農口尚彦(能登杜氏) ・伝説の杜氏 魂の酒づくり
農口さんは1932年 石川県珠洲郡内浦町(現・能登町)に生まれ、父、祖父ともに杜氏の家でした。 16歳から酒つくりに携わってきました。 静岡、三重での酒蔵の修業を経て28歳で石川県の酒蔵の杜氏に抜擢され、廃れかけていた山廃仕込みを復活させます。 農口さんの酒は人気を博し、その名が全国に知られるようになりました。 吟醸酒や山廃ブームの立役者である農口さんは二度の引退を経て、2017年杜氏として復帰、現在は小松市に6年前に作られた農口尚彦研究所の杜氏として全国から集う若手醸造家の卵たちに、惜しみなく酒作りの技を伝えています。 農口さんが魂の酒と呼ぶ酒作りとはどういうものなのか、90歳の今、次の世代に何を残そうとしているのか伺います。
新酒が出来る12月ごろに青い玉を付けて,少しづつ赤くなっていって行きます。 今年は米が不作で心配していましたが、作ってみると本当にいい酒が出来ました。 スッキリしてちゃんとうま味のある切れ味のいい酒だと思います。 ノートを付けていて、数字がびっしりと書かれています。 温度、時間、水分量、手触りの感覚などを全部記録しています。 さかのぼることで、今年はどう言う風にしたら一番いいかがわかる。 25のタンクに仕込むのでどのタンクの酒が、どういう過程を経てどんな味になったのか、という事が一つ一つ記録されています。 米の出来も毎年違いますから、そのそれぞれの記録を見て、やり方を検討します。 勘では何の数値もない。 理論的にちゃんとしたものを持つ、そしてその都度の勘を働かせる。 70年杜氏をしているので70冊あります。
麹室、普段なら35,6度あります。 細長い部屋に2m×10mぐらいのテーブルがあり、アルミの天板になっていて下に温度調節ができるようになっている。 ここに蒸したお米を広げて、麹菌を振るわけです。 一晩だけ寝かします。 朝4時、5時に起きて機械で砕きます。 隣の部屋には木の桶があり、一杯に盛って菌をお米の中心迄しみこませます。 ブドウ糖に替える酵素が一番できるところです。 酒の味が違うのもここで、一番大事な工程なんです。 口に麹を含んで、硬さ、美味さが判ります。 いい麹はさばきがよくて、綺麗な味が残ってゆく、栗のような香りがする。
身体を動かす運動、人生には大事です。 能登杜氏の発祥の地としても知られています。 父は正月でも杜氏の仕事で居なくて寂しい思いをしました。 16歳で静岡に、三重での酒蔵の修業をしました。 初めのころは掃除洗濯から媒酌の料理作りまでしました。麹係の見習いもして、温度、時間、確かめ方など徹底的に教えられました。 4年でしっかり覚えました。 28歳で石川県の酒蔵、菊姫の杜氏に抜擢されました。 社長からは本を読めと言われて、小説は面白おかしく書いてあるが、書いた人が読んだ人たちに 自分の思いを必ず書いてあるはずだから、それを読み取らなければ、小説を読む資格はないと言われました。 社長からは酒のことは分からないけれど、いい酒を作ってくれと言われました。 綺麗な酒を作ったら山仕事をしている人たちからは薄い酒だと言われてしまいました。 飲むものの気持ちになって作らなければいけないと1年目に感じました。 山廃を作ろうと思って作ることにしました。 発酵を促す段階で、酸性を強めにするために乳酸を入れて早く醸造してゆく、それを速醸と言います。 安全に楽に出来ます。 当時は全部速醸でした。 山廃には手間もかかるし設備も必要になります。 山廃は幅のある味になります。 3年間山廃の修業をしました。
吟醸作りもしました。 東京の日本酒の愛好家たちが、吟醸酒が美味しいという事で、米を手配するから作ってほしいと言われました。 吟醸酒ブームになりました。 米のうま味が生きていて、香りが良くて、味が良くて、そういう吟醸でした。 喉を通る切れ味の良さも必要です。 汗水たらして働く時代、エアコンなどでの環境下の時代、時代と共に酒作りも変わって来ます。 お客さんの声を聞くことが大事です。
人材の育成にも努めています。 4年目の篠宮光則?さん(36歳) 以前は半導体を扱う会社で働いていました。 酒作りは勿論ですが生き方そのものも教えてもらっています。 情熱の凄さに感動します。 もっともっと聞いて欲しいと私(農口)としては思っています。
『魂の酒』発行。 市場の動きを知る、市場の動きに合わす酒作りをしなければいけない。 海外ではどういうものが喜ぶだろうと思っています。 それに合わせた酒を作って市場を開拓していきたい。