2022年5月31日火曜日

津田直士(音楽家)           ・【わが心の人】 小林亜星

津田直士(音楽家)           ・【わが心の人】  小林亜星 

小林さんは1932年(昭和7年)東京の生まれ。  作曲家として、俳優としても活躍しました。  2021年5月30日亡くなりました。(88歳)    

津田さんは1961年生まれ。(60歳)  大学卒業後、CBS・ソニーに入社、 ディレクターとしてX JAPAN(当時は)の才能を見出す。   僕はクラシック音楽が好きで、YOSHIKIもクラシック音楽の素養があり、作曲に小さなころから興味があって、名曲だけを選んで聞くのが好きなところがあって、名曲にはどこか共通するところがあって作家のピュア性みたいなものが影響していることが判って、YOSHIKIにも名曲を生む才能があることが判ってしまったんです。  そこからエネルギーがどんどん増していたという事があります。   作曲家としても工藤静香さんに楽曲を提供したりしてきました。  中学2年の時に急にピアノが弾きたくなりました。   翌年には自分で作曲して文化祭で弾き語りをしたりしていました。 それから止まらなくなりました。  家にはバッハとヴェートーベン、チャイコフスキーのアルバムがあり聞いていました。  小学校4年の時に音楽の授業でバッハの音楽が流れた時に、心の変化があり、心臓から涙が出ているという、それが衝撃でした。  音楽とは関係ない早稲田大学に入って、2年の時に突然仕事を頼まれて、プロの道に入って行きました。  今は作曲家、プロデューサー、音楽ユニットI.o.Youとして活動。

幼稚園の頃衝撃を受けたのが「キングコング」の主題歌でした。(小林亜星 作曲)   「ひみつのアッコちゃん」で衝撃を受けました。   好きなメロディーと言うと亜星さんのものでした。  10年ぐらい前から亜星さんの凄さを伝えたくなってしまいました。  インタビューが実現しました。(2019年)  時間が2時間程度と言われていて、インタビューが始まりました。   繊細で温かいし、偉ぶらない人でした。  話が弾んで気が付いたら4時間以上になっていました。   その後軽く飲みながら話そうかとお誘いいただきました。  トータルで9時間近く伺いました。   

亜星さんは第二次世界大戦のころに少年時代を迎えているので疎開していて、ハーモニカを持って行って疎開先でよく吹いていたという事でした。   慶応大学の医学部に進むが、音楽活動では進駐軍の人たちに向けて演奏していました。  原点がジャズですね。   ジャズを中心にアメリカの音楽1000曲ぐらいを何時でも弾けたという事でした。     曲のクライマックスは高い音が常識ですが、亜星さんの場合は一つの音に意識していたと言っていました。   例えば「北の宿から」高く上がっていく一か所。   自分でも一点に修正するようなこともあります。    心の先生みたいな存在です。   

ストイックな方です。  生まれてくるメロディーを生むことができる作曲家の人たちは物凄くピュアなところがある。    亜星さんはピュアなところがメロディーに現れていて、次にこのリズムでここにゆくというのが全部素直なんですね。   だから純粋でまじりっ気が全くない。   長調で素直なメロディーなのに必ず心がキュンと、切なくなるところが何故かあって、音楽家のプロでも謎なんですね。    メロディーに心を託すことができる人なんだと思います。    CMソングを作る時にはその社長さんに会うという事ですが、どういうCM、どういう音楽がいいのか判るという事でした。   その姿勢が僕に響きました。   歌謡曲は少なく、CMとかアニメーションの音楽が多い。    亜星さんの人間性を含めて、名曲を生む芸術家そのものだと思いますが、世の中は「寺内貫太郎」の頑固おじさんと言うほうが強くて、全く僕の印象とは違います。   

音楽だけでなく芸術って、時間が経ってから本当に評価されることが多いので、亜星さんはこれから再認識されて再評価されるのではないかと思っています。   

作曲って、生まれる時は本当にその前にあるんです。  生まれない時には生まれないんです。   だから無理に生もうと思ってもしょうがないんです。  いつ生まれるか判らない。  音楽ユニットI.o.You」 井上水晶さんと共に活動。  井上水晶さんは詩を書き、作曲、歌も歌い、ピアノも弾きます。   Webを大事にしたいと思って、Webを中心にしながら、ライブをやったりしています。  

*「あなたの情熱を守りたい」  I.o.You


2022年5月30日月曜日

春風亭小朝(落語家)          ・横丁の若様と呼ばれて 後編

春風亭小朝(落語家)          ・横丁の若様と呼ばれて 後編 

俳優、楽器を使う、指揮もする、作家としての仕事もする。  2008年「篤姫」2014年の「軍師勘兵衛」 2020年「麒麟がくる」で役をこなす。  鬼俳犯科帳に出演しましたが、何故鬼平犯科帳はしっとりした感じになるのかなと思ったら、スタッフが余計な口を一切きかないんです。  役者の気持ちが削がれないんです。   長火鉢、煙草盆が置いてあるが、芝居のシーンでは使わないが、全部使える様になっている。   これは凄いことだと思いました。   鬼平がただ歩いて来る場面があるが、数分前に霧を吹くんです。  道とか柳の木に霧が振りかけられ、画面に映った時のしっとり感が違うんです。  演出を含めてお芝居は勉強になります。   

芝居との相乗効果で落語にとってもいい効果が出て来ます。  但し、落語と芝居の同時進行は辞めた方がいいと思います。  「軍師勘兵衛」の時に明智光秀をやらせてもらいましたが、明智光秀が最後に竹で刺されて死ぬシーンがありますが、そのシーンを撮る前が落語会だったんです。  光秀のことが気になってしょうがなくて、どんなふうに落語をしゃべったのか判らなかった。   同じ日にドラマと落語はやってはいけないと思いました。  

1955年(昭和30年)生まれ、67歳。  両親が落語が好きで、寄席に連れて行ってくれて、僕が寄席に行くと泣かない子だったらしいんです。   小学校4年生の時に上野の鈴本に行って、亡くなった柳家 三亀師匠が色っぽい都都逸をやっていたらしいんです。   下ネタなので大人が変な笑い方をするんで、子供心に聞いたことのない笑い声なので、初めてこれは大人の世界なんだと認識しました。  面白いと思いました。  一人で行くのは映画館は絶対ダメでしたが、寄席は寄席のプログラムさえ持ってくれば行ってもよかったんです。  一人でも行くようになりました。   ヴァイオリンは当時ずーっとやっていました。   母は落研だったようです。  母は的確な批評をしていました。  中学1年生の時に「しろうと寄席」では5週にわたり勝ち抜き、チャンピオンの座を獲得しました。 桂文楽師匠から褒められて、落語家に成ろうと思って、3年生の時に5代目春風亭柳朝に入門しようと思って行ったら最低高校ぐらい出ていないと駄目だと言われました。  昼間は東京電機大学高等学校に通いながら夜は寄席と言うあまりないパターンでした。   昼間は野球とかが話題で夜は猥談したりの世界で変なバランスでした。  

小学校4年の時に末廣亭で落語を聞いていたら、談志師匠が「芝濱」をやっていて、聞き入って持っていたアイスクリームが溶けてなくなってしまっていて、落語ってすごいと思いました。  最初奇術が好きでしたが、タネがあるのでつまらなくなり、漫才に入れ込みましたが、落語に出会ったら、そこからですね。  最初桂文楽師匠に手紙を出しましたが断られて、春風亭柳朝師匠の面白さと、着ている着物が凄いのと、優しそうだという事で最有力候補になり弟子入りすることになりました。 (1970年に入門)    1976年に二つ目になる。  通常3年でなるが、当時は凄く弟子が詰まっていた。   1980年に25歳で真打昇進、36人抜きでした。    妬みと言うようなことはなくて、むしろなった後、どういう行動をとるのかを観察していて、そっちの目の方が怖いです。    先輩で人気番組に出て有名になって、或る時師匠と一緒に歩いていたら、その先輩と出会って、僕が挨拶したら、師匠に対しての挨拶がほんの軽いもので、師匠は「しょうがないなあ」と言っていましたが、それがすべてですね。  

師匠から言われたのは「修業しているうちに好きな先輩が出来てくると、その先輩になつくようになるがそれはいい。  その人が何かでこけた時にそこから離れるなよ。  その先輩がどうなろうがその先輩についていきなさい。」と言われました。   今でも守っていますが、それをやるともの凄く評判が悪くなりますね。   いいんです共倒れすれば、その人が好きなんだから。  

1994年(28年前)「ふるさと愉快亭 小朝が参りました」で司会を担当。  画期的でNHKで個人の名前が使われた事はないんです。  100歳の方、140人にお目にかかっています。  2003年に作った「六人の会」、落語会が停滞していて活性化しなければいけないという事と、東西があまり仲良くなかったので作ることにしました。  (笑福亭鶴瓶 、9代目林家正蔵、春風亭昇太、立川志の輔柳家花緑、春風亭小朝)  その下の世代も頑張ってきてよくなってきたと思います。   今年の末には皆さんがアッと驚くようなことをやらせていただきたいと思っています、画期的です。




2022年5月29日日曜日

春風亭小朝(落語家)          ・横丁の若様と呼ばれて 前編

 春風亭小朝(落語家)          ・横丁の若様と呼ばれて 前編

今年67歳、入門から52年の小朝さんは、今年2月長年にわたり日本の文化芸能の保存向上に寄与した人に贈られる松尾芸能賞優秀賞を受賞しました。  小朝さんは一家そろっての落語ファン、幼少のころから落語に親しんでいました。  中学卒業後1970年に春風亭柳朝師匠に入門、「横町の若様」のキャッチフレーズで人気になって、26歳の時に36人抜きで真打に昇進しました。   落語の世界に入門してから52年になる春風亭小朝さんに伺いました。

CD、DVDとかありますが、無断でユーチューブにアップされて本当に困りまして、それを聞かれるのはどうなんだろうと思いまして、違法のアップロードは辞めて欲しいと思います。 第43回の松尾芸能賞受賞。  歌舞伎俳優、能狂言、舞踊とかの人が取る賞だと思っていしています。  「笑うセールスマン」の実写版で伊東さんがやった時に、ある会のゲストで登場してあるサラリーマンがどんどん不良になって行く設定で、いっそのこと髪の毛を変えちゃいますかと言うような話になって、髪の毛を金髪に染めました、それがきっかけなのでそのドラマは私に大変大きな影響を与えました。  染めた時にロック三味線を始めたのでいいタイミングだったと思います。   2015年芸術選奨文部科学大臣賞を受賞、2020年、春の叙勲で紫綬褒章受章。  賞は周りの方のものだと思っています。 ひいきにしている方、支えてくれる方、がとっても喜んでくれます。  紫綬褒章の時には師匠の顔がパッと浮かびました。  授賞式の時にはコロナでやらなかったのでショックでした。  

落語の世界も頭ごなしに怒鳴るという事は段々なくなってきて、言い方がソフトになってきました。   最近は褒めるようになりました。   弟子にしてくださいと来るので最初の3年間は師匠のこと、周りの弟子たちのことを知る時期で、コミュニケーションが取れるようになって初めて自分のことを判ってもらうという事なんですが、20年ぐらい前からまず自分のことを判ってもらおうとするんです。   大事に育てられているんで怒られるとか貶される事に慣れていないんです。    そうするとこっちも変わらざるを得ないですね。  現在弟子は6人います。   入門したいと30人以上来ていまいたが、最初にお断りしたり、途中で辞めてもらったりしています。   入る時に必ずいうのは、「これからゆっくりあなたのことを見せてもらうから、将来的なことなど考えて僕の中で駄目だと思ったら辞めてもらう事になるけどいいね」、と言って、「辞めてほかの一門に行くのも構わないから」と言って、そういう約束で弟子を取ります。  

ぴっかり☆」がここで真打になり蝶花楼桃花」に改名しました。  蝶花楼は先代の師匠がつけていた名前です。  桃花という文字はかなり考えました。   けなげに一生懸命やっている姿が好きで、桃花は普段から一生懸命にやっていて、小柄な子で初日なのでちっちゃくなってかしこまっている姿を見たら、もう駄目でした。(涙を流してしまった。 新聞などにも掲載される)  それを見て桃花が号泣してしました。   いま落語協会理事をやっている三遊亭歌る多さんが入ったころは何度彼女の泣いてるところを見たか判らないぐらいでした。  落語はもとより余芸も身に付けて、女性だという事で馬鹿にされないように頑張ったんです。  初めて女性の理事になったんです。 そのおかげでまた新しい理事が出て来ました。  歌る多さんらの先輩が道を作ってくれたおかげで桃花もかなり自由に出来る様になりました。   歌る多さんのころにはまだ偏見がありましたね。

「菊池寛が落語になる日」刊行。   菊池寛さんの命日と私の誕生日が同じで、縁を感じてしまって、短編集を読んだら面白くてこれは落語になるのではないかと思って、菊池寛全集を集めて読んだら面白い。   落語にしようと思って独演会で5年ぐらい続きました。読みやすいものを選んで本に載せました。  9作入っています。   

武道館で落語をやりましたが、どうして武道館でと言われますが、漠然と思っていました。 だから違和感はなかったです。 (1997年)  まだ内容は言えませんが、今年の暮れに落語史上初のことをやる予定です。   昔は谷崎潤一郎さんが大好きでした、なんでこんな文章が書けるのかと思いました。   最近は健康、脳、心理学とかと言った本が多くなりました。   クラシック音楽が好きで聞いていますが、ピアニスト、ヴァイオリニストなどの偉大な方たちが残した言葉などは凄く参考になります、全く共通しますから。  ホロヴィッツと言うピアニストの言葉に「今の若手のピアニストに駄目な理由と言うのがある。禍 10回練習をして11回目の練習を本番でやるから駄目なんだ。」と言うのがありますが、その通りで、本番はどんなに一生懸命やってもリハーサルとは違うものがないといけない。

コロナ禍で大きな公演をやる時にはひと月前から体温を測ります。  正月の浅草演芸場は立見席を入れると、入れ替えがあって一日3000人と言うような時もありますが、今回は一桁というような感じで、遠くでマスクしていて笑いもなく寂しい感じでした。  コロナが起こった年は150本の仕事がなくなりました。   最近は普通になってきましたが。

  

2022年5月28日土曜日

役所広司(俳優)            ・【私の人生手帖(てちょう)】

 役所広司(俳優)            ・【私の人生手帖(てちょう)】

1956年長崎県諫早市出身、東京の千代田区役所に就職の後、仲代達矢さんの無名塾に入塾しました。   NHKの大河ドラマ「徳川家康」の信長役を演じて人気を集めたほか、「Shall we ダンス?」や「うなぎ」などの映画で国際的にも高く評価されるなど、日本を代表する役者の一人です。  あまり語られてこなかった新人時代のエピソードや、役者人生について伺いました。

夜は次の作品に対する資料を読んだり、セリフが方言であるとそれを聞いたりするので寝るのは遅くなります。   子供のころはまだテレビがなくていつもラジオを聞いていました。  テレビは最初隣に見に行っていました。  小学校高学年になるとよく映画(洋画)を見に行っていました。   家が飲料水を瓶詰して店とか映画館に配達していたので、配達に行った時など見ていたりもしました。    東京に憧れて高校を卒業したら行ってみたいと思いました。  千代田区区役所に就職し4年務めました。  土木工事課に配属されて道路工事の図面を書いたり、現場監督をやったりしていました。   友人に連れられて観劇した仲代達矢主演の舞台公演『どん底』に感銘を受けました。    田舎に帰ろうと思っていたが、その前に一寸演劇でもやろうかなと思っていたころに、新聞を見たら無名塾で募集をしている記事を見て受けました。   朗読もパントマイムも何もできなかったが一次試験に受かってしまいました。   二次試験は自分の似合う服装で来てほしいと言われたが、聞き逃して居ました。   えっと思ったが、受かってしまいました。  最終的には4人が合格しましたが、200倍でした。   

無名塾では厳しかったです。  最初の入塾式に遅刻してしまいました。  仲代さんから時間にルーズだからみんなより1,2時間前には来るように言われて、早くいかないと落ち着かない体質になってしまいました。   時間と、ちゃんと挨拶が出来る事、先輩を立てる事、それは耳にタコができる程言われました。  やる気の感じ、うまくなりたいかどうか、と言う気持ちは観ていて判るんでしょうね。    後輩に益岡 徹さんがいて、彼とは一緒に帰りに駅のホームでパントマイムをやったり、いろいろ演技のまねごとをやっていました。

1980年NHK連続テレビ小説なっちゃんの写真館』でテレビデビューしました。  22歳でした。  1983年のNHK大河ドラマ徳川家康』では織田信長役でした。  緊張してセリフが出なかったこともありました。   複数台のカメラで撮られていると、段々気持ちが自由になってきて、自由に出来るといい瞬間があるかなあと思いながらやっていると、カメラの前で自由になった気がしました。   矢張り自由さは大事だと思います。   演技も垢が溜まって来るので、俳優は長く続けていくと不利になって行きますね。    何が力になるかと言うと生まれていろいろ経験してきたことが、芝居に役に立つというか、本とか、見た映画から引っ張り出してくるとか、いろいろかき集めてゆく作業ですよね。   歴史上の人物をやる時にはスタッフが資料を用意してくれるし、それを読むわけですが、本当に存在したその男はどんな人だろうという時に、自分の中で感じたことのあるものを捜してゆく、それに頼るしかないですね。  創造力だけではなかなか上手くいかない。  

しっくりしない時など、こんなシーンを演じるに値する場所、セット、小道具、その日の時間、天候とか、そういうのが助けてくれたりするんだと思います。   不自由な中で自由を見つけるのが俳優の仕事ではないかと思います。  

出会った人が自分を育ててくれたと思っていて、自分は幸運な人だと思います。   役者としては自分は苦労知らずなところがあって、ラッキーなところでスタートしていますが、でも毎回毎回うまくいかなかったなあとか、うまく進むにはどうしたらいいかなという事は、それは毎回です。Shall we ダンス?」では長いセリフがありますが、待たされた時があり、芝居になってとても感情的になって、監督からもっと感情を押さえていきましょう、と言われた時もあります。  

最新作は司馬遼太郎さんの「峠」という原作を元にした「峠最後の侍」というタイトルです。 監督は小泉 堯史さん(長い間黒沢監督の下で助監督をしていた)で美しい映画を撮りたいと、そうしないと黒沢明さんに顔向けできないという監督です。  「峠」は司馬さんが侍とは、武士とは武士道とは何だろうと思って、それを知りたくて書き始めた作品で、主人公は長岡藩家老の河井継之助です。  新政府軍と長岡藩との戦いで約5万人に対した360人ぐらいで戦うが、無条件降伏と言う選択肢はあるが、侍としての生き方を選ぶか、長岡藩の庶民の無事を選ぶか迷うが、美しい人間として汚名を残してはいけないんじゃないかと言う思いがあって、戦争に突き進むわけです。  毅然としてプライドを持って戦った侍は今の日本人にとって勇気を与えてくれるのではないかと思います。  

2022年5月27日金曜日

高澤秀昭(元プロ野球選手・保育士)   ・【みんなの子育て深夜便☆ことばの贈りもの】首位打者から保育士に!

 高澤秀昭(元プロ野球選手・保育士)   ・【みんなの子育て深夜便☆ことばの贈りもの】首位打者から保育士に!

63歳になって保育士として第二の人生を歩み始めた元プロ野球の選手がいます。  高澤秀昭さん、且つてロッテオリオンズで首位打者、ベストナイン、ゴールデングラブ賞などに輝いた名選手です。   高澤さんは還暦を過ぎてから何故保育士を目指したのか、孫のような園児たちと一緒に過ごす毎日はどんな喜びがあるのか、伺いました。

現役を引退してから30年ぐらいになると思います。   出身は北海道沙流郡門別町です。  田舎なので野球のチームはなく、一人で石を投げたり、打ったりしていました。  本格的に野球を始めたのは中学で野球部に入ってからです。  高校では苫小牧工野球部に入りました。その後地元企業から野球をやらないかと声を掛けられ、次にロッテからドラフト2位で声を掛けられました。  アマチュア時代には中央の大会には一回も出たことがなかったです。   ロッテオリオンズでは首位打者、ベストナイン2回、ゴールデングラブ賞3回 、オールスターではMVPにも選ばれました。  

故障がちで30歳を越えると一気に身体が動けなくなりました。  フェンスにぶつかって膝を骨折、デッドボールでも何度か骨折しましたし、肉離れで腰、肩などを痛めました。   13年間プレーしましたが、一軍でプレーできたのは7年ぐらいです。  34歳で引退しました。  その後コーチを17年やらせてもらいましたが、向いていないというか、強い指導力がなかったと思います。   その後、少年野球教室『マリーンズ・アカデミー』子供たちに指導などを行なっています。  保育園、幼稚園にも出張していって、ボールの扱いについて伝えることもしました。   子供の喜んでいる姿を見るのが凄くおもしろいなあと思いました。  10年間教えました。  野球の世界で40年間出来たことは感謝もしていますし、自分自身もよくやり切ったなあと思います。   

次に何をしようかなと思った時に、保育の仕事は面白いのではないかと思いました。   資格を取らないと保育園では働けないという事で、61歳で保育士の資格取得を目指して大原医療秘書福祉保育専門学校に入学しました。 周りは18~20歳ぐらいがほとんどでした。  二軍のコーチ時代は同年代を指導していたので、比較的すんなり慣れました。 2年間の中で色んな教科の座学、実習授業、ピアノの授業、行事などの実践に即した授業なども行います。   勝手が判らず随分と戸惑いました。   ピアノは全然やったこともなく、自宅近くのピアノ教室にも週一度通って、クリア出来ました。   野球をやっていたころにハーモニカは遊びで吹いていました。  無遅刻無欠席で過ごして、今年3月には卒業と同時に保育士の国家資格を取ることが出来ました。 嬉しかったです。  

就職にあたって、今回人生で初めて履歴書を書きました。  初出勤はドキドキでした。  子供の笑顔を見ながら仕事ができるという事は、選んでよかったなあと思います。    現在の担当は1歳児です。   メディアで取り上げられたりしたので、保護者の方と気持ちを通じ合えるのに役立っているのかなあと思います。   

プロ野球選手は100人入って来ると100人が辞めざるを得ないので、若い選手が結構辞めてゆきます。   こういう道もあるんだなという事を参考にして貰えたらなと思います。家内が大分前に亡くなって娘と二人だけですが、これをきっかけに随分話すようになりました。  こうやって導かれたとか、こうやって生かされているという事を随分感じます。 妻を亡くして人間いつかは死ぬんだと、残り時間をやりたいことをやりたいと思っています。  自分はまだ体が元気なので世の中の何かに役に立ちたいという思いがあり保育士を目指しました。  

 

2022年5月26日木曜日

出光佐千子(出光美術館館長)      ・【私のアート交遊録】仙厓さんのゆるかわワールド

 出光佐千子(出光美術館館長)    ・【私のアート交遊録】仙厓さんのゆるかわワールド

仙厓は僧侶としての顔以外に画家としても大活躍、世に送り出した作品は可愛すぎて病みつきになるゆるかわな日本画として一目見ただけでも見るものを幸せな気分にしてくれると今でも高い人気を誇っています。  その仙厓の日本随一のコレクションを誇るのが東京の出光美術館。  出光美術館は東洋古美術を中心に国宝2件、重要文化財を57件をふくめおよそ1万件を所蔵する美術館です。   中でもおよそ1000件からなる仙厓コレクションは質量ともに日本一、今年1月には仙厓ベスト100アートボックスを纏めています。   出光美術館の出光佐千子館長は仙厓は可愛くて思わず笑ってしまう作品ですが、実はなかなか正面切って言えない辛辣なことを緩い絵に包んでいるんですと話します。  時代を越えて人々の心を癒す仙厓への絵の秘密、緩さの秘密を探ります。  

仙厓は禅のお坊さんで厳しい修業を積んだお坊さんです。  仙厓の父親は貧しい農家の生まれで、岐阜県に生まれました。  仙厓は11歳の頃清泰寺で修業を積んで出家して、義梵という僧号を得ました。  19歳の時、武蔵国久良岐郡永田(神奈川)の東輝庵に住する月船禅彗の元でさらに修業を重ねてゆきます。    白隠とは絵のスタイルが違って、最初は狩野派を学びますが、独学で自分のオリジナルが出てゆくような、凄く人間的な味わいのあるようなものが多いわけです。  

「〇、△、□」の作品  辻惟雄先生はこれは「おでん」じゃないかと言っていますが。  一説には〇が禅宗、△が真言宗、□が天台宗と言うように仏教に3つの宗派を象徴させて組み合わせたという説もありますし、仏教と儒教と神道の3つの三教一致の思想を示したという風に考えられたりして、様々な解釈があります。  よく見るとどこから描いたのか判らず、墨の濃さから見ると〇が一番濃くて、〇、△、□と言うのが□、△、〇と言う風にも見えて面白い。   博多の聖福寺に収められていたものですが、仙厓が来た時には伽藍が崩れていて、何とかしなければいけないという思いがあったようです。  現代アートのような、いろんな考え方を思い起こさせてくれる絵です。

「一円相画賛 」 左に「これくふて茶のめ」と書いてあって、右側に大福もちのような〇が描いてあって、「大福もちを食った後にお茶を飲んで」と言っている。   一つの円相を画いて真如法性等を表すことをいう。  色即是空にひっかけて、これ=是 くふ=空 とダジャレ的なものだと思います。  単なる〇は大福もちにも見える、円相をもっと深く学びなと言うような思いがあったものと思います。  毎日円を描き続けてみるのもいいかもしれません。  心が穏やかな時には綺麗な円が描けます。   

月布袋画賛 」 子供たちと戯れる布袋さんのほのぼのとした情景、子供の手は両手を上げている。 両手の先に丸いお月さんがある。 絵の横に「お月さん幾つ十三七つ」と書いてある。  当時はやった子守歌が書かれている。  月は描かれてはいなくて我々には見えないところに月がある。  布袋さんが遥か見えない月を指さしているところが重要で、禅の言葉に「指月」の教えと言うのがあり、指は経典を表していて、月は悟りとか真理を表している。 お坊さんは一生懸命経典を読んでいるけれども、それは布袋さんの指先を見ているようなものであって、月すなわち経典の奥にある真理を理解し読み解き悟りの境地に行かなければならない、と言うのが「指月」の教えです。   祖父・出光佐三がこの絵を見てほれ込んで仙厓を集めるきっかけになった作品です

最初は禅僧に対して描いていたが、後に一般の方に対しても描くようになったようです。 出光美術館には仙厓の作品だけでも1000点あります。

「牛若弁慶五条橋画賛」  おそらく庶民の子供のために描いたのではないかと思います。弁慶が薙刀を振るっているが、残像があり今風の漫画です。  「蝶々とまれ、なたねの花こふてくなしよ」と書かれている。   蝶々は牛若丸のことを言っていて、牛若丸は両手を広げて蝶のように舞っている。

本当に上手いのかと思う様な絵ですが、実は筆の動きとか本当に上手くて、狩野派できちっと勉強してんるんです。  何故か技巧的なものは描かない。  仙厓の絵の面白さは技巧を越えたところにあって、仙厓は外画の法と言うのを途中から言い出す。  仙厓の絵にはルールがない、自由に見てくださいという事です。   虎の絵を描いているがどう見ても猫にしか見えない。  脇に「猫か虎か」と自虐的に書いています。  

蛙が座禅を組んでいる絵がありますが、座禅を組むだけなら蛙もできるよ、という事が書いてあって、座禅を組む弟子はそれを見てドキッとするわけです。  

仙厓が生きた時代は地震、天明の大飢饉があったり災害も多かった。  寛政の改革もあり厳しい江戸中期の時代で庶民は厳しい生活をしていた。   心をほっとさせるような絵で励ますというような思いがあったと思います。   既成概念を思い切って打ち破ろうという思いがありました。   

絵は一回で心に入ってゆくし、「呵呵大笑」と言って禅の世界では重要で、笑う事によって無心になる、無邪気になることで悟りの境地に近づく事になるわけで、仙厓の場合は笑わせておいてよくよく見ると厳しいことを言っている。  「さじかげん画賛」と言って、おおきな匙が一つ描かれているだけのもの。 「生かそふと ころそふと」と書かれている。    夫婦げんかで来た人に渡したと思われるが、「相手を生かそうと殺そうとあなたのご自由にどうぞ」という事です。  家庭円満な夫婦になったのではないかと思います。

出光佐三の家は藍染め問屋で、美術が好きでたまたま月布袋画賛 」を見て恋に落ちたと言ったそうで父親に言って購入したそうです。  仙厓を軸に東洋コレクションを収集してゆくわけですが、90歳を越えて「自分の人生は美にリードされてきた」と言う言い方をします。  出光佐三は仙厓の絵から人間尊重と言う哲学を編み出してゆくわけですが、〇〇主義なんてどうでもいいじゃないか、人間が大切なんである、という事でした。   仙厓が意図したところは経典の意味ではなく、これを見た方が幸せになってほしいという願いが、一本あって、出光佐三の胸に来るものがあったんだと思います。  出光の会社の理念にもなっていますが、「人間第一」と言うのを仙厓から教えられたものだと思います。

私は美術とは関係ない大学でしたが、実家が美術館と言う事もあり、何となく小学生のころから見てきました。  楽しそうに話をしている学芸員を見て、学芸員を目指しました。  ある人から「出光佐千子さんが文人画に惹かれるのは判ります、だって仙厓から始まったじゃないですか」と言われて、アカデミックな世界ではなくて、ルールにはまらない世界に憧れて生きてきたんだと、そこで初めて気が付いて、私の原点もやっぱり仙厓にあったと思いました。  父から「一度ゼロに戻って物事を考えなさい」と言われて、一番大切な事って何だろうと思えて、非常にシンプルに物事を考えられ、すぐ次の行動がわかると言いますか、仙厓に教えられた教えだと思います。  お勧めの一点は「堪忍柳画賛」です。  堪忍柳という柳の大木の絵があり、その横に「気に入らぬ風もあろうに柳かな」という仙厓自身の句があります。  会社倒産した人がこの絵を見て、今の自分は強風に吹かれている柳じゃないかと思って救われたという話も聞きました。  祖父の写真の替わりに支店にも飾られました。



2022年5月25日水曜日

福田清治(市民グループ代表)      ・【心に花を咲かせて】過疎化から脱却、木漏れ日の里に!

 福田清治(市民グループ代表) ・【心に花を咲かせて】過疎化から脱却、木漏れ日の里に!

福田さんが暮らす山口県の北部にある周南市鹿野地区では過疎化、高齢化が進み、多い時には9000人もいた人口が10年後には2000人以下になると言われています。  このままではいけない、地域に人を呼び込もうと活動を始めた福田さんは、仲間と一諸にコナラの木を植えて、ゆったりとした時間を楽しめる木漏れ日の里を作ろうとしています。   どんなところでどんな思いで活動しているのか伺いました。

標高1000m以上の山が3つあります。  津和野、萩に約40分から1時間で行けます。   自然豊かですが、コンビニもなく不便な場所でもあります。   地域の周辺が高齢化して、人が少なくなってきている、という事で危機感を感じたというのが大きな原因かなと思います。  今は2850人で10年後には2000人以下になると言われています。   耕作放棄地はどんどん増えて美しい風景がどんどん失われて来ています。  空き家が廃屋になって行く。何とかしたいと思いました。   ある分岐点を越えると手が付けられなくなって地域の弱体化がどんどん進むことが予想されます。   次の世代には希望を持たせてあげたいと言う思いはあります。  

カフェを長年やってきたので仲間もいるので、交流人口を増やそうと或る企画を立ち上げました。  地域の飲食店などと季節的な商品を使ってスイーツを作って期間限定で発信しようとしました。   マスコミにも知れ渡って沢山の人が来ました。  2年ほどやりましたがこのままでは長続きしないのではないかと考えて、地域の魅力を高める、磨き込むという事を宣伝するにはどうしたらいいかを考えました。   盛り返している地域を観察すると雑木林作りしているのを見受けました。(湯布院、黒川温泉など)    そこに活動の原点を見出しました。  ゆったりとした時間を楽しめる木漏れ日の里を作ろうと思いました。  コナラを植えるのは湯布院、黒川温泉の流れを取って、統一感のある地域にしたいと思いました。

まずは一本のコナラを植えることにしましたが、人様の土地に植えるので理解してもらうのに苦労しました。  8年間をかけて30か所、本数で89本植えましたが、まだまだ足りなくて長い時間が必要だと感じています。   ボランティアで金がないので、東京の大手企業、財団などに声を掛けていくつか支援をいただいています。   3年前からオープンガーデンをやろうという事で開始しました。    「山野草のエキ」と言う森があり、伊藤芳高さんが92歳になるまで17年かけて築いた森なんです。  或る縁で我々が保存活動していて、これがオープンガーデンの核になっています。   「山野草のエキ」は今では四季を折々の花が次々と咲き、遠く県外からも見学者が絶えない無料で見られる西日本唯一の山野草の森です。   伊藤芳高さんは亡くなられて、保存活動は32名でやっています。   伊藤さんは75歳から始めて、苦労して植えてきたので、見る方もただ花がきれいだと言って観るのではなくて、伊藤さんの苦労も想像しながら観ていただいたら花の見方も全然違ってくると思います。  鹿野にはこんな素敵な場所があるのと、新たな発見の場所があります。  

最終的な目標は高齢化と人口減少はオープンガーデンをしたからと言って解決する問題ではないので、人、金、もの、情報が循環し始めて、次の世代が希望を持てると言いう事を何度も考えました。   この地域が繫栄する一つとしてはカフェが10軒、20軒と増えた時に初めて地域の活性化が持続可能で行われる。  古民家の再生、他地域からの家族の移住、地域の食材を使って消費、など様々な恩恵があるので、地域の価値を高めて起業家できやすい環境を整えているプロセスの途中だと思っています。   2025年ごろには道筋を立てていきたい。   この2,3年飛躍的に目標に向かって前進しているかなと思います。     これからは行政とも連携しながら目標に近づけたいと思います。




2022年5月24日火曜日

白崎映美(歌手)            ・歌と酒田を愛して60年

 白崎映美(歌手)            ・歌と酒田を愛して60年

1962年山形県出身  1990年「上々颱風(しゃんしゃんたいふーん)」のボーカリストとしてデビュー、日本、世界各地をコンサートで巡りました。  2013年「上々颱風」の活動停止後は、ソロでのライブ活動をはじめ東日本大震災の被災地を励ますために、「白崎映美&東北6県ろ〜るショー!! ︎」 を結成、又故郷酒田市にあるキャバレー存続のために「白崎映美&白ばらボーイズ」を結成しショーを企画するなど、精力的に活動しています。

「月夜のらくだは泣いてるだろか」 湾岸戦争の時に作った歌です。  人間はおろかだなと思って作りました。  「愛より青い海」コマーシャルソングでみんな出ていました。 沖縄の音階を使った歌。  コンサートなどで酒田弁でしゃべるようになってお客さんとの距離が身近に感じるようになりました。  地元の山形新聞で2009年から2021年まで連載していたエッセーをまとめたものが3月に発売されました。  タイトル「あったこほうさ」 暖かい方へ行ったらいいなと言うような気持で付けたタイトルです。  裏表紙は私がステージに立っている姿を絵で描いてくれました。  八王子生活館の、30年以上の付き合いのある貴美子さんです。 

今年還暦になります。  3歳の時に母が食堂を開店。  子供の頃は落ち着きのない元気な子供でした。  でも内弁慶的でした。 中学からスカートを履くのは厭で、中学、高校はズボンをはいていましたので、「男」というあだ名がついてしまいまいた。   1976年中学2年生の時に酒田の大火があり実家が全焼してしまいました。   仮設住宅に入ったのちに、焼け出された人向けの市営のアパートが出来てそこに入りました。  家計を助けるために2年生から高校3年生まで朝の新聞配達をしました。   一面焼け野原で自衛隊の人たちがかたずけていました。   高校2年生の時のバンドに入り、世良公則の曲などを歌っていました。  東京に行きたくてデザインの専門学校に2年間行きました。  酒田弁も東京ではしゃべれないので、無口な性格になってしまいました。  デザインの会社に入りましたが、図面化の実技が駄目で辞めてしまいました。    「紅龍&ひまわりシスターズ」の募集がり オーディションに行って合格しました。   泥臭くて厭だなと思いましたが、続けました。  10年ぐらいは色々なことを考えました。   

2011年の東日本大震災はなんて大変なことが起きてしまったのかと思いました。  東北のあちこちでいろんな歌を歌わせてもらいました。   自然災害だけではなくて原発の問題もあるし、行くたびになかなか前に進んでいかないことを感じますし、忘れる事と忘れてはいけないことがあったりすると思います。   福島のことを何曲か歌になり、あちこちの人に聞いてもらいました。  今年又1曲出来ました。   イスラエルの3人組のサーフロック・バンド、ブーム・パムの人たちが作曲して南三陸町の獅子踊りのリズムを取り入れて、私にも声を掛けてもらって、歌っているCDが出来ました。   

*「聞こえてくる波のように」  歌:白崎映美

酒田市にあるキャバレーの存続にも力を入れています。  全盛期はホステスさんが90人いて連日満員だったそうです。  私が見た時にはホステスさんが5人でお客さんが5人と言うような状況でした。 「白ばら」を盛り上げようと思ってバンド白崎映美&白ばらボーイズ」を作りました。  東北を盛り上げたい、白ばらを盛り上げたいという思いでの立ち位置だと思っていて、そのために歌いたいと思っています。   それに合った姿かたちでそれに合った歌を歌うという感じです。   いろいろいなところの友達と一緒に食堂をやりたくて、庄内米をかまどで炊きたいと思います。  地元の季節の汁物、漬物などを食べていただきたいと思っています。


2022年5月23日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)          ・【絶望名言】不眠症(初回:2019/11/25)

頭木弘樹(文学紹介者)          ・【絶望名言】不眠症(初回:2019/11/25) 

https://asuhenokotoba.blogspot.com/2019/11/blog-post_25.htmlをご覧ください。

2022年5月22日日曜日

村野あずさ(管理栄養士)        ・【美味しい仕事人】 メダルを支えた勝負食

 村野あずさ(管理栄養士)        ・【美味しい仕事人】 メダルを支えた勝負食

今年の北京冬季オリンピックではスピードスケートの高木美帆選手が大活躍しました。   5種目に出場して金、銀メダル合わせて4つのメダルを獲得しました。  その高木選手を食事の面からサポートしたのが管理栄養士の 村野あずささん(49歳)です。  村野さんは総合食品メーカーで仕事をしながら様々な分野のアスリートに栄養指導をしています。  選手がどういう身体を作りたいか、どんな課題を克服したいかを聞くことからサポートがはじまるといいます。  

どちらかと言うと栄養サポートで、選手が自分の目的や課題に対して必要な栄養が、その時々に応じて考えて取れるような、選手の自発的な行動を促せるようなサポートを心がけています。  選手は自分の身体を自分で管理してゆくことを基本的な考えとして持っているので、それをよりよい形にサポートできるようにアドバイスをしたり、課題、目的に応じた適切なアドバイスを選手と一緒に考えながら作ってゆくというサポートです。 

高木美帆選手からは最初は献立を作ってほしいという要望がありました。  一方的なやり方ではなくて一緒に必要なことに対して考えて、実践するのは選手と言うようなやり方じゃないと、選手が行動を身に付けて行かないと、結局はサポートになならないので、時間をかけて毎日付き合ってゆくという事をやりました。   2017年5月ごろから始まりました。まず面談して、課題、どんなことを目指して、どんなふうに身体を作ってゆきたいのかなど課題の洗い出しをしました。  その中で一緒に対策を考えてゆきましょうということにしました。   栄養バランスの食事の提案させてもらいながら、スピード、パワーだけでなく持久力、スタミナをもっとつけてゆくという課題があるので、どういう栄養の強化が必要なのかとか、一つ一つ詰めていきました。  3食と練習前後の間食の写真が全部私のところに送られてきました。  確認をしてアドバイスをしたりしました。  練習の内容、強度、そのスケジュール、時間なども確認しました。  そういったなかでコミュニケーションを取りました。   合宿、海外遠征でも、どこにいても判る状況を作りました。  

ピョンチャンオリンピックでは1500m銀、1000m銅、チームパシュートが金という成績につながりました。  北京にむけた課題は、事前に確認するということと、現地に行って実際の食事の写真とかを選手の方から情報をもらいながら、リアルアイムで食事のスケジュールも考えるという事も対応させてもらいました。  基本的なことは心配していませんでしたが、後半になって来ると疲労がたまってくることがあるので、状況を確認しながら見合った食事のスケジュールのアドバイスを求めてきたので、一緒に考えながらやり取りしました。  

北京オリンピックでは1000m金、500m、1500m、団体追い抜き 銀と言う素晴らしい成績につながりました。   高木選手は自分自身が考えて実践しようと思うがどう思いますかとか、自分の中でいったん整理して、それで助言を求めてくるので、あのような結果につながってゆくんだと思います。   

現在ボクサーの井上尚弥さんのサポートもしています。   2014年から7年間サポートしています。  試合で事前の体重チェックがありますから、コンディションを維持しながら、効率よく減量して行く方法をサポートしています。   且つてラグビーのワールドカップで日本チームが史上初のベスト8入りをした日本代表の栄養管理もしました。  2年半ほど行いました。  合宿ですと50人ぐらいはいますが、細かなサポートが必要です。   衝撃、怪我に強い身体を作ってゆくことは大前提ですね。   ポジションによっても求められる要素が変わって来るので、それぞれ課題が違ってくるので、確認しながら関わらせてもらっています。  

福島千里さんとか陸上競技のサポートもしてきました。  福島さんとは12年間関わりました。   食が細かったので工夫をしながらやってきました。  練習を積み重ねて行ける身体になって行く、その感覚が選手は栄養面の変化につながっていきやすいみたいで、ちゃんと食べると練習がこなせる、と言う感覚につながってゆくと思います。  

私自身が学生時代から競技をしていて、食が細くて怪我も多かったです。  栄養を考えないと練習が続けられないという様な体験はして来ました。  シニアにかかわらず子供のころから栄養のバランスを考えて日常の生活をしてゆくことは、共通の考えとして大事かなあと思います。   どうしても齢を取ると筋肉が少なくなって、食事量も減って行って、悪循環に陥ってしまうので、タンパク質の摂取の量は意識してゆくといいと思います。    現在の量からプラス10gぐらいのたんぱく質を摂取してゆくといいと思います。  バランスよい食事がいいと思います。  炭水化物、タンパク質、野菜や海藻類、果物、乳製品をバランスよく食べるのがいいと思います。  

2022年5月21日土曜日

岩出雅之(前・帝京大学ラグビー部監督) ・【特集インタビュー】 人との向き合い方の極意とは

 岩出雅之(前・帝京大学ラグビー部監督) ・【特集インタビュー】  人との向き合い方の極意とは

岩出さんはラグビー日本一を決める大学選手権で9連覇、さらに今年10回目の優勝を果たしました。    3年前のラグビーワールドカップでは教え子7人が日本代表として活躍しました。   毎年選手が入れ替わるなかで、学生一人一人とどう向き合い、常に勝ち続けるチームを作るために大切なことは何か、岩出さんの母校和歌山県立新宮高校と東京にある帝京大学ラグビー部で伺いました。

一番に来て、そういった姿勢を教えてもらった高校の部室です。  僕は一度挫折しています。  1年生で一度クラブから離れることになって、2年生の夏に教育実習の先生に声を掛けていただいて、高校時代は本気でやったのは1年間だけでした。  その声掛けが一生の財産になりました。   基本的なプレーをよく言われました。  タックルについても先輩たちのタックルではなく正しいタックルの方法を教えてもらってうまくできて褒められました。   先輩たちのタックルは正しいと思って真似ていたがそうではなかった。  先輩たちは沁みついていてなかなかうまくできなかった。  正しいことを見極めてゆく、思考のスタートになりました。   大学でも、社会人でも、指導者としても、一番正しい事は何かという事をいつも考えています。   1年間で練習試合が1回で、自分たちで練習をやっている事が多くて、生徒同士で話し合って、何もかも自分たちでやってゆくそういう経験が後々自分のものになって大きな支えになっています。   

高校卒業後、日本体育大学に進学、ラグビーを続けます。  3年生のときには大学選手権で優勝、主力として活躍しました。  卒業後は指導者になり、高校ラグビーの全国大会に7年連続出場し、岩出さんの名が知られるようになります。 実績が買われて、1996年に帝京大学の監督に就任、2010年に大学選手権初優勝を果たし、そこから全人未到の9連覇を成し遂げます。 

振り返ると未熟であったと思います。  例としては勝ちたいと思うのが僕には強すぎる。 生徒たちも勝ちたいとは思うが、強要すると乗っては来ない。   勝たせてあげたいと思うことでも勝てない。  幸せにさせてあげたい、そのために学生生活のいい経験をさせてあげたいという風に、考え方を変えてゆくと急に勝てるようになりました。   10年間は勝てないという結果があり、指導者としての不甲斐なさを感じていました。    ベスト4になったことが一回あり、その試合で1年生たちが「負ければいいのに」と言っていたのを僕に知り合いが聞いていて、とても寂しいチーム事情だったと思いました。   ここを変えていかないといけないと思いました。   少しずつ変えていこうと思いました。  めんどくさいことを上級生がやるようになって来て、自立する考え方が芽生えて、直接ではないけれども粘り強さ、集中力などにも影響してきたと思います。  どんどん下級生と上級生の親しみやすさ、チーム愛とか、活動上の絆になりやすい状況に変って行きました。  

チーム全体の文化に変っていって、より顕在化したのが連覇の途中からでした。  責任感を持たせることは大事かと思います。  それは自分を大切にすることでもあり他人を大切にするという風に、目線が変わって来る。   グラウンド以外でも大切なことはたくさんあると思います。   人間観察はたくさんあり過ぎるぐらいだと思います。  性格、その日の状態とか。 性格も急には変わらないが、少しづつ成長してゆくので、成長している姿も観察、記憶していかないといけない、決めつけてしまうと成長を見極められない。  沢山見てゆくポイントはあるんじゃないかと思います。   回りの情報なども得ながら自分の思いとのすり合わせなども行います。  正しい情報が大事です。 事実をちゃんと受け入れてフィードバックと内省も大事で自分自身に気づいて、再構築してゆく、その繰り返しかと思います。   

9連覇後、3年間優勝から遠ざかります。  その敗戦も無駄にはしませんでした。  逆境の中チームを再びまとめ上げ、大学選手権4年ぶりの優勝を掴み取りました。  これを機に監督を退任しました。  

連覇によって何処かすき、ほころびが出来たと思います。  下級生が感謝しない、当たり前のことになってしまって居たりして、余裕の時間を前向きにという事が弱まってしまったという事があったと思います。   上級生と下級生の関わり方をもう少し、より上級生が下級生を巻き込んでゆくような方向にしてゆきました。  優勝できて、プロセスをやってきて結果を出せたことがいい体験だと思います。    


2022年5月20日金曜日

尾原昭夫(民俗音楽研究家)       ・宮沢賢治の"音楽風景"

尾原昭夫(民俗音楽研究家)       ・宮沢賢治の"音楽風景"

1932年島根県生まれ、島根大学教育学部特設音楽科を卒業(作曲・理論専攻)後上京、東京都内の小学校で教える傍ら、わらべ歌や子守歌、民謡の採集、研究にあたってきました。  「日本のわらべ歌 日本の子守歌50曲集」など多数の著書があります。  去年に「宮沢賢治の"音楽風景" 音楽心象の土壌」と姉妹編の「賢治童話の歌を歌う」の2冊を出版しました。  賢治の童話や劇の作品の中にわらべ歌や民謡がどのように生かされているかを紐解いています。 

今度誕生日が来ると90歳になります。  ガンとか病気もしましたので、音楽関係の学会は30数年やりましたが、退会しました。 日本ららばい協会(旧日本子守唄協会)の機関誌には「風流子供歳時記」というのを4年以上連載しています。  ほかにもまだ繋がりがあります。  

去年に「宮沢賢治の"音楽風景" 音楽心象の土壌」と姉妹編の「賢治童話の歌を歌う」の2冊を出版しました。  終戦の翌年やっと授業が受けられるようになって、国語の先生があまり教科書にこだわらないで、情熱的に話す人でした。  「雨ニモマケズ」を黒板に書きました。 それに大変感動しました。  「謙虚」と言う言葉も大きく書きました。  人間順風満帆の時ぐらい怖いことはないと言って、「謙虚」でなければ駄目だよと教えてもらい胸に響きました。  埼玉県の「賢治の会」に入っています。   落合美知子さんが主宰されています。  わらべ歌の講演を頼まれて、ご縁が出来て「賢治の会」に年に3回ぐらいは参加させてもらっています。  賢治さんは歌詞だけではなくて自分も作曲しています。  歌詞だけのものは私が賢治さんの気持ちになって、歌ってみようと思って節つけの例として入れたのが「賢治童話の歌を歌う」という2冊目の本です。

賢治さんは小学校4年生までは唱歌は習っていなくて、5年生でようやく習うわけです。  世の中では西洋音楽が入って来る。  軍歌、寮歌なども歌われて歌があふれて来る。    知らず知らずに吸収して、義太夫をやるおばさんがいたり、レコードも家に有り、邦楽にも耳がいっていた。  藤原 嘉藤治さんは農学校の隣りの女学校の先生で、チェロもうまくて、賢治さんは尋ねていきました。  自分では採譜が出来ないので藤原 嘉藤治さんに採譜をしてもらって、そのおかげで旋律が残ったということです。   

「双子の星」  チュンセ童子とポウセ童子という双子のお星さま

「お日さまの、
 お通りみちを はききよめ、
 ひかりをちらせ あまの白雲。
 お日さまの、
 お通りみちの 石かけを
 深くうずめよ、あまの青雲。」  (節をつけて歌う)

一番星を見つけた時の歌 (江戸時代から歌われていた)                             「一つ星見つけた  長者になーれ」  賢治さんはわらべ歌も童話に取り入れました。

 チュンセ童子とポウセ童子の二人はお宮にのぼり、向き合ってきちんとすわ銀笛ぎんてきをとりあげ歌います。

「あかいめだまの さそり
 ひろげたわしの  つばさ
 あおいめだまの 小いぬ、
 ひかりのへびの とぐろ。

オリオンは高く うたい
 つゆとしもとを おとす、
 アンドロメダの くもは
 さかなのくちの かたち。」

農林学校の頃最初に作った童話でこの歌も含まれていて一番の傑作だと思います。  

「イーハトーボ農学校の春」と言う童話の中に「太陽マジックのうた」というのが入っています。 14か所に太陽マジックのうた」の五線譜を張り付けています。 珍しい手法をとっています。 

コロナは七十六万二百

コロナは六十三万二百
コロナは三十七万十九
コロナは六十七万四千
コロナは八十三万五百
コロナは六十三万十五
かへれ、こまどり、アカシヤづくり。
赤の上着に野やまを越えて」    

種山ヶ原 」と言う童話の中に「牧歌」「剣舞の歌」というのがあります。        種山たねやまはらといふのは北上きたかみ山地のまん中の高原で、青黒いつるつるの蛇紋岩じゃもんがんや、硬い橄欖岩かんらんがんからできてゐます。  樹霊たちがからかって歌います。
種山ヶ原の 雲の中で刈った草は ・・・・」

「剣舞の歌」
ダー、ダー、ダー、ダー、ダースコ、ダー、ダー 夜風逆巻き・・・・」

宮沢賢治の家につたわる子守唄「道端の黒地蔵」
「道端の黒地蔵  ねずみに頭をかじられた ・・・・」  楽しい歌

賢治さんの母親のイチさんは「人というものは人のために何かしてあげるために生まれてきた」と言い聞かせていた。   晩年になって自分も病に倒れながらも最後まで賢治さんは、母親が教えた人のためになることを通したんですね。  沢山の童話、詩も書き、「雨ニモマケズ、風ニモマケズ」と言う有名な詩を書きました。  強い負けない心、思いやりの心、あらゆることを自分の感情にいれない、欲はなく決して怒らずいつも静かに笑って、みんなにデクノボーと呼ばれる、謙虚な精神です。   世界全体が幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない、と言う「農民芸術概論綱要」に書かれています。


2022年5月19日木曜日

佐藤美代子(バイオリニスト)      ・【わたし終いの極意】 バイオリンは生きた証

 佐藤美代子(バイオリニスト)      ・【わたし終いの極意】  バイオリンは生きた証

79歳、東京芸術大学在学中の19歳でフランスに留学、パリ国立高等音楽院を首席で卒業後、パリを拠点にソリストとして演奏活動をはじめ、1967年に帰国しました。  順調な音楽活動の一方、私生活では離婚、詐欺被害、最愛の母との別れなど辛い出来事なども経験しました。 今は演奏家人生初のCD制作に情熱を燃やしています。  

1943年旧満州で生まれる。  2歳の時に軍医をしていた父が沖縄で戦死、静岡に母親の実家である家に身を寄せる。  9歳よりヴァイオリンを始める。  以来70年ヴァイオリンはいつも佐藤さんの傍らにあります。   

母の勧めで船橋孝昌先生のもとでヴァイオリンを始める。  優しくて教え方が素晴らしい先生でした。  次に紹介された先生は東京藝術大学助教授・岩崎洋三先生でした。  技術的に難しくて泣きながら帰った覚えがあります。   東京芸術大学に入りました。  岩崎先生の恩師がフランスのガブリエル・ブイヨン教授で、芸大に教えにきました。  私をパリへ留学させる話が出たそうです。  岩崎先生からも勧められてフランス政府給費留学生試験を受けて合格し、1962年に留学しました。  慌ててフランス語を勉強しましたが、片言でした。  一番安い女子寮に入りましたが、食事がまずくて閉口しました。    夕食後には女子寮の人たちがフランス語を教えてくれました。   必死に勉強して1964年に首席で卒業することが出来ました。    数年して母が来て一緒に過ごして、母が帰国したら凄く寂しくなってしまって、自分も日本に帰りたくなってしまいました。(23歳)  1967年に帰国していくつかの大学で教鞭を取りながらソリストとして演奏活動を始めました。   結婚して、2人の子の母になりました。    

30代で離婚して、その後詐欺にあってしまいました。  父の土地など遺産がありましたが、演奏活動で海外演奏でいない間に詐欺にあってしまいました。   留守番をしてくれる人の鍵などを預けて出かけている間に全部売り払われてしまっていて、借金まで背負わされてしまいました。   音楽だけをやってきていたので人を疑うというようなことは考えてもいませんでした。  信じていた人に裏切られて精神的にも参りました。  母の介護もありました。  女手で一つで育ててもらって働き者の素晴らしい親でした。  何をしても返せないようによくしてもらったという思いが実感です。   94歳で亡くなり天命は全うしたと思うんですが、ショックでした。   しばらくの間おちこんでしまって、ヴァイオリンを多少は手にしましたが、身が入りませんでした。   

音楽療法をしている方と出会って、「CDを作っていないの?」と言われて、それまでは一生懸命演奏するだけだったので、CDは一つもありませんでした。   CDを制作することになり「孤高」「情熱」「望郷」と言うタイトルを3枚に付けました。  人生の集大成だと思います。   自分が生きた証として作りました。   CD制作時に、日程を間違えたりして、病院に行ったら認知症予備軍だと言われました。   年を重ねた分だけいろんな経験をするので若い時には思わなかった感情とかあって、同じ音符を見ても感じ方が変わるわけです。   体力も落ちたことを含めていまの自分が感じてるのがこういう音楽だと、そこだと思います。   終活についてはあまり考えたことはないです。  感じることを精一杯音に乗せて表すという作業をどういう風にしたら一番うまくいくか、と言う風に音と共に生きているんでしょうね。  最後までちょっとでも深く感じられたて、ちょっとでもいい音が出て良くなりたいと思っています。   ストレスを持つかどうかは思い方一つだと思います。  あるがままの自分を受け入れて、生かされている、生きていることが嬉しい、有難いという気持ちで最後まで行けると、又ちょっとでもよくなったことを喜ぶことだと思います。   いい仲間に出会えたことにも感謝しています。


2022年5月18日水曜日

三宅宏実(女子ウエイトリフティング)  ・【スポーツ明日への伝言】バーベルよ、ありがとう

 三宅宏実(女子ウエイトリフティング オリンピックメダリスト)  ・【スポーツ明日への伝言】バーベルよ、ありがとう

三宅さんは2004年のアテネ大会から女子選手最多タイの5大会で連続出場を果たし、ロンドンで銀、リオデジャネイロでは銅メダルを獲得しました。  去年の東京オリンピックを最後にバーベルを置いた後、現在は実業団のウエイトリフティング部のコーチとして後進の指導、育成に当たって居ます。  

東京オリンピックまでは記録無しはなかったので、はじめての経験をしました。   現役でやっていたのと教えるという事は全く別もので、伝えることは凄く難しいなあと日々葛藤しています。  自分自身が出来ていたこと、感じていたことを言語化して相手に判り易く伝えることは凄く難しくて、言葉に悩んだりとかしています。  減量と言う縛りは無くなったんですが、やはりある一定な体重は越えたくないという思いはあるので、体調管理をしながら毎日体重計に乗っています。   現役の時のは一日8回ぐらい乗っていました。   東京オリンピックでは49kg級でした。  最初は53kg級にも出ていました。  2011年6月に53kg級でスナッチ、ジャークで90kgと117kg合わせて207kgという記録を持っていて、翌年のロンドンオリンピックでは48kg級でトータル179kgで銀メダルを獲得。  5kgの減量はきついものがありました。  

2012年前後は心技体と一番整っていて、記憶も伸び心の成長もしていた時期だったので、一番充実していた時期でした。  世界に近づいて来ていると思いともっと頑張ろうと練習が出来て充実していました。   何度か正しいフォームでやると突然重さがゼロに感じるようなことがありました。  そうなるために毎日の練習が必要になってきます。   父の練習メニューをこなしてゆくことでオリンピックへの道が開けたと思います。  父(義行)は メキシコオリンピックの銅メダリスト、叔父(義信)は金メダルを連続で取り、兄もウエートリフティングをやっていました。   兄が2人いて10歳以上離れていたので、可愛がって育てられました。   母は音楽教室をやっていて、ピアノを一時期習っていました。  中学校3年生から高校生の頃に、ピアノは辞めたいが何かをやらないとできないという思いがあり、オリンピックを見て感動して私にも出来るかなと思ってスタートしました。  

父は半信半疑でした。   父から条件が出され、メダルを取ることと、絶対に途中で諦めない、ということでした。   ピアノのようにはあっさりやめ止められないと感じ取りました。    バーベルを持ち上げることはダイナミックではありますが、繊細で難しいと思いました。    母はピアノ教室をたたんで身体作りの食事担当になってもらいました。   ピアノはトランクルームにいまだに21年間保管されたままになっています。 

高校進学後、2002年8月に全国高校女子選手権53kg級で大会記録で優勝、2003年には全日本選手権53kg級で初優勝。  伸びない時期もありますが、でも伸びた時の喜びが嬉しいのでその繰り返しです。  2009年前半に怪我をしたり、練習ができない、停滞期でもあり、ストレスを感じてその場から逃げたいと思って、京都のお寺に行って癒されたいと思いました。   解放された時間が欲しくて、家を飛び出して結局沖縄に行きました。   いい時間を過ごす事が出来ました。   2004年のアテネは出るだけで精一杯でした。   2008年北京オリンピックではメダルを取りたいと思いましたが、怪我があったりして結果を出すことが出来なくてその大会が一番悔しかったです。  その後がプチ家出でした。

2012年ロンドンオリンピックでは銀メダルを取る事が出来ました。  いろんな気持ちが入り交じった表彰台でした。  記録は狙えると思っていたが、その後の4年間は治らない怪我が多くなったりとか、経験したことがないことが増えてきて、モチベーションが上がらなかった。  父のサポートもあり、ぎりぎりオリンピックへの対応が出来ました。   81kg2回失敗してスナッチでは8位で、ジャークで1回目105kg でこの時点で4位、2回目107kgで失敗、3回目で成功して3位となり銅メダルを獲得する。   もうオリンピックは最後かもしれないという思いと、悔いのないように上げてくれてありがとうと言う思いで、自分で思ったことをあそこで表現しました。  心のなかで「ありがとう」と言う気持ちを伝えました。  

東京オリンピックへは出場したいという思いがあり、怪我もしていたが、リオよりも記録が下がるとは思ってもみませんでした。  体力には限界が必ず来るんだなと思いました。 後進の指導に当たって、言葉を上手く伝える力を養いながら、選手に届けたいというのが課題です。  元気でいることが選手にとっても一緒にいると元気をもらえるなというような理想像があるので、体調管理をしっかりやって行きたいと思います。


2022年5月17日火曜日

新南田ゆり(声楽家)          ・オペラで描く人道の物語

 新南田ゆり(声楽家)          ・オペラで描く人道の物語

戦前戦中の外交官杉原千畝がリトアニアの在カナウス領事館の領事代理だった1940年の夏、ナチスの迫害を逃れ領事館に救いを求めてやってきたユダヤ人たちにビザを発給し続け6000人の命を救った史実は国内外で知られています。   杉原千畝物語オペラ「人道の桜」制作員会はオペラを通じてこの功績を世に広め語りついて行こうと活動しています。  2015年リトアニアでの初演以来現在まで、公演回数は20数回にのぼります。  声楽家の新南田ゆりさんは脚本と作詞を担当し、杉原の妻の幸子役を担当しています。  

去年12月相模原市での公演が24、25回目となりました。  休憩を含めると2時間近くになります。  杉原千畝役は女屋哲郎さんが担当しています。 作曲が安藤由布樹さん、演出が鳴海優一さんです。   私たちの2幕ではリトアニアの千畝パークに咲いている桜がありますが、その桜が咲く2013年までをオペラの中の2幕に表現しています。  杉原千畝さんが日本に戻ってきて、それからどういう人生を送られて亡くなられたのか、リトアニアの250本の咲く桜がどういう意味を持ったのかと言うところまで再現させていただいています。  他のほとんどの作品はビザを書いたところまでになっています。   

杉原千畝は1900年1月1日生まれ、戦前戦中外交官を務める。  1940年の夏、ナチスの迫害を逃れ領事館に救いを求めてやってきたユダヤ難民がやってきた。  ユダヤ人たちにビザを発給し続け6000人の命を救った。  外務省の訓令に反する行為だった。  外務省を首になって仕事を転々とするが、生活はとても苦しかったようです。  ロシア語が堪能だったので、通訳の仕事をしたり、店を開いたりいろいろ苦労した。  ビザを書いたことも話をしなかったようです。  救われたユダヤ人の人たちが生き残って、子孫は23万人といわれるが 、杉原千畝を捜してほしいという事で探し始めます。  ニシュリと言う人が探し当てて、杉原千畝さんに対してイスラエル政府から日本人として初めてヤド・ヴァシェム賞を受賞をされています。(1985年)   日本では忘れられていたが、1990年に幸子夫人の手記『六千人の命のビザ』が出て一気に事実が明らかになる。  杉原千畝研究会の代表の渡辺勝正さん(このオペラの監修もしている方)が真実を葬ってしまってはいけないという事で、杉原幸子さんに真実を全部書き出してほしいと提案したそうです。  それが『六千人の命のビザ』となって出版されました。  

外務省が正式に認めたのが杉原千畝さんが亡くなってから14年経ってからです。(2000年10月10日)    オペラはこの『六千人の命のビザ』がべースになっています。 

新南田ゆりさんは桐朋学園大学短期大学部に独学で入学、ピアノ科卒業その後声楽に転向し、同大学声楽研究科修了。  オペラ歌手としてのデビューは声楽研究科修了してすぐにブリテンの「真夏の夜の夢」のハーミア役が最初です。  コマーシャル、アニメソング、映画音楽なども歌っています。  体調を崩して一旦休止して、2002年に復帰した。   ワーグナーの楽劇「ジークフリート森の小鳥役をやらせてもらいました。  

私、幸子役は着物で歌うので最初は慣れないで大変でした。  

2001年10月初めに杉原千畝の母校の早稲田大学が功績をたたえてリトアニアに250本の桜の木を寄贈。  手入れなどにも行って枯れたら植え替えたりして2013年に桜が満開になって咲きました。 今回のオペラの作曲を担当した安藤由布樹さんが杉原幸子さんの歌集「白夜」から何点か作品にしてリトアニアの国立劇場で2009年に行ったが私が呼ばれて歌わせてもらいました。  打ち上げでリトアニアのプロデューサーさんから桜が満開に成ったら杉原千畝さんをオペラとして上演できないだろうかと言う話がありました。  安藤由布樹さんから脚本をできないだろうかと言われました。  3年かけていろいろ調べたりして書き上げました。  杉原千畝さんの史実をそのままに表現したいと思いました。  オペラとしての芸術性も出さなければいけないので11回書き直しをして完成させました。  小学生でもわかるようなオペラにしなければいけないと思って工夫しました。  

早稲田大学のOBの方たちが制作員会を立ち上げてくださいました。(第二回目から)  いろいろなところから公演の依頼が来ました。  2015年リトアニアの首都ビリニュスの国立ドラマ劇場での初演の前に2014年にプレ公演を行いました。   リトアニアでのピアノは古くてガタガタで日本からピアノを贈りました。   リトアニア語で字幕を出してもらって日本語で歌ったので理解してもらえるのか心配でしたが、終わった後で物凄い地鳴りのような拍手で、全員総立ちで逆に感動をいただきました。   2015年7月に早稲田大学大隈記念講堂で日本初演。 2回とも満席で物凄い拍手とスタンディングオベーションをいただきました。  合唱団は毎回現地で募集して稽古をして舞台に上がります。     

合唱団の方も難民として役割をこなし、史実にのっとった形で、判り易くて、今までにないオペラだと思います。  7月に名古屋公演があります。




2022年5月16日月曜日

吉永真奈(筝曲・地歌三味線演奏家)   ・【にっぽんの音】

 吉永真奈(筝曲・地歌三味線演奏家)   ・【にっぽんの音】

1978年東京都出身、お琴を5歳から始める。 母が趣味でお琴、三味線をやっていたので姉と一緒について行って習い始めました。  東京芸術大学邦楽科に進学、生田流箏曲を専攻、2003年には東京芸大出身の演奏家たちと和楽器ユニットRin'を結成、2004年にメジャーデビュー。    宮城道雄さんの演奏を継承する宮城合奏団での演奏のほか、学校公演など子供たちへの普及公演にも力を入れています。   和楽器に対して興味を持ってもらえるようにように考えて活動しています。  

*「なみ」   作曲、筝曲演奏:吉永真奈

ヴァイオリン、フルートの方達との演奏もあるので、五線譜にしました。         この演奏では二胡(中国の伝統的な擦弦楽器)ですが、もともとは尺八との演奏で書きました。  二胡とヴァイオリン、胡弓の音は似ていますが、聞き分けられます。

演奏家と決めたのは高校2年生の時です。  高校1年生の終わりにオーストラリアに短期留学しました。  日本文化センターでお琴の演奏をした時にホストファミリーの人が感動して泣いてしまって、演奏家としてできたら幸せだとおもって、それがきっかけになりました。  海外の人のほうが日本の文化、楽器に詳しかったりします。  東京芸術大学には三次試験までありそこで上位の人が受かるという狭き門でした。  

「春の海」を作曲した宮城道雄先生の宮城合奏団に入っていますが、「数え歌変奏曲」と言う曲がありますが、それが一番大好きで、芸大の三次試験の自由曲で選んだ曲でもあります。  技術的に高難度なものが沢山織り込まれています。  選んだ時点では知りませんでした。  知っていたら絶対に選ばなかったです。  

*「数え歌変奏曲」   作曲:宮城道雄 筝曲演奏:吉永真奈

*「八千代の風」   作詞:Rin'  作曲:Kazuhito Kikuchi  演奏:Rin'  2004年発売 琴、琵琶、尺八、三味線で演奏しながら自分達でも歌いましたが、大変でした。 ポップス

静の中の音楽が古典で、動の中の音楽がポップスとかで、その切り替えが凄く難しいです。

コロナで演奏が出来なくなり、利き酒師の資格を取りました。  四次試験まであって難しいです。  最初飲食の基本、日本酒の歴史、日本酒は大きく4つに分かれていてそのうちの2つが来て、飲んでどういうお酒かテースティングシートを完成させるんです。 もう一つはどういう風にこの日本酒を紹介するのか、自分でプランニングして出して合否をいただく。  利き酒師バッチがもらえます。  狂言とお酒のコラボとか、音楽とお酒のコラボと言ったものもいいかもしれません。

日本の音とは「ひぐらし」の鳴き声です。   聞くと日本の原風景を思い起こして切なくなります。  日本の抒情感みたいなものを感じます。

*「渡月橋」  作曲:石田まり  演奏:吉永真奈                  日本の伝統的なチューニングを使って、それをポップスの曲に入れ込んだ曲。


2022年5月15日日曜日

奥田佳道(音楽評論家)         ・【クラシックの遺伝子】

 奥田佳道(音楽評論家)         ・【クラシックの遺伝子】

映画「クレーマークレーマー」 ヴィヴァルディーのマンドリン協奏曲を映画用にアレンジしたもの。  マンドリン協奏曲ハ長調第一楽章が「クレーマークレーマー」に使われました。

*「マンドリン弦楽とチェンバロのための協奏曲」から第一楽章 作曲:ヴィヴァルディー

ハ長調は明るい調性ですが、この曲は何とも言えない悲しみと言うか、ふわっとした雰囲気があります。  映画用にアレンジされたのがマンドリンとギターでした。

*交響詩 魔法使いの弟子 作曲:デュカス  1940年のディズニー映画 ファンタジア』に使われている。      デュカスの作品は20ぐらいしか残っていない。   ドビュシーと親しく交流をしている。   

モテット『踊れ喜べ、幸いなる魂よ』作曲:モーツアルト「アレルヤ」 一部  歌:佐藤しのぶ   映画「オーケストラの少女」

映画「アマデウス」はトム・ハルス演じるヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの物語を描く。  映画のオープニングで衝撃的に響いて来たのが、モーツァルト交響曲第25番ト短調の第一楽章 

モーツァルト交響曲第25番ト短調の第一楽章 一部

デンマーク映画「バベットの晩餐会」  バベットの晩餐会を彩ったのは賛美歌であり、ドンジョバンニの二重唱ですが、もう一つテーマ音楽のように響いていたのが、ブラームスの「ピアノのためのワルツ」 オリジナルはピアノ連弾(1台のピアノを2人で弾く)ですが、ブラームスはこのワルツを2台のピアノのために自分で編曲しています。  

*「ワルツ変イ長調」 2台ピアノ版  作曲:ブラームス

映画に依って知られるようになった曲  ドヴォルザーク  チェコ組曲 「ポルカ」

映画「のだめカンタービレ」

チェコ組曲 「ポルカ」 作曲:ドヴォルザーク 

「シンドラーのリスト」はスティーヴン・スピルバーグ監督による1993年アメリカ映画。*「シンドラーのリスト」  作曲:ジョン・ウィリアムズ  

序盤のものはヴァイオリンをベースに哀愁ただようメロディとなっている。

2022年5月14日土曜日

川上浩司(京都大学特定教授)       ・不便だからこそ得られるもの(初回:2019/9/21)

 川上浩司(京都大学特定教授)   ・不便だからこそ得られるもの(初回:2019/9/21)

https://asuhenokotoba.blogspot.com/2019/09/blog-post_21.htmlをご覧ください。


2022年5月13日金曜日

枡野俊明(曹洞宗僧侶・庭園デザイナー) ・日本の庭が伝えるもの

枡野俊明(曹洞宗僧侶・庭園デザイナー) ・日本の庭が伝えるもの 

69歳、横浜市鶴見区にある徳雄山建功寺住職を務めながら、数多くの日本庭園をつくってきました。  又、多摩美術大学環境デザイン学科教授として後進の指導に当たっています。 

朝4時半に起きて雨戸、門などを開けて仏様などぐるっと回って、建功寺御開山様の墓地、歴代住職の墓地をお参りして庫裡に戻って、仏様にお茶をお供えして、食事をして朝の座禅をして、アトリエに行ってその日の作業をします。  来客の対応もします。 夜は6時に庫裡に戻って食事、風呂を済ませ、8時ごろから10時ごろまで仕事をし、御仏壇をお参りして床に就きます。   睡眠時間は6時から6時間半ぐらいです。   

鎌倉時代の中期から室町時代には僧侶、特に禅僧が庭をデザインすることは盛んに行っていました。   文学的なことが好きな人は漢詩(偈頌)、絵を得意とする人を画僧と言って、庭つくりを得意とする人を石建て僧と呼びました。  雪舟は臨済禅の僧侶ですが、雪舟独特の絵の世界を築き上げ、日本の墨絵の世界は雪舟が築いたと言っても過言ではありません。

私が手がけてきた庭は90を超えていると思います。(国内外合わせて)    ホテルの中庭、駅ビルの屋上などにも庭園を造っていますが、自分の生き方などを見つめていただけるような機会が提供できればと言うのが私の狙いです。  現在手掛けているのは複数あります。 東京、軽井沢、シンガポール、香港、台湾、中国本土、オーストラリアなどがあります。  コロナで中断しているのがイギリスの隣りのマン島、ニューヨークマンハッタンのペントハウスの上の庭園があります。 

庭つくりはまず敷地に行って、長所、短所を身体で感じ取って来る。  依頼者がどんな状況の時にどんな使い方をするのか、徹底的に分析します。  その二つを合わせて、禅という考えのフィルターを通してイメージを作ってゆきます。  イメージスケッチを書いてゆき依頼者に見せて加えるものがあれば追加します。  工事が出来るような実施設計に移ってゆきます。  工事管理が大事なので徹底的に現場にはいきます。  重要なところは自分で指示します。  石とか木の心を聞いて、それをどう生かしてあげるかと言うのが私たちの役割、更にデザインよりもよく使ってあげる、現場ではとっさの判断です。  禅ではすべてのものに仏性があるという考え方があり、石にも形によりそれぞれ動きがあり、石と会話をするということですかね。  

枯山水は私にとっては特別なものですね。   枯山水と言うものを通して、自分が掴み取ってきたものを禅僧はくまなく表現してきているので、若い時にはまだまだ自分で取り組むべきものではないと思っていました。  深さ、強さ、空間の持つ緊張感などを肌で感じるようになってきますと、まだまだやってはいけないと、50代半ばまでは封印して居ました。若いころ作ったものとは違ってきていて、簡素化してきています。  足すのではなくて引いていきます。   引くことは難しいが残ったものは輝きを増すんですね。  

西洋の庭は見えるものがすべてなんですね。  形の美しさ、シンメトリーの美しさを求めてゆく。  日本の庭は形に現れない精神性を大事に扱います。  形にないものをどう伝えてゆくのか、難しいし、怖いものでもあります。  観る人の力量をも問います。  西洋は自分の思っていることを形にしてしまえばいいから西洋は自我の文化で、日本はそれぞれの心を聞いてどうやって一つの交響曲にしてあげられるか、無我の文化が日本の芸術です。  庭を見るのに固定観念を持って見ないほうがいいです。 自分が何を感じられるか、何をくみ取ってゆくか、固定観念なく接していった方がいいです。    

1953年横浜市鶴見区お寺の跡取り息子で、父はNHKのアナウンサーでした。  宮田輝さん高橋三さんが同期でした。  定年まで住職と二足の草鞋を履きました。  小学校5年生の時に両親に連れられて京都に旅行に行った時があり、石庭で有名な竜安寺に伺た時に、あまりのギャップに驚き動けなくなってしまいました。   高校2年になるころに、寺の客殿と庫裡を建て替える事になり、庭の整備もやる事になり、のちの私の恩師になる斎藤勝雄先生と縁がありその設計をやる事になりました。  先生はスケッチをされたり、どんな庭になるのか興味を持っていました。   本当にこうなってゆくんだという事を実体験しました。  現場第一主義で、現場を覚えてそれから、デザインですよという事を強く言われて現場を何回もやりました。  

齊藤先生は元々庭師の家に生まれて、いろいろ研究をして後に日本の庭に関する論文を書きました。   確認のため30歳のとき、3ヶ月ほど京都の植治・小川治兵衛さんのもとで修業して、論文を出すが評価できる人がいなかった。  田村剛先生がその論文を見つけて、初めて学会賞をいただいた。  齊藤先生はこの世界ではくっていけないという事で弟子を取らなかったが、お願いして弟子にしてもらいました。  先生のもとで高校2年間、大学4年間勉強して、寺を継ぐ修行(27歳から)もしていたら、或る時庭の仕事が入ってきてそれが始まりでした。  禅の修業では寝る事のありがたさ、足を延ばせる有難さ、食べられることの有難さなど頭ではなく身体そのもので有難いということを感じるようになりました。   これは大きな収穫でした。  

カナダ大使館の仕事をやった時には、カナダを身体で感じる事が大事だと思って、スケッチをしながらカナダを横断してトロントで打ち合わせをしました。   渋谷のホテルの庭とロビーのラウンジのインテリアを一緒にデザインしたものも忘れ難いです。  神奈川県の寒川神社の庭園と茶室などを全部デザインしたもの、7年かかりましたが、これも忘れ難いです。 自分のお寺も20年構想を練って設計して、工事も私とスタッフでやったので集大成のようなものです。  海外の工事では石はほとんど現地で調達して、作業は協同で行います。   石を探すのが大変です。

多摩美術大学環境デザイン学科では講義とデザイン指導する部分と両方やっています。   日本の美意識とか価値観と言うものを彼らにしっかり受け継いでもらって、それを携えて活躍できる人材に育ってほしいと思います。  もっと簡素化した緊張感のある空間が出来るのではないかと思っていて。そこを目指して進んで行きたいと考えて居ます。



  

2022年5月12日木曜日

浅野ゆう子(女優)           ・私にも訪れたセカンドライフ

浅野ゆう子(女優)           ・私にも訪れたセカンドライフ 

来年芸能界にデビューして50年になります。   神戸なので、母から小さいころから「貴方は宝塚に入るのよ」と言われていたので、宝塚に行くことを普通に思っていました。   宝塚に行く前にスカウトされて東京に出て来て歌手としてデビューしました。   小学校6年生で身長が160cmあり見た目が大人っぽかったので年相応にみられることはあまりありませんでした。    13歳でデビューして、今思うと、まだ子供じゃないかと思って赤面です。 小学校6年生の時に或るお菓子のメーカーのCMモデル募集があり母が応募して、準ミスに選ばれました。   

東京に来てホームシックはなかったです。  デビューしたら、当時有名だった天地真理さんのようにすぐ成れると思っていました。   母は心配なのか毎週末に東京に来ていました。歌と同時進行でお芝居もさせていただきました。   私には芝居の方が向いているんじゃないかなと思うようになったのは20代中盤ぐらいでした。   トレンディードラマに声を掛けていただいたのが私の転機だったと思います。   撮影と同時進行で放映がありましたので、リアクションが直接返ってくるというのはトレンディードラマでいただきました。   撮影時間はふんだんに使われていて、朝から朝までとか、しょっちゅうでした。  NHKの朝ドラなど、朝までになるから朝ドラだという風に言われていました。  睡眠時間は3時間とかみんな普通に過ごしていました。   でも楽しいから文句を言う人はいませんでした。    トレンディードラマの時代はキャストも、スタッフ、プロデューサーなど皆さんが学生気分でサークル活動のような気分で過ごしていて、学生時代よりも28~30歳ぐらいの時の方が学生気分でみんなと過ごしていたような気がして、プライベートも充実していました。  

4年前に結婚しました。  今後残った人生をどう楽しく生きてゆくか、自分のことにも相手のことにも責任を持った立場で一緒に過ごしていかなくてはいけない。  日本には籍と言うものがあるので、同じ姓になるのが一番良いことではないかという事が決め手だったかもしれません。  友人のホームパーティーで知り合いになりました。   私にとっても青天の霹靂的なものは有りました。   お互いが仕事が一番で生きてきたのでやはり仕事は一番になります。  お互いあまり主張は押し付けません。  料理はあまり向いていないことはわかりましたが、夫が夕食の後にデザートを、と言うタイプで、自分で作ってみようかと思って、ケーキ作りがちょっとした趣味になりました。   そのためもあって体重が増えてしまいました。  

コロナ禍で自由に出られないこともあり、セカンドハウスを持つことになりました。   気分転換にはなりますが、コンビニとかないようなところなので、スーパーで食材を買い込んで私が作る事になります。   

新橋演舞場で公演がありますが、熱海五郎一座「任侠サーカス ~キズナたちの挽歌」と言う作品ですが、長年三宅裕司さんが座長として、豪華なメンバーがいて楽しい一座ですが、そこにゲスト出演させていただくことになりました。  9年振りの2度目の出演となります。楽しい笑いの舞台は身近にあって、素敵だなと思っていたので、熱海五郎一座の作品と出会って、接点がないので11年前ですが、たまたま三宅裕司さんと一緒の番組があり、楽屋にいって、熱海五郎一座に出させてもらいたいとお願いしました。   組の抗争があって一方の女組長をやらせてもらいます。  セリフもどんどん変わって行ったりします。  

水木しげるさんが生誕100年という事で水木先生の「ゲゲゲの鬼太郎」に出演させていただきます。  アットホームは「ゲゲゲの鬼太郎」になると思います。  

自分なりの夢、憧れをもって50年近く仕事をしてきましたが、新しいものにチャレンジさせていただければなという気持ちがあります。  何年か前に谷崎潤一郎先生の「細雪」を演じさせてもらいましたが、高齢になっても演じられる作品だと思いますので、正統派の純文学も又演じさせてもらいたいと思います。  時間をかけて一つの芝居を作るというのは向いている様な気がするので、これからも舞台に立たせていただく機会は持ち続けて行ければいいなあと思います。

2022年5月11日水曜日

ブレイディみかこ(ライター・コラムニスト)・イギリスの下町で学んだこと

ブレイディみかこ(ライター・コラムニスト)・イギリスの下町で学んだこと 

昭和40年(1965年)福岡県出身。   1996年からイギリスに在住、現在イギリスの南部にあるブライトンに住んでいます。  1997年「子どもたちの階級闘争ーブロークン・ブリテンの無料託児所から」と言う本でで第16回新潮ドキュメント賞受賞、2019年『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』で第2回本屋大賞 ノンフィクション本大賞、第73回毎日出版文化賞特別賞受賞しました。   イギリスから多様性や貧困問題について発信しています。 

ブライトンはイギリスの南東部にあり海辺の町で内陸に行くと山もある人口30万人の都会になります。   昔からリゾート地として夏になるとおりてくるところです。    ここ数十年、イギリスのゲイキャピタルと言われているぐらい同性愛者が多いです。  LGBTQの方々が経営しているおしゃれな店とかカフェとか並んだ通りなどがあり開かれた場所です。  ここに住んで20年以上になります。   

10代のころ福岡はロックが盛んでした。  ロンドン、ニューヨークから直にレコードなどが入ってきていました。  お金を貯めてロンドンに行くしかないと思って行っちゃいました。  2021年他者の靴を履く──アナーキック・エンパシーのすすめ』と言う本を出版。    この本を書いていて面白かったのは、一つの軸を見つけて調べだして、芋ずる式に読んでいると関連したことがどんどん出てきて、面白かったです。  エンパシーとシンパシーについてですが、シンパシーは共感、感情から誰かに共鳴したり、同情したり感情から誰かに入ってゆくことだけど、エンパシーは想像力、誰かの状況とか、経験、今感じていることを想像してみる事であって、想像しても同意するわけでもなく、共鳴しないこともあるわけです。  でもその人の立場、置かれている状況、気持ちを想像してみる力がエンパシーなんだという事です。  エンパシーと言う言葉はオバマ大統領がよく使ったんです。  日本ではエンパシーを共感と訳して、シンパシーも共感と訳していて、ごちゃごちゃになっていると感じていました。   だから私は「エンパシー」とカタカナにして、日本語に訳すと「他者の靴を履く」(他者に対する想像力)が言葉としていいなあと思いました。 「エンパシー」の正しい日本語の理解を広めないといけないかなと思いました。 

他者への想像力があればもっと世の中が柔らかくなるというか、SNSの感情(プラス、マイナスの感情)の増幅の恐ろしさを和らげるのではないかと思います。  民主主義は多数決ではないと思うんですよ。  本当はとことん話し合って、どこまでだったら譲れるかと言うような妥協点を見つけて、みんなで共生してゆくというのが民主主義だと思うので、どっちが「いいね」が多いとか争っているのは民主主義じゃないですよね。  感情の対立は怖いなと感じています。   SNSでグレーゾーンがなくなってきたように感じます。  「いいね」ボタンを押すのは瞬時ですが、「エンパシー」は思考がワンクッション入るので時間がかかる。  

アナーキー、アナーキズムと言うと無政府主義とか革命とか結びつけれているけれども、本来アナーキズムは上からトップダウンで強制されなくても、私たちは互いに共同で助け合って自主自立的に生きてゆく力が備わっているんですよ、と言うのがあるんです。   だからトップダウンで強制されると共同で助け合って自主自立的に生きてゆく力が失ってゆく、と言うのがアナーキストの主張なので、トップダウンの力は小さくしていった方がいいというのがアナーキズムの考え方の根本にあるんですが。   私が私として生きるためには、他者も他者として生きなければ駄目なんです。  他者の靴を履くことで自分の靴をなくしてはいけないし、他者の靴を履くことで自分の靴のことが見えてくるという事があると思います。  私のなかではアナーキーとエンパシーは繋がっていることで、逆の概念ではありません。   

トランプ氏には熱狂的な支持者がいて、大統領選に負けても負けていなかったとか、信じている人がいますが、あれこそが強烈な他人の靴をうっかり履いてしまって、自分の靴を失くしてしまった人達が熱狂的になってしまうという現象が起きてしまう。   トランプ氏は他人のエンパシーを集めるのが上手だった。  メディア、政治家たちもすべて自分の敵で、自分が一人で戦っているんだとと言うようなことを作り出して、うっかりエンパシーを使ってしまったら、自分の靴に戻れなくなってしまった人たちが結構いたのではないかと、書いている人がいます。  

DVで、エンパシーを働かせて、彼にもこういうことをする理由がある、彼も苦しい、こういうことを彼にさせてしまうのは、私もよくないんだと、結局そういう女性は逃げない。 これもトランプ氏の例と同様にエンパシーの闇討ちだと思います。  自分で自分の靴があることを思いださないと、強い自己に引きずられてしまう。  エンパシー搾取され、犠牲になってしまう。  エンパシーを使う時には自分は自分の靴を履いているんだという自己をしっかり持つことが大切です。  悪い方に転がることがあるという事を心しておくべきです。

何が正義かという事をそんなに簡単に下せるものではない。   出来るだけ間違えないように時間をかけて判断していきましょう、という事だと思います。   自分の片寄った判断だけで「これは正義、これは不正義」と決めるのではなくて、人の話をよく聞いて、良く語り合って、その中から穏当な落としどころを見つけて進んでゆくのがこれからの道筋だと思います。   穏当さがなくなると段々民主主義が死んでいってしまうと思います。

多様性とかは本当に街に転がっていて偶然い出会うものだと思います。    たまたま知り合った人とこの国の人はこういう考え方をするのかとか、そこでいろいろ学んでゆくことが多様性ですね。   経験を重ねて穏当になって行くと思います。   5,6年前にはこんな激動の時代を生きるなんて思ってもみなかったですよ。(コロナ、ウクライナ問題)  今こそ自分達の頭で考えて、自分達で選んで、解決して決めて行けるようになっていないと、本当に一人一人のアナーキズムの大事な時代だと思います。 

イギリスに来て感じたのは、貧困を放置しているのは政治的な問題、特に子供の貧困は自分で働けないのでなおさら問題だと思います。   貧困は人権問題だと思います。    階級、貧困、経済という軸に戻って、今後書いていきたいという思いはあります。 



2022年5月10日火曜日

川名紀美(フリージャーナリスト)    ・友達近所暮らし

川名紀美(フリージャーナリスト)    ・友達近所暮らし 

退職後の高齢期をどこでどんなように暮らしたいと思いますか。  川名さんは同じ時代を生きてきた友達同士で近所に住み合い、交流を通して互いを見守り、支え合いながら暮らしてゆこうと言う「友達近所暮らし」を始めました。  川名さんたちは女性の就労が厳しい中で、みな自分なりの職業人生を切り開いてきた世代です。  個人として尊重し合い、見守りはするが介護には立ち入らないという友人関係で近所暮らしを始めて14年になります。  日常を仲間と楽しく暮らす工夫と人生の味わいを聞きました。

仲間は5人います。   4人は普通のマンションの部屋を購入して近所暮らしをしています。もともとの友達ではなくて一緒に暮らしながら友達になって行っているというような関係です。    もともと3人の仲良しがいて、一緒に住めたらいいねと言う話をしていて、もう少し仲間を集めようという事で当初7人集まりました。  高齢期を如何に豊かに楽しく過ごすかという思いでした。  当時は女性の就職は難しくて、何とか入れたというような状況でした。  手帳に幾つか予定があるという事は楽しいことだと思います。  実は私たちは予定を作っているんです。   5人とも本を読むのが大好きなので読書会をしています。  課題本を順番に決めて読んで合評するという事をして、その後で食事会をします。   音楽系のこと、書道など1週間に2回は仲間内で必ず顔を合わせるようにしています。    月に1回ずつ(年に11回)ですが、土曜サロンと言って、近所暮らしを始めた翌年の2009年から近隣の方たちとやっていて117回になります。  近隣の方たちから情報を貰って、窯元の方、お能の女性のシテ方とか紹介していただき、講師をしていただき参加費はいただきますが、続いています。   土曜サロン便りという事でA4一枚に、参加する方の趣味とか、嬉しかったこととかの便りを発信しています。 

もともと3人の仲良しがいて、一緒に住めたらいいねと言う話をしていて、私も声を掛けられました。     1995年、私が記者をしていた40代に6400人が亡くなる阪神淡路大震災があり、たまたま東京に出張していたため、圧死せずに済みました。  直ぐ取材を始めましたが、ご近所と親しく付き合いをしている方は割と早くがれきの下から助け出されるという例が沢山ありました。  親しく付き合っていると寝ている場所の特定が早くて助かったという例がいくつもありました。  自分を振り返ってみると仕事一辺倒で人間関係の作り方を深く反省しました。   そんななか思いがけず2004年に声を掛けていただきました。働き続けて今は一人という事が共通でした。  その後毎月一回集まって知り合う期間を作りました。  独立した住まいで近所で暮らすという事では全員が一致しました。

メールでの連絡、土曜サロンをはじめ、1週間に一回は顔を合わせる機会をという事と、それ以外は自由に生活して、緊急連絡先をお互いが交換して持っているという事にしています。  スタートは60代、70代でしたが、今は70,80代になって体調の変化があります。 叔母が近所の有料老人ホームに入り、面会に行っていたが、仲間の一人が入院して手術を受ける事になり、気軽に保証人を引き受けました。   叔母はすい臓がんで、体調が急変したという電話があったが、仲間の手術の結果説明を聞いてから、向かおうと思っっていたら、再度電話があって「たった今息を引き取られました。」という事で叔母の臨終には間に合いませんでした。  例え近所暮らしをしても介護はしないという事でしたが、ほかにも問題が出てくる可能性はあります。   そういったことに対して知り合いの弁護士さんを招いて勉強会をしました。  遺体の引き取り、住まいの売却、お金の行く先などもあり、生きている間に助けてもらう任意後見と、死後事務委任、お金の行く先を決める遺言は必須だなと思います。  弁護士さんと契約をしました。

認知機能が衰えた人が一人いますが、これも近所暮らしの中だから気づいたことだと思います。  人と関わって生きるという事はめんどくさいし、傷つけたり傷つけられたりしますが、人と関わって生きるという事は人生の豊かさの一つなんじゃないかと思います。  これからも選んだ道を歩いていきたいと思います。  逃げそうになると塔和子さんの「胸の泉に」という詩集を読みます。

 


  

2022年5月9日月曜日

天童よしみ(歌手)           ・【師匠を語る】永遠の憧れの人 美空ひばり

 天童よしみ(歌手)           ・【師匠を語る】永遠の憧れの人 美空ひばり

今年で歌手生活50周年、長かったですが、皆さんに感謝の気持ちでいっぱいです。  美空ひばりさんは父と一緒に大きな写真に写っていて家に飾ってあったので、親戚のおばさんと思っていました。  

美空ひばりさんは1937年神奈川県に生まれます。  「河童ブギウギ」でレコードデビューし、それ以降「悲しき口笛」、「東京キッド」「りんご追分」「柔」「悲しい酒」愛燦燦」「川の流れのように」など数多くのヒット曲を歌って、日本の歌謡界に君臨続けます。     1989年に52歳で亡くなってから今年で33年になりますが、メモリアルコンサートや最新のAI技術で蘇る試みなど様々な形で演歌の女王美空ひばりさんはファンの皆さんの心の中に今も生き続けています。   

私は和歌山県で生まれですが、映画の撮影でひばりさんが白浜に訪れましたが、父は新聞社の仕事のお手伝いをしていて、ひばりさんにインタビューする係になり、時間がないなかひばりさんとツーショットとなりました。  大阪でひばりさんが来ていて、子役を募集しているという事で、8歳の時に父が応募しました。  オーディションで「花笠道中」を歌いました。    選ばれて、稽古場で母と待っていると美空ひばりさんと会う事が出来ました。  ひばりさんの帯を引っ張る役で、思い切り引っ張ったらひばりさんが地面に転んでしまいました。   「力強いわね。 本番もその調子でやりなさいよ。 ・・・帯がほどけらた踊りのように回ってゆくから、貴方は回らなくていいのよ。」といってその言葉にどれだけ助けられたか、子供心に本当にこの人は凄い人なんだと思いました。    

その時の撮影にもお母さんの加藤喜美枝さんは一緒に見守って居ました。   アドバイスなどしていました。  その撮影に1か月間付き合わせてもらいました。  自分も歌手になりたいと思いました。   舞台を降りると普通の女性で、「さよなら」とは言わずに「明日も頑張るよ。」と言う言葉を言っていたのが印象的でした。  ひばりさんに声を掛けられ楽屋に呼ばれてチョコレートを貰いました。  7歳の時に「ひばりの渡り鳥だよ」を歌って父が拍手してくれたのが印象的でした。  それからいろんな歌を覚えるようになりました。   ひばりさんが「東京キッド」などを大人になって歌う時も、子供のころの声になって歌う事が出来るのが凄いですね。  詩の解釈は父がしてくれました。  父はひばりさんとの受け答えのなかで、感情が芽生えて、よしみもなるなら歌手にさせたいと強く思っていたようです。

テレビのオーディション番組に出場して最年少でチャンピオンになった天童さんは15歳でプロとしてデビューします。

21歳の時に、コンサートでひばりさんが来られるという事を聞いて、ショーを見て終わった後に楽屋に行きました。  そのころ私は大阪に戻ろうか、それとも東京で続けようかという思いの分かれ道にいました。  「あんた、若いからとにかくいろんなことを経験するのよ。 それが全部生かされるから。」と言われて、私のことを覚えてくれて感動とうれしさでした。  私が「あばれ玄海」と言う曲を発売した時に、ひばりさんがラジオで聞いてくださっていて、担当の方から「この歌は何故か私の昔を思い出させるような声になるのね。 これよしみちゃんでしょ」と又私の話をしていたので、一度お目にかかりたいと思っていました。  なかなかお会いするチャンスがありませんでした。  

ひばりさんはずーっといい歌を歌ってきました。  いい歌と言うのは時代に合った歌ですね。  人の心を動かせる歌を歌ってこられました。  ひばりさんにライバルはいなかったと思います。  自分の世界を築き上げて、そばにも行けないぐらい引き離された状態の中で歌われていたと私は思います。   

ファンもひばりさんのファンが圧倒的に多いです。   NHKの「AIで蘇る美緒空ひばり」のプロジェクトに参加しました。   「新曲 あれから」 歌詞も素敵でした。  ひばりさんの歌を歌う時には、いつもひばりさんのことを思います。   ひばりさんの歌を歌う時にはあまり自分を出さないようにしています。   8歳の時にひばりさんと直接お会いして舞台を見た時の感動とかが大影響しています。  これが天童よしみを支えてきてくれた宝物です。   

美空ひばりさんへの天童よしみさんの手紙

「天国の美空ひばりさんへ   あれは私が8歳の時でした。  チョコレート楽屋にあるよ。 いらっしゃいね。  ・・・幼心にひばりさんが大好きになりました。  ・・・雲の上の存在の方なのに身近に感ずるようになりました。 ・・・戦後からこの時代までみんなの心を明るくしてきたのはひばりさんです。 私もどんなことにも負けない強さで歌い続けたいと思っています。  ひばりさん、本当にありがとうございました。」   

新曲「あなたに咲いた花だから」


2022年5月8日日曜日

寺内よりえ(俳優・声優)        ・【時代を創った声】

 寺内よりえ(俳優・声優)        ・【時代を創った声】

アニメ「サザエさん」の磯野フネ役を麻生美代子さんから受け継いで7年、アメリカの医療ドラマ「ER緊急救命室」をはじめ様々な吹き替え、劇団昴に於いて舞台を中心に活躍。

2020年に緊急事態宣言があり、すべての舞台がストップしてしまいました。  そうこうするうちに感染対策をして徐々に歌の練習とか始めて、2021年初めに舞台を終えました。    

私は6人兄弟の末っ子で8人家族でした。  天真爛漫に育ちました。   中学高校は図書館に入りびたりの子でした。   5歳の頃に「ブーフーウー」と言う人形劇が大好きで、中村メイコさんの全部一人でやるラジオドラマも好きでした。  小学校6年生の時に演劇部がなかったので自分で立ちあげました。  中学、高校と演劇部に入りました。  玉川大学文学部芸術学科演劇専攻卒業後、一人しかとらない年でしたが文学座を受けましたが、結果は駄目でした。  金子信雄さん夫妻の「新演劇人クラブ・マールイ」と言うところに入り、2,3年勉強しました。  姉夫婦がイギリスに行くという事でイギリスの舞台を見てみたいと思い、一緒に行って一日おきぐらいに舞台を観ました。  そうすると舞台に立ちたいという思いがメラメラと沸き起こってきてしまい、半年で帰国し、口添えもあって劇団昴に入りました。  直ぐに先輩の代役でお母さん役をやりました。   

「新演劇人クラブ・マールイ」の時に「特別機動捜査隊」ではゲストの 主役をやらせていただいて、昴に入ってもいろいろ役をやらせていただいているうちに、先輩方が声優の道を切り開いてくださって、私も30代の途中からちょっとづつ声優の仕事もさせていただくようになりました。   2015年からアニメ「サザエさん」の磯野フネ役を麻生美代子さんから受け継いで7年になります。   私にとっては「サザエさん」は雲の上のような作品だったので、オーディションを受けに行くのも夢のような感じでした。   コロナ禍で人に会う機会もなく、生活も一人なもので、仕事にも声が前に出ないというところに行ってしまいました。  出来るだけ人と話をするような努力をしたりしました。  

洋画の吹き替えは、向こうの方の顔があるので、早く呼吸を読み取ることを意識していました。   アニメは口はあるが、表情が、特に「サザエさん」に就任してからは、「向こうの表情はあまり気にしないで」と言われました。  前後の会話のバランスを改めてそういわれました。  自分の家族の中でのポジションをしっかりつかまないとなかなか家族の会話のリズムもうまく中に入ってこないし、家族の影の行動も意識しています。    音で表現しなくてはいけないので、特にアニメはピンポイントでその心情の音を出さないといけないので、そこがまだ苦労しているところです。  

大学のフランス文学の先生に言われた言葉ですが、「忍耐だよ、君忍耐だよ。」言われましたが、本当にそうだねと思ってしゃべっています。   若い方に言いたいのは、忍耐だと思います。   それと演技の基礎の大切さを知って貰いたいと思います。  常にもう一人の自分と対話することが大事だと思います。   コロナ禍が思った以上に長引いているので、周りの環境、自分自身を改めて見直すいい機会だと思いますので、健康に気を付けて踏ん張ってもらいたいと思います。  楽しいことをやろうと思うのではなく、やる事を楽しめばいいのかなと思います。 どんな些細なことでもいいですが、感動する気持ちを忘れないで頑張っていきましょう。

2022年5月7日土曜日

谷岡哲次(レット症候群支援機構代表理事)・科学の力を、社会の力を、この難病に

 谷岡哲次(認定NPO法人レット症候群支援機構代表理事)・科学の力を、社会の力を、この難病に

1966年にオーストリアの小児神経科医アンドレアス・レットによって初めて報告された難病レット症候群、主に女の子に現れ1歳半から3歳ぐらいになって、それまでできていた手の運動が上手くできなくなり、揉み手や一方の手で胸を叩くなどの行動が繰り返されたり、歩行などの運動機能もできにくくなったりするとされています。  まだ根本的な治療は開発されていないという事です。   自分の娘にレット症候群があることを知り、2011年に認定NPO法人レット症候群支援機構を立ち上げた谷岡哲次さんにその活動内容や娘紗帆(さほ)さんへの思いを伺いました。

上が男の子で娘が生まれて嬉しかったです。  3,4か月ぐらいから首のすわりが遅いなあと感じました。  はいはいも、寝返りもしないので半年ぐらいからちょっとおかしいなあと思いました。   手で何か遊ぶという事が徐々にしなくなりました。   歯ぎしりの症状も出始めました。  10か月ぐらいにお座りが出来ていたのにこけるようになりました。  お菓子を食べるのにもうまく手が使えないようになってきて、異常があるのではないかと思いました。   症状を書いてネットで調べたらレット症候群を書いたお母さんのブログにヒットして、レット症候群を疑い始めました。  進行性の難病、不治の難病という事が出てきていました。   どう妻に伝えたらいいか悩みました。    出来ることは藁をもすがる思いで、西洋医学で駄目なら、鍼、漢方とか治療を続けていました。    九州にレット症候群の研究をされている先生がおられるという事で九州に行ってきました。 

1966年にオーストリアの小児神経科医アンドレアス・レットによって初めて報告された難病レット症候群でした。  1万から1万5000人に1一人(女児)の確率で起こると言われています。  症状は両手を擦り合わせたり、手を口の持って行ったり、指を擦り合わせるとか手の異常な情動行動が見られます。  歩けない子もいます。  言葉を発する子はほとんどいないです。  統計的には日本には5000人ぐらいいると言われていますが、10年前のデータでは20歳以下で1000人ぐらいと言われています。  1999年にレット症候群が発生する原因となる遺伝子が特定された。  MECT2と言う遺伝子でここに異常があるということが発表されました。   九州の先生にお会いした帰りに、自分に何ができるかと考えた時に、研究を支援することはできるのではないかと思ってNPOの立ち上げを考えました。  

レット症候群の研究班が厚生労働省に立ち上げっている時で、代表の方が国立精神神経センターにいましたので、その先生に電話で趣旨を説明したら、会議があるので来れるのであれば来てほしいという事で、会議に参加させて貰いました。    遺伝子治療がここ10年ぐらいピックアップされてきて、注目はされています。  女の子の場合はx染色体が2つあるので異常なほうを眠らせて、正常なほうを活性化させてあげるとレット症候群は治るのではないかと言う、そういう理屈ではあります。   簡単な話ではありませんが。    昨日カナダの方で、遺伝子治療のトライアルがスタートするというニュースが飛び込んできましたので、注目していきたいと思います。   

研究者、患者、家族がともに学ぶような場作り、シンポジウムをやったり、患者も医学の基礎を学ぶというようなことも年一回やっていて、研究者の人に来ていただいて講演していただきます。  多くの人に知っていただき寄付を集める事が大きな柱になります。  設立3年目以降は寄付も集まってきて、研究者さんに年約100万円、累計で1400万円の研究支援をさせていただいています。  80名の会員がいて活動を支えています。  患者同士のつながりも必要だと思うので、無料で繋がれる患者同士の交流という事でアプリを立ち上げました。  アプリには230家族ぐらいが登録しています。  患者会の数を上回っています。  オンラインコミュニケーションをやったり、アプリに登録すると全国のマップにどんな症状の家族が何人いるかと言う事が判るようなシステムになっていて、簡単に繋がるようなシステムを作りました。    研究者が治験しようとするときにも役に立つと思います。   このアプリは2021年10月にスタートしました。  パソコン関係は詳しくないですが、何とかしたいという思いでやっています。 

娘の声を聴いたことがないので「パパ」と呼んでもらえたら本当にうれしいですね。   娘は支援学校の中学部の3年生になります。  ニコニコしているのとは裏腹に進行していて、背骨が湾曲してしまうのが発症していて、内臓に影響が出るぐらいのところまできています。 手術を予定しています。  親は今の紗帆で十分幸せ頂いて満足ですが、逆を考えたらそうではないんじゃないかなあと思って、山頂目指して頑張りたいと思います。   もし紗帆に間に合わなかったとしても、紗帆の次の世代に繋がるのであれば、紗帆がこの世に生まれてきた意味もあるのではないかと思いで活動を続けています。  

2022年5月6日金曜日

山﨑浩子(新体操 前・強化本部長)   ・新体操にささげた日々とこれから

山﨑浩子日本体操協会新体操 前・強化本部長)  ・新体操にささげた日々とこれから 

1960年鹿児島県出身、高校入学と同時に新体操をはじめ、進学を機に上京、全日本選手権5連覇、1984年ロサンゼルスオリンピック個人総合8位入賞、など輝かしい成績を残してその年に引退、スポーツライター、タレントとして活動を始めました。  2004年アテネオリンピック出場を逃した団体総合の再建を託され日本体操協会の強化本部長に就任、2021年の12月末まで17年の長きに渡って新体操日本代表フェアリージャパンを率いて2019年の選手権では金メダルを獲得するなど世界に戦えるレベルにまでチームを導きました。  

合宿生活をしていても終わると一人の部屋なので、一人でいる時間も多く取ってあったので、辞めた後も違和感はないです。   色鉛筆画を以前テレビ番組で出て、17時間かけて描いて結構褒められました。  2004年に強化本部長になった時に、短期強化になっていると思って、中長期強化をしないといけないと思ったのと、練習の絶対数が足りないと思いました。  合宿生活が必要ではないかと思いました。   天井が14,5mある体育館もなかなかないし、年間を通して使いたいし、何か月間か探して歩き周りました。   やっと見つけて2005年から練習を開始して、2008年から東京に施設が整って、北京オリンピックの少し前でした。豊富な練習量と豊富な休養時間が取れるので、コンディションつくりも着手できました。   

ユースチャンピオンシップと言う高校生を主体とした大会がありますが、上位選手で関東近辺の人を集めて世界選手権に臨むという方法を取りました。(2005年)   或る程度の結果が得られたのであなたの望むとおりにやっていいよという事で、2006年からオーディションで選ばれた人たちを使って世界選手権に行ける事になりました。  技術は未熟でもプロポーション、柔軟性など潜在能力を重視して選びました。  選手自身が主体性を持ってやるという事は最初から植え付けていきました。   門限だけは決めて寝る時間、起きる時間など生活は全て自分たちで決めるという風にさせました。  年に4回ぐらいは言い聞かせることはしました。(マナー、人としてどうなのかというようなこと)   自分たちでやれているという自信は付いていきました。  

2009年に三重県で世界選手権がありました。  種目別で日本がとってもいい演技をしましたが、メダルは取れなくて、何が足りないのだろうと思って、日本に居ては判らないと思ってトップのロシアに行って学びたいと思いました。  ロシアに行って信頼関係を作るのにはちょっと時間がかかりました。(お金の問題とか)    まずは成功体験をさせるために例えばボールキャッチするのにも、両手キャッチ(点数は低くなるが)させるように指導していました。  イレギュラーなことに対する訓練もよくさせていました。  

2019年世界選手権で40年振りに団体総合で銀メダルを獲得、ボールでは金メダルを獲得しましたが、今考えるとちょっと出来過ぎてしまって、流れを壊してしまったのかなあと思っています。  ロシアも脅威を感じてコロナ禍もあり、ロシアに行くとかコーチを呼ぶことが難しくなった。  必勝パターンが崩されてしまったと思います。  練習するほど疲弊感が増していって、肉体も精神も疲労しているのにもっと頑張らなければいけない、と言うような状況になってしまいました。   オリンピックの後2か月後に世界選手権があり、反省もありまた、メダルを取る事が出来ました。   その間は練習量も抑えたし、気持ちも余裕が持てるように持っていきました。  東京オリンピックと違って、世界選手権はみんなが笑って終えたので、凄く嬉しかったです。  

小さい時から試合を経験することによって、試合勘を養えることはできるが、勝ちにこだわり過ぎて成長を阻害するような練習量だったり、怪我だらけだったりすると、そこからの伸びは少ないと思います。  どこで花を開かせたいのかという事はコーチによく言っています。   

新体操を始めたのは高校1年生の時でした。  踊ることは好きなので新体操は合うかもしれないと思いました。  全国1位のチームだったのですごく大変でした。   怖い先生でしたが、先生のためにも頑張りたいと思えるような温かい奥の深い先生でした。  私自身が結構不器用でどうやったらそれが出来るか、考えて時間をかけて習得するタイプなので、選手が出来なくても観察する眼は持っていると思います。   4つのタイプがありその人に合った言葉を投げかけるようにしました。   トップに立つ人は俯瞰して見て、足りないものを持ってくるとか、という眼が大事だと思います。  

「人生の1割は自分で作り、9割はどう捉えるかだ。」と言う言葉がありますが、思い通りに行かないことはたくさんあり、9割はうまくいかないと思ったら、むしゃくしゃすることもないし、落ち込むことも少ない。  失敗したとしても、その失敗を生かしていけば、それはすでに失敗ではない。  いろんなことを活かしながらポジティブに生きて行きたいです。  小さなことに感謝しながら生きて行ければと思っています。  4スタンス理論を今も勉強していて、本を執筆していて、いろいろ悩んでいる方にも読んでいただけたらと思います。


2022年5月5日木曜日

藤井敏男(農学博士)          ・アジサイの花を母に捧ぐ

 藤井敏男(農学博士)          ・アジサイの花を母に捧ぐ

長年農業試験場で品種改良に取り組んできた藤井さんは、紫陽花の花に魅せられて58歳で紫陽花研究者として国内初の農学博士になりました。  その後栃木県小山市を拠点に酸性の土で栽培しても紅色に咲く紫陽花の品種を開発したり、甘茶の原料となる甘茶紫陽花の収量?登録に成功したり紫陽花の第一人者として研究と普及に努めています。  品種改良への尽きぬ情熱や紫陽花に込めた亡き母への想いについて伺います。

私が作り出したのはどんな土でも最終的に赤になるという品種です。  ブルーに見えるものも赤に変わってゆくんです。  人気なのは白寿紅(はくじゅっこう)と言う品種で最初は純白から土に関わらず鮮赤色という紅ショウガのような色になります。  白寿紅は10年前に出来上がっていましたが、名前をどうするかと思っていまして白と紅は決まっていたがしっくりくるものがなくて、7年前に大病を患ってその先生から「寿」がいいのではないかと言われて決めました。   母はとっても私を可愛がってくれまして、女手一つで3人の子供を育てました。    三途の川の向こうから迎えに来た時に、この花を見せたいと思っていて、母が「いい花を作ったね」といってくださるのではないかと思っています。  母にはいつも敬語を使いたいと思っています。  いつまでも元気でいて欲しいという思いで白寿紅としました。

大学を卒業してから栃木県の農業試験場でビール麦の品種改良研究をしていました。   中学校の時に鳩と出会ってのめり込んでしまって、成績が悪くなったが、先生から一つ事にのめり込むことは良いことだと言われて、それからは絶好調でした。   10年間鳩にのめり込み、育種に生きるという事になりました。   栃木県はビール麦では日本一でしたが、土の中のウイルス病で甚大な被害を受けていました。   薬はなく対策は品種改良しかなく16年かかって完成して一気に被害がなくなりました。   その後水稲を3年費やし19年携わりました。   42歳の時に試験場から出した稲の種が間違っていたという事故があり、担当になり県庁に呼び出されて疲れて、県立美術館にいったら田中一村展をやっていて、世の中にはこんな人もいるんだという事で、辞表を出しました。  

その後花の販売をやっていて、花弁が白い紫陽花がヒットして、あれを扱えと先輩から言われて、それが紫陽花との縁の始まりでした。   45歳の時に栃木花センターが出来て、紫陽花展をやらないかと言われて受けました。   世界の珍しい紫陽花展と言う触れ込みでやろうといいことで、日本でただ一人しかない練馬の山本さんのところにあるかしわ葉紫陽花を借りようとしたら、叱られました。  でも貸してもらって展示したら大盛況でした。  山本先生とは4回お会いして私の人生が決まりました。   紫陽花は日本では忌み嫌われた花で、花弁が4枚で死につながり、場所が変わると色が変わるので、忠義忠節の心がない、咲き終わっても散らずに固まっていて、生に執着する花という事でした。   研究者がいないのはそのせいだと言われました。  日本が紫陽花の原産国でもあるが、研究者もいない。  品種改良は全てヨーロッパに先行された。  私は紫陽花の研究に携わりたいと思いました。

甘茶は紫陽花から作ります。  30年前に京都薬科大学の、甘茶エキスには歯周病菌に特異的な抗菌成分が入っているという資料を見て、これを増やそうと思いました。  ビール麦研究の延長線上の私の仕事だと思いました。  これが藤井甘茶1号という私が作った甘茶です。  フィロズルチンという成分でノンカロリーです。  砂糖の400倍甘いと言われていますが、それが数%入っています。 

紫陽花には3つの種類があり、①浜紫陽花(伊豆半島、三宅島あたり) ②山紫陽花(関東から九州の山中)③蝦夷紫陽花(新潟から北海道)  日本の庭で真っ赤に咲くものを作りたいと思いました。   大きな道路脇でその種を見つけました。  それを品種改良していきましたが、苦労しました。   枝垂れてしまうのが欠点で16年目に或る時に支えを辞めてしまったら出来ました。  歌は大好きで「白寿紅」の歌を作詞作曲しました。   

母は84歳で亡くなりましたが、70歳から川柳、短歌、俳句を老人大学で学びました。    「あと五分だけ寝せてねと若き日の働きずくめの母のぬくもり」  藤井敏男 

新たな紫陽花の見せ方をやってみたいです。   ヨーロッパに行ってみたいと思っています、オランダで10年に一回開かれる博覧会がり8月25日なので参加すべく冷蔵庫を使って咲く時期を合わせようとしています。   私は一見山あり谷ありの人生だったように思うかもしれないが、私自身は何一つ変わっていないです。   母の教え通り真っすぐに正直に生きる、赤貧のなかで育ちましたが、周りはなんかの原因で変わっていきましたが、それに合わせることができない、様々な苦労がありましたが、様々な幸運に恵まれました。