永島昭浩(元ヴィッセル神戸選手・スポーツキャスター)・阪神・淡路大震災30年 “復興のシンボル”とは
ヴィッセル神戸は1995年にチームとしての活動を開始、初めての練習が予定されていたのが1月17日(阪神・淡路大震災の日)でした。 震災のあの日に歩み始めた姿は当時復興のシンボルと言われました。 永島さんは神戸市の出身で、1993年のJリーグ開幕当初は国内屈指のフォワードとしてガンバ大阪で活躍し、震災当時は清水エスパルスに在籍していました。 しかし震災で神戸市須磨区の実家が被災、神戸を勇気づけたいと、当時はまだアマチュアリーグに所属していたヴィッセル神戸に加入し、Jリーグ昇格に貢献しました。 引退後は民放のスポーツキャスターとしても活躍された永島さんに当時の記憶、そしてヴィッセル神戸への思いを聞きました。
阪神・淡路大震災から30年、あっという間です。 震災があった当日は静岡にいました。 電話を受けてテレビを見たら、これが現実に起こっているんだという事を確認しました。 実家が神戸市の須磨区にありました。 新幹線で移動中に何百回と電話をかけましたが繋がりませんでした。 車の大渋滞で夜中に須磨区に到着しました。 街灯は消えていましたが、周りは火の海でその光で様子が見えました。 実家にはたどり着けましたが、両親はいませんでした。 避難所で知り合いから、怪我をしているが命は助かったという事は聞くことが出来ました。 一山越えるとコンビニもやっていて、食料を購入して避難所へ持っていく事を何度も繰り返しました。 現実を受け入れなければいけない、冷静さを欠いてはいけないという事、自分には何が出来るかという事を考えました。
清水エスパルスでプレーしていましたが、当時アマチュアのヴィッセル神戸への移籍については迷いはなかったです。 加入当初は大変でした。 練習場がないのでどこかの学校の運動場を借りたり、シャワーもなく自分の手入れもしなくてはいけない。 しかし周りのことを考えると、不満等は一切なかったです。 サッカーだけでなく野球とか、ラグビーも一緒になって神戸で結果的には「頑張れ神戸」というキャッチフレーズが出来ました。 多少なりとも復興のシンボルにという風に思ってもらったことに、責任感は一神戸市民として背負わなければという思いはありました。
練習場の近くには仮設住宅があり、毎日見に来てくれるおじさんがいました。 「頑張ってくれ。」と声を掛けられて、その存在は大きかったです。 2年目にJリーグ昇格を決め、本当に嬉しかったです。 パレードをしましたが、皆さんが大変な中、「おめでとう。」と言ってくれて嬉しかったです。 自分がベストを尽くすことがメッセージだと思ってプレイしました。 もちろん結果を出すこともキャプテンとしても重要でした。
スポーツの良さは喜怒哀楽を全身で出して、人としての感受性を高めることが重要だと思っています。 ヴィッセル神戸が昇格するときにはそのすべてが出来たと思います。 キャスターとして接する中で、分析、考えることができました。 その後、いろいろな被災地へ行って、如何に環境を整えてあげることができるか、そして喜怒哀楽が出るような環境へという風なことをやりました。
ヴィッセル神戸へは3連覇を目指してもらいたい。 アジアのチャンピオンリーグで優勝してもらいたい。 プレイに影響しない範囲で、日常でコミュニケーションが取れる機会を沢山作ってもらえればいいと思います。 人としてのチャンピオンになってもらいたいです。 社会に貢献することも大事なことだと思います。