徳光和夫(フリーアナウンサー) ・テレビとラジオ しゃべりの世界
今年84歳を迎えた徳光さんは、アナウンサーとして62年もの間第一線で活躍してきました。 テレビでの印象が強い徳光さんですが、パーソナリティーを務めるラジオ番組は今年15周年を迎えました。 テレビとラジオのそれぞれの魅力や違い、アナウンサーとしての原点、しゃべることの醍醐味、そして今なお大事にしている信念など、時代を越えて愛され続ける徳光節の魅力を様々に伺います。
現在のラジオ番組パーソナリティーも朝5時スタートです。 ラジオは自分で原稿を書いたりしなければならない。 フリートークのところがあるので時間調整が必要になる。 ラジオは正直にやらないと駄目ですね。 映像がない分全部見破られている気がします。 69歳から始めて15周年を迎えました。 ラジオは生涯勉強ですね。 毎回新鮮です。
長嶋さんの一挙手一投足を自分の言葉でしゃべりたくてアナウンサーになったんですが、王道はニュースかスポーツ中継で、プロレスには行きたくないと思っていましたが行かされてしまいました。 地方への出張もあります。(野球が見られなくなる) プロレスの選手への取材は一切できない。 選手への知識がないのにもかかわらず、中継をしなければいけない。 作り話のような感じで自分でプロフィールを作ったりする。 レスラーは受け身のスポーツなので、受け身を如何に放送するかと言う事がプロレス中継の醍醐味だと言われました。 軽く投げたにしても大技に見えるような受け身をする。 レスラーの回復力は早いです。(トレーニングで)
或る番組でデストロイヤーが四の字固めを急に私にかけることになり、それをマイクを持って放送しなければいけない状況になってしまい、激痛の様子をしゃべったりしました。 あいつにニュースをやらせると信用しないというようなことになりました。 でも47歳の時にはニュースのメインキャスターになりました。 ニュースは縁遠い番組なので勘弁してほしいといったが、きてしまいました。 ニュースは当時は政治からはじまって順番が決まっていて、格調高い言葉でしゃべっていた。 テレビを見ている人には伝わらないと私は思いました。 私が判らなかったらニュースではないと、言う様な事で担当させてもらいたいと言いました。 ニュースを自分の言葉でしゃべるようになって、今のラジオに生きているのではないかと思います。
石原伸晃さんがなだしお事件があった時に、報道局にきて現場からニュースを伝えましたが、言葉が難しくて中継中に、よくわからないから判り易く話してほしいと言ったら、やはり同じようにやっていたので、中途でもう結構ですと言って、次のニュースに行きますと言いました。 烈火のごとく怒って来ました。 わがままを言っていましたが、そのニュースの視聴率が上がったんです。 判りやすいニュースの機運が高まりました。 リポーター(女性)を増やして判り易い言葉を取り入れるという方向にしていきました。
フリーになりたくて言ったら、このまま続けてくれないかと言われてしまいました。 結局3年間やってフリーになりました。(言ってから1年半後) しかしこの3年間勉強したり良い経験をさせてもらいました。 それがフリーになった後の大きな栄養になりました。 ニュースは是非体験すべきだと思います。 私なりにどういう風に伝えるかという事を考えるようになりました。
歌番組に関してはキャリアを積んできました。 「年忘れ日本の歌」 アナウンサーの力を発揮できるのは、イントロにのせて、イントロかぶせのナレーションだろうと思いました。 歌詞の横顔を紹介する、これはプロレスで培ったものです。 曲に合わせて盛り上げ方を自分で考えて書きます。 人と接するのが私たちの仕事なので、初対面の人でもその人のいいところ、好きになりそうなところを捜す訳です。 この仕事をするにあたって身に付いた習性だと思います。 「ズームイン朝」の仕事を担当するようになってから、自分はアナウンサーに向いているのではないかと思うようになりました。 自然体で人生が生きられるという事は、アナウンサーにとって非常に大切な事じゃないかと思います。 妻が軽から中程度の認知症になって、私はこんなに楽しいのに、彼女はこの楽しさを知らないのかなあと思うと、申しわけないような気分になります。 私が看取らないといけないという様な気持ちです。