塚谷裕一(東京大学大学院教授) ・"スキマ植物"によせるまなざし
塚谷さんは1964年(昭和39年)神奈川県鎌倉市生まれ。 高校生のころから将来は生物学者になるだろうといわれるほど動植物に強い関心を持ち,東大で植物の遺伝学を専攻し、植物学者になりました。 先進的な研究業績を残す一方で専門に閉じこもることを好まず、東南アジアの熱帯雨林を歩いて新種の植物を見つけたり,NHKラジオでは子供科学電話相談に出演して植物をわかりやすく解説するなど幅広い活動をしています。 好奇心旺盛な塚谷さんは6年前に「スキマの植物図鑑」という本を出版しました。 本には春のすみれ、夏の待宵草、秋の狗尾草(えのころぐさ)など全国各地の石垣や道路の隙間に生える110種余りの植物が掲載されています。 そして隙間は植物にとって楽園であるとお話になっています。
NHKラジオの子供科学電話相談では絵とか写真が使えないので言葉で伝えなくてはいけないということが難しいです。
2014年に「スキマの植物図鑑」という本を出版。 反響がいろいろありました。 道端の足元だけではなくて膝ぐらいの高さに生えているものもあります。
2005年アスファルトの隙間から出た「ど根性大根」が世間を騒がしたことがありましが、その後いろいろの隙間から生えているという話が出てきて、実例を写真で集めてみようというのがきっかけです。 今まで見たことのない種類が見つかります。 どこでも見られそうなものを100種類ぐらい集めてみたのが最初のきっかけでした。 まだまだ発見があります。
植物が元気に楽しく暮らすというのはどういう事かなあと思うのは思います。
動物、人間は移動することができますが、植物は寒いと思ってもどうにもできないわけです。
与えられた環境で何とか自分でなんとかしなければいけない。 隙間は植物にとっては楽園です。 熱帯雨林とか鬱蒼と茂っているところは植物にとってはむしろ苛酷です、周りに競争相手がいっぱいです。 光がたっぷり当たらないといけないので、密になるとどうしても日陰になってしまう。 植物がいっぱい生えていて楽園に見えるところは実は苛酷な競争社会なんです。
隙間に一個ポンと入れば後は自分の天下なんです。 周りに競争相手が入ってこない。 犬の散歩でおしっこなども入ってきて肥料も入ってきて、植物としてはなかなか得難いところです。
種が細かくて簡単に雨水で流れていくものだと雨に乗っかって流れて隙間に住み着く。 もっと積極的な移動手段を持っているものがあり、種の先に半透明な臍があり、蟻にあげるつもりのお弁当(脂肪分が溜めてある)があります。 蟻はそういったスミレなどの種を見つけると巣にもっていきます。 お弁当は食べて種はいらないのでその辺に捨てるので隙間に入る。 植物はいろんなものを利用して遠くへ移動します。
東大では和名:シロイヌナズナ(ナズナに似ているが一回り、二回り小さな植物)の研究もしていました。 植物の形というものはどうやってできるんだろうという事を調べていて、持っている遺伝子が配列としてわかっていて、遺伝子をいじって試すことが簡単に出来るので調べています。 いろんな仕組みの基本的なところはシロイヌナズナで理解していて、ほかの植物はどうなんだろうという形になっています。
インドネシアなどの熱帯雨林で色々植物を見つけに行っています。 東南アジアの熱帯雨林は5年とか、7年とかの周期で森中の木が花を咲かせる年があり、種類を問わない。 蜜がいっぱいあるので蜂が沢山繁殖するが、塩は無くて人間が汗をかきながら歩いていると塩を取ろうとして刺すわけです。
腐生植物が沢山いて新種が沢山見つかっています。 腐生植物は緑の葉っぱを持たない代わりに根っこに特殊な能力があって、カビ、キノコがちょうどいいエサがあると思って入ってくるのを返り討ちにして自分の栄養にしてしまう。 形も姿も凄く変わっているので面白いです。
蟻と協定を結んでいる植物がいて、蟻に自分の身体の一部を巣として提供して、その代わりに蟻に住んでもらって用心棒になってもらう。 蟻はいろんなところからエサを持ってきて糞をします。 蟻から栄養を提供してもらう蟻植物がいます。
サイエンスは第一発見者以外は認められないのが基本的にありますが、この人のカラーだねという特色が出せないといけないのではないかと思います。
夏目漱石の『それから』に出てくる白百合が白くないことを指摘したエッセイ「漱石の白くない白百合」を書く。 ヤマユリだと思われるが、純白の百合と呼んでしまうといろいろと違ってしまう。 なんでヤマユリを白百合と読んでいるのかという事を書いたのが発端になっています。 同時代の日本の小説家の作品、短歌などに白百合が沢山出てきます。 いくつかは白百合を意味していることはあるが、どうしてもヤマユリというケースもたくさんあります。 あの頃ヤマユリに対して白百合という事で或るものを託した時期があったようだという事がわかってきて、面白い文化的なところがあるなとずーと思っているわけです。
明治、大正期の小説にはいろんな植物が出てきます。 泉鏡花に「黒百合」という小説があります。 読んでみると正確な情報を持っていたことが判りました。
高校時代は図書館の貸出量は1,2位を争うほど読書家でした。 一日一冊は確実に読んでいました。 最近は激減しています。
観葉植物は暗いところでも元気に暮らせるように進化してきた。
水陸両用の植物は水の中に沈んでも丈夫なように、水の中用の細いはっ葉を作る、表に出てきて空気に触れるようになったら、がっちりした形に変わって丸いはっ葉を作るという切り替えができる。 与えられた環境を最大限うまく生かす植物の生き方の極端なケースだと思います。
挿し木、接ぎ木で植物は増えることもできる。
植物の生き方は僕らの考えもつかない生き方をしている、与えられた環境で生きていこうとしている。 人間の生き方は違ってもっと小さい、植物のあそこまで拡張して同じ仲間として考えると、人間同士のいさかいは些細なものに見えないかなという気がします。