涌井友子(新聞記者) ・94歳 生涯現役新聞記者
涌井さんは1931年生まれの94歳、静岡県藤枝市出身。 激動の戦中戦後、夢であった教師への道を諦め静岡鉄道に勤務、その後東京都中野区で新聞記者をされていた涌井啓権(ひろのり)さんと結婚され1974年に夫婦で地域に寄り添った新聞「週刊東京」を創刊します。 しかし創刊からわずか7年で夫の啓権さんが亡くなりました。 …?が全くないなか、夫の遺志を継ぎ4人の子供を育てながら、たった一人で続けてきた「週刊東京」は去年創刊50年を迎えました。 激動の時代を生き抜いてきた涌井さんの歩みと新聞記者としての思いを伺いました。
元気で50年を迎えられたという事はありがたいです。 東京都中野区を中心に新聞をだしています。 中野区は独りで回るのには面積がちょうどいいです。 発行部数は2000部ぐらいです。 10日と25日付の2回です。 もう1342号になります。 考えの古い家に育って、約束したらやらなければいけない、嘘をついてはいけない、そういことが基本にあります。 新聞のことは全然知らない素人ですが、皆さんに助けられて続けてきました。
子供の頃は父の集めた文庫本などを読みました。 子供の頃に親の発した言葉と言いうのは子供にとっては凄く大事なものだと思います。 成長してから感じます。 5人兄弟の下から2番目です。 母、叔母たちが教員をやっていて、姉二人兄も教員で自分でも教員になりたいと思いました。 学校の2年の時が終戦で、家庭の事情もあり教員にはなれなれず悔しい思いをしました。 教育体制が633に変る狭間で、代用教員になったものの2年過ぎて「もう来なくてもいいよ。」と言われてしまいました。 卒業証書を出した学校と出さなかった学校で教員になる道が分かれて仕舞いました。
終戦の翌年、母が急性リウマチになってしまって、トイレも行けずご飯も食べられないので介護と、炊事洗濯、お風呂から全部しなければいけなくなりました。 母を見送って今度は父が倒れ父の看病をしました。 私が静岡鉄道に勤めることが決まってから父は亡くなりました。(20歳で就職) 務めるようになってそれまでとは180度変わった世界で青春を謳歌しました。 中野区に短歌会がありそこに通っていたら、或るローカル誌に社長から声を掛けられて、自分の部下に引き合わせる作戦で啓権さんと出会いました。 結婚式だけはしましたが、お金がありませんでした。 集金で中野区内を回ってお店の方とかから親切にしてもらいました。 集金していた当時は子供が二人いて何とか保育園に頼み込んで対応しました。 もう会社に来なくてもいいと言われて、主人と二人で「週刊東京」を立ち上げることになりました。 記事を書くことになり、主人が校正をしたりしていました。(ベッドで)
創刊たちあげた7年後に夫が亡くなりました。(私は50歳でした。) その時子供は全員女の子4人でした。(一番下が小学校上がったばっかり) 市役所の広報の方から書き方とか本当に真実のことを書く様に言われました。 作家の水上寛裕(ひろやす)さん植田康夫さんからもいろいろ教わったり、ただで書いてもらったりもしました。 二人とも大宅荘一の弟子です。 大宅壮一の「マスコミ塾」にも通いました。 今は娘も助けてくれています。 大腿部を骨折してからは自転車には乗らないで歩いていきます。 本当に平和という事は有難い事です。 中野区では意見を出し合って、より住みよいところにしていただきたいなあと思います。