レシャード・カレッド(アフガニスタン出身・医師) ・医師に国境はない(27.2.24放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2015/02/blog-post_24.htmlをご覧ください。
2015年4月30日木曜日
2015年4月29日水曜日
富司純子(女優) ・女優生活50年と”かっこいい”おばあちゃんを演じて
富司純子(女優) ・女優生活50年と”かっこいい”おばあちゃんを演じて
富司純子さんは総合TV「紅雲町珈琲屋こよみ」に主演する。
吉永南央さんの小説で 主人公 杉浦草を演じる。
身の周りで起きる小さな事件を解決してゆく。
紅雲町で和食器とコーヒー豆の販売を営む小蔵屋。 杉浦草(76歳) 通称 お草さん
お草さんは店を訪れるお客の中で、ふっと抱いた疑問から地方都市の日常に潜む小さな問題を解決していきます。
お草さん自身も決して無傷ではない過去を抱えていて忍びよる老いの影のもとで前向きに生き続けます。
小説を読んで面白くて、なんて魅力的な女性だと、一遍に虜になりました。
脚本は相沢友子さん
お草さんは65歳で人生の再出発に踏み来る。
古民家を移築して、反対をされる中で、新しい和食器とコーヒー豆の販売を営む店を始める。
信念を通すところは似ているかもしれない。
ゴミ拾いをしながら、お地蔵さんに毎日お供え物したり、お祈りしたりしている。
自分は離婚して子供を置いて来ざるを得なかった状況の中で、3歳の男の子が疏水みたいなところに入って死んでしまう。
人生の中の大きな傷を胸にしょっているので、お地蔵さんにいつもわびている。
ドラマの中で好きなセリフ 金継ぎ 壊れたものを繋ぎ合せて、新しいカップに仕立てるが、重い過去をもった相手役の橋爪功さんが「傷をもった人間だからこそ出来ることが有る」という暗示をかける言葉。
セットも素晴らしい、山内さんが素晴らしいセンスの方で、一歩入っただけでお草さんになれた。
高倉健さんがコーヒーが好きで、最初は飲めなかったが勧められるうちに好きになって今では癖になってコーヒーが無くてはいけなくなってしまった。主人も好きです。
和歌山県で昭和20年生まれ、貧しくて、コッペパン、さつまいも、キャルメラ等を食べて育ちました。
リヤカーで新鮮な小鰯等新しい魚を売ってきたりしていた。
サバなどもおいしくて、光物は大好きです。
父は火宅の人で、京都で別宅で女性と住み子供までいたので、母は洋裁を教えたりしてその収入で私たちを育ててきました。
大坂に来てからも同様な生活でした。
母の苦労を見ていて、早く働いて母に楽をさせたいという気持ちが有った。
縁あって牧野監督に女優にと言われた時は直ぐに女優になりたいと言いました。
当時父は牧野監督の下で働いていた。
17歳でデビューしその後5年間で次々に撮影が有り、1年に13本ぐらい出た時もあった。
任侠物に入ってゆく。(相手役 高倉健、鶴田浩二、菅原文太、若山富三郎等)
昭和43年初めての主演映画 緋牡丹博徒が大ヒット (22歳) 58本目
緋牡丹博徒シリーズは全部で8本
自分は文芸作にあこがれていて、山本周五郎の「五弁の椿」「柳橋物語」等を他局のTVで撮らして貰っていた。
そういうのを映画で本当はやってほしかったが、任侠もので、自分の思う役柄でない役をやっていたので、そんな中で自分の女を秘めて演じる中の、男と女のドラマを深くつくってもらうように本をチェックして本直しして、出来る限り自分の欲求を入れて作ってきました。
三島由紀夫さん、楠本憲吉さん等にも見て頂いて応援してくださいました。
それが支えになっていました。
昭和47年に結婚。
大河ドラマ「義経」が終わる頃に主人と付き合い始めた。
3年後主人が父に結婚を申し込んだが、緋牡丹が好評だったので3年待つ様に父から言われ、その間 緋牡丹を撮っていたが、それからもう1年待つ様に父から言われる。
結局7年待ってくれた。
その間、4年間で悔いのない仕事をしようと、自分なりにきちっと計画を立てて、婚約発表の時に引退しますと言って、二度と映画には戻る気はないと、主人の黒子として、支えていきたいと思った。
歌舞伎の人は基礎が違うと思った。(立ち居振る舞い、セリフ、刀の差し方等が綺麗)
凄い役者になるのではないかと思った、この人にかけてみたという気になったと思います。
日々の体調管理、朝からきちっと野菜の入ったジュースを作ってそれを飲んでもらう。
バランスの良い食べものを心掛けている、(1日2食)
結婚後毎月他の人を含め歌舞伎を見て、梅幸、中村歌右衛門、中村雀右衛門等、綺羅星のごとく女形の人がいて、所作、踊り、お芝居を見せて頂いたのが 物凄く私の財産になりました。
歌舞伎は本当に素晴らしいと思います。
お子さんが寺島しのぶさん、尾上菊之助さんですが、子育ては?
楽しかったです。 母他皆が一緒に子育てをしてくれたので助かりました。
孫がいるが芝居が好きで楽しみです。
平成1年ごろ 子供も親離れしたかったと思う。
子供から私が子離れしていないと言われた。
これから何をしようと思っていたら、NHKから「詩城の旅人」(松本清張)、同時に「あ・うん」 の映画からの仕事の依頼が有った。
「富司純子」の名前で仕事をすることにした。
「あ・うん」が一番大好きです。
17年ぶりの仕事だったが、昨日別れてから、今日会ったみたいにブランクをまったく感じなかった。
引き受けた役の世界に入り込めるのは、自分のその時だけは何のしがらみもない、例えば「お草さん」の中で生きてドラマを皆で力を合わせて作ってゆく時間、その時間は全て私のものなんです。
全てそこで楽しく出来、出来上がった作品が良かったねと言っていただけたら、とっても幸せです。
「紅雲町珈琲屋こよみ」の魅力は?
お草さんの生きざまがかっこいいんですね。
生き生きとして自分の好きなことをやって生きている。
富司純子さんは総合TV「紅雲町珈琲屋こよみ」に主演する。
吉永南央さんの小説で 主人公 杉浦草を演じる。
身の周りで起きる小さな事件を解決してゆく。
紅雲町で和食器とコーヒー豆の販売を営む小蔵屋。 杉浦草(76歳) 通称 お草さん
お草さんは店を訪れるお客の中で、ふっと抱いた疑問から地方都市の日常に潜む小さな問題を解決していきます。
お草さん自身も決して無傷ではない過去を抱えていて忍びよる老いの影のもとで前向きに生き続けます。
小説を読んで面白くて、なんて魅力的な女性だと、一遍に虜になりました。
脚本は相沢友子さん
お草さんは65歳で人生の再出発に踏み来る。
古民家を移築して、反対をされる中で、新しい和食器とコーヒー豆の販売を営む店を始める。
信念を通すところは似ているかもしれない。
ゴミ拾いをしながら、お地蔵さんに毎日お供え物したり、お祈りしたりしている。
自分は離婚して子供を置いて来ざるを得なかった状況の中で、3歳の男の子が疏水みたいなところに入って死んでしまう。
人生の中の大きな傷を胸にしょっているので、お地蔵さんにいつもわびている。
ドラマの中で好きなセリフ 金継ぎ 壊れたものを繋ぎ合せて、新しいカップに仕立てるが、重い過去をもった相手役の橋爪功さんが「傷をもった人間だからこそ出来ることが有る」という暗示をかける言葉。
セットも素晴らしい、山内さんが素晴らしいセンスの方で、一歩入っただけでお草さんになれた。
高倉健さんがコーヒーが好きで、最初は飲めなかったが勧められるうちに好きになって今では癖になってコーヒーが無くてはいけなくなってしまった。主人も好きです。
和歌山県で昭和20年生まれ、貧しくて、コッペパン、さつまいも、キャルメラ等を食べて育ちました。
リヤカーで新鮮な小鰯等新しい魚を売ってきたりしていた。
サバなどもおいしくて、光物は大好きです。
父は火宅の人で、京都で別宅で女性と住み子供までいたので、母は洋裁を教えたりしてその収入で私たちを育ててきました。
大坂に来てからも同様な生活でした。
母の苦労を見ていて、早く働いて母に楽をさせたいという気持ちが有った。
縁あって牧野監督に女優にと言われた時は直ぐに女優になりたいと言いました。
当時父は牧野監督の下で働いていた。
17歳でデビューしその後5年間で次々に撮影が有り、1年に13本ぐらい出た時もあった。
任侠物に入ってゆく。(相手役 高倉健、鶴田浩二、菅原文太、若山富三郎等)
昭和43年初めての主演映画 緋牡丹博徒が大ヒット (22歳) 58本目
緋牡丹博徒シリーズは全部で8本
自分は文芸作にあこがれていて、山本周五郎の「五弁の椿」「柳橋物語」等を他局のTVで撮らして貰っていた。
そういうのを映画で本当はやってほしかったが、任侠もので、自分の思う役柄でない役をやっていたので、そんな中で自分の女を秘めて演じる中の、男と女のドラマを深くつくってもらうように本をチェックして本直しして、出来る限り自分の欲求を入れて作ってきました。
三島由紀夫さん、楠本憲吉さん等にも見て頂いて応援してくださいました。
それが支えになっていました。
昭和47年に結婚。
大河ドラマ「義経」が終わる頃に主人と付き合い始めた。
3年後主人が父に結婚を申し込んだが、緋牡丹が好評だったので3年待つ様に父から言われ、その間 緋牡丹を撮っていたが、それからもう1年待つ様に父から言われる。
結局7年待ってくれた。
その間、4年間で悔いのない仕事をしようと、自分なりにきちっと計画を立てて、婚約発表の時に引退しますと言って、二度と映画には戻る気はないと、主人の黒子として、支えていきたいと思った。
歌舞伎の人は基礎が違うと思った。(立ち居振る舞い、セリフ、刀の差し方等が綺麗)
凄い役者になるのではないかと思った、この人にかけてみたという気になったと思います。
日々の体調管理、朝からきちっと野菜の入ったジュースを作ってそれを飲んでもらう。
バランスの良い食べものを心掛けている、(1日2食)
結婚後毎月他の人を含め歌舞伎を見て、梅幸、中村歌右衛門、中村雀右衛門等、綺羅星のごとく女形の人がいて、所作、踊り、お芝居を見せて頂いたのが 物凄く私の財産になりました。
歌舞伎は本当に素晴らしいと思います。
お子さんが寺島しのぶさん、尾上菊之助さんですが、子育ては?
楽しかったです。 母他皆が一緒に子育てをしてくれたので助かりました。
孫がいるが芝居が好きで楽しみです。
平成1年ごろ 子供も親離れしたかったと思う。
子供から私が子離れしていないと言われた。
これから何をしようと思っていたら、NHKから「詩城の旅人」(松本清張)、同時に「あ・うん」 の映画からの仕事の依頼が有った。
「富司純子」の名前で仕事をすることにした。
「あ・うん」が一番大好きです。
17年ぶりの仕事だったが、昨日別れてから、今日会ったみたいにブランクをまったく感じなかった。
引き受けた役の世界に入り込めるのは、自分のその時だけは何のしがらみもない、例えば「お草さん」の中で生きてドラマを皆で力を合わせて作ってゆく時間、その時間は全て私のものなんです。
全てそこで楽しく出来、出来上がった作品が良かったねと言っていただけたら、とっても幸せです。
「紅雲町珈琲屋こよみ」の魅力は?
お草さんの生きざまがかっこいいんですね。
生き生きとして自分の好きなことをやって生きている。
2015年4月26日日曜日
三田 完(作家) ・ディレクターから作家になって
三田 完(作家) ・ディレクターから作家になって
埼玉県出身59歳 先ごろ小沢昭一さんの人生を纏めた「明日のこころだ」を出版しました。
小沢さんと言うと、俳優、放浪芸の研究者、エッセーイスト、「小沢昭一の小沢昭一的心」のパーソナリティーとしても活躍。
三田さんは慶応大学卒業後、昭和53年にNHKに就職、ディレクターとして新潟局を振り出しに、仕事を始め、4年後東京の歌番組を制作するセクションに転勤しました。
平成4年にNHKを退職、民放等でTV番組を制作、執筆活動を始めます。
平成12年にロシア人の幇間 太鼓持ちを描いた「櫻川イワンの恋」でオール読み物新人賞で受賞し、作家デビュー、平成19年には昭和初期を舞台に俳句の会で出会った3人娘の友情や恋愛を描いた「俳風三麗花」が137回の直木賞の候補にもなりました。
翌年にはNHKの中西龍アナウンサーの人生をまとめた「当マイクロフォン」を出版しています。
又「知水」という俳号では俳句の世界でも活躍しています。
「あしたのこころだ」 著書出版
とっても胸の中に小沢さんにまつわる声の思い出、話の内容、ハーモニカの音色が残っているんだなと改めて思いました。
小沢さんは昭和4年生まれ、平成24年に83歳で亡くなっている。
小沢さんは「変哲」という俳号をもっていた。
久保田万太郎風の洒脱なお方だったと思います。
40年間続けられて「小沢昭一の小沢昭一的心」の最後の4年ぐらいはその台本を書かせて頂いていました。
小沢昭一さんは本当の意味でのタレントだったと思います。
一緒に歩いていて、新しいラーメン屋を覗き込んだり、野良猫に話しかけたり、本当に面白かったですね。(好奇心の塊)
新潟に4年間赴任、4年目にラジオで特集番組をやりたいと思い、村田文三という古い民謡歌手を取材するものだった。
「佐渡おけさ」を日本全国に広めた人。
声が合うのではないかと、小沢さんへの出演依頼を手紙でお願いした。
それが小沢さんとの最初の出会いでした。
私がNHKを辞めてから、ポツンポツンとご一緒させていただいた。
「小沢昭一的心」を書かせていただく様になる。
平成4年にNHKを退職後、阿久悠さんとコンタクトが有り、阿久悠さんのお手伝いをさせていただいたり、放送の仕事の企画などをやっていました。
2000年に 「櫻川イワンの恋」でオール読み物新人賞で受賞することになる。
2007年に「俳風三麗花」が直木賞候補になる。
40歳になった時点でTVの企画等についていけなくなった様な気がした。
民放でやっていたときに若者向けの番組が多くて、自分の性癖とTVの企画が齟齬を生じていたと思う。
「俳魁」著書 7,5調、俳句はもともと好きだった様に思う。
友達と句会をやってみようという事になり、句会に出席するようになり、はまってゆく事になる。
母は長谷川秋子(昭和の有名な俳人)、祖母は長谷川かな女(高浜虚子門下)
そういう環境があって、家でも句会をやっていた。
私は「知水」という俳号をもっている。 現代俳句協会の会員。
私の子供の頃はフラフープがはやった時代で、豊かではなかったけれど、白黒TVがどの家庭にも広がり始めた時代です。
慶應義塾志木高等学校へ進学して、応援団(応援指導部)に入る。
慶應義塾大学文学部でも応援団に入る。
ドイツ文学の宮下啓三先生が恩師で、お芝居がすごく好きな人だった。
千田是也さんと先生は付き合いがあって、学生時代に千田是也さんと飲んだことが有るが、小沢さんの恩師でもあった、いろいろつながりが有るものです。
小説はテリトリーが狭くても良い様な感じがする。
TVは今日やることと明日やることがまるで違う素材をやってもしょうがない事だが、小説の方が体系だてて、自分の得意分野を歩んでゆく事は出来るかもしれない。
今銀座を舞台にしたものを書いていますが、それとは別に、中西龍さんをモデルにした小説を書いている。
土地を舞台にして人を絡めて書くのも好きですが、評伝みたいなものも好きです。
埼玉県出身59歳 先ごろ小沢昭一さんの人生を纏めた「明日のこころだ」を出版しました。
小沢さんと言うと、俳優、放浪芸の研究者、エッセーイスト、「小沢昭一の小沢昭一的心」のパーソナリティーとしても活躍。
三田さんは慶応大学卒業後、昭和53年にNHKに就職、ディレクターとして新潟局を振り出しに、仕事を始め、4年後東京の歌番組を制作するセクションに転勤しました。
平成4年にNHKを退職、民放等でTV番組を制作、執筆活動を始めます。
平成12年にロシア人の幇間 太鼓持ちを描いた「櫻川イワンの恋」でオール読み物新人賞で受賞し、作家デビュー、平成19年には昭和初期を舞台に俳句の会で出会った3人娘の友情や恋愛を描いた「俳風三麗花」が137回の直木賞の候補にもなりました。
翌年にはNHKの中西龍アナウンサーの人生をまとめた「当マイクロフォン」を出版しています。
又「知水」という俳号では俳句の世界でも活躍しています。
「あしたのこころだ」 著書出版
とっても胸の中に小沢さんにまつわる声の思い出、話の内容、ハーモニカの音色が残っているんだなと改めて思いました。
小沢さんは昭和4年生まれ、平成24年に83歳で亡くなっている。
小沢さんは「変哲」という俳号をもっていた。
久保田万太郎風の洒脱なお方だったと思います。
40年間続けられて「小沢昭一の小沢昭一的心」の最後の4年ぐらいはその台本を書かせて頂いていました。
小沢昭一さんは本当の意味でのタレントだったと思います。
一緒に歩いていて、新しいラーメン屋を覗き込んだり、野良猫に話しかけたり、本当に面白かったですね。(好奇心の塊)
新潟に4年間赴任、4年目にラジオで特集番組をやりたいと思い、村田文三という古い民謡歌手を取材するものだった。
「佐渡おけさ」を日本全国に広めた人。
声が合うのではないかと、小沢さんへの出演依頼を手紙でお願いした。
それが小沢さんとの最初の出会いでした。
私がNHKを辞めてから、ポツンポツンとご一緒させていただいた。
「小沢昭一的心」を書かせていただく様になる。
平成4年にNHKを退職後、阿久悠さんとコンタクトが有り、阿久悠さんのお手伝いをさせていただいたり、放送の仕事の企画などをやっていました。
2000年に 「櫻川イワンの恋」でオール読み物新人賞で受賞することになる。
2007年に「俳風三麗花」が直木賞候補になる。
40歳になった時点でTVの企画等についていけなくなった様な気がした。
民放でやっていたときに若者向けの番組が多くて、自分の性癖とTVの企画が齟齬を生じていたと思う。
「俳魁」著書 7,5調、俳句はもともと好きだった様に思う。
友達と句会をやってみようという事になり、句会に出席するようになり、はまってゆく事になる。
母は長谷川秋子(昭和の有名な俳人)、祖母は長谷川かな女(高浜虚子門下)
そういう環境があって、家でも句会をやっていた。
私は「知水」という俳号をもっている。 現代俳句協会の会員。
私の子供の頃はフラフープがはやった時代で、豊かではなかったけれど、白黒TVがどの家庭にも広がり始めた時代です。
慶應義塾志木高等学校へ進学して、応援団(応援指導部)に入る。
慶應義塾大学文学部でも応援団に入る。
ドイツ文学の宮下啓三先生が恩師で、お芝居がすごく好きな人だった。
千田是也さんと先生は付き合いがあって、学生時代に千田是也さんと飲んだことが有るが、小沢さんの恩師でもあった、いろいろつながりが有るものです。
小説はテリトリーが狭くても良い様な感じがする。
TVは今日やることと明日やることがまるで違う素材をやってもしょうがない事だが、小説の方が体系だてて、自分の得意分野を歩んでゆく事は出来るかもしれない。
今銀座を舞台にしたものを書いていますが、それとは別に、中西龍さんをモデルにした小説を書いている。
土地を舞台にして人を絡めて書くのも好きですが、評伝みたいなものも好きです。
2015年4月25日土曜日
川口有美子(日本ALS協会理事) ・難病ALSの母の介護から学んだこと(2)
川口有美子(日本ALS協会理事) ・難病ALSの母の介護から学んだこと(2)
最後にはまぶたの開閉ができなくなる。
瞬きで意志で伝えることができるがそれすらできなくなる。(医師から言われる通りになる)
それでどん底の気持ちになって安楽死させなければとも思ったが、一方では母に対して否定的だったのが或る日を堺に肯定的になって、ちょっと距離を取るようになって、母の全体像が見えてきて、殺意が薄らいでゆくと、どういう風にこの体のコンディションを保とうかと、発想が変わって来て看護的な眼が出てきた。
バイタルをきちっと計って行ったら、毎日の体調が変化してゆくが、話しかけたことに対して母がちゃんと反応しているのが判った。
バイタル:血圧の上下、脈拍、顔の紅潮等。
母の動悸が烈しい時が有り、添い寝していたら、私も眠ってしまったが、動悸が直っていて、こういうことが利くのかなあと思ったりした。
植物も愛情込めて育てていると花が咲くが、母も蘭のように育てて行こうと思ってやっていたら、そうしたら凄く体調が判ってきた。
母が心配になる様なことを母に相談してはいけませんと看護師さんから言われた。
母は言い返せないので、皆自分の人生相談を母にするので、皆の秘密を母は知っていて、それを看護師さんが感づいて叱られた。
春の風が気持ちよく吹いてきたときには、ベランダに連れて行ったりして、身体に気持ちいい様なことを沢山しました。
一回先生に呼吸器を取れないからずーっと寝かせてほしいといったが、先生は母は頭がはっきりしているので、これを引っ張り出す方に向かうべきだとおっしゃった。
言葉を拾ってあげる事を考えないといけないと。
そうかと思ってそれが転機になり、大学に行くわけです。
呼吸器はずし派と読み取り派で、大学でも大激論だったが、最初は私は呼吸器はずし派だったが、先生との話の中で読み取り派の方に考えが変わって、私は読み取り派になった。
困っている人がいれば困っている人を助けるために何ができるかと考えることによって、科学が進歩してきた。
そういうひとたちを殺してしまったら、進歩は止まるだろうと思います。
困っている人を助ける方向に皆で協力して行ったり、皆のお金を費やすのが正しいと思う。
必死でその人は語りたいと思っているのであれば、拾ってあげられない私たちが未熟なんですね。
拾うためにはどうしたらいいかという方向に行かないと、人類は進歩しない。
可なりのことが体から拾えることが出来る。(体と対話してゆく それから8年になります。)
母は家の中心にいて、母は留守番ができた、ヘルパーさんがいてくれて、いつも誰かがいて、子供がいて、声をかけてくれる。
そういう事で母はおばあちゃんの役割をしていた。
母は、私が死ねば多分新しいおかあさんが来るので、健康なお母さんに育ててもらった方が孫たちも幸せだと、でも私は、お母さんは病気になった姿で生きてゆくのが子供達に取って一番教育になる、ドンドン悪くなっていったとしても、存在自体が子供達には大事だから、とにかく頑張って生きていてと、言ってしまうが、本人にすれば其身体で生きていくのは本当に辛いことだとは思います。
多臓器不全になって、体が細胞レベルで弱って来ているのが判って、最終的には家で亡くなった。
10年以上介護をして来たので、いつかこの日が来ると思って、頭の中ではシュミレーションが出来ているので、心の準備も出来ているので、きちんと自分たちだけで看取ることができた。
私も妹も「ありがとう」と言いました。 其時は涙は出なかった。
葬式では泣きました。
お棺の蓋を閉めて釘で打ちますが、あれがダメでした、そんなことをしたら出てこれなくなってしまうと思った。
体に対する愛着が凄まじくあったので、死体であっても母の体が焼けちゃうのが許し難かった。
其時はオイオイ泣きました。
ボイラーで焼かれるのが地獄の釜と思った。
母が頑張ったおかげで郵便投票が出来る様になったし、ヘルパーさんに勤務させたいと運動して法律ができたし、素人からヘルパーを養成するという事も母をきっかけにできたので、それが全国に広がってきた。
母が十字架に張り付けになったキリストと重なるんですが、どんなに辛かっただろうと思います。
難病の患者は辛いが、死んではいけないと思う。
自己肯定感は無くなるが、長く生きていくうちに何か役割を発見して、皆がそれに協力してくれる、必ずそういう言う風になってゆくのが人間の社会だと思う様になった。
90年代の後半ぐらいから呼吸器を付ける患者が凄く増えてきた。
2000年以降に介護の制度ができてきて、かなり日本の社会の中の重度障害の人たちの姿が見えるようになってきた。
日本は呼吸器が付けられるのが3割、他の国は1割以下とか1%いかとか、呼吸器をほとんど付けない。
日本はハッピーな患者さんたちが多い。
そういうALS患者の人たちがALSの新患へのパフォーマンスをして、元気になって、ということをしている。
2000年の頃に、オランダで安楽死法制化になった時に、オランダへALS協会から抗議のために呼吸器を付けて、命懸けで飛行機に乗って行ったこともある。
患者さん達が人間の限界に挑戦して、乗り越えてゆく事をドンドンやって行って制覇する快感がある。
2006年にALSを発症して3年後に呼吸器を付けて、現在日本ALS協会の副会長をされている岡部さんが、一人で暮らしていて、自分でヘルパーを育てたりしている。
岡部宏生さんからの手紙
「いろいろあるけど結構元気です。嬉しいことも喜びも沢山あります。
それを含めていろんなことが有るという事です。
きざに言うと、人の生き方がいろいろあるという事の体験者です。」
岡部さんは本当に自分は死んでしまいたくなるようないろんなつらい事ことがあって、あかるい文章が読めたという事は、私は感無量です。
自己肯定感が強くなって、自分を卑下していたのに、長生きしてくると、そういう風に言いだすというのは本当に素晴らしいことだと思う。
環境とか(体は悪くなってきてもそのままでいいよと言ってくれる様な)、人との関係性に依って自分を取り戻してくる。
岡部さんはALS協会の副会長として、各方面と交渉しているし、政治家とか政策立案者と話をして大切な法律や制度ができてゆく。
辛いことがあると、岡部さんにメールして相談したり、岡部さんのところで泣いた事もあります。
アドバイスを受けるとホッとしたりしてます。
治らない病気だけど、岡部さんはALSに勝利したと思います。
病気を知って最初は一番落ち込んでしまって自殺したり、安楽死ができる国があるがそういう法律を使って死んでしまったりとかあるが、それはもったいないと思う。
地方によっては介護環境の格差があり、自分を取り戻せない様なことがあるが、岡部さんの一番の目的は格差を無くすことではないかと思います。
自分の考え方と違った考え方をもっている人と付き合う事は宝でしょう。
違った考えを取り入れて、そうするとにっちもさっちもいかなかったのに道が開ける、そういう出会いが私の場合は多くて、あーっもう駄目だなあと思った時に、こっちに道が有ったと、開けてゆきます。
患者さん、その家族への支援は、情報の拡散です。
これはと思ったことは周りに伝える。
ALS協会は呼吸器を付けない選択も尊重する。
7割の人が呼吸器をつけないで亡くなってゆく。(本人が満足出来れば認めなければいけない)
ちゃんと説明をしないで呼吸器を付けない方に導引してしまう事があるので、その時はそれは違うでしょうと怒ります。
患者が公平に選択できるようにしてあげないといけない。(安心して呼吸器をつけてもいいという)
家族が大丈夫と言えるように、周りが一生懸命働きかけて家族を支えないといけない。
家族は支えられると、家族は安心して大丈夫だよと言えるようになるので、そこまで何とか、整えたい。
ALSから学んだことは、ありのままの自分を認めること、弱い自分を許すことでもある。
できない、できなくていいやとなった時に、先に進める。
患者さんがのたうちまわりながら、段々自分でもういいやと解除してゆくというのが、患者さんのチャレンジを見ながら、私も頑張るのを辞めなきゃと、いまだに思う。
最初の解除は自分で介護を仕切っていたが、それを止めてヘルパーさんに入ってもらったが、それが最初のまあいいやというものでした。
弱いという事は自由という事に近い。
出来ないことは出来る人にやってもらうという事は楽になるし、そうすると人と繋がってゆく。
自分を大切にできないと、人を大切にできないし、或る意味利己主義でいいと思う。
自分が大事と思う人ばっかりだったら、お互いに尊重できる。
自分の生きたい生き方が達成できる様な社会になってゆくと思うが、日本が一番考えなくてはいけないことだと思います。
最後にはまぶたの開閉ができなくなる。
瞬きで意志で伝えることができるがそれすらできなくなる。(医師から言われる通りになる)
それでどん底の気持ちになって安楽死させなければとも思ったが、一方では母に対して否定的だったのが或る日を堺に肯定的になって、ちょっと距離を取るようになって、母の全体像が見えてきて、殺意が薄らいでゆくと、どういう風にこの体のコンディションを保とうかと、発想が変わって来て看護的な眼が出てきた。
バイタルをきちっと計って行ったら、毎日の体調が変化してゆくが、話しかけたことに対して母がちゃんと反応しているのが判った。
バイタル:血圧の上下、脈拍、顔の紅潮等。
母の動悸が烈しい時が有り、添い寝していたら、私も眠ってしまったが、動悸が直っていて、こういうことが利くのかなあと思ったりした。
植物も愛情込めて育てていると花が咲くが、母も蘭のように育てて行こうと思ってやっていたら、そうしたら凄く体調が判ってきた。
母が心配になる様なことを母に相談してはいけませんと看護師さんから言われた。
母は言い返せないので、皆自分の人生相談を母にするので、皆の秘密を母は知っていて、それを看護師さんが感づいて叱られた。
春の風が気持ちよく吹いてきたときには、ベランダに連れて行ったりして、身体に気持ちいい様なことを沢山しました。
一回先生に呼吸器を取れないからずーっと寝かせてほしいといったが、先生は母は頭がはっきりしているので、これを引っ張り出す方に向かうべきだとおっしゃった。
言葉を拾ってあげる事を考えないといけないと。
そうかと思ってそれが転機になり、大学に行くわけです。
呼吸器はずし派と読み取り派で、大学でも大激論だったが、最初は私は呼吸器はずし派だったが、先生との話の中で読み取り派の方に考えが変わって、私は読み取り派になった。
困っている人がいれば困っている人を助けるために何ができるかと考えることによって、科学が進歩してきた。
そういうひとたちを殺してしまったら、進歩は止まるだろうと思います。
困っている人を助ける方向に皆で協力して行ったり、皆のお金を費やすのが正しいと思う。
必死でその人は語りたいと思っているのであれば、拾ってあげられない私たちが未熟なんですね。
拾うためにはどうしたらいいかという方向に行かないと、人類は進歩しない。
可なりのことが体から拾えることが出来る。(体と対話してゆく それから8年になります。)
母は家の中心にいて、母は留守番ができた、ヘルパーさんがいてくれて、いつも誰かがいて、子供がいて、声をかけてくれる。
そういう事で母はおばあちゃんの役割をしていた。
母は、私が死ねば多分新しいおかあさんが来るので、健康なお母さんに育ててもらった方が孫たちも幸せだと、でも私は、お母さんは病気になった姿で生きてゆくのが子供達に取って一番教育になる、ドンドン悪くなっていったとしても、存在自体が子供達には大事だから、とにかく頑張って生きていてと、言ってしまうが、本人にすれば其身体で生きていくのは本当に辛いことだとは思います。
多臓器不全になって、体が細胞レベルで弱って来ているのが判って、最終的には家で亡くなった。
10年以上介護をして来たので、いつかこの日が来ると思って、頭の中ではシュミレーションが出来ているので、心の準備も出来ているので、きちんと自分たちだけで看取ることができた。
私も妹も「ありがとう」と言いました。 其時は涙は出なかった。
葬式では泣きました。
お棺の蓋を閉めて釘で打ちますが、あれがダメでした、そんなことをしたら出てこれなくなってしまうと思った。
体に対する愛着が凄まじくあったので、死体であっても母の体が焼けちゃうのが許し難かった。
其時はオイオイ泣きました。
ボイラーで焼かれるのが地獄の釜と思った。
母が頑張ったおかげで郵便投票が出来る様になったし、ヘルパーさんに勤務させたいと運動して法律ができたし、素人からヘルパーを養成するという事も母をきっかけにできたので、それが全国に広がってきた。
母が十字架に張り付けになったキリストと重なるんですが、どんなに辛かっただろうと思います。
難病の患者は辛いが、死んではいけないと思う。
自己肯定感は無くなるが、長く生きていくうちに何か役割を発見して、皆がそれに協力してくれる、必ずそういう言う風になってゆくのが人間の社会だと思う様になった。
90年代の後半ぐらいから呼吸器を付ける患者が凄く増えてきた。
2000年以降に介護の制度ができてきて、かなり日本の社会の中の重度障害の人たちの姿が見えるようになってきた。
日本は呼吸器が付けられるのが3割、他の国は1割以下とか1%いかとか、呼吸器をほとんど付けない。
日本はハッピーな患者さんたちが多い。
そういうALS患者の人たちがALSの新患へのパフォーマンスをして、元気になって、ということをしている。
2000年の頃に、オランダで安楽死法制化になった時に、オランダへALS協会から抗議のために呼吸器を付けて、命懸けで飛行機に乗って行ったこともある。
患者さん達が人間の限界に挑戦して、乗り越えてゆく事をドンドンやって行って制覇する快感がある。
2006年にALSを発症して3年後に呼吸器を付けて、現在日本ALS協会の副会長をされている岡部さんが、一人で暮らしていて、自分でヘルパーを育てたりしている。
岡部宏生さんからの手紙
「いろいろあるけど結構元気です。嬉しいことも喜びも沢山あります。
それを含めていろんなことが有るという事です。
きざに言うと、人の生き方がいろいろあるという事の体験者です。」
岡部さんは本当に自分は死んでしまいたくなるようないろんなつらい事ことがあって、あかるい文章が読めたという事は、私は感無量です。
自己肯定感が強くなって、自分を卑下していたのに、長生きしてくると、そういう風に言いだすというのは本当に素晴らしいことだと思う。
環境とか(体は悪くなってきてもそのままでいいよと言ってくれる様な)、人との関係性に依って自分を取り戻してくる。
岡部さんはALS協会の副会長として、各方面と交渉しているし、政治家とか政策立案者と話をして大切な法律や制度ができてゆく。
辛いことがあると、岡部さんにメールして相談したり、岡部さんのところで泣いた事もあります。
アドバイスを受けるとホッとしたりしてます。
治らない病気だけど、岡部さんはALSに勝利したと思います。
病気を知って最初は一番落ち込んでしまって自殺したり、安楽死ができる国があるがそういう法律を使って死んでしまったりとかあるが、それはもったいないと思う。
地方によっては介護環境の格差があり、自分を取り戻せない様なことがあるが、岡部さんの一番の目的は格差を無くすことではないかと思います。
自分の考え方と違った考え方をもっている人と付き合う事は宝でしょう。
違った考えを取り入れて、そうするとにっちもさっちもいかなかったのに道が開ける、そういう出会いが私の場合は多くて、あーっもう駄目だなあと思った時に、こっちに道が有ったと、開けてゆきます。
患者さん、その家族への支援は、情報の拡散です。
これはと思ったことは周りに伝える。
ALS協会は呼吸器を付けない選択も尊重する。
7割の人が呼吸器をつけないで亡くなってゆく。(本人が満足出来れば認めなければいけない)
ちゃんと説明をしないで呼吸器を付けない方に導引してしまう事があるので、その時はそれは違うでしょうと怒ります。
患者が公平に選択できるようにしてあげないといけない。(安心して呼吸器をつけてもいいという)
家族が大丈夫と言えるように、周りが一生懸命働きかけて家族を支えないといけない。
家族は支えられると、家族は安心して大丈夫だよと言えるようになるので、そこまで何とか、整えたい。
ALSから学んだことは、ありのままの自分を認めること、弱い自分を許すことでもある。
できない、できなくていいやとなった時に、先に進める。
患者さんがのたうちまわりながら、段々自分でもういいやと解除してゆくというのが、患者さんのチャレンジを見ながら、私も頑張るのを辞めなきゃと、いまだに思う。
最初の解除は自分で介護を仕切っていたが、それを止めてヘルパーさんに入ってもらったが、それが最初のまあいいやというものでした。
弱いという事は自由という事に近い。
出来ないことは出来る人にやってもらうという事は楽になるし、そうすると人と繋がってゆく。
自分を大切にできないと、人を大切にできないし、或る意味利己主義でいいと思う。
自分が大事と思う人ばっかりだったら、お互いに尊重できる。
自分の生きたい生き方が達成できる様な社会になってゆくと思うが、日本が一番考えなくてはいけないことだと思います。
2015年4月24日金曜日
川口有美子(日本ALS協会理事) ・難病ALSの母の介護から学んだこと(1)
川口有美子(日本ALS協会理事) ・難病ALSの母の介護から学んだこと(1)
東京出身の52歳 20年前夫の転勤でイギリスに住んでいたときに、実の母親が難病のALSを発症しました。
筋委縮性側索硬化症と呼ばれる神経の病気で、身体が動かしにくくなって筋肉が痩せていきます。
進行すると手足だけで無く、呼吸に必要な筋肉まで動かせなくなって、器官切開して呼吸器を付けるか否かの重い選択を迫られることもあります。
母親の発症当時、主婦だった川口さんはイギリスから帰国して介護にあたります。
そして同じ病に罹った患者や其家族、周囲の人達と支え合い12年間の介護の末に、母親をみとりました。
そのご川口さんは介護の体験を著書「逝かない身体」に纏めて大宅壮一ノンフィクション賞を受賞しています。
1995年に母のALSの病気をイギリスに住んでいたときに、母からの電話で知った。
調べたらとんでもない病気であることを知った。
夫をイギリスに残して、子供と帰国する事になる。
母を看取ってから又イギリスにもどってくることを考えていたが、実際には帰れなかった。
私が帰ってきたことにより、孫の顔をみて、介護体制ができ、母は呼吸器を付けたいという風に、考えが変わった。
父と妹はそれまで介護していたが、介護に疲れていて、帰国したときには家族の笑顔はなかった。
暫くは病院にいて、泊まり込みで母のそばにいて、母の手に鈴を縛り付けて、鈴の音で起きて吸引したり、排泄の介助をしていたりして、24時間貼りつく壮絶な介護をスタートした。
重度身体障害者でしかも意識がしっかりしている介護は、大変特殊な介護でした。
やり始めたら是は大変で、何時まで続くのかと思った。
寝たきりだが、意識がはっきりしている。
母が言いたいことが有りそうだと、眼をぱちぱちっとやるので、文字盤をもって行って、透明な板に50音が書いてあって、母が目で見詰めた処の文字を拾っていってコミュニケーションを取るが母が起きている間中していました。
自分のことができなかった。
妹は仕事に出かけていたので、帰って来てから母の文字盤取りをやるので、夜は寝てもらうが母が3時間ぐらいで起きてしまう。
父は朝の4時ぐらいから交代して、妹は寝床に入って仮眠して会社に行くという状況でした。
3交代体制でした。(私、父、妹)
手、身体が重いという意思表示があったりするが、身体は動かないのに身体の重力の影響で感じるらしく、それを誤魔化すのにずーっと動かしてあげる。 足、手、お尻など(身体の微調整)
痰の吸引(15分おきに吸引)、排泄、眼薬さしたり、ずーっと体の管理をしつつ、文字盤を読んで時々和やかな会話になったりするときもある。
家族も風邪を引いたりするので、高熱が出ていても文字盤を取るようにという事で、休ませてくれなくてぼろぼろでした。
一番腹たったのは3歳の子供がインフルエンザで高熱を出して、母に呼吸器を付けて小児科にというわけにもいかず、でもこのままにしていたら子供が死んでしまうかもしれないので、母に言った時に駄目と言ったんです。
母は「あきらより自分の命なのね」 とか皮肉なことを言って母が泣いたりした。
家族の関係って言うのは修復ができないぐらい、ずたずたにするんです、この病気は、それが恐ろしい。
介護保険前の時代だったので、家族だけで全部やって下さいという時代だったので、私は実家に取られてしまったような状態でした。
最初私の家庭の事、母の介護の両方とも頑張ろうと思っていたが、きびしかった。
呼吸器を付ければ進行しなくなると思っていたが、呼吸器を付けても進行するので、主治医の先生に言ったが、私はちゃんとわかっていなかった。
無駄な事をしてしまったのかと思いました。
母は眼も開けられなくなって、呼吸器を付けなければよかったねと、無理やりイギリスから帰ってこなければよかったのではと思ったりして、徹底的に自分を責めてしまって落ち込んでしまって、「ごめんね、ごめんね」と思っていたが、「ごめんね」は間違っていると思った、母が頑張って生きている事に対して、「ごめんね」は否定する事になるので、それは間違っていたと思った。
親子喧嘩で呼吸器をはずしたりしたこともある。 売り言葉に買い言葉で「呼吸器を取って」というので「取ってやる」と取ったりしたこともあるが、殺すことはできない。
そんなことを父も妹も似たようなことが有った様です。
日本ではいったん呼吸を付けると外せない事になっている。
安楽死の検索をするようになって、安楽死ができるという、2000年にオランダで法案が通ったことを知る。
なんで日本ではできないのか調べ始めた。
学者等にメールを打ちまくった。
返事は森岡 正博先生と立岩 真也先生(立命館大学)から返事が来た。
介護は家族だけでやるもんだと思っていたら、区に問い合わせたらヘルパーの制度が有ることを知る。
それで段々楽になっていった。
メールを介して人とのつながりもできるようになった。
外にいけるようになると、自分がやりたいことを自分でやる様になる。
貯金を全部使って、まずチェロを購入した。
訪問看護師さんが妹に「あなたたち兄弟はどんな悪いことをしても、許されるのよ、神様にゆるしてもらえるから。」と言って帰ったと聞いて、悪い事って何だろうと考えたが、訪問看護師さんがそう言わしめたぐらい、はたから見るとそれぐらい大変だった。
生真面目な良妻賢母を止めることにした。(悪いこと)
娘にバイオリンを習わせていたが、ギリギリの環境の中では、私も娘も面白くなかったので辞めさせて、塾、英語、水泳全部やめました。
自分がやりたいものを一切辞めていたが、するようになった。
チェロ、パソコンをやり始めてそれから変わって行って、情報収集をして、客観視出来るようになった。
フラメンコもやり始める。(ラテン系の性格が芽生える)
仲間を増やそうという思いが出てきて、会社を興した。
長く続けるためにはボランティアではだめで、有償でやらないと駄目だと思う。
どういう風にヘルパーを募集して、どういう風に養成して言ったらいいか障害者のところで聞いた。
アルバイト募集雑誌に広告として出して、最初は私の母で研修、文字盤を教えて行って、自分の会社に登録して、他の患者さんのところに派遣して会社経営をするようになった。
区の行政の人からも頼まれるようになりました。
母は元気なころは、認知症の家族を支援する会をしていたメンバーの一人だったので、介護の問題を社会の問題として捉えていたので、選挙が大事だと思っていて、寝ていても郵便投票出来るという事で取り寄せたが、自分で書かないといけないという事で、それはおかしいという事になり、新聞社が来て聞いてきて、そのときは眼を輝かせていて、私は母が戻ってきたと感じて、母も変わって来て、この病気は貧困の人がなったら大変だとか生活保護のこととか、、自分の事ではないことを言い出して、それが母の生き甲斐になってきた。
母が生き生きしてくると介護も変わってくる。(そのころからヘルパーさんも来たので私自身も助かった)
法律を変えなければいけないという、生き甲斐を見出したと思う。
呼吸器を付ける段階は、生き甲斐なんて、ほとんどの人が見いだせない、絶望している時に呼吸器を付ける。
社会的な意義だけではなくても、ベランダで花を育ててそれを楽しみにしている患者さん、ペットを飼うとか、孫の成長を見届けたいとか、そういう事に生き甲斐を見出してゆく人がいます。
一生懸命になってALSの支援をしている人がいて、その魅力は人間性があらわになってくるところ、、どん底で不幸そのものからたち直ってゆくのを、すぐ近くで見ている快感、それでALSに魅了される。
東京出身の52歳 20年前夫の転勤でイギリスに住んでいたときに、実の母親が難病のALSを発症しました。
筋委縮性側索硬化症と呼ばれる神経の病気で、身体が動かしにくくなって筋肉が痩せていきます。
進行すると手足だけで無く、呼吸に必要な筋肉まで動かせなくなって、器官切開して呼吸器を付けるか否かの重い選択を迫られることもあります。
母親の発症当時、主婦だった川口さんはイギリスから帰国して介護にあたります。
そして同じ病に罹った患者や其家族、周囲の人達と支え合い12年間の介護の末に、母親をみとりました。
そのご川口さんは介護の体験を著書「逝かない身体」に纏めて大宅壮一ノンフィクション賞を受賞しています。
1995年に母のALSの病気をイギリスに住んでいたときに、母からの電話で知った。
調べたらとんでもない病気であることを知った。
夫をイギリスに残して、子供と帰国する事になる。
母を看取ってから又イギリスにもどってくることを考えていたが、実際には帰れなかった。
私が帰ってきたことにより、孫の顔をみて、介護体制ができ、母は呼吸器を付けたいという風に、考えが変わった。
父と妹はそれまで介護していたが、介護に疲れていて、帰国したときには家族の笑顔はなかった。
暫くは病院にいて、泊まり込みで母のそばにいて、母の手に鈴を縛り付けて、鈴の音で起きて吸引したり、排泄の介助をしていたりして、24時間貼りつく壮絶な介護をスタートした。
重度身体障害者でしかも意識がしっかりしている介護は、大変特殊な介護でした。
やり始めたら是は大変で、何時まで続くのかと思った。
寝たきりだが、意識がはっきりしている。
母が言いたいことが有りそうだと、眼をぱちぱちっとやるので、文字盤をもって行って、透明な板に50音が書いてあって、母が目で見詰めた処の文字を拾っていってコミュニケーションを取るが母が起きている間中していました。
自分のことができなかった。
妹は仕事に出かけていたので、帰って来てから母の文字盤取りをやるので、夜は寝てもらうが母が3時間ぐらいで起きてしまう。
父は朝の4時ぐらいから交代して、妹は寝床に入って仮眠して会社に行くという状況でした。
3交代体制でした。(私、父、妹)
手、身体が重いという意思表示があったりするが、身体は動かないのに身体の重力の影響で感じるらしく、それを誤魔化すのにずーっと動かしてあげる。 足、手、お尻など(身体の微調整)
痰の吸引(15分おきに吸引)、排泄、眼薬さしたり、ずーっと体の管理をしつつ、文字盤を読んで時々和やかな会話になったりするときもある。
家族も風邪を引いたりするので、高熱が出ていても文字盤を取るようにという事で、休ませてくれなくてぼろぼろでした。
一番腹たったのは3歳の子供がインフルエンザで高熱を出して、母に呼吸器を付けて小児科にというわけにもいかず、でもこのままにしていたら子供が死んでしまうかもしれないので、母に言った時に駄目と言ったんです。
母は「あきらより自分の命なのね」 とか皮肉なことを言って母が泣いたりした。
家族の関係って言うのは修復ができないぐらい、ずたずたにするんです、この病気は、それが恐ろしい。
介護保険前の時代だったので、家族だけで全部やって下さいという時代だったので、私は実家に取られてしまったような状態でした。
最初私の家庭の事、母の介護の両方とも頑張ろうと思っていたが、きびしかった。
呼吸器を付ければ進行しなくなると思っていたが、呼吸器を付けても進行するので、主治医の先生に言ったが、私はちゃんとわかっていなかった。
無駄な事をしてしまったのかと思いました。
母は眼も開けられなくなって、呼吸器を付けなければよかったねと、無理やりイギリスから帰ってこなければよかったのではと思ったりして、徹底的に自分を責めてしまって落ち込んでしまって、「ごめんね、ごめんね」と思っていたが、「ごめんね」は間違っていると思った、母が頑張って生きている事に対して、「ごめんね」は否定する事になるので、それは間違っていたと思った。
親子喧嘩で呼吸器をはずしたりしたこともある。 売り言葉に買い言葉で「呼吸器を取って」というので「取ってやる」と取ったりしたこともあるが、殺すことはできない。
そんなことを父も妹も似たようなことが有った様です。
日本ではいったん呼吸を付けると外せない事になっている。
安楽死の検索をするようになって、安楽死ができるという、2000年にオランダで法案が通ったことを知る。
なんで日本ではできないのか調べ始めた。
学者等にメールを打ちまくった。
返事は森岡 正博先生と立岩 真也先生(立命館大学)から返事が来た。
介護は家族だけでやるもんだと思っていたら、区に問い合わせたらヘルパーの制度が有ることを知る。
それで段々楽になっていった。
メールを介して人とのつながりもできるようになった。
外にいけるようになると、自分がやりたいことを自分でやる様になる。
貯金を全部使って、まずチェロを購入した。
訪問看護師さんが妹に「あなたたち兄弟はどんな悪いことをしても、許されるのよ、神様にゆるしてもらえるから。」と言って帰ったと聞いて、悪い事って何だろうと考えたが、訪問看護師さんがそう言わしめたぐらい、はたから見るとそれぐらい大変だった。
生真面目な良妻賢母を止めることにした。(悪いこと)
娘にバイオリンを習わせていたが、ギリギリの環境の中では、私も娘も面白くなかったので辞めさせて、塾、英語、水泳全部やめました。
自分がやりたいものを一切辞めていたが、するようになった。
チェロ、パソコンをやり始めてそれから変わって行って、情報収集をして、客観視出来るようになった。
フラメンコもやり始める。(ラテン系の性格が芽生える)
仲間を増やそうという思いが出てきて、会社を興した。
長く続けるためにはボランティアではだめで、有償でやらないと駄目だと思う。
どういう風にヘルパーを募集して、どういう風に養成して言ったらいいか障害者のところで聞いた。
アルバイト募集雑誌に広告として出して、最初は私の母で研修、文字盤を教えて行って、自分の会社に登録して、他の患者さんのところに派遣して会社経営をするようになった。
区の行政の人からも頼まれるようになりました。
母は元気なころは、認知症の家族を支援する会をしていたメンバーの一人だったので、介護の問題を社会の問題として捉えていたので、選挙が大事だと思っていて、寝ていても郵便投票出来るという事で取り寄せたが、自分で書かないといけないという事で、それはおかしいという事になり、新聞社が来て聞いてきて、そのときは眼を輝かせていて、私は母が戻ってきたと感じて、母も変わって来て、この病気は貧困の人がなったら大変だとか生活保護のこととか、、自分の事ではないことを言い出して、それが母の生き甲斐になってきた。
母が生き生きしてくると介護も変わってくる。(そのころからヘルパーさんも来たので私自身も助かった)
法律を変えなければいけないという、生き甲斐を見出したと思う。
呼吸器を付ける段階は、生き甲斐なんて、ほとんどの人が見いだせない、絶望している時に呼吸器を付ける。
社会的な意義だけではなくても、ベランダで花を育ててそれを楽しみにしている患者さん、ペットを飼うとか、孫の成長を見届けたいとか、そういう事に生き甲斐を見出してゆく人がいます。
一生懸命になってALSの支援をしている人がいて、その魅力は人間性があらわになってくるところ、、どん底で不幸そのものからたち直ってゆくのを、すぐ近くで見ている快感、それでALSに魅了される。
2015年4月23日木曜日
藤原道山 (尺八演奏家) ・尺八で尺八を超える
藤原道山 (尺八演奏家) ・尺八で尺八を超える
邦楽界の貴公子と呼ばれる藤原さんは、1972年東京都出身42歳、人間国宝の尺八演奏家山本邦山に師事し、東京芸術大学音楽学部を卒業、2001年にCDデビューしました。
これまでにCD14枚を発売してきたほか、尺八演奏の新しい可能性を求め、坂本龍一さんや、野村満斎さんを初め様々な分野のアーティストと共演を重ねてきました。
デビューから15年、更に新しい表現を目指す、藤原さんに伺いました。
「アメイジング・グレイス」 讃美歌として歌わている作品 祈りの曲
尺八も江戸時代に虚無僧が祈りを込めて吹いていたといわれる。
祈りをささげるような気持で演奏しています。
尺八の音色は様々なものであるにもかかわらず、荒々しいところがクローズアップされていて、多彩な音を知ってもらいたいと思って、それとは対極にある音を演奏して、見直してもらう事が出来るのでは無いかと、そんな思いでこういう音を使っている。
音楽は何でも好きで、リコーダーが特に好きで、吹いていた。
祖母や母が琴をやっていたので、小学校5年生の時に、琴よりも尺八の方がいいのではと勧められたのがきっかけです。
最初音が出なかったのが衝撃的だった。
悔しくてたまらなかった。
1週間ぐらいしたらようやく音らしきものが出て、非常に嬉しかった。
徐々に音が出てくる。
次に曲が吹けるようになって、なってきた。
最初は街のお師匠さんに習って、途中から山本邦山さんに習う様になった。
先生はほとんど細かいことをおっしゃらなくて、自分の演奏を見てとって生きなさいというタイプだった、丁寧に教えるのではなく、逆だったからよかったと思う。
舞台に声を掛けられて、自分にも勉強になり、別の集中力が加わっている様な気がして、一つの舞台は100回の練習に勝るといわれる。
東京芸術大学の邦学部に入る。
クラッシック、民族音楽などにも接して、仲間にも知り合えて取っても大きな財産になりました。
5つの穴しかない楽器 表に4つ、裏に1つ穴があいている。 非常にシンプルな楽器。
普通に演奏すると5つの音しか出ないが、洋楽の作品をやると5つだけではできないし、邦楽でもいろんな音を使っている。
いろんな技が有る。
①息 息の調整によって様々な音が出る。 澄んだ音から荒々しい音等。
②指 指孔 直径1cmの穴があるが、半分開けたり1/4開けたりして、部妙な音程を作ってゆく。
微妙に動かせば無限大の音ができるはず。 新しい尺八に慣れるには2~3年ぐらいかかる
③首 一番特徴的 縦に振ると音の高さが変わる。 首を上げると音が高くなる。
横に振るとビブラートがかかる。
3つの組み合わせで1音、1音作ってゆく。
ちょっとしたニュアンスの差が出てきてしまうので、或る意味自分の考えている事がダイレクトに出てくる楽器なので、恐い楽器であると同時に面白い楽器だと思う。
楽器をコントロールをすることが難しい。
自分の感情、思いと出てくる音が一致するようになるが、そこまで来るのに長い道のりです。
今出している音が全てなので、後で反省する事はあるかもしれないが、今の等身大の自分という意味ではそれが正解なんだと思います。
2001年にCDを初めて作って、毎回違うことをやりたいと思っている。
尺八を知らない人が多いため、今までと同じことをしていたら、注目してもらえないと思って。
13枚常に違ったアプローチで作ってきました。
「MINORI」の曲 ウイーンフィルコンサートマスターのフォルクハルト・シュトイデ(バイオリニスト)、から参加してほしいとの事でゲスト出演して、其時に新しく作ったのが「実のり」です。
五穀豊穣、の五と尺八の穴の数の五の音 五を掛けあわせた曲です。
坂本龍一、野村満斎氏等、違った分野の人と共演。
自分の体にないものを得ることができる楽しさ、喜びが有って、又リンクする部分が有って、新たな創作につながっていく事が往々にしてある。
舞台をやっていると役者さんのタイミング、凄い役者さんはこちらの音をしっかり聞いていて、私が吹いたテンションをそのまま役にぶつけられるというのを、自分が感じ取ってから出すのが怖くなってしまったことが有る。
今の自分がもっとも表現できるものは、自分で作ってゆく作品ではないかと思うようになって、すこしづつ作るようになった。
じっくり自分の心の中で醸成されたものが出てくる感じで作曲には時間がかかる。
東京芸術大学で後進への指導もしている。
自分としては凄く学んでいるなあと思う。
自分が一生懸命やっている姿を見せるのが、大事ではないかと思っている。
この15年間は出会いが有ったことだと思う、出会うことによっていろいろ自分の中になかったものを得ることができたことは非常に大きいことだと思う。
新しいことをやってゆく事の壁、伝統的なことを掘り下げてゆく掘る作業も大切だなあと思う。
壁があるからこそ次に行こうという気持ちが、常に思えるのではないかと言う気がする。
「手塚治虫のブッダ」ー赤い砂漠よ!美しくー の曲
邦楽界の貴公子と呼ばれる藤原さんは、1972年東京都出身42歳、人間国宝の尺八演奏家山本邦山に師事し、東京芸術大学音楽学部を卒業、2001年にCDデビューしました。
これまでにCD14枚を発売してきたほか、尺八演奏の新しい可能性を求め、坂本龍一さんや、野村満斎さんを初め様々な分野のアーティストと共演を重ねてきました。
デビューから15年、更に新しい表現を目指す、藤原さんに伺いました。
「アメイジング・グレイス」 讃美歌として歌わている作品 祈りの曲
尺八も江戸時代に虚無僧が祈りを込めて吹いていたといわれる。
祈りをささげるような気持で演奏しています。
尺八の音色は様々なものであるにもかかわらず、荒々しいところがクローズアップされていて、多彩な音を知ってもらいたいと思って、それとは対極にある音を演奏して、見直してもらう事が出来るのでは無いかと、そんな思いでこういう音を使っている。
音楽は何でも好きで、リコーダーが特に好きで、吹いていた。
祖母や母が琴をやっていたので、小学校5年生の時に、琴よりも尺八の方がいいのではと勧められたのがきっかけです。
最初音が出なかったのが衝撃的だった。
悔しくてたまらなかった。
1週間ぐらいしたらようやく音らしきものが出て、非常に嬉しかった。
徐々に音が出てくる。
次に曲が吹けるようになって、なってきた。
最初は街のお師匠さんに習って、途中から山本邦山さんに習う様になった。
先生はほとんど細かいことをおっしゃらなくて、自分の演奏を見てとって生きなさいというタイプだった、丁寧に教えるのではなく、逆だったからよかったと思う。
舞台に声を掛けられて、自分にも勉強になり、別の集中力が加わっている様な気がして、一つの舞台は100回の練習に勝るといわれる。
東京芸術大学の邦学部に入る。
クラッシック、民族音楽などにも接して、仲間にも知り合えて取っても大きな財産になりました。
5つの穴しかない楽器 表に4つ、裏に1つ穴があいている。 非常にシンプルな楽器。
普通に演奏すると5つの音しか出ないが、洋楽の作品をやると5つだけではできないし、邦楽でもいろんな音を使っている。
いろんな技が有る。
①息 息の調整によって様々な音が出る。 澄んだ音から荒々しい音等。
②指 指孔 直径1cmの穴があるが、半分開けたり1/4開けたりして、部妙な音程を作ってゆく。
微妙に動かせば無限大の音ができるはず。 新しい尺八に慣れるには2~3年ぐらいかかる
③首 一番特徴的 縦に振ると音の高さが変わる。 首を上げると音が高くなる。
横に振るとビブラートがかかる。
3つの組み合わせで1音、1音作ってゆく。
ちょっとしたニュアンスの差が出てきてしまうので、或る意味自分の考えている事がダイレクトに出てくる楽器なので、恐い楽器であると同時に面白い楽器だと思う。
楽器をコントロールをすることが難しい。
自分の感情、思いと出てくる音が一致するようになるが、そこまで来るのに長い道のりです。
今出している音が全てなので、後で反省する事はあるかもしれないが、今の等身大の自分という意味ではそれが正解なんだと思います。
2001年にCDを初めて作って、毎回違うことをやりたいと思っている。
尺八を知らない人が多いため、今までと同じことをしていたら、注目してもらえないと思って。
13枚常に違ったアプローチで作ってきました。
「MINORI」の曲 ウイーンフィルコンサートマスターのフォルクハルト・シュトイデ(バイオリニスト)、から参加してほしいとの事でゲスト出演して、其時に新しく作ったのが「実のり」です。
五穀豊穣、の五と尺八の穴の数の五の音 五を掛けあわせた曲です。
坂本龍一、野村満斎氏等、違った分野の人と共演。
自分の体にないものを得ることができる楽しさ、喜びが有って、又リンクする部分が有って、新たな創作につながっていく事が往々にしてある。
舞台をやっていると役者さんのタイミング、凄い役者さんはこちらの音をしっかり聞いていて、私が吹いたテンションをそのまま役にぶつけられるというのを、自分が感じ取ってから出すのが怖くなってしまったことが有る。
今の自分がもっとも表現できるものは、自分で作ってゆく作品ではないかと思うようになって、すこしづつ作るようになった。
じっくり自分の心の中で醸成されたものが出てくる感じで作曲には時間がかかる。
東京芸術大学で後進への指導もしている。
自分としては凄く学んでいるなあと思う。
自分が一生懸命やっている姿を見せるのが、大事ではないかと思っている。
この15年間は出会いが有ったことだと思う、出会うことによっていろいろ自分の中になかったものを得ることができたことは非常に大きいことだと思う。
新しいことをやってゆく事の壁、伝統的なことを掘り下げてゆく掘る作業も大切だなあと思う。
壁があるからこそ次に行こうという気持ちが、常に思えるのではないかと言う気がする。
「手塚治虫のブッダ」ー赤い砂漠よ!美しくー の曲
2015年4月22日水曜日
渡辺文学(情報誌編集長) ・ノンスモーカーもスモーカーも救いたい
渡辺文学(タバコ問題情報誌編集長) ・ノンスモーカーもスモーカーも救いたい
77歳 渡辺さんは39歳の頃、1日60本のたばこを吸って居たんだそうです。
煙草の害についてのニュースを見たのを機にして禁煙をされました。
その後煙草の煙に悩まされている人と煙草を辞めたい人を救いたいと考えて禁煙運動をスタートします。
禁煙に関する情報誌をほぼ毎月発行していますが、家族の反対や資金不足等数々の苦難に直面したという事です。
渡辺さんはそれらを乗り越えて情報誌は今年で26年目を迎えました。
今後も生涯をかけて禁煙運動を続けるという渡辺に伺いました。
情報誌は、禁煙運動の報告とか、禁煙運動をしている医療施設の取り組み、体験談とか、等でA4サイズに8ページに 纏めている。
発行部数は1000部で購読者は、学校の先生、医者、弁護士、企業の経営者、一般の主婦など幅広く読んでもらっている。
禁煙運動を地元でいろいろ活動されている方が多い。
スモークフリーキャラバン いろんな団体とともに、全国各地を回る。
2010年に神奈川県で受動喫煙防止条例が出来て、兵庫県でも作りたいという動きが有り、東海道スモークフリーキャラバンと銘を打って、静岡を皮切りに、兵庫県までキャラバンする。
県知事、議会に受動喫煙防止条例要望書をもって出掛けました。 全国に展開。
厚生労働省が作った健康増進法、2005年に煙草規制枠組み条約(国際条約)の中でたばこに対する意識が進んだ。
3年間回って、地元の自治体に報告する。
大学の野球部の時代に19歳の時にたばこを吸い始めた。
1日60本を吸う様になる。(最後の数年間)
たばこも車も必要悪だと思いながら仕事をしていたが、スピード違反で捕まり免許停止になる。
その夜NHKでイギリスの国立医師会が1本吸うと、5分30秒寿命が縮まりますと言う放送があり、60本だと10年間寿命が短くなる事になり愕然とする。
1977年5月6日(放送を見た日)に断煙に踏み切る。
煙草をくわえて、この煙草に火を付けなければいいと思って、箱に戻すことを繰り返し、3カ月ぐらいそんなことをした。
疑似喫煙を煙草現物でやっていた。
他に煙草を吸いたくなったときには、深呼吸、歯を磨いたり、面白い本を読んだりビデオを見たりして気分転換をした。
辞めて、寝起きが良くなり、食事がおいしくなり、健康に良くなった。
お金がひと月 1万円の節約になった。
国際会議に会員のカンパで出かけて、海外の交流、情報を貰って国内に役立てることができたので非常に良かった。
煙草が無くてもストレスが無くなるという事はよくわかった、思い込みだったと思う。
世の中が段々変わってくるのが皆と実感できる楽しさ、面白さが、辞めて良かったと思う最大の実感です。
コピーライターの中田みどりさんが嫌煙権という絵本作りをやっていた。
1975年に「嫌煙権」という言葉を知った。(そのころはまだ煙草を吸っていた)
1978年2月18日 嫌煙権確立を目指す会が作られて、提唱者の中田さんから今日の司会進行をやってよと言われて、それがライフワークになるとは思わなかった。
1978年は喫煙率が男性は44.7% 女性は10%程度。
新幹線のこだま号に1車両しか禁煙車両は無かったし、病院の待合室は禁煙ではなかった。
嫌煙権に対する反響は手紙等が多くあり、この運動は期待されているなと痛感しました。
最初国会議員に訴えていこうと、国会議員にアンケートをやりました。
8名の議員の方が賛同していただいた。
当時の衆議院議員の登坂重次郎さんが公害特別委員会で厚生省に対してして、国立病院と療養所の待合室を禁煙にしてほしいと、要望して、五月に禁煙にする。
国が禁煙権を認めたという報道もあった。
運動がどんどん広がってゆく。
息の長い運動にしないといけないと思った。
1985年に煙草問題情報センターを設立、この時から煙草問題を解決する運動で、生計を立てようと決意。
家族からは反対されるが、妻を説得して継続する意思を固めた。
日本の遅れた状況を何とかしたいと思った。
1988年WHOから禁煙運動賞を受賞、同賞受賞者はカナダの厚生大臣、アメリカの公衆衛生局長官、予防癌学研究所の平山雄所長だった。
1987年に第6回世界会議が日本で行われて、国内の団体との連携をして連絡役を行ったのが評価されたのかと思う。
ニコチン 依存性薬物は非常に強いので、ニコチン依存症を脱する方法もいろいろ開発されてきているので、スモーカーが辞めやすい社会環境が出ていたのではないかと思う。
要望書をもって行ったりするときに、1990年代は相手方もきちんと聞いてもらえるようになった。
禁煙、分煙がどんどん進んでいった。
タバコ問題情報誌は会員の会費、カンパで成り立っているが、なかなか厳しい状況の中で、やっているのでサポートを頂きながらなんとか26年間続いている。
公害問題でいろいろ取り組んだ関係で言うと、行政の壁、民間企業の壁が厚いが、煙草については都庁、国技館、会社、野球場、競技場等も禁煙になる。
仲間の方の協働でそういう社会を作り上げているという、面白さ、眼に見えて自分たちの運動の答えが出てきているという事が、長続きさせた大きな原因だと思う。
現在の喫煙率は成人喫煙者率 男性が32.2% 女性が8.2% 平均では19.3%
煙草に対する正しい情報も伝わってきたので自発的に辞めてきたので、日本も漸く先進国並みの社会環境になってきたのではないかと思う。
一番酷いのはパチンコ屋などでしょうか?
飲食店等はもっと喫煙規制をすべきだと思う。
先進国 は10数% (男女合わせて) 北欧3国は随分少なくなってきている。
2020年東京オリンピックへの運動は?
2000年以降 IOC、WHOで合意して受動喫煙防止条例を作るという事で、喫煙大国の中国北京でも受動喫煙防止条例はできたので、2020年までには受動喫煙防止条例を制定してほしいと思っている。
受動喫煙防止条例が制定されると、違反した場合には罰則規定のあるものを作ってほしいと思う。
マナー、モラルだけでは守れないと思う。
私自身が周りに対して健康被害を与えていた過去もあり、じくじたる思いがあるので、一人でも多く加害者に、被害者にならないように正しい情報を知った上で、国や自治体が法律、条例をきちんと作った上で、煙草の煙の解決策を模索して頂きたいと思いながら運動に取り組んでいます。
煙草の煙に悩まされない、煙草を辞めたいと思っている人が辞めやすい社会を作っていきたいと思っている。
77歳 渡辺さんは39歳の頃、1日60本のたばこを吸って居たんだそうです。
煙草の害についてのニュースを見たのを機にして禁煙をされました。
その後煙草の煙に悩まされている人と煙草を辞めたい人を救いたいと考えて禁煙運動をスタートします。
禁煙に関する情報誌をほぼ毎月発行していますが、家族の反対や資金不足等数々の苦難に直面したという事です。
渡辺さんはそれらを乗り越えて情報誌は今年で26年目を迎えました。
今後も生涯をかけて禁煙運動を続けるという渡辺に伺いました。
情報誌は、禁煙運動の報告とか、禁煙運動をしている医療施設の取り組み、体験談とか、等でA4サイズに8ページに 纏めている。
発行部数は1000部で購読者は、学校の先生、医者、弁護士、企業の経営者、一般の主婦など幅広く読んでもらっている。
禁煙運動を地元でいろいろ活動されている方が多い。
スモークフリーキャラバン いろんな団体とともに、全国各地を回る。
2010年に神奈川県で受動喫煙防止条例が出来て、兵庫県でも作りたいという動きが有り、東海道スモークフリーキャラバンと銘を打って、静岡を皮切りに、兵庫県までキャラバンする。
県知事、議会に受動喫煙防止条例要望書をもって出掛けました。 全国に展開。
厚生労働省が作った健康増進法、2005年に煙草規制枠組み条約(国際条約)の中でたばこに対する意識が進んだ。
3年間回って、地元の自治体に報告する。
大学の野球部の時代に19歳の時にたばこを吸い始めた。
1日60本を吸う様になる。(最後の数年間)
たばこも車も必要悪だと思いながら仕事をしていたが、スピード違反で捕まり免許停止になる。
その夜NHKでイギリスの国立医師会が1本吸うと、5分30秒寿命が縮まりますと言う放送があり、60本だと10年間寿命が短くなる事になり愕然とする。
1977年5月6日(放送を見た日)に断煙に踏み切る。
煙草をくわえて、この煙草に火を付けなければいいと思って、箱に戻すことを繰り返し、3カ月ぐらいそんなことをした。
疑似喫煙を煙草現物でやっていた。
他に煙草を吸いたくなったときには、深呼吸、歯を磨いたり、面白い本を読んだりビデオを見たりして気分転換をした。
辞めて、寝起きが良くなり、食事がおいしくなり、健康に良くなった。
お金がひと月 1万円の節約になった。
国際会議に会員のカンパで出かけて、海外の交流、情報を貰って国内に役立てることができたので非常に良かった。
煙草が無くてもストレスが無くなるという事はよくわかった、思い込みだったと思う。
世の中が段々変わってくるのが皆と実感できる楽しさ、面白さが、辞めて良かったと思う最大の実感です。
コピーライターの中田みどりさんが嫌煙権という絵本作りをやっていた。
1975年に「嫌煙権」という言葉を知った。(そのころはまだ煙草を吸っていた)
1978年2月18日 嫌煙権確立を目指す会が作られて、提唱者の中田さんから今日の司会進行をやってよと言われて、それがライフワークになるとは思わなかった。
1978年は喫煙率が男性は44.7% 女性は10%程度。
新幹線のこだま号に1車両しか禁煙車両は無かったし、病院の待合室は禁煙ではなかった。
嫌煙権に対する反響は手紙等が多くあり、この運動は期待されているなと痛感しました。
最初国会議員に訴えていこうと、国会議員にアンケートをやりました。
8名の議員の方が賛同していただいた。
当時の衆議院議員の登坂重次郎さんが公害特別委員会で厚生省に対してして、国立病院と療養所の待合室を禁煙にしてほしいと、要望して、五月に禁煙にする。
国が禁煙権を認めたという報道もあった。
運動がどんどん広がってゆく。
息の長い運動にしないといけないと思った。
1985年に煙草問題情報センターを設立、この時から煙草問題を解決する運動で、生計を立てようと決意。
家族からは反対されるが、妻を説得して継続する意思を固めた。
日本の遅れた状況を何とかしたいと思った。
1988年WHOから禁煙運動賞を受賞、同賞受賞者はカナダの厚生大臣、アメリカの公衆衛生局長官、予防癌学研究所の平山雄所長だった。
1987年に第6回世界会議が日本で行われて、国内の団体との連携をして連絡役を行ったのが評価されたのかと思う。
ニコチン 依存性薬物は非常に強いので、ニコチン依存症を脱する方法もいろいろ開発されてきているので、スモーカーが辞めやすい社会環境が出ていたのではないかと思う。
要望書をもって行ったりするときに、1990年代は相手方もきちんと聞いてもらえるようになった。
禁煙、分煙がどんどん進んでいった。
タバコ問題情報誌は会員の会費、カンパで成り立っているが、なかなか厳しい状況の中で、やっているのでサポートを頂きながらなんとか26年間続いている。
公害問題でいろいろ取り組んだ関係で言うと、行政の壁、民間企業の壁が厚いが、煙草については都庁、国技館、会社、野球場、競技場等も禁煙になる。
仲間の方の協働でそういう社会を作り上げているという、面白さ、眼に見えて自分たちの運動の答えが出てきているという事が、長続きさせた大きな原因だと思う。
現在の喫煙率は成人喫煙者率 男性が32.2% 女性が8.2% 平均では19.3%
煙草に対する正しい情報も伝わってきたので自発的に辞めてきたので、日本も漸く先進国並みの社会環境になってきたのではないかと思う。
一番酷いのはパチンコ屋などでしょうか?
飲食店等はもっと喫煙規制をすべきだと思う。
先進国 は10数% (男女合わせて) 北欧3国は随分少なくなってきている。
2020年東京オリンピックへの運動は?
2000年以降 IOC、WHOで合意して受動喫煙防止条例を作るという事で、喫煙大国の中国北京でも受動喫煙防止条例はできたので、2020年までには受動喫煙防止条例を制定してほしいと思っている。
受動喫煙防止条例が制定されると、違反した場合には罰則規定のあるものを作ってほしいと思う。
マナー、モラルだけでは守れないと思う。
私自身が周りに対して健康被害を与えていた過去もあり、じくじたる思いがあるので、一人でも多く加害者に、被害者にならないように正しい情報を知った上で、国や自治体が法律、条例をきちんと作った上で、煙草の煙の解決策を模索して頂きたいと思いながら運動に取り組んでいます。
煙草の煙に悩まされない、煙草を辞めたいと思っている人が辞めやすい社会を作っていきたいと思っている。
2015年4月20日月曜日
藤田 潔(広告会社名誉会長) ・放送で伝え続けた感動人生
藤田 潔(広告会社名誉会長) ・放送で伝え続けた感動人生
一般家庭にTVが定着した昭和30年代の後半になりますと、家族そろって楽しい番組を食い入るように見入ったものです。
藤田さんは大学を卒業した昭和28年以降TVを中心とした広告業界で60年間仕事をしてきました。
藤田さんの会社は新しい番組を企画し、スポンサーの承諾を取り、民間放送教に売り込みに行くのが仕事です。
深夜番組の先駆け、イレブンPMや、ザ世界遺産など様々な企画はどこから生まれてきたのでしょうか?
85歳です。
5年前腰痛で歩くのも大変だったが、毎日朝家の中で1000歩歩いて、血圧を計り、そして毎日3000から5000歩歩く様にしている。
民間放送は65年になるが、初期のころからかかわってきた。
親しいプロデューサー、ディレクターはほとんど天国に行ってしまっている。
イレブンPMを企画したのは、最初からそうは思っていなかった。
歌手のアイ・ジョージがいてどうしてもカーネギーホールに出たいと、言う事で、アイ・ジョージの為だけにアメリカに行くのはもったいないという事で、手塚治虫の鉄腕アトムをもって行って売れたらいいと思って、アイ・ジョージはついでにコマーシャルを撮って行こうと、ニューヨークに乗り込んだ。
カーネギーホールは行って見て判ったが、東京の渋谷公会堂みたいなもの、だが良いものしかやらない。
3局に持ち込んだが、NBCが物凄く興味を示して、私たちがいる間にやってくれた。
昭和38年の時で、カーネギーホールで日本人の歌手がやるなんて考えられない時代、日本のアニメが売れるなんてとても出来ない様な時代だった。
手塚治虫さんを連れて数カ月後に、契約に行く。
NBCに来てスタジオを見ないで帰るのはもったいないので、スタジオ見学をさせてもらった。
夜(11時)の公開番組を見るが、我々の姿を映してくれたりしたが、当時の日本の時間の感覚とは違っていた。
当時は日本では11時でTV放送は終わっていた。
11時からの企画書を作ったが、全部断られた。
日本TVの井原 高忠さんだけが、企画書を見てくれて、面白いからやってみようという事になる、日本の深夜番組の幕開けでした。
深夜番組には全然スポンサーがつかなくて、提供マークはいらないと、いう決断をする、全部スポット売りにしようと考えた。
15秒、20秒だったら、お金も余りかからないので、皆やりだして、いつの間にやら物凄く売れた。
何でも自由に出来た番組だった。
放送局は時間を売って商売をしている、売り場面積を増やすという事はどういう事かという事を放送局の民放レベルの人は判っていない。
ゴルフの生中継を朝4時ぐらいから始めた。
マスターズをVTRで2週間ぐらい送ってやっているけれど、衛星が上がったんだからゴルフも衛星中継でやろうと、TBSに申し込んだが、朝の4時から誰が見るんだと相手にしてくれなかった。
全部借り切るという事で、TBSは今年40周年になる。
スポーツは生で無いと駄目だと思っている、結果を知ってから見る時とドキドキしながら見るのでは全然違う。
ケネディーが暗殺された時が衛星放送による最初の衝撃でした。
四国の新居浜で育つ。
9人兄弟の7番目の長男です。
早稲田の商学部で販売管理 (マーケティング)を学ぶ。
3年丁稚奉公するという事で、この業界に入って国に帰れなくなってしまった。
昭和28年に民間TV放送が始まって、入ったのがその年だった。
面接の時に、小谷さんから広告の仕事で一番大きいところはと尋ねられ、日本電報通信社(現在の電通)と言ったら、そこと喧嘩する自信が有るかと言われ、喧嘩の相手は大きいほどやりがいがあるので私にまかして下さいと言った。
プロデューサーは黒子でなければいけないとは、小谷さんからの教えだった。
「閃きを感動に」 うちの会社のキャッチフレーズ。
街を歩いていて、閃かないような人間はこの業界にいたら駄目、という事が私の哲学です。
世界遺産だけを研究している人がいて、その人の話をじーっと聞いていたら、これはTVになるという事で企画書を書いて筑紫 哲也さんに相談した。(その話を聞いて閃いた。)
世界遺産って何という様な時代だった。
ソニーの大賀さんに持って行った。 これこそ映像遺産になるという事でユネスコ本部に飛んで行って話を付けてOKがでて、それから始まった。(1996年から開始 今年20年になる)
企画書を最初スポンサーに持って行って、時間を下さいと交渉をする。
スポンサーを探すのには日ごろのコミュニケーションが大切です。 広告とはコミュニケーションです。
視聴率も大切だがもっと大切なのは視聴資質だと思います。
若い社員に「NNN」が必要だと言っている。 Now News Now
今何をやっているか、今何が起こっているか、そういう事が敏感になっていないといけない。
「8020」 80歳になって歯が20本ある人が日本歯科医師協会、区長さん等から認定書が出ると、歯医者さんから言われた。
80歳になって20本或る人は健康なんです。 私は区長さんから認定書を貰いました。
認知症になる人は歯が弱い、だから「8020」というTV番組を作ろうと閃いた。
認知症にならないためには、歯をもっと若い時からやらないと駄目。
そして世の中を明るくしたい。
一般家庭にTVが定着した昭和30年代の後半になりますと、家族そろって楽しい番組を食い入るように見入ったものです。
藤田さんは大学を卒業した昭和28年以降TVを中心とした広告業界で60年間仕事をしてきました。
藤田さんの会社は新しい番組を企画し、スポンサーの承諾を取り、民間放送教に売り込みに行くのが仕事です。
深夜番組の先駆け、イレブンPMや、ザ世界遺産など様々な企画はどこから生まれてきたのでしょうか?
85歳です。
5年前腰痛で歩くのも大変だったが、毎日朝家の中で1000歩歩いて、血圧を計り、そして毎日3000から5000歩歩く様にしている。
民間放送は65年になるが、初期のころからかかわってきた。
親しいプロデューサー、ディレクターはほとんど天国に行ってしまっている。
イレブンPMを企画したのは、最初からそうは思っていなかった。
歌手のアイ・ジョージがいてどうしてもカーネギーホールに出たいと、言う事で、アイ・ジョージの為だけにアメリカに行くのはもったいないという事で、手塚治虫の鉄腕アトムをもって行って売れたらいいと思って、アイ・ジョージはついでにコマーシャルを撮って行こうと、ニューヨークに乗り込んだ。
カーネギーホールは行って見て判ったが、東京の渋谷公会堂みたいなもの、だが良いものしかやらない。
3局に持ち込んだが、NBCが物凄く興味を示して、私たちがいる間にやってくれた。
昭和38年の時で、カーネギーホールで日本人の歌手がやるなんて考えられない時代、日本のアニメが売れるなんてとても出来ない様な時代だった。
手塚治虫さんを連れて数カ月後に、契約に行く。
NBCに来てスタジオを見ないで帰るのはもったいないので、スタジオ見学をさせてもらった。
夜(11時)の公開番組を見るが、我々の姿を映してくれたりしたが、当時の日本の時間の感覚とは違っていた。
当時は日本では11時でTV放送は終わっていた。
11時からの企画書を作ったが、全部断られた。
日本TVの井原 高忠さんだけが、企画書を見てくれて、面白いからやってみようという事になる、日本の深夜番組の幕開けでした。
深夜番組には全然スポンサーがつかなくて、提供マークはいらないと、いう決断をする、全部スポット売りにしようと考えた。
15秒、20秒だったら、お金も余りかからないので、皆やりだして、いつの間にやら物凄く売れた。
何でも自由に出来た番組だった。
放送局は時間を売って商売をしている、売り場面積を増やすという事はどういう事かという事を放送局の民放レベルの人は判っていない。
ゴルフの生中継を朝4時ぐらいから始めた。
マスターズをVTRで2週間ぐらい送ってやっているけれど、衛星が上がったんだからゴルフも衛星中継でやろうと、TBSに申し込んだが、朝の4時から誰が見るんだと相手にしてくれなかった。
全部借り切るという事で、TBSは今年40周年になる。
スポーツは生で無いと駄目だと思っている、結果を知ってから見る時とドキドキしながら見るのでは全然違う。
ケネディーが暗殺された時が衛星放送による最初の衝撃でした。
四国の新居浜で育つ。
9人兄弟の7番目の長男です。
早稲田の商学部で販売管理 (マーケティング)を学ぶ。
3年丁稚奉公するという事で、この業界に入って国に帰れなくなってしまった。
昭和28年に民間TV放送が始まって、入ったのがその年だった。
面接の時に、小谷さんから広告の仕事で一番大きいところはと尋ねられ、日本電報通信社(現在の電通)と言ったら、そこと喧嘩する自信が有るかと言われ、喧嘩の相手は大きいほどやりがいがあるので私にまかして下さいと言った。
プロデューサーは黒子でなければいけないとは、小谷さんからの教えだった。
「閃きを感動に」 うちの会社のキャッチフレーズ。
街を歩いていて、閃かないような人間はこの業界にいたら駄目、という事が私の哲学です。
世界遺産だけを研究している人がいて、その人の話をじーっと聞いていたら、これはTVになるという事で企画書を書いて筑紫 哲也さんに相談した。(その話を聞いて閃いた。)
世界遺産って何という様な時代だった。
ソニーの大賀さんに持って行った。 これこそ映像遺産になるという事でユネスコ本部に飛んで行って話を付けてOKがでて、それから始まった。(1996年から開始 今年20年になる)
企画書を最初スポンサーに持って行って、時間を下さいと交渉をする。
スポンサーを探すのには日ごろのコミュニケーションが大切です。 広告とはコミュニケーションです。
視聴率も大切だがもっと大切なのは視聴資質だと思います。
若い社員に「NNN」が必要だと言っている。 Now News Now
今何をやっているか、今何が起こっているか、そういう事が敏感になっていないといけない。
「8020」 80歳になって歯が20本ある人が日本歯科医師協会、区長さん等から認定書が出ると、歯医者さんから言われた。
80歳になって20本或る人は健康なんです。 私は区長さんから認定書を貰いました。
認知症になる人は歯が弱い、だから「8020」というTV番組を作ろうと閃いた。
認知症にならないためには、歯をもっと若い時からやらないと駄目。
そして世の中を明るくしたい。
2015年4月19日日曜日
稲田潤子(ピアニスト) ・パリ在住25年、ピアノに情熱
稲田潤子(ピアニスト/東京音楽大学専任講師) ・パリ在住25年、ピアノに情熱
東京音楽大学付属高校 ピアノ演奏科コースを最優秀賞、首席で卒業し、その後フランスに渡りました。
パリ国立高等音楽院ピアノ科、室内楽科共に1等賞で卒業し、1997年にモスクワで行われた、ラフマニノフ国際音楽コンクール・ピアノ部門で2位なしの3位を受賞されました。
フランス・ルーマラン音楽祭で連続演奏会の他、パリで毎年夏のコンサートシリーズなどで称賛を博している。
パリのマレ地区に教会が有りそこで毎年、いろんな楽器の方も出るが、そこでお世話になっていて、自由にプログラムを組んで演奏していいとの事で、そちらでやらせて頂いている。
そこでいろんなお客さんと知り合う事が出来て楽しみです。
フランソワという人、サティーという作曲家の演奏の時にも聞きにきてくださって、謎めいたサティー語と言われるような言葉があり、なかなか意味不明、心を開くは判るが頭を開いてという言葉が有り、フランソワに聞いたらそれはサティー語だという事で、多分心を開いてという事ではないかと、古いギリシャの事を判っていないと理解しにくい言葉使いだったりする。
そういったことをどうやって音に結びつけるのかなどを知りたくて、気になっている事をワインバーみたいなところで話し合ったりする。
共演しているのがモスクワ交響楽団、ソフィアー放送交響楽団、日本フィルハーモニー交響楽団、東京ニューシティー管弦楽団など、いろんな国、日本のオーケストラとも共演している。
NHKにも出演、「ショパンを弾く」 もう20年以上前になる。
シプリアン・カツァリスさんと言うピアニストが、パリの近郊にブルトユー城がありそこの一室でショパンについてレッスンをするというものです。
最初の時にレッスンしていただき、お世話になりました。
FMリサイタル 公開録音 演奏と話を交えながらの番組。2つのグループで構成されていた番組
現在は東京音楽大学の専任講師をしている。
パリを選んだ理由は?
祖父の叔父さんが山内 義雄 フランスの文学者で「チボー家の人々」を翻訳して、皆さんに読んでいただいた。
母の影響もあったと思う。 ピアノをやっていてフランス音楽が好きだった。
フランス語の言葉も好きだった。
絵画も見るのが好きで、色彩豊かで、コロー、モネ、ルノアール、ゴッホとかを見る機会があった。
近所に西村 計雄さんというフランスでも活躍した画家のお嬢さんにフランス語を教えてもらっていた。
ワイセンベルクというブルガリア出身のピアニスト ロシアの作曲家、セルゲイ・ラフマニノフのピアノコンチェルト3番の難曲を5歳ぐらいの時に聞いて、凄い響きに衝撃的な印象が有って、世の中こんな凄いものが有るんだと気付いた。
そのような関係でパリに行くきっかけになったと思う。
ピアノの三浦捷子先生がどんな曲を弾きたいのか聞いてきたが、いつか弾けるようになるかもしれないから頑張ろうねと言う様な事を言ってくれたのを覚えていて、何十年か後に夢がかなって、
嬉しかった。
ラフマニノフはボリシェヴィキ革命(十月革命)の時に自分の故郷を出なくてはならなくなり、家族と共にアメリカに移住してしまって亡くなるまで祖国にもどれなかった。
その分祖国愛が強く、そのことが彼の音楽に溢れ出ていて、そこに感銘する人が多いのではないかと思う。
私はいろんな作曲家のゆかりの地を訪れるように心がけている。
モスクワから600km離れて所にタンボフ州イワノフカという村が有るが、そこにラフマニノフが過ごした休暇の時に訪れていたという家が残っていて、自然に囲まれた素晴らしい場所にあるが、そこで心がほだされて、沢山の名曲を作っている。
マニャール、ロパルツ、セヴラック こういう作曲家 ピアニストがなんでもっと演奏しないのかと私が師事して頂いたジェルメーヌ・ムニエ先生が残念だといっていた。
素晴らしいフランス音楽の伝統を、後の世代に伝えてほしいと、ムニエ先生は言っていた。
ドビュッシーとかだけでなく彼らがいたからこそ、フランスの音楽の伝統が今日に至っている。
そこに大きな意味を感じている。
セヴラックの家が有ることを見つけて、(トゥールーズから車で1時間ぐらいの村)そこに行ってみたいと思って、電話をした。
セヴラックの孫(亡くなってしまっている)の奥さんとお嬢さんが住んでいて、どうぞいらしってくださいと言われて行ってみた。
セヴラックが使っていたピアノが残っていて、ピアノも弾かせて頂いた。
セヴラックは絵も好きで絵を上手に描いていた。
セヴラックの音楽の作品は光り輝いていてみずみずしい音楽だと思った。
その土地を訪れてみると、こういう光景、こういう香を嗅ぐとああいう響きを作れるのかなあと、五感を通してなにか気付くものかと感じた。
フランスだから良い、ピアノの演奏家としての楽しみ、厳しさ、醍醐味はどうですか?
パリは非常に刺激に満ちている、日々変化している。
困難は多いが、そこそこ根をおろしていると、そこの文化の中に浸っている意識は私にとっては大事で、結局好きなんですね、第二の故郷。
ホームステーした時にピアノを入れさせてもらって、昼間は私が留守番する様な形で、日中弾いていても何にも問題なくて良かった。
食事も素晴らしく、最初のスタートが良すぎてはまってしまったのかもしれない。
ピアノを弾く事は人間の生き方を学ぶことで有る様な気がする。
ヨーロッパの人々を見ていると、自己主張がはっきりしている。
弾き方は少々めちゃくちゃでも、自分の考えが最初のレッスンの時からある。
日本の学生は控えめで、この曲はどのように弾かなくてはいけないのかなあと、いうような感じです。(正しい回答を直ぐ望んでしまう様に思う。)
東京音楽大学付属高校 ピアノ演奏科コースを最優秀賞、首席で卒業し、その後フランスに渡りました。
パリ国立高等音楽院ピアノ科、室内楽科共に1等賞で卒業し、1997年にモスクワで行われた、ラフマニノフ国際音楽コンクール・ピアノ部門で2位なしの3位を受賞されました。
フランス・ルーマラン音楽祭で連続演奏会の他、パリで毎年夏のコンサートシリーズなどで称賛を博している。
パリのマレ地区に教会が有りそこで毎年、いろんな楽器の方も出るが、そこでお世話になっていて、自由にプログラムを組んで演奏していいとの事で、そちらでやらせて頂いている。
そこでいろんなお客さんと知り合う事が出来て楽しみです。
フランソワという人、サティーという作曲家の演奏の時にも聞きにきてくださって、謎めいたサティー語と言われるような言葉があり、なかなか意味不明、心を開くは判るが頭を開いてという言葉が有り、フランソワに聞いたらそれはサティー語だという事で、多分心を開いてという事ではないかと、古いギリシャの事を判っていないと理解しにくい言葉使いだったりする。
そういったことをどうやって音に結びつけるのかなどを知りたくて、気になっている事をワインバーみたいなところで話し合ったりする。
共演しているのがモスクワ交響楽団、ソフィアー放送交響楽団、日本フィルハーモニー交響楽団、東京ニューシティー管弦楽団など、いろんな国、日本のオーケストラとも共演している。
NHKにも出演、「ショパンを弾く」 もう20年以上前になる。
シプリアン・カツァリスさんと言うピアニストが、パリの近郊にブルトユー城がありそこの一室でショパンについてレッスンをするというものです。
最初の時にレッスンしていただき、お世話になりました。
FMリサイタル 公開録音 演奏と話を交えながらの番組。2つのグループで構成されていた番組
現在は東京音楽大学の専任講師をしている。
パリを選んだ理由は?
祖父の叔父さんが山内 義雄 フランスの文学者で「チボー家の人々」を翻訳して、皆さんに読んでいただいた。
母の影響もあったと思う。 ピアノをやっていてフランス音楽が好きだった。
フランス語の言葉も好きだった。
絵画も見るのが好きで、色彩豊かで、コロー、モネ、ルノアール、ゴッホとかを見る機会があった。
近所に西村 計雄さんというフランスでも活躍した画家のお嬢さんにフランス語を教えてもらっていた。
ワイセンベルクというブルガリア出身のピアニスト ロシアの作曲家、セルゲイ・ラフマニノフのピアノコンチェルト3番の難曲を5歳ぐらいの時に聞いて、凄い響きに衝撃的な印象が有って、世の中こんな凄いものが有るんだと気付いた。
そのような関係でパリに行くきっかけになったと思う。
ピアノの三浦捷子先生がどんな曲を弾きたいのか聞いてきたが、いつか弾けるようになるかもしれないから頑張ろうねと言う様な事を言ってくれたのを覚えていて、何十年か後に夢がかなって、
嬉しかった。
ラフマニノフはボリシェヴィキ革命(十月革命)の時に自分の故郷を出なくてはならなくなり、家族と共にアメリカに移住してしまって亡くなるまで祖国にもどれなかった。
その分祖国愛が強く、そのことが彼の音楽に溢れ出ていて、そこに感銘する人が多いのではないかと思う。
私はいろんな作曲家のゆかりの地を訪れるように心がけている。
モスクワから600km離れて所にタンボフ州イワノフカという村が有るが、そこにラフマニノフが過ごした休暇の時に訪れていたという家が残っていて、自然に囲まれた素晴らしい場所にあるが、そこで心がほだされて、沢山の名曲を作っている。
マニャール、ロパルツ、セヴラック こういう作曲家 ピアニストがなんでもっと演奏しないのかと私が師事して頂いたジェルメーヌ・ムニエ先生が残念だといっていた。
素晴らしいフランス音楽の伝統を、後の世代に伝えてほしいと、ムニエ先生は言っていた。
ドビュッシーとかだけでなく彼らがいたからこそ、フランスの音楽の伝統が今日に至っている。
そこに大きな意味を感じている。
セヴラックの家が有ることを見つけて、(トゥールーズから車で1時間ぐらいの村)そこに行ってみたいと思って、電話をした。
セヴラックの孫(亡くなってしまっている)の奥さんとお嬢さんが住んでいて、どうぞいらしってくださいと言われて行ってみた。
セヴラックが使っていたピアノが残っていて、ピアノも弾かせて頂いた。
セヴラックは絵も好きで絵を上手に描いていた。
セヴラックの音楽の作品は光り輝いていてみずみずしい音楽だと思った。
その土地を訪れてみると、こういう光景、こういう香を嗅ぐとああいう響きを作れるのかなあと、五感を通してなにか気付くものかと感じた。
フランスだから良い、ピアノの演奏家としての楽しみ、厳しさ、醍醐味はどうですか?
パリは非常に刺激に満ちている、日々変化している。
困難は多いが、そこそこ根をおろしていると、そこの文化の中に浸っている意識は私にとっては大事で、結局好きなんですね、第二の故郷。
ホームステーした時にピアノを入れさせてもらって、昼間は私が留守番する様な形で、日中弾いていても何にも問題なくて良かった。
食事も素晴らしく、最初のスタートが良すぎてはまってしまったのかもしれない。
ピアノを弾く事は人間の生き方を学ぶことで有る様な気がする。
ヨーロッパの人々を見ていると、自己主張がはっきりしている。
弾き方は少々めちゃくちゃでも、自分の考えが最初のレッスンの時からある。
日本の学生は控えめで、この曲はどのように弾かなくてはいけないのかなあと、いうような感じです。(正しい回答を直ぐ望んでしまう様に思う。)
2015年4月17日金曜日
波多野裕造(白鴎大学名誉教授) ・私と中東の40年
波多野裕造(白鴎大学名誉教授) ・私と中東の40年
毎日新聞の記者をしていた波多野さんは、昭和50年 45歳の時 中東に詳しい事を買われて外交官にスカウトされました。
民から官へというケースは当時は緒方貞子さんぐらいで、珍しい経歴でした。
しかもこの後64歳で大学教授に転身され、ジャーナリスト、外交官、大学教授と言う3つの職に就きました。
それぞれの職業で中東の大きな出来事に直面してきた波多野さんに伺います。
世界は各地では紛争が有り、特に中東は1948年のパレスチナ紛争から今日に至るまでずっと続いている。
ISは自分でイスラム国家と称していますが決して国家ではない。
これはずっと続いている中東紛争の変わった形なんでしょうね。
一番気がかりなのは先進国の若者が、ホームグロウン・テロリズム(Homegrown terrorism) 何不自由なく育っているのにもかかわらず、若者が過激派組織に魅力を感ずるのか、シリアからイラクの方に侵入して参加する。
何万という数になっている。
アラブ諸国の中にも親米派、とか反米派とかいろいろ別れている。
欧米的な価値観で支配されることを拒否している。(キリスト教文化)
イスラムは自分たちには自分たちの文化があると、アメリカが自分たちの価値観を中東に押し付けてくるのは迷惑だという感覚が有る。
1990年頃、ハーバードのハンティントンという教授が「文明の衝突」という本を書いたが、そういう捉え方をする必要が有るんでしょうね。
考え方、価値観の違い、ということでしょうね。
アメリカは自分たちの考えが世界的に通用すると思っているが、そうではないという事の一つの証明が中東であろうと思います。
大学を卒業して20年ぐらいはジャーナリストとしてやってきた。(特派員等を含め)
外務省から誘いを受けて入ったのは1975年です。
その前に第4次中東戦争があって、アラブの産油国が石油戦略を発動して、イスラエルに好意的な国には石油を売らないという事だった。(オイルショック)
何故早く情報をキャッチして対策を講じなかったのかと、外務省は避難をかわすため、避雷針的な役割を果たすために、民間からの登用を行ったんだと思います。(その時だけだった)
外務省のキャリアは大学を卒業すると、外務省に入って温室育ちだと言われて、世間を知らないという事で一般企業、大学にいた人を採用して批判をかわそうとしたんだと思います。
73年のオイルショックまでは日本のマスコミは中東には目を向けていなかった。
新聞記者の時に、中東巡回特派員を命ぜられて、3カ月中東を歩いて、新聞にレポートを出して、それを見て外務省が波多野記者に声を掛けたらどうかと言う事になった様です。
開発は進んでなくてオマーンに行っても、外国人が泊まれるようなホテルなほとんどない状態で、大変苦労をした。
パレスチナ解放機構がテロを行うので、世間の注目を引いた。
シリアでPLOのキャンプに潜入して彼等の軍事訓練などを見たが、日本の軽トラックの台座に機関銃を据え付けていて、そこで日本は中東問題をどう思うかとか、よく聞かれた。
結構危険だった経験が何度もあった。
日本政府はPLOとは公式的には関係ないという立場だが、私はエジプト大使館の次席公使だったが、密かにPLOとコンタクトしろと、密命を受けて色々工作したことが有ります。
何かあった時に彼らに日本政府の意向を伝える様なルートを作れという事です。
一番最初はエジプト勤務、スエズ運河の国有化等の問題が有り、そのあとナーセルが倒れて、サダトが副大統領から大統領になった時代。
スエズ運河が通行できない状態だったので、ODA(開発援助)の資金を使って、スエズ運河の再開のために運河の浚渫と拡張を行った。
エジプトから感謝されていると思ったが、全然感謝してくれない。
日本企業の救済のために政府が金を出すんだろうと言われた。
砂漠の緑化、海水の淡水化を提供したら喜ばれると思ったが、あまり喜ばれなかった。
淡水化するまではいいが、淡水化したものを砂漠に撒くが、地下水が有り、その地下水の水位が上がってくる。
砂漠の砂は塩分をふくんでいて、せっかく淡水を撒いたのに、、塩水になってしまって、オアシスを塩水化してしまって、反って木が枯れたとか、クレームを付けられた事が有る。
現地をよく知ってからでないとよくないと思います。
エジプトの後はロンドンに行く。
サダト大統領がキャンプデービットでベギンと中東和平の調印したりして、一時中東問題はうまくいきそうだったが、イスラムの過激主義者に襲われて暗殺された。
合理的な考え方の人はなんとかイスラエルとの間に平和をもたらしたいと気持ちは持っていると思うが、パレスチナ問題は第二次世界大戦中に、ユダヤの人たちは、パレスチナは自分たちに約束された土地だという事でドンドンヨーロッパからはいってきたわけですが、パレスチナ人にしてみればなんで来るんだという事で排斥したいと思っているので、紛争はずーっと絶えなかった。
いまは形を変えて、アラブ同士でもやっているが、IS等を生みだして国と称しているが、異常です。
対処の方法が無い。 根深く浸透している。
オスマントルコの領土だったところをフランスとイギリスが話し合って線を引いて分割した。
サイクス・ピコ協定があって、種族などを考慮しないで線を引いてしまったものだから、今のISはイラクとシリアの両方にまたがっている。
種をまいたのは列強なんですね、紛争の種は尽きないですね。
ロシアとウクライナの関係も非常に難しいと思う。
EUとロシアはウクライナの動向を巡って、かなり難しい感じがする。
ウクライナ問題はなかなか解決しないのではないか。 クリミヤは併合してしまった。
プーチン大統領は核兵器も準備をしたという事で恐ろしい事です。
世界各地で紛争の種は尽きることはない。
新聞記者時代に衝撃を受けたのは浅沼稲次郎さんがが演説中に刺されたが、浅沼さんの演台から5mぐらいのところの幕の陰にいました。
少年が駆けあがって来て、短刀で刺したが、浅沼さんがスローモーションの映画を見るように倒れた、その場面が鮮明に残っている。
1963年のケネディー大統領の暗殺事件、11月22日、妹の結婚式で大坂に帰っていたが、本社から直ぐに帰って来いと言われた。
ロバートケネディーとは沖縄問題で論争をして、険悪な雰囲気になったが、その後仲良くなった。
64年にワシントン特派員としてアメリカに行くが其時ロバートケネディーは上院議員になっていた。
その4年後に彼はロスアンゼルスで暗殺されて大変ショックだった。
三島由紀夫の自殺について佐藤栄作首相に感想を求めたことが有るが、幹事長だったのが田中角栄、防衛庁長官が中曽根康弘だった。
私は敬愛していたので、おしいと言ってくれる人がいると思ったが、おしかったとは3人とも言わなかった。
ジャーナリストと外交官とどちらがいいかと尋ねられることが有るが、ジャーナリストは乞食から皇帝まで誰にでも会えるが、外交官になるとそれぞれのランクの相手と交渉をするので、その辺が違いますと答えている。
公使、参事官、一等書記官とランクが有るので、同レベルの相手と付き合う事が多い。
エジプト、ロンドン、カナダで総領事、カタールの大使を務める。
カタールはパレスチナ問題とはあまり関係なかった。
アラブ諸国から見ると日本はアメリカの従属国と見えるんでしょうね。
大学の教授になっても、カタール時代に友達になった人がいるが、王族と近い人で奥さんが日本人で、日本に来る度に一緒に会っている。
原理主義者は過激な人が多い。
原理主義者はイスラムの原点であるイスラム教の根本に立ち戻るべきだという事で欧米の影響力を否定する。
アメリカは自分の価値観を彼等に押し付けても、彼らは受け入れないだろうと思います。
2001年に9・11が起こるが、ブッシュ大統領はこれは戦争だと行ったんです。
そういうスタンスでアメリカは臨んでいるのでなかなか和解は難しいだろうと思います。
ISは特別なので付き合い様、が無いでしょう、複雑化している。
紛争の種は尽きない。
毎日新聞の記者をしていた波多野さんは、昭和50年 45歳の時 中東に詳しい事を買われて外交官にスカウトされました。
民から官へというケースは当時は緒方貞子さんぐらいで、珍しい経歴でした。
しかもこの後64歳で大学教授に転身され、ジャーナリスト、外交官、大学教授と言う3つの職に就きました。
それぞれの職業で中東の大きな出来事に直面してきた波多野さんに伺います。
世界は各地では紛争が有り、特に中東は1948年のパレスチナ紛争から今日に至るまでずっと続いている。
ISは自分でイスラム国家と称していますが決して国家ではない。
これはずっと続いている中東紛争の変わった形なんでしょうね。
一番気がかりなのは先進国の若者が、ホームグロウン・テロリズム(Homegrown terrorism) 何不自由なく育っているのにもかかわらず、若者が過激派組織に魅力を感ずるのか、シリアからイラクの方に侵入して参加する。
何万という数になっている。
アラブ諸国の中にも親米派、とか反米派とかいろいろ別れている。
欧米的な価値観で支配されることを拒否している。(キリスト教文化)
イスラムは自分たちには自分たちの文化があると、アメリカが自分たちの価値観を中東に押し付けてくるのは迷惑だという感覚が有る。
1990年頃、ハーバードのハンティントンという教授が「文明の衝突」という本を書いたが、そういう捉え方をする必要が有るんでしょうね。
考え方、価値観の違い、ということでしょうね。
アメリカは自分たちの考えが世界的に通用すると思っているが、そうではないという事の一つの証明が中東であろうと思います。
大学を卒業して20年ぐらいはジャーナリストとしてやってきた。(特派員等を含め)
外務省から誘いを受けて入ったのは1975年です。
その前に第4次中東戦争があって、アラブの産油国が石油戦略を発動して、イスラエルに好意的な国には石油を売らないという事だった。(オイルショック)
何故早く情報をキャッチして対策を講じなかったのかと、外務省は避難をかわすため、避雷針的な役割を果たすために、民間からの登用を行ったんだと思います。(その時だけだった)
外務省のキャリアは大学を卒業すると、外務省に入って温室育ちだと言われて、世間を知らないという事で一般企業、大学にいた人を採用して批判をかわそうとしたんだと思います。
73年のオイルショックまでは日本のマスコミは中東には目を向けていなかった。
新聞記者の時に、中東巡回特派員を命ぜられて、3カ月中東を歩いて、新聞にレポートを出して、それを見て外務省が波多野記者に声を掛けたらどうかと言う事になった様です。
開発は進んでなくてオマーンに行っても、外国人が泊まれるようなホテルなほとんどない状態で、大変苦労をした。
パレスチナ解放機構がテロを行うので、世間の注目を引いた。
シリアでPLOのキャンプに潜入して彼等の軍事訓練などを見たが、日本の軽トラックの台座に機関銃を据え付けていて、そこで日本は中東問題をどう思うかとか、よく聞かれた。
結構危険だった経験が何度もあった。
日本政府はPLOとは公式的には関係ないという立場だが、私はエジプト大使館の次席公使だったが、密かにPLOとコンタクトしろと、密命を受けて色々工作したことが有ります。
何かあった時に彼らに日本政府の意向を伝える様なルートを作れという事です。
一番最初はエジプト勤務、スエズ運河の国有化等の問題が有り、そのあとナーセルが倒れて、サダトが副大統領から大統領になった時代。
スエズ運河が通行できない状態だったので、ODA(開発援助)の資金を使って、スエズ運河の再開のために運河の浚渫と拡張を行った。
エジプトから感謝されていると思ったが、全然感謝してくれない。
日本企業の救済のために政府が金を出すんだろうと言われた。
砂漠の緑化、海水の淡水化を提供したら喜ばれると思ったが、あまり喜ばれなかった。
淡水化するまではいいが、淡水化したものを砂漠に撒くが、地下水が有り、その地下水の水位が上がってくる。
砂漠の砂は塩分をふくんでいて、せっかく淡水を撒いたのに、、塩水になってしまって、オアシスを塩水化してしまって、反って木が枯れたとか、クレームを付けられた事が有る。
現地をよく知ってからでないとよくないと思います。
エジプトの後はロンドンに行く。
サダト大統領がキャンプデービットでベギンと中東和平の調印したりして、一時中東問題はうまくいきそうだったが、イスラムの過激主義者に襲われて暗殺された。
合理的な考え方の人はなんとかイスラエルとの間に平和をもたらしたいと気持ちは持っていると思うが、パレスチナ問題は第二次世界大戦中に、ユダヤの人たちは、パレスチナは自分たちに約束された土地だという事でドンドンヨーロッパからはいってきたわけですが、パレスチナ人にしてみればなんで来るんだという事で排斥したいと思っているので、紛争はずーっと絶えなかった。
いまは形を変えて、アラブ同士でもやっているが、IS等を生みだして国と称しているが、異常です。
対処の方法が無い。 根深く浸透している。
オスマントルコの領土だったところをフランスとイギリスが話し合って線を引いて分割した。
サイクス・ピコ協定があって、種族などを考慮しないで線を引いてしまったものだから、今のISはイラクとシリアの両方にまたがっている。
種をまいたのは列強なんですね、紛争の種は尽きないですね。
ロシアとウクライナの関係も非常に難しいと思う。
EUとロシアはウクライナの動向を巡って、かなり難しい感じがする。
ウクライナ問題はなかなか解決しないのではないか。 クリミヤは併合してしまった。
プーチン大統領は核兵器も準備をしたという事で恐ろしい事です。
世界各地で紛争の種は尽きることはない。
新聞記者時代に衝撃を受けたのは浅沼稲次郎さんがが演説中に刺されたが、浅沼さんの演台から5mぐらいのところの幕の陰にいました。
少年が駆けあがって来て、短刀で刺したが、浅沼さんがスローモーションの映画を見るように倒れた、その場面が鮮明に残っている。
1963年のケネディー大統領の暗殺事件、11月22日、妹の結婚式で大坂に帰っていたが、本社から直ぐに帰って来いと言われた。
ロバートケネディーとは沖縄問題で論争をして、険悪な雰囲気になったが、その後仲良くなった。
64年にワシントン特派員としてアメリカに行くが其時ロバートケネディーは上院議員になっていた。
その4年後に彼はロスアンゼルスで暗殺されて大変ショックだった。
三島由紀夫の自殺について佐藤栄作首相に感想を求めたことが有るが、幹事長だったのが田中角栄、防衛庁長官が中曽根康弘だった。
私は敬愛していたので、おしいと言ってくれる人がいると思ったが、おしかったとは3人とも言わなかった。
ジャーナリストと外交官とどちらがいいかと尋ねられることが有るが、ジャーナリストは乞食から皇帝まで誰にでも会えるが、外交官になるとそれぞれのランクの相手と交渉をするので、その辺が違いますと答えている。
公使、参事官、一等書記官とランクが有るので、同レベルの相手と付き合う事が多い。
エジプト、ロンドン、カナダで総領事、カタールの大使を務める。
カタールはパレスチナ問題とはあまり関係なかった。
アラブ諸国から見ると日本はアメリカの従属国と見えるんでしょうね。
大学の教授になっても、カタール時代に友達になった人がいるが、王族と近い人で奥さんが日本人で、日本に来る度に一緒に会っている。
原理主義者は過激な人が多い。
原理主義者はイスラムの原点であるイスラム教の根本に立ち戻るべきだという事で欧米の影響力を否定する。
アメリカは自分の価値観を彼等に押し付けても、彼らは受け入れないだろうと思います。
2001年に9・11が起こるが、ブッシュ大統領はこれは戦争だと行ったんです。
そういうスタンスでアメリカは臨んでいるのでなかなか和解は難しいだろうと思います。
ISは特別なので付き合い様、が無いでしょう、複雑化している。
紛争の種は尽きない。
2015年4月15日水曜日
2015年4月14日火曜日
野本三吉(元学長、作家) ・生きる事の意味を問い続けて(1)(H27.2.5放送)
野本三吉(元学長、作家) ・生きる事の意味を問い続けて(1)(H27.2.5放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2015/02/blog-post_5.htmlをご覧ください。
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2015/02/blog-post_5.htmlをご覧ください。
2015年4月13日月曜日
勝山泰佑(写真家) ・時代を撮り、人を写して、50年
勝山泰佑(写真家) ・時代を撮り、人を写して、50年
昭和19年東京生まれ、早稲田大学に入学後、写真部に入り写真家濱谷 浩さんの助手をつとめました。
在学中からドキュメント写真を撮り始め、今日までフリーランスの写真家として活動を続けてきましたが、今年の1月、「フォト50年 1963~2014 できごと ひとびと」 というタイトルの写真集を出しました。
今50年間に撮影した写真の中からモノクロームの写真381点が収録されています。
写真集は 二つに分かれ 「できごと」には学生運動、ベトナム反戦運動、大都市の光と影、農村の伝統的な生活などが年代順におさめられています。
「ひとびと」には抵抗する人たちを筆頭に、作家、アーティスチ、政治家、ミュージシャン等240人の肖像が乗っています。
「太陽の軌跡」 は8月6日の広島や、6月23日の沖縄摩文仁等、歴史的な日に同じ場所で太陽の運行を撮影したものです。
あとがき風なところに、暗いところが好きだったと 押入れが好きだったと書いてあるが?
押し入れに入って自分の世界に浸るのが好きだった。
友達がたくさんいたが、家に帰ると自分だけの世界に入るのが好きだった。
身体的には体育系だった。
少年雑誌の付録についてくる日光写真が特に好きだった。
1963年に早稲田大学に入る。
新聞記者になりたかったので、写真をやっていれば何か役に立つと思い、写真部に入る。
多くの先輩の中には写真を職業とする人たちがいた。
あちこちに行って合宿などをしていた。
60年安保の或る種の挫折が有って、学生運動が激しいというわけではなかった。
写真の対象として見るのが半分、学生としての気持ちが半分あったが、その後写真的な関心がだんだん強くなってゆく。
初期の写真はデモが多かった。
学生が武器をもったり、ヘルメットをしたりするに従って機動隊も重装備になって来て、そういうところで写真を撮ろうと知ると近づいて撮ることになり、暗闇に引きずり込まれて蹴飛ばされたり、フィルムを出せとか、抜けとか2回~3回あった。
濱谷 浩さんの助手になる。 土門拳、木村 伊兵衛の次の世代の人。
写真家としてのスタイルは舞いとかお茶とかの作法に近い様な感じをもっていました。
1969年社会人としてスタートする。
公害、薬害、地域の闘争等が有る。
雑誌などに写真を提供するなどしたり、その後「寂聴」 「海渡る恨」 「植村家の庭園」等の写真集を出し、そして今回の写真集を出す。
「できごと」、「ひとびと」の2分冊とした。
纏めるにあたって自分のやってきたことが、外でどういうことが起きていたという様な事を見てきたが、中間で起きた事、内で起きた事 3つにわかれると思っていたが、歴史は外で見える部分と見えない部分で進んでいくのではと考えた時に、2つを分けてみたらわかりやすいのではないかと思った。
写真の本命はスナップショットだと思っていてその延長がでデモ、或いはある種の事件だと思う。
新潟県狩場村原子力発電住民説明会、原子力に対する不安が有るが、賛成せざるを得ない中でいろいろな人に出会って、運動の中で変わって行った人とか、高度成長の歴史の影、歴史、とダブるものが有る。
福井県敦賀港の漁港の風景、松山地方裁判所の、伊方原原発の訴訟の判決が出た時の写真、サリドマイド被害の子供達の成長の写真、水俣の写真等公害の問題の写真が捉えられている。
現場主義は貫こうと思っている。
「ひとびと」 小田実 ベ平連の集会の写真とか、作家、政治家、ミュージシャン等。
瀬戸内寂聴さん 1973年に得度して出家するが、半年前の対談集の写真の仕事をはじめてゆくなかで、瀬戸内さんから写真を撮っていってくれないかという事で撮ってゆく事になる。
ボブ・ディラン日本初公演 全行程を撮影した。
その前にニール・ヤングが日本に来た時に撮りたいと思って、策を弄して全部撮ることができた。
ボブ・ディランの時にも撮りた居と思ったが、最後まで行きつかなかったが、ニール・ヤングに仲介をしたが、いい返事はもらえなかったが、最終的には契約をすることができた。
その時のアメリカの政治的な事に腹を立てたニール・ヤングが歌っている時の顔だが、よくぞ変わったと思う、こんなに恐ろしい顔で歌うのかというような激しい顔でした。
私は写真は白黒写真が写真だと思っています、しかもフィルムだと思います。
モノクロでフィルムは手に入れるのが難しくなってきている。
昔は撮影するということは、特別なことであったが、撮る、撮られるという関係が距離、場の設定も限定されていたと思うが、今は写真を撮るという意識もない様な、違和感のない様な時代になってきている。
ドンドン個人が主張される時代になって、非常に撮り易いのだが、撮影しようとすると撮りにくい状況になってきている。
モザイクがやたらに多くなってきていると思う。
写真家にとっても仕事がしにくい事がたくさんある。
「太陽の軌跡」 メモリアルな場所を12時間 太陽の軌跡を捉える。
場所の記憶みたいなものを写真にとどめることができないかと考えたのが「太陽の軌跡」。
意味の或る一日を選んで撮影している。
カメラから離れられないので、専ら紙おむつをしている。
フィルムの大問題はあるが工夫して「太陽の軌跡」は続けていきたいし、ひとびとが眼を向けられない人達をどのように撮影して写真にして残してゆくか、地味なところをやって行きたい。
昭和19年東京生まれ、早稲田大学に入学後、写真部に入り写真家濱谷 浩さんの助手をつとめました。
在学中からドキュメント写真を撮り始め、今日までフリーランスの写真家として活動を続けてきましたが、今年の1月、「フォト50年 1963~2014 できごと ひとびと」 というタイトルの写真集を出しました。
今50年間に撮影した写真の中からモノクロームの写真381点が収録されています。
写真集は 二つに分かれ 「できごと」には学生運動、ベトナム反戦運動、大都市の光と影、農村の伝統的な生活などが年代順におさめられています。
「ひとびと」には抵抗する人たちを筆頭に、作家、アーティスチ、政治家、ミュージシャン等240人の肖像が乗っています。
「太陽の軌跡」 は8月6日の広島や、6月23日の沖縄摩文仁等、歴史的な日に同じ場所で太陽の運行を撮影したものです。
あとがき風なところに、暗いところが好きだったと 押入れが好きだったと書いてあるが?
押し入れに入って自分の世界に浸るのが好きだった。
友達がたくさんいたが、家に帰ると自分だけの世界に入るのが好きだった。
身体的には体育系だった。
少年雑誌の付録についてくる日光写真が特に好きだった。
1963年に早稲田大学に入る。
新聞記者になりたかったので、写真をやっていれば何か役に立つと思い、写真部に入る。
多くの先輩の中には写真を職業とする人たちがいた。
あちこちに行って合宿などをしていた。
60年安保の或る種の挫折が有って、学生運動が激しいというわけではなかった。
写真の対象として見るのが半分、学生としての気持ちが半分あったが、その後写真的な関心がだんだん強くなってゆく。
初期の写真はデモが多かった。
学生が武器をもったり、ヘルメットをしたりするに従って機動隊も重装備になって来て、そういうところで写真を撮ろうと知ると近づいて撮ることになり、暗闇に引きずり込まれて蹴飛ばされたり、フィルムを出せとか、抜けとか2回~3回あった。
濱谷 浩さんの助手になる。 土門拳、木村 伊兵衛の次の世代の人。
写真家としてのスタイルは舞いとかお茶とかの作法に近い様な感じをもっていました。
1969年社会人としてスタートする。
公害、薬害、地域の闘争等が有る。
雑誌などに写真を提供するなどしたり、その後「寂聴」 「海渡る恨」 「植村家の庭園」等の写真集を出し、そして今回の写真集を出す。
「できごと」、「ひとびと」の2分冊とした。
纏めるにあたって自分のやってきたことが、外でどういうことが起きていたという様な事を見てきたが、中間で起きた事、内で起きた事 3つにわかれると思っていたが、歴史は外で見える部分と見えない部分で進んでいくのではと考えた時に、2つを分けてみたらわかりやすいのではないかと思った。
写真の本命はスナップショットだと思っていてその延長がでデモ、或いはある種の事件だと思う。
新潟県狩場村原子力発電住民説明会、原子力に対する不安が有るが、賛成せざるを得ない中でいろいろな人に出会って、運動の中で変わって行った人とか、高度成長の歴史の影、歴史、とダブるものが有る。
福井県敦賀港の漁港の風景、松山地方裁判所の、伊方原原発の訴訟の判決が出た時の写真、サリドマイド被害の子供達の成長の写真、水俣の写真等公害の問題の写真が捉えられている。
現場主義は貫こうと思っている。
「ひとびと」 小田実 ベ平連の集会の写真とか、作家、政治家、ミュージシャン等。
瀬戸内寂聴さん 1973年に得度して出家するが、半年前の対談集の写真の仕事をはじめてゆくなかで、瀬戸内さんから写真を撮っていってくれないかという事で撮ってゆく事になる。
ボブ・ディラン日本初公演 全行程を撮影した。
その前にニール・ヤングが日本に来た時に撮りたいと思って、策を弄して全部撮ることができた。
ボブ・ディランの時にも撮りた居と思ったが、最後まで行きつかなかったが、ニール・ヤングに仲介をしたが、いい返事はもらえなかったが、最終的には契約をすることができた。
その時のアメリカの政治的な事に腹を立てたニール・ヤングが歌っている時の顔だが、よくぞ変わったと思う、こんなに恐ろしい顔で歌うのかというような激しい顔でした。
私は写真は白黒写真が写真だと思っています、しかもフィルムだと思います。
モノクロでフィルムは手に入れるのが難しくなってきている。
昔は撮影するということは、特別なことであったが、撮る、撮られるという関係が距離、場の設定も限定されていたと思うが、今は写真を撮るという意識もない様な、違和感のない様な時代になってきている。
ドンドン個人が主張される時代になって、非常に撮り易いのだが、撮影しようとすると撮りにくい状況になってきている。
モザイクがやたらに多くなってきていると思う。
写真家にとっても仕事がしにくい事がたくさんある。
「太陽の軌跡」 メモリアルな場所を12時間 太陽の軌跡を捉える。
場所の記憶みたいなものを写真にとどめることができないかと考えたのが「太陽の軌跡」。
意味の或る一日を選んで撮影している。
カメラから離れられないので、専ら紙おむつをしている。
フィルムの大問題はあるが工夫して「太陽の軌跡」は続けていきたいし、ひとびとが眼を向けられない人達をどのように撮影して写真にして残してゆくか、地味なところをやって行きたい。
2015年4月12日日曜日
松井久子(映画監督) ・女性の生きざまを撮り続ける
松井久子(映画監督) ・女性の生きざまを撮り続ける
大学を卒業し、雑誌のライターなどを経て、39歳の時にTV製作会社を設立し、50歳で映画監督になりました。
20年近くの間に製作した4本の映画は女性たちのそれぞれの強い生き方を真正面についた作品です。
不思議な事に映画を見た女性たちが強力なサポーターと成って、ロードショーが終わると自主上映会が全国各地で開かれる様になりました。
その会場に松井監督が訪れて多くの方々と触れ合ってきました。
映画題名「何を怖れる」 女って非常にいろいろな事を恐れながら生きてきたんだなと思って、フェミニスト、フェミニズム、女性のために頑張ってきた女性たちにインタビューして、彼女たちのインタビューをしていて、恐れが無い、堂々として自分の思う事をなんのてらいも無く、主張できる、そのことを聞きながら物凄く羨ましいと思った。
自分は潔く自分の主張ができなくて、いろんなことを恐れてきたんだろうと思って、この題名が浮かんだ。
ドキュメンタリー的作品です。
2010年 「レオニー 」 世界的彫刻家イサム・ノグチのお母さんを題材にしたもの
映画作りに於いて幸せな体験ができた。 日米合作作品。
大変だったけどあんな恵まれた経験はもう二度とできないだろうと思っています。
映画を作るのにはその資金集めが必要で、お金が集まるまでに6年半掛かった。
1年半で製作したので公開までに8年掛かった。
私は50歳で初めて映画製作に取り組んだが、映画界で生きてきたわけでもない、助監督の経験もない中で、私が監督をして、なんで俺の上で監督するんだとの抵抗が有るだろうなと私の方が思ってしまった。
でもアメリカの体験はそうではなくて、女でも、キャリアーが無くても、有名で無くても、ハンディーには成らなかった。
2002年 「折り梅」 運のいい作品で苦労も3本の中で一番少なかったし、映画を作っている時に認知症の介護が深刻になって来て自分たちの向き合うテーマになって、ほんとうに沢山の人たちに見て頂いた。
今でも全国のどこかで行われていて、映画を作ってよかったと思う。
時代が変わっても、普遍的なテーマは見られ続ける。
1998年 「ユキエ」 夫婦愛がテーマでアルツハイマーがサブテーマになっている。
戦後間もなくアメリカに嫁いでいった日本女性が差別を受けながらも、男の子2人を育てて、やっと老いの時にも、夫と二人でなんの心配もなく、生きていくんだと思った時に、ユキエがアルツハイマーになる。
45年連れ添ったアメリカ人の夫が寂しさの中で介護をスタートさせる。
認知症の問題をもっと突き詰めたいと思って、「折り梅」を作ったわけです。
現在は認知症の介護のシステムも、社会的な状況も整ってきているが、当時は認知症、高齢化社会に向かって深刻になるぞという初めの事で、あまり関心が無くて、「折り梅」の頃になると深刻に向き合うテーマとして関心が高くなったので「折り梅」は関心が高くなった。
高齢社会になったが、若いころは映画に触発されたが、今は若い人の映画が上映されていて、
私の映画の場合は地域で介護のために活動している人、社会のために活動している女性が、地域の人と一緒に見ようという事で自分たちで動いてくれて上映会を開きました。
「ユキエ」で上映会を初めてやった方たちが「折り梅」、「レオニー 」、「何を怖れる」でも一生懸命頑張って、上映会を広げてくださって、そこに私が招かれて、自分の想いみたいな事をお話して、それがセットになって全国を歩いてきました。
なんてそんな土地土地に素敵な生き方をしている人が一杯いるんだろうと、出会ってお話を聞く事が出来、私にとって映画を作ってよかったなあと思っています。
人と人との心のつながりというものは、すごく人を美しくするものです。
1年半ほど前に亡くなった方(画家) 作品集を一周忌に残された遺族でつくったという手紙と共にお嬢さんが送ってこられた。 「内藤定一 歌集」 (素朴な絵と歌)
国鉄の組合で運動していて、そこで女性と結婚した人。
二人で定年を迎えて、これから二人で全国旅をと言う時に 奥様が60歳で認知症になられてそれからずーっと在宅で介護して、そんな中で折々感じたことを歌に詠まれていて、600首に及ぶ。
「それ行け 徘徊号と 名づけたる 自転車2台が 並ぶ我が家」
「老人の 福祉が商売に なるという そんな社会で 老いたくはなし」
「春キャベツの 重ね着一枚ずつ剥がす 今日を剥がせば 新しき明日」
「過去もない 明日も思わぬ 妻となり 言葉のいらぬ 国で居眠る」
「思わざり スローグッバイの 終着は テールランプを 消すより易く」
自身で抱え過ぎてしまって、人に弱音を吐けないと、時々ある介護殺人見たいな事は決して特殊な人がすることではなくて、物凄く最初のころに抱え込んで、追い詰められてゆく事もあるので、男性にはもっと人の助けを借りる事、家族のサポートを借りる事を心掛けた方がいいと思う、あまり抱え込まない。
戦争する国に向かいそうだなという感覚が有って、戦争だけはしない日本であろうよね、というのをドキュメンタリーで出来たらいいなというのを漠然と考えている。
大学を卒業し、雑誌のライターなどを経て、39歳の時にTV製作会社を設立し、50歳で映画監督になりました。
20年近くの間に製作した4本の映画は女性たちのそれぞれの強い生き方を真正面についた作品です。
不思議な事に映画を見た女性たちが強力なサポーターと成って、ロードショーが終わると自主上映会が全国各地で開かれる様になりました。
その会場に松井監督が訪れて多くの方々と触れ合ってきました。
映画題名「何を怖れる」 女って非常にいろいろな事を恐れながら生きてきたんだなと思って、フェミニスト、フェミニズム、女性のために頑張ってきた女性たちにインタビューして、彼女たちのインタビューをしていて、恐れが無い、堂々として自分の思う事をなんのてらいも無く、主張できる、そのことを聞きながら物凄く羨ましいと思った。
自分は潔く自分の主張ができなくて、いろんなことを恐れてきたんだろうと思って、この題名が浮かんだ。
ドキュメンタリー的作品です。
2010年 「レオニー 」 世界的彫刻家イサム・ノグチのお母さんを題材にしたもの
映画作りに於いて幸せな体験ができた。 日米合作作品。
大変だったけどあんな恵まれた経験はもう二度とできないだろうと思っています。
映画を作るのにはその資金集めが必要で、お金が集まるまでに6年半掛かった。
1年半で製作したので公開までに8年掛かった。
私は50歳で初めて映画製作に取り組んだが、映画界で生きてきたわけでもない、助監督の経験もない中で、私が監督をして、なんで俺の上で監督するんだとの抵抗が有るだろうなと私の方が思ってしまった。
でもアメリカの体験はそうではなくて、女でも、キャリアーが無くても、有名で無くても、ハンディーには成らなかった。
2002年 「折り梅」 運のいい作品で苦労も3本の中で一番少なかったし、映画を作っている時に認知症の介護が深刻になって来て自分たちの向き合うテーマになって、ほんとうに沢山の人たちに見て頂いた。
今でも全国のどこかで行われていて、映画を作ってよかったと思う。
時代が変わっても、普遍的なテーマは見られ続ける。
1998年 「ユキエ」 夫婦愛がテーマでアルツハイマーがサブテーマになっている。
戦後間もなくアメリカに嫁いでいった日本女性が差別を受けながらも、男の子2人を育てて、やっと老いの時にも、夫と二人でなんの心配もなく、生きていくんだと思った時に、ユキエがアルツハイマーになる。
45年連れ添ったアメリカ人の夫が寂しさの中で介護をスタートさせる。
認知症の問題をもっと突き詰めたいと思って、「折り梅」を作ったわけです。
現在は認知症の介護のシステムも、社会的な状況も整ってきているが、当時は認知症、高齢化社会に向かって深刻になるぞという初めの事で、あまり関心が無くて、「折り梅」の頃になると深刻に向き合うテーマとして関心が高くなったので「折り梅」は関心が高くなった。
高齢社会になったが、若いころは映画に触発されたが、今は若い人の映画が上映されていて、
私の映画の場合は地域で介護のために活動している人、社会のために活動している女性が、地域の人と一緒に見ようという事で自分たちで動いてくれて上映会を開きました。
「ユキエ」で上映会を初めてやった方たちが「折り梅」、「レオニー 」、「何を怖れる」でも一生懸命頑張って、上映会を広げてくださって、そこに私が招かれて、自分の想いみたいな事をお話して、それがセットになって全国を歩いてきました。
なんてそんな土地土地に素敵な生き方をしている人が一杯いるんだろうと、出会ってお話を聞く事が出来、私にとって映画を作ってよかったなあと思っています。
人と人との心のつながりというものは、すごく人を美しくするものです。
1年半ほど前に亡くなった方(画家) 作品集を一周忌に残された遺族でつくったという手紙と共にお嬢さんが送ってこられた。 「内藤定一 歌集」 (素朴な絵と歌)
国鉄の組合で運動していて、そこで女性と結婚した人。
二人で定年を迎えて、これから二人で全国旅をと言う時に 奥様が60歳で認知症になられてそれからずーっと在宅で介護して、そんな中で折々感じたことを歌に詠まれていて、600首に及ぶ。
「それ行け 徘徊号と 名づけたる 自転車2台が 並ぶ我が家」
「老人の 福祉が商売に なるという そんな社会で 老いたくはなし」
「春キャベツの 重ね着一枚ずつ剥がす 今日を剥がせば 新しき明日」
「過去もない 明日も思わぬ 妻となり 言葉のいらぬ 国で居眠る」
「思わざり スローグッバイの 終着は テールランプを 消すより易く」
自身で抱え過ぎてしまって、人に弱音を吐けないと、時々ある介護殺人見たいな事は決して特殊な人がすることではなくて、物凄く最初のころに抱え込んで、追い詰められてゆく事もあるので、男性にはもっと人の助けを借りる事、家族のサポートを借りる事を心掛けた方がいいと思う、あまり抱え込まない。
戦争する国に向かいそうだなという感覚が有って、戦争だけはしない日本であろうよね、というのをドキュメンタリーで出来たらいいなというのを漠然と考えている。
2015年4月11日土曜日
賀川浩(サッカージャーナリスト) ・フィールドを見つめ伝えて(前編)
賀川浩(90歳のサッカージャーナリスト) ・フィールドを見つめ伝えて(前編)
神戸市出身の賀川さんは大正13年生まれの90歳、旧制神戸一中、旧神戸商業大学でサッカー選手として活躍しますが、太平洋戦争中は陸軍の飛行士の特別操縦見習士官になります。
朝鮮半島の基地で特攻隊としての訓練を受けますが、出撃前に終戦を迎えます。
復員した後も大坂クラブで天皇杯で準優勝するなど、サッカー選手として活躍した後、昭和27年に産経新聞社に入社、運動部記者の道に進みます。
サンケイスポーツ編集局長を経て、平成2年からフリーのサッカージャーナリストになった後も、専門紙などで執筆活動を続けました。
この間ワールドカップの取材が10回、60年を越えるサッカー取材の実績を認められて、今年の1月には日本人としては初めて、国際サッカー連盟FIFAの会長賞を受賞しました。
FIFA会長賞は選手以外から選ばれる。
神戸市立中央図書館の1室には賀川さんの蔵書など5000点が寄贈されて、神戸賀川サッカー文庫が
開設されています。
1月13日の表彰式にチューリッヒに来てほしいとの連絡が有った。
前年がIOC会長、その前がベッケンバウアー、その前がペレ、ジャーナリストは初めてです。
バロンドール 前年の世界優秀選手を選ぶ。
1956年にフランスのサッカー専門誌「フランス・フットボール」が創設した。
バロンドールそのものは本来男子ですが、それ以外に女子の優秀選手、前年のベストゴール、ベストイレブン、優秀監督、男子チーム、女子チーム、会長賞が有る。
昔は表彰式を大々的に報道する様な事はなかった。
受賞の理由としては、長く62年間サッカーにかかわって来て多くの日本の人たちをサッカーに向けさせて、同時に技術戦術に触れる記事を書き続けて、日本、アジアのサッカーの急速な発展に貢献したという様なことでした。
大先輩は1921年 第一回天皇杯で優勝した時のキャプテンで、後に朝日新聞のサッカー記者になった
山田午郎さんとか大先輩を始めずーっと優秀な先輩がいました。
FIFAにとっては日本サッカーが急速に大きくなって、レベルも上がったという事はめでたいことだし、日本の様に力が有る国でサッカーが盛んになった事はFIFAにとってプラスになっている。
それに多少ともメディアが関わったんではないかと、その中で一番年上だから賀川でいいなろうという事になったのではないか。
サッカーとの出合いは?
御影師範学校、姫路師範学校(先生養成校)等はサッカーが盛んで、大坂ではあまり盛んではなかった。
甲子園は大正13年にできたが、当時は野球はメジャーというようなことはなかった。
甲子園では春と夏に開催されていただけだった。
神戸では春から夏は野球、秋から冬になると、小学校ではフットボールだった。
神戸市の雲中尋常小学校時代からサッカーに親しんだ賀川さんは、昭和12年に兵庫県立第一神戸中学校に進みます。
サッカー部には2つ上の学年に兄、賀川太郎がいました。
兄がキャプテンをやっていて、私はアシスタントマネージャーをやっていて、雑用係だったが、控えのキーパーにボールを蹴ってやるという仕事ができて、一日の60~100本ぐらい蹴っていた。
昭和15年 われわれのチームは全国大会予選に神戸3中に負けて、秋にも負けた。
朝鮮半島の代表の普成中学に夏の全国大会の決勝に当たった時に、神戸3中は4-0で完敗だった。
昭和16年8月 兵庫県の大会で優勝する事ができた。
ヒットラーがロシアに攻め込んだ年で、日本陸軍関東軍特別大演習をおこなった。
満州に物資と兵員を増強するという名目でドンドン送ったので、東海道線はそれでいっぱいで、その年は朝日新聞全国高校野球も無し、毎日新聞の全国中学サッカーもなかった。
段々物資が無くなってきて、ボールの配給がはじまっていた。
ボールの修繕を行う様になり、段々ボールも無くなるようになる。
昭和18年9月に理工学系を除いて、文化系は兵隊に行くようになった。
昭和19年4月に徴兵検査が有り、甲種合格と成り、飛行機乗りの検査がありそれに通って、陸軍特別操縦見習士官と成り、昭和19年6月1日に入る。
宇都宮陸軍飛行学校に入り訓練が始まる。
昭和20年春に朝鮮半島の海州 (現在の北朝鮮南西部) 迎陽の飛行場に転属、4月30日には特攻隊に配属される。
19年夏にはサイパン陥落、11月にはレイテ沖海戦 武蔵に搭乗していたサッカーをやっていた友人も戦死する。
4月30日付けで413飛行隊(特攻隊)に配属されて、合同演習が6月から始まる。
則安少佐のもとに飛行演習をするが、後の自分がフットボールを人に教えたり話したり時の技術の習得がどういうものだという事がこの演習から判って来た。
練習をやっている間は、恐怖という様な事は考えていなかった。
7月に展開する事になっていたが、8月になったら朝鮮半島の一番先端にある飛行場が有るので、朝鮮海峡に来る相手にぶつかることになっていた。
8月15日になり終戦を迎える。
南線に移動する事になり、直後に飛行場にソ連の軍隊が入ってきた。
地上部隊は移動していなかったので皆シベリアに連れて行かれた。
2カ月後帰国する。 10月中旬に山口県の港、仙崎にもどってくる。
貨車に乗り込んで京都に帰ってきた。(3回の攻撃で6月5日の神戸は完全に無くなったぐらいなので、それは聞いていた)
両親の実家が共に京都だったので、京都にもどってきた。
帰って来て3日後にはがきが来て、次の日曜日に集まるからバックをもって来いという内容で、関西のサッカーの復活の第一声だった。
学校へ行くつもりはほとんどなくて、神戸大学を辞めようと思っていて、とりあえずサッカーの練習はしていた。
21年2月11日 建国建国記念日の時に、西宮で全関東対全関西の社会人の試合、関東学生選抜対関西学生選抜の試合が有った。
試合に出る気はなかったが、学生選抜の練習には顔を出していた。
名ウイングの先輩(キャプテン)が俺今日は足が駄目なのでお前やれと言われた。
試合に出て新聞に名前が出てしまって、学校にはこないのに、どうして試合に出ているんだという事になってしまった。
4月に学校をやめて、サッカーも辞められると思っていたが、声がかかって来て続ける羽目になった。
1951年 スウェーデンヘルシンボリのクラブチーム来日時に依頼され京都新聞に記事を書いた。
夕刊京都にスウェーデンと日本との違いなど特集を書いた。
それを石割?さんと言う京都新聞の記者が産経が今ボールゲームの記者を探しているので、この記事をもって行って見せるという事で、そうしたら木村象雷運動部長が会いたいという事だった。
12月に会って産経に来いという事になり、1952年1月から仕事を始めた。
朝日新聞に大谷四朗という神戸一中の先輩が入っていて、こういう仕事も面白いのかなあと思った。
神戸市出身の賀川さんは大正13年生まれの90歳、旧制神戸一中、旧神戸商業大学でサッカー選手として活躍しますが、太平洋戦争中は陸軍の飛行士の特別操縦見習士官になります。
朝鮮半島の基地で特攻隊としての訓練を受けますが、出撃前に終戦を迎えます。
復員した後も大坂クラブで天皇杯で準優勝するなど、サッカー選手として活躍した後、昭和27年に産経新聞社に入社、運動部記者の道に進みます。
サンケイスポーツ編集局長を経て、平成2年からフリーのサッカージャーナリストになった後も、専門紙などで執筆活動を続けました。
この間ワールドカップの取材が10回、60年を越えるサッカー取材の実績を認められて、今年の1月には日本人としては初めて、国際サッカー連盟FIFAの会長賞を受賞しました。
FIFA会長賞は選手以外から選ばれる。
神戸市立中央図書館の1室には賀川さんの蔵書など5000点が寄贈されて、神戸賀川サッカー文庫が
開設されています。
1月13日の表彰式にチューリッヒに来てほしいとの連絡が有った。
前年がIOC会長、その前がベッケンバウアー、その前がペレ、ジャーナリストは初めてです。
バロンドール 前年の世界優秀選手を選ぶ。
1956年にフランスのサッカー専門誌「フランス・フットボール」が創設した。
バロンドールそのものは本来男子ですが、それ以外に女子の優秀選手、前年のベストゴール、ベストイレブン、優秀監督、男子チーム、女子チーム、会長賞が有る。
昔は表彰式を大々的に報道する様な事はなかった。
受賞の理由としては、長く62年間サッカーにかかわって来て多くの日本の人たちをサッカーに向けさせて、同時に技術戦術に触れる記事を書き続けて、日本、アジアのサッカーの急速な発展に貢献したという様なことでした。
大先輩は1921年 第一回天皇杯で優勝した時のキャプテンで、後に朝日新聞のサッカー記者になった
山田午郎さんとか大先輩を始めずーっと優秀な先輩がいました。
FIFAにとっては日本サッカーが急速に大きくなって、レベルも上がったという事はめでたいことだし、日本の様に力が有る国でサッカーが盛んになった事はFIFAにとってプラスになっている。
それに多少ともメディアが関わったんではないかと、その中で一番年上だから賀川でいいなろうという事になったのではないか。
サッカーとの出合いは?
御影師範学校、姫路師範学校(先生養成校)等はサッカーが盛んで、大坂ではあまり盛んではなかった。
甲子園は大正13年にできたが、当時は野球はメジャーというようなことはなかった。
甲子園では春と夏に開催されていただけだった。
神戸では春から夏は野球、秋から冬になると、小学校ではフットボールだった。
神戸市の雲中尋常小学校時代からサッカーに親しんだ賀川さんは、昭和12年に兵庫県立第一神戸中学校に進みます。
サッカー部には2つ上の学年に兄、賀川太郎がいました。
1つ下に岩谷俊夫が入学してきます。
戦後1950年代にサッカー日本代表の主力選手たちが活躍していました。兄がキャプテンをやっていて、私はアシスタントマネージャーをやっていて、雑用係だったが、控えのキーパーにボールを蹴ってやるという仕事ができて、一日の60~100本ぐらい蹴っていた。
昭和15年 われわれのチームは全国大会予選に神戸3中に負けて、秋にも負けた。
朝鮮半島の代表の普成中学に夏の全国大会の決勝に当たった時に、神戸3中は4-0で完敗だった。
昭和16年8月 兵庫県の大会で優勝する事ができた。
ヒットラーがロシアに攻め込んだ年で、日本陸軍関東軍特別大演習をおこなった。
満州に物資と兵員を増強するという名目でドンドン送ったので、東海道線はそれでいっぱいで、その年は朝日新聞全国高校野球も無し、毎日新聞の全国中学サッカーもなかった。
段々物資が無くなってきて、ボールの配給がはじまっていた。
ボールの修繕を行う様になり、段々ボールも無くなるようになる。
昭和18年9月に理工学系を除いて、文化系は兵隊に行くようになった。
昭和19年4月に徴兵検査が有り、甲種合格と成り、飛行機乗りの検査がありそれに通って、陸軍特別操縦見習士官と成り、昭和19年6月1日に入る。
宇都宮陸軍飛行学校に入り訓練が始まる。
昭和20年春に朝鮮半島の海州 (現在の北朝鮮南西部) 迎陽の飛行場に転属、4月30日には特攻隊に配属される。
19年夏にはサイパン陥落、11月にはレイテ沖海戦 武蔵に搭乗していたサッカーをやっていた友人も戦死する。
4月30日付けで413飛行隊(特攻隊)に配属されて、合同演習が6月から始まる。
則安少佐のもとに飛行演習をするが、後の自分がフットボールを人に教えたり話したり時の技術の習得がどういうものだという事がこの演習から判って来た。
練習をやっている間は、恐怖という様な事は考えていなかった。
7月に展開する事になっていたが、8月になったら朝鮮半島の一番先端にある飛行場が有るので、朝鮮海峡に来る相手にぶつかることになっていた。
8月15日になり終戦を迎える。
南線に移動する事になり、直後に飛行場にソ連の軍隊が入ってきた。
地上部隊は移動していなかったので皆シベリアに連れて行かれた。
2カ月後帰国する。 10月中旬に山口県の港、仙崎にもどってくる。
貨車に乗り込んで京都に帰ってきた。(3回の攻撃で6月5日の神戸は完全に無くなったぐらいなので、それは聞いていた)
両親の実家が共に京都だったので、京都にもどってきた。
帰って来て3日後にはがきが来て、次の日曜日に集まるからバックをもって来いという内容で、関西のサッカーの復活の第一声だった。
学校へ行くつもりはほとんどなくて、神戸大学を辞めようと思っていて、とりあえずサッカーの練習はしていた。
21年2月11日 建国建国記念日の時に、西宮で全関東対全関西の社会人の試合、関東学生選抜対関西学生選抜の試合が有った。
試合に出る気はなかったが、学生選抜の練習には顔を出していた。
名ウイングの先輩(キャプテン)が俺今日は足が駄目なのでお前やれと言われた。
試合に出て新聞に名前が出てしまって、学校にはこないのに、どうして試合に出ているんだという事になってしまった。
4月に学校をやめて、サッカーも辞められると思っていたが、声がかかって来て続ける羽目になった。
1951年 スウェーデンヘルシンボリのクラブチーム来日時に依頼され京都新聞に記事を書いた。
夕刊京都にスウェーデンと日本との違いなど特集を書いた。
それを石割?さんと言う京都新聞の記者が産経が今ボールゲームの記者を探しているので、この記事をもって行って見せるという事で、そうしたら木村象雷運動部長が会いたいという事だった。
12月に会って産経に来いという事になり、1952年1月から仕事を始めた。
朝日新聞に大谷四朗という神戸一中の先輩が入っていて、こういう仕事も面白いのかなあと思った。
2015年4月10日金曜日
佐藤由美子(米国認定音楽療法士) ・アメリカ・ホスピス体験10年を語る
佐藤由美子(米国認定音楽療法士) ・アメリカ・ホスピス体験10年を語る
佐藤さんは1977年昭和52年福島県で生まれ東京で育ちました。
6歳からピアノを10年間学び、19歳の時にアメリカに留学、大学在学中に難病患者、末期がん患者の心をやわらげる音楽療法を知り、26歳の時ホスピス緩和ケア専門の米国認定音楽療法士の資格を取得しました。
アメリカ各地の病院や施設で終末期を迎えた癌や難病患者の人たちにギターやハープを奏で、歌で語りかける音楽療法を行ってきました。
アメリカ社会の中で様々な出会いと音楽療法の体験を語っていただきます。
ピアノの練習は好きではなかったが、15歳まで続けてきた。
ギター、アイリッシュハープ、フルート、ウクレレ等を使ってやっている。
米国でホスピス と言うと余命6か月以内の人で有れば、だれでも受けられるケアの事。(家族を含め 心のケアも提供する)
大学では音楽専攻、心理学が副専攻だった。
音楽療法が有ることを知る。
ジム・ボーリング教授と出会って、それがきっかけで音楽療法をやろうと思った。
他の人に使えることを知った時に、それができるのであればそれは素晴らしい職業だと思って、教授の最初の授業の時に音楽療法士になろうと思った。
26歳で米国認定音楽療法士を取る。
MTBCという称号が与えられる。 6000人程度が米国では取得している。
日本では日本音楽療法士は2600人ぐらいいる。(資格等は違うところもあるが)
聴覚は最後に残る感覚である。
最初半信半疑でしたが、音楽療法士になって1年目に出会った患者さんに出会ったのがきっかけで分かった。
80歳の肺がんの女性末期患者さんで、いつ亡くなってもおかしくない状態だった。
音楽療法を始めたが、音楽療法について家族は良く知らなかった。
患者さんは昔からミュージカルが好きだった。
「エーデルワイス」の曲を弾いたあとに息子さん等と話を始めた。
笑いがでて、リラックスして思い出話などをした。
リクエストをしてもらったら「サイレント ナイト」を要望された。
弾いている間に患者さんの変化が有って吃驚した。
患者さんの呼吸が急に規則的になったのである。
3番目の歌詞に差し掛かった時にそれまでずっと閉じていた患者の眼が微かに開いたのだ。
驚きを隠せなかった、息子さん等も異変に気付き、眼は少しずつ開いていき最終的には完全に開いた。
そして彼女はにっこりとやさしく微笑んだのである。
歌の終りに差し掛かると彼女はゆっくりと息を吸い込んだが、その息を吐き出すことはなかった。
私が生まれて初めて間近に見た死だった、とても自然で信じられないほどおだやかな死だった。
息子さんがこんな形で母さんが最後を迎えて良かった、今まで生きていた中で最も美しい瞬間だった、母さんは素晴らしい女性だったから母さんにふさわしい死に方だったと思う、有難うと私に言ってくれた。
これがその後の私の音楽療法士としての活動にかなり影響を与えた。
聴覚が最後まで残る感覚であるという事を実感した。
アメリカのホスピス
①病院 ②自宅 ③老人ホーム が有るがほとんどは②,③が多い。
音楽療法士に関しては看護師が委託する形になる。
音楽療法が適してしているかどうかを、検討して適しているかどうかを判断し、プランを立てる。
患者さんのニーズに合わせて対応する。
一人一人の人生が違う様に死に方も違います。
認知症に対しても効果を発揮する。
認知症の末期の人でも音楽を聞くと覚えているという事が多い。
懐かしい曲を聞くという事は心の支えになる。
認知症の患者さんは考える事は出来ないかもしれないが、感じることはできる。
音楽はその気持ちに響くんです。
2002年7月 老人ホーム 80歳代のアルツハイマーの人
ジャズシンガーだった人で、 音楽療法に適していると思った。
彼は末期であり、車椅子に座って下を向いていて、ほとんど寝ている状態だったが、音楽を聞くと別人のようだった。
顔の表情が生き生きする、本来の姿が一瞬見えるような感じだった。
彼が亡くなる2日前に、一緒に歌おうといっても今まで歌ったことはなかったが、今日は君のために歌うよと言ってくれて歌ってくれた。
彼の顔は本当に生き生きとした顔で、この人の本来の姿はこれなんだと思った。
私は聞いた事はなかったが、ラブソングだったと思う。
最後に歌ったという事は娘さんにとっても凄く心の支えになったみたいです。
音楽の力は凄いと思います。
日本でも老人ホームに行っています。
童謡を聞くと涙を流して、うれし涙だと言ってくれる。
子供の頃のことを昨日のように思い出させてくれる。(音楽は記憶を刺激する力が有る)
自分と同じ年ごろの人と出会ったりすると、自分自身もいつか死ぬんだなと気付く時が有って、死を見つめる事は生きることを考えることなんですよね。
この仕事をしていくうちに、限られた時間でどうやって生きようかという事を考えるようになりました。
音楽療法は日本ではまだまだ普及していないというのが現状ですが、ニーズは高まっている。
グリーフ(grief)は、深い悲しみの意、身近な人と死別して悲嘆に暮れる人が、その悲しみから立ち直れるようそばにいて支援すること。
感情の変化、体の変化があるが、グリーフには時間がかかる。
悲惨な事故に遭ったときには精神的なケアをすることが多い。
子供は感情が上手に表現できないので、それが行動に出たりする、暴力とか。
音楽療法を取り入れながらやると子供は心を開いてゆくので、音楽療法を取り入れる事は効果的だと思います。
悩みをもっている人の心を癒すことに、音楽は力強いものが有る。
音楽が人と人をつなぐ役割もする、特に認知症の人の家族は何年もケアをしているので、心身ともに疲れているので家族にケアをする事はすごく重要なことです。
夫婦、親子の関係が無くなり、看護する人、看護される人の関係になってしまっているので、音楽療法の時だけでも家族を含めて音楽療法をすることによって、夫婦なり、家族の関係に戻すという事が出来るという事は、それがあることと無い事では凄く違うと思う。
こういう仕事を永年やってゆくという事は精神的に結構つらいことですが、日本に帰って来て「ラスト・ソング」という本を書かせて頂いて、初めて自分が今までどれだけ感情を抱えてきたのか、初めて判ったんです。
この本を書いてきて毎日涙がとまらなかった。
当時のそのときにはそんなに泣かなかったが、積もり積もっていたんだなあと気付いて、ちょっと休んで本を書いた事は自分のケアになったんだなあと思います。
「音楽は人間が言葉で言えない事で、しかも黙っていられない事柄を表現する」
ヴィクトル=マリー・ユーゴーの言葉
音楽の力そのものをいっていると思う。
佐藤さんは1977年昭和52年福島県で生まれ東京で育ちました。
6歳からピアノを10年間学び、19歳の時にアメリカに留学、大学在学中に難病患者、末期がん患者の心をやわらげる音楽療法を知り、26歳の時ホスピス緩和ケア専門の米国認定音楽療法士の資格を取得しました。
アメリカ各地の病院や施設で終末期を迎えた癌や難病患者の人たちにギターやハープを奏で、歌で語りかける音楽療法を行ってきました。
アメリカ社会の中で様々な出会いと音楽療法の体験を語っていただきます。
ピアノの練習は好きではなかったが、15歳まで続けてきた。
ギター、アイリッシュハープ、フルート、ウクレレ等を使ってやっている。
米国でホスピス と言うと余命6か月以内の人で有れば、だれでも受けられるケアの事。(家族を含め 心のケアも提供する)
大学では音楽専攻、心理学が副専攻だった。
音楽療法が有ることを知る。
ジム・ボーリング教授と出会って、それがきっかけで音楽療法をやろうと思った。
他の人に使えることを知った時に、それができるのであればそれは素晴らしい職業だと思って、教授の最初の授業の時に音楽療法士になろうと思った。
26歳で米国認定音楽療法士を取る。
MTBCという称号が与えられる。 6000人程度が米国では取得している。
日本では日本音楽療法士は2600人ぐらいいる。(資格等は違うところもあるが)
聴覚は最後に残る感覚である。
最初半信半疑でしたが、音楽療法士になって1年目に出会った患者さんに出会ったのがきっかけで分かった。
80歳の肺がんの女性末期患者さんで、いつ亡くなってもおかしくない状態だった。
音楽療法を始めたが、音楽療法について家族は良く知らなかった。
患者さんは昔からミュージカルが好きだった。
「エーデルワイス」の曲を弾いたあとに息子さん等と話を始めた。
笑いがでて、リラックスして思い出話などをした。
リクエストをしてもらったら「サイレント ナイト」を要望された。
弾いている間に患者さんの変化が有って吃驚した。
患者さんの呼吸が急に規則的になったのである。
3番目の歌詞に差し掛かった時にそれまでずっと閉じていた患者の眼が微かに開いたのだ。
驚きを隠せなかった、息子さん等も異変に気付き、眼は少しずつ開いていき最終的には完全に開いた。
そして彼女はにっこりとやさしく微笑んだのである。
歌の終りに差し掛かると彼女はゆっくりと息を吸い込んだが、その息を吐き出すことはなかった。
私が生まれて初めて間近に見た死だった、とても自然で信じられないほどおだやかな死だった。
息子さんがこんな形で母さんが最後を迎えて良かった、今まで生きていた中で最も美しい瞬間だった、母さんは素晴らしい女性だったから母さんにふさわしい死に方だったと思う、有難うと私に言ってくれた。
これがその後の私の音楽療法士としての活動にかなり影響を与えた。
聴覚が最後まで残る感覚であるという事を実感した。
アメリカのホスピス
①病院 ②自宅 ③老人ホーム が有るがほとんどは②,③が多い。
音楽療法士に関しては看護師が委託する形になる。
音楽療法が適してしているかどうかを、検討して適しているかどうかを判断し、プランを立てる。
患者さんのニーズに合わせて対応する。
一人一人の人生が違う様に死に方も違います。
認知症に対しても効果を発揮する。
認知症の末期の人でも音楽を聞くと覚えているという事が多い。
懐かしい曲を聞くという事は心の支えになる。
認知症の患者さんは考える事は出来ないかもしれないが、感じることはできる。
音楽はその気持ちに響くんです。
2002年7月 老人ホーム 80歳代のアルツハイマーの人
ジャズシンガーだった人で、 音楽療法に適していると思った。
彼は末期であり、車椅子に座って下を向いていて、ほとんど寝ている状態だったが、音楽を聞くと別人のようだった。
顔の表情が生き生きする、本来の姿が一瞬見えるような感じだった。
彼が亡くなる2日前に、一緒に歌おうといっても今まで歌ったことはなかったが、今日は君のために歌うよと言ってくれて歌ってくれた。
彼の顔は本当に生き生きとした顔で、この人の本来の姿はこれなんだと思った。
私は聞いた事はなかったが、ラブソングだったと思う。
最後に歌ったという事は娘さんにとっても凄く心の支えになったみたいです。
音楽の力は凄いと思います。
日本でも老人ホームに行っています。
童謡を聞くと涙を流して、うれし涙だと言ってくれる。
子供の頃のことを昨日のように思い出させてくれる。(音楽は記憶を刺激する力が有る)
自分と同じ年ごろの人と出会ったりすると、自分自身もいつか死ぬんだなと気付く時が有って、死を見つめる事は生きることを考えることなんですよね。
この仕事をしていくうちに、限られた時間でどうやって生きようかという事を考えるようになりました。
音楽療法は日本ではまだまだ普及していないというのが現状ですが、ニーズは高まっている。
グリーフ(grief)は、深い悲しみの意、身近な人と死別して悲嘆に暮れる人が、その悲しみから立ち直れるようそばにいて支援すること。
感情の変化、体の変化があるが、グリーフには時間がかかる。
悲惨な事故に遭ったときには精神的なケアをすることが多い。
子供は感情が上手に表現できないので、それが行動に出たりする、暴力とか。
音楽療法を取り入れながらやると子供は心を開いてゆくので、音楽療法を取り入れる事は効果的だと思います。
悩みをもっている人の心を癒すことに、音楽は力強いものが有る。
音楽が人と人をつなぐ役割もする、特に認知症の人の家族は何年もケアをしているので、心身ともに疲れているので家族にケアをする事はすごく重要なことです。
夫婦、親子の関係が無くなり、看護する人、看護される人の関係になってしまっているので、音楽療法の時だけでも家族を含めて音楽療法をすることによって、夫婦なり、家族の関係に戻すという事が出来るという事は、それがあることと無い事では凄く違うと思う。
こういう仕事を永年やってゆくという事は精神的に結構つらいことですが、日本に帰って来て「ラスト・ソング」という本を書かせて頂いて、初めて自分が今までどれだけ感情を抱えてきたのか、初めて判ったんです。
この本を書いてきて毎日涙がとまらなかった。
当時のそのときにはそんなに泣かなかったが、積もり積もっていたんだなあと気付いて、ちょっと休んで本を書いた事は自分のケアになったんだなあと思います。
「音楽は人間が言葉で言えない事で、しかも黙っていられない事柄を表現する」
ヴィクトル=マリー・ユーゴーの言葉
音楽の力そのものをいっていると思う。
2015年4月9日木曜日
吉野誠一(製茶園六代目) ・和紙を使って、名茶を守る
吉野誠一(製茶園六代目) ・和紙を使って、名茶を守る
去年国際教育科学文化機関ユネスコの無形文化遺産に日本の伝統手すき和紙技術、岐阜県の本美濃紙、島根県の石州半紙、埼玉県の細川紙が登録されました。
埼玉県日高市で製茶業を営む吉野さん68歳は細川和紙を使って作る伝統製茶法を守り続けている数少ない製茶技術者です。
狭山茶産地では戦前まで畳ほどの大きさの木脇に厚めの細川和紙を貼って下から炭火であぶる火いれを行ってきました。
戦後は短時間で大量生産できる鉄板ドラム式が普及し、火加減が必要な和紙は使われなくなってきました。
吉野さんはこくのある伝統の味わいを残したいと、鉄板を5枚がさねの和紙に置き換えお茶の製造を続けてきました。
寒冷地に適したお茶の品種改良や国産紅茶の製造、葉が黄金色や紫色のお茶を育てるなど、地域のお茶の改良に努力を続けています。
狭山茶の産地にとって細川和紙が無かったら、昔からお茶ができなったというぐらい重要な和紙だった。
畳一枚分の大きさの高さ20cmの枠の木枠の中に全面細川和紙を張って、そこの上でお茶を造る。
下から炭火で熱して、細川和紙の上で手でもんで作っていました。
現在は機械化されて製造面では細川和紙は使わないが、狭山には狭山火入れという独特の火入れ方法が有るので、和紙の上でじっくりと転がしながら入れてやる、和紙火入れ。
昭和50年代に火入れの機械を発明されて、現在残っているのはごくわずかです。
昔の焙炉(ほいろ)の味がすると言われて、これは続けなくてはいけないと思って、能率は悪いが本当の狭山の和紙火入れを残したいと、鉄板の代わりに和紙を用いて、時間を3~4倍かけないと火は入らないが、柔らかいまろやかなお茶に仕上がってくる。
和紙は高価で、すでにある和紙を使った手紙だとか、本だとか和紙のものを代用に昔は使っていたと聞いていた。
若山牧水の手紙を使ってしまったとの事ですが?
私の妻の実家が若山牧水のお祖父さんのでた家で、(所沢) 牧水が学生時代に長く逗留していたり後に奥さんを連れてきたりして、お礼の手紙が一杯あったというんですが、その手紙も一緒に細川和紙の代用に使ってしまったそうです。
若山牧水のお祖父さんは医者になるために長崎に行って宮崎で開業してもどってこなかった。
牧水はお祖父さんの家を訪ねようと探して所沢に長く逗留したそうです。
「飲む湯にも 焚火の煙 匂いたる 山家の冬の夕餉なりけり」
牧水の詠んだ狭山茶に関する石碑が有る。(所沢市内の神米金)
屋敷の周りには全てお茶の木が植わっていた。
茶畑、桑畑、普通の畑が有った。
狭山はお茶が美味しくて、農家の茶を家で製茶をしていた。
5代目の時に手揉みから機械化になった。
一般の家庭で飲むお茶は販売ができたが、二番茶の販売ができなくて、販売の方法を勉強をして
販売ができるようになった。
狭山のお茶は全量自分で販売するという形は、九州から静岡まではないパターンです。
宇治茶、静岡茶は暖かい地域なので4回収穫ができたが狭山は2回しかできない。
香り宇治、色は静岡、味狭山 (味は狭山でとどめさす)
年間2回しか収穫しない事と、冬は寒さに耐えるように養分を一杯蓄えて冬を越すので、葉肉は厚いが濃厚な味の出るお茶が飲まれるようになって、飲みごたえのあるお茶が狭山茶だと思っています。
狭山かおりという品種が有る。 品種改良の一番は耐寒性のある品種でした。
5月 新茶の香りがするもの 夏は爽やかな味を出す品種を使う。 冬は濃厚な味のする火の強いお茶にする。(細川和紙を使う)
和紙を使ったものはまろやかさが全然違う。
国産紅茶を研究して販売をしている。
見学会で小学生から紅茶はつくっていないの?と質問を受けて、それが耳に残っていた。
17,8年前に、ネパールから来た留学生が紅茶の技師だったが、国に帰ったら緑茶をやりたいと言っていた。
家に何度も足を運んできていて、緑茶の事を教えるばっかりではつまらないので、紅茶も出来ないかと言ったら、教えてもらってそれがきっかけになった。
試験場に行ったら、いい紅茶品種があって、40年前交配した良い品種が有ると言われて、指し木をしてそれから10年間はお茶の製造はできないので、留学生から教えてもらった現存の品種の中から研究を進めた。
紅茶を作る情報を提供して、全国的に紅茶を作る事になる。
子供のころに、祖母がお嫁に来た時に、5月になると家には黄色く芽が出るものが有ると教えてくれた。
一枝だけだったが、それを増やす技術が無かった。
指し木を始めて、増やしていって一枚の畑にしていった。
玉露の味がするので、これならいけると思って始めた。
目で綺麗で飲んでおいしくないと駄目だという事だが、いけるという事で品種登録した。
煎茶道に使うには喜ばれる。
もうひとつ赤いものを作りたいと思って、九州で開発されたサンルージュという品種が有るが、真っ赤な芽が出る。
もうひとつ紫色の芽が出るお茶が有るが、これは極秘です。
農家なので「道」の付くものは何にもやっていなかったので茶道をやるようにいわれて、冬場に毎週茶道のお稽古にいかしてもらった。
違った世界を勉強させてもらって人間形成にかなり役立ったと思います。
いろんな方から知らないことを教えて頂ける、皆さんから可愛がって頂けるというのは茶道からの影響が大きいです。
挫折を感じたのは天候、気温ですね。
温度の関係でお前のところではお茶はできないよとか、5月に霜が降りると一晩で真黒になってしまう事が有るが、何回も味わった。
今は設備が良くなって安定した経営になってきました。
寒さに耐える品種改良が一番苦労しました。
38年、48年、58年は青枯れで(寒害)、全く収穫不能が有りました。
農業技術研究所で2年マイナス15度ぐらいの茶畑で調査してもらって、枯れた木と耐えられる木が有るので、生きる木をどうにかすれば出来るのではないかとアドバイスを頂いた。
新しい品種をものにするのは5年、10年掛かる。
バニラの香りがするお茶の木を造りたいと思って「夢若葉」という品種を作っていただいたので、そういう木を開発している。
「おくはるか」という桜餅の香りがする木が見つかって昨年苗木を植えたばかりなので5年先になると思う。
これからは香の品種改良ではないかと思って一生懸命取り組んでいる。
試験場と共に取り組んでいます。
苦労はやっても、それを乗り越える努力をすれば、必ず報われるんだなと思って、コツコツといろんなことを積み重ねて諦めてはいけないというのが現状で、味、香、探し求めれば必ずいつかは見つかると思ってます、継続が一番大事だと思います。
去年国際教育科学文化機関ユネスコの無形文化遺産に日本の伝統手すき和紙技術、岐阜県の本美濃紙、島根県の石州半紙、埼玉県の細川紙が登録されました。
埼玉県日高市で製茶業を営む吉野さん68歳は細川和紙を使って作る伝統製茶法を守り続けている数少ない製茶技術者です。
狭山茶産地では戦前まで畳ほどの大きさの木脇に厚めの細川和紙を貼って下から炭火であぶる火いれを行ってきました。
戦後は短時間で大量生産できる鉄板ドラム式が普及し、火加減が必要な和紙は使われなくなってきました。
吉野さんはこくのある伝統の味わいを残したいと、鉄板を5枚がさねの和紙に置き換えお茶の製造を続けてきました。
寒冷地に適したお茶の品種改良や国産紅茶の製造、葉が黄金色や紫色のお茶を育てるなど、地域のお茶の改良に努力を続けています。
狭山茶の産地にとって細川和紙が無かったら、昔からお茶ができなったというぐらい重要な和紙だった。
畳一枚分の大きさの高さ20cmの枠の木枠の中に全面細川和紙を張って、そこの上でお茶を造る。
下から炭火で熱して、細川和紙の上で手でもんで作っていました。
現在は機械化されて製造面では細川和紙は使わないが、狭山には狭山火入れという独特の火入れ方法が有るので、和紙の上でじっくりと転がしながら入れてやる、和紙火入れ。
昭和50年代に火入れの機械を発明されて、現在残っているのはごくわずかです。
昔の焙炉(ほいろ)の味がすると言われて、これは続けなくてはいけないと思って、能率は悪いが本当の狭山の和紙火入れを残したいと、鉄板の代わりに和紙を用いて、時間を3~4倍かけないと火は入らないが、柔らかいまろやかなお茶に仕上がってくる。
和紙は高価で、すでにある和紙を使った手紙だとか、本だとか和紙のものを代用に昔は使っていたと聞いていた。
若山牧水の手紙を使ってしまったとの事ですが?
私の妻の実家が若山牧水のお祖父さんのでた家で、(所沢) 牧水が学生時代に長く逗留していたり後に奥さんを連れてきたりして、お礼の手紙が一杯あったというんですが、その手紙も一緒に細川和紙の代用に使ってしまったそうです。
若山牧水のお祖父さんは医者になるために長崎に行って宮崎で開業してもどってこなかった。
牧水はお祖父さんの家を訪ねようと探して所沢に長く逗留したそうです。
「飲む湯にも 焚火の煙 匂いたる 山家の冬の夕餉なりけり」
牧水の詠んだ狭山茶に関する石碑が有る。(所沢市内の神米金)
屋敷の周りには全てお茶の木が植わっていた。
茶畑、桑畑、普通の畑が有った。
狭山はお茶が美味しくて、農家の茶を家で製茶をしていた。
5代目の時に手揉みから機械化になった。
一般の家庭で飲むお茶は販売ができたが、二番茶の販売ができなくて、販売の方法を勉強をして
販売ができるようになった。
狭山のお茶は全量自分で販売するという形は、九州から静岡まではないパターンです。
宇治茶、静岡茶は暖かい地域なので4回収穫ができたが狭山は2回しかできない。
香り宇治、色は静岡、味狭山 (味は狭山でとどめさす)
年間2回しか収穫しない事と、冬は寒さに耐えるように養分を一杯蓄えて冬を越すので、葉肉は厚いが濃厚な味の出るお茶が飲まれるようになって、飲みごたえのあるお茶が狭山茶だと思っています。
狭山かおりという品種が有る。 品種改良の一番は耐寒性のある品種でした。
5月 新茶の香りがするもの 夏は爽やかな味を出す品種を使う。 冬は濃厚な味のする火の強いお茶にする。(細川和紙を使う)
和紙を使ったものはまろやかさが全然違う。
国産紅茶を研究して販売をしている。
見学会で小学生から紅茶はつくっていないの?と質問を受けて、それが耳に残っていた。
17,8年前に、ネパールから来た留学生が紅茶の技師だったが、国に帰ったら緑茶をやりたいと言っていた。
家に何度も足を運んできていて、緑茶の事を教えるばっかりではつまらないので、紅茶も出来ないかと言ったら、教えてもらってそれがきっかけになった。
試験場に行ったら、いい紅茶品種があって、40年前交配した良い品種が有ると言われて、指し木をしてそれから10年間はお茶の製造はできないので、留学生から教えてもらった現存の品種の中から研究を進めた。
紅茶を作る情報を提供して、全国的に紅茶を作る事になる。
子供のころに、祖母がお嫁に来た時に、5月になると家には黄色く芽が出るものが有ると教えてくれた。
一枝だけだったが、それを増やす技術が無かった。
指し木を始めて、増やしていって一枚の畑にしていった。
玉露の味がするので、これならいけると思って始めた。
目で綺麗で飲んでおいしくないと駄目だという事だが、いけるという事で品種登録した。
煎茶道に使うには喜ばれる。
もうひとつ赤いものを作りたいと思って、九州で開発されたサンルージュという品種が有るが、真っ赤な芽が出る。
もうひとつ紫色の芽が出るお茶が有るが、これは極秘です。
農家なので「道」の付くものは何にもやっていなかったので茶道をやるようにいわれて、冬場に毎週茶道のお稽古にいかしてもらった。
違った世界を勉強させてもらって人間形成にかなり役立ったと思います。
いろんな方から知らないことを教えて頂ける、皆さんから可愛がって頂けるというのは茶道からの影響が大きいです。
挫折を感じたのは天候、気温ですね。
温度の関係でお前のところではお茶はできないよとか、5月に霜が降りると一晩で真黒になってしまう事が有るが、何回も味わった。
今は設備が良くなって安定した経営になってきました。
寒さに耐える品種改良が一番苦労しました。
38年、48年、58年は青枯れで(寒害)、全く収穫不能が有りました。
農業技術研究所で2年マイナス15度ぐらいの茶畑で調査してもらって、枯れた木と耐えられる木が有るので、生きる木をどうにかすれば出来るのではないかとアドバイスを頂いた。
新しい品種をものにするのは5年、10年掛かる。
バニラの香りがするお茶の木を造りたいと思って「夢若葉」という品種を作っていただいたので、そういう木を開発している。
「おくはるか」という桜餅の香りがする木が見つかって昨年苗木を植えたばかりなので5年先になると思う。
これからは香の品種改良ではないかと思って一生懸命取り組んでいる。
試験場と共に取り組んでいます。
苦労はやっても、それを乗り越える努力をすれば、必ず報われるんだなと思って、コツコツといろんなことを積み重ねて諦めてはいけないというのが現状で、味、香、探し求めれば必ずいつかは見つかると思ってます、継続が一番大事だと思います。
2015年4月7日火曜日
保坂正康(作家) ・昭和史を味わう(第6回)(H26.9.7放送)
保坂正康(作家) 昭和史を味わう(第6回)満州事変の頃 軍事主導体制への移行(H26.9.7放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2014/09/6.htmlをご覧ください。
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2014/09/6.htmlをご覧ください。
2015年4月6日月曜日
保坂正康(作家) ・昭和史を味わう(第5回) (H26.8.3放送)
保坂正康(作家) ・昭和史を味わう(第5回) (H26.8.3放送)
昭和初年代の子どもたちの暮らし~学校生活、夏休み
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2014/08/5.htmlをご覧ください。
昭和初年代の子どもたちの暮らし~学校生活、夏休み
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2014/08/5.htmlをご覧ください。
2015年4月5日日曜日
保阪正康(作家・評論家) ・昭和史を味わう(15)太平洋戦争の日々~(1)学童疎開、勤労動員
保阪正康(作家・評論家) ・昭和史を味わう(15)太平洋戦争の日々~
(1)学童疎開、勤労動員
昭和史は太平洋戦争をどのように検証してゆくかが大事なカギになる。
国のシステム全部を軍事の形に変えてゆく。
児童、生徒、女性あらゆる人たちが、軍事の機構の中に組み込まれてゆく。
昭和16年12月8日 太平洋戦争に突入。
日本の国力は米国、連合国軍等にくらべると、途轍もなく開きが有った。
3年8カ月戦争が続くが、1年7カ月ぐらいで戦力が相当ダウンしてしまうので子供といえども銃後の守り、産業戦士と言う様な形で戦争に組み込まれていく。
勤労動員
工員、技術者が戦争に行かざるを得なくなる。
学生、生徒がこの埋め合わせをしなくてはいけなくなる。
昭和18年6月に政府が学徒戦時動員体制確立要綱を決める。(15歳以上の生徒が対象)
学業を中止して工場で働く様になる。
軍事工場が無い地域は遠方に行く事になる。
19年7月には旧制中学全員(13歳以上) 国民学校高等科の小学生5年生、6年生まで動員されることになる。(11歳、12歳ぐらから)
作業もあまり知らない状況で行うので、労働時間がかなり増える。(10時間と言うところもあった)
高等女学校の女子学生も勤労動員の対象になる。
作るものの質は上質ではなく、粗悪品しか作れないという事もある。
作家 早乙女 勝元さん12歳で学徒動員 (昭和7年生まれ)
半藤 一利さん 0戦で使う20mm機銃弾の薬きょうを造ったりしていた。(昭和5年生まれ)
無着 成恭さん 山形中学の5年生 動員日記を付けていた。
中島飛行場に行っていた。
文部省は300万人動員する予定だったと言われる。
学童疎開
19年1月から学童疎開が始まる。(任意) 最初東京が中心。
19年7月18日にサイパンが陥落したが、サイパンからB29が飛んでくると一気に日本の本土に来ると思われ、疎開がかなり集中的に組織だって行われる様になる。
(7月7日にサイパンで玉砕)
東条内閣が総辞職する。
アメリカの爆撃機が来ると予想され緊急を要する為7月8日に学童疎開の実施が行われる。(強制)
小学校3年、4年生が集団疎開の中心になった。(首都圏中心にまず始まる)
アメリカの爆撃が広範囲になってゆくので他の大都市も行われるようになる。
昭和19年10月ごろから爆撃が激化してゆく。
①北部軍管区(北海道) ②東部軍管区 (東北、関東、甲信越、北陸 )
③中部軍管区(東海、近畿、四国) ④西部軍管区(中国、九州)
日本の軍需産業の中心地がこの区域にそれぞれある。
昭和20年になると爆撃がかなり日常化してゆく。 学童疎開は各地域が対象に広がってゆく。
疎開病 単なるさびしさではなくて、そういう心理状態から呼吸、内臓疾患、子供なりの幽鬱な精神状態等を総称して疎開病といった。
疎開病を味わった人たちはかなり多いと思います。
この世代の人たちは長じて、作家になった人が多い、野坂昭如、藤本義一、黒井千次さん等。
文学的に何か書き残そうと思ったのではないでしょうか。
海老名 香葉子さん (林家三平の奥さん) 「ことしの牡丹はよいぼたん」 エッセー
学童疎開のことを記載している。(学童疎開に行くときの家族との別れなどの悲しさを記載)
沖縄の学童疎開 19年8月22日に始まる。
船で南九州に疎開しようとして出航するが、アメリカ軍の魚雷に依り沈没してしまう。
対馬丸の悲劇 1500人位が亡くなる。(学童疎開の悲劇)
日常生活、戦争とかかわりのない子供達にも戦争の厳しさ、恐さが日常に入ってくるという事を知っておく必要がある。
(1)学童疎開、勤労動員
昭和史は太平洋戦争をどのように検証してゆくかが大事なカギになる。
国のシステム全部を軍事の形に変えてゆく。
児童、生徒、女性あらゆる人たちが、軍事の機構の中に組み込まれてゆく。
昭和16年12月8日 太平洋戦争に突入。
日本の国力は米国、連合国軍等にくらべると、途轍もなく開きが有った。
3年8カ月戦争が続くが、1年7カ月ぐらいで戦力が相当ダウンしてしまうので子供といえども銃後の守り、産業戦士と言う様な形で戦争に組み込まれていく。
勤労動員
工員、技術者が戦争に行かざるを得なくなる。
学生、生徒がこの埋め合わせをしなくてはいけなくなる。
昭和18年6月に政府が学徒戦時動員体制確立要綱を決める。(15歳以上の生徒が対象)
学業を中止して工場で働く様になる。
軍事工場が無い地域は遠方に行く事になる。
19年7月には旧制中学全員(13歳以上) 国民学校高等科の小学生5年生、6年生まで動員されることになる。(11歳、12歳ぐらから)
作業もあまり知らない状況で行うので、労働時間がかなり増える。(10時間と言うところもあった)
高等女学校の女子学生も勤労動員の対象になる。
作るものの質は上質ではなく、粗悪品しか作れないという事もある。
作家 早乙女 勝元さん12歳で学徒動員 (昭和7年生まれ)
半藤 一利さん 0戦で使う20mm機銃弾の薬きょうを造ったりしていた。(昭和5年生まれ)
無着 成恭さん 山形中学の5年生 動員日記を付けていた。
中島飛行場に行っていた。
文部省は300万人動員する予定だったと言われる。
学童疎開
19年1月から学童疎開が始まる。(任意) 最初東京が中心。
19年7月18日にサイパンが陥落したが、サイパンからB29が飛んでくると一気に日本の本土に来ると思われ、疎開がかなり集中的に組織だって行われる様になる。
(7月7日にサイパンで玉砕)
東条内閣が総辞職する。
アメリカの爆撃機が来ると予想され緊急を要する為7月8日に学童疎開の実施が行われる。(強制)
小学校3年、4年生が集団疎開の中心になった。(首都圏中心にまず始まる)
アメリカの爆撃が広範囲になってゆくので他の大都市も行われるようになる。
昭和19年10月ごろから爆撃が激化してゆく。
①北部軍管区(北海道) ②東部軍管区 (東北、関東、甲信越、北陸 )
③中部軍管区(東海、近畿、四国) ④西部軍管区(中国、九州)
日本の軍需産業の中心地がこの区域にそれぞれある。
昭和20年になると爆撃がかなり日常化してゆく。 学童疎開は各地域が対象に広がってゆく。
疎開病 単なるさびしさではなくて、そういう心理状態から呼吸、内臓疾患、子供なりの幽鬱な精神状態等を総称して疎開病といった。
疎開病を味わった人たちはかなり多いと思います。
この世代の人たちは長じて、作家になった人が多い、野坂昭如、藤本義一、黒井千次さん等。
文学的に何か書き残そうと思ったのではないでしょうか。
海老名 香葉子さん (林家三平の奥さん) 「ことしの牡丹はよいぼたん」 エッセー
学童疎開のことを記載している。(学童疎開に行くときの家族との別れなどの悲しさを記載)
沖縄の学童疎開 19年8月22日に始まる。
船で南九州に疎開しようとして出航するが、アメリカ軍の魚雷に依り沈没してしまう。
対馬丸の悲劇 1500人位が亡くなる。(学童疎開の悲劇)
日常生活、戦争とかかわりのない子供達にも戦争の厳しさ、恐さが日常に入ってくるという事を知っておく必要がある。
2015年4月4日土曜日
田中恒清(石清水八幡宮・宮司) ・”中今(ナカイマ)”を生きる
田中恒清(石清水八幡宮・宮司) ・”中今(ナカイマ)”を生きる
田中さんは代々石清水八幡宮の宮司の家に生まれ、平成13年に宮司に就任しました。
現在仏教など神道以外の宗教と手を結び、日本の信仰の姿を見つめ直す活動に取り組んでいます。
人は中今を一生懸命に生きることが大切だといいます。
中今とは過去と未来の中間点に在る現在の事、中今を一所懸命に生きるとはどういうことなのでしょうか?
過去、現在、未来の時の流れが有って、我々は今の時代を生かされている。
生かされている時代を一生懸命に全力を尽くして生きてゆく、これが神道の根本的な考え方です。
この世に生まれている事自体が或る意味奇跡だと思うし、生かされている事も奇跡です。
祖先の営みが有って、それをわれわれは引き継いで今ここに生かされているという事を考えてみると、自分一人の命ではない、自分一人で生きているわけでもない。
日本人は神社に詣でるという事は感謝の気持ちで、神社にお参りする、それが一つの大きなきっかけになって、その場で物事をいろいろ考える。
参詣 参も詣も同じ意味、同じ言葉の重なり。
詣でるという事が最も大切。
神道と仏教はべつのものだが、信仰心に変わりは無かった。
神社お寺にお参りをする、極自然な日本人の信仰心の表れで、生活そのものが祈りであり信仰であり、その事によって日本人は長い間生活を営んでいた。
石清水八幡宮は貞観2年 西暦860年 平安京の南西に当たる裏鬼門を守る社として創建されました。
創建に深くかかわったのが大安寺の僧侶行教です。
1400年余り続いていた神仏習合の歴史、しかし明治の新政府が定めた神仏分離令によって、神と仏は分けられ、区別されるようになります。
石清水八幡宮でも多くの宿坊や、堂塔が破壊されるなど神仏習合の様式は姿を消しました。
表向きは神社も統廃合させられたが、お寺、神社を信仰されている方々の気持ちは、信仰心は脈々と流れている。
東日本大震災 3月末に田中さんは被災地に入りました。
瓦礫の山と化した建物、津波で全て流された町並みの跡。
絶望的な状況に直面しながらもお互いを労わりあい、一生懸命に生きる人々の姿がそこには有りました。
大槌町にある小槌神社は流されなかった。
宮司の息子さんが、夜になって大槌町に住んで初めての星の数を見ましたと、何もなくなった大地を煌々と照らしていた。
大自然はこんなときにも、人々を見まもっているんだという気持ちになって、これが日本人の自然観なんだなあと、おっしゃって、この話を聞いて心を打たれた。
漁師 津波でやられて漁船も無くなってしまっていたが、必ず海は又我々に豊かな恵みを与えてくれるし、もっとこの漁場は豊かになると、それは大自然の力によって素晴らしい漁場になる、それを私たちは待っています、という事だった。
自然と言うものを日本人がどうとらえてきたかという究極な問題と、とっさに感じた。
自然はおのずとそうなる。
折り合いを付けて自然とともに生きてゆく、それが我々の生き方に希望を与えてくれる。
起こってしまった過去は過去とし、その時その時の瞬間である、中今を懸命に生きる人達でした。
災いは罰ではないが、しかしそれと向き合わなければならない。
われわれに対する示唆と捉えて、自然との折り合いを付けて生活を営むにはどうしたらいいかと、
かんがえながら日本人は数千年間暮らしてきたと思います。
神社、社 復興を考えると、地域に在った神社を中心にした伝統文化の復活を大事にして行かなくてはいけないものだと思う。
あと祭りの再興。
機運が盛り上がってきている。
神社は命がそこに生まれ、育ち、命の世界の一つの大きな空間でもあると思う。
普段は気にしなくてもいいが何かあった時に、何か思い立った時に、神社に詣でて自分の心の整理をする、神々に大して何か、自分の思いを伝える、日本人にとっては神社は身近なものであるという事は変わりは無い。
1月18日 青山祭りという祭りが創建以来続いている。
国の安泰が宮司によって祈願されます。
祭りを通して感謝をして、神々との交流を行い、地域社会の連帯につながってゆく。
祭りは潤いと地域の結束をその行為によってはかってゆく。
祭りは同じことを繰り返すのが祭りなんだと先人からいわれた。
経済至上主義、経済対効果、時代の流れは政治も含め複雑に絡みあった状況にあるが、本来の祈りが何かそこに吸い取られてしまっていく様な感じもするが、神社の存在は決してそうではなくて、基本的には1年に一度、何回か、神前に詣でることが一つの生活の豊かさにつながっていると捉えています。
祈りの精神は人々の幸せを願い、地域の繁栄を祈ってゆく、そういった中に自分の日々生かされている感謝の気持ちを祈りの中に含まれている。
ある場所だけではなく、いろんな場面が有ると思う、瞬間的な場面もあると思うが、祈りという事を常に自分自身の精神の中にしっかりと植えつけておく、その事によって多くの方々に幸せをかんじて頂ける、そういう祈りにつながってゆくと思う。
神道は布教しない信仰なので、参拝に来られる方の中で神々の事を考える、いろんな機会に神社に詣でるが、言挙げをしないことは大切なことだが、言挙げをすることによって皆さんの希望が生まれ、もっと一生懸命やってみようという気持ちが起こってもらう為に、もっとおおいに言挙げをしないといけないと思う。
アンケートで貴方がなやんだ時に真っ先に相談する人はどういう方ですかという問いに、神職は高い位置にいない。
神主に聞けば判る様な事でも他に聞くという様な人も結構おられる。
われわれから進んで人々の悩み、苦しみを聞いてあげる。
神職は話上手よりも、聞き上手になりなさいというのが私の考え方です。
窓口をしっかりと神社のなかにも設けておくべき時代だと思います。
中今の精神は一生懸命と相通じるものが有るが、しかし一生懸命しても自分が報われるとは限らない、逆の方向で見られる可能性もあるが、自分がやらなければならない事は神々からわれわれに与えられた大きな役割が有ると思う。
それに一生懸命取り組んでゆく。
一生懸命 一所懸命 一ところ(所)に懸命に、自分が住んでいる土地に命を懸けて守る、その土地から離れることは無い、それが本来の意味だと思う。
神社は最も古くて最も新しいものだと思っている。
神楽舞 五穀豊穣が圧倒的に多い。
奇抜な服装、所作は当時の人は驚いたと思うが、今は当たり前な形になっている。
神楽舞はミュージカル、歌劇だと思う。
最初は神社でやる、神様にご覧頂く。(能、狂言等も)
人生儀礼、年中行事は日本人に取っては季節季節、年齢年齢のけじめだと思うがけじめが無くなってきている。
今この瞬間、一分一秒を神々から与えられた命を大切に、その命を全うするために一生懸命に生きる。
一生懸命に生きるという事は、世の中のために公のために生きるという事を本分として、生きていかなければいけないという事だと思います。
田中さんは代々石清水八幡宮の宮司の家に生まれ、平成13年に宮司に就任しました。
現在仏教など神道以外の宗教と手を結び、日本の信仰の姿を見つめ直す活動に取り組んでいます。
人は中今を一生懸命に生きることが大切だといいます。
中今とは過去と未来の中間点に在る現在の事、中今を一所懸命に生きるとはどういうことなのでしょうか?
過去、現在、未来の時の流れが有って、我々は今の時代を生かされている。
生かされている時代を一生懸命に全力を尽くして生きてゆく、これが神道の根本的な考え方です。
この世に生まれている事自体が或る意味奇跡だと思うし、生かされている事も奇跡です。
祖先の営みが有って、それをわれわれは引き継いで今ここに生かされているという事を考えてみると、自分一人の命ではない、自分一人で生きているわけでもない。
日本人は神社に詣でるという事は感謝の気持ちで、神社にお参りする、それが一つの大きなきっかけになって、その場で物事をいろいろ考える。
参詣 参も詣も同じ意味、同じ言葉の重なり。
詣でるという事が最も大切。
神道と仏教はべつのものだが、信仰心に変わりは無かった。
神社お寺にお参りをする、極自然な日本人の信仰心の表れで、生活そのものが祈りであり信仰であり、その事によって日本人は長い間生活を営んでいた。
石清水八幡宮は貞観2年 西暦860年 平安京の南西に当たる裏鬼門を守る社として創建されました。
創建に深くかかわったのが大安寺の僧侶行教です。
1400年余り続いていた神仏習合の歴史、しかし明治の新政府が定めた神仏分離令によって、神と仏は分けられ、区別されるようになります。
石清水八幡宮でも多くの宿坊や、堂塔が破壊されるなど神仏習合の様式は姿を消しました。
表向きは神社も統廃合させられたが、お寺、神社を信仰されている方々の気持ちは、信仰心は脈々と流れている。
東日本大震災 3月末に田中さんは被災地に入りました。
瓦礫の山と化した建物、津波で全て流された町並みの跡。
絶望的な状況に直面しながらもお互いを労わりあい、一生懸命に生きる人々の姿がそこには有りました。
大槌町にある小槌神社は流されなかった。
宮司の息子さんが、夜になって大槌町に住んで初めての星の数を見ましたと、何もなくなった大地を煌々と照らしていた。
大自然はこんなときにも、人々を見まもっているんだという気持ちになって、これが日本人の自然観なんだなあと、おっしゃって、この話を聞いて心を打たれた。
漁師 津波でやられて漁船も無くなってしまっていたが、必ず海は又我々に豊かな恵みを与えてくれるし、もっとこの漁場は豊かになると、それは大自然の力によって素晴らしい漁場になる、それを私たちは待っています、という事だった。
自然と言うものを日本人がどうとらえてきたかという究極な問題と、とっさに感じた。
自然はおのずとそうなる。
折り合いを付けて自然とともに生きてゆく、それが我々の生き方に希望を与えてくれる。
起こってしまった過去は過去とし、その時その時の瞬間である、中今を懸命に生きる人達でした。
災いは罰ではないが、しかしそれと向き合わなければならない。
われわれに対する示唆と捉えて、自然との折り合いを付けて生活を営むにはどうしたらいいかと、
かんがえながら日本人は数千年間暮らしてきたと思います。
神社、社 復興を考えると、地域に在った神社を中心にした伝統文化の復活を大事にして行かなくてはいけないものだと思う。
あと祭りの再興。
機運が盛り上がってきている。
神社は命がそこに生まれ、育ち、命の世界の一つの大きな空間でもあると思う。
普段は気にしなくてもいいが何かあった時に、何か思い立った時に、神社に詣でて自分の心の整理をする、神々に大して何か、自分の思いを伝える、日本人にとっては神社は身近なものであるという事は変わりは無い。
1月18日 青山祭りという祭りが創建以来続いている。
国の安泰が宮司によって祈願されます。
祭りを通して感謝をして、神々との交流を行い、地域社会の連帯につながってゆく。
祭りは潤いと地域の結束をその行為によってはかってゆく。
祭りは同じことを繰り返すのが祭りなんだと先人からいわれた。
経済至上主義、経済対効果、時代の流れは政治も含め複雑に絡みあった状況にあるが、本来の祈りが何かそこに吸い取られてしまっていく様な感じもするが、神社の存在は決してそうではなくて、基本的には1年に一度、何回か、神前に詣でることが一つの生活の豊かさにつながっていると捉えています。
祈りの精神は人々の幸せを願い、地域の繁栄を祈ってゆく、そういった中に自分の日々生かされている感謝の気持ちを祈りの中に含まれている。
ある場所だけではなく、いろんな場面が有ると思う、瞬間的な場面もあると思うが、祈りという事を常に自分自身の精神の中にしっかりと植えつけておく、その事によって多くの方々に幸せをかんじて頂ける、そういう祈りにつながってゆくと思う。
神道は布教しない信仰なので、参拝に来られる方の中で神々の事を考える、いろんな機会に神社に詣でるが、言挙げをしないことは大切なことだが、言挙げをすることによって皆さんの希望が生まれ、もっと一生懸命やってみようという気持ちが起こってもらう為に、もっとおおいに言挙げをしないといけないと思う。
アンケートで貴方がなやんだ時に真っ先に相談する人はどういう方ですかという問いに、神職は高い位置にいない。
神主に聞けば判る様な事でも他に聞くという様な人も結構おられる。
われわれから進んで人々の悩み、苦しみを聞いてあげる。
神職は話上手よりも、聞き上手になりなさいというのが私の考え方です。
窓口をしっかりと神社のなかにも設けておくべき時代だと思います。
中今の精神は一生懸命と相通じるものが有るが、しかし一生懸命しても自分が報われるとは限らない、逆の方向で見られる可能性もあるが、自分がやらなければならない事は神々からわれわれに与えられた大きな役割が有ると思う。
それに一生懸命取り組んでゆく。
一生懸命 一所懸命 一ところ(所)に懸命に、自分が住んでいる土地に命を懸けて守る、その土地から離れることは無い、それが本来の意味だと思う。
神社は最も古くて最も新しいものだと思っている。
神楽舞 五穀豊穣が圧倒的に多い。
奇抜な服装、所作は当時の人は驚いたと思うが、今は当たり前な形になっている。
神楽舞はミュージカル、歌劇だと思う。
最初は神社でやる、神様にご覧頂く。(能、狂言等も)
人生儀礼、年中行事は日本人に取っては季節季節、年齢年齢のけじめだと思うがけじめが無くなってきている。
今この瞬間、一分一秒を神々から与えられた命を大切に、その命を全うするために一生懸命に生きる。
一生懸命に生きるという事は、世の中のために公のために生きるという事を本分として、生きていかなければいけないという事だと思います。
2015年4月3日金曜日
鈴木大地(日本水泳連盟会長) ・挫折が育てた水泳人生
鈴木大地(日本水泳連盟会長) ・挫折が育てた水泳人生
ソウルオリンピック100m背泳ぎで金メダルを獲得したのが1988年21歳の時の事、当時の日本の競泳界では16年ぶりの金メダルでした。
しかしその4年後に引退を表明、母校の順天堂大学で体育学、スポーツ医科学の研究をおこない医学博士を取得しました。
現在は順天堂大学の教授として学生の指導をおこない、日本水泳連盟の会長も勤め水泳界を支えています。
自分自身最大限の努力をして来たので、どんな結果が出ても自分の実力だろうと言う事で納得する形でやって来たので、悔いはなかったです。
リラックスしてレースが運べたのかなと思います。
バルセロナオリンピックの代表選考会前に引退。
オリンピックでメダルを取るという事は、いまではいろんな選手が目標にして高い意識の中でやっているが、当時はだれも何十年と取っていなかったので、どうやってトレーニングをしてどうやって実現するのか、が判らなかった。
出来るだけハードトレーニングをやった、見本は無かった。
自分の体が壊れるぐらいまで追い込んでいたので、ここが自分の限界、臨界点という事だった。
実際身体も壊してしまった。(腰痛)
プールの練習以外の筋力トレーニングも手を抜かずにやってきた。
オリンピックの目標にしていた事が自分なりにやる事はやったと満足した部分はあった。
大学の教員になろうと思っていたので、オリンピックが終わって1年間は練習らしい練習はやっていなかった。
1年後アメリカに行ってトレーニングを始めてみると面白くなって、続ける様な形になって行った。
楽しいが「楽」になってきてしまって、楽して勝とうというような思いがあり、調子が上がらなくなってしまって、バルセロナオリンピックの選考会の前に辞めて、競技生活にピリオドをうった。
次の人生のスタートだと思ってそれなりにわくわくはしていた。
バルセロナオリンピックは解説者としていかせてもらった。
いろんなことに勉強不足だったので。もっと自分が勉強した後に、そういった仕事につかなくてはいけないのかなと思った。
暫く本業にすることは置いておいた。
最近はプロの選手はいるが、当時は認められなかった。
右肩上がりで選手生活を続けるのは、まず難しい。
体力の衰え、気力の衰え、怪我、故障、スランプだったりとかで一番で居続けることはないんですね。
そこに結構意味が有って自分の人生を考えるわけです。
浮力と推進力で発揮しながら進んでいくわけですが、体組成が変わってゆくので、休んだりしていたので、泳ぎとの感覚がマッチしていなかったと思う。
休み過ぎてしまったのがいけなかったと思う。
楽をしてはいけない、毎日コツコツやらないとしっぺ返しが来るんだと思う。
ただその時はそうするしかなかったと思う。
最初順天堂大学の教員になりコーチもやっていた。
外国に勉強させていただく機会が有り、外国の人との話、意見交換して行く中で、自分に足りないことが判って来て、いろいろ勉強しないといけないと思う様になった。
コロラド大学でトレーニングの勉強をして、一度帰って来て1998年、ハーバード大学の水泳部のゲストコーチとして現地に行った。
学業とスポーツをどう両立させているのか、見てみたいと思って行った。
イエール大学、コロンビア大学と3校見に行ったが、2校は是非にという事だったが、ハーバード大学はそんな話は全然なくて、最後は押しかけみたいな形で行った。
最初は試合に行っても顔の見分けがつかなくて生徒にどんな状態だったのか問われても答えられなくて苦労した。
アメリカの選手は全体として積極的ですね。
スポーツも一生懸命やるが学業も一生懸命にやる。
時間もうまく使う。
ハーバードで2年のゲストコーチを終了して、母校の水泳部の指導と教員生活に戻った。
夜の練習から朝の練習に切り替えて、帰って来て2年後に関東学生選手権でチームで総合優勝したことが有る。
選手の晩年時代の挫折経験が人を教えるときにいろいろと役立った。
何を言ってもしょうがない時にはこちらが我慢しなくてはいけない時もある。
2013年6月から日本水泳連盟の会長になる。
東京オリンピック ハード面や、選手の育成が刻々と迫ってきている。
8月14日 水泳の日 いろいろな競技を知ってもらう。
水難事故の防止の啓発。
水泳は自分の弱い身体を強くしてくれただけでなく、自分の世界を広げてくれたので感謝している。
水泳界に恩返ししたい。
ソウルオリンピック100m背泳ぎで金メダルを獲得したのが1988年21歳の時の事、当時の日本の競泳界では16年ぶりの金メダルでした。
しかしその4年後に引退を表明、母校の順天堂大学で体育学、スポーツ医科学の研究をおこない医学博士を取得しました。
現在は順天堂大学の教授として学生の指導をおこない、日本水泳連盟の会長も勤め水泳界を支えています。
自分自身最大限の努力をして来たので、どんな結果が出ても自分の実力だろうと言う事で納得する形でやって来たので、悔いはなかったです。
リラックスしてレースが運べたのかなと思います。
バルセロナオリンピックの代表選考会前に引退。
オリンピックでメダルを取るという事は、いまではいろんな選手が目標にして高い意識の中でやっているが、当時はだれも何十年と取っていなかったので、どうやってトレーニングをしてどうやって実現するのか、が判らなかった。
出来るだけハードトレーニングをやった、見本は無かった。
自分の体が壊れるぐらいまで追い込んでいたので、ここが自分の限界、臨界点という事だった。
実際身体も壊してしまった。(腰痛)
プールの練習以外の筋力トレーニングも手を抜かずにやってきた。
オリンピックの目標にしていた事が自分なりにやる事はやったと満足した部分はあった。
大学の教員になろうと思っていたので、オリンピックが終わって1年間は練習らしい練習はやっていなかった。
1年後アメリカに行ってトレーニングを始めてみると面白くなって、続ける様な形になって行った。
楽しいが「楽」になってきてしまって、楽して勝とうというような思いがあり、調子が上がらなくなってしまって、バルセロナオリンピックの選考会の前に辞めて、競技生活にピリオドをうった。
次の人生のスタートだと思ってそれなりにわくわくはしていた。
バルセロナオリンピックは解説者としていかせてもらった。
いろんなことに勉強不足だったので。もっと自分が勉強した後に、そういった仕事につかなくてはいけないのかなと思った。
暫く本業にすることは置いておいた。
最近はプロの選手はいるが、当時は認められなかった。
右肩上がりで選手生活を続けるのは、まず難しい。
体力の衰え、気力の衰え、怪我、故障、スランプだったりとかで一番で居続けることはないんですね。
そこに結構意味が有って自分の人生を考えるわけです。
浮力と推進力で発揮しながら進んでいくわけですが、体組成が変わってゆくので、休んだりしていたので、泳ぎとの感覚がマッチしていなかったと思う。
休み過ぎてしまったのがいけなかったと思う。
楽をしてはいけない、毎日コツコツやらないとしっぺ返しが来るんだと思う。
ただその時はそうするしかなかったと思う。
最初順天堂大学の教員になりコーチもやっていた。
外国に勉強させていただく機会が有り、外国の人との話、意見交換して行く中で、自分に足りないことが判って来て、いろいろ勉強しないといけないと思う様になった。
コロラド大学でトレーニングの勉強をして、一度帰って来て1998年、ハーバード大学の水泳部のゲストコーチとして現地に行った。
学業とスポーツをどう両立させているのか、見てみたいと思って行った。
イエール大学、コロンビア大学と3校見に行ったが、2校は是非にという事だったが、ハーバード大学はそんな話は全然なくて、最後は押しかけみたいな形で行った。
最初は試合に行っても顔の見分けがつかなくて生徒にどんな状態だったのか問われても答えられなくて苦労した。
アメリカの選手は全体として積極的ですね。
スポーツも一生懸命やるが学業も一生懸命にやる。
時間もうまく使う。
ハーバードで2年のゲストコーチを終了して、母校の水泳部の指導と教員生活に戻った。
夜の練習から朝の練習に切り替えて、帰って来て2年後に関東学生選手権でチームで総合優勝したことが有る。
選手の晩年時代の挫折経験が人を教えるときにいろいろと役立った。
何を言ってもしょうがない時にはこちらが我慢しなくてはいけない時もある。
2013年6月から日本水泳連盟の会長になる。
東京オリンピック ハード面や、選手の育成が刻々と迫ってきている。
8月14日 水泳の日 いろいろな競技を知ってもらう。
水難事故の防止の啓発。
水泳は自分の弱い身体を強くしてくれただけでなく、自分の世界を広げてくれたので感謝している。
水泳界に恩返ししたい。