2024年5月9日木曜日

紫苑(エッセイスト、ブロガー)     ・年金月5万円でも、幸せなシニアライフ!

紫苑(エッセイスト、ブロガー)     ・年金月5万円でも、幸せなシニアライフ! 

フリーライターとしてかつてはタワーマンションに住む裕福な生活を送ってた紫苑さん(73歳)、その後離婚、がんなども経験し、2人の子どもを育て上げ気が付いたらコロナ禍で仕事が激減し、月5万円で生活していかなければならない現実に直面しました。 これまでの生活費を見直し、発想の転換を図って69歳から始めた節約生活、始めて見ると意外と快適で毎日心地よく生きられることが判ったと言います。 少ないお金でもきちんと生活してゆけば、楽しく元気に暮らしていけることを知って欲しいと、御自分の節約生活をブログで発信している紫苑さんに伺いました。

新聞記者に憧れて地方の支社で働いていまいたが、当時女性としては働き甲斐のないところであったので辞めてしまいました。 フリーランスになりました。 当時は雑誌に勢いがありましたので、仕事には困りませんでした。 国民年金も当時は義務ではないので払っていませんでした。 中途から払うようにとの連絡があり払うようになりました。  結婚して、子供二人産んで、離婚がありましたが、育てていきました。  公団の新築に住んでいました。(15万円ぐらい) その後に引っ越したタワーマンションはもっと高かったです。  43歳の時に就職しようと思いましたが全部落ちてしまいました。 小さい業界紙みたいなところに就職ができました。(給料が20万円) その後子供たちも独立して、安いところに引っ越して、貯金もどんどん減って行きました。 不安になりました。    家の購入価格もどんどん下がってきたので、思い切って貯金をはたいて家を購入しました。 コロナまでは普通に遊んではいました。   

コロナになっていきなり仕事がなくなりました。 年金しか入ってくるものがなくなりました。 5万円で生活しようと決心しました。(69歳)  まず食生活から見直しました。 スイーツ、駄菓子の見直し、健康に気を付けるために正しい食生活にしました。  固定費(ガス、水道、電気、税金などで2万円))通信費(1万円) 残りが2万円になります。  食費を中心にしました。(1万円) 残りで必需品を購入することにしました。 4万3000円ぐらいで生活が出来ていました。   

スイーツ、駄菓子の見直については、きな粉に砂糖できな粉は身体にいいです。 サツマイモもよく食べました。(甘くておいしいし、身体にもいい。)  胃が弱かったがよくなってきて元気になりました。 安くて低脂肪、栄養価があるのは鳥の胸肉、イワシ、レバー。豆腐、旬の野菜です。 ツナ缶、サバ缶もよく使いました。 イワシは色々料理して、今でも食べています。  1000円ぐらいで色々買えます。 1万円でいろいろできることが判りました。  節約生活をするようになっていろいろと頭を使うようになりました。  以前の着物が溢れていましたので、リメークをし始めました。  それを考えるのも楽しいです。  50歳で乳がんになり、当時はまだお金には余裕があったので着物(和服)の購入にはまってしまっていました。 今は処分しつつ着ています。(いい気分転換になります。)  

「買えない。」から「買わない。」に替えるという事は自分の意志をコントロールする事だから、快感ですね。 自分の一つの武器になるような気がします。 美容費はほとんどかからないです。 髪も自分ですきます。 ファッション代、美容代はほとんどゼロです。  住家も住めればいいと思っていましたが、友達から絵を頂いてリビングに飾ったら、豪華な感じで花を飾ったり、部屋に気を遣うようになりました。  百均の品物を使って、いろいろ工夫しました。 始めた時から5万円弱で生活してきました。 

やってよかったと思いました。 母親が楽しく暮していることで子供たちも安心しています。 身体も元気になりました。 医療費もほぼゼロです。 人と比べることに慣れて生きてきていて、人の目を気にしていたりしましたが、自分の目だけで見てゆくと、簡単になっていき、楽になりました。  健康は何よりも大事だと思います。 見栄とメンツをなくせば生きてゆけます。  

























2024年5月8日水曜日

鈴木宣弘(東京大学大学院農学生命科学研究科教授)・食の安全保障を訴え続けて

 鈴木宣弘(東京大学大学院農学生命科学研究科教授)・食の安全保障を訴え続けて

鈴木宣弘さんは1958年(昭和53年)生まれの65歳。 三重県志摩市出身。 農水省から学会に転じて、著作や講演で日本の農業の大切さ、食の安全保障を訴え続けてきました。   2022年には食料安全保障推進財団を立ち上げ、理事長を務めています。 

講演も月に20回を越えるぐらいあります。 年には200回を越えるような状況です。    日本の食料自給率を上げなければならない。 食料自給率のカロリーベースでは38%ですが、実際はもっと低いのではないかという事を、私は強調している点です。 餌の穀物は2割しか自給できていない。 肥料の原料はほぼ100%輸入に頼っています。 それが止まると自給率は実質22%迄下がってしまう。 野菜の種は9割は海外から運んできている。 野菜の自給率は8割と言っているけれども、種が止まると8%ぐらいしか作れない。 米などの種も海外に9割依存してしまうような流れが強化されている。 鳥の卵も97%自給しているという数字はあるが、餌のトウモロコシはほぼ100%輸入、雛も輸入に頼っている。 それが止まると9,2%という計算になる。  止まってしまうと異常な状態になる。 自分たちの命を守れなくなって来てる。 

日本はアメリカの戦後の占領政策で、アメリカの余った農産物を日本人に食べてもらうという事で、日本は農産物の完全撤退を進めることになって、アメリカの農産物がどんどん入ってきた。 米以外の農産物が壊滅していった。 農産物の完全撤廃は受け入れて、日本は自動車などを輸出して、経済をまわしていこうという事が、日本の経済政策の中心になってきた。 食料はいつでも安く輸入できるという事を前提にすることが、食料安全保障であるかのように、考えてやってきた。 それが今は通用しなくなってきたという事が大きな問題です。 

「クワトロショック」4つの危機に見舞われている」と主張する。             (1)コロナ禍による物流の停滞 (2)中国による食料の「爆買い」(3)異常気象による世界的な不作  (4)ウクライナ、中東の戦争の勃発

ロシア、ベラルーシは敵には食料を売らないと言っている。 農業インフラの破壊、があり、食料の囲い込み。 インドは米、麦の世界一レベルの生産国だが、自国民を守るために外に売っている場合ではないと防衛的に輸出を止めると言っている。 こういった動きが多くなって30か国ぐらいになってきた。 日本は調達が難しくなってきている。 アメリカでも計算していて、物流が止まったら世界で最初に飢えるのは日本だと、日本で一番餓死者が出ると言っている。(核戦争が起こった場合と言う極端な想定) 世界で3億人の餓死者が出るが日本に一番集中(7200万人)すると言っている。 

物流が止まったら、政府は有事立法を作って、強制的に農家に命令すると言っています。  イモ類などの増産命令を課すというような政策です。  普段から支えてゆく政策が出来ていないのに、いざと言う時だけ命令するというのは無理です。 今農家に皆さんの所得がしっかり維持できるようにする仕組み作りをして、食料自給率を普段からしっかり高めておくことが大切です。 

1950年農家人口が45,5%  アメリカの安い農産物とは対抗できなくなって農家の所得が十分に得られない状況が進んで、離農が進んできた。 車などの工業製品を輸出することで豊かにしていこうという政策をとった。  農業人口が減って、高齢化が進んで68,4歳まできてしまった。 後5年、10年経ったら日本の農業がどれだけ存在しているか。 生産資材のコストが上がってきて、農産物の売値はあまり上がらなくて、更に赤字が拡大している。 農業が崩壊して行くというような実態です。 

半農半漁の家の1人息子で、農業も漁業も手伝ってきました。  小学校の4年生の時に乱開発の影響(豊かな自然を壊してしてゆく)を先生が話をしてくれて、自分はどうやって社会を変えていけないか、そういう事に関わって行けないか、考え始めました。 東京大学農学部農業経済学科を卒業し、同年、農林水産省に入省しました。 国際部国際企画課で国際情勢の分析などをやりました。 貿易自由化に対した国内の農業、農村を守るために必死で抵抗していました。 政策を強く打ち出してゆくような余地が減らされてきている。 

要領が悪くて、研究所に移動して、アメリカのコーネル大学に行っていた時に、九州大学の先生のところで研究したいという思いがあって、九州大学に採用してもらう事になりました。 1998年の時で学界に転身しました。  ものが片付けられない、朝が苦手、要領が悪い、これは直らないです。 2006年から東京大学大学院農学生命科学研究科教授(農学国際専攻)です。 このまま日本の農業が崩壊して行ったら大変なことになると思いました。 大学では自由な発言が可能になったので、九州大学のころから発信を強めていきました。 

日本の農家の所得に対する税金の補助金の割合は3割程度です。 フランス、スイスなどはほぼ100%なんです。 欧米では、命を守り、環境を守り、国土国境を守っている産業はみんなで支えるのはある程度常識なんです。 日本の方が非常識だと考えないといけないのではないか。 2022年に「食料安全保障推進財団」を作りました。 安全・安心な食料を量的・質的に国民に常に確保するための生産から消費までの国民全体のネットワーク強化、食の安全性の「可視化」、及び必要な政策を実現するための活動を推進することを目的とする。去年1年間で40を越える場を財団が作り出しました。 食の安心安全という事で、耕作放棄地を女性の方々が借りて、子供たちを含めてやってくれる、そういった動きもあります。 地域の皆さんが農家の皆さんを支えるとともに、自分も地域の農業生産に関わるような仕組み作りを広げて行こうという声が、強まってきています。 

地域の有機農産物が学校給食にといり入れられている事は、大事な核になると思います。  地域で食料が循環できる仕組みを作るというのは、非常に大事な核になると思います。  農家が減少してゆくなかでどう支えるか、国レベルの政策も大事ですが、地域地域で地元の皆さんを支えてゆくような、ローカル自給圏を作る事によって、消費者と生産者が一体化してゆくことを広げる事が重要になってきている。 

直売所では農家の小遣い銭稼ぎにしかならないと言われてきた。 それを打ち破ったのが和歌山県の野田モデルです。 中間流通を通さずに作物を広域で販売する『野田モデル』という仕組み。 地域の直売所を転送システムでつないで、一気に沢山の店舗で品物が売れるような仕組みです。 1億円売れるような直売所が確保できたり、1000万円緒以上売り上げるのが300軒ぐらいになってきています。 そうすると農家の所得を画期的に引き上げることができる。 農家に価格決定権があるのが大きい。 

講演にも増えてきて、沢山の方が関心を持ってくれるようになりました。 食料安全保障推進財団」も、皆を支えるためには、もっと何が出来るか考えていかなければいけないと思います。 不測の事態のリスクが高まっている中で、国民の命を守れるように準備するという事が「国防」と定義するならば、国内の食料を守る事こそが、日本にとっての一番の「国防」、「安全保障」の要だと思います。 循環型食料自給圏を各地で作て、それをベースにして広げてゆくことで、日本の農業、農村、自分たちの食料、健康を守って行けるように一緒に頑張りましょう、という事を呼び掛けたいと思います。 










2024年5月7日火曜日

高柳和江(癒しの環境研究会理事長)    ・笑いで、病(やまい)をふっとばせ

高柳和江(小児外科医・癒しの環境研究会理事長)    ・笑いで、病(やまい)をふっとばせ 

高柳和江さんは長年笑いの医学効果の研究に取り組んでいます。 笑う事はウイルスやがん細胞と戦うキラー細胞を増やし、既存の持つ免疫力を上げることが知られています。 高柳さんは笑いが免疫力を上げることを「笑医力」と言って、免疫力を上げる副作用のない魔法の薬だと言います。 現在介護老人保健施設の施設長として、高齢者から生まれたばかりの赤ちゃんまでを見るお医者さんです。

神戸大学の医学部を出て、順天堂大学外科専攻生を経て、徳島大学医学部医学博士課程修了後、クウェートにて10年間小児外科医として勤務。  生まれたばかりの赤ちゃんを230人手術して、12歳以下のお子さんを7万人ぐらい手術しました。

クウェートと言うとおお金持ちの国なので、最新鋭の素晴らしい機械が揃っているんです。   イギリス人が来て小児外科を始めました。 イギリス方式は患者さんに皆笑うんです。 笑っていると患者さんも笑うんです。 吃驚したんですが、笑うと病気が治る子が多いんです。 入院すると病院在日数が日本で当時50日ぐらい、クウェートではたった7日間なんです。 笑うといいんだという事が判り、それは必須だと思いました。 日本に戻ってもそれを取り入れたいと思いました。 

アイオワ大学で医療管理学の研究に携わりました。 医療の質を高める事、ホッとできる場所であるとか、安全にいろんなことが出来ていることも大切で、患者満足度調査は日本ではなかったんです。  日本でも患者満足度調査を始めました。 日本医科大学に10何年いましたが、どうしたら患者さんが話したくなる医者の話し方があるかという事を勉強して、それを医学生に教えました。 今は医学部の4年生から5年生になる時には必ず全員、模擬患者の面接を受けなければいけないんです。 それから実際の患者さんに会う事が出来るというシステムになっているんです。 模擬患者さんから聞くわけです。

コロナで予防注射をするときの副作用があるがそれを減らしたいと思ったんです。  150人ぐらいの高齢者に対して笑ってもらって、ブスっと注射をするわけですが、統計を取りました。 大笑いしたグループとそうではないグループでの比較では、注射をした時の痛みも少なかったんですが、翌日に熱がでる人も少なかったんです。 統計に出ていて今論文を書いているところです。 

大きな手術をした後に療養する期間があり、患者さんに大きな名刺を渡しますが、そこには私の名前と大きな笑っている写真と「一日5回笑って、一日5回感動して。」と書いてあるんです。 笑いもそうですが、感動も本当に大切だと思っています。 古代ギリシャのアルキメデスがお風呂に入っていたんです。  水が流れ出て身体が浮き上がったんです。 これは浮力だと言って、アルキメデスの原理を発見したんです。 「見つけたぞ」と大喜びで裸のまま家まで走って帰ったというんです。  大興奮、感動です。 感動して笑う事が大切なんです。 花が咲いていて、「なんて綺麗なんだろう。」と心から感動する。 そうすると必ず笑顔になるんです。

胃とか腸の手術を単にしただけの人と、心理的な笑いを介入した人を比べると、笑った人の方が生存率が高いんです。 論文にもしましたが、データがあるんです。  実際の例で70歳ですい臓がんになった人が居て、見つかったとこには余命3か月と言われたんです。 私の笑いの講演に来ました。 幼馴染4人集まって彼女の家で朝から晩まで笑っていたそうです。 2週間でガンの腫瘍マーカーが300から激減して190になったというんです。  1年後にはガンが小さくなって、転移があって腹膜のリンパ節に有った転移が全然なくなって、2年後には何も見えなくなったそうです。 3年後には全然見えなくなって主治医が「貴方は完治です。」と言ったそうです。 私もびっくりしました。 

86才の方で心臓が悪かったんです。 歳なので手術はしないと言う選択をしました。 私のところに来ました。 時々胸が苦しくなるという事でした。 「一日5回笑って、一日5回感動して。」と言う名刺を渡しました。  3か月経って彼女は別の施設に移ることになりました。 ご家族が迎えに来て「どんな魔法を使ったんですか。」と言うんです。 「あんなにニコニコして幸せそうな母親なんて初めて見ました。」と言うんです。 皆で笑顔で帰りました。 

ガンの末期と言われた男性がいました。 ホスピスに入って覚悟を決めていました。 実は奇跡が起こりました。 ホスピスに入ってガンが治ってしまったんです。 どうしてそうなったのか判らなかったが、ホスピスから送り出されました。 大喜びで家に帰ったが、鬱になってしまいました。 その後精神病院に2年間入院してしまいました。 動かないので膝も曲がり腰も曲がりましたが、精神病も落ち着いたからという事で、家に帰るのもなんだという事でうちの施設に来ました。 例の名刺を渡しました。 3か月して彼は家に帰ることになりました。  彼は走って来て私に言いました。 「先生見てください。 こんなに元気になりました。」 「一日5回笑って、一日5回感動して、こんなに元気になりました。」と笑いながら言うんです。  感動が大事です。 

笑い、感動に加えて結局人間は感謝なんですね。 小さな花を咲かせているのを見ても「ありがとう。」という感謝ですね。 

笑い療法士を育てています。 1994年に「癒しの環境研究会」を作りました。 ソフトの部分、人間的なところがあるのではないかと思いました。 癒しを育てるのには笑い療法士が必要だと思いました。 笑いを引き出す人。 2005年から笑い療法士の育成をしています。 一番大切なのは安全安心だと思います。 安全安心を提供してくれる人、一緒にいるとホッとさせてくれる人。 心が病んでいる人には安全安心が大切です。 現在第19期生を募集しています。 

第一期生に青森県の方がいて、青森県庁に務めている人です。 青森県は自殺する人が多かったり、子供に対する虐待を何とかするために、笑い療法士となりました。 10何年活動していて、5万5000人の方が聞いていただきました。 (県の25人に1人) 7年間ぐらいで自殺する人が少なくなった。  笑い療法士の認定者は1000人を越えています。   笑いは薬になります。 リュウマチなんかにもよく効きます。 

17期生の「ダイヤ」と言うニックネームの人から連絡がありました。  97歳のお母さんを亡くされた娘さんに、私が描いた「死に方のコツ」の本を差し上げた。と言うんです。   往診の先生が、病院に行かないでうちで看取った方がいいという事で、危篤の時に「ダイヤ」が訪問看護士をしていて、娘さんが、「頑張れ頑張れ。」と言っているので、「お母さんはもう十分に頑張っているので、それよりもありがとうね、と感謝を伝えて。」といったら「お母さん、ありがとう、よく頑張ったね。」と言いました。 翌日お母さんは亡くなりました。 「ダイヤ」はそのお母さんの顔を見ましたが、見事に穏やかで美しい顔でした。娘さんが本当に看護されて、感謝しているんでしょうね、と言ったというんです。

3か月後に娘さんに電話をしたら、97歳と言うと大往生と言うが、もっともっと生きて欲しかったという事でした。 苦しい呼吸をして居たり、病院へ連れて行った方が良かったのではないかと言う思いがあったようですが、「死に方のコツ」の本(高柳和江著)を渡したそうです。 亡くなる人は呼吸は苦しいかもしれないが、本人の心は天井の方に行っているので、もう苦しくはないと書いてありました。 寄り添うという事の大切さを実感しましたと「ダイヤ」は言います。 これが実際の笑い療法士です。 笑い療法士は一般的には笑いを引き出すというんですが、心から寄り添うんです、という事をお伝えしています。  自分が心が豊かでないと、感動という事を知っていないと、感謝の大切さを判っていないと出来ないと思います。





  

2024年5月6日月曜日

穂村弘(歌人)             ・〔ほむほむのふむふむ〕

穂村弘(歌人)             ・〔ほむほむのふむふむ〕 

ゲスト:伊舎堂 仁さん 若い歌人で似たタイプが居ない歌人。 

1998年沖縄石垣島の生まれ。 大阪芸術大学文芸学科卒業後現在は東京在住。  これまでに歌集を2冊2014年に第一歌集「トントングラム」、2022年「感電しかけた話」を出版。

穂村: 最初は新聞の短歌欄で見ました。 

伊舎堂:この名前はほとんど顔見知りで一族です。 

穂村:作品も凄くインパクトがあります。

*「伊舎堂に合わせたい人が居ないんだ是非合わないでみてくれないか」  伊舎堂 仁

決まり文句は社会にはあるが、それが裏返されている。 たまらなく奇妙です。

伊舎堂:僕は空気中にこの言葉が見えるんですが。 

穂村:切実な感じがあって、冗談のように見えるがヒリヒリした感じがあって、こんな歌もあります。

*「本部長のイメトレ中のスイングのゴルフボールの飛び先に俺」      伊舎堂 仁

ゴルフのスイングのイメージトレーニングをしていて、どこか透明人間ぽい、存在を無視され切っている。 本部長の眼中に無い。 笑えるが、でも切実。

穂村:こういう歌ばかりではなく、

「雪見だいふく作り方で検索しているような子が好きである」         伊舎堂 仁

愛の歌ではあるが、凄く距離のある愛の歌。

伊舎堂:この歌は俵万智さんも好きです。 俵さんが新聞に短歌コーナーを持っていて、送ると図書カードを貰えるんです。 送り続けていました。(12年前石垣島で)

穂村:5、7、5、7、7は1000年以上変わらなくても、そのなかで微妙に揺れ動いている。 正岡子規の時代とか、われわれの時代も俵万智さん、東直子さん、林あまりさんなどは演劇をやっていた人たちです。 演劇のセリフとかが、文語から話し言葉に変わる短歌とシンクロして演劇をやっていた人たちが短歌にオーバーラップしてやって来るんです。  伊舎堂さん達の世代にはお笑い、大喜利とか言うのがあり、伊舎堂さんにはどこかそういったベースにありつつ、なんか短歌にはまった印象です。

伊舎堂:みんないとおしいということを感じます。

「雨の県道あるいてゆけばなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁」   斉藤斎藤

これはショックの最初の一首で、私に起きたことを順番に書いてゆくと、面白くなるみたいな、その人が生きてみたものを書き方によっては、宝石みたいに出来るみたいな、そう感じた最初の一首です。

「つま先を上げてメールをしていたらかかとで立っていたと言われる」  土岐友浩

斉藤さんとは違うジャンルで、面白いことを言っていなくてもいい、優しく受け止められる。 

「超長期天気予報によれば我が一億年後の誕生日曇り」          穂村弘

高校生の時に読んだ一首です。 大喜利的な奇妙な発想。

穂村:よく考えると、この短歌は曇りしかないんですね。 虹とか言ったらとんでもないし、嵐でも雨でもないし、曇り。

「ラジオ体操の帰りにけんかしてけんかし終えてまだ8時半」       伊舎堂 仁

 とてつもない子供感みたいなもの、未来がある感じ。 

伊舎堂:僕らの世代は漫画でもセリフがめちゃくちゃ多くて、言い合いも長セリフで、それを覚えた子供たちがけんかをするから長くなるんです。 ほとんど口喧嘩のやりあいです。

穂村:無駄な感じ、無駄が輝くには時間がいりますね。 時間がたっぷりあった時だけに許される無駄な感じ。 大人は駄目ですね。 物凄く無駄なことをやっている若い人を見るとまぶしい感じがします。

「海だけのページが卒業アルバムにあってそれからとじていません」    伊舎堂 仁

人が写っていなくてこれも一種の無駄ですよね。 余白の輝きみたいな感じ。 心のページをとじていない。

「ぼくたちを徴兵しても意味ないよ豆乳鍋とか食べてるからね」      伊舎堂 仁

徴兵反対に、特殊な角度から表現した歌ですね。 豆乳鍋の出現にはかなり資本主義が高度化しないとここまで行きつかない。 

伊舎堂:

*「次の瞬間教室に一匹の或る動物が入って来ます」           穂村弘

好きな一首です。 穂村さんぽくないところが納得するし不思議でもあります。 

*印はかな、漢字など違っている可能性があります。













2024年5月5日日曜日

桂玲子(声優)              ・〔時代を創った声〕

桂玲子(声優)              ・〔時代を創った声〕 

「サザエさん」にイクラちゃん、カツオの片想いの相手アオイちゃん、「新オバケのQ太郎」の二代目のO次郎(Q太郎の弟)、一休さんのさよちゃんなどを演じてきました。 「サザエさん」は放送されて今年で55年になります。 イクラちゃんを演じて50年になります。 「ハイ」から始まってもうちょっと話せるようにと言うことで「バブー」も始めました。 もっと話せるようにという事もありましたが、「ハイ」と「バブー」を使い分けるようになりました。 前後のセリフを聞いて、それなりに反応するようにしています。 

福岡県福岡市出身。 小さいころは写真館に行ってはポーズをとったりしていました。 幼稚園の卒園式の時には代表でいう事になりましたが、最初の言葉はいくつか言えたのですが、その後は言えなくて大失敗しました。 小学校の入学式の時にはたくさんの子が怒涛の様に押し寄せてきて、どうしようと思ったのを覚えています。(大勢のところは苦手でした。)    中学生のころに新舞踊を習いました。  「どんたく」では父親と舞台で踊ったのを覚えています。 高校では演劇部に入りました。 ベニスの商人とか勧進帳などいろいろやりました。 その後地元の九州朝日放送放送劇団に入りました。(ラジオドラマなどいろいろ) 

或る時に芥川比呂志さんから主人に声がかかって文学座をうけて、私も受けることになりました。(三期目)  ただ楽しく過ごしました。 日本舞踊をやるようになって名取となりました。(放送劇団のころ)  当時声優になろうとは思わなかったです。 声優の役を段々やるようになりました。  言葉にならない赤ちゃん役はどうしようか、難しかったです。  イクラちゃんはそんなに苦労はしませんでした。  「フランダースの犬」にアロアもやっていて、「一休さん」のさよちゃん、この二つは女の子を実感しながらやりました。 好きな役でした。 

「新オバケのQ太郎」の二代目のO次郎は非常にやりやすかったです。 「バケラッタ」で感情を表現する。 考えたら駄目だと悟りました。 日舞は役に立ったと思います。 主人が亡くなって、坐骨神経痛があり、体力的にも気力的にも落ちて、リカちゃんがしばらく出ていなくて、出来なくなって一生懸命に考えて、やればやるほど違って、或る時に考えないようにしました。 その世界に飛び込めばいいと思って頭では考えないようにしました。(2年前のこと)  

何でもできるというのが声優の魅力だと思います。 もうちょっと体力があったら舞台をやってみたいですね。 声優という事に抵抗を感じなくなったのは割と最近です。 若い人への提言としては、若いうちはやりたいことをどんどんやればいいと思います。 でもすぐには生活が出来ないので、頭の隅に置いて挑戦すればいいと思います。 











2024年5月4日土曜日

キダ・タロー(作曲家)         ・浪速のモーツァルト 後編  90歳過ぎてますます元気(初回:2023/2/4)

キダ・タロー(作曲家)  ・浪速のモーツァルト 後編  90歳過ぎてますます元気 (初回:2023/2/4)

https://asuhenokotoba.blogspot.com/2023/02/90.htmlをご覧ください。

2024年5月3日金曜日

浦田理恵(ゴールボール元日本代表)    ・一歩踏み出す勇気をもって 後編

浦田理恵(ゴールボール元日本代表)    ・一歩踏み出す勇気をもって 後編 

2008年最初のパラリンピックが北京大会、「よしやるぞ」という思いで北京に乗り込みましたが、大舞台なので凄く緊張しました。 8か国中、7位と言う結果でした。 帰りの飛行機ではずっと泣いていました。 何が足りなかったのか、どうしたらいいのかなと、自分の足りないものと自分の必要なものを考えて、次のロンドンでは絶対に金を取ってやるぞと思いました。(決勝はアメリカと中国だった。)  まずは弱気な私のメンタルだなと思い、メンタルトレーニングをやりました。  筋力と同じで、地道にトレーニングすることで少しづつ自分をプラスに持っていくやり方を自分で作っていきました。 

コートに立っている時にどんな思いでいるのか聞かれた時に、「日本のゴールを守るのが自分の役割なので、失点してはいけないんです。」と言ったところ「その言葉を変えたらもっと強くなる・」と言われました。 「失点してはいけないんです。」という否定形ではなく「パーフェクトディフェンスで行くぞ。」と言う風に変えてみたらどうかと言われました。 言葉をポジティブに変えて行って、自分のマインドをポジティブに持っていく。 それで変わって行きました。

日本は体格的にも小さめで、パワーの部分が劣ることが否めなかったが、一人一人の力は小さくても、それを繋いで一つになる、それは日本は強みなのでそこにたどり着きました。 チームで一つのボールを追ってゆく、カバーリングの動きをしてゆく。 攻撃も同じです。 コミュニケーションも増えて、チームも繋がって行きました。 

2012年のロンドン大会を迎えました。 「金メダル取りました、ありがとうございました。」と言うような勢いで行きました。 体力も前回に比べてしっかり作っていきました。 予選が1勝1敗1引き分けの2位で通過。 準々決勝がブラジル戦、準決勝がスウェーデン戦(残り30秒で同点に追いつかれて延長戦で勝つ)、決勝が中国戦。(優勝する。)  金メダルを獲得。 すべてに「ありがとう」と言う思いでした。(チームメンバー、周りの支え、日本からのからの応援など)   金メダルを取ったことで、自分自身が生きてゆくことに自信を貰えた感じがしました。   家族からは「まさか金を取るとは思わなかった。」と言われました。 凄かったです、感動しました、と言うような言葉を沢山の方から頂き、本当の意味でゴールボールをやる目的がその時に気付かされました。  

リオデジャネイロ(2016年)では5位になってしまった。 キャプテンを任されて挑んだ試合でした。 準決勝で中国に1点差で敗れてしまいましたが、次が母国開催なので挑戦しないわけがないです。(40歳を迎える頃ですが年齢は気にはならなかった。)   2016年以後あまり順調ではなかった。(後輩も力を付けて来た。) 2019年アジアパシフィック大会(東京大会の代表を兼ねている大会)へは代表落ちをしたりしました。 2020年3月には何とか代表入り内定を得ましたが、その直後にコロナで延期が決まって内定が白紙に戻されました。  体力と音の感覚を落とさないようにいろいろ工夫して対応しました。  

東京大会の代表に選ばれました。 チームのバランスをとる事と、ディフェンスが私の役割なんだなと言う思いでした。 金メダルを取ってやるというような思いでした。 心の状態も最高でした、ぶれないんです。 予選が2勝1敗1引き分け 決勝トーナメントでは準々決勝4-1でイスラエルに勝ち、準決勝でトルコに5-8で負ける。 予選の初戦がトルコ戦で1-7で大敗しました。(大丈夫なのか心配になる。)  その後も波に乗れない状況でした。 ブラジルに勝って胴メダルを獲得することが出来ました。 私は持っているものを全部出し切れました。 表彰台に上がった瞬間に引退を決めました。 仲間の成長が凄く嬉しかったです。  どんな言葉を発するかで、自分を変えて行けると思っています。  言葉が有るから思考を深めることが出来る。  言葉があるから人と繋がれる。  言葉って本当に凄いと思います。 

ゴールボールは真剣に生きてゆく、やるって楽しい、挑戦することの楽しさ、難しい、悔しい、厳しさを私に教えてくれました。  今自分があるのは、自分ひとりの力ではなくて、ありがとうと言う気持ちに気付けたときに、次の一歩に繋がりました。  壁にぶつかっていても、心持ちをちょっと変えたらそこに光が差してくる、そういう風に思っています。 一度きりの人生なので、自分を信じて自分を大事にして、自分を大事にするという事が相手を大事にするという事です。 

 








2024年5月2日木曜日

浦田理恵(ゴールボール元日本代表)    ・一歩踏み出す勇気をもって 前編

浦田理恵(ゴールボール元日本代表)    ・一歩踏み出す勇気をもって 前編 

今年8月にはフランスパリで障害者のスポーツの祭典パラリンピックが始まります。 その競技の一つゴールボールの話題です。 2012年のロンドンパラリンピックでゴールボールの日本女子の代表はパラリンピックの団体競技では初めて金メダルを獲得しました。 その中心メンバーの一人が福岡市に住む浦田理恵さん(現在46歳)です。 小学校の教諭になるために勉強を続けていた20歳のころから網膜色素変性症を患い、徐々に視力を失っていきほぼ全盲の状態になって行きました。 一時は絶望で家に1年半引きこもった時期もありましたが、家族の支えを頼りにゴールボールと出会い、学生時代までは運動音痴だったはずが、めきめきと頭角を現し日本代表迄上り詰めました。 東京パラリンピックを最後に代表を引退するまでに、北京、ロンドン、リオデジャネイロ、東京と4大会に出場し、ロンドンの金、東京の胴と二つのメダル獲得に貢献しました。 ゴールボールを通じて人として成長することを学んだという浦田さんに「一歩踏み出す勇気をもって」と題してお話を伺います。

シニア―アドバイザーとしてパラリンピックの日本代表の選手にアドバイスをしています。  技術の指導はあんまり向いていないと思っています。  チームの士気を上げたり、選手に寄り添ってメンタルのケアをするとかでは、私自身チームの役に立てるという事合宿にもスポットで参加して、言葉を通じてチームが勝ために雰囲気つくりと言ったところを、主な役割としてやらせてもらっています。 勝つためには心技体の中で8割が心で後の技が1,体が1と言う思いで選手時代も過ごしていました。 マインドセットは大事だと思っています。 

東京で辞めると言う事で目指していたわけではなくて、銅メダルを取った時に、私はやり切ったな、もう次にバトンを渡す時だなと決心しました。(44歳)  年齢ではなくてやり切ったという気持ちの部分です。  今世界ランキングは2位になっていますが、1位はトルコで頭一つ抜けているところもあるかもしれませんが、私は日本が決勝で戦っているイメージしかありません。 所属先、家族、友人などの応援があって、今の自分たちがあって、悔いのない準備が出来て、大会で自分たちの最大のパフォーマンスを発揮するのには、大会のこの場に立てたのは幸せだなあと思う事で、きっと自分たちの力は発揮できると信じ得います。 

2012年の時には左目は全く見えずに、右目は少しだけ光を感じる状態でした。 現在がほぼ全盲です。  目で見るだけが「見る」ではないと思っていて、ゴールボールをするときには音で「見る」、と言う感覚になっています。 人間の83%は視覚から得ていると言われています。 17%を最大限に生かしながら、工夫、努力して回りからのサポートがあれば、100%に近づいて行けるなと思えた時に、大したことはないかなと近づいてているんだと思います。 

20歳のころに小学校の先生を目指していました。 網膜色素変性症が発症して左目が3か月で一気に見えなくなりました。 右目が徐々に周りから視野が消えてゆく状況でした。  見えなくなってゆく自分自身が受け入れられなくて、他人に言えない時期がありました。  怖くて眼科になかなか行けませんでした。 1年半引きこもりました。  福岡で独り暮らしをしていました。 熊本の母から電話が良くかかって来ましたが、中々言えませんでした。  22歳のお正月に実家に帰って、目のことを伝える決心をしました。 駅を降りた時に母の声が聞こえてきましたが、そりらを向いても母の姿は全く見えませんでした。  見えないことを言ったら、最初は信じてくれませんでしたが、所作でようやく判ってくれました。(母は泣き崩れていました。) やっと言えたなと思いました。

母から「大丈夫よ。 目が見えなくなっても出来ることを一緒に探してゆこう。 一人やないけん。」と言ってくれて、自分の居場所はちゃんとここにあるんだなと思いました。  私ってなんでもかんで当たり前になっていたなと思いました。 家族のことを身にしみて感じました。 目に見えていたころとは違って、生活は激変しました。 工夫をしながら、基本的には音、形を使って段々生活に慣れていきました。  今でもそうですが化粧、特に眉毛を書くのは難しいです。 

「見えないので完璧は目指さない。」 見えなくなって、完璧な人はいないという風に気付きました。 自分の生き方が楽になりました。 2004年アテネで日本の女子が胴メダルを獲得したニュースの声が聞こえてきました。 ゴールボールを初めて知りました。 運動は苦手でスポーツには全く興味がありませんでした。 見えなくてもスポーツが出来るんだという事を知りました。 もしかして私にも出来るのではないかと言う、可能性を感じました。 

ゴールボールは3対3で行うチームプレイです。 アイシェードというものを付けます。(視覚障害の程度の差があるので平等にする。)  バスケットボールぐらいの大きさで中に鈴が入っています。(重さ1,25kg)  鈴の音を聞きながらそれぞれのゴールに向かってボールを転がしたりバウンドさせたりしながら相手のゴールを狙うチーム競技です。  私はディフェンスが得意なので、センターポジションにいます。 どこからボールが来るのか、出所を捜して、どの位置からどの高さで投げられてくるのか、予測しながらディフェンスをする、それが凄く難しいです。 音を聞いていろいろと予想をして、実際と合致した時にはすごい喜びを感じます。 床を転がす時の最高速度は50km/hぐらいになります。 顔に当たったりするときもありますが、恐怖はないです。  出来ないことを出来るようにするにはどうしたらいいか、探求することが楽しいです。 

初めてコートに立ってボールがゴールに入ったのに対して、全然反応が無かったです。  時間がかかりましたけど強くなりました。  音で見る力、足音、呼吸、などを耳で聞き、床の振動などを感じながらとか、18m先の鈴の音はこんなふうに聞こえるのかとか、迫ってくる距離感などを想像します。 あざの分だけ強くなります。 辞めたいと思ったことは1回もないです。 挑戦する楽しさを知ってしまったので、どうやったら出来るんだろうという、そっちの方が強かったです。











2024年5月1日水曜日

ぶっちゃあ(お笑い芸人)        ・生涯一新人

ぶっちゃあ(お笑い芸人)        ・生涯一新人 

ぶっちゃあさんは1954年京都出身。 若手芸人の育成に情熱を注ぎ続けているぶっちゃあさん、その面倒見の良さから東京芸人の父と呼ばれているそうです。 相方のリッキーさんと活動をしているお笑いコンビ「ブッチャーブラザーズ」は今年で結成43年になるとのこと。

相方のリッキーさん が所属事務所(サンミュージックプロダクション)の社長になりました。 5年に一回単独ライブをしてきました。  毎年やろうとリッキーが言い出してやるこになりました。 再来年が45周年です。 相方のリッキーは森田健作さんの付き人でした。 僕は監督、俳優志望で、相方は映画のカメラマン志望でした。  俳優養成所で一緒になりました。 森田健作さんと仲良くなって東京に来ないかという事になりました。(23歳) 森田さんの家に居候となりました。 たまたまテレビで「笑っていいとも」の前に新人が出るところがありました。 出てみたらたまたまチャンピオンになってしまいました。 

当時、漫才ブームでそれに乗りたいなと思いました。 「ザ テレビ演芸」4代目のグランドチャンピオンになりました。  師匠につく時代から師匠を持たないような過渡期の時代でした。 チャレンジする番組3つとも出たのは、僕らとダウンタウンだけですね。  段々テレビには出なくなっていきました。 でもキャバレーに行ったりイベントに行ったり仕事はかなりありました。 辞めるきっかけもなくずるずる来ました。 

当時は師匠もいなかったし、協会に入らないと寄席などの舞台には出られませんでした。  自分はバンドもやっていたので、始めたのがお笑いライブなんです。 今活躍しているいろんな人たちはうちに来てくれていました。 打ち上げで飲みながらのコミュニケーションは大事ですね。 伝わることが一番大事ですね。(声の大きさとか)  「ヒロシです。」のヒロシ、ダンディー坂野などが弟子です。 小島よしおも後輩です。 以前、早稲田のお笑いサークルの5人組でやっていました。 

いろんな職種の人と会う事で勉強になります。  アドバイスの仕方自体も時代に合わせて教え方、伝え方は考えていかなければいけない。(上から決めつけていうのではなく。)  衣装とか、靴とか着て来たもの、履いてきたものでそのまま舞台にあがることは駄目だとか言ってきました。 

生でお客さんの声援とか、受けている笑い声を聞くとたまらないですね。 又挫折がないと駄目ですね。 獅子てんや・瀬戸わんや師匠から「あんたらの様に新しい人の方が、吸収して頑張れるから、頑張んなさい。」と言われて、それが無かったら辞めていました。

コミュニケーション能力の高いことが大事ですね。  「生涯一新人」 売れるまでが新人と思っていますが、売れたら新人と言うのを降ろそうと思っていますが、おろせないまま生涯が終わりそうなんですが。 今年11月には古稀を迎えます。 





2024年4月30日火曜日

萩谷由喜子(音楽評論家)        ・〔わが心の人〕 幸田延

萩谷由喜子(音楽評論家)        ・〔わが心の人〕 幸田延 

幸田延は明治3年(1870年)生まれ。 日本で初めてクラシック音楽を学ぶために海外留学を果たし、ピアノ、ヴァオリン、声楽、作曲をも身に付け、帰国後は多くの音楽家を育てました。 いわば日本のクラシック音楽の世界の草分けと言うべき存在です。 お話は音楽評論家の萩谷由喜子さんです。 萩谷さんは日本におけるクラシック音楽の歴史、特に女性の音楽史を研究しています。 2023年延の伝記として「幸田延」を出版しました。

幸田延は明治時代の音楽のスーパースターになりました。  若い時に今の芸大(文部省音楽取調掛)の音楽教授にもなりました。

幸田延は明治3年(1870年)東京生まれ。 幸田家は江戸城の表坊主(お茶坊主)と言う役をしていました。  お茶の接待もありますが、登城してきた大名たちに対して、将軍、老中に面会するときに、しきたり、作法を教えます。(大名たちへのマネーの先生)  明治維新で大蔵省の下っ端の役人になる。 先が見えない中いい教育をさせようと、兄弟姉妹(6人兄弟)にいい教育をさせました。 兄が3人で4番目が延です。 長男は実業家、次男は海軍の偉い軍人、3男が幸田露伴。 まず長唄を習う。 1876年(明治9年)に東京女子師範学校附属小学校(現:お茶の水女子大学付属小学校)に延を入学させる。 

明治政府が招聘したアメリカ合衆国の音楽研究者、ルーサー・ホワイティング・メーソン1880年(明治13年)に来日し、文部省音楽取調掛(のちの東京音楽学校、現:東京芸術大学)に雇用された。 延が通っている東京女子師範学校附属小学校にも来てくれた。   延の才能を見出したメーソンは延にスクエアーピアノを習わせる。 卒業後研究課程(今でいう大学院)に進むとともに助手の先生となる。(14歳)  給料ももらえたので、文学志望の兄露伴に小遣いをあたえていて、二人は仲が良かった。  文部省音楽取調掛は東京音楽学校に格上げされて、優秀なものをヨーロッパに派遣して本場の音楽を学んできて、成果を学校に広めていくという事で延が選ばれた。(音楽留学生第一号) 

ボストンで1年間勉強してメーソンとも会っている。 その後ヨーロッパに行く。 留学先に入学するためには実技はしかり、語学(ドイツ語)もやらなければいけなくて大変だった。 合格して、ピアノ、ヴァオリン、学理、声楽、作曲などいろいろ学ぶ。 一番大変だったのは音楽史だったようです。 ウイーンで5年学んで、いろいろ習ったものが、卒業する時には全部「1」のランクの成績を取りました。 

日本に帰国する事になり(25歳)、直ぐに教授として迎えられた。 翌年帰朝音楽会が行われた。 メンデルのヴァイオリン協奏曲を独奏、ブラームスの歌曲をドイツ語で2曲歌う、弦楽四重奏のリーダーとして第一ヴァイオリンを担当してハイドンの弦楽四重奏曲を演奏、ゲストで来ていたクラリネット奏者の方のピアノ伴奏を引き受ける、バッハのフーガを弦楽合奏用に編曲して生徒たちに弾かせています。  一回の音楽会で一人で全てやっているわけです。 作曲はウイーン時代にヴァイオリンソナタを2曲作曲しました。 日本人が書いた初めてのソナタです。 

*ヴァイオリンとピアノのためのソナタ 第二番ニ短調 作曲:幸田延

生徒には瀧廉太郎三浦環などがいた。 森鴎外とも親交があった。 当時の新聞が最初音楽学校批判が出始めて、段々延に対する個人攻撃となってゆく。(実力があり過ぎる事に対する妬みなど) 延を東京音楽学校から引きずり下ろす何かに力が働いた様です。 依願休職をして、直ぐにヨーロッパに私費で旅立ちました。 目的は三つあって①ヨーロッパの第一線の音楽家たちの演奏会を沢山聞いて、啓示を得たい。 ②自分の音楽力をアップしたい。 ③最新の音楽教育現場の様子を視察する。 

帰国後、音楽界に復帰は無理だと自覚していたので、一般の家庭への音楽の普及という事を始める。 ピアノの稽古場を始める。 露伴が「審声会」と言う名をつけてくれる。

4手のための連弾小曲  作曲:幸田延  (教育用)

関東大震災、戦争など体験したのち、1946年姪や親族、2人の弟子に看取られながら心臓病で死去、76歳没。  お経の代わりにバッハの平均律クラヴィーア曲集の第8番の前奏曲が好きなので、これを弾いて欲しいと弟子たちに言い残したそうです。













2024年4月29日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)         ・〔絶望名言〕 清少納言

 頭木弘樹(文学紹介者)         ・〔絶望名言〕 清少納言

平安時代の中期の女性で「枕草子」として有名です。 NHK大河ドラマ「光の君へ」の登場人物の一人でもあります。

「春はあけぼの ようよう広くなりゆく山際 すこしあかりて 紫立ちたる雲の 細くたなびきたる」   清少納言

「枕草子」は世界最古のエッセー文学とも言われています。 鴨長明の「方丈記」、吉田兼好の「徒然草」と並んで日本の3大随筆の一つとも言われています。 清少納言はいつ生まれて何時亡くなったのかははっきりしていない。 一説では1025年に亡くなったという事で、来年が没後1000年になります。 清少納言は一条天皇の后の藤原定子に仕えていた女房(宮廷や貴族の屋敷で働いている女性のこと)です。 

当時は自分の周りに気の利いた女性、女房たちを集めてサロン文化を形成していた。 清少納言は定子のサロンで大活躍をしていた。 枕草子で清少納言をイメージしているが、実際はそうとは限らない。 枕草子を書いた時期は定子が没落していて、かなりつらい状況だったようです。 山本淳子先生の書いた「枕草子のたくらみ」には定子や清少納言が実際にはどういう状況だったのかという事が書かれていて衝撃的でした。 

当時、藤原氏が政治の実権を握っていた。 トップに立っていたのが藤原道隆で自分の娘の定子を一条天皇の后にします。 その子供が次の天皇になれば自分は天皇の祖父になれる。一条天皇と定子はとても仲が良かった。 定子のサロンに参加したのが清少納言だった。 1年半後に藤原道隆が43歳で亡くなってしまう。  藤原道隆の息子と藤原道長(藤原道隆の弟)とのし烈な権力争いが始まります。 定子の兄や弟が負けて地方に流罪となる。 藤原道長が勝利する。  定子は出家してしまう。 家も火事で焼けてしまう。 母親の貴子も亡くなってしまう。 清少納言は道長の側に内通したと疑われた。 清少納言は仕方なく実家の戻って籠もってしまう。 「枕草子」はどうもこの時期に書き始められたようだ。清少納言はきらきら輝いた時期のことを描いた。 明るい言葉の裏に隠された絶望を読み解く。

「宮に初めて参りたるところ ものの恥かしきことも数知らず 涙も落ちるべければ 夜夜まゐりて 三尺の御几帳(みきちょう)の後に侍ふに、絵など取り出で見せさせ給ふを、手にてもえさし出づまじう、わりなし。 「これは、とあり、かかり。それかかれか」などののたまわす。」     清少納言

これは清少納言が始めて定子のところに出仕した時の一節。  定子に初めてお仕えしたころ、恥かしい事ばかりで涙がでそうなので、定子のところには夜に行って三尺の御几帳(みきちょう)(部屋の間仕切りの為目隠しに使うもので布を垂らしてあってその後ろに隠れることができる。)の後ろに隠れて、定子が絵などを見せてくれる。 私は手を出すことも出来なくて、どうしたらいいかわからない。 定子は色々説明してくれる、と言う様な内容。 

清少納言の自慢話は自分自身を褒めているわけではなくて、は実は定子をほめている。 最初の出仕のころは定子が17歳ぐらい、清少納言は28歳ぐらいと言われている。 定子は漢文にもたけていて教養があった。 漢文の知識も隠さなくてもいい自由なサロンだった。 

「世の中の腹立たしう、むつかしう、片時あるべき心地もせで、ただいづちもいづちも行きもしなばやと思うに、ただの紙のいと白う清げなるに、よき筆、白き色紙陸奥など得つれば、こよなう慰みて、さはれ、かくてしばしも生きてありぬべかめり、となむおぼゆる」      清少納言

紙について清少納言が他の女房達の前で話しているところ。 世の中に腹が立って生きていることが厭になって、どこかに行ってしまいたくなるような時でも、ただ真っ白で綺麗な紙が手に入ったら、すっかり気分が良くなって、もっと生きていていいかなと言う風にも思える、と言うような内容。

当時はいい紙が貴重だった。 実家にこもっていたころに定子から沢山の紙が送られてくる。 

「ねぶたしと思ひて臥したるに 蚊の細声にわびしげに名乗りて、顔のほどに飛びありく。羽風さへ、その身のほどにあるこそ、いとにくけれ」   清少納言

眠くて横になったのにせっかく眠くて横になったのに、蚊がやって来て「ぶーん」と羽音をさせて顔の当たりを飛び回る。 小さな体の癖にちゃんと羽風まで感じられるのはひどく憎らしい、と言う内容。

憎きものとして蚊だけではなくていろいろ書かれている。 そのほかに美しきものとか、すさまじきものとかいろんなものがあって、楽しいですね。

「三条の宮におわします頃、五日の菖蒲の輿などもて参り、薬玉など参らせなどす。若き人々、御厘殿など、薬玉して姫宮・若宮に着け奉ら給ふ」  清少納言

「枕草子」に描かれる定子の最後の姿です。 5月5日の節句 この年の12月16日に24歳の若さで亡くなる。 ここでは菖蒲とかくす玉が出てくるが、皇后だからこそ送られるものだそうです。  最後まで后らしく輝いていたことだけを清少納言は書いている。 定子の死を直接は書かない。 

一条天皇は出家した定子を回りの反対を押し切って呼び戻し、皇女の次の皇子が生まれる。 次の天皇になってしまう恐れがあるので、道長は自分の娘の彰子を一条天皇の后にする。(后が二人という異例の事態) その年の暮れに二人目の皇女の出産直後に亡くなる。 その後彰子が皇子を出産して、後一条天皇になる。   清少納言は没落してゆく定子のそばにずっといたわけです。 道長にとって敵対している定子を賛美している「枕草子」がどうして許されたのか、不思議なところです。 定子が亡くなると道長は怨霊におびえるようになった。 「枕草子」は道長や貴族を責め立てたりはしなかった。 定子の生き生きとした姿を描いているだけです。 

「ただ過ぎに過ぐるもの 帆をかけたる舟。 人の齢(よわい) 春、夏、秋、冬」 清少納言

ただ過ぎてゆくものは帆を掛けた船であり、年齢であり、春、夏、秋、冬という四季の移り変わりである、と言う内容。

没落していった無常観みたいなものが込められている。   定子が亡くなった後の清少納言のことはよくわかっていないようです。  清少納言が去ってから5年後に彰子の元に来たのが紫式部です。 紫式部は清少納言のことを辛辣に書いている。(得意がっている、利口ぶっていると。) 

源氏物語は「哀れ」の本、枕草子は「おかし」の本と言われるが、「哀れ」を記載する部分も後半にある。

「日は入日(いりひ)」 入り果てぬる山の端(は)に 光なほとまりて赤う見ゆるに、薄(うす)黄(き)ばみたる雲の、たなびきわたる、いとあはれなり。」  清少納言

(全体に聞き取りにくく疲れた。)




 
















2024年4月28日日曜日

木下牧子(作曲家)           ・〔夜明けのオペラ〕 管弦楽、合唱曲、そしてオペラへ

木下牧子(作曲家)       ・〔夜明けのオペラ〕 管弦楽、合唱曲、そしてオペラへ 

木下牧子さんは東京出身。 東京芸術大学作曲家を卒業、同大学院修了、20代は管弦楽を多く作曲し、日本音楽コンクール管弦楽作曲部門や日本交響楽振興財団作曲賞に入選、30代は合唱曲を中心に作曲し、親しみやすいアカペラから管弦楽伴奏の大作「邪宗門秘曲」や「たいようオルガン」など幅広い作品を発表してきました。 2003年にはオペラ「不思議の国のアリス」を手掛け、初演で三菱UFJ信託音楽賞奨励賞を受賞しました。 NHK学校音楽コンクール課題曲や歌曲集、管弦楽曲、ピアノ曲など多岐に渡った作品で活躍しています。 来年は平安時代を題材にした夢枕獏さんの作品「陰陽師」をオペラ化することになりました。 久々にオペラ作品に取り組む木下さんにお話を伺います。 

まだ半分に行っていませんが、4時半から5時に起きて、コツコツ書き続けています。 5歳からピアノを始めました。  東京都立芸術高等学校に行く頃はピアニストになりたいと思っていました。 新しい楽曲を弾くのは好きでした。  高校ではピアノ科が多くて、みんな上手くて、ピアノだけでは自分の存在をはっきりアピールするにはそれだけでは足りないと思いました。(高校1年)  東京芸術大学作曲家に進んでよかったと思います。 文化祭でもオーケストラの作品を書いていました。  管弦楽曲が好きでした。 同大学院修了後に深いスランプに陥りました、  そのころたまたま合唱曲の委嘱を頂き、自信を回復することが出来ました。 最初に「箱舟」と言う合唱曲を書いて、会場が湧き、それが救いになりました。 

混声合唱曲集「夢みたものは」  作曲:木下牧子

オーケストラと混声合唱のブレンドが最高の音色ではないかと思っています。 ソロにも興味を持って作りましたが、ソロ、アンサンブル、オーケストラが一体化したのがオペラなので、高橋英郎先生からオペラを書きませんかと言われました。 それが「不思議の国のアリス」です。(二幕2時間弱) 「大人から子供まで楽しめる日本語オペラ」という事をしつこく言われました。 2年後に改訂版を出しました。 46回ぐらいやっています。

来年は平安時代を題材にした夢枕獏さんの作品「陰陽師」をオペラ化することになりました。(二幕) 前半と後半では話が違います。 安部清明と源博雅という二人の男性が主役。 

歌曲集「三好達治の詩による2つの歌」 作曲:木下牧子

「陰陽師」は20年前ぐらいにブームになった時にオペラ化したいという思いがあって温めていました。 オペラを書いて欲しいという事で題材も台本もお任せしますという事でした。 126人オーディションに来て頂きました。 これから日本のオペラが発展してゆくんだなと希望を持ちました。   来年1月31日、2月1日、2日にやります。 生きることのすばらしさ、優しさを訴えたいと思います。

ピアノ連弾曲集「迷宮のピアノ」から 「ローラ・ビーチ」 作曲:木下牧子













2024年4月27日土曜日

小林稔侍(俳優)             ・〔私の人生手帖〕

小林稔侍(俳優)             ・〔私の人生手帖〕 

小林稔侍さんは1941年和歌山県生まれ。 東映の第10期ニューフェースを経て、アクション映画や任侠映画に数多く出演し、その後深作欣二監督らに見いだされて頭角を現しました。 1986年にはNHKの連続テレビ小説「はね駒」で主人公の父親役を好演、2000年には「ぽっぽや」で日本アカデミー賞最優秀助演賞を受賞しました。 近年は山田洋二監督作品の常連として知られています。 小林稔侍さんの自在で味わい深い役柄はどのようにして生まれるのでしょうか、大切にしてきたのは何なんでしょうか。  放送ではほとんど語ってこなかったとおっしゃる素顔についてお話を伺いました。 

僕たちはラジオで育っているので切り離せません。 僕は夜型です。 小学校から寝不足しています。 コロナで感染しないように引きこもっていました。 3,4回しか京都、大阪などには出ませんでした。 諸先輩などいろいろ見てきて、人には感謝、そのことはつくづく思いました。 昭和36年に東京に出てきて東映に俳優の卵として入りました。 保証人が必要で、父親の親友で東大を金時計で卒業した人が居るという事で、上京した挨拶もそこそこに出た言葉が「出世しようと思ったら可愛がれらなければ駄目だぞ。」と言われました。 胡麻すらなければいけないのかと思いました。 芸能界にいて判って来たことは、コツコツうつむいてやっていると、必ず監督さん、プロデューサーの方、諸先輩でも声を掛けてくれるんです。 その人に対して狭い料簡の解釈をしてしまって、申し訳ないと思いました。 

切られ役かと一般の人は思うかもしれないが、切られ役が良くないと、主役が良く見えないんですよね。  撃たれて車から落ちる場面があるんですが、下がコンクリートで時速10kmで落ちてくわけですが、迫力がないので時速20kmでやって欲しいと言ったんです。 プロデューサーの方が来て 「君にそういうことをさせて済まなかった。」というんです。(一応ニューフェースで入ったので)  それからその方がずっと面倒を見てくれるようになりました。 可愛がられる事とはそういう事だと気が付きました。 

雪駄を履いて、田んぼとか砂利道を走るシーンがあるんですが、普通なら田んぼで雪駄が外れてしまうんですが、針金で足に縛り付けて走ったんです。 一緒に逃げるメンバーとは離れてしまって、その場面をみんなと一緒には撮れないんです。 チーフが怒って来るんですが僕はそういった事には平易なんです。 深作欣二監督が気に入ってくれました。 そういったことでコツコツやって来ました。 目の前のことを気持ちよく一生懸命にやるしかないんです。 

10歳違いの兄がいて、勉強も出来るし孝行息子でした。 僕は川に行って釣りをしたり一人で行動するタイプでした。 父も母も愛情いっぱいに育ててくれました。 小児喘息も酷かったです。 終戦直後で1本が2万4000円ぐらいの薬です。 苦労して購入して、そのお陰で助かったようなものです。 身体が弱かったので小学校で1年、高校で1年休学して、2年遅れて卒業しているんです。 

「しだし」役(歩く役)が180人ぐらいいるわけで、俳優になりたくて「しだし」役をやらされているわけです。 映るか映らないか判らないけれども化粧をするわけです。   小学校低学年から映画は観ていました。  友達が国立の和歌山大学教育学部附属中学校に入るという事で、そこには綺麗な女の子もはいってくるというんで、自分もそこに行こうと思って一生懸命勉強してはいることが出来ました。 高校卒業後、何かして親孝行したいと思いました。 新聞に東映のニューフェース募集の広告が出ていて、東京に行きたいと思いました。  書類選考に受かりました。 入社式に行くために早朝3時ごろに駅に行ったんですが、父親が見送りに来てくれていました。 ホームシックには1週間程度と言われていましたが、僕は1か月駄目でした。  毎日枕が涙で濡れていました。 

最初の芝居が一人づつ前に行って泣くんです。 僕だけ最高に泣いたんです。 大川社長から「君は今年高校卒業だがどうして大学はいけないのかね。」と言われて、「大学は来年でも受けられます。 最終審査に残れて夢のようです。」と言ったら、「ウン」と言ってそれっきりで出されてしまって、駄目なんだなあと思いました。 そうしたら合格しているわけです。 純粋にそう思っていたから、それが受け入れられたのかなあと思いました。   その後のことでも、欲張らず純粋に自然にやることがいい事なのかなあと思っています。  それは両親、兄、周りの方からの愛情だと思います。 僕は愛情いっぱいに育てられたんです。  兄は、大卒が1万6000円ぐらいのころ、1万8000円のテープレコーダーを買ってくれたり、カメラも買ってくれて、仕送りも1万円づつ仕送りをしてくれました。 

僕は俳優の仕事は嫌いだと思ったことはないですね。 例え厭な監督の前でも、衣装を着ている時には厭にはならないね。  僕にはターニングポイントは無くて、ずっと同じで一点張りです。 いい人たちばっかりに出会ってこられたなあと、感謝これしかないですね。  高倉さんもそうでしたが、楽しくて、お人が良くて、実にきっちりしていて。  今後についてという事ですが、今まで通りでいいです。 なすがまま、人様が拾ってくれるままだと思います。 本当に感謝しかないですね。






















 







2024年4月26日金曜日

柳田邦男(ノンフィクション作家)    ・〔ことばの贈りもの〕 絵本がひらく共生社会への扉

柳田邦男(ノンフィクション作家)  ・〔ことばの贈りもの〕 絵本がひらく共生社会への扉 

柳田邦男さんは災害や事故、病気や医療、障害と福祉などについても取材と執筆を半世紀以上続ける一方で、もうひとつのワイフワークとして絵本を楽しみ、翻訳を手掛け、絵本が持つ力、魅力についての語り部としても活動を続けています。 2008年には東京荒川区が柳田邦男絵本大賞を創設、絵本を読んだ感想文を柳田さんにお便りするというスタイルで行われていて、今年で16回目となりました。 柳田邦男さんのNHKハートフォーラム絵本がひらく共生社会への扉の講演をお聞きいただきます。

「ピアノはっぴょうかい」 みやこしあきこ 

「今日はモモちゃんの初めてのピアノ発表会です。・・・いつものように弾けばいいからね。  先生がにっこり笑って言いました。 ・・・大丈夫、大丈夫。 ・・・モモちゃんが足元を見たら子ネズミでした。・・・大丈夫モモちゃんの番までまだ時間があるから。・・・子ネズミについてゆくと舞台袖の奥に小さなドアがありました。 ・・・モモちゃんはドアをくぐりました。 ・・・ 」(冒頭部分)

絵本の普及活動を始めて30年近くになります。 NHKの障害福祉賞というものがありまして、その選考を30年以上やってきています。 障害や、障害者問題と絵本の発表といつもも重なり合ったんです。 絵本は幼児期の本だという風に先入観で捉えられてしまっている。 描いている絵本の世界は深いんです。 絵本は人が生きる上で大切な事、人間関係で大切な事、それが全て絵本に書かれている。 障害と障害者の理解を深めるうえで絵本はとてもいいヒントを与えてくれる。 こういう活動からお話をしてみたいと思います。

東京の荒川区で大きなイベントを16年やって来ました。 絵本を読んでどういうところに感動し、気付きがあり、そして自分がどう変ったか、その体験を手紙で寄せてくださいと言う活動を始めました。 柳田邦男絵本大賞を創設。 その頼りの中からご紹介したい。

食物アレルギーを持っている小学校2年生の杉山椎良君

アイスクリーム、お菓子などが食べられない。 辛い中で一冊の本に出合いました。 「むっちゃんのしょくどうしゃ」と言う絵本です。 動物列車にむっちゃんが一緒に乗ります。食堂車で食事をしますが、むっちゃんが杉山君と同じような食物アレルギーを持っている。 杉山君は自分と同じだという事で読んでいった。 むっちゃんが「僕は食物アレルギーだから卵と牛乳が田出られないの。」と大きな声で叫ぶんです。 自分と同じだと思って読んでゆくと、アシカやペリカンは魚だけしか食べない。 ライオンは肉だけ、羊は草だけ、こういう風景になっている。 それを杉山君は手紙に書いてきてくれました。

「僕に食べられないものがあってもいいのだと思いました。 僕は僕の身体に合う食べ物を使って、お母さんや給食の人が作ってくれているので、とてもありがたい気持ちになりました。 僕はこの本を読んで、アレルギーは気を付ければご飯がもっと美味しく、これからは作ってくれた人の気持ちを考えて、残さず食べれるように頑張ろうと思う様になりました。」   感謝の気持ちをもって食べて行こうと自分を変えてゆくわけです。 

小学校5年生 村山重行?君 「見えなくてもだいじょうぶ?」と言う絵本を読んだ印象と学んだことをしっかりと書いてきました。

カーラと言いう少女が御両親と市場で買い物をしているうちに迷子になってしまう。 誰も声をかけてくれないが、泣いていると若者が声を掛けてくれた。 ハッとみると白い杖をついている。 この場面は障害のある方とない方が表現されている。 耳で迷子になっていることに気付く。(健常者は無関心)  一緒に探しに行く。 そうするといろんな場面で障害者に対する理解がどんどん深まってゆく。 

「僕は目をつぶってリンゴを触ってもリンゴだとは判るけれども、熟れているかなんて全然わかりません。 ・・・柳田先生もし夜中にトイレに行く時には灯りを点けますか。 僕はトイレに行くときには必ず点けます。 でもマチアスは灯りを点けなくても平気なんです。僕は目が見えなかったらどうなるだろうと、いろんなことをやってみました。・・・でもいろんな音がよく聞こえました。 カーラはお兄さんは耳も見えるのね、と言っていますが、まさにその通りだと思います。」     「耳で見える。」と言う言葉は素晴らしい言葉だと思います。 「この本は目の不自由な人の思いが伝わって来る本なので、是非柳田先生読んでください。」と付け加えられていました。

人種差別、障害の有る無し、寝たきりの老人とか、いろんな人に対する偏見があるが、その立場に立って考えるとまた違う見え方が出来る。 それを小学5年生の子が考え、実行しているわけです。 絵本の力は素晴らしいと思います。

「ちょっとだけ」と言う絵本。 なっちゃんという2,3歳の女の子。 赤ちゃんが出来て今迄みたいに100%面倒を見て貰えない。 喉が渇くと自分で牛乳を持ってきて、ちょっとこぼしたりしながら飲んだりする。 ・・・赤ちゃんが眠った時に一杯抱っこしてあげますね、と言うと、なっちゃんは大喜びする。 お母さんのひざ元ですやすやと眠る。

一日に一回でもいいから上の子のことをちゃんと見てあげなさいと言うような物語だと思いました。 他に色々な場面で子供から気付かされたと言うおかあさんからの手紙です。

吉田千絵?さんからの手紙

3歳の息子に読み聞かせっていたら、牛乳をついでこぼしちゃった、でもなっちゃんはちょっとつげたことで満足そうな表情になっていて、そこで3歳の息子が拍手をして「凄い」と言ったそうです。 見ているところが親と子では違うんです。 親はこぼした方を見ている。 子供はついで、つげて嬉しい、と見ている対象が違うんです。 ここはとても大事なところです。 

「この時我が子が凄いねと言って、私はハッとしました。 子供にとって自分が出来た時の喜びはとてつもなく大きいもの。 それが完ぺきではなくちょっとだけだったとしても。・・・こぼさないようにしなさいと監視し、こぼしてしまうと「だから言ったでしょう」と怒っていたかもしれません。・・・ちょっとだけ成功していて本当は喜びたいはずなのに、私は怒ってしまったことはないだろうか。 この絵本を見て反省させられました。・・・ちょっとだけの成功を見落とさずに、しっかりと褒めてあげないといけない。 そして一緒に大喜びをしないといけない、と私はそう決心しました。」

平山小雪?さんから「ちょっとだけ」と言う絵本を読んだ感想。

7歳の娘さんと赤ちゃんとの関係を伝えてくれました。 お母さんが赤ちゃんに取られてしまっていてひがんでいる。  なっちゃんが隣の友達のお母さんから声を掛けられる場面。「なっちゃんね、赤ちゃんて可愛いでしょう。」  なっちゃんはためらいがちにうなづく。 平山小雪?さんは7歳の娘さんに「なっちゃんはどうしてちょっとしかうなづかなかったのかなあ。 なっちゃんの気持ち判る。?」と聞いたそうです。 7歳の娘さんははっきりと「判る、凄く判る。 なっちゃんは本当は厭なんだよ。 凄く我慢しているんだよ。」といったそうです。 

絵本の読み聞かせは、親も学びの場なんだという事を気付いて、親子で成長し合うという事に気付く必要があると思います。 

中高年層になった時にもう一度絵本を読むと、新しい気付きや発見がある、という事を訴えています。 子供の頃のみずみずしい感性がいつの間にかなくなってしまっている。    でも取り戻せないものではない。 それは絵本です。 高齢者のグループに3冊の絵本を持って行って3グループに分けて読んで語り合ってもらいました。 想像以上に内容が濃かったと言っていました。 「おじさんのかさ」 作:佐野洋子                  大事な傘なので、雨が降っても濡らさない。  公園で雨がパラパラ降って来て、男の子が来て「おじさん、傘に入れて。」と頼んでくるが、そっぽを向く。  女の子が来て傘に入れてあげると言って、相合傘で歌を歌いながら行きます。・・・ おじさんは「雨が降ったらポンポロロンと言いながら、傘を開いて雨の中に入って行きました。・・・家に着くと奥さんが「貴方 傘が濡れているわよ。」と言いました。 

「おじさんは傘と共に心を開いたのだ。 こういうコミュニケーションの極意を語り合っていました。 このメンバーはもう一度みんなで音読したそうです。 一冊の絵本を仲立ちにして、過去を語り未来を見つめ、人は心豊かに繋がるのですね・・・。 傘を開く時、心を大きく開こうと深呼吸をして出かけました。」  今日も心を開いて前向きに生きてゆく、その一歩を踏み出そうと、そんな傘を開く気持ちと言うものを、ちゃんと一冊の絵本から読み取る。 いろんなモチベーションを絵本からくみ取って、日常生活が変ってゆくという、栄養剤、刺激剤になってゆく、そういう力を絵本は持っている。

子供は大人が考えている以上に柔軟な感性を持っていて、自分に重ね合わせて自分自身を変えて行ったり、心に成長に繋がる考え方を持ったりする。 大人の絵本を介していろんなことを学んでそれぞれの生活、人生が変わってゆく、とても素晴らしい力を絵本は持っている。





 

























2024年4月25日木曜日

小林照子(メイクアップアーティスト)   ・〔私のアート交遊録〕 肌の記憶を呼び起こす

 小林照子(メイクアップアーティスト)   ・〔私のアート交遊録〕 肌の記憶を呼び起こす

子供のころに見た舞台で役者が化粧によって変身する姿に感動し、舞台メイクの仕事を夢見て上京します。 保険の外交をしながら夜間の美容学校に通い、23歳の時に化粧品会社に就職、販売員として主婦を相手に腕を磨く中で、化粧は女性を内面から元気にする力があるという事を知ったと言います。 その思いが肌の奥に潜む美を追求する身体化粧の原点となります。 美容部員から女性初の取締役に就任、その後独立し美容ビジネスの経営や後進を育てる学校運営にも乗りだします。 一方で小林さんが長年取り組んできたのが、人の身体に化粧を施し、肌の奥に秘められた美を探求する身体化粧、身体に優しい化粧品で全身に絵を描き皮膚と一体化させる唯一無二のアートワークです。 私が描いた絵は元々肌が持っていた記憶ではないだろうかという小林さんに追い求める美の世界についてお話を伺いました。

メーキャプと言うのは本来、清潔にするとか、衛生概念と言ったものから始まるんです。  そこから礼儀みたいな、人様にいい姿を見せようとか、メーキャプに発展してゆきました。  男性用化粧品とか男性向け美容講座も開いています。  自分自身のモチベーションを上げるのにとっても必要なものですね。 ニューヨークなどに行くと、個性をきちんと表現しないと生きていけないぐらいのキャリア―ウーマンはいっぱいいました。  演劇の世界に行くには勉強になると思いました。  

日本も変わって来ました。 ビジュアルな時代で、見た目で判断されると言う事をみんな知っているわけです。 思春期に直観力が出てきて、自分を見せたい、自分がどう見られているのか模索するのが、思春期だと思います。 直観力を押さえてしまうという事が日本のあり方だった。 本能として自分を表現するという本能があるんです。 美意識を持ち続けつつ、養いつつ高等学校の勉強をする、大人になるための勉強をする、それが私の学校の方針です。 人間は社会性のある動物なので、人とのコミュニケーションの中に表情、声は凄く大事なことだと思います。

貧乏だったので手に職を身に付けたかった。 演劇の裏方になると決めました。 キャラクターを作ることがとっても面白かったです。 扮装のプロになりたいと思った。(当時はメーキャップと言う言葉はなかった。) 保険の外交員をアルバイトとしてやって、夜に美容学校に行きました。 当時は皮膚の病気が一杯あって、伝染病学、感染学を学びました。 メーキャップアーティストになるためには化粧品会社がいいと思ってコーセーと言う会社に入社することになりました。 山口県に派遣されました。 本人も気が付かないナチュラルメークをするんです。 お顔を借りてメークするうちにどんどんお客様が増えました。 2年間山口県に通いました。 手の感覚が顔の肌と接して、人との縁が深くなるとか、そういったことに繋がるわけです。 家庭内のごたごたなども話してくれて、気持ちもスッキリしたという事もあり、私にとってもいい勉強になりました。 これも手の力だと思いました。

ヒット商品を沢山作れたことは、ラッキーだったと思います。 ヒットキャンペーンも考えることが出来て、上司も許してくれて、やりたいように進めることが出来ました。 ルックスキャンペーンで大成功しました。  45歳で辞めようと思っていましたが、50歳で女性で初めて役員になって、社長からは「あんたは何でも初めてのことをやるんだから。」と言われました。 私の目標は舞台のメーキャップアーティストになるという事なので、時代も変わって演劇集団も規模が大きくなり、100人程度のメーキャップが必要になり、学校を作ることにしました。 独立することになりました。

人間の生身の身体をキャンバスにして表現する身体化粧に挑んでいきました。 ビジネスにはならないものです。 顔から身体に延長させてゆくことは綺麗なんです。 一糸まとわない身体の化粧という事でやりました。 評価されてメイクアップアーティストになって行きました。 消されてしまうので儚いです。 写真家の藤井秀樹さんとの出会いがありました。 日曜日美術館からのお話があり動画にも挑戦しました。

10代で直感的に思った夢を、常にコツコツとやってきて、いろいろ成功してきて、自分がやってきていることは、人のモチベーションを上げることだけではなくて、自分の夢を成功に導いてゆくような凄いものなんだなと思えるようになりました。 真っすぐ進んでいるうちにチャンスが向こうから来ると言った感じです。 自分を見つめる目、芯のようなものがあり(揺るぎない直感)、それを追及している時には味方してくれる、そこからそれようとした時にガーンとした事故がある、そんなふうに思って、気付かされることをずっと感じています。 

身体化粧を75歳までやって、そこから彫刻をやりました。 彫刻は昔からやりたかった。彫刻をやることによって、それがヒントとなり大ヒット商品を発明する事ができました。 彫刻に蜜蝋を塗る事から、顔にと言うクリームが大ヒット商品になりました。 

自分を大事にするという事は人を大事にする、愛する、練習です、と言う風に思っています。  フリーダ・カーロアンリー・ルソー奈良美智の描く顔の絵が好きです。









2024年4月24日水曜日

坂嵜潮(個人育種家)           ・〔心に花を咲かせて〕 人は育種の名人というけれど

坂嵜潮(個人育種家)        ・〔心に花を咲かせて〕 人は育種の名人というけれど 

坂嵜さんは世界的に有名な育種家で、最初にその名前を知られたのはペチュニアの画期的な新品種を作ったことでした。 ヨーロッパを席巻したとまで言われたその花の爆発的なヒットは、今でも語り草になっています。 その後もこれまでにない花を作り出し、ガーデニングの世界を変えた人とも言われます。 坂嵜さんの育種はどんなもので、いかにして世界的な育種の名人になったのでしょうか。 そもそもなぜ育種世界に入ったのでしょうか。 

交配をして新しい品種を作るという仕事です。 花の育種は普通は温室のなかに素材があって、その中から親を選んで交配をしてゆくことですが、私が常に心掛けているのは、野生に存在している草花、その自然らしさ、力強さをなるべく生かした品種が出来るように努力しています。 人があまり手を加えると人工的な花になってしまうので、手を加え過ぎないように努力しています。 

ペチュニアを沢山花を咲かせて丈夫な花にして「サフィニア」と言う名前をつけ、ヨーロッパ中に広がりました。 それまで使われていなかった野生種を交配して、野生の血が半分入ったようなペチュニアを作ってみたら、凄く元気で病気にも強くて生き生きとした力強い品種が出来ました。  今までは温室の中での交配をしてきていました。 

大学を卒業した時には、果樹と野菜の栽培の研究室だったので、ブドウを生産してワインを作るというような研究室に就職することになりました。 1984年ごろにブラジルでワインを作るというプロジェクトがやられていて、その研究に行ってくれと言う話がありました。 1年半で上手くいかずに止めることになりました。 道路を走っていたら道路わきに ペチュニアの原種でした。 日本に持ち帰って品種改良のスタートをしました。  当時はバイオテクノロジーブームでした。 京成バラ園芸との共同研究チームが編成され、新品種づくりがはじめられることになった。  そして「サフィニア」ができました。

それまでは品種改良は全然やったことはありませんでした。 プロジェクトを立ち上げた育種家が薔薇の育種家の鈴木省三さんが向こうのリーダーで、面白いから一緒にやろうという事になりました。日本に帰ってからはワインの研究からは外れました。 1986年の春に始めて、実際の交配の仕事は千葉の方でやって、一番いいものを選ぶ意見が鈴木さんとぴったり合いました。 選ぶよりもいかに捨てるかが難しいです。

ヨーロッパではバルコニー、窓辺にプランターを置いて育てるというのがポピュラーです。 ゼラニウムと言う植物が一般的でした。 それに代わるものとしてペチュニアが入ってきました。 「サフィニア」が沢山窓辺を咲かせました。 

「カリブラコワ」、ペチュニアの小さな花も作りました。 原種を集めるところからスタートしました。  世界中で植えられるようなポピュラーな植物になりました。 育てやすくて、花は小さいが物凄く沢山花が咲きます。 鮮やかな黄色、オレンジとか花の色のバリエーションではペチュニアをぬいてしまいました。 

この原種が欲しいというのは文献などで調べて出かけますが、行けば必ず出会っています。 もう40年近くやっていて学びの旅ですね。 めげたことは山ほどあります。 10ぐらいのプロジェクトで計画を立てて、ちゃんと前に進むのは1割もないですね。 

45歳で独立しました。 大学3年の時に休学してドイツに留学しました。 父親から若いうちに海外に行ってこいと言われました。 ペチュニアを介して海外の人との交流も増えていきました。  ワクワクするような新しい品種が欲しいという事は変わらないので、自然らしさが感じられるような品種を作って提供できればいいなあと思います。 

2018年 世界的に権威のある「チェルシー・フラワー・ショー」でゴールドメダルを取りました。 枝垂れるような枝に一杯花が咲く紫陽花。 或る程度はそのイメージは考えていました。 でも出来ちゃったという感じです。 四国の山で野生の紫陽花を見つけました。 交配して作ってみたら吃驚しました。 3年ぐらいで最初の花は咲きました。出会った時にポッと引き出しから出てきてくれる。 引き出しを多く持つという事はプロとして一番大事です。 

自分の考えに基づいて品種改良は進めるわけですが、組み合わせを進めて行くと新しい性質のものが突然飛び出したりして来て、自分が全て品種改良を出来ているみたいな、万能感みたいなものを持つことが時々あるんです。 それは凄く幸せな感覚です。  逆に植物に利用されているみたいに思う時も感じます。 植物は人間を利用して進化している、と言う考えもあるんです。  自然の中にある力を尊重して、その中にある多様性を引っ張り出していこうというようなことを考えています。

自分の価値観で改良を進めてしまうと、やはり人工的になってしまう。 そこを繋ぐような仕事をしたいと思います。  人間が自分たちのアイディアに基づいて、人工交配で品種改良を進めるようになったのは、1800年代の中ごろだと思います。       父は植物園の関係の仕事をしていたので、日本の厳しい気候のなかでも育つ熱帯花木にはどういうものがあるのか、それはどういう風に使えるのか、と言う本をみんなでやったんだと思います。 父は76歳の時に「日本で育つ熱帯花木植栽辞典」を出しました。  10年以上かかっているかもしれません。  

まだ使われれていない新らしい品種を捜して、感動してもらえるようなものをもう一つ二つ作っていきたいと思います。  良いことも悪いことも必要だから起こっているという風に考えて、悪いことも必要な事として起こっていて、それを乗り越えてゆくために起こっている、と言う風に感じています。 受け入れるという事だと思います。









 




 




















2024年4月23日火曜日

若林秀真(鋳物師)           ・天明鋳物、千年の歴史を次世代へ

若林秀真(鋳物師)           ・天明鋳物、千年の歴史を次世代へ 

天明鋳物は栃木県佐野市で生産が始まったとされ、江戸時代にかけて茶の湯の釜や農具、生活用品などが盛んに製作されました。 若林さんはこの1000年以上ある天明鋳物の鋳物師として、日本有数の寺院の鐘などを手掛けてきました。 製作活動と併せて2007年に天明鋳物伝承保存会を設立し、保存や普及の取り組みをしてきたなどが評価されて、今年3月に国の重要有形民俗文化財に指定されました。 先祖から受け継いだ技術や道具を次世代につなげたいという思いを伺いました。

現在製作している天明鋳物の釜です。 大きさが30cmぐらいのコロンとした形で荒れた肌です。 新しい釜で漆を焼き付けています。 お湯を沸かすと「松風」という音が出てきます。 お湯を何回も沸かして臭いを無くしてゆき、肌合いだとか生き生きとしてきます。  もう一つここに室町時代の天明釜があります。 自然と肌が荒れた様な感じになっています。 形が変わっていて二段構えの様になっています。  「尾垂釜」と言って、上半分が室町時代のもので、下の部分が新しく作ったものです。 長く使っているとそこが痛んできます。  尾垂という特殊な方法で今でも使えるように作っています。  信長、秀吉、家康公などが天明の釜を使ったという記録あり、特に秀吉公はよく使ったという事です。 天慶2年(939年)に平将門の乱を鎮めるために、河内の国から藤原秀郷公と共に鋳物師5人を長とする人たちが佐野に住みついたという事が始まりと言われています。 連綿と続いてきています。 今は数軒になってしまっています。 

鋳型を作る為の材料の砂(先祖代々繋がっている砂)があります。 砂をふるいでふるった後に粘土水を加えて、固めて鋳型を作ります。 二つ一組になっていて、茶釜でしたら鋳鉄を溶解して鋳型に流し込みます。 祖父が使っていた炉があります。(高さ5mぐらい) 一回の溶解で2トンぐらい作ります。 燃料は木炭です。 1400℃、1500℃にあげるのは至難の業です。 今はコークスを使っています。 昔は風を送るのにも「たたら」「ふいご」で大変な作業でした。(今は送風機でスイッチ一つですが) 100%うまくいくかどうかわからないが、流し終わった後に鋳型を壊して、作品を取り出し、仕上げの工程に入っていきます。 壊した鋳型は細かくして再利用します。 数週間かけて作った鋳型に数秒で溶解した鋳鉄を流し込むので、そこで作品がうまくいくかどうかが決まります。 最終的には自分の目とか肌感覚になります。 

父親の彦一郎から自然と教わりました。 28歳の時に父が亡くなりました。(10年間の修行)  自分の鋳物の作品を通して、何かほっとすろとか、元気を貰うとか、そういう作品が出来ないものか、と言った事を思っていました。  今でも変わらないです。    奈良東大寺の大仏釜、大原三千院神殿の鐘などにも作品を納めています。 三千院では薬師如来像で、お経を取り込めないものかと思って、鐘の内側に861文字のお経の一部が鋳込まれています。 その技術は最初自分でもよくわからなかった。 完成まで3年かかりました。 作り方はふっとまどろんでいたなかから考えが浮かんできました。 直径1cm程度の粘土キューブ(立方体)を作って、そこに一文字一文字のお経を薄い和紙に写して、粘土キューブ(立方体)の表面に水を付けて貼って、細いヘラで押してゆきます。 へこんだところに鋳物が流れてゆくと出っ張るわけです。 複雑な文字もあるので大変でした。 音と共にお経が広がってくれたらいいなあと思います。 

2007年に天明鋳物伝承保存会を設立しました。 先人が守ってきた技術があってこそ、いま我々が仕事をさせていただけるので感謝しかないです。  父の残してくれた鋳造道具などを含め伝えてゆくためには、どうしたらいいかという事からスタートしました。    今年3月に国の重要有形民俗文化財に指定されました。  最初は従兄弟と二人で始めましたが、現在は150人ぐらい会員がいます。  1556点が指定されました。  家にあったのが1473点でした。 指定してもらう報告書の作成が大変でした。 電子化も必要でした。(ソフトもなかった。)  ボランティアの方々の応援もあって17年間やってこられました。 

小学6年生が鋳型を作って、持ってきた鋳型にスズの溶解を自分で流し込んで作品つくりをしています。 ものを作る人間はものを大切にします。 息子が8年間修業をして、帰ってきて一緒に仕事をしています。 彼の感性のなかで、いろんな場面に出会って、いろんなスイッチを入れて、伝統に、歴史に繋いでいって欲しいと思います。 























  

2024年4月22日月曜日

石垣征山(尺八奏者)          ・〔にっぽんの音〕 能楽師狂言方 大藏基誠

石垣征山(尺八奏者)          ・〔にっぽんの音〕 能楽師狂言方 大藏基誠

 1981年東京都出身。(42歳)  三味線奏者の尾上秀樹さんとの音楽ユニット「HIDE✕HIDE」の活動は15年以上にわたる。 ゲーム音楽の作曲、演奏も手掛けるなど幅広く活躍しています。 

元々ゲームが大好きです。 2009年ぐらいからゲーム音楽のコンサートにゲストとして呼んでいただいて、それがどんどん進んで、今はゲームの中の音楽の収録をさせていただいたりアレンジしたりしています。 有名なのが「モンスターハンター」とか「スーパーマリオン」とかあります。 父親が尺八奏者初代石垣征山、母親は琴の演奏家洗足学院音楽大学名誉教授の石垣清美です。 子供用の尺八はないので、指が大きくならないと穴がふせげないので、やらなかったです。  家では尺八、琴の音が鳴って聞いていました。  中学2年ぐらいまではお琴を年に1回やるぐらいでした。

中学2年でオーストラリアへの海外派遣の話があり、どうしても行きたくて尺八での文化交流という事を訴えて、面接を通ることが出来ました。  その後父に尺八を教えてもらいました。 「さくらさくら」を覚えていきました。 オーストラリアにも有名な曲があるのでそれも覚えて行きました。(「ワルチング・マチルダ」(Waltzing Matilda))

「ワルチング・マチルダ」 

帰国後も3年間は尺八は全く触りませんでした。 高校2年で進路の問題があり、尺八で芸大を受けたらどうかと母親に言われました。 芸大に入ることが出来ました。 大学2年の時に父が癌で亡くなってしまって(51歳)、父親の関係の周りの人から母親と一緒に演奏をするという話を頂き、いろいろなところに呼んでいただきました。 父親への恩返しは尺八を吹いて演奏したり、尺八を世に広げてゆくことと思いました。 もともとはお坊さんがお経に代わりに尺八を吹いていたと言われます。 27歳ぐらいで父親の名前を襲名しました。 

*「サウザンド・ナイブス」 演奏:HIDE×HIDE

どの音色を選択するか、どの音色を出すかという感覚が歌に限りなく近いという、自分のやりたいものが表現しやすい楽器だと思います。 骨格によっても音色は違う、同じ楽器を使っても音色は違ってきます。 オリジナルをやりますが、尺八らしさは生かしたい。   古典も大事にしたいと思います。  古典も勉強しないと説得力がなくなってしまうだろうなあと思います。 

尺八は見た目にはめちゃくちゃシンプルな楽器です。 ここの3本の尺八がありますが、一つは古典の真竹、もう一つはプラスチック製、もう一つがメタルで出来たもの。 竹は割れたりするが、プラスチック製、メタル製は周りにメンテナンスする人が居なくても、海外の方が安心して持てると思います。

*3本を吹いてみる。(判別が難しい) 

プラスチック製は軽い感じ。 メタル製は広がりが少ない。 竹製は広がりふくよかさがある。(石垣征山、談) 

*タイトル「音の簾がかかる社」  琴と尺八の二重奏曲 作曲:石垣征山 尺八:石垣征山 琴:石垣清美

〔にっぽんの音〕とは「間」、だと思います。 向こうの人が一番驚きをもって喜んでくれるのは「間」の感覚だと思います。 「間」の空気感が日本らしいなと思います。    自分が面白いと思う事をやってゆきたい。  ライブを月に一回やってきて10年になります。












2024年4月21日日曜日

加藤文俊(慶応義塾大学環境情報学部教授)・〔美味しい仕事人〕 「食」でつながる~カレーキャラバンの試み~

 加藤文俊(慶応義塾大学環境情報学部教授)・〔美味しい仕事人〕 「食」でつながる~カレーキャラバンの試み~

仲間と一緒に全国を訪ねて、その場でカレーを作り集まってきた土地の人たちに食べてもらうと言うカレーキャラバンに取り組んできました。 2021年からはじまったキャラバンは80回に及びます。 カレーの香りに誘われてやって来る人、食材を無料で提供してくれる人、美味しいカレーを作る為のアドバイスをしてくれる人など見ず知らずの人たちが、カレーの鍋を囲んで会話が始まります。 カレーを味わう、そしてコミュニケーションを味わう場所が出現するというこの取り組みはコミュニケーションの場を生み出す活動として2015年度グッドデザイン賞を受賞しました。 コロナ感染予防のためしばらく活動を自粛していましたが、今年 はカレーキャラバンの活動を再開したいと語る加藤さんにお話を伺いました。

カレーを作っていると皆さんが寄っていらっしゃるので、カレーがあるという事で皆さんリラックスしていただいて、町のこととか将来の事を話していただけるので、結果として行く先々のことを勉強させていただくような、そういった活動にはなっています。 最初は内輪でカレーの会をするという事でした。 香りに誘われてお話をする場面が出来て、カレーの力を実感したんじゃないかと思います。  町とか暮らしに興味を持っていました。  場の力の流れからカレーキャラバンが始まりました。  墨田区の曳舟、スカイツリーのふもとあたりの古いけど活気のあるキラキラ橘商店街があって、地元の方と街歩きをしたり、巻き込みながら活動するという事をやっていまして、ご当地B級グルメを作ろうかと言う話から始まって、墨東カレーを作ろうという事になりました。(商店街の中) 

アドバイスを頂いたり掛かわって来ていただいて、面白さを感じました。 2年半ぐらいは足を運びました。  初対面の人ともコミュニケーションもカレーがあると違います。   無料でキャラバンをやっています。 当時はメンバー3人で5000円ずつ出し合って、材料を買って、「赤字モデル」と言って作っていました。  或る人が「一回のみに行けば5000円ぐらい払うでしょう。」と言ったんです。 「趣味にはもっとお金をつぎ込んでいるでしょう。」と言われました。  「楽しくカレーを作って人との出会いがあるのだから、飲みに行くのと同じではないか。」とさらっとと言ってくれて、浄化された様な気持ちになりました。 ボランティアとも違います。 

市販のルーは使わないという事を決めました。(スパイスカレー) タンドリーチキンも作りました。 道具立ても行いました。  朝から始めますが、夕方になるころに完成します。  居心地のいい時間と場所が出来上がります。 大田区鵜木と言うところでカレーを作った時に、そこでは知人がギャラリーを開いていて、近くには多摩川があり食べられる植物が一杯あり、それを摘んでそれも加えて作ったのが印象的でした。  身の回りにある食べられる植物を発見できた面白かったです。  初めての人とも共通体験が出来ました。 

杉並区で作った時に、出来あがるころにたくさんの人が集まって来ました。 作っているところは私有地でいいのですが、道(公道)に行列が出来て、そこの際を盛り上げたという事があります。(食べたところがプライベートとパブリックの際の場所) 昔はあいまいな場よ、空き地が界隈にありました。 今は空き地があっても囲われていて入れない。(個人の空き地、工事用地など)   今回のところは空き地のイメージがしました。(一時的、精神的な「共」の時間と空間)  コロナ禍は空き地と言う発想は許されなかった。   「共食」は明るい方向に向かわせてくれるのかなあと思います。 





















2024年4月20日土曜日

篠田大輔(スポーツ事業会社代表)    ・防災はスポーツで覚えよう

 篠田大輔(スポーツ事業会社代表)    ・防災はスポーツで覚えよう

篠田さんは災害時に怪我をした人を救助したり、障害物を避けながら物資を運ぶなど、被災した時や避難生活に入って時に必要な動きをスポーツ化した防災スポーツを各地で実施しています。 その原点は兵庫県西宮に住んでいた中学生の時に経験した阪神淡路大震災です。 避難所生活の中で不慣れな作業を数多く経験し、日常的にこうした動きを身に付けておくことが大切と痛感したことが現在の活動に繋がっています。 自らの被災体験から生まれた防災スポーツの取り組みについてお話を伺いました。

小学校から高校まで西宮で過ごしました。 中学校1年生の時に阪神淡路大震災に遭いました。地響きの音に目が覚めて 、地震が来て大きな揺れを感じ、布団をかぶって揺れのおさまるのを待っていました。  家具などが倒れていて大惨事だと気付きました。 両親と3人兄弟でしたが、皆怪我はありませんでした。 夜が明けて倒壊している家屋もありました。 幸い火災はありませんでした。  コンビニへ行って買い物をして小学校の避難所に行きました。 体育館だけでは入りきれなくて、交渉をして教室も解放してもらいました。夜になって電気通じてテレビを見ることができました。  火事の様子とか広い範囲での被害状況を目の当たりにしました。 プールの水をトイレに運びました。 当日午後には自衛隊の給水車が来ました。 当日はおにぎり二つが支給されました。 

その後スポーツで生かせるものはないかと考えた時に、災害防災にスポーツを組み合わせると何か提供できるのではないかと考えました。 大学を卒業してスポーツビジネスの世界に入りました。 ラグビー関係のチームのサポート、選手のマネージメントとかなどに携わっていました。 2013年に東京オリンピックパラリンピックが決まって、2014年に独立して会社を作りました。 スポーツイベントのプロデュースなどをしていました。    

防災対策にもスポーツの力を取り入れることによって、広げることが出来るのではないかと考えました。 スポーツは本来楽しむ要素もあるので、防災対策の入口にと言う思いもありました。 被災者の声を聴いてそれをスポーツ競技化できる要素は何か、と言うところから考え始めました。 ①一輪車で物を運ぶ、②低い態勢で移動できるか、③水難時の救助のための物を投げて的当てして引っ張るという事、④物資の搬送リレーのようなもの、⑤負傷者を搬送することを想定した毛布を使ってぬいぐるみの搬送、などいろいろ種目があります。 タイム競技として身体で覚えるという事で展開しています。 

スポーツの試合会場で一つのイベントとして、体験の場を設けてファンと選手が一緒になって行って、防災意識を高めて貰えればと思います。 防災のことを学ぶこともセットして、学校でやることもあります。  防災対策にもスポーツの力を取り入れることはまだまだ入り口だと思っています。 今後さらにそういった場を広げていきたいと思っています。










 

2024年4月19日金曜日

山崎幸子(三代目織元女将)        ・能登の美しさを手織りで発信したい

山崎幸子(三代目織元女将)        ・能登の美しさを手織りで発信したい      山崎隆(四代目織元)

創業130年余り、能登上布四代目織元山崎豊さん(64歳)と母親で三代目織元女将山崎幸子さん(88歳)です。 能登上布の特徴は軽くて薄くて細かいかすり模様。 昭和初期には石川県の麻織物が日本一になって120軒以上の織元がありました。 着物の需要の変化によって減少して、現在は羽咋市の山崎さんの工房だけが唯一の織元として能登上布を作っています。 1月の能登半島地震によって、工房の機械が壊れ断水するなど生産が一時ストップしました。 不安な気持ちで過ごしていた山崎さんですが、全国各地から励ましの声などが届いて大きな力を得たと言います。

幸子:今着ているものは40年ほど前にかすりもんでは初めて作りました。 着心地は涼しくて爽やかです。 

隆:私が着ているのは父用に作られたもので、私は15年ほど前から着ています。             上布と言うのは上等な麻織物という事です。 苧麻(ちょも)を原料にしたラミー(苧麻)と呼ばれる上質な機械紡績糸を使っています。 機械紡績糸は機械で糸がつぐまれていると言いう事です。 蝉の羽のように例えられていて、透け感、ひんやりと涼しく軽くてシャリ感のあるというのが能登上布の特徴で、夏を代表する着物の生地となります。 観劇とか食事会とか少し上品で特別なお出かけなどに最適です。 能登上布の特徴は手織りで織られた張りのある風合いと、能登独自の緻密なかすり模様、能登の風土に合った落ち着いた色合いです。

十字の細かい模様が布全体に織られています。(縦横2~3mmぐらい) 糸の段階で縦糸、横糸を先染めしています。 織ながらかすりの模様を作っています。 落ち着いた色合いになっています。 表面はコンニャク糊でコーティングされてるのでなめらかで艶があります。 簡単な縞とか無地で1か月ぐらいです。 難しいものだと半年以上かかるものがあります。  工程としてはおおざっぱに20工程以上あります。  細かく分解すると100工程ぐらいになります。 どの工程も手を抜くことはできません。

今年1月1日の能登半島地震で被害を受けました。 

幸子:外に出ようと思ったが歩けないんです。 やっと外に出て銀杏の木につかまりました。 窓ガラスが割れたり外壁が落ちたりしました。 

隆:私は当時は工房には居なかったんですが、夜3時間かかって工房に戻りました。 1階の織機は大丈夫でしたが、2階の作業場は糸の収納棚が倒れて、縦糸を巻き取る機械が壊れていました。  皆が無事だったという事が幸いしています。

織子の人たちも全壊、半壊などして、今でも不自由な生活をしている人が居て心を痛めています。  2週間断水したことは非常に困りました。

2月の頭から作業が出来るようになりました。 

能登上布の起源はおよそ2000年前に第十代崇神天皇の皇女が能登の地を訪れた際に、地元の女性に機織りを教えたという事から始まっています。 平安時代から麻を生産していたという記録が残っています。 江戸時代後期には滋賀県から職人さんを招いて染色技術を学んだと言われています。  昭和初期には石川県の麻織物が日本一になりました。 昭和30年ごろからレーヨンなどを織る自動織機が普及して、洋装化に伴い着物を着る人が減少して、織元が段々減って行きました。 昭和57年ごろにうち一軒だけになってしまいました。

幸子:昭和30年に嫁いできました。 日常に能登上布は着ていました。 この辺りはお嫁に行く時には必ず能登上布を一反持ってゆくと言う風習がありました。 お寺まいり、夏のお盆の時の盆踊りの時には能登上布を着ていきました。 祭事には10月でも着ていきました。 主人は横かすりばっかり作っていましたが、問屋から言われたりして、縦横かすりの技術を学んで、作り始めました。  私は上布を織るまでの準備の工程をしていました。 手形で来たので手元に現金が無くて困って、他の仕事として撚糸業を始めました。(横糸作り)  主人の父親が何としても続けるように言っていたので、一軒になっても能登上布を守って行こうという事は思っていました。 

隆:当時織子は70,80代のおばあちゃんしかいなくて、家業を継がなくてもいいと言われていました。 工学系の大学に進み就職は機械メーカーの電気設計の仕事を20年ほどしました。 父の片腕の職人さんが亡くなったのと、仕事上の関係もあり、家業を継ごうと思いました。  図案を描いたりという事ついては前の仕事が役立ちました。  現在16名の織子さんがいます。 半分は県外から来ています。  以前は自宅で機織りをしていましが、 今は工房に織機を設置しています。  

7年前の会社を興した際に、営業と広報を担当として姪を会社にひきいれました。 能登上布の技術の継承もしています。  能登自身の後、全国各地のいろいろな方から励ましのメッセージを頂きました。  

幸子:一軒だけ続けてこられたのは誇りに思っています。 皆さんの支えがあったからこそです。 若い方が伝統産業に関わりたいと言って来てもらえたのは嬉しかったです。

隆:この仕事を始めて20年になりました。  44歳で転職してよかったなと思います。  若い人のお陰で世代交代、技術の継承が出来てきたことが有難いと思っています。

幸子:何とかこの工房を続けて行って欲しいと思っています。 能登上布は素敵な織物だと思っています。

隆:能登の美しい自然とか、能登固有のものをかすりで表現したいなあと思っています。  能登半島には伝統産業が沢山有ります。  能登全体が元気になって欲しいと思います。















2024年4月18日木曜日

毛利衛(宇宙飛行士/科学者)       ・〔わたし終いの極意〕 ミッションは“挑戦”、そして生き延びること

毛利衛(宇宙飛行士/科学者)  ・〔わたし終いの極意〕 ミッションは“挑戦”、そして生き延びること 

今年76歳になった毛利さんの歩みは挑戦の連続です。 大学の教員から宇宙を目指し1992年スペースシャトルエンデバー号に日本人科学者として初めて搭乗、宇宙実験を行いまいた。 2000年にはエンジニアーとして再びエンデバー号に搭乗、地球観測を目的としたミッションを成功させます。 同じ年の秋には日本科学未来館の初代館長に就任、20年に渡って科学技術の未来や可能性を開く取り組みを続けました。 2度の宇宙飛行が毛利さんの人生観、死生観にどう影響したのでしょうか、又次なる挑戦はどんなことでしょうか。 

日本科学未来館の館長をしりぞいて、3年あまりです。 水にまつわる活動をしている方々を見つけ出して、表彰するという「日本水大賞委員会」の委員長をしています。 宇宙記念館の名誉館長もしています。 後輩の宇宙飛行士の助言とかお手伝いもしています。 一昨年小澤征爾さんと「ワンアースミッション」という宇宙と音楽という事で行いました。 オーケストラの音は楽器が様々あって、様々な音を宇宙飛行士の元に届けるという事は難しい技術が必要です。 それが小澤征爾さんにとって最後の指揮になりました。 

何のために私は今宇宙にいるのかという事を考えました。 人間の様々な活動は、ひょっとして人類、地球生命全体を集団として生かそう、未来へつなげようとする力があるのではないかという事で、それを考えた時に科学技術で何でもコントロールできるというような風潮があるが、科学技術、音楽、スポーツ、政治、宗教などが全て未来へ集団として人類が生き延びるための一つの知恵というか、そういう風に捉えた時に、「総合智」私たち人間社会がが未来へ向かって生き延びるための知恵、すべての文化が大切なんですよと言う見方、未来館では出来るだけいろいろな文化を取り入れると同時に、地球の温暖化など未来とのかかわりが重要で、限りある地球のなかで人類が生き残れないのではないかと、宇宙に行ってもろに感じました。 地球にも極限のところがあり、南極,深海があります。 極地に住んでいる生命もきちんと環境問題を含めて扱う必要があります。 現場に行って伝えようと思いました。  

1957年に世界地球観測年が決められ、日本は南極に初めての基地を作ることになりました。 アメリカやソ連では宇宙から地球を見ようという事で人工衛星を初めて飛ばしました。(1957年) そこで新しい時代が来るんだと思いました。 1961年ソ連はガガーリンを初めて宇宙に飛ばしました。 「地球は青かった。」と言う言葉に、どんな青さなんだろうという不思議さが宇宙に興味を持たせてくれました。 兄たちも天文少年でした。 母も星などに興味を持っていました。  母は「自分はハレー彗星が一番近づいた1910年に生まれたので、又ハレー彗星が近づく1986年に帰っるんです。」と言ったんです。 ハレー彗星が近づいた1986年1月28日に母が亡くなりました。(76歳) 僕は誕生日が1月29日ですが、母親が亡くなって数時間後にスペースシャトルのチャレンジャー号が爆発したんです。 日本で待っていましたが、爆発のことは知らされませんでした。(宇宙飛行士に採用されてから3か月後)

若いころ交通事故で即死のような状況でしたが、なんでもありませんでした。 ヨーロッパに行った時に飛行機事故に遭って、エンジンが爆発して火事になりました。 サッと出口から出ることが出来て助かりました。 2度の死んでもおかしくないような事故を経験して、自分には運がいいんだと言うような信念があります。 爆発事故があっても怖いという発想はなかったです。 未知だから面白いと思います。 2003年にコロンビア号が帰還するときに爆発しました。 そういったことを理解して、宇宙に飛ぶときには遺書を書いていきます。 1992年、2000年の2回宇宙に行きました。 仕事をするミッション、その中に細胞培養実験がありました。 宇宙での細胞ぼ培養の仕方を顕微鏡で見て写真を地球に送るんですが、疲れてふっと窓から地球を見たら、細胞と似たような形に見えたんです。 「繋がっているんだ。」と言う気持ちが出てきました。  地球が一つの生き物であるかのように感じました。 

二回目は3次元の立体地形図を作る為に絶えず地球を観測する仕事でした。 ずっと見ているうちに、「地球って本当に宇宙に浮かんでいるんだ。」という事が判ったんです。(知識では判るが感覚では判らない。) 地球みたいな星は宇宙には沢山有るのではないかと思って、宇宙人は本当にいるなと思いました。 

NHKの「生命40億年の旅」と言う番組のの説明する仕事をしました。 「恐竜は絶滅したのか?」ということについて、絶滅したのではなくて鳥になったんだよ、と。 当時は鳥になったという証拠はありませんでした。 解説をしていて何故羽根を持ったのかなと思いました。 私の解釈は羽根を持ちたかったからじゃないの、飛びたかったからじゃないのと言う結論に達した時に、何故自分が宇宙にいきたかったのかということが判って、腑に落ちました。  遺伝子に書き込まれている事だけが全てを決めるのではなくて、意志の力でも変わるのではないかと思いました。 個の意志だけではなくて、種の意志、未来へ生命をつなげようとする種の意志があるのではないかと思います。 

環境問題、人間はほかの生命に対して責任を持たなければいけないなと思いました。 生物が多様性で可能性を自然に対して持てるという事と、自然環境をどうやって守ってゆくか。 人間が今いなくなっても今世紀末には2度、3度上がってしまう。 地球の環境の限界が来てるのではないかと思います。 SGDs( Sustainable Development Goals持続可能な開発目標、そのためには相当自分たちの生活を変えなくてはいけない。 その貢献のために地域のいろいろなお手伝いをさせて貰っています。 

「未来智」、人間ばかりが生きているのではなくて、他の生命と一緒に生きるためにはどうしたらいいかという事を考える時代になっている。 スペースシャトル内では酸素と水素で人工の水を作って飲むんですが、まずいんです。 地球に降り立って空気、そして水を飲むと美味いんです。 地球まほろば、ここが人間が住むところで、長く住むのであればほかの生命と一緒に住むという事でないといけないと思います。 

能力にぎりぎり挑戦することは最大の喜び、それで駆け抜けてきました。  「モマの火星探検記」を出版しました。(サイエンスフィクション) ミュージカルにもなりました。  感動して泣いていて、舞台は凄いと思いました。 科学技術とは全然違う手法で人の気持ちを和やかにさせる。  運動と食べ物には気を付けています。 周りの人に役に立つような役割を持ちつつ、静かに段々消えてゆきたいと思います。 わたし終いの極意としては、「未来に繋がる命に期待する。」という事です。





2024年4月17日水曜日

坂上康博(一橋大学名誉教授)       ・〔スポーツ明日への伝言〕 剣道の未来のために

 坂上康博(一橋大学名誉教授)       ・〔スポーツ明日への伝言〕 剣道の未来のために

コロナ過で中断されていた全国のびのび剣道学校が去年11月、4年振りに再開されました。 1979年(昭和54)年に始まり、41回を数える学校は剣道の愛好者が集まり、互いの技術の向上を目指す研鑽会であり、自由に意見や疑問を交わす研究会でもあります。 この学校の運営委員会の代表を務めたのが坂上康博さんです。 坂上さんの専門は近代スポーツ社会史スポーツ科学で、福島大学助教授、イギリスウオーリック大学客員研究員、一橋大学教授として研究を続けてきました。 2020年にはのびのび剣道学校の講師員などと共著で「剣道の未来」「人口増加と新たな飛躍の為の提案」を上梓しています。

こちらが打とうとすると相手は竹刀でよけたり、身体をよけたりします。 よけるスピードが速いのでなかなか当たらない。 「隙」と言うのはどういった瞬間にできるのか、本当に一瞬なんです。 「隙」が見えたら間に合わない。 「隙」は未来にあると言う言い方をしています。 そこを見越して隙を作って打つ、と言うところが一番醍醐味かなと思います。  単純に「隙」は3つぐらい種類がある。 剣道に場合、面、小手、胴、突きの4つのうち、例えば面をよけようとすると、あとの3つが空いてしまう。 これを①「よけ隙」と呼んでいます。 ②「打ち隙」 打とうとする瞬間から打ち終わるまではキャンセルできない。 ここを仕留める。 ③「ぼけ隙」打ちませんよと相手に思わせながら本当は打つ。 あるいは完全に油断している瞬間。 こういったものを組み合わせる。 それを必殺技つくりと言ってやっています。 

全国のびのび剣道学校は昭和54年に始まり、昭和34年生まれなので第一回からやっています。(20歳) 高知大学で大塚先生が剣道の教室をやっていて、手伝ってほしいと言われて、剣道着に着替えたら、「今日から新しい先生が来ました。」と言われてしまってそれから4年間やる事になってしまって、その延長線上にのびのび剣道学校があるんです。   自分自身は中学1年生から始めました。  高校の先生になりたかったので、剣道の研究は最初から決まっていました。 武道を文部省が奨励したら、軍国主義とか冷たい反応があり、これはどういうことなのかという事で、剣道の歴史を調べてゆくきっかけになりました。 

2020年「剣道の未来」と言う本を共著で書きました。 剣道人口を増やしたいという思いがありました。 現状可成り深刻だと思います。 高校の剣道人口は1985年がピークで半分以下です。 有段者は148万人ぐらいで実際にやっている人は47万7000人。(2007年の調査)  有段者の8割は辞めている。 年齢構成では中学生以下が45%、高校大学生が15%、社会人は40%  深刻なのは中学高校生の若い世代が急激に減っている。(1/3ぐらいになっている。)  子供にとっては面白いサッカーなどが増えている。 剣道の魅了を感じなくなっている。(嫌われている。)  2008年武道を必修化する。 しかし減ってきている。 やり方、中身そのものを考えないといけない。 

300年前に竹刀と防具が発明され、その魅力が300年続いて来た。  痛くないような打ち方をしていて、戦場では使えないというような批判が出て来た。(実践向きではない。)  空手の寸止めに近いような打ち方をしている。 明治以降1945年まで戦争に明け暮れる時代が訪れる。 日本刀で捕虜を切ってしまうようなことが起こる。 戦後6年間GHQによって禁止される。 スポーツとして出発する。 楽しみ、技術の深さを知るという事。 日本の文化として強調するのはいいが、伝統と言うと変えてはいけないという風に受け取ってしまいがちになる。(制約を加えてしまっているのではないか。) マニュアルに従って細かいところまで教えているところが多いのではないか。 やり方を決めつけてしまうと新しいものは生まれてこないのではないか。 

「主破離」、最初は師に習う、次にそれを破って、そののちには離れて新しい流派を打ち立てる。 昔の言葉では免許皆伝になって新しい道場を開ける。 千葉周作とか、年代では30歳中場ぐらいです。  昭和初期になると「離」が無いですね。 「破」と「離」をよみがえらせることだと思います。 今は「主」しかないと思います。  チャレンジ出来るような剣道のやり方だと、子供たちはどんどん入ってきて、「鬼滅の刃」からの入口が、剣道増加につながるようになるんだろうなと思います。  真剣を扱っている人を10年ぐらい観てきましたが、座頭市の刀を逆手に持つやり方はありうると思います。 

剣道を53年続けてきましたが、のびのび剣道学校に関わっていなかったら辞めていたかもしれません。 自分の可能性を知ることが出来た。(今までの自分のやり方が違っていたことがわかった。)   使う筋肉を変えなさいという事で、使い方の設計図を変えることで、一番いいスピードも出るし、大きな筋肉を使うので疲れないし、怪我もいないというそういう世界があるという事を教えてもらいまいた。 40歳過ぎてからも足が速くなりました。 日本の伝統的な武術、身体技法の中に凄いものがあるという事を発見しました。 そういったものを取り入れてゆく。  フランスでは柔道人口は日本よりはるかに多い。(60万人ぐらい) 8割は子供で、子供の教育のための柔道を作り上げていて、海外から学ぶことも多いと思う。  剣道自体の歴史から学ぶことも大事だと思います。 足の運び方が全然違う子を見て吃驚しました。 そういったことを伸ばすようにしていきたいと思います。



















2024年4月16日火曜日

林与一(俳優)             ・役者って気持ちいい

林与一(俳優)             ・役者って気持ちいい 

1958年に大阪歌舞伎座で初舞台を踏んだ林さん、1964年にはNHK大河ドラマ「赤穂浪士」で堀田隼人を好演して、一躍スターダムにのし上がりました。 70年近く歌舞伎や新派など多くの舞台のほか、映画、テレビでも活躍し、1994年には第2回菊田一夫演劇賞を受賞しました。 民放のドラマ「必殺仕掛け人」やNHKでは大河ドラマ、「独眼竜正宗」、「八重の桜」のほか、朝ドラ「オードリー」「朝が来た」などに出演して人気を博しました。今年第45回の松尾芸能賞功労賞を受賞しました。 82歳とは思えぬ身のこなしと色気を放っています。 

今年第45回の松尾芸能賞功労賞を受賞しましたが役者をやっていてよかったと思います。  長谷川一夫の真似をしよう真似をしようと思っていて、教えていただいて真似をしていましたが、役者と言うのは真似から脱皮しろと言われました。 長谷川一夫は叔父になります。  東京に出て来た時に俺が預かるという事になりました。  曽祖父になる林又一郎(前名が林長三郎)の弟分で長二郎(長谷川一夫)になりました。(内容がわからない) 長谷川一夫からは寝ている人の起こし方から教わりました。(内弟子の心得をいろいろ教わる。 19歳)  

2022年の作品の映画、2024年に「むじな峠」が公開されます。 監督が戸田博さん。 円空の役です。 お坊さんの役は初めてです。 お坊さんに近いような生活をしながら撮っていました。 「その気になれ」と言われました。 そうすると画面に出たり、舞台でもそういう風に見えるからと言う教えでやりました。 

ユーチューブもやっています。 「与一チャンネル」 家では無口ですが、外に出ると話が出来るようにしています。(長谷川一夫の教え) ラジオ深夜便は大好きです。 僕は踏まれて踏まれて雑草のような生き方をしてきたので、叱られた事、ひっぱたかれた事は覚えていますから、それが肥やしになっています。 今は態度、言葉使いも気を付けなければいけない時代になってしまって、育ってゆくのかなあと心配です。  自分で知っていることをユーチューブで発信しています。

生まれが1942年、現在82歳。 初舞台は昭和32年に大阪歌舞伎座で今東光の「お吟さま」の大阪城に芸を見せに来る役者の役でした。(15歳) 変声期で困りました。 学校にはなかなかいけませんでした。 1964年NHK大河ドラマ「赤穂浪士」でしたが。19歳で長谷川一夫に居候して翌年でした。  NHKに長谷川と一緒に行った時に声がかかって出演することになりました。 原作を読んでおく様に言われましたが、大した役ではないだろうと思ってほっといておきました。 台本が出てきたら、かなりでるので、付き人が出来ないようならば出演をしませんからと言ったら、長谷川から烈火のごとく怒られました。 「俺の用をしなくてもいいから出るんだ。」と言われました。

舟木一夫さんが時代劇をやるんで教えてくださいと、長谷川のところに来ましたが、僕が担当することになりました。 どこで勉強してきたのか、立ち居振る舞いなど教えることは一つもありませんでした。  長谷川の芝居を全部見たと言っていました。 いまだに舟木さんとは大親友です。 

共演する女優の人には、「女の人をいい形にしてあげることだよ。どこに自分の位置をとったら相手がやりやすいか、いい形になるかをみてやりなさい。」と言われました。 それを念頭にやったものですから、共演する女優の人達からは、「与一さんとやると楽ね。」と言われましした。 相手がかっこよく見えれば、自分もかっこよく見える、長谷川一夫の哲学です。 美空ひばりさんと5年やってからやらなくなった時に新派に出てみないかと言われました。 最初に歌手の人との舞台は断ったのですが、長谷川から怒られて出演が決まりました。  いまだに、喜美枝(ひばりの母親)さん、ひばりさん、長谷川に怒られている夢を見ます。  舞台の役、演技に関しては8割がた美空ひばりさんです。 芸の指導もしてもらったりして、あの方は天才です。 長谷川一夫は勉強してたたき上げた人ですから。 喜美枝さんからはひばりさんと二人になる時など厳しく監視がありました。 二人になる時間は舞台の稽古の時でした。 

歌手の小川知子さんと結婚することになりました。 友達のような関係の夫婦でした。 仕事もお互い忙しかったです。 離婚して、別の女性と結婚して4人の子どもがいます。   芸に邁進できるようになりました。  芝居など忙しい毎日を過ごしています。      与一塾を月に一回日曜日に開始しています。  2年ちょっとになります。        














2024年4月15日月曜日

とり・みき(漫画家)          ・〔師匠を語る〕 小松さんは今、宇宙にいるらしい 師匠:作家 小松左京

とり・みき(漫画家)      ・〔師匠を語る〕 小松さんは今、宇宙にいるらしい 師匠:作家 小松左京 

とり・みきさんは1979年の新人賞で「僕の宇宙人」が入賞して漫画家デビュー、又一方では長年にわたってSF文学の巨匠小松左京さんの研究会「小松左京研究会」の創設メンバーの一人として、公私ともに小松左京さんの活動に寄り添って来ました。 小松左京さんは生前弟子は取らないと公言してきましたが、今回は学生時代から、長年にわたって小松さんの薫陶を受けたおひとりとして出演頂きました。 圧倒的な知性とユーモアで「日本沈没」「さよならジュピター」など執筆し、博覧会などビックイベントのまで務めた小松左京さんについての話を伺います。

小松左京さんに初めてお会いしたころは恰幅のいい巨体、トレードマークの眼鏡でした。  知識の大きさに恐れと言うか、畏怖を感じていました。 

小松左京さん、本名「小松実」さんは昭和6年(1931年)大阪で生まれます。 14歳で終戦を迎え、旧制第三高等学校に進み、そのころ「怪人スケレトン博士」と言う作品で漫画家デビューしたと言われます。 作家として世に出たのは31歳になってからでした。 京都大学在学中から同人誌などで小説を書いていましたが、昭和37年(1962年)SFマガジン10月号に掲載された『易仙逃里記』で作家デビュー、翌年星新一さんや光瀬龍達と日本SF作家クラブを立ち上げます。 「日本沈没」を刊行したのは1973年、テレビドラマ、ラジオドラマ、漫画、映画にもなりました。  まさに社会現象でした。 他にも「復活の日」「首都焼失」など話題作を次々に発表した小松左京さん、日本を代表するSF作家であるとともに、その活躍は多方面にわたっています。 

1970年の大阪万博ではテーマ館のサブプロデューサーを務め、花と緑の博覧会エキスポ90では総合プロデューサ-に就任、1984年(昭和59年)公開の映画「さよならジュピター」では原作、脚本、製作、総監督の4役を担いました。  NHKでも小松左京さん原作の少年ドラマ「宇宙人ピピ」、人形劇シリーズ「空中都市008」が1960年代に放送されて、未来への希望と科学の進歩の可能性を子供たちに示しました。  2011年7月小松左京さんは80歳で亡くなりますが、小松さんは宇宙に取材に出た、星になったと表現するファンも数多くいます。 

小松さんの作品に出合ったのは漫画作品でした。 小学校低学年の頃の本で読みました。  この人は小説家なのに漫画のことをわかって書いてくれる人なんだと認識したのが一番最初です。 小学校高学年から中学生で初めて小説と接するわけですが、小松さん、星さんなどの小説を読み始めました。 SF小説にのめり込んでSF専門誌なども読み始めて、或る日SF雑誌の投稿欄を見ていたら、「小松左京研究会」を発足しますというのを見ました。 その会合に出掛け小松ファンの人たちに会い研究会にはいりました。  発起人の土屋さんと僕とで小松さんの家に伺う機会が出来ました。(1978年夏)   

最初会った時にはガチガチに緊張しました。 大阪の人も小松さんが呼んでくれて、ハイレベルな冗談を言ったりしていてなかなかか会話に入れなかったが、ようやく楽団の話になって会話に加われるようになりました。  小松さんが「さよならジュピター」を作ることになり、東京に事務所を開くことになりました。(80年代初め) そこで我々も会う機会が増えました。 小松さんは色々なチャンネルを持っていて、ぞれぞれいろんなチャンネルに詳しい人を集めると自分もいろいろな話をできるわけです。 

1984年に刊行された「しまった」(とり・みき傑作選)の巻末の解説を小松左京さんが書いています。  タイトルが「時をかける漫画家」 「時をかける少女」が好きで話をしていたので、小松さんも理解していてくれて嬉しかったです。 1979年「僕の宇宙人」で漫画家デビューしました。  世のなかの流行を扱った或る作品を手がけていた時に、電話でお叱りを受けました。 もしかしたら思いあがっていたのかなと思いました。 後日お会いしてそのことを話したら全然覚えていないという事でした。(真意は不明。)  その後SF漫画を描き始めました。  

小松左京さんにとって、戦争体験は大きかったと思います。 それを独特な形で表されていたと思います。 SFのような形にすれば、あの時に起きた価値の急激な転換、倫理観、正義と言ったものが一夜にしてガラッと変わってしまうような不条理な思いを、描けるのではないかと思います。  デビュー作の「地に平和を」と言う作品がまずそうですし、その後の短編、長編にも通底するテーマだったと思います。  苦悩をダイレクトに出すのではなくて、エンターテーメントとして自分は出すんだと、それをずっとやられた方ですね。  小松さんは「小松研究会」の若い世代の人とも接して、新しい世の中のトレンド、ミーハーな事など最新の情報を、我々を通じて摂取されていたんだと思います。 

基本的にはポジティブな方だったと思います。 2011年7月小松左京さんは80歳で亡くなります。 小松さんの名前の付いた小惑星があるみたいです。 本当に星になったんだという感じです。 小松さんは巨大な人であるゆえに、孤独なところもあったようです。 常に宇宙と人間と言う事を考えていました。  宇宙と個人を対比すると、圧倒的に孤独なんですね。 チャンネルが沢山あって、一つ、二つのチャンネルでは話す相手はいるが、自分のチャンネルを全て理解してくれる人はいなかったんだと思います。  宇宙と人間とは一体何なんだろう、という事を何とか自分の文学で表現したかったのではないかと思います。 

小松左京さんへの手紙

「小松さんお元気でしょうか。 ・・・今頃どこを航行していらっしゃるのでしょうか。  宇宙を意識し、どうなっているのか知りたくて、そこへ飛び出していこうとする人類。 と言うところまでは自然科学者の、機械工学者の、あるいは哲学者も考える事だと思いますが、小松さんはそれらの分野にも精通しながら、更にもう一段踏み込んで、自分のことを意識し、観測し、知ろうとしている存在を生み出してしまった宇宙は一体人間のことをどう思っているのだろうと、主語を宇宙に置き換えて、話されていたのをよく思い出します。 その点文学者でありSF作家であったと思います。・・・小松さんの優しい笑顔に随分甘えてしまっていたと思います。・・・いまだに釈迦の掌で遊ばされているという風に思います。・・・山崎真理さんとの共作者がいて、完結した「プリニウス」と言う作品はお眼鏡にかなった作品かなと勝手に自負しています。・・・どうか今の地球にがっかりしてつぶしてしまったりしませんように。」
















2024年4月14日日曜日

勝木俊雄(森林総合研究所九州支所)    ・桜が伝える日本人の心

 勝木俊雄(森林総合研究所九州支所)    ・桜が伝える日本人の心

勝木さんは桜など植物分類の専門家です。 2018年には日本の野生種の桜としては100年振りの新種となった熊野桜の発見者としても知られています。 日本医は山桜などの野生種や、ソメイヨシノなど数多くの桜がありますが、その歴史を調べると日本人の愛したもの、求めたものが見えてくると言います。 

桜の分類と保全をやっています。 森林総合研究所は森林に関する有とあらゆる研究機関です。 木材のほかにきのことか、それから木材をどう利用加工してゆくのか、と言うようなこともやっています。 配属されたのが八王子市にある多摩森林科学園で、桜のコレクションの部門があり、桜を研究対象とするようになってから、桜の分類、保全に関わるようになってきました。 日本の桜は10種しかないんです。 ソメイヨシノなど栽培品種で種とは別の基準で区分したものなんです。 自然分類か人為分類かがあり、種の分類は基本的に自然分類で客観的な分類で、栽培品種はあくまで人が区分するものなんです。 形態とDNAを利用しながら総合的に分類していきます。 DNAの抽出は桜の場合には葉っぱを使います。 

栽培品種を中心とした分類体系を再編する仕事をやっています。 分類は、わけることと、ひとまとめにするのが類なんです。 桜はいろんな人がいろんな名前を付けてしまって、違う名前を付けてしまうと、違う名前で扱われてしまう。 「大原渚(なぎさ)」と言う名前の桜が京都植物園にあって、新宿御苑に「汀(みぎわ)桜」という名前の桜があり、DNAでクローン性を調べてみたら、同じクローンだという事が判りました。 汀(みぎわ)も渚(なぎさ)も同じ意味なんです。  大原にも汀桜があるらしいと判ったんです。 

平安時代に梅、桃の花見があったが、桜も見られるようになった。 梅、桃は中国から持ってきたものでした。 日本の土着のものも見直されるようになってそれが桜でした。    種で言う山桜が西日本の丘陵地帯で多くみられた。 大島桜が関東にあります。 元々は伊豆諸島だけに分布していました。 成長力が旺盛でたきぎ桜とも呼ばれていました。   大島桜は白っぽくて花が大きい。 桜は基本的には花びらが5枚ですが、花びらが多いのが大島桜の特徴です。 八重桜は大島桜の血が入っています。 八重桜の主だったものは江戸時代にあります。 

花見は平安時代の上流階級の方々が雅なことをやっていました。 室町時代は武家もやるようになって、庶民レベルがやるようになったのが江戸時代です。 徳川吉宗が政策と言いう事で、飛鳥山、御殿山に桜を見るためにわざわざ作り、庶民に開放しました。 山桜が中心でした。

ソメイヨシノは江戸時代の終わりごろには広がり始めていたようです。 種類としては江戸彼岸と大島桜の種間雑種という事ははっきりしています。  人工交配したものではないと私は思います。 江戸時代には交配技術はまだないです。  染井で生まれたのか、違う場所で生まれたのか、それすらも判らないです。 有ったものを人が接ぎ木で増殖して栽培品種という事になります。  山桜の様に花と葉っぱは一緒には出ないので、花が目立つ。 山桜と違って、ソメイヨシノは大概の場所で大きくなります。 環境への適応性が凄い。  生物学的な寿命と言うのはありません。 いい環境で適切な管理をしていれば、ソメイヨシノは余裕で100年を越えます。 郡山では140年を越えています。 40,50年すると枝が枯れて来たりして木が衰退します。 

野生の桜で熊野桜があります。 紀伊半島の南部に分布しています。 2018年に私が学名を発表しました。 野生種としては100年振りの発見と言う事になりました。 見過ごされていたようです。  色合いはソメイヨシノに似た感じ(うっすらとしたピンク)ですが、白からピンクにグラデーションしている感じです。  

北の方は一個一個の花の咲くばらつきが少ないです。 南はばらつきが大きい。 桜前線は九州だと福岡から南下してゆきます。 温かすぎるとソメイヨシノは駄目になるんです。  鹿児島あたりですと花芽が100個出来ても100個咲かないんです。  今年ですと20個ぐらいです。 寒さの経験がないと桜の花は咲かない。  気候変動もあるかもしれませんが、都市熱の影響も相当ありそうです。 冬場の夜間の気温が町なかだと下がらない。 

桜の絵本を出しています。 ソメイヨシノなども生き物だという事を伝えられればいいかなと思っています。  桜の研究は32年になります。 桜の保全へとシフトしつつあります。











2024年4月13日土曜日

鎌田浩毅(京都大学名誉教授)      ・正しい知識が命を救う ~後編・火山のメカニズム~(初回:2023/4/15)

 鎌田浩毅(京都大学名誉教授)   ・正しい知識が命を救う ~後編・火山のメカニズム~ (初回:2023/4/15)

https://asuhenokotoba.blogspot.com/2023/04/blog-post_15.htmlをご覧ください。

2024年4月12日金曜日

西巻茅子(絵本作家)           ・〔人生のみちしるべ〕 小さな子どもの大きな不思議

西巻茅子(絵本作家)        ・〔人生のみちしるべ〕 小さな子どもの大きな不思議 

西巻さんの初期の代表作の一つ「わたしのワンピース」という絵本、お子さんやお孫さんと一緒に読んだ、今まさしくお気に入りで読んでいるという方もいらっしゃると思います。 今年で発売から55年、西巻さんにとって3冊目の絵本でした。 西巻茅子さんは昭和14年東京の生まれ、今月85歳になります。 東京芸術大学工芸科を卒業、学生時代から版画、リトグラフを手掛け、卒業後、日本版画協会展に出品し、新人賞、奨励賞を受賞。 当時は日本の絵本の創成期、西巻さんの新鮮な版画の作品は絵本の関係者の目にとまり、絵本つくりの声がかかります。 絵本作家となって60年、去年絵本つくりから引退したという西巻さんにお話を伺いました。

仕事を辞めて、それまでずーっと締め切りがある暮らしを続けてきたので、辛いなあと思っていましたが、今はホッとしています。 凄く気ままです。 デビューが昭和42年、28歳で、『ボタンのくに』と言う作品でした。 平凡社の給料がよかったので試験を受け就職することになりました。  しかし本採用通知が来なくて、電話をしたら「入社できないことになった」という事でした。 社長は3名では多すぎるからという事で入社は出来ないという事でした。(成績は1番だったが、男子1名、武蔵野美大は落とす訳にはいかない事情あり、と後で聞く。) でも雑誌の仕事を貰ってそれからずっとフリーランスでやって来ました。 長 新太さんの絵本を見て綺麗な本だなあと思いました。 子供のころは絵本などは観た事がありませんでした。 

絵本の仕事が出来るかもしれないと思いました。 父が自宅で子供に絵を教えていて、手伝ったりしていたこともありました。 幼稚園で子供のアトリエとして教えていました。(毎週土曜日) 子供たちが素晴らしい絵を描くことには吃驚しました。  人間は絵を描く動物だったんだと思いました。 母はお嬢さん育ちで、洋裁学校に行ったりテニス、ダンス、ピアノなどやってモダンガールでした。  父と結婚して洋裁をやって稼がなければいけなくなった。  父は絵を描くが金にするという事はやらなかった。 世のなかと美術はどういう関係になっているのか知りたかった。 結局は心の問題だという事が段々判って来ました。 あの子供たちの様に私も心の底からの絵を描かなければいけないんだと思いました。 デッサンは絵画の勉強方法に過ぎなくて、それを全部やって良い絵が描けるのではない。 だから全部忘れようと思いました。 

三作目の「わたしのワンピース」はロングセラーとなりました。 私の絵本の中で一番売れている本です。 白いウサギが主人公で、或る日空からフワフワっと落ちて来た白い布で、ウサギがミシンでワンピースを作りました。  ワンピースを着て出かけて行くといろんなことが起きるという、ファンタジーの絵本です。 1冊目、2冊目は絵本がどういうものかあまり知らないで描いていました。 絵描きしか描けないような絵本を作りたいと思いました。 3冊目はそういった思いで作りました。 編集会議では白いワンピースが花模様に描かれたり、水玉模様に描かれたりすることに対して問題視されました。 私の意見に対して賛成の人はいませんでした。 結局西巻さんが言うならそうしましょうという事に社長が言ってくれました。 しかし本が出来ても誰も褒めてはくれませんでした。 

5,6年経ってから新聞に、常に貸し出し中の本という事でこの本が紹介されました。   私は一番うれしかったです。 一時期は絵本を描くことを辞めようと思ったこともありましたが、辞めないでよかったと思いました。 大人が判っていない、子供たちは判ってたんだという感じです。 

「えのすきなねこさん」 講談社出版文化賞、絵本賞を受賞。 父が亡くなって絵の道具を私の家に持ってきました。 それを見ながら絵描きさんの猫を描こうかなと思いました。 「絵なんて何の役に立つのかな。」と言った言葉が何回も出てきます。 猫は「僕は絵を描くことが好きで上手で本当に良かったと思いました。」と言います。  家の父もそう思っていたと思います。 人間は歌を歌ったり、ダンスをしたり、詩を詠んだり、という事を昔からやってきています。 それは人とのコミュニケーションでしょう。 芸術はみんなコミュニケーションだと思います。 言葉ではない、心と心を繋ぎ合わせるためのものだという事が判りました。 子供が好きだという事は心が喜んでいるわけです。 道しるべ、父の後を追ったと言えば、追ったんでしょうね。 それと「女だてらに」と言う言葉が有りますが、「女だてらに」頑張ってきたと思います。  お金を稼いで自分の力で生きて来たかった。  絵本が子供の心に伝わればそれでいいと思っています。









 







2024年4月11日木曜日

澤田誠(脳科学者)            ・脳を探る

澤田誠(脳科学者)            ・脳を探る 

澤田誠さんは脳の研究に取り組みおよそ40年、人が生きるために脳は重要な役目を果たしています。 記憶は脳で作られ30歳を過ぎると記憶力が落ちてくると言います。 何故落ちてくるんでしょうか。 記憶をなくすという事は脳にどのようなことが起きているのでしょうか。 人工知能の進む現代、人工知能と脳にはどのような違いはあるのか。 人間の脳はまだまだ未知なることが多いと言われます。 脳を衰えさせないためにはどんなことが大事なのか。 脳研究一筋名古屋大学名誉教授澤田誠さんに伺いました。

多細胞生物はその細胞が動くのにコントロールする仕組みが必要です。 脳と言うほど発達していないが、神経系と言うのがあり、いろいろな動き、外からの感覚、情報を取り入れて自分の行動、どういう風に動いていくかを決めるために、脳の原始的な神経系が必要で、それが集まったのが人間とか、動物にある脳です。 

記憶と言うとコンピューター,AI、ロボットとかが、感情を持つとか、夢を見るとかと言うような人間の脳が行う事まで出来るのか出来ないのかという事が、議論になりました。 現在の技術力では人間の脳に相当するような能力を持ったAIは出来ないです。 生成AIといわれているものでも、新しいことを作り出すということは、なかなか難しいです。  無い情報を作りだすという事は今のところ出来ないです。 脳は色々な新しい発想で新しいものを作ってゆくのが脳の役割、脳の特殊な機能で、これを作り出すのは脳の神経細胞が使っている機能だけを模倣した様なAIなどは難しいのではないか思われます。 脳の90%ぐらいは神経細胞以外のグリア細胞で覆われている。 グリア細胞に機能は完全には解明されていない。 この機能をコンピュータに盛り込むことが出来ない。 私がテーマにしているミクログリアは記憶を食べる細胞と言うことで紹介されていますが、新しい記憶を作るのにもミクログリアは機能するし、必要のない記憶を作っているシナプスと言うものを食べちゃって、悪い記憶を排除するような役割をしている。 脳に必要な情報だけを貯め込むような働きをしている。 これはAIではなかなか出来ない。 

記憶と言うのは色々な情報の塊が記憶ですが、一つの記憶でも、目から入って来る視覚情報、音、味、触覚などの情報が一つの情報の塊になって一つの記憶と言う形になる。 視覚の情報、音の情報、などの別々の神経細胞が数千から数万個のネットワークを作って、それが同時に活性化されると視覚の情報、音の情報、などが一緒になって一つの記憶を作るんです。 一つの神経細胞は別のネットワークにもかかっています。 たまたまある記憶を思い出している時に別の情報まで活性化されると、全然かかわりのない意識の情報でも、たまたま結びついてしまうようなことがあると、新しい発想になって発明になったりすることが起きます。 AIだとなかなかその機能が出来ない。

新しい神経回路を作るシナプスを形成するときにも、グリラは役割をはたすし、シナプスが壊れないように維持する働きもするし、要らない、悪い情報を伝えるシナプスは食べて排除する。 グリラがきっちり働いていると記憶が出来ることになる。

感情は人それぞれが出てくるもので、外から観ていて判らないのが感情です。 情動は動きがあり、外から観て判るので脳科学の分析の対象になりうる。 とっても嬉しい情動は「快」の情動、怖い、不安とかが「不快」の情動で、深いと優先的の記憶にとどめるようになる。 重要な情報をとどめておくと判断をするような情報の塊(マインドセット)が、あらかじめ脳がシュミレーションをして、生き残るためにはこういうことをした方がいいと、マインドセットを作るわけです。 マインドセットは今までの経験に基ずくものなので、これが個性という事になります。 寝ている時にマインドセットが更新される。 脳は起きている時には今起きていることに手いっぱいとなる。 

短期記憶と長期記憶を比べてどっちが得か、取捨選択をして得なほうを長期記憶に書き直してゆく。 脳の働きの大部分(99%)は無意識なんです。 意識の部分は1%しかない。自分が生き残るために必要な情報で、勉強などをしても必要な情報であるとは判断しない。本能と言うのは我々の記憶とかとは関係ない。 人間は弱い動物だが集団生活をすることによって、文明を発達させてきて、生きながらえて来た。  コミュニケーションをとるには本能だけで動いていると集団生活が出来ないので、意識と言うものを機能的な部分として作って、それが全体をコントロールしているような気持にさせている。 欲望だけで動くと破綻してしまうので、意識で無意識の部分にアクセスできないような仕組みになっている。

重要な情報が沢山あればあるほど選択肢が広がって、それが寝ている時に、たまたま結びつくと新しい発想とかになる。 頻度は寝ている時が多いが、起きている時にもハッと思いつくことがある。 健康的な体と健康的な睡眠、いろいろ経験をして情報を捉えることが必要となります。  

AIは今ある情報を探知して、今あるものを組み立てて、あたかも人間が作ったように組み立てる。 脳の情報の取捨選択は、自分にとって良い事か悪い事か、子孫が生き残るために良い事か悪い事か、という事を判断基準にしている。 つまり情動が基準になっている。 コンピューターは子孫のことなどは考えないし、自分にとっての価値判断はしない。 人間の脳とAIの記憶の本質の目的論が違う。 

人間の脳は1000億個ぐらいの細胞ですが、一個の神経細胞に一個の情報が蓄えられているという考え方がありましたが(30年前)、もっと沢山の情報を蓄えられるというポテンシャルは持っています。 ネットワークが情報の保持に関わっている。 記憶の情報をあいまいにしておくという特徴があります。 要らない情報は排除して情報量を少なくしている。 自然界のなかで全く同じ現象はあり得ないので、だいたいこういうものだという事が判断できると、応用が利きやすい。  脳はわざとあいまいにしておいて、情報の抽出をする。 

人間の脳の細胞の寿命は大体120年だと言われています。 脳は20代後半、30代ぐらいになると神経細胞が一日数万個単位で減って死んでくるんです。 80,90歳ぐらいでも何もなければ正常な機能を保ったままで、20%ぐらい減っても脳はちゃんと活動することが出来ます。 神経細胞は入れ替わることが出来ない。 活動が多い神経細胞、死にやすい細胞があって、それが海馬に集中しているので、老化に伴って神経細胞が減って来ると記憶力が低下するということは起こりうる。  

人の名前が思い出せないのは、長期記憶のなかに陳述記憶と非陳述記憶があり、陳述記憶の中にエピソード記憶、いろいろな単語とか意味記憶と言って、脳の働きが違うものを使うんです。 エピソード記憶の方が生きるための情報をたくさん含んでいる。 名前などの意味記憶の方は生きるための情報にはあまり必要はない。 脳は名前などの記憶は苦手なんです。

微小脳梗塞(隠れ脳梗塞)と言って小さい血管が詰まったりすると、その先の神経細胞が死んでしまうことが起こる。 そこで80,90歳代で脳の働きが悪くなってしまう。   身体にとっていいことは脳にとってもいい事です。 程度な休息、過度なストレスがかからない、暴飲暴食は良くない、良い睡眠(深い睡眠と浅い睡眠は脳にそれぞれ違った役割を持っている。 4サイクルぐらいして浅い状態の時に目が覚める。)、などです。 まだまだ脳は判らないことだらけです。

*微小脳梗塞 危険因子には、加齢、高血圧、糖尿病脂質異常症慢性腎臓病、過度の飲酒、運動不足や喫煙、肥満、過労・ストレス、家族歴などがあります。この中でも、最大の危険因子が高血圧です。