津村節子(作家) ・今も生きる、こころとことば
吉村昭さんは2006年7月79歳で亡くなられるまでに、綿密な取材と調査を元に、記録文学、歴史文学の分野で数々の作品を執筆され、太宰治賞をはじめとして受賞され、今も多くの読者に読み継がれています。
作家の妻の節子さん88歳は、昭和28年吉村昭さんと結婚され、昭和40年第53回芥川賞を受賞、そのごの旺盛な作家活動を評価され、今年11月文化功労者に選ばれました。
夫が没後 10年に文化功労賞をいただき、この前までそこに立っていた様な気がします。
夫の同じ作品が繰り返し出てきて、どうしてこんなに売れ続けるのだろうと、あきれるぐらいです。
夫は舌癌という事で、放射線治療の為に入院していて、CTで体中検査をして、膵臓に癌があると言われて、膵臓癌は生存率が、5年で死亡率の非常に高い病気だと知った様で覚悟した様です。
周りには絶対に知らせるなと言って、息子と娘だけは知らせました。
膵臓全摘と言う事で、大変なことになったと思いました。
これが吉村さんの癌ですと先生から見せられました。
どうしても家で死にたいと言うので、1日も早く退院を許してもらって、家で点滴を出来るようにベッドをセットしました。
家に戻って来てとても喜んでいました。(息子も娘も近くに住んでいたのでよく来ました)
酒豪だったのでビールを一口飲んで「あーっ美味い」と言って、末期のビールでした。
2006年7月31日の明け方に亡くなりました。
目の前では泣きませんでしたが翌日部屋で泣いて、亡くなった後も井の頭公園のはずれの神田川のところで大声をあげて泣きました。
自分が死んだあと収入が激減すると思った様で、私が書いている事を忘れてしまった様で、家を売って、アパートに入って、御手伝いさんを頼んで生活をするようにと遺言が克明に書いてありました。
結婚当初は貧乏もいいとこで、6畳一間で吉村の給料が1万5000円、家賃が1500円、同人雑誌が3000円 6000円引いたら食べるものも無い様な暮らしをしていました。
夫は勤めを帰って来てクタクタで、書く事もままならず勤めを辞めてしまいました。
ダイレクトメールの様な仕事をして手形が来たが手形が不渡りで、糸の商品を東北に売りさばかなくてはいけなくなって、石巻、青森に行って、商売をしました。
その後八戸に行って物産展に出したら製品が全部売れて、北海道に渡ることになり、洞爺丸がひっくり返った時で、沈んでいるのが見えました。
根室に行って、花咲の街にいったが、ニシンの取れる時だけにぎあうところで、みかん箱にセーター等を載せて商売しましたが、そんなときでも夫は書き物をしていました。
雪が降ってネッカチーフが真っ白になり、その姿を見てこの女に一生借りができたと思ったそうです。
昭和37年田野畑出身の友達がいて、私の村は小説にならないかと話がありぷらっと行って、リアス式海岸がずーっとあって景勝地を見て、帰ってきました。
兄の会社の専務取締役をやっていて、事業も拡大して吉村を頼りにしていて、吉村を手放したくなかった。
1年間の約束で書く仕事にするかどうかの見極めをすると言う事で、吉村は1年の期限で死に物狂いになって(私はその時には芥川賞を取っていた)、兄が認めてくれるような作品を作って会社を辞めて、専業にものを書いて行きたいと思った。
田野畑にもう一度行ってみようと、2泊3日掛かって行って、断崖から眺望して精神が洗われるに様な気がしたらしいです。
帰って来て、死のう団、少年少女が鵜の巣断崖から、体中を紐で縛って一人が落ちるとみんな繋がって落ちる様に集団自殺する話を書いて、「星への旅」という題を付けて太宰治賞を受賞しましたので、兄もあきらめました。
彼はそれからひたすら書いて、私小説を書いていましたが、長崎へ行き戦艦武蔵の取材ノートを友達から託されて、山下三郎(ペンネーム泉三太郎)が結核でせっかくの建造日誌を小説に書けなくなってしまって、君に託すから書いてほしいと言われたが、人間は書けるが軍艦は書けないと言ったが、民間の三菱造船所の会社が軍艦を造ることはどういうことだろうと興味を持って、調べ始めて生き残りのひとの名簿を頼りに尋ね歩いて北海道から沖縄まで尋ね歩いて、取材だけでも大変だったんです。
取材で、武蔵が進水しただけで津波が起こったそうですが、誰にも言わないでくれとおびえたそうです。(戦争が終わって何年経つと思っているのかといっても)
武蔵の建造の時に大変な秘密を守らせた。
「戦艦武蔵」という作品が出来て今も読み継がれている。
田野畑に行った時に泊まった旅館の女将さんが津波の時に波が全部引いて岩が全部見えて、波が引いてしまったと言う事を聞いた時にえーっと思って、調べ始めて、三陸に明治から昭和にかけて3回津波が来ていて、4回目も又来るに違いないと思って、田老というところが全員亡くなった大津波が来ている。
三陸海岸の津波を書いて、その取材で田野畑、田老、宮古等に行きましたが、 私が見たときには物凄い堤防が出来ていました。
関東大震災の生きている人にも聞いて、その話も書きました。
荒川区で三陸海岸の津波 関東大震災の原稿、資料、メモなどを展示して、天皇陛下が行幸して、展示をしていることを知って、ご覧になりました。
津波の引いて、来る描写はまるで自分が見たように書いています。
臨場感がある、読むとその場に自分がいたみたいに感じる。
平成16年に書いたあとがき 多くの死者の声が聞こえる様な気がする、と書いてあり、その後東日本大震災、熊本地震、鳥取地震があり、災害から逃れることはなかなかできない、津波がこれからも起こるだろうと言う、読むとそう予言している。
災害は繰り返し繰り返し来ると彼は思っている訳です。
彼が予言した通りのことが起こってしまっているんです。
吉村文庫が津波で流れて、復旧したので、又段ボールに本を詰めてた田野畑に送っています。
荒川区に吉村等の文学館が出来る予定です。(吉村はいったん断った様ですが)
吉村の資料は一般の人が見てもどうしようもないが、研究家が見れば値打ちがあるので、寄贈すれば、だれでも医学書、歴史書でも蔵書を見ることができるので納めました。
吉村の長い机があるが、これは死ぬまでここに置いておきたい。