野見山暁治(画家) ・ぼくは絵描き(2)
1952年31歳でフランスに行きました。
待ちに待っていました。
それまでピカソ、ゴッホ、セザンヌ等本物を一切見ていませんでした。
印刷だけでは何もわからないです。
フランスに行ってなんとなくがっくりしました。
壁がすすけていて、筑豊のボタ山の風景になんとなく似ていました。
僕が行って10何年目かに壁の煤を全部払ったんです。
フランスには1年間行って来る予定で、絵の具を日本で買って行きましたが、1年でフランスを判るのは無理だと思って、2年間いようと思いました。
土地を見て回ることによって理解できるだろうと思いました。
1年経ってから絵を描き出しましたが、どの箱を開けても僕のいらない色でした。
絵具屋に行って新しく買うことになりました、色の感覚が変わってしまっていました。
パリの学生たちは僕よりもへたくそだなあと思いました。
フランス人の絵は展覧会で見ると、合わない色を無理にこじつけてなんとか合わせようと、苦労している跡が闘いとなってきちんと画面に出てくるので強いんです。
日本人は情感を漂わせながら、少し下がって行く。
日本人は要るもの、美しいものだけを描くので、抵抗がない。
西洋では抵抗感があるものもうまく構図などで押さえつけている。
ヨーロッパの巨匠達の絵は日本人では書けないような凄い絵を描いているが、いらないものも、いらない色も何もかも入れ込んで、それをびしっと抑え込んでいる。
だからいらないものが力になっている。
日本に帰って芸大で学生に教えていて、これは色が合わないよと言うが、もっと吟味したらどうだと言うと学生たちはあわてるが、フランス人たちは色々試みましたが、こういう色になりましたと言うんです。
日本人は感覚が優れているために、なんとなく弱いんだなと思いました。
一般の人の色彩感覚、造形感覚からいったら、ずーっと日本人の方がずーっとうえです。
だけど無理に抑えつけた見事なのがスーッと上がって行くわけです。
なんとしても自分もこういう力を手に入れたいと思いました。
エッセイーの一部(省略している)
「パリに着いて友達と店のドアを開けようとした時に、黒い旧式の自動車が泊った。
黒い服装の男が店に入っていく。
ピカソは筆の穂先を指先で確かめ次々に持ってこさせる。
目の前にピカソがいた。
そのしぐさをガラスにへばりつくようにして見つめた。
僕はドアを開けて中に入って行った。
外を見つめるピカソの目線の先を見て吃驚した。
店のショ-ウインドーのガラスで押しつぶされた顔がこっちを見ている。
平べったい東洋人の眼、口が一緒くたになるのはまだしも、鼻までもぺちゃんこに貼り着いて、これが僕の友人か。」
藤田嗣治さんに友人たちと飲み代を貰いに行こうじゃないかという事でいったら、「俺も若いころは素っ裸になってよく踊ったもんだよ」と言って飲み代をくれました。
向こうで画商もついてようやく食えるなと思ったんですが、次の個店の時に僕の画風が変わってきて画商と話がうまくいかなくて、色々あってこれではパリで食えなくなるのではないかと思いました。
絵が変わったのは東洋画に惹かれたんです。
西洋人の構築性とまるっきり違うぼうようしたもので、画面がある力を持っているのは不思議だなあと思って絵が変わってきていた。
東洋人は東洋に行ってみればなおいいものになると思って、帰るよりしょうがないと思いました。
日本に帰ってきて、生きていけないような気持になりました。
自分の国だから言葉も自由だし、習性もなにもかも日本人だからと思っていた、所がなんとなく自分が逸脱していることに気が付かなかった。
故郷に帰ってきたつもりが、なじめない自分がいて、つまずくと絵が描けなくなった。
この時は怖かったです。
住んでいるという実感がなかった。
日本には日本の良さがあり、ヨーロッパにはヨーロッパの良さがあるので、どっちと言う訳ではなくて、両方とも保ちたいと思っています。
日本人は何と言っても飲み見込みが早い。
みんなが絵に対して誤解している点は、絵というものはものの表面の現象面だけを捉えてそれをそのまま写してそれを絵だと思っているから、だから人はこれがまんじゅうならまんじゅうがおいしそうに描けているからいい絵だなと思うが、絵描きはまんじゅうをおいしそうに描こうとは僕は思っていない。
見た眼の現象だけを追いかけていると、弱いものになってしまうので、もっと突き詰めて見て行かないといけない。
絵が判るとか判らないというのではなく、絵というものは好き嫌いで見ればいいんです。
描きたいときは何かに触発されているので、触発のされ具合、自分で絵を描いていて何で描いているのかは判らない。
2019年1月31日木曜日
2019年1月30日水曜日
野見山暁治(画家) ・ぼくは絵描き(1)
野見山暁治(画家) ・ぼくは絵描き(1)
大正9年福岡県生まれ、98歳。
東京美術学校の油絵科を卒業して、昭和18年旧満州で軍務につきますが、病を患って九州の福岡で終戦を迎えます。
昭和27年私費留学生としてフランスに渡り、12年間フランスで過ごします。
帰国後は母校の東京芸大で教授も務めました。
平成26年93歳で文化勲章を受賞されています。
98歳となった今も毎日絵を描き続けると言う野見山さん、子供のころから絵を描くのが好きで、ただひたすらに真っ直ぐ絵に向かって来た絵描きです。
そんな野見山さんが絵が描けなくなった時期がありました。
敗戦後と、12年間フランスで過ごし、帰国した後だったといいます。
困難な時期を乗り越え、描き続けてきた野見山さんの画家としての人生を伺います。
思いはいつでも今という感じでいます。
足がかなり弱ってきました。
小さなものでも立って描いてきました。
美術学校では5年間を通じて午前中裸の絵を描きます。
モデルをみんな段々立って書くようになって、僕は遅れて行くものだから、その後ろから描くものだから5年間やってきて立って描くようになりました。
起きている時は動いているので、それがとってもいいのかなあと思います。
性格はどっちかというと臆病で慎重です。
勇気があったらもっといい絵が描けたなあと思っています。
1920年福岡県生れ、父親は炭鉱の経営者でした。
父親は三男坊で大きな呉服屋さんに丁稚奉公に行きました。
石炭が発見されて、こぞって地面を掘っていまして、炭鉱夫の住宅がありましたが、あらくれ野人が多くて一般の人は近寄らなかったが、父親はそこで質屋を開きました。
金の貸し借りで日本刀を持ってきて交渉に来た人もいました。
そういった光景を見てきたので、人との交渉を持つような仕事は避けて通ろうと思いました、絵描きはいいと思いました。
絵は小さいころから好きでしたが、絵描きになろうと言う事はなかったです。
小学校時代の今中利美?先生、中学校時代鳥飼辰巳?先生、戦後交流をもった今西中通先生、この3人の先生に大きな影響を受けました。
小学校時代は図画の時間だけが楽しみでした。
絵のお手本を見て普通それを見て描いていましたが、今中先生は校庭へ連れて行って木を好きなように描きなさいとかいってくれて、絵を描く喜びを始めて知りました。
好きなように描きなさいと言われて、初めて劣等感を無くしました。
中学の時の鳥飼先生は教え方で今迄で最高の先生だと思いました。
お寺の家の出の先生でした。
ものと空の関係がたった一つの線が或るだけで生きるんだとか、点が一つないための空間の広さだとか、手品のような感じで教えてもらいました。
絵はつくるもんだと、作るにはどうしたらいいか、つくる仕掛けは相手から引っ張り出さなければならないんだと言う事、対象を観ると言う事はそこらを極めて行くんだと言う事だと思いました。
18歳で東京美術学校(東京芸術大学)に入学しました。
鳥飼先生の時のようなわくわく感が無くなってしまいました。
石膏を見て描く訳です。(光と陰で立体感を出す、西洋画)
鳥飼先生から教わった東洋画の描き方とまるっきり違う訳です。
余り学校に行く気がしなくなってしまいました。
戦争が始まって、兵隊にとられるので学校に行っていた方がいいと妹から諭されました。
戦争に関して学生同士で議論しあって賛成派、反対派でよく敵対しました。
日本の中がどんどん軍隊化していきました。
頭髪、衣服など統制されて、色々疑心暗鬼になって行きました。
22歳で繰り上げ卒業して、1943年にソ連との国境の近くの旧満州に行きました。
11月に日本を出ましたが、着いた所は何にもない灰色の氷の世界でした。
よく見ると銃口がこちらを向いていて一発触発の状況で、いざとなれば直ぐ撃てる体制になっていました。
天皇陛下皇后陛下と食事をした時に、「貴方は風景画家だと聞いたけど、戦地の風景はどうでしたか」と言われました。
「風景を絵描きの眼で見るのと違って、まるっきり違う、普通の風景に見えませんでした」と言いました。
大きな棺桶の底辺を歩いてる実感でした。
天皇陛下からは根掘り葉掘り聞かれました。
風景というものは自分で作るものだと、自分の中で創造しているなと思うようになりました。
行動を規制されていて逼迫した日々の中の行動の一つ一つが批判されている中で、今日から自由だよと言われたら、放心状態というものはどうしようもなかった。
あれだけ規制されていて、解放感というものは非常に空しい。
絵を描いていて、黒い線を描いていてあるところに来ると緊張感が出るのではないかと思うが、何の反応も無いわけです。
どう描いて見てもそれがなんだと言う、絵になっていない。
一生絵が描けないのではないかと思いました。
少しずつ人間の生活に世の中が戻ってきて、僕も馴染んできました。
パリから帰って来た時にも、そのような気分はありました。
大正9年福岡県生まれ、98歳。
東京美術学校の油絵科を卒業して、昭和18年旧満州で軍務につきますが、病を患って九州の福岡で終戦を迎えます。
昭和27年私費留学生としてフランスに渡り、12年間フランスで過ごします。
帰国後は母校の東京芸大で教授も務めました。
平成26年93歳で文化勲章を受賞されています。
98歳となった今も毎日絵を描き続けると言う野見山さん、子供のころから絵を描くのが好きで、ただひたすらに真っ直ぐ絵に向かって来た絵描きです。
そんな野見山さんが絵が描けなくなった時期がありました。
敗戦後と、12年間フランスで過ごし、帰国した後だったといいます。
困難な時期を乗り越え、描き続けてきた野見山さんの画家としての人生を伺います。
思いはいつでも今という感じでいます。
足がかなり弱ってきました。
小さなものでも立って描いてきました。
美術学校では5年間を通じて午前中裸の絵を描きます。
モデルをみんな段々立って書くようになって、僕は遅れて行くものだから、その後ろから描くものだから5年間やってきて立って描くようになりました。
起きている時は動いているので、それがとってもいいのかなあと思います。
性格はどっちかというと臆病で慎重です。
勇気があったらもっといい絵が描けたなあと思っています。
1920年福岡県生れ、父親は炭鉱の経営者でした。
父親は三男坊で大きな呉服屋さんに丁稚奉公に行きました。
石炭が発見されて、こぞって地面を掘っていまして、炭鉱夫の住宅がありましたが、あらくれ野人が多くて一般の人は近寄らなかったが、父親はそこで質屋を開きました。
金の貸し借りで日本刀を持ってきて交渉に来た人もいました。
そういった光景を見てきたので、人との交渉を持つような仕事は避けて通ろうと思いました、絵描きはいいと思いました。
絵は小さいころから好きでしたが、絵描きになろうと言う事はなかったです。
小学校時代の今中利美?先生、中学校時代鳥飼辰巳?先生、戦後交流をもった今西中通先生、この3人の先生に大きな影響を受けました。
小学校時代は図画の時間だけが楽しみでした。
絵のお手本を見て普通それを見て描いていましたが、今中先生は校庭へ連れて行って木を好きなように描きなさいとかいってくれて、絵を描く喜びを始めて知りました。
好きなように描きなさいと言われて、初めて劣等感を無くしました。
中学の時の鳥飼先生は教え方で今迄で最高の先生だと思いました。
お寺の家の出の先生でした。
ものと空の関係がたった一つの線が或るだけで生きるんだとか、点が一つないための空間の広さだとか、手品のような感じで教えてもらいました。
絵はつくるもんだと、作るにはどうしたらいいか、つくる仕掛けは相手から引っ張り出さなければならないんだと言う事、対象を観ると言う事はそこらを極めて行くんだと言う事だと思いました。
18歳で東京美術学校(東京芸術大学)に入学しました。
鳥飼先生の時のようなわくわく感が無くなってしまいました。
石膏を見て描く訳です。(光と陰で立体感を出す、西洋画)
鳥飼先生から教わった東洋画の描き方とまるっきり違う訳です。
余り学校に行く気がしなくなってしまいました。
戦争が始まって、兵隊にとられるので学校に行っていた方がいいと妹から諭されました。
戦争に関して学生同士で議論しあって賛成派、反対派でよく敵対しました。
日本の中がどんどん軍隊化していきました。
頭髪、衣服など統制されて、色々疑心暗鬼になって行きました。
22歳で繰り上げ卒業して、1943年にソ連との国境の近くの旧満州に行きました。
11月に日本を出ましたが、着いた所は何にもない灰色の氷の世界でした。
よく見ると銃口がこちらを向いていて一発触発の状況で、いざとなれば直ぐ撃てる体制になっていました。
天皇陛下皇后陛下と食事をした時に、「貴方は風景画家だと聞いたけど、戦地の風景はどうでしたか」と言われました。
「風景を絵描きの眼で見るのと違って、まるっきり違う、普通の風景に見えませんでした」と言いました。
大きな棺桶の底辺を歩いてる実感でした。
天皇陛下からは根掘り葉掘り聞かれました。
風景というものは自分で作るものだと、自分の中で創造しているなと思うようになりました。
行動を規制されていて逼迫した日々の中の行動の一つ一つが批判されている中で、今日から自由だよと言われたら、放心状態というものはどうしようもなかった。
あれだけ規制されていて、解放感というものは非常に空しい。
絵を描いていて、黒い線を描いていてあるところに来ると緊張感が出るのではないかと思うが、何の反応も無いわけです。
どう描いて見てもそれがなんだと言う、絵になっていない。
一生絵が描けないのではないかと思いました。
少しずつ人間の生活に世の中が戻ってきて、僕も馴染んできました。
パリから帰って来た時にも、そのような気分はありました。
2019年1月29日火曜日
野澤松也(歌舞伎義太夫三味線奏者) ・人生"台本"どおり
野澤松也(歌舞伎義太夫三味線奏者) ・人生"台本"どおり
1955年広島県生まれ、松竹歌舞伎の三味線方として歌舞伎の舞台を務めながら、ライフワークとして創作浄瑠璃の会を発足させ創作浄瑠璃に弾いが足りをしています。
創作浄瑠璃とは日本の昔話や民話、土地に伝わる話等から物語をつくる浄瑠璃の節をつけたものです。
これまで桃太郎をアレンジした「「天晴桃乃鬼退治」(あっぱれもものおにたいじ)」、本所七不思議あかりなし蕎麦のお話を参考にした「灯りなし蕎麦屋」、ごん狐をアレンジした「『権情栗教譚』ごんなさけくりがおしえるものがたり」など30もの作品を世に出しています。
東京、京都でのライブのほか学校や幼稚園、老人介護施設などでも披露しています。
野澤さんは日ごろから、私は創作浄瑠璃を含めて台本通りの人生をおくっているとおっしゃいます。
2004年に創作浄瑠璃の会をつくりました。
16年目に入ります。
月見の会があり、色々話があり、一カ月あとの満月にもやろうと言う事で月に関する話を弾き語りでしました。
皆さんに俳句を書いていただいて、それをその場で浄瑠璃をしましょうという事で、書いていただいたものに節をつけて浄瑠璃の弾き語りをしましたら、とても好評でした。
昔話に浄瑠璃の節をつければ浄瑠璃になると思って、それから始めたのが創作浄瑠璃です。
最初に作ったのが、笠地蔵の話でした。
30分位になりました。
本調子、二上り、本調子、六さがり、本調子に戻ると言う調子がずいぶん変わります。
直ぐに浮かんだのが笠地蔵でした。
*笠地蔵の一部を演奏。
浄瑠璃を子供たちに聞かせたかったので、聞いてもらいました。
大人と違って先入観がないのでとても静かに聞いてくれます。
創作浄瑠璃は30を越えてしまいました。
歌詞を読んで自分で想像を巡らしながら音を付けて行くので、余りこうしなければああしなければいけないという事はないです。
歌詞にあった音をつくりだすのが作曲家の使命で、自分でやっていて面白くて苦労というのは無いです。
三味線が重いのとバチが大きいので子供が弾くのはたいへんですが、音が出るので子供達は楽しんでいます。
今の学校の授業は邦楽を聞いたり演奏したりする時間がほとんどない。
披露するところは学校だけではなくて介護施設に行って演奏しています。
首をうなだれていて、演奏して5分もしないうちに身体が起き上がってきます。
手足でリズムを取ってきたりします。
広島の原爆をテーマにした浄瑠璃「広島に咲く希望の花 カンナ」
母から三味線を弾きに来てくれないかと言われて、弾いた翌日に広島原爆資料館に何故か行くことになりました。
出口の処にまばゆい光が見えて、写真がありました。
被爆後75年は草木も咲かないと言われた広島の焦土に、たった一ヵ月半で花が咲きました。
この花を見て希望の光が見えたと言うことで復興に携わったのでしょう、と書かれていました。
原爆の話、是非これも浄瑠璃にしようと思いました。
父親も被爆していたので聞こうとしましたが、当時のことを思い出したくないので、一言もしゃべってくれませんでした。
母親の知っている人から話を聞くことができて作ることができました。
カンナの花を主人公にして、カンナの花が見た情景ということで作って行きました。
最初100人ほど来てくれましたが、聞きたくないというような人もいてしばらく辞めていましたが、続けて行こうと思って広島でライブをする時にはやっています。
最初に演奏した時に私が小学校の時の校長先生が来ていて、学校でもやって欲しいという事で演奏する機会を得ました。
その校長先生が校長会で話をしてくれて、20何校から声が掛かり演奏させてもらいました。
カンナの球根をわたして育てて花を観ることによって、思い出してほしいと思いました。
長野の農園業者の田辺さんに寒さに強い球根を100個欲しいという事で、それまでの広島のいきさつの話をしをしたら、そんないい話だったら100個でも200個でもただでやるから持って行けと言われました。
小さい頃、とにかく声が小さくて会話ができない位でした。
話さなくて済む昆虫とか蛙とか小動物と遊んでいました。
中学2年の時に母に連れられて、三味線の稽古に行ったのがきっかけでした。
始めて行って吃驚したのは、周りからちやほやされて必ず稽古に行って三味線も好きになりました。
高校の16歳の時にTVの文楽を見て音に惹かれました。
太棹の音は習っていた細棹とは違っていました。
その翌日の新聞に国立養成所の研修生の募集があり、願書を出して16歳で東京に行きました。
1972年文楽の第一期生になりました。
2年間の研修制度があり、三味線、太夫、人形で構成されています。
1年目はみんなやり、日本舞踊、狂言、裏千家、大学の先生の講義などもありました。
正坐にはみんな苦労しました。
最初5分しか坐れなかったが、今は4時間坐っていられます。
研修終了後、野澤松之輔の内弟子となり稽古をしていましたが、師匠が一年で亡くなって、大阪の師匠の処に行きましたが上手く合わなくて辞めて、アルバイトをしながら生計を立てていました。
歌舞伎も三味線が足りないので来てくれないかという事で、松竹歌舞伎に行くことにないました。
文楽では駄目だが歌舞伎に移ったことで、弾き語りができるようになりました。
母は僕をおろすつもりが、隣りの松浦さんに話したら、この子を生みなさいといって松浦さんが乳母をしてくれました。
松浦さんに被爆の話を聞いてカンナの話ができました。
寒さに強いカンナの球根の話があり全部繋がっているんです。
創作浄瑠璃を始めた頃人間関係で厭で毎日死にたくて、苦しい時期がありました。
いつでも死ねると思うと楽に生きて行けることがわかってきて、色んな事を思い出して行っていると、筋書き通りできる訳です。
世の中で起きていることは偶然ではなく必然なんだということ、生れて死ぬまで台本が出来ていると、今まで悔やんでいたこと、先々のこと等を気にしなくていいんです、台本に書かれているから、だから毎日がハッピーです。
創作浄瑠璃を沢山の人に知ってもらいたい、子供達に日本の伝統文化を知ってもらいたい。
欲を無くしたら、周りがどんどん動いてくれるんです。
1955年広島県生まれ、松竹歌舞伎の三味線方として歌舞伎の舞台を務めながら、ライフワークとして創作浄瑠璃の会を発足させ創作浄瑠璃に弾いが足りをしています。
創作浄瑠璃とは日本の昔話や民話、土地に伝わる話等から物語をつくる浄瑠璃の節をつけたものです。
これまで桃太郎をアレンジした「「天晴桃乃鬼退治」(あっぱれもものおにたいじ)」、本所七不思議あかりなし蕎麦のお話を参考にした「灯りなし蕎麦屋」、ごん狐をアレンジした「『権情栗教譚』ごんなさけくりがおしえるものがたり」など30もの作品を世に出しています。
東京、京都でのライブのほか学校や幼稚園、老人介護施設などでも披露しています。
野澤さんは日ごろから、私は創作浄瑠璃を含めて台本通りの人生をおくっているとおっしゃいます。
2004年に創作浄瑠璃の会をつくりました。
16年目に入ります。
月見の会があり、色々話があり、一カ月あとの満月にもやろうと言う事で月に関する話を弾き語りでしました。
皆さんに俳句を書いていただいて、それをその場で浄瑠璃をしましょうという事で、書いていただいたものに節をつけて浄瑠璃の弾き語りをしましたら、とても好評でした。
昔話に浄瑠璃の節をつければ浄瑠璃になると思って、それから始めたのが創作浄瑠璃です。
最初に作ったのが、笠地蔵の話でした。
30分位になりました。
本調子、二上り、本調子、六さがり、本調子に戻ると言う調子がずいぶん変わります。
直ぐに浮かんだのが笠地蔵でした。
*笠地蔵の一部を演奏。
浄瑠璃を子供たちに聞かせたかったので、聞いてもらいました。
大人と違って先入観がないのでとても静かに聞いてくれます。
創作浄瑠璃は30を越えてしまいました。
歌詞を読んで自分で想像を巡らしながら音を付けて行くので、余りこうしなければああしなければいけないという事はないです。
歌詞にあった音をつくりだすのが作曲家の使命で、自分でやっていて面白くて苦労というのは無いです。
三味線が重いのとバチが大きいので子供が弾くのはたいへんですが、音が出るので子供達は楽しんでいます。
今の学校の授業は邦楽を聞いたり演奏したりする時間がほとんどない。
披露するところは学校だけではなくて介護施設に行って演奏しています。
首をうなだれていて、演奏して5分もしないうちに身体が起き上がってきます。
手足でリズムを取ってきたりします。
広島の原爆をテーマにした浄瑠璃「広島に咲く希望の花 カンナ」
母から三味線を弾きに来てくれないかと言われて、弾いた翌日に広島原爆資料館に何故か行くことになりました。
出口の処にまばゆい光が見えて、写真がありました。
被爆後75年は草木も咲かないと言われた広島の焦土に、たった一ヵ月半で花が咲きました。
この花を見て希望の光が見えたと言うことで復興に携わったのでしょう、と書かれていました。
原爆の話、是非これも浄瑠璃にしようと思いました。
父親も被爆していたので聞こうとしましたが、当時のことを思い出したくないので、一言もしゃべってくれませんでした。
母親の知っている人から話を聞くことができて作ることができました。
カンナの花を主人公にして、カンナの花が見た情景ということで作って行きました。
最初100人ほど来てくれましたが、聞きたくないというような人もいてしばらく辞めていましたが、続けて行こうと思って広島でライブをする時にはやっています。
最初に演奏した時に私が小学校の時の校長先生が来ていて、学校でもやって欲しいという事で演奏する機会を得ました。
その校長先生が校長会で話をしてくれて、20何校から声が掛かり演奏させてもらいました。
カンナの球根をわたして育てて花を観ることによって、思い出してほしいと思いました。
長野の農園業者の田辺さんに寒さに強い球根を100個欲しいという事で、それまでの広島のいきさつの話をしをしたら、そんないい話だったら100個でも200個でもただでやるから持って行けと言われました。
小さい頃、とにかく声が小さくて会話ができない位でした。
話さなくて済む昆虫とか蛙とか小動物と遊んでいました。
中学2年の時に母に連れられて、三味線の稽古に行ったのがきっかけでした。
始めて行って吃驚したのは、周りからちやほやされて必ず稽古に行って三味線も好きになりました。
高校の16歳の時にTVの文楽を見て音に惹かれました。
太棹の音は習っていた細棹とは違っていました。
その翌日の新聞に国立養成所の研修生の募集があり、願書を出して16歳で東京に行きました。
1972年文楽の第一期生になりました。
2年間の研修制度があり、三味線、太夫、人形で構成されています。
1年目はみんなやり、日本舞踊、狂言、裏千家、大学の先生の講義などもありました。
正坐にはみんな苦労しました。
最初5分しか坐れなかったが、今は4時間坐っていられます。
研修終了後、野澤松之輔の内弟子となり稽古をしていましたが、師匠が一年で亡くなって、大阪の師匠の処に行きましたが上手く合わなくて辞めて、アルバイトをしながら生計を立てていました。
歌舞伎も三味線が足りないので来てくれないかという事で、松竹歌舞伎に行くことにないました。
文楽では駄目だが歌舞伎に移ったことで、弾き語りができるようになりました。
母は僕をおろすつもりが、隣りの松浦さんに話したら、この子を生みなさいといって松浦さんが乳母をしてくれました。
松浦さんに被爆の話を聞いてカンナの話ができました。
寒さに強いカンナの球根の話があり全部繋がっているんです。
創作浄瑠璃を始めた頃人間関係で厭で毎日死にたくて、苦しい時期がありました。
いつでも死ねると思うと楽に生きて行けることがわかってきて、色んな事を思い出して行っていると、筋書き通りできる訳です。
世の中で起きていることは偶然ではなく必然なんだということ、生れて死ぬまで台本が出来ていると、今まで悔やんでいたこと、先々のこと等を気にしなくていいんです、台本に書かれているから、だから毎日がハッピーです。
創作浄瑠璃を沢山の人に知ってもらいたい、子供達に日本の伝統文化を知ってもらいたい。
欲を無くしたら、周りがどんどん動いてくれるんです。
2019年1月28日月曜日
頭木弘樹(文学紹介) ・【絶望名言】金子みすゞ
頭木弘樹(文学紹介) ・【絶望名言】金子みすゞ
私が寂しい時によその人は知らないの。
私が寂しい時にお友達が笑うの。
私が寂しい時におかあさんは優しいの。
私が寂しい時に仏様は寂しいの。 金子みすゞ
童謡詩人として大変人気のある方です。
感じのいい事を感じのいい言葉で言っているだけの人みたいに思ってましたが、後からそんな薄っぺらい人ではなかったという事を知りました。
この詩を読んで金子みすゞに対する印象がガラッと変わりました。
「私が寂しい時によその人は知らないの」
これはまさに私が難病で病院に入院している時で、まさにピッタリでした。
大学3年で難病に罹り、それからから13年間闘病生活を送りました。
「私が寂しい時にお友達が笑うの。」
痛みは一瞬でも忘れることはできないが、いくら親身な友達でも、なんかで笑ったりして友達のことは忘れる。
本当に悲しいのは当人だけだ、という事実はとっても孤独です。
「私が寂しい時におかあさんは優しいの。」
肉親ともなれば他人とは違ってより親身ですが、やっぱり当人とは違う。
「私が寂しい時に仏様は寂しいの」
本当に同じ寂しさを感じてくれるのは仏様だけという事。
仏様でなければ同じ寂しさを感じる事はないという事で、他人が自分と同じ寂しさを感じることはない。
自分の気持ちを理解してくれることはいないということです、それに気付いた時、人は凄く孤独です。
孤独を感じて苦しんでいる時に、この詩を読んだら凄く救われるのではないかと思います。
「おもちゃの無い子が寂しけりゃ、おもちゃをやったら治るでしょう。
母さんの無い子が悲しけりゃ、母さんをあげたら嬉しいでしょう。
母さんはやさしく髪を撫で、おもちゃは箱からこぼれてて、それで私のさみしいはなにをもろたら治るでしょう。」
寂しさの中には解決策があるものもあるが、どんな事をしても解決できない寂しさもある。
解決策の無い寂しさを金子みすゞは詩にずーっと詩い続けてきたのではないかと思います。
「あかるい方へあかるい方へ一つの葉でも陽の漏るほうへ、やぶかげの草は。
あかるい方へあかるい方へはねはこげよと、陽のあるとこへ、夜飛ぶ虫は。
あかるい方へあかるい方へ一部も広く陽のさすとこへ、街に住む子らは。」
今は暗い所にいるからこそ、あかるい方へと祈っているんじゃないかと思います。
ヴェートーベン 苦悩しているからこそ「歓喜」を求める訳です。
金子みすゞの生い立ち
1903年4月11日 同じ年生れのの作家 山本周五郎、小林多喜二、林ふみ子など。
金子みすゞは26歳で亡くなっている。
詩を書き始めたのは20歳の時。
家は本屋さんだったので店番をして、西条八十の童謡に感激して童謡を書くようになる。
当時色んな童謡雑誌が誕生した時期でした。
「赤い鳥」の撰者が北原白秋、「金の舟」の撰者が野口雨情、「どうわ」の撰者が西条八十でした。
金子みすゞも投稿するようになる。
当時山口県の下関にいた。
童謡ブームが急速に去って行き、第二次世界大戦前で軍国色が強まってきて、「赤い鳥」などが廃刊して行く。
投稿先が無くなって行き、そのときに書いたのが「あかるい方へ」という詩でした。
昭和2年の23歳の頃の作品。
私生活でも辛い時期で、周囲の勧めで店員と結婚するが、夫が遊郭に遊びにいってるばっかりで、まだ籍が入って無くて離縁した方がいいと周りが言った時には、金子みすゞは妊娠している事が判ったわけです。
正式に婚姻届を出すということになる。
「寂しい王女」
「強い王子に救われて城に帰ったお姫様。
城は昔の城だけど、薔薇も必ず咲くけれど、何故か寂しいお姫様。
今日もお空を眺めた。
魔法使いは怖いけど、あの果てしない青空を、白く輝く羽根のべて、
遥かに遠く旅してた小鳥の頃が懐かしい。
街の上には花が飛び、城に宴はまだ続く。
それもさみしいお姫様、一人日暮れの花園で、まっかな薔薇は見も向かず、
お空ばかりを眺めてた。」
これは王子に救われたくはないということです。
金子みすゞにとって結婚という制度は、人生を台無しにしてしまった出来事だったと思います。
「思い出すのは病院の少し汚れた白い壁。
長い夏の日一日を眺め暮した白い壁。
小さい蜘蛛の巣、雨のしみ、そして七つの紙の星。
星に書かれた七つの字、め、り、い、く、り、す、ま 七つの字
去年その頃その床にどんな子供が寝かされて、
その世の雪に寂しげに、紙のお星を切ったやら。
忘れられない病院の壁にすすけた七つ星。」
この描写は色んな人の色んな思いが詰まっているという感じがします。
金子みすゞが入院したのは26歳の夏なんですね。
原因は夫から性病を(淋病)うつされてしまって重病となったため。
病気をうつした夫は又浮気に出掛ける。
「できましたできました
かはいい詩集ができました
我とわが身に訓(おし)ふれど
心をどらずさみしさよ
夏暮れ秋もはや更(た)けぬ
針もつひまのわが手わざ
ただむなしき心地(こゝち)する
誰に見せうぞ
我さへも心足(た)らはず
さみしさよ
(ああ、つひに、
登り得ずして帰り来し
山のすがたは雲に消ゆ)
とにかくむなしきわざと知りながら
秋の灯(ともし)の更(ふ)くるまを
ただひたむきに書きて来(こ)し
明日よりは、何を書こうぞさみしさよ」
「巻末手記」というタイトルの詩。
山に登ろうとして挫折して途中から戻ってきてしまった人、山に登ることができなかった人、山に登ろうと思う事さえできんかった人、その方の人に興味があります。
リハビリで歩いている時に元気な時には気付かなかった僅かな段差、傾きが気付く。
それは大事なことだと思います。
山に登り損ねると言う事は、挫折して地上に戻ってきた時に見え方が違ってくると思います、それも貴重なことだと思います。
昭和5年3月10日、夫に子供を取られそうになったことが、自殺の最後の引き金になったと言われています。
睡眠薬を大量に飲んで自殺してしまった。
「上の雪寒かろな。 冷たい月がさしていて。
下の雪重かろな、何百人も乗せていて。
中の雪さみしかろな、空も地べたも見えないで。」
この詩にはみすゞのものの見方が凄く良く現れてれている。
雪を三つに分けてとらえていることが、普通なかなかできないものの見方で、それぞれの雪の思いを捉えている。
人に対してもそうだと思います。
私が寂しい時によその人は知らないの。
私が寂しい時にお友達が笑うの。
私が寂しい時におかあさんは優しいの。
私が寂しい時に仏様は寂しいの。 金子みすゞ
童謡詩人として大変人気のある方です。
感じのいい事を感じのいい言葉で言っているだけの人みたいに思ってましたが、後からそんな薄っぺらい人ではなかったという事を知りました。
この詩を読んで金子みすゞに対する印象がガラッと変わりました。
「私が寂しい時によその人は知らないの」
これはまさに私が難病で病院に入院している時で、まさにピッタリでした。
大学3年で難病に罹り、それからから13年間闘病生活を送りました。
「私が寂しい時にお友達が笑うの。」
痛みは一瞬でも忘れることはできないが、いくら親身な友達でも、なんかで笑ったりして友達のことは忘れる。
本当に悲しいのは当人だけだ、という事実はとっても孤独です。
「私が寂しい時におかあさんは優しいの。」
肉親ともなれば他人とは違ってより親身ですが、やっぱり当人とは違う。
「私が寂しい時に仏様は寂しいの」
本当に同じ寂しさを感じてくれるのは仏様だけという事。
仏様でなければ同じ寂しさを感じる事はないという事で、他人が自分と同じ寂しさを感じることはない。
自分の気持ちを理解してくれることはいないということです、それに気付いた時、人は凄く孤独です。
孤独を感じて苦しんでいる時に、この詩を読んだら凄く救われるのではないかと思います。
「おもちゃの無い子が寂しけりゃ、おもちゃをやったら治るでしょう。
母さんの無い子が悲しけりゃ、母さんをあげたら嬉しいでしょう。
母さんはやさしく髪を撫で、おもちゃは箱からこぼれてて、それで私のさみしいはなにをもろたら治るでしょう。」
寂しさの中には解決策があるものもあるが、どんな事をしても解決できない寂しさもある。
解決策の無い寂しさを金子みすゞは詩にずーっと詩い続けてきたのではないかと思います。
「あかるい方へあかるい方へ一つの葉でも陽の漏るほうへ、やぶかげの草は。
あかるい方へあかるい方へはねはこげよと、陽のあるとこへ、夜飛ぶ虫は。
あかるい方へあかるい方へ一部も広く陽のさすとこへ、街に住む子らは。」
今は暗い所にいるからこそ、あかるい方へと祈っているんじゃないかと思います。
ヴェートーベン 苦悩しているからこそ「歓喜」を求める訳です。
金子みすゞの生い立ち
1903年4月11日 同じ年生れのの作家 山本周五郎、小林多喜二、林ふみ子など。
金子みすゞは26歳で亡くなっている。
詩を書き始めたのは20歳の時。
家は本屋さんだったので店番をして、西条八十の童謡に感激して童謡を書くようになる。
当時色んな童謡雑誌が誕生した時期でした。
「赤い鳥」の撰者が北原白秋、「金の舟」の撰者が野口雨情、「どうわ」の撰者が西条八十でした。
金子みすゞも投稿するようになる。
当時山口県の下関にいた。
童謡ブームが急速に去って行き、第二次世界大戦前で軍国色が強まってきて、「赤い鳥」などが廃刊して行く。
投稿先が無くなって行き、そのときに書いたのが「あかるい方へ」という詩でした。
昭和2年の23歳の頃の作品。
私生活でも辛い時期で、周囲の勧めで店員と結婚するが、夫が遊郭に遊びにいってるばっかりで、まだ籍が入って無くて離縁した方がいいと周りが言った時には、金子みすゞは妊娠している事が判ったわけです。
正式に婚姻届を出すということになる。
「寂しい王女」
「強い王子に救われて城に帰ったお姫様。
城は昔の城だけど、薔薇も必ず咲くけれど、何故か寂しいお姫様。
今日もお空を眺めた。
魔法使いは怖いけど、あの果てしない青空を、白く輝く羽根のべて、
遥かに遠く旅してた小鳥の頃が懐かしい。
街の上には花が飛び、城に宴はまだ続く。
それもさみしいお姫様、一人日暮れの花園で、まっかな薔薇は見も向かず、
お空ばかりを眺めてた。」
これは王子に救われたくはないということです。
金子みすゞにとって結婚という制度は、人生を台無しにしてしまった出来事だったと思います。
「思い出すのは病院の少し汚れた白い壁。
長い夏の日一日を眺め暮した白い壁。
小さい蜘蛛の巣、雨のしみ、そして七つの紙の星。
星に書かれた七つの字、め、り、い、く、り、す、ま 七つの字
去年その頃その床にどんな子供が寝かされて、
その世の雪に寂しげに、紙のお星を切ったやら。
忘れられない病院の壁にすすけた七つ星。」
この描写は色んな人の色んな思いが詰まっているという感じがします。
金子みすゞが入院したのは26歳の夏なんですね。
原因は夫から性病を(淋病)うつされてしまって重病となったため。
病気をうつした夫は又浮気に出掛ける。
「できましたできました
かはいい詩集ができました
我とわが身に訓(おし)ふれど
心をどらずさみしさよ
夏暮れ秋もはや更(た)けぬ
針もつひまのわが手わざ
ただむなしき心地(こゝち)する
誰に見せうぞ
我さへも心足(た)らはず
さみしさよ
(ああ、つひに、
登り得ずして帰り来し
山のすがたは雲に消ゆ)
とにかくむなしきわざと知りながら
秋の灯(ともし)の更(ふ)くるまを
ただひたむきに書きて来(こ)し
明日よりは、何を書こうぞさみしさよ」
山に登ろうとして挫折して途中から戻ってきてしまった人、山に登ることができなかった人、山に登ろうと思う事さえできんかった人、その方の人に興味があります。
リハビリで歩いている時に元気な時には気付かなかった僅かな段差、傾きが気付く。
それは大事なことだと思います。
山に登り損ねると言う事は、挫折して地上に戻ってきた時に見え方が違ってくると思います、それも貴重なことだと思います。
昭和5年3月10日、夫に子供を取られそうになったことが、自殺の最後の引き金になったと言われています。
睡眠薬を大量に飲んで自殺してしまった。
「上の雪寒かろな。 冷たい月がさしていて。
下の雪重かろな、何百人も乗せていて。
中の雪さみしかろな、空も地べたも見えないで。」
この詩にはみすゞのものの見方が凄く良く現れてれている。
雪を三つに分けてとらえていることが、普通なかなかできないものの見方で、それぞれの雪の思いを捉えている。
人に対してもそうだと思います。
2019年1月27日日曜日
奥田佳道 (音楽評論家) ・【クラシックの遺伝子】
奥田佳道 (音楽評論家) ・【クラシックの遺伝子】
2019年はヘルベルト・フォン・カラヤンが亡くなって30年(1989年ベルリンの壁が崩壊した年。)
「天国と地獄」 ジャック・オッフェンバックが生誕200年。
「ウィンナ・オペレッタ(ドイツ語版)の父」 フランツ・フォン・スッペ 生誕200年。
*歌劇「フィガロの結婚」から序曲 作曲 モーツアルト
プラハで大喝さいを受ける。
今日のテーマはモーツアルトです。
1756年1月27日 生れで、今日が誕生日です。(生きていれば263歳)
*歌劇「フィガロの結婚」から「もう飛ぶまいぞ、この蝶々」
計算ずくでポップスの様にモーツアルトの音楽の新しさを際立たせた演奏。
*「ドン・ジョヴァンニ」 第二幕から「食事の用意は出来た」
モーツアルトの父親(レオポルト・モーツァルト)が生誕300年です。(1719年11月14日 生れ)
有名なヴァイオリンの先生で厳しい先生だった。
息子の才能を見出し、貴族などに売り込むために一緒に旅をしている。
作曲家でもあった。
*「カッサシオン」から第三楽章アレグロ 作曲レオポルト・モーツァルト
世界的に有名な『おもちゃの交響曲』
1992年にオーストリアのチロル州の修道院で『おもちゃの交響曲』を書きうつした楽譜が見つかった。
エトムント・アンゲラーという名前が書いてあった。
エトムント・アンゲラーの書いた作品がとても人気があったので、いろんな作曲家が自分の曲の中にすこしずつ取り入れたのではないかというのが最近の研究で、ただエトムント・アンゲラーの曲と決まった訳でも無くて、レオポルト・モーツァルトでいいんではないかという声がある事も事実です
モーツアルトの時代、オスマントルコの軍楽隊の響きがウイーンで流行り始めます。
*ピアノソナタ:第11番 第三楽章 「トルコ行進曲」
ウインナ・ワルツはモーツアルトの時代にはない。
シューベルト、ショパンの時代に流行って来る。
ヨーゼフ・ランナーはウィンナ・ワルツの様式を確立させたため、「ワルツの始祖」と呼ばれる。
「モーツアルティアン」という曲がある。
*「モーツアルティアン」のウインナ・ワルツの部分。
*「アヴェ・ヴェルム・コルプス」
2019年はヘルベルト・フォン・カラヤンが亡くなって30年(1989年ベルリンの壁が崩壊した年。)
「天国と地獄」 ジャック・オッフェンバックが生誕200年。
「ウィンナ・オペレッタ(ドイツ語版)の父」 フランツ・フォン・スッペ 生誕200年。
*歌劇「フィガロの結婚」から序曲 作曲 モーツアルト
プラハで大喝さいを受ける。
今日のテーマはモーツアルトです。
1756年1月27日 生れで、今日が誕生日です。(生きていれば263歳)
*歌劇「フィガロの結婚」から「もう飛ぶまいぞ、この蝶々」
計算ずくでポップスの様にモーツアルトの音楽の新しさを際立たせた演奏。
*「ドン・ジョヴァンニ」 第二幕から「食事の用意は出来た」
モーツアルトの父親(レオポルト・モーツァルト)が生誕300年です。(1719年11月14日 生れ)
有名なヴァイオリンの先生で厳しい先生だった。
息子の才能を見出し、貴族などに売り込むために一緒に旅をしている。
作曲家でもあった。
*「カッサシオン」から第三楽章アレグロ 作曲レオポルト・モーツァルト
世界的に有名な『おもちゃの交響曲』
1992年にオーストリアのチロル州の修道院で『おもちゃの交響曲』を書きうつした楽譜が見つかった。
エトムント・アンゲラーという名前が書いてあった。
エトムント・アンゲラーの書いた作品がとても人気があったので、いろんな作曲家が自分の曲の中にすこしずつ取り入れたのではないかというのが最近の研究で、ただエトムント・アンゲラーの曲と決まった訳でも無くて、レオポルト・モーツァルトでいいんではないかという声がある事も事実です
モーツアルトの時代、オスマントルコの軍楽隊の響きがウイーンで流行り始めます。
*ピアノソナタ:第11番 第三楽章 「トルコ行進曲」
ウインナ・ワルツはモーツアルトの時代にはない。
シューベルト、ショパンの時代に流行って来る。
ヨーゼフ・ランナーはウィンナ・ワルツの様式を確立させたため、「ワルツの始祖」と呼ばれる。
「モーツアルティアン」という曲がある。
*「モーツアルティアン」のウインナ・ワルツの部分。
*「アヴェ・ヴェルム・コルプス」
2019年1月26日土曜日
渡辺一史(ノンフィクションライター) ・夜更けにバナナを探して
渡辺一史(ノンフィクションライター) ・夜更けにバナナを探して
今から16年前、2003年に渡辺さんが3年をかけてかけて書いた「こんな夜更けにバナナかよ」が先月映画化されて話題になっています。
この本は北海道に住む、全身の筋肉が衰えて行く難病筋ジストロフィーの患者と、ボランティアをテーマにしたノンフィクションです。
当時大宅荘一ノンフィクション賞と講談社ノンフィクション賞をダブル受賞をしました。
渡辺さんは名古屋市の出身です。
父の転勤で大阪の中学、高校を卒業し、獣医をめざして北海道大学に入学しましたが、夢叶わず中退してフリーライターになりました。
2冊目は「北の無人駅から」、3冊目は「何故人と人は支え合うのか」を書いています。
障害者が我ままで支援するボランティアの人達に要求する障害者の方で、深夜にバナナが食べたくなったからバナナを食べさせろ、ということに対して頭ではボランティアで食べさせてあげるために来ているが内心はむっとする訳で、「こんな夜更けにバナナかよ」とつぶやいたボランティアの話をタイトルにしました。
昨年12月に封切りされましたが、お陰さまで好評です。
2003年に本を出版。
小学校の時に筋ジストロフィーを告げられて、18歳で車椅子生活、32歳の時心臓の筋力低下で拡張型心筋症と診断され、ほとんど寝たきりとなる。
自立生活をしたいと言う事でボランティアを募集して24時間体制で生活をする。
心臓が拍動するのも筋肉なので、その機能自体も衰えて行って、心臓で亡くなるかたちが多い。
鹿野さんは我ままだと言われるがバイタリティーのある方で、とにかくどんない障害が重くても地域で生活したいと言う事で、介護をボランティアで募集してやってもらわざるを得ない状況でした。
命がけで障害者施設を飛び出して、20代のころから地域で普通に生活をしたいという事で、亡くなるまで続ける方だった。
障害のあるのは誰のせいでもないという事で、生き方の選択肢は一生親元で過ごすか、病院とかで隔離されて一生を終えてしまうのは違うのではないか、障害があっても自分の人生を自分で生きたいという主張を貫いたんですね。
人工呼吸器が発達して筋ジストロフィーの方の寿命が伸びて、いまは40代過ぎた方もたくさんいらっしゃいます。
しかし、喉に穴をあけて管を付けるので痰が溜まるので、それを吸引器で吸い出さないと窒息してしまうので、それを含めたボランティア介助をしていたということです。
鹿野さんは家族が面倒を見なくてはいけないという、日本の家族介護への反抗でもあった訳です。
途中で何かあっても命も自分の責任でという事で、痰の吸引も素人のボランティアの人にやってもらうことにしたんです。
取材で鹿野さんにあった時に、本当に自己主張の強い方でボランティアの方たちに、あれしろこれしろと容赦なく付きつける人で、好き嫌いが多く、人の噂話が大好きで、俗っぽい側面がありました。
気に入らないと周囲に八つ当たりする。
一般的に障害者を描く時に、困難に負けず健気に一生懸命生きている人、聖人君子みたいな障害者像を描かれがちですが、鹿野さんと向かい合っている限り、何処が聖人君子かという感じの方です。
支えるボランティアの方も普通の人で遅刻して鹿野さんに怒られたり、介助をなかなか覚えられないとか、ごく普通の若者たちです。
清く正しく美しい障害者と善良な献身的なボランティアの若者たち、という物語では全くないものです。
イメージしていた福祉介護の世界とは全然違っていて、正確に描きたいと思って書いたのがこの本です。
大学中退してフリーライターをやっていて10年ぐらいのキャリアはありました。
福祉介護の世界は全然やったことはありませんでした。
取材に出掛けて行った処は美談感動ドラマではなくて、興味が惹かれました。
自問自答を深めて行って、これは鹿野さんにとって自分の人生を主体的に生きると言う上で、煙草を吸いたいとかエッチなビデオを観たいとか、当然健常者がやっている普通の生活がしたという思いを自分では出来ないので人に頼む。
我ままなんだろうかと段々考え始める。
衝突はするが最終的にはお互いを認め合って、深い信頼関係に繋がっていったりする。
うわべだけでいうこと聞いてくれるボランティアよりも、反抗して来るようなボランティアの方がいざとなった時に頼りになったりする。
衝突することによってお互いの立場を知って行く。
葛藤を重ねて培われてゆく信頼関係が見えてきた時に、自分と他者の信頼関係はこういう事なんだと言う、深い側面が見えてきたというのが見えてきました。
介助ノート、引き継ぎノートが95冊になりました。
ボランティアの人も書きましたが、鹿野さんも口述筆記してもらって両者の色んな思いも綴っていきました。
ノートが本を書く上でいろいろ参考になりました。
筋ジストロフィーも進行して行くと寝返りが出来ないので、呼んだりするが眠れないとか、介護者もちゃんと夜寝て朝起きる生活にしてくださいとか、生々しいやり取りが全部ノートに現れていました。
ボランティアも交替があるので、新人ボランティアには鹿野さんが指導していました。
私も指導してもらってボランティアに参加しましたが、本質を理解するにはそういう状況に入りこまないといけないのではないかと思いました。
2002年8月に鹿野さんは亡くなりました。(未完の本の部分的にはお見せしました。)
本が出来上がる前に亡くなってしまいました。
鹿野さんとは2年4カ月の付き合いでしたが、亡くなった以降の15年は鹿野さんから学んだ事がものを書いたり、大学で話す機会を頂いたり、根底はすべて鹿野さんから教わった事がベースにあります。
関わったボランティアの人は500から1000人ぐらいで、今の自分があるのは鹿野さんのお陰だと思っているボタンティアの人は、沢山いて多くの人に影響を与えたそういう生き方だったと思います。
2冊目「北の無人駅から」 これは8年半かかっています。
779ページになります。
北海道の無人駅を調べて、取りつかれたようにやってきました。
駅の周辺の地域が抱えている矛盾、社会問題、農業、漁業、自然保護、環境問題、観光等どこに問題があるのか、深く突っ込んで行くうちに東京以外の地方が抱えている問題を書いたような本になりました。
サントリー学芸賞を受賞。第12回石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞受賞
獣医さんになりたいと思っていました。
北海道大学理Ⅱ系入学に獣医の道は進めませんでした。
在学中、自ら創刊したキャンパス雑誌の編集にのめり込み、1991年9月北海道大学文学部行動科学科中退する事になりました。
3冊目は「何故人と人は支え合うのか」
自分が納得できて本になるまでには、時間がかかってしまって困った性格だと思います。
それが私の障害なんじゃないかというふうに「何故人と人は支え合うのか」の中には書いていて、こだわり過ぎるのが障害だと思います。
もう一回地方の問題に取り組んでみたいという思いと、30年以上住んでいる札幌の問題も取り組んでみたいと思います。
今から16年前、2003年に渡辺さんが3年をかけてかけて書いた「こんな夜更けにバナナかよ」が先月映画化されて話題になっています。
この本は北海道に住む、全身の筋肉が衰えて行く難病筋ジストロフィーの患者と、ボランティアをテーマにしたノンフィクションです。
当時大宅荘一ノンフィクション賞と講談社ノンフィクション賞をダブル受賞をしました。
渡辺さんは名古屋市の出身です。
父の転勤で大阪の中学、高校を卒業し、獣医をめざして北海道大学に入学しましたが、夢叶わず中退してフリーライターになりました。
2冊目は「北の無人駅から」、3冊目は「何故人と人は支え合うのか」を書いています。
障害者が我ままで支援するボランティアの人達に要求する障害者の方で、深夜にバナナが食べたくなったからバナナを食べさせろ、ということに対して頭ではボランティアで食べさせてあげるために来ているが内心はむっとする訳で、「こんな夜更けにバナナかよ」とつぶやいたボランティアの話をタイトルにしました。
昨年12月に封切りされましたが、お陰さまで好評です。
2003年に本を出版。
小学校の時に筋ジストロフィーを告げられて、18歳で車椅子生活、32歳の時心臓の筋力低下で拡張型心筋症と診断され、ほとんど寝たきりとなる。
自立生活をしたいと言う事でボランティアを募集して24時間体制で生活をする。
心臓が拍動するのも筋肉なので、その機能自体も衰えて行って、心臓で亡くなるかたちが多い。
鹿野さんは我ままだと言われるがバイタリティーのある方で、とにかくどんない障害が重くても地域で生活したいと言う事で、介護をボランティアで募集してやってもらわざるを得ない状況でした。
命がけで障害者施設を飛び出して、20代のころから地域で普通に生活をしたいという事で、亡くなるまで続ける方だった。
障害のあるのは誰のせいでもないという事で、生き方の選択肢は一生親元で過ごすか、病院とかで隔離されて一生を終えてしまうのは違うのではないか、障害があっても自分の人生を自分で生きたいという主張を貫いたんですね。
人工呼吸器が発達して筋ジストロフィーの方の寿命が伸びて、いまは40代過ぎた方もたくさんいらっしゃいます。
しかし、喉に穴をあけて管を付けるので痰が溜まるので、それを吸引器で吸い出さないと窒息してしまうので、それを含めたボランティア介助をしていたということです。
鹿野さんは家族が面倒を見なくてはいけないという、日本の家族介護への反抗でもあった訳です。
途中で何かあっても命も自分の責任でという事で、痰の吸引も素人のボランティアの人にやってもらうことにしたんです。
取材で鹿野さんにあった時に、本当に自己主張の強い方でボランティアの方たちに、あれしろこれしろと容赦なく付きつける人で、好き嫌いが多く、人の噂話が大好きで、俗っぽい側面がありました。
気に入らないと周囲に八つ当たりする。
一般的に障害者を描く時に、困難に負けず健気に一生懸命生きている人、聖人君子みたいな障害者像を描かれがちですが、鹿野さんと向かい合っている限り、何処が聖人君子かという感じの方です。
支えるボランティアの方も普通の人で遅刻して鹿野さんに怒られたり、介助をなかなか覚えられないとか、ごく普通の若者たちです。
清く正しく美しい障害者と善良な献身的なボランティアの若者たち、という物語では全くないものです。
イメージしていた福祉介護の世界とは全然違っていて、正確に描きたいと思って書いたのがこの本です。
大学中退してフリーライターをやっていて10年ぐらいのキャリアはありました。
福祉介護の世界は全然やったことはありませんでした。
取材に出掛けて行った処は美談感動ドラマではなくて、興味が惹かれました。
自問自答を深めて行って、これは鹿野さんにとって自分の人生を主体的に生きると言う上で、煙草を吸いたいとかエッチなビデオを観たいとか、当然健常者がやっている普通の生活がしたという思いを自分では出来ないので人に頼む。
我ままなんだろうかと段々考え始める。
衝突はするが最終的にはお互いを認め合って、深い信頼関係に繋がっていったりする。
うわべだけでいうこと聞いてくれるボランティアよりも、反抗して来るようなボランティアの方がいざとなった時に頼りになったりする。
衝突することによってお互いの立場を知って行く。
葛藤を重ねて培われてゆく信頼関係が見えてきた時に、自分と他者の信頼関係はこういう事なんだと言う、深い側面が見えてきたというのが見えてきました。
介助ノート、引き継ぎノートが95冊になりました。
ボランティアの人も書きましたが、鹿野さんも口述筆記してもらって両者の色んな思いも綴っていきました。
ノートが本を書く上でいろいろ参考になりました。
筋ジストロフィーも進行して行くと寝返りが出来ないので、呼んだりするが眠れないとか、介護者もちゃんと夜寝て朝起きる生活にしてくださいとか、生々しいやり取りが全部ノートに現れていました。
ボランティアも交替があるので、新人ボランティアには鹿野さんが指導していました。
私も指導してもらってボランティアに参加しましたが、本質を理解するにはそういう状況に入りこまないといけないのではないかと思いました。
2002年8月に鹿野さんは亡くなりました。(未完の本の部分的にはお見せしました。)
本が出来上がる前に亡くなってしまいました。
鹿野さんとは2年4カ月の付き合いでしたが、亡くなった以降の15年は鹿野さんから学んだ事がものを書いたり、大学で話す機会を頂いたり、根底はすべて鹿野さんから教わった事がベースにあります。
関わったボランティアの人は500から1000人ぐらいで、今の自分があるのは鹿野さんのお陰だと思っているボタンティアの人は、沢山いて多くの人に影響を与えたそういう生き方だったと思います。
2冊目「北の無人駅から」 これは8年半かかっています。
779ページになります。
北海道の無人駅を調べて、取りつかれたようにやってきました。
駅の周辺の地域が抱えている矛盾、社会問題、農業、漁業、自然保護、環境問題、観光等どこに問題があるのか、深く突っ込んで行くうちに東京以外の地方が抱えている問題を書いたような本になりました。
サントリー学芸賞を受賞。第12回石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞受賞
獣医さんになりたいと思っていました。
北海道大学理Ⅱ系入学に獣医の道は進めませんでした。
在学中、自ら創刊したキャンパス雑誌の編集にのめり込み、1991年9月北海道大学文学部行動科学科中退する事になりました。
3冊目は「何故人と人は支え合うのか」
自分が納得できて本になるまでには、時間がかかってしまって困った性格だと思います。
それが私の障害なんじゃないかというふうに「何故人と人は支え合うのか」の中には書いていて、こだわり過ぎるのが障害だと思います。
もう一回地方の問題に取り組んでみたいという思いと、30年以上住んでいる札幌の問題も取り組んでみたいと思います。
2019年1月25日金曜日
高楼方子(児童文学作家) ・【人生の道しるべ】ファンタジーは憧れの中に
高楼方子(児童文学作家) ・【人生の道しるべ】ファンタジーは憧れの中に
昭和30年北海道函館市生まれ、12歳まで函館で過ごします。
その後は東京へ、現在は札幌市て執筆をされています。
高楼さんは昭和62年に長編ファンタジー『ココの詩』で作家デビュー、幼い子供達の為の絵本から長編ファンタジーまで多彩な物語を紡ぎだしてきました。
30年間ロングセラーとなっている「まあちゃんのながいかみ」のほか「へんてこもりのはなしシリーズ」、「つんつくせんせいシリーズ」は高楼さんが自ら絵も描いていて人気の絵本です。
路傍の石幼少年文学賞や、赤い鳥文学賞など受賞歴も多数おもちです。
一回目は高楼さんの子供の頃の思い出、創作の原点、子供達をわくわくさせる魅力的な作品がどの様にして生みだされるのか伺いました。
札幌には30年以上になります。
子供が独立し、現在は主人と二人ぐらしです。
日常は朝の9時半から12時まで、1時半から6時ぐらいまで大体なんか書いたりやっています。
小さいころから本は好きでしたが、夢中になるほどの子供では無かったです。
函館にいたときよりも、東京にいた時の方が良く読んでいました。
小さい頃のことを良く覚えています。
1,2歳の頃の事を何故か覚えています。
道端の水たまりに空が映っているとか、物干しざおの根っこの処に草が生えているとか、母に抱っこされて割烹着のV字型のれんこんレースが、綺麗だなと思ったりしました。
映像として残っています。
或る時これからずーっと学校に行くのかと思った時に、もの凄く自由が束縛されるような気がして、行きたくなくて誰が私がここにいるのを知っているのか不思議でした。
「学校へ行くことが決まっているの」と母から言われて全身から怒りが込み上げてきたのを覚えています。
他の子に比べて良く見ていること、観察する事が多かったと思います。
お茶目な子では無かったです。
自分の人生は作って行くものだと言うようなことわざがありますが、それはすごくうれしいなと思いました。
しかし、種に入っているものが育っていくのかなという気がします。
小さい時のもっていたものが、そのままずるずる引きずって、大人になるのではないのでしょうか。
多少良くしたり悪くしたりするのも自分のせいだったりしますが。
姉と一緒に絵は大好きで、チラシの裏に色んなものを描いていました。
国語が好きで、読むのが好きでした。
小学校4年生の時に話と絵とを描くようになりました。
小学校6年生の時に本(リンドグレーン)を貸してもらって、こんな面白い話があるのかと思って、3巻を読み終わるころに、この人が書かなければこの本は無かったんだと言うことに気がつきました。
誰かが書くとその世界が出来るんだと言うことに気が付いて、自由だなという事を思いました。
その時に自分でも文字にして世界を作ってみたいと思いました。
4巻目を自分でも書きたいと思って、書き始めたがうまくいかなかった。
その後良く考えて書くようになりました。
わくわくすることを、どのように展開させてゆくかはひとりでには出来ない。
大変良く考えます。
長編だと細部までは判らないが、大枠は最期まで決まっています。
読んでいる本の一節だったり、面白いと思ったりした時とか、絵を見てる時などに、自分の中にあるものが眠っていたものが揺り動かされるように、これを書きたかったのかと段々膨らましていって、どのような話にしていくのか、時間の流れを文字で並べて行って、絵も描いたりして、目に見えるようにして行くわけです。
日常を幾つも幾つも書いたような話は比較的楽に書けますね。
長編だと主人公が12,3歳なので自分の子供の頃の事を思い出したりして書きます。
4,5歳の頃向けだと、それは小さい時の記憶が多いから、凄く助けられます。
昭和30年北海道函館市生まれ、12歳まで函館で過ごします。
その後は東京へ、現在は札幌市て執筆をされています。
高楼さんは昭和62年に長編ファンタジー『ココの詩』で作家デビュー、幼い子供達の為の絵本から長編ファンタジーまで多彩な物語を紡ぎだしてきました。
30年間ロングセラーとなっている「まあちゃんのながいかみ」のほか「へんてこもりのはなしシリーズ」、「つんつくせんせいシリーズ」は高楼さんが自ら絵も描いていて人気の絵本です。
路傍の石幼少年文学賞や、赤い鳥文学賞など受賞歴も多数おもちです。
一回目は高楼さんの子供の頃の思い出、創作の原点、子供達をわくわくさせる魅力的な作品がどの様にして生みだされるのか伺いました。
札幌には30年以上になります。
子供が独立し、現在は主人と二人ぐらしです。
日常は朝の9時半から12時まで、1時半から6時ぐらいまで大体なんか書いたりやっています。
小さいころから本は好きでしたが、夢中になるほどの子供では無かったです。
函館にいたときよりも、東京にいた時の方が良く読んでいました。
小さい頃のことを良く覚えています。
1,2歳の頃の事を何故か覚えています。
道端の水たまりに空が映っているとか、物干しざおの根っこの処に草が生えているとか、母に抱っこされて割烹着のV字型のれんこんレースが、綺麗だなと思ったりしました。
映像として残っています。
或る時これからずーっと学校に行くのかと思った時に、もの凄く自由が束縛されるような気がして、行きたくなくて誰が私がここにいるのを知っているのか不思議でした。
「学校へ行くことが決まっているの」と母から言われて全身から怒りが込み上げてきたのを覚えています。
他の子に比べて良く見ていること、観察する事が多かったと思います。
お茶目な子では無かったです。
自分の人生は作って行くものだと言うようなことわざがありますが、それはすごくうれしいなと思いました。
しかし、種に入っているものが育っていくのかなという気がします。
小さい時のもっていたものが、そのままずるずる引きずって、大人になるのではないのでしょうか。
多少良くしたり悪くしたりするのも自分のせいだったりしますが。
姉と一緒に絵は大好きで、チラシの裏に色んなものを描いていました。
国語が好きで、読むのが好きでした。
小学校4年生の時に話と絵とを描くようになりました。
小学校6年生の時に本(リンドグレーン)を貸してもらって、こんな面白い話があるのかと思って、3巻を読み終わるころに、この人が書かなければこの本は無かったんだと言うことに気がつきました。
誰かが書くとその世界が出来るんだと言うことに気が付いて、自由だなという事を思いました。
その時に自分でも文字にして世界を作ってみたいと思いました。
4巻目を自分でも書きたいと思って、書き始めたがうまくいかなかった。
その後良く考えて書くようになりました。
わくわくすることを、どのように展開させてゆくかはひとりでには出来ない。
大変良く考えます。
長編だと細部までは判らないが、大枠は最期まで決まっています。
読んでいる本の一節だったり、面白いと思ったりした時とか、絵を見てる時などに、自分の中にあるものが眠っていたものが揺り動かされるように、これを書きたかったのかと段々膨らましていって、どのような話にしていくのか、時間の流れを文字で並べて行って、絵も描いたりして、目に見えるようにして行くわけです。
日常を幾つも幾つも書いたような話は比較的楽に書けますね。
長編だと主人公が12,3歳なので自分の子供の頃の事を思い出したりして書きます。
4,5歳の頃向けだと、それは小さい時の記憶が多いから、凄く助けられます。
2019年1月24日木曜日
池辺晋一郎(作曲家) ・いつも音楽があった
池辺晋一郎(作曲家) ・いつも音楽があった
去年文化功労者に選ばれた池辺さんは、茨城県出身75歳。
小さいころから音楽に親しみ東京芸術大学音楽学部作曲科在学中に、日本音楽コンクール作曲部門で第一位を受賞、交響曲や管弦楽曲、合唱曲、オペラ、など数々の作品に加え、映画、演劇、TVドラマの音楽までジャンルを越えて幅広く手掛けて来ました。
後進の指導や、音楽の普及にも熱心に取り組み、東京音楽大学などで長く指導に当たり、又マスコミでも活躍、NHK教育TVのN響アワーの司会を長く務め、エッセー等文筆活動も盛んです。
最近は各地のホールの音楽監督なども務め、去年は日本の音楽文化の発展に大きく貢献したとして、JXTG音楽賞洋楽部門(本賞)も受賞されました。
社会とのかかわりの中で、曲と文章で音楽の魅力を発信する池辺さんに伺いました。
平成30年文化功労賞も頂きました。
昨年は喜びが大挙してやってきました。
小さいころは体が弱くて、小学校に一年遅れて入りました。
外で遊べなくて家の中で、母親のピアノででたらめを弾いていました。
でたらめが作曲に繋がっていきました。
やたら本がある家で、本もやたら読みましたし、ラジオも聞きました。
どっかで蓄積されたのだと思います。
ラジオは見えない魅力がある、想像力をかきたてる。
見えるのよりも、もっと豊かなのかもしれないという気がします。
うちでは大学生を下宿させていて、その友人たちがたむろしていて、ピアノが弾けて音楽が好きな人が一人いました。
弾くとその人が楽譜にしてくれました。
北原白秋、藤村とか詩集一冊を全部歌にしてしまうとかやっていました。
中学、高校ではピアノ以外にクラリネット、など吹奏楽部の楽器を全部いじったりしていました。
新宿高校に行きましたが、僕が書いて溜まっていた楽譜を、祖父か祖母が専門家に見せてしまったら、呼びつけられてちゃんと勉強して東京芸大を受けろと言われました。
東京芸術大学音楽学部作曲科に入学しました。
それぞれ色んな楽器を凄く上手くこなす友人たちに出会えて、自分が書いたものを直ぐやって貰える、それは素晴らしかった、彼等とはいまでも付き合っています。
その中にピアノを弾く高橋アキと言う人がいて、今でも僕の曲を弾いてくれています。
フルートも小泉浩 という同級生がいて、去年書いたフルートの曲をいまだにやってくれています。
在学中に、日本音楽コンクール作曲部門で第一位を受賞することができました。
一回りちょっと上の世代にはきらぼしのごとく一杯凄い人がいました。
団伊玖磨、芥川也寸志、黛敏郎,山本直純、岩城宏之、小澤征爾さん等々、それぞれいろんな分野で活躍するわけです。
僕はその世代の最後にちょっとひっかかっていて、その後は分化するんですね。
本を読むのが好きだったので、文章を書くのは好きです。
中学、高校時代から映画、演劇を観るのが好きでした。
東京芸術大学の部活は演劇クラブでした。
映画では黒澤明さん、今村正平さんなどと仕事をすることができました。
黒澤監督は風の音を僕に選ばさせた事がありましたが、「作曲家ではなくて君は音楽監督なんだぞ、音に関することは責任持て」と言われました。
今村監督からも同じことを言われました。
台本を読んでイメージを掴まないと出遅れるので、そういったことが楽しかったです。
TVドラマ、僕は大河ドラマを5つやりましたが、毎週打ち合わせをして何処にどんな音楽を入れるか決めて、時間を計ってその通りに音楽を書いて、その通りに録音してその繰り返しでした。
年間でどの大河ドラマも650曲ぐらい書きます。
飛鳥の酒舟石があり、宗教の儀式の道具のひとつだったという説があり、それを主張する考古学者がいてその考古学者が出てくるシーンで、ゾロアスター教の儀式のシーンが幻で出て来る、その音楽を作ってくれと言われて、3日間しか無くて勝手に何とかやりました。
交響曲は10曲で11曲目を構想中、合唱曲は何百曲とかになります。
楽器の特性上、これは難しい、無理という事があります。
その楽器でしかできないという事もあります。
自分が持っている知識を一曲に全部入れたくなるが、それでは欲張り過ぎて駄目、ふたつ以上を並行してやると意識が分散するし返ってうまくいく。
スランプに落ちいった時にやっと気が付いた事がある、一つの曲では一つのことを言えばいいんだと言う事で、それに気が付いたあと曲を作るのが書きやすくなったし、楽しくなった。
30,40代が一番忙しかった、それぞれ演劇用とか専用の机を用意した。
作曲は頭にあるものを出来るだけ早く写し取らないと消えてしまうので、スピードとの勝負です。
合唱は心の中で手をつなぐというか、そういう不思議な現象が起き大きな力になります。
*阪神大震災鎮魂組曲 題名「1995年1月17日」詩:森村誠一 第7章 「私の息子」
森村さんとは言論弾圧に対する声を上げようと言う事で、やろうとしていたら阪神大震災が起きて、切り替えて資料などをたくさん集めて、曲が出来上がり初演したのが翌年の4月でした。
その後も3・11も起きましたし、中越地震もありました。
音楽で主張しているつもりですが、抽象で具象化できえなかったものを文章にして充足しているのかもしれません。
自分でやっている仕事がどっかで社会と接点を持つ、何かを誰かに伝えて行くという仕事の一環であるという事を、どっかで実感していかないとならないという気がします。
学生と付き合う事は楽しいです、学生を指導すると言う事は、常に自分を試されていることだと思います。
それには理念を持っていないとだめだと思います。
画家の池田龍雄さんが「たまには絵筆を捨てようよ、社会を見つめて社会に対して何を言わなければいけないか考えよう」という事をいっていてぼくもまったく同感です。
何を言わなきゃならないかという事は、常に僕はどこかで問い続けなければならないと思っています。
去年文化功労者に選ばれた池辺さんは、茨城県出身75歳。
小さいころから音楽に親しみ東京芸術大学音楽学部作曲科在学中に、日本音楽コンクール作曲部門で第一位を受賞、交響曲や管弦楽曲、合唱曲、オペラ、など数々の作品に加え、映画、演劇、TVドラマの音楽までジャンルを越えて幅広く手掛けて来ました。
後進の指導や、音楽の普及にも熱心に取り組み、東京音楽大学などで長く指導に当たり、又マスコミでも活躍、NHK教育TVのN響アワーの司会を長く務め、エッセー等文筆活動も盛んです。
最近は各地のホールの音楽監督なども務め、去年は日本の音楽文化の発展に大きく貢献したとして、JXTG音楽賞洋楽部門(本賞)も受賞されました。
社会とのかかわりの中で、曲と文章で音楽の魅力を発信する池辺さんに伺いました。
平成30年文化功労賞も頂きました。
昨年は喜びが大挙してやってきました。
小さいころは体が弱くて、小学校に一年遅れて入りました。
外で遊べなくて家の中で、母親のピアノででたらめを弾いていました。
でたらめが作曲に繋がっていきました。
やたら本がある家で、本もやたら読みましたし、ラジオも聞きました。
どっかで蓄積されたのだと思います。
ラジオは見えない魅力がある、想像力をかきたてる。
見えるのよりも、もっと豊かなのかもしれないという気がします。
うちでは大学生を下宿させていて、その友人たちがたむろしていて、ピアノが弾けて音楽が好きな人が一人いました。
弾くとその人が楽譜にしてくれました。
北原白秋、藤村とか詩集一冊を全部歌にしてしまうとかやっていました。
中学、高校ではピアノ以外にクラリネット、など吹奏楽部の楽器を全部いじったりしていました。
新宿高校に行きましたが、僕が書いて溜まっていた楽譜を、祖父か祖母が専門家に見せてしまったら、呼びつけられてちゃんと勉強して東京芸大を受けろと言われました。
東京芸術大学音楽学部作曲科に入学しました。
それぞれ色んな楽器を凄く上手くこなす友人たちに出会えて、自分が書いたものを直ぐやって貰える、それは素晴らしかった、彼等とはいまでも付き合っています。
その中にピアノを弾く高橋アキと言う人がいて、今でも僕の曲を弾いてくれています。
フルートも小泉浩 という同級生がいて、去年書いたフルートの曲をいまだにやってくれています。
在学中に、日本音楽コンクール作曲部門で第一位を受賞することができました。
一回りちょっと上の世代にはきらぼしのごとく一杯凄い人がいました。
団伊玖磨、芥川也寸志、黛敏郎,山本直純、岩城宏之、小澤征爾さん等々、それぞれいろんな分野で活躍するわけです。
僕はその世代の最後にちょっとひっかかっていて、その後は分化するんですね。
本を読むのが好きだったので、文章を書くのは好きです。
中学、高校時代から映画、演劇を観るのが好きでした。
東京芸術大学の部活は演劇クラブでした。
映画では黒澤明さん、今村正平さんなどと仕事をすることができました。
黒澤監督は風の音を僕に選ばさせた事がありましたが、「作曲家ではなくて君は音楽監督なんだぞ、音に関することは責任持て」と言われました。
今村監督からも同じことを言われました。
台本を読んでイメージを掴まないと出遅れるので、そういったことが楽しかったです。
TVドラマ、僕は大河ドラマを5つやりましたが、毎週打ち合わせをして何処にどんな音楽を入れるか決めて、時間を計ってその通りに音楽を書いて、その通りに録音してその繰り返しでした。
年間でどの大河ドラマも650曲ぐらい書きます。
飛鳥の酒舟石があり、宗教の儀式の道具のひとつだったという説があり、それを主張する考古学者がいてその考古学者が出てくるシーンで、ゾロアスター教の儀式のシーンが幻で出て来る、その音楽を作ってくれと言われて、3日間しか無くて勝手に何とかやりました。
交響曲は10曲で11曲目を構想中、合唱曲は何百曲とかになります。
楽器の特性上、これは難しい、無理という事があります。
その楽器でしかできないという事もあります。
自分が持っている知識を一曲に全部入れたくなるが、それでは欲張り過ぎて駄目、ふたつ以上を並行してやると意識が分散するし返ってうまくいく。
スランプに落ちいった時にやっと気が付いた事がある、一つの曲では一つのことを言えばいいんだと言う事で、それに気が付いたあと曲を作るのが書きやすくなったし、楽しくなった。
30,40代が一番忙しかった、それぞれ演劇用とか専用の机を用意した。
作曲は頭にあるものを出来るだけ早く写し取らないと消えてしまうので、スピードとの勝負です。
合唱は心の中で手をつなぐというか、そういう不思議な現象が起き大きな力になります。
*阪神大震災鎮魂組曲 題名「1995年1月17日」詩:森村誠一 第7章 「私の息子」
森村さんとは言論弾圧に対する声を上げようと言う事で、やろうとしていたら阪神大震災が起きて、切り替えて資料などをたくさん集めて、曲が出来上がり初演したのが翌年の4月でした。
その後も3・11も起きましたし、中越地震もありました。
音楽で主張しているつもりですが、抽象で具象化できえなかったものを文章にして充足しているのかもしれません。
自分でやっている仕事がどっかで社会と接点を持つ、何かを誰かに伝えて行くという仕事の一環であるという事を、どっかで実感していかないとならないという気がします。
学生と付き合う事は楽しいです、学生を指導すると言う事は、常に自分を試されていることだと思います。
それには理念を持っていないとだめだと思います。
画家の池田龍雄さんが「たまには絵筆を捨てようよ、社会を見つめて社会に対して何を言わなければいけないか考えよう」という事をいっていてぼくもまったく同感です。
何を言わなきゃならないかという事は、常に僕はどこかで問い続けなければならないと思っています。
2019年1月23日水曜日
倉本聰(脚本家) ・ドラマを貫く精神 2回目
倉本聰(脚本家) ・ドラマを貫く精神 2回目
倉元さんの代表作は昭和56年から放送されたTVドラマ「北の国から」です。
東京から北海道の富良野の原野に移り住んだ親子の姿を描き続けて、最終作のスペシャル版が放送されたのは平成14年、息の長い人気作品となりました。
フリーのシナリオライターとして数々の名作ドラマを生み出しているさなか、昭和52年に北海道の自然の中へ移り住みました。
又後進の育成を目的に富良野塾を創設しました。
この4月から又ドラマがスタートする等、脚本家の現役として活躍されていますが、一方でこの15年ほど取り組んでこられたのが、小さな点で描く、点描画です。
テーマは富良野の木や森で、木の生い立ちなど想像しながら描かれた細密な作品の中からは木のささやき、息遣いが聞こえてくるようです。
一昨年から各地で行われてきた点描画展、現在は北陸富山市で行われています。
森の囁きから点描画の魅力や木々の何に関心を持つのか、昭和、平成と生きてきた私たちに、木々が教えてくれるのは何なのか伺いました。
昔から絵に自信が無くて、コンテ画を描くことになって、黒澤明さんのコンテを息子さんに見せてもらいました。
自分を奮い立たせる絵だと感じました。
デッサンをする時に絵というのは光と影を書きますが、ボールペンによる太さ、描く密度でグラデーションを付けていましたが、色を付けたくなってやっているうちに、あのような点描画になってきました。
何で点で絵を書きたくなるのかなと考えたら、TVの画素なんです。
絵を描く時は、シナリオと全然違った頭の使い方をするんです。
シナリオは理性脳を使って、絵は感性脳を多く使います。
シナリオを書いていて疲れた時は絵を描くと、非常に頭に中の疲れが別の形になって緩んでくるんです。
ほとんど木しか描きません。
木を見ていると木の履歴が出てくるんです。
木と会話を始めたのは、白樺の木があり、それが冬になると凍りつくんです、コブとか色々あって、必ず毎年同じ顔が出て来るんです。
外人の顔になって出て来る、ロシア人の顔なんです、その顔と話をしてたんです。
木の履歴、どんな育ち方をしたのか、災害があったとか、嵐で折れたとか、肌が面白い、森の木はどんなに肌が汚れても、その美しさを出してくる。
天候により、雨の時等苔の中から思いもよらない色が出て来るんです。
幹が面白い。
絵にはそれぞれコメントがあり、
「雪は無口である、噂話をしない」
「俺は地べたにしがみついて生きた」
根っこはすごく興味があります。
「静寂に音あり、沈黙に調べあり、午前三時の森」
「昨日切られた木の後に、今日ポッコリと穴があき、悲しみ色の雪が降る」
「木は根によって立つ、されど根は人の眼に触れず」
徹底的に根っこを書いてみたかった。
絵はみる人が感じればいいと思っている。
「どうだ最近白内障が進んでしまって、周りのものがよくみえねえ、良いんだ、周りなんて見えなくて、見えてみろ腹の立つことばっかりだ」
「森が眠る時が凍る、俺は冬に溶け森に帰る」
3・11の時に海岸林が全部流されたが、4本の木がのこっていて、根っこまであらわれたが、根っこの末端がお互いの木の根に絡み合っていました。
4本で支え合っていて、これが「絆」の原点だと思いました。
富良野塾で授業をやっていて、木は根っこによって立っているが根は人の眼には触れていない、ドラマを作る時には、根っこは色んな土地土地で育つ、それぞれの育ち方をしてどこか出会う訳ですが、会った時に起きる化学反応がドラマであって、下から、根っこの方から起こって来るもので、君たちは葉っぱをどう茂らそうとか、花をどう美しく咲かせようとか実をどうするとか、上のことばっかり考えていないかと 木を例えにして教えたことは随分あります。
根っこは自分で掴んだ根っこと、人に言われてああそうかという根っこと違うんですよ。
常識というものが文明の進歩とともに複雑に成ってしまって、これが当たり前みたいなことのレベルが上げられてしまう、そこから見る視野と選択肢は凄く狭くなってしまう。
下へ降りた時にはあらゆる選択肢が出来てきて、もう一度原点からものを考える事は思いもかけない新しい道を切り開く、そのことをみんなしていないという感じがする。
江戸幕府が出来た時、明治維新、終戦が日本にとっては大きかったと思う。
僕らは終戦の時に、手を付けられないようなガレキを見てきました。
重機の無い時代にどうやってガレキをどうやって整理してきたのか、ときどき感じてしまいます、汗と涙の苦しい作業だったと思います。
その上をスマホを見たり、ハロウィンで大さわぎする若者を見ていると、突然怒りが湧いてきます、怒ってもしょうがないが。
うちは出版社でしたが、4,5歳ごろから父親に連れられて、山歩きなどしていました。
5歳の頃の写真があり、一緒に写っていた人に中西悟堂、牧野富太郎、柳田國男
などもの凄い人達で、このころこういう人たりと会っていたのかと吃驚しました。
鳥は小さいころから好きでした。
当時の杉並の善福寺界隈は、藁ぶきの屋根が点々と残る、武蔵野の雑木林が残っていて自然豊かでした。
「どろ亀先生」(高橋延清)という東大演習林に有名な先生がいて親しくしていました。
80歳過ぎてから「二度わらし」と言う事をしきりに言っていました。
もう一度子供に返る。
今は故郷が無くなっている。
「やすらぎの郷」 ふたつのドラマが同時進行する、老人ホームの話としてあるが、そこのシナリオライターが描くストーリとがもう一方のドラマとして進行する。
原風景をドラマとして書きたい。
半分は僕の一生記を書いたようなものです。
何処も昔の景色は無くて、みんな原風景を持っていないんじゃないかと思います。
富良野も変わってきてしまっています。
大切にしたいのは五つの感性だと思います。
桃太郎の話で川を桃が流れて来る表現、僕たちのころは「どんぶらこっこ、すこっこ
どんぶらこっこ、すこっこ」と習いました。
「どんぶらこ」と言うのは可成り川の流れが緩やかで大きな川、「どんぶらこっこ」はもう少し狭く流れが急になる、岡山の山奥では「どんぶらこっこ、すこっこ どんぶらこっこ、すこっこ」と早口になる、急流。
その感性が導き出されるかどうか、今の子供達には五感を働かせないで、視覚から入ってしまっている。
五感を働かさなくなってきている、そこに一番大きな問題があると思う。
倉元さんの代表作は昭和56年から放送されたTVドラマ「北の国から」です。
東京から北海道の富良野の原野に移り住んだ親子の姿を描き続けて、最終作のスペシャル版が放送されたのは平成14年、息の長い人気作品となりました。
フリーのシナリオライターとして数々の名作ドラマを生み出しているさなか、昭和52年に北海道の自然の中へ移り住みました。
又後進の育成を目的に富良野塾を創設しました。
この4月から又ドラマがスタートする等、脚本家の現役として活躍されていますが、一方でこの15年ほど取り組んでこられたのが、小さな点で描く、点描画です。
テーマは富良野の木や森で、木の生い立ちなど想像しながら描かれた細密な作品の中からは木のささやき、息遣いが聞こえてくるようです。
一昨年から各地で行われてきた点描画展、現在は北陸富山市で行われています。
森の囁きから点描画の魅力や木々の何に関心を持つのか、昭和、平成と生きてきた私たちに、木々が教えてくれるのは何なのか伺いました。
昔から絵に自信が無くて、コンテ画を描くことになって、黒澤明さんのコンテを息子さんに見せてもらいました。
自分を奮い立たせる絵だと感じました。
デッサンをする時に絵というのは光と影を書きますが、ボールペンによる太さ、描く密度でグラデーションを付けていましたが、色を付けたくなってやっているうちに、あのような点描画になってきました。
何で点で絵を書きたくなるのかなと考えたら、TVの画素なんです。
絵を描く時は、シナリオと全然違った頭の使い方をするんです。
シナリオは理性脳を使って、絵は感性脳を多く使います。
シナリオを書いていて疲れた時は絵を描くと、非常に頭に中の疲れが別の形になって緩んでくるんです。
ほとんど木しか描きません。
木を見ていると木の履歴が出てくるんです。
木と会話を始めたのは、白樺の木があり、それが冬になると凍りつくんです、コブとか色々あって、必ず毎年同じ顔が出て来るんです。
外人の顔になって出て来る、ロシア人の顔なんです、その顔と話をしてたんです。
木の履歴、どんな育ち方をしたのか、災害があったとか、嵐で折れたとか、肌が面白い、森の木はどんなに肌が汚れても、その美しさを出してくる。
天候により、雨の時等苔の中から思いもよらない色が出て来るんです。
幹が面白い。
絵にはそれぞれコメントがあり、
「雪は無口である、噂話をしない」
「俺は地べたにしがみついて生きた」
根っこはすごく興味があります。
「静寂に音あり、沈黙に調べあり、午前三時の森」
「昨日切られた木の後に、今日ポッコリと穴があき、悲しみ色の雪が降る」
「木は根によって立つ、されど根は人の眼に触れず」
徹底的に根っこを書いてみたかった。
絵はみる人が感じればいいと思っている。
「どうだ最近白内障が進んでしまって、周りのものがよくみえねえ、良いんだ、周りなんて見えなくて、見えてみろ腹の立つことばっかりだ」
「森が眠る時が凍る、俺は冬に溶け森に帰る」
3・11の時に海岸林が全部流されたが、4本の木がのこっていて、根っこまであらわれたが、根っこの末端がお互いの木の根に絡み合っていました。
4本で支え合っていて、これが「絆」の原点だと思いました。
富良野塾で授業をやっていて、木は根っこによって立っているが根は人の眼には触れていない、ドラマを作る時には、根っこは色んな土地土地で育つ、それぞれの育ち方をしてどこか出会う訳ですが、会った時に起きる化学反応がドラマであって、下から、根っこの方から起こって来るもので、君たちは葉っぱをどう茂らそうとか、花をどう美しく咲かせようとか実をどうするとか、上のことばっかり考えていないかと 木を例えにして教えたことは随分あります。
根っこは自分で掴んだ根っこと、人に言われてああそうかという根っこと違うんですよ。
常識というものが文明の進歩とともに複雑に成ってしまって、これが当たり前みたいなことのレベルが上げられてしまう、そこから見る視野と選択肢は凄く狭くなってしまう。
下へ降りた時にはあらゆる選択肢が出来てきて、もう一度原点からものを考える事は思いもかけない新しい道を切り開く、そのことをみんなしていないという感じがする。
江戸幕府が出来た時、明治維新、終戦が日本にとっては大きかったと思う。
僕らは終戦の時に、手を付けられないようなガレキを見てきました。
重機の無い時代にどうやってガレキをどうやって整理してきたのか、ときどき感じてしまいます、汗と涙の苦しい作業だったと思います。
その上をスマホを見たり、ハロウィンで大さわぎする若者を見ていると、突然怒りが湧いてきます、怒ってもしょうがないが。
うちは出版社でしたが、4,5歳ごろから父親に連れられて、山歩きなどしていました。
5歳の頃の写真があり、一緒に写っていた人に中西悟堂、牧野富太郎、柳田國男
などもの凄い人達で、このころこういう人たりと会っていたのかと吃驚しました。
鳥は小さいころから好きでした。
当時の杉並の善福寺界隈は、藁ぶきの屋根が点々と残る、武蔵野の雑木林が残っていて自然豊かでした。
「どろ亀先生」(高橋延清)という東大演習林に有名な先生がいて親しくしていました。
80歳過ぎてから「二度わらし」と言う事をしきりに言っていました。
もう一度子供に返る。
今は故郷が無くなっている。
「やすらぎの郷」 ふたつのドラマが同時進行する、老人ホームの話としてあるが、そこのシナリオライターが描くストーリとがもう一方のドラマとして進行する。
原風景をドラマとして書きたい。
半分は僕の一生記を書いたようなものです。
何処も昔の景色は無くて、みんな原風景を持っていないんじゃないかと思います。
富良野も変わってきてしまっています。
大切にしたいのは五つの感性だと思います。
桃太郎の話で川を桃が流れて来る表現、僕たちのころは「どんぶらこっこ、すこっこ
どんぶらこっこ、すこっこ」と習いました。
「どんぶらこ」と言うのは可成り川の流れが緩やかで大きな川、「どんぶらこっこ」はもう少し狭く流れが急になる、岡山の山奥では「どんぶらこっこ、すこっこ どんぶらこっこ、すこっこ」と早口になる、急流。
その感性が導き出されるかどうか、今の子供達には五感を働かせないで、視覚から入ってしまっている。
五感を働かさなくなってきている、そこに一番大きな問題があると思う。
2019年1月22日火曜日
倉本聰(脚本家) ・ドラマを貫く精神 1回目
倉本聰(脚本家) ・ドラマを貫く精神 1回目
倉元さんは昭10年東京生まれ、大学を卒業した後、日本放送に入社して、ラジオドラマなどを制作、その後フリーのシナリオライターとして数々のドラマを生み出しました。
昭和52年には北海道での暮らしをスタートさせ、後進の育成を目的に富良野塾を創設しました。
2年前のドラマ「やらぎの郷」話題になりました。
今年はその続編も放送予定だそうです。
84歳になられた倉元さんに伺いました。
冬の来るのが遅かったんですが、12月にドカッと来てそれからは例年のようになりました。
富良野に行った当初は、11月位からマイナス30度という時もありましたが、今はマイナス20度を越えることはめったに無くなりました。
温暖化をひしひしと感じます。
山形に学童疎開しましたが、その時に寒さの最初の洗礼を受けました。
手がしもやけになり、「びーるや」があり「びーる」というのはヒルのことでヒルが水槽の中に入っていて、そこに手を突っ込むとヒルが血を吸ってくれて腫れが引いてゆくんです。
昔は爪の中がいつも黒かったので、ドラマでもそうしなければいけないと言ってきました。
去年の10月に書きあげたものがありますが、235話 4700枚になりましたが、手が全く駄目になりました。
注射をうってごまかしながら書きます。
加藤道夫さん(加藤治子さんの元のだんなさん)がフランスのジャン・ジローという作家を日本に紹介して、その本をたまたま読んで、「町を歩いていたら良い顔をした男に出会った、彼はいい芝居を見た帰りに違いない」という言葉があっていい顔にすることができるのかと思って、それを一生の目標にしました。
僕の父親が俳人で、子供のころから俳句を作らされいましたし、5歳位から宮沢賢治の本の音読をさせられていました。
これがとっても僕にとっては良かったと思います。
宮沢賢治にはリズムがあり、台詞を書く時にとっても役立ちました。
韻律が備わってくる訳です。
コーラスも高校時代にやっていた、音感、リズム感はライターが知らないといけないと思います。
両親はクリスチャンでしたが、教育されたわけではないが、人間の優しさは日常的に沁み込むような環境でしたね。
一番役に立ったのは日本放送に入ってラジオドラマをやったことですね。
頭の中で想像する映像、聴取者が映像を作ってるわけでその映像が優れている訳で、TVみたいにこれですと出されると、それは違うだろうと言う感じになるわけです。
昔のラジオドラマにはいいのがありました、音の使い方が良かったです。
ラジオドラマ「魚門」などはオールのきしむ音、水のしずく音等何とも良かったです。
1974年NHKとの関係が悪化して、北海道の富良野に1977年に移りました。
酒が好きですすき野で明け方まで飲んで、ありとあらゆる人と話をしていて、東京時代は業界の人としか喋っていないので、社会を書けていないのではないかと気が付いたわけです。
田舎の土にくっついた田舎に入るべきだし、季節感があり且つ厳しい所を北海道の中で探したら富良野だったわけです。
北島三郎さんの付け人もやったことがあります。
なんでこんなに人気があるんだろうと思いました。
ショーは二部に別れていて、一部はヒットパレードで二部はリクエストコーナーになっていて、リクエストコーナーが人気があるんです。
吹雪の中を寒い体育館などに老若男女が座布団と毛布を持ってくるわけです。
渋谷で流しをやっていたので3000曲頭に入っているので、リクエストしてくれと言うとワーッとリクエストして来るんです。
そしてやり取りをする訳で、そのやり取りが学歴、出世した人など関係なしに会話をするんですが、その事に物凄く反省しました。
東京で書いていたTVドラマは、一体誰に向かって書いていたんだろうと思いました。
東京で書いていたTVドラマは、プロデユーサーとか批評家とかに向けて書いてきたんじゃないかと思って来たんです。
大衆と云うものの意味を考えていなかったということに愕然としました。
富良野について直ぐ、周りは真っ暗闇で人には会わないし、自殺したくて睡眠薬のんで表のジープに入って寝てしまえば死ねると思いました。
毎晩グラスを持って出掛けるが、二重扉の外側の扉に手をかけると、寒さで手が吸いついてはっとするんです。
そうすると山口(犬)が異様な気配を察して裾を引っ張るんです。
それで思いとどまって戻るんですが、それを1週間やったんです。
札幌の精神科医に飛びこみました。
この症状は毎年これから出ますと言われてしまいました。
春になったら治って翌年もで無くて、何だろうと思ったらテストされているんだと思いました。
こんな森の中で一人で本気で住む気があるのか、それに値する精神力があるのか、と試されているような気がしました。
1981年に「北の国から」がスタートします。
最初、農村物は当たらないとTV局から反対されました。
21年間やりました。(2,3年のおきに)
富良野にいてバブルの時代は知らなかったです。
富良野塾を開設しました。
森と水の関係を考えようと思って自然塾をやりました。
貴方は文明に麻痺していませんか、車と足、石油と水、知識と知恵、批評と創造、どっちが大事ですか。
貴方は感動を忘れていませんか、貴方はなんのかんのいいながら我が世の春を謳歌していませんか、この事が塾でやりたかった事、言いたかったことですね。
2017年、「やらぎの郷」注目を集める。
昭和は非常に特殊な時代だったと思います。
少年時代に戦争中、戦後を体験した、占領派というか、戦争で何らかの被害を被っているわけです。
今はやる事がいっぱいあり過ぎて、一つのことに深く向かいあえないという事があると思います。
僕はシナリオを書き上げた後は、絵を描いていて一日中絵なんですね。
生活を複雑にする気持ちは無いです。
ウォンバットは四角いうんこをしていて、何故四角くなるかという研究をしている学者がいるそうで、馬鹿でしょう、でも馬鹿だけどいいでしょう。
そういうのはいい人生だと思います。
今は効率的すぎて面白い事がない。
倉元さんは昭10年東京生まれ、大学を卒業した後、日本放送に入社して、ラジオドラマなどを制作、その後フリーのシナリオライターとして数々のドラマを生み出しました。
昭和52年には北海道での暮らしをスタートさせ、後進の育成を目的に富良野塾を創設しました。
2年前のドラマ「やらぎの郷」話題になりました。
今年はその続編も放送予定だそうです。
84歳になられた倉元さんに伺いました。
冬の来るのが遅かったんですが、12月にドカッと来てそれからは例年のようになりました。
富良野に行った当初は、11月位からマイナス30度という時もありましたが、今はマイナス20度を越えることはめったに無くなりました。
温暖化をひしひしと感じます。
山形に学童疎開しましたが、その時に寒さの最初の洗礼を受けました。
手がしもやけになり、「びーるや」があり「びーる」というのはヒルのことでヒルが水槽の中に入っていて、そこに手を突っ込むとヒルが血を吸ってくれて腫れが引いてゆくんです。
昔は爪の中がいつも黒かったので、ドラマでもそうしなければいけないと言ってきました。
去年の10月に書きあげたものがありますが、235話 4700枚になりましたが、手が全く駄目になりました。
注射をうってごまかしながら書きます。
加藤道夫さん(加藤治子さんの元のだんなさん)がフランスのジャン・ジローという作家を日本に紹介して、その本をたまたま読んで、「町を歩いていたら良い顔をした男に出会った、彼はいい芝居を見た帰りに違いない」という言葉があっていい顔にすることができるのかと思って、それを一生の目標にしました。
僕の父親が俳人で、子供のころから俳句を作らされいましたし、5歳位から宮沢賢治の本の音読をさせられていました。
これがとっても僕にとっては良かったと思います。
宮沢賢治にはリズムがあり、台詞を書く時にとっても役立ちました。
韻律が備わってくる訳です。
コーラスも高校時代にやっていた、音感、リズム感はライターが知らないといけないと思います。
両親はクリスチャンでしたが、教育されたわけではないが、人間の優しさは日常的に沁み込むような環境でしたね。
一番役に立ったのは日本放送に入ってラジオドラマをやったことですね。
頭の中で想像する映像、聴取者が映像を作ってるわけでその映像が優れている訳で、TVみたいにこれですと出されると、それは違うだろうと言う感じになるわけです。
昔のラジオドラマにはいいのがありました、音の使い方が良かったです。
ラジオドラマ「魚門」などはオールのきしむ音、水のしずく音等何とも良かったです。
1974年NHKとの関係が悪化して、北海道の富良野に1977年に移りました。
酒が好きですすき野で明け方まで飲んで、ありとあらゆる人と話をしていて、東京時代は業界の人としか喋っていないので、社会を書けていないのではないかと気が付いたわけです。
田舎の土にくっついた田舎に入るべきだし、季節感があり且つ厳しい所を北海道の中で探したら富良野だったわけです。
北島三郎さんの付け人もやったことがあります。
なんでこんなに人気があるんだろうと思いました。
ショーは二部に別れていて、一部はヒットパレードで二部はリクエストコーナーになっていて、リクエストコーナーが人気があるんです。
吹雪の中を寒い体育館などに老若男女が座布団と毛布を持ってくるわけです。
渋谷で流しをやっていたので3000曲頭に入っているので、リクエストしてくれと言うとワーッとリクエストして来るんです。
そしてやり取りをする訳で、そのやり取りが学歴、出世した人など関係なしに会話をするんですが、その事に物凄く反省しました。
東京で書いていたTVドラマは、一体誰に向かって書いていたんだろうと思いました。
東京で書いていたTVドラマは、プロデユーサーとか批評家とかに向けて書いてきたんじゃないかと思って来たんです。
大衆と云うものの意味を考えていなかったということに愕然としました。
富良野について直ぐ、周りは真っ暗闇で人には会わないし、自殺したくて睡眠薬のんで表のジープに入って寝てしまえば死ねると思いました。
毎晩グラスを持って出掛けるが、二重扉の外側の扉に手をかけると、寒さで手が吸いついてはっとするんです。
そうすると山口(犬)が異様な気配を察して裾を引っ張るんです。
それで思いとどまって戻るんですが、それを1週間やったんです。
札幌の精神科医に飛びこみました。
この症状は毎年これから出ますと言われてしまいました。
春になったら治って翌年もで無くて、何だろうと思ったらテストされているんだと思いました。
こんな森の中で一人で本気で住む気があるのか、それに値する精神力があるのか、と試されているような気がしました。
1981年に「北の国から」がスタートします。
最初、農村物は当たらないとTV局から反対されました。
21年間やりました。(2,3年のおきに)
富良野にいてバブルの時代は知らなかったです。
富良野塾を開設しました。
森と水の関係を考えようと思って自然塾をやりました。
貴方は文明に麻痺していませんか、車と足、石油と水、知識と知恵、批評と創造、どっちが大事ですか。
貴方は感動を忘れていませんか、貴方はなんのかんのいいながら我が世の春を謳歌していませんか、この事が塾でやりたかった事、言いたかったことですね。
2017年、「やらぎの郷」注目を集める。
昭和は非常に特殊な時代だったと思います。
少年時代に戦争中、戦後を体験した、占領派というか、戦争で何らかの被害を被っているわけです。
今はやる事がいっぱいあり過ぎて、一つのことに深く向かいあえないという事があると思います。
僕はシナリオを書き上げた後は、絵を描いていて一日中絵なんですね。
生活を複雑にする気持ちは無いです。
ウォンバットは四角いうんこをしていて、何故四角くなるかという研究をしている学者がいるそうで、馬鹿でしょう、でも馬鹿だけどいいでしょう。
そういうのはいい人生だと思います。
今は効率的すぎて面白い事がない。
2019年1月21日月曜日
山中信人(津軽三味線奏者) ・【にっぽんの音】
山中信人(津軽三味線奏者) ・【にっぽんの音】
能楽師狂言方 大藏基誠
2018年津軽三味線世界大会A級(最上級)優勝 3連覇。
海外では台湾の方が多い。
5,6年前までは全日本大会だったが窓口を広げようと言うことになる。
ネットで配信もしていてリアルタイムで見ることができる。
個人戦で200人、全部で300人ぐらい、C級だけでもジュニア級、シニア級など4部門があり、B級とA級があります。
歌付け伴奏部門もB級とA級があります。
以前は目の不自由な人がしていた。
歌があってこそ津軽三味線です。
本来は津軽民謡の伴奏楽器であり、津軽三味線の独奏は前奏の部分が長くなり、そこだけ独立したものです。
大会参加者は10,20,30代が多い。
私は15歳でC級優勝、16歳でB級優勝(当時の最年少記録)しています。
私のA級の41歳での優勝は最年長記録でした。
その前3年連続で準優勝でした。
3連覇するともう出れなくなります。
*津軽じょんから節 演奏
大会に出る人は編曲して出るのでそれぞれ個性が出ます。
楽譜はありません。
或る程度即興で演奏しますが、大会ではきっちり編曲しました。
私は正確なテンポ、ノーミス、音色を心がけて大会に臨みました。
弾いて録音して聞くと言う事を200回以上しています。
150回やって出て来るミスがあったりしましたが、そうすると苦手なところなんだなあと思ったりします。
津軽の四季はきびしい、風、食べたもの、雪等津軽の風土を体感したものを表現できるかどうか。
高校に行きたくなくて、腕一本で付ける職業大工か板前になりたかった。
祖父が三味線をやっていて、母親がたまたま趣味で三味線を始めました。
母親の先生の三味線を聞いたら、ビビビッと来て三味線をやろうと思いました。
「夢の祭り」という津軽三味線を題材にした映画ありました。
津軽三味線の名人が奏でる音を私の先生(山田千里)が吹き替えで弾いていました。
その音を聞いてこの師匠の処に行きたいと思いました。
中学3年性の時に両親に連れられて行って津軽に行った時に生の津軽三味線を聞いた時にここに弟子入りしたいと思いました。
14歳で一人で行って「埼玉から来ました」と言ったら、中学を卒業したらここ(民謡酒場)にきて2階に住み込んで修行しなさいと言われました。
中学卒業して3月に弟子入りして、5月にC級優勝できました。
埼玉にいたころから7,8時間も練習をしていました。
先生は特に教えてはくれずに、ステージに立ちました。
先生の曲を聞いてそれが凄く勉強になりました。
*津軽三下り 演奏
間と空間 津軽三味線には重要かと思います。
日本の音 四季を感じる音ではないかと思います。
能楽には囃し方があり、笛、小鼓、大鼓、太鼓と4つあるが、それぞれが四季を表しているという話を聞いたことがあります。
笛が冬。
*クロスカレント ジェイク・シマブクロ 演奏
ウクレレの音色 こういうところを目指そうと思った。
私に影響を与えました。
常に小さくてもいいから階段を上っている津軽三味線人生を歩みたいと思っています。
*桜 演奏 山中信人編曲
弘前の桜をイメージ
能楽師狂言方 大藏基誠
2018年津軽三味線世界大会A級(最上級)優勝 3連覇。
海外では台湾の方が多い。
5,6年前までは全日本大会だったが窓口を広げようと言うことになる。
ネットで配信もしていてリアルタイムで見ることができる。
個人戦で200人、全部で300人ぐらい、C級だけでもジュニア級、シニア級など4部門があり、B級とA級があります。
歌付け伴奏部門もB級とA級があります。
以前は目の不自由な人がしていた。
歌があってこそ津軽三味線です。
本来は津軽民謡の伴奏楽器であり、津軽三味線の独奏は前奏の部分が長くなり、そこだけ独立したものです。
大会参加者は10,20,30代が多い。
私は15歳でC級優勝、16歳でB級優勝(当時の最年少記録)しています。
私のA級の41歳での優勝は最年長記録でした。
その前3年連続で準優勝でした。
3連覇するともう出れなくなります。
*津軽じょんから節 演奏
大会に出る人は編曲して出るのでそれぞれ個性が出ます。
楽譜はありません。
或る程度即興で演奏しますが、大会ではきっちり編曲しました。
私は正確なテンポ、ノーミス、音色を心がけて大会に臨みました。
弾いて録音して聞くと言う事を200回以上しています。
150回やって出て来るミスがあったりしましたが、そうすると苦手なところなんだなあと思ったりします。
津軽の四季はきびしい、風、食べたもの、雪等津軽の風土を体感したものを表現できるかどうか。
高校に行きたくなくて、腕一本で付ける職業大工か板前になりたかった。
祖父が三味線をやっていて、母親がたまたま趣味で三味線を始めました。
母親の先生の三味線を聞いたら、ビビビッと来て三味線をやろうと思いました。
「夢の祭り」という津軽三味線を題材にした映画ありました。
津軽三味線の名人が奏でる音を私の先生(山田千里)が吹き替えで弾いていました。
その音を聞いてこの師匠の処に行きたいと思いました。
中学3年性の時に両親に連れられて行って津軽に行った時に生の津軽三味線を聞いた時にここに弟子入りしたいと思いました。
14歳で一人で行って「埼玉から来ました」と言ったら、中学を卒業したらここ(民謡酒場)にきて2階に住み込んで修行しなさいと言われました。
中学卒業して3月に弟子入りして、5月にC級優勝できました。
埼玉にいたころから7,8時間も練習をしていました。
先生は特に教えてはくれずに、ステージに立ちました。
先生の曲を聞いてそれが凄く勉強になりました。
*津軽三下り 演奏
間と空間 津軽三味線には重要かと思います。
日本の音 四季を感じる音ではないかと思います。
能楽には囃し方があり、笛、小鼓、大鼓、太鼓と4つあるが、それぞれが四季を表しているという話を聞いたことがあります。
笛が冬。
*クロスカレント ジェイク・シマブクロ 演奏
ウクレレの音色 こういうところを目指そうと思った。
私に影響を与えました。
常に小さくてもいいから階段を上っている津軽三味線人生を歩みたいと思っています。
*桜 演奏 山中信人編曲
弘前の桜をイメージ
2019年1月20日日曜日
岩佐大輝(農業生産法人代表) ・【美味しい仕事人】ブランドイチゴで復興を支える
岩佐大輝(農業生産法人代表) ・【美味しい仕事人】ブランドイチゴで復興を支える
おいしいものがあふれている日本の食、その美味しい物の舞台裏で食を支えている人たちがいます。
東日本大震災で津波被害に遭った宮城県山本町は、いまブランドイチゴの産地として注目を集めています。
そのきっかけとなったのは震災当時、東京でITコンサルタント会社を経営していた岩佐さん(41歳)が、故郷の復興支援として着想したアイディアだったんです。
今では大手デパートからひと粒1000円で引き合いのくるブランドイチゴ、農業に素人だった岩佐さんは地元のベテラン農家の人達の栽培ノウハウを数値化する等、IT技術で水分や栄養を自動でコントロールするシステムを作りました。
それが被災地の経済基盤を作った実績から、現在では新規就農者をふやすサポート事業、あるいは海外の地域おこし事業にも展開が広がっています。
今イチゴ狩りの彩色になっています。
山本町は人口が1万2000人ぐらいしかいませんが、イチゴシーズンを通じて半年で約5万人が来てかなりにぎわっています。
最近では海外からもお客さんが来ています。
東京の大手デパートからひと粒1000円で引き合いのくる、食べる宝石と言われるイチゴがあります。
来ていただくと30分食べ放題で2000円前後で食べられるので、かなりお得だと思います。
24歳で会社を立ち上げて15年近く会社を経営していました。
宮城県山本町が震災で大きな被害を受けました。
山本町では600人以上が津波で亡くなってしまいました。
山本町の特産はイチゴでした。
イチゴハウスも95%無くなってしまって、129軒あったイチゴ農家も残ったのは僅か5軒だけとなってしまいました。
宮城に帰ってなんか役に立てないかと思いました。
先ずは手伝おうと思って、イチゴ農家の復活の為、どろをさらうようなボランティアを何ヶ月かやりました。
地元の方から私の経験を生かして雇用を作って欲しいと言われました。
イチゴの農業生産法人をつくることを決めました。
復興の為の或るイベントに参加した200人ぐらいの人に、誇りに思っているのは何かを問い合わせたら7割の人がイチゴだと言いました。
当時震災前にはイチゴを10億円を出荷していました。
2011年9月にはイチゴをやろうと決心しました。
イチゴ作りの方法のベテランの人から聞きながらスタートしました。
橋元洋平君(41歳)との出会いが大きかったです。
彼は社会福祉協議会でボランティアの活動のアレンジをするような活動をしていました。
彼は5歳になる娘さんを津波で亡くしていました。
彼の活動に心を打たれて彼と一緒にやりたかった。
彼の親戚に橋元忠嗣さんというイチゴ栽培の大ベテランがいて、3人で立ち上げました。
最初イチゴの作り方を聞いたら、イチゴ作りは人から学ぶものではなくて、イチゴと会話しながら作るものだと、怒鳴られてしまいました。
15年間俺に付いてくれば、判り始めると言われてしまいました。
ITで再現出来たら早く立ち上げられるのではないかと思いました。
定量化して、リアルタイムで再現可能なようにIT、ネットワークを用いて管理することが必要ではないかと考えました。
地域特有の気候、土、など経験した作り方もあるので、匠の技とITの力を組み合わせると言うのが、大事なんだと思いました。
温度、湿度、二酸化炭素、日の光の強さ、水、肥料の濃度等細かい所までセンサーでデータを取って、最適な環境にリアルタイムでコントロールするという事をやっています。
天気予報もデータに入れて管理したり、雨の時にはすぐに天窓が閉まるだとか、全自動で出来ます。
最初の収穫は2011年にスタートして11月にイチゴを植えて2012年1,2月には収穫できました。
初年度はビジネスの事は考えずに、お世話になった人々にイチゴを配りました。
日本では夏は輸入しているが、夏イチゴにも挑戦して3,4年目に取り組みました。
夏イチゴは日照時間、温度などコントロールするための装置も必要になってきます。
試行錯誤はいまだに続いています。
温度、湿度など光合成を最大化させるための、あらゆる努力をすると言う事で、イチゴの糖度、味の濃さも上がってくるわけです。
糖度は他の地域のものに比べて9割がた高かったです。(100日間調べての結果)
ただ甘ければいいと言うだけではなくて、酸度とのバランスで好みも違ってきたりはします。
地域社会に農業の担い手ががいっぱい集まってきて、農業が強い産業に育つというのが目的です。
イチゴ作りを独立してできるような支援ビジネスも行っています。
8つの農業経営体の方が独立してやっています。
民間と行政が連携してやるのが、一番重要なのかと思っています。
海外で生産を始めたのがインドです。
ある民間企業と政府のJICA - 国際協力機構と一緒にインドの農業技術開発を応援すると言うプロジェクトをスタートさせました。
グローバルで通用する産業が出来れば、場所は関係ないと思いました。
インドは大変な部分もあるのでインドに行きました。
土地も痩せているし、水も無い、インフラも無いという事で1から立ち上げました。
電気をひいても30分に一度ぐらい停電があり、無停電電源装置、発電機なども置いてスタートしました。
インドでは女性の雇用が難しくて、女性の強い雇用という目的もありました。
インドで4,5年目にスタートして当時高校生だった人が大学を出て、山本町で働いている男の人もいます、そういった交流も生まれています。
技術研修で来ている人もいます。
2013年から出荷が始まってインドの高級ホテルなどに出荷されています。
マレーシア、中東といった処でも栽培の試験をしています。
強い農業を育てると言うのがミッションとしてあります。
10年で100社1万人の雇用機会をつくろうというビジョンをたてましたが、あと数年で10年になりますがかなり出来て来ました。
おいしいものがあふれている日本の食、その美味しい物の舞台裏で食を支えている人たちがいます。
東日本大震災で津波被害に遭った宮城県山本町は、いまブランドイチゴの産地として注目を集めています。
そのきっかけとなったのは震災当時、東京でITコンサルタント会社を経営していた岩佐さん(41歳)が、故郷の復興支援として着想したアイディアだったんです。
今では大手デパートからひと粒1000円で引き合いのくるブランドイチゴ、農業に素人だった岩佐さんは地元のベテラン農家の人達の栽培ノウハウを数値化する等、IT技術で水分や栄養を自動でコントロールするシステムを作りました。
それが被災地の経済基盤を作った実績から、現在では新規就農者をふやすサポート事業、あるいは海外の地域おこし事業にも展開が広がっています。
今イチゴ狩りの彩色になっています。
山本町は人口が1万2000人ぐらいしかいませんが、イチゴシーズンを通じて半年で約5万人が来てかなりにぎわっています。
最近では海外からもお客さんが来ています。
東京の大手デパートからひと粒1000円で引き合いのくる、食べる宝石と言われるイチゴがあります。
来ていただくと30分食べ放題で2000円前後で食べられるので、かなりお得だと思います。
24歳で会社を立ち上げて15年近く会社を経営していました。
宮城県山本町が震災で大きな被害を受けました。
山本町では600人以上が津波で亡くなってしまいました。
山本町の特産はイチゴでした。
イチゴハウスも95%無くなってしまって、129軒あったイチゴ農家も残ったのは僅か5軒だけとなってしまいました。
宮城に帰ってなんか役に立てないかと思いました。
先ずは手伝おうと思って、イチゴ農家の復活の為、どろをさらうようなボランティアを何ヶ月かやりました。
地元の方から私の経験を生かして雇用を作って欲しいと言われました。
イチゴの農業生産法人をつくることを決めました。
復興の為の或るイベントに参加した200人ぐらいの人に、誇りに思っているのは何かを問い合わせたら7割の人がイチゴだと言いました。
当時震災前にはイチゴを10億円を出荷していました。
2011年9月にはイチゴをやろうと決心しました。
イチゴ作りの方法のベテランの人から聞きながらスタートしました。
橋元洋平君(41歳)との出会いが大きかったです。
彼は社会福祉協議会でボランティアの活動のアレンジをするような活動をしていました。
彼は5歳になる娘さんを津波で亡くしていました。
彼の活動に心を打たれて彼と一緒にやりたかった。
彼の親戚に橋元忠嗣さんというイチゴ栽培の大ベテランがいて、3人で立ち上げました。
最初イチゴの作り方を聞いたら、イチゴ作りは人から学ぶものではなくて、イチゴと会話しながら作るものだと、怒鳴られてしまいました。
15年間俺に付いてくれば、判り始めると言われてしまいました。
ITで再現出来たら早く立ち上げられるのではないかと思いました。
定量化して、リアルタイムで再現可能なようにIT、ネットワークを用いて管理することが必要ではないかと考えました。
地域特有の気候、土、など経験した作り方もあるので、匠の技とITの力を組み合わせると言うのが、大事なんだと思いました。
温度、湿度、二酸化炭素、日の光の強さ、水、肥料の濃度等細かい所までセンサーでデータを取って、最適な環境にリアルタイムでコントロールするという事をやっています。
天気予報もデータに入れて管理したり、雨の時にはすぐに天窓が閉まるだとか、全自動で出来ます。
最初の収穫は2011年にスタートして11月にイチゴを植えて2012年1,2月には収穫できました。
初年度はビジネスの事は考えずに、お世話になった人々にイチゴを配りました。
日本では夏は輸入しているが、夏イチゴにも挑戦して3,4年目に取り組みました。
夏イチゴは日照時間、温度などコントロールするための装置も必要になってきます。
試行錯誤はいまだに続いています。
温度、湿度など光合成を最大化させるための、あらゆる努力をすると言う事で、イチゴの糖度、味の濃さも上がってくるわけです。
糖度は他の地域のものに比べて9割がた高かったです。(100日間調べての結果)
ただ甘ければいいと言うだけではなくて、酸度とのバランスで好みも違ってきたりはします。
地域社会に農業の担い手ががいっぱい集まってきて、農業が強い産業に育つというのが目的です。
イチゴ作りを独立してできるような支援ビジネスも行っています。
8つの農業経営体の方が独立してやっています。
民間と行政が連携してやるのが、一番重要なのかと思っています。
海外で生産を始めたのがインドです。
ある民間企業と政府のJICA - 国際協力機構と一緒にインドの農業技術開発を応援すると言うプロジェクトをスタートさせました。
グローバルで通用する産業が出来れば、場所は関係ないと思いました。
インドは大変な部分もあるのでインドに行きました。
土地も痩せているし、水も無い、インフラも無いという事で1から立ち上げました。
電気をひいても30分に一度ぐらい停電があり、無停電電源装置、発電機なども置いてスタートしました。
インドでは女性の雇用が難しくて、女性の強い雇用という目的もありました。
インドで4,5年目にスタートして当時高校生だった人が大学を出て、山本町で働いている男の人もいます、そういった交流も生まれています。
技術研修で来ている人もいます。
2013年から出荷が始まってインドの高級ホテルなどに出荷されています。
マレーシア、中東といった処でも栽培の試験をしています。
強い農業を育てると言うのがミッションとしてあります。
10年で100社1万人の雇用機会をつくろうというビジョンをたてましたが、あと数年で10年になりますがかなり出来て来ました。
2019年1月19日土曜日
故・坂本廣子(食育・料理研究家) ・地震に備える家庭の極意(2012・1・14 OA)
故・坂本廣子(食育・料理研究家) ・地震に備える家庭の極意(2012・1・14OA)
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2012/01/65.htmlをご覧ください。
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2012/01/65.htmlをご覧ください。
2019年1月18日金曜日
後藤暢子(音楽史研究者) ・【わが心の人】山田耕筰
後藤暢子(音楽史研究者) ・【わが心の人】山田耕筰
山田耕筰は明治19年生まれ、早くから音楽の才能を発揮し、日本の音楽の父ともいわれ多くの作品を残しました。
又N響の前身である日本初の交響楽団を作った事でも知られています。
昭和40年12月亡くなられました。(79歳)
1975年から10年とちょっと遠山音楽財団付属図書館という処に務めましたが、隅っこにダンボールの箱が20箱積まれていて、何かと思ってみたいなあと思って、開けてみたら手書きの楽譜がかなりの量ありました。
山田耕筰が書いた直筆の原稿を探りたいと、朝、図書館が始まる前にみていました。
楽譜の書き方が判ってきました。
必ず鉛筆で書くことと、五線紙を凄く贅沢に使うと言う事で興味を持ちました。
文房堂 で購入さている事が判り紙の分類をしました。
倉田印刷がとなりにあり、楽譜を刷っていた機械を見せてもらいました。
五線紙の紙を切断する部分、五線紙のインクのの違いなど、五線紙に凄く執着しました。
いつ書いたか年代が入っているものと入っていないものとがあり、入っていないものには、五線紙の研究から2,3年のばらつき以内で判明しました。
その後作品研究の段階に来ました。
作品のおよその製作年代の見当が付いてきましたので、こういう歌を書いていた時期がある、こういうふうな様式スタイルの歌を書くようになった、というふうにクリエーティブな側面が、どういうふうに展開していったのかが判って来ました。
一番大事なのは山田耕筰は何処から書き始めて最期まで書きあげたかという、手順ですね。
鉛筆は最初とがっているが段々丸くなって行って、どういうふうに書いていったのがが判るわけです。
山田耕筰は旋律だけ先に書いて、その後にピアノ伴奏を付けて行くと言う手法でした。
山田耕筰は詩歌がとっても好きな人でした。
詩人本人と作曲家本人がお付き合いしている。
湧いてきたメロディーを詩集の余白に自分で五線引いて書くわけです。
メロディーが出来た時がその作品の作曲日と考えていたようです。
消しゴムで消して書きなおすという事は無かったようです。
山田耕筰はドイツに4年ぐらい留学して、好きなところがはっきりしていて、そのうちの一つが東ドイツのバルチック海でした。(人口500人の海辺)
ベルリンの下宿先の一家の方と一緒に行っていたようです。
リヒャルト・シュトラウスのサロメを見て物凄く感動して、自分も日本語でこういうのを書くんだと言って、日本のオペラを作ってみせるぞ、と言う思いは死ぬまで持っていたと思います。
完成できないで亡くなった作品があって、それを山田耕筰の17回忌に團伊玖磨が自分でオーケストレーションして初演しました。
團伊玖磨さんと知り合いになって山田耕筰の話を色々聞くことができました。
山田耕筰は教えることが嫌いなんです、だから弟子達にはあんまり教えないんです。
自分で勉強しなさいと言う感じでした。
1926年に日本交響楽団のオーケストラを作りましが、弟子たちはみんなオーケストラのメンバーでもあったので色々面白い話があります。
私は山田耕筰には会えなかったが、自分のイメージを膨らませたという良さもありました。
一言で言うといい人だったと思います、女性関係が激しかったとか、お金に多少ルーズだった、戦争責任の問題、口論すると直ぐに手が出てしまう、でもそれで山田耕筰は乱暴な人とは言えないし、基本的に研究者の立場から言えば、時代を観る目が非常にシャープだったと思います。
どんな音楽が求められているのか、同時に自分はどういう音楽がかきたいのか、その二つが常に彼の心の中にあって、戦争協力で軍歌を50何曲書いているんですね。
戦時中はそういうものが必要だったから、兵隊さんたちを励ましたいから軍歌を書くんですね。
時代の進展とともに自分を開いてゆくという事が非常に見事だと思います。
北原白秋とも一緒に作品を作りましたが、作品が気に入らないと北原白秋は相当な事を言ったようです。
あの二人は二人三客だったと思います、一緒に仕事をするのが楽しくってしょうがないという関係だと思います。
山田耕筰は明治19年生まれ、早くから音楽の才能を発揮し、日本の音楽の父ともいわれ多くの作品を残しました。
又N響の前身である日本初の交響楽団を作った事でも知られています。
昭和40年12月亡くなられました。(79歳)
1975年から10年とちょっと遠山音楽財団付属図書館という処に務めましたが、隅っこにダンボールの箱が20箱積まれていて、何かと思ってみたいなあと思って、開けてみたら手書きの楽譜がかなりの量ありました。
山田耕筰が書いた直筆の原稿を探りたいと、朝、図書館が始まる前にみていました。
楽譜の書き方が判ってきました。
必ず鉛筆で書くことと、五線紙を凄く贅沢に使うと言う事で興味を持ちました。
文房堂 で購入さている事が判り紙の分類をしました。
倉田印刷がとなりにあり、楽譜を刷っていた機械を見せてもらいました。
五線紙の紙を切断する部分、五線紙のインクのの違いなど、五線紙に凄く執着しました。
いつ書いたか年代が入っているものと入っていないものとがあり、入っていないものには、五線紙の研究から2,3年のばらつき以内で判明しました。
その後作品研究の段階に来ました。
作品のおよその製作年代の見当が付いてきましたので、こういう歌を書いていた時期がある、こういうふうな様式スタイルの歌を書くようになった、というふうにクリエーティブな側面が、どういうふうに展開していったのかが判って来ました。
一番大事なのは山田耕筰は何処から書き始めて最期まで書きあげたかという、手順ですね。
鉛筆は最初とがっているが段々丸くなって行って、どういうふうに書いていったのがが判るわけです。
山田耕筰は旋律だけ先に書いて、その後にピアノ伴奏を付けて行くと言う手法でした。
山田耕筰は詩歌がとっても好きな人でした。
詩人本人と作曲家本人がお付き合いしている。
湧いてきたメロディーを詩集の余白に自分で五線引いて書くわけです。
メロディーが出来た時がその作品の作曲日と考えていたようです。
消しゴムで消して書きなおすという事は無かったようです。
山田耕筰はドイツに4年ぐらい留学して、好きなところがはっきりしていて、そのうちの一つが東ドイツのバルチック海でした。(人口500人の海辺)
ベルリンの下宿先の一家の方と一緒に行っていたようです。
リヒャルト・シュトラウスのサロメを見て物凄く感動して、自分も日本語でこういうのを書くんだと言って、日本のオペラを作ってみせるぞ、と言う思いは死ぬまで持っていたと思います。
完成できないで亡くなった作品があって、それを山田耕筰の17回忌に團伊玖磨が自分でオーケストレーションして初演しました。
團伊玖磨さんと知り合いになって山田耕筰の話を色々聞くことができました。
山田耕筰は教えることが嫌いなんです、だから弟子達にはあんまり教えないんです。
自分で勉強しなさいと言う感じでした。
1926年に日本交響楽団のオーケストラを作りましが、弟子たちはみんなオーケストラのメンバーでもあったので色々面白い話があります。
私は山田耕筰には会えなかったが、自分のイメージを膨らませたという良さもありました。
一言で言うといい人だったと思います、女性関係が激しかったとか、お金に多少ルーズだった、戦争責任の問題、口論すると直ぐに手が出てしまう、でもそれで山田耕筰は乱暴な人とは言えないし、基本的に研究者の立場から言えば、時代を観る目が非常にシャープだったと思います。
どんな音楽が求められているのか、同時に自分はどういう音楽がかきたいのか、その二つが常に彼の心の中にあって、戦争協力で軍歌を50何曲書いているんですね。
戦時中はそういうものが必要だったから、兵隊さんたちを励ましたいから軍歌を書くんですね。
時代の進展とともに自分を開いてゆくという事が非常に見事だと思います。
北原白秋とも一緒に作品を作りましたが、作品が気に入らないと北原白秋は相当な事を言ったようです。
あの二人は二人三客だったと思います、一緒に仕事をするのが楽しくってしょうがないという関係だと思います。
2019年1月17日木曜日
森田みさ(司法書士) ・震災孤児 見守り続けた7年
森田みさ(司法書士) ・震災孤児 見守り続けた7年
東日本大震災から今年3月で8年になります。
死者行方不明者は1万8000人に及び、その中には育ち盛りの子供が親を亡くしたケースも少なくありません。
宮城県内で震災後に司法書士が、震災孤児の後見人になって支援する活動を続けています。
震災の翌年から中心となって取り組み始め、今も2人の孤児の後見人を務める森田さんに伺いました。
宮城県では東日本大震災で当時18歳未満の孤児が126人と全国でも最も多かった。
未成年後見、親権者がいなくなってしまった子供の親権者の替わりをする。
裁判所で選任されるが、多くは身近な親族がなるケースが多いです。
財産の金額によって一定数以上の財産がある子に関しては、後見の監督人を付けるとか、司法書士、弁護士など専門職が財産管理の為に一緒に後見人をやるという制度があります。
震災孤児には義援金、亡くなった方の弔慰金、亡くなった方の保険金、色んな種類のお金が入ることになって、親族の方だけで適正な管理ができるかどうか裁判所が慮って、私達のような専門職が後見人になったというケースが沢山あります。
大きいお金があればそのまま預金をお預かりしたり、毎月の生活費で不足があれば里親、親族に渡すとか、大きなお金(教育費など)が掛かる時には相談を受けてこちらからお金をお送りすることがあります。
20歳までですが、成人になる時に後見人から本人に全部財産を引き渡して、自分で管理してもらうことになりますが、それまではむやみに減ったりしないように管理をしなければいけませんし、適切な支出なのかなどを考えなければいけません。
進路を選ぶ時にどういう進路を選ぶのか、子供とか親族と一緒に考えながら意見を述べなければいけないので、責任があるところだと思います。
今も男の子、女の子の2人を支えています。
出会った当初、1人の男の子は赤ちゃん返りみたいになっていて、大分大きいのに指しゃぶりをしていたりして暫く戻らなかったり、勉強にも身が入らない。
女の子は不登校ぎみで学校生活がうまくいかないということがありました。
良くなったり悪くなったりする時期がその子によって違います。
津波の震災を経験してしまって、湯船には入れなくなったという子がいます。
海が怖いという子はよく聞きます。
被災して年齢によって、多感なころに被災すると印象が強烈に残っているかもしれないし、小さかった子はあまりおぼえていないという事はあると思います。
成年後見というのもあります。
高齢者、障害者、判断能力がなくなった方の為の後見制度があります。
多くの司法書士が後見人として沢山活動していますが、未成年はもともと数が少なかったので推薦依頼は来ませんでした。
段々裁判所から依頼が来るようになって、10件/月来るようになりました。
宮城県の場合は引き取った親族の内訳は、祖父母、叔父叔母がほとんどで半分半分ですが、後見は親族の理解を得ると言う事が非常に難しいです。
未成年後見人という人が戸籍に乗ってしまいます。
子供の戸籍に関係ない人の名前が出てきたりするのに抵抗を覚える親族がいます。
子供の独自の財産という観念があまり一般の家にはなじまないので、管理しているものがおうちの金というふうになってしまうと間違った使い方というふうになってしまうので、なかなか裁判所からすると適正な運用にはならないという事が多々あったのかもしれません。
震災孤児の食費などもなかなか分けられないので、なかなか難しい。
震災孤児を引き取って育てている親族の方々の状況も様々です。
仕事がなくなっていたり、家をながされたりして家計が苦しいという家庭があったり、自分の子がいるなかで震災孤児を引き取っているという方もいます。
養子にしたというところもありましたが、そういう家ばかりでは無くて親族と震災孤児がうまくいかないという所も何件かありました。
祖父母が育てる場合は、8年歳をとると言う事は高齢になってしまうケースもあり、亡くなってしまったり認知症になってしまうと言う事もあります。
子供が祖父母の介護をしなければいけないというケースも出てきたりします。
平成28年宮城県内で東日本大震災で両親を亡くした小学生の甥の未成年後見人として家庭裁判所から選任された親族が甥の預金を着服して逮捕された事件がありました。
裁判所は不正なお金の使用をしないように監督はしているが、それでも裁判所までもだまそうというところまではなかなか防ぐのは難しいと思う。
その事件の為、後見人はあまりいい目でみられなくなってしまったのは残念です。
虐待を受けたりして、その子のその後の人生も凄く心配になりました。
8年の間に半分ぐらい成人しましたが、その後の生活についてはあまり分からないが、今も未成年の子について言うと、選択しながら生きていかないといけない。
相談する相手がいる子もいればいない子もいて、孤独な状態で成長している子もいて支えが必要だと思います。
後見人は親代わりにはなれないと思います。
距離感をもった関係性は必要だと思います。
自立する時に、財産、預貯金を引き継ぐ場合、お金がどうしてそれぐらいあるのか、まず説明する必要があります。
これからの人生でお金が必要で大切なことだと説明します。
一人で管理することが不安な場合は親族との相談等も行います。
困った時に誰かにSOSを出せるのが、まず自立の条件だと思っています。
東北人特有な特性があり、なかなか他人に自分の困っていることを話すのが恥ずかしいというような事があると思います。
抱え込んでしまって誰にも相談できなくなって、暗闇に入ってしまうというケースが多くて、どうやってSOSを発信してもらえるのか、課題だと思っています。
最近では震災という事が困っていることの事実としては埋もれているが、その影響は大きくてまだまだ残っているものがあると思います。
目に見えていない部分がたくさんあると思います。
何処でまた災害が起きて、同じ様なケースが出てくるのか判らないので、私たち司法書士がこういう未成年後見をやって来たという事を発信したりだとか、やってみたがこういう問題点があると言う事を、発信していかないと制度改善につながらないと思います。
これを全国に広めて行きたいと思います。
東日本大震災から今年3月で8年になります。
死者行方不明者は1万8000人に及び、その中には育ち盛りの子供が親を亡くしたケースも少なくありません。
宮城県内で震災後に司法書士が、震災孤児の後見人になって支援する活動を続けています。
震災の翌年から中心となって取り組み始め、今も2人の孤児の後見人を務める森田さんに伺いました。
宮城県では東日本大震災で当時18歳未満の孤児が126人と全国でも最も多かった。
未成年後見、親権者がいなくなってしまった子供の親権者の替わりをする。
裁判所で選任されるが、多くは身近な親族がなるケースが多いです。
財産の金額によって一定数以上の財産がある子に関しては、後見の監督人を付けるとか、司法書士、弁護士など専門職が財産管理の為に一緒に後見人をやるという制度があります。
震災孤児には義援金、亡くなった方の弔慰金、亡くなった方の保険金、色んな種類のお金が入ることになって、親族の方だけで適正な管理ができるかどうか裁判所が慮って、私達のような専門職が後見人になったというケースが沢山あります。
大きいお金があればそのまま預金をお預かりしたり、毎月の生活費で不足があれば里親、親族に渡すとか、大きなお金(教育費など)が掛かる時には相談を受けてこちらからお金をお送りすることがあります。
20歳までですが、成人になる時に後見人から本人に全部財産を引き渡して、自分で管理してもらうことになりますが、それまではむやみに減ったりしないように管理をしなければいけませんし、適切な支出なのかなどを考えなければいけません。
進路を選ぶ時にどういう進路を選ぶのか、子供とか親族と一緒に考えながら意見を述べなければいけないので、責任があるところだと思います。
今も男の子、女の子の2人を支えています。
出会った当初、1人の男の子は赤ちゃん返りみたいになっていて、大分大きいのに指しゃぶりをしていたりして暫く戻らなかったり、勉強にも身が入らない。
女の子は不登校ぎみで学校生活がうまくいかないということがありました。
良くなったり悪くなったりする時期がその子によって違います。
津波の震災を経験してしまって、湯船には入れなくなったという子がいます。
海が怖いという子はよく聞きます。
被災して年齢によって、多感なころに被災すると印象が強烈に残っているかもしれないし、小さかった子はあまりおぼえていないという事はあると思います。
成年後見というのもあります。
高齢者、障害者、判断能力がなくなった方の為の後見制度があります。
多くの司法書士が後見人として沢山活動していますが、未成年はもともと数が少なかったので推薦依頼は来ませんでした。
段々裁判所から依頼が来るようになって、10件/月来るようになりました。
宮城県の場合は引き取った親族の内訳は、祖父母、叔父叔母がほとんどで半分半分ですが、後見は親族の理解を得ると言う事が非常に難しいです。
未成年後見人という人が戸籍に乗ってしまいます。
子供の戸籍に関係ない人の名前が出てきたりするのに抵抗を覚える親族がいます。
子供の独自の財産という観念があまり一般の家にはなじまないので、管理しているものがおうちの金というふうになってしまうと間違った使い方というふうになってしまうので、なかなか裁判所からすると適正な運用にはならないという事が多々あったのかもしれません。
震災孤児の食費などもなかなか分けられないので、なかなか難しい。
震災孤児を引き取って育てている親族の方々の状況も様々です。
仕事がなくなっていたり、家をながされたりして家計が苦しいという家庭があったり、自分の子がいるなかで震災孤児を引き取っているという方もいます。
養子にしたというところもありましたが、そういう家ばかりでは無くて親族と震災孤児がうまくいかないという所も何件かありました。
祖父母が育てる場合は、8年歳をとると言う事は高齢になってしまうケースもあり、亡くなってしまったり認知症になってしまうと言う事もあります。
子供が祖父母の介護をしなければいけないというケースも出てきたりします。
平成28年宮城県内で東日本大震災で両親を亡くした小学生の甥の未成年後見人として家庭裁判所から選任された親族が甥の預金を着服して逮捕された事件がありました。
裁判所は不正なお金の使用をしないように監督はしているが、それでも裁判所までもだまそうというところまではなかなか防ぐのは難しいと思う。
その事件の為、後見人はあまりいい目でみられなくなってしまったのは残念です。
虐待を受けたりして、その子のその後の人生も凄く心配になりました。
8年の間に半分ぐらい成人しましたが、その後の生活についてはあまり分からないが、今も未成年の子について言うと、選択しながら生きていかないといけない。
相談する相手がいる子もいればいない子もいて、孤独な状態で成長している子もいて支えが必要だと思います。
後見人は親代わりにはなれないと思います。
距離感をもった関係性は必要だと思います。
自立する時に、財産、預貯金を引き継ぐ場合、お金がどうしてそれぐらいあるのか、まず説明する必要があります。
これからの人生でお金が必要で大切なことだと説明します。
一人で管理することが不安な場合は親族との相談等も行います。
困った時に誰かにSOSを出せるのが、まず自立の条件だと思っています。
東北人特有な特性があり、なかなか他人に自分の困っていることを話すのが恥ずかしいというような事があると思います。
抱え込んでしまって誰にも相談できなくなって、暗闇に入ってしまうというケースが多くて、どうやってSOSを発信してもらえるのか、課題だと思っています。
最近では震災という事が困っていることの事実としては埋もれているが、その影響は大きくてまだまだ残っているものがあると思います。
目に見えていない部分がたくさんあると思います。
何処でまた災害が起きて、同じ様なケースが出てくるのか判らないので、私たち司法書士がこういう未成年後見をやって来たという事を発信したりだとか、やってみたがこういう問題点があると言う事を、発信していかないと制度改善につながらないと思います。
これを全国に広めて行きたいと思います。
2019年1月16日水曜日
先崎学(将棋棋士) ・うつ病九段、プロ復活までの一年間
先崎学(将棋棋士) ・うつ病九段、プロ復活までの一年間
1970年青森県生まれ、小学校5年で米長邦雄永世棋聖門下で奨励会に入会、1987年4段になりプロデビュー、1991年大40回NHK杯戦で同い年の羽生善治現九段を準決勝で破り棋聖戦初優勝、2014年に九段となります。
2017年7月にうつ病を発症し、慶応大学病院に入院、精神科の医師である兄のサポートを受けつつ、闘病をうけ2018年6月順位戦で復帰を果たします。
7月に自らの闘病から復活までの経緯をまとめた「うつ病九段」を出版し大きな反響をみました。
本も27冊になります。
「うつ病九段」の後に将棋の本上下巻を出しました。
昔話みたいなものを纏める機会が無かったので、中村太地 氏と『先崎学&中村太地この名局を見よ! 20世紀編』を書きました。
往年の名棋士などを語りました。
羽生さんとか私は大山先生に可愛がられました。
将棋は白星と黒星しかないので、厳しい世界です。
AIが出てきたおかげで純粋な知恵比べみたいな印象を持たれることが多いが、実際は密室で一対一で朝から晩までぶつかり合う格闘技的な空気もあります。
将棋差しは「気合」という言葉を重んじます。(気合いで負けない事)
将棋も芸術的な側面もあって、音楽の世界に似ている感じはあります。
小学校1年生の時に将棋に興味を持ちました。
スキーをやっていたが春になるとやる事が無いので、将棋をやるようになりました。
父親は将棋をやっていましたが、全然強くは無かったです。
兄は精神科の医師ですが、今回の私の病気にはちょうど良く助かりました。
6月22日の誕生日の翌日に変調があり、その後2カ月ぐらいたって入院しました。
30数日入院していました。
8月末に退院して12月、1月になってきたら、まともになって来ました。
そうすると暇になるので(悪い時には暇という事を感じない)、兄から貴重なものだから今回の体験などを纏めてみないかといわれて書き出しました。
軽く鬱っぽい時などと、本物の鬱とはまるっきり違うということは間違いないと思います。
入院中から退院してから1カ月半ぐらいは全く頭が回らない状態で、色んな事を後で聞くと妻と兄で来院して決めていたようです。
妻は囲碁のプロです。
私のうつ病は将棋のプレッシャーでなった訳ではなくて、将棋連盟の全体的な不祥事と私の個人的に関係する映画という華やかな世界、両方をいっぺんに騒いで、午前中は物凄く明るい話をして、午後は凄く暗い密談みたいなものをしなくてはいけなくなって、感情が揺れ動いてそれが良く判らなくなってしまいました。
毎日の様に色んな事が降ってきて、自分の仕事と感情をコントロールできなくなって振り回されてしまいました。
スケジュールをコントロールできなくなると危ないらしいです。
兄からは絶対治ると言われていました。
一般的には絶対とか、100%とかは医者はなかなか言えないが、兄は主治医では無いのでそういう事を平気で言える訳で、こちらとしては有難かったです。
自分自身で出来るだけ外に出て歩い足りして、自分で治すんだという気持ちを持った方がいい病気だと言われました。
或る時からすこしずつ華やかな世界を見ても疲れなくなりました。
鬱が一番ひどい状態の時は何も考えられない、何もできない、活字は一つも読めない、写真なども華やかな色を観ると疲れる世界でした。
少しずつ華やかな世界にも感情が対応できるという事になってきました。
少しずついろんな情報が自分の頭の中に入って来るようになりました。
退院して半月で落語を聞きに行きましたが、全く頭の中で理解できませんでした。
記憶力は鬱でも少し残っていたんで後に書くことが出来たんだと思います。
段々良くなって仲間にずいぶん将棋を指してもらって、意欲が出来た事自体症状が良くなってきたのかと思います。
でも負けると辛いです。
何故か声が大きい人は疲れます。
元気づけようと明るい話をする人も疲れますね。
7,8,9月は悩むことは無くて、灰色の雲の中を延々と毎日いるような感じで、憂鬱とは違うんです。
あらゆることに無反応なんです。
決断力が極度に鈍るらしいです。
あの時少し良くなったなという事は、後になって判る訳です。(1カ月ぐらいの単位)
退屈だという感覚をもてば、症状が良くなってる絶対的な証拠だと、兄からは言われました。(エネルギーが戻ってくる)
症状が悪い時には、暇だという感覚がない、全くもてない。
中学生の時にはいじめに遭いました。
他人とコミュニケーションを持つのが苦手で、クラスになじめなくていじめに遭い、不登校になり将棋をやっていました。
17歳から棋士になって暇になり、その頃本を一杯読みだした記憶があります。
文章を最初に書くようになったのは19歳のころでした。
週刊誌に連載されるようになった最初の3年間はきつかったが、文章を書くと言う事は辛いとは思わないです。
後輩たちを纏めて行く立場になってきたのかと思います。
将棋は集中持続力、根気が必要で若い人に対しては、その辺ではきついところがあります。
自分が病気になってわかったことは、世の中には病気の人がいぱいいるんだな、ということです。
1970年青森県生まれ、小学校5年で米長邦雄永世棋聖門下で奨励会に入会、1987年4段になりプロデビュー、1991年大40回NHK杯戦で同い年の羽生善治現九段を準決勝で破り棋聖戦初優勝、2014年に九段となります。
2017年7月にうつ病を発症し、慶応大学病院に入院、精神科の医師である兄のサポートを受けつつ、闘病をうけ2018年6月順位戦で復帰を果たします。
7月に自らの闘病から復活までの経緯をまとめた「うつ病九段」を出版し大きな反響をみました。
本も27冊になります。
「うつ病九段」の後に将棋の本上下巻を出しました。
昔話みたいなものを纏める機会が無かったので、中村太地 氏と『先崎学&中村太地この名局を見よ! 20世紀編』を書きました。
往年の名棋士などを語りました。
羽生さんとか私は大山先生に可愛がられました。
将棋は白星と黒星しかないので、厳しい世界です。
AIが出てきたおかげで純粋な知恵比べみたいな印象を持たれることが多いが、実際は密室で一対一で朝から晩までぶつかり合う格闘技的な空気もあります。
将棋差しは「気合」という言葉を重んじます。(気合いで負けない事)
将棋も芸術的な側面もあって、音楽の世界に似ている感じはあります。
小学校1年生の時に将棋に興味を持ちました。
スキーをやっていたが春になるとやる事が無いので、将棋をやるようになりました。
父親は将棋をやっていましたが、全然強くは無かったです。
兄は精神科の医師ですが、今回の私の病気にはちょうど良く助かりました。
6月22日の誕生日の翌日に変調があり、その後2カ月ぐらいたって入院しました。
30数日入院していました。
8月末に退院して12月、1月になってきたら、まともになって来ました。
そうすると暇になるので(悪い時には暇という事を感じない)、兄から貴重なものだから今回の体験などを纏めてみないかといわれて書き出しました。
軽く鬱っぽい時などと、本物の鬱とはまるっきり違うということは間違いないと思います。
入院中から退院してから1カ月半ぐらいは全く頭が回らない状態で、色んな事を後で聞くと妻と兄で来院して決めていたようです。
妻は囲碁のプロです。
私のうつ病は将棋のプレッシャーでなった訳ではなくて、将棋連盟の全体的な不祥事と私の個人的に関係する映画という華やかな世界、両方をいっぺんに騒いで、午前中は物凄く明るい話をして、午後は凄く暗い密談みたいなものをしなくてはいけなくなって、感情が揺れ動いてそれが良く判らなくなってしまいました。
毎日の様に色んな事が降ってきて、自分の仕事と感情をコントロールできなくなって振り回されてしまいました。
スケジュールをコントロールできなくなると危ないらしいです。
兄からは絶対治ると言われていました。
一般的には絶対とか、100%とかは医者はなかなか言えないが、兄は主治医では無いのでそういう事を平気で言える訳で、こちらとしては有難かったです。
自分自身で出来るだけ外に出て歩い足りして、自分で治すんだという気持ちを持った方がいい病気だと言われました。
或る時からすこしずつ華やかな世界を見ても疲れなくなりました。
鬱が一番ひどい状態の時は何も考えられない、何もできない、活字は一つも読めない、写真なども華やかな色を観ると疲れる世界でした。
少しずつ華やかな世界にも感情が対応できるという事になってきました。
少しずついろんな情報が自分の頭の中に入って来るようになりました。
退院して半月で落語を聞きに行きましたが、全く頭の中で理解できませんでした。
記憶力は鬱でも少し残っていたんで後に書くことが出来たんだと思います。
段々良くなって仲間にずいぶん将棋を指してもらって、意欲が出来た事自体症状が良くなってきたのかと思います。
でも負けると辛いです。
何故か声が大きい人は疲れます。
元気づけようと明るい話をする人も疲れますね。
7,8,9月は悩むことは無くて、灰色の雲の中を延々と毎日いるような感じで、憂鬱とは違うんです。
あらゆることに無反応なんです。
決断力が極度に鈍るらしいです。
あの時少し良くなったなという事は、後になって判る訳です。(1カ月ぐらいの単位)
退屈だという感覚をもてば、症状が良くなってる絶対的な証拠だと、兄からは言われました。(エネルギーが戻ってくる)
症状が悪い時には、暇だという感覚がない、全くもてない。
中学生の時にはいじめに遭いました。
他人とコミュニケーションを持つのが苦手で、クラスになじめなくていじめに遭い、不登校になり将棋をやっていました。
17歳から棋士になって暇になり、その頃本を一杯読みだした記憶があります。
文章を最初に書くようになったのは19歳のころでした。
週刊誌に連載されるようになった最初の3年間はきつかったが、文章を書くと言う事は辛いとは思わないです。
後輩たちを纏めて行く立場になってきたのかと思います。
将棋は集中持続力、根気が必要で若い人に対しては、その辺ではきついところがあります。
自分が病気になってわかったことは、世の中には病気の人がいぱいいるんだな、ということです。
2019年1月15日火曜日
大江英樹(経済コラムニスト) ・"定年起業"は自由への扉
大江英樹(経済コラムニスト) ・"定年起業"は自由への扉
66歳、新聞や雑誌への原稿の連載やTV出演、年間100回を越える講演で活躍する経済コラムニストです。
大手証券会社で個人営業の仕事をしていた大江さんはその後、社内で確定拠出年金に関する教育に携わりました。
60歳の定年後、会社の再雇用制度に応募したものの、僅か半年で会社を辞め自分の会社を設立、定年前に担当した確定拠出年金に関する教育やサラリーマンの定年後の生活支援を事業の柱にしました。
ところが仕事は簡単には来ない状態が続きました。
大江さんはこうした状態をどうやって乗り越え、経済コラムニストとしての道を切り開いて行ったのか伺いました。
現在新聞、雑誌の連載が10本抱えている。
3日に一回締め切りが来ます。
セミナーの回数も140回やっていますので、ほぼ2,3日に一回の割合でセミナーをやっていて、その合間に原稿を書くという、こんな日々です。
何を書くかという情報収集が大変です。
ネットで情報を得ると言う事も最近はありますが、中にはいい加減な情報もありますので、複数のニュースソースを調べたうえで原稿を書きます。
大手証券会社を志望した訳は等に無かったです。
就職しようとしていた1973年、日本列島改造論が叫ばれて景気もよかったが、株価も高かったですので、証券会社の採用も多かった。
支店に配属されて、個人を対象にした営業の仕事でした。
自分でお客さんを開拓していきました。
クレームが色々ありますが、一番大事なことは逃げずにお客さんに会うことです。
25年ぐらいは個人の営業をやっていました。(約3万人のお客さん)
お客さんから色々といい勉強をさせて貰いました。
本社に異動になって確定拠出年金の仕事を始めました。(2001年)
加入しているのは700万人位です。
個人型確定拠出年金に加入しているのが100万人位です。
管理運営を企業がやる訳ではなくて、個人一人ひとりが行うと言うことです。
資産運用をやったことのある人は非常に少ない訳です。
従業員に対して投資教育をしなさいと言う法律があるので、事業主は必ずやらなければいけない。
その投資教育の仕事をやっていました。
1500社の企業を担当していました。
投資教育をすることによって知識を広めて行って、新たな投資家を育成するとか、拡大する事になるわけで、当初頑張ってやろうと言うことになりました。
収益を生み出す事業ではないので本流というふうにはみられていなかったです。
50歳ぐらいからこの仕事をやっていました。
54,5歳ぐらいまでは定年が待ち遠しかった、定年になったら絶対仕事はやるまいと思っていました。
今忙しくてできなかったことを一挙にやろうと思っていました。(旅行、音楽、読書等)
毎日が日曜日になるとどうなるのかを考えると、微妙に変化していきました。
高齢者雇用安定法が改正されて、60歳以降の雇用については、自分が希望すれば最長65歳までは雇用を義務付けると言うことに変わりました。
会社の再雇用制度で65歳までは働き続けようと思いました。
管理職ではなくなり、責任権限も全く違うものになりました。
自分が想像していたものとはかなり違うものでした。
どうやって働いたらいいのか判らなくなりました。
起業するという事も真剣に考えた方がいいのかなと思いました。
定年記念旅行という事でクロアチアに旅行しました。
「どんなに黄金を積まれても、決して自由を売り渡してはならない」という言葉がありまして、雷を打たれたような気持になりました。
会社を辞めたら自由じゃないかと、定年を迎えるまで会社に雇われている必要は無いと思いました。
再雇用に応じたものの半年で辞めました。
起業するための準備活動を再雇用になってから始めました。
確定拠出年金に関する仕事をやっていたので、これを仕事にできないものかと考えました。
中立的な立場で情報提供したり、投資教育をするという事の方が事業主さんには受けるのではないかと考えました。
年金がもらえるので大変な決断という訳ではなかった。
最初の一年ぐらいは仕事はほとんどなかったです。
肩書きが無くなった人に対しては世間は冷たいです。
仕事以外の趣味の集まりなどの会合に顔出しているうちに、講師をやって欲しいとの依頼が来るようになりましたが、最初講師料は貰いませんでした。
そうこうしているうちに声がかかってくるようになり、講師料を払ってくれるような処が出てきました。
自分がどんな事ができる人間なのか知ってもらう必要がありました。
そのためには自分の専門分野について本を書けばいいのではないかと思いました。
出版社と交渉して75万円を出して本を書いて、その本を渡して行きました。(名刺代わり)
収入を伴う仕事が出てきました。
2015年ぐらいからぼつぼつ忙しくなりました。
人とのつながり、口コミ、評判とかがが意外と大きいです。
経済コラムニストとしては、人との出会いという事が一番の楽しみです。
地方を重視していて去年140回やりましたが、84回が地方でやりました。
「定活」 「終活」の前にこの「定活」があると思います。
50歳ぐらいから取り組むことによって、60歳以降の定年が豊かになる。
定年までに如何に充実した活動をやって置くかによって、定年後の充実した生活が決まると言い換えてもいいかと思います。
①会社以外の人との付き合いを増やす事がとっても大事だと思います。
②「ねばならない、べき論」とかをあまり気にしないという事。
私の場合は〔自由」がキーワードでした。
夢があってビジネス書は20冊ぐらい書いているが、小説を書いてみたいと思っています。
66歳、新聞や雑誌への原稿の連載やTV出演、年間100回を越える講演で活躍する経済コラムニストです。
大手証券会社で個人営業の仕事をしていた大江さんはその後、社内で確定拠出年金に関する教育に携わりました。
60歳の定年後、会社の再雇用制度に応募したものの、僅か半年で会社を辞め自分の会社を設立、定年前に担当した確定拠出年金に関する教育やサラリーマンの定年後の生活支援を事業の柱にしました。
ところが仕事は簡単には来ない状態が続きました。
大江さんはこうした状態をどうやって乗り越え、経済コラムニストとしての道を切り開いて行ったのか伺いました。
現在新聞、雑誌の連載が10本抱えている。
3日に一回締め切りが来ます。
セミナーの回数も140回やっていますので、ほぼ2,3日に一回の割合でセミナーをやっていて、その合間に原稿を書くという、こんな日々です。
何を書くかという情報収集が大変です。
ネットで情報を得ると言う事も最近はありますが、中にはいい加減な情報もありますので、複数のニュースソースを調べたうえで原稿を書きます。
大手証券会社を志望した訳は等に無かったです。
就職しようとしていた1973年、日本列島改造論が叫ばれて景気もよかったが、株価も高かったですので、証券会社の採用も多かった。
支店に配属されて、個人を対象にした営業の仕事でした。
自分でお客さんを開拓していきました。
クレームが色々ありますが、一番大事なことは逃げずにお客さんに会うことです。
25年ぐらいは個人の営業をやっていました。(約3万人のお客さん)
お客さんから色々といい勉強をさせて貰いました。
本社に異動になって確定拠出年金の仕事を始めました。(2001年)
加入しているのは700万人位です。
個人型確定拠出年金に加入しているのが100万人位です。
管理運営を企業がやる訳ではなくて、個人一人ひとりが行うと言うことです。
資産運用をやったことのある人は非常に少ない訳です。
従業員に対して投資教育をしなさいと言う法律があるので、事業主は必ずやらなければいけない。
その投資教育の仕事をやっていました。
1500社の企業を担当していました。
投資教育をすることによって知識を広めて行って、新たな投資家を育成するとか、拡大する事になるわけで、当初頑張ってやろうと言うことになりました。
収益を生み出す事業ではないので本流というふうにはみられていなかったです。
50歳ぐらいからこの仕事をやっていました。
54,5歳ぐらいまでは定年が待ち遠しかった、定年になったら絶対仕事はやるまいと思っていました。
今忙しくてできなかったことを一挙にやろうと思っていました。(旅行、音楽、読書等)
毎日が日曜日になるとどうなるのかを考えると、微妙に変化していきました。
高齢者雇用安定法が改正されて、60歳以降の雇用については、自分が希望すれば最長65歳までは雇用を義務付けると言うことに変わりました。
会社の再雇用制度で65歳までは働き続けようと思いました。
管理職ではなくなり、責任権限も全く違うものになりました。
自分が想像していたものとはかなり違うものでした。
どうやって働いたらいいのか判らなくなりました。
起業するという事も真剣に考えた方がいいのかなと思いました。
定年記念旅行という事でクロアチアに旅行しました。
「どんなに黄金を積まれても、決して自由を売り渡してはならない」という言葉がありまして、雷を打たれたような気持になりました。
会社を辞めたら自由じゃないかと、定年を迎えるまで会社に雇われている必要は無いと思いました。
再雇用に応じたものの半年で辞めました。
起業するための準備活動を再雇用になってから始めました。
確定拠出年金に関する仕事をやっていたので、これを仕事にできないものかと考えました。
中立的な立場で情報提供したり、投資教育をするという事の方が事業主さんには受けるのではないかと考えました。
年金がもらえるので大変な決断という訳ではなかった。
最初の一年ぐらいは仕事はほとんどなかったです。
肩書きが無くなった人に対しては世間は冷たいです。
仕事以外の趣味の集まりなどの会合に顔出しているうちに、講師をやって欲しいとの依頼が来るようになりましたが、最初講師料は貰いませんでした。
そうこうしているうちに声がかかってくるようになり、講師料を払ってくれるような処が出てきました。
自分がどんな事ができる人間なのか知ってもらう必要がありました。
そのためには自分の専門分野について本を書けばいいのではないかと思いました。
出版社と交渉して75万円を出して本を書いて、その本を渡して行きました。(名刺代わり)
収入を伴う仕事が出てきました。
2015年ぐらいからぼつぼつ忙しくなりました。
人とのつながり、口コミ、評判とかがが意外と大きいです。
経済コラムニストとしては、人との出会いという事が一番の楽しみです。
地方を重視していて去年140回やりましたが、84回が地方でやりました。
「定活」 「終活」の前にこの「定活」があると思います。
50歳ぐらいから取り組むことによって、60歳以降の定年が豊かになる。
定年までに如何に充実した活動をやって置くかによって、定年後の充実した生活が決まると言い換えてもいいかと思います。
①会社以外の人との付き合いを増やす事がとっても大事だと思います。
②「ねばならない、べき論」とかをあまり気にしないという事。
私の場合は〔自由」がキーワードでした。
夢があってビジネス書は20冊ぐらい書いているが、小説を書いてみたいと思っています。
2019年1月14日月曜日
阿部雅司(リレハンメルオリンピック金メダリストリスト) ・【2020に託すもの】オリンピック金メダリストが選んだ新たな道
阿部雅司(リレハンメルオリンピック金メダリストリスト) ・【2020に託すもの】オリンピック金メダリストが選んだ新たな道
リレハンメルオリンピック、ノルディックスキー複合団体の金メダリストで現在は北海道名寄市の特別参与、スポーツ振興アドバイザーをなさっている阿部さんに伺います。
次に北京に向けてという感じになっています。
1965年8月13日 生れ 北海道留萌郡小平町出身。
東海大学付属第四高等学校卒業後、東京美装興業に入社、その後スキーノルディック複合の選手。
1988年カルガリーオリンピック、1992年アルベールビルオリンピック、1994年リレハンメルオリンピック、に出場して、リレハンメルでは複合団体で金メダルを獲得。
世界選手権でも金メダル2個獲得。
引退後は19年間日本代表のコーチを務める。
現在は北海道名寄市の特別参与に就任し、冬季スポーツの振興を行っている。
ジュニア選手の育成、地方の指導者のかたがたのスキルアップの為の講習会、小学校、中学校の体育の授業での、運動改善プログラムなどでスポーツを好きになってもらいたいと活動したり、ノルディックウオークの普及などを行っています。
名寄市は物凄く寒くて、雪質日本一という事を掲げて、雪に関しては自慢になっています。
スキーが盛んな町です。
冬になると体力が落ちると言う事で、モデルの学校で指導をして、効果があることが判り、広めるような動きになってます。
冬に特化したスポーツセンターが無いので名寄市で展開しようと、11月にフィンランドにシステムを学んだりしに行きました。
その前にも一人で半年間いった時もありました。
フィンランドは日本人に似たような気質の処があります。
スキートンネル 1.2kmのトンネルになっていてマイナス4,5度になっていて、いつでもクロスカントリースキーができる施設です。
ドイツなどにも大きなスキートンネルがありますが、アジア圏には無いので名寄市にも欲しいと思っています。
小学校1年生の時からリフトに乗ってスキーをしていました。
小学校3年生の時にジャンプとかを指導する熱心な先生が来まして、ジャンプをやって見ないかと声をかけてくれました。
先生が役場に掛け合って30m級のジャンプ台が出来ました。
クロスカントリースキーも熱心に指導して、全国大会で上位に入る選手が何人も出ましたが、先生がいなくなってからはそういった選手もいなくなりました。
複合はその先生から勧められてやるようになりました。
先生との出会いが僕の中では大きかったです。
高校3年生の時にはスキーの成績が良くなくて、就職先も無かったが東京美装興業に入社する事が出来ました。
早坂 毅代司(はやさか きよし)さんが引退したばかりで、全日本複合チームのコーチに就任して、複合の強化が始まりました。
3,4年するとワールドカップでも上位に行けるようになりました。
1988年カルガリーオリンピック 個人31位、団体9位。
1992年アルベールビルオリンピック 4年間で大きく状況が変わり結果が出始める。個人30位
団体のメンバーからは外れてしまう。(自分はキャプテンだったのでショックだった)
ふてくされたい気持を封印していたら、周りも理解してくれて頑張ってくれて金メダル
を取ってくれた。 辞めたいと一度は決心していた。
妻が妊娠している事が判って、前向きな気持ちになり、続けることにしました。
1994年リレハンメルオリンピック 子供の写真を貼り付けて試合に臨みました。
個人10位、又補欠かなとよぎったが阿部と呼ばれて安堵。
荻原さん、河野さんは調子が良くて自分としてはプレッシャーがかかったが、開き直っ
った気持ちになり、K点をそれまで越えていなかったが、越える事が出来ました。
ノルウエーとは約5分の差を付ける事が出来ました。
最初1分近く詰められたが、自分にはまだ3分或ると思って、いい滑りができて1分逆
に引き離す事が出来て、荻原さんにタッチして団体金メダルを獲得することができまし
た。
コーチとしては、ルールも変わって大変だったが、渡部選手がようやくクロスカントリーでも負けない選手になって、メダルを取った時には物凄く嬉しかったです。
コーチを辞めた時には会社への恩返しということも考えたが、名寄市から呼びかけがあり妻の後押しもあり行くことに決めました。
講演活動も多くなり子供達に話す機会が多くなりました。
スペシャルオリンピック 知的障害の方がスポーツを通して世の中の人と交わえるようにしたり、スポーツで笑顔を作ると言う事がコンセプトでやっていますが、スポーツって傷害がある人もない人も笑顔になれる活動だと思っています。
リレハンメルオリンピック、ノルディックスキー複合団体の金メダリストで現在は北海道名寄市の特別参与、スポーツ振興アドバイザーをなさっている阿部さんに伺います。
次に北京に向けてという感じになっています。
1965年8月13日 生れ 北海道留萌郡小平町出身。
東海大学付属第四高等学校卒業後、東京美装興業に入社、その後スキーノルディック複合の選手。
1988年カルガリーオリンピック、1992年アルベールビルオリンピック、1994年リレハンメルオリンピック、に出場して、リレハンメルでは複合団体で金メダルを獲得。
世界選手権でも金メダル2個獲得。
引退後は19年間日本代表のコーチを務める。
現在は北海道名寄市の特別参与に就任し、冬季スポーツの振興を行っている。
ジュニア選手の育成、地方の指導者のかたがたのスキルアップの為の講習会、小学校、中学校の体育の授業での、運動改善プログラムなどでスポーツを好きになってもらいたいと活動したり、ノルディックウオークの普及などを行っています。
名寄市は物凄く寒くて、雪質日本一という事を掲げて、雪に関しては自慢になっています。
スキーが盛んな町です。
冬になると体力が落ちると言う事で、モデルの学校で指導をして、効果があることが判り、広めるような動きになってます。
冬に特化したスポーツセンターが無いので名寄市で展開しようと、11月にフィンランドにシステムを学んだりしに行きました。
その前にも一人で半年間いった時もありました。
フィンランドは日本人に似たような気質の処があります。
スキートンネル 1.2kmのトンネルになっていてマイナス4,5度になっていて、いつでもクロスカントリースキーができる施設です。
ドイツなどにも大きなスキートンネルがありますが、アジア圏には無いので名寄市にも欲しいと思っています。
小学校1年生の時からリフトに乗ってスキーをしていました。
小学校3年生の時にジャンプとかを指導する熱心な先生が来まして、ジャンプをやって見ないかと声をかけてくれました。
先生が役場に掛け合って30m級のジャンプ台が出来ました。
クロスカントリースキーも熱心に指導して、全国大会で上位に入る選手が何人も出ましたが、先生がいなくなってからはそういった選手もいなくなりました。
複合はその先生から勧められてやるようになりました。
先生との出会いが僕の中では大きかったです。
高校3年生の時にはスキーの成績が良くなくて、就職先も無かったが東京美装興業に入社する事が出来ました。
早坂 毅代司(はやさか きよし)さんが引退したばかりで、全日本複合チームのコーチに就任して、複合の強化が始まりました。
3,4年するとワールドカップでも上位に行けるようになりました。
1988年カルガリーオリンピック 個人31位、団体9位。
1992年アルベールビルオリンピック 4年間で大きく状況が変わり結果が出始める。個人30位
団体のメンバーからは外れてしまう。(自分はキャプテンだったのでショックだった)
ふてくされたい気持を封印していたら、周りも理解してくれて頑張ってくれて金メダル
を取ってくれた。 辞めたいと一度は決心していた。
妻が妊娠している事が判って、前向きな気持ちになり、続けることにしました。
1994年リレハンメルオリンピック 子供の写真を貼り付けて試合に臨みました。
個人10位、又補欠かなとよぎったが阿部と呼ばれて安堵。
荻原さん、河野さんは調子が良くて自分としてはプレッシャーがかかったが、開き直っ
った気持ちになり、K点をそれまで越えていなかったが、越える事が出来ました。
ノルウエーとは約5分の差を付ける事が出来ました。
最初1分近く詰められたが、自分にはまだ3分或ると思って、いい滑りができて1分逆
に引き離す事が出来て、荻原さんにタッチして団体金メダルを獲得することができまし
た。
コーチとしては、ルールも変わって大変だったが、渡部選手がようやくクロスカントリーでも負けない選手になって、メダルを取った時には物凄く嬉しかったです。
コーチを辞めた時には会社への恩返しということも考えたが、名寄市から呼びかけがあり妻の後押しもあり行くことに決めました。
講演活動も多くなり子供達に話す機会が多くなりました。
スペシャルオリンピック 知的障害の方がスポーツを通して世の中の人と交わえるようにしたり、スポーツで笑顔を作ると言う事がコンセプトでやっていますが、スポーツって傷害がある人もない人も笑顔になれる活動だと思っています。
2019年1月13日日曜日
ファイティング原田(日本プロボクシング協会前会長) ・【特選 スポーツ名場面の裏側で】日本初の二階級制覇
ファイティング原田(日本プロボクシング協会前会長)・【特選 スポーツ名場面の裏側で】日本初の二階級制覇(2009・4.24 OA)
72歳、本名 原田政彦 今から57年前の昭和37年若干19歳で世界フライ級タイトルマッチに初挑戦、原田ラッシュというモノクロのTV中継をかたずを飲んで見詰めた方多かったと思います。
そのフライ級の世界チャンピオンになりますが、防衛戦で敗れその後減量の苦しみもあって一つ重いクラスのバンタム級に転向、この階級でも世界チャンピオンとなって日本史上初めての二階級制覇を果たしました。
歴代もっとも偉大な日本人ボクサーと言われた原田さん、20年以上にわたって日本プロボクシング協会会長を務められ、文部科学大臣によるスポーツ功労章も受賞されたファイティング原田さんに伺いました。
今は世界チャンピオンは女性が3人、男性が6人で9人います。
白井さんが日本人で初めて世界チャンピオンになったのが、昭和27年。
白井さんが敗れて10年間は世界チャンピオンはいませんでした。
昭和37年(40数年前)10月10日 19歳6か月で世界チャンピオンに挑戦。
相手はタイのポーン・キングピッチ選手。
僕は世界ランキングに入っていなかった。
同級1位の矢尾板貞雄が突然引退し、10位にランクされたばかりの僕に挑戦のチャンスが回ってきた。
迎えに行って握手しようとしてもそっぽを向いて、馬鹿にしたような感じを僕は受けました。
試合になってゴングが鳴って、11回に打って打って連打連打で倒して、そうしたのはお前がいけないんだよ、ファイト、ファイトで俺にファイトを沸かしたのがいけないんだよ、と思いました。
それからは外国に行く時には相手を思いやり必ず笑顔で握手をする、そう考えました。
TV中継をしていて、11回の連打でアナウンサーが原田ラッシュ、原田ラッシュと連呼していました。
史上最年少世界フライ級選手という事で新聞の一面を飾りました。
3カ月後バンコクに行ってポーン・キングピッチ選手とリターンマッチをしてきわどい判定で初防衛を失敗する。
会場は物凄い人達で、会場に入ってリングに上がるまで30分近くかかりました、揉まれて揉まれて上がりました。
上がったら疲れていて、セコンド陣がリングの角から降りられないとか、倒しても早くゴングが鳴ったりとか、全然めちゃくちゃでした。
バンタム級に転向して、「ロープ際の魔術師」の異名を持つ強豪、世界バンタム級3位・ジョー・メデル(メキシコ)と対戦するが、6回にKO負けする。
1964年10月29日、東洋王者・青木勝利に3RKO勝ちし、バンタム級世界王座への挑戦権を掴んだ。
世界バンタム級王者・エデル・ジョフレ(ブラジル) 8回防衛に成功し、すべてKOがちだった。
昭和40年5月18日、当時私は22歳でした。
ジョフレ選手は奥さんと子供を連れて来ていたので、試合をしに来たのにそんなことはないと思って自分なりにファイトがわきました。
僕のボクシングは下がったら負けだと思って、前進、前進だと思いました。
今までのボクシングスタイルを捨て、アウトボクシングに出た。
4回でいいパンチが当たっていたが、次の5Rには、ジョフレが強烈な右をヒットし、僕はコーナーを間違えるほどのダメージを負った。
15R迄行って、勝敗の判定は、日本の高田(ジャッジ)が72-70で原田、アメリカのエドソン(ジャッジ)が72-71でジョフレ、そして、アメリカ人バーニー・ロス(レフェリー)が71-69で原田、2-1の判定勝ちで僕は世界王座奪取に成功しました。
フライ級、バンタム級の2階級制覇をする。
翌年2回目の防衛戦でジョフレ選手と再戦をして、前回以上の大差で勝ったが、その時にTVの視聴率は63.7%という数値だった。
4回の防衛に成功して、オーストラリアのライオネル・ローズ選手と対戦、15回判定で敗れて王座を失う。
減量苦との闘いがあり、フェザー級と階級を上げていくことになった。
1969年7月28日、WBC世界フェザー級王者ジョニー・ファメション(オーストラリア)への挑戦が決まった。
この試合で2R、11R、14Rと3度のダウンを奪ってみせる。
判定でジョニー・ファメションの手を上げると、地元の人たちは足をバタバタさせたりして判定に対するブーイングだった。
地元の新聞によると、圧倒的に勝っていたと思うのに結果的に判定で敗れたが、潔く
ファメションの手を上げて祝福したと書いてあった。
結果として、地元判定に泣いた「幻の三階級制覇」だった。
翌年昭和45年に東京でファメション選手に再戦をするが、いい所が無いまま14RでKO負けし、この試合を最後に引退した。
プロ10年間で63試合で56勝7敗、23KO勝ち。
小学校の頃、勉強は大嫌いでしたが学校は大好きでした。
色々いたずらをしたりしていました。
中学卒業後米屋さんに行きました。
ボクシング入門は昭和33年でした。(15歳)
16歳でプロデビューしました。
小学、中学では野球をやっていたが、野球では大成しないと思って、ボクシングを見ていたりしてボクシングかなと思ってボクシングを始めました。
デビュー後26連勝負けなしでした。
ライバルに青木選手、海老原選手がいましたが、3人の中ではドンジリだと思い、彼らよりもとにかく余計に練習することを心がけました。
フライ級限度は50.8kg、普段は65kgで減量に苦しみました。
最期の落とし量なかなか落ちない。
減量の為水を飲まないように水道の元栓を閉めて、トイレに行った時に流す水を飲みたいなと思いした。
食事で腹いっぱい食べるのは、試合後の一日、二日だけです。
寿司、パン、ご飯などは食べません。
笹崎ジムの練習はハードでした。
19歳で世界チャンピオンになり、当時の総理大臣とか色んな方とお会いできたのは、やはり世界チャンピオンになったから、会えない人に会えたのは良かったと思います。
TV等にも出さして頂いたし、世界チャンピオンだという事で若い人達が目指すような、頑張れるように、作っていきたいという気持ちです。
「根性」という言葉は大好きです。
今の時代は食べれないという事はない、昔は終戦直後でそうはいかなかった。
昔はボストンバック一つで一人で来て、郷里には帰れないという思いがありましたが、今はお母さんと一緒にジムにお願いしますと言ってきて、いつでも帰れるような時代です。
そういった中でも頑張れる人はやはり凄いと思います。
努力なくして成長は無いです。
指導のモットーは挨拶と笑顔だと思います。
72歳、本名 原田政彦 今から57年前の昭和37年若干19歳で世界フライ級タイトルマッチに初挑戦、原田ラッシュというモノクロのTV中継をかたずを飲んで見詰めた方多かったと思います。
そのフライ級の世界チャンピオンになりますが、防衛戦で敗れその後減量の苦しみもあって一つ重いクラスのバンタム級に転向、この階級でも世界チャンピオンとなって日本史上初めての二階級制覇を果たしました。
歴代もっとも偉大な日本人ボクサーと言われた原田さん、20年以上にわたって日本プロボクシング協会会長を務められ、文部科学大臣によるスポーツ功労章も受賞されたファイティング原田さんに伺いました。
今は世界チャンピオンは女性が3人、男性が6人で9人います。
白井さんが日本人で初めて世界チャンピオンになったのが、昭和27年。
白井さんが敗れて10年間は世界チャンピオンはいませんでした。
昭和37年(40数年前)10月10日 19歳6か月で世界チャンピオンに挑戦。
相手はタイのポーン・キングピッチ選手。
僕は世界ランキングに入っていなかった。
同級1位の矢尾板貞雄が突然引退し、10位にランクされたばかりの僕に挑戦のチャンスが回ってきた。
迎えに行って握手しようとしてもそっぽを向いて、馬鹿にしたような感じを僕は受けました。
試合になってゴングが鳴って、11回に打って打って連打連打で倒して、そうしたのはお前がいけないんだよ、ファイト、ファイトで俺にファイトを沸かしたのがいけないんだよ、と思いました。
それからは外国に行く時には相手を思いやり必ず笑顔で握手をする、そう考えました。
TV中継をしていて、11回の連打でアナウンサーが原田ラッシュ、原田ラッシュと連呼していました。
史上最年少世界フライ級選手という事で新聞の一面を飾りました。
3カ月後バンコクに行ってポーン・キングピッチ選手とリターンマッチをしてきわどい判定で初防衛を失敗する。
会場は物凄い人達で、会場に入ってリングに上がるまで30分近くかかりました、揉まれて揉まれて上がりました。
上がったら疲れていて、セコンド陣がリングの角から降りられないとか、倒しても早くゴングが鳴ったりとか、全然めちゃくちゃでした。
バンタム級に転向して、「ロープ際の魔術師」の異名を持つ強豪、世界バンタム級3位・ジョー・メデル(メキシコ)と対戦するが、6回にKO負けする。
1964年10月29日、東洋王者・青木勝利に3RKO勝ちし、バンタム級世界王座への挑戦権を掴んだ。
世界バンタム級王者・エデル・ジョフレ(ブラジル) 8回防衛に成功し、すべてKOがちだった。
昭和40年5月18日、当時私は22歳でした。
ジョフレ選手は奥さんと子供を連れて来ていたので、試合をしに来たのにそんなことはないと思って自分なりにファイトがわきました。
僕のボクシングは下がったら負けだと思って、前進、前進だと思いました。
今までのボクシングスタイルを捨て、アウトボクシングに出た。
4回でいいパンチが当たっていたが、次の5Rには、ジョフレが強烈な右をヒットし、僕はコーナーを間違えるほどのダメージを負った。
15R迄行って、勝敗の判定は、日本の高田(ジャッジ)が72-70で原田、アメリカのエドソン(ジャッジ)が72-71でジョフレ、そして、アメリカ人バーニー・ロス(レフェリー)が71-69で原田、2-1の判定勝ちで僕は世界王座奪取に成功しました。
フライ級、バンタム級の2階級制覇をする。
翌年2回目の防衛戦でジョフレ選手と再戦をして、前回以上の大差で勝ったが、その時にTVの視聴率は63.7%という数値だった。
4回の防衛に成功して、オーストラリアのライオネル・ローズ選手と対戦、15回判定で敗れて王座を失う。
減量苦との闘いがあり、フェザー級と階級を上げていくことになった。
1969年7月28日、WBC世界フェザー級王者ジョニー・ファメション(オーストラリア)への挑戦が決まった。
この試合で2R、11R、14Rと3度のダウンを奪ってみせる。
判定でジョニー・ファメションの手を上げると、地元の人たちは足をバタバタさせたりして判定に対するブーイングだった。
地元の新聞によると、圧倒的に勝っていたと思うのに結果的に判定で敗れたが、潔く
ファメションの手を上げて祝福したと書いてあった。
結果として、地元判定に泣いた「幻の三階級制覇」だった。
翌年昭和45年に東京でファメション選手に再戦をするが、いい所が無いまま14RでKO負けし、この試合を最後に引退した。
プロ10年間で63試合で56勝7敗、23KO勝ち。
小学校の頃、勉強は大嫌いでしたが学校は大好きでした。
色々いたずらをしたりしていました。
中学卒業後米屋さんに行きました。
ボクシング入門は昭和33年でした。(15歳)
16歳でプロデビューしました。
小学、中学では野球をやっていたが、野球では大成しないと思って、ボクシングを見ていたりしてボクシングかなと思ってボクシングを始めました。
デビュー後26連勝負けなしでした。
ライバルに青木選手、海老原選手がいましたが、3人の中ではドンジリだと思い、彼らよりもとにかく余計に練習することを心がけました。
フライ級限度は50.8kg、普段は65kgで減量に苦しみました。
最期の落とし量なかなか落ちない。
減量の為水を飲まないように水道の元栓を閉めて、トイレに行った時に流す水を飲みたいなと思いした。
食事で腹いっぱい食べるのは、試合後の一日、二日だけです。
寿司、パン、ご飯などは食べません。
笹崎ジムの練習はハードでした。
19歳で世界チャンピオンになり、当時の総理大臣とか色んな方とお会いできたのは、やはり世界チャンピオンになったから、会えない人に会えたのは良かったと思います。
TV等にも出さして頂いたし、世界チャンピオンだという事で若い人達が目指すような、頑張れるように、作っていきたいという気持ちです。
「根性」という言葉は大好きです。
今の時代は食べれないという事はない、昔は終戦直後でそうはいかなかった。
昔はボストンバック一つで一人で来て、郷里には帰れないという思いがありましたが、今はお母さんと一緒にジムにお願いしますと言ってきて、いつでも帰れるような時代です。
そういった中でも頑張れる人はやはり凄いと思います。
努力なくして成長は無いです。
指導のモットーは挨拶と笑顔だと思います。
2019年1月12日土曜日
室﨑益輝(防災学者) ・心をつないで命を守る(2016・1・30 OA)
室﨑益輝(防災学者) ・心をつないで命を守る(2016・1・30 OA)
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2016/01/blog-post_30.htmlをご覧ください。
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2016/01/blog-post_30.htmlをご覧ください。
2019年1月11日金曜日
辻惟雄(美術史家) ・日本美術の再発見
辻惟雄(美術史家) ・日本美術の再発見
名古屋市出身、86歳、長年日本の美術史の研究に携わり、現在の伊藤若冲を初めとする、江戸絵画ブームの礎を築いた方です。
1970年に発表した著書「奇想の系譜」がその第一歩でした。
取り上げたのは浮世絵の祖と言われた岩佐又兵衛、狩野山雪、歌川国芳、他の作品と伝記。
江戸画家の中に西洋のダリやピカソンにも通じるモダンやアバンギャルドを発見しました。
一方で正統的な狩野派研究も手掛けています。
その後も「遊び」、「飾り」、「アニミズム」とキーワードを見付け、日本美術の特質を論じました。
その功績に対して2016年に文化功労章、去年秋の叙勲で瑞宝重光章受章されています。
父は医者で私達は3人兄弟した。
兄が継ぐ予定でしたが、継ぐのを断って上京して早稲田大学に行って、富士フィルムの社員になってしまいました。
私が医者になることを期待されて、その気になっていたが数学が苦手でした。
中学で美術部に入っていてスケッチを先生から褒められたりしました。
高校2年の時に友人から日比谷高校の編入試験を受けたいので一緒にどうかとの話があり、父に相談したら許してくれて、編入試験に合格して日比谷高校に行くことになり、1年後に東大に合格して私は理科二類、医者の卵としてスタートしました。
入学した年の夏休み明けに発疹チフスにかかってしまって、高熱のせいか精神錯乱状態になってしまって、その後熱が冷めて郷里に帰ったが、又症状が再発して名古屋大学精神科に入ってインシュリンショック療法という手荒な治療を受けてやっと治りました。
又上京しましたがショック療法のせいか、数学、理科が頭から完全に消えてしまっていて留年になり、もう一年留年して4年かかって教養学部を終えました。
医者になる為にはもう一回医学部に試験を受けなくてはならないので、父親は何処でも好きなところへ行けと言われました。
文学部に美術史学科があることを知り、そこに進学をして日本美術史を専攻することになりました。
山根先生との出会いがあり、講義を受けている中で岩佐又兵衛について話された事があり、まともな絵と生々しい絵巻物があって、それが岩佐又兵衛が書いたものかどうかの議論が第二次世界大戦の前にあって、中断して今日に至ったという話い興味を持って、それに関する卒業論文を書きました。
当時は就職難で大学院に進学しましたが、日本美術史はついに先生一人に生徒は私が一人ということになってしまいました。
修士論文では岩佐又兵衛をやってみないかという事で、熱海の美術館(今のMOA)に行って、山中常盤、浄瑠璃絵巻、堀江物語絵巻、3つ併せると400m位になる膨大なものですが、それを35mmカメラで3日がかりで全部撮ってきました。
それを基に修士論文を書きました。
全部岩佐又兵衛のものと考えていたが、米澤 嘉圃(よねざわ よしほ)先生にその写真を見せたら、これは線がみんな全然違う、これは一人が書いたものとは思えないといわれてしまい、根底がくつがえられてしまいました。
論文はもう一年かかるねと言われて、これ以上留年は出来ないと思って、線の違いを見極めようと頑張って或る程度は判ったが、一人の画家の書いた年代の違いという事で強引に押し切るような論文を書いたのですが、なんとか合格になりました。
線の柔らかさ、硬さなど、それから線の質の違いを見分ける目を養おうと思いました。
その後美術史学会で報告した時には考えを変えて、岩佐又兵衛という画家の監督する工房があって、その工房の弟子何人かが共同して製作したものだという処に行ったわけです。
中身のあいまいな発表になりました。
その後文化財研究所に就職しました。
矢代幸雄さんが所長になって、東洋、中国、日本、韓国の美術作品のデータをすべて集めると言う壮大な計画をたてましたが、壮大過ぎて頓挫した状態だった。
渡辺一(わたなべはじめ)さんという研究所員がいまして、室町時代の水墨画の画家の資料を集めるという事に目をつけました。
ビルマで戦死してしまったが、狩野元信の資料がずいぶんあったが、出版目前で中断していましたが、それをなんとか完成させたいと言うのが私の研究所での中心の仕事でした。
33,4歳の時に若冲に興味をもったのは、とり年で干支にちなんで鳥を集めた展覧会がありました。
『仙人掌群鶏図(さぼてんぐんけいず)』若冲の襖絵が展示されたが、見逃してしまいましたが、杉全直という画家シュルレアリスムをやっている現代画家、その人がどう思っているかが印象的でした。
シュルレアリスムの画家を惹きつける要素が若冲にあると言う事でした。
ジョー・プライスさんは日本美術を扱っている画商の処にフランク・ロイドに連れられていって、凄い絵があると言う事でそれに魅せられて買ったんですが、後になって伊藤若冲の作品だということがわかって、それ以来若冲の熱狂的なファンになって、日本に来て若冲の絵をあさるようになりました。
「動植綵絵」は、若冲が相国寺に寄進したものであるが、相国寺で廃仏毀釈の折に財政的にピンチになって、明治天皇から御下賜という形で1万円が贈られて、返礼として若冲の「動植綵絵」が宮内庁に献納された。
1970年 著書「奇想の系譜」は書評では好評だったが売れ行きはパッとしなかった。
2000年になって「奇想の系譜」で取り上げた伊藤若冲の展覧会があり、当初はがらがらだったが、後半になって記録的な入場者になりました。
インターネットのやり取りなどで広められた現象だったと解釈されましたが、それが現在の若冲ブームの発端でした。
「奇想の系譜」の文庫本を出したいとの話があり、それが大変売れました。
その後東北大学で美術史を教えていました。
日本の文化の特色として「遊び」というものがあると説いていて、「遊び」というものをキーワードにして、日本美術を見て行くと実に面白い、鳥獣戯画等は典型的です。
「飾り」という言葉に移りますが、それは東北大から東大に来て50代のことですが、NHKのある展覧会で、服部幸雄さんという民俗学者がいて、日本文化には飾る文化と飾らない文化があって、それがお互いに絡み合いながら発展してきたのが、日本文化だという事を書いていました。
装飾的な日本の美術品を「飾り」という名前で、くくって集めればいいという事で手当たり次第に集めたら、実に面白い展覧会になって超満員になりました。
それから「飾り」という展覧会を日本だけではなくて、アメリカ、イギリスでもやりました。
「飾り」というのは美術だけではなくて、日本の生活文化というものを象徴するような言葉として、非常に重要な言葉と思います。
その後、国際日本文化研究センターでは当時梅原猛先生が所長をやってっていましたが、そこに行く事になりました。。
「アニミズム」という言葉、日本の神道がアニミズムそのものであると、アニミズムというものは宗教の一番素朴な発生したばかりの原始的な宗教で、宗教は段々アニミズムから脱して、進歩していったと、多神教から一神教に行ったと、それがキリスト教であり、というふうに、アニミズムという概念を見つけながら、それをかなり原始的な宗教というふうにして考えて行ったんですね。
アニミズムを簡単に説明するならば、人間だけで無く、動物だけで無く、生命を持たないと思われている石、水、そういう様なものにさえ霊が宿っているんだと言う、そういう発想で非常に興味を持ちました。
日本の美術の中にアニミズムというものが、どういう具合にあるかという事を調べたらあるわあるわ、ほとんど例外なしにアニミズムという様相を持っているんです。
特に伊藤若冲などはアニミズムの要素がふんだんにあります。
曽我蕭白、歌川国芳もそうだと言うことになってくるわけです。
著書「奇想の系譜」の中の画家たちのなかには、「遊び」、「飾り」、「アニミズム」
日本の美術を特徴づける要素が、一杯詰まってると言うことになってきたわけです。
狩野元信、日本の美術の中には狩野元信みたいに日本の美術の型を作る人がいて、そういう人も無視できないと思っています。
両方の関係性をもうちょっと見極める必要があると思います。
美術品を裸のものとガラスを通してみるのとでは当然違うし、裸のものでも光線が人工的なものか、自然の光線かによっても違いますし、光線の角度なども関係してくるし、若い頃の眼と歳をとった眼でも違う。
感じ取るデリケートな作品の表情を見分ける力は、昔よりいまの自分の方が付いてきているんじゃないかと思います。(長く続かないが)
昔気付かなかった良さが、フッと判ったりします。
美術史家、過去に描かれた絵について、観る人の眼によって認められて初めてそれが作品になるんだと、それをするのが重要な美術史家の重要な仕事ではないかと思うようになってきました。
名古屋市出身、86歳、長年日本の美術史の研究に携わり、現在の伊藤若冲を初めとする、江戸絵画ブームの礎を築いた方です。
1970年に発表した著書「奇想の系譜」がその第一歩でした。
取り上げたのは浮世絵の祖と言われた岩佐又兵衛、狩野山雪、歌川国芳、他の作品と伝記。
江戸画家の中に西洋のダリやピカソンにも通じるモダンやアバンギャルドを発見しました。
一方で正統的な狩野派研究も手掛けています。
その後も「遊び」、「飾り」、「アニミズム」とキーワードを見付け、日本美術の特質を論じました。
その功績に対して2016年に文化功労章、去年秋の叙勲で瑞宝重光章受章されています。
父は医者で私達は3人兄弟した。
兄が継ぐ予定でしたが、継ぐのを断って上京して早稲田大学に行って、富士フィルムの社員になってしまいました。
私が医者になることを期待されて、その気になっていたが数学が苦手でした。
中学で美術部に入っていてスケッチを先生から褒められたりしました。
高校2年の時に友人から日比谷高校の編入試験を受けたいので一緒にどうかとの話があり、父に相談したら許してくれて、編入試験に合格して日比谷高校に行くことになり、1年後に東大に合格して私は理科二類、医者の卵としてスタートしました。
入学した年の夏休み明けに発疹チフスにかかってしまって、高熱のせいか精神錯乱状態になってしまって、その後熱が冷めて郷里に帰ったが、又症状が再発して名古屋大学精神科に入ってインシュリンショック療法という手荒な治療を受けてやっと治りました。
又上京しましたがショック療法のせいか、数学、理科が頭から完全に消えてしまっていて留年になり、もう一年留年して4年かかって教養学部を終えました。
医者になる為にはもう一回医学部に試験を受けなくてはならないので、父親は何処でも好きなところへ行けと言われました。
文学部に美術史学科があることを知り、そこに進学をして日本美術史を専攻することになりました。
山根先生との出会いがあり、講義を受けている中で岩佐又兵衛について話された事があり、まともな絵と生々しい絵巻物があって、それが岩佐又兵衛が書いたものかどうかの議論が第二次世界大戦の前にあって、中断して今日に至ったという話い興味を持って、それに関する卒業論文を書きました。
当時は就職難で大学院に進学しましたが、日本美術史はついに先生一人に生徒は私が一人ということになってしまいました。
修士論文では岩佐又兵衛をやってみないかという事で、熱海の美術館(今のMOA)に行って、山中常盤、浄瑠璃絵巻、堀江物語絵巻、3つ併せると400m位になる膨大なものですが、それを35mmカメラで3日がかりで全部撮ってきました。
それを基に修士論文を書きました。
全部岩佐又兵衛のものと考えていたが、米澤 嘉圃(よねざわ よしほ)先生にその写真を見せたら、これは線がみんな全然違う、これは一人が書いたものとは思えないといわれてしまい、根底がくつがえられてしまいました。
論文はもう一年かかるねと言われて、これ以上留年は出来ないと思って、線の違いを見極めようと頑張って或る程度は判ったが、一人の画家の書いた年代の違いという事で強引に押し切るような論文を書いたのですが、なんとか合格になりました。
線の柔らかさ、硬さなど、それから線の質の違いを見分ける目を養おうと思いました。
その後美術史学会で報告した時には考えを変えて、岩佐又兵衛という画家の監督する工房があって、その工房の弟子何人かが共同して製作したものだという処に行ったわけです。
中身のあいまいな発表になりました。
その後文化財研究所に就職しました。
矢代幸雄さんが所長になって、東洋、中国、日本、韓国の美術作品のデータをすべて集めると言う壮大な計画をたてましたが、壮大過ぎて頓挫した状態だった。
渡辺一(わたなべはじめ)さんという研究所員がいまして、室町時代の水墨画の画家の資料を集めるという事に目をつけました。
ビルマで戦死してしまったが、狩野元信の資料がずいぶんあったが、出版目前で中断していましたが、それをなんとか完成させたいと言うのが私の研究所での中心の仕事でした。
33,4歳の時に若冲に興味をもったのは、とり年で干支にちなんで鳥を集めた展覧会がありました。
『仙人掌群鶏図(さぼてんぐんけいず)』若冲の襖絵が展示されたが、見逃してしまいましたが、杉全直という画家シュルレアリスムをやっている現代画家、その人がどう思っているかが印象的でした。
シュルレアリスムの画家を惹きつける要素が若冲にあると言う事でした。
ジョー・プライスさんは日本美術を扱っている画商の処にフランク・ロイドに連れられていって、凄い絵があると言う事でそれに魅せられて買ったんですが、後になって伊藤若冲の作品だということがわかって、それ以来若冲の熱狂的なファンになって、日本に来て若冲の絵をあさるようになりました。
「動植綵絵」は、若冲が相国寺に寄進したものであるが、相国寺で廃仏毀釈の折に財政的にピンチになって、明治天皇から御下賜という形で1万円が贈られて、返礼として若冲の「動植綵絵」が宮内庁に献納された。
1970年 著書「奇想の系譜」は書評では好評だったが売れ行きはパッとしなかった。
2000年になって「奇想の系譜」で取り上げた伊藤若冲の展覧会があり、当初はがらがらだったが、後半になって記録的な入場者になりました。
インターネットのやり取りなどで広められた現象だったと解釈されましたが、それが現在の若冲ブームの発端でした。
「奇想の系譜」の文庫本を出したいとの話があり、それが大変売れました。
その後東北大学で美術史を教えていました。
日本の文化の特色として「遊び」というものがあると説いていて、「遊び」というものをキーワードにして、日本美術を見て行くと実に面白い、鳥獣戯画等は典型的です。
「飾り」という言葉に移りますが、それは東北大から東大に来て50代のことですが、NHKのある展覧会で、服部幸雄さんという民俗学者がいて、日本文化には飾る文化と飾らない文化があって、それがお互いに絡み合いながら発展してきたのが、日本文化だという事を書いていました。
装飾的な日本の美術品を「飾り」という名前で、くくって集めればいいという事で手当たり次第に集めたら、実に面白い展覧会になって超満員になりました。
それから「飾り」という展覧会を日本だけではなくて、アメリカ、イギリスでもやりました。
「飾り」というのは美術だけではなくて、日本の生活文化というものを象徴するような言葉として、非常に重要な言葉と思います。
その後、国際日本文化研究センターでは当時梅原猛先生が所長をやってっていましたが、そこに行く事になりました。。
「アニミズム」という言葉、日本の神道がアニミズムそのものであると、アニミズムというものは宗教の一番素朴な発生したばかりの原始的な宗教で、宗教は段々アニミズムから脱して、進歩していったと、多神教から一神教に行ったと、それがキリスト教であり、というふうに、アニミズムという概念を見つけながら、それをかなり原始的な宗教というふうにして考えて行ったんですね。
アニミズムを簡単に説明するならば、人間だけで無く、動物だけで無く、生命を持たないと思われている石、水、そういう様なものにさえ霊が宿っているんだと言う、そういう発想で非常に興味を持ちました。
日本の美術の中にアニミズムというものが、どういう具合にあるかという事を調べたらあるわあるわ、ほとんど例外なしにアニミズムという様相を持っているんです。
特に伊藤若冲などはアニミズムの要素がふんだんにあります。
曽我蕭白、歌川国芳もそうだと言うことになってくるわけです。
著書「奇想の系譜」の中の画家たちのなかには、「遊び」、「飾り」、「アニミズム」
日本の美術を特徴づける要素が、一杯詰まってると言うことになってきたわけです。
狩野元信、日本の美術の中には狩野元信みたいに日本の美術の型を作る人がいて、そういう人も無視できないと思っています。
両方の関係性をもうちょっと見極める必要があると思います。
美術品を裸のものとガラスを通してみるのとでは当然違うし、裸のものでも光線が人工的なものか、自然の光線かによっても違いますし、光線の角度なども関係してくるし、若い頃の眼と歳をとった眼でも違う。
感じ取るデリケートな作品の表情を見分ける力は、昔よりいまの自分の方が付いてきているんじゃないかと思います。(長く続かないが)
昔気付かなかった良さが、フッと判ったりします。
美術史家、過去に描かれた絵について、観る人の眼によって認められて初めてそれが作品になるんだと、それをするのが重要な美術史家の重要な仕事ではないかと思うようになってきました。
2019年1月10日木曜日
眞野豊(広島修道大学非常勤講師) ・"人づくり"で目指すLGBT差別根絶
眞野豊(広島修道大学非常勤講師) ・"人づくり"で目指すLGBT差別根絶
当人もLGBTの当事者です。
大学を卒業後大学院に進み、同性愛を専門的に研究するゲイスタディーズを専攻、その後中学校の教員として 6年間ゲイであることをカミングアウトしながら教壇に立ち続けました。
教室から差別をなくしたいと、マイノリティーへの理解を深める授業なども数多く行いました。
そして再び大学院で研究を続け、去年の春からは大学で教員志望の学生達に性の多様性を伝える講義を行っています。
LGBTへの差別が注目される中、教育を通して差別根絶に挑む眞野さんの取り組みと思いを伺いました。
性の多様性についてあまり知らないし、むしろ悪いイメージを持っている学生さんが多いと思います。
学校の教育現場については性の多様性、LGBTについて自治体レベルでは研修は盛んにおこなわれているが、全ての教員が研修に参加出来ている訳でもないので、教員になる前にこうしたことを学ばずに、教員になっている方がほとんどなので、理解を示さないという事は現場でも今現在あると思います。
性の多様性について知らずに自分は男らしくないとか、女らしくないとか、同性を好きになってしまうだとか、そうしたことで自分は異常だと思いこんでしまって、自己肯定感が低くなってしまったり、将来自分はどう生きて行ったらいいのか、将来の自分を描きにくい状況もあると思います。
自分では小学校上がる前、女の子と遊んでいるのが楽しかったです。
小学校では女の子と遊んでいると先生が色々言ってきました。
「俺」という表現に抵抗がありました。
小学校5年生の時に性的な面で発達してくると、僕は性的に同性に惹かれているという事を自覚しました。
凄い不安に襲われたのは覚えています。
自分も否定してきたオカマ、ホモという存在が、まさにそうだと気付いて生きていられないと思いました。
TV等では笑いの対象でしかなくて、笑いの対象でしかないのかという狭いイメージしか無くて不安でしょうがなかったです。
性的マイノリティーを理解する人は、見た事も無かったので誰にも言えないと思いました。
中学校でしぐさ、言動が女性っぽかったらしくて、変だと言う事でいろいろいじめがありました。
ストレスから来たのか、平衡感覚が無かったようで床が斜めに成って感じました。
女っぽい言葉づかいと言う事で、ある時期から教室で一切喋らなくなりました。
小学校、中学校、高校と本当に苦しんで、苦しんだからこそ学校を変えたいと思いました。
最短のルートが教師になることかなと思いました。
教育大学の3年生の時に産婦人科の先生が、異常性欲の一つとして同性愛を説明したが、周りの学生がどっと笑って教室が笑いに包まれました。
又学生さんたちが教壇にたったら、またあの差別が広がるだけで悔しい思いと、なんとかしないといけないと深刻に感じました。
ゲイスタディーズという差別と闘う学問があると言う事を知って、広島に学べる大学があると言う事で、北海道から広島に行ったのが今から12年前です。
ゲイスタディーズ、黒人の公民権運動とかが盛んになってきたころ、性的マイノリティー、レズビアン、ゲイの差別に波及して言ってそこから生まれた学問だと言われています。
ゲイスタディーズを学んだことにより、差別に対抗できる知識、言葉を身につけたことです。
子供達、同僚の人にも同性が好きですと言う事を隠さずに働こうと決めました。
トランスジェンダーの子に出会って、或る時相談を受けました。
その子(Aさん)は身体的には女の子で、俺と言ったりボーイッシュな髪の形をして、壮絶ないじめを経験して、中学校でも辛い思いをして転校した子でした。
レズビアンの友達ができたが、中学1年の時にその子が自殺してしまって、教室に入れなくなって、転校してからも教室には入れずに、適応指導室に入ってる状況でした。
Aさんは中学3年の時に私に打ち開けて来ました。
学校に来ることがただ辛いというような表情をしていました。
なんとかしてあげたいと思い、自分の経験の話をしてあげました。
本の貸し出しもしました。(経験の共有)
拒絶をしていた教室へも徐々に入る様になりました。
或る日、Aさんはいきなり怒りだして手がつけられない状況になり早退してしまいました。
次の日に何があったのかを聞いたら、男子の一部がゲイという言葉をつかって馬鹿にし合っていた、からかいあっていたようなんです。
Aさんからしてみると自分を馬鹿にしているように聞こえといっていました。
中学1年の時に友達を亡くしているので、性的マイノリティーを揶揄する言葉には敏感に怒ったと思うんです。
Aさんに対する支援はしっかりできていると思っていたが、Aさんが教室に入った時にまた差別にあっている。
当事者だけ支援しているだけでは、問題が解決しないという事がこの出来事で判って、そこから周りの生徒への指導が必要だと言う事が判りました。
差別は何故起こるかというと、差別される人がいるからではなくて、差別をする人がいるからです。
性は人権なのだと言う事をしっかり伝える必要があると思って、その後授業研究という方向に移動していきました。
性的マイノリティーの差別を道徳でやりたいと提案したこともありましたが、却下されたりしました。
同性愛者の書いた作文を使って授業すると言う事を提案しました。
当事者の気持ちを一緒に考えてゆくストーリーで授業をしました。
ホモ、オカマ等否定的な意味で、からかいをしてきたけれど、こうした言葉が人を傷つけることを初めて知りました、今後は使わないようにしますとか、そういった学生さんがいました。
そういったことを重ねているうちに、人権教育の先生にも情報が言って、研修会でも講演をさせてもらったりしました。
現場だけでやるのは現場しか変えられないので、僕だけでは限界があるので、教員の養成段階でしっかり知識を伝えて行くことが、差別をなくして行くために必要なんだと思って決断しました。
性的マイノリティーの置かれる状況などを学生に提示して、セクシャリティー、性的嗜好なども人権なのだと言う事を学生にも定着させたいと思いました。
学生たちの見方も段々変わって行きました。
福岡県の糸島市の中学校での「人権教育の手引き」84ページの本のアドバイザーとしてかかわりました。
市島市の全教員の手元にあり、この手引きを使った授業が市島市の全ての学校で行われます。
教育は次の世代の社会を作り上げて行く、そういう力がある。
一人一人のセクシャリティーが人権として認められて、一人一人が自分が思い描く人生を歩んで、幸福な人生を歩める社会が、僕の思い描く未来ですかね。
当人もLGBTの当事者です。
大学を卒業後大学院に進み、同性愛を専門的に研究するゲイスタディーズを専攻、その後中学校の教員として 6年間ゲイであることをカミングアウトしながら教壇に立ち続けました。
教室から差別をなくしたいと、マイノリティーへの理解を深める授業なども数多く行いました。
そして再び大学院で研究を続け、去年の春からは大学で教員志望の学生達に性の多様性を伝える講義を行っています。
LGBTへの差別が注目される中、教育を通して差別根絶に挑む眞野さんの取り組みと思いを伺いました。
性の多様性についてあまり知らないし、むしろ悪いイメージを持っている学生さんが多いと思います。
学校の教育現場については性の多様性、LGBTについて自治体レベルでは研修は盛んにおこなわれているが、全ての教員が研修に参加出来ている訳でもないので、教員になる前にこうしたことを学ばずに、教員になっている方がほとんどなので、理解を示さないという事は現場でも今現在あると思います。
性の多様性について知らずに自分は男らしくないとか、女らしくないとか、同性を好きになってしまうだとか、そうしたことで自分は異常だと思いこんでしまって、自己肯定感が低くなってしまったり、将来自分はどう生きて行ったらいいのか、将来の自分を描きにくい状況もあると思います。
自分では小学校上がる前、女の子と遊んでいるのが楽しかったです。
小学校では女の子と遊んでいると先生が色々言ってきました。
「俺」という表現に抵抗がありました。
小学校5年生の時に性的な面で発達してくると、僕は性的に同性に惹かれているという事を自覚しました。
凄い不安に襲われたのは覚えています。
自分も否定してきたオカマ、ホモという存在が、まさにそうだと気付いて生きていられないと思いました。
TV等では笑いの対象でしかなくて、笑いの対象でしかないのかという狭いイメージしか無くて不安でしょうがなかったです。
性的マイノリティーを理解する人は、見た事も無かったので誰にも言えないと思いました。
中学校でしぐさ、言動が女性っぽかったらしくて、変だと言う事でいろいろいじめがありました。
ストレスから来たのか、平衡感覚が無かったようで床が斜めに成って感じました。
女っぽい言葉づかいと言う事で、ある時期から教室で一切喋らなくなりました。
小学校、中学校、高校と本当に苦しんで、苦しんだからこそ学校を変えたいと思いました。
最短のルートが教師になることかなと思いました。
教育大学の3年生の時に産婦人科の先生が、異常性欲の一つとして同性愛を説明したが、周りの学生がどっと笑って教室が笑いに包まれました。
又学生さんたちが教壇にたったら、またあの差別が広がるだけで悔しい思いと、なんとかしないといけないと深刻に感じました。
ゲイスタディーズという差別と闘う学問があると言う事を知って、広島に学べる大学があると言う事で、北海道から広島に行ったのが今から12年前です。
ゲイスタディーズ、黒人の公民権運動とかが盛んになってきたころ、性的マイノリティー、レズビアン、ゲイの差別に波及して言ってそこから生まれた学問だと言われています。
ゲイスタディーズを学んだことにより、差別に対抗できる知識、言葉を身につけたことです。
子供達、同僚の人にも同性が好きですと言う事を隠さずに働こうと決めました。
トランスジェンダーの子に出会って、或る時相談を受けました。
その子(Aさん)は身体的には女の子で、俺と言ったりボーイッシュな髪の形をして、壮絶ないじめを経験して、中学校でも辛い思いをして転校した子でした。
レズビアンの友達ができたが、中学1年の時にその子が自殺してしまって、教室に入れなくなって、転校してからも教室には入れずに、適応指導室に入ってる状況でした。
Aさんは中学3年の時に私に打ち開けて来ました。
学校に来ることがただ辛いというような表情をしていました。
なんとかしてあげたいと思い、自分の経験の話をしてあげました。
本の貸し出しもしました。(経験の共有)
拒絶をしていた教室へも徐々に入る様になりました。
或る日、Aさんはいきなり怒りだして手がつけられない状況になり早退してしまいました。
次の日に何があったのかを聞いたら、男子の一部がゲイという言葉をつかって馬鹿にし合っていた、からかいあっていたようなんです。
Aさんからしてみると自分を馬鹿にしているように聞こえといっていました。
中学1年の時に友達を亡くしているので、性的マイノリティーを揶揄する言葉には敏感に怒ったと思うんです。
Aさんに対する支援はしっかりできていると思っていたが、Aさんが教室に入った時にまた差別にあっている。
当事者だけ支援しているだけでは、問題が解決しないという事がこの出来事で判って、そこから周りの生徒への指導が必要だと言う事が判りました。
差別は何故起こるかというと、差別される人がいるからではなくて、差別をする人がいるからです。
性は人権なのだと言う事をしっかり伝える必要があると思って、その後授業研究という方向に移動していきました。
性的マイノリティーの差別を道徳でやりたいと提案したこともありましたが、却下されたりしました。
同性愛者の書いた作文を使って授業すると言う事を提案しました。
当事者の気持ちを一緒に考えてゆくストーリーで授業をしました。
ホモ、オカマ等否定的な意味で、からかいをしてきたけれど、こうした言葉が人を傷つけることを初めて知りました、今後は使わないようにしますとか、そういった学生さんがいました。
そういったことを重ねているうちに、人権教育の先生にも情報が言って、研修会でも講演をさせてもらったりしました。
現場だけでやるのは現場しか変えられないので、僕だけでは限界があるので、教員の養成段階でしっかり知識を伝えて行くことが、差別をなくして行くために必要なんだと思って決断しました。
性的マイノリティーの置かれる状況などを学生に提示して、セクシャリティー、性的嗜好なども人権なのだと言う事を学生にも定着させたいと思いました。
学生たちの見方も段々変わって行きました。
福岡県の糸島市の中学校での「人権教育の手引き」84ページの本のアドバイザーとしてかかわりました。
市島市の全教員の手元にあり、この手引きを使った授業が市島市の全ての学校で行われます。
教育は次の世代の社会を作り上げて行く、そういう力がある。
一人一人のセクシャリティーが人権として認められて、一人一人が自分が思い描く人生を歩んで、幸福な人生を歩める社会が、僕の思い描く未来ですかね。
2019年1月9日水曜日
真壁伍郎(新潟いのちの電話元理事) ・いのちに寄り添う
真壁伍郎(新潟いのちの電話元理事、新潟大学名誉教授) ・いのちに寄り添う
新潟県の自殺者が余りにも多いことから、孤独や不安に悩む人の電話相談事業「いのちの電話」を日本で初めて始められたドイツ人宣教師ルツ・ヘットカンプ女史らとの繋がりの中で、「新潟いのちの電話」を立ち上げて苦しみ、悩みながら電話をかけてくる人達と向き合ってきました。
又自宅の一室を開放して野の花文庫という家庭文庫を開いて、子供たちや若者たちとの読書会等も長年継続して開いてきました。
真壁さんは読書会やいのちの電話の活動で、周囲の人達に手を差しのべながら、私達は支え合って、みんなで生きて行こうと呼びかけてこられました。
最近は真壁さんがヘッドカンプさんに頼まれて翻訳したドイツ語の本「わたしはよろこんで歳をとりたい」が老いを生きる心持を深く伝えて静かな共感を呼んでいます。
あわただしく時間をこなしていないと、自分の存在も危うくなるかの様な今の時代ですが、人と人が肉声で答えあい、息使いを感じながら時を共有し、そばにいるこのことの大切さを真壁さんは伝えたいと言います。
「わたしはよろこんで歳をとりたい」ドイツのイェルク・ツィンクさんの著書。
それを翻訳したのが真壁さんです。
心の安らぐ本になっている。
日本でいのちの電話を始めてくださったルツ・ヘットカンプさんという女性の宣教師さんがいて、その方が一昨年に電話下さいまして、私に訳して欲しいという電話でした。
日本では歳を取っても頑張れ頑張れで、歳を取ったらもう頑張らなくてもいいという事をこの本から知ってほしいということでした。
ドイツから本が送られてきて、見て身につまされる事がいっぱいありました。
日本の言葉で自分なりの表現したいと思いました。(翻訳ではなくて)
訳してプリントアウトして送ったら反響が大きかったです。
コピーして色々な人に配りたいと言う事でジワジワと広まっていきました。
絵本のような感じです。
すべての人に一緒に生きて行く喜びを伝えたいと言うのが、イェルク・ツィンクの基本的な考え方なんですね。
平易な言葉で語りながら、老いとは何かなどを語りかけている。
版を重ね、ありのままの自分を生きて行っていいんだと言うのが、最期の版に成ってきている。
新潟の高齢者の自殺が多いが。
その本の一節に
「どんなに良い日でもやがて夜は来る、足がいう事を聞かない。
正直に言ってよい、もう駄目だから助けて下さいと。
一日が長くてそれが苦労ならその時こそ、一息ついて静かにそのままでいる事。
ちょうど水の流れのほとりに立つ木の様に。
私達はなにも勇者である必要はない、嘆いても結構。
ただ知っておいていいのは、絶望するような事は決してないという事。
そして夕暮れになっても心臓の鼓動が続いている限り、誰もが愛し愛されることを恥じてはならないという事。
老いたものも心の温かさを求め、優しさと見守りの手を求める。
私達老いたものはそれを恥ずかしいと思う必要はない。」
70歳を越えた人達の自殺が女性の自殺の4割を占めている。
若い時は働き者で人様の為になって働くと言う事が習い性になっている。
秋田、青森、岩手という自殺の多い県はおそらくに同じ様な背景を持っていると思うので、この本を読んでこの一言をお伝えしたいと正直思いました。
自殺が新潟に多いという事は知っていたが、どんなふうに考えたらいいか私自身判らなかった。
互いに支え合うために何をしたらいいのかという事を、人間の基本として求められているのはないか、そんなことを思ってナイチンゲール等看護の大先輩達の本を読んだり考え方を調べてゆくうちに、見捨てられた人達のそばに寄りそっている姿に目を開かれました。
父が教師をしていたが、寝たきりになり、母が看取りをしていました。
私は何かしなければいけないと思って、1週間に一回、髭を剃ってやり、爪を切ってやり、その後に父に自分の思い出を語ってもらう事にしました。
おいたち、親の事、教え子たちの事など、どんどんカセットテープが積み重なっていきました。
或る時、父は思い返しているうちに、同僚、教え子たちに支えられている自分を発見したんでしょうね。
私にとっては感動でした、これ以上聞く必要がないと思いました。
やがて亡くなる時に父は目を大きく見開いて、その時母は「また一緒になりましょう」といったんです。
それは衝撃と同時に、この父と母がいるから、私がいて兄弟たちがいると言う事を思い知りました。
新潟の自殺について、話を聞き人生のストーリーをなぞることでもって、お手伝いが出来るんじゃないかと思いました。
東京いのちの電話の講師の方にヘットカンプさんがいて、紹介して貰いました。
いのちの電話、聞くと言う事が大事です。
問題解決ではなくて如何にその人の人生に共感できるか、その人の人生を尊敬、認めた時に心の通じ合いができると思います。
顔が見えないだけに、言葉が出てこないそれを待っている、泣いている人もいる、その時ちゃんと待てるということですね。
カウンセリング、技法としてやってしまうと、それはちょっと違うんじゃないかと思います。
「おしゃべりに費やす人は、黙っていると裸の自分が見えるからおしゃべりしている。」
という神谷美恵子さんの訳された ハリール・ジブラーンの詩があります。
本当の意味での思いは、語り又聞くと言う社会からどんどん遠ざかってきていると思います。
相談員はそれぞれの思いを持って電話に立っていらっしゃるが、その事が尊いと思います。
お互いに成長させてもらっているのが、いのちの電話ではないかと思っています。
ルツ・ヘットカンプ先生は大変面白い先生でした。
1933年に生まれて、10歳の時に住んでいるところが瓦礫中に埋もれてしまう。
自分も命がないと思っていたのが助けられた。
私が生きているのは私の命ではない、与えられた命なんだと、それがヘットカンプ先生の基本になる訳です。
ドイツの少女たちが聖書を学びながら人生の生き方、さまざまな問題を考えていけるような運動の一員になられる訳です。
フランクフルトの駅に一群の夜の女の方が立っていて非常に気になって、その方々と友達になり助けられたらいいなあと思っていて、日本からたまたま、そういう人達の助けての応募がありました。
家族の反対があったが船で日本に来て、日本語を勉強しながら自分の仕事を始めようとするわけです。
日本における夜の女の人とのかかわりをどうしたらいいか判らない状況になって、今後やっていけるのだろうかと立ちつくしていたら、「清しこの夜」の曲が聞こえてきて、私がここに立ちつくしている、ここにキリストはおいでになるんだと思った時に、急に慰められ、勇気が出てきて協力する人が表れてきた。
経済が発展する中、夜の女の人との関わりが少なくなるなか、コンタクト取るためには電話がいいのではないかと思い立つ訳です。
或る時、もうやっていけないので死ぬと言って電話機を下ろしたが、ヘットカンプ先生は探しにいってその女性を助けた。
それから電話の重要さを思い、周りに呼びかけ1971年にスタートした「東京いのちの電話」なんですね。
それがあるから「日本のいのちの電話」が今あるわけです。
帰国されてから後に、ヘットカンプ先生は2回日本に来ましたが、私の家に泊っていただきました。
野の花文庫は子供達に大人気で読書会を行いました。
読書会は1961年からスタートしました。
毎週土曜日の午後ここを開けます。
2時から読書会を始め、私と妻が本を読んでいます。
本を楽しんでほしいと思います。
子供達は詩が好きで、詩を文学にまで変えているのが昔話です。
「多くではなく、深く」 本を読む時にはそうしましょうと言っています。
100人いれば100人通りの世界の見方があり、それを一人ひとり尊重されて行くという事、そこに一緒に生きてゆくことの素晴らしさがあるのではないか、そこには寛容、忍耐が必要だと思います。
新潟県の自殺者が余りにも多いことから、孤独や不安に悩む人の電話相談事業「いのちの電話」を日本で初めて始められたドイツ人宣教師ルツ・ヘットカンプ女史らとの繋がりの中で、「新潟いのちの電話」を立ち上げて苦しみ、悩みながら電話をかけてくる人達と向き合ってきました。
又自宅の一室を開放して野の花文庫という家庭文庫を開いて、子供たちや若者たちとの読書会等も長年継続して開いてきました。
真壁さんは読書会やいのちの電話の活動で、周囲の人達に手を差しのべながら、私達は支え合って、みんなで生きて行こうと呼びかけてこられました。
最近は真壁さんがヘッドカンプさんに頼まれて翻訳したドイツ語の本「わたしはよろこんで歳をとりたい」が老いを生きる心持を深く伝えて静かな共感を呼んでいます。
あわただしく時間をこなしていないと、自分の存在も危うくなるかの様な今の時代ですが、人と人が肉声で答えあい、息使いを感じながら時を共有し、そばにいるこのことの大切さを真壁さんは伝えたいと言います。
「わたしはよろこんで歳をとりたい」ドイツのイェルク・ツィンクさんの著書。
それを翻訳したのが真壁さんです。
心の安らぐ本になっている。
日本でいのちの電話を始めてくださったルツ・ヘットカンプさんという女性の宣教師さんがいて、その方が一昨年に電話下さいまして、私に訳して欲しいという電話でした。
日本では歳を取っても頑張れ頑張れで、歳を取ったらもう頑張らなくてもいいという事をこの本から知ってほしいということでした。
ドイツから本が送られてきて、見て身につまされる事がいっぱいありました。
日本の言葉で自分なりの表現したいと思いました。(翻訳ではなくて)
訳してプリントアウトして送ったら反響が大きかったです。
コピーして色々な人に配りたいと言う事でジワジワと広まっていきました。
絵本のような感じです。
すべての人に一緒に生きて行く喜びを伝えたいと言うのが、イェルク・ツィンクの基本的な考え方なんですね。
平易な言葉で語りながら、老いとは何かなどを語りかけている。
版を重ね、ありのままの自分を生きて行っていいんだと言うのが、最期の版に成ってきている。
新潟の高齢者の自殺が多いが。
その本の一節に
「どんなに良い日でもやがて夜は来る、足がいう事を聞かない。
正直に言ってよい、もう駄目だから助けて下さいと。
一日が長くてそれが苦労ならその時こそ、一息ついて静かにそのままでいる事。
ちょうど水の流れのほとりに立つ木の様に。
私達はなにも勇者である必要はない、嘆いても結構。
ただ知っておいていいのは、絶望するような事は決してないという事。
そして夕暮れになっても心臓の鼓動が続いている限り、誰もが愛し愛されることを恥じてはならないという事。
老いたものも心の温かさを求め、優しさと見守りの手を求める。
私達老いたものはそれを恥ずかしいと思う必要はない。」
70歳を越えた人達の自殺が女性の自殺の4割を占めている。
若い時は働き者で人様の為になって働くと言う事が習い性になっている。
秋田、青森、岩手という自殺の多い県はおそらくに同じ様な背景を持っていると思うので、この本を読んでこの一言をお伝えしたいと正直思いました。
自殺が新潟に多いという事は知っていたが、どんなふうに考えたらいいか私自身判らなかった。
互いに支え合うために何をしたらいいのかという事を、人間の基本として求められているのはないか、そんなことを思ってナイチンゲール等看護の大先輩達の本を読んだり考え方を調べてゆくうちに、見捨てられた人達のそばに寄りそっている姿に目を開かれました。
父が教師をしていたが、寝たきりになり、母が看取りをしていました。
私は何かしなければいけないと思って、1週間に一回、髭を剃ってやり、爪を切ってやり、その後に父に自分の思い出を語ってもらう事にしました。
おいたち、親の事、教え子たちの事など、どんどんカセットテープが積み重なっていきました。
或る時、父は思い返しているうちに、同僚、教え子たちに支えられている自分を発見したんでしょうね。
私にとっては感動でした、これ以上聞く必要がないと思いました。
やがて亡くなる時に父は目を大きく見開いて、その時母は「また一緒になりましょう」といったんです。
それは衝撃と同時に、この父と母がいるから、私がいて兄弟たちがいると言う事を思い知りました。
新潟の自殺について、話を聞き人生のストーリーをなぞることでもって、お手伝いが出来るんじゃないかと思いました。
東京いのちの電話の講師の方にヘットカンプさんがいて、紹介して貰いました。
いのちの電話、聞くと言う事が大事です。
問題解決ではなくて如何にその人の人生に共感できるか、その人の人生を尊敬、認めた時に心の通じ合いができると思います。
顔が見えないだけに、言葉が出てこないそれを待っている、泣いている人もいる、その時ちゃんと待てるということですね。
カウンセリング、技法としてやってしまうと、それはちょっと違うんじゃないかと思います。
「おしゃべりに費やす人は、黙っていると裸の自分が見えるからおしゃべりしている。」
という神谷美恵子さんの訳された ハリール・ジブラーンの詩があります。
本当の意味での思いは、語り又聞くと言う社会からどんどん遠ざかってきていると思います。
相談員はそれぞれの思いを持って電話に立っていらっしゃるが、その事が尊いと思います。
お互いに成長させてもらっているのが、いのちの電話ではないかと思っています。
ルツ・ヘットカンプ先生は大変面白い先生でした。
1933年に生まれて、10歳の時に住んでいるところが瓦礫中に埋もれてしまう。
自分も命がないと思っていたのが助けられた。
私が生きているのは私の命ではない、与えられた命なんだと、それがヘットカンプ先生の基本になる訳です。
ドイツの少女たちが聖書を学びながら人生の生き方、さまざまな問題を考えていけるような運動の一員になられる訳です。
フランクフルトの駅に一群の夜の女の方が立っていて非常に気になって、その方々と友達になり助けられたらいいなあと思っていて、日本からたまたま、そういう人達の助けての応募がありました。
家族の反対があったが船で日本に来て、日本語を勉強しながら自分の仕事を始めようとするわけです。
日本における夜の女の人とのかかわりをどうしたらいいか判らない状況になって、今後やっていけるのだろうかと立ちつくしていたら、「清しこの夜」の曲が聞こえてきて、私がここに立ちつくしている、ここにキリストはおいでになるんだと思った時に、急に慰められ、勇気が出てきて協力する人が表れてきた。
経済が発展する中、夜の女の人との関わりが少なくなるなか、コンタクト取るためには電話がいいのではないかと思い立つ訳です。
或る時、もうやっていけないので死ぬと言って電話機を下ろしたが、ヘットカンプ先生は探しにいってその女性を助けた。
それから電話の重要さを思い、周りに呼びかけ1971年にスタートした「東京いのちの電話」なんですね。
それがあるから「日本のいのちの電話」が今あるわけです。
帰国されてから後に、ヘットカンプ先生は2回日本に来ましたが、私の家に泊っていただきました。
野の花文庫は子供達に大人気で読書会を行いました。
読書会は1961年からスタートしました。
毎週土曜日の午後ここを開けます。
2時から読書会を始め、私と妻が本を読んでいます。
本を楽しんでほしいと思います。
子供達は詩が好きで、詩を文学にまで変えているのが昔話です。
「多くではなく、深く」 本を読む時にはそうしましょうと言っています。
100人いれば100人通りの世界の見方があり、それを一人ひとり尊重されて行くという事、そこに一緒に生きてゆくことの素晴らしさがあるのではないか、そこには寛容、忍耐が必要だと思います。
2019年1月8日火曜日
長谷川一男(「日本肺がん患者連絡会」理事長)・受動喫煙のない社会へ
長谷川一男(「日本肺がん患者連絡会」理事長)・受動喫煙のない社会へ
他人の吸った煙草の煙を吸い込む受動喫煙、この対策を強化する改正健康増進法が去年成立しました。
これを受けて今後学校や病院、行政機関などは屋内は完全に禁煙になり、飲食店でも喫煙が規制されます。
日本肺がん患者連絡会の長谷川さんは47歳、ステージ4の肺がんと闘病しながら活動を続けています。
受動喫煙の環境をどう変えようとしているのか、がんを患っている患者や家族をどうサポートしようとしているのか伺いました。
2010年にステージ4の肺がんになって以来、闘病をつづけているが、体調については、がんの方はおとなしくしてくれています。
お腹に複数の転移があるので、定期的に計画観察している状態です。
治療しても1年経つと半分の方が無くなってしまうという状況の中でした。
やっと丸9年来た状態です。
治ると言う事はないと思います。
限られたた時間の中でどう生きるかという方向に患者はきます。
僕自身は、人間はそんなに弱いものとは思っていなくて、強いものだと思っています。
手術をして右の肺は全部取っているんですが、合併症があります。
入院が4か月あり、その後1年間ぐらいは毎日通院していました。
具合も悪くなりやすくなるので、そのたびに入院しています。
今も1年に1っ回位入院しています。
感染が背骨に侵食して行って背骨が脆く崩れて、コルセットを今はめています。
そういう人生だよね、生きるために俺は差し出したんだよねと、あんまり大変と思わないようにしています。
私は一回もたばこは吸ったことはないです。
受動喫煙の可能性が高いと思っています。
父が吸うたばこの煙が、母親が嫌いでリビングに換気扇を付けていました。
父は一日に2箱ぐらい吸っていました。
就職する様になっても、煙草を吸いながら仕事をするのが当り前な時代でした。
原因を考えるとそこに行き着くと思います。
父とか職場の人を憎むと言う感情は無くて、持って行き様のない感情にぐらぐらすると言うような感覚です。
受動喫煙は置き去りにされた問題に成ってしまうと気付いて、絶対に声を上げないといけないと思いました。
受動喫煙が原因で肺がん、心筋梗塞、脳卒中、乳幼児突然死症候群等が起きる、それが年間1万5000人いますという、科学的根拠がはっきりしたという事もあります。
マナーも問題ではない、人に危害を与える事だと科学的に証明されて、それで死んで来た人がいると言う事で、何処かで断ち切らないといけないと思いました。
インターネットが出てきて掲示板に患者さんの不安、対処、体験などが一杯ありました。
でもその人たちは亡くなってしまうと、それが継承されていかないとことにショックを受けて、継続するものを作ろうと思いました。
以前TVのディレクターをやっていて、半分以上が肉体労働みたいで、僕は仕事ができなくなって、例えば医師にインタビューして今の治療法を判り易く説明することは僕には出来るので、そういったことをやって見ればいいかなと思いました。
NPOを立ち上げて、助成金を頂いて同じ様な患者を救う様になるかもしれないと思うとやらないわけにはいかないというような感じになりました。
2017年自民党の厚生労働部会で議論されて行く中で、肺がんになったら患者は働かなくていい、というような発言があったが、職場を移ればいいという意味だと釈明をしたが、これは良く覚えています。
論理的にはそうかもしれないが、現実的にはかなり無理があるという感覚を受けました。
肺がんの患者さんたちが、どれぐらい受動喫煙をしているのか、アンケートで調べました。(4日間で3,400通来ました。)
分析すると、肺がん患者さんたちが職場で働きながら、受動喫煙している人は約3割いましたが、これはショックでした。
我慢しているという声が多かったです。
取引先、上司とか力関係の中で、どうしても言えないという状況が浮び上がってきました。
家庭で受動喫煙続けてると言うのが6%程度ありました。
奥さんが肺がんになりその目の前で煙草を吸っている状況です。
国会で参考人として呼ばれて、屋外の喫煙所について意見を述べている時に「いい加減にしろ」というヤジが飛んだが、一言で言うと残念です。
議論の場で対立、喧嘩が起ると言う事は本意ではない。
進行がんでは命の限りを伝えられているわけで、日常って大切なんだと判るわけで、そんな中で自分を大切にして欲しいし、人にやさしくして欲しいという思いのみなんです。
満足ではないが、一歩進んだ法律ができたと思います。
僕は「煙草を吸っていたんですか」と良く言われます。
悪意はないと思うが、肺がん患者を傷つける言葉になっているのではないかと或る時気付きました。
「1本も吸っていません。」と返答するが口調が強くなります。
煙草を吸っていたんですか、という言葉の中に「貴方は自業自得ですよね」という言葉の意味が入っているような気がするんです、それで言葉が強くなるんだと思いました。
質問に答えているだけで、僕は仲間を傷つけているんじゃないかと気付いて、「煙草をすっていますか」という質問は肺がん患者の人にはして欲しくないという事は伝えています。
肺がん患者に対して、普通に接してほしいと思っています。
がんは、重い話なので聞く側もストレスがあって、もう聞きたくないという状況に無意識的にもなると、「大丈夫大丈夫」とか、「がんばればいいじゃん」とか、重い話から逃れようとする瞬間がある。
それを感じると患者は言わなければ良かったと思ったりする、軽くあしらわれた感がある、それは辛い、普通に聞いてもらえればと思います。
病気になって5年で患者会をつくる。
患者会の数は増えてきて、「日本肺がん患者連絡会」を作って理事長をやっています。
新薬を出ることを切望しています、なるべく早く承認して欲しいので、要望書などを出すのに、日本全国の団体が集まって肺がん患者の総意です、と言う事でお伝えすることができると思う、その意義は大きいと思いす。
受動喫煙に関しては国の法律が出来て世の中は変わってくると思います。
家庭など身近な人から受ける、職場から受けるとかは、法律では縛ることはできないかもしれない。
私たち自身が撲滅して行くと言うことに、取り組んでいる最中です。
対立があるので、解消して進む何かを今考えている状況です。
突破口があるかもしれないというわくわく感があります。
他人の吸った煙草の煙を吸い込む受動喫煙、この対策を強化する改正健康増進法が去年成立しました。
これを受けて今後学校や病院、行政機関などは屋内は完全に禁煙になり、飲食店でも喫煙が規制されます。
日本肺がん患者連絡会の長谷川さんは47歳、ステージ4の肺がんと闘病しながら活動を続けています。
受動喫煙の環境をどう変えようとしているのか、がんを患っている患者や家族をどうサポートしようとしているのか伺いました。
2010年にステージ4の肺がんになって以来、闘病をつづけているが、体調については、がんの方はおとなしくしてくれています。
お腹に複数の転移があるので、定期的に計画観察している状態です。
治療しても1年経つと半分の方が無くなってしまうという状況の中でした。
やっと丸9年来た状態です。
治ると言う事はないと思います。
限られたた時間の中でどう生きるかという方向に患者はきます。
僕自身は、人間はそんなに弱いものとは思っていなくて、強いものだと思っています。
手術をして右の肺は全部取っているんですが、合併症があります。
入院が4か月あり、その後1年間ぐらいは毎日通院していました。
具合も悪くなりやすくなるので、そのたびに入院しています。
今も1年に1っ回位入院しています。
感染が背骨に侵食して行って背骨が脆く崩れて、コルセットを今はめています。
そういう人生だよね、生きるために俺は差し出したんだよねと、あんまり大変と思わないようにしています。
私は一回もたばこは吸ったことはないです。
受動喫煙の可能性が高いと思っています。
父が吸うたばこの煙が、母親が嫌いでリビングに換気扇を付けていました。
父は一日に2箱ぐらい吸っていました。
就職する様になっても、煙草を吸いながら仕事をするのが当り前な時代でした。
原因を考えるとそこに行き着くと思います。
父とか職場の人を憎むと言う感情は無くて、持って行き様のない感情にぐらぐらすると言うような感覚です。
受動喫煙は置き去りにされた問題に成ってしまうと気付いて、絶対に声を上げないといけないと思いました。
受動喫煙が原因で肺がん、心筋梗塞、脳卒中、乳幼児突然死症候群等が起きる、それが年間1万5000人いますという、科学的根拠がはっきりしたという事もあります。
マナーも問題ではない、人に危害を与える事だと科学的に証明されて、それで死んで来た人がいると言う事で、何処かで断ち切らないといけないと思いました。
インターネットが出てきて掲示板に患者さんの不安、対処、体験などが一杯ありました。
でもその人たちは亡くなってしまうと、それが継承されていかないとことにショックを受けて、継続するものを作ろうと思いました。
以前TVのディレクターをやっていて、半分以上が肉体労働みたいで、僕は仕事ができなくなって、例えば医師にインタビューして今の治療法を判り易く説明することは僕には出来るので、そういったことをやって見ればいいかなと思いました。
NPOを立ち上げて、助成金を頂いて同じ様な患者を救う様になるかもしれないと思うとやらないわけにはいかないというような感じになりました。
2017年自民党の厚生労働部会で議論されて行く中で、肺がんになったら患者は働かなくていい、というような発言があったが、職場を移ればいいという意味だと釈明をしたが、これは良く覚えています。
論理的にはそうかもしれないが、現実的にはかなり無理があるという感覚を受けました。
肺がんの患者さんたちが、どれぐらい受動喫煙をしているのか、アンケートで調べました。(4日間で3,400通来ました。)
分析すると、肺がん患者さんたちが職場で働きながら、受動喫煙している人は約3割いましたが、これはショックでした。
我慢しているという声が多かったです。
取引先、上司とか力関係の中で、どうしても言えないという状況が浮び上がってきました。
家庭で受動喫煙続けてると言うのが6%程度ありました。
奥さんが肺がんになりその目の前で煙草を吸っている状況です。
国会で参考人として呼ばれて、屋外の喫煙所について意見を述べている時に「いい加減にしろ」というヤジが飛んだが、一言で言うと残念です。
議論の場で対立、喧嘩が起ると言う事は本意ではない。
進行がんでは命の限りを伝えられているわけで、日常って大切なんだと判るわけで、そんな中で自分を大切にして欲しいし、人にやさしくして欲しいという思いのみなんです。
満足ではないが、一歩進んだ法律ができたと思います。
僕は「煙草を吸っていたんですか」と良く言われます。
悪意はないと思うが、肺がん患者を傷つける言葉になっているのではないかと或る時気付きました。
「1本も吸っていません。」と返答するが口調が強くなります。
煙草を吸っていたんですか、という言葉の中に「貴方は自業自得ですよね」という言葉の意味が入っているような気がするんです、それで言葉が強くなるんだと思いました。
質問に答えているだけで、僕は仲間を傷つけているんじゃないかと気付いて、「煙草をすっていますか」という質問は肺がん患者の人にはして欲しくないという事は伝えています。
肺がん患者に対して、普通に接してほしいと思っています。
がんは、重い話なので聞く側もストレスがあって、もう聞きたくないという状況に無意識的にもなると、「大丈夫大丈夫」とか、「がんばればいいじゃん」とか、重い話から逃れようとする瞬間がある。
それを感じると患者は言わなければ良かったと思ったりする、軽くあしらわれた感がある、それは辛い、普通に聞いてもらえればと思います。
病気になって5年で患者会をつくる。
患者会の数は増えてきて、「日本肺がん患者連絡会」を作って理事長をやっています。
新薬を出ることを切望しています、なるべく早く承認して欲しいので、要望書などを出すのに、日本全国の団体が集まって肺がん患者の総意です、と言う事でお伝えすることができると思う、その意義は大きいと思いす。
受動喫煙に関しては国の法律が出来て世の中は変わってくると思います。
家庭など身近な人から受ける、職場から受けるとかは、法律では縛ることはできないかもしれない。
私たち自身が撲滅して行くと言うことに、取り組んでいる最中です。
対立があるので、解消して進む何かを今考えている状況です。
突破口があるかもしれないというわくわく感があります。
2019年1月7日月曜日
本郷和人(東京大学史料編纂所教授) ・【近代日本150年 明治の群像】後藤新平
本郷和人(東京大学史料編纂所教授) ・【近代日本150年 明治の群像】後藤新平
後藤新平 安政4年6月4日(1857年7月24日) - 昭和4年(1929年)4月13日)71歳。
講談による紹介
安政4年6月4日 仙台藩の下級武士の息子として生れる。
江戸時代後期の蘭学者・高野長英は遠縁に当たる。
医学の道を志し、17祭で17歳で須賀川医学校に入学。
卒業後は愛知県医学校(現・名古屋大学医学部)の医者となる。
ここで彼はめざましく昇進し24歳で学校長兼病院長となり、病院に関わる事務に当たっている。
明治23年(1890年)、ドイツに留学。
明治25年 衛生局長にまで昇り詰める。
医学だけにとどまらず、満鉄初代総裁。逓信大臣、内務大臣、外務大臣、東京市第7代市長、台湾総督府民政長官、などなど。
明治31年(1898年)第4代台湾総督長に児玉源太郎が就任。
歴代の総督がゲリラ問題に頭を悩ませていた。
児玉源太郎は後藤新平に声をかけて、自らの補佐役である民政局長にする。
武力により支配で長続きした国はない、軍政による支配ではなく民政によるべきものである、というものです。
「我々は台湾全土の一家団欒を望んでいます。
帰順したいものがあれば、自由に官邸に来てもよろしい。
もしこれを疑うなれば、こちらからそちらに出向いて話し合ってもよい。」
ゲリラに投降するように呼びかけたわけです、次々に投降してくるが、投降したゲリラを拘束したり、投獄することは一切しなかった。
彼等に土木作業など職を与えて、生活の面倒を見た。
その後港、道路、鉄道、上下水道などを整備し、台湾に近代化を推し進めて行った。
台湾運営の基本的な考えは「生物学の原則」に則ったものであると説明している。
「ヒラメの目は片側にふたつ付いている。タイの目は片側に一つづつ付いている。
ヒラメの目をタイの目の様にすることは出来ない、やってはいけない。」と語っている。
日本人が台湾にやってきて台湾人を日本人のようにしたって出来やしない、やってはいけないのだ、現地の人々の習慣を重んじることなのだと。
胆沢県大参事であった安場保和にみとめられ、後の海軍大将・斎藤実とともに13歳で書生として引き立てられ県庁に勤務した。
安場保和の娘さんを後藤新平は後に奥さんにしている。
当時は優秀なものは医者にしろというようなことに成っていた。
安場が愛知県令をつとめることになり、それについていくことにな愛知県医学校の医者になる。
刺された板垣退助を診察したのは、実はは後藤新平だった。
石黒忠則 森鴎外のライバルと言われるが、軍医と言うより医者である官僚であるという性格が強いが、石黒に認められて、内務省の衛生局に入って、官僚という形で行政に携わるようになる。
長與 專齋は当時の医師の仕組みを作った人で、この人の推薦で明治25年(1892年)内務省の衛生局長になり官僚として活躍する。
志賀直哉の祖父志賀直道が相馬藩の家令で、志賀家は家老より下の家系で300,400石位だった。
明治26年(1893年)相馬事件
志賀直道が相馬家の財産を使って財産を増やして相馬家が豊かになったが、その立役者だった。
相馬藩の藩士錦織が相馬家の財産を志賀氏が私物化していると訴えを起こす。
世論の支持を受けてしまう。
医学的に変な薬を投薬されてお殿様が調子よく良くないというようなことも言った。
医学的観点から意見を求めたのが、後藤新平だった。(志賀家とは反対陣営だった)
相馬藩主相馬誠胤(そうまともたね)が亡くなる。
志賀直道が変な薬で毒殺したんだ、という訴えかけたが、世論はそこまでやらないのだろうと言う事でその人から離れて行った。
毒殺の為の薬が体内にあるかどうか、毒殺の証明ができないということになり、後藤新平が言っていたことは嘘なのかということになり、長與 專齋が後藤新平を排除、医師として錦織を支持していた後藤新平も、連座して5ヶ月間にわたって入獄した。
衛生局長は辞めさせられた。
陸軍省医務局長兼大本営野戦衛生長官の石黒忠悳が、陸軍次官兼軍務局長の児玉源太郎に後藤を推薦したことによって、明治28年(1895年)4月1日、日清戦争の帰還兵に対する検疫業務を行う臨時陸軍検疫部事務官長として官界に復帰。
その行政手腕の巧みさから、臨時陸軍検疫部長として上司だった児玉の目にとまる。
明治31年(1898年)3月、その児玉が台湾総督となると後藤を抜擢し、自らの補佐役である民政局長になる。
後藤は、徹底した調査事業を行って現地の状況を知悉した上で経済改革とインフラ建設を強引に進めた。
後藤は人間を育てることは一番大切だと言っていて、人材育成を本格的に行った。
アメリカから新渡戸稲造を招いた際には、病弱を理由に断る新渡戸を、執務室にベッドを持ち込むことなどの特別な条件を提示して結局承諾させている。
阿片漸禁策
台湾でも阿片の吸引が庶民の間で普及しており、これが大きな社会問題となっていた。
後藤は、阿片を性急に禁止する方法をとらなかった。
阿片に高率の税をかけて購入しにくくさせるとともに吸引を免許制として次第に常習者を減らしていく方法を採用した。
施策の導入から50年近くをかけて台湾では阿片の根絶が達成された。
明治39年(1906年)、南満洲鉄道初代総裁に就任。
台湾で育てた人材を投入、徹底的な調査を行う。
満鉄のインフラ整備、衛生施設の拡充、大連などの都市の建設に当たった。
関東大震災と世界最大規模の帝都復興計画
内務大臣兼帝都復興院総裁として震災復興計画を立案、大規模な区画整理と公園・幹線道路の整備を伴うもので、予算が無くて相当縮小されることになる。
パリ改造を参考にしようとしたが、激しい地主・地権者の抵抗を受けることとなった。
大正13年(1924年)、社団法人東京放送局が設立され、初代総裁となる。
しばしば総理大臣候補として名前が取り沙汰されながら結局就任できなかった原因として、最後の元老となった西園寺公望に嫌われていたことが大きいと徳富蘇峰が語っている。
後藤新平 安政4年6月4日(1857年7月24日) - 昭和4年(1929年)4月13日)71歳。
講談による紹介
安政4年6月4日 仙台藩の下級武士の息子として生れる。
江戸時代後期の蘭学者・高野長英は遠縁に当たる。
医学の道を志し、17祭で17歳で須賀川医学校に入学。
卒業後は愛知県医学校(現・名古屋大学医学部)の医者となる。
ここで彼はめざましく昇進し24歳で学校長兼病院長となり、病院に関わる事務に当たっている。
明治23年(1890年)、ドイツに留学。
明治25年 衛生局長にまで昇り詰める。
医学だけにとどまらず、満鉄初代総裁。逓信大臣、内務大臣、外務大臣、東京市第7代市長、台湾総督府民政長官、などなど。
明治31年(1898年)第4代台湾総督長に児玉源太郎が就任。
歴代の総督がゲリラ問題に頭を悩ませていた。
児玉源太郎は後藤新平に声をかけて、自らの補佐役である民政局長にする。
武力により支配で長続きした国はない、軍政による支配ではなく民政によるべきものである、というものです。
「我々は台湾全土の一家団欒を望んでいます。
帰順したいものがあれば、自由に官邸に来てもよろしい。
もしこれを疑うなれば、こちらからそちらに出向いて話し合ってもよい。」
ゲリラに投降するように呼びかけたわけです、次々に投降してくるが、投降したゲリラを拘束したり、投獄することは一切しなかった。
彼等に土木作業など職を与えて、生活の面倒を見た。
その後港、道路、鉄道、上下水道などを整備し、台湾に近代化を推し進めて行った。
台湾運営の基本的な考えは「生物学の原則」に則ったものであると説明している。
「ヒラメの目は片側にふたつ付いている。タイの目は片側に一つづつ付いている。
ヒラメの目をタイの目の様にすることは出来ない、やってはいけない。」と語っている。
日本人が台湾にやってきて台湾人を日本人のようにしたって出来やしない、やってはいけないのだ、現地の人々の習慣を重んじることなのだと。
胆沢県大参事であった安場保和にみとめられ、後の海軍大将・斎藤実とともに13歳で書生として引き立てられ県庁に勤務した。
安場保和の娘さんを後藤新平は後に奥さんにしている。
当時は優秀なものは医者にしろというようなことに成っていた。
安場が愛知県令をつとめることになり、それについていくことにな愛知県医学校の医者になる。
刺された板垣退助を診察したのは、実はは後藤新平だった。
石黒忠則 森鴎外のライバルと言われるが、軍医と言うより医者である官僚であるという性格が強いが、石黒に認められて、内務省の衛生局に入って、官僚という形で行政に携わるようになる。
長與 專齋は当時の医師の仕組みを作った人で、この人の推薦で明治25年(1892年)内務省の衛生局長になり官僚として活躍する。
志賀直哉の祖父志賀直道が相馬藩の家令で、志賀家は家老より下の家系で300,400石位だった。
明治26年(1893年)相馬事件
志賀直道が相馬家の財産を使って財産を増やして相馬家が豊かになったが、その立役者だった。
相馬藩の藩士錦織が相馬家の財産を志賀氏が私物化していると訴えを起こす。
世論の支持を受けてしまう。
医学的に変な薬を投薬されてお殿様が調子よく良くないというようなことも言った。
医学的観点から意見を求めたのが、後藤新平だった。(志賀家とは反対陣営だった)
相馬藩主相馬誠胤(そうまともたね)が亡くなる。
志賀直道が変な薬で毒殺したんだ、という訴えかけたが、世論はそこまでやらないのだろうと言う事でその人から離れて行った。
毒殺の為の薬が体内にあるかどうか、毒殺の証明ができないということになり、後藤新平が言っていたことは嘘なのかということになり、長與 專齋が後藤新平を排除、医師として錦織を支持していた後藤新平も、連座して5ヶ月間にわたって入獄した。
衛生局長は辞めさせられた。
陸軍省医務局長兼大本営野戦衛生長官の石黒忠悳が、陸軍次官兼軍務局長の児玉源太郎に後藤を推薦したことによって、明治28年(1895年)4月1日、日清戦争の帰還兵に対する検疫業務を行う臨時陸軍検疫部事務官長として官界に復帰。
その行政手腕の巧みさから、臨時陸軍検疫部長として上司だった児玉の目にとまる。
明治31年(1898年)3月、その児玉が台湾総督となると後藤を抜擢し、自らの補佐役である民政局長になる。
後藤は、徹底した調査事業を行って現地の状況を知悉した上で経済改革とインフラ建設を強引に進めた。
後藤は人間を育てることは一番大切だと言っていて、人材育成を本格的に行った。
アメリカから新渡戸稲造を招いた際には、病弱を理由に断る新渡戸を、執務室にベッドを持ち込むことなどの特別な条件を提示して結局承諾させている。
阿片漸禁策
台湾でも阿片の吸引が庶民の間で普及しており、これが大きな社会問題となっていた。
後藤は、阿片を性急に禁止する方法をとらなかった。
阿片に高率の税をかけて購入しにくくさせるとともに吸引を免許制として次第に常習者を減らしていく方法を採用した。
施策の導入から50年近くをかけて台湾では阿片の根絶が達成された。
明治39年(1906年)、南満洲鉄道初代総裁に就任。
台湾で育てた人材を投入、徹底的な調査を行う。
満鉄のインフラ整備、衛生施設の拡充、大連などの都市の建設に当たった。
関東大震災と世界最大規模の帝都復興計画
内務大臣兼帝都復興院総裁として震災復興計画を立案、大規模な区画整理と公園・幹線道路の整備を伴うもので、予算が無くて相当縮小されることになる。
パリ改造を参考にしようとしたが、激しい地主・地権者の抵抗を受けることとなった。
大正13年(1924年)、社団法人東京放送局が設立され、初代総裁となる。
しばしば総理大臣候補として名前が取り沙汰されながら結局就任できなかった原因として、最後の元老となった西園寺公望に嫌われていたことが大きいと徳富蘇峰が語っている。
2019年1月6日日曜日
森田順平(俳優・声優) ・【時代を創った声】
森田順平(俳優・声優) ・【時代を創った声】
64歳、22歳の時にNHKの大河ドラマ「花神」で俳優としてデビューされた森田さんは、、[3年B組金八先生」でのこわもての数学教師役や、アニメ「クレヨンしんちゃん」の園長先生役等で知られています。
40歳近くになって声の仕事を始めるようになったと言う、森田さんにうかがいました。
1979年から2011年まで32年間に渡って「金八先生」が続きました。
デビューしてから3年目の時からでした。(25歳)
こわもての数学教師、乾先生役でした。
生徒にモテモテの人気のある役かなと思って、笑顔で芝居を始めたら、「乾先生は一切笑わない先生という事でお願いします」と言われて、愕然としました。
段々嫌われ度が増してゆき、ジョギングをしていた時に、中学生から石を投げられたりしたのには困りました。
福岡県小倉市出身。
役者を目指そうと思ったのは、母親と恩師の方々の影響と思います。
小学校のころから朗読が大好きでした。
小学校4年の時に、大学の文化祭で朗読をするという経験をしました。
そこでぽつんと何かが芽生えたのかもしれません。
中学では声変わりをして、美術部に入って、文化祭で演劇コンクールがあって、美術関係の事をやっていました。
お父さん役が急遽僕にまわってきて、それが大好評で、2年、3年と僕が主役になり優勝しました。
高校では演劇同好会を演劇部に昇格させて、高校演劇連盟にはいって大会に出るようにしていきました。
ライブ感がたまらなかったです。
当時不条理劇がはやっていて、訳のわからない芝居をやっていました。
大学3年までに卒業必修単位を取ってしまって、後は卒論、1個必修科目がのこっていて、3年で文学座が受かってしまって、それがうけられなくて、文学座に行きたいので何とかならないか、教授に相談したら、前期と後期にレポートを出せばOKという事になりました。
文学座に入ったら、目から鱗のようなことが毎日ありました。
今まで自分がやりたいようにやっていて、心をちゃんと人に伝えないといけない、というような基本からでした。
褒めてもらいたかったが、褒めてもらう事は一度も無かった。
好きでやっているので、辞めたいと思ったことはないです。
1977年NHK大河ドラマ「花神」の沖田総司 役でデビュー。
新人オーディションがあって、それに参加したら大河ドラマの役が来ました。
最初は何にも判らなかったので、かつらを付けてもらったがきつかった、刀を差して1時間立って待っていて、現場に行って「顔色が青いよ」と言われたとたんに、気を失ってしまいました。(緊張、長く立っていたいた、かつらによるこめかみの痛さ)
「花神」の次のドラマで小山内 美江子(おさない みえこ)さんに気に入っていただいて、
「 マー姉ちゃん」「3年B組金八先生」へと繋がって行きました。
1999年アニメ「キョロちゃん」で声優デビュー。
本当はもっと前に海外の吹き替えに出ていました。
海外ドラマが楽しくて面白くてやりたいなあと思っていました。
あるきっかけで吹き替えの仕事をするようになって、面白くてのめり込んでいました。
ラジオドラマが実は一番好きでした。
声だけで表現することの楽しさがありました。
身体を使って演技していたものが声だけになるが、実は声も身体の一部と気付きました。
それでもっと面白くなりました。
アニメは描かれた絵でしかないので、それに命を吹き込むには大きく作り込んでいかなくてはいけないが、吹き替えは作り上げられた人物、声、演技があるわけで、それを無茶くちゃにはできないので、それに或る程度乗っかって、自分の芝居をしなくてはいけない。
アニメは大げさにやってもかまわないが、実写では大げさにやると浮いてしまう。
吹き替えをやる時の仕事の極意は、人の表情を瞬時に読み取る能力、それに合わせて変えて行く。
その役の身体になる。(病気の状態、寝ている状態などを、立っていても声でそういう状態を作り出すようにする)
声優を目指す若い人に対しては「口先で芝居をするな」、これをまず一番言いたい。
僕が文学座に入ってやって行けるかどうか不安で、教授に聞いた時に、一緒に飲みながら「おのずから道は開ける」と一言教授から言われました。
だから僕も同じ様なことしか言えない。
強い意志を持っていれば絶対成れると思うが。
「努力は必ず報われる、もし報われない努力があるとすれば、それはまだ努力とはいえない。」 王さんの言葉ですがこの言葉が好きです。
小学生に対して、朗読をしています、4年生「蜘蛛の糸」(芥川龍之介)をやりました。
5年生が「トロッコ」(芥川龍之介) 6年生が「注文の多い料理店」(宮沢賢治)
子供達の眼の色が変わってくるんです。
これは楽しいです、ライブと一緒です。
64歳、22歳の時にNHKの大河ドラマ「花神」で俳優としてデビューされた森田さんは、、[3年B組金八先生」でのこわもての数学教師役や、アニメ「クレヨンしんちゃん」の園長先生役等で知られています。
40歳近くになって声の仕事を始めるようになったと言う、森田さんにうかがいました。
1979年から2011年まで32年間に渡って「金八先生」が続きました。
デビューしてから3年目の時からでした。(25歳)
こわもての数学教師、乾先生役でした。
生徒にモテモテの人気のある役かなと思って、笑顔で芝居を始めたら、「乾先生は一切笑わない先生という事でお願いします」と言われて、愕然としました。
段々嫌われ度が増してゆき、ジョギングをしていた時に、中学生から石を投げられたりしたのには困りました。
福岡県小倉市出身。
役者を目指そうと思ったのは、母親と恩師の方々の影響と思います。
小学校のころから朗読が大好きでした。
小学校4年の時に、大学の文化祭で朗読をするという経験をしました。
そこでぽつんと何かが芽生えたのかもしれません。
中学では声変わりをして、美術部に入って、文化祭で演劇コンクールがあって、美術関係の事をやっていました。
お父さん役が急遽僕にまわってきて、それが大好評で、2年、3年と僕が主役になり優勝しました。
高校では演劇同好会を演劇部に昇格させて、高校演劇連盟にはいって大会に出るようにしていきました。
ライブ感がたまらなかったです。
当時不条理劇がはやっていて、訳のわからない芝居をやっていました。
大学3年までに卒業必修単位を取ってしまって、後は卒論、1個必修科目がのこっていて、3年で文学座が受かってしまって、それがうけられなくて、文学座に行きたいので何とかならないか、教授に相談したら、前期と後期にレポートを出せばOKという事になりました。
文学座に入ったら、目から鱗のようなことが毎日ありました。
今まで自分がやりたいようにやっていて、心をちゃんと人に伝えないといけない、というような基本からでした。
褒めてもらいたかったが、褒めてもらう事は一度も無かった。
好きでやっているので、辞めたいと思ったことはないです。
1977年NHK大河ドラマ「花神」の沖田総司 役でデビュー。
新人オーディションがあって、それに参加したら大河ドラマの役が来ました。
最初は何にも判らなかったので、かつらを付けてもらったがきつかった、刀を差して1時間立って待っていて、現場に行って「顔色が青いよ」と言われたとたんに、気を失ってしまいました。(緊張、長く立っていたいた、かつらによるこめかみの痛さ)
「花神」の次のドラマで小山内 美江子(おさない みえこ)さんに気に入っていただいて、
「 マー姉ちゃん」「3年B組金八先生」へと繋がって行きました。
1999年アニメ「キョロちゃん」で声優デビュー。
本当はもっと前に海外の吹き替えに出ていました。
海外ドラマが楽しくて面白くてやりたいなあと思っていました。
あるきっかけで吹き替えの仕事をするようになって、面白くてのめり込んでいました。
ラジオドラマが実は一番好きでした。
声だけで表現することの楽しさがありました。
身体を使って演技していたものが声だけになるが、実は声も身体の一部と気付きました。
それでもっと面白くなりました。
アニメは描かれた絵でしかないので、それに命を吹き込むには大きく作り込んでいかなくてはいけないが、吹き替えは作り上げられた人物、声、演技があるわけで、それを無茶くちゃにはできないので、それに或る程度乗っかって、自分の芝居をしなくてはいけない。
アニメは大げさにやってもかまわないが、実写では大げさにやると浮いてしまう。
吹き替えをやる時の仕事の極意は、人の表情を瞬時に読み取る能力、それに合わせて変えて行く。
その役の身体になる。(病気の状態、寝ている状態などを、立っていても声でそういう状態を作り出すようにする)
声優を目指す若い人に対しては「口先で芝居をするな」、これをまず一番言いたい。
僕が文学座に入ってやって行けるかどうか不安で、教授に聞いた時に、一緒に飲みながら「おのずから道は開ける」と一言教授から言われました。
だから僕も同じ様なことしか言えない。
強い意志を持っていれば絶対成れると思うが。
「努力は必ず報われる、もし報われない努力があるとすれば、それはまだ努力とはいえない。」 王さんの言葉ですがこの言葉が好きです。
小学生に対して、朗読をしています、4年生「蜘蛛の糸」(芥川龍之介)をやりました。
5年生が「トロッコ」(芥川龍之介) 6年生が「注文の多い料理店」(宮沢賢治)
子供達の眼の色が変わってくるんです。
これは楽しいです、ライブと一緒です。
2019年1月5日土曜日
大村崑(俳優) ・崑ちゃんの笑いと涙の半生記
大村崑(俳優) ・崑ちゃんの笑いと涙の半生記
今年米寿を迎える大村崑さん。昭和6年生まれ87歳。
TVの草創期に「番頭はんと丁稚どん」や、「頓馬天狗」などで一世を風靡し、その後も「細うで繁盛記」などで活躍、去年の大河ドラマ「せごどん」では西郷隆盛の祖父の役を演じ、存在感をしめしました。
今年11月1日に米寿を迎えますが、今もTVドラマなどで元気な姿を見せてくれています。
崑ちゃんの愛称で親しまれる大村崑さんに、TV草創期の思い出など、笑いと涙の半生、若さと元気の秘密を伺います。
歳に見えないと良く言われます。
去年の大河ドラマ「せごどん」では西郷隆盛の祖父の役をやりました。
大河ドラマのオファーが来た時には、ドッキリカメラかと思いました。
無精ひげをはどうしましょうといったら、はやして下さいと言う事で自前の無精ひげをしました。
立ち居振る舞いができるかどうかを見せてOKとなり、スタートしました。
広大なスタジオ、大きな大木が真ん中にあり、最初にそこに上がるのが僕でした。
高所恐怖症なので大変でした。
監督から良く撮れたと言われて安心しました。
兄弟の中で一番上で、父は写真館の主で、母は町の電気屋さんの商売をしていて豊かでした。
或る時父に連れられて行った時に、楽屋で遊んでいるとおしろいを塗られてかつらをつけられて、舞台に出ることになり、やったら歓声、おひねりが飛んできたりして、それが僕の身体の中に住みついてしまいました。
学校で何になりたいと言われて時には、大概の人は陸軍、海軍大将になりたいと言っていましたが、僕だけは役者になりたいと言ったら、先生に殴られました。(戦争中の時代)
小学校2年生の時に父が腸チフスの菌をもらってしまい、町内から村八分になり昭和16年1月1日に亡くなりました。
おじさんの家に養子にいきました。
兄弟は親戚に貰われて行きました。
「おばちゃん」と呼んでいたのを「おかあさん」と呼びなさいと言われて、殴られていまだに片方の耳が難聴になっています。
写真屋だったので結婚式とお葬式の写真を一緒に焼くので、おじさんに別に焼いたほうがいいといったら、逆鱗に触れて、写真屋をつぐんだろうといわれたが、芸能界に入りたいと言ったら「そうか、お前の好きなようにやれ」と言われました。
新世紀というおおきなキャバレーがあり、そこは芸能人が出入りしているという事で、そこに試験を受けに行きました。
眼鏡をかけていたら一発で落ちました。(接客には眼鏡は駄目と言われていた)
縁なしの眼鏡だったらOKということに後日入ることができました。
ボーイが40人いた中で2年ぐらいで、主任が一番上で次がボーイ長で、副ボーイ長になりました。
司会をさせてもらうようになり、本職の司会者が辞めてしまって、司会者になって江利チエミさん、雪村いづみさん、美空ひばりさんとかきて、雪村いづみさんのマネージャーになんとかぼくをプロにしてくださいとお願いしたら、大久保怜さんを紹介して貰うことになりました。
やる仕事は縁の下の力持ちで、ボールを袖で投げていたら、出て来いと言われて、ボールを客席にヘッデイングで放るような形でやったらそれが物凄く受けました。
笑ってくれることは幸せだなあと思って、笑いの世界に入っていこうと思いました。
北野劇場に入れてもらいました。
佐々十郎さん、茶川一郎さん等と出で会ってコントをするようになりました。
そこでの経験が僕の基礎になりました。
花登 筺(はなと こばこ)さんとの出会いが僕にとって幸運でした。
花登 筺さんと一緒にTVに進出して行く。
最初は昭和33年から35年に『やりくりアパート』(佐々十郎,茶川一郎,大村崑)
同年 『頓馬天狗』 白い頭巾をかぶった鼻眼鏡で木馬に乗ってやってくる。
生放送を週に9本掛け持ちで持っていて、睡眠不足になりました。
鼻眼鏡は小学校2,3年生のころ母親のまねで針仕事をして見せたら笑っていました。
「細うで繁盛記」「どてらいやつ」「赤い霊柩車」シリーズなどにも出演。
実の親が腸チフスで亡くなった時には非常につらかった。
学校ではうつると言って周りの人は近寄らなかったし、銭湯にも入れてくれなかった。
親戚が考えて学校も変えて、その後は誰からもいじめは無かった。
二度目の母親がすごかった、負けたらいかんというのを常にいっていました。
そういったことも基礎になったと思います。
戦争の時のひもじさ、死体の整理などをやらされたり、戦争が早く終わって欲しいと思いました。
道端に夏ミカンの皮が落ちていて、拾おうと思って手を出したら、地下足袋でその上から踏まれ、おっさんがそれを取って腹巻の中に入れて、ひとかけら口に入れてどんなもんだと言うような顔をしていたのを、今でも思い出します。
新世紀に勤めていたころ、ビリヤードをやっていた時に、喀血で病院にいったら結核でした。
母が医者に寸志として砂糖などを持って行き交渉して、翌日医者の処に行くことになりました。
お金のあるうちは進駐軍の新薬を注射されることができました。
6時間の手術をして、医師から40歳までしか生きられないぞと言われました。
何故元気でここまで来たのかわからないが、笑いがいいのかもしれない。
今ジムへ通って9カ月になります。
元気の源は強いて言うなら眠ることかもしれない7,8時間は眠ります。
酒はウイスキーの水割りとかで飲んでいます。
歯は全部自分の歯です。
歯石を良く取りなさいと大川橋蔵さんから言われました。
食べ物は「まごはやさしい」 マメ、ゴマ、わかめ、野菜、刺し身、シイタケ、イモ
を良く噛んで食べる。
夢はもう一遍大河ドラマに出たいのと、横綱審議委員会に出たいと思います。
今年米寿を迎える大村崑さん。昭和6年生まれ87歳。
TVの草創期に「番頭はんと丁稚どん」や、「頓馬天狗」などで一世を風靡し、その後も「細うで繁盛記」などで活躍、去年の大河ドラマ「せごどん」では西郷隆盛の祖父の役を演じ、存在感をしめしました。
今年11月1日に米寿を迎えますが、今もTVドラマなどで元気な姿を見せてくれています。
崑ちゃんの愛称で親しまれる大村崑さんに、TV草創期の思い出など、笑いと涙の半生、若さと元気の秘密を伺います。
歳に見えないと良く言われます。
去年の大河ドラマ「せごどん」では西郷隆盛の祖父の役をやりました。
大河ドラマのオファーが来た時には、ドッキリカメラかと思いました。
無精ひげをはどうしましょうといったら、はやして下さいと言う事で自前の無精ひげをしました。
立ち居振る舞いができるかどうかを見せてOKとなり、スタートしました。
広大なスタジオ、大きな大木が真ん中にあり、最初にそこに上がるのが僕でした。
高所恐怖症なので大変でした。
監督から良く撮れたと言われて安心しました。
兄弟の中で一番上で、父は写真館の主で、母は町の電気屋さんの商売をしていて豊かでした。
或る時父に連れられて行った時に、楽屋で遊んでいるとおしろいを塗られてかつらをつけられて、舞台に出ることになり、やったら歓声、おひねりが飛んできたりして、それが僕の身体の中に住みついてしまいました。
学校で何になりたいと言われて時には、大概の人は陸軍、海軍大将になりたいと言っていましたが、僕だけは役者になりたいと言ったら、先生に殴られました。(戦争中の時代)
小学校2年生の時に父が腸チフスの菌をもらってしまい、町内から村八分になり昭和16年1月1日に亡くなりました。
おじさんの家に養子にいきました。
兄弟は親戚に貰われて行きました。
「おばちゃん」と呼んでいたのを「おかあさん」と呼びなさいと言われて、殴られていまだに片方の耳が難聴になっています。
写真屋だったので結婚式とお葬式の写真を一緒に焼くので、おじさんに別に焼いたほうがいいといったら、逆鱗に触れて、写真屋をつぐんだろうといわれたが、芸能界に入りたいと言ったら「そうか、お前の好きなようにやれ」と言われました。
新世紀というおおきなキャバレーがあり、そこは芸能人が出入りしているという事で、そこに試験を受けに行きました。
眼鏡をかけていたら一発で落ちました。(接客には眼鏡は駄目と言われていた)
縁なしの眼鏡だったらOKということに後日入ることができました。
ボーイが40人いた中で2年ぐらいで、主任が一番上で次がボーイ長で、副ボーイ長になりました。
司会をさせてもらうようになり、本職の司会者が辞めてしまって、司会者になって江利チエミさん、雪村いづみさん、美空ひばりさんとかきて、雪村いづみさんのマネージャーになんとかぼくをプロにしてくださいとお願いしたら、大久保怜さんを紹介して貰うことになりました。
やる仕事は縁の下の力持ちで、ボールを袖で投げていたら、出て来いと言われて、ボールを客席にヘッデイングで放るような形でやったらそれが物凄く受けました。
笑ってくれることは幸せだなあと思って、笑いの世界に入っていこうと思いました。
北野劇場に入れてもらいました。
佐々十郎さん、茶川一郎さん等と出で会ってコントをするようになりました。
そこでの経験が僕の基礎になりました。
花登 筺(はなと こばこ)さんとの出会いが僕にとって幸運でした。
花登 筺さんと一緒にTVに進出して行く。
最初は昭和33年から35年に『やりくりアパート』(佐々十郎,茶川一郎,大村崑)
大阪の下町にあるアパート「なにわ荘」を舞台に、住人である青年3人組や管理人一家が巻き起こすドタバタを描くコメディです。
昭和34年には『番頭はんと丁稚どん』 ファンレターが一カ月に柳行李に一杯になりました。同年 『頓馬天狗』 白い頭巾をかぶった鼻眼鏡で木馬に乗ってやってくる。
生放送を週に9本掛け持ちで持っていて、睡眠不足になりました。
鼻眼鏡は小学校2,3年生のころ母親のまねで針仕事をして見せたら笑っていました。
「細うで繁盛記」「どてらいやつ」「赤い霊柩車」シリーズなどにも出演。
実の親が腸チフスで亡くなった時には非常につらかった。
学校ではうつると言って周りの人は近寄らなかったし、銭湯にも入れてくれなかった。
親戚が考えて学校も変えて、その後は誰からもいじめは無かった。
二度目の母親がすごかった、負けたらいかんというのを常にいっていました。
そういったことも基礎になったと思います。
戦争の時のひもじさ、死体の整理などをやらされたり、戦争が早く終わって欲しいと思いました。
道端に夏ミカンの皮が落ちていて、拾おうと思って手を出したら、地下足袋でその上から踏まれ、おっさんがそれを取って腹巻の中に入れて、ひとかけら口に入れてどんなもんだと言うような顔をしていたのを、今でも思い出します。
新世紀に勤めていたころ、ビリヤードをやっていた時に、喀血で病院にいったら結核でした。
母が医者に寸志として砂糖などを持って行き交渉して、翌日医者の処に行くことになりました。
お金のあるうちは進駐軍の新薬を注射されることができました。
6時間の手術をして、医師から40歳までしか生きられないぞと言われました。
何故元気でここまで来たのかわからないが、笑いがいいのかもしれない。
今ジムへ通って9カ月になります。
元気の源は強いて言うなら眠ることかもしれない7,8時間は眠ります。
酒はウイスキーの水割りとかで飲んでいます。
歯は全部自分の歯です。
歯石を良く取りなさいと大川橋蔵さんから言われました。
食べ物は「まごはやさしい」 マメ、ゴマ、わかめ、野菜、刺し身、シイタケ、イモ
を良く噛んで食べる。
夢はもう一遍大河ドラマに出たいのと、横綱審議委員会に出たいと思います。
2019年1月4日金曜日
角幡唯介(ノンフィクション作家・探検家) ・極夜を行く
角幡唯介(ノンフィクション作家・探検家) ・極夜を行く
本屋の店員が一番読みたい本を選ぶ、本屋大賞のノンフィクション本大賞に角幡唯介さんの「極夜行」が選ばれました。
探検家として4カ月も太陽が昇らない北極の冬、極夜を冒険した日々がつづられています。
角幡唯介さんは北海道芦別市生まれ42歳、早稲田大学探検部のOBで、新聞記者を5年務めたあと、本格的な執筆活動に入りました。
2009年にはチベットにある世界最大の峡谷の未踏地帯を一人で踏破、その探検を記した「空白の5マイル」で開高健ノンフィクション賞を受賞するなど様々な著書を発表しています。
角幡唯介さんは太陽が地平線の下に沈んで、姿を見せないという極夜の先に何を見たのか、何を感じたのか伺いました。
「極夜行」グリーンランドのシオラパルクから極夜の深奥部に向かってたった一人でで犬一匹と往復で1300kmを目指した。
昔から極地探検記が好きで、100年以上前の北極探検の本などでは、準備をして太陽が上がって明るくなって探検に向かう状況が描かれている。
そういったものを読んでいて、極夜で過ごすってどんな事なのかとか、太陽があがるとはどういうことか、ということへの関心があって、いつの間にか自分も行ってみたいと変わっていった。
暗闇の世界の本質を探って行く、最期に太陽を見た時に自分がどう感じるか、その太陽とは何かなど、普段考え無くなったことに対して経験できるのではないかと思いました。
結婚して子供が生まれても、やりたいなという気持ちは変わらなかったです。
氷点下30,40度は当たり前でしたが、でも寒さには慣れます。
ブリザードは怖いが四六時中吹いているわけではない。
暗闇はズーと続くので暗闇に対してのストレスは、蓄積するのが凄く大きいです。
見えないことで困難度は上がりますから。
暗さも一律ずーっと続くわけでも無くて、極夜が始まったばっかりは地平線の近くまで太陽は昇ってくるので昼間はだいぶ明るくなります。
月もあるので月の明るい時間帯に合わせて、自分の生活のリズムを作っていく感じです。
GPSを使わないで旅をしようと思いました。
GPSを使うと極夜に行く意味がなくなる。
極夜という闇の中で旅をするとどういう感覚になるのか、極夜というものはどういう世界なのかを洞察したかった。
極夜の闇の本質を知りたいわけです。
自分の居場所が判らなくなるのが一番怖いわけです。
そういった状況では、明日明後日の事が計画立てられない。
生きて村に帰れないかも判らない、という状況になる訳です。
自分が生きているということに、リアルの想像出来なくなる。
六分儀も最初に飛ばされてしまって、地図とコンパスで対応しました。
北極圏は起伏があまりないので、判りにくい。
五感を使って、ソリの重さでのぼっている、下っていることを判断する。
コンパスも信用できなくなってくる事があり、星を見ながら最終的に進むとか、する訳です。
GPSを使って暗い中を歩いてきましたと言っても、なにも発見はもたらされないので行く意味がないわけです。
星の輝きは北極よりも日本の冬山登山で見る星の方が綺麗に見えます。
月はあまり変わらないです。
月に照らされた氷原、ツンドラの台地は綺麗で、地球ではないような感覚があります。
星座を観ていると星は個性があることが判って来るし、星座の物語が出来て来ることが判ってきます。
ずーっと星を見て真っ直ぐ歩いて行かなければいけないので、自分の命を握っている非常に重要な存在なので、星を自分の経験したことのないような形で見えて来る。
月明かりも行動する時の大きな要素になるので、月も自分の中で見えて来る。
2016年12月にスタートした極夜行、78日目に昇った太陽をみて、言葉ではなかなか表しにくいが、感動したという以外に何て言ったらいいかわからない。
物凄い、大きな火の玉のような感じがしました。
大きいなあと思うと同時に暖かいなあと思いました。
光は希望だと思いました。
暗いと未来が見渡せない、自分がどこにいるのか判らない。
見えている、見えていないという事は将来の自分に対しての想像力と関わっていると思う。
見えると言う事は将来に対して、希望持てると言う事だと凄く判りました。
次に太陽を見た時にはそういった感動は覚えなかった。
根本的には生きている経験を、リアルに体験したいからだと思います。
普段は生とか死を意識しないのでそれをするには、飛びだして何かを経験しないといけない。
システムの外側に飛びだす事、システムの管理、方向付けが無いので混沌としたカオスが広がっている。
マニュアルが無いので全て自分が考えないといけない、そして行動する。
変な判断をして変な行動をすると、場合によって死んでしまうかもしれない。
生のダイナニズムがある。(判断、行動、結果)
それが本当の意味での自由だと思います、別の力等によって干渉されたりだとかが無い。
その自由はめちゃくちゃきついが、そこには生々しい手ごたえがあり、その手ごたえは日常管理されたシステムの中では味わえないから、冒険、登山をすると生きている実感が味わえるんだと思います。
今は成果ばかり重視して、本質的な事を考え無くなってきていると思います。
冒険の本質は人間の日常的な管理された枠組みの外側に出ることですが、今はそういう場所が無いし、対象が見つからないから、判りやすい目標にみんなむらがってそれが冒険だとみなされつつありますが、本質は違うと思います。
僕の場合本を書きたいということがあるので、自分の行動をどう表現したいか考えるので、本質的な事をしたいとか、物事突き詰めて考えてという傾向はあると思います。
書くことは行動起こすと事と同じ重要性を持っているので、本質的な事を最終的に書きたいと思う気持ちがあるので、そういうことも冒険に駆り立てる一因としてあるのかなあと思います。
後悔したくないという気持ちはあります、人生一回ですから。
迎合したくないという気持ちはあります。
耳触りのいいメッセージをしたいとかは思わない。
自分からこういう生き方をすべきなんじゃないか、とかというつもりはないです。
今年は犬ぞりを始めようかと思います。
犬ぞりだと自分のやりたいことができるんじゃないかと思って、可能性の広がりというか、そいうのを感じて本格的に犬ぞりのトレーニングをしようかなと思っています。
極夜行等で自分が蓄えた知識を使わなくなるのは勿体なあと思い始めて、自分が使える場所みたいなものを広げて行って、それを使って旅を出来ることを目指しています。
極夜行以後探険的に自分で新たなものがみつかっていなくて、もっとうまい極地旅行家になりたいという気持ちが強いです。
或る意味極夜よりもはるかに探険的な試みになるかもしれない。
自分を突き詰めている旅ですが、自分の中には万人に共通する普遍的なものがあるはずだから、極私的なものを突き詰めれば突き詰めるほど、普遍的なものが見えてくると思うので、自分の中に眠っている普遍性みたいなものを書きたいなあということです。
本屋の店員が一番読みたい本を選ぶ、本屋大賞のノンフィクション本大賞に角幡唯介さんの「極夜行」が選ばれました。
探検家として4カ月も太陽が昇らない北極の冬、極夜を冒険した日々がつづられています。
角幡唯介さんは北海道芦別市生まれ42歳、早稲田大学探検部のOBで、新聞記者を5年務めたあと、本格的な執筆活動に入りました。
2009年にはチベットにある世界最大の峡谷の未踏地帯を一人で踏破、その探検を記した「空白の5マイル」で開高健ノンフィクション賞を受賞するなど様々な著書を発表しています。
角幡唯介さんは太陽が地平線の下に沈んで、姿を見せないという極夜の先に何を見たのか、何を感じたのか伺いました。
「極夜行」グリーンランドのシオラパルクから極夜の深奥部に向かってたった一人でで犬一匹と往復で1300kmを目指した。
昔から極地探検記が好きで、100年以上前の北極探検の本などでは、準備をして太陽が上がって明るくなって探検に向かう状況が描かれている。
そういったものを読んでいて、極夜で過ごすってどんな事なのかとか、太陽があがるとはどういうことか、ということへの関心があって、いつの間にか自分も行ってみたいと変わっていった。
暗闇の世界の本質を探って行く、最期に太陽を見た時に自分がどう感じるか、その太陽とは何かなど、普段考え無くなったことに対して経験できるのではないかと思いました。
結婚して子供が生まれても、やりたいなという気持ちは変わらなかったです。
氷点下30,40度は当たり前でしたが、でも寒さには慣れます。
ブリザードは怖いが四六時中吹いているわけではない。
暗闇はズーと続くので暗闇に対してのストレスは、蓄積するのが凄く大きいです。
見えないことで困難度は上がりますから。
暗さも一律ずーっと続くわけでも無くて、極夜が始まったばっかりは地平線の近くまで太陽は昇ってくるので昼間はだいぶ明るくなります。
月もあるので月の明るい時間帯に合わせて、自分の生活のリズムを作っていく感じです。
GPSを使わないで旅をしようと思いました。
GPSを使うと極夜に行く意味がなくなる。
極夜という闇の中で旅をするとどういう感覚になるのか、極夜というものはどういう世界なのかを洞察したかった。
極夜の闇の本質を知りたいわけです。
自分の居場所が判らなくなるのが一番怖いわけです。
そういった状況では、明日明後日の事が計画立てられない。
生きて村に帰れないかも判らない、という状況になる訳です。
自分が生きているということに、リアルの想像出来なくなる。
六分儀も最初に飛ばされてしまって、地図とコンパスで対応しました。
北極圏は起伏があまりないので、判りにくい。
五感を使って、ソリの重さでのぼっている、下っていることを判断する。
コンパスも信用できなくなってくる事があり、星を見ながら最終的に進むとか、する訳です。
GPSを使って暗い中を歩いてきましたと言っても、なにも発見はもたらされないので行く意味がないわけです。
星の輝きは北極よりも日本の冬山登山で見る星の方が綺麗に見えます。
月はあまり変わらないです。
月に照らされた氷原、ツンドラの台地は綺麗で、地球ではないような感覚があります。
星座を観ていると星は個性があることが判って来るし、星座の物語が出来て来ることが判ってきます。
ずーっと星を見て真っ直ぐ歩いて行かなければいけないので、自分の命を握っている非常に重要な存在なので、星を自分の経験したことのないような形で見えて来る。
月明かりも行動する時の大きな要素になるので、月も自分の中で見えて来る。
2016年12月にスタートした極夜行、78日目に昇った太陽をみて、言葉ではなかなか表しにくいが、感動したという以外に何て言ったらいいかわからない。
物凄い、大きな火の玉のような感じがしました。
大きいなあと思うと同時に暖かいなあと思いました。
光は希望だと思いました。
暗いと未来が見渡せない、自分がどこにいるのか判らない。
見えている、見えていないという事は将来の自分に対しての想像力と関わっていると思う。
見えると言う事は将来に対して、希望持てると言う事だと凄く判りました。
次に太陽を見た時にはそういった感動は覚えなかった。
根本的には生きている経験を、リアルに体験したいからだと思います。
普段は生とか死を意識しないのでそれをするには、飛びだして何かを経験しないといけない。
システムの外側に飛びだす事、システムの管理、方向付けが無いので混沌としたカオスが広がっている。
マニュアルが無いので全て自分が考えないといけない、そして行動する。
変な判断をして変な行動をすると、場合によって死んでしまうかもしれない。
生のダイナニズムがある。(判断、行動、結果)
それが本当の意味での自由だと思います、別の力等によって干渉されたりだとかが無い。
その自由はめちゃくちゃきついが、そこには生々しい手ごたえがあり、その手ごたえは日常管理されたシステムの中では味わえないから、冒険、登山をすると生きている実感が味わえるんだと思います。
今は成果ばかり重視して、本質的な事を考え無くなってきていると思います。
冒険の本質は人間の日常的な管理された枠組みの外側に出ることですが、今はそういう場所が無いし、対象が見つからないから、判りやすい目標にみんなむらがってそれが冒険だとみなされつつありますが、本質は違うと思います。
僕の場合本を書きたいということがあるので、自分の行動をどう表現したいか考えるので、本質的な事をしたいとか、物事突き詰めて考えてという傾向はあると思います。
書くことは行動起こすと事と同じ重要性を持っているので、本質的な事を最終的に書きたいと思う気持ちがあるので、そういうことも冒険に駆り立てる一因としてあるのかなあと思います。
後悔したくないという気持ちはあります、人生一回ですから。
迎合したくないという気持ちはあります。
耳触りのいいメッセージをしたいとかは思わない。
自分からこういう生き方をすべきなんじゃないか、とかというつもりはないです。
今年は犬ぞりを始めようかと思います。
犬ぞりだと自分のやりたいことができるんじゃないかと思って、可能性の広がりというか、そいうのを感じて本格的に犬ぞりのトレーニングをしようかなと思っています。
極夜行等で自分が蓄えた知識を使わなくなるのは勿体なあと思い始めて、自分が使える場所みたいなものを広げて行って、それを使って旅を出来ることを目指しています。
極夜行以後探険的に自分で新たなものがみつかっていなくて、もっとうまい極地旅行家になりたいという気持ちが強いです。
或る意味極夜よりもはるかに探険的な試みになるかもしれない。
自分を突き詰めている旅ですが、自分の中には万人に共通する普遍的なものがあるはずだから、極私的なものを突き詰めれば突き詰めるほど、普遍的なものが見えてくると思うので、自分の中に眠っている普遍性みたいなものを書きたいなあということです。
2019年1月3日木曜日
関野吉晴(探検家・武蔵野美術大学教授) ・我が"探検家人生"の半世紀
関野吉晴(探検家・武蔵野美術大学教授) ・我が"探検家人生"の半世紀
東京生まれ70歳、探検の始まりは一橋大学時代、20歳で探検部を創立、一年間休学してアマゾン流域をたずねました。
その後横浜市立大学医学部に進み、外科医になってからも病院勤務と探検を繰り返しました。
或るイギリスの考古学者が、人類誕生の地アフリカから南米に至るまでの、人類の拡散の道と旅を、グレートジャーニーと名付けましたが、関野さんはその道を遡る旅を44歳から10年かけて成し遂げました。
2002年から武蔵野美術大学で、文化人類学人類史の教授となってからも、探検を続けました。
その中でも新グレートジャーニーは、日本人のルーツを探る旅で、海上ルートなど3方向から探検しました。
探検人生への思いや、今後の夢を語ってもらいます。
高校生の頃探検に興味をもちました。
大学に入ったら親に勘当されてもいいから、自分をそういう身におきたいと思って、探検部を創設して1年間休学してアマゾンに行きました。
直行便が無いのでカナダ経由か、アメリカ経由で行くので24時間ぐらいかかってしまいます。
行先は何処でも良かったが、他の学校の探検部と交流したり、山にも登らないといけないと思っていました。
飯山達雄さんというアマゾンに長期滞在したことのある写真家がいまして、アマゾンの面白さを何回も話を聞いて、早稲田の探険隊では世界で一番長い川ナイル川の遠征を出していて、僕たちは世界で一番大きい川アマゾンをやろうと言うことになりました。
最初はアマゾン川の河口から一番遠いところから下ろうと思いました。
だんだん流れが緩やかになると退屈との戦いでした。
興味の対象は冒険ではなく人間だと言う事が判ってきて、思いっきり我々とは違う、文明とは接触した事の無い人達と、出会いたいと思いました。
情報収集しながらブラジルまで行きました。
奥地までいける材木商人に連れて行ってもらって、アシャニンカ族と言う先住民の居る所に3か月居候生活させてもらいました。
翌年又でかけて、その時にはマチゲンガ族という人達でした。(1973年)
そこの家族とはいまだに付き合っています。(5世代になります。)
物質的には貧しいですが、競争しないので優しい、とにかく時間がゆったりと流れていて、幸福さはものだけでは測れないと思う。
とにかく平等で獲物を取ってきたら、車座になってみんな一緒になって食べるんです。
土地についてはこれは俺のものだとは言わない。
彼等の家に入って見渡すと、いろんなものが置いてあるが、素材の判らないものはない。
彼等は全部自然から素材を取ってきて、自分で作るものしかない。
写真を撮ってきて日本人に見せると、「なにを楽しみに生きているんですか」と良く言われます。
同じ問いをその人たちに言うと、最初はなにも言えないがぽつぽつと言い始めて、「家族が仲良くて自分が健康で、隣人達とも関係が良くて、仕事もよく行っていてその仲間とも上手くやっていて、時々映画、コンサート、好きな本を読んだりと、あたりまえなことなんです。
根本的なところをみると、彼らも同じなんです。
男性は狩り、女性は採集ですが焼き畑農業もやっています。
アマゾンはイモを作っています。
食料を溜めこまない、だから平等でいられる。
食料、家畜など溜めこむことによって分業が起こってきて、差別化されてくる。
先住民の処に行くと泊めてもらったり、食べさせてもらう。
繰り返してゆくうちに、自分の今後の選択肢がいくつかありました。
彼等とは調査の対象として付き合いたく無くて、フッと思い付いたのが医師になることでした。(彼等の役に立つと思いました。)
横浜市立大学医学部にはいりました。
春休み、篤休みに南米に行っていました。
病院勤務する時には一切できませんでした。
一番の教科書は患者さんです。
医療に当たる期間と探検をするスイッチの切り替えが必要でした。(3年単位ぐらい)
或るイギリスの考古学者が、人類誕生の地アフリカから南米に至るまでの、人類の拡散の道と旅を、グレートジャーニーと名付けました。
アマゾンのひとたちは日本人と似ているが、付き合っているうちにいったいこの人達はこんなところまでどうして来たのか、たどってみようと思って始めました。
その人達のルーツをたどる旅を始めました。
家族の反対はもちろんありましたが。
ゴーギャンの絵のタイトルに「我々は何処から来たのか、我々は何者なのか、我々はどこにいくのか」というものがあります。
我々は何処から来たのか→アフリカだろうけれども。
我々は何者なのか→猿との違いが判ると人間の本質が判ってくるのではないか。
我々はどこにいくのか→何処へ行くんだろうかという事を考えたい、そのためには我々はどうすればいいのかという事を考えてみたい。
いま世界で何が起こっているんだろうか、という事をたどる旅でもある訳です。
旅を布を織る気持ちで旅をしていました。
縦糸と横糸が合わさって一枚の布になる。
縦糸は南米からアラスカ、シベリアからアフリカ迄線を結ぶことです。
横糸は寄り道で人との付き合いです。
布は何かというと、いろんな人との出会いによって得たものの見方、考え方です。
気付きをずーっと繰り返していって、自分が変わっていくのが面白いです。
移動には近代的動力は使わない。
一番いやなのは治安の悪さで、いくらトレーニングをしても駄目です。
奥地に行くまでは色々大変です。(警察、軍隊、税関など)
あたりまえなことが大切だと言う事が判ります。
病気になった時の健康の大切さ、水が無い時に水に出会った時の喜び、水の大切さが判ります。
汚されて初めて綺麗なのが有難いと判るわけです。
失われて初めて気がつく。
自分の足元をみたいと思いましたので、工場で働いたりしました。
①北方ルート シベリア、サハリン、北海道ルート
②中国、朝鮮半島経由でやって来るルート
③南方ルート 海からのルート
自分の腕力脚力だけでやろうと、それが新グレートジャーニーです。
インドネシアで太古の船があったらと思って調査に行ったがありませんでした。
アマゾンを思い出して太古の人のコンセプトと言う事で道具も砂鉄から作り始めました。
たたら製鉄で玉鋼を作り道具を作っていきました。
インドネシアの大木を探して舟を作りました。
学生たちと一緒に舟作りをして1年間かかりました。
インドネシア、マレーシア、フィリピン、台湾、石垣島へとゴールインしました。
日本人は本当に複雑で、いろんなところから色んな人たちが集まって、混血して出来たのが日本人だと実感として判りました。
計画を立てようとしたことは無くて自然と湧いてくる。
東京生まれ70歳、探検の始まりは一橋大学時代、20歳で探検部を創立、一年間休学してアマゾン流域をたずねました。
その後横浜市立大学医学部に進み、外科医になってからも病院勤務と探検を繰り返しました。
或るイギリスの考古学者が、人類誕生の地アフリカから南米に至るまでの、人類の拡散の道と旅を、グレートジャーニーと名付けましたが、関野さんはその道を遡る旅を44歳から10年かけて成し遂げました。
2002年から武蔵野美術大学で、文化人類学人類史の教授となってからも、探検を続けました。
その中でも新グレートジャーニーは、日本人のルーツを探る旅で、海上ルートなど3方向から探検しました。
探検人生への思いや、今後の夢を語ってもらいます。
高校生の頃探検に興味をもちました。
大学に入ったら親に勘当されてもいいから、自分をそういう身におきたいと思って、探検部を創設して1年間休学してアマゾンに行きました。
直行便が無いのでカナダ経由か、アメリカ経由で行くので24時間ぐらいかかってしまいます。
行先は何処でも良かったが、他の学校の探検部と交流したり、山にも登らないといけないと思っていました。
飯山達雄さんというアマゾンに長期滞在したことのある写真家がいまして、アマゾンの面白さを何回も話を聞いて、早稲田の探険隊では世界で一番長い川ナイル川の遠征を出していて、僕たちは世界で一番大きい川アマゾンをやろうと言うことになりました。
最初はアマゾン川の河口から一番遠いところから下ろうと思いました。
だんだん流れが緩やかになると退屈との戦いでした。
興味の対象は冒険ではなく人間だと言う事が判ってきて、思いっきり我々とは違う、文明とは接触した事の無い人達と、出会いたいと思いました。
情報収集しながらブラジルまで行きました。
奥地までいける材木商人に連れて行ってもらって、アシャニンカ族と言う先住民の居る所に3か月居候生活させてもらいました。
翌年又でかけて、その時にはマチゲンガ族という人達でした。(1973年)
そこの家族とはいまだに付き合っています。(5世代になります。)
物質的には貧しいですが、競争しないので優しい、とにかく時間がゆったりと流れていて、幸福さはものだけでは測れないと思う。
とにかく平等で獲物を取ってきたら、車座になってみんな一緒になって食べるんです。
土地についてはこれは俺のものだとは言わない。
彼等の家に入って見渡すと、いろんなものが置いてあるが、素材の判らないものはない。
彼等は全部自然から素材を取ってきて、自分で作るものしかない。
写真を撮ってきて日本人に見せると、「なにを楽しみに生きているんですか」と良く言われます。
同じ問いをその人たちに言うと、最初はなにも言えないがぽつぽつと言い始めて、「家族が仲良くて自分が健康で、隣人達とも関係が良くて、仕事もよく行っていてその仲間とも上手くやっていて、時々映画、コンサート、好きな本を読んだりと、あたりまえなことなんです。
根本的なところをみると、彼らも同じなんです。
男性は狩り、女性は採集ですが焼き畑農業もやっています。
アマゾンはイモを作っています。
食料を溜めこまない、だから平等でいられる。
食料、家畜など溜めこむことによって分業が起こってきて、差別化されてくる。
先住民の処に行くと泊めてもらったり、食べさせてもらう。
繰り返してゆくうちに、自分の今後の選択肢がいくつかありました。
彼等とは調査の対象として付き合いたく無くて、フッと思い付いたのが医師になることでした。(彼等の役に立つと思いました。)
横浜市立大学医学部にはいりました。
春休み、篤休みに南米に行っていました。
病院勤務する時には一切できませんでした。
一番の教科書は患者さんです。
医療に当たる期間と探検をするスイッチの切り替えが必要でした。(3年単位ぐらい)
或るイギリスの考古学者が、人類誕生の地アフリカから南米に至るまでの、人類の拡散の道と旅を、グレートジャーニーと名付けました。
アマゾンのひとたちは日本人と似ているが、付き合っているうちにいったいこの人達はこんなところまでどうして来たのか、たどってみようと思って始めました。
その人達のルーツをたどる旅を始めました。
家族の反対はもちろんありましたが。
ゴーギャンの絵のタイトルに「我々は何処から来たのか、我々は何者なのか、我々はどこにいくのか」というものがあります。
我々は何処から来たのか→アフリカだろうけれども。
我々は何者なのか→猿との違いが判ると人間の本質が判ってくるのではないか。
我々はどこにいくのか→何処へ行くんだろうかという事を考えたい、そのためには我々はどうすればいいのかという事を考えてみたい。
いま世界で何が起こっているんだろうか、という事をたどる旅でもある訳です。
旅を布を織る気持ちで旅をしていました。
縦糸と横糸が合わさって一枚の布になる。
縦糸は南米からアラスカ、シベリアからアフリカ迄線を結ぶことです。
横糸は寄り道で人との付き合いです。
布は何かというと、いろんな人との出会いによって得たものの見方、考え方です。
気付きをずーっと繰り返していって、自分が変わっていくのが面白いです。
移動には近代的動力は使わない。
一番いやなのは治安の悪さで、いくらトレーニングをしても駄目です。
奥地に行くまでは色々大変です。(警察、軍隊、税関など)
あたりまえなことが大切だと言う事が判ります。
病気になった時の健康の大切さ、水が無い時に水に出会った時の喜び、水の大切さが判ります。
汚されて初めて綺麗なのが有難いと判るわけです。
失われて初めて気がつく。
自分の足元をみたいと思いましたので、工場で働いたりしました。
①北方ルート シベリア、サハリン、北海道ルート
②中国、朝鮮半島経由でやって来るルート
③南方ルート 海からのルート
自分の腕力脚力だけでやろうと、それが新グレートジャーニーです。
インドネシアで太古の船があったらと思って調査に行ったがありませんでした。
アマゾンを思い出して太古の人のコンセプトと言う事で道具も砂鉄から作り始めました。
たたら製鉄で玉鋼を作り道具を作っていきました。
インドネシアの大木を探して舟を作りました。
学生たちと一緒に舟作りをして1年間かかりました。
インドネシア、マレーシア、フィリピン、台湾、石垣島へとゴールインしました。
日本人は本当に複雑で、いろんなところから色んな人たちが集まって、混血して出来たのが日本人だと実感として判りました。
計画を立てようとしたことは無くて自然と湧いてくる。
2019年1月2日水曜日
木村万里(笑いのライブプロデューサー) ・笑いの仕掛人として40年
木村万里(笑いのライブプロデューサー) ・笑いの仕掛人として40年
富山県生まれ大阪育ち、20歳のころ上京し、デザイン会社に就職、受け付けを担当、その後雑誌の編集に携わり、タウン誌東京情報の演芸祭りボランティアのページを担当、落語特集を一人で9ページ作ったりしました。
木村さんはこのころに、笑いをライフワークにするベースが築かれたと言います。
その後、民放のTV番組の小冊子の編集や、新聞の連載クラブ等を通じて幅広く芸人たちを紹介してきました。
書くばかりではなく直接ライブに関わっていきたいと思い、10年ほど前に企画制作した「渦」を立ち上げ、落語、大道芸、音楽、講談、スタンダップコミック、そういうジャンルの垣根を越えた混在ライブの公演を続けて来ました。
下北沢の劇場で行う公演では去年の秋40を数えています。
「渦」42回目の公演を開催、10年以上になります。
年に2回行います。
みんな忙しいので声をかける順番が難しいです。
柳家小春(「たぬき」を全編通しで弾いてくれた)、小林紀一(三木のり平の息子、遊芸人 手袋で人形を作って色々芸をする)、坂本 頼光、すわ 親治、米粒写経(漫才)等が参加しました。
全部で6公演です。
色んな笑いを笑ってもらいたいともいます、笑いの質がそれぞれ違います。
違うジャンルの方を組み合わせる。
お客さんだけでなく、楽屋でもシャッフルされます。
Aさんを観に来たのにBさんの面白さに気付いたりするわけです。
「寄席」だと芸術協会等に属さないと出られないので、大道芸なども含めそれぞれの良さを新しく発見して喜んでもらいたいと思っています。
TVだとどうしても画一的になってしまう、レンズが選んで観させられている。
ライブだと自分の眼で色んな方向から見られる。
大阪の施設に住み込みで働いていました。
宿泊と結婚式、宴会、会議を全部そこでやるので、全てに対応しなくてはいけない。
大阪市立大学に行きたかったが受からなかった。
本が好きで図書館の司書になったら本の中で囲まれて暮らせると思って、図書館司書短大が東京にあることが判ってそれをめざしました。
短大に行くためのお金もたまらずデザイン会社に来ました。
受付に入って、関西弁をなおすのに苦労しました。
コピーライター養成講座に行きました。
この仕事には向かないかと思ってタウン誌の仕事をすることになりました。
担当したのはボランティアと祭りと演芸でした。
当時ボランティアという言葉が無かったです。
手話の教室にも行きました。
祭りはお神輿情報の取材などを行い、演芸は「寄席」通いをしたり、お蕎麦屋さんでやっているのを特集したりしていました。
大阪時代19歳のころに立川談志さんがディスクジョッキーをやっていて大ファンでした。
20歳のころ梅田花月の談志独演会に入って「芝浜」を聞いて衝撃を受けました。
立川談志さんは自分でもできが良かったと思ったのか、終わってもお客さんと坐って話をしていて私もそこに行きたかったが、いけなくて拍手をして、急ぎ仕事場に帰らざるをえませんでした。
立川談志さんに手紙を出しました、そうしたら返事が来て居て又感動しました。
山本 益博さんを立川談志さんから一声紹介されました。
漫才、落語、演芸、山下清のドラマとか色んな編成がありました。
それの小冊子の編集でした。
かなりハードで寝むる時間も無く、一人で20ページぐらいをやっていましたが、色んな人との出会いがあり楽しかったです。
文化人類学者山口昌男さん、作家の色川武大さん等とお会いすることができました。
その仕事が笑いのライブプロデューサーのいしずえに成っています。
毎日新聞に連載されるようになりました。
「お笑い昆虫記」、「お笑い採集記」、「お笑い漂流記」など担当しました。
しかしその現場の面白さを伝えられずに、じゃあライブだと思うようになりました。
当時は落語界は冬の時代でした。
志の輔さんとかのライブのお手伝いをしてやったりしていました。
ライブだと肌感覚で見られる、TVだとカメラマンが捉えたレンズを見させられている感じがしました。
ライブだと「気」があります。
笑いの効用、笑いは一つのリセットになります。
悩んでいると外が見えなくなるが、笑うとほどける、息を吐くと言う事は大事なことだと思います、身体を活性化する。
20歳のころにデザイン会社に入っているころ、ブレインと言うのがあって「関係としての笑い」という連載がありました。
ライフワークに足りるなと思いました。
それは「日本人の笑い」という本になって出ました。
落語には救われました、落語に出てくる人は普通にいきている、良いのかこんなふうでと楽になりました。
笑いは潤滑油、価値転轍機となります。
生きてゆくためには必須のアイテムだと思います。
同じことばっかり考えているとからだが悲鳴を上げます、身体の声を聞いて身体を信用する。
戦争がなくなればいいと思っていて、何をすればいいかというと、価値観って一杯あるよという事をみんなが受け入れれば、戦いは少なくなるのではないかと根本に思っています。
色んな事を許容できる、身体でいえば体幹、気持ちの体幹みたいなものを笑いで鍛えて行きたい、そうすればどんなことがきてもへっちゃらです。
富山県生まれ大阪育ち、20歳のころ上京し、デザイン会社に就職、受け付けを担当、その後雑誌の編集に携わり、タウン誌東京情報の演芸祭りボランティアのページを担当、落語特集を一人で9ページ作ったりしました。
木村さんはこのころに、笑いをライフワークにするベースが築かれたと言います。
その後、民放のTV番組の小冊子の編集や、新聞の連載クラブ等を通じて幅広く芸人たちを紹介してきました。
書くばかりではなく直接ライブに関わっていきたいと思い、10年ほど前に企画制作した「渦」を立ち上げ、落語、大道芸、音楽、講談、スタンダップコミック、そういうジャンルの垣根を越えた混在ライブの公演を続けて来ました。
下北沢の劇場で行う公演では去年の秋40を数えています。
「渦」42回目の公演を開催、10年以上になります。
年に2回行います。
みんな忙しいので声をかける順番が難しいです。
柳家小春(「たぬき」を全編通しで弾いてくれた)、小林紀一(三木のり平の息子、遊芸人 手袋で人形を作って色々芸をする)、坂本 頼光、すわ 親治、米粒写経(漫才)等が参加しました。
全部で6公演です。
色んな笑いを笑ってもらいたいともいます、笑いの質がそれぞれ違います。
違うジャンルの方を組み合わせる。
お客さんだけでなく、楽屋でもシャッフルされます。
Aさんを観に来たのにBさんの面白さに気付いたりするわけです。
「寄席」だと芸術協会等に属さないと出られないので、大道芸なども含めそれぞれの良さを新しく発見して喜んでもらいたいと思っています。
TVだとどうしても画一的になってしまう、レンズが選んで観させられている。
ライブだと自分の眼で色んな方向から見られる。
大阪の施設に住み込みで働いていました。
宿泊と結婚式、宴会、会議を全部そこでやるので、全てに対応しなくてはいけない。
大阪市立大学に行きたかったが受からなかった。
本が好きで図書館の司書になったら本の中で囲まれて暮らせると思って、図書館司書短大が東京にあることが判ってそれをめざしました。
短大に行くためのお金もたまらずデザイン会社に来ました。
受付に入って、関西弁をなおすのに苦労しました。
コピーライター養成講座に行きました。
この仕事には向かないかと思ってタウン誌の仕事をすることになりました。
担当したのはボランティアと祭りと演芸でした。
当時ボランティアという言葉が無かったです。
手話の教室にも行きました。
祭りはお神輿情報の取材などを行い、演芸は「寄席」通いをしたり、お蕎麦屋さんでやっているのを特集したりしていました。
大阪時代19歳のころに立川談志さんがディスクジョッキーをやっていて大ファンでした。
20歳のころ梅田花月の談志独演会に入って「芝浜」を聞いて衝撃を受けました。
立川談志さんは自分でもできが良かったと思ったのか、終わってもお客さんと坐って話をしていて私もそこに行きたかったが、いけなくて拍手をして、急ぎ仕事場に帰らざるをえませんでした。
立川談志さんに手紙を出しました、そうしたら返事が来て居て又感動しました。
山本 益博さんを立川談志さんから一声紹介されました。
漫才、落語、演芸、山下清のドラマとか色んな編成がありました。
それの小冊子の編集でした。
かなりハードで寝むる時間も無く、一人で20ページぐらいをやっていましたが、色んな人との出会いがあり楽しかったです。
文化人類学者山口昌男さん、作家の色川武大さん等とお会いすることができました。
その仕事が笑いのライブプロデューサーのいしずえに成っています。
毎日新聞に連載されるようになりました。
「お笑い昆虫記」、「お笑い採集記」、「お笑い漂流記」など担当しました。
しかしその現場の面白さを伝えられずに、じゃあライブだと思うようになりました。
当時は落語界は冬の時代でした。
志の輔さんとかのライブのお手伝いをしてやったりしていました。
ライブだと肌感覚で見られる、TVだとカメラマンが捉えたレンズを見させられている感じがしました。
ライブだと「気」があります。
笑いの効用、笑いは一つのリセットになります。
悩んでいると外が見えなくなるが、笑うとほどける、息を吐くと言う事は大事なことだと思います、身体を活性化する。
20歳のころにデザイン会社に入っているころ、ブレインと言うのがあって「関係としての笑い」という連載がありました。
ライフワークに足りるなと思いました。
それは「日本人の笑い」という本になって出ました。
落語には救われました、落語に出てくる人は普通にいきている、良いのかこんなふうでと楽になりました。
笑いは潤滑油、価値転轍機となります。
生きてゆくためには必須のアイテムだと思います。
同じことばっかり考えているとからだが悲鳴を上げます、身体の声を聞いて身体を信用する。
戦争がなくなればいいと思っていて、何をすればいいかというと、価値観って一杯あるよという事をみんなが受け入れれば、戦いは少なくなるのではないかと根本に思っています。
色んな事を許容できる、身体でいえば体幹、気持ちの体幹みたいなものを笑いで鍛えて行きたい、そうすればどんなことがきてもへっちゃらです。
2019年1月1日火曜日
大野和士(指揮者) ・【母を語る】
大野和士(指揮者) ・【母を語る】
1960年昭和35年東京生まれ、神奈川県立湘南高校から東京芸術大学指揮科に進み、その後ヨーロッパに留学、1987年にアルトゥーロ・トスカニーニ国際指揮者コンクールで優勝。
翌年ザグレブ・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者に就任、音楽監督も兼務して1996年まで在任した。
その後、ドイツ、ベルギー等で音楽監督を務め、2008年からフランス国立リヨン歌劇場において、首席指揮者として活躍を始めた。
2015年からは東京都交響楽団とバルセロナ交響楽団の音楽監督を務め、2018年の秋には新国立劇場の芸術監督に就任しました。
幼いころから音楽に興味をもった大野さんに、指揮者としての基礎の道筋を付けてくださったと言う、お母さんについて話を伺います。
いつも自分が現在やるべきことと、未来のあるべき姿を思いうかべながら活動しています。
自宅はベルギーにあります。
生れは東京ですが小学校3年生で横浜に引っ越してきて、大学卒業まで横浜にいました。
20代半ばからヨーロッパに留学して、ベースとしてはヨーロッパという事でやってきました。
日本には3か月位いましたが、東京都交響楽団と新国立劇場の芸術監督に就任しましたので、その活動を加えますと、4カ月位になってきました。
この仕事を引き受ける時に、いままでオペラ劇場で仕事をしていて演出家、歌い手さんの情報もあったし、日本の若い沢山の大勢の声尾をオーシション等で集中して聞いてきたので、いま手にできる材料を元に新国立劇場に貢献できたらと思って、引き受けることにしました。
ドイツでは沢山のオペラ劇場がありました。
ドイツでオペラの勉強を始めて、ブリュッセル、フランス、スペイン等で勉強しましたが、最初はクロアチアのオーケストラから始まったので、戦争の時だったので苦労をしました。
英語、ドイツ語、イタリア語、フランス語を初めのころ学んで、フランス語、スペイン語をその後学びました。
スペインでは独立運動が盛んなところにいるので、カタルーニア語もやらなければいけないと思って苦労しています。
父が音楽が好きでレコードを買ってきて聞いていて、ヴェートーベン三番交響曲「英雄」の頭に迫力のある衝撃的な和音があるが、それにショックを受けて、ジーンときましたが、その思い出がいまだに耳の奥底に残っていて、音が聞こえてくると嬉しかったので、踊ったり転げ回ったししたそうです。(3歳のころ)
幼稚園の卒園の時に、何になりたいのか聞かれた時に指揮者と書いてありました。
母も小さいころから音を聞くと踊ったりしていたそうです。
女学校時代に薙刀を習って、私によく見せてくれました。(快活でした)
オルガン、ピアノを習い始めたのは、兄がやっていたので始めましたが、そのうち私が熱心にやるものだから、兄はそのうちに辞めてしまいました。(5歳のころ)
母は女学校時代にお茶とお花をやっていて、お稽古ごとの厳しさが好きで、私が指の練習をしているといつの間にか母がやってきて、肩を掴まれたりしていました。
大学に行くようになって、母はお茶の師範として、町の方々を弟子を取って始めるようになりました。
家の中に和(母のお茶)と洋(私のピアノ)の生活してきて自分の音楽家としての人生にも大分影響与えてきたと思います。
若い自分に余り間口を狭くしてはもったいないという事を、母は言っていました。
母は割とおっちょこちょいなところがあり、ものに取りつかれることのある母でした。
音楽の道に進むことに対しては、母は内心大分心配していたと思います。
芸大を卒業後、留学して順風満帆に思えるが、指揮者はオーケストラが無いと指揮者にはなれない。
大学ではそういった機会はほとんどなくて、ピアニストを前にして自分ではもやもや繰り返していて、年に一回披露する機会が与えられるわけですが、自分が思っていたようには動かなくて、指揮者はオーケストラの音が出る一歩二歩先を進んでないと、オーケストラはあのように音が出てこないんです。
タイミングが判らないと、オーケストラは沼地の様になる。
大海原に一人だけ投げ出されてしまったような感じです。
オペラの勉強をしたかったが、作品作品にあった歌い方、フレージング、オーケストラの響きとかを決めて行くのが指揮者の仕事ですが、それをどうやってやっるのかという事が知りたくてミュンヘンに留学したわけです。
カルロス・クライバーという名指揮者がいて、隠れて練習を見に行ったりしました。
セルジュ・チェリビダッケ 名指揮者が指揮をしていて、神様に愛されている巨人達を見て、このような人達になるには不可能ではないかと思った時期がありました。
壁の厚さ壁の高さを思い知ったことがあり、指揮者として契約する立ち場になって、一曲一曲100%織りこんで刻みこんで成功してゆくことから、クロアチアのオーケストラで指揮をすることになり、最初はもの凄く時間がゆっくり流れれてゆく感じでした。
戦争のなかで、オーケストラは演奏会を一回も辞めなかった。
客席は普段よりも一杯になりました。
民族的な紛争で揺れているけれども、音楽をやっている我々の現実と聴衆たちの世界はナショナリズムではなくてインターナショナリズムであると、だからこそ音楽は真の意味で民族を越えて、国境を越えて、人々の中にひとしく浸透する経験をしました。
シオン物語を新国立劇場でオペラの公演を行います。
母は亡くなって3年になりますが、自分の事のやりたいことをやって、それであるからには自分で責任を取りなさい、と生き方を押し指してくれたと思います。
ひなた、となり、影をサポートしてくれて、その裏には彼女自身の素質があって私自身が育まれてきたことは一番感謝していることです。
1960年昭和35年東京生まれ、神奈川県立湘南高校から東京芸術大学指揮科に進み、その後ヨーロッパに留学、1987年にアルトゥーロ・トスカニーニ国際指揮者コンクールで優勝。
翌年ザグレブ・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者に就任、音楽監督も兼務して1996年まで在任した。
その後、ドイツ、ベルギー等で音楽監督を務め、2008年からフランス国立リヨン歌劇場において、首席指揮者として活躍を始めた。
2015年からは東京都交響楽団とバルセロナ交響楽団の音楽監督を務め、2018年の秋には新国立劇場の芸術監督に就任しました。
幼いころから音楽に興味をもった大野さんに、指揮者としての基礎の道筋を付けてくださったと言う、お母さんについて話を伺います。
いつも自分が現在やるべきことと、未来のあるべき姿を思いうかべながら活動しています。
自宅はベルギーにあります。
生れは東京ですが小学校3年生で横浜に引っ越してきて、大学卒業まで横浜にいました。
20代半ばからヨーロッパに留学して、ベースとしてはヨーロッパという事でやってきました。
日本には3か月位いましたが、東京都交響楽団と新国立劇場の芸術監督に就任しましたので、その活動を加えますと、4カ月位になってきました。
この仕事を引き受ける時に、いままでオペラ劇場で仕事をしていて演出家、歌い手さんの情報もあったし、日本の若い沢山の大勢の声尾をオーシション等で集中して聞いてきたので、いま手にできる材料を元に新国立劇場に貢献できたらと思って、引き受けることにしました。
ドイツでは沢山のオペラ劇場がありました。
ドイツでオペラの勉強を始めて、ブリュッセル、フランス、スペイン等で勉強しましたが、最初はクロアチアのオーケストラから始まったので、戦争の時だったので苦労をしました。
英語、ドイツ語、イタリア語、フランス語を初めのころ学んで、フランス語、スペイン語をその後学びました。
スペインでは独立運動が盛んなところにいるので、カタルーニア語もやらなければいけないと思って苦労しています。
父が音楽が好きでレコードを買ってきて聞いていて、ヴェートーベン三番交響曲「英雄」の頭に迫力のある衝撃的な和音があるが、それにショックを受けて、ジーンときましたが、その思い出がいまだに耳の奥底に残っていて、音が聞こえてくると嬉しかったので、踊ったり転げ回ったししたそうです。(3歳のころ)
幼稚園の卒園の時に、何になりたいのか聞かれた時に指揮者と書いてありました。
母も小さいころから音を聞くと踊ったりしていたそうです。
女学校時代に薙刀を習って、私によく見せてくれました。(快活でした)
オルガン、ピアノを習い始めたのは、兄がやっていたので始めましたが、そのうち私が熱心にやるものだから、兄はそのうちに辞めてしまいました。(5歳のころ)
母は女学校時代にお茶とお花をやっていて、お稽古ごとの厳しさが好きで、私が指の練習をしているといつの間にか母がやってきて、肩を掴まれたりしていました。
大学に行くようになって、母はお茶の師範として、町の方々を弟子を取って始めるようになりました。
家の中に和(母のお茶)と洋(私のピアノ)の生活してきて自分の音楽家としての人生にも大分影響与えてきたと思います。
若い自分に余り間口を狭くしてはもったいないという事を、母は言っていました。
母は割とおっちょこちょいなところがあり、ものに取りつかれることのある母でした。
音楽の道に進むことに対しては、母は内心大分心配していたと思います。
芸大を卒業後、留学して順風満帆に思えるが、指揮者はオーケストラが無いと指揮者にはなれない。
大学ではそういった機会はほとんどなくて、ピアニストを前にして自分ではもやもや繰り返していて、年に一回披露する機会が与えられるわけですが、自分が思っていたようには動かなくて、指揮者はオーケストラの音が出る一歩二歩先を進んでないと、オーケストラはあのように音が出てこないんです。
タイミングが判らないと、オーケストラは沼地の様になる。
大海原に一人だけ投げ出されてしまったような感じです。
オペラの勉強をしたかったが、作品作品にあった歌い方、フレージング、オーケストラの響きとかを決めて行くのが指揮者の仕事ですが、それをどうやってやっるのかという事が知りたくてミュンヘンに留学したわけです。
カルロス・クライバーという名指揮者がいて、隠れて練習を見に行ったりしました。
セルジュ・チェリビダッケ 名指揮者が指揮をしていて、神様に愛されている巨人達を見て、このような人達になるには不可能ではないかと思った時期がありました。
壁の厚さ壁の高さを思い知ったことがあり、指揮者として契約する立ち場になって、一曲一曲100%織りこんで刻みこんで成功してゆくことから、クロアチアのオーケストラで指揮をすることになり、最初はもの凄く時間がゆっくり流れれてゆく感じでした。
戦争のなかで、オーケストラは演奏会を一回も辞めなかった。
客席は普段よりも一杯になりました。
民族的な紛争で揺れているけれども、音楽をやっている我々の現実と聴衆たちの世界はナショナリズムではなくてインターナショナリズムであると、だからこそ音楽は真の意味で民族を越えて、国境を越えて、人々の中にひとしく浸透する経験をしました。
シオン物語を新国立劇場でオペラの公演を行います。
母は亡くなって3年になりますが、自分の事のやりたいことをやって、それであるからには自分で責任を取りなさい、と生き方を押し指してくれたと思います。
ひなた、となり、影をサポートしてくれて、その裏には彼女自身の素質があって私自身が育まれてきたことは一番感謝していることです。