いていてそれを覚えてしまい、この世の言葉以外に言葉がある、目の前の人以外の遠くからと通信できる言葉があると言うことを知ったのが、詩歌体験だったと思います。
4つ位の時だったと思います。
友達と遊ぶよりも一人で遊ぶことが多かったので、何にも要らず遊べるのが言葉でした。
本を読み、書くことになって行きました。
母はどこかに行くと本を買ってきてくれました。
父の蔵書がありましたが米とかいもとかに変わりましたが、改造社の日本文学全集の中に少年文学集と言う本がありました。
「こがね丸」巖谷 小波、小川未明、白秋、最後に鈴木三重吉の「古事記物語」がある。
その本が僕にとっての文学の繋がりでした。
「こがね丸」は文語体、「番茶会談」が幸田露伴、「小公女」を若松賤子さんの訳、わたしの初めての文学の本でした。
その後古文に出会っても全く物怖じしなかった。
判らなくても子供にはとにかく本を与えたらいいと思う。
中学では働いて借金に使って、修学旅行には高校ではいきませんが、母も苦しんでいるのでそのことを恨んだことは一度もないです。
(中学の時の修学旅行はお金を出してくれた人がいましたのでなんとかいけました)
反抗期は無かったです、母も働き詰めだったし、そんな間もなかったが、たまに喧嘩もしますが私に対しやることはちゃんとやって一言も言わなかった。
そうすると堪える訳で、母の会社に行って謝ると、うちの子は謝りに来る子だと他で自慢していたようですが。
小学校4年ぐらいから書いたりしていましたが、習慣的に書くようになったのが中学校1年生からです。
詩をノートに書いて先生に渡して評価してもらっているうちに習慣になりました。
「ピン止め」
金色に光るピン止め。 セメントに埋もれたピン止め。 指先ではじいて見たとて絶対に取れぬピン止め。 いったい誰が落としたのでしょう。 キラキラと光るピン止め」
一番古い記憶の残っている詩です。
福岡学芸大学に進む。
中学卒業後就職する予定だったが全部落ちてしまった、高校卒業後も全部落ちたが、ある受験先の支店長から聞いた話では、成績は本当に良かったが母子家庭だから入れられないと言われてしまいました。(それだったら何故試験を受けさせるのかと思いましたが)
大学に進み教師になるつもりだったが、結核になってしまって、しかたがないから東京に出て来ました。
コピーライターになるが向いていなくて編集の方に回されました。
私の稼ぎで母を養ってゆくようになりました、母が亡くなったのは17年前でしたが、「私がお前を育てたよりも何倍もお前に生かしてもらっている」と言っていました。
「12の遠景」と言う本を出しましたが、母のことを洗いざらい愛人のこととか書きましたが、母がそれで寝込んでしまい、訴えようと姉に言ったそうです。
倍の仕送りを送って、最後には5倍ぐらい仕送りをしました、なにも訴えられませんでした。
山本健吉賞を貰ったことがあるが、会場に母と姉が来て、「うちはどなたかが発明した文字を原稿用紙にうずめているだけなので大したことはございません」と言ったようです。
父は読書家で母は話がおかしい人でした、昔話とかとんち話とかを物凄く頭の中にしまいこんでる人でした。
だから私は学校のお話会のスターでした。
表立った教育ママ的なことは全然ない人でした。
母も本はよく読んでいました。
70歳になった時に母にあてて書いた詩
「お母さん、僕70歳になりました。 16年前78歳で亡くなったあなたは今も78歳。
僕とたったの8歳違い。 お母さんと言うよりも姉さんと呼ぶ方がしっくり来ます。
来年は7歳、再来年は6歳、 8年後にはおないどし、9年には僕の方が年上に、その後はあんたはどんどん若く、姉さんでなく妹、そのうちに娘になってしまう。
年齢ってつくづく奇妙ですね。」
「母が亡くなった後、母が僕を抱いている写真を机の前に飾っていますが、60数年前の若い寡婦が幼い男の子を抱いた写真、毎日見ているうち奇妙なことが起こりました。僕の記憶の中の晩年のあなたが日に日にぼやけ薄れついには消え、写真の若いあなたがあなたになった。 今ではもう老いたあなたの像を再生することはほとんどできない。
一体僕はなにをしたんでしょう。 僕の完遂の結果あなたは写真の中に入って若い寡婦になりおうせた。 僕も写真の中の男の子になりおうせた。 と言いたいところだがではこの写真の前にいて写真の中のあなたと僕を見ている老人はだれでしょう。
今僕がしなければならないのは写真の前の奇妙な老人を殺すこと。
見事殺しおおせた暁にはその時こそ言えますね。 僕1歳になりました、もう2歳にも3歳にも勿論70歳にもなりません。 安心してずーと25歳の若い母親でいてくださいね。 僕の大好きなたった一人のお母さん。」
息子にとっては母親は何時までも母親だし、こっちは息子ですね。
母はこの子を育てなければと言う思いで愛人という立場がありましたが、そういうことがあったために或る距離がいつもあり、母の胸で泣いたと言うようなことはなく、その寸前で止まって、結果的には距離があったと言うこと良かったと言う気がします。
母は正直な人でした、全く嘘が付けない人でした。
それはなによりも僕にとって宝と言うか、そういう人だったと思っています。