2024年4月23日火曜日

若林秀真(鋳物師)           ・天明鋳物、千年の歴史を次世代へ

若林秀真(鋳物師)           ・天明鋳物、千年の歴史を次世代へ 

天明鋳物は栃木県佐野市で生産が始まったとされ、江戸時代にかけて茶の湯の釜や農具、生活用品などが盛んに製作されました。 若林さんはこの1000年以上ある天明鋳物の鋳物師として、日本有数の寺院の鐘などを手掛けてきました。 製作活動と併せて2007年に天明鋳物伝承保存会を設立し、保存や普及の取り組みをしてきたなどが評価されて、今年3月に国の重要有形民俗文化財に指定されました。 先祖から受け継いだ技術や道具を次世代につなげたいという思いを伺いました。

現在製作している天明鋳物の釜です。 大きさが30cmぐらいのコロンとした形で荒れた肌です。 新しい釜で漆を焼き付けています。 お湯を沸かすと「松風」という音が出てきます。 お湯を何回も沸かして臭いを無くしてゆき、肌合いだとか生き生きとしてきます。  もう一つここに室町時代の天明釜があります。 自然と肌が荒れた様な感じになっています。 形が変わっていて二段構えの様になっています。  「尾垂釜」と言って、上半分が室町時代のもので、下の部分が新しく作ったものです。 長く使っているとそこが痛んできます。  尾垂という特殊な方法で今でも使えるように作っています。  信長、秀吉、家康公などが天明の釜を使ったという記録あり、特に秀吉公はよく使ったという事です。 天慶2年(939年)に平将門の乱を鎮めるために、河内の国から藤原秀郷公と共に鋳物師5人を長とする人たちが佐野に住みついたという事が始まりと言われています。 連綿と続いてきています。 今は数軒になってしまっています。 

鋳型を作る為の材料の砂(先祖代々繋がっている砂)があります。 砂をふるいでふるった後に粘土水を加えて、固めて鋳型を作ります。 二つ一組になっていて、茶釜でしたら鋳鉄を溶解して鋳型に流し込みます。 祖父が使っていた炉があります。(高さ5mぐらい) 一回の溶解で2トンぐらい作ります。 燃料は木炭です。 1400℃、1500℃にあげるのは至難の業です。 今はコークスを使っています。 昔は風を送るのにも「たたら」「ふいご」で大変な作業でした。(今は送風機でスイッチ一つですが) 100%うまくいくかどうかわからないが、流し終わった後に鋳型を壊して、作品を取り出し、仕上げの工程に入っていきます。 壊した鋳型は細かくして再利用します。 数週間かけて作った鋳型に数秒で溶解した鋳鉄を流し込むので、そこで作品がうまくいくかどうかが決まります。 最終的には自分の目とか肌感覚になります。 

父親の彦一郎から自然と教わりました。 28歳の時に父が亡くなりました。(10年間の修行)  自分の鋳物の作品を通して、何かほっとすろとか、元気を貰うとか、そういう作品が出来ないものか、と言った事を思っていました。  今でも変わらないです。    奈良東大寺の大仏釜、大原三千院神殿の鐘などにも作品を納めています。 三千院では薬師如来像で、お経を取り込めないものかと思って、鐘の内側に861文字のお経の一部が鋳込まれています。 その技術は最初自分でもよくわからなかった。 完成まで3年かかりました。 作り方はふっとまどろんでいたなかから考えが浮かんできました。 直径1cm程度の粘土キューブ(立方体)を作って、そこに一文字一文字のお経を薄い和紙に写して、粘土キューブ(立方体)の表面に水を付けて貼って、細いヘラで押してゆきます。 へこんだところに鋳物が流れてゆくと出っ張るわけです。 複雑な文字もあるので大変でした。 音と共にお経が広がってくれたらいいなあと思います。 

2007年に天明鋳物伝承保存会を設立しました。 先人が守ってきた技術があってこそ、いま我々が仕事をさせていただけるので感謝しかないです。  父の残してくれた鋳造道具などを含め伝えてゆくためには、どうしたらいいかという事からスタートしました。    今年3月に国の重要有形民俗文化財に指定されました。  最初は従兄弟と二人で始めましたが、現在は150人ぐらい会員がいます。  1556点が指定されました。  家にあったのが1473点でした。 指定してもらう報告書の作成が大変でした。 電子化も必要でした。(ソフトもなかった。)  ボランティアの方々の応援もあって17年間やってこられました。 

小学6年生が鋳型を作って、持ってきた鋳型にスズの溶解を自分で流し込んで作品つくりをしています。 ものを作る人間はものを大切にします。 息子が8年間修業をして、帰ってきて一緒に仕事をしています。 彼の感性のなかで、いろんな場面に出会って、いろんなスイッチを入れて、伝統に、歴史に繋いでいって欲しいと思います。