岩楯幸雄(ブックカフェ店主) ・街の本屋の灯は消えず
今年 2月20日小田急線代々木上原駅で、40年続いた小さな書店が大勢の人に惜しまれながら店を閉じました。
店の名前は「幸福書房」、岩楯幸雄さん夫妻と弟の敏夫さん夫妻の4人で朝8時から夜11時まで365日年中無休で切り盛りしてきました。
お客様の顔を思いうかべながら仕入れをし、書棚を通してお客様と会話をすると言う経営方針、こんなに小さな本屋さんなのにほしい本が揃っていると 、多くの読書ファンから熱烈に支持されました。
しかし出版業界の不況の波は容赦なく押し寄せて遂に閉店に追い込まれました。
地元はもちろん全国の幸福書房のファンからは、今なお閉店を惜しむ声が数多く寄せられています。
近くに住む作家の林真理子さんもそんな熱心なファンだった一人です。
閉店から8カ月後、今月22日、岩楯さんは豊島区南長崎の自宅に小さな手作りのブックカフェを開きました。
ブックカフェは手作りで始めて、知らないことばかりで、大変でした。
43,4年前に初めて店を出した土地でもあります。
電機メーカーの営業職をしていました。
通勤途中暇なので、雑誌などを毎日読んでいました。
結果的には本屋が好きで弟とやり始めました。
兄弟喧嘩になるので別の店を出した方がいいと周りから言われ、代々木上原の方に支店を出しました。(兄弟喧嘩はありませんでしたが)
「岩楯」では書店名が読めるかなと思って、名前が「幸雄」なのと、北海道の駅名にもあったし「幸福書房」としました。
代々木上原の店は駅前で広さは20坪の店舗でした。
8時から沢山の本を並べてやってきました。
夜11時までやりました。
八百屋さんのように本を積み上げて、当時50万円の売り上げがありました。
40年間程度本屋をやってきて、30年間は本が売れましたが、最後の10年間は売れなくなってきて、最後の5年間は売れずに辛かったです。
弟と月給10万円ずつになってしまいました。
南長崎を出るのが6時15分ごろで、7時に店に着いて梱包を開いて準備をします。
朝食は後から妻が持ってきて店で食べました。
昼食は弁当で、その後1時間位寝袋で昼寝をして、7時までレジにいて、交替で11時頃までやって自転車で帰ってきて12時半位になり、シャワーを浴びたり食事をして寝るのが2時頃になります。
翌朝6時には起きます。
妻は夜の食事を作ってから寝て、4時ごろ起きたので大変でした。
365日元日もやっていましたが、10数年前に元日ぐらい休もうと言うことで元日は休むようになりました。
学校では緊張してトイレを我慢して、うちの店に来てトイレを借りに来る子が10人ぐらいいました。
電車賃を貸してあげたりして、地域としての存在価値はあったと思います。
林真理子さんが引っ越してきて、サインをしていただくことがとっかかりになり、秘書の方が手提げ袋が一杯になるほど本持ち帰って、サインをして持ってくるとい言う事を続けていました。
TVでそのようなことが放映され、サインをしてくださいと凄い人が集まりました。
それこそ2万冊位になりました。
閉店してから真理子さんの家に伺いましたが、本屋さんに足が向かなくなってしまったと言っていました。
レジにいてお客さんの好みの本が判るので、仕入れを色々考えます。
ここの本屋さんは良い本屋さんだと言うふうにおほめをいただいたのは、自分で仕入れに行くという事が、お客さんの好みの本が手に入れられることからだと思います。
口には出さないが貴方の為にこの本を揃えましたよ、と言うようなことの積み重ねでやってきたので、品揃えのいい本屋だと思われるようになりました。
信頼できる著者の本ならば2冊置こうと思いました。
気付いてほしいと言う思いがあります。
2月に閉店しましたが、2年半前に更新の時期が来て、契約を2年半にしました。
お客さんには3か月前に連絡しましたが、辞めないでほしいと言う声が一杯ありました。
周りからのお金の支えがあったとしても、体力的に持たなくなってきていて、閉店を決意しました。
最後の5日間で出来上がった本「幸福書房の四十年 ピカピカの本屋でなくちゃ!」などを2000冊買っていただきました。
普段一日15から20万円の売り上げでしたが、最後の日は250万円の売り上げでした。
最後の数時間は真理子さんに『西郷どん!』を200から300冊サインしていただきました。
最後の最後に何百人と言うお客さんの前で真理子さんに挨拶をしていただきました。
「文化の灯が消える」とおっしゃって涙が出ました。
最終日は11時頃までかかりまして、「打ち上げ」どころではなくなりました。
閉店して2カ月位は何もする気がありませんでした。
ブックカフェをなんとか立ち上げました。
私のブックカフェは返品の出来なかった商品で、それなりに価値のある本があります。
2020年にときわ荘ミュージアムが出来るので、手塚治虫などそうそうたるメンバーの本が2年後に並び変えられればいいなあと思います。
2018年10月31日水曜日
2018年10月30日火曜日
佐藤康光(棋士) ・【母を語る】
佐藤康光(棋士) ・【母を語る】
京都府出身、6歳で将棋に興味を持ち6年生で小学生将棋名人戦に出場して3位人ります。
1982年中学1年の冬に関西将励会に入会、間もなく父親の転勤で東京に転居、関東奨励会に移籍、1987年に4段プロデユー、1993年6段の時に当時の羽生 善治竜王を破り竜王位につき初タイトルを獲得します。
1998年56期名人戦で谷川浩司名人に挑戦し、名人位を獲得、9段となります。
2017年2月谷川9段の後を継いで、日本将棋連盟の会長となりました。
子供のころは母親に勧められて様々な習い事を経験してと言う佐藤さんですが、友達と遊んだ将棋でおもしろさに目覚めてゆきます。
日本将棋連盟の会長になって1年半になります。(48歳)
棋士としてはベテランの部類に入ります。
藤井聡太7段、国民栄誉賞を受賞した羽生善治竜王、最近脱サラ棋士・瀬川晶司五段の映画、「泣き虫しょったんの奇跡」が話題になり、将棋が注目されてきています。
藤井聡太7段はデビュー以来29連勝を達成とか、羽生永世7冠を達成とか、11人
で争う戦いで6人が同じ勝率で名人挑戦を争ったとか、色々な事が立て続けに起こっています。
若手棋士がタイトルを取る時代になりつつあります。
小学校1年生の時に友達が将棋盤を持ってきて興味を持ちました。
4歳でヴァイオリンも習い始めました。(母の勧め)
3人兄弟で私は長男で弟(歌舞伎をやっている。)、妹がいます。
ヴァイオリンは8年ぐらいやっていました。
将棋は色んな面白さがあります。
勝負、自分なりに表現できる、1対1のゲーム、1局1局のドラマがある、そういった面白さに惹かれて行きました。
段々やっているうちにプロ棋士を目指すようになりました。
母は何事にも積極的に習わせました。
弟とはいっとき将棋を指していた時期はあります。
京都府八幡市で生まれましたが、竹が有名でエジソンが八幡の竹を使って電球に灯を点けたと言うことは地元で習った記憶はあります。
小学校6年生で小学生将棋名人戦に出場し準決勝でNHKに父親と来た覚えがあります。
中学2年で東京に来ました。
初めてのタイトル戦で戦ったのが谷川先生でした。
小学生の頃、大会に行くときは父親に連れて行ってもらいました。
一生の仕事を小学生、中学生の時に選ぶと言うことは、母親も色々大変だったのではないかと思います。(背中を押してくれた。)
口には出さなかったが、母親は結構心配していたと思います。
算盤とかも習いましたが、中学の時には学習塾にも行っていました。(高校受験の為)
プロの対局の記録係を務めるため中学校を頻繁に休んでいたことから、「学校やすみつ君」とからかわれてました。
千駄ヶ谷の将棋会館に近い高校と言うことで國學院高校に進学しました。
17歳デプロになる。(高校2年の時)
正確に早く読むと言われていました。(緻密流と言われたりしました。)
将棋は様々な要素が必要で、計算だけということはないです。
長時間いかに坐っていられるか、持久力が必要になります。
一局で2kg痩せてしまうような対局もあります。
将棋、歌舞伎も江戸時代初期で栄え始めたと言う共通項はある。
将棋も世襲制の時期があったが、80年ぐらい前から実力制に移行しました。
初めてタイトルを取ったのが24歳で竜王位、28歳が名人位、そのほかにも色々タイトルは取りましたが、王将戦で最初3連敗してその後3連勝して、最後の試合で負けてしまったと言うこともありました。(3連敗後に4連勝すれば初ということだったが)
プロになってから32年目になりますが、子供の時と変わらず情熱を持って将棋に接すれると言う事を持ち続けられると言うことは、将棋の世界に入って良かったと思います。
子供のころは負けると良く泣きましたが、将棋が嫌いになると言う訳ではなくて、自分が厭になるという意味合いが強いですね、自分との闘いですね。
京都府出身、6歳で将棋に興味を持ち6年生で小学生将棋名人戦に出場して3位人ります。
1982年中学1年の冬に関西将励会に入会、間もなく父親の転勤で東京に転居、関東奨励会に移籍、1987年に4段プロデユー、1993年6段の時に当時の羽生 善治竜王を破り竜王位につき初タイトルを獲得します。
1998年56期名人戦で谷川浩司名人に挑戦し、名人位を獲得、9段となります。
2017年2月谷川9段の後を継いで、日本将棋連盟の会長となりました。
子供のころは母親に勧められて様々な習い事を経験してと言う佐藤さんですが、友達と遊んだ将棋でおもしろさに目覚めてゆきます。
日本将棋連盟の会長になって1年半になります。(48歳)
棋士としてはベテランの部類に入ります。
藤井聡太7段、国民栄誉賞を受賞した羽生善治竜王、最近脱サラ棋士・瀬川晶司五段の映画、「泣き虫しょったんの奇跡」が話題になり、将棋が注目されてきています。
藤井聡太7段はデビュー以来29連勝を達成とか、羽生永世7冠を達成とか、11人
で争う戦いで6人が同じ勝率で名人挑戦を争ったとか、色々な事が立て続けに起こっています。
若手棋士がタイトルを取る時代になりつつあります。
小学校1年生の時に友達が将棋盤を持ってきて興味を持ちました。
4歳でヴァイオリンも習い始めました。(母の勧め)
3人兄弟で私は長男で弟(歌舞伎をやっている。)、妹がいます。
ヴァイオリンは8年ぐらいやっていました。
将棋は色んな面白さがあります。
勝負、自分なりに表現できる、1対1のゲーム、1局1局のドラマがある、そういった面白さに惹かれて行きました。
段々やっているうちにプロ棋士を目指すようになりました。
母は何事にも積極的に習わせました。
弟とはいっとき将棋を指していた時期はあります。
京都府八幡市で生まれましたが、竹が有名でエジソンが八幡の竹を使って電球に灯を点けたと言うことは地元で習った記憶はあります。
小学校6年生で小学生将棋名人戦に出場し準決勝でNHKに父親と来た覚えがあります。
中学2年で東京に来ました。
初めてのタイトル戦で戦ったのが谷川先生でした。
小学生の頃、大会に行くときは父親に連れて行ってもらいました。
一生の仕事を小学生、中学生の時に選ぶと言うことは、母親も色々大変だったのではないかと思います。(背中を押してくれた。)
口には出さなかったが、母親は結構心配していたと思います。
算盤とかも習いましたが、中学の時には学習塾にも行っていました。(高校受験の為)
プロの対局の記録係を務めるため中学校を頻繁に休んでいたことから、「学校やすみつ君」とからかわれてました。
千駄ヶ谷の将棋会館に近い高校と言うことで國學院高校に進学しました。
17歳デプロになる。(高校2年の時)
正確に早く読むと言われていました。(緻密流と言われたりしました。)
将棋は様々な要素が必要で、計算だけということはないです。
長時間いかに坐っていられるか、持久力が必要になります。
一局で2kg痩せてしまうような対局もあります。
将棋、歌舞伎も江戸時代初期で栄え始めたと言う共通項はある。
将棋も世襲制の時期があったが、80年ぐらい前から実力制に移行しました。
初めてタイトルを取ったのが24歳で竜王位、28歳が名人位、そのほかにも色々タイトルは取りましたが、王将戦で最初3連敗してその後3連勝して、最後の試合で負けてしまったと言うこともありました。(3連敗後に4連勝すれば初ということだったが)
プロになってから32年目になりますが、子供の時と変わらず情熱を持って将棋に接すれると言う事を持ち続けられると言うことは、将棋の世界に入って良かったと思います。
子供のころは負けると良く泣きましたが、将棋が嫌いになると言う訳ではなくて、自分が厭になるという意味合いが強いですね、自分との闘いですね。
2018年10月29日月曜日
頭木弘樹(文学紹介者) ・【絶望名言】萩原朔太郎
頭木弘樹(文学紹介者) ・【絶望名言】萩原朔太郎
「学校時代のことを考えると、今でも寒々とした悪寒が走るほどである。
その頃の生徒や教師に対して、みな一人ひとりに復讐をしてやりたいほど、僕は皆から憎まれ虐められ仲間はずれにされ通してきた。
小学校から中学校にかけ学生時代の僕の過去は、今から考えてみて僕の生涯の中での最も呪わしく、陰鬱な時代であり、まさしく悪夢の追憶だった。
学校にいる時は教室の一番の隅に小さく隠れ、休業時間の時には誰も見えない運動場の隅に息を殺して隠れていた。」(萩原朔太郎)
頭木さんは20歳の時に難病潰瘍性大腸炎を発病し、13年間に渡る療養生活を送りました。
その悩み苦しんだ時期に心に染みた言葉を「絶望名言」として御自分で紹介していらしゃいます。
1886年11月1日生まれ、1942年に亡くなっています。(56歳)
萩原朔太郎はラジオ好きだったらしい。
39歳の時に東京に出て来る。(1925年)
日本で最初にラジオ放送がされたのが同年3月。
萩原朔太郎は新しいもの好きでラジオに夢中になる。
石川啄木、谷崎純一郎は同い歳。
カフカが生まれたのが1883年、ほぼ同年代。
萩原朔太郎は芥川龍之介と交流があった。
学校では辛い目に会っていた。
「僕は比較的良家に生まれ、子供の時に甘やかされて育ったために、他人との社交について自己を抑制することができないのである。
そのうえ、僕の風変わりな性格が小学生時代から仲間の子供と違っていたので、学校では一人だけのけ者にされ、いつも周囲から冷たい敵意で憎まれていた。」
父親は東大の医学部を首席で卒業して前橋で病院を開いていた。
経済的に豊かだった。
温室育ちで、繊細で過敏になって行ってしまう。
朔太郎は中学で落第し、高校の受験でも失敗してしまう。
熊本の高校にはいるが翌年落第して、岡山に転校するが落第して、大学に入るが退学する。
もう一度大学にはいるが又退学する。
その後京大の試験を受けるが不合格、早稲田を受験しようとするが、ミスがあって駄目になってしまう。
結局そのまま家にいて詩を書きながら、マンドリンを弾くという事になってしまう。
「特に強迫観念が激しかった。
校門を出る時にいつも左足からでないと踏み出せなかった。
四ツ角を曲がるときにはいつも 3べんずつぐるぐる回った。
そんな馬鹿馬鹿しいつまらぬことが、僕には脅迫的な絶対命令だった。
だが、一番困ったのは意識の反対衝動に駆られることだった。
例えば町に行こうとして家を出るとき、逆に森へ行けと脅迫命令が起こってくる。
そうするといつの間にか僕の足はその命令を巡行して反対の森の方に行っているのである。」
一番困ったのは意識の反対衝動に駆られること、これは人間関係が難しい。
好きな友人でも「馬鹿野郎」と言ってしまったりする。
朔太郎はドストエフスキーが好きだった。
ドストエフスキーの登場人物が強迫性障害みたいな症状があり、自分が共感して好きになったと言う。
朔太郎は年齢を重ねて来ると、強迫性障害みたいな症状が少なくなってきて、生きるのが楽になったという。
しかし創作能力が衰えてきてしまう。
生きることはいつも辛くて毎日が試練を乗り越える連続であると、そうするとどうしてもいろんなことを考えなければいけない。
こんなにつらいのに何で生きて行かなければいけないのか、とかと言う事を考えないといけない。
さーっと生きられる人に比べてものは考える、試練を乗り越えなくてはいけないと言うことになると人間的な魅力が高まって来る。
そういうところが創作に繋がるのかと思います。
朔太郎は音楽が好きで最初音楽家になろうとしていた。
17歳で銀座の店に輸入された3つしかないマンドリンを購入して、本格的に勉強した。
29歳のころから前橋市でマンドリン倶楽部の演奏会を頻繁に開催、それが群馬交響楽団の礎になる。
マンドリンの独奏曲を作っている。
*「機(はた)織る乙女」 萩原朔太郎作曲
「食い物が全く尽きてしまった時、彼は自分の足をもいで食った。
かくして、たこは彼の身体全体を食いつくしてしまった。
何処もかしこも全て残るくまなく完全に。
けれどもたこは死ななかった。
彼が消えてしまった後ですらも、なおかつ永遠にそこに生きていた。
ある物凄い欠乏と不満をもった人の目に見えない動物が生きていた。」
(「死なない蛸」 短編)
僕(頭木弘樹)の場合は20歳でもうベットに寝たままだと言われ、どうなっていくんだろうと、満たされない思いだけが残っていた。
病院のベッドはいろんな人が使ってきて、亡くなった人も居ただろうし、治らなかった方もいるだろうし、ベッドに色んな人の思いが凄く残っているのではないかとその時に思いました。
「僕は初めて芸術というものの本当の意味を知ったような気がしました。
それは一般に世間の人が考えているようなものではなく、それよりもずっと恐るべきものです。
生存欲の本能から「助けてくれ」と絶叫する被殺害者の声のようなものです。
その悲鳴が第三者に聞かれた時に、その人間の生命が救われるのです。
そして芸術の価値はその絶叫、真実の度合いの強弱によって定まるものと考えます。」
(北原白秋への手紙から引用)
とっても面白い考え方です。
「一番深い地獄にいる者ほど清らかな歌を歌う事が出来ます。
天使の歌だと思っているのは、実は彼等の歌なのです」 (カフカ)
同じ様なことを言っていると思います。 生きる辛さの中からとても生きられないという叫びですね。 それを発しているのが芸術で、さらに面白いのは芸術の価値はその絶叫、真実の度合いの強弱によって定まる、心からの激しい悲鳴であるほど優れた芸術であると言っているわけです。
「その悲鳴が第三者に聞かれた時に、その人間の生命が救われるのです。」このことは大事で、芸術は悲鳴である、その悲鳴を聞かれると言うことが大事だと言っている。
「私が魂(こん)かぎり、生(せい)かぎり叫ぶ声を、多くの人は空耳にしか聞いてくれない。
私の頭の上を踏みつけて、この国の賢明な人達がこう言っている。
「詩人の寝言だ」。」
詩とか小説とか芸術とか必要としていない人がいるが、本当はおかしな話だと思う。
色んな現実の中から、一つの現実の典型的パターンを取りだしたのが物語とか詩だと思うので、それを意味無いと言って現実が好きということはよく判らない。
寝言かもしれないが寝言の何処が悪いと反論したい。
その悲鳴が第三者に聞かれた時に、その人間の生命が救われるのです。
朔太郎は正直な人だと思います。
「詩はただ病める魂の所有者と、孤独者との寂しい慰めである」、と朔太郎は言っている。
「絶望名言」と同じだと思います。
「学校時代のことを考えると、今でも寒々とした悪寒が走るほどである。
その頃の生徒や教師に対して、みな一人ひとりに復讐をしてやりたいほど、僕は皆から憎まれ虐められ仲間はずれにされ通してきた。
小学校から中学校にかけ学生時代の僕の過去は、今から考えてみて僕の生涯の中での最も呪わしく、陰鬱な時代であり、まさしく悪夢の追憶だった。
学校にいる時は教室の一番の隅に小さく隠れ、休業時間の時には誰も見えない運動場の隅に息を殺して隠れていた。」(萩原朔太郎)
頭木さんは20歳の時に難病潰瘍性大腸炎を発病し、13年間に渡る療養生活を送りました。
その悩み苦しんだ時期に心に染みた言葉を「絶望名言」として御自分で紹介していらしゃいます。
1886年11月1日生まれ、1942年に亡くなっています。(56歳)
萩原朔太郎はラジオ好きだったらしい。
39歳の時に東京に出て来る。(1925年)
日本で最初にラジオ放送がされたのが同年3月。
萩原朔太郎は新しいもの好きでラジオに夢中になる。
石川啄木、谷崎純一郎は同い歳。
カフカが生まれたのが1883年、ほぼ同年代。
萩原朔太郎は芥川龍之介と交流があった。
学校では辛い目に会っていた。
「僕は比較的良家に生まれ、子供の時に甘やかされて育ったために、他人との社交について自己を抑制することができないのである。
そのうえ、僕の風変わりな性格が小学生時代から仲間の子供と違っていたので、学校では一人だけのけ者にされ、いつも周囲から冷たい敵意で憎まれていた。」
父親は東大の医学部を首席で卒業して前橋で病院を開いていた。
経済的に豊かだった。
温室育ちで、繊細で過敏になって行ってしまう。
朔太郎は中学で落第し、高校の受験でも失敗してしまう。
熊本の高校にはいるが翌年落第して、岡山に転校するが落第して、大学に入るが退学する。
もう一度大学にはいるが又退学する。
その後京大の試験を受けるが不合格、早稲田を受験しようとするが、ミスがあって駄目になってしまう。
結局そのまま家にいて詩を書きながら、マンドリンを弾くという事になってしまう。
「特に強迫観念が激しかった。
校門を出る時にいつも左足からでないと踏み出せなかった。
四ツ角を曲がるときにはいつも 3べんずつぐるぐる回った。
そんな馬鹿馬鹿しいつまらぬことが、僕には脅迫的な絶対命令だった。
だが、一番困ったのは意識の反対衝動に駆られることだった。
例えば町に行こうとして家を出るとき、逆に森へ行けと脅迫命令が起こってくる。
そうするといつの間にか僕の足はその命令を巡行して反対の森の方に行っているのである。」
一番困ったのは意識の反対衝動に駆られること、これは人間関係が難しい。
好きな友人でも「馬鹿野郎」と言ってしまったりする。
朔太郎はドストエフスキーが好きだった。
ドストエフスキーの登場人物が強迫性障害みたいな症状があり、自分が共感して好きになったと言う。
朔太郎は年齢を重ねて来ると、強迫性障害みたいな症状が少なくなってきて、生きるのが楽になったという。
しかし創作能力が衰えてきてしまう。
生きることはいつも辛くて毎日が試練を乗り越える連続であると、そうするとどうしてもいろんなことを考えなければいけない。
こんなにつらいのに何で生きて行かなければいけないのか、とかと言う事を考えないといけない。
さーっと生きられる人に比べてものは考える、試練を乗り越えなくてはいけないと言うことになると人間的な魅力が高まって来る。
そういうところが創作に繋がるのかと思います。
朔太郎は音楽が好きで最初音楽家になろうとしていた。
17歳で銀座の店に輸入された3つしかないマンドリンを購入して、本格的に勉強した。
29歳のころから前橋市でマンドリン倶楽部の演奏会を頻繁に開催、それが群馬交響楽団の礎になる。
マンドリンの独奏曲を作っている。
*「機(はた)織る乙女」 萩原朔太郎作曲
「食い物が全く尽きてしまった時、彼は自分の足をもいで食った。
かくして、たこは彼の身体全体を食いつくしてしまった。
何処もかしこも全て残るくまなく完全に。
けれどもたこは死ななかった。
彼が消えてしまった後ですらも、なおかつ永遠にそこに生きていた。
ある物凄い欠乏と不満をもった人の目に見えない動物が生きていた。」
(「死なない蛸」 短編)
僕(頭木弘樹)の場合は20歳でもうベットに寝たままだと言われ、どうなっていくんだろうと、満たされない思いだけが残っていた。
病院のベッドはいろんな人が使ってきて、亡くなった人も居ただろうし、治らなかった方もいるだろうし、ベッドに色んな人の思いが凄く残っているのではないかとその時に思いました。
「僕は初めて芸術というものの本当の意味を知ったような気がしました。
それは一般に世間の人が考えているようなものではなく、それよりもずっと恐るべきものです。
生存欲の本能から「助けてくれ」と絶叫する被殺害者の声のようなものです。
その悲鳴が第三者に聞かれた時に、その人間の生命が救われるのです。
そして芸術の価値はその絶叫、真実の度合いの強弱によって定まるものと考えます。」
(北原白秋への手紙から引用)
とっても面白い考え方です。
「一番深い地獄にいる者ほど清らかな歌を歌う事が出来ます。
天使の歌だと思っているのは、実は彼等の歌なのです」 (カフカ)
同じ様なことを言っていると思います。 生きる辛さの中からとても生きられないという叫びですね。 それを発しているのが芸術で、さらに面白いのは芸術の価値はその絶叫、真実の度合いの強弱によって定まる、心からの激しい悲鳴であるほど優れた芸術であると言っているわけです。
「その悲鳴が第三者に聞かれた時に、その人間の生命が救われるのです。」このことは大事で、芸術は悲鳴である、その悲鳴を聞かれると言うことが大事だと言っている。
「私が魂(こん)かぎり、生(せい)かぎり叫ぶ声を、多くの人は空耳にしか聞いてくれない。
私の頭の上を踏みつけて、この国の賢明な人達がこう言っている。
「詩人の寝言だ」。」
詩とか小説とか芸術とか必要としていない人がいるが、本当はおかしな話だと思う。
色んな現実の中から、一つの現実の典型的パターンを取りだしたのが物語とか詩だと思うので、それを意味無いと言って現実が好きということはよく判らない。
寝言かもしれないが寝言の何処が悪いと反論したい。
その悲鳴が第三者に聞かれた時に、その人間の生命が救われるのです。
朔太郎は正直な人だと思います。
「詩はただ病める魂の所有者と、孤独者との寂しい慰めである」、と朔太郎は言っている。
「絶望名言」と同じだと思います。
2018年10月28日日曜日
奥田佳道(音楽評論家) ・【クラシックの遺伝子】
奥田佳道(音楽評論家) ・【クラシックの遺伝子】
*チャイコフスキー作曲 四季から「10月」 秋の歌 チェロ
今日はチャイコフスキーの遺伝子。
洗練されたウイーン、パリの音楽とチャイコフスキー音楽は相思相愛なんですね。
チャイコフスキーが一番尊敬していた作曲家はモーツアルト。
*「モーツアルトピアーナ」 第3楽章 祈り
1791年作曲
元々は宗教曲を編曲
調べはモーツアルトですが、弦の響かせ方はロシアンロマンが入っている。
*タンゴ・パセティック チャイコフスキーの交響曲 第6番「悲愴」の要素も入っているが、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲のメロディー。
「アリア」のメロディーも聞こえてくる。
*ジャンゴロジーから「悲愴のインプロヴィゼーション」 ジャンゴ・ラインハルト(ギター)とステファン・グラッペリ(ヴァイオリン)の共演 1949年録音
セルゲイ・ラフマニノフ
一番チャイコフスキーと繋がりが深い、格調高いロマンティックなメロディーを紡ぎ、ラフマニノフの音楽はアメリカの映画音楽とかミュージックの音楽に伝播していった。
*「ヴォカリーズ」 セルゲイ・ラフマニノフ作曲 1912年
歌詞がなく、母音のみで歌われる歌曲のこと。様々な編成に編曲され親しまれている。
*チャイコフスキーの交響曲 第6番「悲愴」第二楽章 ワルツの部分
(普通3拍子だが5拍子のワルツ)
*チャイコフスキー作曲 四季から「10月」 秋の歌 チェロ
今日はチャイコフスキーの遺伝子。
洗練されたウイーン、パリの音楽とチャイコフスキー音楽は相思相愛なんですね。
チャイコフスキーが一番尊敬していた作曲家はモーツアルト。
*「モーツアルトピアーナ」 第3楽章 祈り
1791年作曲
元々は宗教曲を編曲
調べはモーツアルトですが、弦の響かせ方はロシアンロマンが入っている。
*タンゴ・パセティック チャイコフスキーの交響曲 第6番「悲愴」の要素も入っているが、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲のメロディー。
「アリア」のメロディーも聞こえてくる。
*ジャンゴロジーから「悲愴のインプロヴィゼーション」 ジャンゴ・ラインハルト(ギター)とステファン・グラッペリ(ヴァイオリン)の共演 1949年録音
セルゲイ・ラフマニノフ
一番チャイコフスキーと繋がりが深い、格調高いロマンティックなメロディーを紡ぎ、ラフマニノフの音楽はアメリカの映画音楽とかミュージックの音楽に伝播していった。
*「ヴォカリーズ」 セルゲイ・ラフマニノフ作曲 1912年
歌詞がなく、母音のみで歌われる歌曲のこと。様々な編成に編曲され親しまれている。
*チャイコフスキーの交響曲 第6番「悲愴」第二楽章 ワルツの部分
(普通3拍子だが5拍子のワルツ)
2018年10月27日土曜日
山崎 亮(コミュニティーデザイナー) ・人と人を結ぶデザイン
山崎 亮(コミュニティーデザイナー) ・人と人を結ぶデザイン
1973年愛知県生まれ、大学で景観デザインを学び、設計会社では公園や街並み保存の設計を手掛けていました。
1995年の阪神淡路大震災ではボランティアとして、被災状況の調査に立ち会い被災者がお互いの助け合いによって再生した事例に数多く出合いました。
コミュニティーデザイナーという新しい仕事を立ち上げたのです。
人口が減少する社会では、新たに人と人の交わりを結び直すデザイナーが必要と考え、島根県海士町町おこしなどを展開しています。
コミュニティーデザイナー、デザインと言うと専門家が何か美しく作ってくれる印象があるかと思いますが、アマチュアの人々が沢山集まってそれにプロの人も関わってデザインすることは、何デザイナーと言うのかと言うと、コミュニティーのかたがたと一緒に何かをデザインして行く行為だと考えました。
地域の方々と一緒にこの地域がどんなふうになったらいいのかなあとか、どんなふうに描いていったらいいか一緒に考えて、未来を一緒に作って行くこと、これをコミュニティーデザインと呼んでいます。
繋がりを作って行くきっかけにもなるし、繋がった方々が自分たちの地域の課題を解決して行くような、未来を一緒にデザインして行くような場を作り出したいと思っています。
島根県海士町では町長がどのように元気にして行くのかという事を色々考えられていて、我々が関わる前から様々な事業を進めていました。
2007年の時から次の10年間に何をしたいか計画を作りたいと言うことで、総合計画と言われていました。
住民の意見を聞きながら計画を作りたいと我々に依頼してくれました。
住民の方々の意見を聞くことになり80人の人々が来て、気になるテーマについて話し合いを繰り返し2年ぐらい続けました。
それを計画書に纏めて、未来に向けて活動を実現させる為に、結びつてけていきました。
地方自治体から仕事を頂いたのは海士町が最初でした。
そのことは新聞、TV、雑誌などで全国に広がりました。
町民一丸となって取り組みました。
大阪の泉佐野市にある丘陵緑地の所を手作りで公園を作り続けている状態が続いています。
パークレンジャー(市民の方が講習を受けて公園を作る人達)が来ていて、どの木を切ってもいいかどうかとか、公園を作ってくれていて9年ぐらい続いています。
自分たちで公園を作って自分たちで遊ぶ。
65~75歳の方がたが多く集まってくれました。
秋田県の秋田市から高齢で元気に生きて行く人たちを増やしていきましょうと言うプロジェクトが始まり、手伝ってほしいとの依頼が来ました。
高齢で元気で楽しそうに生きている人達を取材して、その人たちが何故こんなに元気なのかを分析した結果を美術館で展覧会として纏めましょうと言うことで、展覧会を作りたい人を募集しました。
50人ぐらいが応募してくれて、それにスタッフと一緒に高齢で元気で楽しそうに生きている人達を見付けて回りました。
29人取材、撮影したりして展示のきっかけにしました。
女子高生とおばあちゃんがSNSで毎日のように会話をしたりしていました。
色々活動を起こして行ってくれました。
市民の方々が関わってくれるのには、えっと思うようなことから入らないと参加してくれないことがある。
病院をどうしたらいいのか、お寺が元気が無いのでどうしたらいいのか、公園をもっと良く作るにはどうしたらいいのか、社会の課題を解決してゆくタイプの仕事が多いです。
社会の課題に対して市民の参加を募りたいと思った時には、解決するための正しさだけでなく、楽しさ、面白そうと言うような感性に訴えかける方法もいっしょに入っていた方が、より多くの方に興味を持ってもらえる。
最初にインタビューしてどんな地位かを探ることから始まります。
面白い人を10人紹介してもらって色々話を伺います、そして友達になる。
そしてそれぞれ面白い人を3人紹介して貰って、またそこから紹介してもらって90人ぐらいになります。(50~90人の人との話を聞く)
ワークショップを開いて、多くの人に来ていただいて話し合いをしていただきます。
最初の声をかけた数十人の人にも来ていただきます。
7~8人ずつぐらいで話し合いをしていただきます、
地域の課題、その解決法、事例を学びながら、地域の課題をどう解決して行くのか決めてもらいます。(1年間に10回位会合を続けていきます)
チームビルディング(組織を作って行く 主体形成 信頼関係をより作って行くゲームなどをやります。)
活動を起こしてくれたらそれをサポートして行く。
①インタビューをして→②ワークショップをやって→③チームビルディングをやって→④活動をサポートして行く。
途中は試行錯誤の連続です。
一人でいた方がいいと思う方がいるかもしれないが、ずーっと一人でいていいかというと、誰かと出会いたいという気持ちになることもあると思うので、こういう場をどううまく作ってゆくのかということは我々の仕事だと思います。
1995年の阪神淡路大震災の時に大阪にいて、都市計画、建築設計、庭、公園の設計などを学んでいました。
被災地に行って被災状況を調査するプロジェクトに関わりました。
被災の光景をみてデザインは一体何が出来るんだろうと悩む時期がありました。
地域の方々がお互い励まし合っている光景に出合いました。
話し合う場が地域にあったらいいんじゃないかと思いました。
大学院修了後建築会社に入りましたが、公共施設を作る時に市長とか会社の課長とかの考えではなく、地域に住んでいる方がどんな建築になったらいいか、という話をしてその内容を設計に反映した方が、正直なのではないかと考えるようになりました。
人と人とが話し合う場を作って行く方が、魅力だと感じるようになりました。
2005年にコミュニティーデザインの専門の事務所を作りました。
最初は来てくれませんでしたが、2007年の時に海士町の仕事をさせてもらって知ってもらうきっかけになりました。
2011年に東日本大震災があり、復興の時には地域の方々の意見を聞きながら復興計画をした方がいいのでは無いかということになりました。
我々も色んなところに呼んでもらうことが出てきました。
スタジオLは20人ぐらいのチームでやっています。
インターネットを通じて仕事ができる様になったのは大きなきっかけだったと思います。
プロジェクトリーダーをまず育てて、また次を育てるにと言うふうにしてやってきました。
年に一回は必ず全スタッフが集まって、1年間自分たちがどんな仕事をやってきたかを共有する場として2泊3日の合宿を行い厳しい意見の交換をやっています。
福祉、介護はとても大切になるだろうと思っています。
これは地域と繋がらないとうまくいかないだろうという問題意識があると言うことがわかってきました。
呼ばれた講演で、福祉、介護のプロジェクトもみんながあっと驚くような、楽しいと思うようなきっかけをつくりだしたらどうですかと話をすることが多かったが、どうしたらいいかといわれることが多かった。
これからの介護、福祉を考える方々、現場の方々、デザイナーの方々、クリエーターの方々などが一緒に話し合いの場を作ろうとしました。
全国6ブロックに分けて、ワークショップを6回繰り返して、福祉介護クリエータの方々がチームを作って10チーム(全国で80チーム)がいっしょに介護福祉の事を考えて、解決の道を生み出して活動をやってみる、それをお手伝いをするのがデザインスクールです。
関東ブロックで第1回目を行って60名位が参加して、実際の介護現場を見に行って今後問題点を見付けだして、活動して行くと言うことになっています。
他のブロックでも進め始めています。
「縮充する日本」を出版。
毛糸で編んだセーターは洗濯すると縮むが暖かくなる、わざとするんですが、それを縮充ウールと言います。
日本の人口は今後減っていきますが、縮減、縮退は良くないと思う。
人口は減って行くが、社会課題に参加型で取り組んでゆく人達の数が増えて行くことを「縮充」と呼べないかなあと思いました。
定住人口は減って行っているが、活動人口が増えて行っている状態になると地域としては縮充になるのではないかと思う。
自分たちの地域は自分たちが関わって、作って行こうと思う人の数が増えてゆくという社会を目指したいと思っています。
)
1973年愛知県生まれ、大学で景観デザインを学び、設計会社では公園や街並み保存の設計を手掛けていました。
1995年の阪神淡路大震災ではボランティアとして、被災状況の調査に立ち会い被災者がお互いの助け合いによって再生した事例に数多く出合いました。
コミュニティーデザイナーという新しい仕事を立ち上げたのです。
人口が減少する社会では、新たに人と人の交わりを結び直すデザイナーが必要と考え、島根県海士町町おこしなどを展開しています。
コミュニティーデザイナー、デザインと言うと専門家が何か美しく作ってくれる印象があるかと思いますが、アマチュアの人々が沢山集まってそれにプロの人も関わってデザインすることは、何デザイナーと言うのかと言うと、コミュニティーのかたがたと一緒に何かをデザインして行く行為だと考えました。
地域の方々と一緒にこの地域がどんなふうになったらいいのかなあとか、どんなふうに描いていったらいいか一緒に考えて、未来を一緒に作って行くこと、これをコミュニティーデザインと呼んでいます。
繋がりを作って行くきっかけにもなるし、繋がった方々が自分たちの地域の課題を解決して行くような、未来を一緒にデザインして行くような場を作り出したいと思っています。
島根県海士町では町長がどのように元気にして行くのかという事を色々考えられていて、我々が関わる前から様々な事業を進めていました。
2007年の時から次の10年間に何をしたいか計画を作りたいと言うことで、総合計画と言われていました。
住民の意見を聞きながら計画を作りたいと我々に依頼してくれました。
住民の方々の意見を聞くことになり80人の人々が来て、気になるテーマについて話し合いを繰り返し2年ぐらい続けました。
それを計画書に纏めて、未来に向けて活動を実現させる為に、結びつてけていきました。
地方自治体から仕事を頂いたのは海士町が最初でした。
そのことは新聞、TV、雑誌などで全国に広がりました。
町民一丸となって取り組みました。
大阪の泉佐野市にある丘陵緑地の所を手作りで公園を作り続けている状態が続いています。
パークレンジャー(市民の方が講習を受けて公園を作る人達)が来ていて、どの木を切ってもいいかどうかとか、公園を作ってくれていて9年ぐらい続いています。
自分たちで公園を作って自分たちで遊ぶ。
65~75歳の方がたが多く集まってくれました。
秋田県の秋田市から高齢で元気に生きて行く人たちを増やしていきましょうと言うプロジェクトが始まり、手伝ってほしいとの依頼が来ました。
高齢で元気で楽しそうに生きている人達を取材して、その人たちが何故こんなに元気なのかを分析した結果を美術館で展覧会として纏めましょうと言うことで、展覧会を作りたい人を募集しました。
50人ぐらいが応募してくれて、それにスタッフと一緒に高齢で元気で楽しそうに生きている人達を見付けて回りました。
29人取材、撮影したりして展示のきっかけにしました。
女子高生とおばあちゃんがSNSで毎日のように会話をしたりしていました。
色々活動を起こして行ってくれました。
市民の方々が関わってくれるのには、えっと思うようなことから入らないと参加してくれないことがある。
病院をどうしたらいいのか、お寺が元気が無いのでどうしたらいいのか、公園をもっと良く作るにはどうしたらいいのか、社会の課題を解決してゆくタイプの仕事が多いです。
社会の課題に対して市民の参加を募りたいと思った時には、解決するための正しさだけでなく、楽しさ、面白そうと言うような感性に訴えかける方法もいっしょに入っていた方が、より多くの方に興味を持ってもらえる。
最初にインタビューしてどんな地位かを探ることから始まります。
面白い人を10人紹介してもらって色々話を伺います、そして友達になる。
そしてそれぞれ面白い人を3人紹介して貰って、またそこから紹介してもらって90人ぐらいになります。(50~90人の人との話を聞く)
ワークショップを開いて、多くの人に来ていただいて話し合いをしていただきます。
最初の声をかけた数十人の人にも来ていただきます。
7~8人ずつぐらいで話し合いをしていただきます、
地域の課題、その解決法、事例を学びながら、地域の課題をどう解決して行くのか決めてもらいます。(1年間に10回位会合を続けていきます)
チームビルディング(組織を作って行く 主体形成 信頼関係をより作って行くゲームなどをやります。)
活動を起こしてくれたらそれをサポートして行く。
①インタビューをして→②ワークショップをやって→③チームビルディングをやって→④活動をサポートして行く。
途中は試行錯誤の連続です。
一人でいた方がいいと思う方がいるかもしれないが、ずーっと一人でいていいかというと、誰かと出会いたいという気持ちになることもあると思うので、こういう場をどううまく作ってゆくのかということは我々の仕事だと思います。
1995年の阪神淡路大震災の時に大阪にいて、都市計画、建築設計、庭、公園の設計などを学んでいました。
被災地に行って被災状況を調査するプロジェクトに関わりました。
被災の光景をみてデザインは一体何が出来るんだろうと悩む時期がありました。
地域の方々がお互い励まし合っている光景に出合いました。
話し合う場が地域にあったらいいんじゃないかと思いました。
大学院修了後建築会社に入りましたが、公共施設を作る時に市長とか会社の課長とかの考えではなく、地域に住んでいる方がどんな建築になったらいいか、という話をしてその内容を設計に反映した方が、正直なのではないかと考えるようになりました。
人と人とが話し合う場を作って行く方が、魅力だと感じるようになりました。
2005年にコミュニティーデザインの専門の事務所を作りました。
最初は来てくれませんでしたが、2007年の時に海士町の仕事をさせてもらって知ってもらうきっかけになりました。
2011年に東日本大震災があり、復興の時には地域の方々の意見を聞きながら復興計画をした方がいいのでは無いかということになりました。
我々も色んなところに呼んでもらうことが出てきました。
スタジオLは20人ぐらいのチームでやっています。
インターネットを通じて仕事ができる様になったのは大きなきっかけだったと思います。
プロジェクトリーダーをまず育てて、また次を育てるにと言うふうにしてやってきました。
年に一回は必ず全スタッフが集まって、1年間自分たちがどんな仕事をやってきたかを共有する場として2泊3日の合宿を行い厳しい意見の交換をやっています。
福祉、介護はとても大切になるだろうと思っています。
これは地域と繋がらないとうまくいかないだろうという問題意識があると言うことがわかってきました。
呼ばれた講演で、福祉、介護のプロジェクトもみんながあっと驚くような、楽しいと思うようなきっかけをつくりだしたらどうですかと話をすることが多かったが、どうしたらいいかといわれることが多かった。
これからの介護、福祉を考える方々、現場の方々、デザイナーの方々、クリエーターの方々などが一緒に話し合いの場を作ろうとしました。
全国6ブロックに分けて、ワークショップを6回繰り返して、福祉介護クリエータの方々がチームを作って10チーム(全国で80チーム)がいっしょに介護福祉の事を考えて、解決の道を生み出して活動をやってみる、それをお手伝いをするのがデザインスクールです。
関東ブロックで第1回目を行って60名位が参加して、実際の介護現場を見に行って今後問題点を見付けだして、活動して行くと言うことになっています。
他のブロックでも進め始めています。
「縮充する日本」を出版。
毛糸で編んだセーターは洗濯すると縮むが暖かくなる、わざとするんですが、それを縮充ウールと言います。
日本の人口は今後減っていきますが、縮減、縮退は良くないと思う。
人口は減って行くが、社会課題に参加型で取り組んでゆく人達の数が増えて行くことを「縮充」と呼べないかなあと思いました。
定住人口は減って行っているが、活動人口が増えて行っている状態になると地域としては縮充になるのではないかと思う。
自分たちの地域は自分たちが関わって、作って行こうと思う人の数が増えてゆくという社会を目指したいと思っています。
)
2018年10月26日金曜日
ヨシタケ シンスケ(絵本作家) ・【人生のみちしるべ】コドモのミカタ
ヨシタケ シンスケ(絵本作家) ・【人生のみちしるべ】コドモのミカタ
1973年神奈川県生まれ、45歳。
2013年に初めてのオリジナル絵本、「りんごかもしれない」を出版し大ヒット、これまでに「ぼくのニセモノをつくるには」、「もうぬげない」など10冊あまりを出版し、数々の絵本賞を受賞する絵本作家です。
ヨシタケさんの最新の絵本のタイトルは「みえるとかみえないとか」、ヨシタケさんにとって目が見えないという障害をどう表現し、子供達が面白いと思うような絵本にするか、そこが挑戦だったと言います。
ヨシタケさんはどんな方なのか、最新作に込める思い、これまでの人生で大切にしてきた道しるべについて伺いました。
会社を辞めて坊主頭にして20年ぐらい坊主頭です。
中学生の頃にバレーボールをしていたが、体育系の乗りが理解できなくて辞めてしまいました。
高校では美術部に入りました。
2013年「りんごかもしれない」という絵本でデビューして子供達に大人気になりました。
日常の何でもないことを題材にして、話がどんどん展開して行く。
人一倍常識にとらわれる子だったような気がします。
今は逆に何をどうやれば普通じゃないのかと、考えるようになりました。
イラストレーターとして、絵本を描く前10年やっていまして、ひとつのネタに対して色んな答えを出す訓練をしてきました。
子供ができて子育てをした、ということも大きかったと思います。
小さい頃の自分に喜んでもらうため、絵の本を心がけて来ました。
シンプルな線で描くが、絵が実はへたくそで、筑波大学大学院芸術研究科総合造形コースに入りましたが、デッサンが下手でした。
見ないで描こうと思って、或る時から見ないで描くことにしたら、絵が描けるようになりました。
或る程度の基本を押さえれば、人に伝わると言うことが、僕の好きなものが伝わると言うことが分かった時に、○に点々で顔を描くことにちょっと進化したバージョンと言った感じです。
大学、大学院では現代美術を勉強するところでした。
着ぐるみを作る職業になりたいと思っていました。
卒業してから会社(ゲーム会社)に入りましたが、半年間で辞めました。
新しいゲームを考える部署で、企画書をいかにも書いているふりをして落書きしていました。
或る時見られてしまったが、経理の女性で「可愛い」と言ってくれました。
人に見せてもいい絵なんだと気がつきました。
自費出版で出したが、売れなくて人にあげたりしていたが、或る時出版社から他のものも見せてほしいと言われました。
イラスト集を出さないかと言われて、30歳の時にイラスト集を出しました。
それがきっかけでイラストの仕事を引き受けるようになりました。
40歳でデビューして2013年「りんごかもしれない」という絵本を出しましたが、売れるはずはないと思っていました。
思いのほか売れることになりました。
自分で嫌いなことをやらないようにしました。
最新絵本「みえるとかみえないとか」 東京工業大学準教授の伊藤亜紗さんが、4年前に出版した「目の見えない人は世界をどう見ているのか」を元に作った絵本ですが3年かかりました。
(通常他の絵本は約半年)
難しいテーマでした。
絵に描くとかわいそうな人に見えてしまった。
絵にすると助けてあげなくてはいけない人に見えてしまう。
主人公は地球では普通だが、ある星ではその宇宙人が後ろも見えることが出来、「君後ろが見えないの」と宇宙人から障害者扱いされるのはどうだろうと思いました。
普通の人ということが無くなる。
舞台を宇宙にすると言うことに凄く時間がかかりました。
不謹慎なものになってはいけないし、当事者がいらっしゃる時に勝手な事を言うなと、我々はそんななまやさしいものではない、勝手に笑いものにするなと言われてしまうと、こちらとしてどうしようもない。
探りながら作った本です。
「みえるとかみえないとか」
「僕は宇宙飛行士。・・・・この星の人は後ろにも目があるので、前も後ろも一度に見えるらしい。・・・あっ、君後ろが見えないの。・・・不便じゃない、可愛そう。君は後ろが見えないから背中の話はしないでおこう。・・・凄いちゃんと歩いている、みんなよけてあげて。・・・見え方が違うだけなのに、みんなすごく気を使ってくれて変な気持だった。・・・生まれつき後ろだけ目が見えない人がいる。一緒だ僕と同じだと思うと安心する。・・・いろんな星があったなあ。・・・うまれつき全部の目が見えないと言う人がいた。その人の世界の感じ方はずいぶん僕と感じが違っていた。 自分の予定はメモをしないで録音しておく。・・・外を歩く時は杖を使う。・・・入れ物が同じだと食べてみるまで判らない。・・・音楽など耳を使う仕事、マッサージなど手を使う人が多い。・・・目の見えない人は音、匂い、手触りで色んなことが判る。
…見えないからこそできることも沢山ある。・・・見える人と見えない人では世界の感じ方が全然違う、と言うことは全然別の世界に住んでいると言うことだろうか。
・・・「見えいないってなんか面白そう?」、「えーっ僕は見える方がおもしろそうだと思うな。」時々取り替えられればいいのにね。」
・・・そもそも僕たちはみんなちょっとずつ違う、その人だけの見え方や感じ方を持っている。
・・・どんなにやることや考え方が違っていても、自分と同じところは必ずあると思う。
・・・うーん、宇宙も地球も一緒だな。・・・同じところを探しながら、違うところをお互いにおもしろがればいいんだね。それは凄く難しい様な気がするがじつは簡単なものなのかもしれない。・・・君手が二本しかない、えーっ可愛そう、いややっぱり不便そうに見えちゃうよね。」
主人公が見えない人に向かって、「見えないってなんか面白そう?」て聞くシーンがあるが、実はこの本で実は一番言いたかった事で、「みえるとかみえないとか」を作るきっかけになったのは、伊藤先生の本が面白かったことと、僕が小さい頃に街に視覚障害の方が杖を突いて歩いていて、母に「あの人はなにしているの」と聞きました。
母は「あの人は目の不自由な人で杖で確かめながら歩いているのよ」と言われて、「面白そう」と言ったら凄く母親が怒りました。
自分で好きであのようにしているのではなくて、面白がるんではないと言われました。
なんか悪いことを言ったんだと凄く反省したんですが、もやもやしていました。
大人になって子供がTVを見ていて、視覚障害の方が出てきて、息子が同じおように「面白そう」って言ったんです。
自分とは違う世界の感じ方をすると言うこと自体に「面白そう」と感情を抱くこと自体は、悪いことではないと思うが、どういえばいいのか、タブー視することもよくない。
視覚障害の絵本を描く時に「面白そう」ということに対して、どういう返事ができるのか悩んでいた部分でもあり、僕がみつけた答えの一つが見えない人に対して「見えないことが面白そう?」と聞いた時に、見えない人から「僕は見える方が面白そうだと思うな」、と言うふうなお互いを知ることの面白さに繋がればいいと思う。
無理なのかなあとくじけそうになった時もあります。
次のページめくりたいと思っている訳なので、読後感が「面白かった」と言うふうになってくれたのが成功です。
みんなが触れにくいテーマと、どうでもいいと思われているテーマを同じ熱量で扱って行きたい。
小さいころ自分が感じていたことに、嘘を付かないことが一つの目標です。
1973年神奈川県生まれ、45歳。
2013年に初めてのオリジナル絵本、「りんごかもしれない」を出版し大ヒット、これまでに「ぼくのニセモノをつくるには」、「もうぬげない」など10冊あまりを出版し、数々の絵本賞を受賞する絵本作家です。
ヨシタケさんの最新の絵本のタイトルは「みえるとかみえないとか」、ヨシタケさんにとって目が見えないという障害をどう表現し、子供達が面白いと思うような絵本にするか、そこが挑戦だったと言います。
ヨシタケさんはどんな方なのか、最新作に込める思い、これまでの人生で大切にしてきた道しるべについて伺いました。
会社を辞めて坊主頭にして20年ぐらい坊主頭です。
中学生の頃にバレーボールをしていたが、体育系の乗りが理解できなくて辞めてしまいました。
高校では美術部に入りました。
2013年「りんごかもしれない」という絵本でデビューして子供達に大人気になりました。
日常の何でもないことを題材にして、話がどんどん展開して行く。
人一倍常識にとらわれる子だったような気がします。
今は逆に何をどうやれば普通じゃないのかと、考えるようになりました。
イラストレーターとして、絵本を描く前10年やっていまして、ひとつのネタに対して色んな答えを出す訓練をしてきました。
子供ができて子育てをした、ということも大きかったと思います。
小さい頃の自分に喜んでもらうため、絵の本を心がけて来ました。
シンプルな線で描くが、絵が実はへたくそで、筑波大学大学院芸術研究科総合造形コースに入りましたが、デッサンが下手でした。
見ないで描こうと思って、或る時から見ないで描くことにしたら、絵が描けるようになりました。
或る程度の基本を押さえれば、人に伝わると言うことが、僕の好きなものが伝わると言うことが分かった時に、○に点々で顔を描くことにちょっと進化したバージョンと言った感じです。
大学、大学院では現代美術を勉強するところでした。
着ぐるみを作る職業になりたいと思っていました。
卒業してから会社(ゲーム会社)に入りましたが、半年間で辞めました。
新しいゲームを考える部署で、企画書をいかにも書いているふりをして落書きしていました。
或る時見られてしまったが、経理の女性で「可愛い」と言ってくれました。
人に見せてもいい絵なんだと気がつきました。
自費出版で出したが、売れなくて人にあげたりしていたが、或る時出版社から他のものも見せてほしいと言われました。
イラスト集を出さないかと言われて、30歳の時にイラスト集を出しました。
それがきっかけでイラストの仕事を引き受けるようになりました。
40歳でデビューして2013年「りんごかもしれない」という絵本を出しましたが、売れるはずはないと思っていました。
思いのほか売れることになりました。
自分で嫌いなことをやらないようにしました。
最新絵本「みえるとかみえないとか」 東京工業大学準教授の伊藤亜紗さんが、4年前に出版した「目の見えない人は世界をどう見ているのか」を元に作った絵本ですが3年かかりました。
(通常他の絵本は約半年)
難しいテーマでした。
絵に描くとかわいそうな人に見えてしまった。
絵にすると助けてあげなくてはいけない人に見えてしまう。
主人公は地球では普通だが、ある星ではその宇宙人が後ろも見えることが出来、「君後ろが見えないの」と宇宙人から障害者扱いされるのはどうだろうと思いました。
普通の人ということが無くなる。
舞台を宇宙にすると言うことに凄く時間がかかりました。
不謹慎なものになってはいけないし、当事者がいらっしゃる時に勝手な事を言うなと、我々はそんななまやさしいものではない、勝手に笑いものにするなと言われてしまうと、こちらとしてどうしようもない。
探りながら作った本です。
「みえるとかみえないとか」
「僕は宇宙飛行士。・・・・この星の人は後ろにも目があるので、前も後ろも一度に見えるらしい。・・・あっ、君後ろが見えないの。・・・不便じゃない、可愛そう。君は後ろが見えないから背中の話はしないでおこう。・・・凄いちゃんと歩いている、みんなよけてあげて。・・・見え方が違うだけなのに、みんなすごく気を使ってくれて変な気持だった。・・・生まれつき後ろだけ目が見えない人がいる。一緒だ僕と同じだと思うと安心する。・・・いろんな星があったなあ。・・・うまれつき全部の目が見えないと言う人がいた。その人の世界の感じ方はずいぶん僕と感じが違っていた。 自分の予定はメモをしないで録音しておく。・・・外を歩く時は杖を使う。・・・入れ物が同じだと食べてみるまで判らない。・・・音楽など耳を使う仕事、マッサージなど手を使う人が多い。・・・目の見えない人は音、匂い、手触りで色んなことが判る。
…見えないからこそできることも沢山ある。・・・見える人と見えない人では世界の感じ方が全然違う、と言うことは全然別の世界に住んでいると言うことだろうか。
・・・「見えいないってなんか面白そう?」、「えーっ僕は見える方がおもしろそうだと思うな。」時々取り替えられればいいのにね。」
・・・そもそも僕たちはみんなちょっとずつ違う、その人だけの見え方や感じ方を持っている。
・・・どんなにやることや考え方が違っていても、自分と同じところは必ずあると思う。
・・・うーん、宇宙も地球も一緒だな。・・・同じところを探しながら、違うところをお互いにおもしろがればいいんだね。それは凄く難しい様な気がするがじつは簡単なものなのかもしれない。・・・君手が二本しかない、えーっ可愛そう、いややっぱり不便そうに見えちゃうよね。」
主人公が見えない人に向かって、「見えないってなんか面白そう?」て聞くシーンがあるが、実はこの本で実は一番言いたかった事で、「みえるとかみえないとか」を作るきっかけになったのは、伊藤先生の本が面白かったことと、僕が小さい頃に街に視覚障害の方が杖を突いて歩いていて、母に「あの人はなにしているの」と聞きました。
母は「あの人は目の不自由な人で杖で確かめながら歩いているのよ」と言われて、「面白そう」と言ったら凄く母親が怒りました。
自分で好きであのようにしているのではなくて、面白がるんではないと言われました。
なんか悪いことを言ったんだと凄く反省したんですが、もやもやしていました。
大人になって子供がTVを見ていて、視覚障害の方が出てきて、息子が同じおように「面白そう」って言ったんです。
自分とは違う世界の感じ方をすると言うこと自体に「面白そう」と感情を抱くこと自体は、悪いことではないと思うが、どういえばいいのか、タブー視することもよくない。
視覚障害の絵本を描く時に「面白そう」ということに対して、どういう返事ができるのか悩んでいた部分でもあり、僕がみつけた答えの一つが見えない人に対して「見えないことが面白そう?」と聞いた時に、見えない人から「僕は見える方が面白そうだと思うな」、と言うふうなお互いを知ることの面白さに繋がればいいと思う。
無理なのかなあとくじけそうになった時もあります。
次のページめくりたいと思っている訳なので、読後感が「面白かった」と言うふうになってくれたのが成功です。
みんなが触れにくいテーマと、どうでもいいと思われているテーマを同じ熱量で扱って行きたい。
小さいころ自分が感じていたことに、嘘を付かないことが一つの目標です。
2018年10月25日木曜日
松本零士(漫画家) ・人は、生きるために生まれてきた(2018年8月16日OA)
松本零士(漫画家) ・人は、生きるために生まれてきた(2018年8月16日OA)
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2018/08/blog-post_16.htmlをご覧ください。
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2018/08/blog-post_16.htmlをご覧ください。
2018年10月24日水曜日
柳家花緑(噺家) ・噺家でよかった
柳家花緑(噺家) ・噺家でよかった
人間国宝で5代目柳家小さんさんの孫で22歳で真打ちになった柳家花禄さんですが、9歳から落語を始めて中学卒業後、おじいさんの小さん師匠に弟子入りして、戦後最年少の22歳で真打ちに昇進しました。
現在弟子が11人、古典も新作もこなします。
また俳優としても舞台、ドラマに出演して、幅広い活躍をしています。
花緑さんは昨年「花緑の幸せ入門」という本を出版して、御自身の発達障害を告白して話題になりました。
落語家は世襲制ではなくて、2世の方が少ない。
800~900人いる中で、東西合わせて2世は30人いないと思います。
持ちネタは190幾つといった感じです。
落語家の記憶力は普通の人と変わらないので、やっていない話はどんどん忘れて行きます。
20~30席位が頭にあって放っておくと、どんどん消えて行くような印象です。
稽古をして思いだし稽古をしています。
覚えること自体楽にはならない。
『落語家はなぜ噺を忘れないのか』という本を出しました。
どんな気持ちで上がっているのかとか、祖父、古今亭 志ん朝師匠のことなど書かせてもらっています。
本当に言って下さるのがどれほどありがたいことか、1つを発見するのに10年掛かるかもしれないところを、違うよと気付かないところを言って下さったときに本当に有難いと思います。
洋服で椅子に座ってやることもやっていて、私だけです。(新作落語だけ)
大事なのはちゃんと演じる演技であって、もし批判されることがあるのであれば、僕の演技が問題であると思っています。
1971年8月2日生まれ、母親の父が小さん師匠、兄がバレエダンサー。
兄は腰を痛めて教えています。
母は元々バレエが好きだったので影響で兄は10歳からバレエにうちこみました。
私もいっとき兄とバレエをした時期がありました。
9歳から落語をやるようになりました。
最初叔父の6代目柳家小さんから落語を習いました。
部活をやりたければ、落語家にはならない、落語家になるならば部活をしないで、日本舞踊、三味線など落語に役立つことをやりなさいと母から言われて、僕は落語を9歳からやってきたので落語家になることを決めました。(小学校6年で母に宣言)
中学3年の時に高校に行かなくていいのかと母から言われましたが、落語家の道に入ってきました。
落語家は厳しい世界だと思います。
1987年正式入門しました。
1989年に「小緑」で二つ目、1994年真打昇進、「花緑」に改名。(22歳)
当時かなりプレッシャーはありました。
かなり自信を持てるようになった時には30歳になっていました。
平成9年度国立演芸場花形演芸大賞(1998年)
彩の国落語大賞(2000年)
平成12年度国立演芸場花形演芸大賞(2001年)
小さい時は勉強が出来ずに、多弁な子でした。
去年発売の「花緑の幸せ入門」で子供時代の学習障害を公表。
正直に自分のことを書きたかった。
子さんの孫ということが自分の中に不満の様にあって、色眼鏡で見られているような思いが強かった。
本当の自分を見て好きとか嫌いとかを言ってほしいという欲求があった様で、自分をさらけ出したいと思った。
学習障害についてネットで調べてみると、全く自分のことだという思いがあり、今まで感じたことのない安らぎを得ました。
脳の病気だと言うことでストレスがたまったり、疲れやすいということも判りました。
治る病気ではない、生涯治らない。
空気が読めないということもある。
落語家になって僕は幸せです。
小学生からテストで0点を取って、ついていけなくなって中学ではチンプンカンプンでした。
字が読み書きができない、テストの問題すら読めない。
ナレーションなどはルビを振っています。
「芝浜」をやった時にサイン会をやったが、その時に相手の名前を書いて貰って、それを見て書いて渡していたが、聞いた「芝浜」聞いたが良かったから「芝浜」と書いてほしいと言われて、先に「浜」を書いてしまってその後に「松」と書いてしまって、ハッとして書き直しました。(その時は大変疲れていた。)
何時もかける文字でも急に書けなくなってしまうこともある。
ひらがなでも書けなくなる可能性がある。
状況に応じて読めなくなる可能性がある。
人によって大分症状が違う、個人差がある。
学習障害と言ったようなことが、広く知れ渡ることによって周りが理解してくれて、当人がまず自覚してそれを受け入れて、発信してほしいと思う。
弟子は11人います。
最初弟子を取っていいかどうか迷った時に、小さん師匠から直ぐに「取りなさい」と言われました。
「教えることは学ぶことだ」と言われました。
祖父は40人から弟子を育てて、実感から出た言葉だったと思います。
師匠に返すものはなにも無くて、下に送って行く、伝統芸能を続けて行くことが、師匠に対する恩返しではないかと思いました。
人間国宝で5代目柳家小さんさんの孫で22歳で真打ちになった柳家花禄さんですが、9歳から落語を始めて中学卒業後、おじいさんの小さん師匠に弟子入りして、戦後最年少の22歳で真打ちに昇進しました。
現在弟子が11人、古典も新作もこなします。
また俳優としても舞台、ドラマに出演して、幅広い活躍をしています。
花緑さんは昨年「花緑の幸せ入門」という本を出版して、御自身の発達障害を告白して話題になりました。
落語家は世襲制ではなくて、2世の方が少ない。
800~900人いる中で、東西合わせて2世は30人いないと思います。
持ちネタは190幾つといった感じです。
落語家の記憶力は普通の人と変わらないので、やっていない話はどんどん忘れて行きます。
20~30席位が頭にあって放っておくと、どんどん消えて行くような印象です。
稽古をして思いだし稽古をしています。
覚えること自体楽にはならない。
『落語家はなぜ噺を忘れないのか』という本を出しました。
どんな気持ちで上がっているのかとか、祖父、古今亭 志ん朝師匠のことなど書かせてもらっています。
本当に言って下さるのがどれほどありがたいことか、1つを発見するのに10年掛かるかもしれないところを、違うよと気付かないところを言って下さったときに本当に有難いと思います。
洋服で椅子に座ってやることもやっていて、私だけです。(新作落語だけ)
大事なのはちゃんと演じる演技であって、もし批判されることがあるのであれば、僕の演技が問題であると思っています。
1971年8月2日生まれ、母親の父が小さん師匠、兄がバレエダンサー。
兄は腰を痛めて教えています。
母は元々バレエが好きだったので影響で兄は10歳からバレエにうちこみました。
私もいっとき兄とバレエをした時期がありました。
9歳から落語をやるようになりました。
最初叔父の6代目柳家小さんから落語を習いました。
部活をやりたければ、落語家にはならない、落語家になるならば部活をしないで、日本舞踊、三味線など落語に役立つことをやりなさいと母から言われて、僕は落語を9歳からやってきたので落語家になることを決めました。(小学校6年で母に宣言)
中学3年の時に高校に行かなくていいのかと母から言われましたが、落語家の道に入ってきました。
落語家は厳しい世界だと思います。
1987年正式入門しました。
1989年に「小緑」で二つ目、1994年真打昇進、「花緑」に改名。(22歳)
当時かなりプレッシャーはありました。
かなり自信を持てるようになった時には30歳になっていました。
平成9年度国立演芸場花形演芸大賞(1998年)
彩の国落語大賞(2000年)
平成12年度国立演芸場花形演芸大賞(2001年)
小さい時は勉強が出来ずに、多弁な子でした。
去年発売の「花緑の幸せ入門」で子供時代の学習障害を公表。
正直に自分のことを書きたかった。
子さんの孫ということが自分の中に不満の様にあって、色眼鏡で見られているような思いが強かった。
本当の自分を見て好きとか嫌いとかを言ってほしいという欲求があった様で、自分をさらけ出したいと思った。
学習障害についてネットで調べてみると、全く自分のことだという思いがあり、今まで感じたことのない安らぎを得ました。
脳の病気だと言うことでストレスがたまったり、疲れやすいということも判りました。
治る病気ではない、生涯治らない。
空気が読めないということもある。
落語家になって僕は幸せです。
小学生からテストで0点を取って、ついていけなくなって中学ではチンプンカンプンでした。
字が読み書きができない、テストの問題すら読めない。
ナレーションなどはルビを振っています。
「芝浜」をやった時にサイン会をやったが、その時に相手の名前を書いて貰って、それを見て書いて渡していたが、聞いた「芝浜」聞いたが良かったから「芝浜」と書いてほしいと言われて、先に「浜」を書いてしまってその後に「松」と書いてしまって、ハッとして書き直しました。(その時は大変疲れていた。)
何時もかける文字でも急に書けなくなってしまうこともある。
ひらがなでも書けなくなる可能性がある。
状況に応じて読めなくなる可能性がある。
人によって大分症状が違う、個人差がある。
学習障害と言ったようなことが、広く知れ渡ることによって周りが理解してくれて、当人がまず自覚してそれを受け入れて、発信してほしいと思う。
弟子は11人います。
最初弟子を取っていいかどうか迷った時に、小さん師匠から直ぐに「取りなさい」と言われました。
「教えることは学ぶことだ」と言われました。
祖父は40人から弟子を育てて、実感から出た言葉だったと思います。
師匠に返すものはなにも無くて、下に送って行く、伝統芸能を続けて行くことが、師匠に対する恩返しではないかと思いました。
2018年10月23日火曜日
渡邉妙子(美術館館長) ・女子(おなご)が伝える刀の魅力
渡邉妙子(美術館館長) ・女子(おなご)が伝える刀の魅力
今若い女性の間で日本刀が大変なブームになっています。
日本刀を扱う美術館には多くの若者達が訪れ、実際に日本刀を触るイベントにも殺到しているそうです。
渡邉妙子さんは日本刀のコレクションを有する美術館で、80歳を越えた今も現役で館長を勤め、全国を回って講演会を行っています。
しかし、渡邉さんが美術館で学芸員として働き始めたころは、女性の学芸員は少なく日本刀の世界は非常に険しいものでした。
日本刀は武士の魂、女が手にすると穢れると言われ、最初は展示の為に日本刀を触ることすら許されなかったと言います。
いまでこそ日本刀を所蔵する美術館で、多くの女性学芸員が活躍していますが、その草分け的な存在の渡邉さんに学芸員として日本刀を扱える様になるまでの御苦労や日本刀の魅力などについて伺います。
昭和41年に美術館が開館するときに、初めて日本刀を目にすることになりました。
その時に持つことを許されなかったことはショックでした。
本阿弥日洲さんという(後に人間国宝になった)研ぎ師に女が手にすると刀が錆びると言われました。
別に怒りは出ませんでした。
かたずける時にどうしましょうと言ったら人をつかわしますということだった。
どのように手入れをするかなどを見つめていました。
これは刀がかわいそうだと固く心に誓いました。
もう少し丁寧に扱わないといけないと思いました。
本間先生が刀の先生で先生のところに行って、手入れをする方法を教えてほしいと言いました。
先生が本阿弥日洲さんに電話をして渡邉妙子という女性を向けますから、貴方は刀の手入れの方法を教えなさいと連絡してくれました。
奥さんも入れたことのない研ぎの仕事場まで案内していただいて、懇切丁寧に本阿弥家の伝統的な手入れ方法を教えていただきました。
小さいころから一つ事を始めるとずーっとやるような性分でした。
家は古美術が周辺にありまして、日本刀を床の間に飾ってありました。
とにかく綺麗で清淨感があり怖さはあんまり持たなかったです。
本間先生の豊城塾に三島から東京まで10年間通いました。
毎回違う刀が出てきて勉強しました。
どの時代の誰が作ったのかを当てる訳ですが、最初のころは全然判りませんでしたが、段々判る様になって来てから楽しくなりました。
先生は質問すると丁寧に説明してくれます。
鉄は面白いです、世の中には鉄がいっぱいありますが、年中手入れをする必要がある。
そうすると鉄は何百年でも持つ訳です。
日本人は世界一鉄を美しくしてきました。
刀の柄は鉄釜の錆びと同じで黒錆(化学式Fe3O4 鉄の表面にできる酸化膜)で中の鉄は錆びない。
刀をぬぐうには奉書紙という紙を1時間揉みます。
紙を揉むのが最初でした。
刀は油を塗って保存してあるので、最初に油を取るためにぬぐう訳です。
うじこ(水に浮いたものから取った細かな砥石の粉)を打って塗ってまたぬぐう。
表面を綺麗にして鑑賞する。
粉が固まると表面に傷が付くのでそれが一番悪い手入れになる。
唾をかけない、かけると錆びが出て来る。
光り輝いているところには穢れが寄らないというとこかで、そう言った処を信じているところがあります。
銀行に勤めていて英文のタイピストでした。
男性は物凄く優秀で、私も勉強しようと思って学芸員になろうと思って慶応に入りました。
絵とか焼き物なども家にあり、判ろうと思って学芸員になろうと思いました。
41年に卒業したが東京中で募集が無かった。
文化庁で学芸員の募集がありたまたま決まってしまいました。(52年目になります。)
美術館では色んな刀剣の会がありましたが、女性はいなかったです。
美術品としては美しい反りのある姿、世界で日本刀しかないです。
直刀が大陸から入ってきて奈良時代、平安時代も直刀でした。
平安中期に中国的な文化を日本的な文化に創造していった。
漢字から平仮名へ、平仮名は曲線の美がある。
平安時代の創造的な文化の一つとして曲線の日本刀が生まれたと思っています。
貴族の感性を生かした文化が、一つのエネルギーとして生かされ来る、それが源平合戦のころです。
その時代に武士たちは文武両道で大鎧に太刀姿が出来た訳です。
日本刀を世界の人が美術品として認めています。
武器でなければあんな美しい刀は出来ないです。
一発で切らなければいけない、だから腕も磨かなくてはいけない。
刀で自分の命、家族を守らなくはいけない。
名刀は重心が非常に良くできていて、反りでバランスが非常に良く、手にもった瞬間に名刀かどうか判ります。
名刀は姿に品格があり研ぎ澄まされていて静かな澄んだ光を放っている。
鞘は平安時代は儀式の時に身に付けていた。
鍔は色んな紋様のある古墳時代から日本独特の形が出来ている。
平らな丸い鍔は世界にない日本独特な形状です。
日本人が生み出した工芸の中でも、最も日本的なものを勉強させてもらって、有難いことだと思っています。
女性の刀剣ブームは、まず日本刀をやると武士が絡んできて、武士の周辺の歴史があって、趣味的はこしらえものがあって、これは尽きなく面白いと言う人が結構います。
いまは中国、東南アジアなどにも広がってきています。
刀剣の男性学芸員が少なくなってきました。
刀は手入れによって変わってくるので守っていかなければいけない。
若い方には出来るだけ良い形で伝えて行きたいと思います。
今若い女性の間で日本刀が大変なブームになっています。
日本刀を扱う美術館には多くの若者達が訪れ、実際に日本刀を触るイベントにも殺到しているそうです。
渡邉妙子さんは日本刀のコレクションを有する美術館で、80歳を越えた今も現役で館長を勤め、全国を回って講演会を行っています。
しかし、渡邉さんが美術館で学芸員として働き始めたころは、女性の学芸員は少なく日本刀の世界は非常に険しいものでした。
日本刀は武士の魂、女が手にすると穢れると言われ、最初は展示の為に日本刀を触ることすら許されなかったと言います。
いまでこそ日本刀を所蔵する美術館で、多くの女性学芸員が活躍していますが、その草分け的な存在の渡邉さんに学芸員として日本刀を扱える様になるまでの御苦労や日本刀の魅力などについて伺います。
昭和41年に美術館が開館するときに、初めて日本刀を目にすることになりました。
その時に持つことを許されなかったことはショックでした。
本阿弥日洲さんという(後に人間国宝になった)研ぎ師に女が手にすると刀が錆びると言われました。
別に怒りは出ませんでした。
かたずける時にどうしましょうと言ったら人をつかわしますということだった。
どのように手入れをするかなどを見つめていました。
これは刀がかわいそうだと固く心に誓いました。
もう少し丁寧に扱わないといけないと思いました。
本間先生が刀の先生で先生のところに行って、手入れをする方法を教えてほしいと言いました。
先生が本阿弥日洲さんに電話をして渡邉妙子という女性を向けますから、貴方は刀の手入れの方法を教えなさいと連絡してくれました。
奥さんも入れたことのない研ぎの仕事場まで案内していただいて、懇切丁寧に本阿弥家の伝統的な手入れ方法を教えていただきました。
小さいころから一つ事を始めるとずーっとやるような性分でした。
家は古美術が周辺にありまして、日本刀を床の間に飾ってありました。
とにかく綺麗で清淨感があり怖さはあんまり持たなかったです。
本間先生の豊城塾に三島から東京まで10年間通いました。
毎回違う刀が出てきて勉強しました。
どの時代の誰が作ったのかを当てる訳ですが、最初のころは全然判りませんでしたが、段々判る様になって来てから楽しくなりました。
先生は質問すると丁寧に説明してくれます。
鉄は面白いです、世の中には鉄がいっぱいありますが、年中手入れをする必要がある。
そうすると鉄は何百年でも持つ訳です。
日本人は世界一鉄を美しくしてきました。
刀の柄は鉄釜の錆びと同じで黒錆(化学式Fe3O4 鉄の表面にできる酸化膜)で中の鉄は錆びない。
刀をぬぐうには奉書紙という紙を1時間揉みます。
紙を揉むのが最初でした。
刀は油を塗って保存してあるので、最初に油を取るためにぬぐう訳です。
うじこ(水に浮いたものから取った細かな砥石の粉)を打って塗ってまたぬぐう。
表面を綺麗にして鑑賞する。
粉が固まると表面に傷が付くのでそれが一番悪い手入れになる。
唾をかけない、かけると錆びが出て来る。
光り輝いているところには穢れが寄らないというとこかで、そう言った処を信じているところがあります。
銀行に勤めていて英文のタイピストでした。
男性は物凄く優秀で、私も勉強しようと思って学芸員になろうと思って慶応に入りました。
絵とか焼き物なども家にあり、判ろうと思って学芸員になろうと思いました。
41年に卒業したが東京中で募集が無かった。
文化庁で学芸員の募集がありたまたま決まってしまいました。(52年目になります。)
美術館では色んな刀剣の会がありましたが、女性はいなかったです。
美術品としては美しい反りのある姿、世界で日本刀しかないです。
直刀が大陸から入ってきて奈良時代、平安時代も直刀でした。
平安中期に中国的な文化を日本的な文化に創造していった。
漢字から平仮名へ、平仮名は曲線の美がある。
平安時代の創造的な文化の一つとして曲線の日本刀が生まれたと思っています。
貴族の感性を生かした文化が、一つのエネルギーとして生かされ来る、それが源平合戦のころです。
その時代に武士たちは文武両道で大鎧に太刀姿が出来た訳です。
日本刀を世界の人が美術品として認めています。
武器でなければあんな美しい刀は出来ないです。
一発で切らなければいけない、だから腕も磨かなくてはいけない。
刀で自分の命、家族を守らなくはいけない。
名刀は重心が非常に良くできていて、反りでバランスが非常に良く、手にもった瞬間に名刀かどうか判ります。
名刀は姿に品格があり研ぎ澄まされていて静かな澄んだ光を放っている。
鞘は平安時代は儀式の時に身に付けていた。
鍔は色んな紋様のある古墳時代から日本独特の形が出来ている。
平らな丸い鍔は世界にない日本独特な形状です。
日本人が生み出した工芸の中でも、最も日本的なものを勉強させてもらって、有難いことだと思っています。
女性の刀剣ブームは、まず日本刀をやると武士が絡んできて、武士の周辺の歴史があって、趣味的はこしらえものがあって、これは尽きなく面白いと言う人が結構います。
いまは中国、東南アジアなどにも広がってきています。
刀剣の男性学芸員が少なくなってきました。
刀は手入れによって変わってくるので守っていかなければいけない。
若い方には出来るだけ良い形で伝えて行きたいと思います。
2018年10月22日月曜日
新内多賀太夫(新内節冨士元派七代目家元) ・【にっぽんの音】
新内多賀太夫(新内節冨士元派七代目家元) ・【にっぽんの音】
能楽師狂言方 大藏基誠
今年36歳になりました。
新内節は江戸浄瑠璃のカテゴリーの一つ。
今から260年前くらい前に京都で一中節の音曲が出来て、その一中節が豊後節に別れてゆくが、それが江戸に下って行き大変流行する。
流行し過ぎて他流、幕府から迫害を受けてしまって、江戸で演奏することができなくなってしまった。
男性なのに女性のような髪形をしたり、うちかけを長く引きづりながら歩いたりして、お客さんを目でも音楽でも惹きつけて行って、それが風紀を乱すことになり、音楽ともに禁止になってしまった。
音楽は残したいと思って3人の弟子が豊後節の音楽に替わるものを考え出した。
それが常磐津節、富本節、新内節だった。
富本節から今の清元節が生まれて、常磐津節、清元節、新内節がそれぞれ歌舞伎に入った。
創設した人が使ってた特徴的な声色、歌い方だったりするので、それが一つのスタイルになる。
東京都1982年生まれ、36歳、父親が人間国宝の新内仲三郎。
稽古は6歳から始め、東京藝術大学音楽学部邦楽科に入学。
平成17年3月 東京藝術大学音楽学部邦楽科卒業
大学では常磐津節が一番新内に近いと思って、専門的な三味線をやりつつ色んな研究をしていました。
新内節は最初歌舞伎音楽とかに入っていたが、そこから抜け出して演奏だけを聞かせようという音楽の流れがあります。
新内節は映像が浮かんでくるように演奏することが一番魅力的です。
*「明烏夢泡雪」(あけがらすゆめのあわゆき)
新吉原・山名屋の客、春日屋の時次郎は、遊女の浦里と相思相愛の仲となる。
そのうちお金が払えなくなり心中すると言うことなる。
今日の演奏場面は、二人が春の雨に起こされてこれからどうしようかとしている所。
文化文政のころに新内流しが流行して、三味線を歩きながら弾き流して、お客さんに聞いていただいて、良かったらお座敷に上がって演奏するスタイルが当時はやりました。
新内流しがはやって、新内というと新内流しが有名になってしまった。
三味線に枷(かせ)と言う道具を付けて音の高さを付けて、低い三味線と高い三味線で高低の差を付けて合奏させる手法があり、高いパートが上調子、で二人一組で歩く。
週刊誌ふうに実際にあった話などを弾き語りした。
「明烏夢泡雪」も実際にあった話ですが、幕府の目から逃れるために、夢であったとフィクションに仕立ている。
「蘭蝶」は不倫に関する話です。
流行ったので芸を磨かなくてもお金を稼げたので、隆盛は極めたが芸は荒れてしまったという一面はあります。
三味線をもったのは6歳の6月6日でした。
最初祖母に教えてもらいました。
伊豆の旅館に行った時に入口が竹やぶになっていて、笹の揺れると音、木漏れ日とかと、流れていた三味線の音楽と子供ながら鳥肌が立ちました。(4,5歳の時)
それは父親が演奏していたBGMだった。(後で判った事)
子供用の三味線を作ってもらいました。
子供のころはバスケットボールをやっていましたので、左の弦を使う指だけは突き指をしなくて、なんとかできました。
小学校から高校までバスケットをやっていました。
弁護士の道に進みたいと思っていたが、三味線をやっていこうかなと言ったら、先生が三味線をやって何になるのと言われてしまいました。
芸大に受かって見返してやろうと思いました。
昨年4月に家元を継ぐことになりました。
日本の音 邦楽はそぎ落とされてシンプルな音になる、しかし壮大な世界がそこにあったり、一つの音で表現しなければいけなかったりするが、一つの音で世界観を広げて行くというのが日本の音、邦楽の本質であり、本来の魅力だと思っています。
作曲はどんどんやっていきたい。
視覚的なものと音楽もやりつつ、新内のシンプルなもので世界を広がらせてゆく表現を追求して行きたい。
それと逆のものも両方やって両方のいいところを判っておきたい。
*「蘭蝶」
蘭蝶は男芸者で、女房のお宮がいるが、遊女此糸に通ってしまう。
蘭蝶,その妻お宮,遊女此糸の三角関係、その後蘭蝶と遊女此糸は心中してしまう。
今日は蘭蝶,その妻お宮の話の場面。
能楽師狂言方 大藏基誠
今年36歳になりました。
新内節は江戸浄瑠璃のカテゴリーの一つ。
今から260年前くらい前に京都で一中節の音曲が出来て、その一中節が豊後節に別れてゆくが、それが江戸に下って行き大変流行する。
流行し過ぎて他流、幕府から迫害を受けてしまって、江戸で演奏することができなくなってしまった。
男性なのに女性のような髪形をしたり、うちかけを長く引きづりながら歩いたりして、お客さんを目でも音楽でも惹きつけて行って、それが風紀を乱すことになり、音楽ともに禁止になってしまった。
音楽は残したいと思って3人の弟子が豊後節の音楽に替わるものを考え出した。
それが常磐津節、富本節、新内節だった。
富本節から今の清元節が生まれて、常磐津節、清元節、新内節がそれぞれ歌舞伎に入った。
創設した人が使ってた特徴的な声色、歌い方だったりするので、それが一つのスタイルになる。
東京都1982年生まれ、36歳、父親が人間国宝の新内仲三郎。
稽古は6歳から始め、東京藝術大学音楽学部邦楽科に入学。
平成17年3月 東京藝術大学音楽学部邦楽科卒業
三味線音楽について研究、新内の演奏のほか、歌舞伎の音楽や舞台音楽の作曲なども手掛け多彩な活動をする。
笛、琴、尺八、チェロ、ビオラなどを使って、お芝居の中の音楽の全体的な作曲をする活動をしてきています。大学では常磐津節が一番新内に近いと思って、専門的な三味線をやりつつ色んな研究をしていました。
新内節は最初歌舞伎音楽とかに入っていたが、そこから抜け出して演奏だけを聞かせようという音楽の流れがあります。
新内節は映像が浮かんでくるように演奏することが一番魅力的です。
*「明烏夢泡雪」(あけがらすゆめのあわゆき)
新吉原・山名屋の客、春日屋の時次郎は、遊女の浦里と相思相愛の仲となる。
そのうちお金が払えなくなり心中すると言うことなる。
今日の演奏場面は、二人が春の雨に起こされてこれからどうしようかとしている所。
文化文政のころに新内流しが流行して、三味線を歩きながら弾き流して、お客さんに聞いていただいて、良かったらお座敷に上がって演奏するスタイルが当時はやりました。
新内流しがはやって、新内というと新内流しが有名になってしまった。
三味線に枷(かせ)と言う道具を付けて音の高さを付けて、低い三味線と高い三味線で高低の差を付けて合奏させる手法があり、高いパートが上調子、で二人一組で歩く。
週刊誌ふうに実際にあった話などを弾き語りした。
「明烏夢泡雪」も実際にあった話ですが、幕府の目から逃れるために、夢であったとフィクションに仕立ている。
「蘭蝶」は不倫に関する話です。
流行ったので芸を磨かなくてもお金を稼げたので、隆盛は極めたが芸は荒れてしまったという一面はあります。
三味線をもったのは6歳の6月6日でした。
最初祖母に教えてもらいました。
伊豆の旅館に行った時に入口が竹やぶになっていて、笹の揺れると音、木漏れ日とかと、流れていた三味線の音楽と子供ながら鳥肌が立ちました。(4,5歳の時)
それは父親が演奏していたBGMだった。(後で判った事)
子供用の三味線を作ってもらいました。
子供のころはバスケットボールをやっていましたので、左の弦を使う指だけは突き指をしなくて、なんとかできました。
小学校から高校までバスケットをやっていました。
弁護士の道に進みたいと思っていたが、三味線をやっていこうかなと言ったら、先生が三味線をやって何になるのと言われてしまいました。
芸大に受かって見返してやろうと思いました。
昨年4月に家元を継ぐことになりました。
日本の音 邦楽はそぎ落とされてシンプルな音になる、しかし壮大な世界がそこにあったり、一つの音で表現しなければいけなかったりするが、一つの音で世界観を広げて行くというのが日本の音、邦楽の本質であり、本来の魅力だと思っています。
作曲はどんどんやっていきたい。
視覚的なものと音楽もやりつつ、新内のシンプルなもので世界を広がらせてゆく表現を追求して行きたい。
それと逆のものも両方やって両方のいいところを判っておきたい。
*「蘭蝶」
蘭蝶は男芸者で、女房のお宮がいるが、遊女此糸に通ってしまう。
蘭蝶,その妻お宮,遊女此糸の三角関係、その後蘭蝶と遊女此糸は心中してしまう。
今日は蘭蝶,その妻お宮の話の場面。
2018年10月21日日曜日
田中啓昭(こども園理事長) ・【"美味しい"仕事人】食育は畑仕事から
田中啓昭(こども園理事長) ・【"美味しい"仕事人】食育は畑仕事から
大阪府寝屋川市の保育園では子供達が専用の畑で、子供達が野菜や米を栽培しています。
子供達は土に触れながら、小さな種がやがて食べ物へと姿を変えて、自分の健康や身体を作ってくれる、そんなプロセスを体験しています。
大阪府寝屋川市の認定子供園、ねやがわ寝屋の森こども園、ねやがわ成美の森こども園、ねやがわくこの木保育園では、食を通じて豊かな人間性をはぐくもうという、食育に実践的に取り組んでいます。
子供達が収穫した食材は、給食となりそのレシピは保護者にも提供されて、家庭での食育にもつながっています。
3つの園を運営している社会福祉法人大阪誠昭会理事長の田中さんに伺いました。
稲刈りをもうすぐします。
稲穂が成長する姿を子供達はズーっと見続けて来ました。
専用の畑は300坪ぐらいあります。
地元の農家の方からお借りしています。
全部で200名位います。
0歳児から6歳児迄います。
雑草抜き、水やり等も嫌がらずにやっています。
夏野菜はピーマン、なすび、きゅうり、トマト、オクラなどを栽培し、その後は大根、サツマイモ、玉ねぎ、シイタケもやります。
シイタケが原木から出て来ると子供達は吃驚します。
夏野菜の収穫は随時収穫しますが、嬉しそうにやっています。
自分が植えた苗から収穫すると、子供達の喜びもひとしおです。
住宅街にある畑では虫たちもやってきます。
苗床で農家の方が子供の見えるところで育てて、それを見学して、田植えの前段から見てもらっています。
田んぼに入る時の子供の声は凄くて、泣く声とかはしゃぐ声とか色々な光景が見られます。
稲を刈るときには鎌の説明などもします。
収穫した米は給食で使います。
他に農家で作った米を100%使っています。
保護者への販売もして貰っています。
農家の方には感謝しています。
夏野菜が使いきれない時には、野菜屋さんに販売させてもらっています。
その集めたお金で来年の苗を買う様に循環しています。
ピーマンが好きでなくても、畑から自分で収穫したものは食べます。
「子供を産み育てる感動を地域から社会に広げたい」
昨今幼児虐待などがあるが、密室の中で母親が行き詰まってしまうような閉塞感があるが、親子の絆を広げていただく、強固なものにしていただくという取り組みです。
根本の親子関係から見直しましょう、ということで色々提案しています。
6年間を預かる訳ですが、教育の根幹は家庭にやっていただきたい。
その一つとして食育があるわけです。
①コンビニとか自由に食材がはいるが、食に乱れが起きやすいので、正しい知識を入れて、旬のものを食べて行こうと言う事。
②食育基本法が制定されたが、感謝の気持ちを持つ事、色んな人のかかわりとプロセスがあって出来上がることを知ってもらう。
本当に小さな種から大根ができる、あんなに大きくなることが子供達は体験することになる。
ご飯が楽しくなるための7つの提案。
①季節感を肌で感じていただきたい。
②買い物に子供と一緒に行く。
③図鑑があると子供の探究心を育てる。
④母親とクッキングを一緒にやってお手伝いをする。
⑤プランターでもいいから家庭で育てていただきたい。
⑥作るだけでなくて、片付けもやっていただきたい。
⑦家族で会話を持って食べていただきたい。
取れた野菜やお米を使った料理のレシピを開発しています。
「保育園産のお米」というタイトルで、多くのレシピを掲載しています。
先生とか給食の業者さんを交えて、色々相談して本に纏めました。
色々反響をいただいて嬉しく思っています。
54のレシピを掲載しましたが、試作の段階では300を持ち寄りました。
美味しいものを厳選しました。
企画から4年間かかりました。
54のレシピは給食にも使われています。
園児の家庭とか、園と直接に関係ない方にも広がって嬉しく思います。
きゅうりと蒸し鳥の酢みそがけは一番のお薦めメニューです。
ジャコ、ピーマン乗せスライスポテト 子供が嫌いなものを、カルシュウムへの対応。
おやつは捕食ということで栄養価のあるもの、サツマイモミルクジャムとかがあります。
武庫川女子大学国際健康開発研究所と共同で監修を頂きながら、栄養学の部分を食育に落して保護者の方へ啓発するような活動をしています。
母が学校の先生で幼稚園を開きました。
小さいころから幼稚園の手伝いなどをしていましたので、この仕事に抵抗は無かったです。
普段の食から関係性を持って広げていただきたいと思います。(コミュニケーション)
食を通じて関わりが広がっていけばいいかなあと思います。
大阪府寝屋川市の保育園では子供達が専用の畑で、子供達が野菜や米を栽培しています。
子供達は土に触れながら、小さな種がやがて食べ物へと姿を変えて、自分の健康や身体を作ってくれる、そんなプロセスを体験しています。
大阪府寝屋川市の認定子供園、ねやがわ寝屋の森こども園、ねやがわ成美の森こども園、ねやがわくこの木保育園では、食を通じて豊かな人間性をはぐくもうという、食育に実践的に取り組んでいます。
子供達が収穫した食材は、給食となりそのレシピは保護者にも提供されて、家庭での食育にもつながっています。
3つの園を運営している社会福祉法人大阪誠昭会理事長の田中さんに伺いました。
稲刈りをもうすぐします。
稲穂が成長する姿を子供達はズーっと見続けて来ました。
専用の畑は300坪ぐらいあります。
地元の農家の方からお借りしています。
全部で200名位います。
0歳児から6歳児迄います。
雑草抜き、水やり等も嫌がらずにやっています。
夏野菜はピーマン、なすび、きゅうり、トマト、オクラなどを栽培し、その後は大根、サツマイモ、玉ねぎ、シイタケもやります。
シイタケが原木から出て来ると子供達は吃驚します。
夏野菜の収穫は随時収穫しますが、嬉しそうにやっています。
自分が植えた苗から収穫すると、子供達の喜びもひとしおです。
住宅街にある畑では虫たちもやってきます。
苗床で農家の方が子供の見えるところで育てて、それを見学して、田植えの前段から見てもらっています。
田んぼに入る時の子供の声は凄くて、泣く声とかはしゃぐ声とか色々な光景が見られます。
稲を刈るときには鎌の説明などもします。
収穫した米は給食で使います。
他に農家で作った米を100%使っています。
保護者への販売もして貰っています。
農家の方には感謝しています。
夏野菜が使いきれない時には、野菜屋さんに販売させてもらっています。
その集めたお金で来年の苗を買う様に循環しています。
ピーマンが好きでなくても、畑から自分で収穫したものは食べます。
「子供を産み育てる感動を地域から社会に広げたい」
昨今幼児虐待などがあるが、密室の中で母親が行き詰まってしまうような閉塞感があるが、親子の絆を広げていただく、強固なものにしていただくという取り組みです。
根本の親子関係から見直しましょう、ということで色々提案しています。
6年間を預かる訳ですが、教育の根幹は家庭にやっていただきたい。
その一つとして食育があるわけです。
①コンビニとか自由に食材がはいるが、食に乱れが起きやすいので、正しい知識を入れて、旬のものを食べて行こうと言う事。
②食育基本法が制定されたが、感謝の気持ちを持つ事、色んな人のかかわりとプロセスがあって出来上がることを知ってもらう。
本当に小さな種から大根ができる、あんなに大きくなることが子供達は体験することになる。
ご飯が楽しくなるための7つの提案。
①季節感を肌で感じていただきたい。
②買い物に子供と一緒に行く。
③図鑑があると子供の探究心を育てる。
④母親とクッキングを一緒にやってお手伝いをする。
⑤プランターでもいいから家庭で育てていただきたい。
⑥作るだけでなくて、片付けもやっていただきたい。
⑦家族で会話を持って食べていただきたい。
取れた野菜やお米を使った料理のレシピを開発しています。
「保育園産のお米」というタイトルで、多くのレシピを掲載しています。
先生とか給食の業者さんを交えて、色々相談して本に纏めました。
色々反響をいただいて嬉しく思っています。
54のレシピを掲載しましたが、試作の段階では300を持ち寄りました。
美味しいものを厳選しました。
企画から4年間かかりました。
54のレシピは給食にも使われています。
園児の家庭とか、園と直接に関係ない方にも広がって嬉しく思います。
きゅうりと蒸し鳥の酢みそがけは一番のお薦めメニューです。
ジャコ、ピーマン乗せスライスポテト 子供が嫌いなものを、カルシュウムへの対応。
おやつは捕食ということで栄養価のあるもの、サツマイモミルクジャムとかがあります。
武庫川女子大学国際健康開発研究所と共同で監修を頂きながら、栄養学の部分を食育に落して保護者の方へ啓発するような活動をしています。
母が学校の先生で幼稚園を開きました。
小さいころから幼稚園の手伝いなどをしていましたので、この仕事に抵抗は無かったです。
普段の食から関係性を持って広げていただきたいと思います。(コミュニケーション)
食を通じて関わりが広がっていけばいいかなあと思います。
2018年10月20日土曜日
伊東ひとみ(文筆家) ・【人ありて、街は生き】キラキラネームの人気の秘密
伊東ひとみ(文筆家) ・【人ありて、街は生き】キラキラネームの人気の秘密
最近今までにない音の響きをもった子供の名前が増えています。
俗にキラキラネームと呼ばれる名前です。
人気の名前は可愛くて音の響きはいいのですが、振り仮名が無いと読めないことがあります。
こうした名前は今主流になっています。
その人気の秘密は何なのか、日本人の名前の歴史を古代まで遡って調べ、「キラキラネームの大研究」という著書に纏め、NHK総合TVの「視点論点」でも命名と漢字文化のテーマで解説した文筆家の伊東ひとみさんに最近の子供の名付けの傾向とその背景を伺いました。
最近名簿を見ても読めないものがあります。
キラキラネームというのは従来の常識とは異なる漢字の読み方をしたり、これまでの日本にはない音の響きをもっていたりする難読の名前の事を言います。
1990年代半ば以降に増え始めて、ここ10年でさらに増え始めました。
2017年に生まれた赤ちゃんの人気ランキングが出ましたが、男の1位が「悠真」と書いて「ゆうま」「はるま」「ゆうしん」と読みます。
「悠人」で「ゆうと」、「はると」、「はるひと」
「陽飛」で「はると」、「ひなと」、「あきと」、「はるひ」、「ひなた」と色々な呼び名があります。
女の子の1位は、「結奈」で 「ゆうな」、「ゆいな」、「ゆな」とか色々です。
「咲良」で「さくら」、「さら」とも読みます。
最近は音の響きから名前を考えて、そこに親の思い、願いを託してイメージにいい漢字を当てはめる傾向があります。
7年前に古代漢字に関する本を執筆していました。
インターネットで「ぴかちゅう」(光宙)とか「ありえる」(泡姫)と言う名前に遭遇しました。
命名の現場で一体なにが起きているのだろうと思いました。
それでキラキラネームについて調べ始めました。
しゅがあ(紗冬) さ(紗)とう(冬)=砂糖=シュガア
凄い技だと思いました。
あげは→愛夜姫 イメージで作られた名前だと思います。
ぴかちゅう(光宙)は実在しているかどうかは確認できませんでした。
みつおきさん 光宙と書きますが、名家の方で江戸時代からの家で8代目の当主の名前。
実際に或る名前を探すために、地方の広報誌に慶弔欄がありここで調べました。
予想以上に男女ともに読めないような個性的な名前ばかりでした。
ふりがながあっても違和感が感じるようなものがありますが、一回知ってしまうと読めると言うこともあります。
「さくら」で「咲愛」というものがありましたが、ラブの「ら」だと思います。
先に音の響きを決めて表記を選ぶ傾向があります。
音に合う良い漢字を使う。
パソコン等が普及したので条件をクリアする名前は容易に調べられる。
それなりのパターンがあり、漢字の訓読み、音読みの一部を切り取る。
例えば「こはる」は「心春」と書くが、心の「こ」に春を足す。
「ここあ」は「心愛」 心の「ここ」と愛の「あ」です。
「大輝」は「だいや」 ダイヤモンドが輝くとか。
「そうた」は「颯太」、 「かなと」は「奏和」 大和(やまと)の和を取って「と」。
外国語読みする、「王冠」と書いて「てぃあら」、「海」と書いて「まりん」とかあります。
外国語の音に漢字を当てはめると言うのもあります。
世代、環境によって境界線がまちまちです。
漢字を繙いて行くと、中国の文字を導入したもので、大和言葉はそのまま書き表すことは出来なかった。
地名、人名はその音に合う漢字を借りてきて一字一音で表した。
例えば邪馬台国、卑弥呼など魏志倭人伝で書かれているが、日本の言葉を中国人が聞いて自分たちの言葉、音に表して、そして同じ様に日本人がやるようになる。
訓読をするようになって漢字を音と訓でやるようになる。
日本語は無理読みの宿命を持っている。
「生きる」 うまれる、なまにも使えると柔軟に解釈するようになる。
辞典によって収録が変わるので音と読みが本来揺れ動いていた。
藤原明子 (あきらけいこ) 徳川家茂(いえもち) 楠木正成(まさしげ)など
明治以来の国語 国字政策だったのではないかと思う。
漢字観の断層というか漢字観が変わったことが、キラキラネームになってしまうような日本語の社会の土壌を作ってきた、と考えられるのではないかと思っています。
明治4年に戸籍法が制定されたが、名乗り辞典に明治から昭和初期に珍しい名前が表されている。
その中に有るのが「元素」は「はじめ」と読みます。
「日露英仏」は「ひろえ」と読みます。
「阿幌」は「あぽろ」 「七分」は「すちーぶん」 真柄は「まーがれっと」
「六花」は「ゆき」(雪の結晶)
昔からあったが絶対量が全然違っていた。
終戦後当用漢字が採用されて漢字制限が実施されるようになる。
1850字に限って使う様にするということになる。
字の形も簡単にする、戀(糸が絡まったように言葉がでないせつない心)→恋(AにしようかBにしようかというような亦に心) 語源が全く違ってきてしまっている。
稽古→けい古、斡旋→あっ旋 などまぜ書きになってしまっている。
漢字の基本を弱めるようになってしまった。
漢字をイメージで捉えるようになって行ったんだと思います。
昭和56年常用漢字に切り替わったが、漢字観がすでに作られてしまっていて、1990年代半ばあたりから当て字が出てきた。
漢字のカジュアル化がキラキラネームの母体になったのではないかと思います。
「和子」「かずこ」が一般的になっているが、本居宣長は「かつこ」と読むべきだと言っているが。
日本語の漢字の体系が壊れかけているから、キラキラネームが増えているのではないかと思います。
地名は過去の歴史の事をすべて含み込んでいるが、人名は新陳代謝が激しい分、今の動きを凄く知らせてくれる。
若い世代を非難するだけではなくて、漢字の体系が壊れかけているのではないかという事実を、もう少し見つめて気が付いたほうがいいのではないかと思っています。
最近今までにない音の響きをもった子供の名前が増えています。
俗にキラキラネームと呼ばれる名前です。
人気の名前は可愛くて音の響きはいいのですが、振り仮名が無いと読めないことがあります。
こうした名前は今主流になっています。
その人気の秘密は何なのか、日本人の名前の歴史を古代まで遡って調べ、「キラキラネームの大研究」という著書に纏め、NHK総合TVの「視点論点」でも命名と漢字文化のテーマで解説した文筆家の伊東ひとみさんに最近の子供の名付けの傾向とその背景を伺いました。
最近名簿を見ても読めないものがあります。
キラキラネームというのは従来の常識とは異なる漢字の読み方をしたり、これまでの日本にはない音の響きをもっていたりする難読の名前の事を言います。
1990年代半ば以降に増え始めて、ここ10年でさらに増え始めました。
2017年に生まれた赤ちゃんの人気ランキングが出ましたが、男の1位が「悠真」と書いて「ゆうま」「はるま」「ゆうしん」と読みます。
「悠人」で「ゆうと」、「はると」、「はるひと」
「陽飛」で「はると」、「ひなと」、「あきと」、「はるひ」、「ひなた」と色々な呼び名があります。
女の子の1位は、「結奈」で 「ゆうな」、「ゆいな」、「ゆな」とか色々です。
「咲良」で「さくら」、「さら」とも読みます。
最近は音の響きから名前を考えて、そこに親の思い、願いを託してイメージにいい漢字を当てはめる傾向があります。
7年前に古代漢字に関する本を執筆していました。
インターネットで「ぴかちゅう」(光宙)とか「ありえる」(泡姫)と言う名前に遭遇しました。
命名の現場で一体なにが起きているのだろうと思いました。
それでキラキラネームについて調べ始めました。
しゅがあ(紗冬) さ(紗)とう(冬)=砂糖=シュガア
凄い技だと思いました。
あげは→愛夜姫 イメージで作られた名前だと思います。
ぴかちゅう(光宙)は実在しているかどうかは確認できませんでした。
みつおきさん 光宙と書きますが、名家の方で江戸時代からの家で8代目の当主の名前。
実際に或る名前を探すために、地方の広報誌に慶弔欄がありここで調べました。
予想以上に男女ともに読めないような個性的な名前ばかりでした。
ふりがながあっても違和感が感じるようなものがありますが、一回知ってしまうと読めると言うこともあります。
「さくら」で「咲愛」というものがありましたが、ラブの「ら」だと思います。
先に音の響きを決めて表記を選ぶ傾向があります。
音に合う良い漢字を使う。
パソコン等が普及したので条件をクリアする名前は容易に調べられる。
それなりのパターンがあり、漢字の訓読み、音読みの一部を切り取る。
例えば「こはる」は「心春」と書くが、心の「こ」に春を足す。
「ここあ」は「心愛」 心の「ここ」と愛の「あ」です。
「大輝」は「だいや」 ダイヤモンドが輝くとか。
「そうた」は「颯太」、 「かなと」は「奏和」 大和(やまと)の和を取って「と」。
外国語読みする、「王冠」と書いて「てぃあら」、「海」と書いて「まりん」とかあります。
外国語の音に漢字を当てはめると言うのもあります。
世代、環境によって境界線がまちまちです。
漢字を繙いて行くと、中国の文字を導入したもので、大和言葉はそのまま書き表すことは出来なかった。
地名、人名はその音に合う漢字を借りてきて一字一音で表した。
例えば邪馬台国、卑弥呼など魏志倭人伝で書かれているが、日本の言葉を中国人が聞いて自分たちの言葉、音に表して、そして同じ様に日本人がやるようになる。
訓読をするようになって漢字を音と訓でやるようになる。
日本語は無理読みの宿命を持っている。
「生きる」 うまれる、なまにも使えると柔軟に解釈するようになる。
辞典によって収録が変わるので音と読みが本来揺れ動いていた。
藤原明子 (あきらけいこ) 徳川家茂(いえもち) 楠木正成(まさしげ)など
明治以来の国語 国字政策だったのではないかと思う。
漢字観の断層というか漢字観が変わったことが、キラキラネームになってしまうような日本語の社会の土壌を作ってきた、と考えられるのではないかと思っています。
明治4年に戸籍法が制定されたが、名乗り辞典に明治から昭和初期に珍しい名前が表されている。
その中に有るのが「元素」は「はじめ」と読みます。
「日露英仏」は「ひろえ」と読みます。
「阿幌」は「あぽろ」 「七分」は「すちーぶん」 真柄は「まーがれっと」
「六花」は「ゆき」(雪の結晶)
昔からあったが絶対量が全然違っていた。
終戦後当用漢字が採用されて漢字制限が実施されるようになる。
1850字に限って使う様にするということになる。
字の形も簡単にする、戀(糸が絡まったように言葉がでないせつない心)→恋(AにしようかBにしようかというような亦に心) 語源が全く違ってきてしまっている。
稽古→けい古、斡旋→あっ旋 などまぜ書きになってしまっている。
漢字の基本を弱めるようになってしまった。
漢字をイメージで捉えるようになって行ったんだと思います。
昭和56年常用漢字に切り替わったが、漢字観がすでに作られてしまっていて、1990年代半ばあたりから当て字が出てきた。
漢字のカジュアル化がキラキラネームの母体になったのではないかと思います。
「和子」「かずこ」が一般的になっているが、本居宣長は「かつこ」と読むべきだと言っているが。
日本語の漢字の体系が壊れかけているから、キラキラネームが増えているのではないかと思います。
地名は過去の歴史の事をすべて含み込んでいるが、人名は新陳代謝が激しい分、今の動きを凄く知らせてくれる。
若い世代を非難するだけではなくて、漢字の体系が壊れかけているのではないかという事実を、もう少し見つめて気が付いたほうがいいのではないかと思っています。
2018年10月19日金曜日
垣井道弘(映画評論家) ・【わが心の人】緒形拳
垣井道弘(映画評論家) ・【わが心の人】緒形拳
昭和12年東京生まれ、新国劇に入団し活躍しましたが、31歳で退団以来、舞台、映画、TVと個性溢れる演技で多くの人を魅了しました。
今から10年前平成20年10月5日亡くなられました、71歳でした。
垣井さんは緒形拳さんを密着取材したことから縁が出来意気投合しました。
24年間に渡り親交を深めました。
2006年には緒形拳さんの素顔を紹介する評伝を出版しています。
人間の記憶というものは不思議なもので、昨日何を食べたかなど覚えていないが、10年前を鮮明に覚えたりします。
10年はあっという間でした。
緒形拳さんはNHKの大河ドラマ「太閤記」の主役で演じられていました。
ぱっとした笑顔を見て精悍な顔をしている人がいると強烈に思いました。
翌年に、「源義経」で弁慶役を演じていました。
緒形拳さんに関心を抱くようになりました。
僕は駆け出しの映画評論家でしたが、緒方さんは165本の映画に出ていまして、そのほとんどが主役か準主役でした。
一本だけ日本で劇場公開されなかった「ミシマ」がありました。
日米合作で、制作総指揮がフランシス・フォード・コッポラ、もう一人はジョージ・ルーカス。
緒形拳さんが作家に三島由紀夫を演じました。
私は2カ月毎日撮影所に通いました。
緒形さんが「ガムを頂戴」と言ってきたが、全部食べちゃったので替わりにのど飴を渡して、段々親しくなりました。
緒形さんは一生懸命な人が好きなんです。
緒形さんは私よりも9歳年上です。
緒形さんも僕も映画が好きですが、緒形さんは俳優を見ていて、僕はストーリーとかカメラアングルとか総合的に見ているわけで、そういう見方があるんだと言う事でお互いに刺激しあえる関係でいい関係を保っていました。
話始めるとどんどん色んな事を話せるようになって行きました。
緒形さんはインタビュー嫌いで業界では有名でしたが、誤解されやすい。
恥ずかしがりやで、いちいち説明するのが難しいタイプ。
兄が俳優座養成所の一期生で影響をうけていたが、事故で亡くなってしまう。
緒形さんは文化祭で坂田三吉を演じて凄い人気で父兄の為にもう一回やって欲しいということでした、新国劇と縁が出来て、新国劇で働きたいと言うことになってきた。
(当時島田正吾、辰巳柳太郎が全盛)
劇団員が150人いた。
兄の仲のいい友達(北條秀司の娘さん)に頼んで、紹介状を書いてもらって持って行ったら、明日から来なさいと即決になった。
辰巳柳太郎の内弟子になる。
辰巳柳太郎は弟子に読ませて、耳で覚えると言う俳優で、毎日台本を読む訳です。
それが緒形さんに取って非常に役に立ったわけです。
才能を見出したのは島田正吾さんで、いきなり主役に抜擢しました。(入団して3年後ぐらい)
緒形さんは機敏な人でその「遠い一本の道」で主役をやり、それが受けて、映画化もされ主役を演じました。
段々新国劇のホープになり、「太閤記」にも抜擢されて国民的スターになりました。
辰巳柳太郎さんは豪快、島田正吾さんは繊細で細かい芝居をする。
緒形拳さんは二人の師匠の両方のいいところを身につけました。
20代の俳優が歳を取った俳優を演じるのは難しいが、二人が男の一代記を演じていたので、高齢の秀吉を演じることが難しくなかったということです。
翌年の弁慶役もTV史に残ると思う、弁慶の有名な立ち往生も本当に迫力がある。
「太閤記」をやりながら新国劇をやすんではいけないということで、大変な苦労をしました。
新国劇が下降線になって、TV、映画にも出たいと言う事で悩んでいたが、北條秀司さんが退団を勧めて一大決心をして反対を押し切って退団をする訳です。
二人の師匠については生涯に渡って尊敬して、人情の厚い俳優でした。
1968年31歳で退団。
新国劇の劇団の解散公演では 昼、夜の部で主役として点滴を打ちながら舞台に出続けて、二人の師匠の花道を作ってあげたと言われる。
「復讐するは我にあり」今村昌平監督と緒形さんが出会った作品です。
連続殺人犯の映画ですが、見ているうちに悪い奴なんだけれども、憎めなくなってくる、こういうこともあり得ると言うふうになって来る。
映画のことが後になってもぶり返してくる、人間の二面性、闇の部分みたいなものをリアルに描いている。
「自分は俳優として人を殺すことをおろそかにしてこなかった」という事を緒形さんは言いました。
何故殺すのかという事を突き詰めて、突き詰めて、殺人者を好きになるんです、好きにならないと演じられないわけです。
「楢山節考」(ならやまぶしこう) カンヌ国際映画祭で最高賞を貰った。
演技は一切していないと言っていました。
おかあさんを背負って山に捨てに行くが、雪が降り始めて「おっかあ、雪がふってよかったなあ」というセリフしか後半の20分には無い。
何故良かったかというと楽に死ねるから。
直ぐに眠れて楽に死ぬことができる、台詞の少ない映画なのにどんどん心に響いて来る。
母親のことだけを考えてやっていたと、そういうこともあるんだなと思いました。
見直すほど味が出る作品です。
人には見えないところで凄く努力していました。
ロケに行くときも他の俳優よりも1週間早く行って、そこの土地の空気なじむと言う事をおっしゃっていました。
脚本を何度も何度も読んで、肉体化する、自分のものにする。
病気のことは知っていました。
ご自宅に訪ねた時に「俺、癌なん
だよ」と言われて物凄くショックを受けました。
10分位で行ける駅に30分位かかってうろうろしていました。(ショックで逆に緒方さんに送ってあげるよと言われて送って貰いました。)
生きている人の評伝はあまりないが、僕は緒形さんに読んでもらいたかった。
亡くなる前に評伝を出しました。
感想はあまりありませんでしたが、何を書けばいいか迷っていると言うと、虚飾のない話を書けばいいんだと言われました。
とにかくスケールの大きな俳優さんで、「仕事が全て、演技が全て」といつもおっしゃっていました。
昭和12年東京生まれ、新国劇に入団し活躍しましたが、31歳で退団以来、舞台、映画、TVと個性溢れる演技で多くの人を魅了しました。
今から10年前平成20年10月5日亡くなられました、71歳でした。
垣井さんは緒形拳さんを密着取材したことから縁が出来意気投合しました。
24年間に渡り親交を深めました。
2006年には緒形拳さんの素顔を紹介する評伝を出版しています。
人間の記憶というものは不思議なもので、昨日何を食べたかなど覚えていないが、10年前を鮮明に覚えたりします。
10年はあっという間でした。
緒形拳さんはNHKの大河ドラマ「太閤記」の主役で演じられていました。
ぱっとした笑顔を見て精悍な顔をしている人がいると強烈に思いました。
翌年に、「源義経」で弁慶役を演じていました。
緒形拳さんに関心を抱くようになりました。
僕は駆け出しの映画評論家でしたが、緒方さんは165本の映画に出ていまして、そのほとんどが主役か準主役でした。
一本だけ日本で劇場公開されなかった「ミシマ」がありました。
日米合作で、制作総指揮がフランシス・フォード・コッポラ、もう一人はジョージ・ルーカス。
緒形拳さんが作家に三島由紀夫を演じました。
私は2カ月毎日撮影所に通いました。
緒形さんが「ガムを頂戴」と言ってきたが、全部食べちゃったので替わりにのど飴を渡して、段々親しくなりました。
緒形さんは一生懸命な人が好きなんです。
緒形さんは私よりも9歳年上です。
緒形さんも僕も映画が好きですが、緒形さんは俳優を見ていて、僕はストーリーとかカメラアングルとか総合的に見ているわけで、そういう見方があるんだと言う事でお互いに刺激しあえる関係でいい関係を保っていました。
話始めるとどんどん色んな事を話せるようになって行きました。
緒形さんはインタビュー嫌いで業界では有名でしたが、誤解されやすい。
恥ずかしがりやで、いちいち説明するのが難しいタイプ。
兄が俳優座養成所の一期生で影響をうけていたが、事故で亡くなってしまう。
緒形さんは文化祭で坂田三吉を演じて凄い人気で父兄の為にもう一回やって欲しいということでした、新国劇と縁が出来て、新国劇で働きたいと言うことになってきた。
(当時島田正吾、辰巳柳太郎が全盛)
劇団員が150人いた。
兄の仲のいい友達(北條秀司の娘さん)に頼んで、紹介状を書いてもらって持って行ったら、明日から来なさいと即決になった。
辰巳柳太郎の内弟子になる。
辰巳柳太郎は弟子に読ませて、耳で覚えると言う俳優で、毎日台本を読む訳です。
それが緒形さんに取って非常に役に立ったわけです。
才能を見出したのは島田正吾さんで、いきなり主役に抜擢しました。(入団して3年後ぐらい)
緒形さんは機敏な人でその「遠い一本の道」で主役をやり、それが受けて、映画化もされ主役を演じました。
段々新国劇のホープになり、「太閤記」にも抜擢されて国民的スターになりました。
辰巳柳太郎さんは豪快、島田正吾さんは繊細で細かい芝居をする。
緒形拳さんは二人の師匠の両方のいいところを身につけました。
20代の俳優が歳を取った俳優を演じるのは難しいが、二人が男の一代記を演じていたので、高齢の秀吉を演じることが難しくなかったということです。
翌年の弁慶役もTV史に残ると思う、弁慶の有名な立ち往生も本当に迫力がある。
「太閤記」をやりながら新国劇をやすんではいけないということで、大変な苦労をしました。
新国劇が下降線になって、TV、映画にも出たいと言う事で悩んでいたが、北條秀司さんが退団を勧めて一大決心をして反対を押し切って退団をする訳です。
二人の師匠については生涯に渡って尊敬して、人情の厚い俳優でした。
1968年31歳で退団。
新国劇の劇団の解散公演では 昼、夜の部で主役として点滴を打ちながら舞台に出続けて、二人の師匠の花道を作ってあげたと言われる。
「復讐するは我にあり」今村昌平監督と緒形さんが出会った作品です。
連続殺人犯の映画ですが、見ているうちに悪い奴なんだけれども、憎めなくなってくる、こういうこともあり得ると言うふうになって来る。
映画のことが後になってもぶり返してくる、人間の二面性、闇の部分みたいなものをリアルに描いている。
「自分は俳優として人を殺すことをおろそかにしてこなかった」という事を緒形さんは言いました。
何故殺すのかという事を突き詰めて、突き詰めて、殺人者を好きになるんです、好きにならないと演じられないわけです。
「楢山節考」(ならやまぶしこう) カンヌ国際映画祭で最高賞を貰った。
演技は一切していないと言っていました。
おかあさんを背負って山に捨てに行くが、雪が降り始めて「おっかあ、雪がふってよかったなあ」というセリフしか後半の20分には無い。
何故良かったかというと楽に死ねるから。
直ぐに眠れて楽に死ぬことができる、台詞の少ない映画なのにどんどん心に響いて来る。
母親のことだけを考えてやっていたと、そういうこともあるんだなと思いました。
見直すほど味が出る作品です。
人には見えないところで凄く努力していました。
ロケに行くときも他の俳優よりも1週間早く行って、そこの土地の空気なじむと言う事をおっしゃっていました。
脚本を何度も何度も読んで、肉体化する、自分のものにする。
病気のことは知っていました。
ご自宅に訪ねた時に「俺、癌なん
だよ」と言われて物凄くショックを受けました。
10分位で行ける駅に30分位かかってうろうろしていました。(ショックで逆に緒方さんに送ってあげるよと言われて送って貰いました。)
生きている人の評伝はあまりないが、僕は緒形さんに読んでもらいたかった。
亡くなる前に評伝を出しました。
感想はあまりありませんでしたが、何を書けばいいか迷っていると言うと、虚飾のない話を書けばいいんだと言われました。
とにかくスケールの大きな俳優さんで、「仕事が全て、演技が全て」といつもおっしゃっていました。
2018年10月18日木曜日
名倉加代子(舞踊家・振付家) ・今が一番、私のジャズダンス
名倉加代子(舞踊家・振付家) ・今が一番、私のジャズダンス
昭和15年新潟市生まれ 77歳、幼いころから踊りが好きでダンスに携わる仕事がしたいという夢をもって育ちました。
高校卒業した名倉さんは徐々に舞台やTV番組にダンサーとして出演するようになります。
順調にダンサーの仕事をしていましたが、29歳の時に思い切ってニューヨークに行きダンスの本場でトレーニングを受けました。
帰国後は東京世田谷区にあるダンススタジオでの指導を中心に振り付けや舞台の演出などジャズダンス界の第一線で活躍を続けています。
歳を重ねるごとに表現や取り組み方など変化してきたと言います。
11月に開催を予定しているスタジオの公演を前に伺いました。
今はライフワークとなっている「CAN'T STOP DANCIN」で大変です。
振付、演出など全てを背負ってやっています。
見るからにジャズを楽しんでいるなという事を見せたい。
シニアクラスでは50人ぐらいの生徒がいます。
80代の方が2~3人います。
皆さん歳を忘れて、青春だと思います。
遠くは長野、福岡などからも来ます。
身体の衰えとかありますが、すこしでも遅くしようという努力をします。
ジャズダンスはジャズという音楽を一番的確に表現できるという要素を持った踊りと思っています。
名倉ジャズの特徴はベースはバレエです。
上体は引き上げておいてねじる。
スピード感が必要なので名倉ジャズはスタンスの広さ、プリヤ?の深さ、引き上げ、ツイストが必要になります。
4人姉妹の2番目、常に音楽が家庭の中にありました。
父は銀行員で音楽が好きでレコードを沢山集めていました。
ピアノを習わされていましたが、踊りは好きでピアノを辞めて児童舞踊に小学校4年生位から通っていました。
転勤になり福井市でバレエに出会いました。
そこでバレエにのめり込みました。
衣裳は母が作ってくれました
「パックの踊り」はとっても好きでした。
竹部玲子先生が東京から来て教えてもらいました。
子供達を教える先生になりたいと言うことが夢でした。
高校卒業してから東京に出てきました。
姉妹3人で東京で暮らしました。
舞台、TVに出演するようになりました。(竹部玲子バレエ団がTVに進出するようになりました。)
レッスン代がかかるのでTVはあまり好きではなかったが出演しました。
TVではセンターの位置を占めるようになる。
練習を人よりも沢山しました、そうすると間違えないのでTVでは生放送が多かったので、私が真ん中になれば間違えないだろうと言うことでした。
29歳でアメリカに行くことになります。
TVでずーっとやってきて、カメラの「寄り」になった時にはオーバーアクションはいやらしく映る場合があり、「引き」になると大きく動かないと棒が動いているみたいになってしまって、踊りが通用するのかどうかと疑問が浮かんで、踊りを続けるかどうかアメリカに行って決めようかと思いました。
全ての契約を断ってアメリカニューヨークに行きました。
踊りに対してもがき続けました。
ジャズクラスがありました。
最初圧倒されました。
通ううちに勝負ができるのでは、という思いが出てきました。
妹がニューヨークにいたのでそこに転がり込んでいました。
帰国して舞台、番組に出るようになり、振付も担当するようになりました。
NHKの「ステージ101」の番組が終わった時に、何人かがこのまま教えてほしいということになり、稽古場を借りて4人ぐらいから始めたのが、実は今の名倉ジャズダンススタジオになったわけです。
教えることもそうですが、レオタードを着た時間を自分の生活の中に長く持ちたいという思いがありました。
35歳で結婚して、支えてくれる人がいるからこんなに仕事ができたと思います。
1979年宝塚歌劇団の振付をするようになりました。
男性の振り付けは得意でしたが、宝塚では女性が男性役をするので、また違った状況にはなります。
如何に男らしくかっこよく見せるかが大事です。
作品に対するイメージ、想いを文書にして伝えると言うことがあります。(詩にしたりとか)
自分が思った世界を自分が作れるので、困ったなということはないです。
生徒から貰えるエネルギーとかパワーとか個性とか、それは凄くあります。
40代、50代の半ばまで体力の衰えは無かったです。
始めたころのような楽しい気持ちに戻りたいと思っていたが、60近くになると、レッスン、仕事があり、甘い気持ちは持っていられないと思って、向かい合うなら真剣にという気持ちになってきています。
ステージに立つ以上は技術は磨かないといけないと思っています。
磨いていけば人間の体は不思議なもので、努力を重ねればそれだけの答えが出る訳です。
駄目になって行く部分は、自分できちっと認めなければいけないが。
毎日トレーニングはしています。
歯を磨く時に足を上げるとか、毎日続けられることを科せばいいんです。
今が一番早い、今が人生で一番早い時なので、今から躊躇せず何か始めて、必ずやり出したら積み重ねれは叶う、実って行く。
昭和15年新潟市生まれ 77歳、幼いころから踊りが好きでダンスに携わる仕事がしたいという夢をもって育ちました。
高校卒業した名倉さんは徐々に舞台やTV番組にダンサーとして出演するようになります。
順調にダンサーの仕事をしていましたが、29歳の時に思い切ってニューヨークに行きダンスの本場でトレーニングを受けました。
帰国後は東京世田谷区にあるダンススタジオでの指導を中心に振り付けや舞台の演出などジャズダンス界の第一線で活躍を続けています。
歳を重ねるごとに表現や取り組み方など変化してきたと言います。
11月に開催を予定しているスタジオの公演を前に伺いました。
今はライフワークとなっている「CAN'T STOP DANCIN」で大変です。
振付、演出など全てを背負ってやっています。
見るからにジャズを楽しんでいるなという事を見せたい。
シニアクラスでは50人ぐらいの生徒がいます。
80代の方が2~3人います。
皆さん歳を忘れて、青春だと思います。
遠くは長野、福岡などからも来ます。
身体の衰えとかありますが、すこしでも遅くしようという努力をします。
ジャズダンスはジャズという音楽を一番的確に表現できるという要素を持った踊りと思っています。
名倉ジャズの特徴はベースはバレエです。
上体は引き上げておいてねじる。
スピード感が必要なので名倉ジャズはスタンスの広さ、プリヤ?の深さ、引き上げ、ツイストが必要になります。
4人姉妹の2番目、常に音楽が家庭の中にありました。
父は銀行員で音楽が好きでレコードを沢山集めていました。
ピアノを習わされていましたが、踊りは好きでピアノを辞めて児童舞踊に小学校4年生位から通っていました。
転勤になり福井市でバレエに出会いました。
そこでバレエにのめり込みました。
衣裳は母が作ってくれました
「パックの踊り」はとっても好きでした。
竹部玲子先生が東京から来て教えてもらいました。
子供達を教える先生になりたいと言うことが夢でした。
高校卒業してから東京に出てきました。
姉妹3人で東京で暮らしました。
舞台、TVに出演するようになりました。(竹部玲子バレエ団がTVに進出するようになりました。)
レッスン代がかかるのでTVはあまり好きではなかったが出演しました。
TVではセンターの位置を占めるようになる。
練習を人よりも沢山しました、そうすると間違えないのでTVでは生放送が多かったので、私が真ん中になれば間違えないだろうと言うことでした。
29歳でアメリカに行くことになります。
TVでずーっとやってきて、カメラの「寄り」になった時にはオーバーアクションはいやらしく映る場合があり、「引き」になると大きく動かないと棒が動いているみたいになってしまって、踊りが通用するのかどうかと疑問が浮かんで、踊りを続けるかどうかアメリカに行って決めようかと思いました。
全ての契約を断ってアメリカニューヨークに行きました。
踊りに対してもがき続けました。
ジャズクラスがありました。
最初圧倒されました。
通ううちに勝負ができるのでは、という思いが出てきました。
妹がニューヨークにいたのでそこに転がり込んでいました。
帰国して舞台、番組に出るようになり、振付も担当するようになりました。
NHKの「ステージ101」の番組が終わった時に、何人かがこのまま教えてほしいということになり、稽古場を借りて4人ぐらいから始めたのが、実は今の名倉ジャズダンススタジオになったわけです。
教えることもそうですが、レオタードを着た時間を自分の生活の中に長く持ちたいという思いがありました。
35歳で結婚して、支えてくれる人がいるからこんなに仕事ができたと思います。
1979年宝塚歌劇団の振付をするようになりました。
男性の振り付けは得意でしたが、宝塚では女性が男性役をするので、また違った状況にはなります。
如何に男らしくかっこよく見せるかが大事です。
作品に対するイメージ、想いを文書にして伝えると言うことがあります。(詩にしたりとか)
自分が思った世界を自分が作れるので、困ったなということはないです。
生徒から貰えるエネルギーとかパワーとか個性とか、それは凄くあります。
40代、50代の半ばまで体力の衰えは無かったです。
始めたころのような楽しい気持ちに戻りたいと思っていたが、60近くになると、レッスン、仕事があり、甘い気持ちは持っていられないと思って、向かい合うなら真剣にという気持ちになってきています。
ステージに立つ以上は技術は磨かないといけないと思っています。
磨いていけば人間の体は不思議なもので、努力を重ねればそれだけの答えが出る訳です。
駄目になって行く部分は、自分できちっと認めなければいけないが。
毎日トレーニングはしています。
歯を磨く時に足を上げるとか、毎日続けられることを科せばいいんです。
今が一番早い、今が人生で一番早い時なので、今から躊躇せず何か始めて、必ずやり出したら積み重ねれは叶う、実って行く。
2018年10月17日水曜日
村上敏明(旧満州からの引き揚げ者) ・ぼくは、妹と母を手にかけた(2018年8月14日本放送)
村上敏明(旧満州からの引き揚げ者)・ぼくは、妹と母を手にかけた(2018年8月14日放送)
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2018/08/blog-post_14.htmlをご覧ください。
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2018/08/blog-post_14.htmlをご覧ください。
2018年10月16日火曜日
田部井政伸(登山愛好家) ・我が妻、田部井淳子の遺したもの
田部井政伸(登山愛好家) ・我が妻、田部井淳子の遺したもの
女性として世界で初めて世界最高峰のエベレストに登頂した登山家の田部井淳子さんがなくなって今月で2年が経ちます。
亨年77歳でした。
夫の政伸さんも世界の山に多くの登山実績を残したクライマーです。
妻を山に送りだし留守番をしながらサポートを続けた政伸さん、淳子さんが残した言葉や、イベント、生活スタイルについて田部井政伸さんに伺いました。
命日に多くの登山家が埼玉県の西部の日和田山(305m)の山登りに集まります。
以前は私とかみさんがリハリビで行っていました。
亡くなってから私一人で行っていましたが、或る日命日に仲間も一緒に行こうと言うことで行くことになり、川越のNHKの登山教室もやっていてその人達も一緒に、山に行くようになりました。
最近は、僕が行っても来ている方が半分ぐらい判りません。
日和田山は低いが変化に富んだバランスが取れた山です。
我々は登山愛好家で趣味でやっています。
妻は女性として世界で初めて世界最高峰エベレストおよび七大陸最高峰への登頂に成功したことで知られる。
世界76カ国の最高峰を制覇している。
小学4年の時に那須の茶臼岳に登ったことが、登山家への意識の芽生えになったと言われている。
私はロッククライミングが多かったです。
グランドジョラス北壁、マッターホルンの北壁を1シーズンで踏破、世界に多くの登山実勢があります。
世界三大北壁を1シーズンでやったことがないが、3つを昇ろうと挑戦しようとしました。
しかしアイガー北壁は登れず、この二つしか登れませんでした。(1968年)
5月の登山で妻とは知り合いました。
そのうちに会う時間が多くなりました。
1964年に結婚しました。
その頃は男性は会社を辞めるか、山をやるかというようなことで仕事をしていました。
主婦は時間がいっぱいある関係で妻は山へ行く時間が多くなりました。(結婚当初から)
家庭との両立もしっかりやりました。
エベレストの時には娘が3歳になっていました。
その時には妻の姉の処に僕と娘が居候をしました。
連絡はエアーメールで10から15日かかります。
メールランナーがいて走って行ってベースキャンプまで届けます。
お互い信頼して覚悟を決めていました。
7から8割が山がベースでやってきました。
私と一緒に子供も自然の山の中で過ごしたりして来ました。
イベントが好きで色々なことをやってきました。
東日本大震災の時は大人の被災者のハイキングをやっていました。
高校生に自分のおこずかいで参加して行ける計画をしようということで、磐梯山にとの話もあったが、富士山に登ろうという計画を立てました。
10年間で1000人という計画だったが、今は1000人を目標にして、今年7年目でトータル575名が登りました。(今年は96名)
後4年ぐらいかかると思います。
心配な親もいるので説明会をやって、以前登山した高校生だった人達もその体験談を話して、1000人までの目標へのサポートをしてくれています。
その経験を社会人になってから、社会に応援できるきっかけになればいいと思っています。
妻のやるべきことが段々形になってきたと喜んでいます。
一人7から8万円かかりますので、震災で困った生活をしているので一人3000円で参加してもらって、ザックとか靴などを無償で貸し出ししています。
本当に感動しますが、全国から郵便局で毎月1000円送ってきてくれます。
コメント欄があり、励ましの言葉とか色々書いて来て下さいます。
使い方も厳しく妻がやっていました。
私の講演とかイベントなどで募金箱を置いて募金をして貰っています。
富士登山という目的がはっきりしているので募金するのもいいと言って下さいます。
息子が今プロジェクトのリーダーをやっています。
企業や、国、自治体の財団等との交渉などもやってくれています。
10月20日に日和田山登山の計画があります。
抹茶が妻が大好きだったので、野だてをやろうということで準備を進めています。
妻は病気になってベッドに入っていても常に山の事が頭にあり、酸素吸入をするようになって、その量が0.5リットルということだったが、本人がエベレストに登った時の睡眠の時に使った量と同じだと言っていました。
亡くなる3日前に3リットルすることになり、これはエベレスト最終キャンプから頂上に向かう時の酸素の量と同じだと言っていました。
「病気は誰でもなるが、病人にはならない」と言う事を常に言っていました。
死ぬまで山が8割ぐらいの人でした。
女性として世界で初めて世界最高峰のエベレストに登頂した登山家の田部井淳子さんがなくなって今月で2年が経ちます。
亨年77歳でした。
夫の政伸さんも世界の山に多くの登山実績を残したクライマーです。
妻を山に送りだし留守番をしながらサポートを続けた政伸さん、淳子さんが残した言葉や、イベント、生活スタイルについて田部井政伸さんに伺いました。
命日に多くの登山家が埼玉県の西部の日和田山(305m)の山登りに集まります。
以前は私とかみさんがリハリビで行っていました。
亡くなってから私一人で行っていましたが、或る日命日に仲間も一緒に行こうと言うことで行くことになり、川越のNHKの登山教室もやっていてその人達も一緒に、山に行くようになりました。
最近は、僕が行っても来ている方が半分ぐらい判りません。
日和田山は低いが変化に富んだバランスが取れた山です。
我々は登山愛好家で趣味でやっています。
妻は女性として世界で初めて世界最高峰エベレストおよび七大陸最高峰への登頂に成功したことで知られる。
世界76カ国の最高峰を制覇している。
小学4年の時に那須の茶臼岳に登ったことが、登山家への意識の芽生えになったと言われている。
私はロッククライミングが多かったです。
グランドジョラス北壁、マッターホルンの北壁を1シーズンで踏破、世界に多くの登山実勢があります。
世界三大北壁を1シーズンでやったことがないが、3つを昇ろうと挑戦しようとしました。
しかしアイガー北壁は登れず、この二つしか登れませんでした。(1968年)
5月の登山で妻とは知り合いました。
そのうちに会う時間が多くなりました。
1964年に結婚しました。
その頃は男性は会社を辞めるか、山をやるかというようなことで仕事をしていました。
主婦は時間がいっぱいある関係で妻は山へ行く時間が多くなりました。(結婚当初から)
家庭との両立もしっかりやりました。
エベレストの時には娘が3歳になっていました。
その時には妻の姉の処に僕と娘が居候をしました。
連絡はエアーメールで10から15日かかります。
メールランナーがいて走って行ってベースキャンプまで届けます。
お互い信頼して覚悟を決めていました。
7から8割が山がベースでやってきました。
私と一緒に子供も自然の山の中で過ごしたりして来ました。
イベントが好きで色々なことをやってきました。
東日本大震災の時は大人の被災者のハイキングをやっていました。
高校生に自分のおこずかいで参加して行ける計画をしようということで、磐梯山にとの話もあったが、富士山に登ろうという計画を立てました。
10年間で1000人という計画だったが、今は1000人を目標にして、今年7年目でトータル575名が登りました。(今年は96名)
後4年ぐらいかかると思います。
心配な親もいるので説明会をやって、以前登山した高校生だった人達もその体験談を話して、1000人までの目標へのサポートをしてくれています。
その経験を社会人になってから、社会に応援できるきっかけになればいいと思っています。
妻のやるべきことが段々形になってきたと喜んでいます。
一人7から8万円かかりますので、震災で困った生活をしているので一人3000円で参加してもらって、ザックとか靴などを無償で貸し出ししています。
本当に感動しますが、全国から郵便局で毎月1000円送ってきてくれます。
コメント欄があり、励ましの言葉とか色々書いて来て下さいます。
使い方も厳しく妻がやっていました。
私の講演とかイベントなどで募金箱を置いて募金をして貰っています。
富士登山という目的がはっきりしているので募金するのもいいと言って下さいます。
息子が今プロジェクトのリーダーをやっています。
企業や、国、自治体の財団等との交渉などもやってくれています。
10月20日に日和田山登山の計画があります。
抹茶が妻が大好きだったので、野だてをやろうということで準備を進めています。
妻は病気になってベッドに入っていても常に山の事が頭にあり、酸素吸入をするようになって、その量が0.5リットルということだったが、本人がエベレストに登った時の睡眠の時に使った量と同じだと言っていました。
亡くなる3日前に3リットルすることになり、これはエベレスト最終キャンプから頂上に向かう時の酸素の量と同じだと言っていました。
「病気は誰でもなるが、病人にはならない」と言う事を常に言っていました。
死ぬまで山が8割ぐらいの人でした。
2018年10月15日月曜日
倉本昌弘(日本プロゴルフ協会会長) ・【"2020"に託すもの】ゴルフの未来のために
倉本昌弘(日本プロゴルフ協会会長)・【"2020"に託すもの】ゴルフの未来のために
リオデジャネイロで120年ぶりに実施されたゴルフ競技、次の東京オリンピックでも実施されます。
しかし日本のゴルフは競技人口の減少という課題を今抱えています。
ゴルフ界のこれからについて、日本プロゴルフ協会会長、オリンピック対策本部強化委員長の倉本さんにお話を伺います。
会長になった当初は、クラブを握らない日が有ってペースがつかめなかったが、5年にもなるとやらなければやらないでいいかなと段々なってきています。
ヘッドスピードは3日やらないと落ちるが、又初めて3日目になると元のスピードが戻る。
日本プロゴルフ協会はゴルフの仕事に携わっている人間の集まり、と思ってもらえればいいと思います。
レッスンする人、物を売ったり、ゴルフ業界の中で開発に関わったりする人達等も含まれます。
現在5600人ぐらい会員がいます。
2015年には日本のこれからのゴルフ界をどうするかの提言をしました。
最盛期1400から1500万人と言われたゴルファーが、この前の白書では600万人と言われる。
ゴルフ産業は2兆円の産業から1兆円に半減している。
①ゴルファーの高齢化が間違いなく進んでいきます。
70歳以上の方が3~4割ぐらいだと思います。
団塊の方が75歳を越えるのが直ぐに来ます。
そうするとその方々がリタイアしてくる、若い方のゴルフ離れがあるので増えてはいかないと思います。
②日本の国民自体が減って行く。
そうするとゴルファーが減る。
2300位のゴルフ場が500万人の適正数は目に見えている。
③練習場も同じです、こちらの方が深刻だと思っています。
地域の土地持ちの方々がゴルフ練習場を開いているが、老朽化してそろそろ設備投資の時期にきている。
廃業しようかということになると練習場もなくなって行く。
AとBの練習場があり、Bが辞めてしまうと、Aにいくかというとそうではなく、辞めてしまうと言うことが多々ある。
これが最も怖いところです。
練習場はコミュニティーの場でもあるので。
若い人たちを増やすことをやっているが、ジュニアについては、親が車を持っていないとなかなか来られない。
地方に行くほど電車では行くところが無くなる。
親が車を持たない世代が増えてきている。
逆風の時代です。
子供達が2人がチームになって、交互に一つのボールを打って対戦相手と戦って行く、ということをアメリカが2011年に始めましたが、当初16チーム170人で始めましたが、現在45000人位の13歳以下の子供達が始めています。
エリートジュニア競技会は日本にはいっぱいあるが、ゴルフを遊びとした競技は日本にはありません、そういったイベントを増やそうと思っています。
情操教育にはゴルフは非常にいいと思っています。
ルールをしっかり覚えてミスをした時に正直に言う。
ゴルフにとっては忖度(他人の気持をおしはかること。)は絶対あるべきだと思っています。
相手がどういうふうに考えているか、自分が相手にどういうふうに接してあげれば、相手は気持ち良く楽しくプレーできるか、それを思って自分が行動する、そうするとみんなが楽しく時間を共有することができる。
ゴルフはお金がかかるが最盛期の1/3位になってきている。
ゴルフの良さは歩くことが成人病対策になったり認知機能の改善になったりすると見直されている。
1万円位で1日楽しんで且つ健康の効用を考えるならば、決して高くはないと思っています。
既婚者で子供を持ってる御主人が1万円の余暇に使うと言うことは、奥さんは反対ですが家族で5万円でレジャー施設などに行くことは、賛成をするという事が調査では出ています。
家族でゴルフ場に行って、ゴルフをやらない人にも楽しめるようなこともできるのではないかと今考えています。
ゴルフ界は遅れていると思っている。
家族観が変わっている中で、お客が来ないという状況にあり、それに合わせたことを考えたゴルフ場の運営をしていこうとしているところは生き抜いていくと思う。
提言書のいくつかはバブル期の考えですと言われた。
今の日本がスタンダードなのでそこを考えてやってくださいと言われました。
ティーチングプロも今までと違ったことが必要だと思います。
現在3000人がティーチングプロで、今までの形では集客がなかなかできないので、これだけの集客をするから使って下さい、というようなやり方を考える。
ゴルフが最も伸びていないのは難しすぎるということがあるけれども、短命なスポーツは早く上手くなるが、スポーツ寿命が長いスポーツはなかなかうまくならないと思っています。
ゴルフは生涯できるスポーツだと思います。
広島出身、高校時代には全日本ジュニアのチャンピオンになり、大学時代には日本学生4連覇、日本アマチュアで3勝、アマチュア時代にプロのトーナメントで優勝する。
プロになって直ぐに優勝、4戦3勝。
日本ツアーでは通産30勝、永久シード選手。
ゴルフを始めたのは10歳で、父がやっていたので一緒に練習場に連れて行ってもらいました。
柔道、剣道、バレーなどもやりましたが、ゴルフが残りました。
中学3年で地元のクラブのクラブチャンピオンになりました。
球は飛ばなかったら面白くないと思っていました、とにかく振れと言われました。
プロになる気はなかった、アメリカに留学したが、父が倒れて家業を継ぐことになりました。
店をやりながら練習していた時代が一番充実していたと思います。
プロになったのは25歳でした。
中部銀次郎さん日本アマチュア6回優勝、彼を尊敬しています。
プロゴルファーは生活があるので、やりたいことができない。
例えばOBでもいいからドライバーで打とうと言うことはしない。
賞金に跳ね返るので、趣味と仕事の違いです。
ゴルフはレベルは違っても一緒に楽しめる、こういうスポーツは他に無いと思います。
身長163cmと小さかったので、ボディービルのトレーニングでやってはいけないことやってもいい事を教わってトレーニングをして、距離も伸びました。
デビュー後にマスコミに「ポパイ」というあだ名がつきましたが、それは嫌いでした。
アメリカでは「MASSY」がいいと、スペルを考えてくれました。
選手の環境改善ということで選手会の会長になり、それが現在の日本ゴルフツアー機構になったわけです。
2020に向けて、追い風に出来なかったら日本のゴルフは大変だと実感しています。
ゴルフは団体戦にすべき、18ホールは長すぎるので短くすべきだと提案したが駄目でした。
松山君はメダル候補であることは間違いないが、東京オリンピックを足がかりにしないと日本のゴルフ界は大変だろうなと思っていて、期待と同時に切羽詰まっているものがあります。
リオデジャネイロで120年ぶりに実施されたゴルフ競技、次の東京オリンピックでも実施されます。
しかし日本のゴルフは競技人口の減少という課題を今抱えています。
ゴルフ界のこれからについて、日本プロゴルフ協会会長、オリンピック対策本部強化委員長の倉本さんにお話を伺います。
会長になった当初は、クラブを握らない日が有ってペースがつかめなかったが、5年にもなるとやらなければやらないでいいかなと段々なってきています。
ヘッドスピードは3日やらないと落ちるが、又初めて3日目になると元のスピードが戻る。
日本プロゴルフ協会はゴルフの仕事に携わっている人間の集まり、と思ってもらえればいいと思います。
レッスンする人、物を売ったり、ゴルフ業界の中で開発に関わったりする人達等も含まれます。
現在5600人ぐらい会員がいます。
2015年には日本のこれからのゴルフ界をどうするかの提言をしました。
最盛期1400から1500万人と言われたゴルファーが、この前の白書では600万人と言われる。
ゴルフ産業は2兆円の産業から1兆円に半減している。
①ゴルファーの高齢化が間違いなく進んでいきます。
70歳以上の方が3~4割ぐらいだと思います。
団塊の方が75歳を越えるのが直ぐに来ます。
そうするとその方々がリタイアしてくる、若い方のゴルフ離れがあるので増えてはいかないと思います。
②日本の国民自体が減って行く。
そうするとゴルファーが減る。
2300位のゴルフ場が500万人の適正数は目に見えている。
③練習場も同じです、こちらの方が深刻だと思っています。
地域の土地持ちの方々がゴルフ練習場を開いているが、老朽化してそろそろ設備投資の時期にきている。
廃業しようかということになると練習場もなくなって行く。
AとBの練習場があり、Bが辞めてしまうと、Aにいくかというとそうではなく、辞めてしまうと言うことが多々ある。
これが最も怖いところです。
練習場はコミュニティーの場でもあるので。
若い人たちを増やすことをやっているが、ジュニアについては、親が車を持っていないとなかなか来られない。
地方に行くほど電車では行くところが無くなる。
親が車を持たない世代が増えてきている。
逆風の時代です。
子供達が2人がチームになって、交互に一つのボールを打って対戦相手と戦って行く、ということをアメリカが2011年に始めましたが、当初16チーム170人で始めましたが、現在45000人位の13歳以下の子供達が始めています。
エリートジュニア競技会は日本にはいっぱいあるが、ゴルフを遊びとした競技は日本にはありません、そういったイベントを増やそうと思っています。
情操教育にはゴルフは非常にいいと思っています。
ルールをしっかり覚えてミスをした時に正直に言う。
ゴルフにとっては忖度(他人の気持をおしはかること。)は絶対あるべきだと思っています。
相手がどういうふうに考えているか、自分が相手にどういうふうに接してあげれば、相手は気持ち良く楽しくプレーできるか、それを思って自分が行動する、そうするとみんなが楽しく時間を共有することができる。
ゴルフはお金がかかるが最盛期の1/3位になってきている。
ゴルフの良さは歩くことが成人病対策になったり認知機能の改善になったりすると見直されている。
1万円位で1日楽しんで且つ健康の効用を考えるならば、決して高くはないと思っています。
既婚者で子供を持ってる御主人が1万円の余暇に使うと言うことは、奥さんは反対ですが家族で5万円でレジャー施設などに行くことは、賛成をするという事が調査では出ています。
家族でゴルフ場に行って、ゴルフをやらない人にも楽しめるようなこともできるのではないかと今考えています。
ゴルフ界は遅れていると思っている。
家族観が変わっている中で、お客が来ないという状況にあり、それに合わせたことを考えたゴルフ場の運営をしていこうとしているところは生き抜いていくと思う。
提言書のいくつかはバブル期の考えですと言われた。
今の日本がスタンダードなのでそこを考えてやってくださいと言われました。
ティーチングプロも今までと違ったことが必要だと思います。
現在3000人がティーチングプロで、今までの形では集客がなかなかできないので、これだけの集客をするから使って下さい、というようなやり方を考える。
ゴルフが最も伸びていないのは難しすぎるということがあるけれども、短命なスポーツは早く上手くなるが、スポーツ寿命が長いスポーツはなかなかうまくならないと思っています。
ゴルフは生涯できるスポーツだと思います。
広島出身、高校時代には全日本ジュニアのチャンピオンになり、大学時代には日本学生4連覇、日本アマチュアで3勝、アマチュア時代にプロのトーナメントで優勝する。
プロになって直ぐに優勝、4戦3勝。
日本ツアーでは通産30勝、永久シード選手。
ゴルフを始めたのは10歳で、父がやっていたので一緒に練習場に連れて行ってもらいました。
柔道、剣道、バレーなどもやりましたが、ゴルフが残りました。
中学3年で地元のクラブのクラブチャンピオンになりました。
球は飛ばなかったら面白くないと思っていました、とにかく振れと言われました。
プロになる気はなかった、アメリカに留学したが、父が倒れて家業を継ぐことになりました。
店をやりながら練習していた時代が一番充実していたと思います。
プロになったのは25歳でした。
中部銀次郎さん日本アマチュア6回優勝、彼を尊敬しています。
プロゴルファーは生活があるので、やりたいことができない。
例えばOBでもいいからドライバーで打とうと言うことはしない。
賞金に跳ね返るので、趣味と仕事の違いです。
ゴルフはレベルは違っても一緒に楽しめる、こういうスポーツは他に無いと思います。
身長163cmと小さかったので、ボディービルのトレーニングでやってはいけないことやってもいい事を教わってトレーニングをして、距離も伸びました。
デビュー後にマスコミに「ポパイ」というあだ名がつきましたが、それは嫌いでした。
アメリカでは「MASSY」がいいと、スペルを考えてくれました。
選手の環境改善ということで選手会の会長になり、それが現在の日本ゴルフツアー機構になったわけです。
2020に向けて、追い風に出来なかったら日本のゴルフは大変だと実感しています。
ゴルフは団体戦にすべき、18ホールは長すぎるので短くすべきだと提案したが駄目でした。
松山君はメダル候補であることは間違いないが、東京オリンピックを足がかりにしないと日本のゴルフ界は大変だろうなと思っていて、期待と同時に切羽詰まっているものがあります。
2018年10月14日日曜日
加藤澤男(元筑波大学教授 体操) ・【スポーツ名場面の裏側で】五輪メダリストの証言
加藤澤男(元筑波大学教授 体操)・【スポーツ名場面の裏側で】五輪メダリストの証言
加藤さんは現在72歳、新潟県出身、新潟南高校、東京教育大学(筑波大学)に進み、大学4年で出場したメキシコ大会やミュンヘン、モントリオールと3つのオリンピックに出場しました。
団体は3回とも優勝し、個人総合では、メキシコ、ミュンヘンと連覇を果たすなど世界一の体操選手となりました。
日本男子体操、ローマからモントリオールとオリンピック団体5連覇を果たしましたが、そのうちの3回の優勝をささえた加藤さん、身長163cm 安定感のある美しい体操が特徴でした。
3つのオリンピックに出場して、8つの金メダルを含めて12個のメダルを取る。
8個の金メダルは日本の全オリンピックの中で歴代一位。
一番最初、メキシコの時の金メダルは初めてなので印象があります。
最後欲をかいて取れなかったモントリオールの時の銀メダルが二番目に印象深いです。
1968年メキシコ大会(50年前の大会)3連覇目
東京大会で出場した遠藤選手以外は全員初出場という大会でした。
ライバルはソビエトでした。
遠藤幸雄さん、加藤武司さん(東京大会準候補)、中山彰規さん(東京大会準候補)と、僕と監物永三君、塚原光男君でした。
ベテラン3人と若手3人の構成でした。
規定でソビエトに1.25リードされていた。
自由に入って、ソビエトから差を広げて行く、最後の床を残して優勝を確定的にした。
ボローニン選手は5種目を終えた時点で個人総合で一位だった。
床で9.85ならばボローニン選手と同点となるが、結果は9.90で優勝だった。
ボローニン選手はあん馬で足をひっかけてその差(0.05)だったと思う。
団体で金を取り、個人総合でチャンピオンになる。
種目別決勝 床で金メダルを取る。(日本が金、銀、銅を取る。)
床の後種目別の4種目目の跳馬の練習中に怪我をして残りの種目を棄権することになる。
昭和47年ミュンヘン大会
僕(25歳)と、中山 彰規さん、塚原 光男君、監物 永三君、笠松 茂君、岡村 輝一君でした。
団体ではソビエトに7.20の大差で優勝する。(4連覇達成)
小野さんからメダル全部持って来いと言われました。
8個のうち6個を撮りました。
個人戦で5種目終わった時点で、トップの監物選手とは0.075差だった。
監物選手は跳馬で9.60、鉄棒で9.675以上で金メダルとなるが、9.75を取り、逆転で2連覇が決まる。
2位に監物選手、3位に中山選手となり金、銀、銅を獲得する。
メキシコが終わってアキレス腱を切ってしまって、世界選手権には出られなかった。
メキシコでは跳馬の練習中に腰を痛めて(腰椎分離)しまって、跳馬以下は棄権をする。
羽田に帰って来た時には自分では歩けなくて胴周りを石膏で固められていました。
勝つための材料を仕込まなくてはいけないので、色々するので練習も無理がかかります。
種目別の平行棒でも金メダルを取る。
ミュンヘンでは団体、個人総合、平行棒で金メダル3個、銀メダル2個を獲得する。
昭和51年モントリオール大会
日本選手団の主将を務める。
僕と塚原 光男君、監物 永三君、笠松 茂君が残り、笠松選手がエースでしたが、笠松選手が急性の盲腸を患って手術しエースを欠く事態になる。
ソビエトにリードをされる展開になる。
3種目目、吊り輪で藤本選手が9.70の高得点を出すが、着地の時にボキっという音がして右足を痛めて医務室に行き帰ってこなかった。
実は最初の床で痛めているんです。
あん馬は足を使わないのでやりおうせて、吊り輪でも頑張って、着地を踏ん張って床でやったところをもう一回やってしまったんです。
あとは5人で演技をせざるをえなかった。(だれも失敗が許されない状況となってしまった。)
日本が団体で奇跡の逆転優勝をすることになる。
日本人の練習の仕方が出てきたんだと思います。
個人総合ではアンドリアノフ選手に敗れて銀メダルとなる。(3連覇は成らず)
種目別決勝 平行棒で9.90を出して2連覇を達成。
倒立に代表される美しさ。
体操はなにをやるのかと、どういうふうな出来具合なのか、の二つ兼ね合わせですが、自分はO脚で左ひじが曲がっている(中学の時のひじの骨折)ので、美しい姿勢を目指す。
練習では目いっぱい色んな事をやります。(開発的な)
試合を前にすると試合を前提にした練習をしないといけない、色んなことがありますが結局は、敵は自分なんです。
団体戦は6人がお互いに高得点を願うが、個人総合ではチームメイトがライバルとなるが、格闘技ではないので楽ですが、突然切り替えるのはなかなか難しい。
やっぱり練習しかないですね。
何年か前に国際スポーツ記者協会が選んだ20世紀を代表する25人の選手に日本人でただ一人選ばれる。
体操をやってきて思うことは、練習はきつくやれ、あこがれを持っていないと続かない。
有る程度の失敗を許容される所では失敗しないといけない、いざという時にしてはいけないだけの話で、経験を生かしてやるべきこととやってはいけないことを練習の中で区別をつけなければいけない。
モントリオールでのアクシデントみたいなことは、有ってはいけないが有りうるわけです。
内村 航平選手には3連覇の夢を実現すべく頑張ってほしいと思います。
加藤さんは現在72歳、新潟県出身、新潟南高校、東京教育大学(筑波大学)に進み、大学4年で出場したメキシコ大会やミュンヘン、モントリオールと3つのオリンピックに出場しました。
団体は3回とも優勝し、個人総合では、メキシコ、ミュンヘンと連覇を果たすなど世界一の体操選手となりました。
日本男子体操、ローマからモントリオールとオリンピック団体5連覇を果たしましたが、そのうちの3回の優勝をささえた加藤さん、身長163cm 安定感のある美しい体操が特徴でした。
3つのオリンピックに出場して、8つの金メダルを含めて12個のメダルを取る。
8個の金メダルは日本の全オリンピックの中で歴代一位。
一番最初、メキシコの時の金メダルは初めてなので印象があります。
最後欲をかいて取れなかったモントリオールの時の銀メダルが二番目に印象深いです。
1968年メキシコ大会(50年前の大会)3連覇目
東京大会で出場した遠藤選手以外は全員初出場という大会でした。
ライバルはソビエトでした。
遠藤幸雄さん、加藤武司さん(東京大会準候補)、中山彰規さん(東京大会準候補)と、僕と監物永三君、塚原光男君でした。
ベテラン3人と若手3人の構成でした。
規定でソビエトに1.25リードされていた。
自由に入って、ソビエトから差を広げて行く、最後の床を残して優勝を確定的にした。
ボローニン選手は5種目を終えた時点で個人総合で一位だった。
床で9.85ならばボローニン選手と同点となるが、結果は9.90で優勝だった。
ボローニン選手はあん馬で足をひっかけてその差(0.05)だったと思う。
団体で金を取り、個人総合でチャンピオンになる。
種目別決勝 床で金メダルを取る。(日本が金、銀、銅を取る。)
床の後種目別の4種目目の跳馬の練習中に怪我をして残りの種目を棄権することになる。
昭和47年ミュンヘン大会
僕(25歳)と、中山 彰規さん、塚原 光男君、監物 永三君、笠松 茂君、岡村 輝一君でした。
団体ではソビエトに7.20の大差で優勝する。(4連覇達成)
小野さんからメダル全部持って来いと言われました。
8個のうち6個を撮りました。
個人戦で5種目終わった時点で、トップの監物選手とは0.075差だった。
監物選手は跳馬で9.60、鉄棒で9.675以上で金メダルとなるが、9.75を取り、逆転で2連覇が決まる。
2位に監物選手、3位に中山選手となり金、銀、銅を獲得する。
メキシコが終わってアキレス腱を切ってしまって、世界選手権には出られなかった。
メキシコでは跳馬の練習中に腰を痛めて(腰椎分離)しまって、跳馬以下は棄権をする。
羽田に帰って来た時には自分では歩けなくて胴周りを石膏で固められていました。
勝つための材料を仕込まなくてはいけないので、色々するので練習も無理がかかります。
種目別の平行棒でも金メダルを取る。
ミュンヘンでは団体、個人総合、平行棒で金メダル3個、銀メダル2個を獲得する。
昭和51年モントリオール大会
日本選手団の主将を務める。
僕と塚原 光男君、監物 永三君、笠松 茂君が残り、笠松選手がエースでしたが、笠松選手が急性の盲腸を患って手術しエースを欠く事態になる。
ソビエトにリードをされる展開になる。
3種目目、吊り輪で藤本選手が9.70の高得点を出すが、着地の時にボキっという音がして右足を痛めて医務室に行き帰ってこなかった。
実は最初の床で痛めているんです。
あん馬は足を使わないのでやりおうせて、吊り輪でも頑張って、着地を踏ん張って床でやったところをもう一回やってしまったんです。
あとは5人で演技をせざるをえなかった。(だれも失敗が許されない状況となってしまった。)
日本が団体で奇跡の逆転優勝をすることになる。
日本人の練習の仕方が出てきたんだと思います。
個人総合ではアンドリアノフ選手に敗れて銀メダルとなる。(3連覇は成らず)
種目別決勝 平行棒で9.90を出して2連覇を達成。
倒立に代表される美しさ。
体操はなにをやるのかと、どういうふうな出来具合なのか、の二つ兼ね合わせですが、自分はO脚で左ひじが曲がっている(中学の時のひじの骨折)ので、美しい姿勢を目指す。
練習では目いっぱい色んな事をやります。(開発的な)
試合を前にすると試合を前提にした練習をしないといけない、色んなことがありますが結局は、敵は自分なんです。
団体戦は6人がお互いに高得点を願うが、個人総合ではチームメイトがライバルとなるが、格闘技ではないので楽ですが、突然切り替えるのはなかなか難しい。
やっぱり練習しかないですね。
何年か前に国際スポーツ記者協会が選んだ20世紀を代表する25人の選手に日本人でただ一人選ばれる。
体操をやってきて思うことは、練習はきつくやれ、あこがれを持っていないと続かない。
有る程度の失敗を許容される所では失敗しないといけない、いざという時にしてはいけないだけの話で、経験を生かしてやるべきこととやってはいけないことを練習の中で区別をつけなければいけない。
モントリオールでのアクシデントみたいなことは、有ってはいけないが有りうるわけです。
内村 航平選手には3連覇の夢を実現すべく頑張ってほしいと思います。
2018年10月13日土曜日
吉崎俊三(信楽列車事故遺族会) ・最愛の妻を奪われ、闘いは始まった(2017年5月13日放送)
吉崎俊三(信楽列車事故遺族会) ・最愛の妻を奪われ、闘いは始まった
(2017年5月13日放送)
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2017/05/blog-post_13.htmlをご覧ください。
(2017年5月13日放送)
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2017/05/blog-post_13.htmlをご覧ください。
2018年10月12日金曜日
岩渕宜輝(NPO法人理事) ・一人で始めた遺骨探しの51年
岩渕宜輝(NPO法人理事) ・一人で始めた遺骨探しの51年
岩渕さんは1941年(昭和16年)生まれで今年77歳です。
岩渕さんが2歳の時に父親がニューギニアで戦死、戦死の知らせが届いたのは終戦の翌年、昭和21年の7月でした。
しかし父親の戦死の状況はさっぱり判りませんでした。
岩淵さんが父親への思いを強くしたのは小学校1年生の頃。
家族が疎開先から東京に戻るときも、長男だから一の関に残り墓を守れと、祖父母に引き取られて一人残ります。
高校卒業のころには父の戦死したニューギニアに行ってみたいと心に決めます。
父親の眠るニューギニアに行くにはどうすればよいのか、岩渕さんは高校卒業後上京し働きながらニューギニアに行く手段を模索します。
そして働きながら英語を学び貿易会社や航空会社など英語が身に付く仕事を転々とします。
苦学6年、東京オリンピックの翌年念願の航空会社に就職することができて、入社2年目1967年、長い間念願だった父の眠るニューギニアを訪れたることができたのです。
初めて現地を訪れた岩渕さんはなにを思い、その後どのような活動を続けたのか伺いました。
太平洋戦史館の前には田園地帯が広がっていて、2km先に中尊寺があります。
おびただしい戦時下の遺品が展示されています。
遺留品を展示して遺族の方に持ち帰ってもらいたいと思っています。
戦争の悲惨さを知って欲しいと思います。
父親は33歳と6カ月で亡くなり辛い思いをしました。
父親の記憶は全然ありません。(2歳の時父親は亡くなる)
父親がどんな所で亡くなったのか、一遍ニューギニアに行ってみたいと思いました。
1960年代のころは海外への渡航は簡単にはいけない状況でした。
航空会社に入ればひょっとするとタダでいけるのではないかと思ったりしました。
英語の勉強をしなければいけないと思って、給料の中から通うためのお金をなんとか捻出して、原宿のワシントンハイツへ行って生の英語を聞きました。
求人広告でハウスボーイを見付けて雇ってもらいました。
父親が亡くなった場所は後に判るが、キャセイ航空に務めた時代は何処で死んだか全くわからなかった。
昭和42年に「ラエ」というところに行った時に、神父さんに言われたのが、「貴方の立っている芝生の下に何百という日本の兵隊さんの屍が埋まったままですよ」と言われた時の衝撃は大変なものでした。
1978年(昭和53年)の時に遺骨を収容している写真などが展示されている。
政府が1975年を持って遺骨帰還運動をおおむね完了ということになった。
ブーゲンビル島のタンタリキという場所を掘ったらシャレコウベが沢山出てきました。
(野戦病院の跡だった)
100万を超える兵隊さんが未帰還で、やれるのに何故やらないのか、政府の怠慢としか言いようがないです。
日本とインドネシアの間に遺骨帰還の協力覚書が有るのですが、2015年9月に行って10月にはそのままゼロ帰還で返されました。
11月に遺骨帰還の協力覚書が失効してしまった。
再調印できるようなことをやってもらえればいいが、2018年4月なっても何にも進んでいない。
魂があるとするならば、ご飯茶わん、水筒など形のあるものに魂が宿っており、私はこういうものが残っているんですよ、と伝えたい。
現地では銃弾、手投げ弾などの解体などで腕を飛ばしたり、命を落としたという事を聞かされている中で、まだあちこちに散らばっているという事実を伝えたい。
色々な未処理の問題 次世代の子供達に先送りはしたくない。
戦争が終わって73年経ってもこの体たらく。
非戦をどうすればいいのか子供達と考えながらやっているのが現状です。
3,4年前までは先生が熱心に連れてきているが、ここ3,4年総合学習関係の訪問者が消えてしまいました。
事実を伝えて行くこと、語り部は必要だと思います。
岩渕さんは1941年(昭和16年)生まれで今年77歳です。
岩渕さんが2歳の時に父親がニューギニアで戦死、戦死の知らせが届いたのは終戦の翌年、昭和21年の7月でした。
しかし父親の戦死の状況はさっぱり判りませんでした。
岩淵さんが父親への思いを強くしたのは小学校1年生の頃。
家族が疎開先から東京に戻るときも、長男だから一の関に残り墓を守れと、祖父母に引き取られて一人残ります。
高校卒業のころには父の戦死したニューギニアに行ってみたいと心に決めます。
父親の眠るニューギニアに行くにはどうすればよいのか、岩渕さんは高校卒業後上京し働きながらニューギニアに行く手段を模索します。
そして働きながら英語を学び貿易会社や航空会社など英語が身に付く仕事を転々とします。
苦学6年、東京オリンピックの翌年念願の航空会社に就職することができて、入社2年目1967年、長い間念願だった父の眠るニューギニアを訪れたることができたのです。
初めて現地を訪れた岩渕さんはなにを思い、その後どのような活動を続けたのか伺いました。
太平洋戦史館の前には田園地帯が広がっていて、2km先に中尊寺があります。
おびただしい戦時下の遺品が展示されています。
遺留品を展示して遺族の方に持ち帰ってもらいたいと思っています。
戦争の悲惨さを知って欲しいと思います。
父親は33歳と6カ月で亡くなり辛い思いをしました。
父親の記憶は全然ありません。(2歳の時父親は亡くなる)
父親がどんな所で亡くなったのか、一遍ニューギニアに行ってみたいと思いました。
1960年代のころは海外への渡航は簡単にはいけない状況でした。
航空会社に入ればひょっとするとタダでいけるのではないかと思ったりしました。
英語の勉強をしなければいけないと思って、給料の中から通うためのお金をなんとか捻出して、原宿のワシントンハイツへ行って生の英語を聞きました。
求人広告でハウスボーイを見付けて雇ってもらいました。
父親が亡くなった場所は後に判るが、キャセイ航空に務めた時代は何処で死んだか全くわからなかった。
昭和42年に「ラエ」というところに行った時に、神父さんに言われたのが、「貴方の立っている芝生の下に何百という日本の兵隊さんの屍が埋まったままですよ」と言われた時の衝撃は大変なものでした。
1978年(昭和53年)の時に遺骨を収容している写真などが展示されている。
政府が1975年を持って遺骨帰還運動をおおむね完了ということになった。
ブーゲンビル島のタンタリキという場所を掘ったらシャレコウベが沢山出てきました。
(野戦病院の跡だった)
100万を超える兵隊さんが未帰還で、やれるのに何故やらないのか、政府の怠慢としか言いようがないです。
日本とインドネシアの間に遺骨帰還の協力覚書が有るのですが、2015年9月に行って10月にはそのままゼロ帰還で返されました。
11月に遺骨帰還の協力覚書が失効してしまった。
再調印できるようなことをやってもらえればいいが、2018年4月なっても何にも進んでいない。
魂があるとするならば、ご飯茶わん、水筒など形のあるものに魂が宿っており、私はこういうものが残っているんですよ、と伝えたい。
現地では銃弾、手投げ弾などの解体などで腕を飛ばしたり、命を落としたという事を聞かされている中で、まだあちこちに散らばっているという事実を伝えたい。
色々な未処理の問題 次世代の子供達に先送りはしたくない。
戦争が終わって73年経ってもこの体たらく。
非戦をどうすればいいのか子供達と考えながらやっているのが現状です。
3,4年前までは先生が熱心に連れてきているが、ここ3,4年総合学習関係の訪問者が消えてしまいました。
事実を伝えて行くこと、語り部は必要だと思います。
2018年10月11日木曜日
西脇義訓(指揮者・録音プロデューサー) ・ホールが楽器 目指せ空間力
西脇義訓(指揮者・録音プロデューサー) ・ホールが楽器 目指せ空間力
愛知県出身、70歳、小さいころから音楽に親しみ大学を卒業した後は、レコード会社に勤務し、営業や製作畑を歩きました。
50歳の時に独立し、現在もクラシック音楽の録音、CD製作に携わっています。
その一方で入社間もないころに聞いたドイツ、バイロイト祝祭劇場でのライブ録音のレコードが忘れなかった西脇さんは、2009年にようやくバイロイト祝祭音楽祭に行って、そのオーケストラの響きを体験、この響きこそ自分が理想とする響きであると確信し、ついに2013年、65歳の時にご自分のオーケストラを創設するに至りました。
響きを追求するために、今までの常識にとらわれない画期的なオーケストラ「デア・リング東京オーケストラ」です。
すでにCDを6枚発表し 、この夏初めて公開コンサートが開かれました。
8月に末にコンサートが行われました。
前代未聞画期的革命と言われ、指揮者から全てがお客様の方を向いていた。
立って演奏すると目線が下を向くので、上を向いて演奏しましょうということでそうしました。
ホールを楽器としてその楽器をいい状態で響かせる、空間力を発揮する為に半円形になってすることはやり易いが、空間を響かせるのに一番大事なのは聞きあう事なんです。
「デア・リング東京オーケストラ」では指揮者の方を向いていない。
一般的には指揮者を扇のかなめとして、半円状に広がる。
通常は指揮者の左から第一ヴァイオリン、第二ヴァイオリン、ビオラ、チェロ、チェロうしろにコントラバス、管楽器が弦楽器の後ろにいて、左奥位に打楽器がならぶ。
「デア・リング東京オーケストラ」では弦楽器、管楽器もばらばらでやっていて、チェロ以外は立ってやります。
メンデルスゾーンの時代は立って演奏していたという記録が残っています。
方向もどっちを向いてもいいと指揮者の方を向かなくてもいいと言ったら、向こう見てやっている人も何人かいました。
ボウイング(運弓法。弦楽器の運弓法(弓の使い方)。)をみんなと合わせるために神経を使うことも事実なんで、演奏として合っているかが一番大事なことなのでボウイングは自由にしてみようという考え方でやっています。
*メンデルスゾーン交響曲 第4番 「イタリア」
柔らかくて透明な響きが来て、バイロイトの響きを普通の舞台の上で、それに近い響きを作れるのではないかということで設立しました。(「デア・リング東京オーケストラ」)
核になる人が何人かいましたが芸大、桐朋学園とか卒業したての人に声を掛けました。
「デア・リング」の名称は、先進性、独創性、開拓者精神で世界を席巻したワーグナーの代表作「ニーベルングの指環」 Der Ring des Nibelungen からの連想で、「輪」や「和」にも通じる、このオーケストラの基本理念を示しています。
2013年にオーケストラを編成しました。
第一弾はブルックナーの交響曲第3番「ワグネル」を演奏して録音して世に出しました。
最初みんな疑問に思っていましたが演奏するに従って、この配置でやるのが弾きやすかったと言っていました。
奏者が自立して一人一人がやるということが、大事なことだと思うの空間力と自発ですね。
僕の役目はそういう方向付けをすることと、指揮者として大きな振りはしていないが遠くの人も、ちょっとした動きに物凄く反応してくれました。
幼稚園の入園式の時にスキップして出てきて、母は音楽が好きなのかもしれないということで、母が木琴の先生を探して6年までレッスンに通いました。
小学校5,6年は音楽の先生でアンサンブルなどをやっていました。
中学校はレコードを一杯聞きました。
ヴェートーベンの全集が出て、親に買ってほしいと泣きついて買ってもらって毎日のように聞いていました。
弦楽器を始めたいと思ったが、ヴァイオリンはもう手遅れだと思って、高校に入った時にオーケストラを作ろうと思って、日比谷高校、慶応高校、麻布高校とか一流高校の処にはオーケストラがあり、うちの学校が一流になる為にはオーケストラがなければならないという記事(校内新聞)を書いて、チェロを始めました。
3年の時に受験間際に名古屋私立大学の管弦楽団が演奏をするので、チェロで出なさいと先生から言われて、受験そっちのけで演奏しました。
大学に入ったらオーケストラをやりたいと、慶應義塾ワグネルソサィエティーがあり上京しました。
高校には弟の時代にはオーケストラが出来、今や素晴らしいオーケストラが出来ました。
就職にあたって名古屋の銀行に試験は通ったが、悶々としていました。
レコード会社の新聞広告で募集があり、たまたま最後の一人として受かりました。
営業を希望し親とも喧嘩した名古屋に戻りました。
オーケストラでチェロが足りないということで呼ばれたが、下手なのでちょいと言ったらお前がやれということになり、ソリストと指揮者をやりながらどっぷりと入ってしまいました。
東京の本社に戻りクラシック部に入ることになりました。
その後独立しました。
二人で自分たちの納得のいく録音、音楽制作、CD制作をやっていこうと決めました。(50歳の時)
青木十良さんに会いに行く機会が出来ました。
バッハの無伴奏6番からやりたいと言うことだった。(一番難しい曲)
演奏する空間が大事だと言うことで、日本で会場を探したいと言うことだった。
松戸の美術館に行って実際に弾いてみたら響きが良くて、6番を演奏してもらって録音をしました。
空間の大切さを身にしみて判りました。
*バッハの無伴奏組曲第6番
青木さんから「50,60で頑張れば70,80で花が咲く」とおっしゃったんです、それが胸にギンと来て、頑張らなくて行けないと思いました。(50歳過ぎのころ)
70歳になった時にオーケストラの演奏会を開くことができました。
オーケストラがどうしたらいい状態になるか、オーケストラの人達が幸せになるような演奏を出来ればオーケストラの人達が幸せになるし、聞いている人たちも幸せになるので、どうしたら幸せな演奏ができるか、幸せな音楽にみんな一緒に協力できるか考えていました。
空間力があれば幸せな状態で演奏出来て、幸せな状態で聞けるのではないかというそういうふうに思っています。
日本人でしかない様な気配を感じる、呼吸を感じるそういうのは、日本人独特な感性なので、それをオーケストラで取り入れて日本独特の響きを、世界に出していく時期に来ているのではないかと思います。
*ヴェートーベン交響曲第7番二楽章
愛知県出身、70歳、小さいころから音楽に親しみ大学を卒業した後は、レコード会社に勤務し、営業や製作畑を歩きました。
50歳の時に独立し、現在もクラシック音楽の録音、CD製作に携わっています。
その一方で入社間もないころに聞いたドイツ、バイロイト祝祭劇場でのライブ録音のレコードが忘れなかった西脇さんは、2009年にようやくバイロイト祝祭音楽祭に行って、そのオーケストラの響きを体験、この響きこそ自分が理想とする響きであると確信し、ついに2013年、65歳の時にご自分のオーケストラを創設するに至りました。
響きを追求するために、今までの常識にとらわれない画期的なオーケストラ「デア・リング東京オーケストラ」です。
すでにCDを6枚発表し 、この夏初めて公開コンサートが開かれました。
8月に末にコンサートが行われました。
前代未聞画期的革命と言われ、指揮者から全てがお客様の方を向いていた。
立って演奏すると目線が下を向くので、上を向いて演奏しましょうということでそうしました。
ホールを楽器としてその楽器をいい状態で響かせる、空間力を発揮する為に半円形になってすることはやり易いが、空間を響かせるのに一番大事なのは聞きあう事なんです。
「デア・リング東京オーケストラ」では指揮者の方を向いていない。
一般的には指揮者を扇のかなめとして、半円状に広がる。
通常は指揮者の左から第一ヴァイオリン、第二ヴァイオリン、ビオラ、チェロ、チェロうしろにコントラバス、管楽器が弦楽器の後ろにいて、左奥位に打楽器がならぶ。
「デア・リング東京オーケストラ」では弦楽器、管楽器もばらばらでやっていて、チェロ以外は立ってやります。
メンデルスゾーンの時代は立って演奏していたという記録が残っています。
方向もどっちを向いてもいいと指揮者の方を向かなくてもいいと言ったら、向こう見てやっている人も何人かいました。
ボウイング(運弓法。弦楽器の運弓法(弓の使い方)。)をみんなと合わせるために神経を使うことも事実なんで、演奏として合っているかが一番大事なことなのでボウイングは自由にしてみようという考え方でやっています。
*メンデルスゾーン交響曲 第4番 「イタリア」
柔らかくて透明な響きが来て、バイロイトの響きを普通の舞台の上で、それに近い響きを作れるのではないかということで設立しました。(「デア・リング東京オーケストラ」)
核になる人が何人かいましたが芸大、桐朋学園とか卒業したての人に声を掛けました。
「デア・リング」の名称は、先進性、独創性、開拓者精神で世界を席巻したワーグナーの代表作「ニーベルングの指環」 Der Ring des Nibelungen からの連想で、「輪」や「和」にも通じる、このオーケストラの基本理念を示しています。
2013年にオーケストラを編成しました。
第一弾はブルックナーの交響曲第3番「ワグネル」を演奏して録音して世に出しました。
最初みんな疑問に思っていましたが演奏するに従って、この配置でやるのが弾きやすかったと言っていました。
奏者が自立して一人一人がやるということが、大事なことだと思うの空間力と自発ですね。
僕の役目はそういう方向付けをすることと、指揮者として大きな振りはしていないが遠くの人も、ちょっとした動きに物凄く反応してくれました。
幼稚園の入園式の時にスキップして出てきて、母は音楽が好きなのかもしれないということで、母が木琴の先生を探して6年までレッスンに通いました。
小学校5,6年は音楽の先生でアンサンブルなどをやっていました。
中学校はレコードを一杯聞きました。
ヴェートーベンの全集が出て、親に買ってほしいと泣きついて買ってもらって毎日のように聞いていました。
弦楽器を始めたいと思ったが、ヴァイオリンはもう手遅れだと思って、高校に入った時にオーケストラを作ろうと思って、日比谷高校、慶応高校、麻布高校とか一流高校の処にはオーケストラがあり、うちの学校が一流になる為にはオーケストラがなければならないという記事(校内新聞)を書いて、チェロを始めました。
3年の時に受験間際に名古屋私立大学の管弦楽団が演奏をするので、チェロで出なさいと先生から言われて、受験そっちのけで演奏しました。
大学に入ったらオーケストラをやりたいと、慶應義塾ワグネルソサィエティーがあり上京しました。
高校には弟の時代にはオーケストラが出来、今や素晴らしいオーケストラが出来ました。
就職にあたって名古屋の銀行に試験は通ったが、悶々としていました。
レコード会社の新聞広告で募集があり、たまたま最後の一人として受かりました。
営業を希望し親とも喧嘩した名古屋に戻りました。
オーケストラでチェロが足りないということで呼ばれたが、下手なのでちょいと言ったらお前がやれということになり、ソリストと指揮者をやりながらどっぷりと入ってしまいました。
東京の本社に戻りクラシック部に入ることになりました。
その後独立しました。
二人で自分たちの納得のいく録音、音楽制作、CD制作をやっていこうと決めました。(50歳の時)
青木十良さんに会いに行く機会が出来ました。
バッハの無伴奏6番からやりたいと言うことだった。(一番難しい曲)
演奏する空間が大事だと言うことで、日本で会場を探したいと言うことだった。
松戸の美術館に行って実際に弾いてみたら響きが良くて、6番を演奏してもらって録音をしました。
空間の大切さを身にしみて判りました。
*バッハの無伴奏組曲第6番
青木さんから「50,60で頑張れば70,80で花が咲く」とおっしゃったんです、それが胸にギンと来て、頑張らなくて行けないと思いました。(50歳過ぎのころ)
70歳になった時にオーケストラの演奏会を開くことができました。
オーケストラがどうしたらいい状態になるか、オーケストラの人達が幸せになるような演奏を出来ればオーケストラの人達が幸せになるし、聞いている人たちも幸せになるので、どうしたら幸せな演奏ができるか、幸せな音楽にみんな一緒に協力できるか考えていました。
空間力があれば幸せな状態で演奏出来て、幸せな状態で聞けるのではないかというそういうふうに思っています。
日本人でしかない様な気配を感じる、呼吸を感じるそういうのは、日本人独特な感性なので、それをオーケストラで取り入れて日本独特の響きを、世界に出していく時期に来ているのではないかと思います。
*ヴェートーベン交響曲第7番二楽章
2018年10月10日水曜日
町田 康(作家・ミュージシャン) ・古典を読む楽しみ
町田 康(作家・ミュージシャン) ・古典を読む楽しみ
町田さんは56歳、19歳でパンクロックバンド 「INU」のボーカルとしてデビュー、解散後も音楽活動を続けるかたわら映画への出演、詩やエッセーを発表し、小説家としては1996年に処女作、「くっすん大黒」で野間文芸新人賞、2000年には「きれぎれ」で第123回芥川賞受賞。
以降も数多くの文学賞を受賞しています。
最近力を入れているのが古典の現代語訳です。
今は「ギケイキ」に取り組んでいます。
日常や小説を初めとする創作の流儀、古典の楽しみ方などについてお聞きします。
「ギケイキ」の冒頭部分を朗読。
歌も歌いますが、歌は伴奏があるが、朗読は他の音が全然なくて自分の声だけなので緊張します、厳粛な気持ちになります。
熱海には12年住んでいます。
東京に住んでいたが猫の数が増えてきて 手狭になり田舎にということで引っ越しました。
10匹以上いましたが今は7匹です。
熱海に来て犬も3匹飼っています。
朝6時位には起きます。
猫にご飯をあげたりすることから始めて朝食をとり、8時ぐらいから小説の原稿に取り掛かります。
11時ぐらいまでしてから、雑用をして、また猫の世話などをします。
夕方には犬の散歩などをして、夜は資料とか仕事で読みたい本とか、自分の読みたい本を読んだりしています。
夜は9時~11時頃には眠ります。
音楽活動はずーっと続けて来ましたが、小説を本格的にやるようになってからは余りやっていませんでした。
36歳まで音楽活動をして、56歳位までは小説のことをやって今は両方やっています。
執筆と音楽活動はお互いに刺激し合うような所があります。
ロックが好きでしたが漫才、落語、浪曲、など日本の古くからある演芸は好きで聞いていました。
本は子供のころは児童文学、10代のころは筒井康隆さん、野坂 昭如さん、大江健三郎さんとか読みました。
読んだものの影響は全て受けていると思いますが、筒井さんは判り易く影響を受けていると思います。
自分のこと、身の周りのことを書くのは苦手です。
エッセーも面白く読んでもらうための工夫を入れたくなる方なので、フィクションとの境界が割とあいまいな感じです。
1996年「くっすん大黒」を発表。
その本の前に書いた本を読んだ編集者が、小説を書いてみませんかというのがきっかけでしたが、小説を書こううという強い気持ちがあったということはあります。
誰も書いたことのない様な小説を書きたいとは思っていました。
文章自体が好きです。(音楽と音とに例えると音色が好きです)
自分が一番かっこいい、一番渋いというような、いいなというもの、そんな感じの言葉の選び方です。
子供のころから親しんだ演芸(漫才、落語、浪曲、など日本の古くからある演芸)が耳に残っていて昔と繋がっています。
古典文学のことをやっていると古典を勉強しているのかとか、思われるかもしれないが、学校では興味はなかった。
中学で平家物語を朗読させられる授業があり、いまだに耳に覚えているところはありますが、ロックの方がかっこいいというような気持ちはありました。
子供向け日本史の通史の本があり、物語風に書かれていた。
それが面白くて何度も読みました。
語り口による昔に興味を惹かれるようになりました。
19歳の時にデビューしたものに落語の一節も入っています。
古典は今の常識では考えられないよいなことが起こっていたりしますが、判らないところは流してしまって判る所だけ読んで、つじつまが合わないところが出て来る。
アレっと思って立ち止まって考えると、こういうことだったのかという驚きがある。
段々分って来るのは、昔の人がやっていることといまの人と余りベーシックのところでは変わらないんだなとわかった時には、時間的に通じる喜びがあります。
そうすると頭の中ではすでに翻訳している訳です。
「浄土」短編集 古事記を一部翻訳したような話を書いていたりしました。
古典の翻訳を本格的にやったのが「宇治拾遺物語」です。
置き換えること自体の面白さはあります。
古典は重々しいものの様に感じてしまうが、自分の本当の身の回りのものに置き換えると急に楽しくなります。
下人とか出てくるがスタッフと言って置き換えてしまっても成立する。
聖、私度僧(自分で勝手に僧になった人)はインディーズ系の僧というと非常に判りやすい。
そんなことをやってもいいのかといわれるが、仏教は難しいが、かなり面白くして判りやすくして一般の人に言っていた。
「ギケイキ」 室町時代に成立した話で、源義経の生涯を面白おかしく書いた話です。
原典を読んで直訳する
「常盤と申すは日本一の美人なり。 九条院はことこのませたまいければ洛中より
容顔美麗なる女を千人めされて、その中より百人、百人の中より十人、十人の中より一人得らりけるたる美女なり」
そしてこれは私の訳した訳し方です。
「母は極度に美しかった。 母は、藤原の呈子さん通称九条院さんの家に雇われて働いていた。 ・・・九条院さんは華美を好んで超美人しか雇わない。 そのためにオーディションをするわけね。・・・」
藤原の呈子に関する説明をさりげなく入れる。
装束なども現代風に大胆に翻訳する。
軽薄なファッション雑誌風の文体を取り入れたりする。
原文に付けくわえたらどうなるか、補って書くことによって面白おかしくして、つじつまが合う様に考えたりする。
①直訳をする、②少し異訳の部分を増やす、③足りないところを補うこの三つをやると翻訳が物凄く面白くなる。
「ギケイキ」は予定では4巻で収めたいと思っています。
町田さんは56歳、19歳でパンクロックバンド 「INU」のボーカルとしてデビュー、解散後も音楽活動を続けるかたわら映画への出演、詩やエッセーを発表し、小説家としては1996年に処女作、「くっすん大黒」で野間文芸新人賞、2000年には「きれぎれ」で第123回芥川賞受賞。
以降も数多くの文学賞を受賞しています。
最近力を入れているのが古典の現代語訳です。
今は「ギケイキ」に取り組んでいます。
日常や小説を初めとする創作の流儀、古典の楽しみ方などについてお聞きします。
「ギケイキ」の冒頭部分を朗読。
歌も歌いますが、歌は伴奏があるが、朗読は他の音が全然なくて自分の声だけなので緊張します、厳粛な気持ちになります。
熱海には12年住んでいます。
東京に住んでいたが猫の数が増えてきて 手狭になり田舎にということで引っ越しました。
10匹以上いましたが今は7匹です。
熱海に来て犬も3匹飼っています。
朝6時位には起きます。
猫にご飯をあげたりすることから始めて朝食をとり、8時ぐらいから小説の原稿に取り掛かります。
11時ぐらいまでしてから、雑用をして、また猫の世話などをします。
夕方には犬の散歩などをして、夜は資料とか仕事で読みたい本とか、自分の読みたい本を読んだりしています。
夜は9時~11時頃には眠ります。
音楽活動はずーっと続けて来ましたが、小説を本格的にやるようになってからは余りやっていませんでした。
36歳まで音楽活動をして、56歳位までは小説のことをやって今は両方やっています。
執筆と音楽活動はお互いに刺激し合うような所があります。
ロックが好きでしたが漫才、落語、浪曲、など日本の古くからある演芸は好きで聞いていました。
本は子供のころは児童文学、10代のころは筒井康隆さん、野坂 昭如さん、大江健三郎さんとか読みました。
読んだものの影響は全て受けていると思いますが、筒井さんは判り易く影響を受けていると思います。
自分のこと、身の周りのことを書くのは苦手です。
エッセーも面白く読んでもらうための工夫を入れたくなる方なので、フィクションとの境界が割とあいまいな感じです。
1996年「くっすん大黒」を発表。
その本の前に書いた本を読んだ編集者が、小説を書いてみませんかというのがきっかけでしたが、小説を書こううという強い気持ちがあったということはあります。
誰も書いたことのない様な小説を書きたいとは思っていました。
文章自体が好きです。(音楽と音とに例えると音色が好きです)
自分が一番かっこいい、一番渋いというような、いいなというもの、そんな感じの言葉の選び方です。
子供のころから親しんだ演芸(漫才、落語、浪曲、など日本の古くからある演芸)が耳に残っていて昔と繋がっています。
古典文学のことをやっていると古典を勉強しているのかとか、思われるかもしれないが、学校では興味はなかった。
中学で平家物語を朗読させられる授業があり、いまだに耳に覚えているところはありますが、ロックの方がかっこいいというような気持ちはありました。
子供向け日本史の通史の本があり、物語風に書かれていた。
それが面白くて何度も読みました。
語り口による昔に興味を惹かれるようになりました。
19歳の時にデビューしたものに落語の一節も入っています。
古典は今の常識では考えられないよいなことが起こっていたりしますが、判らないところは流してしまって判る所だけ読んで、つじつまが合わないところが出て来る。
アレっと思って立ち止まって考えると、こういうことだったのかという驚きがある。
段々分って来るのは、昔の人がやっていることといまの人と余りベーシックのところでは変わらないんだなとわかった時には、時間的に通じる喜びがあります。
そうすると頭の中ではすでに翻訳している訳です。
「浄土」短編集 古事記を一部翻訳したような話を書いていたりしました。
古典の翻訳を本格的にやったのが「宇治拾遺物語」です。
置き換えること自体の面白さはあります。
古典は重々しいものの様に感じてしまうが、自分の本当の身の回りのものに置き換えると急に楽しくなります。
下人とか出てくるがスタッフと言って置き換えてしまっても成立する。
聖、私度僧(自分で勝手に僧になった人)はインディーズ系の僧というと非常に判りやすい。
そんなことをやってもいいのかといわれるが、仏教は難しいが、かなり面白くして判りやすくして一般の人に言っていた。
「ギケイキ」 室町時代に成立した話で、源義経の生涯を面白おかしく書いた話です。
原典を読んで直訳する
「常盤と申すは日本一の美人なり。 九条院はことこのませたまいければ洛中より
容顔美麗なる女を千人めされて、その中より百人、百人の中より十人、十人の中より一人得らりけるたる美女なり」
そしてこれは私の訳した訳し方です。
「母は極度に美しかった。 母は、藤原の呈子さん通称九条院さんの家に雇われて働いていた。 ・・・九条院さんは華美を好んで超美人しか雇わない。 そのためにオーディションをするわけね。・・・」
藤原の呈子に関する説明をさりげなく入れる。
装束なども現代風に大胆に翻訳する。
軽薄なファッション雑誌風の文体を取り入れたりする。
原文に付けくわえたらどうなるか、補って書くことによって面白おかしくして、つじつまが合う様に考えたりする。
①直訳をする、②少し異訳の部分を増やす、③足りないところを補うこの三つをやると翻訳が物凄く面白くなる。
「ギケイキ」は予定では4巻で収めたいと思っています。
2018年10月9日火曜日
石橋恵三子(番組「消え物」担当) ・テレビに"華"を添えて50年
石橋恵三子(番組「消え物」担当) ・テレビに"華"を添えて50年
TVのスタジオやロケの現場で使われる花や料理は、収録後には残らないことから業界用語で「消えもの」と呼ばれています。
石橋さんは今から50年ほど前、姉の嫁ぎ先の花屋さんを手伝って、民放TV局のスタジオに飾る花を納入したことがきっかけで、TV業界の「消えもの」の草分けになりました。
放送開始から42年を迎えた「徹子の部屋」では第一回からこれまで1万回以上スタジオの花を活け続けています。
石橋さんはその42年の間、様々なエピソードを「徹子の部屋」の花しごと、という本にまとめています。
もう一つ石橋さんが得意なのは料理です。
ドラマやバラエティーで出演者の食事シーンも任されるようになりました。
NHKでは「キッチンが走る」という番組の調理補助として、6年半名シェフ達と共にロケに随行し、地元の食材集めと調理に活躍してきました。
花や料理を中心とした「消えもの」担当者としての、50年さまさまなできごとや仕事への思いをうかがいます。
家には床の間があったので必ず母が花を活けたりしていました。
花のある家でした。
中学では部に入らなければいけなくて、ソフト部に入りたかったが、華道部は少なかったし花嫁修業にもなるかと思い華道部に入ることにしました。
先生の処に個人的にいって学んで中学の終わり頃位に免除を頂きました。
姉が嫁いだ先が麻布十番に花屋さんを2軒持っていて、義理の兄が草月流の先生で名が売れれいた方で、兄のもとで草月流の勉強をしました。
仕入れの市場にも一緒に行ったりして花に接することが多かったです。
美術学校に入ってデッサン、色に関する勉強もしました。
TVの生番組に花を飾って欲しいという要望があり、スタジオにおいたりしていました。
専属でという話があり、やらせていただくことになりました。
TVも白黒からカラーになってきて造花から生の花にということになってきました。
放送開始から42年を迎えた「徹子の部屋」では第一回からこれまで1万回以上スタジオの花を活け続けています。
1週間の早さ、のんびりできるのは水曜日だけでした。
月、火で7本収録する訳で徹子さんは打ち合わせなど大変だと思います
次週の出演者は木曜日に伝えてもらいます。
話の内容は私は聞きません。
ゲストの先取りをしてしまうようであえて聞きません。
花の仕入れは太田市場です。
仕入れは金曜日に行きます。
8時には着くようにしていて、9時半には店が閉まってしまうところもあります。
どうしてもも欲しいものがあるときには7時に行ったりします。
セットには花が一番最初に入り、徹子さんが入り、その後ゲストが入って来るので、そこで手を加えることはありません。
男性がゲストだと徹子さんは派手な衣裳にするので、花は目立たないようにします。
女性の場合は女性が目立つようにするので徹子さんは控えめな衣装にしています。
お花とゲストと徹子さんの写真を撮っておいています。
記録として撮っておかなくてはいてないと思っています。
ゲストの人は飲み物をリクエストすることができますので、美味しいものフレッシュなものを提供するようにしています。
カクテルの色の勉強をしようと思ってカクテルの学校にも通いました。
番組が12時からなので、病院では花を見て下さる方も多いです。
データを取っていた時に、いつかは本にしたいと思ってはいました。
「徹子の部屋」の花しごと
徹子さんから花は第二のゲストと言って下さってくれて、それにこたえていかないといけないと思いました。
美輪明宏さんの時には衣装と花が同じものになりましたが、まったく偶然でした。
黄色、紫など割と派手な色で、斜めに入っていて、花もそういった色が斜めに入っていました。
美輪さんから思わず「霊感があるの」と言われました。
イメージが合う瞬間があるものだと思いました。
葉加瀬 太郎さんの場合は、明るいヒマワリ、NHKの朝ドラの「てっぱん」で番組の中で歌っていたのがヒマワリで8月だったので、全部ヒマワリで活けました。
番組でもヒマワリを歌ったんです。
お嬢さんの名前もひまわりちゃんと言うことで、終了後全部ヒマワリを差し上げました。
高倉健さんが好きなのは「都忘れ」という紫色の小さな花なんです。
その時は季節外れでしたが、房総まで行って100本手に入れ、「都忘れ」だけで活けたら物凄く喜んでくれました。
お帰りになる時に花束にしてお渡ししたら、「有難う」と言って一本だけ私に渡してくれまして、感激しました。
吉永小百合さん 「北の桜守」に出演しましたが、、「徹子の部屋」の収録が2月で、セットにも桜を飾りました。
啓翁桜を咲かせなければいけなくて、工夫をして昼間は日に当て、夜は温度管理をして5日間繰り返して当日は満開になり、吉永さんも徹子さんもとっても喜ばれました。
料理は「消えもの」の係はいなかったので、ご飯に味噌汁、煮ものは得意だったので番組で出すようになりました。
調理師の免許も持っています。
桃井かおりさんなども私の料理のファンとなったりしてくれました。
「キッチンが走る」という番組の調理補助として、6年半名シェフ達と共にロケに随行し、地元の食材集めと調理に参加しました。
アシスタントとして調理の手伝いをしました。
朝5時、6時からスタンバイします。
TVの世界は憧れはあるが、時間的な拘束が長くて若い人たちが続かなくて、レシピ通りにつくる時代になってきているので要望されることも多くて、ちゃんと料理の勉強をしていないと付いていけない場合もあるので、最後まで続かないということもあります。
今はなんとなく落ち着いてきています。
花と料理と両方できる方は今なかなかいないですね。
相手の気持を大事にすると言うか、相手の気持ちになってあげる、厭なものでも笑顔で受けると言うのをモットーにしています。
TVのスタジオやロケの現場で使われる花や料理は、収録後には残らないことから業界用語で「消えもの」と呼ばれています。
石橋さんは今から50年ほど前、姉の嫁ぎ先の花屋さんを手伝って、民放TV局のスタジオに飾る花を納入したことがきっかけで、TV業界の「消えもの」の草分けになりました。
放送開始から42年を迎えた「徹子の部屋」では第一回からこれまで1万回以上スタジオの花を活け続けています。
石橋さんはその42年の間、様々なエピソードを「徹子の部屋」の花しごと、という本にまとめています。
もう一つ石橋さんが得意なのは料理です。
ドラマやバラエティーで出演者の食事シーンも任されるようになりました。
NHKでは「キッチンが走る」という番組の調理補助として、6年半名シェフ達と共にロケに随行し、地元の食材集めと調理に活躍してきました。
花や料理を中心とした「消えもの」担当者としての、50年さまさまなできごとや仕事への思いをうかがいます。
家には床の間があったので必ず母が花を活けたりしていました。
花のある家でした。
中学では部に入らなければいけなくて、ソフト部に入りたかったが、華道部は少なかったし花嫁修業にもなるかと思い華道部に入ることにしました。
先生の処に個人的にいって学んで中学の終わり頃位に免除を頂きました。
姉が嫁いだ先が麻布十番に花屋さんを2軒持っていて、義理の兄が草月流の先生で名が売れれいた方で、兄のもとで草月流の勉強をしました。
仕入れの市場にも一緒に行ったりして花に接することが多かったです。
美術学校に入ってデッサン、色に関する勉強もしました。
TVの生番組に花を飾って欲しいという要望があり、スタジオにおいたりしていました。
専属でという話があり、やらせていただくことになりました。
TVも白黒からカラーになってきて造花から生の花にということになってきました。
放送開始から42年を迎えた「徹子の部屋」では第一回からこれまで1万回以上スタジオの花を活け続けています。
1週間の早さ、のんびりできるのは水曜日だけでした。
月、火で7本収録する訳で徹子さんは打ち合わせなど大変だと思います
次週の出演者は木曜日に伝えてもらいます。
話の内容は私は聞きません。
ゲストの先取りをしてしまうようであえて聞きません。
花の仕入れは太田市場です。
仕入れは金曜日に行きます。
8時には着くようにしていて、9時半には店が閉まってしまうところもあります。
どうしてもも欲しいものがあるときには7時に行ったりします。
セットには花が一番最初に入り、徹子さんが入り、その後ゲストが入って来るので、そこで手を加えることはありません。
男性がゲストだと徹子さんは派手な衣裳にするので、花は目立たないようにします。
女性の場合は女性が目立つようにするので徹子さんは控えめな衣装にしています。
お花とゲストと徹子さんの写真を撮っておいています。
記録として撮っておかなくてはいてないと思っています。
ゲストの人は飲み物をリクエストすることができますので、美味しいものフレッシュなものを提供するようにしています。
カクテルの色の勉強をしようと思ってカクテルの学校にも通いました。
番組が12時からなので、病院では花を見て下さる方も多いです。
データを取っていた時に、いつかは本にしたいと思ってはいました。
「徹子の部屋」の花しごと
徹子さんから花は第二のゲストと言って下さってくれて、それにこたえていかないといけないと思いました。
美輪明宏さんの時には衣装と花が同じものになりましたが、まったく偶然でした。
黄色、紫など割と派手な色で、斜めに入っていて、花もそういった色が斜めに入っていました。
美輪さんから思わず「霊感があるの」と言われました。
イメージが合う瞬間があるものだと思いました。
葉加瀬 太郎さんの場合は、明るいヒマワリ、NHKの朝ドラの「てっぱん」で番組の中で歌っていたのがヒマワリで8月だったので、全部ヒマワリで活けました。
番組でもヒマワリを歌ったんです。
お嬢さんの名前もひまわりちゃんと言うことで、終了後全部ヒマワリを差し上げました。
高倉健さんが好きなのは「都忘れ」という紫色の小さな花なんです。
その時は季節外れでしたが、房総まで行って100本手に入れ、「都忘れ」だけで活けたら物凄く喜んでくれました。
お帰りになる時に花束にしてお渡ししたら、「有難う」と言って一本だけ私に渡してくれまして、感激しました。
吉永小百合さん 「北の桜守」に出演しましたが、、「徹子の部屋」の収録が2月で、セットにも桜を飾りました。
啓翁桜を咲かせなければいけなくて、工夫をして昼間は日に当て、夜は温度管理をして5日間繰り返して当日は満開になり、吉永さんも徹子さんもとっても喜ばれました。
料理は「消えもの」の係はいなかったので、ご飯に味噌汁、煮ものは得意だったので番組で出すようになりました。
調理師の免許も持っています。
桃井かおりさんなども私の料理のファンとなったりしてくれました。
「キッチンが走る」という番組の調理補助として、6年半名シェフ達と共にロケに随行し、地元の食材集めと調理に参加しました。
アシスタントとして調理の手伝いをしました。
朝5時、6時からスタンバイします。
TVの世界は憧れはあるが、時間的な拘束が長くて若い人たちが続かなくて、レシピ通りにつくる時代になってきているので要望されることも多くて、ちゃんと料理の勉強をしていないと付いていけない場合もあるので、最後まで続かないということもあります。
今はなんとなく落ち着いてきています。
花と料理と両方できる方は今なかなかいないですね。
相手の気持を大事にすると言うか、相手の気持ちになってあげる、厭なものでも笑顔で受けると言うのをモットーにしています。
2018年10月8日月曜日
本郷和人(東京大学史料編纂所教授) ・【近代日本150年 明治の群像】大石誠之助
本郷和人(東京大学史料編纂所教授)・【近代日本150年 明治の群像】大石誠之助
大逆事件~
講談師 神田 蘭
太逆事件で死刑になった大石誠之助。
2018年1月に人権思想や平和思想の基礎を築いた人物として、新宮市の名誉市民に認定している。
講談による紹介。
1867年和歌山県新宮市生まれ、明治44年に1月24日に亡くなっている。
京都の同志社英学校英語普通科中退後、神田共立学校で英語を学び中退。
1891年6月渡米し、ワシントン州ワラワラ市のセントポーロ中学校入学。
1892年オレゴン州立大学医科に入学、1895年卒業。
同年4月から7月までモントリオール大学で外科学を学び、10月に帰国する。
翌1896年新宮町で医院を開業。
3年後、1899年伝染病研究のためシンガポールを経てインドのムンバイ大学に留学。
インドへの留学が彼に大きな影響を与えました。
カースト制の実態を知り、社会主義の思想に目覚める。
帰国した大石は又病院を開業する。
裕福な患者からは医療費を頂き、貧し人からは無償で行う。
「太平洋食堂」(レストラン)も開き、洋食の普及、西洋の合理的な生活の普及にも尽力する。
都々逸(どどいつ)についても宗匠の地位まで上り詰め、都々逸の普及にも尽力する。
社会問題に関するエッセー、論評を発表し、自由、平等、平和を唱え、活発な言論活動を展開して行く。
その中で堺利彦や幸徳秋水と交流し彼等の活動資金の援助をしていた。
明治43年に大逆事件が発覚、共同謀議の罪で大石も処刑されてしまった。
大逆事件とは何だったのか、彼の人生はまだまだわからないことだらけです。
郷土愛が強くて上方志向は感じられないし、いい人だったんだろうなあと思います。
長兄大石余平の長男は西村伊作。
アメリカではアルバイトとしてコックをやっていた関係でレストランも開いた。
母方の西村家は奈良県一帯の山林王だった。
農地解放では山林は除外されていて、後々まで金持だった。
南紀は温暖で解放感を感じる。
和歌山県は高知県と似ている所がある。
当時の文化人に共通するのはキリスト教です、自由、平等に親しむと言う事。
明治32年(1899年)伝染病研究のためシンガポールを経てインドのムンバイ大学に留学、カースト制の実態を知り、社会主義の思想に目覚める。
インドのスタール奏者はバラモンに所属していて一番上の階級、観客に頭を下げると言うことはない。(今は違うが)
和歌山では社会主義として新宮、田辺が拠点となる。
田辺には社会主義を推進する人たちが集まっていたが、その一人が大逆事件に関わってくる菅野スガ、彼女と結婚する荒畑寒村らであった。
大逆事件、当時の皇族に対する謀反とか皇族を否定するようなこと。
大逆事件と認定されているのが4つあるが、その中でも一番規模が大きくて大逆事件と言った時に、幸徳事件(明治43年、45年)、大石誠之助 が命を落とすことになる。
虎ノ門事件、朴烈事件、桜田門事件などがある。
明治天皇を爆弾で吹っ飛ばしてしまえと言うような、思い。
何処まで具体的な計画があったのか、明らかにならない。
綿密な爆殺計画を立てたようにはとても思えない。
官憲が動いて、これを契機として反政府を標榜している奴らをみんな捕まえてしまえということになったらしい。
一番標的にしていたのが幸徳秋水であった。
宮下太吉、新村忠雄等がいるが、そこに菅野スガが関わっていて、その愛人が幸徳秋水であった。
濡れ衣であった可能性は高い。
平成13年高知県中村市の市議会が「彼は無実であった」ということで幸徳秋水を検証する決議を全会一致で議決している。
明治は怖さ、暗さを持っていた時代でもあった。
大杉栄、荒畑寒村、堺利彦等は獄中にいたために助かった。
荒畑寒村が獄中にいるときの菅野スガは幸徳秋水(妻がいた)と愛人関係になり離婚を迫っている。(荒畑寒村は幸徳秋水の文書に心酔していて、それまで幸徳秋水を心の師と思っていた。)
仲間内でも相当評判が悪かった。
明治の時代は女性は社会進出が抑え込まれていたが、進歩的な自由を求める女性にとって一番の武器になるのは恋愛だったと思う。
恋愛は男の人と平等に渡りあえるので、そこは責められないのかなあと思うが。
思想で自由恋愛している人もいるかもしれないが、元々持っている体質の人もいるのかもしれない。
市川房江さんはそういった類は無く立派な人だと思います。
大石誠之助さんにとっては、いい迷惑だった様な気がします。
大石誠之助さんは友達になりたいと言うような人だと思います。
大逆事件~
講談師 神田 蘭
太逆事件で死刑になった大石誠之助。
2018年1月に人権思想や平和思想の基礎を築いた人物として、新宮市の名誉市民に認定している。
講談による紹介。
1867年和歌山県新宮市生まれ、明治44年に1月24日に亡くなっている。
京都の同志社英学校英語普通科中退後、神田共立学校で英語を学び中退。
1891年6月渡米し、ワシントン州ワラワラ市のセントポーロ中学校入学。
1892年オレゴン州立大学医科に入学、1895年卒業。
同年4月から7月までモントリオール大学で外科学を学び、10月に帰国する。
翌1896年新宮町で医院を開業。
3年後、1899年伝染病研究のためシンガポールを経てインドのムンバイ大学に留学。
インドへの留学が彼に大きな影響を与えました。
カースト制の実態を知り、社会主義の思想に目覚める。
帰国した大石は又病院を開業する。
裕福な患者からは医療費を頂き、貧し人からは無償で行う。
「太平洋食堂」(レストラン)も開き、洋食の普及、西洋の合理的な生活の普及にも尽力する。
都々逸(どどいつ)についても宗匠の地位まで上り詰め、都々逸の普及にも尽力する。
社会問題に関するエッセー、論評を発表し、自由、平等、平和を唱え、活発な言論活動を展開して行く。
その中で堺利彦や幸徳秋水と交流し彼等の活動資金の援助をしていた。
明治43年に大逆事件が発覚、共同謀議の罪で大石も処刑されてしまった。
大逆事件とは何だったのか、彼の人生はまだまだわからないことだらけです。
郷土愛が強くて上方志向は感じられないし、いい人だったんだろうなあと思います。
長兄大石余平の長男は西村伊作。
アメリカではアルバイトとしてコックをやっていた関係でレストランも開いた。
母方の西村家は奈良県一帯の山林王だった。
農地解放では山林は除外されていて、後々まで金持だった。
南紀は温暖で解放感を感じる。
和歌山県は高知県と似ている所がある。
当時の文化人に共通するのはキリスト教です、自由、平等に親しむと言う事。
明治32年(1899年)伝染病研究のためシンガポールを経てインドのムンバイ大学に留学、カースト制の実態を知り、社会主義の思想に目覚める。
インドのスタール奏者はバラモンに所属していて一番上の階級、観客に頭を下げると言うことはない。(今は違うが)
和歌山では社会主義として新宮、田辺が拠点となる。
田辺には社会主義を推進する人たちが集まっていたが、その一人が大逆事件に関わってくる菅野スガ、彼女と結婚する荒畑寒村らであった。
大逆事件、当時の皇族に対する謀反とか皇族を否定するようなこと。
大逆事件と認定されているのが4つあるが、その中でも一番規模が大きくて大逆事件と言った時に、幸徳事件(明治43年、45年)、大石誠之助 が命を落とすことになる。
虎ノ門事件、朴烈事件、桜田門事件などがある。
明治天皇を爆弾で吹っ飛ばしてしまえと言うような、思い。
何処まで具体的な計画があったのか、明らかにならない。
綿密な爆殺計画を立てたようにはとても思えない。
官憲が動いて、これを契機として反政府を標榜している奴らをみんな捕まえてしまえということになったらしい。
一番標的にしていたのが幸徳秋水であった。
宮下太吉、新村忠雄等がいるが、そこに菅野スガが関わっていて、その愛人が幸徳秋水であった。
濡れ衣であった可能性は高い。
平成13年高知県中村市の市議会が「彼は無実であった」ということで幸徳秋水を検証する決議を全会一致で議決している。
明治は怖さ、暗さを持っていた時代でもあった。
大杉栄、荒畑寒村、堺利彦等は獄中にいたために助かった。
荒畑寒村が獄中にいるときの菅野スガは幸徳秋水(妻がいた)と愛人関係になり離婚を迫っている。(荒畑寒村は幸徳秋水の文書に心酔していて、それまで幸徳秋水を心の師と思っていた。)
仲間内でも相当評判が悪かった。
明治の時代は女性は社会進出が抑え込まれていたが、進歩的な自由を求める女性にとって一番の武器になるのは恋愛だったと思う。
恋愛は男の人と平等に渡りあえるので、そこは責められないのかなあと思うが。
思想で自由恋愛している人もいるかもしれないが、元々持っている体質の人もいるのかもしれない。
市川房江さんはそういった類は無く立派な人だと思います。
大石誠之助さんにとっては、いい迷惑だった様な気がします。
大石誠之助さんは友達になりたいと言うような人だと思います。
2018年10月7日日曜日
島本須美(声優) ・【時代を創った声】
島本須美(声優) ・【時代を創った声】
映画「風の谷のナウシカ」のナウシカ役、映画「ルパン三世 カリオストロの城」でのゲストヒロインのクラリス役などで知られています。
高校で演劇部に入ったことが演技に興味を持つきっかけだったという島本さん、来年で声優としてデビューして40年になります。
多くのアニメ作品 に出演しながら洋画の吹き替え、舞台などでも活躍しています。
映画「風の谷のナウシカ」1984年の宮崎駿監督の作品、戦争による科学文化が崩壊した後、汚染した大地に住む虫と人間たちと自然との共存について、風の谷という村の姫の役。
初めての主役を頂きました。
アニメーションって、「声出せ声出せ」とよく言われてたが、心の中をつくっていないんだ、薄っぺらな芝居をしているんだ、だから声を出しなさいと言っているんだと言うことが今は判ります。
大先輩たちに囲まれてやっていました。
1979年映画「ルパン三世 カリオストロの城」宮崎駿監督 初めての宮崎駿監督との出合いでした。
『赤毛のアン』の主役のアンのオーディションの最終選考まで残り、結果は山田栄子さんに決まったが、宮崎駿監督の指名で『ルパン三世 カリオストロの城』のオーディションに参加、結果クラリス役に決まりました。
クラリス役は声優デビュー1年目の時で、凄く緊張しました。
いろいろドジを踏んでしまいました。
高知県高知市出身。
おてんばで、気が強い子供でした。
高知商業高校で演劇部に入りました。
役者の道を目指そうと思いました。
桐朋学園大学短期大学は俳優座の受験資格が出来たので、そこに行こうかなと思い、受験して受かりました。
運動神経はよくて、中学は体操選手、高校では体操部が無くて演劇部に入りました。
人の前で演じるということと、それを見た人達の反応が生で感じられて、嬉しい気持ちがありました。
俳優座の受験資格は3年でしたので、専攻科に進みました。
その間、仲間と小さい劇団をつくろうと言うことになりましたが、色々大変なことが判ってきて、迷って、結果私だけ逃げて劇団青年座を受けました。
初井 言榮 (はつい ことえ)さんから私の付き人になって現場に付いてきなさいと言われて、1,2カ月やらせていただきました。
そこでは一杯色んな事を学びました。
青年座には10年いました。
色んな中の仕事の一つとして声優の仕事をやりました。
『ザ☆ウルトラマン』ではヒロインの星川ムツミを演じて初レギュラーになりました。
同じ年に劇場用アニメ『ルパン三世 カリオストロの城』でゲストヒロインのクラリスを演じることになりました。(青年座で2、3年目の頃)
声優は声だけで表現しているから、一言に心を込めている。
映像の世界で頑張っている人が声の世界に来た時に、自分の姿が見えているうえでの声の出し方をしているので、アニメーションが余り描かれていない場合は声が薄くなってしまうことがある。
私達は補いながら心をこめて言っているので、そこに大きな違いを感じたりしています。
私は声帯が弱くて声が全く出なくなってしまった時も有ります。
声が出るまで1カ月ぐらいかかりました。(2回程ある。)
風邪をひかないように注意するように心がけています。(食べ物、予防措置)
自然の大切さ、人への思いやり、優しさ、色んなものを教える事が出来るということはいいなと思います。
そういったことが声優の一つの仕事なのかなと思います。
若い人たちはアイドル声優に憧れている。
アイドル声優は歌が歌えて、ダンスが出来て、イベントに参加してと言うふうに昔のTVのアイドルと同じようなことを声優に求めているところがある。
アイドルの期間は短い。
本当の自分の声で勝負できるところを見つけておかないと、ある時期で終わってしまいますよと言っています。
オリジナリティーが無いと残るのは難しいと思う、個性を大事にして欲しいと思います。
辛いと思いながら長い人生を過ごすよりも、毎日楽しいことを一杯考えて生活してほしいと思います。
映画「風の谷のナウシカ」のナウシカ役、映画「ルパン三世 カリオストロの城」でのゲストヒロインのクラリス役などで知られています。
高校で演劇部に入ったことが演技に興味を持つきっかけだったという島本さん、来年で声優としてデビューして40年になります。
多くのアニメ作品 に出演しながら洋画の吹き替え、舞台などでも活躍しています。
映画「風の谷のナウシカ」1984年の宮崎駿監督の作品、戦争による科学文化が崩壊した後、汚染した大地に住む虫と人間たちと自然との共存について、風の谷という村の姫の役。
初めての主役を頂きました。
アニメーションって、「声出せ声出せ」とよく言われてたが、心の中をつくっていないんだ、薄っぺらな芝居をしているんだ、だから声を出しなさいと言っているんだと言うことが今は判ります。
大先輩たちに囲まれてやっていました。
1979年映画「ルパン三世 カリオストロの城」宮崎駿監督 初めての宮崎駿監督との出合いでした。
『赤毛のアン』の主役のアンのオーディションの最終選考まで残り、結果は山田栄子さんに決まったが、宮崎駿監督の指名で『ルパン三世 カリオストロの城』のオーディションに参加、結果クラリス役に決まりました。
クラリス役は声優デビュー1年目の時で、凄く緊張しました。
いろいろドジを踏んでしまいました。
高知県高知市出身。
おてんばで、気が強い子供でした。
高知商業高校で演劇部に入りました。
役者の道を目指そうと思いました。
桐朋学園大学短期大学は俳優座の受験資格が出来たので、そこに行こうかなと思い、受験して受かりました。
運動神経はよくて、中学は体操選手、高校では体操部が無くて演劇部に入りました。
人の前で演じるということと、それを見た人達の反応が生で感じられて、嬉しい気持ちがありました。
俳優座の受験資格は3年でしたので、専攻科に進みました。
その間、仲間と小さい劇団をつくろうと言うことになりましたが、色々大変なことが判ってきて、迷って、結果私だけ逃げて劇団青年座を受けました。
初井 言榮 (はつい ことえ)さんから私の付き人になって現場に付いてきなさいと言われて、1,2カ月やらせていただきました。
そこでは一杯色んな事を学びました。
青年座には10年いました。
色んな中の仕事の一つとして声優の仕事をやりました。
『ザ☆ウルトラマン』ではヒロインの星川ムツミを演じて初レギュラーになりました。
同じ年に劇場用アニメ『ルパン三世 カリオストロの城』でゲストヒロインのクラリスを演じることになりました。(青年座で2、3年目の頃)
声優は声だけで表現しているから、一言に心を込めている。
映像の世界で頑張っている人が声の世界に来た時に、自分の姿が見えているうえでの声の出し方をしているので、アニメーションが余り描かれていない場合は声が薄くなってしまうことがある。
私達は補いながら心をこめて言っているので、そこに大きな違いを感じたりしています。
私は声帯が弱くて声が全く出なくなってしまった時も有ります。
声が出るまで1カ月ぐらいかかりました。(2回程ある。)
風邪をひかないように注意するように心がけています。(食べ物、予防措置)
自然の大切さ、人への思いやり、優しさ、色んなものを教える事が出来るということはいいなと思います。
そういったことが声優の一つの仕事なのかなと思います。
若い人たちはアイドル声優に憧れている。
アイドル声優は歌が歌えて、ダンスが出来て、イベントに参加してと言うふうに昔のTVのアイドルと同じようなことを声優に求めているところがある。
アイドルの期間は短い。
本当の自分の声で勝負できるところを見つけておかないと、ある時期で終わってしまいますよと言っています。
オリジナリティーが無いと残るのは難しいと思う、個性を大事にして欲しいと思います。
辛いと思いながら長い人生を過ごすよりも、毎日楽しいことを一杯考えて生活してほしいと思います。
2018年10月6日土曜日
原田禎夫(大阪商業大学准教授) ・川ごみが海をよごす
原田禎夫(大阪商業大学准教授) ・川ごみが海をよごす
京都府亀岡市から京都市の嵐山まで、船で下る保津川下りは保津峡の美しい景観が魅力的で多くの観光客が訪れています。
しかし岸辺を歩くとごみが目立つということです。
近年増えているのが、ペットボトルやプラスチックごみで、川の流れに乗って大阪湾、瀬戸内海に流れ込んでいます。
亀岡市在住で大阪商業大学准教授の原田さんは2007年にNPO法人「プロジェクト保津川」をつくり、代表理事として川の清掃や一般への啓蒙活動をしています。
今、世界的な問題になっているという川ゴミ、特にプラスチックによる海洋汚染と、「プロジェクト保津川」について伺います。
トロッコ列車には年間100万人以上が乗り、保津川下りも20~30万人が来ています。
京野菜を求めにきて大人気ですが、そのほとんどが亀岡市と南丹市で作られています。
京都駅から亀岡駅まで20分位です。
2007年にNPO法人「プロジェクト保津川」をつくり、川の清掃や一般への啓蒙活動をしています。
大学院生のころから水の研究をしていました。
水道料金はどうやって決まるだろうと研究しているうちに、水はコストのお金しか考慮していなかった。
或る日保津川下りの船頭さんたちが来て、「保津川のゴミがひどいのでどうしたらいいでしょうか」と相談に来られました。
写真を見てびっくりしました。
地域の皆さん、船頭さん達とNPOを作って、清掃活動を行ったり、川のごみの問題をどうしたらいいのかを、考えるようになりました。
会員は100人弱います。
清掃活動を毎月やっていて、今年の2月で100回を迎えました。
到るところにペットボトル、レジ袋、食品の発砲スチロールのトレーなど様々なゴミが大量に流れついています。
ポイ捨てもあるが、フェルトペン、筋肉痛の薬、納豆の容器などもある。
ゴミ捨て場の管理が悪いのかどうか判らない。
ゴミの原因、生活の中にプラスチック製品が多過ぎて、雨が降った時などにどっと川に流れ込む。
「貴方の家の前がごみの出発点ですよ」と言っています。(カラスが突っついて中身が出てしまいそれが雨で流れだす。)
見付けたら一個でもいいから拾う人になって欲しいと言っています。
多い時は何トンという量が集まります。(保津川河原だけで)
保津川から淀川に入って行き大阪湾に、瀬戸内海、太平洋に出て行く訳です。
マイクロプラスチック、全長が5mm以下の物をそう呼んでいる。
顕微鏡レベルまで小さくなってゆくものがあります。
ペットボトルの蓋の細い部分、価格票の留める細いT状の物、人工芝の破片とか、足ふきマットの破片など、水路を伝わってやがて海へと行きます。
悪意が無いけれども、結果としてプラスチックゴミの原因をになってしまっている。
そういったことはなかなか気付かない。
紫外線を受けてプラスチックは劣化し、波の力で岩に砕けられどんどん細かくなってゆく。
プラスチックそのものが、製造過程で様々な添加物が含まれている。
添加物が及ぼす影響については未知の部分もあり、大量に摂取すると人体に影響を及ぼすものがある。
知らず知らずに食物連鎖の中で、我々は摂り込んでしまうという危険性がある。
小さなプラスチックをプランクトンが食べると言うことは研究で明らかになっている。
食物連鎖のなかで濃縮されてゆくので、プラスチックの持っている毒性も濃縮されて行く。
元は石油なので非常に色んな有害物質を吸着し易いという性質がある。
台風などでまぜっかえされると、かつて高度成長時代に使われた有害物質が巻き上がってしまう。
そこに含まれていた有害物質が再びプラスチックに吸着されてしまう。
プラスチックごみが過去の有害物質の運び屋になってしまう、その影響も深刻です。
どの程度摂取したらどんな影響が出るのかまだ判らない、リスクが判らないということが一番の問題だと思います。
海水に流出したプラスチックは海水と反応する中で、鳥たちが好きな餌と同じようなにおいを発生しているので、最近の研究では鳥たちは好んでプラスチックを食べているのではないかと言われています。
防ごうと思えが防げるものなので、放っておくと数十年後は10倍になってしまうかもしれない。
瀬戸内海は沿岸からの流入が70%程度は我々の街から出ていると思う。
そのうちの60%位は淀川から瀬戸内海に流れ込んでいると思われる。
清掃活動して一旦は綺麗になるが、大雨、台風が来ると元の木阿弥になってしまう。
でも食いとめないと、まずは続けて行くことが大事です。
「水に流す」などという言葉があるが、昔はプラスチックは無くごみを捨てる影響度は少なかったかもしれないし、川が生活と密着していたが、最近は川とともに生活するということは無くなってしまって、川の水を飲むなどということはもってのほか、ということになってしまった。
ゴミ拾いするだけではなくて、川を暮らしに近づけたいなあと思って、色々啓蒙活動を行っています
何処にどんなゴミがあるのか、スマホで調べるようなアプリも開発したりしています。
写真を投稿してもらって考えていただき、清掃活動が盛んになった地域もあります。
2012年に内陸部で海ごみサミットを行いました。
3回目の川ゴミサミットも開催します。
海洋ゴミが深刻な問題として、地球温暖化などと並ぶ主要議題になっています。
世界では色々取り組みが進んでいて、レジ袋禁止という国も有ります。
ペットボトルを店に返すとお金が返ってくる、デポジット制度が導入している国が出てきています。(ヨーロッパ、アメリカなど)
瓶、缶、ペットボトルなど機械が勝手に分別してくれて、お金がもらえるような機械が出てきています。
機械は店のコンテナに自動的に分別されて、処理工場に行きます。
処理工場では何処の店からどんな製品が回収されたのか、一瞬で機械で仕分けて表示されます。
アメリカでは米を計り売りをしていたりします、紙の袋を使っています。
先ずは問題を知っていただいて、海岸、川がどうなっているかを周りに広げて頂いて取り組んでいただき、行政の人には仕組み作りをして頂きたいと思っています。
衣類の化学繊維の埃も(洗濯で出て来る)マイクロプラスチックです。
我々は意識を変えて行かないといけないと思います。
京都府亀岡市から京都市の嵐山まで、船で下る保津川下りは保津峡の美しい景観が魅力的で多くの観光客が訪れています。
しかし岸辺を歩くとごみが目立つということです。
近年増えているのが、ペットボトルやプラスチックごみで、川の流れに乗って大阪湾、瀬戸内海に流れ込んでいます。
亀岡市在住で大阪商業大学准教授の原田さんは2007年にNPO法人「プロジェクト保津川」をつくり、代表理事として川の清掃や一般への啓蒙活動をしています。
今、世界的な問題になっているという川ゴミ、特にプラスチックによる海洋汚染と、「プロジェクト保津川」について伺います。
トロッコ列車には年間100万人以上が乗り、保津川下りも20~30万人が来ています。
京野菜を求めにきて大人気ですが、そのほとんどが亀岡市と南丹市で作られています。
京都駅から亀岡駅まで20分位です。
2007年にNPO法人「プロジェクト保津川」をつくり、川の清掃や一般への啓蒙活動をしています。
大学院生のころから水の研究をしていました。
水道料金はどうやって決まるだろうと研究しているうちに、水はコストのお金しか考慮していなかった。
或る日保津川下りの船頭さんたちが来て、「保津川のゴミがひどいのでどうしたらいいでしょうか」と相談に来られました。
写真を見てびっくりしました。
地域の皆さん、船頭さん達とNPOを作って、清掃活動を行ったり、川のごみの問題をどうしたらいいのかを、考えるようになりました。
会員は100人弱います。
清掃活動を毎月やっていて、今年の2月で100回を迎えました。
到るところにペットボトル、レジ袋、食品の発砲スチロールのトレーなど様々なゴミが大量に流れついています。
ポイ捨てもあるが、フェルトペン、筋肉痛の薬、納豆の容器などもある。
ゴミ捨て場の管理が悪いのかどうか判らない。
ゴミの原因、生活の中にプラスチック製品が多過ぎて、雨が降った時などにどっと川に流れ込む。
「貴方の家の前がごみの出発点ですよ」と言っています。(カラスが突っついて中身が出てしまいそれが雨で流れだす。)
見付けたら一個でもいいから拾う人になって欲しいと言っています。
多い時は何トンという量が集まります。(保津川河原だけで)
保津川から淀川に入って行き大阪湾に、瀬戸内海、太平洋に出て行く訳です。
マイクロプラスチック、全長が5mm以下の物をそう呼んでいる。
顕微鏡レベルまで小さくなってゆくものがあります。
ペットボトルの蓋の細い部分、価格票の留める細いT状の物、人工芝の破片とか、足ふきマットの破片など、水路を伝わってやがて海へと行きます。
悪意が無いけれども、結果としてプラスチックゴミの原因をになってしまっている。
そういったことはなかなか気付かない。
紫外線を受けてプラスチックは劣化し、波の力で岩に砕けられどんどん細かくなってゆく。
プラスチックそのものが、製造過程で様々な添加物が含まれている。
添加物が及ぼす影響については未知の部分もあり、大量に摂取すると人体に影響を及ぼすものがある。
知らず知らずに食物連鎖の中で、我々は摂り込んでしまうという危険性がある。
小さなプラスチックをプランクトンが食べると言うことは研究で明らかになっている。
食物連鎖のなかで濃縮されてゆくので、プラスチックの持っている毒性も濃縮されて行く。
元は石油なので非常に色んな有害物質を吸着し易いという性質がある。
台風などでまぜっかえされると、かつて高度成長時代に使われた有害物質が巻き上がってしまう。
そこに含まれていた有害物質が再びプラスチックに吸着されてしまう。
プラスチックごみが過去の有害物質の運び屋になってしまう、その影響も深刻です。
どの程度摂取したらどんな影響が出るのかまだ判らない、リスクが判らないということが一番の問題だと思います。
海水に流出したプラスチックは海水と反応する中で、鳥たちが好きな餌と同じようなにおいを発生しているので、最近の研究では鳥たちは好んでプラスチックを食べているのではないかと言われています。
防ごうと思えが防げるものなので、放っておくと数十年後は10倍になってしまうかもしれない。
瀬戸内海は沿岸からの流入が70%程度は我々の街から出ていると思う。
そのうちの60%位は淀川から瀬戸内海に流れ込んでいると思われる。
清掃活動して一旦は綺麗になるが、大雨、台風が来ると元の木阿弥になってしまう。
でも食いとめないと、まずは続けて行くことが大事です。
「水に流す」などという言葉があるが、昔はプラスチックは無くごみを捨てる影響度は少なかったかもしれないし、川が生活と密着していたが、最近は川とともに生活するということは無くなってしまって、川の水を飲むなどということはもってのほか、ということになってしまった。
ゴミ拾いするだけではなくて、川を暮らしに近づけたいなあと思って、色々啓蒙活動を行っています
何処にどんなゴミがあるのか、スマホで調べるようなアプリも開発したりしています。
写真を投稿してもらって考えていただき、清掃活動が盛んになった地域もあります。
2012年に内陸部で海ごみサミットを行いました。
3回目の川ゴミサミットも開催します。
海洋ゴミが深刻な問題として、地球温暖化などと並ぶ主要議題になっています。
世界では色々取り組みが進んでいて、レジ袋禁止という国も有ります。
ペットボトルを店に返すとお金が返ってくる、デポジット制度が導入している国が出てきています。(ヨーロッパ、アメリカなど)
瓶、缶、ペットボトルなど機械が勝手に分別してくれて、お金がもらえるような機械が出てきています。
機械は店のコンテナに自動的に分別されて、処理工場に行きます。
処理工場では何処の店からどんな製品が回収されたのか、一瞬で機械で仕分けて表示されます。
アメリカでは米を計り売りをしていたりします、紙の袋を使っています。
先ずは問題を知っていただいて、海岸、川がどうなっているかを周りに広げて頂いて取り組んでいただき、行政の人には仕組み作りをして頂きたいと思っています。
衣類の化学繊維の埃も(洗濯で出て来る)マイクロプラスチックです。
我々は意識を変えて行かないといけないと思います。
2018年10月5日金曜日
島袋清徳(伊江島元村長) ・基地とひきかえの村おこし
島袋清徳(伊江島元村長) ・基地とひきかえの村おこし
先日の沖縄県知事選挙でも争点の一つになったのが、アメリカ軍基地の問題。
沖縄で基地闘争の原点の島と呼ばれるのが伊江島です。
戦後伊江島ではアメリカ軍による土地の強制接収に対し、住民による激しい反対運動が行われました。
しかし、平成元年に村長に就任した島袋さんは島の振興策などと引き換えに、新たな戦闘機の訓練所の受け入れを決断します。
現在80歳、戦争体験もある島袋さんは、何故その時基地を受け入れたのか、今も基地問題に揺れ続ける沖縄でその決断をどう振り返るのか、伺いました。
伊江島は沖縄本島の北部の沖合にあり、周囲20km余り、人口4500人ほどで、面積の1/3が軍用地になっている。
戦争中に日本の基地になり、戦後米軍基地になり振り回されてきました。
よく忍耐強く来たなという思いはあります。
国民学校に入学して、机に座ったという記憶はないです。
竹槍を突く訓練をやるとかといった記憶しか無いです。
第二次世界大戦が勃発してから、沖縄防衛の砦として小さな伊江島に2つの飛行場を建設して、それが有ったため、米軍の攻撃ターゲットになってしまいました。
空襲があり強制疎開となり、夜中に島の東の海岸から沖縄本島の浜元というところに行きました。
1945年4月16日に伊江島にアメリカ人が上陸、3000人が残っていたが、6日間の戦争で半分の1500人が亡くなる。
残りの1500人は島外の収容所に移される。
見つかって私も収容所に移される。
大きな火災があり私の家も焼かれてしまいました。
当時のことは言い尽くしがたいです。
終戦後2年が経ってようやく伊江島に帰ることが許される。
目にしたのは故郷ではなくて、廃墟と化した島で、米軍の大きな基地と錯覚するほど、米軍車両が往来していました。
小学校で集団生活が4,5カ月続いて、その後自分の土地に掘立小屋を建てたり畑を開墾したりしました。
そんな時、港のLCT事故に直面しました。
LCT=輸送船 1948年にアメリカ軍の弾薬輸送船が伊江島の港で爆発する。
民家の台所で水を飲もうとした時に、耳を引き裂かれるような爆音があり、真っ黒くなり視界がなくなりました。
20秒位は真っ暗闇で、あまり意識も無いまま死体を飛び越えたりして家に帰りました。
家に帰ったら母がいましたが、父はいませんでした。
探しに行ったが白い海岸が真っ黒になっていました。
顔は判別できなくて右手のひじから先が無い死体があり、父だと思いました。
(以前に父は右腕を無くしていたから。)
ただぼんやりと立ちすくんでいるだけでした。
後ろから「生きていたか」と声を掛けられて、振り向いたら父でした。
この事故で100人以上が亡くなり、70名位が負傷しました。
他の地域に比べて戦後は遅かった。
1950年代に入ってアメリカ軍が伊江島の土地の強制接収を行う。
農家の多くが軍用地になり、一時期島の面積の68%が軍用地になる。
通信施設を強化するために一つの集落をつぶすことになる。(「強制立ち退き)
伊江島の土地を守る会があり、メンバーがハンガーストライキを断行した。
当時私は役場に勤めていて、財政課長をやっていました。
農業所得が厳しかった。
各家庭は遺族で遺族年金が29億円あり、強制接収した土地に対して5億円支払われていて、伊江島は豊かであるというふうに誤解されていた、生活には不自由はしなかった。
その後助役を経て1989年に村長に就任する。
基地が本当に無くなって、平和な古き良き時代の心豊かな地域作りをしたいなあという思いがありました。
村長就任後翌月に、ハリヤーと呼ばれる戦闘機の訓練場を建設する問題が持ち上がる。
国頭村(くにがみそん)に最初予定されていたが、地元の猛烈な反対があり向こうでは出来なくなった。
騒音があり危険な飛行機だと言うことだった。
那覇局の幹部が来て、日米安保に関わることで重要な基地だと言うことで、是非なんとかして欲しいということだった。
島の現状をかんがえて、現実を考えると、遺族年金、土地使用料も段々少なくなってきていて、生きるための施設が絶対必要だと、病院が無い、島に勤められない、水に悩まされれてきた(豊作、凶作)、そう言ったこと、将来の事などもを考えていました。
議長と二人で会って、指定している場所では危険性があり、騒音などでとても無理だと言う事で絶対反対だと話しました。
翌日、二人司令官が来て言うとおりに場所を移すということで、政府との条件闘争に入ったわけです。
島の将来の事を考えて、訓練場の場所を集落から離れた所に移す、島の振興策を条件に容認しました。
はっきり言って、個人的には反対ですよ。
自分の中で振り回されてきた現実、葛藤しながら何とも言えない心境でした。
綺麗事では絶対この島は救えない、という思いが有ってそういう決断に至りました。
「あんたは助役から村長になって、助役の時は優秀だったが、村長になってぼろがでてもうやめた方がいい」と言われたり、「ロッキード事件よりももっと賄賂を貰ったという噂があるが、今日、表明しなさい」と言われたりしました。
決断が良かったか悪かったかどうか、30年間の過程と、現在を直視して判断を村民にゆだねると、そういうふうに思っています。
伊江島の農業が盛んになり、観光客も増えたが、島の1/3は基地になっており、トラブルも起きているが、基地が有る所以であるが、村民を守る立場からすると、私は決断せざるをえなかったし、他の人でもそう決断せざるを得なかったのではないかと思う。
村長を退任して10年以上になる。
充実した人生とは思わないが、耐えてよくやってきたなとは思います。
戦争とはどんな事があってもやってはいけない事だが、戦争に加担しているのではないかと言われたり、予算を多く貰うためにと、ただこの一言の言葉でかたずけられてしまう。
それが残念でたまらない。
基地を容認し、基地関連の予算で色んな島の繁栄をもたらしてきているが、村民は満足はしていない。
真の願いは心豊かな平和な村を望んでる。
島をよりよくするための手段であるということで、県全体もそうなっていければなあと思います。
先日の沖縄県知事選挙でも争点の一つになったのが、アメリカ軍基地の問題。
沖縄で基地闘争の原点の島と呼ばれるのが伊江島です。
戦後伊江島ではアメリカ軍による土地の強制接収に対し、住民による激しい反対運動が行われました。
しかし、平成元年に村長に就任した島袋さんは島の振興策などと引き換えに、新たな戦闘機の訓練所の受け入れを決断します。
現在80歳、戦争体験もある島袋さんは、何故その時基地を受け入れたのか、今も基地問題に揺れ続ける沖縄でその決断をどう振り返るのか、伺いました。
伊江島は沖縄本島の北部の沖合にあり、周囲20km余り、人口4500人ほどで、面積の1/3が軍用地になっている。
戦争中に日本の基地になり、戦後米軍基地になり振り回されてきました。
よく忍耐強く来たなという思いはあります。
国民学校に入学して、机に座ったという記憶はないです。
竹槍を突く訓練をやるとかといった記憶しか無いです。
第二次世界大戦が勃発してから、沖縄防衛の砦として小さな伊江島に2つの飛行場を建設して、それが有ったため、米軍の攻撃ターゲットになってしまいました。
空襲があり強制疎開となり、夜中に島の東の海岸から沖縄本島の浜元というところに行きました。
1945年4月16日に伊江島にアメリカ人が上陸、3000人が残っていたが、6日間の戦争で半分の1500人が亡くなる。
残りの1500人は島外の収容所に移される。
見つかって私も収容所に移される。
大きな火災があり私の家も焼かれてしまいました。
当時のことは言い尽くしがたいです。
終戦後2年が経ってようやく伊江島に帰ることが許される。
目にしたのは故郷ではなくて、廃墟と化した島で、米軍の大きな基地と錯覚するほど、米軍車両が往来していました。
小学校で集団生活が4,5カ月続いて、その後自分の土地に掘立小屋を建てたり畑を開墾したりしました。
そんな時、港のLCT事故に直面しました。
LCT=輸送船 1948年にアメリカ軍の弾薬輸送船が伊江島の港で爆発する。
民家の台所で水を飲もうとした時に、耳を引き裂かれるような爆音があり、真っ黒くなり視界がなくなりました。
20秒位は真っ暗闇で、あまり意識も無いまま死体を飛び越えたりして家に帰りました。
家に帰ったら母がいましたが、父はいませんでした。
探しに行ったが白い海岸が真っ黒になっていました。
顔は判別できなくて右手のひじから先が無い死体があり、父だと思いました。
(以前に父は右腕を無くしていたから。)
ただぼんやりと立ちすくんでいるだけでした。
後ろから「生きていたか」と声を掛けられて、振り向いたら父でした。
この事故で100人以上が亡くなり、70名位が負傷しました。
他の地域に比べて戦後は遅かった。
1950年代に入ってアメリカ軍が伊江島の土地の強制接収を行う。
農家の多くが軍用地になり、一時期島の面積の68%が軍用地になる。
通信施設を強化するために一つの集落をつぶすことになる。(「強制立ち退き)
伊江島の土地を守る会があり、メンバーがハンガーストライキを断行した。
当時私は役場に勤めていて、財政課長をやっていました。
農業所得が厳しかった。
各家庭は遺族で遺族年金が29億円あり、強制接収した土地に対して5億円支払われていて、伊江島は豊かであるというふうに誤解されていた、生活には不自由はしなかった。
その後助役を経て1989年に村長に就任する。
基地が本当に無くなって、平和な古き良き時代の心豊かな地域作りをしたいなあという思いがありました。
村長就任後翌月に、ハリヤーと呼ばれる戦闘機の訓練場を建設する問題が持ち上がる。
国頭村(くにがみそん)に最初予定されていたが、地元の猛烈な反対があり向こうでは出来なくなった。
騒音があり危険な飛行機だと言うことだった。
那覇局の幹部が来て、日米安保に関わることで重要な基地だと言うことで、是非なんとかして欲しいということだった。
島の現状をかんがえて、現実を考えると、遺族年金、土地使用料も段々少なくなってきていて、生きるための施設が絶対必要だと、病院が無い、島に勤められない、水に悩まされれてきた(豊作、凶作)、そう言ったこと、将来の事などもを考えていました。
議長と二人で会って、指定している場所では危険性があり、騒音などでとても無理だと言う事で絶対反対だと話しました。
翌日、二人司令官が来て言うとおりに場所を移すということで、政府との条件闘争に入ったわけです。
島の将来の事を考えて、訓練場の場所を集落から離れた所に移す、島の振興策を条件に容認しました。
はっきり言って、個人的には反対ですよ。
自分の中で振り回されてきた現実、葛藤しながら何とも言えない心境でした。
綺麗事では絶対この島は救えない、という思いが有ってそういう決断に至りました。
「あんたは助役から村長になって、助役の時は優秀だったが、村長になってぼろがでてもうやめた方がいい」と言われたり、「ロッキード事件よりももっと賄賂を貰ったという噂があるが、今日、表明しなさい」と言われたりしました。
決断が良かったか悪かったかどうか、30年間の過程と、現在を直視して判断を村民にゆだねると、そういうふうに思っています。
伊江島の農業が盛んになり、観光客も増えたが、島の1/3は基地になっており、トラブルも起きているが、基地が有る所以であるが、村民を守る立場からすると、私は決断せざるをえなかったし、他の人でもそう決断せざるを得なかったのではないかと思う。
村長を退任して10年以上になる。
充実した人生とは思わないが、耐えてよくやってきたなとは思います。
戦争とはどんな事があってもやってはいけない事だが、戦争に加担しているのではないかと言われたり、予算を多く貰うためにと、ただこの一言の言葉でかたずけられてしまう。
それが残念でたまらない。
基地を容認し、基地関連の予算で色んな島の繁栄をもたらしてきているが、村民は満足はしていない。
真の願いは心豊かな平和な村を望んでる。
島をよりよくするための手段であるということで、県全体もそうなっていければなあと思います。
2018年10月4日木曜日
保坂衣子(日中戦争兵士の娘) ・父が残した424通の真実
保坂衣子(日中戦争兵士の娘) ・父が残した424通の真実
今年77歳、10年前実家の蔵を整理している時に、偶然沢山の手紙の束を見付けます。
日中戦争の時、出兵した父が家族にあてた手紙でした。
保坂さんの父五味民啓(たみよし)さんは陸軍兵として召集され、昭和12年から3年間中国上海を中心に戦いました。
戦地からの手紙は実に424通、そこには戦場の凄惨な実態が克明に記されていました。
保坂さんは父の手紙を保存するだけでなく、県内各地に展示したり、手紙について講演を行ったりして、そこに記された戦争体験を父に替わって、次の世代に語り継ごうと活動しています。
手紙の紙の色は茶色になっていて、かなり年季を感じます。
4~5kg位はあります。
2008年9月(父が亡くなったのは9月ですが)、蔵を開けた時に見つけました。
戦地に行ったのは昭和12年、23歳でその後3年間に書いたものです。
出兵したその日から書かれています。
戦地から母、父の弟、祖母に宛てた手紙でしたが、戦争の生々しいことが書かれていまして本当にショックでした。
手紙の一部
「5日間、敵弾激しき為、後方から食料は来ず、弾は尽きる。
雨は降り続ける、惨憺たる地獄以上の生活が始まった。
空腹に耐えかねて食料を取りに行く戦友が一人二人とはじからやられた。
攻撃前進命令が来たり、どうする事も出来ず、壕を掘り掘り前進した。
空腹を隠して 一尺、二尺と掘って、一日に僅か15mしか前進しない日もあった。
倒れる戦友をかばう間もなく、自分もやれれるような悲壮な場面を展開してかろうじて第一番に突入を敢行した。・・・」
この後の文章も戦死した部隊の名前が次々と書かれていて、過酷な戦場の様子が描写されている。
私にとっては映画の世界の様でよく判りませんが、凄まじい中で生きていたんだなあと思いました。
上海の当時の治安、軍の規律の乱れなど、あまり知られていない戦場の実態も言及されている。
その一部
「暗殺団がいて危険、上海の夜を満喫していると、突然拳銃の響きと人の悲鳴が起こり、全く物凄い騒ぎです。
撃たれたのは日本人で世界の魔窟と言われる上海であれば、こんなテロ行為もスリルも何も恐ろしいことは無く、むしろ当然のことなのです。
戦場に来た兵隊の中でも殺人、強盗、傷害とよくもこんなに事件があると思うほど毎日逮捕されます。」
当時の報道も批判している。
敵は刃向かう勇気もなし、なりを潜めてただ蹂躙に任すのみと、華々しく報道は伝えているが、手紙では、
「大抵は新聞記者の付いて来る戦場は勝ち目のある場所です。
苦戦の場合の決死隊など数限り無くあります。
新聞で伝えるのはほんの一部分であると思えば間違いありません。」
離れているところから記事を書いて、勝った勝ったと送っているけれどもそれは嘘であるというふうに書いたところもあります。
最初は墨で消されたものがあったが、途中から自分の思いを沢山書かれていました。
最初は皆さんと同じように戦っていたようですが、途中から憲兵になってスパイの規律維持などをやっていたようですが、主にやっていたのは事務処理係をやっていたようでした。
手紙の検閲なども担当したので、こんなことを書いて大丈夫なのかなと思っている文章も幾つもあります。
でも相当リスクはあったと思います。
自分も生きて帰れないという思いもあったのではないかと思います。
兵士として相手を殺したこともある、その部分。
「毎日2,3人で付近の偵察を行い、怪しいものは銃殺や刺殺に処しています。
さんざん人殺しをした後なので、少し人間も変わっているし、顔つきは凄いでしょう、お笑いください。」
職務だったとしてもそう言うことがあったということは恐ろしい、戦争というものは本当に恐ろしい。
とても受け入れられなかった、父はとっても穏やかで怒鳴り声など一度も聞いたことも無く、父と戦争ということ自体が全く結びつかなくて、いまだ納得できていないところもあります。
私はこの手紙が出て来るまで、父が戦争に行ったということは知りませんでした。
私は父が戦争から帰ってから翌年に生まれました。(昭和16年5月)
父は戦争の話は一切しませんでした。
どんなに純朴な青年でもそういう世界に投げ出されると、自分が生きるか死ぬかで、そういう中で戦うしか無かったんでしょうね。
私は受け入れられない思いだったが、父はもっと忘れたかっただろうと思いました。
父は左大腿部貫通という大けがをして、戦争から帰って来て、途中から役場に勤めるようになりました。
父は文字を綺麗に書くと言うことで戸籍係になりました。
傷痕はあまり見せないようにしていました。(傷が有ったことは覚えているが)
15年に帰ってきて、16年に又太平洋戦争がはじまり、戸籍係として村の青年に赤紙を発行しなければいけなくて、戦争は厭だと心の中で思っているのに、自分の知り合いなどに対して戦争に駆り出さなければいけない立場ということが、凄く腹の中が煮えくりかえるように辛い立場だったと思います。
父は気が狂ったように泣いたという祖母の言葉が、この手紙を読んで理解できました。
父の弟、おじさんが突然現れた時に、異様な情景が目に焼き付いています。
叔父は東京で働いていましたが、東京に召集令状が来て、ルソン島に出兵していきましたがなんとか無事に帰ってきました。
帰って来たその日から田んぼの中をはいずりまわって、蛇、鼠、とかげ、みみず、虫とかを取ってきて、食事時になると手につかんで家の中に入ってきた姿は、私にとってとっても怖いおじさんというイメージがありました。
祖母が「戦争は終わったんだから、みんなと同じご飯を食べていいんだよ、ご飯をお食べ」とすすめるが、「仲間のみんなに申し訳なくて、飯なんか食えるか」と言って泣きながら畑の方に走ってゆく姿を何回か見ました。(私が5,6歳の頃)
物凄い飢餓状態で戦っていたんだと思いました。
生きて帰ってきても辛い思い出は付いて回ったと思います。
父は66歳でがんで亡くなりましたが、時々大きな声で叫んだという事を聞いたりしました。
戦争の事が脳裏から消えなかったんだと思います。
戦争は恐ろしい、絶対に有ってはいけないことだと思います。
戦争が有ったという事、歴史の真実を若い人達にも知っていただいて、そういうことが有った中で自分たちの命があると言うことに感謝しながら、生きて行かなければいけないん
じゃないかなと思います。
生きて帰ることの願いも書かれている。
「長い戦いの間に思うのは、功績とか戦功とかに捉われることは小さな問題です。
現在は命があると言うことが、一番の手柄であり有難いことです。」
昭和22年に選挙が有って、その時に若い人たちが担ぎ出されて村長になったりしたが、真っ先にしたのが、戦争の被災者の為の住宅の確保して生活ができるようにしたのが、一番先にした仕事だったような気がします。
生きるためにみんな一生懸命働いて、今の時代を作り上げてきた、というようなことを書いていますが、父は自分が人間らしく生きられるように、周りの人がそうなれるようにということはメッセージとして残しているような気がします。
自分が手紙を見付けて3カ月後に悪性リンパ腫と告げられて、12月になってはっきり悪性リンパ腫と言われ手術をして、抗がん剤と放射線を浴びて治療が始まったが、毎日死と向き合って、あとどうしたらいいかをずーっと思っていました。
命がけで書いてくれた父の手紙の内容を伝えて行くことが、私の生かされている意味かもしれないと受け取るようになりました。
先生のおっしゃるよりも遥かに長生きしています。(10年生きています。)
自分が生きていること自体奇跡の様に思って、自分の命のある限りはこれを伝えて行くことが、私が生かされている意味の様な気がします。
こういったことが有ったんだと言うことが、生かされている使命の様な気がして講演会などでお話をさせていただいています。
私の処に通って、女子大生が卒論に纏めて下さった人もいます。
同じ過ちを起こさないように、父の想いを伝えて行きたいと思ってお話をしています。
今年77歳、10年前実家の蔵を整理している時に、偶然沢山の手紙の束を見付けます。
日中戦争の時、出兵した父が家族にあてた手紙でした。
保坂さんの父五味民啓(たみよし)さんは陸軍兵として召集され、昭和12年から3年間中国上海を中心に戦いました。
戦地からの手紙は実に424通、そこには戦場の凄惨な実態が克明に記されていました。
保坂さんは父の手紙を保存するだけでなく、県内各地に展示したり、手紙について講演を行ったりして、そこに記された戦争体験を父に替わって、次の世代に語り継ごうと活動しています。
手紙の紙の色は茶色になっていて、かなり年季を感じます。
4~5kg位はあります。
2008年9月(父が亡くなったのは9月ですが)、蔵を開けた時に見つけました。
戦地に行ったのは昭和12年、23歳でその後3年間に書いたものです。
出兵したその日から書かれています。
戦地から母、父の弟、祖母に宛てた手紙でしたが、戦争の生々しいことが書かれていまして本当にショックでした。
手紙の一部
「5日間、敵弾激しき為、後方から食料は来ず、弾は尽きる。
雨は降り続ける、惨憺たる地獄以上の生活が始まった。
空腹に耐えかねて食料を取りに行く戦友が一人二人とはじからやられた。
攻撃前進命令が来たり、どうする事も出来ず、壕を掘り掘り前進した。
空腹を隠して 一尺、二尺と掘って、一日に僅か15mしか前進しない日もあった。
倒れる戦友をかばう間もなく、自分もやれれるような悲壮な場面を展開してかろうじて第一番に突入を敢行した。・・・」
この後の文章も戦死した部隊の名前が次々と書かれていて、過酷な戦場の様子が描写されている。
私にとっては映画の世界の様でよく判りませんが、凄まじい中で生きていたんだなあと思いました。
上海の当時の治安、軍の規律の乱れなど、あまり知られていない戦場の実態も言及されている。
その一部
「暗殺団がいて危険、上海の夜を満喫していると、突然拳銃の響きと人の悲鳴が起こり、全く物凄い騒ぎです。
撃たれたのは日本人で世界の魔窟と言われる上海であれば、こんなテロ行為もスリルも何も恐ろしいことは無く、むしろ当然のことなのです。
戦場に来た兵隊の中でも殺人、強盗、傷害とよくもこんなに事件があると思うほど毎日逮捕されます。」
当時の報道も批判している。
敵は刃向かう勇気もなし、なりを潜めてただ蹂躙に任すのみと、華々しく報道は伝えているが、手紙では、
「大抵は新聞記者の付いて来る戦場は勝ち目のある場所です。
苦戦の場合の決死隊など数限り無くあります。
新聞で伝えるのはほんの一部分であると思えば間違いありません。」
離れているところから記事を書いて、勝った勝ったと送っているけれどもそれは嘘であるというふうに書いたところもあります。
最初は墨で消されたものがあったが、途中から自分の思いを沢山書かれていました。
最初は皆さんと同じように戦っていたようですが、途中から憲兵になってスパイの規律維持などをやっていたようですが、主にやっていたのは事務処理係をやっていたようでした。
手紙の検閲なども担当したので、こんなことを書いて大丈夫なのかなと思っている文章も幾つもあります。
でも相当リスクはあったと思います。
自分も生きて帰れないという思いもあったのではないかと思います。
兵士として相手を殺したこともある、その部分。
「毎日2,3人で付近の偵察を行い、怪しいものは銃殺や刺殺に処しています。
さんざん人殺しをした後なので、少し人間も変わっているし、顔つきは凄いでしょう、お笑いください。」
職務だったとしてもそう言うことがあったということは恐ろしい、戦争というものは本当に恐ろしい。
とても受け入れられなかった、父はとっても穏やかで怒鳴り声など一度も聞いたことも無く、父と戦争ということ自体が全く結びつかなくて、いまだ納得できていないところもあります。
私はこの手紙が出て来るまで、父が戦争に行ったということは知りませんでした。
私は父が戦争から帰ってから翌年に生まれました。(昭和16年5月)
父は戦争の話は一切しませんでした。
どんなに純朴な青年でもそういう世界に投げ出されると、自分が生きるか死ぬかで、そういう中で戦うしか無かったんでしょうね。
私は受け入れられない思いだったが、父はもっと忘れたかっただろうと思いました。
父は左大腿部貫通という大けがをして、戦争から帰って来て、途中から役場に勤めるようになりました。
父は文字を綺麗に書くと言うことで戸籍係になりました。
傷痕はあまり見せないようにしていました。(傷が有ったことは覚えているが)
15年に帰ってきて、16年に又太平洋戦争がはじまり、戸籍係として村の青年に赤紙を発行しなければいけなくて、戦争は厭だと心の中で思っているのに、自分の知り合いなどに対して戦争に駆り出さなければいけない立場ということが、凄く腹の中が煮えくりかえるように辛い立場だったと思います。
父は気が狂ったように泣いたという祖母の言葉が、この手紙を読んで理解できました。
父の弟、おじさんが突然現れた時に、異様な情景が目に焼き付いています。
叔父は東京で働いていましたが、東京に召集令状が来て、ルソン島に出兵していきましたがなんとか無事に帰ってきました。
帰って来たその日から田んぼの中をはいずりまわって、蛇、鼠、とかげ、みみず、虫とかを取ってきて、食事時になると手につかんで家の中に入ってきた姿は、私にとってとっても怖いおじさんというイメージがありました。
祖母が「戦争は終わったんだから、みんなと同じご飯を食べていいんだよ、ご飯をお食べ」とすすめるが、「仲間のみんなに申し訳なくて、飯なんか食えるか」と言って泣きながら畑の方に走ってゆく姿を何回か見ました。(私が5,6歳の頃)
物凄い飢餓状態で戦っていたんだと思いました。
生きて帰ってきても辛い思い出は付いて回ったと思います。
父は66歳でがんで亡くなりましたが、時々大きな声で叫んだという事を聞いたりしました。
戦争の事が脳裏から消えなかったんだと思います。
戦争は恐ろしい、絶対に有ってはいけないことだと思います。
戦争が有ったという事、歴史の真実を若い人達にも知っていただいて、そういうことが有った中で自分たちの命があると言うことに感謝しながら、生きて行かなければいけないん
じゃないかなと思います。
生きて帰ることの願いも書かれている。
「長い戦いの間に思うのは、功績とか戦功とかに捉われることは小さな問題です。
現在は命があると言うことが、一番の手柄であり有難いことです。」
昭和22年に選挙が有って、その時に若い人たちが担ぎ出されて村長になったりしたが、真っ先にしたのが、戦争の被災者の為の住宅の確保して生活ができるようにしたのが、一番先にした仕事だったような気がします。
生きるためにみんな一生懸命働いて、今の時代を作り上げてきた、というようなことを書いていますが、父は自分が人間らしく生きられるように、周りの人がそうなれるようにということはメッセージとして残しているような気がします。
自分が手紙を見付けて3カ月後に悪性リンパ腫と告げられて、12月になってはっきり悪性リンパ腫と言われ手術をして、抗がん剤と放射線を浴びて治療が始まったが、毎日死と向き合って、あとどうしたらいいかをずーっと思っていました。
命がけで書いてくれた父の手紙の内容を伝えて行くことが、私の生かされている意味かもしれないと受け取るようになりました。
先生のおっしゃるよりも遥かに長生きしています。(10年生きています。)
自分が生きていること自体奇跡の様に思って、自分の命のある限りはこれを伝えて行くことが、私が生かされている意味の様な気がします。
こういったことが有ったんだと言うことが、生かされている使命の様な気がして講演会などでお話をさせていただいています。
私の処に通って、女子大生が卒論に纏めて下さった人もいます。
同じ過ちを起こさないように、父の想いを伝えて行きたいと思ってお話をしています。
2018年10月3日水曜日
森 康行(ドキュメンタリー映画監督) ・被災地を見つめて
森 康行(ドキュメンタリー映画監督) ・被災地を見つめて
昭和25年生まれ静岡県出身、昭和53年短編映画「下町の民家」で初監督を務めました。
以来、映画監督、記録映画監督、TVドキュメンタリーの演出を手掛けています。
この秋東日本大震災の被災の被災地を舞台にした映画「ワーカーズ 被災地に立つ」を完成させました。
延べで22カ月ぐらい行ったり来たり、被災地に行きました。
岩手県大槌町、宮城県亘理町、登米と言うところ、3か所に行きました。
一昨年から去年の12月に掛けて行きました。
街が消えてしまったとよく言いますが、まさに大槌町は市街地の95~99%位やられて、原形をとどめていない。
街が有って文化が有ってと言うところだったという話は聞いていました
かさ上げ工事はほぼ完成して、最後に行ったころは家がちらほら建つという状況だった。
復興ということでいいんだろうかと感じました。
今までに築きあげてきた生活、生きて行く価値観も変えて行かないと本当の意味での街が又新たに興ってくることができないのではないかと思う。
映画を撮るにあたって、私は信頼されているかどうか判らないが、私がやっている仕事は記録映画なので、あくまでも映される人たちが主人公なので、その人達の中に今という現実が含まれている。
その人たちが厭と思えば撮ってはいけないと思う。
すこしでも語っていただければ、そこから糸口を見つけて考えることができるのではないかと思いました。
3年前、関東東北豪雨で妻の実家が大きな被害を受けました。
豪雨ではないが、雨が1週間やまなかった。
川が決壊して、義理の父母、義理の兄、姉が住んでいたが、1階に水が入ってきてあっという間も無くてなすすべも無かった。
2階に避難して、夕方自衛隊のヘリコプターに救助され、避難所に行きました。
1週間後に家を見に行きましたが、1階の全ての家具がごちゃごちゃになっていてどうしたらいいんだろうか、というような状況だった。
3カ月かけてなんとかかたづけましたが、ボランティアの人達に助けて貰って本当に助かりました。
家はリホームしましたが、義父は1年後に亡くなりました。
片づけた時にはアルバムとかいろいろ出てきたが、思い出さえも奪って行ってしまう、これが災害の実際なんだと思いました。
高知の高校生がビキニ環礁の核実験について取り上げた映画があるが「ビキニの海は忘れない」という映画で1990年に出来上がったものです。
1950年3月1日ビキニ事件が会って、第五福竜丸が被曝して久保山愛吉さんが亡くなって、長い間伝えられてきた事件です。
沖縄で高校生の平和学習をしている先生たちの集まりが有って、ビキニ事件をやっているということだった。
被害は第五福竜丸、久保山さんだけではない事が判って、そこから映画を作ろうと思いました。(他の漁船、他の人達も被害を受けた)
調べ直して、高校生たちは凄いなあと思いました。
夜間中学に学ぶ人達「こんばんわ」を作りました。
バブルがはじけたころで、自分はこういうふうに生きて行っていいんだろうか、と悩んでいた時期でした。
義務教育を受けられなかった人達、不登校の子などが入ってきて自分を取り戻していくという形で、2003年に公開しました。
私も1年間一緒にクラスに入れさせてもらって勉強したり、一緒に話をしたりしました。
世代を越えた連携で、競争が無いわけです。
自分にとってどういう学びをするのか、学びの原点があると思いました。
自分が生きて行く為に学ぶんだと言う事を目の当たりにした映画、映画を撮る時間でした。
昼間の学校ではそうはいかない、価値観を転換させるような学校でした。
福島の冬から春になる時に雪渓が残っていて、ウサギに見えるころ種をまくと言うことで、種まきウサギという名前で呼ばれていました。
福島の高校生による朗読グループ・たねまきうさぎの活動を追ったドキュメンタリー。
高校生が詩の朗読をするグループを作って、どういうふうに生きていくのか、高校生活をどう過ごすのかという事を描いたものですが、被災した中で色んな知恵と希望を尽くして生き残っていくんだと言う、サバイバルという言葉が映画の中で印象に残りました。
地域の人ならではの困りごとを色んな形で助け合って、仕事にして行くと言うことが素晴らしいと思います。
「困っています、それではみんなでそれを仕事にして何とかしましょう」ということで解決をしていくなかで、色んな仕事をすることになった。
新しい価値観のもとでの仕事起こし、ではそうするためにはどうするんだ、これは色んなことに通じて来るものだと思いました。
宮城県の亘理町でも新しい仕事を生み出す取り組みがなされている。
池田道明さん(多機能型福祉施設の所長) 元仙台空港の整備士で大変な目に遭われた。
仕事も無くなって、社会からの疎外感を味わって、自分が仕事を作ればいいという働き方もあると言うことで、地元の産直野菜販売から始まって就労者支援とかで、仕事をつくっていくっというような事を進めています。(協同労働)
農村と若者たちとの交流を描いた。
地元の人でない人達が林業をやったりする。
最初、撮影については警戒されましたが、農業、林業のことは判らないので地元の人に教わり始めて、交流も進んで行って信頼を勝ち得て行ったと思います。
地域地域で協力してもらった人達にも観ていただきたい。
一体どういうふうに生きて行ったらいいんだろうかと、いうこの映画の問いが又問われているんじゃないかと思います。
一極集中がはたしてどうなんだろうかと、言う思いがあります。
地域地域で自分たちがどうやって生きて行くのか考えて、今までの価値観を変えて行くための時なのかなあと思います。
昭和25年生まれ静岡県出身、昭和53年短編映画「下町の民家」で初監督を務めました。
以来、映画監督、記録映画監督、TVドキュメンタリーの演出を手掛けています。
この秋東日本大震災の被災の被災地を舞台にした映画「ワーカーズ 被災地に立つ」を完成させました。
延べで22カ月ぐらい行ったり来たり、被災地に行きました。
岩手県大槌町、宮城県亘理町、登米と言うところ、3か所に行きました。
一昨年から去年の12月に掛けて行きました。
街が消えてしまったとよく言いますが、まさに大槌町は市街地の95~99%位やられて、原形をとどめていない。
街が有って文化が有ってと言うところだったという話は聞いていました
かさ上げ工事はほぼ完成して、最後に行ったころは家がちらほら建つという状況だった。
復興ということでいいんだろうかと感じました。
今までに築きあげてきた生活、生きて行く価値観も変えて行かないと本当の意味での街が又新たに興ってくることができないのではないかと思う。
映画を撮るにあたって、私は信頼されているかどうか判らないが、私がやっている仕事は記録映画なので、あくまでも映される人たちが主人公なので、その人達の中に今という現実が含まれている。
その人たちが厭と思えば撮ってはいけないと思う。
すこしでも語っていただければ、そこから糸口を見つけて考えることができるのではないかと思いました。
3年前、関東東北豪雨で妻の実家が大きな被害を受けました。
豪雨ではないが、雨が1週間やまなかった。
川が決壊して、義理の父母、義理の兄、姉が住んでいたが、1階に水が入ってきてあっという間も無くてなすすべも無かった。
2階に避難して、夕方自衛隊のヘリコプターに救助され、避難所に行きました。
1週間後に家を見に行きましたが、1階の全ての家具がごちゃごちゃになっていてどうしたらいいんだろうか、というような状況だった。
3カ月かけてなんとかかたづけましたが、ボランティアの人達に助けて貰って本当に助かりました。
家はリホームしましたが、義父は1年後に亡くなりました。
片づけた時にはアルバムとかいろいろ出てきたが、思い出さえも奪って行ってしまう、これが災害の実際なんだと思いました。
高知の高校生がビキニ環礁の核実験について取り上げた映画があるが「ビキニの海は忘れない」という映画で1990年に出来上がったものです。
1950年3月1日ビキニ事件が会って、第五福竜丸が被曝して久保山愛吉さんが亡くなって、長い間伝えられてきた事件です。
沖縄で高校生の平和学習をしている先生たちの集まりが有って、ビキニ事件をやっているということだった。
被害は第五福竜丸、久保山さんだけではない事が判って、そこから映画を作ろうと思いました。(他の漁船、他の人達も被害を受けた)
調べ直して、高校生たちは凄いなあと思いました。
夜間中学に学ぶ人達「こんばんわ」を作りました。
バブルがはじけたころで、自分はこういうふうに生きて行っていいんだろうか、と悩んでいた時期でした。
義務教育を受けられなかった人達、不登校の子などが入ってきて自分を取り戻していくという形で、2003年に公開しました。
私も1年間一緒にクラスに入れさせてもらって勉強したり、一緒に話をしたりしました。
世代を越えた連携で、競争が無いわけです。
自分にとってどういう学びをするのか、学びの原点があると思いました。
自分が生きて行く為に学ぶんだと言う事を目の当たりにした映画、映画を撮る時間でした。
昼間の学校ではそうはいかない、価値観を転換させるような学校でした。
福島の冬から春になる時に雪渓が残っていて、ウサギに見えるころ種をまくと言うことで、種まきウサギという名前で呼ばれていました。
福島の高校生による朗読グループ・たねまきうさぎの活動を追ったドキュメンタリー。
高校生が詩の朗読をするグループを作って、どういうふうに生きていくのか、高校生活をどう過ごすのかという事を描いたものですが、被災した中で色んな知恵と希望を尽くして生き残っていくんだと言う、サバイバルという言葉が映画の中で印象に残りました。
地域の人ならではの困りごとを色んな形で助け合って、仕事にして行くと言うことが素晴らしいと思います。
「困っています、それではみんなでそれを仕事にして何とかしましょう」ということで解決をしていくなかで、色んな仕事をすることになった。
新しい価値観のもとでの仕事起こし、ではそうするためにはどうするんだ、これは色んなことに通じて来るものだと思いました。
宮城県の亘理町でも新しい仕事を生み出す取り組みがなされている。
池田道明さん(多機能型福祉施設の所長) 元仙台空港の整備士で大変な目に遭われた。
仕事も無くなって、社会からの疎外感を味わって、自分が仕事を作ればいいという働き方もあると言うことで、地元の産直野菜販売から始まって就労者支援とかで、仕事をつくっていくっというような事を進めています。(協同労働)
農村と若者たちとの交流を描いた。
地元の人でない人達が林業をやったりする。
最初、撮影については警戒されましたが、農業、林業のことは判らないので地元の人に教わり始めて、交流も進んで行って信頼を勝ち得て行ったと思います。
地域地域で協力してもらった人達にも観ていただきたい。
一体どういうふうに生きて行ったらいいんだろうかと、いうこの映画の問いが又問われているんじゃないかと思います。
一極集中がはたしてどうなんだろうかと、言う思いがあります。
地域地域で自分たちがどうやって生きて行くのか考えて、今までの価値観を変えて行くための時なのかなあと思います。
2018年10月2日火曜日
大塚宣夫(医師) ・大往生をつくる
大塚宣夫(医師) ・大往生をつくる
大塚さんは都内で老人病院を経営し、最晩年の高齢者にとって一番大切なのは、医療では無く豊かな一日一日の生活です、と言い切る一風変わったお医者さんです。
医療と介護を同時に必要とする高齢者には、身体に苦痛や負担をかける無理な延命治療をせずに、痛みやつらさを少なくする医療だけを施し、穏やかな最晩年を送ってもらう事を目指しています。
そういう理念に沿って、高齢者が自分が大事にされていると実感できる病院をつくって38年、大塚さんはこれまでの経験から、最晩年の医療は大往生を作っていく道筋であるべきだと言います。
大塚さんの考える大往生とは、75歳以上が1800万人という今日の新しい大往生観について伺いました。
ベッド数は240、入っている人の平均年齢は88歳、100歳を越えている人が12人います。
人生の最後が見えた人達が来られて、3か月から1年位過ごして、大部分の方がそこで旅立たれるといった病院です。
高齢者の施設を始めたが、最初のうちは医療の力でなんとか高齢者を少しでも幸せにしようと思って色々なことをしました。
しかし、医療の力だけでは高齢者をもっと幸せにすることはできないと痛いほど思い知らされました。
本当にお年寄りを幸せにするには、医療よりも介護、介護よりもっと日常の生活、これの大切さに気付いた次第です。
衰え、病気、障害によって独立して生活できなくなった人が多い。
我々がそこに手を掛けて、すこしでも良い時間を持ってもらうように色々工夫するのが基本だと思います。
その人その人の能力、何を持って快適かはそれぞれ違うので、対応は色々工夫を凝らさなくてはいけない。
アルコールも全く自由です。
外から持ってきたものを食べてもらうということも自由です、
食べることは人間最後の最後まで残る楽しみという印象を持っています。
話掛けて反応が無くても、しっかりそのことを理解されている機能は最後まで残っているような気がします。
どういう生き方をしてこられたか、どういう時期が一番輝いたか、そういった情報を知っておくことは凄く大事です。
情報を共有して働きかける時に使うと言うことはあります。
男性は会社で活躍していた頃、女性は一番多いのは子育てをしていた頃、お孫さんを世話をしている頃が、と言うような話は出てきます。
医学部を卒業した後、精神科を専攻、1974年(32歳)の時に友人のお婆さんのことで相談を受けました。
83歳、3年来の寝たきり、認知症の症状が加わって、夜になると大きな声をあげて騒ぐようになり、家族の生活が成り立たないということで施設を探しました。
見学に付き合ったが老人病院で、20畳の畳敷きの病室に12,3人がただ転がされていて、大変不快な臭い、奇妙な静けさが印象的でした。
3か月ぐらいでなくなられるということだった。
衝撃を受けて、自分の親を安心して預けられるような施設を作ろうと言うのがきっかけでした。
親、伴侶などは家族で最後まで自分の家で看ると言うのが日本の価値観だった。
高度経済成長期を経て、日本の家族の構成が一気に変わって、核家族化が進み、高齢者が増えてきて、自宅で看られないような状況が発生してきた。
預け先を探さなければいけないような状況になり、先ほど話したような老人病院みたいな形態が発生した。
居心地のいい場所をつくれないだろうかというふうに考えて、それが私の病院のスタートだった。
38年経って思うことは、以前は預ける後ろめたさが有ったが、今は御家族は最後はこれこれの病院で過ごして、親孝行ができたというような話をされるようになりました。
医療という力を何処まで評価すると言うことかもしれない。
医療は進歩してきて万能の様に思われがちだが、本人の持っている免疫力等がしっかりしていないと医療的な働きをしても効果が出ない。
70歳を過ぎるあたりから、治癒力はどんどん落ちて来る。
効果が表さないということも起こってくる。
我慢すればその先にそれ以上にいい事があると言うことが前提だが、治癒力が落ちてきてそこに医療を受けたとしても、効果が期待できなくなった時、我々はどう受け止めていくかということになる。
試行錯誤して方向が変わっていきました。
一番大事なのは日常生活を少しでも豊かにすることが大事で、そのために介護があり、医療も貢献するんだという枠組みが定まると、我々が何をしないといけないかということが見えてくる。
傷害、病気、老いによって他人からの介護の必要性、そういう状態になっても居心地のいい生活空間にするということが基本になる。
最大のストレスは気兼ねしながら生きなければいけないということです。
それを少しでも減らすことができれば意味があると思う。
家族の介護が一番いいと思うかもしれないが、しかしそれなりの難しさがある。
例え親子、夫婦でもそれがゆえの難しさがある。
介護する親への描いていた像が、どんどん崩れて行ってしまったりする。(精神的苦痛)
好きな言葉に「我親を人に預けてボランティア」というものがある。
①自分ですべてを抱え込むな。
②介護は長帳場なので、完璧を目指すな。(60点でいいから長く続けることを考える)
食事、お風呂、おむつ(最近は高性能)の交換など、必要に応じて対応してもかまわない。
③人の手にゆだねることを考える。
自分の最後の姿は、80点位でもあそこで決着がつきそうだと思うと、人生覚悟して生きられるということがある。
老いというのはいつから始まるのか定義は難しいが、70歳を過ぎたあたりからだと思う。
70歳を過ぎたあたりから下降のスピードが早くなってくる。
下り坂を生きると言うことは思ってもみなかったことが起こる。(辛いことでもある)
今日出来ることは、人生一番高い所にあると言う事。
今できることを自分の身体を目いっぱい使って、如何に豊かに生きるか、と捉えることもできる。
そうすると今日一日がいとおしい日、貴重な日になり、その連続で毎日を生きて行けばいい。
上り坂の時には自分で色々努力しなくてはいけないが、下降線の時には何にもしなくてもその日その日は過ぎて行く。
何もしなくてもその先には終点が見えている。
そう考えると気楽でもある。
今日一日楽しい事、今までやれなかったことをやってみようと思っただけで人生気楽に生きられると思う。
大往生とは、①十分に長生きをしていること、②社会的な役割をそれなりに果たしてそれを卒業している。
自分の能力を目一杯使うことに自分としての務めがあると思えばポジティブに生きられる。
大往生とは、①十分に長生きをしていること
②周りの人に惜しまれながら旅立つ。
③最後が静かである、穏やかである。(蝋燭が消えるように)
④自分が旅だった後に、残された人達がこういう形で良かったなと思ってもらえる。
最近はは②、③が難しくなってきている。
②周りの人に惜しまれながら旅立つ、ここをどう解決するか。
③最後が静かである、穏やかである、長く生かすような手立てを講じようとする。
救急車を呼んで救急病院では1時間でも長生きさせてくれということで、徹底的な医療手立てをするが、どう見ても助からないと言う人にもそれをやって、残念でしたというようなケースが多い。
延命治療は助からないことを前提に事が進んでいるが、病院は助かるか助からないか判らないところからスタートする。
介護されると思われる医師との人間関係をとっておけば、医者はそれなりの対応をしてくれると思うが、突然に自分に意思表示もできない時に、何もやらないでくれということは医師としては非常に難しい。
かなり用意周到な人間関係の中で自分の意志、希望を叶えてもらえる様な人間関係は必要だと思う。
④については、最後の瞬間が静かであると言うことは、家族としっかり別れを惜しむために時間はそれなりに必要です。
体に負担を与えないようにして静かに命が消えてゆくことを待つということは可能です。
死というものがこんなに厳かなものだとは思わなかった、という御家族も結構あります。
残された人に感動を与えながら命を終えると言うことは、我々今から挑戦してみる価値のあるものだと思います。
大塚さんは都内で老人病院を経営し、最晩年の高齢者にとって一番大切なのは、医療では無く豊かな一日一日の生活です、と言い切る一風変わったお医者さんです。
医療と介護を同時に必要とする高齢者には、身体に苦痛や負担をかける無理な延命治療をせずに、痛みやつらさを少なくする医療だけを施し、穏やかな最晩年を送ってもらう事を目指しています。
そういう理念に沿って、高齢者が自分が大事にされていると実感できる病院をつくって38年、大塚さんはこれまでの経験から、最晩年の医療は大往生を作っていく道筋であるべきだと言います。
大塚さんの考える大往生とは、75歳以上が1800万人という今日の新しい大往生観について伺いました。
ベッド数は240、入っている人の平均年齢は88歳、100歳を越えている人が12人います。
人生の最後が見えた人達が来られて、3か月から1年位過ごして、大部分の方がそこで旅立たれるといった病院です。
高齢者の施設を始めたが、最初のうちは医療の力でなんとか高齢者を少しでも幸せにしようと思って色々なことをしました。
しかし、医療の力だけでは高齢者をもっと幸せにすることはできないと痛いほど思い知らされました。
本当にお年寄りを幸せにするには、医療よりも介護、介護よりもっと日常の生活、これの大切さに気付いた次第です。
衰え、病気、障害によって独立して生活できなくなった人が多い。
我々がそこに手を掛けて、すこしでも良い時間を持ってもらうように色々工夫するのが基本だと思います。
その人その人の能力、何を持って快適かはそれぞれ違うので、対応は色々工夫を凝らさなくてはいけない。
アルコールも全く自由です。
外から持ってきたものを食べてもらうということも自由です、
食べることは人間最後の最後まで残る楽しみという印象を持っています。
話掛けて反応が無くても、しっかりそのことを理解されている機能は最後まで残っているような気がします。
どういう生き方をしてこられたか、どういう時期が一番輝いたか、そういった情報を知っておくことは凄く大事です。
情報を共有して働きかける時に使うと言うことはあります。
男性は会社で活躍していた頃、女性は一番多いのは子育てをしていた頃、お孫さんを世話をしている頃が、と言うような話は出てきます。
医学部を卒業した後、精神科を専攻、1974年(32歳)の時に友人のお婆さんのことで相談を受けました。
83歳、3年来の寝たきり、認知症の症状が加わって、夜になると大きな声をあげて騒ぐようになり、家族の生活が成り立たないということで施設を探しました。
見学に付き合ったが老人病院で、20畳の畳敷きの病室に12,3人がただ転がされていて、大変不快な臭い、奇妙な静けさが印象的でした。
3か月ぐらいでなくなられるということだった。
衝撃を受けて、自分の親を安心して預けられるような施設を作ろうと言うのがきっかけでした。
親、伴侶などは家族で最後まで自分の家で看ると言うのが日本の価値観だった。
高度経済成長期を経て、日本の家族の構成が一気に変わって、核家族化が進み、高齢者が増えてきて、自宅で看られないような状況が発生してきた。
預け先を探さなければいけないような状況になり、先ほど話したような老人病院みたいな形態が発生した。
居心地のいい場所をつくれないだろうかというふうに考えて、それが私の病院のスタートだった。
38年経って思うことは、以前は預ける後ろめたさが有ったが、今は御家族は最後はこれこれの病院で過ごして、親孝行ができたというような話をされるようになりました。
医療という力を何処まで評価すると言うことかもしれない。
医療は進歩してきて万能の様に思われがちだが、本人の持っている免疫力等がしっかりしていないと医療的な働きをしても効果が出ない。
70歳を過ぎるあたりから、治癒力はどんどん落ちて来る。
効果が表さないということも起こってくる。
我慢すればその先にそれ以上にいい事があると言うことが前提だが、治癒力が落ちてきてそこに医療を受けたとしても、効果が期待できなくなった時、我々はどう受け止めていくかということになる。
試行錯誤して方向が変わっていきました。
一番大事なのは日常生活を少しでも豊かにすることが大事で、そのために介護があり、医療も貢献するんだという枠組みが定まると、我々が何をしないといけないかということが見えてくる。
傷害、病気、老いによって他人からの介護の必要性、そういう状態になっても居心地のいい生活空間にするということが基本になる。
最大のストレスは気兼ねしながら生きなければいけないということです。
それを少しでも減らすことができれば意味があると思う。
家族の介護が一番いいと思うかもしれないが、しかしそれなりの難しさがある。
例え親子、夫婦でもそれがゆえの難しさがある。
介護する親への描いていた像が、どんどん崩れて行ってしまったりする。(精神的苦痛)
好きな言葉に「我親を人に預けてボランティア」というものがある。
①自分ですべてを抱え込むな。
②介護は長帳場なので、完璧を目指すな。(60点でいいから長く続けることを考える)
食事、お風呂、おむつ(最近は高性能)の交換など、必要に応じて対応してもかまわない。
③人の手にゆだねることを考える。
自分の最後の姿は、80点位でもあそこで決着がつきそうだと思うと、人生覚悟して生きられるということがある。
老いというのはいつから始まるのか定義は難しいが、70歳を過ぎたあたりからだと思う。
70歳を過ぎたあたりから下降のスピードが早くなってくる。
下り坂を生きると言うことは思ってもみなかったことが起こる。(辛いことでもある)
今日出来ることは、人生一番高い所にあると言う事。
今できることを自分の身体を目いっぱい使って、如何に豊かに生きるか、と捉えることもできる。
そうすると今日一日がいとおしい日、貴重な日になり、その連続で毎日を生きて行けばいい。
上り坂の時には自分で色々努力しなくてはいけないが、下降線の時には何にもしなくてもその日その日は過ぎて行く。
何もしなくてもその先には終点が見えている。
そう考えると気楽でもある。
今日一日楽しい事、今までやれなかったことをやってみようと思っただけで人生気楽に生きられると思う。
大往生とは、①十分に長生きをしていること、②社会的な役割をそれなりに果たしてそれを卒業している。
自分の能力を目一杯使うことに自分としての務めがあると思えばポジティブに生きられる。
大往生とは、①十分に長生きをしていること
②周りの人に惜しまれながら旅立つ。
③最後が静かである、穏やかである。(蝋燭が消えるように)
④自分が旅だった後に、残された人達がこういう形で良かったなと思ってもらえる。
最近はは②、③が難しくなってきている。
②周りの人に惜しまれながら旅立つ、ここをどう解決するか。
③最後が静かである、穏やかである、長く生かすような手立てを講じようとする。
救急車を呼んで救急病院では1時間でも長生きさせてくれということで、徹底的な医療手立てをするが、どう見ても助からないと言う人にもそれをやって、残念でしたというようなケースが多い。
延命治療は助からないことを前提に事が進んでいるが、病院は助かるか助からないか判らないところからスタートする。
介護されると思われる医師との人間関係をとっておけば、医者はそれなりの対応をしてくれると思うが、突然に自分に意思表示もできない時に、何もやらないでくれということは医師としては非常に難しい。
かなり用意周到な人間関係の中で自分の意志、希望を叶えてもらえる様な人間関係は必要だと思う。
④については、最後の瞬間が静かであると言うことは、家族としっかり別れを惜しむために時間はそれなりに必要です。
体に負担を与えないようにして静かに命が消えてゆくことを待つということは可能です。
死というものがこんなに厳かなものだとは思わなかった、という御家族も結構あります。
残された人に感動を与えながら命を終えると言うことは、我々今から挑戦してみる価値のあるものだと思います。