鳥谷邦武(元特攻隊員・シベリア抑留経験者) ・「白紙の遺書に込めた思い~二度の死線を越えて~」
鳥谷さんは大正15年1926年佐賀県佐賀市生まれ、昭和18年16歳で陸軍少年飛行兵を志願して厳しい訓練を経て戦闘機のパイロットになりました。 昭和20年終戦の年、18歳の鳥谷さんが満州の部隊で特攻隊となりますが、出撃命令が出ぬまま、ソ連軍の捕虜となって、およそ2年間の抑留生活を送りました。 100歳を目前にした今もなお講演やメディアなどで戦争の悲惨さを積極的に伝えています。 死を前提とした特攻、生きることを諦めかけたシベリア抑留、その両方を経験した鳥谷さんに伺いました。
1945年4月、18歳の時に特攻隊への編入が命じられました。 第一命令は、特攻隊の編成、第二命令は、この部隊から朝鮮経由で知覧まで行く。第3命令は出撃と言う順番になります。 第二命令を受けた時は、とうとう俺のところまで来たかと言う気持ちでした。 諦めるよりしょうがありませんでした。 命令に背く事はできません。 上官の命令は、天皇陛下の命令と同じだと言うふうに言われてきていました。 特攻の戦法は下の下と言われてました。 初めから特別攻撃隊があるんだったら志願はしなかったです。 みんなが言ってます。 最後は使命感だけで突っ込むと思います。 遺書も書くように言われましたが、私は書きませんでした。 爪と髪の毛と白紙でした。 白紙ならば自分で想像してみることがでいる。 白紙が精一杯の抵抗です。 同期生が先に出撃したときに、「お前たちは来るなよ。」って言う言葉が印象的でした
満州南部の飛行場で終戦を迎えます。 これで内地に帰れると言う思いはありました。 ソ連軍の侵攻があって、シベリアに抑留されると言うことになりました。 バイカル湖を通ったときには、日本に帰れないと言う思いがありました。 夏服のままだったので、冬は非常に寒かったです。(マイナス63℃まで下がる時がある。) 雪をかき分けて遺体処理もしました。 情報も入らないので、明日がどうなるか分かりませんでした。 腹が減る、寒い、衣服はない、労働は朝昼晩三交代で仕事をする、残酷な生き方に対して特攻で死ねばよかったって言う思いも頭に浮かびました。
1947年6月に舞鶴に戻ってきました。 帰ってくる1週間ぐらい前に事故で亡くなった人もいました。 戦争はするもんじゃないです。 本当に馬鹿らしい。 残るのは悲しみだけです。 特攻隊には表と裏があります。 特攻の出撃した知覧とかで堂々と遺書などで発表してます。 裏の事はなか書かれません。 書いたら没収されるし、場合によっては卑怯と言われるかもしれない。 特攻の命令を受けたけれども、まずは死にたくない。 死にたくないと言うのが本音です。 それは書けない。
特攻に向かう班長から1人ずつ呼ばれて、「お前は技術はいいけれども優しすぎるから、いつかお前はやられるぞ。」と言われました。 とどめを刺す人間になれという事でしょうね。 成れないですね。 戦争に正義はないです。 殺し合いですから。 争いの解決方法はやっぱり話し合いでしょうね。 それしかないです。 戦争は百害あって一利なしです。 自分の命は大事にしなければいけないです。 亡くなったら、二度とこの世には出て来ません。 愛する人に会うこともできません。