桃月庵白酒(落語家) ・新たな挑戦、落語に深みを!
ちょっと毒のあるユーモアあふれるまくらと、江戸と現代を結ぶセンスある古典落語として知られていて、独演会等の切符は手に入りにくい人気の落語家です。
鹿児島県出身、48歳、平成4年早稲田大学を中退して五街道雲助師匠に入門、前座、五街道はたごになり入門の年に高座に上がりました。
平成7年に二つ目 喜助に改名、平成17年真打ちに昇進し、三代目桃月庵白酒を襲名しました。
2011年には花形演芸大賞と、彩の国落語大賞を受賞しています。
来年で入門25年になる桃月庵白酒さんに伺いました。
桃月庵白酒、先代から100年以上たってから襲名しました。
探した候補の中に桃月庵白酒という名前が有りました。(師匠も五街道という名前)
つい、「しろざけ」さんといわれてしまいます。
落語は表情を見て頂く芸なんで顔が小さいのは、ちょっと不利ではあるのですが、肥っているのでフォルムで得はしていると思います。
入門すると明るく大きな声を出せとしかいわれないんです。
前座の時はうるさかったと思います。
或る程度のところに行ってもマイクなしで出来ますので楽ですね。
落語研究会にいましたが、師匠から落研くせえなあと言う風に言われてしまいます、先ずそれを抜けなければなあと言われ、明るく大きな声を出せとしかいわれませんでした。
それから後、細かく言ってくれるようになりました。(2年ぐらいたってから)
落語ブームは半分当たっていると思いますが、半分は外れていると思ってまして、観客動員はブームといわれるほど入っていない。
若い女性は前から入っていましたが、最近は若い男性が増えました。
ベストは地声で聞いていただきたいと思っているので、ぎりぎり300名ですね。
無精の小話。
「どうだい、これだけ無精な連中が集まったんだから、これから無精の会をやらないかい」
「いいよ、めんどくせい」
ネタは200は越していると思います。(1度だけの高座の話を含めて)
持ちネタと言えば100~120位です。
入門前は廓話が好きだったが、噺家になってからはどうでもいい内容の話が好きですね。(何のテーマもない)
「芝浜」はやらないと言ってたんですが、去年やったりしています。
ネタ選びが一番重要だと思います。(その日のお客さんに合ったもの)
拍手でなんとなくどの程度寄せに通っているかが、判ります。
いくつか用意しておいて客の様子などを見て絞ってゆきます。
鹿児島県南大隅町の出身です。
子供時代は野球が好きだったので、野球をして遊んだりしていました。
部活動は一生懸命やっていました。
鹿児島県立鶴丸高校に進むが、落語は興味はなかった。
野球と音楽が当時は好きでした。
学校が決めた行ってはいけない映画に行って、特に「アニマルハウス」がコメディーで、大学が舞台で、それを見て大学に行きたいと思いました。
早稲田大学に入学、東京にあこがれていたので、楽しくてしょうがなくて最高でした。
学校にいっていなかったです。
サークルには5つ入っていましたが、その頃景気が良かったので貧乏人は相手にされず、落語研究会だけが残りました。
サークルではいい客になれ、いい観賞者側になれと言われました。
短い話をして受けると、人前で反応が有るといいなあという感覚が出てきましたが、職業にしようという考えはなかったです。
大学3年から就職活動が始まるが、スーツも持っていなくて、就職はしなければいけないとは思っていたが、単位が足りなくて卒業出来ないこともわかって、どうしようと改めて考えました。
サークルでは私を含めて3人が決まっていなくて、一人は決まって、残りの一人が噺家になろうかなと言い出して(柳家甚語楼)、そのまま月日が経ってしまいました。
弟子になるなら、ずーっと頭を下げてもいい様な人、その師匠がうちの師匠でした。
迷いもあり、入門しようかどうしようか、何日か家の周りをぐるぐる廻ったりしました。
一週間後最初、ドアホン越しに断られて、それが却って火が付きました。
その後会える事が出来て指定された日から1週間が経って、その後入門が許されました。
平成4年に入門、前座がいなくて直ぐ前座になり、入門して2週間後に楽屋入りしました。
「五街道はたご」が3年、二つ目になり「五街道喜助」、10年経って真打ちになりました(37、8歳)
親はいつか諦めて帰ってくるのではないかと思っていた様で、真打ちになって諦めた様です。
今 弟子が二人います。(桃月庵はまぐり、桃月庵ひしもち)
弟子を育てると言う事ではなく、一緒に育ってゆく、勉強になりました。
良く師匠は私を首にしなかったのかなと思います、前座の時には何もできなかったし。
師匠は恩人の何物でもないです。
2016年12月31日土曜日
2016年12月30日金曜日
三笠宮・小林(古代オリエント史学者)・大正・昭和から平成へ (H16/4/8放送)
三笠宮・小林(古代オリエント史学者)・大正・昭和から平成へ (H16/4/8放送)
三笠宮殿下米寿記念論集 700ページ以上の論集が秋になると刊行されます。
誕生の前年1914年が第一次世界大戦が勃発、昭和天皇と14歳 秩父宮様13歳、高松宮様と10歳違う。
昭和天皇が摂政になったのが、大正10年頃、私は小学校にいく前で、摂政を置かれたということは健康がすぐれないと言う事ですから、記憶に残っているころは、摂政を置かれた時代なので大正天皇についていろいろ申し上げる資格はないです。
貞明皇后については当時としては一般の家庭とは違っていたので、親子で有りながら親子でない様な面が有りましたが、立派な方だったと思います。
皇后になると言うことは大変なことだったと思います、生まれる前のことなので噂に過ぎないが一時期精神的にも悩まれて、チブスにかかって静養されて、その間に精神的に持ち直したと言う事もあった様です。
今後もそういう問題は起こると思います。
小林:女帝問題が巷で出ていますが、、昭和21年11月3日の新憲法公布記念日の日付けで、三笠宮と書いた手書きの文書が残っていて、新憲法と皇室典範改正法案要綱案を枢密院に提出されたと、これは宮様が本当にお書きになったものですか?
当時、皇族は枢密院議員の資格が有り、会議に出ていましたが、発言したことを記録に残したと言う事です。
小林:女帝の問題も再検討されてしかるべきと発言になったが、枢密院でも黙殺されたと、こういう経過でしょうか?
昔は古い女官の方がお姑さんの様な役割をしたので貞明皇后も非常に悩んだと思うのですが、今はマスコミがいろいろ騒ぎすぎますね。
将来そういう立場になる人も怖気付くだろうし、日本の場合配偶者、女帝自体も大変だし、一般の人が配偶者になることは大変で、戦後華族制度が無くなって華族制度を無くすことは、今になって考えてみると天皇制の外掘りを埋められた様で、女帝になっても配偶者になる方がいないのではないかと思います。
理屈では女帝有ってしかるべきですが、現実問題問としては、はたしてどうなるのか。
小林:小さい頃は童謡の宮様といわれたそうですが?
「月夜の空を雁飛びて、宮君御殿でそれ見てる、宮君が御所から急ぎて帰る時、町に電灯つきにけるかな」 こういう童謡が歌われていたのか?
日光に夏は避暑に行く事になっていて、七夕の時期、たまたまその時期大正デモクラシーで皇室の内部状況を一般に見せる必要があると言う事で、大阪毎日の小野 賢一郎の一行が、活動写真を撮ると言う事で小野さんがたまたま短冊を発見してスクープして、本居長世さんという有名な作曲家に依り作られて、全国ツアーもやってました。
(本居長世の3女若葉さんが宮様の誕生会で歌われました。)
小さいころは、陸軍少将とか、御歌どころの東さん、橘さんとかお年よりの方が周りにおりました。
浪曲のレコードはいっぱいあって、洋楽のレコードはなくて家内も結婚した時に驚いていましたが。
夏休みの宿題で、関ヶ原の役を取り上げましたが、実際に歴史に関心を持ったのは陸軍大学の学生の時で、戦術(理論)、戦史は生きた人間を扱うので、戦術では出てこない物事が出てきて、人情の奥まで研究、人間的にも深い様なものを感じて、教官のもとでの実戦でも上手くいかないと言う事も実感して、戦史が大事だと感じました。
昭和天皇も歴史が好きだったが、どうしても歴史をやると政治的になるので、天皇は政治的になるといけないと言う事で歴史の研究はよくないと言われた様で生物のほうに行った様です。
関東大震災の時には日光にいて、庭に飛び出しました。
栗橋の鉄橋も壊れたし、電話線も切れました。
たまたま両陛下が来ていて、警戒のために近衛兵が来ていて、伝書鳩を持っていて伝書鳩でかろうじて東京と連絡が取れました。
関東大震災を歴史的に見直します時に忘れてはならないものが有ると思います。
死者が関東地方で約10万人、行方不明者が約4万人、東京だけで死者が6万人を越えて、その内の5万数千人は火事で焼け死んだといわれます。
地震と火事に依るパニック状態の中で、多くの在日朝鮮人が虐殺されたと言う事で有ります。
9月1日の夕方には不貞戦人が襲ってきて井戸へ毒を入れた、放火強盗、暴行を欲しいままにしていると言う様なうわさが飛び交い、社会主義者も加わってるという流言が飛び交って、その結果殺害された朝鮮人は政府発表では200人あまりと言われたが、実際はその10倍以上に及んだのではないかと推定されます。
現在の日本と隣国の民族間の感情問題にも関係してくるので、歴史的に見直すということが必要ではないかと考えています。
昭和7年陸軍士官学校の予科に入学。
明治43年に公布された皇族身位令、親王、王は満18歳に達したら、陸軍又は海軍の武官に任ず、という事で軍人への道に向かう。
秩父宮が海軍、高松宮が陸軍を希望したらしいが、当時陸軍と海軍が勢力争いをしていて陸軍が強くて、最初の皇族は陸軍でなくてはいけないと言う事で押し切ったらしくて、秩父宮が陸軍、高松宮が海軍と言う事になり希望とは反対の方に行ってしまった。
高松宮は船にとても弱いので大変苦労したと思います。
私は小学校のころから乗馬をしていたので陸軍に行く事になりました。
昭和18年支那派遣軍参謀という事で1年間中国に行っていました。
南京に1年間いて、南京を経つ前に将校たちに話をすることになり、南京に行く前に日本の政府で対華新方針が出されて、従来の日本軍のやり方が悪いことが多かった、当時の北支方面軍司令官岡村大将は4悪といわれ、民衆にたいする軍規が良くなかった。
それが反日思想を誇張させる、日本軍のやり方を改めなくてはいけないと言う事で日本政府が新しい方針を出しました。
その直後に赴任した訳で、大変幸せでありました。
各方面に行って、新しい方針を伝えて、中国人にたいする軍規を厳守しなくてはいけないと言う事を申し上げたわけですが、エピソードですが第一線の指揮官が従来は敵に攻めてゆくと家を焼いていた、後ろから見ているとどこまで進んでいたか判ったが、自分の部下が判らないという様な話をしていました。
日本軍が、蒋介石軍が制作した「勝利行進曲」という映画を獲得してそれをみて、重慶政府の宣伝映画でしたが、実際良く見ると実際の事を映画にしているのではないかと思いました、東京に戻る機会の時に昭和天皇にお見せしました。
軍規が良くはなったが手遅れで、数年前に新方針を出していれば、もうすこし効果があったとは思いますが。
小林:昭和46年秋 昭和天皇がヨーロパ御訪問の際に、外国人記者団に自分は立憲君主を念願として来たけれども2回だけ、非常に切迫した緊急事情のため直接的な行動を取った、その一つが2・21事件、もう一つが終戦の時であった、とお話しになったと言う事ですが。
昭和天皇は立憲君主を念願にしていらしった様ですが、2つの件についてどうでしたか?
明治維新以来、陸軍がフランス、海軍がイギリスの制度を取り入れて、フランスがプロシャに負けて陸軍がフランスの制度からプロシャ(ドイツ)の制度に切り替わってドイツ的な教育になって、第二次世界大戦のときにも災いをなしたのではないかと思いますが。
憲法もプロシャの憲法が草案になって伊藤博文も随分手を入れた様ですが、ドイツ的な専制君主と言っていいかどうか判りませんが。
西園寺侯爵が元老として天皇にアドバイスすると言う様になってから、イギリスの君臨すれども統治せずと言う様なイギリス式の君主の在り方をアドバイスしたのではないかと思います。
基本的にはドイツ的な憲法を実際的にはイギリス的に実行するというジレンマが有ったのではないかと思いますが。
小林:日露戦争についてはどう思われますか?
勝った勝ったと言う話が多いわけですが、戦史の講義を聞いた時に武力的には決して日本軍はロシア軍に対して強力では無かったと言う事を聞きまして驚いた訳ですが、最初の戦は鴨緑江のあたりで起きて、ロシア軍を撃退したということになっていて、ロシア軍を追い詰めて奉天の線まで行ったという事になっていますが、後から調べるとロシア軍が奉天の線まで下がったのは、ロシア軍の司令官が軍隊にたいして、日本軍の前進をすこしずつはばみながら奉天の線まで退却をするようにとの命令を出していたそうで、日本軍は撃退しながら奉天の線まで行って武力的に勝ったのではない。
日本では封建時代からお城があってこれを最後の一兵まで守ると言う武士道精神という様な気持ちが、日露戦争まで体に流れていたのではないかと、武力で敵を撃滅したということは少ないが、城を、街を死守すると言う事では力を発揮したと言う事を戦史で習いました。
最後はアメリカなどの仲裁で平和条約になったわけですが、ロシアが調印したのは政治的な国内問題でもってロシアは戦を止めたんだと、日本は勝った勝ったと提灯行列をしましたが、それ以来日本は強い、神風が吹くと言う様なことが一般の国民だけでなくて軍隊まで浸透していって、第二次世界大戦の時も神風が吹くと言う様な気分がみなぎっていたのではないかと思う。
日清、日露の戦争で日本は強いんだという様な誤った先入観で第二次世界大戦まで入ったんじゃないかと思います。
海軍は第一年度は勝つと、二年度は五分五分、三年目は判らないと言う風に判断していたが陸軍も科学的な判断を下していれば違ったかもしれないが、歴史の研究が十分でなかった結果ではないかと思います。歴史の研究は大事と思います。
玉音放送は市ヶ谷で聞きました。
日本の飛行機はなくなって、航空に関係していれば負け戦はわかっていたので来るべきものが来たという感じです。
特攻には反対でしたが、特攻で敵の上陸に対して囮の敵鑑を撃沈したとしても飛行機は無くなり、敵鑑が上陸すればそれに対する手はないので、上の方では判っていたので来るべきものが来たという感じです。
ソ連の崩壊、湾岸戦争、イラク戦争等、もう少し指導者が歴史を考えてほしいですね。
今の中近東のいろいろなごたごたも第一次世界大戦の時に、ヨーロッパの各国の軍隊が中近東に入って来て、いろいろなことが有って、その時の軍隊の境が今の新しい民族国家の国の境になっている所もあり、国の境が直線になっているところもあり、問題があると思います。
軍隊の引きあげ方、後始末もしっかりしないで引き挙げていった場所もあり、尾を引いて色んな紛争をになっている。
欧米諸国が第一次世界大戦以来のやってきたことをもう一遍反省し直して、中近東の民族の歴史、部族の歴史を研究し直すことが、今後の歴史を変えてゆくのではないかと思います。
三笠宮殿下米寿記念論集 700ページ以上の論集が秋になると刊行されます。
誕生の前年1914年が第一次世界大戦が勃発、昭和天皇と14歳 秩父宮様13歳、高松宮様と10歳違う。
昭和天皇が摂政になったのが、大正10年頃、私は小学校にいく前で、摂政を置かれたということは健康がすぐれないと言う事ですから、記憶に残っているころは、摂政を置かれた時代なので大正天皇についていろいろ申し上げる資格はないです。
貞明皇后については当時としては一般の家庭とは違っていたので、親子で有りながら親子でない様な面が有りましたが、立派な方だったと思います。
皇后になると言うことは大変なことだったと思います、生まれる前のことなので噂に過ぎないが一時期精神的にも悩まれて、チブスにかかって静養されて、その間に精神的に持ち直したと言う事もあった様です。
今後もそういう問題は起こると思います。
小林:女帝問題が巷で出ていますが、、昭和21年11月3日の新憲法公布記念日の日付けで、三笠宮と書いた手書きの文書が残っていて、新憲法と皇室典範改正法案要綱案を枢密院に提出されたと、これは宮様が本当にお書きになったものですか?
当時、皇族は枢密院議員の資格が有り、会議に出ていましたが、発言したことを記録に残したと言う事です。
小林:女帝の問題も再検討されてしかるべきと発言になったが、枢密院でも黙殺されたと、こういう経過でしょうか?
昔は古い女官の方がお姑さんの様な役割をしたので貞明皇后も非常に悩んだと思うのですが、今はマスコミがいろいろ騒ぎすぎますね。
将来そういう立場になる人も怖気付くだろうし、日本の場合配偶者、女帝自体も大変だし、一般の人が配偶者になることは大変で、戦後華族制度が無くなって華族制度を無くすことは、今になって考えてみると天皇制の外掘りを埋められた様で、女帝になっても配偶者になる方がいないのではないかと思います。
理屈では女帝有ってしかるべきですが、現実問題問としては、はたしてどうなるのか。
小林:小さい頃は童謡の宮様といわれたそうですが?
「月夜の空を雁飛びて、宮君御殿でそれ見てる、宮君が御所から急ぎて帰る時、町に電灯つきにけるかな」 こういう童謡が歌われていたのか?
日光に夏は避暑に行く事になっていて、七夕の時期、たまたまその時期大正デモクラシーで皇室の内部状況を一般に見せる必要があると言う事で、大阪毎日の小野 賢一郎の一行が、活動写真を撮ると言う事で小野さんがたまたま短冊を発見してスクープして、本居長世さんという有名な作曲家に依り作られて、全国ツアーもやってました。
(本居長世の3女若葉さんが宮様の誕生会で歌われました。)
小さいころは、陸軍少将とか、御歌どころの東さん、橘さんとかお年よりの方が周りにおりました。
浪曲のレコードはいっぱいあって、洋楽のレコードはなくて家内も結婚した時に驚いていましたが。
夏休みの宿題で、関ヶ原の役を取り上げましたが、実際に歴史に関心を持ったのは陸軍大学の学生の時で、戦術(理論)、戦史は生きた人間を扱うので、戦術では出てこない物事が出てきて、人情の奥まで研究、人間的にも深い様なものを感じて、教官のもとでの実戦でも上手くいかないと言う事も実感して、戦史が大事だと感じました。
昭和天皇も歴史が好きだったが、どうしても歴史をやると政治的になるので、天皇は政治的になるといけないと言う事で歴史の研究はよくないと言われた様で生物のほうに行った様です。
関東大震災の時には日光にいて、庭に飛び出しました。
栗橋の鉄橋も壊れたし、電話線も切れました。
たまたま両陛下が来ていて、警戒のために近衛兵が来ていて、伝書鳩を持っていて伝書鳩でかろうじて東京と連絡が取れました。
関東大震災を歴史的に見直します時に忘れてはならないものが有ると思います。
死者が関東地方で約10万人、行方不明者が約4万人、東京だけで死者が6万人を越えて、その内の5万数千人は火事で焼け死んだといわれます。
地震と火事に依るパニック状態の中で、多くの在日朝鮮人が虐殺されたと言う事で有ります。
9月1日の夕方には不貞戦人が襲ってきて井戸へ毒を入れた、放火強盗、暴行を欲しいままにしていると言う様なうわさが飛び交い、社会主義者も加わってるという流言が飛び交って、その結果殺害された朝鮮人は政府発表では200人あまりと言われたが、実際はその10倍以上に及んだのではないかと推定されます。
現在の日本と隣国の民族間の感情問題にも関係してくるので、歴史的に見直すということが必要ではないかと考えています。
昭和7年陸軍士官学校の予科に入学。
明治43年に公布された皇族身位令、親王、王は満18歳に達したら、陸軍又は海軍の武官に任ず、という事で軍人への道に向かう。
秩父宮が海軍、高松宮が陸軍を希望したらしいが、当時陸軍と海軍が勢力争いをしていて陸軍が強くて、最初の皇族は陸軍でなくてはいけないと言う事で押し切ったらしくて、秩父宮が陸軍、高松宮が海軍と言う事になり希望とは反対の方に行ってしまった。
高松宮は船にとても弱いので大変苦労したと思います。
私は小学校のころから乗馬をしていたので陸軍に行く事になりました。
昭和18年支那派遣軍参謀という事で1年間中国に行っていました。
南京に1年間いて、南京を経つ前に将校たちに話をすることになり、南京に行く前に日本の政府で対華新方針が出されて、従来の日本軍のやり方が悪いことが多かった、当時の北支方面軍司令官岡村大将は4悪といわれ、民衆にたいする軍規が良くなかった。
それが反日思想を誇張させる、日本軍のやり方を改めなくてはいけないと言う事で日本政府が新しい方針を出しました。
その直後に赴任した訳で、大変幸せでありました。
各方面に行って、新しい方針を伝えて、中国人にたいする軍規を厳守しなくてはいけないと言う事を申し上げたわけですが、エピソードですが第一線の指揮官が従来は敵に攻めてゆくと家を焼いていた、後ろから見ているとどこまで進んでいたか判ったが、自分の部下が判らないという様な話をしていました。
日本軍が、蒋介石軍が制作した「勝利行進曲」という映画を獲得してそれをみて、重慶政府の宣伝映画でしたが、実際良く見ると実際の事を映画にしているのではないかと思いました、東京に戻る機会の時に昭和天皇にお見せしました。
軍規が良くはなったが手遅れで、数年前に新方針を出していれば、もうすこし効果があったとは思いますが。
小林:昭和46年秋 昭和天皇がヨーロパ御訪問の際に、外国人記者団に自分は立憲君主を念願として来たけれども2回だけ、非常に切迫した緊急事情のため直接的な行動を取った、その一つが2・21事件、もう一つが終戦の時であった、とお話しになったと言う事ですが。
昭和天皇は立憲君主を念願にしていらしった様ですが、2つの件についてどうでしたか?
明治維新以来、陸軍がフランス、海軍がイギリスの制度を取り入れて、フランスがプロシャに負けて陸軍がフランスの制度からプロシャ(ドイツ)の制度に切り替わってドイツ的な教育になって、第二次世界大戦のときにも災いをなしたのではないかと思いますが。
憲法もプロシャの憲法が草案になって伊藤博文も随分手を入れた様ですが、ドイツ的な専制君主と言っていいかどうか判りませんが。
西園寺侯爵が元老として天皇にアドバイスすると言う様になってから、イギリスの君臨すれども統治せずと言う様なイギリス式の君主の在り方をアドバイスしたのではないかと思います。
基本的にはドイツ的な憲法を実際的にはイギリス的に実行するというジレンマが有ったのではないかと思いますが。
小林:日露戦争についてはどう思われますか?
勝った勝ったと言う話が多いわけですが、戦史の講義を聞いた時に武力的には決して日本軍はロシア軍に対して強力では無かったと言う事を聞きまして驚いた訳ですが、最初の戦は鴨緑江のあたりで起きて、ロシア軍を撃退したということになっていて、ロシア軍を追い詰めて奉天の線まで行ったという事になっていますが、後から調べるとロシア軍が奉天の線まで下がったのは、ロシア軍の司令官が軍隊にたいして、日本軍の前進をすこしずつはばみながら奉天の線まで退却をするようにとの命令を出していたそうで、日本軍は撃退しながら奉天の線まで行って武力的に勝ったのではない。
日本では封建時代からお城があってこれを最後の一兵まで守ると言う武士道精神という様な気持ちが、日露戦争まで体に流れていたのではないかと、武力で敵を撃滅したということは少ないが、城を、街を死守すると言う事では力を発揮したと言う事を戦史で習いました。
最後はアメリカなどの仲裁で平和条約になったわけですが、ロシアが調印したのは政治的な国内問題でもってロシアは戦を止めたんだと、日本は勝った勝ったと提灯行列をしましたが、それ以来日本は強い、神風が吹くと言う様なことが一般の国民だけでなくて軍隊まで浸透していって、第二次世界大戦の時も神風が吹くと言う様な気分がみなぎっていたのではないかと思う。
日清、日露の戦争で日本は強いんだという様な誤った先入観で第二次世界大戦まで入ったんじゃないかと思います。
海軍は第一年度は勝つと、二年度は五分五分、三年目は判らないと言う風に判断していたが陸軍も科学的な判断を下していれば違ったかもしれないが、歴史の研究が十分でなかった結果ではないかと思います。歴史の研究は大事と思います。
玉音放送は市ヶ谷で聞きました。
日本の飛行機はなくなって、航空に関係していれば負け戦はわかっていたので来るべきものが来たという感じです。
特攻には反対でしたが、特攻で敵の上陸に対して囮の敵鑑を撃沈したとしても飛行機は無くなり、敵鑑が上陸すればそれに対する手はないので、上の方では判っていたので来るべきものが来たという感じです。
ソ連の崩壊、湾岸戦争、イラク戦争等、もう少し指導者が歴史を考えてほしいですね。
今の中近東のいろいろなごたごたも第一次世界大戦の時に、ヨーロッパの各国の軍隊が中近東に入って来て、いろいろなことが有って、その時の軍隊の境が今の新しい民族国家の国の境になっている所もあり、国の境が直線になっているところもあり、問題があると思います。
軍隊の引きあげ方、後始末もしっかりしないで引き挙げていった場所もあり、尾を引いて色んな紛争をになっている。
欧米諸国が第一次世界大戦以来のやってきたことをもう一遍反省し直して、中近東の民族の歴史、部族の歴史を研究し直すことが、今後の歴史を変えてゆくのではないかと思います。
2016年12月29日木曜日
三笠宮・小林(古代オリエント史学者)・オリエントを訪ねて(H16/4/7放送)
三笠宮・小林(古代オリエント史学者)・オリエントを訪ねて(H16/4/7放送)
明治時代に東京大学が出来た時に歴史学科が出来ました。
その時に西洋史、東洋史、国史の三本立てになり、それが今日まで続いています。
日本オリエント学会の発起人でもある杉勇先生が文部省に申請をして、大学院の方に中近東関係の学科を作ってよいと言う文章が規則の中に入りました。
学部の方に中近東関係の研究するものはできなくて、今でも西洋史、東洋史で扱っていました。
制度は一度できるとなかなか変わらない。
NHK学園で当時の理事長がこれから必要になる学問と言う事で、古代オリエント史講座を作ったのが昭和63年になり、監修を担当して、古代オリエント講座が発足しました。
通信教育講座。
古代オリエントの美術にあこがれる、宗教に興味を持った方、言語に興味を持った方がいますが、宗教社会学的な見地から、旧約聖書の研究に入ったものなので、若いころは美術、芸術等は現実から逃避するためにそういったものをやるものではないかと、誤った観念を持っていましたが、東京芸術大学で教えるようになったので関心を持つ様になりました。
歴史学はやはり生きんがための人間同士の血みどろの争いの足跡、その上に組み立てられてきたと思います。
研究する以上はドライに研究を始める方がいいと思います。
古代史はすでに出来上がっている様に思うかもしれないが、遺跡から出てくるもの、残されたわずかな文字に依る記録等に頼って歴史を組み立てるものなので、フィクションも多いが、これから研究する人は鋭い眼光を持って実際に実物のない、裏の裏まで見通して行かなくてはいけない。
歴史を書いた人の意見が入っているので注意しなければいけない。
古代史は実際に起こったこと言う風に考えやすいが、考古学的発屈、新たな場所から古い記録が発見されることもあるので、決して出来上ったものではなくて、これからの研究者が組み立てていくものだと言っています。
1956年サマーワを訪問 古代のシュメール(シュメル 私はそう言っています)。
京都大学中原先生から伺いましたが、戦争中に俗説として、シュメルをスメル、天皇のことをスメラミコトと言いますが、スメルのミコトであると、日本の天皇はシュメルから来たと言う俗説がはやったのでそれを抑えるために、中原先生はシュメール(長音を入れる)とシュメルではないと
言う風になさったらしいが、当時の一時的な便法であったので、昔の様に「シュメル」と直した方がいいと私は思っています。
1956年に初めて中近東の土を踏みましが、鼻の中がピリッと乾いた、乾燥の国に来たと痛感しました。
現地に行きますと、全て肌で感じる、ウル遺跡、ウルク遺跡に行きましたが、何とも言えない感じでした。
テラスを重ねた様な神殿で、下部の方は残っている。
イラク政府が修復を始めて、レンガの跡も新しい様な風に直ってくるので、1956年に私が撮った写真は現地に行っても見られないという価値が有るのかもしれません。
シンメトリーの研究。
シュメルの時代のはんこには、2種類有って、押すはんこと、粘土の上に葦の先を削って、粘土の上に文字を書いてゆくという習慣が有り、指の太さぐらいの円筒の周りに沈み彫りでいろいろなデザインで書いて、粘土の上に転がすと無限に絵が展開されて、円筒印章と呼ばれます。
円筒印章のデザインの中に真ん中に聖樹があり、その左右に対照的に動物を配置したと言うのが有ります。
西と東に伝搬して行って、真ん中の植物、動物の種類が変わってくるが、真ん中に神聖なもの、両脇に動物を配置するモチーフは変わらず、それがシルクロードを経て、中国に渡り、日本にもはいってきて、奈良の正倉院の宝物の中にも、植物、動物の種類が変わってくるが、そういったもののデザインが入ってきます。
中近東の歴史を学んでいるうちに日本の歴史にも関心を抱くようになり、両者の比較を始めました。
その手始めがシンメトリーのデザインだったと言う事です。
中近東では今でもシンメトリーのデザインが多いです。
ユダヤ教が紀元前6世紀ごろに現れましたが、ユダヤ教の用いてるデザインにもシンメトリーがあり、キリスト教でもそうですし、イスラム教でもシンメトリーのデザインが用いられています。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、所謂一神教の様な宗教が信仰された場所だと、シンメトリーのモチーフのデザインが用いられるんじゃないかと考えています。
日本では一般的にシンメトリーと言うものは、窮屈に感じる、奈良時代に中国から入ってくるが、平安時代になるとどこか崩されていくが、日本人はバランス感覚が発達してるので、見た目がおかしい様なところまでは崩しません。
日本では、宗教的な神社、お寺、家紋などにはシンメトリーが用いられるが、真ん中に植物、両側に生物という様なモチーフは極めて少ない。
多神教と言っても、シュメルと日本では異なるところが有りますし、一神教でもユダヤ教、キリスト教、イスラム教では異なるところが有り、注意しながら一神教、多神教の言葉を使うべきだと考えるようになりました。
昭和50年 エジプト訪問。
カデシュの戦い、紀元前1286年 エジプト19王朝ラメセス2世と、ヒッタイト新王国のカデシュの戦い。
アナトリアに国を設けたヒッタイトと、南のナイル川流域に国を建てたエジプトが戦うわけで、両方とも記録には自分の方が勝ったようなことが書いてあるが、実際にはそれほどはっきりした勝負はつかなかったのではないか、むしろヒッタイトに分が有った様なふうにもあるが、戦争の重要性は後で出来た平和条約、平和条約を結んでお互いに領土を侵略しないとか、第三国から攻撃をされた時には援軍を差しのべるとか、捕虜になった場合にも返還するとか、条約が有った。
現在の平和条約のルーツの様な感が有る。
ヒッタイトとエジプトでも同じ文章が発掘されている。
イラン2度訪問、昭和31年、46年。
ペルシャ ペルセポリス 2度行っています。
アケメネス王朝が古代オリエント史としては一番重要だと思っています。
紀元前6世紀ごろになるとペルシャ人が勢力を持つようになる。
民族、発屈の人骨では判らなくて、記録に残った言語に依ります。
シュメル人 独立したシュメル語を話していた。
南はバビロニア人、シリア人はセム語族の分類に入ります。
北はインドヨーロッパ語族(印欧語族) 紀元前2000年頃 ロシアのステップ地帯から東ヨーロッパに渡って広く分布していて遊牧をして馬を連れていたが、南に下って来て中近東の歴史に参加してくる。
ペルシャ人が中近東に入って来て勢力を伸ばして、殆ど征服して支配する様になる。
紀元前500年ごろにダレイオス大王が出てきて統治する。
世界帝国と称していい様な制度ができてきます。
税制、交通、宮殿等いろいろなことを成し遂げた、重要な遺跡が有ります。
ペルシャ帝国ができる前にバビロニア王国が有り、パレスチナにせめてユダの王国を征服して、ユダヤ人をバビロニア王国のバビロンにつれてきました、有名なバビロンの捕囚、ユダヤ人はバビロン付近に住まわせられていた。
政治的、宗教的な活動は許されなかった。
ユダヤ人は想を練ったり、宗教的な感覚を得たと思います。
ペルシャ帝国が成立すると、バビロンに捕えられていたユダヤ人が解放され、故郷のエルサレムに帰ってゆく。
エルサレムの神殿を再建するが、周りはそれぞれ権力を握った人たちがいて、再建がなかなかできなくて、ペルシャ王が支援をして、エルサレムの城壁、神殿も完成する。(第二神殿、紀元前515年)
ユダヤ人(ユダ部族)はそれまでいろいろな神を信仰していたが、ヤハウェの神を唯一の神とする。
純粋なユダ部族が固まり、ヤハウェという一つの神だけを信じる、第二神殿でもって新しい宗教集団として営みを始める、それがユダヤ教です。
ペルシャ帝国が西南にあるエジプトを考慮してパレスチナに防御のための橋頭保にしようとユダヤ人にゆだねたと思われます。
一神教はペルシャ帝国の政治的な状況の基にユダヤの一神教ができ上ったとこういうふうに考えたらどうかと思います。
ササン朝は勢力が衰えてくると、有力者がシルクロードを経て中国に流れてきて、ササン朝の文化(オリエント文化)が中国に入って来て、やがて日本に入ってくると言う事です。
明治時代に東京大学が出来た時に歴史学科が出来ました。
その時に西洋史、東洋史、国史の三本立てになり、それが今日まで続いています。
日本オリエント学会の発起人でもある杉勇先生が文部省に申請をして、大学院の方に中近東関係の学科を作ってよいと言う文章が規則の中に入りました。
学部の方に中近東関係の研究するものはできなくて、今でも西洋史、東洋史で扱っていました。
制度は一度できるとなかなか変わらない。
NHK学園で当時の理事長がこれから必要になる学問と言う事で、古代オリエント史講座を作ったのが昭和63年になり、監修を担当して、古代オリエント講座が発足しました。
通信教育講座。
古代オリエントの美術にあこがれる、宗教に興味を持った方、言語に興味を持った方がいますが、宗教社会学的な見地から、旧約聖書の研究に入ったものなので、若いころは美術、芸術等は現実から逃避するためにそういったものをやるものではないかと、誤った観念を持っていましたが、東京芸術大学で教えるようになったので関心を持つ様になりました。
歴史学はやはり生きんがための人間同士の血みどろの争いの足跡、その上に組み立てられてきたと思います。
研究する以上はドライに研究を始める方がいいと思います。
古代史はすでに出来上がっている様に思うかもしれないが、遺跡から出てくるもの、残されたわずかな文字に依る記録等に頼って歴史を組み立てるものなので、フィクションも多いが、これから研究する人は鋭い眼光を持って実際に実物のない、裏の裏まで見通して行かなくてはいけない。
歴史を書いた人の意見が入っているので注意しなければいけない。
古代史は実際に起こったこと言う風に考えやすいが、考古学的発屈、新たな場所から古い記録が発見されることもあるので、決して出来上ったものではなくて、これからの研究者が組み立てていくものだと言っています。
1956年サマーワを訪問 古代のシュメール(シュメル 私はそう言っています)。
京都大学中原先生から伺いましたが、戦争中に俗説として、シュメルをスメル、天皇のことをスメラミコトと言いますが、スメルのミコトであると、日本の天皇はシュメルから来たと言う俗説がはやったのでそれを抑えるために、中原先生はシュメール(長音を入れる)とシュメルではないと
言う風になさったらしいが、当時の一時的な便法であったので、昔の様に「シュメル」と直した方がいいと私は思っています。
1956年に初めて中近東の土を踏みましが、鼻の中がピリッと乾いた、乾燥の国に来たと痛感しました。
現地に行きますと、全て肌で感じる、ウル遺跡、ウルク遺跡に行きましたが、何とも言えない感じでした。
テラスを重ねた様な神殿で、下部の方は残っている。
イラク政府が修復を始めて、レンガの跡も新しい様な風に直ってくるので、1956年に私が撮った写真は現地に行っても見られないという価値が有るのかもしれません。
シンメトリーの研究。
シュメルの時代のはんこには、2種類有って、押すはんこと、粘土の上に葦の先を削って、粘土の上に文字を書いてゆくという習慣が有り、指の太さぐらいの円筒の周りに沈み彫りでいろいろなデザインで書いて、粘土の上に転がすと無限に絵が展開されて、円筒印章と呼ばれます。
円筒印章のデザインの中に真ん中に聖樹があり、その左右に対照的に動物を配置したと言うのが有ります。
西と東に伝搬して行って、真ん中の植物、動物の種類が変わってくるが、真ん中に神聖なもの、両脇に動物を配置するモチーフは変わらず、それがシルクロードを経て、中国に渡り、日本にもはいってきて、奈良の正倉院の宝物の中にも、植物、動物の種類が変わってくるが、そういったもののデザインが入ってきます。
中近東の歴史を学んでいるうちに日本の歴史にも関心を抱くようになり、両者の比較を始めました。
その手始めがシンメトリーのデザインだったと言う事です。
中近東では今でもシンメトリーのデザインが多いです。
ユダヤ教が紀元前6世紀ごろに現れましたが、ユダヤ教の用いてるデザインにもシンメトリーがあり、キリスト教でもそうですし、イスラム教でもシンメトリーのデザインが用いられています。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、所謂一神教の様な宗教が信仰された場所だと、シンメトリーのモチーフのデザインが用いられるんじゃないかと考えています。
日本では一般的にシンメトリーと言うものは、窮屈に感じる、奈良時代に中国から入ってくるが、平安時代になるとどこか崩されていくが、日本人はバランス感覚が発達してるので、見た目がおかしい様なところまでは崩しません。
日本では、宗教的な神社、お寺、家紋などにはシンメトリーが用いられるが、真ん中に植物、両側に生物という様なモチーフは極めて少ない。
多神教と言っても、シュメルと日本では異なるところが有りますし、一神教でもユダヤ教、キリスト教、イスラム教では異なるところが有り、注意しながら一神教、多神教の言葉を使うべきだと考えるようになりました。
昭和50年 エジプト訪問。
カデシュの戦い、紀元前1286年 エジプト19王朝ラメセス2世と、ヒッタイト新王国のカデシュの戦い。
アナトリアに国を設けたヒッタイトと、南のナイル川流域に国を建てたエジプトが戦うわけで、両方とも記録には自分の方が勝ったようなことが書いてあるが、実際にはそれほどはっきりした勝負はつかなかったのではないか、むしろヒッタイトに分が有った様なふうにもあるが、戦争の重要性は後で出来た平和条約、平和条約を結んでお互いに領土を侵略しないとか、第三国から攻撃をされた時には援軍を差しのべるとか、捕虜になった場合にも返還するとか、条約が有った。
現在の平和条約のルーツの様な感が有る。
ヒッタイトとエジプトでも同じ文章が発掘されている。
イラン2度訪問、昭和31年、46年。
ペルシャ ペルセポリス 2度行っています。
アケメネス王朝が古代オリエント史としては一番重要だと思っています。
紀元前6世紀ごろになるとペルシャ人が勢力を持つようになる。
民族、発屈の人骨では判らなくて、記録に残った言語に依ります。
シュメル人 独立したシュメル語を話していた。
南はバビロニア人、シリア人はセム語族の分類に入ります。
北はインドヨーロッパ語族(印欧語族) 紀元前2000年頃 ロシアのステップ地帯から東ヨーロッパに渡って広く分布していて遊牧をして馬を連れていたが、南に下って来て中近東の歴史に参加してくる。
ペルシャ人が中近東に入って来て勢力を伸ばして、殆ど征服して支配する様になる。
紀元前500年ごろにダレイオス大王が出てきて統治する。
世界帝国と称していい様な制度ができてきます。
税制、交通、宮殿等いろいろなことを成し遂げた、重要な遺跡が有ります。
ペルシャ帝国ができる前にバビロニア王国が有り、パレスチナにせめてユダの王国を征服して、ユダヤ人をバビロニア王国のバビロンにつれてきました、有名なバビロンの捕囚、ユダヤ人はバビロン付近に住まわせられていた。
政治的、宗教的な活動は許されなかった。
ユダヤ人は想を練ったり、宗教的な感覚を得たと思います。
ペルシャ帝国が成立すると、バビロンに捕えられていたユダヤ人が解放され、故郷のエルサレムに帰ってゆく。
エルサレムの神殿を再建するが、周りはそれぞれ権力を握った人たちがいて、再建がなかなかできなくて、ペルシャ王が支援をして、エルサレムの城壁、神殿も完成する。(第二神殿、紀元前515年)
ユダヤ人(ユダ部族)はそれまでいろいろな神を信仰していたが、ヤハウェの神を唯一の神とする。
純粋なユダ部族が固まり、ヤハウェという一つの神だけを信じる、第二神殿でもって新しい宗教集団として営みを始める、それがユダヤ教です。
ペルシャ帝国が西南にあるエジプトを考慮してパレスチナに防御のための橋頭保にしようとユダヤ人にゆだねたと思われます。
一神教はペルシャ帝国の政治的な状況の基にユダヤの一神教ができ上ったとこういうふうに考えたらどうかと思います。
ササン朝は勢力が衰えてくると、有力者がシルクロードを経て中国に流れてきて、ササン朝の文化(オリエント文化)が中国に入って来て、やがて日本に入ってくると言う事です。
2016年12月28日水曜日
三笠宮・小林(古代オリエント史学者)・三笠宮様と古代オリエント(H16/4/6放送)
三笠宮・小林(古代オリエント史学者)・三笠宮様と古代オリエント(H16/4/6放送)
10月27日、昭和天皇の末の弟君、三笠宮崇仁様が亡くなられました、100歳でした。
三笠宮様は生前、オリエントの宮様の愛称で親しまれるほど、古代オリエント史に造詣が深く、東京芸術大学等で講義をさたり講演も数多くなさっています。
ラジオ深夜便にも12年前「心の時代」に御出演されています。
三笠宮様を偲んでオリエントに思うをアンコール放送します。
私が陸軍の参謀をしていまして、中国、南京の支那派遣軍総司令部におりまして、いろいろ見聞をしまして、キリスト教の宣教師の方が山の奥に入って伝道に勤めているとか、八路軍(中国の共産軍)が日本軍と対峙していて、岩山でどこからか土を運んできて農耕をすると言う様なこともありました。
中国の民衆に対していろいろな問題を起こした訳でしたが、
八路軍は婦女子に対する軍規が厳正であった、情熱が優れていた。
そういったことがどこから来るんだろうと考えていて、敗戦になりもういっぺん勉強し直さなくてはいけないと言う事で東京大学の文学部の研究生となり、西洋史を山中先生についてキリスト教を学んで、さかのぼってゆき、宗教改革、もっと古いことを知りたくて、宗教史、大畠清先生の講義を伺う様になりました。
キリスト教も新約聖書から旧約聖書までさかのぼらないとわかりませんし、八路軍のマルクシズムも、マルクスが代々ユダヤ教のラビ学者(律法学者)の家に生まれていて、ユダヤ教のことも聞いていたと思います。
キリスト教もマルクシズムも辿ってゆくと旧約聖書の問題になるのではないかと思って、東大の文学部に入る時には旧約聖書の研究をしていました。
創世記、天地創造の物語、ノアの洪水の物語など有りまして、出エジプト記もあり、物語の基が今のイラクの古い所、メソポタミア文明になり、古代エジプトの歴史になり、物語の基を探るようになり、範囲が広がっていって、古代オリエントの研究になったわけです。
旧約聖書の一番最初に創世記が有りますが、天地創造物語が有り、洪水物語があり、ノアの洪水と一般的に言われますが、流れつくところがアララト山という事になっています。
今のトルコの東の国境付近にあります。
好奇心の強い人がアララト山に登って流れついた船を探そうとした人がいます。
洪水物語で一番基はイラクで人類最古の文明を栄えさせたシュメル人の作った洪水物語、チグリス川、ユーフラテス川、特にチグリス川が毎年洪水を出して、その悲惨な物語がシュメル人の洪水物語になっています。
シュメル人の洪水物語がバビロニア、シリアとかの民族に伝わり、船に乗って助かる人の名前も、山の名前も民族に判る様な名前に変わってきます。
その後、パレスチナに行ってノアになり、船の泊ったところがアララト山になり、決してノア、アララト山が実際の地名、人名ではない訳です。
旧約聖書を学ぶ時に周辺の諸民族の歴史を研究する必要が有ると思います。
オリエントという言葉は、古いラテン語にある「登る太陽」とか、東の方を意味したオリエンスという言葉に由来します。
イタリア半島に住んだローマ人はラテン語を話していて、東にはギリシャが有り、ローマ人はギリシャの文明を高く評価していて尊敬していたのでギリシャ文明を取り入れて、ギリシャ文明は東から来る、光は東方よりと言う有名な言葉を残したわけで、近年では拡大解釈をされて、ヨーロッパから見て東、アジアから光が来ると言う事にも使われていますが。
オリエンスが今ではオリエントという事になりました。
中近東の範囲がオリエントですが、今では英語でオリエントと言うと東アジア、日本までも入ると言う事が有ります。
古代オリエント、多少範囲が違うが、西は東部地中海地方、北は黒海、カスピ海を連なる線、南はエジプトのナイル川流域地方、アラビア半島、 東はペルシャ帝国の東端、或いはアレクサンドロス大王が征服して行った、インダス川流域の支流五川地方迄を考えたらいいと思います。
時間的に考えると、5000年前ぐらいから文字を用いだして、ペルシャ帝国、ペルシャ帝国を滅ぼしたアレクサンドロス大王の時代までを終りとしたと思います。
アレクサンドロス大王はマケドニアの王でギリシャ兵を連れて遠征して、ギリシャ風の文明、ヘレニズム文明がアジアの方まで入ってきた。
古代オリエント文明はアレクサンドロス大王の遠征までその後はヘレニズム文明と考えたらいいと思います。
紀元前3500年~紀元前330年ぐらいまでが、古代オリエントの占める時代。
近東、中東、中近東、 地理的な名称というよりは政治的名称
近東:第一次世界大戦が始まる直前に支配していたのがオスマントルコ帝国で、ヨーロッパの諸国がオスマントルコの領土に野心を持ち始めて、ヨーロッパから見てオスマントルコ帝国の西の方の部分を指して近東(Near East)と呼ぶようになり、極東(Far East)は東アジア、日本あたりを指すがかつては、インドあたりと思われる。
近東と極東の間を中東(Middle East)という様になった。
近年になり中近東(the Middle and Near East)という名称が使われるようになりました。
第二次世界大戦が終わって、東京大学の文学部の研究生になり、旧約聖書を中心とした歴史を調べていたが、古代オリエントの歴史を研究している学者が少ないと言う事、中近東諸国との経済関係が深くなってきたので、研究組織を作らなければいけないと思って、古代オリエントを研究していた先生方に相談をしまして、オリエント学会を作った訳です。
1954年、昭和29年に正式に成立しました。
古代から現代までの研究をしなくてはいけないと言う事で、「日本オリエント学会」として、英語では
「THE SOCIETY FOR NEAR EASTERN STUDIES IN JAPAN」
正会員が70人ぐらいでした。(維持会員が10人余り)
昭和53年には維持会員は237名に達しました、現在正会員は700人余りになりましたが、維持会員は90人以下に減少しています。
「オリエント通信」雑誌が出ていたが、その後纏まって単行本が出ました。
日本オリエント学会が発展して、研究者の組織はそれでよかったのですが、研究の資料を提供する、図書を閲覧する場所が必要になり、博物館と図書館を管轄する組織が無かったので、一緒にする所がほしかった。
両者を平等にしないで一方を上位に持っていったような文章に直してようやく国の許可を得て、ICU(国際キリスト教大学)で講演をした時に、中川先生が学長でその話をしたら、学校の牧場だった所を購入して、出光美術館の三鷹分館という形で建物が出来ました。(昭和50年)
「日本オリエント学会」の事務所 三笠宮研究室
東伏見宮様の屋敷を宮内庁が管理していて(今、常陸宮様のあるところ)、の一部屋を借りて勉強したりしていましたが、今の陛下が東宮時代にお入りになると言う事で、出なくてはいけなくなって、宮内庁の資料部に一部屋空いていると言う事でそこを借りて三笠宮研究室になりました。
日本オリエント学会ができた時にそこを事務所にしようと言う事になりました。
助手の村井すみえさんが日本オリエント学会も兼務すると言う事になりました。
宮内庁という国の役所に民間の事務所を置くことはいけないと言う事で出なくてはいけなくなり、理事の加納 久朗さんが持っていました太平洋協会に事務所を移しました。
日本オリエント学会の強力なスポンサーであった天理教の中山正善氏で、図書なども買っていただいたりしていて、天理教館が出来た時に日本オリエント学会の事務所もそこに移りまして、現在まで続いています。
今年の秋、それぞれが執筆する形で、古代オリエント事典を出すことになりました。
固有名詞を(地名、人名)を日本のカタカナに直すということは本当に大変です。
執筆者184名、800ページになろうかという本です。
中近東文化センターとしてはトルコの発掘は大変重要なことと思っていて、募金のために3年前から全県下で講演をやっています。
最小限の目標は達せられて、アナトリア考古学研究所の組織を作って、建物を建て替える計画をしています。
10月27日、昭和天皇の末の弟君、三笠宮崇仁様が亡くなられました、100歳でした。
三笠宮様は生前、オリエントの宮様の愛称で親しまれるほど、古代オリエント史に造詣が深く、東京芸術大学等で講義をさたり講演も数多くなさっています。
ラジオ深夜便にも12年前「心の時代」に御出演されています。
三笠宮様を偲んでオリエントに思うをアンコール放送します。
私が陸軍の参謀をしていまして、中国、南京の支那派遣軍総司令部におりまして、いろいろ見聞をしまして、キリスト教の宣教師の方が山の奥に入って伝道に勤めているとか、八路軍(中国の共産軍)が日本軍と対峙していて、岩山でどこからか土を運んできて農耕をすると言う様なこともありました。
中国の民衆に対していろいろな問題を起こした訳でしたが、
八路軍は婦女子に対する軍規が厳正であった、情熱が優れていた。
そういったことがどこから来るんだろうと考えていて、敗戦になりもういっぺん勉強し直さなくてはいけないと言う事で東京大学の文学部の研究生となり、西洋史を山中先生についてキリスト教を学んで、さかのぼってゆき、宗教改革、もっと古いことを知りたくて、宗教史、大畠清先生の講義を伺う様になりました。
キリスト教も新約聖書から旧約聖書までさかのぼらないとわかりませんし、八路軍のマルクシズムも、マルクスが代々ユダヤ教のラビ学者(律法学者)の家に生まれていて、ユダヤ教のことも聞いていたと思います。
キリスト教もマルクシズムも辿ってゆくと旧約聖書の問題になるのではないかと思って、東大の文学部に入る時には旧約聖書の研究をしていました。
創世記、天地創造の物語、ノアの洪水の物語など有りまして、出エジプト記もあり、物語の基が今のイラクの古い所、メソポタミア文明になり、古代エジプトの歴史になり、物語の基を探るようになり、範囲が広がっていって、古代オリエントの研究になったわけです。
旧約聖書の一番最初に創世記が有りますが、天地創造物語が有り、洪水物語があり、ノアの洪水と一般的に言われますが、流れつくところがアララト山という事になっています。
今のトルコの東の国境付近にあります。
好奇心の強い人がアララト山に登って流れついた船を探そうとした人がいます。
洪水物語で一番基はイラクで人類最古の文明を栄えさせたシュメル人の作った洪水物語、チグリス川、ユーフラテス川、特にチグリス川が毎年洪水を出して、その悲惨な物語がシュメル人の洪水物語になっています。
シュメル人の洪水物語がバビロニア、シリアとかの民族に伝わり、船に乗って助かる人の名前も、山の名前も民族に判る様な名前に変わってきます。
その後、パレスチナに行ってノアになり、船の泊ったところがアララト山になり、決してノア、アララト山が実際の地名、人名ではない訳です。
旧約聖書を学ぶ時に周辺の諸民族の歴史を研究する必要が有ると思います。
オリエントという言葉は、古いラテン語にある「登る太陽」とか、東の方を意味したオリエンスという言葉に由来します。
イタリア半島に住んだローマ人はラテン語を話していて、東にはギリシャが有り、ローマ人はギリシャの文明を高く評価していて尊敬していたのでギリシャ文明を取り入れて、ギリシャ文明は東から来る、光は東方よりと言う有名な言葉を残したわけで、近年では拡大解釈をされて、ヨーロッパから見て東、アジアから光が来ると言う事にも使われていますが。
オリエンスが今ではオリエントという事になりました。
中近東の範囲がオリエントですが、今では英語でオリエントと言うと東アジア、日本までも入ると言う事が有ります。
古代オリエント、多少範囲が違うが、西は東部地中海地方、北は黒海、カスピ海を連なる線、南はエジプトのナイル川流域地方、アラビア半島、 東はペルシャ帝国の東端、或いはアレクサンドロス大王が征服して行った、インダス川流域の支流五川地方迄を考えたらいいと思います。
時間的に考えると、5000年前ぐらいから文字を用いだして、ペルシャ帝国、ペルシャ帝国を滅ぼしたアレクサンドロス大王の時代までを終りとしたと思います。
アレクサンドロス大王はマケドニアの王でギリシャ兵を連れて遠征して、ギリシャ風の文明、ヘレニズム文明がアジアの方まで入ってきた。
古代オリエント文明はアレクサンドロス大王の遠征までその後はヘレニズム文明と考えたらいいと思います。
紀元前3500年~紀元前330年ぐらいまでが、古代オリエントの占める時代。
近東、中東、中近東、 地理的な名称というよりは政治的名称
近東:第一次世界大戦が始まる直前に支配していたのがオスマントルコ帝国で、ヨーロッパの諸国がオスマントルコの領土に野心を持ち始めて、ヨーロッパから見てオスマントルコ帝国の西の方の部分を指して近東(Near East)と呼ぶようになり、極東(Far East)は東アジア、日本あたりを指すがかつては、インドあたりと思われる。
近東と極東の間を中東(Middle East)という様になった。
近年になり中近東(the Middle and Near East)という名称が使われるようになりました。
第二次世界大戦が終わって、東京大学の文学部の研究生になり、旧約聖書を中心とした歴史を調べていたが、古代オリエントの歴史を研究している学者が少ないと言う事、中近東諸国との経済関係が深くなってきたので、研究組織を作らなければいけないと思って、古代オリエントを研究していた先生方に相談をしまして、オリエント学会を作った訳です。
1954年、昭和29年に正式に成立しました。
古代から現代までの研究をしなくてはいけないと言う事で、「日本オリエント学会」として、英語では
「THE SOCIETY FOR NEAR EASTERN STUDIES IN JAPAN」
正会員が70人ぐらいでした。(維持会員が10人余り)
昭和53年には維持会員は237名に達しました、現在正会員は700人余りになりましたが、維持会員は90人以下に減少しています。
「オリエント通信」雑誌が出ていたが、その後纏まって単行本が出ました。
日本オリエント学会が発展して、研究者の組織はそれでよかったのですが、研究の資料を提供する、図書を閲覧する場所が必要になり、博物館と図書館を管轄する組織が無かったので、一緒にする所がほしかった。
両者を平等にしないで一方を上位に持っていったような文章に直してようやく国の許可を得て、ICU(国際キリスト教大学)で講演をした時に、中川先生が学長でその話をしたら、学校の牧場だった所を購入して、出光美術館の三鷹分館という形で建物が出来ました。(昭和50年)
「日本オリエント学会」の事務所 三笠宮研究室
東伏見宮様の屋敷を宮内庁が管理していて(今、常陸宮様のあるところ)、の一部屋を借りて勉強したりしていましたが、今の陛下が東宮時代にお入りになると言う事で、出なくてはいけなくなって、宮内庁の資料部に一部屋空いていると言う事でそこを借りて三笠宮研究室になりました。
日本オリエント学会ができた時にそこを事務所にしようと言う事になりました。
助手の村井すみえさんが日本オリエント学会も兼務すると言う事になりました。
宮内庁という国の役所に民間の事務所を置くことはいけないと言う事で出なくてはいけなくなり、理事の加納 久朗さんが持っていました太平洋協会に事務所を移しました。
日本オリエント学会の強力なスポンサーであった天理教の中山正善氏で、図書なども買っていただいたりしていて、天理教館が出来た時に日本オリエント学会の事務所もそこに移りまして、現在まで続いています。
今年の秋、それぞれが執筆する形で、古代オリエント事典を出すことになりました。
固有名詞を(地名、人名)を日本のカタカナに直すということは本当に大変です。
執筆者184名、800ページになろうかという本です。
中近東文化センターとしてはトルコの発掘は大変重要なことと思っていて、募金のために3年前から全県下で講演をやっています。
最小限の目標は達せられて、アナトリア考古学研究所の組織を作って、建物を建て替える計画をしています。
2016年12月27日火曜日
小檜山 博(作家・館長) ・人生讃歌
小檜山 博(作家・NPO法人「北の映像ミュージアム」館長) ・人生讃歌
1937年 昭和12年に北海道滝の上町生まれ、79歳、作家です。
新聞社に勤め、その傍ら執筆活動を始め、1976年発表の作品「出刃」は北方文芸賞を受賞、芥川賞の候補にもなりました。
その2年後、「イタチ捕り」が直木賞の候補になったほか、泉鏡花文学賞を受賞した、「光る女」は後に、相米慎二監督に依り映画化されました。
北海道内を走るJRの列車内に置かれる冊子に、長年エッセーを連載していてその温かな作風は根強い人気が有ります。
札幌市にある「北の映像ミュージアム」の館長、映画夕張国際映画祭の実行委員長としても活躍しています。
苫小牧工業高校電気科に進みました。
他人への思いやりの多さがその人間をきめると思っていますが、「チャリン」と音がすると振り向いてしまう自分がいて、心、心と言っていても金にはかなわないのかもしれないと、無意識に思ってしまうのかなあとの不安さが有ります。
お金で買えないものはないと、聞いたりするが「なにを」と思う事が起きます。
金では買えないものを残しておきたいという気持ちが僕の中にあります。
父が20歳、母が24歳の時に福島から北海道に出稼ぎに来ました。
両親が炭焼きをするために金物屋から、鋸とまさかりを借りようとしたら、保証人を連れてくるように言われたそうで、思いついたのが小学校の校長先生で、行ったところ保証人なってもらえて、泊るところが無かったが、泊めてもらいました。
両親がそれから時々話してくれて、僕の中に沁み込みました。
北海道に来る人たちは次男三男が多かった。
本州からの古い歴史観、風習などが北海道に持ち込まれなかったことと、78人のお雇い外国人が北海道に来て、テーブル、椅子等の洋風の施設ができていた。
自由と平等の気風が育っていった。
母親も男と同じ仕事をやっていて発言も強かった。
4歳まで炭焼き小屋で育って、次の山、次の山へと13回変わっていって、その都度小屋を作ってそこで寝ていました。
中学2年の時に村の学校から町の学校に転校して片道17kmの山道を毎日通いました。
朝4時半に起きて2時間ちょっと掛かって、家に帰ると夜の8時ぐらいになって、夕食食べて風呂も入らず寝てしまう生活をしていました。
その後遠い親せきに居候をして、そこは8人の子供がいて、そこに唯寝させてもらうだけでした。
腹が減ってしょうがなくて、或るとき実家に帰って、夜8時頃こっそり出掛けて家には12寺近かったが、母から箒を持ってきて叩かれました。
13歳にもなって、家の人達がおまわりを頼んで町中おまえを探すかもしれないことが判らないのかといわれました。(食べさせてはもらったが)
おばさんが起きていたらなんていうのだと言われ、帰った時は3時半ぐらいになり、どう言おうか判らなかったが、おばさんは気がつかずに寝ていまいた。
それから思い出すが、母親がどういわせようとしたのか、判らない。
それから65年が経ちました。
実家に飯を食いに帰ったことは言えない、飯を食いに実家に帰ったことは正しくなかったのではないかとだけは思っています。
中学を終わってきこりになるつもりでしたが、先生が3回父親を説得して苫小牧工業高校電気科に進みました。
或るときジャンバルジャン「ああ無情」の映画を見に行く事になっていました。
母親に映画代10円をくれとは言えなかった。(その前に20円のワークブック代を母親に言ったがもらえなかったので、ワークブック代を先生から借りた)
その日、仮病を使って早引きしました。
皆が映画館に入ってゆくのを見ていました、10円の恐ろしさを知っていました。
帰る度に母親から学校を辞めるように言われましたが、何とか3日3晩頼んで過ごしました。
寮仲間でアルバイトをするのにじゃんけんをして決めていましたが、或るとき裕福な先輩が加わって来て、彼がじゃんけんに勝ってアルバイトの仕事を譲ってくれました。
卒業式に卒業証書を貰えなかった、授業料などを2カ月分払ってなかった。
払った時点で卒業証書をもらうという事だった。
寮で食べることもできずに部屋で過ごしていたら、後輩3人が自分達の分を残して飯と味噌汁を調達してくれて、泣きながらそれを食べました。
7日後に父親がお金は払う事が出来ました。
新聞社に勤めて、小説を書いてゆく事になり、46歳の時に、卒業した時の3人(当時東京の会社にいた土木部長、、支店長になっていた)を温泉に呼んで御馳走することにしました。
あの時の飯が一番おいしかったと言ったが、3人は全然覚えてないとケラケラ笑っていましたが、覚えていないことはないと思いました。
例え彼らが忘れたとしても自分は忘れるわけにはいかないと思いました。
苫小牧工業高校電気科に行って、教わった事は人間にとって優しさとは何かを学びました。
全国138校廻ったりしましたが、メールで挨拶するので声を出さなくても言う必要がないと言って先生も困っているとの事で、どういう育て方をしたのか。
「今日はいいお天気ですね」(ところであなたのお体の具合はいかがですか、という相手を思いやる言葉)→「今日は」が「こんにちわ」になる。
これを親が教えなかったことはショックです。
「さようなら」 はまたお会いできるまでお元気で、という意味です。
学校に行く前に、子供に教えなくてはいけない言葉が1500語ある。
「行ってまいります」(行って帰って来るから大丈夫)、「行っていらっしゃい」
「ただいま」 唯今。(ただいま帰りました)
人間は言葉で考える。
思考力、判断力、主義主張全て言葉。
学力 子供自ら学びとる生きる力を学力と言う。(3つ)
①他人の心を感じ取る力
②他人と協力しあう力
③自分の感情をコントロールする力
お世話になった教育長が60歳で倒れてしまいました。
お礼の意味を込めて、はがきを毎日書いて届けました。
200枚を越えて、350枚、400枚を越えた時に亡くなってしまいました。
奥さんははがきを楽しみに生きてくれました、と言ってくれました。
私も残り少なくなってきたと思うので、お金のことだけは考えまいと思います。
お金のことを考える暇がない、本を読み、連載を5本持っているので沢山ものを書いて、カラオケをやり、酒を飲み、家族と友達と喋る。
40年前、原稿を頼みたいと言う事で、東京で会うことになったが東京に行く為の10万円のお金が無かった。
高校の友人(義侠心の強い人)が11回の退学処分の時に、先生が土下座をして彼を辞めさせるなら自分も辞めると言って彼の退学を救った。
その彼が30歳で社長になって、彼から10万円を借りて東京に行きました。
その時に書いた小説が直木賞の候補になっていきました。
金を返そうと、おでん屋で飲んで、お金を返したら、奥さんに3万円、自分に3万円、残りを取っておけと言って、「いいんだお前 困った時はお互いさまよ」と言ってくれました。
彼は自分を職員会議から救ってくれた先生ご夫妻に対して、お礼の意味で海外旅行を12年間全て援助し続けたそうです。
61歳の時に病気で亡くなっていきましたが、彼からもらった言葉、「いいんだお前 困った時はお互いさまよ」を座右の銘にして生きていきたいと思っています。
1937年 昭和12年に北海道滝の上町生まれ、79歳、作家です。
新聞社に勤め、その傍ら執筆活動を始め、1976年発表の作品「出刃」は北方文芸賞を受賞、芥川賞の候補にもなりました。
その2年後、「イタチ捕り」が直木賞の候補になったほか、泉鏡花文学賞を受賞した、「光る女」は後に、相米慎二監督に依り映画化されました。
北海道内を走るJRの列車内に置かれる冊子に、長年エッセーを連載していてその温かな作風は根強い人気が有ります。
札幌市にある「北の映像ミュージアム」の館長、映画夕張国際映画祭の実行委員長としても活躍しています。
苫小牧工業高校電気科に進みました。
他人への思いやりの多さがその人間をきめると思っていますが、「チャリン」と音がすると振り向いてしまう自分がいて、心、心と言っていても金にはかなわないのかもしれないと、無意識に思ってしまうのかなあとの不安さが有ります。
お金で買えないものはないと、聞いたりするが「なにを」と思う事が起きます。
金では買えないものを残しておきたいという気持ちが僕の中にあります。
父が20歳、母が24歳の時に福島から北海道に出稼ぎに来ました。
両親が炭焼きをするために金物屋から、鋸とまさかりを借りようとしたら、保証人を連れてくるように言われたそうで、思いついたのが小学校の校長先生で、行ったところ保証人なってもらえて、泊るところが無かったが、泊めてもらいました。
両親がそれから時々話してくれて、僕の中に沁み込みました。
北海道に来る人たちは次男三男が多かった。
本州からの古い歴史観、風習などが北海道に持ち込まれなかったことと、78人のお雇い外国人が北海道に来て、テーブル、椅子等の洋風の施設ができていた。
自由と平等の気風が育っていった。
母親も男と同じ仕事をやっていて発言も強かった。
4歳まで炭焼き小屋で育って、次の山、次の山へと13回変わっていって、その都度小屋を作ってそこで寝ていました。
中学2年の時に村の学校から町の学校に転校して片道17kmの山道を毎日通いました。
朝4時半に起きて2時間ちょっと掛かって、家に帰ると夜の8時ぐらいになって、夕食食べて風呂も入らず寝てしまう生活をしていました。
その後遠い親せきに居候をして、そこは8人の子供がいて、そこに唯寝させてもらうだけでした。
腹が減ってしょうがなくて、或るとき実家に帰って、夜8時頃こっそり出掛けて家には12寺近かったが、母から箒を持ってきて叩かれました。
13歳にもなって、家の人達がおまわりを頼んで町中おまえを探すかもしれないことが判らないのかといわれました。(食べさせてはもらったが)
おばさんが起きていたらなんていうのだと言われ、帰った時は3時半ぐらいになり、どう言おうか判らなかったが、おばさんは気がつかずに寝ていまいた。
それから思い出すが、母親がどういわせようとしたのか、判らない。
それから65年が経ちました。
実家に飯を食いに帰ったことは言えない、飯を食いに実家に帰ったことは正しくなかったのではないかとだけは思っています。
中学を終わってきこりになるつもりでしたが、先生が3回父親を説得して苫小牧工業高校電気科に進みました。
或るときジャンバルジャン「ああ無情」の映画を見に行く事になっていました。
母親に映画代10円をくれとは言えなかった。(その前に20円のワークブック代を母親に言ったがもらえなかったので、ワークブック代を先生から借りた)
その日、仮病を使って早引きしました。
皆が映画館に入ってゆくのを見ていました、10円の恐ろしさを知っていました。
帰る度に母親から学校を辞めるように言われましたが、何とか3日3晩頼んで過ごしました。
寮仲間でアルバイトをするのにじゃんけんをして決めていましたが、或るとき裕福な先輩が加わって来て、彼がじゃんけんに勝ってアルバイトの仕事を譲ってくれました。
卒業式に卒業証書を貰えなかった、授業料などを2カ月分払ってなかった。
払った時点で卒業証書をもらうという事だった。
寮で食べることもできずに部屋で過ごしていたら、後輩3人が自分達の分を残して飯と味噌汁を調達してくれて、泣きながらそれを食べました。
7日後に父親がお金は払う事が出来ました。
新聞社に勤めて、小説を書いてゆく事になり、46歳の時に、卒業した時の3人(当時東京の会社にいた土木部長、、支店長になっていた)を温泉に呼んで御馳走することにしました。
あの時の飯が一番おいしかったと言ったが、3人は全然覚えてないとケラケラ笑っていましたが、覚えていないことはないと思いました。
例え彼らが忘れたとしても自分は忘れるわけにはいかないと思いました。
苫小牧工業高校電気科に行って、教わった事は人間にとって優しさとは何かを学びました。
全国138校廻ったりしましたが、メールで挨拶するので声を出さなくても言う必要がないと言って先生も困っているとの事で、どういう育て方をしたのか。
「今日はいいお天気ですね」(ところであなたのお体の具合はいかがですか、という相手を思いやる言葉)→「今日は」が「こんにちわ」になる。
これを親が教えなかったことはショックです。
「さようなら」 はまたお会いできるまでお元気で、という意味です。
学校に行く前に、子供に教えなくてはいけない言葉が1500語ある。
「行ってまいります」(行って帰って来るから大丈夫)、「行っていらっしゃい」
「ただいま」 唯今。(ただいま帰りました)
人間は言葉で考える。
思考力、判断力、主義主張全て言葉。
学力 子供自ら学びとる生きる力を学力と言う。(3つ)
①他人の心を感じ取る力
②他人と協力しあう力
③自分の感情をコントロールする力
お世話になった教育長が60歳で倒れてしまいました。
お礼の意味を込めて、はがきを毎日書いて届けました。
200枚を越えて、350枚、400枚を越えた時に亡くなってしまいました。
奥さんははがきを楽しみに生きてくれました、と言ってくれました。
私も残り少なくなってきたと思うので、お金のことだけは考えまいと思います。
お金のことを考える暇がない、本を読み、連載を5本持っているので沢山ものを書いて、カラオケをやり、酒を飲み、家族と友達と喋る。
40年前、原稿を頼みたいと言う事で、東京で会うことになったが東京に行く為の10万円のお金が無かった。
高校の友人(義侠心の強い人)が11回の退学処分の時に、先生が土下座をして彼を辞めさせるなら自分も辞めると言って彼の退学を救った。
その彼が30歳で社長になって、彼から10万円を借りて東京に行きました。
その時に書いた小説が直木賞の候補になっていきました。
金を返そうと、おでん屋で飲んで、お金を返したら、奥さんに3万円、自分に3万円、残りを取っておけと言って、「いいんだお前 困った時はお互いさまよ」と言ってくれました。
彼は自分を職員会議から救ってくれた先生ご夫妻に対して、お礼の意味で海外旅行を12年間全て援助し続けたそうです。
61歳の時に病気で亡くなっていきましたが、彼からもらった言葉、「いいんだお前 困った時はお互いさまよ」を座右の銘にして生きていきたいと思っています。
2016年12月26日月曜日
藤井美登利(「川越きもの散歩」代表理事)・着物でつむぐ、ひと・まち・暮らし
藤井美登利(NPO法人「川越きもの散歩」代表理事) ・着物でつむぐ、ひと・まち・暮らし
20代に頃イギリスの航空会社の客室乗務員をしていました。
イギリスは伝統を重んじる国で町並みは200年前とほぼ同じなのに、バブル期の日本はどんどん街並みが変わってゆく事に疑問を持っていました。
観光で訪れた川越の蔵造りを守る町にすっかり引き込まれ、25年前東京から家族で引っ越してきました。
この街で子育てが出来たらと、街のあちこちを尋ね歩いて、仲間も増え古老たちとも親しくなりました。
着物が好きだった藤井さんは繊維で栄えた川越の暮らしを伝えるタウン誌、小江戸物語の発行に携わるまで、溶け込んでいきました。
川越は観光客が600万人来るようになりました。
川越唐桟という木綿の着物、蔵作りの基になった。
江戸時代は絹織物が有名でした。
産業革命で木綿の糸が幕末に、日本に大量に安く入ってきました。
中嶋久平が横浜に絹を売りに行って、イギリスからの細い木綿の糸を見つけて、川越周辺の織物屋に織って貰って、江戸に出荷をしていました。
絹に見える様な布地です。
20代の頃イギリスの航空会社の客室乗務員をして、東京とイギリスを往復していました。
イギリスは町並みは200年前とほぼ同じなのに、日本はどんどん街並みが変わって来ました。
時の鐘の建物、蔵作り等川越の建物を拝見して、こんな建物が残っていることに吃驚しました。
直ぐに引っ越してきました。
住んでみると、氷川神社のお祭(350年続いてる)を中心に1年が回っているような感じです。
国の重要無形文化財にも指定されていて、ユネスコの無形文化遺産にも登録されることが決まったお祭りです。
お祭りの段取りがあり、子供からお年寄りまで関わって、お祭をするシステムが有り、身をもって体験しています。
公園デビューがお寺だったりします。(氷川神社、蓮馨寺、喜多院等)
お囃子も人が段々少なくなってきているので、子供が入ると歓迎していただいた経験もあります。
お祭は10月第三の土日の二日間ですが、1年間かけていろいろと準備しています。
お祭りには主人と子供が関わってやっています。
タウン誌を作るきっかけは、お祭の打ち上げの時の話だとか、町内新聞に関わることから始まりました。
川越織り物市場の明治43年の木造建物の保存運動にもかかわったのも、きっかけの一つです。
着物で街歩き、という様なこともやっています。(普段着の着物の似合う街)
夏は浴衣姿が多いです。
レンタル着物の店が5~6軒あって、外国の方が着ています。(台湾、中国、タイ等)
8のつく日に着物で来るといいことが有る、というキャンペーンをしています。
絹のゆかりの秩父神社、高麗神社、川越は織物の集積地、 絹文化を残していこうという事で埼玉文化研究会を立ち上げて、その御手伝いをしています。
国産の絹は1%を切っているという事です。
幼稚園、小学校でかいこを飼う、という様な活動も進めています。
大きな製糸工場も2軒になってしまっています。
埼玉着物散歩という本を出させてもらいました。
「絹と木綿の物語」 糸でつながる街作り、八高線沿線には絹ゆかりの街がたくさん残っているので共通の糸の繋がりで、一緒に次の世代に地域の記憶を伝えましょうと、フォーラムを開催しました。
横浜から輸出していたので、横浜の人にも参加していただいています。
サリー(インド)、チャイナドレス(中国)、なんで日本人は着物を着ないのといわれて、アジアの民族衣装としての視点という事を発見させていただいたので、学ばさせてもらいました。
8,18,28日が「川越着物の日」と決めてやっていて、8の付く日に着物で来て頂くといいことが有りますという事でやっています。
8日(蓮馨寺で着物市の様なもの)、18日(蓮馨寺で着物のお直し 着崩れのため) 28日(NPOがイベント 成田山別院で)
20代に頃イギリスの航空会社の客室乗務員をしていました。
イギリスは伝統を重んじる国で町並みは200年前とほぼ同じなのに、バブル期の日本はどんどん街並みが変わってゆく事に疑問を持っていました。
観光で訪れた川越の蔵造りを守る町にすっかり引き込まれ、25年前東京から家族で引っ越してきました。
この街で子育てが出来たらと、街のあちこちを尋ね歩いて、仲間も増え古老たちとも親しくなりました。
着物が好きだった藤井さんは繊維で栄えた川越の暮らしを伝えるタウン誌、小江戸物語の発行に携わるまで、溶け込んでいきました。
川越は観光客が600万人来るようになりました。
川越唐桟という木綿の着物、蔵作りの基になった。
江戸時代は絹織物が有名でした。
産業革命で木綿の糸が幕末に、日本に大量に安く入ってきました。
中嶋久平が横浜に絹を売りに行って、イギリスからの細い木綿の糸を見つけて、川越周辺の織物屋に織って貰って、江戸に出荷をしていました。
絹に見える様な布地です。
20代の頃イギリスの航空会社の客室乗務員をして、東京とイギリスを往復していました。
イギリスは町並みは200年前とほぼ同じなのに、日本はどんどん街並みが変わって来ました。
時の鐘の建物、蔵作り等川越の建物を拝見して、こんな建物が残っていることに吃驚しました。
直ぐに引っ越してきました。
住んでみると、氷川神社のお祭(350年続いてる)を中心に1年が回っているような感じです。
国の重要無形文化財にも指定されていて、ユネスコの無形文化遺産にも登録されることが決まったお祭りです。
お祭りの段取りがあり、子供からお年寄りまで関わって、お祭をするシステムが有り、身をもって体験しています。
公園デビューがお寺だったりします。(氷川神社、蓮馨寺、喜多院等)
お囃子も人が段々少なくなってきているので、子供が入ると歓迎していただいた経験もあります。
お祭は10月第三の土日の二日間ですが、1年間かけていろいろと準備しています。
お祭りには主人と子供が関わってやっています。
タウン誌を作るきっかけは、お祭の打ち上げの時の話だとか、町内新聞に関わることから始まりました。
川越織り物市場の明治43年の木造建物の保存運動にもかかわったのも、きっかけの一つです。
着物で街歩き、という様なこともやっています。(普段着の着物の似合う街)
夏は浴衣姿が多いです。
レンタル着物の店が5~6軒あって、外国の方が着ています。(台湾、中国、タイ等)
8のつく日に着物で来るといいことが有る、というキャンペーンをしています。
絹のゆかりの秩父神社、高麗神社、川越は織物の集積地、 絹文化を残していこうという事で埼玉文化研究会を立ち上げて、その御手伝いをしています。
国産の絹は1%を切っているという事です。
幼稚園、小学校でかいこを飼う、という様な活動も進めています。
大きな製糸工場も2軒になってしまっています。
埼玉着物散歩という本を出させてもらいました。
「絹と木綿の物語」 糸でつながる街作り、八高線沿線には絹ゆかりの街がたくさん残っているので共通の糸の繋がりで、一緒に次の世代に地域の記憶を伝えましょうと、フォーラムを開催しました。
横浜から輸出していたので、横浜の人にも参加していただいています。
サリー(インド)、チャイナドレス(中国)、なんで日本人は着物を着ないのといわれて、アジアの民族衣装としての視点という事を発見させていただいたので、学ばさせてもらいました。
8,18,28日が「川越着物の日」と決めてやっていて、8の付く日に着物で来て頂くといいことが有りますという事でやっています。
8日(蓮馨寺で着物市の様なもの)、18日(蓮馨寺で着物のお直し 着崩れのため) 28日(NPOがイベント 成田山別院で)
2016年12月25日日曜日
奥田佳道(音楽評論家) ・奥田佳道の“クラシックの遺伝子”
奥田佳道(音楽評論家) ・奥田佳道の“クラシックの遺伝子”
バロック音楽の原点 、バッハ 近代のアーティストによって突然蘇る。
グレン・グールド カナダの孤高のピアニスト、デビュー版でバッハのゴルトベルク変奏曲をピアノで演奏する、1955年。
*ゴルトベルク変奏曲(ピアノ バッハの時代にはピアノは無かった、チェンバロ)
1981年にも,もう一度、更にゆったりして演奏した。(ピアノでバッハの旋律を蘇らせた功労者)
日本にも、バッハのゴルトベルク変奏曲をライフワークにした音楽家がいます。
清水 靖晃さんがゴルトベルク変奏曲に魅了されて、1983年ごろからバッハの無伴奏テェロ組曲をサクソフォーンで演奏して驚かせました。
2010年にゴルトベルク変奏曲に取り組み、5人のサクソフォーン奏者と4人のコントラバスの奏者でゴルトベルク変奏曲を演奏しました。
2014年にゴルトベルク変奏曲の全曲を完成させました。
*ゴルトベルク変奏曲(清水さん他)
現代に新たな形でバッハが蘇る。
新日本フィルハーモニー交響楽団のソロコンサートマスターの崔 文洙(チェ・ムンス) さん(バイオリニスト)とその音楽監督になった指揮者の上岡 敏之さんがピアノを弾いてバッハのバイオリンソナタを録音しました。
*バッハの、バイオリンとオブリガード・チェンバロの為のソナタから、アレグロの音楽。(上岡 敏 之、崔 文洙)
*バッハ平均律クラヴィーア曲集のプレリュード(ピエール=ローラン・エマールのピアノ)
バッハの音楽をライフワークにしたジャズミュージシャン、ジャック・ルーシェ
1950年代からバッハの音楽をジャズのピアノトリオで演奏してきた、プレイ バッハ トリオ。
*バッハ平均律クラヴィーア曲集のプレリュード(ジャック・ルーシェ トリオ)
バッハのカンタータ 140番をバッハ自身がオルガンに編曲し、時空を超えて世界に広めて行った。
*目覚めよと呼ぶ声あり(ジャック・ルーシェ トリオ)
バロック音楽の原点 、バッハ 近代のアーティストによって突然蘇る。
グレン・グールド カナダの孤高のピアニスト、デビュー版でバッハのゴルトベルク変奏曲をピアノで演奏する、1955年。
*ゴルトベルク変奏曲(ピアノ バッハの時代にはピアノは無かった、チェンバロ)
1981年にも,もう一度、更にゆったりして演奏した。(ピアノでバッハの旋律を蘇らせた功労者)
日本にも、バッハのゴルトベルク変奏曲をライフワークにした音楽家がいます。
清水 靖晃さんがゴルトベルク変奏曲に魅了されて、1983年ごろからバッハの無伴奏テェロ組曲をサクソフォーンで演奏して驚かせました。
2010年にゴルトベルク変奏曲に取り組み、5人のサクソフォーン奏者と4人のコントラバスの奏者でゴルトベルク変奏曲を演奏しました。
2014年にゴルトベルク変奏曲の全曲を完成させました。
*ゴルトベルク変奏曲(清水さん他)
現代に新たな形でバッハが蘇る。
新日本フィルハーモニー交響楽団のソロコンサートマスターの崔 文洙(チェ・ムンス) さん(バイオリニスト)とその音楽監督になった指揮者の上岡 敏之さんがピアノを弾いてバッハのバイオリンソナタを録音しました。
*バッハの、バイオリンとオブリガード・チェンバロの為のソナタから、アレグロの音楽。(上岡 敏 之、崔 文洙)
*バッハ平均律クラヴィーア曲集のプレリュード(ピエール=ローラン・エマールのピアノ)
バッハの音楽をライフワークにしたジャズミュージシャン、ジャック・ルーシェ
1950年代からバッハの音楽をジャズのピアノトリオで演奏してきた、プレイ バッハ トリオ。
*バッハ平均律クラヴィーア曲集のプレリュード(ジャック・ルーシェ トリオ)
バッハのカンタータ 140番をバッハ自身がオルガンに編曲し、時空を超えて世界に広めて行った。
*目覚めよと呼ぶ声あり(ジャック・ルーシェ トリオ)
2016年12月24日土曜日
あさのあつこ(作家) ・書くこと、知ること
あさのあつこ(作家) ・書くこと、知ること
あさのさんと言いますと、児童向けに書かれた「バッテリー」を思い浮かべる方も多いと思います。
シリーズ6巻で累計1000万部を越えるベストセラーになりました。
ほかにも様々なジャンルの小説をお書きになっています。
1954年岡山県美作町生まれ、林野高校卒業、上京してして大学卒業、岡山市内の小学校で臨時教員として社会人を始める。
作家デビューが37歳、「ほたる館物語」、以後、児童文学、時代小説、ミステリー、SF、田園物などジャンルを問わず発表しています。
作家になりたかったのは14歳、諦めずに頑張ったと思います。
小学生のころは本を読みませんでした。(図書館などは無くて環境が良くなかった)
中学生の時にコナンドイルが書いた、ホームズシリーズのなかの「バスカヴィル家の犬」を読んだ途端に、物語ってこんなに面白いものだと思って、その瞬間に書きたいと思いました。
その後、海外ミステリーにはまりました。
中学、高校は本を読むのに夢中になり、一番多く本を読んだ時代でした。
高校2年生の時に初めて30枚程度の作品を書きました。
先生から批評をしてもらって、読者を得たという感覚を味わいました。
作家になれるという何の根拠もない思いを抱きました。
その時の作品が出てきて読みましたが、赤面するような作品ですが、今の私には絶対書けない作品だと思いました。
東京行けば夢がかなうかなあと思いました。
大学時代に児童文学に出会いました。
作家の夢の計画が有りましたが、作品制作をすることもできず、卒業したら帰ってくるように言われて、岡山市の臨時教員の話が有り、仕方なく帰ってきました。
夏休み、冬休み等休みが多く取れると思っていたが、そうではなかった。
或る生徒から、「先生はいい加減だから嫌い」と言われて、あーっ見抜かれたと思いました。
或る意味さっぱりしたという様な思いもあり、辞めなくてはいけないと思いました。
辞めた時に男の生徒の母親から手紙をもらいました。
その子は算数が苦手で、放課後勉強しようかと問いかけて一緒に勉強しましたら、母親から算数が分かるようになって、子供にとって支えになって感謝と別れが淋しいという手紙をいただきました。
先生を辞めて、結婚もして37歳でデビューすることになりました。
同人誌に所属していて、作品が載って、読んでくれた出版社の人が本にしませんかと電話が来ました。
もしかしたら騙されているのではないかと思いました。(信じられなかった)
代表作「バッテリー」 中学校の野球部を舞台にした物語。
人間を書くものだと思っていて、書きたい人間を自分の中から見つけ出して、その人に一番ふさわしい舞台を作るというのが、物書きの仕事だと思っていて、一人の少年をどうしても書きたかった。
強さともろさ、鋭さと鈍さ、広さと狭さ、美しさと醜さをもっている自分を貫こうとする少年。
善良な少年ではないが、私にとって10代の理想形の様な所が有って、書けるのかなあと思い始めて、書けるようになったのに2~3年掛かりました。
「おとなってさ、知りたいことは何も教えてくらないのに、なんで関係ないことばっかりしゃべるのかなとおもってさ」という主人公たくみの言葉。
なんとなく言うべきセリフ、行動が見えてくる。
自分として飲みこんできた言葉を忘れずにいて引きずっていて、彼が言っているいるんだと思います。
作家と呼ばれている人達はどっか人間としていびつの様な気がします。
書くためのイメージとして、周りから何かの刺激をちょっとずつ受けながら、自分の中で曖昧としている霧の中にいる様な人を、霧が晴れていくように見えてくる、スッと晴れることもあれば10年間影しか見えない様な時もある。
ある程度見えてきた時に舞台は決まっているというか、彼の物語はこうでしかない様なものはあります。
書くべき人も変わってゆくので、どういう形で追いかけるかによって様々になります。
或る程度骨格を書いてみて、それに合わせてお話を書く方が書きやすいと思います。
但し、自分が引いたレールから大きく外れた時の方が、物語としては面白くなるということはあると思います。
書く事でしか前に進まない。
時代小説はデビュー前から書きたかった。
藤沢修平が大好きで、「橋ものがたり」を読んだら物凄く面白かった。
歴史上に名を残さない人を書いて、その人たちが物凄くかっこいい、鈍く底光りをする様な物語でそれに参ってしまった。
東京には闇はないが、江戸には有った。
美作にはそれが有って、書きたいと思いました。
自分にとっては魅力的な人を書きたいと思っている。
大人の男とか女を書くときには時代小説になってしまっていると思います。
男は色気、女は度胸だと思っていて、色気のある男は現代小説では書けないので時代小説はいいと思っています。
書けば書くほど自分の中のものが見えてくる、世間、社会、国に対してこういう風に向かい合いたいと思っているとか、向かい合わなければいけないとか、書く事によって見えてくる。
書く事で自分の知りたい人と出会える。
書くことは自分を知ってゆく事だと思います。
一行でも二行でもいいから、自分の今を書き残して置く事は大切で面白いことだと思います。
自分の残せる形で残してゆく、一行でも二行の日記でもいい、詩、俳句、短歌でも、何でもいいと思います。
あさのさんと言いますと、児童向けに書かれた「バッテリー」を思い浮かべる方も多いと思います。
シリーズ6巻で累計1000万部を越えるベストセラーになりました。
ほかにも様々なジャンルの小説をお書きになっています。
1954年岡山県美作町生まれ、林野高校卒業、上京してして大学卒業、岡山市内の小学校で臨時教員として社会人を始める。
作家デビューが37歳、「ほたる館物語」、以後、児童文学、時代小説、ミステリー、SF、田園物などジャンルを問わず発表しています。
作家になりたかったのは14歳、諦めずに頑張ったと思います。
小学生のころは本を読みませんでした。(図書館などは無くて環境が良くなかった)
中学生の時にコナンドイルが書いた、ホームズシリーズのなかの「バスカヴィル家の犬」を読んだ途端に、物語ってこんなに面白いものだと思って、その瞬間に書きたいと思いました。
その後、海外ミステリーにはまりました。
中学、高校は本を読むのに夢中になり、一番多く本を読んだ時代でした。
高校2年生の時に初めて30枚程度の作品を書きました。
先生から批評をしてもらって、読者を得たという感覚を味わいました。
作家になれるという何の根拠もない思いを抱きました。
その時の作品が出てきて読みましたが、赤面するような作品ですが、今の私には絶対書けない作品だと思いました。
東京行けば夢がかなうかなあと思いました。
大学時代に児童文学に出会いました。
作家の夢の計画が有りましたが、作品制作をすることもできず、卒業したら帰ってくるように言われて、岡山市の臨時教員の話が有り、仕方なく帰ってきました。
夏休み、冬休み等休みが多く取れると思っていたが、そうではなかった。
或る生徒から、「先生はいい加減だから嫌い」と言われて、あーっ見抜かれたと思いました。
或る意味さっぱりしたという様な思いもあり、辞めなくてはいけないと思いました。
辞めた時に男の生徒の母親から手紙をもらいました。
その子は算数が苦手で、放課後勉強しようかと問いかけて一緒に勉強しましたら、母親から算数が分かるようになって、子供にとって支えになって感謝と別れが淋しいという手紙をいただきました。
先生を辞めて、結婚もして37歳でデビューすることになりました。
同人誌に所属していて、作品が載って、読んでくれた出版社の人が本にしませんかと電話が来ました。
もしかしたら騙されているのではないかと思いました。(信じられなかった)
代表作「バッテリー」 中学校の野球部を舞台にした物語。
人間を書くものだと思っていて、書きたい人間を自分の中から見つけ出して、その人に一番ふさわしい舞台を作るというのが、物書きの仕事だと思っていて、一人の少年をどうしても書きたかった。
強さともろさ、鋭さと鈍さ、広さと狭さ、美しさと醜さをもっている自分を貫こうとする少年。
善良な少年ではないが、私にとって10代の理想形の様な所が有って、書けるのかなあと思い始めて、書けるようになったのに2~3年掛かりました。
「おとなってさ、知りたいことは何も教えてくらないのに、なんで関係ないことばっかりしゃべるのかなとおもってさ」という主人公たくみの言葉。
なんとなく言うべきセリフ、行動が見えてくる。
自分として飲みこんできた言葉を忘れずにいて引きずっていて、彼が言っているいるんだと思います。
作家と呼ばれている人達はどっか人間としていびつの様な気がします。
書くためのイメージとして、周りから何かの刺激をちょっとずつ受けながら、自分の中で曖昧としている霧の中にいる様な人を、霧が晴れていくように見えてくる、スッと晴れることもあれば10年間影しか見えない様な時もある。
ある程度見えてきた時に舞台は決まっているというか、彼の物語はこうでしかない様なものはあります。
書くべき人も変わってゆくので、どういう形で追いかけるかによって様々になります。
或る程度骨格を書いてみて、それに合わせてお話を書く方が書きやすいと思います。
但し、自分が引いたレールから大きく外れた時の方が、物語としては面白くなるということはあると思います。
書く事でしか前に進まない。
時代小説はデビュー前から書きたかった。
藤沢修平が大好きで、「橋ものがたり」を読んだら物凄く面白かった。
歴史上に名を残さない人を書いて、その人たちが物凄くかっこいい、鈍く底光りをする様な物語でそれに参ってしまった。
東京には闇はないが、江戸には有った。
美作にはそれが有って、書きたいと思いました。
自分にとっては魅力的な人を書きたいと思っている。
大人の男とか女を書くときには時代小説になってしまっていると思います。
男は色気、女は度胸だと思っていて、色気のある男は現代小説では書けないので時代小説はいいと思っています。
書けば書くほど自分の中のものが見えてくる、世間、社会、国に対してこういう風に向かい合いたいと思っているとか、向かい合わなければいけないとか、書く事によって見えてくる。
書く事で自分の知りたい人と出会える。
書くことは自分を知ってゆく事だと思います。
一行でも二行でもいいから、自分の今を書き残して置く事は大切で面白いことだと思います。
自分の残せる形で残してゆく、一行でも二行の日記でもいい、詩、俳句、短歌でも、何でもいいと思います。
2016年12月23日金曜日
五輪真弓(シンガーソングライター)・歌で広げる“心の友”の輪
五輪真弓(シンガーソングライター)・歌で広げる“心の友”の輪
「恋人よ」のヒット曲で知られるシンガーソングライターの五輪真弓さんがデビュー45周年を迎えました。
アメリカやフランスでの海外レコーディングやコンサートなど独自の音楽路線を歩んで来た、五輪さんに日本の歌謡曲への回帰が転機となって「恋人よ」を初め数々の名曲が生まれました。
私生活でも結婚 、出産、育児を経て家族の絆が人間的にも音楽的にも五輪さんを成長させてくれたと云います。
五輪さんの曲「心の友」はインドネシアで第二の国歌として親しまれています。
スマトラ沖地震の際、現地の人たちが苦しみながら復興作業にあたり、大きな心の支えになったと伝えられています。
自分の作った曲が翼を持って飛び立ち、多くの人たちに生きる喜びを与える音楽の力に生き甲斐を感じ、歌で心の友の輪を広げ続けています。
デビュー曲「少女」。
精神的にも何か大人びた子でした、警戒心が強くて、未来のことを考えながら行動する子供だったような気がします。
両親が共稼ぎだったので、3人兄弟の末っ子で、外で彼らをいつも待っている様な状況でした。
小さいころから歌が大好きで、歌が寄ってくるという様な感じでした。
父が音楽が大好きでバイオリンとかオルガンとか弾いていてレコードを良く聞いていました。
高校1年の時に父が誕生日にギターを買ってくれて、夢中になって練習して、仲間たちと一緒に演奏したり歌を歌ったりしていました。
高校2年の時に民放TVのオーディションが有り、合格して出ることになりそれが初めて人前で歌う事になりました。
高校卒業後、小さなライブハウスで歌う様になり、色んなところを廻っているうちにラジオ局のオーディションを受けて、合格して、ラジオ番組に出ることになり、自分でもオリジナルを書く様になって、何時の間にかプロになってしまいました。
或るとき、自分が英語で歌うことの限界を感じて、ハートを伝えたいと思ってオリジナルを書く様になりました。
ロサンゼルスで制作しました。
10曲そろった時点でデビュー作を作りたいと申し出まして、シングル盤でデビューすると自分としての人となりをあまり理解されないと思って頑固になって、アメリカレコーディングも加えてしまいました。
キャロル・キングが一緒にやりたいという事にもなって、自分としてはもったいない、信じられない気持ちでやりました。(ピアノで参加してもらいました)
お世辞は言わない、インタビューには答えない横柄な子でした。
子供を持ってから変わりました。
デビューしてから五輪真弓の世界に拘って作曲していたが、書き続けることが難しくなってきて、違う世界を切り開かなければいけないと思って、75年スランプでもあり、次を考えようと思っていた。
そんな時、フランスから声がかかって、フランス語でデビューしてほしいとの事だった。
躊躇していましたが、空白のスケジュールを埋めるためにフランス行きを決めました。
どこまで伝わっているのか、判らなくて、これは日本で仕事をするべきだと、伝統的な歌謡曲を取り入れて作曲したらどうかと思いました。
それを機に沢山の曲が作れるようになりました。
「恋人よ」等が生まれました。(1980年、紅白にも出場)
あらゆる分野の曲を聞いていて、それが融合したんだと思いました。
結婚前は礼儀作法を教えてもらっていなかったが、結婚後、主人はお店の息子なので主人に物凄く厳しく教育されました。
横柄な態度は無くなり、子供を育てることで相手の気持も分かろうとする姿勢も出てきて凄く良かったです。
「ボーン・アゲイン」 10年前に思いついたが、その時の自分では書けなかったが、長い年月がかかって、東日本大震災が有り、自分が還暦になって2011年の時に書く事が出来ました。
息子が31歳、娘が25歳になりました。
子供に対する愛情、母性本能というのは物凄くあります。
3歳になるまでは一緒になってやりたかったが音楽との板挟みになり悩みましたが、二人目は状態も安定していたし、(1996年)二人で決めてそばいる様にしました。
息子はマスタリング・エンジニアで専門的な音作りをしてくれたりして、良かったなあと思います。
生まれてからずーっと同じ目線で育ててきて、自立心の強い子に育ってくれました。
友達の様に扱われてしまう事もあります。
子供によって私も育てられたと思います。
自分自身、野原で遊んだりして、外の世界と接していた時間がたくさんあるので、自然とそういった自然のことが素材として身体の中にあって創作の時には必ず出てきます。
渋谷に住んでいた時に子供がカーテンのところから出てきたときに鼻が黒くなっていて、こんなに汚い所にいたのかと思って、引っ越しました。
「心の友」インドネシアで良く知られていて、言葉を理解していないのにもかかわらず、物凄く好きで、「心の友」というタイトルも好きで、友達だという事でもしかしたら必然的に彼らに受けいれらたのかなあと思います。
1982年の潮騒というアルバムに入っていたのですが、ピックアップしたのがインドネシアの放送関係の人でした。
何回もかけるようになって全土に知られるようになって、今では第二の国歌という様になりました。
親が子に歌い伝えるようになって、スマトラ地震の復興の時にも、復興グループの方が一緒に口ずさみながら働いていたと聞いています。
「KOKORO NO TOMO」として地元の歌手も録音しています。
曲自身が命が有る様に、翼が有る様に羽ばたいていって、人々に受け入れていった、私がやったのではなくてこの曲が自分から羽ばたいて行ったという様な気持です。
インドネシアとの国交、振興に寄与したということで、大使館から頂きました。
夫は直感を重視する人間で、長いこと考えない人で、私の歌を理解していてくれる人です。
3年前のコンサートツアーの構成、演出も彼がやってくれていて、彼以外にはいないですね。
家族、子供は運命共同体だと思いますが、それぞれ独立して、主人も独立心が強いし、何れは一人になるともいうことですし、いま結構さっぱりとした結婚生活です。
難しくてとっつきにくいと言っていた人達が段々判る様になってきたと言って足を運んでくれる人達が多くいて、そういう方たちとの出会いもとてもうれしく感じて、生きている価値が有ると思っています。
「恋人よ」のヒット曲で知られるシンガーソングライターの五輪真弓さんがデビュー45周年を迎えました。
アメリカやフランスでの海外レコーディングやコンサートなど独自の音楽路線を歩んで来た、五輪さんに日本の歌謡曲への回帰が転機となって「恋人よ」を初め数々の名曲が生まれました。
私生活でも結婚 、出産、育児を経て家族の絆が人間的にも音楽的にも五輪さんを成長させてくれたと云います。
五輪さんの曲「心の友」はインドネシアで第二の国歌として親しまれています。
スマトラ沖地震の際、現地の人たちが苦しみながら復興作業にあたり、大きな心の支えになったと伝えられています。
自分の作った曲が翼を持って飛び立ち、多くの人たちに生きる喜びを与える音楽の力に生き甲斐を感じ、歌で心の友の輪を広げ続けています。
デビュー曲「少女」。
精神的にも何か大人びた子でした、警戒心が強くて、未来のことを考えながら行動する子供だったような気がします。
両親が共稼ぎだったので、3人兄弟の末っ子で、外で彼らをいつも待っている様な状況でした。
小さいころから歌が大好きで、歌が寄ってくるという様な感じでした。
父が音楽が大好きでバイオリンとかオルガンとか弾いていてレコードを良く聞いていました。
高校1年の時に父が誕生日にギターを買ってくれて、夢中になって練習して、仲間たちと一緒に演奏したり歌を歌ったりしていました。
高校2年の時に民放TVのオーディションが有り、合格して出ることになりそれが初めて人前で歌う事になりました。
高校卒業後、小さなライブハウスで歌う様になり、色んなところを廻っているうちにラジオ局のオーディションを受けて、合格して、ラジオ番組に出ることになり、自分でもオリジナルを書く様になって、何時の間にかプロになってしまいました。
或るとき、自分が英語で歌うことの限界を感じて、ハートを伝えたいと思ってオリジナルを書く様になりました。
ロサンゼルスで制作しました。
10曲そろった時点でデビュー作を作りたいと申し出まして、シングル盤でデビューすると自分としての人となりをあまり理解されないと思って頑固になって、アメリカレコーディングも加えてしまいました。
キャロル・キングが一緒にやりたいという事にもなって、自分としてはもったいない、信じられない気持ちでやりました。(ピアノで参加してもらいました)
お世辞は言わない、インタビューには答えない横柄な子でした。
子供を持ってから変わりました。
デビューしてから五輪真弓の世界に拘って作曲していたが、書き続けることが難しくなってきて、違う世界を切り開かなければいけないと思って、75年スランプでもあり、次を考えようと思っていた。
そんな時、フランスから声がかかって、フランス語でデビューしてほしいとの事だった。
躊躇していましたが、空白のスケジュールを埋めるためにフランス行きを決めました。
どこまで伝わっているのか、判らなくて、これは日本で仕事をするべきだと、伝統的な歌謡曲を取り入れて作曲したらどうかと思いました。
それを機に沢山の曲が作れるようになりました。
「恋人よ」等が生まれました。(1980年、紅白にも出場)
あらゆる分野の曲を聞いていて、それが融合したんだと思いました。
結婚前は礼儀作法を教えてもらっていなかったが、結婚後、主人はお店の息子なので主人に物凄く厳しく教育されました。
横柄な態度は無くなり、子供を育てることで相手の気持も分かろうとする姿勢も出てきて凄く良かったです。
「ボーン・アゲイン」 10年前に思いついたが、その時の自分では書けなかったが、長い年月がかかって、東日本大震災が有り、自分が還暦になって2011年の時に書く事が出来ました。
息子が31歳、娘が25歳になりました。
子供に対する愛情、母性本能というのは物凄くあります。
3歳になるまでは一緒になってやりたかったが音楽との板挟みになり悩みましたが、二人目は状態も安定していたし、(1996年)二人で決めてそばいる様にしました。
息子はマスタリング・エンジニアで専門的な音作りをしてくれたりして、良かったなあと思います。
生まれてからずーっと同じ目線で育ててきて、自立心の強い子に育ってくれました。
友達の様に扱われてしまう事もあります。
子供によって私も育てられたと思います。
自分自身、野原で遊んだりして、外の世界と接していた時間がたくさんあるので、自然とそういった自然のことが素材として身体の中にあって創作の時には必ず出てきます。
渋谷に住んでいた時に子供がカーテンのところから出てきたときに鼻が黒くなっていて、こんなに汚い所にいたのかと思って、引っ越しました。
「心の友」インドネシアで良く知られていて、言葉を理解していないのにもかかわらず、物凄く好きで、「心の友」というタイトルも好きで、友達だという事でもしかしたら必然的に彼らに受けいれらたのかなあと思います。
1982年の潮騒というアルバムに入っていたのですが、ピックアップしたのがインドネシアの放送関係の人でした。
何回もかけるようになって全土に知られるようになって、今では第二の国歌という様になりました。
親が子に歌い伝えるようになって、スマトラ地震の復興の時にも、復興グループの方が一緒に口ずさみながら働いていたと聞いています。
「KOKORO NO TOMO」として地元の歌手も録音しています。
曲自身が命が有る様に、翼が有る様に羽ばたいていって、人々に受け入れていった、私がやったのではなくてこの曲が自分から羽ばたいて行ったという様な気持です。
インドネシアとの国交、振興に寄与したということで、大使館から頂きました。
夫は直感を重視する人間で、長いこと考えない人で、私の歌を理解していてくれる人です。
3年前のコンサートツアーの構成、演出も彼がやってくれていて、彼以外にはいないですね。
家族、子供は運命共同体だと思いますが、それぞれ独立して、主人も独立心が強いし、何れは一人になるともいうことですし、いま結構さっぱりとした結婚生活です。
難しくてとっつきにくいと言っていた人達が段々判る様になってきたと言って足を運んでくれる人達が多くいて、そういう方たちとの出会いもとてもうれしく感じて、生きている価値が有ると思っています。
2016年12月22日木曜日
ハービー山口(写真家) ・”日常にある奇跡”を撮る(H28/6/3 放送)
ハービー山口(写真家) ・”日常にある奇跡”を撮る(H28/6/3 放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2016/06/blog-post_3.htmlをご覧ください。
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2016/06/blog-post_3.htmlをご覧ください。
2016年12月21日水曜日
中根喜三郎(江戸和竿組合理事長)・釣りざお一本 精魂込めて
中根喜三郎(江戸和竿組合理事長)・釣りざお一本 精魂込めて
85歳、江戸時代から受け継がれてきた伝統工芸品に釣り竿が有ります。
一竿を作るのに漆塗りや絹糸巻きなど 120もの工程が有り、技を凝らした竿は和ざおといわれています。
今日お話をお聴きする中根さんは名人竿忠の4代目ですが、本来は長男が継ぐはずだったものが東京大空襲で亡くなり、周りの手助けで竿忠を継ぐことになったそうです。
釣りざお一本に精魂込めて、波乱万丈の人生を伺います。
材料がたくさんあり竹の中で住んでいる様です。
60年以上やっているので、増えているので何本あるか判らないです。
いま漆塗りをやっています。
5本の中に全部入っていて、25本繋ぎで12尺(3.6m)になり、それが一本の釣りざおになります。
一本が7寸(23cmぐらい)です。
父親が21本繋ぎを作ったので22本繋ぎに挑戦しようと思ってやりました。
和ざおは材料が竹、漆、絹糸が主の素材です。
うちしかやらない技術が有ります。
それに自分なりの新しい技術を足してきています。
釣りのだいご味は「魚信」を楽しむことです、手に伝わるぶるぶるという感じ、それを「魚信」と云います。
小さい魚でもそれなりの竿を伝わる様な竹竿を作る訳です、それにお客さんの好みが有ります。
一回あってもらって好みを聞いて、作るようにしています。(柔らかさなど)
作るのに最低でも3カ月かかります、長いものだと1年はかかります。
竹を切ってから3年経たないと良く枯れないです。
使って見て初めていい悪いが感じる訳です。
100年経った竿でも何でもないです。
初代の親(音吉)も竿屋だった、初代が生まれたのが池田屋騒動が有った頃生まれました。
2代目は優しい仕事が好きな人でした。
長男しか仕事を継がないようになっていて、私は3男なので継ぐ気が無かったです。
昭和20年3月9日に東京大空襲が有り、父母、祖母、兄が二人、弟一人、妹(海老名香葉子 林家三平の妻 沼津に疎開していて助かる)がいたが、6人で逃げて、私は学校に逃げて、6人全員が焼死して私だけが助かりました、3日3晩泣き通しました。(中学1年生)
死体の山で生き地獄だった。
1週間後に沼津に行って妹と再会して抱き合って泣きました。
妹は親戚をたらい回しにされて、私は土地、建物の権利とか全然判らず、後見人に全部処分されてしまって一文無しになりました。
戦災孤児になり、工場で務めたり露天商の手伝いなどを2~3年やりました。
長谷川伸先生、市川団十郎さん、とか、先代三遊亭金馬師匠とか父親が親しく付き合っていましたので、妹が金馬師匠のところに行ったようで、そこで兄も生きていますと言ったら連れてくるように言ったそうです。
妹は養女になったので安心しました。
金馬師匠がうちにおいでよと言って、色んな先生の所につれて行ってくれました。
金馬師匠が上手に竿屋のレールの上に乗せてくれた訳です。
長谷川伸先生が竿辰さんと言うところに弟子入りするようにという事を言われました。
とにかく早く覚えようと思いました。
金馬師匠が釣りでタナゴ釣りで怪我をして入院して、見舞いに行って、それを機会に大阪でも勉強したいという事で2年ぐらい勉強しました。
東京に戻ってから独立をしました。(「筍」という名前にしました、一人前ではないので)
18年間、「筍」でした。
そろそろ「竿忠」を継いでもいいんじゃないかと、周りから言われ、襲名しました。
帝国ホテルで襲名披露をしました。
先ずは親の竿を見ながら勉強して模倣をしました。
30代は判らなかったが、50、60代になってくると竿の素晴らしさがようやく判りました。
なんでこんな細かい細工が出来たのかと考えます。
初代竿忠にはいい旦那衆がいて、総理大臣の黒田清隆さんがいて、その家に泊まりがけで竿作りに行ったりしていました。
初代竿忠が美術工芸品に仕立てていきました。
私は美術工芸品として東京都民賞を頂きました。
娘が二人なので継ぐことはできないが、いいものが残れば日本の伝統技術は伝わっていくと思うので、いい釣りざおが残れば、伝統工芸は残ってゆくと思います。
自分で納得したものでしか、世の中に出したくないと思っています。
最近はいい素材ができてきたが、昔は竹だった。
竹は釣りざおに適した植物で、350種類ぐらいあり、釣りざおに適しているのが10種類あり、竹竿は縦に繊維が有り横ぶれがないのが良くて、グラスファイバー、カーボンロットは縦の繊維が無く横ぶれがする、軽くはするので、それぞれいい点はあります。
若いころは1年に50本は作りましたが、今は20本も作らないと思います。
江戸和竿組合は25人ぐらいいましたが、今は15人ぐらいしかいません。
勉強して何回も何回も苦労して、そういう人には教えたいと思いますが、勉強しない人には教えません。
妹とは二人きりの兄弟なので、何かあったら相談したりします。
妹の一番下の子の三平(笑点出演)が結婚して男の子ができました。
85歳、江戸時代から受け継がれてきた伝統工芸品に釣り竿が有ります。
一竿を作るのに漆塗りや絹糸巻きなど 120もの工程が有り、技を凝らした竿は和ざおといわれています。
今日お話をお聴きする中根さんは名人竿忠の4代目ですが、本来は長男が継ぐはずだったものが東京大空襲で亡くなり、周りの手助けで竿忠を継ぐことになったそうです。
釣りざお一本に精魂込めて、波乱万丈の人生を伺います。
材料がたくさんあり竹の中で住んでいる様です。
60年以上やっているので、増えているので何本あるか判らないです。
いま漆塗りをやっています。
5本の中に全部入っていて、25本繋ぎで12尺(3.6m)になり、それが一本の釣りざおになります。
一本が7寸(23cmぐらい)です。
父親が21本繋ぎを作ったので22本繋ぎに挑戦しようと思ってやりました。
和ざおは材料が竹、漆、絹糸が主の素材です。
うちしかやらない技術が有ります。
それに自分なりの新しい技術を足してきています。
釣りのだいご味は「魚信」を楽しむことです、手に伝わるぶるぶるという感じ、それを「魚信」と云います。
小さい魚でもそれなりの竿を伝わる様な竹竿を作る訳です、それにお客さんの好みが有ります。
一回あってもらって好みを聞いて、作るようにしています。(柔らかさなど)
作るのに最低でも3カ月かかります、長いものだと1年はかかります。
竹を切ってから3年経たないと良く枯れないです。
使って見て初めていい悪いが感じる訳です。
100年経った竿でも何でもないです。
初代の親(音吉)も竿屋だった、初代が生まれたのが池田屋騒動が有った頃生まれました。
2代目は優しい仕事が好きな人でした。
長男しか仕事を継がないようになっていて、私は3男なので継ぐ気が無かったです。
昭和20年3月9日に東京大空襲が有り、父母、祖母、兄が二人、弟一人、妹(海老名香葉子 林家三平の妻 沼津に疎開していて助かる)がいたが、6人で逃げて、私は学校に逃げて、6人全員が焼死して私だけが助かりました、3日3晩泣き通しました。(中学1年生)
死体の山で生き地獄だった。
1週間後に沼津に行って妹と再会して抱き合って泣きました。
妹は親戚をたらい回しにされて、私は土地、建物の権利とか全然判らず、後見人に全部処分されてしまって一文無しになりました。
戦災孤児になり、工場で務めたり露天商の手伝いなどを2~3年やりました。
長谷川伸先生、市川団十郎さん、とか、先代三遊亭金馬師匠とか父親が親しく付き合っていましたので、妹が金馬師匠のところに行ったようで、そこで兄も生きていますと言ったら連れてくるように言ったそうです。
妹は養女になったので安心しました。
金馬師匠がうちにおいでよと言って、色んな先生の所につれて行ってくれました。
金馬師匠が上手に竿屋のレールの上に乗せてくれた訳です。
長谷川伸先生が竿辰さんと言うところに弟子入りするようにという事を言われました。
とにかく早く覚えようと思いました。
金馬師匠が釣りでタナゴ釣りで怪我をして入院して、見舞いに行って、それを機会に大阪でも勉強したいという事で2年ぐらい勉強しました。
東京に戻ってから独立をしました。(「筍」という名前にしました、一人前ではないので)
18年間、「筍」でした。
そろそろ「竿忠」を継いでもいいんじゃないかと、周りから言われ、襲名しました。
帝国ホテルで襲名披露をしました。
先ずは親の竿を見ながら勉強して模倣をしました。
30代は判らなかったが、50、60代になってくると竿の素晴らしさがようやく判りました。
なんでこんな細かい細工が出来たのかと考えます。
初代竿忠にはいい旦那衆がいて、総理大臣の黒田清隆さんがいて、その家に泊まりがけで竿作りに行ったりしていました。
初代竿忠が美術工芸品に仕立てていきました。
私は美術工芸品として東京都民賞を頂きました。
娘が二人なので継ぐことはできないが、いいものが残れば日本の伝統技術は伝わっていくと思うので、いい釣りざおが残れば、伝統工芸は残ってゆくと思います。
自分で納得したものでしか、世の中に出したくないと思っています。
最近はいい素材ができてきたが、昔は竹だった。
竹は釣りざおに適した植物で、350種類ぐらいあり、釣りざおに適しているのが10種類あり、竹竿は縦に繊維が有り横ぶれがないのが良くて、グラスファイバー、カーボンロットは縦の繊維が無く横ぶれがする、軽くはするので、それぞれいい点はあります。
若いころは1年に50本は作りましたが、今は20本も作らないと思います。
江戸和竿組合は25人ぐらいいましたが、今は15人ぐらいしかいません。
勉強して何回も何回も苦労して、そういう人には教えたいと思いますが、勉強しない人には教えません。
妹とは二人きりの兄弟なので、何かあったら相談したりします。
妹の一番下の子の三平(笑点出演)が結婚して男の子ができました。
2016年12月20日火曜日
田尻由貴子(慈恵病院元看護部長)・ゆりかごからつなぐ命
田尻由貴子(熊本市慈恵病院元看護部長)・ゆりかごからつなぐ命
66歳、慈恵病院では様々な事情から親が自分で育てられない子供を救う「こうのとりのゆりかご」という取り組みを9年前から行っています。
田尻さんは中心的に関わり去年病院を定年退職しました。
今年9月には支援の状況や現場で感じてきた命への想いを伝えたいと、本を出版し、新たな活動をしています。
「はい、赤ちゃん相談室田尻です」と言う本を出版。
命が一番だよね、と言う事を本を通して若い人はもちろん多くの人にメッセージしたいという事です。
「こうのとりのゆりかご」は9年前から始めましたが、その前にドイツにも行きました。
慈恵病院はカトリックの修道会が作った病院で胎児から命にという考えを持っていて、生命尊重センターがあり、そこの手伝いをしていて、ドイツに行く事になりました。
ドイツでは赤ちゃんがごみ箱に捨てられたり、檻の中に捨てられたりという事が多かったときでベビークラッペ(赤ちゃんポスト)が出来ました。
2004年に70か所、今は100か所あるという事です。
妊娠葛藤相談所が色んなところにあり、どうしても相談できない人がいる、その人のためにベビークラッペ(赤ちゃんポスト)ができて、命を救う活動が盛んに行われていました。
2005年~2006年にかけて熊本県で3件遺棄事件が有り、そのニュースを聞いて先生が直ぐ作ろうと開設に踏みきられました。
構想がもれたのか、新聞とかで2006年11月に報道されて、物凄いバッシングとか、電話が鳴り響き、取材の方が沢山来て、捨て子助長とか、赤ちゃんの育時放棄だとか沢山受けました。
日本とドイツとの考え方の違いを痛感しました。
「こうのとりのゆりかご」は匿名で赤ちゃんの命を預けるという事で、手紙が入っていて、赤ちゃんを預かり、引き取りたいときにはいつでも連絡して下さいと手紙を渡します。
赤ちゃんの健康状態をチェックして、熊本市に通告して、児童相談所の職員が駆けつけて赤ちゃんの処遇を考えます。
慈恵病院は命を預かり、ずーっと育てるわけではなく、児童相談所が乳児院を探して育ってゆく、
中にはお母さんが引き取りたいときには引き取ってもらって、里親とか特別養子縁組で育てる子供もいます。
妊娠中から相談にかかわることもあります。(赤ちゃん縁組もあります)
私が関わって235人の赤ちゃんの命が新しい家庭で育っています。
おおきくなってから会いに来てくれることもあり、その時にはあーっ良かったなあと思います。
特別養子縁組についてはそういった団体が有り、色々対応してもらっています。
相談に来る人は、最初は辛かっただろうとハグしてやって、泣くだけ泣いて、ポツリポツリ話をしてくれて、理由が未婚だったり、経済的に困窮したり、パートナーが逃げてしまったり、戸籍に入れられない子供を産んでしまったり様々です。
「ゆりかご」はシンボルであってほしいと思います。
その前にいろいろ相談に乗れると思うので、一本の電話をして利用してほしいと思います。
電話相談も同じ時期に立ちあげましたが、20代が一番多くて45%、15歳未満が1%ですが、67人ぐらい、高校生が9%、専門学校が11%、20歳代未満が60%を越えてしまっています。(未婚)
親に知られたくないというお嬢さん達が殆どです。
電話してくれた人を否定しない、というスタンスでやっています、共感して親身になる。
匿名で話しはじめますが、色んな話を聞くうちに、実はという事で深い話をしてきます。
話をするうちに、勇気を持って母親に打ち明ける人もいますが、自分からは言えないので私から電話してほしいとか様々です。
自分で育てるという人もいますが、中学生は厳しいです。
無事に出産して退院してゆく前日に大事にしていることは、聖堂で彼女と共に祈ることです。
赤ちゃんが幸せになる事と、新しい夢に向かって歩いて行こうと言って一緒に祈ります。
私からはもう会うことはないと云いますが、手紙をくれたり、電話をくれたりして、看護士になると言ってくれることなどもあります。
保健師としても地域に関わってきました。
人の一生に関わってきました、赤ちゃんが生まれて家庭訪問したり、検診、癌検診などにかかわったり、高齢者の訪問看護のモデル授業なども受けて、幅広く活動してきました。
「ゆりかご」に関わって生かされています。
私は主人と友達、近所の人に支えられて、子供達を育てることが出来ました。
町長さんのおかげで私のきっかけで延長保育が始まりました。
私は家は貧しかったが、5人兄弟の末っ子で祖父母、父母に支えられて育ちました。
中学を卒業後、准看護士になるために、慈恵病院の全寮制の学校に行きました。
学費も無料でした。
卒業する時に院長先生が「君たちは国費で卒業するんだからいずれ社会に貢献することをわすれずに」という言葉を戴いて、定年後もと言う気持ちになりました。
菊水町の保健師として24年間、要請が有り50歳で慈恵病院に戻りました。
「こうのとりのゆりかご」 2年目以降は減って来て10人前後、多くなっているのが電話相談です。
2014、2015年から電話相談が増えています。
今は5000件を越えていると思います。
「ハート トゥ ハート」の電話相談を開設しました。
退職後も、命に対する思いが有り、もっと続けたいと思って、相談をする様にしました。
24時間 フリーダイヤルという事でやっています。
育て方とか、目の前の赤ちゃんを虐待しそうだとかの相談もあります。(地元の保健師さんに相談するように言いました)
今の若い人たちは自分から話をすることができない人達がいるので、周りの大人たちが声掛けをしてやると話せるのかなあという気がします。
ママが生き生きして赤ちゃんが愛おしいという気持ちになって、赤ちゃん達もそういうふうに育ってゆくんです。
赤ちゃんは未来の宝物だし、あの笑顔を見ると癒されます。
66歳、慈恵病院では様々な事情から親が自分で育てられない子供を救う「こうのとりのゆりかご」という取り組みを9年前から行っています。
田尻さんは中心的に関わり去年病院を定年退職しました。
今年9月には支援の状況や現場で感じてきた命への想いを伝えたいと、本を出版し、新たな活動をしています。
「はい、赤ちゃん相談室田尻です」と言う本を出版。
命が一番だよね、と言う事を本を通して若い人はもちろん多くの人にメッセージしたいという事です。
「こうのとりのゆりかご」は9年前から始めましたが、その前にドイツにも行きました。
慈恵病院はカトリックの修道会が作った病院で胎児から命にという考えを持っていて、生命尊重センターがあり、そこの手伝いをしていて、ドイツに行く事になりました。
ドイツでは赤ちゃんがごみ箱に捨てられたり、檻の中に捨てられたりという事が多かったときでベビークラッペ(赤ちゃんポスト)が出来ました。
2004年に70か所、今は100か所あるという事です。
妊娠葛藤相談所が色んなところにあり、どうしても相談できない人がいる、その人のためにベビークラッペ(赤ちゃんポスト)ができて、命を救う活動が盛んに行われていました。
2005年~2006年にかけて熊本県で3件遺棄事件が有り、そのニュースを聞いて先生が直ぐ作ろうと開設に踏みきられました。
構想がもれたのか、新聞とかで2006年11月に報道されて、物凄いバッシングとか、電話が鳴り響き、取材の方が沢山来て、捨て子助長とか、赤ちゃんの育時放棄だとか沢山受けました。
日本とドイツとの考え方の違いを痛感しました。
「こうのとりのゆりかご」は匿名で赤ちゃんの命を預けるという事で、手紙が入っていて、赤ちゃんを預かり、引き取りたいときにはいつでも連絡して下さいと手紙を渡します。
赤ちゃんの健康状態をチェックして、熊本市に通告して、児童相談所の職員が駆けつけて赤ちゃんの処遇を考えます。
慈恵病院は命を預かり、ずーっと育てるわけではなく、児童相談所が乳児院を探して育ってゆく、
中にはお母さんが引き取りたいときには引き取ってもらって、里親とか特別養子縁組で育てる子供もいます。
妊娠中から相談にかかわることもあります。(赤ちゃん縁組もあります)
私が関わって235人の赤ちゃんの命が新しい家庭で育っています。
おおきくなってから会いに来てくれることもあり、その時にはあーっ良かったなあと思います。
特別養子縁組についてはそういった団体が有り、色々対応してもらっています。
相談に来る人は、最初は辛かっただろうとハグしてやって、泣くだけ泣いて、ポツリポツリ話をしてくれて、理由が未婚だったり、経済的に困窮したり、パートナーが逃げてしまったり、戸籍に入れられない子供を産んでしまったり様々です。
「ゆりかご」はシンボルであってほしいと思います。
その前にいろいろ相談に乗れると思うので、一本の電話をして利用してほしいと思います。
電話相談も同じ時期に立ちあげましたが、20代が一番多くて45%、15歳未満が1%ですが、67人ぐらい、高校生が9%、専門学校が11%、20歳代未満が60%を越えてしまっています。(未婚)
親に知られたくないというお嬢さん達が殆どです。
電話してくれた人を否定しない、というスタンスでやっています、共感して親身になる。
匿名で話しはじめますが、色んな話を聞くうちに、実はという事で深い話をしてきます。
話をするうちに、勇気を持って母親に打ち明ける人もいますが、自分からは言えないので私から電話してほしいとか様々です。
自分で育てるという人もいますが、中学生は厳しいです。
無事に出産して退院してゆく前日に大事にしていることは、聖堂で彼女と共に祈ることです。
赤ちゃんが幸せになる事と、新しい夢に向かって歩いて行こうと言って一緒に祈ります。
私からはもう会うことはないと云いますが、手紙をくれたり、電話をくれたりして、看護士になると言ってくれることなどもあります。
保健師としても地域に関わってきました。
人の一生に関わってきました、赤ちゃんが生まれて家庭訪問したり、検診、癌検診などにかかわったり、高齢者の訪問看護のモデル授業なども受けて、幅広く活動してきました。
「ゆりかご」に関わって生かされています。
私は主人と友達、近所の人に支えられて、子供達を育てることが出来ました。
町長さんのおかげで私のきっかけで延長保育が始まりました。
私は家は貧しかったが、5人兄弟の末っ子で祖父母、父母に支えられて育ちました。
中学を卒業後、准看護士になるために、慈恵病院の全寮制の学校に行きました。
学費も無料でした。
卒業する時に院長先生が「君たちは国費で卒業するんだからいずれ社会に貢献することをわすれずに」という言葉を戴いて、定年後もと言う気持ちになりました。
菊水町の保健師として24年間、要請が有り50歳で慈恵病院に戻りました。
「こうのとりのゆりかご」 2年目以降は減って来て10人前後、多くなっているのが電話相談です。
2014、2015年から電話相談が増えています。
今は5000件を越えていると思います。
「ハート トゥ ハート」の電話相談を開設しました。
退職後も、命に対する思いが有り、もっと続けたいと思って、相談をする様にしました。
24時間 フリーダイヤルという事でやっています。
育て方とか、目の前の赤ちゃんを虐待しそうだとかの相談もあります。(地元の保健師さんに相談するように言いました)
今の若い人たちは自分から話をすることができない人達がいるので、周りの大人たちが声掛けをしてやると話せるのかなあという気がします。
ママが生き生きして赤ちゃんが愛おしいという気持ちになって、赤ちゃん達もそういうふうに育ってゆくんです。
赤ちゃんは未来の宝物だし、あの笑顔を見ると癒されます。
2016年12月19日月曜日
杉井ひとみ(徳島の盲導犬を育てる会)・命の音を守りたい
杉井ひとみ(徳島の盲導犬を育てる会事務局長) ・命の音を守りたい
昨年 10月徳島県で視覚障害者の山橋さん(50歳)が盲導犬と共にバックしてきたトラックにはねられ、死亡する痛ましい事故が起きました。
この事故がきっかけとなり視覚障害者が安全に生活できる交通環境の整備が大きく進みました。
徳島県では全国で初めてとなる、トラック等がバックする際の警報音を義務付ける条例ができました。
又国土交通省は走行音が静かなハイブリッド車等に周囲に接近を知らせる装置の取り付けを義務付けることを決めました。
事故で亡くなった山橋さんの友人であり、徳島の盲導犬を育てる会の事務局長、杉井さんは事故の後、視覚障害者の安全を訴える活動を続けてきました。
事故を聞いた時、とにかく現場に行かなくてはと思いました、いまだに彼が亡くなったとは受け入れられません。
山橋さんは病院に勤務していて、通勤途中だった。
歩道のない道で右前方からトラックがバックして方向転換をしようとしてひかれてしまった。
盲導犬が気がついて避けようとした、という鑑識からの報告でした。
山橋さんは前進してくるのか、バックしてくるのか判らなかったと思います。
バックしてくる音が聞こえていたら命まで落とさなかったと思います。
視覚障害者は歩いている時に音を頼りにしていますが、前から来ているのかどうか分からないため、前進してきているのであれば、運転者が気付いてくれると思います。
バック音は近隣の人からうるさいと言う事で、切られていたと言う事でした。
視覚障害者にとっては歩く情報源なので、恐ろしい状況となる訳です。
知事さんは1週間で警察庁に出向いて、視覚障害者の音問題について要望書を提出して、県議会もまず条例化をしようという動きが有りました。
トラック業者に音を鳴らしましょうとは、事故の二日後には発令されました。
心に訴えかけるものにしようと私達は考えました。
山橋さんのパネル展を行いました、(50か所)、県外からも要望が有りパネルを貸しました。
山橋さんは交通安全にもかかわっていました。
山橋さんの母親が手紙を製作、それを講演会等で読みました。
「息子衛二は同乗していた自動車事故で意識不明の重体となり、3カ月の昏睡状態から目が覚めた時は視力を失っていました、絶望の中から立ち直れたのは盲導犬のお陰です・・・あの事故の日は特別な朝でヴァルデスの10歳の誕生日で、引退を1週間後に控えていました。
ヴァルデスに特別なお肉を与え頭を撫でてやりました。・・・それから30分とたたないうちに事故の知らせを聞きました。・・・衛二はヴァルデスを心配しただろうと思いました。
ヴァルデスは即死でした。
逃げようと思えば助かっていたのに、最後まで衛二のそばを離れなかった。
・・・加害者のことを思うと今でも怒りに震えます。
でも加害者にも家族がいてその母親も悲しい思いをさせていると思うと心が痛みます。
・・・どうぞ皆さんもいつも貴方の事を心配している母親がいることを思いだしてください。
・・・人を傷つけても、傷つけられても母は悲しいのです。
・・・この事故をきっかけに視覚障害者は音が頼りで大切な情報源であると言う事に気付いてもらえました。
・・・警報音は命を守るために必要な音です。
・・・変わっていかないと二人の死が無駄になります。
これ以上の犠牲者が出ない様に、交通事故が亡くなるように祈っています。」
山橋さんとは25年ぐらいの付き合いが有り、いろいろ相談をしたりしました。
子供が盲導犬を飼いたいと言い出しました。
パピーウォーカー募集の記事が有り飛び付きました。
生後2カ月ぐらいの子犬を預かって、人間関係とを築けるようなボランティアです。
山橋さんは19歳の時に事故にあって、自分の気持ちを変えていこうと冗談を言う様になったそうです。
当時、盲導犬が活躍できる環境ではなかったので啓発活動がほとんどでしたが、盲導犬の育成に力を入れたいという事で、なにをしなくてはいけないかということは、任せるという事で仲間を増やして行って、今の状況になってきました。
小学校に山橋さんと行って、障害がある人に対しての理解をしてもらうために、事故のこと、視覚障害の事、盲導犬のことなどを話しました。
クイズでいろいろ音の大切さを知ってもらったりもしました。
月に2回は必ず小学校に行っていました。(山橋さんは有給を全部使って)
盲導犬は安らぎを与えてくれる。
徳島県は歩道は幹線道路しか無くて、狭い道路が多くて、歩くには苦労します。
交通機関は便数も少なくて不便です。
ホームからの転落、周りに人が多くいる都会でどうして起きてしまったのかなあと思います。
警報音が義務化になる様に活動していて、理解してもらえるように、ポスターを作って全国に配布していこうという活動をしています。
13枚の種類が有ります。
「貴方の声が命を救う」、そうったことをポスターにしました。
親切なおせっかいになってほしいと思います。
山橋さんの事故をきっかけに、国土交通省は走行音が静かなハイブリッド車等に周囲に接近を知らせる装置の取り付けを義務付けることを決めました。(10月)
徳島県では全国で初めてとなる、トラックなどがバックする際の警報音を義務付ける条例ができました。
あの事故は世界の交通環境を変えるきっかけになったと思います。
昨年 10月徳島県で視覚障害者の山橋さん(50歳)が盲導犬と共にバックしてきたトラックにはねられ、死亡する痛ましい事故が起きました。
この事故がきっかけとなり視覚障害者が安全に生活できる交通環境の整備が大きく進みました。
徳島県では全国で初めてとなる、トラック等がバックする際の警報音を義務付ける条例ができました。
又国土交通省は走行音が静かなハイブリッド車等に周囲に接近を知らせる装置の取り付けを義務付けることを決めました。
事故で亡くなった山橋さんの友人であり、徳島の盲導犬を育てる会の事務局長、杉井さんは事故の後、視覚障害者の安全を訴える活動を続けてきました。
事故を聞いた時、とにかく現場に行かなくてはと思いました、いまだに彼が亡くなったとは受け入れられません。
山橋さんは病院に勤務していて、通勤途中だった。
歩道のない道で右前方からトラックがバックして方向転換をしようとしてひかれてしまった。
盲導犬が気がついて避けようとした、という鑑識からの報告でした。
山橋さんは前進してくるのか、バックしてくるのか判らなかったと思います。
バックしてくる音が聞こえていたら命まで落とさなかったと思います。
視覚障害者は歩いている時に音を頼りにしていますが、前から来ているのかどうか分からないため、前進してきているのであれば、運転者が気付いてくれると思います。
バック音は近隣の人からうるさいと言う事で、切られていたと言う事でした。
視覚障害者にとっては歩く情報源なので、恐ろしい状況となる訳です。
知事さんは1週間で警察庁に出向いて、視覚障害者の音問題について要望書を提出して、県議会もまず条例化をしようという動きが有りました。
トラック業者に音を鳴らしましょうとは、事故の二日後には発令されました。
心に訴えかけるものにしようと私達は考えました。
山橋さんのパネル展を行いました、(50か所)、県外からも要望が有りパネルを貸しました。
山橋さんは交通安全にもかかわっていました。
山橋さんの母親が手紙を製作、それを講演会等で読みました。
「息子衛二は同乗していた自動車事故で意識不明の重体となり、3カ月の昏睡状態から目が覚めた時は視力を失っていました、絶望の中から立ち直れたのは盲導犬のお陰です・・・あの事故の日は特別な朝でヴァルデスの10歳の誕生日で、引退を1週間後に控えていました。
ヴァルデスに特別なお肉を与え頭を撫でてやりました。・・・それから30分とたたないうちに事故の知らせを聞きました。・・・衛二はヴァルデスを心配しただろうと思いました。
ヴァルデスは即死でした。
逃げようと思えば助かっていたのに、最後まで衛二のそばを離れなかった。
・・・加害者のことを思うと今でも怒りに震えます。
でも加害者にも家族がいてその母親も悲しい思いをさせていると思うと心が痛みます。
・・・どうぞ皆さんもいつも貴方の事を心配している母親がいることを思いだしてください。
・・・人を傷つけても、傷つけられても母は悲しいのです。
・・・この事故をきっかけに視覚障害者は音が頼りで大切な情報源であると言う事に気付いてもらえました。
・・・警報音は命を守るために必要な音です。
・・・変わっていかないと二人の死が無駄になります。
これ以上の犠牲者が出ない様に、交通事故が亡くなるように祈っています。」
山橋さんとは25年ぐらいの付き合いが有り、いろいろ相談をしたりしました。
子供が盲導犬を飼いたいと言い出しました。
パピーウォーカー募集の記事が有り飛び付きました。
生後2カ月ぐらいの子犬を預かって、人間関係とを築けるようなボランティアです。
山橋さんは19歳の時に事故にあって、自分の気持ちを変えていこうと冗談を言う様になったそうです。
当時、盲導犬が活躍できる環境ではなかったので啓発活動がほとんどでしたが、盲導犬の育成に力を入れたいという事で、なにをしなくてはいけないかということは、任せるという事で仲間を増やして行って、今の状況になってきました。
小学校に山橋さんと行って、障害がある人に対しての理解をしてもらうために、事故のこと、視覚障害の事、盲導犬のことなどを話しました。
クイズでいろいろ音の大切さを知ってもらったりもしました。
月に2回は必ず小学校に行っていました。(山橋さんは有給を全部使って)
盲導犬は安らぎを与えてくれる。
徳島県は歩道は幹線道路しか無くて、狭い道路が多くて、歩くには苦労します。
交通機関は便数も少なくて不便です。
ホームからの転落、周りに人が多くいる都会でどうして起きてしまったのかなあと思います。
警報音が義務化になる様に活動していて、理解してもらえるように、ポスターを作って全国に配布していこうという活動をしています。
13枚の種類が有ります。
「貴方の声が命を救う」、そうったことをポスターにしました。
親切なおせっかいになってほしいと思います。
山橋さんの事故をきっかけに、国土交通省は走行音が静かなハイブリッド車等に周囲に接近を知らせる装置の取り付けを義務付けることを決めました。(10月)
徳島県では全国で初めてとなる、トラックなどがバックする際の警報音を義務付ける条例ができました。
あの事故は世界の交通環境を変えるきっかけになったと思います。
2016年12月16日金曜日
高崎 明(「ぷかぷか」理事長) ・“障がい者の力”をビジネスに
高崎 明(NPO法人「ぷかぷか」理事長) ・“障がい者の力”をビジネスに
高崎さんのNPO法人は横浜市緑区霧が丘商店街の一角でパン屋とカフェを営んでいます。
現在40人の障害のある人が生産と販売をになっています。
店をオープンしたのは養護学校の教員を定年退職した6年前、障害のある人達と一緒に働ける場を作りたいと言うのが動機でした。
店の経営が軌道に乗るまで多くの困難を高崎さんと障害のある人達はどう乗り越えてきたのか、そこで得られたものは何か伺いました。
40人ぐらいが働いているが、多くは知的障害、精神の方もいます。
私は大学で電子工学の勉強して、大手電気メーカーに就職してレーダーとか衛星の追跡装置とかの仕事をしていました。
山は好きで毎週のように行っていましたが、マッキンリーにも行きました。(その時には会社を辞めていました)
会社を辞め、お金もないので大変でしたが、自分を探すと言うか、これから先を探ってました。
色々アルバイトをしていて、宮城教育大学の学長をやっていた林竹二さんの授業の記録を読んだのがきっかけで、教育の面白さに目覚めました。
神奈川県の教員採用試験を受けて受かりましたが、その年の冬に富士山で滑落事故を起こして、両足とも滅茶苦茶な骨折で教員をやれる状態ではなくて(9カ月入院)、翌年又試験を受けました、そうしたら受かりました。
養護学校の教員になりたいのか、どうかを聞かれて、最終的に養護学校に行く事になりました。
障害児教育は殆ど勉強していなかったので対応には苦慮しました。
そのことが却ってよかったようで、手探りで対応してきて、人として出会えたと言う事が言えます。
人としてきらっと光るものが有ったと言う、そのことを素手で向き合ったから見つけられたということはあります。
日々凄く楽しくて、彼らと出会う中で人間を本当に見直しましたね。
その人のそばにずーっといたいと言う、そんな気持ちになりました。
60歳で定年退職したが、人間について教えられたと言う事と、一番良かったのは自分が自由になれた、規範に縛られていたが、彼らに接して一つ一つ取れていきました。
おもらしをする子がいて10分置きにパンツを脱ぐ様な子で、こちらは履けといって、そんな繰り返しだったが、天気の良い日には履かないで大の字になって気持ち良くしていて、ひょっとして彼の方がその時その時、いい時間を過ごしているのではないかと気がついて、パンツを履かなくてもいいのではないかと思って、穏やかな目で見られる様になった。
私自身が生きることが楽になった感じがしています。
定年退職したら彼らと別れるのが淋しくて、彼らと一緒に生きていきたい、そのためには彼らと一緒に働く場を作ろうとパン屋をやろうと考えましたが、実際大変でした。
最初は10人と一緒にはじめました。
声がうるさいとか目ざわりだとか、色々苦情がきました。
彼らの持つ雰囲気が、ちょっとずつ地域の方の雰囲気が変わってきました。
新聞で障害のある人と一緒に生きていった方がいいと日々発信しているのですが、そういったメッセージが伝わる内容のものをいれています。
(AKBの娘が辞めた時に押し入れに首を突っ込んでワーワーと泣いた事とか、色々なエピソード)
一人一人の理解が深まってきました。(毎月6ページの新聞)
パンは始めるまえは絶対売れると思っていたが、売れなかった。
店では一斤340円、スーパーでは120円で、売れなくて、翌日半額にして売る、という繰り返しでした。
或る日、障害のある方の親が見学に来て、そのかたは一部上場の役員の方で、経営が全く下手糞だと言う事で毎週アドバイスを言いに来てくれました。
赤字が怖いぐらい増えていて、まず資金繰り表を作れと言われて、資金繰り表を作って、先ず不安が解消してきて、データ表を取る様に言われてデータに合わせて数量調整して行って、3年目に黒字になりました。
美味しいから買うと言うストレートで勝負しようと思っていて、だから天然酵母に拘って、おいしいものを作るとちょっとずつ売れるようになり、好循環が生まれました。
カフェをやる時に接客をどうしたらいいか判らず、講師を呼んでセミナーを開いた。
接客マニュアルが有り、その通りにやるとその人ではない様な感じでそれは辞めようと思った。
お客さんが不愉快な思いさえしなければ、後は自分で考えてやりましょうと言う事でスタートしたが、それが却って受けました。(ありのままの姿こそ魅力が有り、人の心を癒したと思います)
彼らの魅力は社会を変えるチカラ、そういうものを感じます。
出会いが生まれ、「ぷかぷか」のファンが増えてゆきました。
今は彼等に支えられている、彼らがいなければただのそこらにあるパン屋です。
60歳過ぎてこんなに楽しい人生を送るとは思わなかった。
相模原事件の容疑者は障害者なんていない方がいいと言っていますが、「ぷかぷか」は彼らと一緒に生きていった方がいい、その方が得だと言っています。
一緒に生きていった方がいいという事実を作ってゆく、「ぷかぷか」は日々その事実を作っていると思うんです。
パン屋の働いている人と、地域の人が一緒になって芝居作りをやっています。
彼らがいることで、できてくるものが幅が広がって、豊かになってくる、彼らがいることによって出来る芝居だと思います。
彼らがいた方がいいという具体的なメッセージです。
そういう事を作り続けてゆく事が相模原事件を越えてゆく社会を作ることになるんだと思います。
彼らがいてからこそできる文化だと思います。
有りのままでいられる職場、世界の都市の名前をずーっと言う事ができたりする、おしゃべりが得意な子がいてそれに対してファンが出来、行列ができたりして凄いなと思います。
「ぷかぷか」は彼等に社会が合わせて行った方がお互い楽になると考えています。
仕事をやりながらも楽しい事をやり続けることが凄く必要なんだと思います。
広めてゆくためには、いいものを作ると言う事と、彼らの魅力を活かす事だと思っています。
規則は大事だと思っていなくて、ゆるい所が大事かなあと思います。
作るものは妥協はしない、健康な命を未来に引き継いでゆく、ここは外したくない、お客さんが安心して食べられる、ここは外せない、そういう思いでやっています。
高崎さんのNPO法人は横浜市緑区霧が丘商店街の一角でパン屋とカフェを営んでいます。
現在40人の障害のある人が生産と販売をになっています。
店をオープンしたのは養護学校の教員を定年退職した6年前、障害のある人達と一緒に働ける場を作りたいと言うのが動機でした。
店の経営が軌道に乗るまで多くの困難を高崎さんと障害のある人達はどう乗り越えてきたのか、そこで得られたものは何か伺いました。
40人ぐらいが働いているが、多くは知的障害、精神の方もいます。
私は大学で電子工学の勉強して、大手電気メーカーに就職してレーダーとか衛星の追跡装置とかの仕事をしていました。
山は好きで毎週のように行っていましたが、マッキンリーにも行きました。(その時には会社を辞めていました)
会社を辞め、お金もないので大変でしたが、自分を探すと言うか、これから先を探ってました。
色々アルバイトをしていて、宮城教育大学の学長をやっていた林竹二さんの授業の記録を読んだのがきっかけで、教育の面白さに目覚めました。
神奈川県の教員採用試験を受けて受かりましたが、その年の冬に富士山で滑落事故を起こして、両足とも滅茶苦茶な骨折で教員をやれる状態ではなくて(9カ月入院)、翌年又試験を受けました、そうしたら受かりました。
養護学校の教員になりたいのか、どうかを聞かれて、最終的に養護学校に行く事になりました。
障害児教育は殆ど勉強していなかったので対応には苦慮しました。
そのことが却ってよかったようで、手探りで対応してきて、人として出会えたと言う事が言えます。
人としてきらっと光るものが有ったと言う、そのことを素手で向き合ったから見つけられたということはあります。
日々凄く楽しくて、彼らと出会う中で人間を本当に見直しましたね。
その人のそばにずーっといたいと言う、そんな気持ちになりました。
60歳で定年退職したが、人間について教えられたと言う事と、一番良かったのは自分が自由になれた、規範に縛られていたが、彼らに接して一つ一つ取れていきました。
おもらしをする子がいて10分置きにパンツを脱ぐ様な子で、こちらは履けといって、そんな繰り返しだったが、天気の良い日には履かないで大の字になって気持ち良くしていて、ひょっとして彼の方がその時その時、いい時間を過ごしているのではないかと気がついて、パンツを履かなくてもいいのではないかと思って、穏やかな目で見られる様になった。
私自身が生きることが楽になった感じがしています。
定年退職したら彼らと別れるのが淋しくて、彼らと一緒に生きていきたい、そのためには彼らと一緒に働く場を作ろうとパン屋をやろうと考えましたが、実際大変でした。
最初は10人と一緒にはじめました。
声がうるさいとか目ざわりだとか、色々苦情がきました。
彼らの持つ雰囲気が、ちょっとずつ地域の方の雰囲気が変わってきました。
新聞で障害のある人と一緒に生きていった方がいいと日々発信しているのですが、そういったメッセージが伝わる内容のものをいれています。
(AKBの娘が辞めた時に押し入れに首を突っ込んでワーワーと泣いた事とか、色々なエピソード)
一人一人の理解が深まってきました。(毎月6ページの新聞)
パンは始めるまえは絶対売れると思っていたが、売れなかった。
店では一斤340円、スーパーでは120円で、売れなくて、翌日半額にして売る、という繰り返しでした。
或る日、障害のある方の親が見学に来て、そのかたは一部上場の役員の方で、経営が全く下手糞だと言う事で毎週アドバイスを言いに来てくれました。
赤字が怖いぐらい増えていて、まず資金繰り表を作れと言われて、資金繰り表を作って、先ず不安が解消してきて、データ表を取る様に言われてデータに合わせて数量調整して行って、3年目に黒字になりました。
美味しいから買うと言うストレートで勝負しようと思っていて、だから天然酵母に拘って、おいしいものを作るとちょっとずつ売れるようになり、好循環が生まれました。
カフェをやる時に接客をどうしたらいいか判らず、講師を呼んでセミナーを開いた。
接客マニュアルが有り、その通りにやるとその人ではない様な感じでそれは辞めようと思った。
お客さんが不愉快な思いさえしなければ、後は自分で考えてやりましょうと言う事でスタートしたが、それが却って受けました。(ありのままの姿こそ魅力が有り、人の心を癒したと思います)
彼らの魅力は社会を変えるチカラ、そういうものを感じます。
出会いが生まれ、「ぷかぷか」のファンが増えてゆきました。
今は彼等に支えられている、彼らがいなければただのそこらにあるパン屋です。
60歳過ぎてこんなに楽しい人生を送るとは思わなかった。
相模原事件の容疑者は障害者なんていない方がいいと言っていますが、「ぷかぷか」は彼らと一緒に生きていった方がいい、その方が得だと言っています。
一緒に生きていった方がいいという事実を作ってゆく、「ぷかぷか」は日々その事実を作っていると思うんです。
パン屋の働いている人と、地域の人が一緒になって芝居作りをやっています。
彼らがいることで、できてくるものが幅が広がって、豊かになってくる、彼らがいることによって出来る芝居だと思います。
彼らがいた方がいいという具体的なメッセージです。
そういう事を作り続けてゆく事が相模原事件を越えてゆく社会を作ることになるんだと思います。
彼らがいてからこそできる文化だと思います。
有りのままでいられる職場、世界の都市の名前をずーっと言う事ができたりする、おしゃべりが得意な子がいてそれに対してファンが出来、行列ができたりして凄いなと思います。
「ぷかぷか」は彼等に社会が合わせて行った方がお互い楽になると考えています。
仕事をやりながらも楽しい事をやり続けることが凄く必要なんだと思います。
広めてゆくためには、いいものを作ると言う事と、彼らの魅力を活かす事だと思っています。
規則は大事だと思っていなくて、ゆるい所が大事かなあと思います。
作るものは妥協はしない、健康な命を未来に引き継いでゆく、ここは外したくない、お客さんが安心して食べられる、ここは外せない、そういう思いでやっています。
2016年12月15日木曜日
髙村ヒデ(「地域・共生を考える会」) ・“あったか地域家族”を目指して
髙村ヒデ(NPO法人「江戸川・地域・共生を考える会」代表) ・“あったか地域家族”を目指して
71歳、高村さんは保育士、調理師として長年地元の保育園に勤めてきました。
定年退職後は地域の暮らしのお手伝いをしようと、見守りボランティアとして子供達の登校の際の交通安全を計ってきました。
その後、江戸川総合人生大学と言う区が設置した社会貢献を勉強する場で学んだあと、赤ちゃんからお年寄りまでの面倒をみるデイサービスを立ち上げました。
このデーサービスは年齢や障害の有無に関係なく一つ屋根の下で、皆一緒に楽しく過ごすことがモットーになっています。
現在では毎週水曜日と金曜日と、第三日曜日に開いており、赤ちゃんから93歳年寄りまでおよそ30人の安らぎの場所になっています。
高村さんはゆくゆくは安らぎの場所だけでなく、障害者の働く場所にも発展させてゆきたいと思っています。
12月は4日にお楽しみ会が有り、約100名の人が遊びに来てくれました。
第三日曜日の「日向ぼっこの日」に、焼き芋屋がボランティアで来てくれる事になっています。
出身は新潟で、中学を卒業して町役場に就職しましたが、保育園の給食の先生が辞められると言う事で、私が行く事になりました。
4年間、昼間は保育園で勤めて、夜は定時制高校へ通って、卒業と同時に保育士、調理士の資格を取りました。
25歳で結婚して東京に来ました。
保育士として働いてきました。
ボランティアは通学道の旗振りをしました。
保育園に来ていた子のお母さんが交通事故で亡くなり、通学道に立とうと思いました。
今もやっていて10年目になります。
江戸川総合人生大学で勉強もしました。
子供支援のしかた、ボランティアとは何かと言う風なことを勉強したくて入学しました。
色々な経験をされた人々、定年をされた方が多くて、色々な人とかかわる中でいろいろ体験しました。
富山型デーサービスを知ったことも大きかったです。
看護士3人が立ちあげた新しい形で、赤ちゃんからお年寄りまで障害が有ってもなくても、皆さんが一つ屋根の下で過ごすと言うのが一番の理念になっています。
今は全国的に広がっている様です。
富山県に行って見て衝撃を受けて江戸川でやってみたいと思いました。
惣万佳代子さんと言う方が提唱しましたが、有名な方です。
*参照・・・惣万佳代子(デーサービス代表) ・富山から福祉を変え続けて20年
2013年7月30日、31日 「明日への言葉」で放送
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2013/07/20.html
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2013/07/20-2.html
昨年はナイチンゲール賞を頂いた方です。
平成24年の6月に立ちあげました。
「一緒がいいねひなたぼっこ」と言う会の名前です。
富山型のいいところは、区切りがないと言うところでいろいろな人が集まって、メリットはお年寄りは子供を見ると自然と笑顔になります。
子供が縄跳びをやっていると93歳のお婆ちゃんが傍に行って手を叩いて数えてあげて、子供たちも得意になってやったりして相乗効果が有ります。
お婆ちゃんたちも生きいきしてきます。
核家族になったり、一人親とかの子もいるので、子供たちにとってもいい様です。
障害者との関係では健常者の方に特にメリットが有り、優しい子に育つと思います。
小さい時から一緒にいると偏見、差別がなくなると言われています。
普通の学校で言われるような、いじめなどはないです。
自分で出来ることは自分でやってもらっている。
健常の子が御飯とかを運んだりしてくれたり、障害の子がお婆ちゃんに運んだり自然とやってます。
毎週水曜日と金曜日と、第三日曜日に開いており、第三日曜日は多い時は37名が来て、水、金は子供は学校で来られないので、ヨガをやったりきり絵をやったりしています。
これまで、最少生まれて3カ月~93歳のお婆ちゃんまで来ます。
立ち上げ当初から来ている中学2年と3年の子がいますが、養護学校でボランティアをしていた頃出会った子で、殆ど休まないで毎月来ています。
中学3年生は軽い自閉症が有って、以前和室で座布団を頭からかぶってずーっと過ごしていました。
1年経ったころに、みんなと一緒に食べてみようかと言ったら、食べるようになり、一緒に食べるようになりました。
心を開いてくれるようになりました。
表情も全然変わってきました。
数字に強い子で、お母さんとスーパーに買い物に行っても、暗算して、レジとぴったり合ってしまいます。
中学2年の子は小さいころから手術を色々していて、天使の様な声で歌を歌いますが、自分では進んで歌わないが、ボランティアの人が来て音楽が始まると踊りながら歌います。
行政との連携を取りながらいずれは利用者の子供達が自分で出来る仕事をそこでしながらやっていけるような方向に持っていきたいと思っています。
富山の惣万佳代子さんの所ではすでに障害のある子が5~6人働いており、その様な方向に持ってゆきたいと思います。
お掃除、食事の洗いもの、車の掃除、とかいろいろあると思います、そこで働いて収入を得てゆく、それが理想だと思います。
スタッフはすべてシニアなので、スタッフとして働いてもらえればいいと思います。
18日には焼き芋大会が有ります。
芋掘りなど子供達は物凄く喜びます。
焼き芋のプロがボランティアで来てくれます。
来年はトリ年、年女なので、元気で羽ばたきたいと思っています。
71歳、高村さんは保育士、調理師として長年地元の保育園に勤めてきました。
定年退職後は地域の暮らしのお手伝いをしようと、見守りボランティアとして子供達の登校の際の交通安全を計ってきました。
その後、江戸川総合人生大学と言う区が設置した社会貢献を勉強する場で学んだあと、赤ちゃんからお年寄りまでの面倒をみるデイサービスを立ち上げました。
このデーサービスは年齢や障害の有無に関係なく一つ屋根の下で、皆一緒に楽しく過ごすことがモットーになっています。
現在では毎週水曜日と金曜日と、第三日曜日に開いており、赤ちゃんから93歳年寄りまでおよそ30人の安らぎの場所になっています。
高村さんはゆくゆくは安らぎの場所だけでなく、障害者の働く場所にも発展させてゆきたいと思っています。
12月は4日にお楽しみ会が有り、約100名の人が遊びに来てくれました。
第三日曜日の「日向ぼっこの日」に、焼き芋屋がボランティアで来てくれる事になっています。
出身は新潟で、中学を卒業して町役場に就職しましたが、保育園の給食の先生が辞められると言う事で、私が行く事になりました。
4年間、昼間は保育園で勤めて、夜は定時制高校へ通って、卒業と同時に保育士、調理士の資格を取りました。
25歳で結婚して東京に来ました。
保育士として働いてきました。
ボランティアは通学道の旗振りをしました。
保育園に来ていた子のお母さんが交通事故で亡くなり、通学道に立とうと思いました。
今もやっていて10年目になります。
江戸川総合人生大学で勉強もしました。
子供支援のしかた、ボランティアとは何かと言う風なことを勉強したくて入学しました。
色々な経験をされた人々、定年をされた方が多くて、色々な人とかかわる中でいろいろ体験しました。
富山型デーサービスを知ったことも大きかったです。
看護士3人が立ちあげた新しい形で、赤ちゃんからお年寄りまで障害が有ってもなくても、皆さんが一つ屋根の下で過ごすと言うのが一番の理念になっています。
今は全国的に広がっている様です。
富山県に行って見て衝撃を受けて江戸川でやってみたいと思いました。
惣万佳代子さんと言う方が提唱しましたが、有名な方です。
*参照・・・惣万佳代子(デーサービス代表) ・富山から福祉を変え続けて20年
2013年7月30日、31日 「明日への言葉」で放送
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2013/07/20.html
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2013/07/20-2.html
昨年はナイチンゲール賞を頂いた方です。
平成24年の6月に立ちあげました。
「一緒がいいねひなたぼっこ」と言う会の名前です。
富山型のいいところは、区切りがないと言うところでいろいろな人が集まって、メリットはお年寄りは子供を見ると自然と笑顔になります。
子供が縄跳びをやっていると93歳のお婆ちゃんが傍に行って手を叩いて数えてあげて、子供たちも得意になってやったりして相乗効果が有ります。
お婆ちゃんたちも生きいきしてきます。
核家族になったり、一人親とかの子もいるので、子供たちにとってもいい様です。
障害者との関係では健常者の方に特にメリットが有り、優しい子に育つと思います。
小さい時から一緒にいると偏見、差別がなくなると言われています。
普通の学校で言われるような、いじめなどはないです。
自分で出来ることは自分でやってもらっている。
健常の子が御飯とかを運んだりしてくれたり、障害の子がお婆ちゃんに運んだり自然とやってます。
毎週水曜日と金曜日と、第三日曜日に開いており、第三日曜日は多い時は37名が来て、水、金は子供は学校で来られないので、ヨガをやったりきり絵をやったりしています。
これまで、最少生まれて3カ月~93歳のお婆ちゃんまで来ます。
立ち上げ当初から来ている中学2年と3年の子がいますが、養護学校でボランティアをしていた頃出会った子で、殆ど休まないで毎月来ています。
中学3年生は軽い自閉症が有って、以前和室で座布団を頭からかぶってずーっと過ごしていました。
1年経ったころに、みんなと一緒に食べてみようかと言ったら、食べるようになり、一緒に食べるようになりました。
心を開いてくれるようになりました。
表情も全然変わってきました。
数字に強い子で、お母さんとスーパーに買い物に行っても、暗算して、レジとぴったり合ってしまいます。
中学2年の子は小さいころから手術を色々していて、天使の様な声で歌を歌いますが、自分では進んで歌わないが、ボランティアの人が来て音楽が始まると踊りながら歌います。
行政との連携を取りながらいずれは利用者の子供達が自分で出来る仕事をそこでしながらやっていけるような方向に持っていきたいと思っています。
富山の惣万佳代子さんの所ではすでに障害のある子が5~6人働いており、その様な方向に持ってゆきたいと思います。
お掃除、食事の洗いもの、車の掃除、とかいろいろあると思います、そこで働いて収入を得てゆく、それが理想だと思います。
スタッフはすべてシニアなので、スタッフとして働いてもらえればいいと思います。
18日には焼き芋大会が有ります。
芋掘りなど子供達は物凄く喜びます。
焼き芋のプロがボランティアで来てくれます。
来年はトリ年、年女なので、元気で羽ばたきたいと思っています。
2016年12月14日水曜日
田部井淳子(登山家) ・「自然を楽しむ~山から学んだこと選」
田部井淳子(登山家) ・「自然を楽しむ~山から学んだこと選」
世界最高峰のエベレストの登頂に女性として初めて成功した田部井さんが今年、10月20日癌のため埼玉県内の病院で亡くなられました、77歳でした。
田部井さんは福島県三春町出身で、大学を卒業後に本格的な登山を始めました。
昭和50年には世界最高峰のエベレストの登頂に女性として初めて成功したほかアフリカ、キリマンジェロやアメリカのマッキンリー(デナリ)世界の7つの大陸の最高峰の登頂にも女性として初めて成功しました。
田部井さんは内外の沢山の山に登りながら、環境保護の活動、東日本大震災の後、登山を通して被災地の復興支援や被災した人達の応援に力を尽してきました。
ラジオ深夜便の「自然を楽しむのシリーズ」では、今年の3月までの4年間、毎月一回山登りの楽しさや山から学んだことを田部井さんに話していただきました。
その中から3回分を選んでお聞き願います。
40年前の5月 昭和50年5月16日、 世界最高峰のエベレストの登頂に女性として初めて成功。
最終キャンプ地8500mから 頂上までは標高差で350m。
天気は良くて風もそれほど強くなく、気温は-20~25度ぐらいで、朝には雪がやんで、40~50cm積もっていました。
出発は5寺50分、酸素ボンベを2本(7.5kgを2本、)魔法瓶とか非常用具で22kgの荷物を背負って行きました。(体重は43kgでした)
テントを出た途端にいきなり急斜面が有りました。
ピッケルで雪をかき下ろして、膝で踏んで足で踏みます。
少しづつ前に進みました。
8700mのところの南峰でようやく2人(シェルパ)で立っていられる所が有り、そこで初めて休みました。
そこからガクンと降りますが、ナイフの刃の様になっていて、ナイフの刃の様なとがっているところを手で持って、アイゼンの先のつ目だけで身体を支えるように側面を20mぐらい下って行きました。
ナイフの先は中国側が見え、股下には2000m下には第二キャンプが豆粒のように見え、中国側を覗き込むと5000~6000mがドーンとおっこっていました。(ピッケルは使えなかった)
20m降りるとようやく両足が立っていられる幅が有って、そこから5mのオーバーハングした岩が有って、苦労しながら岩を廻り込んでいきましたが、帰りはどうすればいいのかと思いました。
すでに36人が行っているので、自分もいけないことはないと思いました。
兎に角今の一歩を頑張ろうと足を引きずりながら行きました。
山頂に立ちチベットのロンボク氷河が目の前に広がっていて、あーっもうこれ以上登らなくていいと思いました。
地球の一番高い所から見た風景、自分の目で見たこと、自分の足で一歩一歩歩いたからこの風景が見れたと言う、あの凄さは感動的でした。
ネパール側は雪と氷で出来た山々が林立していて、チベット側は起伏の緩い白と茶色の風景が延々と続いているチベット高原。
「サスケネー(差支えない、気にすることはないと言う福島の方言)は魔法の言葉」
31年前、旧ソ連のパミールの7000mの山を3つを登った山の話。
夏の限定された期間に登ることができた。
世界から300人ぐらいが集まりました。
真夜中にバスでスタートしました。
女性だけのチームなので期間を延ばしてほしいと交渉して1週間延ばしてもらいました。
コルジェネフスカヤ、コミュニズム、レーニンと言う山でした。
ベースキャンプからは2つは登れましたが、もう一つはヘリコプターで行かないといけない山でした。
チームの二人は30代の7000m級の山は登った事のない人達でした。
頂上に行った時は二人は歩く速度ががくんと落ちてしまって、這ってでも登ってこいと怒鳴りました。
頂上では3人で抱き合って喜びました。
降りるときは疲れていたので事故のない様に暗くなってようやくテントにつきましたが、二人は疲れきってしまって座ったきりでした。
サスケネー、サスケネーと言ってやりました。
なんかわからないけどホッとしたと言われました。
これ以上進めないとか、遠征の中で困ったことがいっぱいありましたが、サスケネー、サスケネーと
自分に言い聞かせるときもありまして、乗り越えられたのかなと言う気がしました。
最初の7000mの山をクリアした後は、後の二つの山は大分楽に登れました。
「山からもらった元気を沢山の人に伝えたい。」(最終回)
癌になって余命 3カ月を告知されたが、克服。
故郷福島で東日本大震災で大きな被害を受ける。
76歳になりました。
193カ国が国連に加盟しているが、76カ国の山に登っていますが、5月にインドネシア、スマトラ島の最高峰クリンチ山に行く予定にしています。
グリーンランドに行ったことが無いので行って見たい、アフリカも行っていないところもいっぱいあるので興味があります。
被災した福島の高校生徒と一緒に富士山に登る計画をしました。
達成感が得られる、仲間ができる、無理と思っていたけれど一歩を諦めない限り頂上に立てるということが判って、これからどんなことが有ってもこれを思い出して、やり遂げていきたいという感想をもらって、1000人になるまでやりたいと思っています。
3月半ばに大熊町に住んでいる人が会津若松、いわき市に避難されている方達と福島県沼尻温泉のスノーハイキングすると言う事で集まってもらい、ハイキングして温泉に入って楽しんでもらう。
出会いの場にもなったりしまして、良かったと思います。
首都圏に避難している人に声をかけて埼玉県の天覧山で東北応援プロジェクトの企画として山に登ったりゲームをしたりしました。
三春町に泊って桜を見て楽しんでもらったりすることもやっています。
「歌のステージ」 山に一緒にいっている5人の人達と、シャンソンの練習をしているうちにコンサートをやろうと言う事になりました。
「怖いもの知らずの女ステージ」別名 「AKB」(あっちもこっちもばあさんだらけ)
メークをして大変身しました。
佐渡に行ってやることにもなっています。
山に登る魅力、屋根の下ではないと言う事が大きな魅力で、雄大な自然の中に自分がいると言う事が凄い魅力で、あーっ生きていると言う事を感じます。
帰ったら又頑張るぞと言う気になります。
一歩一歩が本当に辛いんですが、この一歩を一生やっているんじゃない、だから今この一歩を頑張れと、そういう気持ちを味わえるのは自然の中だなあと思います。
世界最高峰のエベレストの登頂に女性として初めて成功した田部井さんが今年、10月20日癌のため埼玉県内の病院で亡くなられました、77歳でした。
田部井さんは福島県三春町出身で、大学を卒業後に本格的な登山を始めました。
昭和50年には世界最高峰のエベレストの登頂に女性として初めて成功したほかアフリカ、キリマンジェロやアメリカのマッキンリー(デナリ)世界の7つの大陸の最高峰の登頂にも女性として初めて成功しました。
田部井さんは内外の沢山の山に登りながら、環境保護の活動、東日本大震災の後、登山を通して被災地の復興支援や被災した人達の応援に力を尽してきました。
ラジオ深夜便の「自然を楽しむのシリーズ」では、今年の3月までの4年間、毎月一回山登りの楽しさや山から学んだことを田部井さんに話していただきました。
その中から3回分を選んでお聞き願います。
40年前の5月 昭和50年5月16日、 世界最高峰のエベレストの登頂に女性として初めて成功。
最終キャンプ地8500mから 頂上までは標高差で350m。
天気は良くて風もそれほど強くなく、気温は-20~25度ぐらいで、朝には雪がやんで、40~50cm積もっていました。
出発は5寺50分、酸素ボンベを2本(7.5kgを2本、)魔法瓶とか非常用具で22kgの荷物を背負って行きました。(体重は43kgでした)
テントを出た途端にいきなり急斜面が有りました。
ピッケルで雪をかき下ろして、膝で踏んで足で踏みます。
少しづつ前に進みました。
8700mのところの南峰でようやく2人(シェルパ)で立っていられる所が有り、そこで初めて休みました。
そこからガクンと降りますが、ナイフの刃の様になっていて、ナイフの刃の様なとがっているところを手で持って、アイゼンの先のつ目だけで身体を支えるように側面を20mぐらい下って行きました。
ナイフの先は中国側が見え、股下には2000m下には第二キャンプが豆粒のように見え、中国側を覗き込むと5000~6000mがドーンとおっこっていました。(ピッケルは使えなかった)
20m降りるとようやく両足が立っていられる幅が有って、そこから5mのオーバーハングした岩が有って、苦労しながら岩を廻り込んでいきましたが、帰りはどうすればいいのかと思いました。
すでに36人が行っているので、自分もいけないことはないと思いました。
兎に角今の一歩を頑張ろうと足を引きずりながら行きました。
山頂に立ちチベットのロンボク氷河が目の前に広がっていて、あーっもうこれ以上登らなくていいと思いました。
地球の一番高い所から見た風景、自分の目で見たこと、自分の足で一歩一歩歩いたからこの風景が見れたと言う、あの凄さは感動的でした。
ネパール側は雪と氷で出来た山々が林立していて、チベット側は起伏の緩い白と茶色の風景が延々と続いているチベット高原。
「サスケネー(差支えない、気にすることはないと言う福島の方言)は魔法の言葉」
31年前、旧ソ連のパミールの7000mの山を3つを登った山の話。
夏の限定された期間に登ることができた。
世界から300人ぐらいが集まりました。
真夜中にバスでスタートしました。
女性だけのチームなので期間を延ばしてほしいと交渉して1週間延ばしてもらいました。
コルジェネフスカヤ、コミュニズム、レーニンと言う山でした。
ベースキャンプからは2つは登れましたが、もう一つはヘリコプターで行かないといけない山でした。
チームの二人は30代の7000m級の山は登った事のない人達でした。
頂上に行った時は二人は歩く速度ががくんと落ちてしまって、這ってでも登ってこいと怒鳴りました。
頂上では3人で抱き合って喜びました。
降りるときは疲れていたので事故のない様に暗くなってようやくテントにつきましたが、二人は疲れきってしまって座ったきりでした。
サスケネー、サスケネーと言ってやりました。
なんかわからないけどホッとしたと言われました。
これ以上進めないとか、遠征の中で困ったことがいっぱいありましたが、サスケネー、サスケネーと
自分に言い聞かせるときもありまして、乗り越えられたのかなと言う気がしました。
最初の7000mの山をクリアした後は、後の二つの山は大分楽に登れました。
「山からもらった元気を沢山の人に伝えたい。」(最終回)
癌になって余命 3カ月を告知されたが、克服。
故郷福島で東日本大震災で大きな被害を受ける。
76歳になりました。
193カ国が国連に加盟しているが、76カ国の山に登っていますが、5月にインドネシア、スマトラ島の最高峰クリンチ山に行く予定にしています。
グリーンランドに行ったことが無いので行って見たい、アフリカも行っていないところもいっぱいあるので興味があります。
被災した福島の高校生徒と一緒に富士山に登る計画をしました。
達成感が得られる、仲間ができる、無理と思っていたけれど一歩を諦めない限り頂上に立てるということが判って、これからどんなことが有ってもこれを思い出して、やり遂げていきたいという感想をもらって、1000人になるまでやりたいと思っています。
3月半ばに大熊町に住んでいる人が会津若松、いわき市に避難されている方達と福島県沼尻温泉のスノーハイキングすると言う事で集まってもらい、ハイキングして温泉に入って楽しんでもらう。
出会いの場にもなったりしまして、良かったと思います。
首都圏に避難している人に声をかけて埼玉県の天覧山で東北応援プロジェクトの企画として山に登ったりゲームをしたりしました。
三春町に泊って桜を見て楽しんでもらったりすることもやっています。
「歌のステージ」 山に一緒にいっている5人の人達と、シャンソンの練習をしているうちにコンサートをやろうと言う事になりました。
「怖いもの知らずの女ステージ」別名 「AKB」(あっちもこっちもばあさんだらけ)
メークをして大変身しました。
佐渡に行ってやることにもなっています。
山に登る魅力、屋根の下ではないと言う事が大きな魅力で、雄大な自然の中に自分がいると言う事が凄い魅力で、あーっ生きていると言う事を感じます。
帰ったら又頑張るぞと言う気になります。
一歩一歩が本当に辛いんですが、この一歩を一生やっているんじゃない、だから今この一歩を頑張れと、そういう気持ちを味わえるのは自然の中だなあと思います。
2016年12月13日火曜日
西村元一(がん専門医) ・患者になって分かったこと
西村元一(がん専門医) ・患者になって分かったこと
金沢赤十字病院副院長、がん専門医、58歳。
進行性の癌 胃癌で治療を行っています。
ゲンちゃん先生の愛称で親しまれている西村さんは去年3月診察中に突然下血が有り、胃癌であることが判りました。
癌を直す側から患者の立場になって初めて医療者と患者の考えに様々なずれが有ることに気づきました。
自らの体験を多くの人に知ってもらおうと、本に綴ったほか、今月1日には患者や家族が医療者と共に語り合える場、元ちゃんハウスを医師や看護師、管理栄養士と共に金沢市に作りました。
患者になって分かったこと、についてうかがいました。
去年3月外来の診察中にトイレに行ったところ、突然下血をしてしまって、胃潰瘍かと思ったら胃癌が見つかりました。
大腸癌を専門にやっていたので、忙しさにかまけていたと言う事もあり、癌検診を進める立場でしたが、胃に関してはやっていなくて、癌に近い所にいたので大丈夫かなと過信したようです。
一晩で治療を受ける立場になりました。
リンパ節、肝臓まで転移していて、ステージ4の胃癌と言う事でした。
ショックでしたが淡々と受けとめたという感じでした。
手術、抗癌剤の影響が有り、食べる量は少ないが、好きなものは食べられますし、小旅行もしています。
父親は公務員で、祖母が心臓を患って、病院にいっているうちに医師を志す様になりました。
金沢大学の医学部に入りました。
進路を決めるときにみんなでワイワイできるところがいいと思って外科医を選びました。
博士号のテーマが大腸癌のテーマだったので、メインのテーマが大腸癌になりました。(30年弱やってきました)
癌告知する事もたくさんありましたが、死亡宣告をするような場面も数多くありました。
私が告知された時は比較的冷静に受けとめました。
今から何をしたらいいかとか、そういうことばっかり浮かびました。
メール、電話のやりとりなどしながら、自分が動けないもどかしさが有り、やらなければいけないことに何か抜けた事があるのか等のことばっかり考えていました。(癌の場合は時間的な余裕はありました)
今更後悔してもしょうがないので前向きに考えました。
先ずは抗癌剤治療をしましたが、思ったほど効果が無かった。
どこかの段階で手術をしなければと思ったので、手術を選択して、ラッキーな事にそれほど散らかっていなくて、肝臓への転移、リンパ節の転移と、癌そのものの外への広がりだったので、それを取ってもらいました。(手術は11時間)
その後抗癌剤治療と、リンパ節転移がかなり広がっていたので放射線治療をしました。
免疫治療も一緒に現在やっています。
患者になって、抗癌剤治療の副作用で味覚障害が有りますが、味が薄くなる程度かなあと単純に思っていましたが、味覚障害になってみると、自分の好きなものを食べようと思っても自分のイメージしたものと違ってゆき、嫌いになってしまうほど感じてしまう。
味覚障害にも色々あり、水も甘くなってしまう事もあり、甘いものが苦痛になってしまう。
3週間に一回抗癌剤治療をすると、その内1週間位は味覚は大丈夫です。
脱毛にも薬の種類によって色々違いが有ります。
薬を飲んで2週間ぐらいから脱毛が始まるが、薬によって症状が違います。
痺れも薬によって色々あります。
絶えずピリピリしていて、しびれていると力も入らないことが判りました。
唾液がいっぱいでるとか、他にもいろんな事が有りました。
何もしなければ余命半年と言われましたが、自分でもその様に思いました。
手術の前に、2週間強時間があったので、子供がいる東京にいってみるとか、癌封じ寺へ行こうかとか、考えて2泊3日でいってきました。
頼んだからと言って延命ができるかと言うと、そんなことはないと思いますが、達成感はあると思います。
バッドニュース、癌が見つかる、癌の転移等ニュースをつたえないといけないが、患者になってしまうとちょっとしたことでもバッドニュースになってしまう。
患者になってみると、抗がん剤治療で白血球が少ないと、1週間治療を延ばすと言う様なことでも、凄いバッドニュースになってしまう、不安になってしまう。
安易に言っている言葉でも、本当に患者さんにとってはどう受け止めるか判らないので、医療者は言葉を選ばなければならないと思う。
治療を受けていると、自分ではなにもできなくて、時間を体感できなくてその苦しさが分かって、何かができるということは非常に嬉しいと実感しました。
一日の内で、朝医者に一言告げられて落ち込んだりするし、良い効果が表れたと言われると高揚するという、物凄く変化します。
病院に勤務していると休みはあるが患者になってみると、365日、24時間ずーっと患者なので、土日はなくて、土日が普通に有るように言われるとかなりショックです。
人は一人では生きていけない。
元気な時は一人で生きていけるような感覚はあるが、病気をしてみると医療スタッフ、家族、仲間、友人、いろんな人の支えで生きていることを強く実感できます。
妻が色んな事をやってくれるので恵まれていると思います。(かつては妻は看護師でした)
食べることは人間の生きる意欲に繋がるので生きるモチベーションにしたいと思っています。
赤十字病院に移ってから、入院して治療を行う事から外来通院しながら治療をしてゆく患者さんが増えてきて、外来中心の治療が多くなり、生活しながら治療を受ける人が多くなり、十分な支援が受けられなくなる可能性が有り、イギリスのマギーケアセンターが有るのを知って10何か所かできており、同じものが豊洲に出来たと言う事で金沢にも同じような施設を作りたいと思って、仲間と始めたのがきっかけです。
場所を提供する人もいたり、御支援も頂いて12月1日から正式にオープンすることになりました。
(元ちゃんハウス)
癌に対しての相談、臨床宗教師、栄養士などがいるので、色んな話ができたり、キッチンを作ってあるので料理教室を開いて食を通して、和気あいあいと情報交換ができたらいいと思っています。
癌が一般的な疾患と捉えられるにはまだ成熟しきっていないと思っていて、まだなにかハードルが有ると思うと、癌患者さんがしゃべれる場所として安心してしゃべれる場所が必要なんだと思います。
患者さんの背景状況を考えて会話をしないといけないと思います、患者はなかなか本音を語ってくれないので、信頼関係が必要だと思います。
後悔のない人生だったと思えて死ぬのが理想的だと思うので、治療に関しても後悔しない選択ができたと思える方がいいので、一番いい治療と云うのは絶対答えがないわけで、医療者との相性だと思うので、一つの会話でも単なる会話とはまらない訳です。
医師としては忙しくなると機械的にしがちなので一人ひとりの患者さんを考えて対応してもらいたいと思います。
患者さんは受け身だけではなくて、積極的に情報を集めて判らないことは何でも質問して、自分の命は自分で守ると言う様な気概を持って、治療に当たってもらいたい。
最後は後悔しない人生と言う事で積極的に関わってもらいたいと思います。
自分の体験を少しでも多く知ってもらって、誰かに活かされればいいと思います。
癌患者さんと医療者が集まる施設が少しでも患者さんの為になればいいと思います。
一日でも長く生きることが他の患者さんを勇気付けることになる、と思うのでこれも一つの目標にしたいと思います。
金沢赤十字病院副院長、がん専門医、58歳。
進行性の癌 胃癌で治療を行っています。
ゲンちゃん先生の愛称で親しまれている西村さんは去年3月診察中に突然下血が有り、胃癌であることが判りました。
癌を直す側から患者の立場になって初めて医療者と患者の考えに様々なずれが有ることに気づきました。
自らの体験を多くの人に知ってもらおうと、本に綴ったほか、今月1日には患者や家族が医療者と共に語り合える場、元ちゃんハウスを医師や看護師、管理栄養士と共に金沢市に作りました。
患者になって分かったこと、についてうかがいました。
去年3月外来の診察中にトイレに行ったところ、突然下血をしてしまって、胃潰瘍かと思ったら胃癌が見つかりました。
大腸癌を専門にやっていたので、忙しさにかまけていたと言う事もあり、癌検診を進める立場でしたが、胃に関してはやっていなくて、癌に近い所にいたので大丈夫かなと過信したようです。
一晩で治療を受ける立場になりました。
リンパ節、肝臓まで転移していて、ステージ4の胃癌と言う事でした。
ショックでしたが淡々と受けとめたという感じでした。
手術、抗癌剤の影響が有り、食べる量は少ないが、好きなものは食べられますし、小旅行もしています。
父親は公務員で、祖母が心臓を患って、病院にいっているうちに医師を志す様になりました。
金沢大学の医学部に入りました。
進路を決めるときにみんなでワイワイできるところがいいと思って外科医を選びました。
博士号のテーマが大腸癌のテーマだったので、メインのテーマが大腸癌になりました。(30年弱やってきました)
癌告知する事もたくさんありましたが、死亡宣告をするような場面も数多くありました。
私が告知された時は比較的冷静に受けとめました。
今から何をしたらいいかとか、そういうことばっかり浮かびました。
メール、電話のやりとりなどしながら、自分が動けないもどかしさが有り、やらなければいけないことに何か抜けた事があるのか等のことばっかり考えていました。(癌の場合は時間的な余裕はありました)
今更後悔してもしょうがないので前向きに考えました。
先ずは抗癌剤治療をしましたが、思ったほど効果が無かった。
どこかの段階で手術をしなければと思ったので、手術を選択して、ラッキーな事にそれほど散らかっていなくて、肝臓への転移、リンパ節の転移と、癌そのものの外への広がりだったので、それを取ってもらいました。(手術は11時間)
その後抗癌剤治療と、リンパ節転移がかなり広がっていたので放射線治療をしました。
免疫治療も一緒に現在やっています。
患者になって、抗癌剤治療の副作用で味覚障害が有りますが、味が薄くなる程度かなあと単純に思っていましたが、味覚障害になってみると、自分の好きなものを食べようと思っても自分のイメージしたものと違ってゆき、嫌いになってしまうほど感じてしまう。
味覚障害にも色々あり、水も甘くなってしまう事もあり、甘いものが苦痛になってしまう。
3週間に一回抗癌剤治療をすると、その内1週間位は味覚は大丈夫です。
脱毛にも薬の種類によって色々違いが有ります。
薬を飲んで2週間ぐらいから脱毛が始まるが、薬によって症状が違います。
痺れも薬によって色々あります。
絶えずピリピリしていて、しびれていると力も入らないことが判りました。
唾液がいっぱいでるとか、他にもいろんな事が有りました。
何もしなければ余命半年と言われましたが、自分でもその様に思いました。
手術の前に、2週間強時間があったので、子供がいる東京にいってみるとか、癌封じ寺へ行こうかとか、考えて2泊3日でいってきました。
頼んだからと言って延命ができるかと言うと、そんなことはないと思いますが、達成感はあると思います。
バッドニュース、癌が見つかる、癌の転移等ニュースをつたえないといけないが、患者になってしまうとちょっとしたことでもバッドニュースになってしまう。
患者になってみると、抗がん剤治療で白血球が少ないと、1週間治療を延ばすと言う様なことでも、凄いバッドニュースになってしまう、不安になってしまう。
安易に言っている言葉でも、本当に患者さんにとってはどう受け止めるか判らないので、医療者は言葉を選ばなければならないと思う。
治療を受けていると、自分ではなにもできなくて、時間を体感できなくてその苦しさが分かって、何かができるということは非常に嬉しいと実感しました。
一日の内で、朝医者に一言告げられて落ち込んだりするし、良い効果が表れたと言われると高揚するという、物凄く変化します。
病院に勤務していると休みはあるが患者になってみると、365日、24時間ずーっと患者なので、土日はなくて、土日が普通に有るように言われるとかなりショックです。
人は一人では生きていけない。
元気な時は一人で生きていけるような感覚はあるが、病気をしてみると医療スタッフ、家族、仲間、友人、いろんな人の支えで生きていることを強く実感できます。
妻が色んな事をやってくれるので恵まれていると思います。(かつては妻は看護師でした)
食べることは人間の生きる意欲に繋がるので生きるモチベーションにしたいと思っています。
赤十字病院に移ってから、入院して治療を行う事から外来通院しながら治療をしてゆく患者さんが増えてきて、外来中心の治療が多くなり、生活しながら治療を受ける人が多くなり、十分な支援が受けられなくなる可能性が有り、イギリスのマギーケアセンターが有るのを知って10何か所かできており、同じものが豊洲に出来たと言う事で金沢にも同じような施設を作りたいと思って、仲間と始めたのがきっかけです。
場所を提供する人もいたり、御支援も頂いて12月1日から正式にオープンすることになりました。
(元ちゃんハウス)
癌に対しての相談、臨床宗教師、栄養士などがいるので、色んな話ができたり、キッチンを作ってあるので料理教室を開いて食を通して、和気あいあいと情報交換ができたらいいと思っています。
癌が一般的な疾患と捉えられるにはまだ成熟しきっていないと思っていて、まだなにかハードルが有ると思うと、癌患者さんがしゃべれる場所として安心してしゃべれる場所が必要なんだと思います。
患者さんの背景状況を考えて会話をしないといけないと思います、患者はなかなか本音を語ってくれないので、信頼関係が必要だと思います。
後悔のない人生だったと思えて死ぬのが理想的だと思うので、治療に関しても後悔しない選択ができたと思える方がいいので、一番いい治療と云うのは絶対答えがないわけで、医療者との相性だと思うので、一つの会話でも単なる会話とはまらない訳です。
医師としては忙しくなると機械的にしがちなので一人ひとりの患者さんを考えて対応してもらいたいと思います。
患者さんは受け身だけではなくて、積極的に情報を集めて判らないことは何でも質問して、自分の命は自分で守ると言う様な気概を持って、治療に当たってもらいたい。
最後は後悔しない人生と言う事で積極的に関わってもらいたいと思います。
自分の体験を少しでも多く知ってもらって、誰かに活かされればいいと思います。
癌患者さんと医療者が集まる施設が少しでも患者さんの為になればいいと思います。
一日でも長く生きることが他の患者さんを勇気付けることになる、と思うのでこれも一つの目標にしたいと思います。
2016年12月12日月曜日
田畑精一(絵本作家) ・戦争ってなんなんだ
田畑精一(絵本作家) ・戦争ってなんなんだ
田畑さん85歳、終戦の時14歳でした。
日本は聖戦に勝つと信じていた軍国少年でした。、
終戦を前に父親が亡くなり、戦後は貧しい暮らしに苦しみ、戦争を恨んだと言います。
しかし、或る日田畑さんは戦争で死んだのは父だけではなく、世界中で数千万人もの人が死に 、自分と同じ苦しみが世界中を覆ったことになる、そう思った時、戦争っていったいなんだったんだろうと改めて思ったそうです。
私は当然の様に命を捨てるんだと、天皇陛下の為に命を捨てるんだと思って育ちました。
小学校3年生の時にはごくごく当たり前の様に死ぬんだと思って成長しました。
それが自然の空気で、子供が読む本にもそのように書かれていましたし、ラジオ、新聞も、世の中の空気が全部そちらの方にいっていました。
大きな流れの中に乗っていて、時代がそういう方向に動いたと言う事です。
終戦になり、戦争が終わったなんて許せなかった。
1年後に刀を持って乗り込もうと言う事で、友だちと約束をしたが、1年後には来てくれなかったが、来ていたら今頃命はなかったかもしれない。
昭和20年1月には父が亡くなりました。
芦屋高校は出たが、授業料滞納で卒業証書はもらえなかった。(4年後に支払いましたが)
京都大学は卒業見込みで入りましたが、途中で辞めました。
理学部に入ったのは、アメリカが原子爆弾を投下したのに、悔しく思って、原子爆弾を作ろうと思って理学部に行ったが、その後、物事の本質に興味がわいて原子物理を学び、そのさきに子供を考えたのは、人間の核になる土台になるのは子供だろうと思いました。
大学は中途でやめました。
或る日自分と同じような子供は世界に沢山いるなあとふっと思いました。(高校2年の頃)
戦争で亡くなった人は日本は三百何十万人、中国は2000万人越えていると言っているが、ヨーロッパは数千万人いると言われて、子供も母親も沢山いたはずで、それで苦しがっている人は数え切れないほどいたはずで、戦争って何だったんだろうと思いだした、戦争は殺し合う事だと思う。
国家が人殺しを公認して、死ねば英雄になる人殺し。
殺人は死刑になるが、国家がやらせれば英雄になり、戦争っていったい何なんだろうと、そこから考えました。
昭和25年朝鮮戦争がはじまり、全国の大学はみんな反対闘争が過熱しました。
色々考えた末に、人形劇を見た時に、非常におもしろかったが、レッドパージで、学校では上演ならんと言う事だった。
その劇団で人形劇をやりたかったが出来なくて、別の「劇団人形座」に入りました。
中心の活動は子供むけだったです。
13年ほど人形座にいましたが、酷い貧乏でした。
大人はあの戦争をやったし、反対も出来なかったし、大人に託そうという事は駄目だと思いました。
劇団が潰れて、精神的にひどく荒れていたが、古田足日さんが私の住んでいるアパートにひっこしてきて、新進気鋭の評論家でした。
或る時忘年会に誘われて、飲んだ勢いで死ぬまでに子供の本を一冊でいいから書きたいと言った。
3年後に、こんなものを書いたんだけれど、絵を描かないかと原稿用紙を差し出しました。
「食いしん坊のロボット」という題名でした。(幼年童話 小学校2~3年)
古田足日さんの素晴らしいところは、困難に立ち向かう時に、大人の指導とか事ではなくて、子供自身が考えて、自分達の頭で考えて、自分達の行動でそれをどうしたら越えられるかと言う事を、子供と一緒になって考えたことが古田足日さんの素晴らしいことです。
古田足日さんは加害と言う事を良く考えていました。
東京大空襲とか被害のことはよく語られるけれども、あれを起こしたのは我々の先輩であって我々もそれに賛成したのだから、加害者である、だからその責任とそれをどう断ち切って先にいけるのかと言う事を、子供の目で見ると言う事の手助けをやりたいと言う事だったと思います。
児童文学は実際どういう働きをしたかという事は判らないが。
読む事によって子供が自然に考えるという風にしてほしいとは思っているが、そう簡単にはいかない。
書いたからと言って、それが全部伝わる訳ではないので。
子供の幸せのことを考えた時に、一番反対のものは戦争です。
しかしあれは国が進めたわけで、あれはその時は異常ではなかった。
その正反対の事をやりたかった。
「さくら」 遺言の本
平和の絵本を作ろうと、日本の絵かきがやりました、田島征三、和歌山 静子、浜田桂子、それれに私が加わって出したいと言うことで、韓国の絵かき4人と会って、中国の4人、12人の絵かきが集まって、一冊の本にするという事だったが、一人一冊だそうよ韓国の人が言って、12冊の本を一緒に出すことになりました。
私が生まれた時には桜が満開で母親に抱かれて幸せだったが、同じ年に日本が中国に攻め込む戦争が始まって、韓国を植民地にしていたが、そんなことは子供は知らなくてどんどん大きくなって、小学校の国語の本は「さいたさいたさくらがさいた」で始まって、次のページには「進め進め兵隊進め」となっていた。
日本は満州国を作って、正義の戦だと言う声が国中にあふれて、戦争が激しくなって、桜は咲くが花見はだれもしなくなり、桜の花は軍歌になり、色んな歌に歌われ「咲け咲け、散れ散れ、死ね死ね」と歌われるようになる。
日本陸軍の歌
「万朶(ばんだ)の桜か襟の色 花は隅田に嵐吹く 大和男子(やまとおのこ)と生まれなば 散兵綫(さんぺいせん)の花と散れ」と歌われる。
海軍兵学校の歌
「貴様と俺とは 同期の桜 同じ兵学校の 庭に咲く 咲いた花なら 散るのは覚悟
みごと散りましょ 国のため」と歌われる。
桜の花はお国のために常に死ね、と言う歌になっていたが、本当はそうではないと「さくら」の本では言っている。
戦争は決して美しいものでも、命を捧げるものでもなくて、もっとひどい人間の殺し合いだと悟って、それから何十年か経って、絵描きになっていて、公園を歩いていると一本の老木が話しかけてくる。
自分には辛い思い出がある、桜の花の様に散れ散れと言って若い人たちを殺してしまった、戦争だけはいかんと言って花びらを降らす、と言う様な内容です。
反対する人を牢屋に入れたり、殺したりして、戦争反対を言えば牢屋にぶち込まれる、殺されると言う事で誰も反対できない所に私達は育っていったので、学校の先生もそうだった。
あれはいまだに許しがたいと思っていて、これからはアメリカだと言って、これから民主主義と言って、軍人勅語を覚えろと竹の鞭をふるっていた先生が、或る日「若き日のマルクスが・・・」と言いだして、戦争なんて賛成なんかしていなかったと言うような顔をしだして、かなり人間不信でした。
生きていることは素晴らしいよ、人の殺し合いなんて止めようと、粘り強くコツコツとやるよりしょうがないと思ってます。
田畑さん85歳、終戦の時14歳でした。
日本は聖戦に勝つと信じていた軍国少年でした。、
終戦を前に父親が亡くなり、戦後は貧しい暮らしに苦しみ、戦争を恨んだと言います。
しかし、或る日田畑さんは戦争で死んだのは父だけではなく、世界中で数千万人もの人が死に 、自分と同じ苦しみが世界中を覆ったことになる、そう思った時、戦争っていったいなんだったんだろうと改めて思ったそうです。
私は当然の様に命を捨てるんだと、天皇陛下の為に命を捨てるんだと思って育ちました。
小学校3年生の時にはごくごく当たり前の様に死ぬんだと思って成長しました。
それが自然の空気で、子供が読む本にもそのように書かれていましたし、ラジオ、新聞も、世の中の空気が全部そちらの方にいっていました。
大きな流れの中に乗っていて、時代がそういう方向に動いたと言う事です。
終戦になり、戦争が終わったなんて許せなかった。
1年後に刀を持って乗り込もうと言う事で、友だちと約束をしたが、1年後には来てくれなかったが、来ていたら今頃命はなかったかもしれない。
昭和20年1月には父が亡くなりました。
芦屋高校は出たが、授業料滞納で卒業証書はもらえなかった。(4年後に支払いましたが)
京都大学は卒業見込みで入りましたが、途中で辞めました。
理学部に入ったのは、アメリカが原子爆弾を投下したのに、悔しく思って、原子爆弾を作ろうと思って理学部に行ったが、その後、物事の本質に興味がわいて原子物理を学び、そのさきに子供を考えたのは、人間の核になる土台になるのは子供だろうと思いました。
大学は中途でやめました。
或る日自分と同じような子供は世界に沢山いるなあとふっと思いました。(高校2年の頃)
戦争で亡くなった人は日本は三百何十万人、中国は2000万人越えていると言っているが、ヨーロッパは数千万人いると言われて、子供も母親も沢山いたはずで、それで苦しがっている人は数え切れないほどいたはずで、戦争って何だったんだろうと思いだした、戦争は殺し合う事だと思う。
国家が人殺しを公認して、死ねば英雄になる人殺し。
殺人は死刑になるが、国家がやらせれば英雄になり、戦争っていったい何なんだろうと、そこから考えました。
昭和25年朝鮮戦争がはじまり、全国の大学はみんな反対闘争が過熱しました。
色々考えた末に、人形劇を見た時に、非常におもしろかったが、レッドパージで、学校では上演ならんと言う事だった。
その劇団で人形劇をやりたかったが出来なくて、別の「劇団人形座」に入りました。
中心の活動は子供むけだったです。
13年ほど人形座にいましたが、酷い貧乏でした。
大人はあの戦争をやったし、反対も出来なかったし、大人に託そうという事は駄目だと思いました。
劇団が潰れて、精神的にひどく荒れていたが、古田足日さんが私の住んでいるアパートにひっこしてきて、新進気鋭の評論家でした。
或る時忘年会に誘われて、飲んだ勢いで死ぬまでに子供の本を一冊でいいから書きたいと言った。
3年後に、こんなものを書いたんだけれど、絵を描かないかと原稿用紙を差し出しました。
「食いしん坊のロボット」という題名でした。(幼年童話 小学校2~3年)
古田足日さんの素晴らしいところは、困難に立ち向かう時に、大人の指導とか事ではなくて、子供自身が考えて、自分達の頭で考えて、自分達の行動でそれをどうしたら越えられるかと言う事を、子供と一緒になって考えたことが古田足日さんの素晴らしいことです。
古田足日さんは加害と言う事を良く考えていました。
東京大空襲とか被害のことはよく語られるけれども、あれを起こしたのは我々の先輩であって我々もそれに賛成したのだから、加害者である、だからその責任とそれをどう断ち切って先にいけるのかと言う事を、子供の目で見ると言う事の手助けをやりたいと言う事だったと思います。
児童文学は実際どういう働きをしたかという事は判らないが。
読む事によって子供が自然に考えるという風にしてほしいとは思っているが、そう簡単にはいかない。
書いたからと言って、それが全部伝わる訳ではないので。
子供の幸せのことを考えた時に、一番反対のものは戦争です。
しかしあれは国が進めたわけで、あれはその時は異常ではなかった。
その正反対の事をやりたかった。
「さくら」 遺言の本
平和の絵本を作ろうと、日本の絵かきがやりました、田島征三、和歌山 静子、浜田桂子、それれに私が加わって出したいと言うことで、韓国の絵かき4人と会って、中国の4人、12人の絵かきが集まって、一冊の本にするという事だったが、一人一冊だそうよ韓国の人が言って、12冊の本を一緒に出すことになりました。
私が生まれた時には桜が満開で母親に抱かれて幸せだったが、同じ年に日本が中国に攻め込む戦争が始まって、韓国を植民地にしていたが、そんなことは子供は知らなくてどんどん大きくなって、小学校の国語の本は「さいたさいたさくらがさいた」で始まって、次のページには「進め進め兵隊進め」となっていた。
日本は満州国を作って、正義の戦だと言う声が国中にあふれて、戦争が激しくなって、桜は咲くが花見はだれもしなくなり、桜の花は軍歌になり、色んな歌に歌われ「咲け咲け、散れ散れ、死ね死ね」と歌われるようになる。
日本陸軍の歌
「万朶(ばんだ)の桜か襟の色 花は隅田に嵐吹く 大和男子(やまとおのこ)と生まれなば 散兵綫(さんぺいせん)の花と散れ」と歌われる。
海軍兵学校の歌
「貴様と俺とは 同期の桜 同じ兵学校の 庭に咲く 咲いた花なら 散るのは覚悟
みごと散りましょ 国のため」と歌われる。
桜の花はお国のために常に死ね、と言う歌になっていたが、本当はそうではないと「さくら」の本では言っている。
戦争は決して美しいものでも、命を捧げるものでもなくて、もっとひどい人間の殺し合いだと悟って、それから何十年か経って、絵描きになっていて、公園を歩いていると一本の老木が話しかけてくる。
自分には辛い思い出がある、桜の花の様に散れ散れと言って若い人たちを殺してしまった、戦争だけはいかんと言って花びらを降らす、と言う様な内容です。
反対する人を牢屋に入れたり、殺したりして、戦争反対を言えば牢屋にぶち込まれる、殺されると言う事で誰も反対できない所に私達は育っていったので、学校の先生もそうだった。
あれはいまだに許しがたいと思っていて、これからはアメリカだと言って、これから民主主義と言って、軍人勅語を覚えろと竹の鞭をふるっていた先生が、或る日「若き日のマルクスが・・・」と言いだして、戦争なんて賛成なんかしていなかったと言うような顔をしだして、かなり人間不信でした。
生きていることは素晴らしいよ、人の殺し合いなんて止めようと、粘り強くコツコツとやるよりしょうがないと思ってます。
2016年12月10日土曜日
本郷由美子(精神対話士) ・娘の思いを支えに生きる
本郷由美子(大阪・池田小事件遺族 精神対話士)・ 娘の思いを支えに生きる
50歳 15年前大阪池田市の大阪教育大学付属池田小学校に、刃物を持った男が押し入り、子供8人の尊い命が奪われ、15人が怪我をしました。
本郷さんはこの事件で当時小学2年生の長女優希さんを亡くしました。
最愛の娘の命が奪われたことで、一時は自らの死も考えましたが、そのたびに気持ちを押しとどめたのは最後まで懸命に生きた優希さんの姿でした。
本郷さんは自分だから出来ることが有ると考え、人の心に寄り添い対話で癒す、精神対話士の資格を取得したり、大切な人を亡くし嘆き悲しむ、人を傍で支援するグリーフケア(Grief care)を学んだりして、現在は犯罪被害者や東日本大震災の被災者等の心のケアに取り組んでいます。
福島の方から、原発によって東京に避難している方がいますが、月に2回心のケアと言う事で訪問して話を伺いに行っています。
気持ちが楽になってくれたらいいなあと思って行っています。
自分達が子供のころから住んでいたところに戻れないと言う事で、家を解体してしまって更地になり、それをどう自分で折り合いを付けてゆくかとても苦しい事で、つらい部分に寄り添いながら、以前の家の写真、更地の写真を前にして、話をして聞いていて悲しみが伝わってきて、話を聞いて気持ちを共有すると言う事、共有してくれる人がいると言うだけで、少しは安らぐことが出来ましたと言ってくれて、最後は手を握って、頑張っていきますからと、自然に言ってくれて、生きる力を支えあう事が出来ていると言う風に感じました。
話を伺うと言う事で複雑に絡まっていた色んな感情が、自然とその人の力でほどけてゆくというようなことができる可能性が有るんですね。
私自身生きる基盤を喪失して、酷い時には見ている景色が色彩もなかったりするし、聞こえる声もはっきり聞こえない、味も感じない、触っているものも、熱い冷たいとかの感じが無かったこともあったんです。
支えてくれた、寄り添ってくれて、人が人を救うんだなと思って、救っていただいた、事件で学んだことがたくさんあって、それを活かして伝えてゆく事は大事な事と思いました。
2001年6月8日、鮮明に覚えています。
娘と一緒にクッキーを作ると言う事で、材料の買い物に行っていて、車のラジオを聞いて、池田小学校に刃物を持った男が侵入して、低学年の児童が何人も刺されている様だという内容だった。
大阪教育大学付属池田小学校と言っていたので、学校にかけ付けました。
怪我を負って運ばれてくる光景を見て、これは大変なことだと思いました。
とにかく子供達のところに行って安否を確認しようと思いました。
娘とは40分間ほど、同じ敷地内にいましたが、娘は直ぐに外に運ばれていて、誰の付き添いもなく横たわっていて、助かる見込みはないと言う事になるのですが、そこでは名前は確認されていませんでした。
色んな病院中に電話をかけて娘に会う事が出来ました。(亡くなっているとは思っていませんでした)
控室で待つように言われて、その後主人だけ呼ばれて、その時にもしかしたら最悪の事態になるかもしれないなあと思いました。
死の宣告をされて、余りに突然の死だったので受けとめられなかった。
臨時ニュースを聞いても、これが現実なのかと思えなかった。
後になって凄い大きな喪失感が襲ってきたなあと思いましたが、葬儀をしていてもこれが自分の娘の葬式なのかなあと、そうなんだろうと思うと保てない自分がいる様で、そんな感覚でした。
淡々とこなしている自分と、今何が起こっているんだろうと言う自分がいて、乖離状態、急性ストレス障害状態と言う様な感じでした。
娘は即死という状態でした。
調べてゆくうちに、受け入れがたい事実として、心臓を刺され廊下を歩いたと言う事を聞かされて、あれだけの深い傷を負ってどうしてあそこまで68歩を歩けたのかと言う事を医師から聞いて、娘に寄り添えることができなかったことに、いったいどんな思いをしたんだろうと、感じられない自分がいて少しでも感じようと思って毎日歩きました。
痛みに寄り添って行こうと思っているうちに、最初娘の悲痛な顔しか浮かんで来なかったが笑顔の娘が浮かんで来て自分にとって不思議な体験でした。
娘は生き抜くことの強さを私に教えてくれたんだ、メッセージを残してくれたんだと思う様になり、ちゃんと生きていこうと誓って廊下の倒れた処に座って、「神様お願いです、もし本当に天国が有るなら、私はしっかり生きてゆくので、69歩目を娘と一緒に歩かせてください」と、願いました。
娘は心の中に生きているから一緒に歩むことができると思って色んな活動をさせてもらっています。
優希は優しい希望と書くので、希望を失わずに頑張ってくれたんだなあと思っていて、グリーフケアは人の痛み、苦しみに寄り添ってゆき、その人が自分で生きて行こうというプロセスまで歩んでいるんですが、そこに寄り添う事によって絶望の中から生きる希望を見つけられると言う事を、娘との寄り添いの中で、娘が命懸けで教えてくれたと思います。
犯罪被害者はとても大変で事件のあとは、悲しんでいる間もなく色んな多次元の難問が起こって来て、その中で、49日が一区切りと言われてしまうと、普通の過程がなじめないと言う事もあり、そう言う事に傷ついてしまうと言う事もありました。
まだ娘は亡くなっていないとの思いが有るのに、亡くなったことを色々報道されたり、抱きしめていた娘を検死の時に、「床に置いて」と言われた時には置くと言う言葉ではなくて「寝かせてください」と言われたら傷つかずにすんだのにとか、遺族の思いに寄り添っていたら、その様な言葉がでなかったのではないのかなあと思う様な言葉に傷つきました。
私を支えてくださった方たちは、ただ寄り添って傍にいてくれたと言う事です。
言葉にならないから沈黙になるんですね、ただただ手を握っている、うなだれて涙を流している、空気感で伝えてくれる、言葉ではないんですね。
不要な言葉をかけてしまう言葉が実は傷ついたりするので、言葉にならないほど苦しいと言う事、それくらいの気持ちで寄り添う、それが本当の共感なんだと思います。
一人ではないんだ、こうやって判ろうとしてくれる人がいると思うと、それだけで安らぎが有ると言う事を体験しました。
立っている大地が足元から崩れていく様な不安感があり、生きる基盤を失っていたので、唯唯そこにいてくれたと言う事だけでこんなに自分が安定出来るんだと感じました。
1年経つか経たない頃、犯罪被害者の為に活動しようと思いました。
犯罪被害者基本法も出来ていなくて、手探りの状態で支援が有りました。
池田小学校は8家族の遺族が有り、負傷者が有って学校にいた人全員が被害者でした。
それぞれ違う被害を受けて悲しみ方もそれぞれ違って、それを目のあたりに経験しました。
個別性の悲しみに寄り添う支援が無かったのを感じて、その大切さに気付きました。
本当に苦しんでいる人は外に出れないし、聞いて寄り添っている人がいたら大分違うと思って、色んな方と関わる中で、精神対話士を目指しました。
折り合いを付けないと先に進めないので、一つ一つ折り合いを付けて向き合ってやってきました。
追い詰められた時に、私が生まれなかったら娘がこんな目に遭わなかったというところまで追いつめられて、自分史を語る中で、事実があってその中の一部として受け入れて、その先を進んでいくんだと、その折り合いをつけることがなかなか一人ではできない、人の力を借りて折り合いをつけないと、乗り越えられないと感じました。
苦しんでいる人に寄り添うのであったら、「人は自分を大切に出来るほどしか他人を大切にできない」と言う事を知って、自分の限界を知って、人と向き合う事をしなければいけないと思いました。
「助けて」というのには凄く勇気がいるので、勇気にこたえられる心構えをいつも持っていたいと思っています。
被害者支援にグリーフケアの視点が必要だという事とか、講演などでさせて貰っていて、
社会に発信できるとしたら、命の大切さを子供達に伝えると言う事をしたり、私が感じている視点を発信してゆきたいと思います。
医師のたまごのかたとか、警察官の研修、学校の教育関係者に読んでいただいて話をしています。
この15年生きるとは、命とは何だろうと、問い続けてきました。
日野原重明先生に、命とは自分の使える時間の事だと言う風に聞かせていただきました。
時間が命だったら、他者と分かち合っていきたいと思いました。
生きることとは何と問われたら、沢山の命と繋がることだと思っていて、命の大切さを知って、繋がった命を一つ一つ大切にして行くことによって、平和な社会につながっていくんだと思っています。
池田小学校の事件の犯人は幼少期から色んな事を背負っていて、色んなところで色んな方がかかわったと思うんですが、事件の数日前も色んな問題を抱えて連絡を取ったりしたが、きちんと対応してもらえなくて、それが引き金になって、苦しみを社会に味あわせてやりたい、仕返しをしてやりたいと言う発想に繋がっていって、出来るだけ多くの人をあやめたいと言う事で子供に向かった事件でしたが、誰かがどこかで違った寄り添い方をして、話を聞いていたらこの事件は起きていなかったのではないかと思いました。
今している事は犯罪を防ぐことになるかもしれないと思って活動をしている状況です。
「遺志の社会化」、その人が残してくれた事を知恵として受け取って、今の社会に生かしてゆく事が「遺志の社会化」と思っていて、心理学でいう「途切れない絆」といわれるが、こういう活動をしていることは、これは娘と共に生きていることだと思って、自分の中で会えないけれど一緒に生きている、体は衰えてゆくけれども心は成熟してゆく。
娘と共に見えない部分で一緒に心が成長していっていると感じるので、共に生きていると感じます。
50歳 15年前大阪池田市の大阪教育大学付属池田小学校に、刃物を持った男が押し入り、子供8人の尊い命が奪われ、15人が怪我をしました。
本郷さんはこの事件で当時小学2年生の長女優希さんを亡くしました。
最愛の娘の命が奪われたことで、一時は自らの死も考えましたが、そのたびに気持ちを押しとどめたのは最後まで懸命に生きた優希さんの姿でした。
本郷さんは自分だから出来ることが有ると考え、人の心に寄り添い対話で癒す、精神対話士の資格を取得したり、大切な人を亡くし嘆き悲しむ、人を傍で支援するグリーフケア(Grief care)を学んだりして、現在は犯罪被害者や東日本大震災の被災者等の心のケアに取り組んでいます。
福島の方から、原発によって東京に避難している方がいますが、月に2回心のケアと言う事で訪問して話を伺いに行っています。
気持ちが楽になってくれたらいいなあと思って行っています。
自分達が子供のころから住んでいたところに戻れないと言う事で、家を解体してしまって更地になり、それをどう自分で折り合いを付けてゆくかとても苦しい事で、つらい部分に寄り添いながら、以前の家の写真、更地の写真を前にして、話をして聞いていて悲しみが伝わってきて、話を聞いて気持ちを共有すると言う事、共有してくれる人がいると言うだけで、少しは安らぐことが出来ましたと言ってくれて、最後は手を握って、頑張っていきますからと、自然に言ってくれて、生きる力を支えあう事が出来ていると言う風に感じました。
話を伺うと言う事で複雑に絡まっていた色んな感情が、自然とその人の力でほどけてゆくというようなことができる可能性が有るんですね。
私自身生きる基盤を喪失して、酷い時には見ている景色が色彩もなかったりするし、聞こえる声もはっきり聞こえない、味も感じない、触っているものも、熱い冷たいとかの感じが無かったこともあったんです。
支えてくれた、寄り添ってくれて、人が人を救うんだなと思って、救っていただいた、事件で学んだことがたくさんあって、それを活かして伝えてゆく事は大事な事と思いました。
2001年6月8日、鮮明に覚えています。
娘と一緒にクッキーを作ると言う事で、材料の買い物に行っていて、車のラジオを聞いて、池田小学校に刃物を持った男が侵入して、低学年の児童が何人も刺されている様だという内容だった。
大阪教育大学付属池田小学校と言っていたので、学校にかけ付けました。
怪我を負って運ばれてくる光景を見て、これは大変なことだと思いました。
とにかく子供達のところに行って安否を確認しようと思いました。
娘とは40分間ほど、同じ敷地内にいましたが、娘は直ぐに外に運ばれていて、誰の付き添いもなく横たわっていて、助かる見込みはないと言う事になるのですが、そこでは名前は確認されていませんでした。
色んな病院中に電話をかけて娘に会う事が出来ました。(亡くなっているとは思っていませんでした)
控室で待つように言われて、その後主人だけ呼ばれて、その時にもしかしたら最悪の事態になるかもしれないなあと思いました。
死の宣告をされて、余りに突然の死だったので受けとめられなかった。
臨時ニュースを聞いても、これが現実なのかと思えなかった。
後になって凄い大きな喪失感が襲ってきたなあと思いましたが、葬儀をしていてもこれが自分の娘の葬式なのかなあと、そうなんだろうと思うと保てない自分がいる様で、そんな感覚でした。
淡々とこなしている自分と、今何が起こっているんだろうと言う自分がいて、乖離状態、急性ストレス障害状態と言う様な感じでした。
娘は即死という状態でした。
調べてゆくうちに、受け入れがたい事実として、心臓を刺され廊下を歩いたと言う事を聞かされて、あれだけの深い傷を負ってどうしてあそこまで68歩を歩けたのかと言う事を医師から聞いて、娘に寄り添えることができなかったことに、いったいどんな思いをしたんだろうと、感じられない自分がいて少しでも感じようと思って毎日歩きました。
痛みに寄り添って行こうと思っているうちに、最初娘の悲痛な顔しか浮かんで来なかったが笑顔の娘が浮かんで来て自分にとって不思議な体験でした。
娘は生き抜くことの強さを私に教えてくれたんだ、メッセージを残してくれたんだと思う様になり、ちゃんと生きていこうと誓って廊下の倒れた処に座って、「神様お願いです、もし本当に天国が有るなら、私はしっかり生きてゆくので、69歩目を娘と一緒に歩かせてください」と、願いました。
娘は心の中に生きているから一緒に歩むことができると思って色んな活動をさせてもらっています。
優希は優しい希望と書くので、希望を失わずに頑張ってくれたんだなあと思っていて、グリーフケアは人の痛み、苦しみに寄り添ってゆき、その人が自分で生きて行こうというプロセスまで歩んでいるんですが、そこに寄り添う事によって絶望の中から生きる希望を見つけられると言う事を、娘との寄り添いの中で、娘が命懸けで教えてくれたと思います。
犯罪被害者はとても大変で事件のあとは、悲しんでいる間もなく色んな多次元の難問が起こって来て、その中で、49日が一区切りと言われてしまうと、普通の過程がなじめないと言う事もあり、そう言う事に傷ついてしまうと言う事もありました。
まだ娘は亡くなっていないとの思いが有るのに、亡くなったことを色々報道されたり、抱きしめていた娘を検死の時に、「床に置いて」と言われた時には置くと言う言葉ではなくて「寝かせてください」と言われたら傷つかずにすんだのにとか、遺族の思いに寄り添っていたら、その様な言葉がでなかったのではないのかなあと思う様な言葉に傷つきました。
私を支えてくださった方たちは、ただ寄り添って傍にいてくれたと言う事です。
言葉にならないから沈黙になるんですね、ただただ手を握っている、うなだれて涙を流している、空気感で伝えてくれる、言葉ではないんですね。
不要な言葉をかけてしまう言葉が実は傷ついたりするので、言葉にならないほど苦しいと言う事、それくらいの気持ちで寄り添う、それが本当の共感なんだと思います。
一人ではないんだ、こうやって判ろうとしてくれる人がいると思うと、それだけで安らぎが有ると言う事を体験しました。
立っている大地が足元から崩れていく様な不安感があり、生きる基盤を失っていたので、唯唯そこにいてくれたと言う事だけでこんなに自分が安定出来るんだと感じました。
1年経つか経たない頃、犯罪被害者の為に活動しようと思いました。
犯罪被害者基本法も出来ていなくて、手探りの状態で支援が有りました。
池田小学校は8家族の遺族が有り、負傷者が有って学校にいた人全員が被害者でした。
それぞれ違う被害を受けて悲しみ方もそれぞれ違って、それを目のあたりに経験しました。
個別性の悲しみに寄り添う支援が無かったのを感じて、その大切さに気付きました。
本当に苦しんでいる人は外に出れないし、聞いて寄り添っている人がいたら大分違うと思って、色んな方と関わる中で、精神対話士を目指しました。
折り合いを付けないと先に進めないので、一つ一つ折り合いを付けて向き合ってやってきました。
追い詰められた時に、私が生まれなかったら娘がこんな目に遭わなかったというところまで追いつめられて、自分史を語る中で、事実があってその中の一部として受け入れて、その先を進んでいくんだと、その折り合いをつけることがなかなか一人ではできない、人の力を借りて折り合いをつけないと、乗り越えられないと感じました。
苦しんでいる人に寄り添うのであったら、「人は自分を大切に出来るほどしか他人を大切にできない」と言う事を知って、自分の限界を知って、人と向き合う事をしなければいけないと思いました。
「助けて」というのには凄く勇気がいるので、勇気にこたえられる心構えをいつも持っていたいと思っています。
被害者支援にグリーフケアの視点が必要だという事とか、講演などでさせて貰っていて、
社会に発信できるとしたら、命の大切さを子供達に伝えると言う事をしたり、私が感じている視点を発信してゆきたいと思います。
医師のたまごのかたとか、警察官の研修、学校の教育関係者に読んでいただいて話をしています。
この15年生きるとは、命とは何だろうと、問い続けてきました。
日野原重明先生に、命とは自分の使える時間の事だと言う風に聞かせていただきました。
時間が命だったら、他者と分かち合っていきたいと思いました。
生きることとは何と問われたら、沢山の命と繋がることだと思っていて、命の大切さを知って、繋がった命を一つ一つ大切にして行くことによって、平和な社会につながっていくんだと思っています。
池田小学校の事件の犯人は幼少期から色んな事を背負っていて、色んなところで色んな方がかかわったと思うんですが、事件の数日前も色んな問題を抱えて連絡を取ったりしたが、きちんと対応してもらえなくて、それが引き金になって、苦しみを社会に味あわせてやりたい、仕返しをしてやりたいと言う発想に繋がっていって、出来るだけ多くの人をあやめたいと言う事で子供に向かった事件でしたが、誰かがどこかで違った寄り添い方をして、話を聞いていたらこの事件は起きていなかったのではないかと思いました。
今している事は犯罪を防ぐことになるかもしれないと思って活動をしている状況です。
「遺志の社会化」、その人が残してくれた事を知恵として受け取って、今の社会に生かしてゆく事が「遺志の社会化」と思っていて、心理学でいう「途切れない絆」といわれるが、こういう活動をしていることは、これは娘と共に生きていることだと思って、自分の中で会えないけれど一緒に生きている、体は衰えてゆくけれども心は成熟してゆく。
娘と共に見えない部分で一緒に心が成長していっていると感じるので、共に生きていると感じます。
2016年12月9日金曜日
東 俊裕(くまもと事務局長) ・災害弱者の孤立防ぐには
東 俊裕(被災地障害者センターくまもと事務局長)・災害弱者の孤立防ぐには
今年 4月に起きた熊本地震、14日夜、16日の未明、益城町で震度7を二回観測するなど大きな地震が熊本県を襲いました。
多くの人たちが被害を受け、避難生活を送る中、支援の手が届きにくかったのが障害のある人達です。
東さんは1歳半で小児麻痺になり、足に障害が有るため車椅子で生活をしています。
東さんは熊本学園大学社会福祉学部教授で弁護士でもあります。
地震の後は障害者も過ごすことができる避難所の開設や、障害者からの相談や支援に当たる拠点作りに当たってきました。
東さんに災害時に障害者が孤立するのを防ぐにはどうしたらいいのか伺いました。
地震の一度目は揺れるはずもない様な機械が揺れて倒れてきたら死ぬなと思いました。
二度目は車椅子が右左に揺れて、とっさに机につかまって凌いだという感じでした。
15日に学生とボランティアで益城町に行ったら、道路の左右の建物が酷い状況で、16日の地震ではボランティアにいけるような状況ではなくて、学園では700人ぐらいの人たちが避難している状況でした。
障害者団体の障害者、高齢者をふくめて多くの人がきていまして、状況を見に行きました。
入った途端に身動きができない様な状況でした。
車椅子の人も廊下の壁にべたっと付いた様で、何時間もずーっとこの状態でいるとの事でした。
車椅子ではトイレにも行けない様な状況でした。
障害者も寝れるようなスペースが欲しいと思って、協力を求めました。
天井に照明器具があり危ないと言う事で高橋記念ホールがあいていて、スイッチを押して照明器具を下すことがで来て、避難場所に使えることになり、パーテーションを先ず作ってスタートしました。
障害者の方は段差の問題、とかいろいろ有り一般の避難所には避難しにくい状況にあります。
精神障害の方が残されてぽつんと崩れかけているアパートに生活していると言う事もありました。
障害者は避難所にいないから、見えない存在になってしまう。
行政も、民間団体も避難所に多くの物資を送って、多くの人員を提供して災害に関する情報をそこに集めるわけです。
障害者は一番起点となるべき場所に辿りつけない、或いはそこから出ていけと言われる。
避難誘導に関してはガイドラインが出来ていたが、避難所に避難できない状況をどう改善するのか、対策を講じてやると言うことは殆どなされていなかったと思います。
福祉避難所は所詮、既存の高齢者、障害者の入所施設がベースなので、すでに入所していて、新たに多くの人を対応できるような状況ではない。
熊本市の障害者の手帳をもっている人は4万2000人いますので、福祉避難所の対処出来る人数(1700人レベル)に対して全く足りない状況です。
一般の避難所でどのように対応できるかということが問題となりますが、考えればいろいろな事ができると思います。(運営側の視点が重要)
教育段階で障害者と健常者は分離されて教育されていて、自分の人格ができてゆく過程で、障害者がいない世界で過ごすことになるので、いざとなると障害者に対してすっぽり抜けると言う状況になる。
災害が起こると在宅等の障害者は福祉施設とは繋がっていなくて、支援が必要だと思って、こういう団体が有ると言う情報を知らせることが先ず必要だった。
チラシを4000~5000枚作って配布して、連絡が取れるようになりました。
当初は水、食糧を配布したり、夜間の介護の派遣などをして、その後入浴の支援、洗濯、等をやっていました。
部屋の提供などもしましたが、段差のないものとか条件があるので限られてきます。
どうしたら立ち直っていけるのかと言う事で継続して対応してゆきます。
7ヶ月たって、障害者支援は現在進行形と言ったところです。
トイレは車椅子から降りて這いつくばって行くとか、風呂も容易に入れないとか、困っている事はいっぱいあります。
弁護士として障害者の人権問題としてやってきましたが、災害において、人として当たり前に扱われていない事に非常に大きな怒りを感じます、だから頑張るしかないです。
1歳半で小児麻痺になり、色々経験してきました。理不尽な事をされたことも随分ありました。
私は比較的軽度な障害なのですが、重度の障害の人はとても語りつくせない様な障害者は多いと思います。
大学生時代、重度の障害者のボランティアで行っていて、そこで運動会が有り、歩けないのでハイハイしながら競争する種目が有り、遅い子に対して真ん中にいた子が、遅い子の手を引っ張ってゴールインして、その光景が私にとってインパクトが有って、私にとっては劣等感が有ったが、その光景に頭をぶんなぐられたような感覚だった。
それ以後は自分がどう思われようと関係ない、自分がどうするかであって、自分がなにをするかと言う事に価値が有るのではないかと思う様になり心が楽になりました。
障害のある人をもっと考えていかなければいけないと思いました。
公的支援の対策の枠組みの中に障害者とその家族を基本的な構成要素として入れて、発足すべきだと思います。
災害弱者は障害者、高齢者に依り強く働くので、それを踏まえて対策すべきだと思います。
共生できる社会を作っていかないと、多様性のある社会を作っていかないといけないと思っていて、そうすると一緒に避難できる様な社会的状況ができると思う。
困っている人を助けたいと言う気持ちはあると思うが、気持だけで止まっていて、それぞれ違ったニーズをもっているので、個別的に対応する柔軟性をもっていただきたいと思います。
今年 4月に起きた熊本地震、14日夜、16日の未明、益城町で震度7を二回観測するなど大きな地震が熊本県を襲いました。
多くの人たちが被害を受け、避難生活を送る中、支援の手が届きにくかったのが障害のある人達です。
東さんは1歳半で小児麻痺になり、足に障害が有るため車椅子で生活をしています。
東さんは熊本学園大学社会福祉学部教授で弁護士でもあります。
地震の後は障害者も過ごすことができる避難所の開設や、障害者からの相談や支援に当たる拠点作りに当たってきました。
東さんに災害時に障害者が孤立するのを防ぐにはどうしたらいいのか伺いました。
地震の一度目は揺れるはずもない様な機械が揺れて倒れてきたら死ぬなと思いました。
二度目は車椅子が右左に揺れて、とっさに机につかまって凌いだという感じでした。
15日に学生とボランティアで益城町に行ったら、道路の左右の建物が酷い状況で、16日の地震ではボランティアにいけるような状況ではなくて、学園では700人ぐらいの人たちが避難している状況でした。
障害者団体の障害者、高齢者をふくめて多くの人がきていまして、状況を見に行きました。
入った途端に身動きができない様な状況でした。
車椅子の人も廊下の壁にべたっと付いた様で、何時間もずーっとこの状態でいるとの事でした。
車椅子ではトイレにも行けない様な状況でした。
障害者も寝れるようなスペースが欲しいと思って、協力を求めました。
天井に照明器具があり危ないと言う事で高橋記念ホールがあいていて、スイッチを押して照明器具を下すことがで来て、避難場所に使えることになり、パーテーションを先ず作ってスタートしました。
障害者の方は段差の問題、とかいろいろ有り一般の避難所には避難しにくい状況にあります。
精神障害の方が残されてぽつんと崩れかけているアパートに生活していると言う事もありました。
障害者は避難所にいないから、見えない存在になってしまう。
行政も、民間団体も避難所に多くの物資を送って、多くの人員を提供して災害に関する情報をそこに集めるわけです。
障害者は一番起点となるべき場所に辿りつけない、或いはそこから出ていけと言われる。
避難誘導に関してはガイドラインが出来ていたが、避難所に避難できない状況をどう改善するのか、対策を講じてやると言うことは殆どなされていなかったと思います。
福祉避難所は所詮、既存の高齢者、障害者の入所施設がベースなので、すでに入所していて、新たに多くの人を対応できるような状況ではない。
熊本市の障害者の手帳をもっている人は4万2000人いますので、福祉避難所の対処出来る人数(1700人レベル)に対して全く足りない状況です。
一般の避難所でどのように対応できるかということが問題となりますが、考えればいろいろな事ができると思います。(運営側の視点が重要)
教育段階で障害者と健常者は分離されて教育されていて、自分の人格ができてゆく過程で、障害者がいない世界で過ごすことになるので、いざとなると障害者に対してすっぽり抜けると言う状況になる。
災害が起こると在宅等の障害者は福祉施設とは繋がっていなくて、支援が必要だと思って、こういう団体が有ると言う情報を知らせることが先ず必要だった。
チラシを4000~5000枚作って配布して、連絡が取れるようになりました。
当初は水、食糧を配布したり、夜間の介護の派遣などをして、その後入浴の支援、洗濯、等をやっていました。
部屋の提供などもしましたが、段差のないものとか条件があるので限られてきます。
どうしたら立ち直っていけるのかと言う事で継続して対応してゆきます。
7ヶ月たって、障害者支援は現在進行形と言ったところです。
トイレは車椅子から降りて這いつくばって行くとか、風呂も容易に入れないとか、困っている事はいっぱいあります。
弁護士として障害者の人権問題としてやってきましたが、災害において、人として当たり前に扱われていない事に非常に大きな怒りを感じます、だから頑張るしかないです。
1歳半で小児麻痺になり、色々経験してきました。理不尽な事をされたことも随分ありました。
私は比較的軽度な障害なのですが、重度の障害の人はとても語りつくせない様な障害者は多いと思います。
大学生時代、重度の障害者のボランティアで行っていて、そこで運動会が有り、歩けないのでハイハイしながら競争する種目が有り、遅い子に対して真ん中にいた子が、遅い子の手を引っ張ってゴールインして、その光景が私にとってインパクトが有って、私にとっては劣等感が有ったが、その光景に頭をぶんなぐられたような感覚だった。
それ以後は自分がどう思われようと関係ない、自分がどうするかであって、自分がなにをするかと言う事に価値が有るのではないかと思う様になり心が楽になりました。
障害のある人をもっと考えていかなければいけないと思いました。
公的支援の対策の枠組みの中に障害者とその家族を基本的な構成要素として入れて、発足すべきだと思います。
災害弱者は障害者、高齢者に依り強く働くので、それを踏まえて対策すべきだと思います。
共生できる社会を作っていかないと、多様性のある社会を作っていかないといけないと思っていて、そうすると一緒に避難できる様な社会的状況ができると思う。
困っている人を助けたいと言う気持ちはあると思うが、気持だけで止まっていて、それぞれ違ったニーズをもっているので、個別的に対応する柔軟性をもっていただきたいと思います。
2016年12月8日木曜日
小酒部さやか(マタハラNet 前代表) ・働きながら育てられる社会を目指して
小酒部さやか(NPO法人マタハラNet 前代表) ・働きながら育てられる社会を目指し
働く女性が妊娠や出産を理由に職場で不当な扱いを受けるマタニティーハラスメント、通称マタハラ、厚生労働省の調査に依りますとマタハラを受けた経験のある女性の割合は正社員で5人に1人、契約社員では半数近くに昇っています。
自らもマタハラの被害にあった小酒部さん、退職後にマタハラNetを立上げ、被害者支援に尽力してきました。
来年2017年1月には企業にマタハラ防止策を講じることが義務付けられます。
深刻なマタハラの実態や被害を防ぐために必要なこと、支援を続けてきた小酒部さんに伺います。
二度流産して、不妊治療して4年かけてようやく妊娠して、7か月になります。
9月末に自宅安静していて、今は自分自身の生活を大切にしたいと思い、交代しました。
2014年7月にNPOを立ち上げる。
妊娠、出産、育児をきっかけに職場で精神的肉体的嫌がらせを受けたり(ハラスメント)、解雇や退職強要など不利益な扱い(不法行為)を合わせたものをマタニティーハラスメントと言います。
簡単な嫌がらせの言葉から始まって退職強要など幅が広いです。
私は二回流産していますが、最初妊娠した時には自分も初めてだったので深夜残業を繰り返して、流産してしまって、上司に実は妊娠していたと言ったら、今は妊娠などしなくていいのではないかと言われ、暗に仕事に専念するように言われました。
業務改善を要求したが改善されず、半年後に妊娠した時には切迫流産しかかって自宅に安静していたら、自宅に上司が来て迷惑をかけたんだから辞めろと言われました。
なんで妊娠をきっかけにこんなふうに仕事を退かなければならないのか、ショックでした。
他の上司からも厭がらせの言葉を言われて、人事部に相談に行ったら、仕事を続けたいなら妊娠は9割諦めろと人事部長から言われて、理解を得られず非常に残念でたまらなかったです。
最終的には会社を辞めました。
二度流産して、卵巣機能不全になってしまって、上手く排卵ができなくなってしまって、勤めながら妊娠は無理だと思いました。
主人からすると上司達の言動は余りにもおかしいと捉えてくれて、退職強要で労働審判で解決しようと思いました。
上司とのやり取りの録音を取ってあったが、言ってないやってないと言って事実を認めてくれなかった。
裁判でも人格攻撃をされてしまって、会社でも悪いことはしていないと言う様な感じでした。
司法の場でも苦しめられました。
私の方で証拠を持っていたので、3回で和解しました。
口外禁止条項を約束されるが、団体を立ち上げたかったので、企業名、上司名を言わければどうぞ活動してくださいという和解条項になり、マタハラNetを立ち上げて、自分の体験談を語れてマタハラという言葉が広げられたと思います。
裁判を通じて今まで生きていた中で一番怒りを感じました。
同様な経験をして来た人達が何人もいました。
マタハラNetを立ち上げて、直ぐ被害相談が来ましたが同時にバッシングも来ました。
男性からも来ましたが、女性からのバッシングの方が言葉が辛辣でした。
マタハラという問題があるということはそれを肯定する、マタハラしてもいいじゃないか、マタハラして当然というような考え方があったから、マタハラ問題があったと思います。
一番の敵は無関心、バッシングする人たちは記事なり、ニュースを見てくれているが、それはまだいい、無関心の人がターゲットだと思いました。
私は怒り狂っていましたが、それを表に出してしまうと怒りは人は寄り添えないのでひた隠して共感してもらえるように、そのためにはどうすればこの問題を解決出来るのか、ここまでやって一つのNPOだと思いました。
マタハラNet 目的
①被害者支援
②アドボカシー活動(政府への政策提言)
③企業への啓蒙(講演、セミナー、DVDの販売)
立ち上げて2年半になりますが、300件近い被害相談が寄せられています。
都市部が多い傾向が有ります、特に東京近郊。
2015年3月 アメリカの国務省が表彰する世界の勇気ある女性賞受賞、人権擁護、社会の進歩を訴えて活動してきた女性をたたえる賞。
この賞を受賞する先進国の女性は極めて少ない、発展途上国が多いという賞に日本が入ったということはどういう反応するのかと不安な思いもありました。
男女格差は2015年では日本は111位でカンボジアとネパールに挟まれている状況で、発展途上国並みだと、それがこの賞に現れていると言う事で、受け取ろうと気持ちを切り替えて受賞しました。
司法が先ず動いてマタハラ裁判と言う言葉が出来て、行政が動いて、厚労省が通達を出して、妊娠を契機に前後1年ぐらいは妊娠が理由と見なしますと変えました。
法改正と言う事になりました。
労働問題は被害者が声を上げないと、その問題はないものにされてしまう。
電通の長時間問題で高橋さんのお母さんが声を上げましたが、被害者が声を上げないとなかなか解決していかない。
マタハラの根っこは二つ
①性別役割分業の意識(男性は外で働いて女性は家事育児)
②長時間労働(長時間労働ができない人は半人前扱いされてしまう)
男性が育休、子育て等でのパタニティーハラスメント、これからは上司が介護休を取る時代になってくる、ケアハラ、マタハラ、パタハラ、これをファミリーハラスメントと呼ぶ人がいますが、この問題が大きくなってゆくと思います。
逆マタハラ、産休を取る女性のフォローをしている人たちが残業残業を強いられる。
これにも目を向けていかないといけない。
マタハラ、は日本の経済問題だと思います。
労働力不足、女性の労働力は必須です、企業の経営問題でもあるわけです。
私がしたかったのは2回の流産を意味のないことにしたくなかったことが非常に強かったです。
その経験が私を強くしてくれましたし、仲間も増えて、自分の宝だと思っています。
私は妊娠して代表をしていて運営をするのが大変でしたが、私もそうですが、女性経営者の妊娠は守られていないので、身をもって知ったので、これも考えていきたい。
女性だけでなく男性の労働環境にも同時に目を向けてもらって行かないと、マタハラ問題は解決しないし、全ての労働環境の見直しにつながっていったら嬉しいと思います。
働く女性が妊娠や出産を理由に職場で不当な扱いを受けるマタニティーハラスメント、通称マタハラ、厚生労働省の調査に依りますとマタハラを受けた経験のある女性の割合は正社員で5人に1人、契約社員では半数近くに昇っています。
自らもマタハラの被害にあった小酒部さん、退職後にマタハラNetを立上げ、被害者支援に尽力してきました。
来年2017年1月には企業にマタハラ防止策を講じることが義務付けられます。
深刻なマタハラの実態や被害を防ぐために必要なこと、支援を続けてきた小酒部さんに伺います。
二度流産して、不妊治療して4年かけてようやく妊娠して、7か月になります。
9月末に自宅安静していて、今は自分自身の生活を大切にしたいと思い、交代しました。
2014年7月にNPOを立ち上げる。
妊娠、出産、育児をきっかけに職場で精神的肉体的嫌がらせを受けたり(ハラスメント)、解雇や退職強要など不利益な扱い(不法行為)を合わせたものをマタニティーハラスメントと言います。
簡単な嫌がらせの言葉から始まって退職強要など幅が広いです。
私は二回流産していますが、最初妊娠した時には自分も初めてだったので深夜残業を繰り返して、流産してしまって、上司に実は妊娠していたと言ったら、今は妊娠などしなくていいのではないかと言われ、暗に仕事に専念するように言われました。
業務改善を要求したが改善されず、半年後に妊娠した時には切迫流産しかかって自宅に安静していたら、自宅に上司が来て迷惑をかけたんだから辞めろと言われました。
なんで妊娠をきっかけにこんなふうに仕事を退かなければならないのか、ショックでした。
他の上司からも厭がらせの言葉を言われて、人事部に相談に行ったら、仕事を続けたいなら妊娠は9割諦めろと人事部長から言われて、理解を得られず非常に残念でたまらなかったです。
最終的には会社を辞めました。
二度流産して、卵巣機能不全になってしまって、上手く排卵ができなくなってしまって、勤めながら妊娠は無理だと思いました。
主人からすると上司達の言動は余りにもおかしいと捉えてくれて、退職強要で労働審判で解決しようと思いました。
上司とのやり取りの録音を取ってあったが、言ってないやってないと言って事実を認めてくれなかった。
裁判でも人格攻撃をされてしまって、会社でも悪いことはしていないと言う様な感じでした。
司法の場でも苦しめられました。
私の方で証拠を持っていたので、3回で和解しました。
口外禁止条項を約束されるが、団体を立ち上げたかったので、企業名、上司名を言わければどうぞ活動してくださいという和解条項になり、マタハラNetを立ち上げて、自分の体験談を語れてマタハラという言葉が広げられたと思います。
裁判を通じて今まで生きていた中で一番怒りを感じました。
同様な経験をして来た人達が何人もいました。
マタハラNetを立ち上げて、直ぐ被害相談が来ましたが同時にバッシングも来ました。
男性からも来ましたが、女性からのバッシングの方が言葉が辛辣でした。
マタハラという問題があるということはそれを肯定する、マタハラしてもいいじゃないか、マタハラして当然というような考え方があったから、マタハラ問題があったと思います。
一番の敵は無関心、バッシングする人たちは記事なり、ニュースを見てくれているが、それはまだいい、無関心の人がターゲットだと思いました。
私は怒り狂っていましたが、それを表に出してしまうと怒りは人は寄り添えないのでひた隠して共感してもらえるように、そのためにはどうすればこの問題を解決出来るのか、ここまでやって一つのNPOだと思いました。
マタハラNet 目的
①被害者支援
②アドボカシー活動(政府への政策提言)
③企業への啓蒙(講演、セミナー、DVDの販売)
立ち上げて2年半になりますが、300件近い被害相談が寄せられています。
都市部が多い傾向が有ります、特に東京近郊。
2015年3月 アメリカの国務省が表彰する世界の勇気ある女性賞受賞、人権擁護、社会の進歩を訴えて活動してきた女性をたたえる賞。
この賞を受賞する先進国の女性は極めて少ない、発展途上国が多いという賞に日本が入ったということはどういう反応するのかと不安な思いもありました。
男女格差は2015年では日本は111位でカンボジアとネパールに挟まれている状況で、発展途上国並みだと、それがこの賞に現れていると言う事で、受け取ろうと気持ちを切り替えて受賞しました。
司法が先ず動いてマタハラ裁判と言う言葉が出来て、行政が動いて、厚労省が通達を出して、妊娠を契機に前後1年ぐらいは妊娠が理由と見なしますと変えました。
法改正と言う事になりました。
労働問題は被害者が声を上げないと、その問題はないものにされてしまう。
電通の長時間問題で高橋さんのお母さんが声を上げましたが、被害者が声を上げないとなかなか解決していかない。
マタハラの根っこは二つ
①性別役割分業の意識(男性は外で働いて女性は家事育児)
②長時間労働(長時間労働ができない人は半人前扱いされてしまう)
男性が育休、子育て等でのパタニティーハラスメント、これからは上司が介護休を取る時代になってくる、ケアハラ、マタハラ、パタハラ、これをファミリーハラスメントと呼ぶ人がいますが、この問題が大きくなってゆくと思います。
逆マタハラ、産休を取る女性のフォローをしている人たちが残業残業を強いられる。
これにも目を向けていかないといけない。
マタハラ、は日本の経済問題だと思います。
労働力不足、女性の労働力は必須です、企業の経営問題でもあるわけです。
私がしたかったのは2回の流産を意味のないことにしたくなかったことが非常に強かったです。
その経験が私を強くしてくれましたし、仲間も増えて、自分の宝だと思っています。
私は妊娠して代表をしていて運営をするのが大変でしたが、私もそうですが、女性経営者の妊娠は守られていないので、身をもって知ったので、これも考えていきたい。
女性だけでなく男性の労働環境にも同時に目を向けてもらって行かないと、マタハラ問題は解決しないし、全ての労働環境の見直しにつながっていったら嬉しいと思います。
2016年12月7日水曜日
久保厚子(全国手をつなぐ育成会) ・淘汰すべき命など、決してない
久保厚子(全国手をつなぐ育成会連合会会長)・ 淘汰すべき命など、決してない
65歳、今年7月26日の未明神奈川県相模原市の知的障害者の入所施設津久井やまゆり園で入所者が刃物で刺され、46人が死傷した事件、犯人などの疑いで逮捕荒れた植松さとし容疑者は障害者は不要な存在、として犯行を計画したと供述しています。
久保さんが会長を務める全国手をつなぐ育成会連合会は事件の直後、インターネット上で障害のある人たちに向けた声明を発表し、全国から電話やファックスが届くなど大きな反響を呼びました。
重度の知的障害がある息子を持つ久保さんは今こそ障害が有る人と無い人が共に生きる社会が必要だと主張しています。
障害者に対する差別や偏見を無くし、人権を守るためには何が必要なのか伺いました。
津久井やまゆり園の事件について 障害のある皆案へ(声明発表)
「・・・障害のある人19人が殺されました。
容疑者は障害のある人は無くなればいいと話していたそうです。
・・・不安を感じた時は身内の人に不安な気持ちを話しましょう。・・・
支援者はきっと話を聞いてくれると思います。・・・障害のある人も無い人も一人一人が大切な存在です。・・・もし誰かが障害者はいなくなればいいと言っても私たち家族は全力で皆さんの事を守ります、ですから安心して堂々と生きてください。」
障害者、その家族などが不安を感じているので、心配ないと、今まで通りに活動しましょうと伝えたかった。
知的障害者は世間全体から云われている様な想いを抱いている人がたくさんいました。
貴方達の命も愛されてかけがえのない家族として思われている、だから大丈夫だと言うメッセージを届けたかった。
300件以上の意見が述べられている。
85%ぐらいは有難う元気がでた、勇気をもらったとか、救われましたと言う様な言葉をいただきました。
頑張ってほしいと言う意見もありましたが、犯人の意見に同調するような意見もありました。
姿を見るのもいやだとか、邪魔なだけだとか、犯人と似たような感じのメール、電話、手紙も頂きました。
国民の皆さんの心の奥底に、障害のある人達は自分達とはちょっと違う存在だという意識がたくさんの方が持っているのではないかと思います。
みんなが支えながら良くならなといけないなあと、そういう社会になればいいと思います。
1952年に前身となる団体が設立、制度の壁を取り払ってきました。
①発達障害、知的障害の人権擁護。
②その人たちが安心して働いたり暮らしたいと言う事に対する政策提言。
この二つが大きな柱です。
国の制度、地域の制度として安心できる社会でないと安心できないと思っています。
息子は現在41歳、知的障害で施設に入っています。
生まれた時に血を吐いていて、検査をしたら先天性十二指腸閉塞で手術をして、1カ月後癒着で再度手術、やせ細って骨と皮の様な感じになったが、元気になって来ましたが、20歳までは生きれないと言われました。
5か月の時に染色体の検査をして障害が有ることを告げられました。
主人から「僕たち夫婦だから育てていけると思って神様が授けて下さったんだから二人で力を合わせて育てていこう」と言われて気持は随分救われました。
この子と一緒に死んでしまったらと言う様なことも2回ぐらいありましたが、娘が生まれてその様なことは無くなりました。
育成会に入ったのは息子が退院してからです。
育成会のお母さんたちの力強い生き方に凄いなあと思いました。
障害があってもこれとこれ等に気を付けたら大丈夫だよとアドバイスを受けて、丸ごと息子を引き受けると言うきっかけになりました。
息子は8歳まで歩けなくて、歩けるようになったのはうれしかったです。
兄弟が仲良く暮らしてくれて、娘を二人産んでよかったなあと思います。
長女は施設の仕事をしていました。
次女は手が器用だったので、障害のある人の衣類を作ることの技術を身につけて、私からは何も言わなかったが二人ともそういった仕事を自分で選びました。
息子が娘達に大きな影響を与えたのではないかと思います。
社会の中でも障害のある人達に影響されて心の豊かさを持つ、という影響が有るのではないかと思います。
事件では被害者を匿名にしてもらって、いつまでも記号で扱われることは亡くなった人が存在しなかったような扱いになるのではないかと思って、善意ではあるが見方に依っては障害のある方はかわいそうで、良く思われない存在だと言う風な意識がどこかにあったのではないかと思ったりします。
亡くなった方がこんな人生を送って仲間と楽しく暮らしていて、だけどこの人達が命をうばわれたという、そういう意味での障害者の理解を進めるうえでも名前は出してほしいと思います。
月刊の会報「手をつなぐ」で写真とメッセージを200以上掲載、障害のある人達に興味が無かった人にも前向きに生きている人たちが沢山いると言うメッセージの出し方で、障害のある人達に関心を持ってもらいたかった、この人たちの人生が奪われていい人生だと思われますかと、そんな意味で理解してもらおうと写真を一杯出しました。
彼ら、彼女らの笑顔の持つ力は凄いと思いました。
息子が入所施設にいるので私も家族でもある訳で、障害のある人を中心にした、施設にしたいと言う思いが有り、担当者も自分の行動を反復しながら行動をしてもらいたいと思います。
この事件が起こったと言う事で塀を張りめぐらしたり警備体制を強化してほしくはないと思っています。
障害が有っても社会の中で生きてゆく人間なので、認め合って生きてゆく社会が成熟した社会だと思うので、障害者を隠してしまうと言うことは残念であるし、有ってはならないことだと思います。
この事件は心に傷をつけた大きな事件だったと思います。
障害のある人が社会の中で豊かに暮らしてゆくためにはもっと理解してもらうことが必要だと思っていますので、本人も自分で伝えられることは自分で伝えましょうと、この事件が有るからこそもっと歩みを進めて活動していきましょうと、情報を共有しながら前に進みましょうと、言いたいです。
障害者の事を伝えきれないものはあるが、一生懸命前向きに生きようとしている命の尊さ、存在の重要性とかに気付いていただきたい。
一人ひとりの持っている力の違いをみんなが出しあって、豊かに暮らしていけるようにしましょうと言う事なんだと思います。
共生の社会を作りましょうと、いうのが私の目指していきたいところだと思っています。
65歳、今年7月26日の未明神奈川県相模原市の知的障害者の入所施設津久井やまゆり園で入所者が刃物で刺され、46人が死傷した事件、犯人などの疑いで逮捕荒れた植松さとし容疑者は障害者は不要な存在、として犯行を計画したと供述しています。
久保さんが会長を務める全国手をつなぐ育成会連合会は事件の直後、インターネット上で障害のある人たちに向けた声明を発表し、全国から電話やファックスが届くなど大きな反響を呼びました。
重度の知的障害がある息子を持つ久保さんは今こそ障害が有る人と無い人が共に生きる社会が必要だと主張しています。
障害者に対する差別や偏見を無くし、人権を守るためには何が必要なのか伺いました。
津久井やまゆり園の事件について 障害のある皆案へ(声明発表)
「・・・障害のある人19人が殺されました。
容疑者は障害のある人は無くなればいいと話していたそうです。
・・・不安を感じた時は身内の人に不安な気持ちを話しましょう。・・・
支援者はきっと話を聞いてくれると思います。・・・障害のある人も無い人も一人一人が大切な存在です。・・・もし誰かが障害者はいなくなればいいと言っても私たち家族は全力で皆さんの事を守ります、ですから安心して堂々と生きてください。」
障害者、その家族などが不安を感じているので、心配ないと、今まで通りに活動しましょうと伝えたかった。
知的障害者は世間全体から云われている様な想いを抱いている人がたくさんいました。
貴方達の命も愛されてかけがえのない家族として思われている、だから大丈夫だと言うメッセージを届けたかった。
300件以上の意見が述べられている。
85%ぐらいは有難う元気がでた、勇気をもらったとか、救われましたと言う様な言葉をいただきました。
頑張ってほしいと言う意見もありましたが、犯人の意見に同調するような意見もありました。
姿を見るのもいやだとか、邪魔なだけだとか、犯人と似たような感じのメール、電話、手紙も頂きました。
国民の皆さんの心の奥底に、障害のある人達は自分達とはちょっと違う存在だという意識がたくさんの方が持っているのではないかと思います。
みんなが支えながら良くならなといけないなあと、そういう社会になればいいと思います。
1952年に前身となる団体が設立、制度の壁を取り払ってきました。
①発達障害、知的障害の人権擁護。
②その人たちが安心して働いたり暮らしたいと言う事に対する政策提言。
この二つが大きな柱です。
国の制度、地域の制度として安心できる社会でないと安心できないと思っています。
息子は現在41歳、知的障害で施設に入っています。
生まれた時に血を吐いていて、検査をしたら先天性十二指腸閉塞で手術をして、1カ月後癒着で再度手術、やせ細って骨と皮の様な感じになったが、元気になって来ましたが、20歳までは生きれないと言われました。
5か月の時に染色体の検査をして障害が有ることを告げられました。
主人から「僕たち夫婦だから育てていけると思って神様が授けて下さったんだから二人で力を合わせて育てていこう」と言われて気持は随分救われました。
この子と一緒に死んでしまったらと言う様なことも2回ぐらいありましたが、娘が生まれてその様なことは無くなりました。
育成会に入ったのは息子が退院してからです。
育成会のお母さんたちの力強い生き方に凄いなあと思いました。
障害があってもこれとこれ等に気を付けたら大丈夫だよとアドバイスを受けて、丸ごと息子を引き受けると言うきっかけになりました。
息子は8歳まで歩けなくて、歩けるようになったのはうれしかったです。
兄弟が仲良く暮らしてくれて、娘を二人産んでよかったなあと思います。
長女は施設の仕事をしていました。
次女は手が器用だったので、障害のある人の衣類を作ることの技術を身につけて、私からは何も言わなかったが二人ともそういった仕事を自分で選びました。
息子が娘達に大きな影響を与えたのではないかと思います。
社会の中でも障害のある人達に影響されて心の豊かさを持つ、という影響が有るのではないかと思います。
事件では被害者を匿名にしてもらって、いつまでも記号で扱われることは亡くなった人が存在しなかったような扱いになるのではないかと思って、善意ではあるが見方に依っては障害のある方はかわいそうで、良く思われない存在だと言う風な意識がどこかにあったのではないかと思ったりします。
亡くなった方がこんな人生を送って仲間と楽しく暮らしていて、だけどこの人達が命をうばわれたという、そういう意味での障害者の理解を進めるうえでも名前は出してほしいと思います。
月刊の会報「手をつなぐ」で写真とメッセージを200以上掲載、障害のある人達に興味が無かった人にも前向きに生きている人たちが沢山いると言うメッセージの出し方で、障害のある人達に関心を持ってもらいたかった、この人たちの人生が奪われていい人生だと思われますかと、そんな意味で理解してもらおうと写真を一杯出しました。
彼ら、彼女らの笑顔の持つ力は凄いと思いました。
息子が入所施設にいるので私も家族でもある訳で、障害のある人を中心にした、施設にしたいと言う思いが有り、担当者も自分の行動を反復しながら行動をしてもらいたいと思います。
この事件が起こったと言う事で塀を張りめぐらしたり警備体制を強化してほしくはないと思っています。
障害が有っても社会の中で生きてゆく人間なので、認め合って生きてゆく社会が成熟した社会だと思うので、障害者を隠してしまうと言うことは残念であるし、有ってはならないことだと思います。
この事件は心に傷をつけた大きな事件だったと思います。
障害のある人が社会の中で豊かに暮らしてゆくためにはもっと理解してもらうことが必要だと思っていますので、本人も自分で伝えられることは自分で伝えましょうと、この事件が有るからこそもっと歩みを進めて活動していきましょうと、情報を共有しながら前に進みましょうと、言いたいです。
障害者の事を伝えきれないものはあるが、一生懸命前向きに生きようとしている命の尊さ、存在の重要性とかに気付いていただきたい。
一人ひとりの持っている力の違いをみんなが出しあって、豊かに暮らしていけるようにしましょうと言う事なんだと思います。
共生の社会を作りましょうと、いうのが私の目指していきたいところだと思っています。
2016年12月6日火曜日
久山公明(片目失明者友の会代表) ・健常者と障害者の狭間で
久山公明(NPO片目失明者友の会代表) ・健常者と障害者の狭間で
片方の目が見えない人は必ずしも視覚障害者ではないと言う事を御存じでしょうか。
身体障害者福祉法では視覚障害はメガネなどで矯正した結果、両方の目の視力を合わせた値が0.6以下と定めています。
片方の目の視力が無くても、もう一方の目の視力が矯正して0.7以上あれば障害者として認められません。
この基準は昭和25年に法律が制定されて以来、60年以上変わっていません。
見える方の視力が0.7有れば見えない方を補って生活出来ると考えられてきたからです。
しかし片方の目が見えないために生活で苦しさを感じることは少なくないと言われます。
障害者と健常者の狭間におかれた苦しみから、3年前に団体片目失明者友の会を立上げ法律の改正を訴える久山さんに伺いました。
小学4年生の時に白内障で左の目が見えなくなる。
視野が狭まるのでグラスに水を注ぐ時に、真ん中に注いでいる様でも、右に行ったり、左に行ったりしてこぼしたり、まっすぐ歩いている様でもまっすぐ歩けなくて、人にぶつかって迷惑したり、小さな段差を見逃して転倒したり、目に見えない細かい部分で苦労させられてきました。
文字を読んだりするときに、片方の目を酷使するので肩コリ、偏頭痛等が有ります。
検査に行ったりするので、医療費もかさばってきます。
義眼を入れたりするのにも、10万円以上するので、障害者ではないと言うことで全額負担となりますので費用がかさばってきます。
小学校3年生から目の検査を始めますが、ぼやけて見えなくてその時におかしいと言う事になり、病院、医大に行きましたが、神経がやられているという事で失明しました。
当時右目は1.5だったので、それまで見えないという事に気付きませんでした。
責任を感じて母は自分の目の片方を取ってでも子供に手術してほしいと言ったそうですが、それは無理だと先生から言われて大泣きした様です。
1950年代の法律の壁が有り、障害者としては認められませんでした。
斜視だったのであだ名をつけられたり、いじめにあったりしました。
もう一方の目を大事にしなければいけないので、不安感恐怖感は強くなり喧嘩などしないで逃げていました。
いろいろと辛い中学校、高校時代を過ごしました。
高校3年生で就職活動が始まり、鉄道会社に行きたかったが、片方の目では就職できないと云われて、障害者扱いもされない、健常者扱いにもされないと言う狭間に立たされました。
就職は出来ないと言うことで、父親から大学に行かしてくれると言う事で大学に行きました。
就職時に、営業職に絞り込んで2~3社有ったので、営業職ならば実績さえあれば大丈夫だと思って飛び込みました。
営業は車が必修ですが、片目の場合でも普通免許は取れますが、一番苦労したのは狭い道路で視野が狭いので感覚が判らず苦労しました。
大雨が降っている時は視野がさらに狭くなり、白いラインを見て運転せざるをえませんでした。
障害者について社会人になったころからおかしいと思って市役所、県庁、福祉の窓口などに行って話をしましたが、国の法律を変えないとだめだとの一点張りでした。
平成25年に片目失明者友の会を一人で立ち上げる。
定年後、声を上げないとだめだと思って、インターネットで呼びかけると注目されるのではないかとフェースブックで呼びかけを行いました。
色んなところから嬉しい声がかかってきました。
新聞、TVなどを見て会員が増えてきました、440人を越えました。
主な活動は障害者認定してくださいと言うのが有り、他に当事者同士で気持ちが判りあえる場を設けた方がいいと言う事で交流会を昨年から実施しました。
9か所の支部が有ります。
交流会では周りからジロジロ見られたとか、指をさされたりとか、作業能率が悪いため悪口を云われたりとか、色々な体験談がでてきました。
正社員につく人は少ないです、片目という事を隠して正社員なっている人はいます。
就職の時点で差別が有ります。
障害者手帳が有れば障害者差別禁止法があり、安心して仕事に就く事が出来るが、片目の人は狭間に立たされて苦労して就職活動をしている人が多いです。
目の見えない人とは結婚させたくないとか、結婚などにも影響する。
若い人の会員は少なくて全体の10%程度しかいなくて、50~60代の人が会員には多いが、若い人は隠したがっているのではないかと思います。
障害者の場合は国が負担してくれますが、義眼も10万円以上と費用もかさみます、又義眼は2年に1回位交換、検査が一番ベターですが、子供は半年に一回交換されるので負担も大きいです。
交流会で一番印象に残ったのは、差別を受けて会社からもいじめにあい、仕事を辞めさせられて路頭に迷い自殺まで考えた人がいて、交流会に参加して生きる勇気を与えられたと、是非障害者認定されるように頑張ってくださいと言われて励みになっています。
障害者認定されれば、安心して仕事につける。
署名運動をしている時に、片目の人は障害者では無かったんですかと驚かれる方がほとんどでした、認めさせるべきだと励ましの言葉も頂き3万7000近くの署名をいただきました。
少しずつですが、前に進んできました。
視覚障害の基準については検討委員会が持たれるようになって、友の会の人も参加する予定になっています。
仕事、就職など差別無く安心して暮らせる社会になっていってほしい。
0.6以上見えれば普通の生活が出来るのではないかと言う、誤解した考え方で古い法律が制定されていますし、現在も引っ張っているので、そうではないと言う悲痛な声を検討委員会で発言して改善してほしいと、障害者であると言うことを力強く訴えたいと思っています。
片方の目が見えない人は必ずしも視覚障害者ではないと言う事を御存じでしょうか。
身体障害者福祉法では視覚障害はメガネなどで矯正した結果、両方の目の視力を合わせた値が0.6以下と定めています。
片方の目の視力が無くても、もう一方の目の視力が矯正して0.7以上あれば障害者として認められません。
この基準は昭和25年に法律が制定されて以来、60年以上変わっていません。
見える方の視力が0.7有れば見えない方を補って生活出来ると考えられてきたからです。
しかし片方の目が見えないために生活で苦しさを感じることは少なくないと言われます。
障害者と健常者の狭間におかれた苦しみから、3年前に団体片目失明者友の会を立上げ法律の改正を訴える久山さんに伺いました。
小学4年生の時に白内障で左の目が見えなくなる。
視野が狭まるのでグラスに水を注ぐ時に、真ん中に注いでいる様でも、右に行ったり、左に行ったりしてこぼしたり、まっすぐ歩いている様でもまっすぐ歩けなくて、人にぶつかって迷惑したり、小さな段差を見逃して転倒したり、目に見えない細かい部分で苦労させられてきました。
文字を読んだりするときに、片方の目を酷使するので肩コリ、偏頭痛等が有ります。
検査に行ったりするので、医療費もかさばってきます。
義眼を入れたりするのにも、10万円以上するので、障害者ではないと言うことで全額負担となりますので費用がかさばってきます。
小学校3年生から目の検査を始めますが、ぼやけて見えなくてその時におかしいと言う事になり、病院、医大に行きましたが、神経がやられているという事で失明しました。
当時右目は1.5だったので、それまで見えないという事に気付きませんでした。
責任を感じて母は自分の目の片方を取ってでも子供に手術してほしいと言ったそうですが、それは無理だと先生から言われて大泣きした様です。
1950年代の法律の壁が有り、障害者としては認められませんでした。
斜視だったのであだ名をつけられたり、いじめにあったりしました。
もう一方の目を大事にしなければいけないので、不安感恐怖感は強くなり喧嘩などしないで逃げていました。
いろいろと辛い中学校、高校時代を過ごしました。
高校3年生で就職活動が始まり、鉄道会社に行きたかったが、片方の目では就職できないと云われて、障害者扱いもされない、健常者扱いにもされないと言う狭間に立たされました。
就職は出来ないと言うことで、父親から大学に行かしてくれると言う事で大学に行きました。
就職時に、営業職に絞り込んで2~3社有ったので、営業職ならば実績さえあれば大丈夫だと思って飛び込みました。
営業は車が必修ですが、片目の場合でも普通免許は取れますが、一番苦労したのは狭い道路で視野が狭いので感覚が判らず苦労しました。
大雨が降っている時は視野がさらに狭くなり、白いラインを見て運転せざるをえませんでした。
障害者について社会人になったころからおかしいと思って市役所、県庁、福祉の窓口などに行って話をしましたが、国の法律を変えないとだめだとの一点張りでした。
平成25年に片目失明者友の会を一人で立ち上げる。
定年後、声を上げないとだめだと思って、インターネットで呼びかけると注目されるのではないかとフェースブックで呼びかけを行いました。
色んなところから嬉しい声がかかってきました。
新聞、TVなどを見て会員が増えてきました、440人を越えました。
主な活動は障害者認定してくださいと言うのが有り、他に当事者同士で気持ちが判りあえる場を設けた方がいいと言う事で交流会を昨年から実施しました。
9か所の支部が有ります。
交流会では周りからジロジロ見られたとか、指をさされたりとか、作業能率が悪いため悪口を云われたりとか、色々な体験談がでてきました。
正社員につく人は少ないです、片目という事を隠して正社員なっている人はいます。
就職の時点で差別が有ります。
障害者手帳が有れば障害者差別禁止法があり、安心して仕事に就く事が出来るが、片目の人は狭間に立たされて苦労して就職活動をしている人が多いです。
目の見えない人とは結婚させたくないとか、結婚などにも影響する。
若い人の会員は少なくて全体の10%程度しかいなくて、50~60代の人が会員には多いが、若い人は隠したがっているのではないかと思います。
障害者の場合は国が負担してくれますが、義眼も10万円以上と費用もかさみます、又義眼は2年に1回位交換、検査が一番ベターですが、子供は半年に一回交換されるので負担も大きいです。
交流会で一番印象に残ったのは、差別を受けて会社からもいじめにあい、仕事を辞めさせられて路頭に迷い自殺まで考えた人がいて、交流会に参加して生きる勇気を与えられたと、是非障害者認定されるように頑張ってくださいと言われて励みになっています。
障害者認定されれば、安心して仕事につける。
署名運動をしている時に、片目の人は障害者では無かったんですかと驚かれる方がほとんどでした、認めさせるべきだと励ましの言葉も頂き3万7000近くの署名をいただきました。
少しずつですが、前に進んできました。
視覚障害の基準については検討委員会が持たれるようになって、友の会の人も参加する予定になっています。
仕事、就職など差別無く安心して暮らせる社会になっていってほしい。
0.6以上見えれば普通の生活が出来るのではないかと言う、誤解した考え方で古い法律が制定されていますし、現在も引っ張っているので、そうではないと言う悲痛な声を検討委員会で発言して改善してほしいと、障害者であると言うことを力強く訴えたいと思っています。
2016年12月5日月曜日
保阪正康(ノンフィクション作家) ・日本列島改造(第36回)
保阪正康(ノンフィクション作家) ・日本列島改造(第36回)
高度経済成長の中でも第3期、昭和45年万博から石油危機の起こった翌年の昭和49年頃までの時期。
佐藤内閣後半から田中内閣の時代に対応。
田中内閣は昭和47年7月7日に誕生。
昭和47年 戦争処理が一区切りついた年、5月15日に沖縄に施政権返還、沖縄県誕生。
沖縄は核の問題、アメリカの基地という問題を抱えながら大きな変化のない返還となり、屋良主席は内在していると複雑な思いを語っている。
田中内閣は昭和47年7月7日発足、日中国交回復正常化を推進。
9月29日に日中共同声明に調印、国交回復なる。
来年で45年になる。
日本列島改造に着手する。
今年は角栄本がブームになる。(2点が注目)
①田中角栄は危機的な状況を抜け出す時に、何か参考になることをいっているのではないか。
②難しい議論はいい、日常生活の中からすこしずつ生活を変えていこうと言う、即効的な政策では田中さんは多くの政策を打ち出したことが見直されている、今日本が発展している状況が太平洋側の都市主体となった偏頗な形の発展、日本列島改造というのはもう一回見直すべきだと世論が潜在的にあるのではないか、大都会集中で人々の生活が満足していないのではないか。
(均質化した社会を形成)
東条英機、吉田茂、田中角栄 この3人を昭和の代表的な首相として比べた時に、田中角栄だけが庶民の側の心理を理解できる、昭和史の中で重要な意味を持っていると思います。
庶民の思っている欲望を政策化した首相だったと思う。
「日本列島改造論」
3カ月で100万部越えた。
日本に25万都市の中小都市をいくつも作って、都市機能を分化させながら、都市と農村の格差を無くす、都市機能を高速道路で繋ぎ、日本社会全体に新幹線を走らせて、日本全国のそれぞれのところに住んでいる人達は東京と同じように文化、経済生活を享受できる、全国均質化計画だったと思います。
田中首相の演説
「まだまだ日本には沢山土地がありますよ、これを新幹線で結べば、高速道路で結べば、飛行機で結べば大したことはないじゃありませんか、そうすれば周りに少しは緑のある所、考えればどうするんですか、そこで日本列島改造というのがでてくるんですよ」
日本の歳出の幅が増えてくる。
老人医療無料、公共事業費が膨れてゆく、老齢年金の受給者が増えてゆく、列島改造のために予算を割くと言う事自体が厳しいという財政状況もあった。
農村主義、農村共同体として伝統を残す空間を作りたいと言う事もあったと思う。(愛郷心)
NHK総理と語るの中での話。
尋常小学校の校長草間先生のことを愛着持って語っている。
小学校の校訓作った人といわれる。(「人を信ぜよ。」、「自信を持て」、「責任を回避するな」)
小学校の校長草間先生は至誠の人。(愛郷心)
書道の達筆の人、書道は精神で書くものだ、書体を見ればその人の人格が判るとさえいわれた。
書が乱れている時には、自らから乱れていると思え、という様な教育をずーっと受けていました。
土地の価格が高騰してゆくと言う事で、生活の中で一生懸命働いても家も買えないと言う値上がりもして、社会全体が浮足立ったような感じがあった。
浮足立ったような感じが日本列島改造や新全国総合開発計画をすすめていたが、どうも上手く動かなかった。
大きなシステムとして連動して動く事が出来ずに、土地が上がる、財政が厳しい、その都度問題がでてきて、長いレンジの予算を組むとか、プログラムを持つと言う事が出来なかった。
上手くいかなかった外部要因として、昭和48年10月に第4次中東戦争がおこり、中東産油国が石油を戦略物資に使う。
イスラエルに好意的な国に対しては輸出しない、或いは大幅に減らすと言う戦略を打ち出す。
以前の様な量を確保できない、石油の価格高騰という事で高度成長がしぼんで来る。(外部要因)
オイルショックは家庭を直撃する、トイレットペーパー、洗剤が無くなる。(買占め)
田中首相の金脈問題、逆風と向き合う形になってゆく。
昭和49年、文藝春秋11月号、立花隆さんが書いた「田中角栄の研究、その金脈と人脈」で窮地に追いやられる。
日本列島改造はとん挫してしまう。
昭和49年12月辞意を表明。
昭和47年1月24日横井庄一さんがグアム島から28年ぶりに救出された。
昭和47年2月3日からは札幌オリンピック。 (ジャネット・リンが人気者に)
日本が70m級ジャンプで金、銀、銅を独占する。
昭和47年2月19日 連合赤軍の浅間山荘事件
昭和47年3月 高松塚古墳から壁画が発見
昭和48年8月8日 金大中事件
昭和49年3月10日 小野田寛郎さんがルバング島から30年ぶりに救出。
昭和49年10月14日 長嶋茂雄現役引退。
高度経済成長の中でも第3期、昭和45年万博から石油危機の起こった翌年の昭和49年頃までの時期。
佐藤内閣後半から田中内閣の時代に対応。
田中内閣は昭和47年7月7日に誕生。
昭和47年 戦争処理が一区切りついた年、5月15日に沖縄に施政権返還、沖縄県誕生。
沖縄は核の問題、アメリカの基地という問題を抱えながら大きな変化のない返還となり、屋良主席は内在していると複雑な思いを語っている。
田中内閣は昭和47年7月7日発足、日中国交回復正常化を推進。
9月29日に日中共同声明に調印、国交回復なる。
来年で45年になる。
日本列島改造に着手する。
今年は角栄本がブームになる。(2点が注目)
①田中角栄は危機的な状況を抜け出す時に、何か参考になることをいっているのではないか。
②難しい議論はいい、日常生活の中からすこしずつ生活を変えていこうと言う、即効的な政策では田中さんは多くの政策を打ち出したことが見直されている、今日本が発展している状況が太平洋側の都市主体となった偏頗な形の発展、日本列島改造というのはもう一回見直すべきだと世論が潜在的にあるのではないか、大都会集中で人々の生活が満足していないのではないか。
(均質化した社会を形成)
東条英機、吉田茂、田中角栄 この3人を昭和の代表的な首相として比べた時に、田中角栄だけが庶民の側の心理を理解できる、昭和史の中で重要な意味を持っていると思います。
庶民の思っている欲望を政策化した首相だったと思う。
「日本列島改造論」
3カ月で100万部越えた。
日本に25万都市の中小都市をいくつも作って、都市機能を分化させながら、都市と農村の格差を無くす、都市機能を高速道路で繋ぎ、日本社会全体に新幹線を走らせて、日本全国のそれぞれのところに住んでいる人達は東京と同じように文化、経済生活を享受できる、全国均質化計画だったと思います。
田中首相の演説
「まだまだ日本には沢山土地がありますよ、これを新幹線で結べば、高速道路で結べば、飛行機で結べば大したことはないじゃありませんか、そうすれば周りに少しは緑のある所、考えればどうするんですか、そこで日本列島改造というのがでてくるんですよ」
日本の歳出の幅が増えてくる。
老人医療無料、公共事業費が膨れてゆく、老齢年金の受給者が増えてゆく、列島改造のために予算を割くと言う事自体が厳しいという財政状況もあった。
農村主義、農村共同体として伝統を残す空間を作りたいと言う事もあったと思う。(愛郷心)
NHK総理と語るの中での話。
尋常小学校の校長草間先生のことを愛着持って語っている。
小学校の校訓作った人といわれる。(「人を信ぜよ。」、「自信を持て」、「責任を回避するな」)
小学校の校長草間先生は至誠の人。(愛郷心)
書道の達筆の人、書道は精神で書くものだ、書体を見ればその人の人格が判るとさえいわれた。
書が乱れている時には、自らから乱れていると思え、という様な教育をずーっと受けていました。
土地の価格が高騰してゆくと言う事で、生活の中で一生懸命働いても家も買えないと言う値上がりもして、社会全体が浮足立ったような感じがあった。
浮足立ったような感じが日本列島改造や新全国総合開発計画をすすめていたが、どうも上手く動かなかった。
大きなシステムとして連動して動く事が出来ずに、土地が上がる、財政が厳しい、その都度問題がでてきて、長いレンジの予算を組むとか、プログラムを持つと言う事が出来なかった。
上手くいかなかった外部要因として、昭和48年10月に第4次中東戦争がおこり、中東産油国が石油を戦略物資に使う。
イスラエルに好意的な国に対しては輸出しない、或いは大幅に減らすと言う戦略を打ち出す。
以前の様な量を確保できない、石油の価格高騰という事で高度成長がしぼんで来る。(外部要因)
オイルショックは家庭を直撃する、トイレットペーパー、洗剤が無くなる。(買占め)
田中首相の金脈問題、逆風と向き合う形になってゆく。
昭和49年、文藝春秋11月号、立花隆さんが書いた「田中角栄の研究、その金脈と人脈」で窮地に追いやられる。
日本列島改造はとん挫してしまう。
昭和49年12月辞意を表明。
昭和47年1月24日横井庄一さんがグアム島から28年ぶりに救出された。
昭和47年2月3日からは札幌オリンピック。 (ジャネット・リンが人気者に)
日本が70m級ジャンプで金、銀、銅を独占する。
昭和47年2月19日 連合赤軍の浅間山荘事件
昭和47年3月 高松塚古墳から壁画が発見
昭和48年8月8日 金大中事件
昭和49年3月10日 小野田寛郎さんがルバング島から30年ぶりに救出。
昭和49年10月14日 長嶋茂雄現役引退。
2016年12月4日日曜日
ささきいさお(歌手・俳優) ・時代を創った声(第10回)
ささきいさお(歌手・俳優) ・時代を創った声(第10回)
ささきさんは宇宙戦艦ヤマトや銀河鉄道999等の主題歌を歌われたことで知られていますが、俳優としても活動されてきました。
歌手、俳優、声優と幅広く活躍されているささきさんに伺いました。
宇宙戦艦ヤマトは1974年TVで放映されました。
人類を救うために宇宙に飛び立つ戦艦ヤマトの活躍を描いたアニメ番組です。
宮川先生の作曲と編曲が凄くうまいんでそれにうまく乗れた時は気持ちいいです。
デビューして去年で55周年。
時の経つのを身に沁みて感じます。
最近の10年なんてあっという間です。
1960年当時、ロカビリー歌手としてデビュー、和製プレスリーと言われた。
エルヴィス・プレスリーのレコードを買って毎日聞いていて、民放ののど自慢の番組があり、出てそれを歌ったら、合格して、審査員から君は東京のプレスリーだと言われて、その気になって、テストを受けて、堀さん(ホリプロ)から来ないかという事になり、直ぐにジャズ喫茶に行くようになった。
日活映画にも出ないかという事にもなり、長門裕之らそうそうたるメンバーの映画にも出ることになり、松竹映画にも出ました。
大島渚監督から会ってくれという話があり、芝居などやったことが無いのに、いきなり主役になり、今から考えると恐ろしいですね。
松竹と年間6本の年間契約をして、専属になって7本撮ることになったが、映画が斜陽になり、又歌手に戻る事になる。
しかし売れなくて、TVドラマをやる様になり、最初二枚目の役だったが、人気が無くなり悪役をやるようになり、これは先がなさそうだなと思って、これは勉強しないといけないと思った。
金子信雄さんから連絡があり、しばらく劇団に入って勉強していました。(22~27歳ぐらいまで)
ミュージカルにも参加して、歌も勉強した方がいいと言う事で1年間レッスンを受けました。
基礎は大切だと思います
エルヴィス・プレスリーの主演映画『燃える平原児』の吹き替えの話があり、それから声優として色んな役をやりました。
マンガをやってみないかと言われて、1972年「科学忍者隊ガッチャマン」にでることになりました。
主役(ケン)をやる予定だったが声が低いと言う事で、ジョーをやるようになりました。
最高視聴率が28%とか、凄く良くって2年半やりました。
マンガの主題歌を歌ってみないかと言われて、新造人間キャシャーンを歌う事になりました。
主題歌が評判が良くて、その後4本主題歌の話があってその中に宇宙戦艦ヤマトの曲がありましたが、最初は私ではなくて子門真人が歌う予定だった。
譜面を送られてきたが、2日ぐらいしかないと言う事で、覚えていったが、譜面が違っていて、スタジオで違うと言われて、1時間練習して、歌ったが、作曲家などのみんなの意見が違っていて、何度となくやらされました。
6パターンをやらされてようやくOKになりました。
結局ヒット曲は宮川さんが推奨したものになりました。
銀河鉄道999 (1978年の作品)
子供が小学生2年の頃、離婚して、実家に子供を連れて帰って来て、そのころに松本 零士先生のマンガがあり面白いと思っていた。
子供のこととか、海外旅行に旅立つときの夜景を見たときなど、自分の境遇がダブった作品でしたので、余計にのめり込みました。
思い出深いのは 宇宙戦艦ヤマトと銀河鉄道999ですね。
歌は体から出てくるものでないといけないんじゃないかと思います。
滲み出てくる歌がそれが一番いいんじゃないかと思います。
いかに力を抜くか、全部攻めていってはいけない、ようやく最近少しできるようになってきた様な気がする。
最後はハートをつたえる様な歌、そうやってエルヴィスの歌を聞くとあの人は天才だと思います。
テクニック、ハートは後から覚えるものだと思う、先ずは体を動けるように、リズム感、発声、基礎をまずやる必要がある。
色んな事をやっておくほうが、色んな時に役立つと思う。
一番いけないのは焦ることだと思う、それよりじっくり構えて勉強していた方がいいと思う。
身体が歳を取ってゆく事は防ぎようがないが、精神的に若くいる方法はいくらでもあると思うので、これが人生を楽しく送れる秘訣ではないかと思います。
細かなことでも喜びを見つけること、楽しみを見つける事がコツではないかと思っています。
ささきさんは宇宙戦艦ヤマトや銀河鉄道999等の主題歌を歌われたことで知られていますが、俳優としても活動されてきました。
歌手、俳優、声優と幅広く活躍されているささきさんに伺いました。
宇宙戦艦ヤマトは1974年TVで放映されました。
人類を救うために宇宙に飛び立つ戦艦ヤマトの活躍を描いたアニメ番組です。
宮川先生の作曲と編曲が凄くうまいんでそれにうまく乗れた時は気持ちいいです。
デビューして去年で55周年。
時の経つのを身に沁みて感じます。
最近の10年なんてあっという間です。
1960年当時、ロカビリー歌手としてデビュー、和製プレスリーと言われた。
エルヴィス・プレスリーのレコードを買って毎日聞いていて、民放ののど自慢の番組があり、出てそれを歌ったら、合格して、審査員から君は東京のプレスリーだと言われて、その気になって、テストを受けて、堀さん(ホリプロ)から来ないかという事になり、直ぐにジャズ喫茶に行くようになった。
日活映画にも出ないかという事にもなり、長門裕之らそうそうたるメンバーの映画にも出ることになり、松竹映画にも出ました。
大島渚監督から会ってくれという話があり、芝居などやったことが無いのに、いきなり主役になり、今から考えると恐ろしいですね。
松竹と年間6本の年間契約をして、専属になって7本撮ることになったが、映画が斜陽になり、又歌手に戻る事になる。
しかし売れなくて、TVドラマをやる様になり、最初二枚目の役だったが、人気が無くなり悪役をやるようになり、これは先がなさそうだなと思って、これは勉強しないといけないと思った。
金子信雄さんから連絡があり、しばらく劇団に入って勉強していました。(22~27歳ぐらいまで)
ミュージカルにも参加して、歌も勉強した方がいいと言う事で1年間レッスンを受けました。
基礎は大切だと思います
エルヴィス・プレスリーの主演映画『燃える平原児』の吹き替えの話があり、それから声優として色んな役をやりました。
マンガをやってみないかと言われて、1972年「科学忍者隊ガッチャマン」にでることになりました。
主役(ケン)をやる予定だったが声が低いと言う事で、ジョーをやるようになりました。
最高視聴率が28%とか、凄く良くって2年半やりました。
マンガの主題歌を歌ってみないかと言われて、新造人間キャシャーンを歌う事になりました。
主題歌が評判が良くて、その後4本主題歌の話があってその中に宇宙戦艦ヤマトの曲がありましたが、最初は私ではなくて子門真人が歌う予定だった。
譜面を送られてきたが、2日ぐらいしかないと言う事で、覚えていったが、譜面が違っていて、スタジオで違うと言われて、1時間練習して、歌ったが、作曲家などのみんなの意見が違っていて、何度となくやらされました。
6パターンをやらされてようやくOKになりました。
結局ヒット曲は宮川さんが推奨したものになりました。
銀河鉄道999 (1978年の作品)
子供が小学生2年の頃、離婚して、実家に子供を連れて帰って来て、そのころに松本 零士先生のマンガがあり面白いと思っていた。
子供のこととか、海外旅行に旅立つときの夜景を見たときなど、自分の境遇がダブった作品でしたので、余計にのめり込みました。
思い出深いのは 宇宙戦艦ヤマトと銀河鉄道999ですね。
歌は体から出てくるものでないといけないんじゃないかと思います。
滲み出てくる歌がそれが一番いいんじゃないかと思います。
いかに力を抜くか、全部攻めていってはいけない、ようやく最近少しできるようになってきた様な気がする。
最後はハートをつたえる様な歌、そうやってエルヴィスの歌を聞くとあの人は天才だと思います。
テクニック、ハートは後から覚えるものだと思う、先ずは体を動けるように、リズム感、発声、基礎をまずやる必要がある。
色んな事をやっておくほうが、色んな時に役立つと思う。
一番いけないのは焦ることだと思う、それよりじっくり構えて勉強していた方がいいと思う。
身体が歳を取ってゆく事は防ぎようがないが、精神的に若くいる方法はいくらでもあると思うので、これが人生を楽しく送れる秘訣ではないかと思います。
細かなことでも喜びを見つけること、楽しみを見つける事がコツではないかと思っています。
2016年12月3日土曜日
荒木香織(メンタルコーチ) ・ラグビー日本代表を変えたスポーツ心理学((H28/6/18 放送)
荒木香織(メンタルコーチ) ・ラグビー日本代表を変えたスポーツ心理学((H28/6/18 放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2016/06/blog-post_18.htmlをご覧ください。
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2016/06/blog-post_18.htmlをご覧ください。
2016年12月2日金曜日
佐藤晋也(元高校校長) ・“赤い果肉のりんご”誕生
佐藤晋也(元青森県立五所川原農林高校校長 ・“赤い果肉のりんご”誕生
りんご王国青森県で今年、果肉まで赤いリンゴ「栄紅」が誕生しました。
佐藤さんはこの赤いリンゴで農村に元気を取り戻そうと、農業イノベーションに取り組んでいます。
佐藤さんは昭和29年青森県五所川原市の農家に生まれました。
近所にあった小さく酸っぱいが果肉が赤いリンゴを甘いりんごにすれば農家はきっと儲かると品種改良を志し、東京農業大学で育種学を学びました。
大学を終えた佐藤さんは故郷に帰り農業高校の教師になりましたが、その当時減反製作の影響で生徒たちは卒業と共に都会へ出て行ってしまいました。
五所川原農林高校の校長になった佐藤さんは若者が地元で輝ける場を造ることが農業高校の使命で有ると、情報通信技術を取り入れるなど新しい農業に取り組みました。
その情熱と行動力が買われ、校長を退任してすぐに、地域を再生する会社を任され、2年目になりました。
赤くてつるつるする感じで、大きさは小さい180g~200gぐらい。
「栄紅」という名前です。
果皮の部分の近くの果肉はずーっと赤くなっていて芯の部分もすこし赤い。
殆ど酸味の無いリンゴなので甘いです。
富士と同じ位の甘さで、小さいので食べやすい、肌にいいペクチンの量も富士より多いです。
ポリフェノール(抗酸化物質)も体には良いです。
1995年、平成7年 親戚に、育種家の前田顯三(けんぞう)という人がいて"御所川原"を作っていて"御所川原"(種子親)と黄りん(花粉親)とを掛けあわせて今のりんご「栄紅」ができてきますが、育成する段階でいろいろありまして20年掛かっています。
会社を立ち上げる事になり、生産から販売流通まで消費者も全部クラブ員になっていただいて、特定の限定された中でしか取引できないと言う形で、価格も生産者と私達が決めて、買っていただいて、全て健康に寄与していくと言う事です。
大量に作ると悪いものがでてきてしまうし、消費者は生で食べたいとか、加工して食べたいといろいろです。
ニーズという事で無く、私達はウオンツ(wants)のビジネスをしたいと思いました。(今までとは全く違う農業)
農業を行っている生産者がたまたま仕事が田舎だったと、たまたま消費者が都会だったと、こちらでもいいのですが、やりたいこと、食べたいことを繋いでいければなあと云うのがこの会社の在り方で、クラブ化です。
アグリビジネス (agribusiness) 農業で商売しようと、農村地帯をもう一回作り直そうと、今まであった農業は全く否定はしない、今までの農業にプラスして何ができるか、地域だけでは無くて世界を見ているのが若い人たちの感覚なんで、グローバル化は本当の話で、彼等は世界にいまどういう風な形で打って出るのか、若い人たちは考えています。
規模は小さいが考え方としては、五所川原から世界に発信することができる農産物を、どういう風な形で作っていけるか、どうプロモーションしていけるか、という風なことをやろうよという事で、再生して行く事で一次産業を中心にした産業副合体を作っていこうと言う事です。
教育は学ぶ場はあっても生かす場を保証してこなかった、私は生かす場をどこに作るかという事で
就農就労型のの六次産業を進めています。
法人化されていなければいけないという事が条件にはなってきます。
農業技術を教えるだけでは駄目だと言う事で、弘前大学の大学院に40歳の時に入りました。
技術は日進月歩で進歩しているので、技術を教えることで精一杯で、お金が無いと技術を取り入れられなくて、農業教育とは何かを勉強しなくてはいけないと思って、教育学を学びたかった。
人々は何で田舎で生活するのかという事を突き止めたかった。
我慢して生活するのか、ここに何があるのかと思った。
未来についてはどう考えればいいのかと思った。
社会教育の研究室で佐藤 三三という先生が専攻が農村社会学の先生で色んなことを教えていただきました。
かつて青森は開拓に力を入れて、そこに行く人がいて、小学校ができてゆく、なんで小学校が出来るのかを聞いたら、社会的人間にするためには学校教育が必要だと言われて、その通りだと思いました。
体得させてゆく事が大事だと言う事を学びました。
生きてゆくために大人はどういう学習をするのか。
最終的には生きるるということは何なのかを突き詰めてゆく、そのための職業とはなにか、農村に生きるとはそういうとかという事が判りました。
資源は学校にいっぱいあり、資源をどういう風な形で世に出してゆくか、子供達がやっていることをどう社会に評価してもらうのかが大事で、手立てとしては、企業と一緒になって売る、そういう風な様々な販売体験をする。
行政から頼まれて、生徒と相談して、酢を作って、地元の企業とスチューベン(ブドウの一種、メロンをしのぐとも言われるほどの甘さが最大の特徴)の酢を作ってもらってその酢を飲みやすい形にして、"酢チューベンドリンク酢"を製作販売しいまでも売っています。
良いものはいいという評価をしてほしいし、子供達を成長させます。
学校に第六次産業推進協議会を作って、肩書きを持って意見を出しあうので責任を持った発言をする。
校長時代に行政の人達、地域の人達、生徒を含めていろいろなことをして、それを下敷きにして現在の「アグリ・コミュニケーションズ津軽」の社長になる。
コミュニティーを作っていかないと、上手く事が進まない。
アグリでつながるという意味もあります。
①アグリビジネスをやってゆく、隙間産業。
冬場の農業、燃料費が大変、今始めているのが国産のマカ(マカは南米ペルーに植生するアブラナ科の多年生植物。根は薬用ハーブとして使われる)を出来ないかとやっています。
マカは無加温で済むので良いです。(冬場の農業としては使い道がある)
②アグリ担い手
機能性野菜を取り入れた担い手を育成。
これをやっていないと次の展開が無い。
③六次産業の生産から販売まで
究極の目的は一次産業を中心にした産業複合体を作る、生活の母体ができてゆく。
小学校のころは学校から帰ったら、水車を踏んで用水路から田んぼに水をくみ上げる仕事をさせられていた。
親を見ていて今の農業だと、浮かばれないと思っていた。
稼げる農業を考えました。
近所で作っていた赤いリンゴを作っていて、そのリンゴを何とか大きくできなのかと本気で考えました。
大学で品種改良をしようと思った、担任の先生が東京農大にいったらどうかということで行きました。
赤いリンゴを近藤典生(のりお)先生に見ていただいたら、君、研究室に来いと言われました。
一生懸命に育種学を学びました。
県のリンゴ試験場があり、受験したが駄目でしたが、教員の採用試験があり入ることが出来ました。
試験場でも学校でもなにをやるかは関係ないと言われ、生徒もいるし面白いかも知れないと言われました。
一番大事なのは一年中働けるという事で、冬の方がいいものを採れることができると考えていいことドンドンして行って、売り場も確立していって、大量なものは大量で勝負していって、消費者の欲しいものを作っていこう、消費者が求めているものを冬場にやろうと言う事です。
アイディアを出しあってしっかりとしたビジネスを作ろうと言う話を若い農家の人たちと話しています。
「アグリ・コミュニケーションズ津軽」
アグリは健康産業に変わると思ってので、安心して食べるものを作ろうと彼らと話をしています。
、
りんご王国青森県で今年、果肉まで赤いリンゴ「栄紅」が誕生しました。
佐藤さんはこの赤いリンゴで農村に元気を取り戻そうと、農業イノベーションに取り組んでいます。
佐藤さんは昭和29年青森県五所川原市の農家に生まれました。
近所にあった小さく酸っぱいが果肉が赤いリンゴを甘いりんごにすれば農家はきっと儲かると品種改良を志し、東京農業大学で育種学を学びました。
大学を終えた佐藤さんは故郷に帰り農業高校の教師になりましたが、その当時減反製作の影響で生徒たちは卒業と共に都会へ出て行ってしまいました。
五所川原農林高校の校長になった佐藤さんは若者が地元で輝ける場を造ることが農業高校の使命で有ると、情報通信技術を取り入れるなど新しい農業に取り組みました。
その情熱と行動力が買われ、校長を退任してすぐに、地域を再生する会社を任され、2年目になりました。
赤くてつるつるする感じで、大きさは小さい180g~200gぐらい。
「栄紅」という名前です。
果皮の部分の近くの果肉はずーっと赤くなっていて芯の部分もすこし赤い。
殆ど酸味の無いリンゴなので甘いです。
富士と同じ位の甘さで、小さいので食べやすい、肌にいいペクチンの量も富士より多いです。
ポリフェノール(抗酸化物質)も体には良いです。
1995年、平成7年 親戚に、育種家の前田顯三(けんぞう)という人がいて"御所川原"を作っていて"御所川原"(種子親)と黄りん(花粉親)とを掛けあわせて今のりんご「栄紅」ができてきますが、育成する段階でいろいろありまして20年掛かっています。
会社を立ち上げる事になり、生産から販売流通まで消費者も全部クラブ員になっていただいて、特定の限定された中でしか取引できないと言う形で、価格も生産者と私達が決めて、買っていただいて、全て健康に寄与していくと言う事です。
大量に作ると悪いものがでてきてしまうし、消費者は生で食べたいとか、加工して食べたいといろいろです。
ニーズという事で無く、私達はウオンツ(wants)のビジネスをしたいと思いました。(今までとは全く違う農業)
農業を行っている生産者がたまたま仕事が田舎だったと、たまたま消費者が都会だったと、こちらでもいいのですが、やりたいこと、食べたいことを繋いでいければなあと云うのがこの会社の在り方で、クラブ化です。
アグリビジネス (agribusiness) 農業で商売しようと、農村地帯をもう一回作り直そうと、今まであった農業は全く否定はしない、今までの農業にプラスして何ができるか、地域だけでは無くて世界を見ているのが若い人たちの感覚なんで、グローバル化は本当の話で、彼等は世界にいまどういう風な形で打って出るのか、若い人たちは考えています。
規模は小さいが考え方としては、五所川原から世界に発信することができる農産物を、どういう風な形で作っていけるか、どうプロモーションしていけるか、という風なことをやろうよという事で、再生して行く事で一次産業を中心にした産業副合体を作っていこうと言う事です。
教育は学ぶ場はあっても生かす場を保証してこなかった、私は生かす場をどこに作るかという事で
就農就労型のの六次産業を進めています。
法人化されていなければいけないという事が条件にはなってきます。
農業技術を教えるだけでは駄目だと言う事で、弘前大学の大学院に40歳の時に入りました。
技術は日進月歩で進歩しているので、技術を教えることで精一杯で、お金が無いと技術を取り入れられなくて、農業教育とは何かを勉強しなくてはいけないと思って、教育学を学びたかった。
人々は何で田舎で生活するのかという事を突き止めたかった。
我慢して生活するのか、ここに何があるのかと思った。
未来についてはどう考えればいいのかと思った。
社会教育の研究室で佐藤 三三という先生が専攻が農村社会学の先生で色んなことを教えていただきました。
かつて青森は開拓に力を入れて、そこに行く人がいて、小学校ができてゆく、なんで小学校が出来るのかを聞いたら、社会的人間にするためには学校教育が必要だと言われて、その通りだと思いました。
体得させてゆく事が大事だと言う事を学びました。
生きてゆくために大人はどういう学習をするのか。
最終的には生きるるということは何なのかを突き詰めてゆく、そのための職業とはなにか、農村に生きるとはそういうとかという事が判りました。
資源は学校にいっぱいあり、資源をどういう風な形で世に出してゆくか、子供達がやっていることをどう社会に評価してもらうのかが大事で、手立てとしては、企業と一緒になって売る、そういう風な様々な販売体験をする。
行政から頼まれて、生徒と相談して、酢を作って、地元の企業とスチューベン(ブドウの一種、メロンをしのぐとも言われるほどの甘さが最大の特徴)の酢を作ってもらってその酢を飲みやすい形にして、"酢チューベンドリンク酢"を製作販売しいまでも売っています。
良いものはいいという評価をしてほしいし、子供達を成長させます。
学校に第六次産業推進協議会を作って、肩書きを持って意見を出しあうので責任を持った発言をする。
校長時代に行政の人達、地域の人達、生徒を含めていろいろなことをして、それを下敷きにして現在の「アグリ・コミュニケーションズ津軽」の社長になる。
コミュニティーを作っていかないと、上手く事が進まない。
アグリでつながるという意味もあります。
①アグリビジネスをやってゆく、隙間産業。
冬場の農業、燃料費が大変、今始めているのが国産のマカ(マカは南米ペルーに植生するアブラナ科の多年生植物。根は薬用ハーブとして使われる)を出来ないかとやっています。
マカは無加温で済むので良いです。(冬場の農業としては使い道がある)
②アグリ担い手
機能性野菜を取り入れた担い手を育成。
これをやっていないと次の展開が無い。
③六次産業の生産から販売まで
究極の目的は一次産業を中心にした産業複合体を作る、生活の母体ができてゆく。
小学校のころは学校から帰ったら、水車を踏んで用水路から田んぼに水をくみ上げる仕事をさせられていた。
親を見ていて今の農業だと、浮かばれないと思っていた。
稼げる農業を考えました。
近所で作っていた赤いリンゴを作っていて、そのリンゴを何とか大きくできなのかと本気で考えました。
大学で品種改良をしようと思った、担任の先生が東京農大にいったらどうかということで行きました。
赤いリンゴを近藤典生(のりお)先生に見ていただいたら、君、研究室に来いと言われました。
一生懸命に育種学を学びました。
県のリンゴ試験場があり、受験したが駄目でしたが、教員の採用試験があり入ることが出来ました。
試験場でも学校でもなにをやるかは関係ないと言われ、生徒もいるし面白いかも知れないと言われました。
一番大事なのは一年中働けるという事で、冬の方がいいものを採れることができると考えていいことドンドンして行って、売り場も確立していって、大量なものは大量で勝負していって、消費者の欲しいものを作っていこう、消費者が求めているものを冬場にやろうと言う事です。
アイディアを出しあってしっかりとしたビジネスを作ろうと言う話を若い農家の人たちと話しています。
「アグリ・コミュニケーションズ津軽」
アグリは健康産業に変わると思ってので、安心して食べるものを作ろうと彼らと話をしています。
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2016年12月1日木曜日
山口千波(特殊効果) ・ライバルはCG 特殊効果に生きる
山口千波(特殊効果) ・ライバルはCG 特殊効果に生きる
神奈川県生まれ、45歳になります。
高校卒業後、放送系の専門学校を経て特殊効果を専門とする会社に入社、以来、NHKを中心に様々な番組で特殊効果を手掛けてきました。
大河ドラマや朝ドラ、連続TV小説の他、音楽番組や情報番組でもその手腕を発揮しています。
2005年の紅白歌合戦では「風雪流れ旅」を歌う北島三郎さんの舞台に大量の紙吹雪を降らせて話題になりました。
紙吹雪の量は通常一曲ですと6~7kgが普通ですが、北島さんの場合は60~70kg、10倍位です。
北島さんが紅白を卒業されてからちょっとしばらく経つのですが、去年話を聞く機会がありましたが、あれは無くてはならないものだからありがろうと言われてやってて良かったなあと思います。
歌い難いとは笑いながら云われました。
基本的には特殊効果、私達は視覚効果がジャンルですが、自然現象を再現する、雪、雨、風、火事のシーンとかを疑似的に再現すると言うのが視覚の特殊効果です。
風の場合は見えませんが葉っぱ、埃、雪にスモークを加えたりしています。
最近は女性も多くなりました。
私は20年になりますが、私が入ったころはうちの会社では女性はいませんでした。
今は4割ぐらいは女性で、後2~3年後には半分以上は女性になるのではないかと思います。
高校卒業後、花火師になりたいと思っていたが、入って行ける世界ではないことが分かって、SF映画、アクション映画などが好きで、放送系の専門学校に行って、特殊効果を専門とする会社に入社することになりましたが、最初殆ど断られました。
兎に角試しに使ってほしいと言う事で、なんとか入れさせてもらいました。
入ったのはいいが、教えてくれる人はゼロでした。
見よう見まねで覚えてゆきました。
本来負けず嫌いなタイプで、考える間もないほど忙しさもあり、続けて来られました。
2年ぐらいたってから大きな番組を担当させてもらい、高評価を頂きました。
NHKホールでオペラでのバックに大きな火の炎を上げたいとの事で、ドライアイス、スモークとかを炎の様な形を作って吹きあげて、照明で色を載せてやると、炎っぽく見えるのではないかと、試行錯誤して炎の様に見せる事が出来ました。
これが大きな転機になりました。
ロケのときなどは、男性と一緒に雑魚寝したり、トイレも無かったり、色々ありました。
機材も重いので、大型旋風機なども100kgぐらいあります。
女性だから気付けることとか、銃で撃たれる側の精神的な状態に安心感を与えられるとか、細かい作業、話したりします。
特殊効果で一瞬主役になる時がある、お客さんが一瞬特殊効果に目が行く事があるが、ヒートアップする瞬間、その時には嬉しいです。
紅白歌合戦は始まる直前の独特の緊張感はあります。
紙吹雪は普通4~5種類ありますが、20×20mm角で透けて見えるほど薄い紙です。
丸、三角(歌舞伎は三角)もあります。
雪はこの世界では丸はないです、丸は落ち方が花びらに見えるんです。
桜吹雪、梅とか花弁を降らす時には丸を使います。
最近は桜は楕円形の形をしています。
形、素材を考えるのも特殊効果の一部ですが、このジャンルはやりつくしてしまっています。
親もこの仕事はどんなことをするのか今一理解していなかったです、最近ようやく理解するようになりました。
最近、一番気になるのはCGが主流になって来ていて、本物の様に見えますから。
映画だけでなく、TVの世界でも遜色なくなってきましたから、脅威です。
これからは加速すると思います。
そこにあるべきリアリティーはやっぱり私達みたいに特殊効果が実際現場で再現してこそ出る空気感は現場には絶対あるので、無くならないと思いますので、大切にしてゆきたいと思います。
特殊効果半分、CG半分という手法もあるので、共生と言う事もあると思います。
紅白の仕事もじわじわと始まっています。
神奈川県生まれ、45歳になります。
高校卒業後、放送系の専門学校を経て特殊効果を専門とする会社に入社、以来、NHKを中心に様々な番組で特殊効果を手掛けてきました。
大河ドラマや朝ドラ、連続TV小説の他、音楽番組や情報番組でもその手腕を発揮しています。
2005年の紅白歌合戦では「風雪流れ旅」を歌う北島三郎さんの舞台に大量の紙吹雪を降らせて話題になりました。
紙吹雪の量は通常一曲ですと6~7kgが普通ですが、北島さんの場合は60~70kg、10倍位です。
北島さんが紅白を卒業されてからちょっとしばらく経つのですが、去年話を聞く機会がありましたが、あれは無くてはならないものだからありがろうと言われてやってて良かったなあと思います。
歌い難いとは笑いながら云われました。
基本的には特殊効果、私達は視覚効果がジャンルですが、自然現象を再現する、雪、雨、風、火事のシーンとかを疑似的に再現すると言うのが視覚の特殊効果です。
風の場合は見えませんが葉っぱ、埃、雪にスモークを加えたりしています。
最近は女性も多くなりました。
私は20年になりますが、私が入ったころはうちの会社では女性はいませんでした。
今は4割ぐらいは女性で、後2~3年後には半分以上は女性になるのではないかと思います。
高校卒業後、花火師になりたいと思っていたが、入って行ける世界ではないことが分かって、SF映画、アクション映画などが好きで、放送系の専門学校に行って、特殊効果を専門とする会社に入社することになりましたが、最初殆ど断られました。
兎に角試しに使ってほしいと言う事で、なんとか入れさせてもらいました。
入ったのはいいが、教えてくれる人はゼロでした。
見よう見まねで覚えてゆきました。
本来負けず嫌いなタイプで、考える間もないほど忙しさもあり、続けて来られました。
2年ぐらいたってから大きな番組を担当させてもらい、高評価を頂きました。
NHKホールでオペラでのバックに大きな火の炎を上げたいとの事で、ドライアイス、スモークとかを炎の様な形を作って吹きあげて、照明で色を載せてやると、炎っぽく見えるのではないかと、試行錯誤して炎の様に見せる事が出来ました。
これが大きな転機になりました。
ロケのときなどは、男性と一緒に雑魚寝したり、トイレも無かったり、色々ありました。
機材も重いので、大型旋風機なども100kgぐらいあります。
女性だから気付けることとか、銃で撃たれる側の精神的な状態に安心感を与えられるとか、細かい作業、話したりします。
特殊効果で一瞬主役になる時がある、お客さんが一瞬特殊効果に目が行く事があるが、ヒートアップする瞬間、その時には嬉しいです。
紅白歌合戦は始まる直前の独特の緊張感はあります。
紙吹雪は普通4~5種類ありますが、20×20mm角で透けて見えるほど薄い紙です。
丸、三角(歌舞伎は三角)もあります。
雪はこの世界では丸はないです、丸は落ち方が花びらに見えるんです。
桜吹雪、梅とか花弁を降らす時には丸を使います。
最近は桜は楕円形の形をしています。
形、素材を考えるのも特殊効果の一部ですが、このジャンルはやりつくしてしまっています。
親もこの仕事はどんなことをするのか今一理解していなかったです、最近ようやく理解するようになりました。
最近、一番気になるのはCGが主流になって来ていて、本物の様に見えますから。
映画だけでなく、TVの世界でも遜色なくなってきましたから、脅威です。
これからは加速すると思います。
そこにあるべきリアリティーはやっぱり私達みたいに特殊効果が実際現場で再現してこそ出る空気感は現場には絶対あるので、無くならないと思いますので、大切にしてゆきたいと思います。
特殊効果半分、CG半分という手法もあるので、共生と言う事もあると思います。
紅白の仕事もじわじわと始まっています。
2016年11月30日水曜日
吉増剛造(詩人) ・詩の可能性への挑戦(2)(H28/6/3放送)
吉増剛造(詩人) ・詩の可能性への挑戦(2)(H28/6/3放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2016/06/2_22.htmlをご覧ください。
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2016/06/2_22.htmlをご覧ください。
2016年11月29日火曜日
吉増剛造(詩人) ・詩の可能性への挑戦(1)(H28/6/2放送)
吉増剛造(詩人) ・詩の可能性への挑戦(1)(H28/6/2放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2016/06/blog-post_21.htmlをご覧ください。
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2016/06/blog-post_21.htmlをご覧ください。
2016年11月28日月曜日
鈴木登紀子(料理研究家) ・食べることは生きること
鈴木登紀子(料理研究家) ・食べることは生きること
今年 11月14日に92歳の誕生日を迎えました。
「きょうの料理」や自宅の料理教室で季節を大切にした和食を教えています。
料理研究家としてTVに初めて出演したのは46歳の時、料理を教えるようなきっかけになったのは、鈴木さんの家庭料理がおいしいと近所に評判になったこと、いつしか自宅が教室になっていたそうです。
平成24年には第64回NHK放送文化賞を受賞、料理研究家としては3人目です。
家庭料理を通じて伝えたい和食の魅力、もてなしの心について伺います。
主人が91歳で逝ったので、私もと思っていましたが、今も生かされています。
「70年作り続けてきた私の味」 本を出版。
吉祥寺で現在教えています。
毎月、10日間料理教室を開いています。
教室は40年以上経つと思います。
札幌の方が一番遠くから来ます。
11月の献立、おせち料理、23品を半分ずつ2カ月に渡って行います。
おせちは日本の大事な行事で、今伝わっているもののおせちの節句、5大節句があって、元旦、3月3日の雛の節句、5月5日の端午の節句、7月7日の七夕の節句、9月9日の重陽の節句(菊の節句)、その中でも一番おせちは大きい行事だとおもいます。
季節を待ちわびて旬のものを頂くのは、日本の素晴らしい特徴の一つです。
菊見和え 菊の花が咲き乱れてきますが、南部八戸あたりは黄色い食用菊があり、山形あたりでは紫もある、自然のものなので体に優しい食べ物だと思います
お碗はすずき、蛇の目のしろうり、みょうが、青柚で香り付け、冷やし鉢は里芋、ニンジン、牛蒡、しろうり、干しシイタケ、エリンギ、いんげん、青柚、 アナゴの棒上げ(丸ごと揚げる)、箸休めはえのきだけ、 白滝のしぐれ煮、麦とろで御飯、いちじくのワイン蒸し。
カイセキは懐(懐石)と会う方(会席)と二つある、懐は禅から来ていて、禅を組んだ時に食べたり飲んだりできないので、お腹のむしがグーッとなるので、ちょっと虫を封じるために温かい石をおなかのところにあてたわけです、そしてその場を凌ぐ訳です、だから懐石料理は贅沢ではない。
会う方の会席は板前がここぞとばかりに御馳走を並べて大変な御馳走で全然違います。
家庭料理は煮込んでしまう様なイメージだが、綺麗にいくらでもできて味は変わりなくと言うのが私のモットーです。
子供のお母さんたちと知り合いになり、家に遊びに来た時に作って出したらおいしいと言う事になり、教えてほしいと言う事になり、それが料理教室の始まりです。
長女が小学校5年生の頃でした。
昔はよくお盆を使ったが、最近はお盆を知らない若い女性の方もいます。
飲みながら歩いている人もいますが、好きじゃないです。
NHKの料理番組「きょうの料理」の仕事を頂きましたが、46歳の時でした。
基本は家族の為、夫の為、暖かいご飯は食べたいと言っていましたので、蓋つきのどんぶりにご飯をいれて布巾に包んで炬燵にぶら下げていた。
私は青森県八戸で産まれました。
母は岩手県の生まれで、馬も泊まれる宿屋でした。
母の傍にいて酒の肴を作る姿を見ていたので、家事の学科は甲をいつもいただきました。
母からしつけもいろいろ学びました。
母からは何でも大事にしなさい、粗末にしてはいけない、丁寧にしなさい、静かにしなさいと良く言われていました。
第64回NHK放送文化賞をいただいた時には、母から「お前さまの分に過ぎる」と言われました。
丈にあったこと、どの様に身を処したらいいか、厳しかった。
おもてなし、母からはいつも相手を慮る(相手を立てる)、と言われました。
歯が丈夫だったことは、味見にも役に立ったと思います。(入れ歯とは味が違うようです)
子育てのころは、豆腐を売りに来る叔父さんが来たが、いつも買っていて、寄せ豆腐、昆布をしいて、しいたけあんをかけて、わさびをちょっと掛けて食べますが、又あれねと子供からは言われていました。(自分でいろいろ工夫をしました)
料理番組で、皿の持ち方、箸の持ち方、なっていないねといいました、先ず皿を持って、箸をもつ時には手先を動かして、口に運びやすい様にするとか、昔はだれでも知っていましたが。
先ず自分の国の大切なマナーを知って頂きたい。
食べることは生きること、精神、心、奥深いものがある。
相手を慮ると言うことは相手の健康も気使う、昔のいいことは伝えたい残しておきたいことはいっぱいあります。
優しい気持で暮らせたらいいんじゃないかと思います。
食べる事は生きること、生きるためには食べなくてはいけない、お腹が空いていると元気も出ないし思考力も鈍るので、自分にあった様な料理を食べ、食べすぎない。
今年 11月14日に92歳の誕生日を迎えました。
「きょうの料理」や自宅の料理教室で季節を大切にした和食を教えています。
料理研究家としてTVに初めて出演したのは46歳の時、料理を教えるようなきっかけになったのは、鈴木さんの家庭料理がおいしいと近所に評判になったこと、いつしか自宅が教室になっていたそうです。
平成24年には第64回NHK放送文化賞を受賞、料理研究家としては3人目です。
家庭料理を通じて伝えたい和食の魅力、もてなしの心について伺います。
主人が91歳で逝ったので、私もと思っていましたが、今も生かされています。
「70年作り続けてきた私の味」 本を出版。
吉祥寺で現在教えています。
毎月、10日間料理教室を開いています。
教室は40年以上経つと思います。
札幌の方が一番遠くから来ます。
11月の献立、おせち料理、23品を半分ずつ2カ月に渡って行います。
おせちは日本の大事な行事で、今伝わっているもののおせちの節句、5大節句があって、元旦、3月3日の雛の節句、5月5日の端午の節句、7月7日の七夕の節句、9月9日の重陽の節句(菊の節句)、その中でも一番おせちは大きい行事だとおもいます。
季節を待ちわびて旬のものを頂くのは、日本の素晴らしい特徴の一つです。
菊見和え 菊の花が咲き乱れてきますが、南部八戸あたりは黄色い食用菊があり、山形あたりでは紫もある、自然のものなので体に優しい食べ物だと思います
お碗はすずき、蛇の目のしろうり、みょうが、青柚で香り付け、冷やし鉢は里芋、ニンジン、牛蒡、しろうり、干しシイタケ、エリンギ、いんげん、青柚、 アナゴの棒上げ(丸ごと揚げる)、箸休めはえのきだけ、 白滝のしぐれ煮、麦とろで御飯、いちじくのワイン蒸し。
カイセキは懐(懐石)と会う方(会席)と二つある、懐は禅から来ていて、禅を組んだ時に食べたり飲んだりできないので、お腹のむしがグーッとなるので、ちょっと虫を封じるために温かい石をおなかのところにあてたわけです、そしてその場を凌ぐ訳です、だから懐石料理は贅沢ではない。
会う方の会席は板前がここぞとばかりに御馳走を並べて大変な御馳走で全然違います。
家庭料理は煮込んでしまう様なイメージだが、綺麗にいくらでもできて味は変わりなくと言うのが私のモットーです。
子供のお母さんたちと知り合いになり、家に遊びに来た時に作って出したらおいしいと言う事になり、教えてほしいと言う事になり、それが料理教室の始まりです。
長女が小学校5年生の頃でした。
昔はよくお盆を使ったが、最近はお盆を知らない若い女性の方もいます。
飲みながら歩いている人もいますが、好きじゃないです。
NHKの料理番組「きょうの料理」の仕事を頂きましたが、46歳の時でした。
基本は家族の為、夫の為、暖かいご飯は食べたいと言っていましたので、蓋つきのどんぶりにご飯をいれて布巾に包んで炬燵にぶら下げていた。
私は青森県八戸で産まれました。
母は岩手県の生まれで、馬も泊まれる宿屋でした。
母の傍にいて酒の肴を作る姿を見ていたので、家事の学科は甲をいつもいただきました。
母からしつけもいろいろ学びました。
母からは何でも大事にしなさい、粗末にしてはいけない、丁寧にしなさい、静かにしなさいと良く言われていました。
第64回NHK放送文化賞をいただいた時には、母から「お前さまの分に過ぎる」と言われました。
丈にあったこと、どの様に身を処したらいいか、厳しかった。
おもてなし、母からはいつも相手を慮る(相手を立てる)、と言われました。
歯が丈夫だったことは、味見にも役に立ったと思います。(入れ歯とは味が違うようです)
子育てのころは、豆腐を売りに来る叔父さんが来たが、いつも買っていて、寄せ豆腐、昆布をしいて、しいたけあんをかけて、わさびをちょっと掛けて食べますが、又あれねと子供からは言われていました。(自分でいろいろ工夫をしました)
料理番組で、皿の持ち方、箸の持ち方、なっていないねといいました、先ず皿を持って、箸をもつ時には手先を動かして、口に運びやすい様にするとか、昔はだれでも知っていましたが。
先ず自分の国の大切なマナーを知って頂きたい。
食べることは生きること、精神、心、奥深いものがある。
相手を慮ると言うことは相手の健康も気使う、昔のいいことは伝えたい残しておきたいことはいっぱいあります。
優しい気持で暮らせたらいいんじゃないかと思います。
食べる事は生きること、生きるためには食べなくてはいけない、お腹が空いていると元気も出ないし思考力も鈍るので、自分にあった様な料理を食べ、食べすぎない。
2016年11月27日日曜日
奥田佳道(音楽評論) ・奥田佳道の”クラシックの遺伝子"
奥田佳道(音楽評論) ・奥田佳道の”クラシックの遺伝子"
*オペラ ビゼーの歌劇カルメンから「恋は野の鳥」 メゾソプラノ:マルヤーナ・リポフシェク ミュンヘン放送管弦楽団。
カルメンの音楽を今日は紹介。
ヨーロッパに絶大な影響を与えている。 「恋は野の鳥」をメロディーを使ってフルート、バイオリンの曲を描いたり、即興で演奏するなどしました。
舞台が南スペイン、パリ、ロンドン、ウイーンのお客さんにとって異国情緒が皆さんの気持ちを旅へ、昔の恋にいざなったり、男女の思いを描いたり全ての人々にカルメンの音楽が受け継がれていったんでしょう。
ビゼーの歌劇カルメンは1875年にパリで初演、ヨーロッパ中で熱狂を呼びました。
*ビゼー 組曲 闘牛士 (トレアドール)
ヨハンシュトラウス兄弟 エドゥアルト・シュトラウスがカルメンの有名なメロディーをメドレーにして舞踏会で踊るダンスナンバー「カドリーユ」という音楽にしました。
*カルメン カドリーユ 作品134 エドゥアルト・シュトラウス:作曲
カドリーユは5つ種類の違う音楽をつなげたのが基本だが、それを繋ぐ音楽はエドゥアルト・シュトラウスがダンス音楽を書いている。
ホロヴィッツ、ピアノの超絶技巧 カルメン変奏曲を書いている。
ホロヴィッツを尊敬する若いピアニスト中国のユジャ・ワン
*カルメンの主題による変奏曲 ホワイトハウスバージョン 編曲:ホロヴィッツ ピアノ:ユジャ・ワン
バレリーナ、マイヤ・プリセツカヤの夫、ロディオン・シチェドリンが妻への為にカルメンの音楽をバレエの音楽に編曲しました。
闘牛士のメロディー 中途で消えるが。(独特の魔術 遊び心)
*カルメン組曲から闘牛士の歌 編曲:ロディオン・シチェドリン
ビゼーのオペラ「真珠採り」 舞台はセイロン島 レイラ、美しい尼僧と漁師ナディールの禁断の愛がテーマ
*「真珠採り」 のタンゴ
*オペラ ビゼーの歌劇カルメンから「恋は野の鳥」 メゾソプラノ:マルヤーナ・リポフシェク ミュンヘン放送管弦楽団。
カルメンの音楽を今日は紹介。
ヨーロッパに絶大な影響を与えている。 「恋は野の鳥」をメロディーを使ってフルート、バイオリンの曲を描いたり、即興で演奏するなどしました。
舞台が南スペイン、パリ、ロンドン、ウイーンのお客さんにとって異国情緒が皆さんの気持ちを旅へ、昔の恋にいざなったり、男女の思いを描いたり全ての人々にカルメンの音楽が受け継がれていったんでしょう。
ビゼーの歌劇カルメンは1875年にパリで初演、ヨーロッパ中で熱狂を呼びました。
*ビゼー 組曲 闘牛士 (トレアドール)
ヨハンシュトラウス兄弟 エドゥアルト・シュトラウスがカルメンの有名なメロディーをメドレーにして舞踏会で踊るダンスナンバー「カドリーユ」という音楽にしました。
*カルメン カドリーユ 作品134 エドゥアルト・シュトラウス:作曲
カドリーユは5つ種類の違う音楽をつなげたのが基本だが、それを繋ぐ音楽はエドゥアルト・シュトラウスがダンス音楽を書いている。
ホロヴィッツ、ピアノの超絶技巧 カルメン変奏曲を書いている。
ホロヴィッツを尊敬する若いピアニスト中国のユジャ・ワン
*カルメンの主題による変奏曲 ホワイトハウスバージョン 編曲:ホロヴィッツ ピアノ:ユジャ・ワン
バレリーナ、マイヤ・プリセツカヤの夫、ロディオン・シチェドリンが妻への為にカルメンの音楽をバレエの音楽に編曲しました。
闘牛士のメロディー 中途で消えるが。(独特の魔術 遊び心)
*カルメン組曲から闘牛士の歌 編曲:ロディオン・シチェドリン
ビゼーのオペラ「真珠採り」 舞台はセイロン島 レイラ、美しい尼僧と漁師ナディールの禁断の愛がテーマ
*「真珠採り」 のタンゴ
2016年11月26日土曜日
安田享平(盲人マラソン日本代表コーチ) ・人間の可能性
安田享平(盲人マラソン日本代表コーチ) ・人間の可能性
千葉県千葉県君津市出身の49歳、若いころはマラソンランナーとして活躍し、毎年元日に行われる
ニューイヤー駅伝で走ったこともあると言う方です。
安田さん、今は目の不自由な人がマラソンに取り組むのを支える盲人マラソンの日本代表コーチをされていました。
パラリンピックには1996年のアトランタ大会から関わり、今年行われたリオデジャネイロ大会でも現地に赴いて女子選手銀メダル、男子選手銅メダルをもたらしました、
人間の持っている力と可能性、そして私達はそこから何を学びどんなことが出来るのかお話しいただきました。
20年前、走っていました。
今マラソンに出ている人達は小学校中学校から走っているエリートですが、当時はそうではありませんでした。
私は野球をやっていまして、陸上部は有りませんでした。
長距離は得意でしたが、嫌いでした。
段々真面目に走りだして、君津市の駅伝大会に出ることになり、アンカーを走り、優勝して、区間賞も取り、初めて表彰をいただきました。
高校に行って陸上部に入って、インターハイが終わった後、高校3年生の夏に記録が出だしてどうしようかと思ったのですが、続けようと思いました。
新日本製鉄に入社して、3年記録がでなくて、4年目に記録が伸び出して、青東駅伝(青森-東京駅伝 全国規模の駅伝で今は無くなってしまった)に千葉県代表として出たりするうちに、自分の方が頑張っているのではないかと思うようになりました。
君原さんとかがいるチームに声をかけてもらえないかと、何とか合宿に参加させてもらって、初マラソンに出ることにもなりました。
オール新日鉄の合宿などにも参加して、順天堂大学でも練習をさせてもらう様になりました。
選手に求められる資質、
①おたくに成れ(一点集中力)、
②出る杭は打たれるが出過ぎると打たれないが、物凄く孤独になるので忍耐力が必要になる、
③継続は力なり。
パラリンピック
陸上競技、各障害ごとに別れている。
25クラスある。
脳性まひの車椅子は二つあり、脳性まひでも立てる人のクラスは4クラス有ります、低身長の人、足を切断した人とかにいろいろ別れています。
視覚障害では、3つに別れていて、T(トラック)-11,12,13 数字が大きいほど軽傷で、11は全盲クラスで伴走者が必要、12は手の形が判る程度から視力が0.03、13は視野が直径10度、弱視。
クラス別けは公認の資格が必要でその人たちが決定します。(平等にする)
100mを10秒5台で走る人がいて、本来は伴奏するのにタイム差が1秒無いといけないと言われているが9秒5台はいないので10秒2とか3の人がガイドをやります。
1500mは全盲で3分台で走ります。
日本盲人マラソン協会設立が1984年です。
初めて視覚障害者マラソンでパラリンピックに出場したのがソウル大会(1988年)
29歳の時に、突然アトランタ(パラリンピック)に行くように言われました。
柳川春己さんがバルセロナで日本代表になったが、伴走者が痙攣して失格となってしまいました。
伴走者は2時間30分台の方でした。
柳川さんが2時間50分ぐらいで走っていて、20分台の人でないといけないと言う事で、当時日本では100人ぐらいでした。
人がいなくて困っている時に私が目に留っていく事になりました。
最初に私は何にもできませんと柳川さんに謝って、手引きの仕方などを教えてもらって、群馬に行きました。
柳川さんがお風呂に入っていて、石鹸が無いと言う事で、コンビニに買いに行って、渡そうと思ったら、真っ暗な中で鼻歌を歌ってシャワーを浴びていました。
ロープを持って走ることは知らなくて何回やっても出来なくて、手を繋いで走って日本新で走りました。
柳川さんは日本人初の金メダルを取り、帰ってきました。
4年後は連覇の可能性もあるので、その時の一番いい人を選んでほしいと言ったのですがシドニーにも行く事になり、アテネで高橋勇市さんが又金メダルを取りまして、この時は私が一緒に走った福原良英さんが4位で、保科清さんが5位で1,4,5位という黄金時代でした。
国としてパラリンピックに力を入れようと動き出したのは実は2005年からでした。
これまでは自費、自腹、有給休暇、欠勤などで対応してやっていました。
オリンピックとパラリンピックが正式に一緒になったのは、2008年の北京からです。
その結果として商業主義の流れが入ってきまして、クラス別の100mの決勝がいくつもあっても駄目なので削って行く方向になりました。
盲人マラソンは真ん中の弱視のクラスに統合されて、全盲のクラスが無くなりました。
ルールは障害の重い選手は出てもいいことになり、その結果惨敗でした。
2008年監督で付いて行きましたが、16,19,21位で惨敗でした。
ここで始めてチームとして合宿するようになり、ロンドンでは4,5,7位となりました。
和田選手、高橋選手は全盲で5位、7位です。(全盲では1,2位の成績です)
リオでは銀、銅メダルという事になりました。
リオでは当日37度になりましたが、事細かく戦術を立ていてその通りに実行ました。
今は東京を目指して頑張っています。
指導者は必要なのか、上を目指すために練習量が増えていきます。
私は走る時で年間1万km、走る月で1000km越える様なことを10年間やってきました。
練習も強い人とやったりしますが、試合は結果が出ません、身の丈を越えてしまって駄目になる。
休めない、怪我しても駄目になるのではないかと、恐怖との戦いになります。
体と心に有する指導者が必要ではないかと思います
今は情報過多、色んな事が直ぐ判るが、自分の体なのに人に頼ってしまう。
その結果どうしたらいいのか判らなくなってしまうので、ぶれない指導者が必要。
指導者は①洞察力、②現場力、③行動力が必要。
強化、育成する壺
①意識改革(選手を鼓舞する)②自己記録の更新(選手に寄り添う)③チーム力の向上(陸上もチーム)
特に③は重要
a、年間を通じて安定した練習会をする、切磋琢磨
b、強化合宿の実施(一緒に練習して一緒に食べる、何を考えているか判る)
c、協力者の育成確保(次世代)
障害者スポーツとは、何かを考えてほしい。
①企業からの理解と支援とは? 社員にするの契約社員にするの?
②職場の受け入れた時のハード面、ソフト面どうなの?
③介助してくれる人達に対する支援はどうするの?
大学、学校、地域からの理解、支援は
①学校教育でパラリンピック、パラスポーツをどうやって伝えるか?
②指導者養成、普及活動はどうするか?
③部活動、どうするか?
④地域からの理解支援をどうするか?
⑤地域と共存するってどうするのか?
「障害は個性である、失った機能を数えるな、残った機能を最大限に生かせ(グットマン博士の言葉)
日本に約障害者は788万人いると言われる、1/17人が障害者です。(多いと思うか少ないと思うか)
「何ができないのではなく、何ができるかを見つけ出せ。」
ルールや道具を工夫することで、一緒にスポーツを楽しめる、これは大事なことです。
こういう事で人間の可能性を引き出せる。
物事に挑戦したり、目標を達成する事に年齢、性別は関係ない、ということ実は障害者スポーツは実践している。
今からでも挑戦はできる。
①スポーツは人と人を結びつける、誰とでも普通に接する。
②障害者スポーツを見て感動する、これは大事です。
③健康体で有れば何でもできる、そういう事に感謝を持つ。
④道具、ルールなどを工夫して共に生きる。(共生)
千葉県千葉県君津市出身の49歳、若いころはマラソンランナーとして活躍し、毎年元日に行われる
ニューイヤー駅伝で走ったこともあると言う方です。
安田さん、今は目の不自由な人がマラソンに取り組むのを支える盲人マラソンの日本代表コーチをされていました。
パラリンピックには1996年のアトランタ大会から関わり、今年行われたリオデジャネイロ大会でも現地に赴いて女子選手銀メダル、男子選手銅メダルをもたらしました、
人間の持っている力と可能性、そして私達はそこから何を学びどんなことが出来るのかお話しいただきました。
20年前、走っていました。
今マラソンに出ている人達は小学校中学校から走っているエリートですが、当時はそうではありませんでした。
私は野球をやっていまして、陸上部は有りませんでした。
長距離は得意でしたが、嫌いでした。
段々真面目に走りだして、君津市の駅伝大会に出ることになり、アンカーを走り、優勝して、区間賞も取り、初めて表彰をいただきました。
高校に行って陸上部に入って、インターハイが終わった後、高校3年生の夏に記録が出だしてどうしようかと思ったのですが、続けようと思いました。
新日本製鉄に入社して、3年記録がでなくて、4年目に記録が伸び出して、青東駅伝(青森-東京駅伝 全国規模の駅伝で今は無くなってしまった)に千葉県代表として出たりするうちに、自分の方が頑張っているのではないかと思うようになりました。
君原さんとかがいるチームに声をかけてもらえないかと、何とか合宿に参加させてもらって、初マラソンに出ることにもなりました。
オール新日鉄の合宿などにも参加して、順天堂大学でも練習をさせてもらう様になりました。
選手に求められる資質、
①おたくに成れ(一点集中力)、
②出る杭は打たれるが出過ぎると打たれないが、物凄く孤独になるので忍耐力が必要になる、
③継続は力なり。
パラリンピック
陸上競技、各障害ごとに別れている。
25クラスある。
脳性まひの車椅子は二つあり、脳性まひでも立てる人のクラスは4クラス有ります、低身長の人、足を切断した人とかにいろいろ別れています。
視覚障害では、3つに別れていて、T(トラック)-11,12,13 数字が大きいほど軽傷で、11は全盲クラスで伴走者が必要、12は手の形が判る程度から視力が0.03、13は視野が直径10度、弱視。
クラス別けは公認の資格が必要でその人たちが決定します。(平等にする)
100mを10秒5台で走る人がいて、本来は伴奏するのにタイム差が1秒無いといけないと言われているが9秒5台はいないので10秒2とか3の人がガイドをやります。
1500mは全盲で3分台で走ります。
日本盲人マラソン協会設立が1984年です。
初めて視覚障害者マラソンでパラリンピックに出場したのがソウル大会(1988年)
29歳の時に、突然アトランタ(パラリンピック)に行くように言われました。
柳川春己さんがバルセロナで日本代表になったが、伴走者が痙攣して失格となってしまいました。
伴走者は2時間30分台の方でした。
柳川さんが2時間50分ぐらいで走っていて、20分台の人でないといけないと言う事で、当時日本では100人ぐらいでした。
人がいなくて困っている時に私が目に留っていく事になりました。
最初に私は何にもできませんと柳川さんに謝って、手引きの仕方などを教えてもらって、群馬に行きました。
柳川さんがお風呂に入っていて、石鹸が無いと言う事で、コンビニに買いに行って、渡そうと思ったら、真っ暗な中で鼻歌を歌ってシャワーを浴びていました。
ロープを持って走ることは知らなくて何回やっても出来なくて、手を繋いで走って日本新で走りました。
柳川さんは日本人初の金メダルを取り、帰ってきました。
4年後は連覇の可能性もあるので、その時の一番いい人を選んでほしいと言ったのですがシドニーにも行く事になり、アテネで高橋勇市さんが又金メダルを取りまして、この時は私が一緒に走った福原良英さんが4位で、保科清さんが5位で1,4,5位という黄金時代でした。
国としてパラリンピックに力を入れようと動き出したのは実は2005年からでした。
これまでは自費、自腹、有給休暇、欠勤などで対応してやっていました。
オリンピックとパラリンピックが正式に一緒になったのは、2008年の北京からです。
その結果として商業主義の流れが入ってきまして、クラス別の100mの決勝がいくつもあっても駄目なので削って行く方向になりました。
盲人マラソンは真ん中の弱視のクラスに統合されて、全盲のクラスが無くなりました。
ルールは障害の重い選手は出てもいいことになり、その結果惨敗でした。
2008年監督で付いて行きましたが、16,19,21位で惨敗でした。
ここで始めてチームとして合宿するようになり、ロンドンでは4,5,7位となりました。
和田選手、高橋選手は全盲で5位、7位です。(全盲では1,2位の成績です)
リオでは銀、銅メダルという事になりました。
リオでは当日37度になりましたが、事細かく戦術を立ていてその通りに実行ました。
今は東京を目指して頑張っています。
指導者は必要なのか、上を目指すために練習量が増えていきます。
私は走る時で年間1万km、走る月で1000km越える様なことを10年間やってきました。
練習も強い人とやったりしますが、試合は結果が出ません、身の丈を越えてしまって駄目になる。
休めない、怪我しても駄目になるのではないかと、恐怖との戦いになります。
体と心に有する指導者が必要ではないかと思います
今は情報過多、色んな事が直ぐ判るが、自分の体なのに人に頼ってしまう。
その結果どうしたらいいのか判らなくなってしまうので、ぶれない指導者が必要。
指導者は①洞察力、②現場力、③行動力が必要。
強化、育成する壺
①意識改革(選手を鼓舞する)②自己記録の更新(選手に寄り添う)③チーム力の向上(陸上もチーム)
特に③は重要
a、年間を通じて安定した練習会をする、切磋琢磨
b、強化合宿の実施(一緒に練習して一緒に食べる、何を考えているか判る)
c、協力者の育成確保(次世代)
障害者スポーツとは、何かを考えてほしい。
①企業からの理解と支援とは? 社員にするの契約社員にするの?
②職場の受け入れた時のハード面、ソフト面どうなの?
③介助してくれる人達に対する支援はどうするの?
大学、学校、地域からの理解、支援は
①学校教育でパラリンピック、パラスポーツをどうやって伝えるか?
②指導者養成、普及活動はどうするか?
③部活動、どうするか?
④地域からの理解支援をどうするか?
⑤地域と共存するってどうするのか?
「障害は個性である、失った機能を数えるな、残った機能を最大限に生かせ(グットマン博士の言葉)
日本に約障害者は788万人いると言われる、1/17人が障害者です。(多いと思うか少ないと思うか)
「何ができないのではなく、何ができるかを見つけ出せ。」
ルールや道具を工夫することで、一緒にスポーツを楽しめる、これは大事なことです。
こういう事で人間の可能性を引き出せる。
物事に挑戦したり、目標を達成する事に年齢、性別は関係ない、ということ実は障害者スポーツは実践している。
今からでも挑戦はできる。
①スポーツは人と人を結びつける、誰とでも普通に接する。
②障害者スポーツを見て感動する、これは大事です。
③健康体で有れば何でもできる、そういう事に感謝を持つ。
④道具、ルールなどを工夫して共に生きる。(共生)
2016年11月25日金曜日
内野政光(山岳救助隊元隊長) ・山岳救助 50年の思い
内野政光(岐阜県北飛(ホクヒ)山岳救助隊元隊長 )・山岳救助 50年の思い
72歳 今年8月11日が山の日として祝日になり、シニアの方々、おしゃれな山ガールも一段と増え、山はにぎわいました。
ちょっとした不注意から怪我をしたり、道に迷ったり今年は25件ほどの救助の要請があったそうです。
内野さんは救助隊に20歳過ぎから、加わり多くの遭難に立ち会い残された家族の悲しみを見てきました。
山岳救助 50年の思いについて伺いました。
35年間山岳救助をしてきました。
ひいお爺さんが内野常次郎という山案内人をしていて、山好きでした。
上条嘉門次(かもんじ)に弟子入り、「上高地の常さん」とも「上高地の主」ともよばれ,死ぬ直前まで北アルプスの山案内をつづけた。
ウォルター・ウェストン夫妻を北アルプスへ案内した。
常次郎に顔が似てきたと言われますし、酒が好きだと言う事も似ています。
小学校2年生の時に、常次郎が上高地で脳梗塞で倒れて、実家に戻りなさいと言う事で、みんなで大八車でひっぱてきたことを覚えています。
当時の大正池は大きくて、枯れた木が湖畔にあり、ボートが7~8月はびっしりでした、今は1/10ぐらいになってしまっています。
焼岳をはさんで岐阜県と長野県の県境になります。
最後の7年間は5代目の隊長として任命されましたが、責任は重大でした。
「鳥も通わぬ滝谷」と云われた滝谷 昔はヘリも近づく事はできなくて、兎に角難所が多かったが何回も行きました。
殆どが遺体収容でした。
当時先輩の後について行って技術を身につけていきました。
遺体を親に合わせると、親がしがみついて泣いて泣いて、それを見ながら自分たちも貰い泣きをしました。
その時の状況の説明や、ちゃんとした形で渡してやらないといけないと思いました。
隊長になってからは、隊員の方の家族から、こんな時につれて行って大丈夫なのかとかの電話が家に入ってきたりして、妻も色々苦労があったようで、隊長を辞めると判った時は、わーっとうれしいと言っていました。
辞めてから20年経ちました。
山にはベテランなんていない、いつも初心でいかないと、とんでもないことになると言うのが、僕の信念でした。
山の気候はその都度その都度違う。
海外の山にも登ってきた様な人でも、アイゼンをちょっとはずさなかったために岩に引っかけてしまって、亡くなった方もいました。(甘く見てはずす手間を省いてしまっていたと思う)
岩場は昇りは上手く昇るが、下りが難しい、みんな下りで失敗している。
隊員は結成以来、二重遭難を起こしたことはないです。
中高年の人が若い時の気持ちで昇り、無理をして登って、谷底に落ちてしまうとか、高齢者の事故が多いです。
体力が落ちていることをなかなか見抜けない。
山ガール、女性が増えると男性も増える、逆はないが。
最近は半ズボンにタイツと言うのがはやって、私も3年前ぐらいに買いまいたが、そこそこに快適です。
昔はニッカポッカ、長い靴下、革の靴が登山スタイルでしたが。
素材は随分良くなってきました。(衣類、テントなど道具を含めて)
靴には気をつけないといけない、常に手入れを怠らない。
最近はヘルメット着用が増えてきました。(御嶽山噴火以来)
単独で一人の青年が山の計画をして、天候が悪かったら引き返す様に注意をしていましたが、梅雨が明けかけた時でしたが、1週間の計画を立てて、1泊したが天候が悪くなると言う事で止めた人もいたが、当面の頂上まで行って昼には山小屋に戻って来て、ロープウエーにむかったが、母親から1週間後、息子が帰ってこないという連絡が警察にあった。
登山届は出ていなかった、山小屋には来ていたと言う確認は取れた。
どこかで迷っているらしいという事になった。
下山して当日旅館に泊まる電話(山小屋から電話をしていた)をしていたが、宿には帰ってこなかった。
谷に迷ってしまった様で、2日目の時に滝の所で食べていることが分かった。(時間はたっていることが分かった)
滝壺に入って亡くなっていた。
ズボンの中にメモが入っていて、降りてくるときに迷ってしまって、雨と風が強くて何ともならない、頑張るけどもしかその時は、今まで育ててくれてありがとう、という事が書いてありました。
撤退することを何故母親に云わなかったのか、連絡していれば間にあったと思う。
登山届は絶対に出さないといけない、止めたことをどこかに伝えておかないといけない。
2日間は生きていたので、残念でならない。
遭難対策協議会の中の救助部長の役職はもらっていて、経験談を語りながら、山を昇る時は初心でなければいけないと、啓発活動をしています。
孫が山が好きで、6年生ごろまではずーっと付いてきていました。
将来は救助隊になるんだと、作文に書いてそれが全国作文コンクールで最優秀賞を取りました。
文部大臣賞ももらいました。
今は就職して山には行っていませんが。
生きて救助できた時には、やって良かったなあとつくづく思います。
72歳 今年8月11日が山の日として祝日になり、シニアの方々、おしゃれな山ガールも一段と増え、山はにぎわいました。
ちょっとした不注意から怪我をしたり、道に迷ったり今年は25件ほどの救助の要請があったそうです。
内野さんは救助隊に20歳過ぎから、加わり多くの遭難に立ち会い残された家族の悲しみを見てきました。
山岳救助 50年の思いについて伺いました。
35年間山岳救助をしてきました。
ひいお爺さんが内野常次郎という山案内人をしていて、山好きでした。
上条嘉門次(かもんじ)に弟子入り、「上高地の常さん」とも「上高地の主」ともよばれ,死ぬ直前まで北アルプスの山案内をつづけた。
ウォルター・ウェストン夫妻を北アルプスへ案内した。
常次郎に顔が似てきたと言われますし、酒が好きだと言う事も似ています。
小学校2年生の時に、常次郎が上高地で脳梗塞で倒れて、実家に戻りなさいと言う事で、みんなで大八車でひっぱてきたことを覚えています。
当時の大正池は大きくて、枯れた木が湖畔にあり、ボートが7~8月はびっしりでした、今は1/10ぐらいになってしまっています。
焼岳をはさんで岐阜県と長野県の県境になります。
最後の7年間は5代目の隊長として任命されましたが、責任は重大でした。
「鳥も通わぬ滝谷」と云われた滝谷 昔はヘリも近づく事はできなくて、兎に角難所が多かったが何回も行きました。
殆どが遺体収容でした。
当時先輩の後について行って技術を身につけていきました。
遺体を親に合わせると、親がしがみついて泣いて泣いて、それを見ながら自分たちも貰い泣きをしました。
その時の状況の説明や、ちゃんとした形で渡してやらないといけないと思いました。
隊長になってからは、隊員の方の家族から、こんな時につれて行って大丈夫なのかとかの電話が家に入ってきたりして、妻も色々苦労があったようで、隊長を辞めると判った時は、わーっとうれしいと言っていました。
辞めてから20年経ちました。
山にはベテランなんていない、いつも初心でいかないと、とんでもないことになると言うのが、僕の信念でした。
山の気候はその都度その都度違う。
海外の山にも登ってきた様な人でも、アイゼンをちょっとはずさなかったために岩に引っかけてしまって、亡くなった方もいました。(甘く見てはずす手間を省いてしまっていたと思う)
岩場は昇りは上手く昇るが、下りが難しい、みんな下りで失敗している。
隊員は結成以来、二重遭難を起こしたことはないです。
中高年の人が若い時の気持ちで昇り、無理をして登って、谷底に落ちてしまうとか、高齢者の事故が多いです。
体力が落ちていることをなかなか見抜けない。
山ガール、女性が増えると男性も増える、逆はないが。
最近は半ズボンにタイツと言うのがはやって、私も3年前ぐらいに買いまいたが、そこそこに快適です。
昔はニッカポッカ、長い靴下、革の靴が登山スタイルでしたが。
素材は随分良くなってきました。(衣類、テントなど道具を含めて)
靴には気をつけないといけない、常に手入れを怠らない。
最近はヘルメット着用が増えてきました。(御嶽山噴火以来)
単独で一人の青年が山の計画をして、天候が悪かったら引き返す様に注意をしていましたが、梅雨が明けかけた時でしたが、1週間の計画を立てて、1泊したが天候が悪くなると言う事で止めた人もいたが、当面の頂上まで行って昼には山小屋に戻って来て、ロープウエーにむかったが、母親から1週間後、息子が帰ってこないという連絡が警察にあった。
登山届は出ていなかった、山小屋には来ていたと言う確認は取れた。
どこかで迷っているらしいという事になった。
下山して当日旅館に泊まる電話(山小屋から電話をしていた)をしていたが、宿には帰ってこなかった。
谷に迷ってしまった様で、2日目の時に滝の所で食べていることが分かった。(時間はたっていることが分かった)
滝壺に入って亡くなっていた。
ズボンの中にメモが入っていて、降りてくるときに迷ってしまって、雨と風が強くて何ともならない、頑張るけどもしかその時は、今まで育ててくれてありがとう、という事が書いてありました。
撤退することを何故母親に云わなかったのか、連絡していれば間にあったと思う。
登山届は絶対に出さないといけない、止めたことをどこかに伝えておかないといけない。
2日間は生きていたので、残念でならない。
遭難対策協議会の中の救助部長の役職はもらっていて、経験談を語りながら、山を昇る時は初心でなければいけないと、啓発活動をしています。
孫が山が好きで、6年生ごろまではずーっと付いてきていました。
将来は救助隊になるんだと、作文に書いてそれが全国作文コンクールで最優秀賞を取りました。
文部大臣賞ももらいました。
今は就職して山には行っていませんが。
生きて救助できた時には、やって良かったなあとつくづく思います。
2016年11月24日木曜日
市原美穂(ホスピス宮崎理事長) ・看取りの文化を地域に
市原美穂(NPOホームホスピス宮崎理事長) ・看取りの文化を地域に
NPOが運営しているのは重い病気や認知症などを抱えた人々のついのすみかとなることを指して作られた「かあさんの家」という施設です。
人生の最後に行き場を失った人や家で介護しきれず追いつめられる家族の思いを受け、その人が望む日常を丁寧に暮らしていける様サポートしています。
その先には最後の日をみんなで迎える地域でも看取りがあると言います。
老いの暮らしから看取りまでを支える地域コミュニティーの大切さを伺います。
一番最初 、開いた時は癌で高齢の方が多かったんですが、この頃は医療依存度が高い人、介護度も重い方が増えています。
認知症の方もコミュニケーションが取れない様な方が多いです。
寝たきりというわけではないです。
入居者5名が一つのグループ、普通の民家を使っているので、5人しか入れなかった、2人昼間はヘルパーが来て、夜は夜勤でヘルパーが一人来て、5~6人が二交代制でスタッフが24時間サポートしています。
高齢者にとって生活の機能が阻害する要因に空間、環境が大きいです、それがストレスになって混乱したりうろうろすると言う、問題行動があります。
「かあさんの家」に来ると、自分の家と殆ど変わらない環境ですが、自分のテリトリーだけではない。
認知症で幻覚がでる方がいますが、施設の中で夜中じゅう騒いで動きまわった方がいて、家では見られませんという方でした。
85歳ぐらいのその方をお受けした時に、家では座敷に布団を敷いていたと言う事でベッドではなく布団にしました。
スタッフを臨時に付けて、1週間経ったら落ちつかれました。(ここは自分の家だと言う居場所を感じたんだと思います)
家には椅子があると言う事で、椅子を置いたら日中ずーっと座ってにこにこ過ごす様になりました。
胃瘻(いろう)の方、入居した方で5人の胃瘻(いろう)を外せましたが外せない方もいました。
ちょっと食べられなくなった人に胃瘻(いろう)を着けっぱなしにすると、食べられなくなる喉になってしまうので、なるべく早く外すと言う事をします。
しゃべったり歌ったりするようにして、安全に食べられるように工夫しながらやっていきます。
五感を働かせるので、食べることは、脳も活性化するのではないかと思います。
食べることは、生きる意欲を取り戻せると思います。
家族は親には出来るだけ生きていてほしいが、本人は体重が落ちていって、言葉が少なくなったりしてきたときに、家族は心配になるが、私たちも一緒に揺れ動き寄り添う訳です。
私が言うことは、どなたも皆さん限界、到着点があります、と言います、でもそれは順番であり娘さんより早い、到着点までをどうお母さんに過ごしてもらうかが大事だと話します。
到着点があると言う事を考えたことが無いと言う方が結構います。
入居されてしばらくすると皆さん元気になられます。
もうちょっとここで生きていてもいいかなと思うのかと思います。
最終的には家族も本人もそうですが、どこかで覚悟をされます、そうすると納得ができると思います。
その方が生きてきた様に、その人の人生の考え方、行動の処し方と関連してくるような気がします。
生そのものが自分の思い通りにならない、誕生、生きていること。
今生きていることが意味ある様にする手助けはいっぱいある様な気がする。
命も、あの人こんなふうにして生きて逝かれたね、という事をどれだけ周りの人の心の中に生き続けて行くかなと思うんです。
最後の時はとても残された家族にとっては大事なんです。
家族が納得するには、多分本人が納得させるんです。
「順番なんですね」と娘さんがお母さんの横で寄り添って言いましたが、娘さんが親の息使いと一緒に呼吸をしていて、これがもしかしたら寄り添う事なのかなあと、その時思いました。
娘さんはお母さんの息使いを聞きながら納得して逝ったんだと思いますが、それはお母さんが多分伝えたんだと思います。(人が人を送ることなんだと思います)
そこに至るまでにはいろんなプロセスがある。
口があかないとか、少しづつ弱ってゆく、人が生まれて亡くなってゆく人間としてのプログラムされている事なんではないかと思っていますが、そうなってゆくと息使いなども静かなんです、それを横で見ている家族がこういう事なんだと言う事が判っていく。
子供達が臨終の場から離されているが、小さいからこそ、老いて亡くなってゆくという事を体験すると言うことはとても大きい様な気がします。
幼稚園の子がいて、「今からおじいちゃんは空に昇ってゆくから、御見送りしよう」と言ったら、「どうしてゆくの?」と聞いたので、お爺さんのところへつれていってたら、「じいじいバイバイ」と言っておでこをさすって部屋を出ていったんです。
そのことは後で絶対残っていて、悲しみの雰囲気を経験することは凄く大きなことだと思います。
バーチャルの世界では生き返ってくるが、一度死んだら生き返ってこない、だから今を大事に生きていかなければいけないと言う様なことが、生活の中から看取りが消えてしまいましたね。
病院の看取りと家族での看取りは質が違うと思う。
病院ではモニターに心臓が止まって、一本線になったら御臨終ですと言う事になりますが、家族の思いが一杯その時出てくる、家族の思いはモニターには映らない。
亡くなっても体温の温かさを感じることになるし、亡くなった後の1時間位が家族にとって一番大事な時間だと思います、本当に顔が綺麗になります。
一人一人、生きてきた人生が違う様に亡くなり方もいろいろです。
誰か傍にいてほしい人はいると思う。
人には群れるという本能がある様な気がします。
繋がりをしっかり作っておくことは必要です。
活動の原動力、みんなでこの活動はあるわけで、強いて言うならば、父を看取った時の事かもわからないです。
父は手術後ICUの中で亡くなりました。
母は傍にはいられなくて凄く悔いて、母まで逝ってしまうのではないと言うぐらい落ちこんでしまいました。
医療の有り様、後に残されたひとが生きてゆく力もなくなってしまうような医療は違うのではないかと思った経験があります。
付き添って世話をしていると、納得して最後にはみんな「有難う」といって、声を掛けてくれます。
そうやって見送られた人はきっと、有難うと思っていると思います。
母は3年ぐらいどこにも行きませんでした。
最後にお父さんは何か云いたかったのではないかと、繰り返し言っていました。
そういう訳で母は「かあさんの家」で看取りました。
タオルをサッと出してくれたり、お茶を出してくれたり、その時にこんなに有難い事だと家族として思いました。
人が亡くなるということは色んな事がいっぱい有ります、宝ものも一杯下さいます。
死を思うと言うことは、今を生きるという事を大事に思うと言う事になると思うんです。
人は老いる、人はいずれ亡くなると言う事を判っていながらそのことを考えないで、多くの人は来ていると思います。
NPOが運営しているのは重い病気や認知症などを抱えた人々のついのすみかとなることを指して作られた「かあさんの家」という施設です。
人生の最後に行き場を失った人や家で介護しきれず追いつめられる家族の思いを受け、その人が望む日常を丁寧に暮らしていける様サポートしています。
その先には最後の日をみんなで迎える地域でも看取りがあると言います。
老いの暮らしから看取りまでを支える地域コミュニティーの大切さを伺います。
一番最初 、開いた時は癌で高齢の方が多かったんですが、この頃は医療依存度が高い人、介護度も重い方が増えています。
認知症の方もコミュニケーションが取れない様な方が多いです。
寝たきりというわけではないです。
入居者5名が一つのグループ、普通の民家を使っているので、5人しか入れなかった、2人昼間はヘルパーが来て、夜は夜勤でヘルパーが一人来て、5~6人が二交代制でスタッフが24時間サポートしています。
高齢者にとって生活の機能が阻害する要因に空間、環境が大きいです、それがストレスになって混乱したりうろうろすると言う、問題行動があります。
「かあさんの家」に来ると、自分の家と殆ど変わらない環境ですが、自分のテリトリーだけではない。
認知症で幻覚がでる方がいますが、施設の中で夜中じゅう騒いで動きまわった方がいて、家では見られませんという方でした。
85歳ぐらいのその方をお受けした時に、家では座敷に布団を敷いていたと言う事でベッドではなく布団にしました。
スタッフを臨時に付けて、1週間経ったら落ちつかれました。(ここは自分の家だと言う居場所を感じたんだと思います)
家には椅子があると言う事で、椅子を置いたら日中ずーっと座ってにこにこ過ごす様になりました。
胃瘻(いろう)の方、入居した方で5人の胃瘻(いろう)を外せましたが外せない方もいました。
ちょっと食べられなくなった人に胃瘻(いろう)を着けっぱなしにすると、食べられなくなる喉になってしまうので、なるべく早く外すと言う事をします。
しゃべったり歌ったりするようにして、安全に食べられるように工夫しながらやっていきます。
五感を働かせるので、食べることは、脳も活性化するのではないかと思います。
食べることは、生きる意欲を取り戻せると思います。
家族は親には出来るだけ生きていてほしいが、本人は体重が落ちていって、言葉が少なくなったりしてきたときに、家族は心配になるが、私たちも一緒に揺れ動き寄り添う訳です。
私が言うことは、どなたも皆さん限界、到着点があります、と言います、でもそれは順番であり娘さんより早い、到着点までをどうお母さんに過ごしてもらうかが大事だと話します。
到着点があると言う事を考えたことが無いと言う方が結構います。
入居されてしばらくすると皆さん元気になられます。
もうちょっとここで生きていてもいいかなと思うのかと思います。
最終的には家族も本人もそうですが、どこかで覚悟をされます、そうすると納得ができると思います。
その方が生きてきた様に、その人の人生の考え方、行動の処し方と関連してくるような気がします。
生そのものが自分の思い通りにならない、誕生、生きていること。
今生きていることが意味ある様にする手助けはいっぱいある様な気がする。
命も、あの人こんなふうにして生きて逝かれたね、という事をどれだけ周りの人の心の中に生き続けて行くかなと思うんです。
最後の時はとても残された家族にとっては大事なんです。
家族が納得するには、多分本人が納得させるんです。
「順番なんですね」と娘さんがお母さんの横で寄り添って言いましたが、娘さんが親の息使いと一緒に呼吸をしていて、これがもしかしたら寄り添う事なのかなあと、その時思いました。
娘さんはお母さんの息使いを聞きながら納得して逝ったんだと思いますが、それはお母さんが多分伝えたんだと思います。(人が人を送ることなんだと思います)
そこに至るまでにはいろんなプロセスがある。
口があかないとか、少しづつ弱ってゆく、人が生まれて亡くなってゆく人間としてのプログラムされている事なんではないかと思っていますが、そうなってゆくと息使いなども静かなんです、それを横で見ている家族がこういう事なんだと言う事が判っていく。
子供達が臨終の場から離されているが、小さいからこそ、老いて亡くなってゆくという事を体験すると言うことはとても大きい様な気がします。
幼稚園の子がいて、「今からおじいちゃんは空に昇ってゆくから、御見送りしよう」と言ったら、「どうしてゆくの?」と聞いたので、お爺さんのところへつれていってたら、「じいじいバイバイ」と言っておでこをさすって部屋を出ていったんです。
そのことは後で絶対残っていて、悲しみの雰囲気を経験することは凄く大きなことだと思います。
バーチャルの世界では生き返ってくるが、一度死んだら生き返ってこない、だから今を大事に生きていかなければいけないと言う様なことが、生活の中から看取りが消えてしまいましたね。
病院の看取りと家族での看取りは質が違うと思う。
病院ではモニターに心臓が止まって、一本線になったら御臨終ですと言う事になりますが、家族の思いが一杯その時出てくる、家族の思いはモニターには映らない。
亡くなっても体温の温かさを感じることになるし、亡くなった後の1時間位が家族にとって一番大事な時間だと思います、本当に顔が綺麗になります。
一人一人、生きてきた人生が違う様に亡くなり方もいろいろです。
誰か傍にいてほしい人はいると思う。
人には群れるという本能がある様な気がします。
繋がりをしっかり作っておくことは必要です。
活動の原動力、みんなでこの活動はあるわけで、強いて言うならば、父を看取った時の事かもわからないです。
父は手術後ICUの中で亡くなりました。
母は傍にはいられなくて凄く悔いて、母まで逝ってしまうのではないと言うぐらい落ちこんでしまいました。
医療の有り様、後に残されたひとが生きてゆく力もなくなってしまうような医療は違うのではないかと思った経験があります。
付き添って世話をしていると、納得して最後にはみんな「有難う」といって、声を掛けてくれます。
そうやって見送られた人はきっと、有難うと思っていると思います。
母は3年ぐらいどこにも行きませんでした。
最後にお父さんは何か云いたかったのではないかと、繰り返し言っていました。
そういう訳で母は「かあさんの家」で看取りました。
タオルをサッと出してくれたり、お茶を出してくれたり、その時にこんなに有難い事だと家族として思いました。
人が亡くなるということは色んな事がいっぱい有ります、宝ものも一杯下さいます。
死を思うと言うことは、今を生きるという事を大事に思うと言う事になると思うんです。
人は老いる、人はいずれ亡くなると言う事を判っていながらそのことを考えないで、多くの人は来ていると思います。
2016年11月23日水曜日
渡辺總子(わだつみのこえ記念館館長)・戦没学生の声に耳を澄ます
渡辺總子(わだつみのこえ記念館館長) ・戦没学生の声に耳を澄ます
昭和24年戦没学生の手記「聞けわだつみの声」が発表され、以来、学徒出陣した若者たちの言葉は多くの人に読み継がれてきました。
そして戦没学生の体験を伝え、手記を展示保存する記念館の設立への動きが高まり、平成18年わだつみの声記念館が出来ました。
館長の渡辺さんは昭和10年生まれ、長い間記念館設立の為に力を尽くしてきました。
2年前からは館長に就任し、戦没学生の遺稿、資料の収集や保存展示など記念館の普及に努めています。
記念館が出来てちょうど12月でまる10年、あっという間の感じです。
募金活動に13年掛かったので、そこから考えるとちょっと長い感じもします。
学徒出陣50周年記念の時に、関係者が記念館を絶対建てようと日本全国に声をかけたら、1400名の方から寄付がありました。
文京区本郷、東京大学の赤門のすぐ近くに記念館があります。(マンションの1階が図書、2階が展示室、100平米の小じんまりした部屋))
1500点ぐらい展示しています。
戦後生まれの人がほとんどで、父や叔父さんの戦歴を知りたいとか、若い研究者が調べに来られたり大学の先生が授業に取り入れたいという事で、こられたりします。
読んでゆくと戦争は悲劇だとか、平和を守ろうと聞きなれたフレーズよりも、戦争や平和を訴えかけてくる物が多いと、そんなふうに感想を書いてくれたりします。
写真があったり、はがき、日記でも達筆で細かい字でびっしり書いてあったりして思いが伝わってきます。
記念館を建てるきっかけになったのは、結婚した相手が、少年兵で戦艦武蔵に乗っていて、レイテに向かっていたが、手前シブヤン海峡でアメリカ軍に総攻撃を受けて沈んでしまったが、辛くも生き残って帰って来て、同年兵を亡くしたことの苦しみ、酷い戦争体験だったことを、何とか書き残そうと、執筆活動をしていた時に、学徒兵の人と知り合い、戦没学生のお墓参りをしたり、そんなことを私はそばで見聞きして、学徒兵の方とのお付き合いもあり、56歳で本人が亡くなってしまって、私に託された様な気がして、生きて帰った人の想いを伝えようと言う事で今日まで来ました。
記念館を建てられたのは宿題の一つを果たしたと思います。
私は、1935年生まれなので疎開児童でしたので、戦争体験はないです。
夫の書いたものを清書することで、戦争についての知識が深まりました。
生きて帰った人に良かったですねと言うと、違うとちっとも嬉しくないと、私達には判らない戦争体験した方の共通の想いの様ですね。(一緒に戦って亡くなった人のことを思うと、なんで自分は生きて帰ったのだろうとの想い)
宅島徳光さん大正10年(1921年)生まれ 福岡県 福岡市出身
昭和18年9月慶応義塾大学法学部卒業、その9月に三重航空隊に入隊、昭和20年4月9日飛行訓練中に殉職。24歳
恋人宛てに書いた日記
青春の苦悩が切実に描かれている。
「6月13日快晴、飛行作業あり、俺の返信を待って落ちつかぬ日を過ごしていると思う。
早く返事をしなければと俺の心の責任感が叫ぶ。
はっきり言う、俺は君を愛した、そして今も愛している、しかし、俺の頭の中には今では君よりも大切なものを蔵するに至った。
それは君のように優しい乙女の住む国のことである。
俺は静かな黄昏の田畑の中で、まだ顔も見えない遠くから俺たちに頭を下げてくれる、いじらしさに強く胸を打たれるのである。
もしそれが君に対する愛よりもはるかに強いものであると言うのなら君は怒るだろうか、否々決して君は怒らないだろう、そして俺とともに俺の心を理解してくれるだろう。
本当にあのようなかわいい子らの為なら命は決しておしくはない。」
6月30日
「飛行作業あり、八重子、極めて孤独な魂を温めてくれ。
俺は君のことを考えると心が明るくなる。
そして寂しさを失う事が出来る、それでよいのだ、君のすべてを独占しようと思うのは悪い夢だ。
君には君の幸福がきっと待っている。
俺は俺の運命、否、俺たちの運命を知っている。
俺たちの運命は一つの悲劇であった、しかし俺たちは悲劇に対してそれほども悲観していないし、寂しがってもいない。
俺たちの寂しさは祖国に向けられた寂しさだ。
たとえどのように見苦しくあがいても俺たちは宿命を離れることはできない。
しかし俺は宿命論者ではない、あのようなできごとは俺の心には何か遠いはるか昔の様な気がする。
それだけに思い出すと懐かしい、よい友達を持ったと喜んでいる。
あんなに親しい友達は俺の過去には一人もいなかった。
俺は君のすべてを知っていたし、君も俺のすべてを知っていた。
俺はなぜ君を離れたか、君は俺を恨むことだろう。
しかし、俺の小さなヒューマニズムが君の将来の幸福を見棄てさせようとはしなかった。
君は俺があのようにして離れる事できっと幸福な日を設けうるに違いない、俺はその日の幸福を祈っている、本当に幸福な日を迎えてくれ。」・・・一部
宇田川達さん 大正9年生まれ 埼玉県出身
奥さんがいた方で妻あての手紙。
昭和17年(1942年)9月早稲田大学法学部卒業、10月には東部第十二部隊に入隊。
1945年1月25日鹿児島県大野岬海上にて、交戦中戦死。 24歳
広島の下宿先に荷物一式が残されていて、下宿先の娘さんが奥さんに送り返して、そこに二通の遺書があったそうです。
一通は公的なもので、もう一通は妻(邦子)へのもの。
「邦子ちゃん、私は昭和17年1月18日結婚の日以来、邦子ちゃんを喜ばすことなく今日まで過ごしてしまった。
しかし私の気持ちは決して世の中の夫たるものに負けぬつもりです。
こうしてペンを走らせていると、様々な思い出が次々に浮かんできます。
今までも何回も言いましたが、私は邦子ちゃんと結婚して救われたと確信しています。
父が亡くなってからの家庭苦、精神苦、特にいろいろなことを考えてしまって、当時は私はいかにして生きられるかを懸命に考えてその日その日を送ったことでしょう。
それから私は邦子ちゃんに依り、はっきりと行くべき光を、道を与えられたのでした。
その故に私は一時たりとも邦子ちゃんより離れたくない気持ちでした。
しかし世の中はそれを許してくれませんでした。
そして私は祖国の運命をになって昭和17年1月18日入隊したのでした。
私は日本人が故に愛を振り棄てて大きな祖国愛の為に、私のこの一個の肉体生命をかけた邦子ちゃんに別れて入隊しました、そして今祖国のために散って行きます。
邦子ちゃん、私は邦子ちゃんと死にたかった。
邦子ちゃん、私の心臓が止まるその瞬間まで、私は邦子ちゃんのことを思っているでしょう。
そして邦子ちゃんの名を呼ぶでしょう。
こうしていると頭が変になりそうです、ただ邦子ちゃんにすまないと思う。
私は邦子ちゃんと結婚して幸いを得たけれど、邦子ちゃんは私と結婚しなければこんなに若くて未亡人にならなくて済んだのではないかと思ったりします。
昭和17年10月1日朝、門のところで無言で見おくってくれた姿が目に映ってきます。」
宇田川さんには男のお子さんもいたそうですが、お父さんと同じくらいの日時に事故で亡くなってしまったそうです。
宇田川さんは多くのノートを残しているので、それを一冊の本にできないかとずーっと思っているところです。
戦争で残された女性も大変な戦後を送られたんですね。
夫の物があるから是非預かってほしいと言う事で預かる事になりました。
他にも特攻訓練の基地から両親に送ったはがきがあり、絶対面会禁止という非人間的なはんが押してあるんです。
朝鮮人の戦没学生の手記、写真も展示しています。
韓国に生還した元朝鮮人学徒兵の方がたが1・20同士会を作っていて、交流していて、公民館が出来た時に寄贈するということになりました。
直筆は無いです。(日本語で書いたものは残せませんと言われましたという事です。)
もう一つのわだつみがあるんですよと、お伝えしています。
韓国のかたにも評価していただいています。
資料の傷みもあるのでスキャンして、デジタル化して、画像として取っておくことも大分進めてきました。
アーカイブで蓄積した資料などを公開する事業も2年前から目標として挙げて、ボランティアで学生が協力してくれることになり、共有財産にしていただいて、戦没学生の理念をつたえて平和に繋げる行動を今後も頑張っていきたいと思います。
昭和24年戦没学生の手記「聞けわだつみの声」が発表され、以来、学徒出陣した若者たちの言葉は多くの人に読み継がれてきました。
そして戦没学生の体験を伝え、手記を展示保存する記念館の設立への動きが高まり、平成18年わだつみの声記念館が出来ました。
館長の渡辺さんは昭和10年生まれ、長い間記念館設立の為に力を尽くしてきました。
2年前からは館長に就任し、戦没学生の遺稿、資料の収集や保存展示など記念館の普及に努めています。
記念館が出来てちょうど12月でまる10年、あっという間の感じです。
募金活動に13年掛かったので、そこから考えるとちょっと長い感じもします。
学徒出陣50周年記念の時に、関係者が記念館を絶対建てようと日本全国に声をかけたら、1400名の方から寄付がありました。
文京区本郷、東京大学の赤門のすぐ近くに記念館があります。(マンションの1階が図書、2階が展示室、100平米の小じんまりした部屋))
1500点ぐらい展示しています。
戦後生まれの人がほとんどで、父や叔父さんの戦歴を知りたいとか、若い研究者が調べに来られたり大学の先生が授業に取り入れたいという事で、こられたりします。
読んでゆくと戦争は悲劇だとか、平和を守ろうと聞きなれたフレーズよりも、戦争や平和を訴えかけてくる物が多いと、そんなふうに感想を書いてくれたりします。
写真があったり、はがき、日記でも達筆で細かい字でびっしり書いてあったりして思いが伝わってきます。
記念館を建てるきっかけになったのは、結婚した相手が、少年兵で戦艦武蔵に乗っていて、レイテに向かっていたが、手前シブヤン海峡でアメリカ軍に総攻撃を受けて沈んでしまったが、辛くも生き残って帰って来て、同年兵を亡くしたことの苦しみ、酷い戦争体験だったことを、何とか書き残そうと、執筆活動をしていた時に、学徒兵の人と知り合い、戦没学生のお墓参りをしたり、そんなことを私はそばで見聞きして、学徒兵の方とのお付き合いもあり、56歳で本人が亡くなってしまって、私に託された様な気がして、生きて帰った人の想いを伝えようと言う事で今日まで来ました。
記念館を建てられたのは宿題の一つを果たしたと思います。
私は、1935年生まれなので疎開児童でしたので、戦争体験はないです。
夫の書いたものを清書することで、戦争についての知識が深まりました。
生きて帰った人に良かったですねと言うと、違うとちっとも嬉しくないと、私達には判らない戦争体験した方の共通の想いの様ですね。(一緒に戦って亡くなった人のことを思うと、なんで自分は生きて帰ったのだろうとの想い)
宅島徳光さん大正10年(1921年)生まれ 福岡県 福岡市出身
昭和18年9月慶応義塾大学法学部卒業、その9月に三重航空隊に入隊、昭和20年4月9日飛行訓練中に殉職。24歳
恋人宛てに書いた日記
青春の苦悩が切実に描かれている。
「6月13日快晴、飛行作業あり、俺の返信を待って落ちつかぬ日を過ごしていると思う。
早く返事をしなければと俺の心の責任感が叫ぶ。
はっきり言う、俺は君を愛した、そして今も愛している、しかし、俺の頭の中には今では君よりも大切なものを蔵するに至った。
それは君のように優しい乙女の住む国のことである。
俺は静かな黄昏の田畑の中で、まだ顔も見えない遠くから俺たちに頭を下げてくれる、いじらしさに強く胸を打たれるのである。
もしそれが君に対する愛よりもはるかに強いものであると言うのなら君は怒るだろうか、否々決して君は怒らないだろう、そして俺とともに俺の心を理解してくれるだろう。
本当にあのようなかわいい子らの為なら命は決しておしくはない。」
6月30日
「飛行作業あり、八重子、極めて孤独な魂を温めてくれ。
俺は君のことを考えると心が明るくなる。
そして寂しさを失う事が出来る、それでよいのだ、君のすべてを独占しようと思うのは悪い夢だ。
君には君の幸福がきっと待っている。
俺は俺の運命、否、俺たちの運命を知っている。
俺たちの運命は一つの悲劇であった、しかし俺たちは悲劇に対してそれほども悲観していないし、寂しがってもいない。
俺たちの寂しさは祖国に向けられた寂しさだ。
たとえどのように見苦しくあがいても俺たちは宿命を離れることはできない。
しかし俺は宿命論者ではない、あのようなできごとは俺の心には何か遠いはるか昔の様な気がする。
それだけに思い出すと懐かしい、よい友達を持ったと喜んでいる。
あんなに親しい友達は俺の過去には一人もいなかった。
俺は君のすべてを知っていたし、君も俺のすべてを知っていた。
俺はなぜ君を離れたか、君は俺を恨むことだろう。
しかし、俺の小さなヒューマニズムが君の将来の幸福を見棄てさせようとはしなかった。
君は俺があのようにして離れる事できっと幸福な日を設けうるに違いない、俺はその日の幸福を祈っている、本当に幸福な日を迎えてくれ。」・・・一部
宇田川達さん 大正9年生まれ 埼玉県出身
奥さんがいた方で妻あての手紙。
昭和17年(1942年)9月早稲田大学法学部卒業、10月には東部第十二部隊に入隊。
1945年1月25日鹿児島県大野岬海上にて、交戦中戦死。 24歳
広島の下宿先に荷物一式が残されていて、下宿先の娘さんが奥さんに送り返して、そこに二通の遺書があったそうです。
一通は公的なもので、もう一通は妻(邦子)へのもの。
「邦子ちゃん、私は昭和17年1月18日結婚の日以来、邦子ちゃんを喜ばすことなく今日まで過ごしてしまった。
しかし私の気持ちは決して世の中の夫たるものに負けぬつもりです。
こうしてペンを走らせていると、様々な思い出が次々に浮かんできます。
今までも何回も言いましたが、私は邦子ちゃんと結婚して救われたと確信しています。
父が亡くなってからの家庭苦、精神苦、特にいろいろなことを考えてしまって、当時は私はいかにして生きられるかを懸命に考えてその日その日を送ったことでしょう。
それから私は邦子ちゃんに依り、はっきりと行くべき光を、道を与えられたのでした。
その故に私は一時たりとも邦子ちゃんより離れたくない気持ちでした。
しかし世の中はそれを許してくれませんでした。
そして私は祖国の運命をになって昭和17年1月18日入隊したのでした。
私は日本人が故に愛を振り棄てて大きな祖国愛の為に、私のこの一個の肉体生命をかけた邦子ちゃんに別れて入隊しました、そして今祖国のために散って行きます。
邦子ちゃん、私は邦子ちゃんと死にたかった。
邦子ちゃん、私の心臓が止まるその瞬間まで、私は邦子ちゃんのことを思っているでしょう。
そして邦子ちゃんの名を呼ぶでしょう。
こうしていると頭が変になりそうです、ただ邦子ちゃんにすまないと思う。
私は邦子ちゃんと結婚して幸いを得たけれど、邦子ちゃんは私と結婚しなければこんなに若くて未亡人にならなくて済んだのではないかと思ったりします。
昭和17年10月1日朝、門のところで無言で見おくってくれた姿が目に映ってきます。」
宇田川さんには男のお子さんもいたそうですが、お父さんと同じくらいの日時に事故で亡くなってしまったそうです。
宇田川さんは多くのノートを残しているので、それを一冊の本にできないかとずーっと思っているところです。
戦争で残された女性も大変な戦後を送られたんですね。
夫の物があるから是非預かってほしいと言う事で預かる事になりました。
他にも特攻訓練の基地から両親に送ったはがきがあり、絶対面会禁止という非人間的なはんが押してあるんです。
朝鮮人の戦没学生の手記、写真も展示しています。
韓国に生還した元朝鮮人学徒兵の方がたが1・20同士会を作っていて、交流していて、公民館が出来た時に寄贈するということになりました。
直筆は無いです。(日本語で書いたものは残せませんと言われましたという事です。)
もう一つのわだつみがあるんですよと、お伝えしています。
韓国のかたにも評価していただいています。
資料の傷みもあるのでスキャンして、デジタル化して、画像として取っておくことも大分進めてきました。
アーカイブで蓄積した資料などを公開する事業も2年前から目標として挙げて、ボランティアで学生が協力してくれることになり、共有財産にしていただいて、戦没学生の理念をつたえて平和に繋げる行動を今後も頑張っていきたいと思います。