2021年8月31日火曜日

半藤末利子(随筆家)          ・【わが心の人】半藤一利

 半藤末利子(随筆家)          ・【わが心の人】半藤一利

1930年(昭和5年)東京都生まれ。  60代で出版社を退職後は執筆活動に専念し、特に昭和史に関する作品が多く歴史鑑定として知られています。   今年2021年1月12日に亡くなりました。(90歳)   奥様の半藤末利子さんは東京生まれ。  父は作家の松松岡譲、母は夏目漱石の長女筆子、現在新宿区立漱石山房記念館名誉館長を務めています。   最近夏目家のエピソードやご主人との日々の暮らしから別れまでを綴ったエッセー集「硝子戸のうちそと」を出版しました。   

私が小学校3年の時(昭和19年)、11月に疎開しましたが、兄と主人が長岡中学でお友達だったので、うちに遊びに来ていたりして知り合いでした。   東京に戻ってきて年ごろになったころ又会いましたが、主人は勤めをしていたころで吃驚したといっていました。    5歳年上でしたので、私はもっと若い人に目移りがしてしまいますよね。   惚れてくれて一緒になりました。  望まれて一緒になるというのは、大事にしてもらってあとになって本当にいいと思いました。  家でも「末利子さんん」と呼ばれて言葉使いも優しかったです。   「愛している」という言葉はいつも言っていました。   威張るとか怒鳴るとかは全然なかったです。   酒が好きで80代になったら家ではお酒は2杯までと、私の方から言っていました。  外では結構飲んでいて、お酒で亡くなったので本望だと思います。  89歳の時に飲んで帰ってきて、転んで大腿骨骨折して手術してリハビリをしたが、骨がくっついていなかったようで、それを知らずに痛みをこらえながらリハビリを続け、改めて人工骨を入れる大手術をしました。  家に帰ってきて、2階に昇る練習をしたり、原稿を書いたりしていました。   「家で死にたい、家で死にたい」、と言っていました。  体力の限界を感じていたのかもしれません。  

「硝子戸のうちそと」の最後のほうの部分。                      「夫は自分の死は近いことを予期していたと思う。  「コロナの時代に一つだけいいことがあるとすれば派手な葬式を誰もやらなくなったことです。   どうか私が死んだときも大げさなことは一切しないでください」、と何度も繰り返して言っていた。   彼は夫としては優等生であった。   あんなに私を大切にして、愛してくれた人はいない。  ほんの4日間だけ下の世話を私にさせたことを、「もったいない」と嗚咽をこらえながら「あなたにこんなことをさせるなんて思っても見ませんでした。 申し訳ありません。  あなたより先に逝ってしまう事を本当にすみません。」としきりに詫びるのである。」 

2階から降りてゆくときに覗いたら、口を開けて寝ていて、いつものことだからと思っていたら、娘が息をしていないのを発見しました。  腰が抜けるぐらい吃驚してしまいました。    前の晩に遺言を残して言っていました。   「墨子を読みなさい、ずーっと戦争に反対した人で、中国の2500年前の思想家の人だけど、そういったんだ」という事を言いました。   言い終わったら、ほっとした様でその後寝息が安らかでした。      (*非攻(ひこう)とは、春秋戦国時代の中国において、諸子百家のひとり墨子による非戦論平和主義の主張である。兼愛交利、勤倹節約説より導き出された墨家の基本思想(墨家十論)のひとつ。)    

まだなかなか落ち着きません。   後悔というよりも、あれ以上は出来なかった、という思いがあり仕方のないことだと思います。    母も長く介護しましたが、50代だったので体力が全然違いました。  

「硝子戸のうちそと」のあとがき                          「もし来世があるなら、私はまた夫のようにぴったりと気の合う優しい人と結ばれたいと切望している。」

私は我儘なところもありますので、あの人は本当に良かったなと思います。  我儘も全部許してくれました。  あんなに優しい人ってあんまりいないと思います。