2016年11月23日水曜日

渡辺總子(わだつみのこえ記念館館長)・戦没学生の声に耳を澄ます

渡辺總子(わだつみのこえ記念館館長) ・戦没学生の声に耳を澄ます
昭和24年戦没学生の手記「聞けわだつみの声」が発表され、以来、学徒出陣した若者たちの言葉は多くの人に読み継がれてきました。
そして戦没学生の体験を伝え、手記を展示保存する記念館の設立への動きが高まり、平成18年わだつみの声記念館が出来ました。
館長の渡辺さんは昭和10年生まれ、長い間記念館設立の為に力を尽くしてきました。
2年前からは館長に就任し、戦没学生の遺稿、資料の収集や保存展示など記念館の普及に努めています。

記念館が出来てちょうど12月でまる10年、あっという間の感じです。
募金活動に13年掛かったので、そこから考えるとちょっと長い感じもします。
学徒出陣50周年記念の時に、関係者が記念館を絶対建てようと日本全国に声をかけたら、1400名の方から寄付がありました。
文京区本郷、東京大学の赤門のすぐ近くに記念館があります。(マンションの1階が図書、2階が展示室、100平米の小じんまりした部屋))
1500点ぐらい展示しています。
戦後生まれの人がほとんどで、父や叔父さんの戦歴を知りたいとか、若い研究者が調べに来られたり大学の先生が授業に取り入れたいという事で、こられたりします。
読んでゆくと戦争は悲劇だとか、平和を守ろうと聞きなれたフレーズよりも、戦争や平和を訴えかけてくる物が多いと、そんなふうに感想を書いてくれたりします。
写真があったり、はがき、日記でも達筆で細かい字でびっしり書いてあったりして思いが伝わってきます。

記念館を建てるきっかけになったのは、結婚した相手が、少年兵で戦艦武蔵に乗っていて、レイテに向かっていたが、手前シブヤン海峡でアメリカ軍に総攻撃を受けて沈んでしまったが、辛くも生き残って帰って来て、同年兵を亡くしたことの苦しみ、酷い戦争体験だったことを、何とか書き残そうと、執筆活動をしていた時に、学徒兵の人と知り合い、戦没学生のお墓参りをしたり、そんなことを私はそばで見聞きして、学徒兵の方とのお付き合いもあり、56歳で本人が亡くなってしまって、私に託された様な気がして、生きて帰った人の想いを伝えようと言う事で今日まで来ました。
記念館を建てられたのは宿題の一つを果たしたと思います。
私は、1935年生まれなので疎開児童でしたので、戦争体験はないです。
夫の書いたものを清書することで、戦争についての知識が深まりました。
生きて帰った人に良かったですねと言うと、違うとちっとも嬉しくないと、私達には判らない戦争体験した方の共通の想いの様ですね。(一緒に戦って亡くなった人のことを思うと、なんで自分は生きて帰ったのだろうとの想い)

宅島徳光さん大正10年(1921年)生まれ   福岡県 福岡市出身
昭和18年9月慶応義塾大学法学部卒業、その9月に三重航空隊に入隊、昭和20年4月9日飛行訓練中に殉職。24歳
恋人宛てに書いた日記
青春の苦悩が切実に描かれている。
「6月13日快晴、飛行作業あり、俺の返信を待って落ちつかぬ日を過ごしていると思う。
早く返事をしなければと俺の心の責任感が叫ぶ。
はっきり言う、俺は君を愛した、そして今も愛している、しかし、俺の頭の中には今では君よりも大切なものを蔵するに至った。
それは君のように優しい乙女の住む国のことである。
俺は静かな黄昏の田畑の中で、まだ顔も見えない遠くから俺たちに頭を下げてくれる、いじらしさに強く胸を打たれるのである。
もしそれが君に対する愛よりもはるかに強いものであると言うのなら君は怒るだろうか、否々決して君は怒らないだろう、そして俺とともに俺の心を理解してくれるだろう。
本当にあのようなかわいい子らの為なら命は決しておしくはない。」

6月30日
「飛行作業あり、八重子、極めて孤独な魂を温めてくれ。
俺は君のことを考えると心が明るくなる。
そして寂しさを失う事が出来る、それでよいのだ、君のすべてを独占しようと思うのは悪い夢だ。
君には君の幸福がきっと待っている。
俺は俺の運命、否、俺たちの運命を知っている。
俺たちの運命は一つの悲劇であった、しかし俺たちは悲劇に対してそれほども悲観していないし、寂しがってもいない。
俺たちの寂しさは祖国に向けられた寂しさだ。
たとえどのように見苦しくあがいても俺たちは宿命を離れることはできない。
しかし俺は宿命論者ではない、あのようなできごとは俺の心には何か遠いはるか昔の様な気がする。
それだけに思い出すと懐かしい、よい友達を持ったと喜んでいる。
あんなに親しい友達は俺の過去には一人もいなかった。
俺は君のすべてを知っていたし、君も俺のすべてを知っていた。
俺はなぜ君を離れたか、君は俺を恨むことだろう。
しかし、俺の小さなヒューマニズムが君の将来の幸福を見棄てさせようとはしなかった。
君は俺があのようにして離れる事できっと幸福な日を設けうるに違いない、俺はその日の幸福を祈っている、本当に幸福な日を迎えてくれ。」・・・一部

宇田川達さん 大正9年生まれ 埼玉県出身
奥さんがいた方で妻あての手紙。
昭和17年(1942年)9月早稲田大学法学部卒業、10月には東部第十二部隊に入隊。
1945年1月25日鹿児島県大野岬海上にて、交戦中戦死。 24歳
広島の下宿先に荷物一式が残されていて、下宿先の娘さんが奥さんに送り返して、そこに二通の遺書があったそうです。
一通は公的なもので、もう一通は妻(邦子)へのもの。
「邦子ちゃん、私は昭和17年1月18日結婚の日以来、邦子ちゃんを喜ばすことなく今日まで過ごしてしまった。
しかし私の気持ちは決して世の中の夫たるものに負けぬつもりです。
こうしてペンを走らせていると、様々な思い出が次々に浮かんできます。
今までも何回も言いましたが、私は邦子ちゃんと結婚して救われたと確信しています。
父が亡くなってからの家庭苦、精神苦、特にいろいろなことを考えてしまって、当時は私はいかにして生きられるかを懸命に考えてその日その日を送ったことでしょう。

それから私は邦子ちゃんに依り、はっきりと行くべき光を、道を与えられたのでした。
その故に私は一時たりとも邦子ちゃんより離れたくない気持ちでした。
しかし世の中はそれを許してくれませんでした。
そして私は祖国の運命をになって昭和17年1月18日入隊したのでした。
私は日本人が故に愛を振り棄てて大きな祖国愛の為に、私のこの一個の肉体生命をかけた邦子ちゃんに別れて入隊しました、そして今祖国のために散って行きます。
邦子ちゃん、私は邦子ちゃんと死にたかった。
邦子ちゃん、私の心臓が止まるその瞬間まで、私は邦子ちゃんのことを思っているでしょう。
そして邦子ちゃんの名を呼ぶでしょう。
こうしていると頭が変になりそうです、ただ邦子ちゃんにすまないと思う。
私は邦子ちゃんと結婚して幸いを得たけれど、邦子ちゃんは私と結婚しなければこんなに若くて未亡人にならなくて済んだのではないかと思ったりします。
昭和17年10月1日朝、門のところで無言で見おくってくれた姿が目に映ってきます。」

宇田川さんには男のお子さんもいたそうですが、お父さんと同じくらいの日時に事故で亡くなってしまったそうです。
宇田川さんは多くのノートを残しているので、それを一冊の本にできないかとずーっと思っているところです。
戦争で残された女性も大変な戦後を送られたんですね。
夫の物があるから是非預かってほしいと言う事で預かる事になりました。
他にも特攻訓練の基地から両親に送ったはがきがあり、絶対面会禁止という非人間的なはんが押してあるんです。

朝鮮人の戦没学生の手記、写真も展示しています。
韓国に生還した元朝鮮人学徒兵の方がたが1・20同士会を作っていて、交流していて、公民館が出来た時に寄贈するということになりました。
直筆は無いです。(日本語で書いたものは残せませんと言われましたという事です。)
もう一つのわだつみがあるんですよと、お伝えしています。
韓国のかたにも評価していただいています。
資料の傷みもあるのでスキャンして、デジタル化して、画像として取っておくことも大分進めてきました。
アーカイブで蓄積した資料などを公開する事業も2年前から目標として挙げて、ボランティアで学生が協力してくれることになり、共有財産にしていただいて、戦没学生の理念をつたえて平和に繋げる行動を今後も頑張っていきたいと思います。