2024年8月13日火曜日

黒井秋夫(PTSDの日本兵家族会)    ・〔戦争平和インタビューシリーズ〕 親父の苦しみを背負って

黒井秋夫(PTSDの日本兵家族会・寄り添う市民の会」代表)    ・〔戦争平和インタビューシリーズ〕 親父の苦しみを背負って 

終戦から79年、太平洋戦争に出兵した兵士らが苦しんだ心の傷についてです。 戦地のストレスなどによる精神疾患を総称して戦争神経症と言います。 鬱や依存症、暴力などが症状として現れました。 話を伺うのは山形県鶴岡市出身の黒井秋夫さんです。 黒井さんの父、慶次郎さんは20歳で徴兵され、戦後別人のような姿で帰還、黒井さんはその慶次郎さんが戦争による心の傷で苦しんでいたことに、亡くなった後に気付きました。 その気付きをきっかけに戦争から帰還し、PTSDを発症したとされる親などを持つ家族の会を立ち上げ、当事者同士が語り合う場を作ったり、各地で講演を開いたりしています。 黒井秋夫さんの父へ向ける気持ちはどう変化したのか、活動を続ける理由について聞きました。

この狭い6畳の場所は、私が父親の不甲斐ない姿、ちゃんと働けない姿を、戦争の後遺症ですっかり違う人間になってしまったという事に気付けなかった。  父親の姿を本当に気付ける場所、会える場所になっています。 父は明治45年に生まれました。 20歳の時に徴収されて中国の大連に行きました。 主に満州鉄道の守備隊に配属されました。 中国のゲリラから満州鉄道を守る任務が最初の2年間でした。 1934年に除隊になって日本に戻ります。 7年後1941年に又招集されて、軍曹として戦争の最前線で指揮をする立場で終戦を迎えて、捕虜になって1946年6月に帰国しました。 

父親は無口でしゃべらない、笑わない。 決まった定職を持つことが無い。 医者にも母親が付いていかないと一人ではいけない。  私は小学校高学年でしたが、自分は絶対父親の様にはならないと思っていました。  父親との触れ合いはほとんどなかったです。 私は山形大学に進学して、教員になるために歴史を学んで、4年生の時に学生運動を指導したという事で退学処分となって、半年間は父親と工事現場で働くことになりました。  結婚したい人が居るので父親に相談したが、返答は何もありませんでした。  大事なことを相談しても駄目なんだという事は、段々身体で理解してゆく訳です。 

父親は77歳で亡くなりました。(私が39歳) 亡くなった時には一粒の涙も流していません。 葬儀、納骨などを淡々とこなし、前の生活に戻りました。  父が亡くなって26年後、2015年(私が67歳)に転機が訪れました。 世界を3か月かけて旅する船旅に出掛けました。 そこでたまたま見たドキュメンタリー番組をきっかけに、父親の姿を思い起こします。  それはベトナム戦争を戦ったアレン・ネルソンさんという私と同年代のアメリカ軍の兵士のドキュメンタリーでした。  300人以上のベトナム兵士を殺して、そのなかいは子供を抱いた母親を殺したりしたが、それがトラウマとなって精神を壊していって、家族に対して暴力をふるうようになって、今でいうPTSDの生涯となって、自分の人生も家族との関係もすべてなくしてしまった。  彼の悲しそうな顔を見た時に、父親の悲しそうな顔と一瞬にして重なり、雷に打たれたようなショックがありました。 一瞬で父親のことを戦争がそうしたんだと理解しました。 

父親が戦争に行ってどのようなことを体験したのか、というようなことも以前は知ろうとはしなかった。  思いやり、愛情を持てなかったのは、父親に原因があるのではなくて、自分に有ったんだという事に気付きました。  父親のことを理解しようと思いました。  唯一従軍アルバムがありました。 写真には感想が添えられていました。 「昭和維新の先駆者とならねばならぬ。」 「憧れの満洲に第一歩をしるした。」と言ったようなことが書かれていました。  知っている父とは想像することも出来ませんでした。  父親の戦場体験が非常に過酷であった。 いくつかの歴史上の事件の場面に父親は携わっています。 南満州鉄道をゲリラから守る任務についているが、周辺の農村部落を たびたび襲っています。 何のために中国人を殺したのか、自分を責めて、上官などからの命令とはいえ、説明が付けられなかったと思います。 もし戦争に行く前の地とのことを知っていたら、対応は全く違っていたと思います。 

2018年PTSDを発症した家族を持つ当事者で繋がろうと、「PTSDの日本兵家族会」を立ち上げました。 父親に対しての報いという事は第一にありました。  最初,反応はりませんでした。  最初の参加者は13人でした。 段々報道されるようになって、2020年に交流館が出来るんですが、その後に名乗りを上げるようになりました。    症状としては或る4人家族の父親は、普段はおとなしいが酒を飲むと突然母親や子供たちに対して暴力をふるったり、正座させて戦争の話をしたり、突然ガスコンロに火をつけて一緒に死のうと言ったり、包丁を投げてきたりするそうです。 酒を飲んで子供を返せと学校に押しかけて行ったりするそうです。 

戦争が今でも身体、精神のなかに生きている。 戦争が終わっていないという実感を持ちながら生きている大勢の仲間たちが今でもいる。  戦争が原因の病気で、発症して自分の意にそぐわない、気付いた時には子供を殴っていた、という事で、本当は愛情深い父親が居たんだという、そのことに気付くという事が自分を肯定することだし、父親の存在を肯定する事なわけです。  我々世代がその子供たちに対して連鎖をして、その子供たちが閉じこもりになっているという負の連鎖もあると思うので、違う戦争があると私たちは言っています。 

旧日本兵の精神疾患は日本軍によって、その存在が隠されてきました。 黒井さんは明らかにしてほしいと直接国に働き掛けて、今年3月国は太平洋戦争で心の傷を負った兵士について調査を行うと、明らかにしました。  黒井さんは戦争がどれだけ傷跡を残すのか、その悲惨さを改めて知って欲しいと話していました。