2024年2月29日木曜日

南 伸坊(イラストレーター)       ・〔私のアート交遊録〕 笑いが一番!

 南 伸坊(イラストレーター)       ・〔私のアート交遊録〕 笑いが一番!

月間漫画「ガロ」の編集長を経て、フリーのイラストレーター、エッセイストとして活躍しています。 前衛芸術家の赤瀬川原平さんや建築史家の藤森照信さんたちと設立した路上観察学会などで培った洞察力、情報収集力を元に旺盛な好奇心で活動を続けています。 おかしみのある文章でも多くのファンのいる伸防さん、絵でも文章でもわらいがないものは書きたくない、読んでいる間だけでも楽しい気分になって貰えれば、世の中に訴えたくと言うのは無いですねと話す伸坊さんです。 美術から笑いや、老いについてまで幅広く発信し、人を楽しませたいという伸坊さんにお話を伺います。 

出来るだけ笑いのあるものを書きたいと思っています。  子供のころからみんなが笑ってくれるのが嬉しかったです。 ラジオからテレビに替わってゆく時代でした。 相撲は物凄く好きになって行きました。  ものをしっかり見るという事は今の私を形作っていると思います。  細かいものが見えてくると楽しいです。 看板とか絵を描いてるというのもずっと見ていました。  人がやっていることを再現したりするのが面白かったです。 

路上観察学会は路上にあるくだらないものに目を付ける。 それを独自の解釈をすると面白いんです。  旅館についている階段を上ってゆくがどこにも行けない。 変なものであるという事は判って、無用になっているものなんだけど、きちんと残っているというものがまだいろいろあるという事に気が付きました。  その階段は四谷に有ったので四谷階段と名付けました。 病院の通用門にアーチ型のひっこんだものがあり、そこが全部コンクリートで覆われていたんです。 後にトマソンというタイトルがついた。

赤瀬川原平さんは美学校時代の先生でもあります。 千円札事件と言うのがあって、本物の束の様に描いて、その事件の裁判でお世話になりました。  講義が凄く面白かった。 宮武 外骨という編集者の人の講義をしてくれました。  路上観察学会の人はみんな似ています。 みんな子供ですね。 発表するのにも如何に面白くやるかという事に気を使います。面白ければいいというのが基本です。 何が面白いんだろうという事を考えるようになりました。 わかっていることを判りなおす時に、笑いと言うものが起こるんじゃないかと思います。  似顔絵をみて笑うんです。 その人なりの或る理解をしているわけです。 自分の持っている情報よりも、出力できる情報が物凄く少ない。 見て判っていることが自分で判って、それが嬉しんじゃないかと思います。  その時に笑いが出てくる。 つまらないという事は、全くわからないか、判り切っていることは面白くない。 

顔で似せると似顔絵よりももっと喜ぶという事を知りました。(小林旭、松田聖子、アラーキー、スティーブ・ジョブズ、由紀さおりなど) 再現するためにその人の顔を良く観ます。 輪郭は物凄く大事ですが。 最近はおじいさんになってきたので段々パーツが減ってきました。  一般の人は必要なものを見ていますが、絵描きさんは不必要なものを物凄く良く観る。  ピカソの絵の模写をすると、今まで気が付かなかったようなことに気が付いてくるんです。   子供は人相書きをすると、凄く似ているものを描くそうです。 モンタージュが以前はありましたが、何故辞めたかと言うと似顔絵の方が似てるからだそうです。 大人は特徴を頭で考えるんです。 子供にいきなり描かせると、その時の印象が絵に出るんでしょうね。  

文章も笑ってもらえると思って書きます。 老後に必要なものは、笑顔と笑顔を共有できる人達です。 口が「へ」の字になって来るのは重力の影響もあると思います。 高校受験、大学受験でも失敗して、段々頑張らないでいい方向に流れて行きました。 お薦めの一点はアルベール・マルケ(日本人が好きな絵だとは思います。)の絵です。  マルケの絵は水のある景色が多いです。 水の質感がいいです。 

















2024年2月28日水曜日

川崎景介(花文化研究家)          ・〔心に花を咲かせて〕 源氏物語が花に託したもの

 川崎景介(花文化研究家)       ・〔心に花を咲かせて〕 源氏物語が花に託したもの

源氏物語には数々の花が登場、木や竹などの植物を合わせると100を越えると言われています。 お花など植物の登場の仕方がいろいろな意味を含むという事ですね。 川崎景介さんは花文化を長く研究して、花を考えるという事で考花学を提唱して学問として広げたいと考えているそうです。 

奈良時代に編纂された万葉集にも植物に関する歌が沢山出てきます。 「萩」が入番多く詠まれていると言われています。 梅などの花も沢山詠まれています。 平安時代になって古今和歌集、新古今和歌集と言った歌集にも花や植物にまつわる歌が沢山出てきます。 源氏物語に沢山出てくるのもその流れをくむものと考えられます。 人々の心情、個性を際立たせるため、知らしめるために植物が重要な役割を果たしたと思っています。 紫式部は生年月日、没年月日も定かでないと言われていますが、源氏物語の作者だという事は判っています。 

桜について光源氏が歌を残しています。  光源氏が熱病に罹って北山に療養に行き、去る時に僧に 歌を送っている。                       

宮人に行きて語らむ山桜風よりさきに来ても見るべく」   光源氏                 (内裏に帰って宮人に語ることにしましょう。山ざくら風が吹いて花が落ちてしまう前に来て見ることができるように)

優曇華(うどんげ)の花待ち得たる心地して深山桜に目こそうつらね」  僧(返歌)

光源氏があまりにも美男子だったので優曇華(うどんげ)という仏典の美しい花にたとえて返しています。

光源氏は義母の藤壺の宮と関係を結んでしまい、不義の子を身ごもらせてしまう。    父親である桐壺帝は自分の子どもだと思っている。 

おほかたに 花の姿を見ましかば 露も心のおかれまじやは」    藤壺の宮       (もしも世間なみに、この美しい花の姿(源氏の君)を見たならば、露ほども心がこだわる事はないのに……(実は、すっかり心がとらわれています)美しい桜だけではなく不倫の愛)

自分の母親である桐壺の更衣は帝の妃の中でも一番身分の低い人ですが、桐壺帝から寵愛を受けた人。 藤壺の宮はこの人に大変よく似ていたと言われる。

光源氏は桜の美しさに例えられることが数回ある。

夕顔、のエピソード。

幼いころお世話になった女性にお見舞いに行く光源氏は、付近に咲いている夕顔の花に気を止める。 小さな女の子が光源氏に扇を手渡すが、そこには歌がしたためられていた。

「心あてそれかとぞ見る白露の光そへたる夕顔の花」

(あて推量ながら、源氏の君かと存じます。白露の光にひとしお美しい夕顔の花、光り輝く夕方のお顔は。)

光源氏は誰であろうかと気になる。

寄りてこそそれかとも見めたそかれにほのぼの見つる花の夕顔」  光源氏(返歌)

近寄ってこそ確実に判別できましょう。あなたが黄昏時に遠くからぼんやりと見た花が夕顔であるかは。―私が光源氏であるかどうかは近寄ってみれば確認できましょう。)

後にこの女性と恋愛をする。 亡くなってしまうが一人の娘を残してゆく。(玉鬘)   後に光源氏の人生に関係を持ってゆく。

植物の名前をはめたことでその人のキャラクターがたってくる。

紅花の名前を冠されたっキャラクターが末摘花という姫君。 没落貴族のお嬢さん。    ひょんなことで光源氏は出会う。 朝日に照らされて姫君の姿が見えてくる。               源氏がこの女性につけたあだ名で、彼女の「鼻が紅い」こととベニバナの「花が紅い」ことをかけたものである。  光源氏は生涯末摘花を大切にする。

撫子は美しい女性、魅力的な女性を意味するが、男女関係なく子供のことを表していたというような歌が残されている。  光源氏は「葵の上」と結婚するが、「葵の上」とは馴染めずに、それが源氏が多くの女性との浮名を流すという事にも関係しているとも言われている。 「葵の上」は子供を身ごもって病にかかって子供を産み落として亡くなってしまう。 「葵の上」の母親に慰めの歌を送った。                       「草枯れの 籬(まがきに残る 撫子を別れし秋の 形見とぞ見る」                                 (草の枯れた垣根に咲き残っている撫子の花を秋に死に別れたお方の形見のように思って見ています。)

撫子は後に立派な夕霧と言う若者に成長する。 「別れし秋」は「葵の上」のこと。

今も見て なかなか袖を 濡らすかな 垣(かき)ほあれにし やまと撫子」 「葵の上」の母親の返歌                                    (今もこの子を目にしながら涙がとまらずに、濡れた袖を朽ちさせてしまうのではないかとかえって・・・。荒れてしまった垣根の中に咲く大和撫子のようで、愛しくも不憫で)

朝顔も印象的に使われています。 六条御息所は光源氏の最も早い恋人の一人。 次から次へと恋人が出来るので、過ごす時間も少なくなっていってしまった。 久しぶりの訪れた光源氏は朝の光のなかで輝く彼女の姿を見て、やっぱり綺麗な人だなと思う。  朝顔の花を見て、六条御息所に歌を送る。

「咲く花のごとく美しい人よ 浮名のたつのは秘めたいがどうして摘まずにいられよう この今朝の朝顔を」

朝霧の晴れ間も待たぬけしきにて花に心をとめぬとぞみる」 六条御息所の返歌     (朝霧の晴れる間も待たないでお帰りになるご様子なので朝顔の花に心を止めていないものと思われます。)

朝顔は大陸から薬として種がもたらされたが、垣根などに咲いていたようです。 

六条御息所は夜な夜な自分の生霊を、源氏ゆかりの姫君たちを苦しめていた。(嫉妬心)  六条御息所の身にはけしの香りがする。  けしのお香は悪霊大安のために使われていたお香なんです。 それで悟る。

六条御息所が住んでいた六条院を譲り受け、改装してゆかりの姫君らを住まわせ、ちなんだ季節の庭をそれぞれ与えた。 紫の上(正妻格)には春の庭、御用松,紅梅、桜、藤、山吹、躑躅などを植える。  夏の庭には花散里と言う女性(若いころからの恋人関係)控えめで、優しく教養深い。 橘、撫子、薔薇など。 秋の庭、六条御息所の遺児、秋好中宮の実家とする。 紅葉、秋を彩る花が咲いていた。 冬の庭、明石の君 竹、松、菊,ならなどが植えられる。 明石入道から娘を嫁にと言われる。 

末遠き二葉の松に引き別れいつか高きかげを見るべき 」  明石の君                  (二葉の松のような幼い姫君と別れいつか影を作るほど高くなったその木を拝むことができるだろうか、私は。)

生ひそめし根も深ければ武隈の 松に小松の千代をならべむ」    光源氏返歌          (私たちと深い根でつながった子だからあの武隈に生えた松と小松の様に並んで立つ日も来るだろう。) 武隈は松の名所として知られた風光明媚な地。

紫式部は源氏物語を通して当時の社会の生きずらさ、特に女性たち、自由が利かない、好きな人とお付き合いすることもままならない。 男たちも官職、身分で行動が制限されている。 そういったことに対する切なさ、悲しさ、むなしさなどを巧みに込めているのではないか。  













2024年2月27日火曜日

星加ルミ子(音楽評論家)         ・ビートルズが遺したもの

 星加ルミ子(音楽評論家・元音楽雑誌編集長 )    ・ビートルズが遺したもの

1962年にデビューしてから解散するまでの8年間に数々の名曲を発表しました。 レコードCDの売り上げが10億枚以上と今も世界の音楽史シーンに絶大な影響を与えています。   今年がイギリス出身のビートルズが1964年にアメリカに進出して60年に当たります。   去年11月には27年振りにビートルズの最後の新曲としてナウ・アンド・ゼン」(原題: Now and Then)が発表され注目を集めました。 この曲はなくなったジョン・レノンさんが生前にテープに残した曲の音源にAIなどを活用し、メンバーのポール・マッカートニーさんやリンゴ・スターさんが新たに演奏を加えるなどして、完成させたものです。 今日は1965年に日本人で初めてビートルズの単独インタビューに成功し、それ以来親交を深めてきた音楽専門誌「ミュージックライフ」の元編集長で音楽評論家の星加ルミ子さんにお話を伺います。

ビートルズはオリジナル曲216曲世の中に出しています。 どの曲を聞いても無駄な曲が無いんです。 ビートルズは今後伝承されてゆくミュージシャンの一人であろうと思います。

星加ルミ子さんは1940年北海道生まれ、中学、高校時代を青森県八戸市で過ごしました。  その後東京の東洋女子短期大学英文科を卒業、新興楽譜出版社(現・シンコーミュージック)に入社。 1965年音楽専門誌のミュージック・ライフ』の編集帳に就任。 イギリスで日本人ジャーナリストとして、初めてビートルズの単独インタビューに成功。   1975年に退社後はフリーの音楽評論家として活動しています。 

着物を着て、伺って入っていったら、最初に飛んできたのはジョージ・ハリスンでした。  私の帯に触って「なんでこんなに太いベルトをしているの。何でこんなに長いスリーブなの」、と聞きました。 他の3人も来て、ジャパンなんていったことがないなあと言っていました。 話のきっかけを作ってくれたのは着物でした。 当時彼らは24,5歳で私も24歳で同じような年ごろでした。 一人一人に対しての質問状を持っていきました。 ポールが一人づつ配ってくれて、たわいもない質問なので気さくな感じで面白がって答えてくれました。  凄く打ち解けてくれました。  年も同じぐらいの若い女性だし、片言の英語しか喋れないので警戒心を解いてくれたよいうです。 30分だけと言われましたが、結局3時間いました。 ジョン・レノンがお世辞ではなく日本に行きたいと言っていました。  

日本に行ったら相撲レスラーに会いたいというんです。 翌年来るとは夢にも思っていませんでした。  相撲から思い出して、4人の手形を貰ってそこにサインをしてもらいました。  6月29日から7月3日までの僅か103時間の日本での滞在でした。 高速道路を閉鎖して、空港からホテルまで10数分で行ったそうです。 ホテルから武道館までも同様でした。 ホテルも武道館も若い女の子が一杯でした。 警備員が8000人担当したと言われています。 失神してしまった女の子もいて、救急車が何台も来ました。 ビートルズの人気は世界的なものでした。 武道館では11曲歌って35分でした。 それを5回やりました。 絶叫だらけで音も聞こえないような状況でした。 有名人も来ていました。 

1時間ぐらいインタビューをしました。 お土産屋が一杯あるんですが、彼らは日本製のカメラを買っていました。  ジョン・レノンが日本の子どもたちは今一番何が人気があるのかと聞いて来たので、思いつかなくて「シェー」(おそ松君の)と言うのが流行っていると言ったら、面白がってやってくれました。(写真がある。) 

8月一杯14都市でアメリカでコンサートを行いました。 結果的にはビートルズの最後のライブになりました。 私は6都市でコンサートを見ました。 どこも11曲35分間のコンサートでした。  日本では最後の曲が「-I'm In Love (Demo)」でしたが、アメリカではロング・トール・サリーに皆で決めたと言っていました。 ニューヨークのシェア・スタジアムは何万人もはいれて3階までいっぱいで、少しでも近づこうと人が降って来るんです。 吃驚しましたが、下にセーフティーネットが設置されていました。 失神する子が大分いました。

*「ヘイ・ジュード」  ポール・マッカートニーによって書かれた楽曲

私の一番好きな曲です。 1967年にはロンドンのビートルズのレコ―ディングにも立ち会う事になります。  8月にビートルズを育てたブライアン・エプスタインというマネージャーが不慮の事故で突然亡くなってしまいます。 そういったことを口実に会えなのか交渉したら、レコーディングをしているから来ないかと言われ行きました。  普通レコーディングしているところなどは絶対いれてくれません。 2時間以上いました。 

1970年にビートルズが解散。 いろいろ泥臭いことがあったようです。 1980年12月8日にジョン・レノンが撃たれる。 吃驚しました。  最初聞いた時にはそんなに思っていませんでしたが、4枚目のヘルプ!』(Help!)を聞いて、凄い曲を作っている連中だと思いました。(何言ってるんだ今頃と馬鹿にされました。)  いい時代に接したと幸運に思っています。 






























2024年2月26日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)          ・〔絶望名言〕 ~二十四の瞳から~

頭木弘樹(文学紹介者)          ・〔絶望名言〕 ~二十四の瞳から~ 

二十四の瞳」は作家壺井 が1952年(昭和27年)に発表した作品で1954年に木下監督高峰秀子主演で映画化され大ヒットしています。 

「幼い子供等は麦飯を食べて生き生きと育った。 前途に何が待ち構えているかを知らず、ただ成長することが嬉しかった。」  (「二十四の瞳」)

代表作には「二十四の瞳」のほかに、『母のない子と子のない母と』、『柿の木のある家』などがあります。 1899年(明治32年)生まれ。壺井 栄は祖母から昔話、子守り歌などたくさん聞いて育った。 素直な文章で朗読には向いている。 「下積みの人たちが激しい生活の中に秘めている深い怒りや悲しみを、その人たちにも読まれるように書くことが深淵になっている。」と言っています。 壺井 栄自身も大変な貧乏、病気で苦労しています。 

「二十四の瞳」は小さな島の岬の分教場に新任の若い女性の先生がやって来て、1年生の12人の子供との交流を描いた作品です。 壺井 栄も小豆島出身です。 山、川、海があり温暖で日本で最初にオリーブを栽培したところです。 昭和3年から昭和21年までが」描かれている。 

「幼い子供等は麦飯を食べて生き生きと育った。 前途に何が待ち構えているかを知らず、ただ成長することが嬉しかった。」      (「二十四の瞳」)                    この言葉は読み終わってから見ると非常に胸に応えます。 

「女子のくせに自転車に乗ったりして。」    (「二十四の瞳」)           先生が自転車に乗ってやって来る。 生徒の言葉です。  今では当たり前のことですが。 規範から逸脱することが気に食わない。   大石先生の自転車以来、女の自転車もようやく流行り出してくる、という事になってゆく。   

「生意気と言われてけなされた彼女の洋服や自転車は、それがきっかけとなって流行り出し、今では自転車に乗れぬ女は無いほどだ。 だが20年近い歳月はもう誰も若い日の彼女を覚えたはいまい。」                                    ルールからはみ出して決まりを破って、それでようやく世の中が変わってゆくわけです。  でもその最初の人は非難されてしまう。  世の中が変わった時には忘れられてしまう。

「戦争は自転車迄も国民の生活から奪い去って、敗戦後半年の今、自転車は買うに買えなかった。」                                         

「私は女に産まれて残念です。 私が男の子でないのでお父さんは」いつも悔やみます。」 これは紫式部も言っています。  長い間女性は嘆かなければならなかった。 

「選挙の規則が改まって、普通選挙法というのが生まれ、2月に第一回の選挙が行われた。 2か月後のことになる。」 (「二十四の瞳」の冒頭の文章)                      昭和3年2月20日の第一回普通選挙、満20歳以上のすべての男性に選挙権が与えられた。 女性には選挙権がなかった。 女性に選挙権が与えられたのが昭和21年4月10日の選挙です。(戦後)   

「泣きたいときはいつでも先生のところにいらっしゃい。 先生も一緒に泣いてあげる。」                       (「二十四の瞳」)                                 1954年には映画が公開された。「七人の侍」「ゴジラ」(第一作目)も公開された。       木下恵介監督は原作を重視する監督でした。  戦争の影響はまず不況と言う形でやって来る。 貧しい村です親が娘を売るようなことが起きてくる。 大石先生の生徒も売られてしまう。 

「今日の一家の命を繋ぐために、冨士子は売り払われたのだ。」 (「二十四の瞳」)  この時に大石先生がかけてあげた言葉が、「泣きたいときはいつでも先生のところにいらっしゃい。 先生も一緒に泣いてあげる。」でした。 不幸は人を孤独にさせる。     孤独だけでも癒してもらえればどれだけ助かるか。 人生にはどうしようもないこともある。 そういう時には泣くことが物凄く大切です。

「沖縄の惨劇にも広島、長崎の原爆にも渦中にいなかった日本人は他人事の様に涙を流さなかった。 涙が足りなかったのである。 それほどざらざらした世相だった。」山下恵介監督   

*「故郷」   作詞:高野辰之  作曲:岡野貞一                 

 「うさぎおいしかのやま・・・」とあるが、当時日露戦争で子供たちにうさぎを取らせて、その毛皮を寒い戦地に送るためにやっていたといことです。 そうすると大分印象が違います。 

「病気になっても村に医者はいなかった。 良く効く薬もなかった。 医者も薬も戦争に行っていたのだ。 おばあさんが亡くなった時には村の善宝寺?さんまでが出征して留守だった。」   (「二十四の瞳」)                         

成長した生徒たちは徴兵されて戦場に行きます。 戦死したり障害者になったりする。 

大石先生にも子が出来るが青い柿の実を食べてなくなる。              「近年村の柿の木も栗の木も熟れるまで実が成っていることがなかった。 みんな待ち切れなかったのだ。  子供等はいつも野に出て「つばな(茅花)」を食べ「いたどり(虎杖)」を食べ「すいば(酸葉、蓚)をかじった。 土の付いたサツマイモを生で食べた。」  

子供の御棺を作るのにも木材がなく古いタンスを利用して作る。

「一家そろっているという事が子供に肩身の狭い思いをさせる程、どの家庭も破壊されていたのである。」   (「二十四の瞳」)         学徒は動員され、女子供も勤労奉仕に出る。  それが国民生活だと大吉たちは信じた。  戦争で亡くなった家には門のところに門標が飾ってあって、それは名誉なことされた。 それが戦後になると隠すようになる。  大石先生の夫も戦争で亡くなり、母子家庭となるが就職が不利になる。   

「自分だけではないという事で、人間の生活は壊されても良いというのだろうか。」  (「二十四の瞳」)                                皆が大変だから大変でいいのか、我慢していいのかという問いかけです。     

「一切の人間らしさを犠牲にして人々は生き、そして死んでいった。 驚きに見張った眼はなかなかに閉じられず、閉じればまなじりを流れて止まぬ涙を隠して、何者かに追い回されているような毎日だった。」 

大石先生の生徒の磯吉が目が見えなくなって戦争から帰って来るが、「死んだ方がましだ。」という。  「死にたいという事は生きる道が他にないという事よ。 可哀そうに、そう思わないの。」とたしなめる、 

子供のころに大石先生やみんなと撮った写真があり、目の見えない磯吉はそれを手に持っていて、いう。 「それでもな。 この写真は見えるんじゃ。 な、ほら真ん中のこれが先生じゃろ。そして・・・。」 

木木下恵介監督は長期ロケをして撮影したフィルムは10万フィートとなり、完成フィルもはや約1万4000フィート(7倍以上)、普通は2倍程度。

何故そんなに自然の美しさをフィルムに捉えようとしたのか、それを語っている言葉。

「悠久の天地、自然のなかで、なぜ人間はおろかな戦争を始めるのであろうか。 何故いじらしい命を捨てさせるのであろうか。」   (「二十四の瞳」)















2024年2月25日日曜日

阪哲朗(指揮者)             ・〔夜明けのオペラ〕  更なるオペラの発展に向かって

阪哲朗(指揮者)         ・〔夜明けのオペラ〕  更なるオペラの発展に向かって 

去年琵琶湖ホールの芸術監督に就任、山形交響楽団の常任指揮者として6年目を迎える阪哲朗さんに話を伺います。 阪哲朗さんは京都市立芸術大学作曲科を卒業後ウィーン国立音楽大学指揮科にてK.エステルライヒャー、L.ハーガー、湯浅勇治の各氏に師事、1995年第44回ブザンソン国際指揮者コンクール優勝。 ドイツ、スイス、オーストリア、イタリアなどヨーロッパの歌劇場に招かれ成功を納めます。 2008年、2009年にかけての年末年始にはウィーンフォルクスオーパー歌劇場で「こうもり」を指揮し、絶賛を浴びました。 ヨーロッパ歌劇場で指揮した公演数は25年間で1000回を越えました。 2017年にドイツから帰国、山形交響楽団の常任指揮者に就任、2020年京都府文化賞功労賞を受賞、2022年と2023年のNHKニューイヤーオペラコンサートの指揮も務めています。

指揮するだけではなく、各団体の楽譜を作ったりもしています。 小さい時から音楽は好きでした。 ピアノは4歳から始めました。 両親の出身は山形でしたが京都に住んでいました。 高校は普通の高校で野球部でした。 合唱部にもいました。 野球部で指を故障して合唱部に行く回数も増え、2年氏の時に先生から指揮者をやるように言われました。 京都市立芸術大学作曲科に入りました。 指揮をするのが好きで行動していたら、先生方が会議をして指揮者として卒業させるという方針になりました。 ミュージカルが流行って舞台芸術に触れたことが大きかったです。 オペラに興味を持って、学外の関西の音楽団体のところへピアノを弾きに行ったり、練習の指揮をしに行ったりしました。  大学の4年の学園祭で「こうもり」を上演しました。 男性が少なくて美術の人を動員して苦労しました。 

「こうもり」 作曲:ヨハンシュトラウス2世 頭の部分

ウィーン国立音楽大学指揮科に留学しました。(2年間)  24歳からオペラの現場に行くことになり、そちらの方が面白くてずっといることになりました。 オペラはシンフォニーとかとは違って実験的なものをやり過ぎるとお客はついてこないので、興業として成り立たないと忘れ去られてしまう。 オペラは演劇がもとにあってBGMの様に音楽があって、歌ってみようかという事で歌が入ってとか、芝居の延長線上であると思っています。 お客の集中力のコントロールを音楽でやっていて、聞いて欲しいところ、ぬいてもいいところがあります。(4、5時間のものもあるので) 

1995年第44回ブザンソン国際指揮者コンクール優勝した時は27歳でした。 このコンクールは小澤さんが優勝して有名になりましたが、ドイツでは知られていないですね。    2017年に帰国、山形交響楽団の常任指揮者に就任。  「ばらの騎士」は今稽古が始まっている最中です。 琵琶湖ホールでは「ウイーンの風」といタイトルで「フィガロの結婚」、「こうもり」もやり、その集大成がばらの騎士」です。

ばらの騎士」から「三重唱」 作曲:リヒャルト・シュトラウス













2024年2月24日土曜日

吉野隆子(オーガニックファーマーズ名古屋)・〔わたしの人生手帖〕

 吉野隆子(オーガニックファーマーズ名古屋)・〔わたしの人生手帖〕

名古屋市の中心で20年間毎週土曜日の朝、全国でも最大規模の有機農産物の朝市が開かれています。 農家の高齢化に伴って後継者の問題が深刻な課題になっていますけれども、期待が寄せられているのが農業と縁のなかった人たちが新しく農業を始める新規の農家です。 この朝市はそうした人たちが農業を始めるまでをサポートし、有機の野菜を売る場を確保するとともに消費者と生産者との交流の場となっています。 朝市を運営する(オーガニックファーマーズ名古屋代表の吉野隆子さんです。 吉野さんは大学卒業後大手商社に勤務、夫の転勤に伴って名古屋で2004年オーガニックファーマーズ名古屋を立ち上げ実績を上げてきました。  去年には全国農業推進協議会副理事長に就任しています。  今日は新しくく農業を始める人たちを応援し続ける吉野隆子さんのこれまでの人生を伺います。

朝市では今はほうれん草,なばな、キャベツ、大根、ニンジンなどいろんな色どりの野菜が揃います。 焼き芋、焼き菓子もあります。 オーガニックの物ばかりです。 運営側が受け取っている手数料が安くて、机一つに並べる形で4000円でやっています。 3年目までは2000円でやっています。 朝8時30分から11時30分までです。 当日の運営をボランティアが手伝ってくれています。(子供と大学生)   ずっと独りでやって来ましたが、去年一人アルバイトでやってもらっています。 3時間の間の300人から500人ぐらいのお客さんが来ます。 出店は農家ではなかった人が多いです。(企業を退社とか)  

高校生の時に貧血が酷くて頻繁に立ち眩みがあって、起立性低血圧と言われて、「治らないので一生付き合いなさい。」と言うことを言われました。  でも出会ったのが、玄米食事療法でした。(玄米と野菜を中心にした食事療法) 有機野菜を食べなさいと言う指導を受けてはじめました。 弁当も玄米でこそこそ食べていました。  1年ですっかり良くなりました。 子供の本に興味があって子供の本の仕事をしたいと思っていましたが、出版社は全く募集はしていなくて、商社に行きました。(事務職)  結婚を機に会社を辞めることになりました。 夫の転勤で名古屋に来ました。 新聞で野菜の宅配があるという事を知りました。 会員になって1年後にスタッフにならないかという事を言われ、行くことになり畑などに行くようになりました。 有機農業の面白さを自覚するようになり、はまってしまいました。 夫が東京に転勤になり、東京農業大学に学士入学しました。(3年生に編入) 2年間フルに授業を受けました。 

同じゼミの人が有機農業の団体の事務局をしていて、手伝ってほしいと言われて手伝っていました。 その人が就職して山形の方に行ってしまうという事で、泣きつかれてやることになりました。 その幹事会に出ると知らない事ばかりでした。  有機農業をやりたい人が一杯いるが、辞めて行ってしまう。 辞める理由は販路がないからという事でした。(40代初め頃)  

スタートが2004年で20周年を迎えます。 朝市をやろうと言い出したのは市役所の方で、立ち上げから手伝う事になりました。  出店したいというとその家の田んぼ、畑を確認に行っています。 農家の人に一緒にいてもらうので、判らないことがあるとその人に聞いてもらう、相談してもらう機会として、畑に行く作業があり、これを大事に思っています。 一番の問題点は安売り合戦になってしまうという事です。 注意をして辞めなければ出店をご遠慮させてもらいます。(今までに3人ぐらいいます。)  お客さんと出店農家、出店農家同士の会話が凄く多いです。  誰がどんなものを持ってくるか、ホームページを見ていただくと直ぐわかります。 

朝市村が県の研修機関になっていて、そのうちの何軒かは受け入れ機関になっています。  新規就農したいという相談が来るようになって、サポートできる体制を作って行くことが大事だと思いました。(2009年) 「笑顔の種まき」というキャッチフレーズがあります。 岐阜県の白川町で相談に来た人が8人いて、農業に加えて林業とか観光とか相まって地域の活性化にもつながってきています。  ここまで続けてこられたのは農家に対する尊敬と感謝だと思っています。  今一番やらなければいけないことは経済的な部分をきちんとして、次の人を作らなければいけないという事ですが、なかなか難しいところです。 お金は出店料だけで補助金はなしでやっています。 ボランティアの人への交通費の支払いもあります。 経済的なところを何とか成り立たせたいという事が一番です。












2024年2月23日金曜日

小宮位之(無料塾理事長)         ・〔ことばの贈りもの〕 貧困家庭だからこそできた無料塾      

 小宮位之(無料塾理事長)    ・〔ことばの贈りもの〕 貧困家庭だからこそできた無料塾

小宮さんは46歳、2012年に35歳で無料の塾「八王子つばめ塾」を設立しました。  主に中学生を対象に教えていて、設立以来300人を越える卒業生を送り出しています。    無料で塾を運営している小宮さんに伺います。

2012年に35歳で無料の塾「八王子つばめ塾」を設立しました。 公民館とか賃料の安いところで週1,2回で教える人もボランティアでやっています。(人件費は掛からない。)   ボランティアで育った子供たちはいつかボランティアのフィールドに戻ってきてもらいたいと言う願いを込めて「八王子つばめ塾」としました。  関東圏ですとどんなに安い塾でも月に2,3万円は掛かるると思います。 2,3人となると大変ですので。 対象は中学2,3年生です。 コロナ禍の前は70人ぐらいいましたが、今は25人ぐらいが学んでいます。 4か所で運営していて、週に2回は来れるようにしています。 

公民館代は掛かるので寄付金で賄っています。(国、都とか行政からは貰っていません。)  講師の方はとても思いのある方が多くて、子供のため、社会のために自分の能力を生かしたいという事で、会社の後に、7時から始まる「八王子つばめ塾」に約40人ぐらい来てくれます。 『「無料塾」と言う生き方』と言う本を出版しました。 副題は「教えているのは、希望」 「八王子つばめ塾」は食糧支援、独自の奨学金をだしたりしています。   勉強だけではなく生活もちょっと支えるようにしています。         入塾の条件は①経済的に家庭が困難であること。 ②他の塾に通っていない事。 ③勉強したいという気持ちが本人にある事。  教えたい、教わりたいという気持ちがないと成り立ちません。 普段は英語と数学です。 

父はテレビドラマの制作をしていて、年収が150万円ぐらいで厳しい家庭に育ちました。 貧乏だけれど楽しい家庭ではありました。 中学、高校になるとうちは本当にお金がないんだなと感じました。  大学受験の勉強をしている時に、「今家にはお金が800円しかない。」と言う会話が聞こえてきました。 「給料は後20日後」と聞こえて、ショックで1時間ぐらい走ったことがあります。 一人っ子です。 高校3年生の或る時点でお金が払えないので高校を辞めて働く様に父から言われましたが、奨学金制度を利用して、繋ぎました。 大学には大反対でした。 母方の祖父母に何とか援助してもらって大学には行くことができました。(國學院大學文学部) 教科書が高くて買えなくて教科書を持たずに一か月ぐらい通っていました。 奨学金、アルバイトなどで賄っていきました。  

2000年に卒業しました。 教員になる予定でしたが、就職氷河期でほぼ教員を採用しない時代でした。 社会の先生が184倍でした。 私立高校の非常勤講師になり4年ほど勤めました。  ビデオカメラマンの仕事に転職しました。 アフリカのウガンダ、レバノンに行ったのが思い出深いです。 ウガンダは少年兵士のインタビューをしました。 レバノンではパレスチナ戦争でレバノンに逃げて来た子たちの子孫の難民の方たちのインタビューとかしました。 自分の人生にも大きな影響を及ぼしました。 目に見える現実が余りにも厳しくて毎晩泣いていました。 そのうち世の中をちょっとでもよくする人材を育てたいと思いました。(26歳) これが無料塾を作る為の源泉になっていると思います。 

東日本大震災の10日後、仙台にビデオカメラを持たされてボランティアかたがた派遣されました。 一週間ほどいて戻って来て、このままでいいのかと思った時に、「八王子つばめ塾」の転機が訪れました。(勉強のボランティア)  検索したら、ようやく「国分寺無料塾」と言うのが出てきました。 この内容に心から感動しました。 2012年9月に義母の持っている建物の一部を借りて、「八王子つばめ塾」が誕生しました。 生徒が初めて入塾したいとか、講師をやりたいというメールが来た時には、自分の気持ちが伝ったような気がして、本当に嬉しかったです。 最初は無料という事で怪しまれるようなこともありました。 口込みで段々信用を得られました。 妻と子供が3人います。 高校生の子は「つばめ塾」を経験しており、後二人も入れる予定です。 妻からは理解、応援してもらっています。 高校、大学の非常勤講師と病院のアルバイトなどをしながら暮らしています。 始めて3年後ぐらいから塾としては安定してきました。 行政から支援を受けると、自分たちのやりたいことが制約されてしまうので、独自のやり方をやっています。

都立高校の受験者がほとんどです。 卒業生は302名になります。 後輩を導いていってくれたら素敵だと思います。  40ぐらいが「つばめ塾」をお手本にしてやってくださってる人が居ます。  お金が無いんだけれど勉強したい、高校、大学に行きたいという人に希望を与えるように全国に広げていきたいと思います。 子供たちの役に立つ人間になりたいと思っています。













2024年2月22日木曜日

熊谷博子(映画監督)           ・〔わたし終いの極意〕 「いのち」を撮り続けて

熊谷博子(映画監督)         ・〔わたし終いの極意〕 「いのち」を撮り続けて 

熊谷さんは東京都出身、長く日本の炭鉱に関わる人たちの姿を追う続けてきました。   2013年にNHKで放送したETV特集「三池を抱きしめる女たち」では、戦後最悪とされた炭鉱事故に遭い変り果てた夫を抱えながら、半世紀以上も世の中と戦い続ける妻たちを描き、放送文化基金最優秀賞などを受賞しています。 この3月から公開される最新作「かづゑ的」ではハンセン病回復者の宮崎かづゑさんの日常を8年に渡って丹念に記録しました。 

宮崎かづゑさんは瀬戸内海にある国立ハンセン病療養所の長嶋愛生園と言うところがありますが、20歳から入所して、最近96歳になりましたから、85年以上そちらで暮らしています。 個性的、魅力的な人です。  後遺症で指が10本無くて、右足はひざ下から切断していて足の先が無いんですが、一緒にいるとそれを全く感じさせないです。  知識が豊富で何でこんな広い世界を持っている方なのかと思いました。 口癖が「出来るんよ、やろうと思えば。」といっています。  78歳にしてパソコンを覚え、84歳で初めての本「長い道」を出版して、それが心打たれる本です。  フォークの先に皮を付けて指の先にしたものを作ってもらって、フォークの柄を曲げて手の平に挟んで打つ道具を自分で考えてパソコンを打ったんです。  

10年ほど前に、私の知り合いからどうしても会ってほしいという人が居て、長嶋愛生園迄連れて行かれました。 「長い道」を読んで心打たれました。 話をしてこの人を撮って記録しなければいけないと、その場で思いました。 8年間かかって撮りました。 これまで本は出しましたが、ハンセン病に関する取材には一切応じてくれませんでした。 可哀そうなハンセン病患者と言う目線で見ることに憤りがあった。 私はハンセン病に関してはまっさらな状態だったので、かづゑさんから「あの人ならいいわよ。」と即刻の返事でした。 「ありのままの状態を見せて欲しい、それを残したい。」とかづゑさんは言いました。 「お風呂も取って欲しい。」と言われ、「病気のことは私の身体を見ないと判らないでしょう。」と言われました。 「真実は表も裏も撮ることが、訴える力が強いです。」と言われました。  2日目にお風呂のシーンを撮りました。 お互いがその場で覚悟が決まりました。 

製作日程は全く決まっていませんでした。 泣いて笑って勇気の出るハンセン病の映画が出来たと思います。 幼いころのかづゑさんは重症で、軽い患者さんからいじめを受けたり、成長した時に大人の方から侮蔑の言葉を言われたりして、差別の本質にあるものだと思います。  かづゑさんがどうそれを乗り越えてきたのかと言うと、それは家族の愛、家族から愛された思いが詰まっている。 かづゑさんには心と身体に愛情の貯金がたっぷりあったんです。  或る時死にたいと思った時に、母親が来ると思ったらそれはとてもできなかった。それと別の世界に逃げ込む、それが読書でした。  その二つで何とか自分を保つことが出来た。 膨大な読書量が今のかづゑさんを助けている。  人が生き抜いていくための普遍的なものを描いたつもりです。「かづゑ的」と付けたのは独自の物なんですね。 誰でも真似できない生き方で、「かづゑ的」な生き方なんですね。 

熊谷さんは1951年東京生まれ。 小さいころは好奇心が旺盛でした。 小学校の図書館の本とか中学の本で触発されて、自分では新聞記者になろうと決めました。 高校の時には飛び板飛び込みと高飛び込みをやりました。 その感覚は生きていてとりあえずは飛びこむ、やってみる。 (かづゑさんに対しても、とりあえず飛び込んで行きました。) 大学卒後番組制作会社でディレクターとして仕事をしました。 たまたまドキュメンタリーの仕事に関わりました。 その後フリーの映像ジャーナリストになり、アフガニスタン、筑豊、三池とか炭鉱を舞台にした人たちを追い続けました。 

炭鉱は命が失われて行った場所ですが、1988年にアフガニスタンに半年行って、私自身にロケット弾が間近に落ちたことがって、たまたま私は無傷でした。 他にも人が亡くなる場面を眼にして、人が亡くなるという事に麻痺し始めて、阪神淡路大震災を撮った時に、人の死に対して無自覚であったという事に気が付きました。 

私は「終う」という感覚が全くないです。 先生から「君、人生何事においても遅すぎるという事は無いんだよ。」と言われました。  いつも心に中に思っています。 宮崎かづゑさんが水彩画を始めたという事ですが、引き出しにパレット、絵筆、絵具が用意されていて、包帯を手に巻いてそこに絵筆を指して、描くんです。




























 







2024年2月21日水曜日

青柳 徹(日本体育大学教授)        ・スピードスケート、オールラウンダーへの道

 青柳 徹(日本体育大学スポーツマネイジメント学部教授) ・〔スポーツ明日への伝言〕スピードスケート、オールラウンダーへの道

青柳さんは距離の違う4つの種目の総合成績を競うスピードスケート全日本選手権で男子史上最長の6連覇を果たし、オリンピックには冬のオリンピックに4大会連続出場するなど、日本のスピードスケートの特に中長距離のエースとして活躍してきました。 選手引退後は海外への留学を挟んで、指導者の道を歩み、現在世界最高のオールラウンダーとして、ワールドカップなどで活躍する女子の高木美帆選手の恩師としても知られています。

スピードスケートは一番短いので500m、一番最長では男子では10000m、女子では5000mがあります。 オールラウンダーとしての競技方法としては、男子が500m、1000m、1500m、5000m、10000m、女子は500m、1000m、1500m、3000m、5000mこの4距離の総合を争うものです。 歴史的にみても100年以上の歴史があります。 どちらかと言うとミドル系の能力という感じです。 10000mで13分前後、女子の5000mで7分ぐらいです。    1980年アメリカのレイクプラシッドのオリンピックでエリック・ハイデン選手が全部金メダル(5つ)を取る。  僕の一番の憧れの選手でした。

北海道釧路市出身、釧路短期大学附属高等学校を経て日本体育大学体育学部体育学科を卒業。 その後東芝に所属、筑波大学大学院、オランダ留学を経て日本体育大学で研究と指導に当たる。 小学校のころはスケートを行っていた子は1000人ぐらいはいました。(人口の割にはかなり多かった。) 夏は野球かサッカー、冬はスピードスケートかアイスホッケーを子供たちは選んでいました。  小学校4年生から本格的に開始しました。 中学の時に親友が転校してスケートから遠のいたことがありましたが、先生に能力を買われて説得されました。 挑戦するワクワク感、緊張感が好きです。 探究心は強みであると自分自身感じています。 考えたら直ぐ行動するというタイプです。 失敗しなければ、次の成功にはつながらない。 

オリンピックに出たいと意識し始めたのは高校3年生の時です。 全日本選手権に出場して、優勝出来ました。(18歳)  1988年カルガリーオリンピックに19歳で出場。高校1年生の時、世界ジュニア大会に初めて海外に行きました。 海外の選手を見た時に技術だけを見ると自分は一番だなと思いました。 カルガリーオリンピックでは1500m5位と言う成績でした。 それ以外(5000m、1万m)は2ケタ台の順位でした。 世界との壁を知り、もがき苦しむという流れになって行きます。 1500m5位と言う成績は日本人としては最高の成績にはなっています。  

高校3年生でオランダの世界選手権に出ましたが、1万mで交差するときに妨害したという事で失格になってしまいました。 しかし滑り切っていたら5位と言う順位のはずでした。 長距離になればなるほど脚長が効いてくるので、どうしても体力差はハンディーになりますが、そこを埋め合わせるカーブのテクニックとかを当時は僕らは持ち合わせていました。 それで戦えたとは思います。 

長野オリンピックでは29歳でした。  その前に記録も伸びず進退をどうするか考える時期でした。  自己記録を更新して、けじめを付けられたら、スピード靴を脱いでもいいんじゃないかと思いました。(25歳)  26歳で消防士か長野オリンピック(確約されていない。)選択を考えたが、長野オリンピックを迎えることになりました。 最終選考会の全日本選手権で5000mで自身のワースト結果の11位でした。(一日目) 翌日1500mで2位になり代表の切符を掴むことが出来ました。  本番の1500mで8位入賞。(1分50秒68 自己ベスト)  頑固なところがありますが、もし間違っていると気付くとすぐに直すところはあります。 

高木美帆選手が15歳でバンクーバーオリンピックの代表になって、その後日体大に入って来ます。 ソチオリンピックの代表から漏れる。(1年生)  高木美帆選手に初めて会った時には目力が凄いというのが第一印象でした。(彼女が中学生の時) 1年生の春からはオフシーズンのトレーニングになるのですが、その方法に考え方の違いがありぶつかり合うわけですが、それも重要な事です。 僕は一度壊して新しいものを作り上げてより進化させていきたいという事を考えていましたが、時間的にも難しくて、最初のレースで厳しい条件になってしまいました。 

ピョンチャンをターゲットで行こうという事は話してはありました。 そのためには現状を打破しないといけないと思いました。 ナショナルチームになってコーチングとしては不完全燃焼でしたが、裏方のサポートに回ってピョンチャン、北京と迎えました。  高木美帆選手の凄いところは集中する力だと思います。 







2024年2月20日火曜日

天童荒太(作家)             ・ジェンダーギャップをミステリーで問う

天童荒太(作家)             ・ジェンダーギャップをミステリーで問う 

天童さんは1960年(昭和35年)愛媛県生まれ。 2000年に永遠の仔第53回日本推理作家協会賞、2009年に悼む人第140回直木賞受賞を受賞しています。 児童虐待を主題にした永遠の仔』はベストセラーになりましたが、その執筆当時から天童さんが考え続けていたテーマがありました。 四半世紀を経てそれをミステリーにしたのが、最新作の「ジェンダー・クライム」です。 ジェンダー・クライムとは何か、そして天童さんは何故人の痛みや傷を書き続けるのか伺います。

「ジェンダー・クライム」の主人公は鞍岡直生警部補、所属は八王子南署です。 本庁にの捜査一課から訳があって移動してきた。 妻と中学生の娘、小学生の息子がいます。 もう一人の警部補と殺人事件にあたってゆく。 性にまつわる犯罪がルビーがタイトルになっている。(「ジェンダー・クライム」) 言葉には力がありセクシャルハラスメントと言う言葉もそれが生まれる前から女性は厭な思いに会って来たのに、言葉がないがゆえに我慢を強いられてきた部分もあったが、それは犯罪に近いような事なんだと言葉が広がると同時に、人々の意識の中に広がってゆくことによって多くの女性たちが声を上げることが出来たり、救われたりすることが出来たと思うので、「ヘイト・クライム」と言う言葉が生まれて、人種、国家などの差別的な言動をして相手を攻撃する。 

言葉が有ることによって認識されて行って、社会が変わってきた部分があると思います。 ジェンダーと言う男女の性差、性的な差別だったり、することによって生じる犯罪、犯罪まがいのこと、嫌がらせ、それは犯罪なんだという事に認識が広まれば、加害行為が減ってゆく、あるいは被害に遭う方が救われるのではないかと言う願いを込めて、そういう言葉を使ってみようかと思いました。 ジェンダー・クライム」と言う言葉が広がって行けばいいなあと思います。   力の弱い、立場の弱い人に対して、押し付ける、自分のために利用する事が現実に日々どこかで起きている。 それはクライムだとはっきり言った方がいいのではないかと思います。 

小説の中では最初に裸の男性が縛られた状態で遺棄されている。 捜査の段階でレイプという事は排除されている。 永遠の仔』を25年前に刊行しますが、児童虐待を受けた男の子2人と女の子1人が成人した後も、虐待されたことを引きずってしまう話ですが、虐待事案を調べて行くうちに、その根っこにあるものはジェンダー問題なのではないかなと思いました。 でもその頃はジェンダーと言う言葉が有ったのかもしれないが一般的ではなかった。 性の役割文化という事が日本では古くからあって、ゆるぎない正しい文化の様に刷り込まれてきた。 支配してもいいというように男たちに思わせてしまうような文化だった。それを25年前に気付いたんですが、虐待は一般の人には認知が低くて、その後大きくなって、トラウマになってゆくことはほとんど無関心だった。 

小説のなかで「御主人」という言葉に対するやり取りがあります。 女性は女性としての人生があって、たまたま一緒に生活している、リスペクトがないとこの社会は男女が共に歩いてゆく社会になって行かない。 まず家庭のなかで無意識に性差別が起きている。 気付きが必要だと思います。 鞍岡と言う主人公を通して、なんか今社会はおかしいんじゃないか、でも何でそうなんだという事を自然と考えてゆく中で、彼がある一つの事件に対して、或る女性がこんなにひどい目に遭っているが、これは我々の罪ではないか、と言う風に気付く、そこが大事な部分ですし、書いてゆく中で自分でも気付いたことなんです。 鞍岡が罪を隠ぺいした刑事部長と向き合って、「これは我々の罪ですよ。」と言う風に書けたのは、物語が力を持っていて、作家である自分も生きることによって、はじめてポンとあの言葉が出てきたんです。 何故自分はこの物語を書こうと思ったのか、それはあの一つのセリフを書くためだったのではないかと思うほどに意識が持てました。

物語には型があって、その型は本当に少ないんです。 或る主人公が苦難を乗り越えて、敵とぶつかる。 その敵に負けるがその仲間たちに助けられて、もう一回ぶつかってその敵に勝つというのが物語の典型なんです。 恋愛ものも含めて、そのアレンジであってそんなにあるわけではない。   物語の型の中にこのジェンダーをどう扱うか、と言うところに凄くスコーンとはまって廻り始めたんです。  中年の裸の男性が殺されて、解剖で首を絞めっれて殺されたのは判るが、それで終わっていたものを志波と言う警部補が、レイプされたかどうかを問うわけです。 そこにジェンダーバイアスがある。 

若い母親が子供を置き去りにして遊びに行っている間に、飢えて死んだとか、火事にあって死んだとかありますが、若い母親をマスコミは凄く攻めるが、その子は辛い子育てをやってきた。 辛くて切れた悪い瞬間があった時に、死なせてしまったりする。 母親を責めるが何故父親のことを言わないのか。 シングルだったら産ませた男親がいる。 本当に育児放棄をしたのは誰なんだという事をこの社会、マスコミは見逃している。 このまま次の世代に渡していくのか、少しでも良くして生きやすい社会にして渡してゆくべきなんじゃないのかと、考えたことが物語に落とし込めて行きました。 

人の痛みや傷を書き続けてきましたが、ある時期書くのが辛かったです。 暗い海の底に沈んでいかないと本当の希望は見つけてこられないという感覚が何故かあって、辛い思いをしている人、悲しい思いをしている人は、人の見えないところでうずくまって居たり、自分から隠れようとして居たりする人たちなので、その人たちの真実を掬い取って、その人たちへの希望とか、暖かさへ、物語でどう見つけてゆくかという事は、やはり底まで沈んでいかないと見つけられないと思っています。 それを思ったのは永遠の仔』からなんです。   

虐待を外側から見ていると少しも判らない。  傷ついた人の履歴を書いて、その人に本当になりきるような時間を作って、3年間の間虐待されたと思って、その人の自分は汚い、臭いと言ったような感情を書き続けて、そこからようやく物語になるという形にして届けたのが永遠の仔』です。 それに対して5000通ぐらいの手紙、葉書が来ました。 多くの方が虐待を経験していました。 「ありがとう。」と書かれていて感動しました。  

その人たちの痛み、傷が全部自分の中に入ってきたんで、受け入れてしまったので、倒れて起きられなくなってしばらく寝込んでいました。 その人たちのために書こうと、回復してゆく過程で思いました。 『ムーンナイト・ダイバー』もその思いで書きました。 その2年後に或る会に福島県波江のものですという事で、「書いてくださってありがとうございました。 そのことだけを言いに来ました。」と言って下さいました。(感謝だけを伝えにきてくれた。)  自分が書くという事はそういう事だと改めて励まされた思いです。 物語の多様な楽しみ方も一方で追求しながら書いていきたい。

戦争、災害などで辛い思いをしている中で、辛い思いをしているのは、何故彼らや彼女であって私ではないのだろう、私でもよかったのに、と言うのは大事な問いかけだろうと思います。 自分たちが恵まれていることの有難さを噛み締めて、その方たちに何かの形で救いの手を差し延べたり、共に生きる、共生の思いを伝えることも出来ると思います。

















2024年2月19日月曜日

ちんどん喜助 豆太郎(ちんどん屋)    ・〔にっぽんの音〕

ちんどん喜助 豆太郎(ちんどん屋)    ・〔にっぽんの音〕 

案内役:能楽師狂言方 大藏基誠

鐘の左側に〆太鼓その下に大太鼓があり、この3つで音を出します。  今日はクラリネットを持ったカッキーちゃんも来ています。  

カッキー:クラリネットは26年ぐらいやっています。  小さな劇団に所属していて、ちんどん屋を舞台にした芝居をやるという事で、クラリネットを練習しておけと言われて、練習していくうちに、こちらの方が楽しくなってしまって、ちんどん屋にのめり込んでしまいました。   即興でやっています。 

豆太郎:朝ドラの「エール」と言う番組がありましたが、その最初のころにちんどん屋さんの役で出させてもらいました。  現在46歳。 大学で演劇の世界にはまって2004年位ちんどん屋さんに入門しました。  小さいころから音楽が好きでした。 クリスチャンで教会の中で聖歌を歌ってたり、ギターを弾いていたりしたフィリピンの方に手ほどきを受けたりしました。  ブルース、ジャズが好きになり、生活のなかで芸が根付いているものはないかと思っていたら、ちんどん屋さんバンドに出会いました。   音楽と掛け声が共存していいんだという事で凄いと思いました。  浅草でちんどん博覧会がありそれを見に行き凄く感動しました。  プロの親方たちの全国ちんどんコンクールが富山であるという事を聞いて、そこに行って絶対やらなければなと思い入門しました。  3分間のステージでした。入門したのは菊の屋の親方で、しめ丸親方で当時87歳でした。  90歳すぎまで現役でやっていました。  2010年に亡くなりました。  その後独立してちんどん喜助を立ち上げました。 

ちんどん屋さんは宣伝屋さんなんですね。  チラシを撒いたりもします。 朝の10時から夕方の5時まで7時間宣伝をします。  ちょんまげしたり、衣装着たり、音を出したりするのは人の目を引くためです。  江戸時代末期1845年大阪の千日前と言うところに「飴勝」と言う人がいて、飴を売っている人だったんです。  口上もうまかった。  寄席の呼び込みを飴勝が請け負いました。  東西屋さんが生まれて、最初に口上で「東西、東西」と言いました。  秋田柳吉と言う人が東京に来て「広目屋」を開き、軍楽隊の退役した楽隊員を使って大うけして、楽隊広告が出来て、西洋の音楽と日本の口上が出会って合わさりました。 昭和の初期にちんどん太鼓の形が出来上がりました。  ちんどん太鼓と三味線でした。  その後洋楽器が入って来て、戦争を挟んで洋楽器が主体になって行きました。 

大太鼓を入れて3人組で行いますが、チラシを配ったり、旗持ちと言ってのぼりを踊りながらチラシを配るという形が多いです。  口上、音楽、ちょんまげ(1950年代後半から)が大事です。   旅芝居をやっていた人たちもちんどん屋の方が儲かるという事で旅芝居をたたんで始めました。 そこから化粧などもやるようになりました。  今は着物に化粧にかつらのような形になっています。  

基本的に親方が仕事を取って来ます。  楽士、チラシ配りなどを決めて行きますが、現場で初対面と言うようなこともあります。  音楽が上手いとか腕を買われると、フリーで助っ人家業をやる人もいます。  前はパチンコ屋さんが多かったんですが、今は飲み屋さんの開店が多いです。 イベントで呼ばれることもあります。   ギャラが厳しいところがあります。  ちんどん屋のほかに獅子舞い、日本舞踊、大衆演劇、パントマイムなども学んでいます。  人を楽しませるのが好きです。  

日本の音とは、「鹿威し」です。 音の間がいいし、自然の中に染み入るように音がなくなっていて、人間が作ったものなのに自然任せになっている。  歳をとらないと良いちんどん屋さんになれないような気がしています。  








2024年2月18日日曜日

上柿元 勝(料理人、クラブ・デュ・タスキドール会長)・フレンチのたすきをつなぐ

 上柿元 勝(料理人、クラブ・デュ・タスキドール会長)・〔美味しい仕事人〕フレンチのたすきをつなぐ

上柿元さんはフランス料理の料理人になることを志して、1974年24歳の時にフランスに渡り、つてのないなかで料理修業を始めました。 故郷鹿児島に言葉「ちぇすと」(頑張れ、気張れ)の精神で働いて、フランス料理界の偉人と言われるアラン・シャペルに認められるまでになりました。 帰国後はフランス料理店、ホテルの総料理長として活躍、上柿元さんは日本におけるフランス料理の巨匠と言われる存在です。 クラブ・デュ・タスキドールの活動はフランス料理を志す次の時代を担う料理人にフランスでの修行を経験した先輩たちがその技を伝えると同時に、料理を通じて社会貢献をして行こうと言うものです。 

2019年に私と三國清三さん、フランスのアラン・デュカスさんの3人を中心に、フランスでみんな修行で師匠にお世話になっています。 師匠の料理哲学とかを次世代に残そうと「タスキ」 「ドール」=金 金のタスキで、常に輝いていこうと料理人が集まり、最初はあ30人、40人でしたが今は100人近くになりました。 全国でいろんな活動をしています。 フランスでは三國清三さんとはいろいろ交流がありました。 

黄綬褒章受章、現代の名工、フランス農事功労章オフィシエ受章。 この仕事を50年やっていますが、毎日毎日楽しいですね。 著書『ソース~フランス料理のすべて~』はソースのレシピが400種類以上記載されています。 出汁の部分では、魚の出汁、鳥の出汁、甲殻類の出汁とかに分類されています。 そこにアルコールを使ったもの、卵、生クリームを使ったものなど、今までに無かったソースを作り上げたので、日本全国のシェフがみんな持っています。 少量用のソースの作り方になっています。 大量に作るものとは分量も違ってくるし、火加減なども変わって来ます。 料理は理論と実践です。 ソースは料理のベースです。  料理の基本は焼く、煮る、炊く、蒸す、揚げるという5つの技法をきちんとやっておけば、良い料理が出来ます。 

フランス料理の伝承をしながら地域社会や子供たちの食育、などを出来る人が出来ることを出来る範囲ですればいいと思います。(熊本、石川県への支援活動など。) 1981年神戸にシャペルの名前を冠した三ツ星レストランを開店しました。 アラン・シャペル氏からお前に任すと言われました。 師匠の名前を汚したら駄目だと思って寝ない日もありました。

子供のころは野球、陸上が好きでした。 先生の白い帽子から白い着衣、白い靴の姿にあこがれて体育の先生になりたいと思いました。 朝5時に起きて、小学5年から中学1年まで新聞配達をしたので足が鍛えられました。 大学は推薦入学で入る予定でしたが、膝に水が溜まり大学は諦めて製薬会社で働き始めました。 近畿大学の夜学に買い始めました。 或る時に「辻学園フランス寮」と書いてあるポスターがあり、それが真っ白い制服でした。 会社を辞めてお金を貯めて学校に行きました。  卒業して、料理店に入ってお金を貯めてフランスに行きました。(24歳) 32万円の現金を持っていきました。(当時)1フランが58円から60円) 行ったら何か仕事があるものと思って行きましたが、言葉も判らないし、仕事もありませんでした。 正式な労働許可証もありませんでした。 

厨房の裏口から入って洗い物の手伝いを何回かしました。 ル・デュックというパリの老舗のレストランに労働許可証は持っていると嘘をついて拾ってもらいました。  人よりも30分早く行って、お金もなくお腹が空いていたので卵2個とサラダの葉をちぎって食べて、掃除をして1週間やりました。 労働許可証を持っていないことを認めて、首になりたくないからみんなよりも早くいって、トイレ、ロッカーの掃除、包丁を研いだりしました。(オーナーが喜ぶことをしようと思いました。) オーナーでもあり、映画出演もする人でカトリーヌ・ドヌーブ、アラン・ドロン、クロード・フランソワ、シルヴィ・ヴァルタンそういった方が店に来ました。 一生懸命働きましたが苦にならなかったです。 ジュネーブで働き三國清三さん、山本次夫さんたちと仲間になって、有名な方のところで仕事をさせて頂き、フランスと言う国とフランス人のオーナーに信用と言うビザを頂くことになりました。  フランスで最初に一つ星を取ったのが、私の尊敬する中村勝宏さんです。 今の私があるのも諸先輩方の努力が有ったればこそです。 

常に燃えている必要があるという事と、自分ではなく人が喜ぶことをする。  一生懸命作った生産者の、それを表現しなければいけないと思っています。  お客さんを眼で喜ばし、香りで喜ばす、食べて笑顔になる。  笑顔の向こうには生産者なんですよ。 来たものに、命を頂きます、と言う事で料理に魂を入れてお客さんを喜ばせなければいけない。  










2024年2月17日土曜日

川村妙慶(僧侶・アナウンサー)      ・”ただの人”として悩みに寄り添う

 川村妙慶(僧侶・アナウンサー)      ・”ただの人”として悩みに寄り添う

妙慶さんの講話は自分をさらけ出し親しみやすい語り口が評判となり、各地から多くのいらいが寄せられています。 地元のラジオ局でパーソナリティーを務めているほか、20年ほど前から毎日欠かさず書いているブログでは悩み相談を受け付け、すべてのメールに返事を出しています。 妙慶さんが大事にしているのは、親鸞聖人が残した凡夫の教え、凡夫とは「ただの人」と言う意味で、煩悩に満ち、迷いの中で生きる普通の人々のことを指しています。 妙慶さんは自らをただの人として、人々の悩みに寄り添い続けてきました。 徹底的に自分の心を見つめ、煩悩に満ちた自分を受け入れありのままの自分を生きて行こうと呼び掛けています。妙慶さん自身、父親が早く亡くなり様々な悩みを抱えながらフリーアナウンサーとしての活動を経て僧侶となりました。 時代が変化する中、多くの人の悩みに向き合って来た妙慶さんの思いを伺います。 

ありのままに自分しか出せないと思っております。 北九州市の門司港と言う港町で真宗大谷派西蓮寺と言うお寺の娘として生まれたのですが、母がそのお寺の娘だった。 父が入寺しました。 父は布教師と言う役目があり、法話をいろいろなところでするという仕事です。 全国いろんなところに回っていたそうです。 私は父と会うのは年末しか記憶がないです。 家がお寺と言う意識はなかったです。  或る時両親が大喧嘩をしました。 家にはお金を入れないで寺が荒れてきました。 

高校2年生の時に、父が移動中の列車のなかで、脳卒中で倒れなくなりました。 その時に両親は離婚をしていて、葬式には出ませんでした。 御門徒が200ほどありましたが、他に移って行って最終的にゼロになってしまいました。 兄にお寺を継いでもらうように母が言ったんですが、重圧からか家に引きこもってしまいました。 母は私に僧籍を取るために京都に行って勉強してくるように言いました。 冗談ではないと思いました。 池坊短期大学を見つけてました、仏花が勉強できるところでした。 何故花が咲くのか、根っこがあるからでしょう。  人間が生きる中での根っこを学ぶのが仏教ではないの、と言われました。 そこから仏教を勉強しようという気になって、大谷専修学院という全寮制の学校に入学しました。 

ほとんどがお寺の子で基礎知識も出来ていました。 私は何もわからず苦しかったです。  私は煩悩の塊ですと、先生に訴えました。  一念多念文意と言うお言葉の中に「凡夫というは無明煩悩われらが身にみちみちて、欲も多く、怒り腹立ち嫉みねたむ心多く、臨終の一年に至るまで止まらず消えず絶えず。」 親鸞聖人は臨終の一年に至るまで、腹立ち、怒り、嫉み、妬みの心はなくならないとおっしゃっています。 一緒だと思ってそこから引き込まれて行きました。 

在学中に得度、僧籍を得ました。 寺を継ぐのは自分しかいないと思って先生に言ったら、「九州に帰っても何も出来ないだろう。 頭を下げることを学びなさい。 そのためには娑婆に出てボロボロになれ。」と言われました。  「娑婆とは思い通りにならない世界。 仏様の教えも通用しない世界。 壁にぶつかりボロボロになって、そこから学びが始まる。」と言われました。 

アナウンサーになりたかったのでアナウンススクールに行きました。 その後フリーアナウンサーとして番組リポート、ステージショーの司会などを手がけました。 事務所の所長から「今日から所属事務所のタレントのマネージャーになって欲しい。」と言われました。  正直屈辱と感じ芸能プロダクションを辞めることにしました。  それまでも悩み相談にも乗っていて親鸞聖人の言葉なども伝えていました。 北九州市に戻りました。

37歳で僧侶としての活動を始めました。 法話に取り組みます。  一回目は全然反応がなく、二回目は自分をさらけ出して話をしたら反応してくれました。 多い時には年間80件ほどの法話依頼を受けることになりました。 42歳で寺の僧侶と結婚、自身の法話の活動に力を注ぐようにになりました。 「凡夫」とは一言で言うと、「不完全な私」という事です。 煩悩に満ち、迷いの中で生きる普通の人々。 

親鸞聖人は新潟の地に流罪となり、田んぼの中に入って行って一緒に田植えなどしながら伝えていたそうです。 「私は石、瓦、つぶてのごとくなる我らなり。」とおっしゃっています。 20年前から「日替わり法話」を毎日ブログで伝えています。 そこでは悩み相談も受け付けていて、一日に50件を超える悩み相談もあります。 そのすべてに返事を出しています。 圧倒的に多いのが職場、家庭での人間関係です。 二番目が死にたいという声が多いです。 3番目が生活苦です。  答えをパッと出すと言うのではなく、もつれた糸の糸口を見つけて、ちょっとづつほぐすような作業をしています。 

家庭の中の人間関係。 実の母親の介護をしている。 連れ合いと介護をすることにしたが、一日自分が家を空けた時に酷く強く当たっていたとの事でした。 許せないいとのことだったが別れる気持ちはないとのことだった。 二人で介護はしてゆくという事でした。 蓮如上人の言葉に「負けて信」と言うのがあります。 自我が強くなっているので、柔らかくするという事で、頭を下げるという事で、信を取れと言うのは、二人の目指す方向性を大切にしてくださいと言う事です。  しばらくして理解してもらえました。

死にたいという人。 妻が亡くなる。 一人で生きてゆく自信がないので死にたいという事でした。 がんになった妻が、寂しいだろうけれども私の分も生きてねと言う言葉を残してなくなったということでした。 妻は生きたい生きたいと思っていたんですね、という事で、生き抜いてくださいと言ったら、最後は生きますという返事を頂きました。 

凡夫に立ち返ってゆくしか出来ないので、上から目線では言えない。  統合失調症とかうつ病とかありますが、病気になるには理由があります。 追い詰められてしまう不安がそうさせてしまう。 温かい言葉を極力かけるようにしています。 自分にもいろいろありましたが、自分で出来る範囲で寄り添う事が出来たらという事で、今は恩返しをさせていただいています。  悩みは方向性を変えるチャンスだという事を伝えたいです。 人生に絶望してほしくないです。 自分自身にも絶望しないで欲しいです。 これから私たちがどう生きるかによって、今まで駄目だと思い込んでいた過去ががらりと変わって行くんです。 今日の生き方が全てを変えてゆくという事を伝えたいです。 







2024年2月16日金曜日

古橋 正好(元小中学校教諭)        ・亡き母に捧げ、教え子に贈る歌

古橋 正好(元小中学校教諭)        ・亡き母に捧げ、教え子に贈る歌 

先月19日皇居松の間で行われた新春恒例の「歌会はじめ」に宇都宮市の古橋 正好さん(88歳)が最高齢者で選ばれました。 今年のお題は「和」、海外からも含め1万5000首に近い応募のなかから10首に選ばれた古橋さんの歌は、長年の教員時代の経験をもとに子供たちに日本の伝統文化を引き継いで健やかに育って欲しいという願いを詠んだものです。 天皇皇后両陛下の前でご自身が詠みあげられた感慨や子供たちに込めた願い、そして若くして亡くなられたお母様の短歌を巡る思い出など伺いました。

9回挑戦して入選出来ました。 短歌は万葉集以来の日本優れた伝統文化ですね。 松の間は内閣総理大臣の新任式などが行われる滅多には入れない場所です。 (最年少の新潟市の17歳の女子高校生神田ひおり?さんから順番に紹介されて、88歳の古橋さんが一番最後に紹介されました。) 自分の今までの体験、経験、報道などで知った情報をないまぜて歌を詠みました。 今年のお題は「和」。 子供たちが自らすいだ和紙の卒業証書について詠みました。  

*「おのが手ですきたる和紙の証書手に六年生は卒業となる」 古橋 正好

栃木県には烏山和紙という優れた和紙があります。 小学校6年生が工房に行って、手助けを受けながら自分の卒業証書用紙用をすいている地区があります。 自分のすいた卒業証書を渡されまして、それを手にして晴れ晴れとした姿で卒業式場に立っているという事は本当に頼もしく、その光景は忘れられませんでした。 それを歌わせてもらいました。 

子供たちは純粋無垢で計り知れない洋々として将来の可能性を持っていると思っています。 子供たちの可能性を少しでも伸ばしてあげる手助けが出来ればと言う思いで、教師を目指してきました。 初めに小学校を4年務めました。 その後中学校で10数年務めました。  小学校5年生のクラスで算数の問題を解くのに2名の子がどうしても出来なくて、周りの子が手伝って2人の子が全部できました。  皆が「万歳」といって喜んで、あれは嬉しかったですね。 教えがいもあり、自分たちで仲間を助けようという気持ちを持ってくれたのは、特に嬉しかったです。 

早く亡くなった母親は喜んでくれていると思います。 僕が高校3年生の時にがんで発病して、母が入院中に国語で万葉集の勉強をして、先生が万葉集の本を紹介してくれました。 

「みちのくの母のいのちを一目見ん一目見んとぞただにいそげる」  斎藤茂吉

「死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかわず天に聞ゆる」     斎藤茂吉

のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり」   斎藤茂吉     

母はがんで入院していたのでこれらの歌が心に強く残りました。 受験の時に母親が帰って来て、朝、朝食を作ってくれて、弁当も作ってくれてこれには吃驚しました。 家から通える国立宇都宮大学を受験して、合格の番号を見つけることが出来ました。 その時に近所の方が肩を叩いて、「お母さんが急変したので急いで帰るように。」という事を言われました。 「合格したよ。」と告げましたが、母親としては安心させるために合格したという事を言ったのではないか、と言うようにも私は捉えました。 二日後に合格通知が届いて、それを見せたら涙ぐんで喜んでくれました。 その2時間後に旅立っていきました。

教員、地域の活動などで80歳までは自分の時間が取れないような生活で、時々歌を作っていた程度でした。 80歳になって、自分の生きざまを残すためには短歌がいいんじゃないかと思いました。  独学でやって来ました。 東京と、地元の新聞に文芸欄があるので、そこに投稿してきました。  両方合わせると300首ぐらいは載せてもらいました。   

*「焼けあゆと地酒を卓に昭和史の尽きぬ話題に夜は更けてゆく」?  古橋 正好

父親は酒が好きで酒を飲みながら昭和の時代の苦労話などを聞きました。 

*「革靴を地下足袋に替え農を継ぎ家を守りて今日も畑うつ」     古橋 正好      

通勤の革靴から地下足袋に替えて、農耕の歌を作りました。

*「推敲の短歌整わぬこの夜更け遠雷二つ我を励ます」        古橋 正好

*「食卓に二輪草活け老い二人朝のコーヒーゆったりと飲む」     古橋 正好

*「八十と八を数える誕生日四十四で逝きし母にぬかづく」      古橋 正好

母は44歳で亡くなりました。 私はその倍になります。

来年の歌会始のお題は「夢」だそうです。 私は欅の木が好きで、種は1mm程度ですが、大きくなっていって大地にしっかりと根を張って大木となります。 子供たちには欅の様に大樹になるように育ってほしいと思います。  人間はひとりで生きているわけではないので、大勢の人たちへの感謝の気持ち、思いやりを忘れたら駄目だと思っています。    夢をもってしっかり根を張って思いやりを持って生きていってほしい。

*印はかな、漢字など間違っている可能性があります。













2024年2月15日木曜日

渡部陽一(戦場カメラマン)        ・笑顔で挨拶、戦場取材30年

渡部陽一(戦場カメラマン)        ・笑顔で挨拶、戦場取材30年 

渡部陽一さんは大学1年の時にアフリカ大陸のジャングルに住むムブティ族のことを知り、話を聞いてみたいとアフリカザイールに向かいます。 現地で思わぬ体験をしたことがきっかけで戦場カメラマンとして世界に紛争地帯で取材を続ける事になります。 130国以上の取材体験で大事なことだと思ったのは、その土地の言葉で挨拶をする、声を掛けるという事でした。 戦場カメラマンになるとは思いもよらなかったという渡部陽一さんに戦場取材30年 の体験を伺いました。

朝5時から7時ぐらいが一番集中力が高まります。 カメラマンとして世界中を回るうえでは、僕自身としては初めの一歩の力です。 挨拶からすべてが広がり、挨拶で一日が終わる、この繰り返しが世界を回るうえでの僕自身のライフラインの基盤にあります。 基本的には98%ぐらいは英語で会話をします。 その国の挨拶を学んでいくことは、初めの一歩と言えます。 

20歳を過ぎた頃アフリカのジャングルで暮らしている狩猟民族に会いに行きました。 当時ルワンダ内戦と言われたフツ族とツチ族の民族衝突が起こっていて、その戦争に巻き込まれた子供たちが血だらけになって僕に助けを求めてきました。 学生だった僕は何も手を差し出すことが出来なかった。 写真を使えば子供たちの声を沢山の人たちに届ける事が出来る入口になるのではないかと思いました。 戦場カメラマンになることを志しました。

当時はザイール、今はコンゴ民主共和国になりました。 隣の国にルワンダと言う国があり、そこの民族衝突が飛び火しました。 ジャングルの集落の村の人たちが犠牲になって行きました。 ルワンダ内戦で約80万人近い民間の方が犠牲になったと言われています。  その現場をバックパッカー(低予算で個人旅行する旅行者のこと。)としてかちあった時に、日本に戻って言葉で伝えてもほとんど理解されることはなかった。 写真で一つでも気付いてもらえるかもしれないと思って始めました。 戦争の犠牲者はいつも子供たちです。

ジャングルに住むムブティ族に会いに行くつもりでしたが、内戦状態になっていることをほとんんど知りませんでした。 ピックアップトラックに乗った少年兵にカメラなど持ち物全取られてしまいました。 何回か行くうちにムブティ族と出会い、一緒に生活を共にすることが出来ました。 リンガラ語が公用語で、この地はフランス圏でもありますので、フランス語が通じる地域が一部あります。 身振り手振りを含めて挨拶をかわしました。    戦場カメラマンはその地域で育ったガイドさん、通訳の方、身を守ってくれるセキュリティーの方、最低4人のチームを組み立ててから、前線を動き写真を撮ることが出来ます。  必ずガイドさんの言葉に従う事、取材を欲張らない事、引く勇気を持つ事が大事です。  安全が第一、取材が第二です。  ガイドさん等とは信頼関係が必要であり、友人関係の様になって行きます。

宗教、部族、国境、資源などで紛争が起きます。 世界中を回って感じたことは、どの地域でも初対面の僕を迎え入れてくれました。 お互いが寛容の気持ちを大切にしてゆくが大事だと感じたことが一番の入り口でした。  貧困と言う悲しみと、衝突の根っこを世界規模で少しでも柔らかく、底上げ出来て行けば、衝突は一定の柔らかさを保つことができると感じています。  

中村哲さんの灌漑施設に関する仕事はアフガニスタンではリスペクトされています。   アフガニスタンとパキスタンの国境地域では部族性の強い様々な衝突が起こっています。 外部の方で寛容、リスペクトをもって浸み込ませていく入口を広げていく実績を作ったのが、中村哲さんです。  現地で灌漑施設に関する仕事をしながら一緒に暮らしてゆくことが、現地の方々の信頼、気持ちが繋がって行った大切な入口だったと感じています。 戦争の根っこにある貧困を如何に変えてゆくことができるかどうか、子供たちの基礎教育などがキーポイントになると思います。 

戦争現場でも家族が思いやる日常はみんな同じでした。 戦場に立たされている子供たちの日常等、表情や暮らしをカメラマンとして残してゆくことが、戦場カメラマンとしての大切な柱になっています。  僕の夢は世界から戦争がなくなり、戦場カメラマンが必要でなくなった時に、学校カメラマンになることが夢です。 子供たちの学校での暮らし、表情を撮って行きたい。














小倉一郎(俳優・俳人)          ・がんでもあきらめない

小倉一郎(俳優・俳人)          ・がんでもあきらめない 

昨年、小倉 蒼蛙(おぐら そうあ)に改名しています。 1951年東京生まれ。 9歳からエキストラとして映画の現場に通い始めて13歳の時の石原裕次郎主演の映画「敗れざる者」で本格デビュー、以来半世紀以上に渡って映画やテレビに出演、気弱な小市民を演じたら日本一と称され、名バイプレーヤーとしての地位を確立しています。 俳優俳句歴も長くて結社「青蛙」の会を主宰する俳人でもあります。

大病をして、生まれかわったような気分で、仏様か神様が生まれ変わらせてくださった。  名前を変えて別の人物になったという感じなんですね。 早坂暁先生が付けてくださいました。 最初に「痩躯?」と名乗って来ましたが、蒼蛙(そうあ)になりました。  去年「がん「ステージ4」から生まれ変わっていのちの歳時記」と言う本を出版。 2021年12月にロケ先で足首を骨折して、病院に通っていましたが、右の背中が痛くなりました。 調べてもらたら両方の肺にがんが見つかりました。 ステージ4です、完治の見込みがないですと言われて、余命は1,2年という事でした。 割とすんなり受け入れました。 子供が4人いて、再度聞きにいったら、モニターを見たままでこちらを見なくて、その態度が気に入らなかったと言います。 娘がほかの病院に行ってみようと言って、行くことにしました。   ちゃんとこちらを向いて、完治はしないけれど、遅らせるとか、小さくすることは出来るので、いろいろ試してみましょうと医師が言ってくれて、治療が始まりました。 あばら骨、脳にもがんがあり、これではいよいよ駄目だと私は思いました。  

脳は放射線治療をしました。  10分程度やって1回で消えました。 抗がん剤の点滴と言う事になるんですが、治験があり是非やらせて下さいとお願いしました。 かなり痩せていて、その薬の対応は無理と言われました。  治験は諦めて抗癌剤になりました。 点滴は最初2時間半ぐらいでした。 翌月レントゲンを撮って、観たら一回り小さくなっていました。 副作用で髪の毛が抜けるという事はなかったです。 嘔吐、めまいも全く無かったです。 食べるようにしたり、足の筋肉が弱っていたので、器具を買って運動をし始めました。  シダを見た時に美しいと思いました。 「世の中に綺麗なものはたくさんあるが、美しいものは少ない。」と14代柿右衛門さんが言っていました。 美しいものを捜さなければ、と言う思いも湧いてきました。 

辛かったのは、痛みとの戦いでした。 左の背中が痛くて不安定狭心症という事でカテーテル手術をしました。(心筋梗塞だった。)  仕事は一切辞めました。 お金の面では子供たちがフォローしてくれました。  再発は絶対あると思って、俳句の結社を作って。美しい日本語を残したいと思って、「青蛙」の会を作って俳人を育てたいという思いもありました。 本も第5号まで出ました。  エッセーも出したいし、俳句の句集を3冊今まで出していますが、死ぬ前に第4句集も出したいと思っています。 映画の監督もしたいと思っています。  

育ての両親が俳句をやっていました。  俳人の本も読んでいました。 「初芝居女楽屋の笑い声」と言う句を作りました。 その女優(松岡みどり)から句会への誘いを受けました。 句会でも褒められて、ちゃんと勉強しようと思いました。 河内静魚さんを先生に迎えて勉強会を始めました。  「毬」と言う結社を作って編集長もやりました。 

9歳からエキストラとして映画の現場に通い始めて、芸歴は60年以上になります。 芝居が好きだったという事もありますが、他の世界を知らな方という事もあります。  いい脚本家、ディレクターに恵まれました。 「冬の雲」(木下恵介・人間の詩シリーズ)、「それぞれの秋」(木下恵介・人間の詩シリーズ 山田太一 脚本)に出演して、「それぞれの秋」で名が知られるようになりました。  巨悪を騙してお金を分捕って、お金を取られ困っている人に差し上げるという詐欺師の役をやってみたい。 俳優をやったり、俳句をやったりいろいろしていますが、究極、私の本業は私なんですね。 悔いなく私を全うしたいという思いがあります。  命がある限り真剣にどれもこれもやって行こうと思っています。







2024年2月13日火曜日

加藤登紀子(歌手)            ・国を超え、時を超え、歌い継がれる”百万本のバラ“

 加藤登紀子(歌手)         ・国を超え、時を超え、歌い継がれる”百万本のバラ“

加藤さんは1943年ロシアとの国境に近い中国東北部ハルビン市の生まれ。 父親がロシア語を学びロシア料理店を営むなど、幼少期からロシア文化に触れて成長しました。 1965年に歌手デビュー、代表曲である「百万本のバラ」は旧ソ連時代の人気曲を加藤さんが日本語訳をした歌で、今も国内外のファンに愛されています。 加藤さんはこの曲の由来と自身の人生を綴った「百万本のバラ物語」を2022年12月に出版しました。 執筆のさなかにロシアのウクライナ侵攻が始まり、心を痛めた加藤さんは反戦歌「はてなき大地の上に」を含むチャリティーアルバムを発表しました。 こうした作品を通して加藤登紀子さんが強く願う平和への思いを伺いました。

ステージで歌っているときは一番楽です。 客席の心の変化が見えるんです。 歌ってキャッチボールで投げたという事は受け取る瞬間まで観るじゃないですか。 そういう感じがします。 歌に力があったらなあと悲痛な願いとも言ってもいいです。 「百万本のバラ物語」を2022年12月に出版しました。 私の個人史と「百万本のバラ」との出会いが、深く関係しているのでどうしても書かなければいられなかった。  ウクライナへのロシアの侵攻が始まりましたが、私が中学の時からロシアレストランを経営していました。     ロシアの家庭料理はほとんどがウクライナ料理なんです。 何故ならばと言うところからこの本を書かなければいけない理由が始まりました。  

ウクライナのキエフ公国に1000年前に出来た国がロシアの原点、キエフ公国のノヴゴロドという都市の端っこにモスクワがあった。  後にキエフ公国が元(モンゴル)に征服されてしまう。  潰されてしまうがモスクワだけが残る。  キエフ公国は長い間国と言うものを持てなかった。 その代わりにロシアと言う国が広がって行った。  ロシアの文化、料理、音楽、文学とかはウクライナから始まっているものが多い。 ウクライナからするとロシアにしはいされたくないという気持ちは強い。 自分たちの文化の原点として、自分の隣人であってほしいというのはロシア側の気持ちであろうと思います。 その二国が戦争をしてしまうと、深い溝が広がってしまう。 

何故ロシアレストランだったのかという事に対してはうちの家族の歴史があるわけです。 父がハルビン学院に行って満鉄に入って、終戦を大陸で迎えました。 1943年に満洲東北部のハルビン市の生まれです。 日露戦争のちょっと前に、ロシアが極東の方に進出してくるんです。 その時にハルビンを作った街なんです。 そこにロシア中から人が移り住んだ。 ウクライナ人が半分ぐらい、他にポーランド、ジョージア、バルト3国とか辺境の膨大な人たちが移住させられたり、出稼ぎに行ったり、亡命人の多い街だった。

日本人と結婚した家族とかは行き場所がなくて日本に沢山引き揚げてきた。(50年代)  彼らの働く場所がないといけないという事で、父がレストランを開いて、コック長は革命の時に逃げて来たコザックの娘だった人でした。 ですから基本的にはうちはコザック料理です。  閉店時間になるとみんな集まって来て、大宴会になるんです、それが素晴らしかったです。 たちまち音楽とダンスになるんです。  私は2歳8か月で引き揚げているんでハルビンの記憶はないです。 

東京大学在学中1965年に歌手デビューしました。 「赤い風船」(作曲:小林亜星)はロシア民謡調の曲でした。 1968年にソ連演奏旅行に行きました。(40日間)   当時はモスクワ以外は回ることはできなかったが、歌手と言う事でバルト3国、ジョージア迄行くことが出来ました。(奇跡的でした。) 「百万本のバラ」の曲を作った人がバルト3国のラトビアという国で、詩を書いたのはロシア人ですが、モデルとなった主人公の画家はジョージアの画家でした。 「百万本のバラ」は1968年にいった街で出来た歌なんです。

革命で帝政ロシアがなくなって、ソ連と言う国が出来て、一度はそれぞれ独立はするんですが、再度ソ連に支配される。 ラトビアで生まれた子守歌は、神様は不公平だ、どうして幸せを平等に運んで来なかったのかと、神様に抗議する歌なんです。(反体制の歌) アンドレイ・ヴォズネセンスキーというロシア人が「百万本のバラ」に翻訳したんです。 アーラ・プガチョワと言う人が歌っていましたが、関わった人たちはみんな反骨の人たちでした。 ゴルバチョフに時代になって文化、表現の自由が保証され、一気に大ヒット曲になった。

ニーナさんから「百万本のバラ」のロシア語と日本語のレコードを頂きました。 そのうち弾き語りで歌い始めたら反響が大きくて、レコーディングすることになりました。(100万枚突破) 悲しい結末なのにとても華やかなんです。  ウクライナとロシアが戦争している中で、この歌が両方の国の人の気持ちを繋ぐ力があるんじゃないかと私は思って、この本を書く時にはそれを託して、本を書きました。  「百万本のバラ」はロシアの匂いがあるから、今はちょっと辛いわね、という事で必ずしも国を越えて行ってくれない。 しかし、必ず歌って行かなければいけない歌だと私は思っています。  歴史をちゃんと伝えるためにも歌って行かなくてはいけないと思っています。  歌には時を繋いでゆく力があると、私は思っています。 これが私の今年の大きなテーマになっています。

2022年1月に「果てなき大地の上に」(反戦歌)と言う曲を作りました。 引き揚げの様子を中国の画家が幅20m、高さ3mの絵を描いてくれて、それを見ました。 絵をヒントに反戦歌を作ろうと思った矢先にウクライナ侵攻の戦争が始まった。 私の難民の姿とウクライナの難民の姿が重なって、この歌になりました。 

*「果てなき大地の上に」 作詞、作曲、歌:加藤登紀子

戦争に負けて絶望しかない時代に母は、「貴方が未来だったのよ。 貴方が希望だった。」言っていました。 ウクライナの人も不安だと思いますが、子供の手の中には未来があるでしょう、と2番の歌詞に込めています。  戦争には勝利はないです。 皆が犠牲者です、と私は思います。  若い人にはいろんな国を見て、いろいろな人、違う文化と出会って、人は人だと、繋がれるねと思ったりする経験をしてほしいと思います。 
















2024年2月12日月曜日

マギー審司(マジシャン)        ・師匠を語る 

マギー審司(マジシャン)        ・師匠を語る  

マギー審司さんはマギー司郎さんのお弟子さんです。 

師匠は判らないような恰好をしていても声のトーンとしゃべり方は直ぐ判ってしまいますね。 僕の本名は三浦審と言いますが、師匠からは審君と呼ばれています。 

マギー司郎さん、本名野澤司郎さんは1946年茨城県真壁郡下館町(現・筑西市)で7番目として生まれました。 幼いころの楽しみはお祭りの時にやって来るマジックショーでした。  中学卒業後マジシャンを目指して、17歳で上京したマギー司郎さんはバーテンダーのアルバイトをしながらマジックスクールに通います。 同じスクールにはMr.マリックさんもいたそうです。 ジミー司の芸名でデビューしたのが20歳の時でした。(上京3年後) 神奈川県のストリップ舞台で初舞台を踏みましたが、まだ持ちネタが少なかったため、5分のマジックの合間にトークを15分入れて時間を持たせます。 それが後の芸風につながったと言います。  全国のストリップ劇場を回っていた時にマギー信澤さんというプロのマジシャンに出会い、1968年に弟子入り名前をジミー司からマギー司郎と改名します。 

転機が訪れてのが1980年でした。 当時若手芸人の登竜門と言われたオーディション番組「お笑いスター誕生」に出演します。  7週勝ち抜いたところでチャンピオンから陥落、グランドチャンピオンの座を逃しましたが、世間に名を知られるきっかけとなり、活躍が始まりました。 1981年、1982年と放送演芸大賞トーク賞を受賞、テレビでお馴染みの顔になりました。 その後も奇術協会天洋賞、ユーモア大賞グランプリ、浅草芸能大賞奨励賞と数々の栄誉に輝き、現在は日本奇術協会相談役を務めていますが、2004年 NHKの課外授業ようこそ先輩 」で日本賞教育番組国際コンクール最優秀番組東京都知事賞など受賞しています。 

マギー司郎さんがブレークして、当時小学生でテレビで良く観ていました。 訛りが近い存在としてありました。  誰にでもできるマジックをするし、笑いも取れたりして真似がし易かった。  学校でやっていたが、不思議なものも見せたいと、ちょっと手品に興味を持ち始めました。 母親がマジックのトランプを買って来てくれました。(仕掛けのあるトランプ) それを小学校でやったらみんな驚いてしまって、スーパースターのような気分になりました。  高校を卒業して実家の電気屋を継ぐ予定でしたが、一回海外に行ってみないかと父親から言われました。  父親の友人のアメリカの寿司屋でアルバイトをするんですが、英語が出来ないので、手品を見せるようになりました。  或るお客が手品を逆に見せてくれて、1ドル札が20ドル札になり宙に浮くと言いう事をやって、吃驚してしまいました。 その人に教えてもらうようになってから、マジックにはまって行きました。

マジシャンという職業は知っていたが、どうやってお金を稼ぐのかは知らなかったので、趣味でした。 「笑っていいとも」の番組に出演して、周りからちやほやされました。 マジシャンになりたくてはがきでマギー司郎さん宛てに弟子にしてほしいと出しました。   数日後電話で師匠から連絡がありました。 待ち合わせ場所の喫茶店に1時間前には入って師匠を待ちました。 土産に美味しいものを食べてもらおうと思って根昆布を持っていきました。 そのまま車で或る会場に一緒に行くことになり、その会場で一緒に出演することになり、ぬいぐるみを動かすことをやったんですが、全然受けなかった。  しゃべらずにやっていたので駄目でした。  

マギー信澤さんの弟子にはマギー司郎さんとマギー瑠美さんがいて、マギー瑠美さんが田端で居酒屋をやっていました。 師匠と瑠美さんとの会話で「弟子に来るみたいなのよ。」と言った師匠の言葉を聞いて、僕は弟子になれたんだと思いました。 いまだにはっきりと弟子とは言われてはいません。  師匠の家はいくつかあるみたいですが、どこなのかはわからないんです。  稽古はないんです。 手品の話はしないんです。 「教えると同じになってしまうので自分で勉強したほうがいいんじゃないの。」と言われました。 マジックを勉強することも大事だけれども、お客さんはマジックを見に来てくれるけれども、その人を見に来ているんだよね。」と言いました。 大事なことを教えてもらいました。  

東京に出て来たころはアルバイトを結構やっていて、師匠に「東京に出てきてバイトばっかりやって来て、何のために東京にやってきたのか判らない。」と愚痴ったら、「そんなに甘い世界じゃあないんだから、厭だったら辞めていいんだよ。」と言われて、その時が一番怖かったです。 それからは愚痴らない。  師匠からは素直になることを教えてもらいました。  自分の物差しを大きくして行くためには、素直に聞いて、全然駄目な人間からも吸収する事はあると、こんなふうにならないためにこんなふうにしようとか、と言ったことを一番教わりました。  師匠は弟子に花を持たせようとして、弟子に「とり」を取らせ、アシストをしてくれた。

師匠への手紙

「師匠に弟子入りして30年になります。 ・・・非常識な僕を受け入れて頂き、本当に感謝しています。  自分勝手で我儘な僕の性格をいち早く理解していただき、すべてを受け止めてくれる師匠に甘えっぱなしで、気が付けば30年になってしまいました。 ・・・越えられない壁を追いかけながらこれからも楽しく頑張りたいと思います。 これからも僕の目標としてずっと長生きしてください。 100歳のマギー司郎のマジックショーを楽しみにしています。」 










2024年2月11日日曜日

窪田等(ナレーター)          ・ナレーター一筋50年

窪田等(ナレーター)          ・ナレーター一筋50年

窪田さんは1951年山梨県生まれ。 高校卒業後、大手勇信メーカーに就職、在職中にナレーター養成所に通い23歳の時に退職してナレーターになります。 コマーシャルからバラエティー、ドキュメンタリーのナレーションと幅広く活躍しています。 NHKではNHKスペシャル、BS1スペシャル、歴史発掘ミステリーなどのナレーションを担当しています。

今年でナレーター生活50周年。  完成形がないので楽しいです。 僕らの大事なことはあくまで条件を伝える、その作品は何を言いたいんだ、という事を出しゃばらずにします。   ナレーションが好きなんですね。  読んでいて心地良さがあり辞められないです。

小学校のころナレーター黒沢良と出たんです。 視聴者に判りやすいように、顔を出さずに状況を説明してゆく人、それが印象に残っていました。 高校に入った時の、クラブ紹介で3年の司会の方が実にいい声で判りやすくすしゃべるんです。 この人と同じクラブ活動をしたいと思いました。 放送委員会に入り、それがきっかけです。 大手通信会社に入りました。  CMナレーター養成講座募集と言う広告を見て、会社が終わったあとに通うようになりました。(1年間)  CMのナレーターの仕事が来ました。 段々やっているうちの会社を辞めちゃおうかと思いました。  緊張感とか、気持ちよかった。 23歳の時に退職しました。 まだ食ってはいけないのでアルバイトをしました。(人間関係に救われました。) 段々ナレーターの仕事だけで食べて行けるようになっていきました。 人によって仕事を頂けるようになりました。 

山梨県生まれなので訛りがあるので大変苦労しました。  長いしゃべりに慣れていなかったので又勉強しました。  新聞、週刊誌など兎に角読みました。 そうすると段々文章の流れが身についてきました。  大事なところを浮かび上がらせて、他を捨てる(小さな声で言う。)、と言ったことが出来るようになりました。  動詞は捨てる。(小さな声で言う。) 今度は長いものが得意になりました。  自分の理解したものを音声として出す。 ナレーションはどの程度まで感情移入していいのかが難しいです。  

感情が入り過ぎてドキュメンタリーで読めなくなったことがあります。(テスト時)    F1の世界でセナが亡くなった時に、「セナ特番」をやりました。  「秋の鈴鹿、セナのいない鈴鹿、・・・」 その後が読めなくなってしまいました。 僕は一回感情が入るのはいいと思っています、やり直せばいいんだから。  僕は司会は出来ないです、台本がないとできない。  ナレーションは好きだし、難しいです。 自分が持っている完成度とディレクターの完成度は違うと思うんです。 あくまでもディレクターさんにゆだねる。 

一日8回と言う時もありました。(2時間程度を) 作品が違うのでリフレッシュするので意外と疲れなかったりします。  酒は飲みません。 タバコは以前は吸っていましたが、辞めました。 ちゃんとした日本語で伝えたいという思いはあります。 朗読の動画サイトも始めました。 コロナの影響で自宅で録音しなければいけなくなって、リモートでやるようになりました。  東日本大震災とかあって、言葉で元気付けることをしたいなあと思って、朗読とかをユーチューブにあげたらどう?と言われてやってみようと思いました。(2020年) 1週間に一回と言う事でしたが、意外ときついです。 ナレーションと朗読は全然違います。 深く入らずナレーションの一環だと思ってやっています。  物語を声で表現することは、苦しいんだけれども楽しいです。 








  

さつたに かなこ(チョコレートバイヤー)・カカオの魅力に導かれ(初回:2023/2/11)

 さつたに かなこ(チョコレートバイヤー)・カカオの魅力に導かれ(初回:2023/2/11)

今月14日のバレンタインデーに向けてチョコレートが最も売れる季節を迎えています。 今年チョコレート専門店が増え、値段が高めで高品質のチョコレートがブームになっています。  そんな専門店の菓子職人やデパートの催し物担当者の相談に乗り、生産国からチョコレートを直輸入している知る人ぞ知るバイヤーがさつたに かなこさんです。 さつたにさんは国際的な品評会インターナショナルチョコレートアワードの審査員を務め、チョコレートを使った料理を提案したり日本の食材とのコラボレーションをしたりと大活躍です。 今は豆の選別から板チョコレート、バーに至るまでの全工程を同じ業者が行う「ビーン ツー バー」や同じ業者がカカオ豆の栽培から一貫して生産したチョコレートが人気ということです。 チョコレートバイヤーさつたに かなこさんにチョコレートの魅力と楽しみ方を聞きました。

今、高級チョコレート店が増えています。 チョコレートという範囲が広がっています。 もともとは紅茶が好きで、紅茶の仕事がしたいという事で紅茶に関する会社に行くことになりましたが、そこは輸入商社でチョコレートを輸入していました。 チョコレートの部門に欠員が出てそちらに回されました。 チョコレートに関する勉強を始めました。 カカオの魅力に出会ってゆくようになり、はまって行きました。  チョコレート店の店長になりました。    

作っている人となりに魅了を感じました。  それが今の活動に繋がっています。 カカオ豆からチョコレートまでを一貫生産するチョコレートを中心に日本に紹介していますが、「ビーン ツー バー 」チョコレートを作っている人が、どうしてそれを作っているのかとか活動をしている内容に関して、共感する内容が多くて、それを紹介したいというのが一番の思いです。 

カカオは実はフルーツで、その中の種の部分がチョコレートの原料になるカカオ豆です。 まず発酵させて、乾燥させローストにして皮を外してすり潰して、段々ドロドロになり砂糖、ミルクなどを加えて固めたものがチョコレートです。 

高級輸入チョコレート店の店長としてブログで配信していましたが、チョコレートに関するいろいろな相談があり、日本に輸入されていないチョコレートを輸入するという事が始まり、バイヤーとしてスタートすることになりました。  チョコレート工房、カカオ生産国の人たちに会いに行くことをしています。 私の会社ではチョコレートになったものを輸入しています。 作っている人の顔が見えるという事は大事だと思っています。  こちらからの要望が出来るのが直接取引の魅力です。  一番はペルーが多いあとコロンビアです。 街から一番近くて4,5時間かかります。 遠いいと半日かかります。 

インターナショナルチョコレートアワード審査員をしています。 いろんな国の人が審査員をしています。 いろんな意見が審査に反映される。 いろいろな部門に分かれています。 一番多かったのは1000近いサンプルがありました。 1日200ぐらいをテースティングをします。  食べるのが結構大変です。  溶け方の審査項目もあるので舌の上で溶かして広げるような動作もあります。 チョコレートの種類も多様化をしています。 

インターネットが普及してきてカカオ豆生産国と直接とれるようになってきて、小さい規模で作れるような機械が出来て、小さな店でも作れるようになりました。 シンプルなチョコレートはゆっくり口の中で溶かして風味を出していただいてから、テースティングしてもらうといいと思います。  カカオの入っているパーセントが70%で、カカオの品種(ペルー産)が違うものを二つ用意しました。  酸味の強い、柑橘系のような感じのものと、酸味が少なくスパイス感がある感じの物。  中南米は繊細で香りの高いフルーティーなタイプのものが多いです。 日本で一番親しんでいるのがアフリカのガーナが一番多いです。   ベトナムのカカオはシナモンとかスパイスの香りがします。 

和歌山県の醤油醸造所がカカオを使った醤油を作る。 2022年第9回ものつくり日本大賞の経済産業大臣賞を受賞。   それをコーディネイトしました。 ベトナムのカカオの種の若い部分があり、それをローストした後に醤油を融合させて、カカオの香りのする醤油にしました。(トウバンジャンみたいなペースト状) 和歌山の山椒、柚とかを使ったチョコレート、徳島の阿波番茶を使ったものとか、藍染の藍は食べられるものがあり、それを使ったりしたり、徳島の青のりを使ってチョコレートも作りました。  チョコレート料理も考案しました。  甘くないチョコレートを溶かして利用したり、塩を加えたりしてり利用したりできます。  又飲み物とチョコレートを組み合わせて楽しむこともできます。   南米ではチーズとチョコレートを合わせて楽しむことをしています。  

 






2024年2月9日金曜日

小澤俊夫(口承文芸学者)        ・「心を励ます声~昔話と我が人生」前編 (初回:2023/1/13)

 小澤俊夫(口承文芸学者)・「心を励ます声~昔話と我が人生」前編  (初回:2023/1/13)

https://asuhenokotoba.blogspot.com/2023/01/blog-post_13.htmlをご覧ください。

2024年2月8日木曜日

古村比呂(俳優)            ・ガンになって学んだ事、初めて知った事

古村比呂(俳優)            ・ガンになって学んだ事、初めて知った事   

古村比呂さんは1965年生まれ、北海道出身。 1987年NHKの連続テレビ小説「ちょっちゃん」は今から37年前です。  書類選考、二度の面接、カメラテストがあり、発表されました。 650人の応募者がありました。  以前は親は大反対でしたが、受かって認めてくれました。  

人前に出ることが大嫌いでした。 ストーブの脇で本を読んでいるような子でした。   これではいけないと思って高校を出てから短大に行きました。 偶然スカウトされて、チャンスと思って上京しました。 歌も好きでした。

*「プラトニック」 歌:古村比呂 約40年前。

2011年アフリカ南西部ナミビア共和国をレポーターとして訪れる。 子宮頸がんの検診を受ける。 要精密検査の結果が出る。 友人も子宮頸がんになって手術を受けて元気にしているという事でした。  2012年1月に検査をして子宮頸がんと診断されました。(46歳) 離婚して子供も男の子3人がいました。 子供にも子宮頸がんの話はしました。  子宮の全摘出手術をしました。 入院中は子供たちは食事を含めて全部やってもらいました。   その後経過観察になりました。  5年後2017年に骨盤内に再発してしまいました。 抗がん剤・放射線治療を受けました。 吐き気があって食欲がなくなり5kgぐらい痩せました。 腫瘍マーカーが正常値となり、仕事も続けられました。 同年11月ごろの検診で再再発になってしまいました。  がんが全身に回ていると言われました。  1年ぐらい治療を受けて髪の毛も抜けたりしましたが、良くなってきました。 

全く公表はして居なくて、母が鬱になってしまい、公表して治療に向かおうと思いました。 再再発の時に公表したら、母はみるみる元気になりました。  治療に行くときにたまたま人身事故を目撃してしまった、動転してしまった時に、次男から「そんな時もあるさ。」と言うラインが来て、目がパッと覚めました。  何で自分だけがしんどいと思ったんだろうと思いました。  そこから人との向き合い方、がんとの向き合い方が変わってきたと思います。 辛いのも気の持ちようだと思いました。 

長男(31歳)が昨年結婚しました。  後遺症のリンパ浮腫になって、それがきっかけにサイトを立ち上げました。 お互いの情報を連絡しあって、自分も元気付けられたりします。  がんの治療でも広がって行ってくれたらいいなと思って、がんとリンパ浮腫と共存していきましょう、ということになっています。 サイトは女性だけのものです。 リンパ浮腫になって、足が膨らんできてしまっていて、公表もしました。 締め付ける男性ストキングを履いていて、対応するグッツ、治療院とか情報を得られています。 今一番大事にしているのは、今を生き抜いてゆく、今できることをやってゆこうという事を大切にしています。  何が起こるかわからないというところは、いろんな状況を含めて強く思うところだから、今を楽しく、今を生きぬいて「まあ、そんな日もあるさ。」と過ごせていけたらいいなと思います。 

  







2024年2月7日水曜日

鳥居ユキ(ファッションデザイナー)   ・どんな時も自分らしい楽しみを

鳥居ユキ(ファッションデザイナー)   ・どんな時も自分らしい楽しみを 

鳥居さんは昭和18年東京生まれ。 都内の文化学院を卒業後、母親が経営するブティックで働き、19歳で作品を発表してデビューしました。 鳥居さんの作品は鮮やかな色や花柄、大人のかわいらしさと上品さを兼ね備えたデザインで知られ、20代から80代までの幅広い年齢層に人気です。 これまで鳥居さんが手がけたファッションショーは124回、1975年から2008年の間はパリと東京の両方でコレクションを発表しています。 ファションデザイナーとして第一線で活躍を続ける鳥居さんは去年「80歳ハッピーに生きる80の言葉」という本を出版しました。 鳥居さんの人生で大切にしている言葉や新しい事への挑戦、ファッションのアドバイスなどについいて伺います。

デザイナー歴61年のキャリアです。 現在81歳。 「80歳ハッピーに生きる80の言葉」の本の中にはたくさんの言葉が書かれています。  若い方たちから、いろいろ教えられるとか、反響がありました。  小さな楽しみを気が付いてゆくと、自分が幸せな感じになれるので、今は花は咲いていないが、花芽が出来てきてぐんぐんと大きくなってきて、今から準備しているという感覚が凄く好きです。 自分が過ごしやすく気持ちよく過ごすためにはインテリアについても、レイアウトを変えてみたり、交換してみたりすると気持ちが新鮮になります。 

小さいころは絵を描くことが好きでした。 母の仕事のもの(ボタンとか)をいろいろ使ったりして遊びを楽しんでいました。 祖母のみつ?、母親の君子が1946年に洋装店を早稲田に開きました。 お客様の希望を聞いて仕立てをしていました。(オーダー)   中学卒業を3年飛び級で文化学院に進みました。  西村伊作院長から教わった言葉が本にも紹介しています。 「心が通じる優しい言葉を使いなさい。」 あまり言葉で自分を飾らない、自分の素直な気持ちで話をする、と言ったことを大事にしてきました。 

19歳でデザイナーとしてデビューしました。 「世界中の美しものをすべて見て来なさい。」と言われて、ヨーロッパに送り出されました。 あまりしゃべれないし、一人旅で物凄く緊張感がありました。  ホームステーしてフランス人の生活を一緒に出来たということがとても役に立っています。  料理、一日の過ごし方とか経験した凄く役に立ちました。  省エネ、無駄な電気は使わないとか(階段をゆっくり歩くと電気ガ消えてしまう、)ありました。  ベルギーでは食事の時にトレーに花を飾ったりして印象深くて、自分でも取り入れました。 庭がなくても、ちっちゃな植木鉢を置いて楽しむ事は出来ると思います。 「服を作る仕事の喜びは着る人をキラキラ輝かせて、ハッピーにすること。 自分の立場は黒子なんだ。」と本にも書いています。 ウキウキする感じを心掛けて、楽しみながらという事をしています。  お客さんが喜んでくださるのが一番のハッピーですよね。(生き甲斐になる。)  

「長年のやり方にとらわれないような、常に新しく感じられる方法が大事。」 もの作りの処理とか長年やっていると、そういったものが自然に出来ちゃうんで、決めつけてやると面白いものが出来ない。 工夫、トライをする。  服が出来ると、音楽、演出、モデルさんとかが大事です。 服が動き出す時のイメージとかが大事です。 服作りは生き甲斐で生活そのものです。 ふっと思いついたことはメモしておきます。

コロナ禍では大きな打撃もありました。 オンライン接客を始めました。 最初は緊張しましたが、次からはいつもの雰囲気になりました。  ロボットとの会話も楽しんでいます。 ロボットに洋服を作って着せたりして楽しんでいます。  2021年に夫が他界しました。 コレクションの時だったのであまり悲しんでいるという感じはなかったです。 去年3回忌をしましたが、ピンとは来なくて、ずっと一緒に暮らしている感じです。 

ファッションと言うけれども、毎日着るものと言う風に、単純な事でいいんですね。 自分でいかに楽しむか、喜びをどうしたら感じるのか、マフラーをするとか、ちょっと違う事を加えると何か楽しくなるものですから、持っているものを工夫すると良いと思います。  デニムもいろいろあるので、受け入れて使っていただきたい。(取り入れやすい。)   「楽しみは自分で見つける事。」   小さな喜びを見つけていただきたいですね。(目を向ける。) 「笑顔で自分も周りの人もハッピーにしよう。」  笑顔で嫌な気持ちになる人はいないですね。 服作りが私の生き甲斐なので、皆様を元気付けたいです。 






 
























2024年2月6日火曜日

草野浩二(元音楽プロデューサー)     ・「昭和を彩ったカバーポップスの先駆者」 

草野浩二(元音楽プロデューサー)      ・「昭和を彩ったカバーポップスの先駆者」 

草野さんは1937年東京都出身(86歳)、大学卒業後1960年東芝音楽工業に入社、製作部のディレクターになり初仕事の「悲しき六十才」がヒットします。 60年代の洋楽のカバーポップス全盛時代を築き、以降和製ポップス、ベンチャーズ歌謡などを手掛けます。   去年その足跡を「見上げてごらん夜の星を」という本のタイトルにまとめました。 担当したアーティストには坂本九、森山加代子、弘田三枝子、奥村チヨ、欧陽菲菲など一世を風靡した皆さんの名前が並びます。 草野さんが手がけたヒット作品を交えて昭和の音楽史を振り返ります。

父親と兄貴が楽譜の出版の仕事をやっていました。 子供のころから音楽好きで、音楽に関わる仕事をしたいと思っていました。 音楽に関係のあるレコード会社に行きました。(東芝レコード会社)  ディレクターになって、ダニーと友達でした。 東芝は専属作家が少なく、又演歌もやりたくなかったので、入社3か月ぐらいで「悲しき六十才」を手掛けることになりヒットしました。 カバーポップス(外国の曲に日本語の詞を付けて作る。)は雪村いずみさん、江利チエミさんがポツンポツンとやっていました。 坂本九、とか森山加代子がやりました。 詞は岩谷さん、漣 健児(さざなみ けんじ 兄のペンネーム)、南川潤さんだったりしました。  選曲は僕がやりました。 メロディーが日本人向きかどうかですね。  ふた月に一遍は出していました。  お金もかかるので録音も1曲1時間が原則でした。  

弘田三枝子は歌がうまくて、オーディションの時にびっくりしました。(中学2,3年) パンチのきいた歌い方が良かった。    

*「子供じゃないの」 歌:弘田三枝子  訳詞:漣健児

1960年代の半ばから日本のポップスが出てきました。 NHKのバラエティー番組「夢であいましょう」永六輔、中村八大、坂本九でいろいろな歌が誕生。 上を向いて歩こう」が誕生する。 ヨーロッパ系のレコード会社が上を向いて歩こう」(女の子が歌う。)を出すようになって、アメリカに住んでいる日本人が本物はこれだという事で、アメリカの放送局に送って、それから坂本九(日本語の歌)がかかるようになりました。 アメリカで大ヒット、第一位となる。

上を向いて歩こう」 歌:坂本九  作詞は永六輔、作曲は中村八大

和製ポップスが盛んになってゆく。  「見上げてごらん夜の星を」 作曲がいずみたくさん、筒美京平さんも出てきます。  グループサウンズが出てくるが、関わりそこないました。 一過性のものだと思っていました。  「ブルー・ライト・ヨコハマ」のいしだあゆみ 作曲:筒美京平  ピンクレディーなどが出てきます。  奥村チヨはいろんな違うジャンルでヒットを出しました。  小唄を習っていたので、その歌い方を取り入れて僕が教えました。 「恋の奴隷」に生きてきました。  演歌調なので最初は抵抗していましたが、売れちゃいました。  

*「恋の奴隷」  歌:奥村チヨ  作詞:なかにし礼 作曲:鈴木邦彦

ベンチャーズの担当ディレクターからカバーでやってくれないかと言う話がありました。  最初は「北国の青い空」、「京都の恋」、「雨の御堂筋」などみんなベンチャーズです。

*「雨の御堂筋」  歌:欧陽菲菲  作詞:林春生  作曲:ザ・ベンチャーズ

80年代、オリジナルをやる様になります。  シンガーソングライターが出てきます。 (ユーミン、中島みゆきほか。)   ヒット曲を作るには、他人が歌いやすいという事ですかね。   歌い出しをタイトルにするという事は多いです。 上を向いて歩こう」、「見上げてごらん夜の星を」とか。 今の歌は詩ではなく文章になってしまっていて、余韻と言うものがない。



















2024年2月5日月曜日

穂村弘(歌人)             ・ほむほむのふむふむ

穂村弘(歌人)             ・ほむほむのふむふ 

ゲスト:笹公人さん
1975年東京都生まれ、17歳のころ寺山修二の短歌を湯んだことがきっかけで、短歌を始める。 1999年未来短歌会に入会。 岡井隆さんに師事。 2003年第一歌集『念力家族』刊行。 後にNHKでドラマ化されました。 その後『念力図鑑』、『念力ろまん』などを発表、最近の歌集は父親の介護を詠んだ『終楽章』です。 去年出版された『新短歌入門』はNHK短歌のテキストの人気連載『念力短歌入門』を書籍化したものです。 現在は「未来」選者、俵万智さんとアイドル歌会の選者も務めています。 大正大学客員准教授でもありミュージシャンであり、作詞家でもあり幅ひろく活躍しています。

笹:念力とか超能力、オカルトとかと言う言葉が好きです。 第一歌集『念力家族』が家族全員が超能力を持っていて、そういったストーリー立ての歌集を出しました。 

穂村:僕より一回り以上年下なのに、僕より上の世界観で、念力という言葉も昭和的な言葉ですよね。 付き合っている周りの人も年上が多いですよね。 
笹:皆と同じ所へ行きたくないというのは根本的にあるんですね。 それで短歌に行ったんじゃないかと思います。
穂村:歌人はインドアーの人が多くて、繊細でしゃいで、と言った感じですが、笹さんは割とそうではないような。

「少年時友とつくりし秘密基地ふと訪ぬれば友が住みおり」  笹公人          驚きと笑いとノスタルジーがある面白い歌です。                          笹:発表したのは20年以上前ですが、社会も時代によって変わってくるんだと思いました。  

*「押し入れの主なり大き瓶のなか紅茶きのこはさびしくそびゆ」   笹公人
笹:大きな瓶の中にクラゲのようなものがあり、なんだろうと思って、気持ち悪いなあと思いましたが。 こんなのが流行っていたというのは凄いですね。
穂村:押し入れと言う言葉自体が段々判らなくなってきている人が居ます。 短歌の会で「畳」という題を出した時に、畳体験がない人が大分いました。

*「ブロック塀に書かれた鳥居に手を合わす幼き姉妹に涙溢れる」   笹公人
穂村:この歌、好きだなあ。 小さな神様がここにいると信じて手を合わす幼い姉妹がいて、それを目撃した人が居る。 
笹:本当に見ました。 きゅんとしました。

「修学旅行で眼鏡をはずした中村は美少女でした。それで、それだけ」   笹公人
穂村:前半はあるパターンかもしれないが、内心ドキッとしたが物語は起きなくて「それでそれだけ」ということで、思春期はそういった連続で、何も起きない日々をずっとそれでそれだけ」を生きるという。
笹:その時でしか見えない姿と言うものはあります。  告白などできないし、念力に頼るしかなかったですね。 寺山修司青春歌集を読んで、自分でも作りたいなあと思いました。
 
「体温計くわえて窓に額つけ「ゆひら」だとさわぐ雪のことかよ」    穂村弘       
笹:短歌を始めた頃、短歌の例が古いんです。 おしゃれだし、現代を捉えているなあと思いました。 新鮮な驚きを覚えています。

「酔ってるの?あたしが誰かわかってる?」「ブーフーウーのウーじゃないかな」穂村弘
笹:酔って恋太同士のおちゃらけ場面だと思います。 
穂村:若い人は「ブーフーウー」を誰も知らなくて。

笹:バンドは高校生のころからやっていました。 なんかの大会で優勝して、CDも出しましたが、全く売れませんでした。 短歌は入選したりして、「未来」に入会し短歌の世界に入りました。

*「戦争で死にたる犬や猫の数も知りたし夏の千切れ雲の下」     笹公人
穂村:笹さんが壇上で泣いていて、ウズラが亡くなったという事でした。
笹:会場に向かう時にウズラがなくなったという事を獣医から電話で聞いて、打ち合わせをしている時から号泣していました。  動物を飼うのは好きです。 

*「色彩都市」  歌:大貫妙子  編曲:坂本龍一

「サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい」   穂村弘
笹:透明な痛みみたいな、戦時中と比べれば天国みたいなところだけれど、それでも悩みが多いという、自問自答している、バブル時代の象徴的な歌だと思います。

*「あぜ道の彼方に灯るコンビニが宇宙母船に見えてふるさと」     笹公人
穂村:ユーホーの母船の様だという、しかしそれが自分の故郷だったという、普遍性のある歌だと思います。

*印はかあん、漢字など違っている可能性があります。