芹洋子(歌手) ・〔師匠を語る〕 ジャズ歌手 マーサ三宅を語る
ホームソングのシンガーとして知られる芹洋子さんは、日本を代表するジャズシンガーのマーサ三宅さんにレッスンを受けていました。 マーサ三宅さんと芹洋子さん、どんなレッスンでどんなドラマがあったのでしょうか。
マーサ三宅さんは今年の5月に92歳で亡くなりました。 マーサ三宅さんは1933年中国東北部満洲国四平街(後の吉林省四平市)で生まれました。 父を早くに亡くしたマーサさんは終戦の翌年、母と二人で日本へ引き揚げ中学校に入学、卒業後日本音楽学校で音楽の基礎を学びながら、夜はアルバイトと言う生活を続けます。 昭和28年に音楽学校を出たあとは当時人気だったクラリネット奏者でジャズシンガーのレイモンド・コンデが主催するゲイ・セプテットの専属歌手となりました。
独立したのちはテレビ、ラジオのステージでジャズを歌い続け、スイングジャーナル誌の女性ボーカル部門トップの座を保持し続けました。東京中野にマーサ三宅ボーカルハウスを開校したのは、昭和48年、芹洋子さんはじめ大橋純子さん、今陽子さんなど多くのスターを輩出しました。 1993年には歌手生活40周年記念リサイタルマイライフを開催し、文化庁芸術祭賞を受賞、2000年春の紫綬褒章に続き、、2006年春には旭日小綬章を受章しました。 今年の5月に92歳で亡くなりましたが、生前にこう話しています。 「私にとってジャズとは人生でした。 だから夫でもなければ恋人でも親子でもない自分の人生ね。 息絶えるまで歌い続けたい。 」
私は歌が好きで、のど自慢番組とか受けて好成績でした。 1970年からNHKテレビ『歌はともだち』に出て、3年間歌ったり司会をしたりしました。 母はがんで、受かったという事を聞いて亡くなりました。 コマーシャルソングの仕事をすることになり、今迄に700曲ぐらい歌ってきました。 商品名をはっきり言わなければいけないので、そういった癖がついてしまって、棒読みみたいな感じになってしまいました。 レッスンをすることになり、1972年にマーサさんのところに行きました。 「自分のありのままの姿を歌にしたらいいからね。」と言われました。 私の歌を聞いて学びなさいと言う感じでした。 ワイドにものが見れるようになりました。(音楽だけではなくて人間性の面でも学ぶことが出来た。) 歌うのではなく語る感じ。 歌う事よりも雰囲気、ムードを大事のしなさいと言われました。(今迄とは全く違った感じでした。) 褒められたことはたくさんあり、叱られたことはなかったです。 段々と自信もついていきました。 先生のステージを見るとレッスンと時とが全く違う先生がいました。
1974年『愛の国から幸福へ』がヒット、以降『四季の歌』がミリオンセラーを記録、1978年の「第29回NHK紅白歌合戦」(歌は「坊がつる讃歌」)にも出場しました。 『愛の国から幸福へ』がヒットした時にはいろんな結婚式場に行きました。 『四季の歌』では中国の愛唱歌になり北京に行って19回やって来ました。 (1992年、交通事故により外傷性クモ膜下出血となり、意識は回復したものの逆行性健忘を生じ自身が歌手であったことや持ち歌すべての記憶を失う。しかし懸命のリハビリによって歌手として復帰。) 2000年にラジオ深夜便の10周年記念のイメージソング「夢」を歌いました。
継続する事は難しいと思いますが、マーサさんは一途に継続してきたことに対して、尊敬をしています。 自分の道を究めるためには、周りの人の協力が必要だと思います。 マーサさんの周りの方々も凄かたっと思います。 その人の人生を変える言葉と言うものはあるんじゃないかと思います。
マーサ三宅さんへの手紙
「・・・1972年初めてのレッスン、あの時私はとても緊張していました。・・・先生の甘い歌声にその時妙な安ど感を覚えました。 歌う事って、吐く息と吸う息、それに加えて止める息も大切で、その止た息の中に人間性が生きてくるのだと、それからのレッスンで私は学びました。 優しい心そして絹のような柔らかな歌声、マーサ先生にいつも尊敬の念を抱いていました。 今でも私はマーサ三宅さんの大ファンの一人です。 又私のそばで歌って下さい。」