2017年2月28日火曜日

花千代(フラワーアーティスト)     ・大胆、華麗に 転身人生(2)(H28/10/19OA)

花千代(フラワーアーティスト)・大胆、華麗に 転身人生(2)(H28/10/19OA)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2016/10/2.htmlをご覧ください。

2017年2月27日月曜日

花千代(フラワーアーティスト)    ・大胆、華麗に 転身人生(1)(H28/10/18 OA)

花千代(フラワーアーティスト) ・大胆、華麗に 転身人生(1)(H28/10/18 OA)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2016/10/blog-post_18.htmlをご覧ください。

2017年2月26日日曜日

奥田佳道(音楽評論家)        ・奥田佳道の“クラシックの遺伝子”

奥田佳道(音楽評論家)   ・奥田佳道の“クラシックの遺伝子”
古いよき時代のアメリカの調べ。
ラグタイムの音楽 作曲スコット・ジョプリン 没後100年
ラグタイム:ピアノ演奏で左手は正確なリズム、右手はシンコペーション、強弱を普通の感覚とあえて逆にしたりする。(ずれた音楽を楽しむ)
19世紀終わりから20世紀初頭にアメリカで大人気を博した。
ジャズの即興とラグタイムは違っていて、ラグタイムはきちんとしたピアノの楽譜がある。
ゆったりとした品のいいテンポ感、おしゃれなサロン音楽のように弾いて下さいというのが
スコット・ジョプリンが望んだラグタイムの音楽。
*1899年にスコット・ジョプリンが作曲したメイプルリーフ・ラグ」

映画「スティング」1973年の映画デーテーマ音楽のように使われた。
*映画「スティング」からオーケストラ版 スコット・ジョプリンの『ジ・エンターテイナー』を30年代に編曲した曲

ヨーロッパのクラシックの作曲家もかなりの人がラグタイムに夢中になりました。
ケークウォークのリズム使って名曲を描いたのがフランスのクロード・ドビュッシー
ケークウォーク:黒人の間で発祥したダンスの一種。2拍子の軽快なリズムからなる。
「ゴリウォーグのケークウォーク」 ドビュッシー作曲の編曲

ジョージ・ガーシュウィン 作曲
*「ス・ワンダフル」、「スワニー」
*1917年発表 「リアルトのさざ波」 

レナード・バーンスタイン 作曲
*『キャンディード』のテーマソングのようなアリアから 「着飾ってきらびやかに」









2017年2月25日土曜日

澄川喜一(彫刻家)     ・石見神楽が創作の原点

澄川喜一(彫刻家)     ・石見神楽が創作の原点
島根県出身、木材が本来持っている反りを生かした作品、反りのある形シリーズで知られています。
日本各地で屋外彫刻を手掛けるほか、東京スカイツリーのデザイン監修を務めました。
東京芸術大学学長を歴任、島根県芸術センターのグラントワの設立に携わり、現在はグラントワセンター長を務めています。
自らの創作の原点と故郷島根西部石見地方とのかかわりについて語ってもらいました。

小学校に行く前、石見神楽を 毎年10月神社で盛んに行われました。
父親と一緒に行って、天の岩戸開きが朝まで続く、最後におろちがでてくる。
おろちは悪者ではない、本当は良い神様なんです。
ここのおろちは遊び心を入れたおろちを作りました。
小学校の時に竹下富士子先生?の書道があり、正装して見えてタスキがけをやっているのが面白くて、清書の後似顔絵を描いたら絵が上手だねと言ってくれました。
その時に絵描きになろうかなと言うような気がしました。
その後岩国の工業学校に行き、最後には芸大を受けるように先生が引っ張って行ってくれましたが、親に相談したところ、行くなと怒られました。
先生が家に来て親を説得してくれて、芸大に入ることができました。
入った時には影響は受けてもいいが、人のまねをするなと言われました。
学長からは卒業証書は役に立たないといわれました。

4年間は基礎を勉強するということで、全裸の女性の彫刻勉強をします。
表面を見るだけではなくて、その形の中を知らなければいけない。
美術解剖学、骨と筋肉を2年間勉強します。
中が判ると外側が判るんです、そうすると形がよく出来るんです。
美術解剖学を教えたのは森鴎外です。
東京国立博物館 森鴎外はそこの総長にもなっています。
東京に行くときには、荷物にならない本、柿本人麻呂、森鴎外、雪舟を持っていくように言われました。

須佐之男命(すさのうのみこと)が降りてきて、おろち退治をやってそれがお神楽になりました。 伊奘諾尊(いざなぎのみこと)伊奘冉尊(いざなみのみこと)の子
お神楽の最後にしっぽを切ったらかちっと音がして剣が出るがそれが天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)(鉄剣)なんです。
鉄文化が入ったのを劇にしている。
たたら文化、鋼を作るときには砂鉄を集めて木炭で熱して溶かして作る。
おろちになってるけれども、本当は鉄を作る民族が入ってきて、木炭が必要なので山をちょっと荒していたと思う。(切りっぱなしにしていた)
山が荒れると洪水になる。
須佐之男命(すさのうのみこと)がやめなさいと言った、そう言った神話を話を子供のころ聞きました。

反りのある形というタイトルにして反った形を木からとりだしている。
学長を退官するときに、郷里のためにと思いまして、今お手伝いをしています。
グラントワは10年になりますが、お客さんが400万人来ました。
そのうちの6割が島根県外です。
アテンダントの制服は森英恵さんのデザインです。
雪舟の絵は墨の濃淡で色を感じるんだと教えてくれました。

若い美術家に対して森鴎外の力が凄く大きかったので、グラントワでは森鴎外を一つの柱にしようと思いました。
フランスでは森英恵さんが一番尊敬されている。
森英恵さんは外国の真似をしていない、日本を持っていった。
ファッションと言う柱も立てようと思い、ファッションの学芸員はいないのでニューヨークの美術館に留学してもらって2人のファッションの学芸員がいます。(全員で学芸員は5名)

島根県は文化施設も充実していて、文化に力を入れている県だと思います。
15年前に大勢の女性ボランティアの人たちが石見地方は文化施設がないのでここになにかを作ろうと声を出しました。
運動が進んで行ってこれは町おこしになるということで、飛行場も出来て、今は80名を越すボランティアが居ます。
支援部隊の結果が出ています。
















2017年2月24日金曜日

吉田精次(精神科医)     ・私はあなたの伴走者

吉田精次(精神科医)     ・私はあなたの伴走者
61歳、依存症患者(アルコール、ギャンブル、薬物など)を見る医師が多くない中病院で患者の治療に取り組み、休日には患者が集うミーティングに参加するなど患者の心に寄り添い続けています。
依存症患者の苦しみを多くの人に分かってほしいという吉田さんに伺いました。

厚生労働省の発表でアルコール依存症が109万人、ギャンブル依存症が550万人、ぼくが仕事をしているのが、病気だと認定されているうちのほんの一部で大半の人は相談したり治療に繋がる事無く、自分で何とかしようとしている人達なので、医療が関わっている人たちは1割もないです。
昔はアルコール依存症とはっきりしていたが、最近はさまざまあり、薬物にしても、風邪薬、睡眠薬の依存症、行動の依存症ではギャンブル、万引きも増えています。
アルコール、ギャンブル、薬物は男性が多い。
万引きに関しては圧倒的に女性が多いです。
アルコールは若い層から、中年層、高年層、女性は圧倒的に30代が多い
男性は50代以降が多い。
薬物は若い人たちが多い。(40,50代でもいます)
ギャンブルはパチンコがあるので世界で特有のギャンブル依存症がある。
20代から80代まで幅広いです。

カジノ法案の目的は経済活性化、まったく欠落している観点は
①一回依存症になった人たちがどれだけ苦労して回復していることか分かっていない。
②破産するぐらいのダメージを受けた状態で依存症になる。
そんな中で国が作っていいのかどうかと思うと、絶対に作ってはいけないと思います。
今でさえギャンブル依存症に対する国の補助、保証は無きに等しい。
ギャンブル依存症を研究する医者も社会学者もほとんどいない。
依存症になるための環境条件が整ってしまって、繰り返すうちに、脳の機能変化が起きていくので自分の意志、理性を超えたところで病気が発生して行くので、自己責任と言うの
は言われ過ぎだと思います。
自分を責めたりする過程の中で、自分を保つために虚勢を張ったり、演技したり、仮面をかぶったり、壊れないために強く見せないと生きていけなくなっている人たちがとっても多いが、行動は止まらない。

弱い部分、本当はこうしたいという思いがぽっと出てくる時が心をうたれる。
(話しているうちに突然泣き出すとか)
一緒に暮らしている人達は、やめてほしいと思っているが、やり方、対応の仕方を知らないので、強く言ったり、説教したり力で何とか止めさせようとするが、反発してしまう。
そして関係が悪くなってゆき壊れてしまう。
暴力が発生しやすくなり、言いたいことも言えなくなる。(対等の関係が消えてしまう)
精神科を受診するハードルが高すぎる、と言うメンタルなところが強い。
依存症をきちんと見れる医者が圧倒的に少ない。
アルコール依存症、薬物依存症に対して関わりたくないという様な、先生が多い様な気がします。

大学病院などでは依存症を専門に見る医者がほとんどいない。
精神科を専攻しても依存症ではないほかの病気を専攻する人たちばっかりになる傾向があるのではないか。
依存症は行動を繰り返すことで脳の神経ネットワークを作ってしまうので、医療も繰り返し繰り返し、脳が健全になって行くような神経回路を作ることをやっていかなくてはいけない。
医者はサポートする立場だと思っています。

本を読むのが好きで、精神科医になろうとしたきっかけは加賀乙彦(精神科医で作家)の「フランドルの冬」にあこがれてしまいました。
医者にはなりたかったが、注射もいやだし、血も見たくはなかった。
「フランドルの冬」が精神科医を選ぶきっかけになりました。
大学受験は一浪して、合格して、合格することは一人の一浪の人を生んでしまうことだとも思って、素直に喜べなかった。
泣きながら不合格を電話で報告している姿を見ました。
精神科医を美化して、現場に入るが、いろいろな現実があり、理想を実現化するようなことはなくてギャップを感じるようになりました。
患者を入院して閉じ込める、しかし自分は自由にできる、何回か経験してゆくと徒労感が強くなってきて、自分のやっていることが意味のないものと感じて来て、仕事に行くのがいやになってきて、医者の仕事を辞めてもいいかなと思うようになった(5年目ぐらい)

帰る時に患者の目と合ったがおやっと言う感覚があったが、そのまま帰り翌朝出勤するとその人は川に飛び込み亡くなっていた。
自分の患者が亡くなったことにショックを受け、病院を辞めて三重県に行きました。
たまに街の診療所にいきながら農業をして、医者とは関係ない暮らしを10年ぐらいしました。
天気など自分ではどうにもできないこと、理屈ではなく経験がしみこんだ時期だったと思
います。
人も野菜も動物も自分以外のものは変えられないと言う事の大切さ、(変えられるという思いから悲劇が生じる)が一番大きな教訓だったような気がします。

医師免許を持っているのでもう一回使うか、完全にやめてしまうか、決めようと思った時期があって、医師としてもう一回使えるのかを確認したかったので一週間の研修を依頼した。
前の先生にたまたま出会って戻ってくるように言われて15年前に徳島に戻ってきました。
アルコール依存症に対するアメリカでの研修に行きました。
依存症を持った人、良い悪いいろんな側面を持っているので、辞める辞めないではなくて、トータルに見てその人がどう生きていくかということの方を大事にする治療者が多かった。
回復した人たちが資格を取ってカウンセラーだったり医者だったりする訳で、日本では考えられなかった。

依存症からの回復の一番大きな潮流は回復を始めた人がいて、その人の存在がまだ回復出来ると思えていない人たちのお手本になる。
その循環が大きな回復の潮流を作ってきている。
サポート役としての我々の力はとても叶わない、健常者が持ちえない影響力を持っている掛け替えのない存在だと痛感します。
失敗ととらえるからネガティブな経験になる、人間は経験だらけの生き物、失敗、成功という言葉で表現すること自体が間違いを生む様な気がします。
努力したり、毎日コツコツとやらなければいけないのは当事者で、我々はサポートしていく役割だと思っています。
検事長をしているかたがいて、その傍ら資格障害者のマラソンの伴走者をしていて、そういった事をダルクでの話をしていました。
主人公は障害者でその人は伴走者、伴走者は自分に与えてくれる物の多さを凄く語っていて、僕の仕事もまさにそれだと思いました。
子供の自転車の補助輪みたいな、やがて必要無くなる支えみたいなものになればいいと思っています。









































2017年2月23日木曜日

平櫛弘子(平櫛田中美術館館長)・祖父、平櫛田中が残したこと

平櫛弘子(小平市平櫛田中彫刻美術館館長)・祖父、平櫛田中が残したこと
*今日でブログ投稿開始日から丸6年が経過しました。
最初の物は ノートルダム清心学園理事長 渡辺和子さんの
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2013/03/83.htmlでした。
もうすで渡辺和子さんも昨年 2016年12月30日に89歳でお亡くなりになってしまいました。(ご冥福をお祈りします)
今日から又新たに7年目に入り、一歩一歩進んで行きたいと思います。
よろしくお願いします。

平櫛弘子さんは1940年生まれ、彫刻家平櫛田中(でんちゅう)の孫。
107歳で亡くなった祖父田中のそばに長年いて、平櫛田中の人と作品作りを見てきた方です。
平櫛田中は1872年 明治5年2月23日、岡山県に生まれました。
21歳で彫刻の道に入り、「鏡獅子」、「尋牛(じんぎゅう) 」をはじめ数多くの作品のほか、彼の人生観を表す言葉を書に残しています。
100歳を前に書にしたためた言葉、「今やらねばいつできる」、「わしがやらねば誰がやる」、「60,70洟垂れ小僧」、「男盛りはこれからこれから」等、まさに不屈の人 平櫛田中の真骨頂と言えるのではないのでしょうか。
平櫛田中生誕145年の年に当たります。

大きな楠の木があるが、30年分の木を亡くなるときには持っていて、徐々に作品を作るためには保存して乾かしておかなければいけないので、晩年に買った木です。
横山大観武原はんさんを作ると言っていました。
横山大観の鋭い眼が印象的で、眼を作りたいとよく言っていました。
はんさんは美しい顔、独特の髪の結い方、お化粧の仕方、着物の着方などあれを残したいと言っていました。
21歳で大阪の中谷省古に弟子入り、彫刻をし、25歳上京し、高村光雲の門下生になり、日本美術界の指導者岡倉天心に認められ72歳で東京美術学校(東京芸術大学)の教授に招へいされ、90歳で文化勲章。

家が貧しくて15歳で大阪の小間物問屋に丁稚に入った。(美術に関係あるようなところ)
その前に貿易関係の工芸品を扱っているところに丁稚して、主人が文楽好きで、すっかり文楽好きになっていました。
上手い繋がりが付いてきて、岡倉天心が明治22年に創刊した本も丁稚の身で買って読んでいました。
縁があって中谷省古さん(人形師)の次男の球次郎さんが東京で高村光雲に出入りしていて、木彫をやりたいのなら東京に行くように言われて、球次郎さんに連れて行ってもらった。
26歳ぐらいになっていて、門下生と知り合いになれたのがよかったです、それが運命を決めていったと思います。
自分の天性とそれを自分でつかみとって行く。

谷中の長安寺に居候して、その近くに禅宗の西山禾山(かさん)が麟祥院で「臨済録]の提唱をしていて聞いたりしていて、その縁で寺内銀次郎さんという表具師(横山大観とかの日本画家の表具師)とも知り合い、岡倉天心も来ていた。
高村光雲さんの門下生と三四会という彫刻の団体をつくって作品を出品したりしていました。
30歳で「唱歌君が代」という作品を作って、宮内庁買い上げになって一番最初の銀杯を取った作品でした。
明治40年に結婚。

「貧乏は我慢できるが、子供に死なれることほどつらいことはない。」
「涙が出なくなるのに3年かかる」
長女、長男、次女(私の母 隆子)が生まれる。
日本彫刻会を天心が作ってそこに入る。
代表作を発表する。明治41年の第一回の時には「活人箭(かつじんせん)」を作って天心に批評していただき、想像で勢いを出すようなものでないといけない、矢がさーっと行かなければいけないといわれて、取った方がいいといわれて弓矢を取ってしまって、今はそれがイタリアに有ります。
明治43年には「法堂二笑」を作りましたが、天心からは文句なしによろしいといわれて、神奈川県の原三溪さんに収めましたが、戦争で三溪園が焼けたりしていまだ作品の行方は分かりません。
第5回の日本彫刻会に出そうと思って3作品があり、「尋牛(じんぎゅう) 」と「灰袋子(かいたいし)」、「豎指」、天心は「尋牛(じんぎゅう) 」が一番いいと言っていました。
十牛の最初の物。

天心は9月2日に亡くなってしまったが、完成した尋牛をお棺の前でお見せした。
第5回の日本彫刻会に出したが、それも今はどこへ行ってしまったのか分からない。
それが昨年出てきて、この館にあります。
後年作った尋牛とは違います。
天心先生が亡くなってしまう(大正2年)ということで急いで作ったので、塑像的です。
木彫ではあるけれども粘土のような作風です。

谷中の長安寺に居候して、その近くに禅宗の西山禾山(かさん)が麟祥院で提唱をしていて祖父も聞いたりしていて、大正3年に「禾山笑」を作る。
西山禾山(かさん)は禅の心とはと問われて、「日常生活そのもの、心を整えて毎日の仕事を一生懸命やること」
「まさに窮するところ無くして、その心生ぜしめ」
「邪心がなしにして、一心不乱に作品をつくる心を養いなさい」と言うこと。
「守拙求真」 自分の製作の根幹にあるとよく言っていました。
自宅にいないと思うと染井の墓地(天心)に行っていたということで仕事も手に付かなかったような状態だったようです。

その後塑像部で3年ぐらい塑像の研究ばかりをしていました。
塑像を作って粘土から、石膏どりしてそれをもとにしてそこから木彫にするわけです。
売るものは作らなかったので、貧乏な時期があり、塑像の研究を終わりにして、その後それが「転生」(鬼の像)に生きてくる。
苦しい結果、自分に対して塑像の勉強をして、自分には向いてないとわかって一つ通り越したと、そのことを多分「転生」の作品にしたと思います。
周りの援助のもとにアトリエを作り、住まいも作る。
翌年に関東大震災があるが、壁にちょっとひびが入った程度で建物は痛まなかった。
鏡獅子昭和33年の構想から22年かけて出来上がる。(モデル 6代目尾上菊五郎
尾上菊五郎さんの裸の写真が60何枚有ります。
5つぐらいのヒノキで御寄木にしてかすがいでとめて 漆を塗って金泊をして、彩色しました。
費用もかかって、借りたりして、その時母は病気で居たので大変でした。

「今やらねばいつできる」
「わしがやらねば誰がやる」
「60,70鼻たれ小僧」
「男盛りは百から百から」
弟子で辻晋堂と言う人がいて、アトリエの「今やらねばいつできる」という言葉がかかっていて(アンドレ・ジイドの本の中にあった)、それを見て田中が広めて行った。
祖父は彫刻家としては明治、大正、昭和を生きてその時代背景の中で製作した人だが、子供は50歳台で亡くなり、残った母は関節リュウマチで歩けなくなってしまって、祖父は母のしもの世話などもやっていて、私たちにも優しくしてくれました。
結婚した当時は柳行李に一杯参考になる新聞記事を切り取り、晩年にも参考記事、興味のある記事を切り取っていました。(好奇心旺盛な人でした)
















2017年2月22日水曜日

コシノジュンコ(ファッションデザイナー)・着物の美をパリへ

コシノジュンコ(ファッションデザイナー)・着物の美をパリへ
世界のファッションリーダーとして活躍しているコシノジュンコさんはこのたび芸術の都パリで日本の着物の美を展示する小袖展を開くことになっています。
着物文化を系統的に展示してヨーロッパのモードにも影響を与えた着物の美を改めて知ってもらおうというものです。
コシノジュンコさんはお姉さん(弘子)や妹さん(美智子)とともにコシノの三姉妹として知られているファッションデザイナー、ファッションを学んだ文化服装学院では高田賢三などとともに花の9期生として若いころから活躍して19歳のときには新人デザイナーの登竜門である、装苑賞を受賞しています。
その後の活躍も目覚ましく御存知通りですが、パリは元よりファッションとは縁遠いと思われるベトナム、ミャンマーなどでもファッションショーを開いてきました。

一般に小袖と言っても判らないと思う。
日本の着物はあこがれのものだと思っているが、着るチャンスはなかなかなくて、着物に対して簡単に着れることということで着物と同格の洋服をやってきました。
小袖につながるなと思ってきて、小袖は江戸時代の大衆文化になってから女性達が外に解放されて歌舞伎を見に行ったりして、小袖を着ることによって解放的になった。
アーティストたちが柄を変えていって一種のファッションになった。
小袖は公家文化である打ちかけの一番最初に着る、いわゆる襦袢ですね。
肌着で、襦袢が独り歩きしたのが小袖です。
袖口が短いもの。
松坂屋さんが何千点と持っていて、一歩も外国に出していなかった。
外国の人に見せるチャンスを作りたいと思った。

現代のデザイナー達も着物に触発されたデザイナーも沢山います。
江戸から明治ぐらいまでの小袖120点を展示して、現代の作品も出ます。
私は6点、着物のデザインを1点、着やすい洋服風を5点展示しました。
ジョン ガリアーノ、サンローラン、ケンゾー、ポールポワレとか6人のデザイナーが一点ずつ出して、一つの世界を作ろうということで見所が面白いです。
花魁のポスターを作って地下鉄などに貼っています。
なぜパリかと言うと、パリはモードの街で、コルセットをとってスリップドレスがフォーマルでも着ている。
それと小袖と同じ条件なんです。
3か月開催します。
国宝的なものもあり、全部で120点もあるので途中で60点づつ展示替えもします。

NHKの連続TV小説「カーネーション」 母が描かれている。
祖父が呉服屋なんです。
母は着物に対して反発してミシンに出会って、自己流で洋服の世界に入りました。
2011年にやったドラマだったのでチャリティーとかに参加しました。
私の役は川崎亜沙美さん、女子プロレスの人で、糸子役で応募したが5番目に受かった人でした。(応募するときに私の役、二女・直子(成人期)と勘違いしたようです)
姉が弘子、家族は女性が多かったのでいつでも競争していて、姉とは違うことしようとか、はみ出る方法をいつも思っていました。
文化服装学院には行くつもりはなかった、美大にいくつもりだったが、これだけ絵が描けるのならなぜお母さんと同じ方向にいけないのかと画家の先生から言われて、考えがぐらついてきて同じ方向に行くことになりました。

1年前から男女共学になって、花嫁修業に来ているものとは違うと思っていて、気性的にも男の人とグループになって、三宅一生さんとか外との交流もやるようにしていました。
歌舞伎などもそのグループで学校をさぼって一緒に見に行ったりしていました。
卒業の時はブテックを持っていたので取りに来ないから、卒業証書を持ってきてくれました。
装苑賞を19歳で取ったので背中を押されたようなものでした。
1978年パリコレクションに初参加。
パリはオートクチュールの世界でプレタポルテのショーはやっていなくて、貴族社会のようなルーツがあるので、プレタポルテになってショーやるようになってケンゾーさんが先に日本をテーマにやっていて、日本のルーツは何かということで探して、中国に行ったが、文革の後で贅沢は敵で全部壊してしまったあとだった。
でも出会った音楽がよかった。(耳から自分のイマジネーションが出てくる)
1985年に北京で中国の最大のファッションショー、その後ベトナム、キューバ、ミャンマーなどでファッションショーを行う。
私たちが行った後には偶然かと思いますが、直行便ができました。
キューバではハバナで3回やりましたが、野外なので天気が悪いと大変です。
小袖展は江戸から現代までが一気に見れる。
世界の人は本当に日本に来たがっています。

和と洋をひとつの同じ精神の器に入れるということだと思います。
紋付き袴を着ると武士のような気分になって、日本人がなんて立派に見えるか、私はこの経験が有るんです。
着物を着ると威厳が出ます。
浴衣を30年以上前からやっていて、浴衣は着物のTシャツだと言っています。
浴衣は簡単に着れるので浴衣は長年やっています。
フランスのファッションデザイナーに与えた影響は、日本へのあこがれだと思います。
トータルに西洋とは違うのでいろんな角度で不思議なものがあると思います。
フランスでは日本人が顔負けするような日本の研究者がいます。
江戸時代はユーモアの有るセンス、遊びのセンス、浮世絵などもおちゃめなセンスがあり、面白さのものから春画まであり、いま漫画やアニメが流行っていて現代にいたるのが漫画だと思います。

ファッションの広さ、大きさ、自由、ファッションは流行、生きている、ファッションは業界の壁を破るものだと思っている。
ファッションは言葉の要らない表現、感性は言葉でなくて感じるものだから。
東京オリンピックパラリンピックは場所は東京だけれども、主催は日本だと思います。
地方のいろいろな事、物を出し切ったらいいと思います、発信するチャンスだと思います。

















2017年2月21日火曜日

酒井田柿右衛門(陶芸家)  ・自分なりの“柿右衛門”になる

酒井田柿右衛門(陶芸家)  ・自分なりの“柿右衛門”になる
先代の人間国宝14代柿右衛門さんは2013年6月に亡くなりました。
翌年の2014年2月4日に父の跡をついで浩さんが柿右衛門を襲名した。
窯の歴史は江戸時代初代柿右衛門が赤絵の技法に成功したことから始まります。
濁手(にごしで)という乳白色のやわらかい色の磁器に赤や緑の花や鳥草花が描かれる柿右衛門方式は、17世紀に欧州に広く紹介されて広く知られるようになりました。
第15代柿右衛門さんは1968年生まれ、48歳、佐賀県伊万里高校から多摩美術大学に進学、1994年に佐賀県有田に戻り先代の父に師事して陶芸の修行に入りました。
現在柿右衛門を襲名して3年が経っています。
伝統という決まりの中で自分なりの気持ちの入った焼き物を残したいという柿右衛門さんに伺いました。

去年有田焼創業400年で凄く忙しかったです。
父が亡くなったのがまだ4年なのかという様な感じで、又大分前だったような感じもします。
2014年2月4日に15代を襲名、まる3年が経ちました。
襲名は家を継いだら戸籍まで変わります。
裁判所で許可を貰って、許可証を持って役場に行って改名届をします。(45歳)
父の名前の印象が強かったので、私の行動範囲が違うので、ファミレスとか行っていたので、最初のころは違和感がなければいいなあと思いました。
自分のスタイルが私にもありますので、自分なりに新しくイメージを作らなければいけないとは思っています。
13代とはあまり話した事はないです。(中学のころに亡くなる)和服が記憶に強いです。
父は着物も着ましたが、普段は背広などを着てました。

祖父は職人に対して厳しかったが、父はそれほどでもなく、あまり褒めることはなかったです。(綺麗好きだった)
私は子供のころは魚釣り、野球をしたり外で遊んでばっかりしていました。
後を継ぐものだとは思っていました。
妹が3人居ました。
轆轤を回したのは25歳で帰ってきて、その後でした。
高校は伊万里高校の普通科でした。
中学、高校と陸上部でハードルをやっていました。
伊万里地区で中学の記録を作って、高校時代も高校総体に出ました。
県の合宿とかで新しい友達が出来たりして楽しかったです。

福岡県の八女(八女茶の場所)と言うところがあって、侍をしていて佐賀の龍造寺氏と言うところと戦をして負けて、佐賀に連れてこられてしばらく住んでいて、焼き物の原材料が見つかったというタイミングで侍を辞めて窯屋になったという流れです。

あんまり美術をやっていなかったんで畑違いでしたが、3浪して多摩美術大学に行きました。
中退して戻ってきて、最初は轆轤を4年間やりました。
土が一番核になるので土の特性を知らないといけないので、その加減が判って話さないと、職人とも親身になっていけないので、最初に習っていて良かったと思います。
うちの焼き物の厚みがあるので、この厚みでその形が出来るかどうか、その辺の感覚が大事です。
濁手(にごしで)の昔ながらの色にこだわって仕事をしていましたが、濁しはコメのとぎ汁の色のことをいいましが、その色は変えてはいけないし、昔ながらの原材料を使った色絵、絵の具も変えてはいけないが、感性、今の時代に合ったものも作っていかなければいけない。

感覚的なところは段々変えていくということは、分けて考えていいと思っています。
12代は絵が大事、13代は轆轤が大事、14代はどっちかと言うと絵の方だと思います。
13代は奇抜な形も導入していました。(民芸運動が盛んな時代だったから影響も受けながら)
14代はオーソドックスな形、理想的な形はどういう形かにこだわっていました。
轆轤の後、父には絵のデザインの関係を教えてもらってきました。
大学への進路の時ぐらいに話したぐらいで、父とはほとんど話すことはなかったです。
仕事の話を始めてから話すようにはなり、デザインの話をするときには30分ぐらいはこちらが黙っていても話をしてたりしました。
スケッチはすべての事が基本になるので、、絶対に続けるようにと言われました。
昔ながらの材料がなくなってきているので、確保するようにとか、いろいろ言われました。

父の病気を最初聞いた時はポリープをとれば大丈夫というような感じだったのでそれほど心配はしていなかった。
肺に転移したが、でも急いで習わなくてはいけないというイメージはなかった。
ほめられた覚えはないです、悪いと思ったところを指摘するという感じでした。
もうすこし時間が欲しかったですね。
父は焼き物に関して妥協は決してなかったです。
息子はまだ今年小学生ですが、16代は絶対継がせようと思っています。
絵を描くのが好きなので向いているかもしれません。
材料は同じ場所で取っても成分が違うので、何対何で調合したらこうなるというようなことはあんまりないので、秘伝と言うようなものはないです。
今の物を自分で工夫しないと駄目です。









2017年2月20日月曜日

新井淑則(皆野中学校教諭)  ・見えなくなって、見えてきたもの

新井淑則(埼玉県皆野中学校教諭)・見えなくなって、見えてきたもの
55歳、新井さんは中学校教師になって5年目の28歳のときに突如網膜剥離を発症、34歳の時に視力を失い教師生活を断念せざるを得なくなりました。
懸命にリハビリを重ね46歳のときに中学校に復職、現在も教鞭をとっています。
新井さんんの姿は8年前の平成21年に総合TVで放送したNHK土曜ドラマチャレンジドで俳優佐々木蔵之介さんが演じた主人公のモデルにもなりました。
新井さんが視力を失う前、埼玉県秩父市立秩父第一中学校に赴任してたいたころにその中学校に通学していた新井信宏さんが伺いました。

現在、埼玉県皆野中学校で教師をしています。(2年前から)
国語を1年生3クラス担当しています。
教科書は点字の教科書を使っていますが、生徒は普通の教科書を使っています。
黒板に書くときは定規を使ってまっすぐに書けるようにしています。
生徒の机の天板の裏側に名前を点字で打ったシールを貼っているので、どの位置に生徒がいるかを把握しています。
4月の最初の授業の時に生徒に自己紹介してもらって、ICレコーダーに録音して生徒の名前、声がわかるように努力しています。
自己紹介の最後には、必ずその子のオンリーワンを言ってもらいます。
生徒はみんな違う、生徒ひとりひとり違う、違う事はいいことだと伝えています。
オンリーワンを大切にしてほしいと言っています。

高校生の時に、学校が荒れていた時期で、漠然と金八先生にあこがれていました。
希望していた中学の教壇に立つことができて本当にうれしくて、おもいっきりやっていました。
教師になって2年目にサッカー部の顧問になり、サッカーのおもしろさにはまってしまって国語の授業よりも、力を入れるような感じでした。
28歳ころに、結婚して2年目、長女も生まれ初めての中学3年生の担任となり充実していた時期でした。
10月になって目に沢山小さい虫が飛んでいて、手で追い払っても虫がいるわけです。
次の朝に起きた時に右目に黒い暗幕が降りてきている状態で視界の2/3が見えない状態で、眼科に行ったんですが、網膜はく離と言われ、ほうっておくと失明されるといわれて、大学病院で緊急手術をしました。
視力も落ちてしまいました。

12月には仕事に戻って、片眼が見えずらい状態で仕事に没頭しました。
翌年網膜剥離が再発してしまいまして、ほとんど右側が見えない状態になりました。
片目では十分に仕事ができないので、養護学校に移動して新井先生の健康を保つようにとのことでした。
納得はできなかったが、移動しました。
養護学校に移動して3年目に左目も網膜剥離を起こして、34歳のときに全盲状態になりました。
半年入院して、回復の見込みがないということで家に戻ってきて、ほとんど寝ていました。
知らない間に涙が出てきて絶望のどん底でした。
家族、周りの声かけも受け入れられませんでした。
生きていても仕方がないなあ、死んでしまいたと言うことも思っていた時期でした。
妻に見えない状態だったら死んでしまいたいと言ったら、お父さんだけ死ぬなんてずるいといわれて、家族5人で死にましょうと迫られた事があり、それは出来ない、だったら生きましょうといわれて、踏みとどまりました。

ある日車に乗って連れて行かれたのが、ご夫婦で視覚障害がありながらマッサージを開業されている方でその人に逢いに来ました。
話を聞き凄いなあと思いましたが自分にはそんなこと出来ないなと思いました。
ほかの視覚障害のかたからも話を聞いているうちに、身の回りのことぐらい出来るようにならないといけないと思って、眼科的リハビリテーションに行って訓練をうけるようになりました。
白杖を持っての歩行訓練、点字を読む訓練、日常生活訓練(音声パソコンのやり方など)
を1年間泊まり込みで訓練を受けました。
施設に入って仲間がいたということは、こんな苦しい思いをしているのは、こんな境遇にいるのは自分だけではないということが、大きかったです。

白杖を使って歩けるようになり、点字で本が読めるようになり、パソコンでメールが打てるようになり、出来ることが増えてきて、喜んでいる自分がいました。
見えないということは変わらないが、自分の中で180度近い転換ができたと思いました。
周りの人は次のステップとして按摩、鍼灸のステップに向かって行き、自分はどうしようと思っているときに、県立岩槻高校で物理を教えていた宮城道雄先生(視覚障害がありながら高校で教えていた)が新井さんも工夫と努力で教壇に戻れると声かけをして下さったのを思い出してもしかしたらできるのではないかと思いました。
養護学校への復職は前例がないので、ノーマライゼーション教育ネットワークを宮城先生達が立ち上げていて、復職を支える会を結成されていて、その方たちと一緒に県の教育委員会との話し合いが始まりました。

訓練として養護学校へ行って働くようになりました。
何が出来るのかどういう工夫で出来るのかをずーっと考えて1年間過ごしました。
養護学校に復職することができて、本来の目的である中学校に戻りたいという思いがあり、ノーマライゼーション教育ネットワークを宮城先生達と県に対して交渉してきました。
なかなか叶わずにいて、盲学校、塙保己一学園に移動となりました。
視覚障害のある高校生たちとの出会いがあり、高校生の視覚障害者の現実を知ることになりました。
やがて視覚障害があっても精一杯働いてほしい、社会参加してほしいと言っていました。
本来の目的である中学校に戻りたいという思いがあり、9年間、県の教育委員会と交渉をしてきました。
前例がないということで教育委員会からは拒絶されていました。
8年目ぐらいから、あるかたから趣旨は判るが受け入れ先がないしと頭をさげられて、もう駄目だと思って、ノーマライゼーション教育ネットワークの方たちと県議会の議員会館に行って話を聞いていただき、県議会で取り上げてくれて県知事に投げ掛けていただき、真っ先に手を挙げて下さったのが、長瀞町の町長でした。
なぜ長瀞町の町長が手を挙げてくれたのかと思ったら、以前講演の時に私の話を涙を流しながら聞いて下さったとのことでした。

復職して、人の優しさ、人の思いやりが皮膚感覚で判るようになりました。
中学に戻ったのは46歳でした。
長かったが、自分にとっては決して無駄ではなかったと思います。
生徒に寄り添って、自分の出来ること、役割が新たに発見できたのではないかと思います。
学校は社会の縮図ですが、小学校中学校は障害のある人はいないので、障害のある人と接した方が子供たちにとって意義があることだと思います。
早い時期にいろいろな人に接することが重要だと思います。
見えていた自分から見えなくなった自分に、徐々に時間をかけて折り合いをつけてきたといった感じです。
しっかりとしたサポートがあれば全盲でも教師が出来るということを示して行く、今私が代表をしているノーマライゼーション教育ネットワークを利用して障害のある若い人にも希望を持って貰いたいと思います。
いろんな先生がいて学校だと思うし、それが社会だと思います、もっと多様性があっていいんじゃないかと思います。









2017年2月18日土曜日

牧 慎一郎(天王寺動物園園長)・動物園ファンから動物園長に

牧 慎一郎(大阪市天王寺動物園園長)・動物園ファンから動物園長に
46歳、もともと市の職員ではなく動物の専門家でもなく 官僚でした。
その傍ら休日には全国の動物園を見て回る動物園ファンとなり、その知識を生かして3年前大阪市の公募に応募し、官僚を辞めて大阪市建設局動物園改革担当部長に就任、2年前の4月から園長兼務しています。
就任するや否や、次々とアイディアを実行し、減少していた入園者数のV字回復を実現しました。
官僚を辞めるほどの決意をさせた動物園の魅力とは何か、どのような動物園を目指しているのか伺いました。

広さは11ヘクタール、動物園としては中規模だが、緑も多くて、都会の動物園としては大きいと思います。
周辺のビルが見えないように樹を配置しています。
寒い時期だと日本人は少ないが、中国、韓国、アジアの外国人が来てくれています。
大正4年にオープンした動物園です。
102年目を迎えて日本で3番目に古い動物園で、昭和40年代が1番お客さんが入りました。
当時300万人を越えたといわれましたが、平成25年度116万人で平成になって一番低かった。
平成26年に園長になりましたが、平成27年度は173万人になりました。

大学時代は生物学を勉強していました。
科学技術庁(現在の文部科学省)に就職、20年近く仕事をしていました。
普通程度の動物好きでしたが、結婚してから、ペンギンを中心に水族館、動物園を回るようになりました。
妻と一緒にいろいろな所を見て回っていましたが段々はまって行って、いろんな出会いもありはまって行きました。
「ペンギン会議」(ペンギンの仕事をしている人を中心にしたグループのネットワーク)に参加するようになって、ペンギンの事を勉強する様になって色々な人と出会って、ボランティアで手伝うようになりました。
35歳の時に動物に関するクイズ等の番組が有りそこに参加して、優勝しました。
動物園のあり方を検討するNPO法人「市民ZOOネットワーク」の代表を何年かやっていました。
動物の飼育環境を良くしようという運動。
本業の方で海外にも出張する機会があり、合間を縫って動物園に行きました。

大阪の公募があり、大阪市建設局動物園改革担当部長に就任することになりました。
自分ならこうするのになあと思っていたので、公募の時に自分の仕事だと思いました。
任期付きの仕事でした、3年が一つの期限ですがまだ続けられると思います。
以前の自分の仕事の反響は直になかったが、やったことがすぐ反響を聞けるということのやりがいは凄いと思います。
動物が生まれるということに一早くたち会えること、命の生まれる場にかかわれるということのやりがいは素晴らしい仕事だと思います。
大阪市建設局動物園改革担当部長に就任して、第一印象はえらいことを引き受けたなあと思いました、なんか元気がなかった感じを受けました。
予算がなくて予算を減らされたり人も減らされたりしていました。
まず、全職員と話をして原因を探そうとしました。
役所の構造の中でアイディアが引き上げられていないことを直感として感じました。
お客様目線を徹底してほしいと言い続けてきました。

赤ちゃんが産まれたら、赤ちゃんの情報をちゃんと伝わるようにお客さんに伝える。(PRが下手だった)
服装、作業服ではなく独自の素敵な服装にする。(デザインなどかっこよく)
地下鉄に動物を乗せる、ふれあい列車の導入。(スタッフのアイディア)
100周年をどうやって世の中に知らせるかということで出てきたアイディアで、面白いのでやろうということになり、特別列車を導入、GOのサインを出しました。
いろんな報道関係者が来てくれました。
しゃべる説明担当を私がやりました。
夜の動物園の開園もやりました。(照明設備の予算を取ってきたりして)
ノウハウがないところからスタートして、最初の年の夏、9日間で13万人が来ました。
昨年はよりよいやり方で出来るように改善してやりました。(トライ&エラー)
楽しい事をやっていかなければいけないので、リスクを判断しながら、GOサインを出すようにしています。

動物園の将来計画、天王寺動物園101計画をつくりました。。(中長期計画)
展示自体を大きく変えてゆく。
昔ながらのエリアを様変わりさせる。
動物の行動を引き出すような自然の環境の中で引き出すようなことを盛り込む。
動物を近くで見られるようにするとか、まずペンギンからやりたかった。
温帯ペンギンとしてちゃんと伝えるような、またペンギンの凄いところを見せたいと思っているのでそういう展示をしたいと思っている。
ふれあいも大事だと思っているので、そう云ったエリアも設けたいと思っている。
日本の動物も展示したい。(タヌキ、モグラとか)
一番大事なのはお客さんに楽しんでいただきながら、動物の大事な事をしっかり伝えていきたい。
科学はこれは不思議だなあと思って、それを解明する努力をして、それが知識につながっていって、科学技術が発展する。
動物園でもそれが適用できると思っていて、動物園はいろいろ不思議な事を持っているので、知的好奇心を刺激するような動物園を目指したいと思っている。
多くの人に生き物の不思議を知ってもらって大人の人も動物園を楽しんでもらいたいと思っています。











2017年2月17日金曜日

佐治薫子(オーケストラ音楽監督)  ・モーレツ指導で世界の舞台へ

佐治薫子(千葉県少年少女オーケストラ音楽監督)・モーレツ指導で世界の舞台へ
千葉県少年少女音楽監督 佐冶さんは81歳、10歳から20歳の子供たちで成る少年少女オーケストラの演奏技術は、芥川也寸志さんがこれほど精度の高い音楽は奇跡に近いと述べたほどで、定期演奏会では井上道義さん佐渡裕さんなど、世界的に著名な指揮者を迎え多くのファンを魅了しています。
佐治さんの現在に至る道のりは、山間の村の中学の音楽教師で、楽器に触れたことのない子どもたちを、音楽コンクールで優勝させたことから始まります。
音楽教育に全身全霊を傾け教師をしていた40年間、全国優勝は四十数回、その教え子はプロとして活躍したり、教え子たちによるアマチュアオーケストラができたりしています。
教師を定年退職後、千葉県少年少女オーケストラの音楽監督に就任し、以来21年間今も変わらぬ熱血指導で、子供たちに音楽の素晴らしさを伝えています。
音楽で子供たちに何を伝えようとしているのか、佐治さんに伺いました。

バッハ先生といわれていました。
バッハの音楽は心が静まってとてもリラックスしてていられるということで、子どもたちにもバッハの曲で心を癒してあげたいと、バッハの曲ばかりやっていたものでバッハ先生になってしまいました。
ずーっと教員の時もいい音楽を作ろうと、聞く人に感動を与え自分も感動するような、音作りですね、いい音でハモる様に演奏して行くと本人も感動するし、お客さんも感動する。
いいものを作るにはどうしたらいいかということをずーっと教員の時から考えています。
70歳代の教え子と話しますが、前から変わらないですねと言われます。
オーケストラも技術も必要ですが、ハーモ二―が良くて綺麗な音が広がって出てきたりすると子供達もいいねと云います。
今ベートーベンの4番をやっていますが、子供達はいい音楽だと言います。
バッハ、ベートーベンの音楽が大好きでこういう音楽こそ子供たちの血となり肉となると思うので、バッハ、ベートーベンの音楽は常に演奏しています。
ここでベートーベンを全曲やり終えました。(21周年)

小学校の先生の時に集会の時にはオーケストラの曲を聞かせたり行進させたりしました。
そのあとで小学校2年の生徒が教室で1回しかやっていないのに歌っていました。
オルガンで一緒に10分ぐらい指導したら、もう喜んで演奏してしまうんです。
子供って凄いと思って、1年生では駄目ということはないと思いました。
弾けるところだけ弾いて音楽に参加しなさい、と言って後は聞いていることも楽しいので、そういうふうに言っています。
世界でも素晴らしい指揮者、ソリストと一緒にやった時に声や音で感動して、自分も高まるんです。
そういった人たちは忙しいので、5年前から頼んでます。
予算は無いので後から何とかします。
井上道義先生も子供たちをヨーロッパに連れて行きたいといって演奏したいと云う事で、ちょっとやらせてほしいということを言って、エンカント序曲をやったら向こうが感動して、デュッセルドルフ(大人のオーケストラ)の方が呼びたいと云ってくださいました。
ケルン、デュッセルドルフ、ソフィアも全部向こうが招待してくれる形になりました。

悪いところは悪いと言ってあげないと駄目です、聞く耳を育てることが大事です。
いい音に出会っているとその音を出したいと思う様になる。
音符も読めるようにしていって、いい音を出せる人から順番にやって行くと、真似してクラス全員が綺麗な音を出せるようになる。
そうすると授業が面白くなり、休み時間でもやるようになる。
子供たち同士でも、誰かが上手になってくると、その人からみんなが教わっていろんな音をやってしまう。
音楽が嫌い好きというふうにどうしてなってしまうのか分からないが、私は全部一歩から始めます。
前にやったと思っても、もう一回一番易しいところから始めて、できない子がなくなってきてみんなできるようになる。
中学校の各教室にオルガンを設置してもらって、バッハのフーガの曲を弾いていたりして、音楽的な環境も大事です。
私がオルガン、ハーモニカ、アコーディオン楽器の修理も夜やってきました。

行った学校では楽器が無いので最初は合唱からやっていました。
初めてハーモニカの合奏を自分で習ってから、子供に教える様にして、東京でコンクールがあって出たら、山根銀二(ベートーベン研究家)さんが感動したということで、ただ金賞だけではなくて、感情という賞も貰いました。
1年目は君津、木更津市内で最優秀をいただきましたが、それからだんだんコンクールに出たりして良い先生にも出会いました。
エレクトーンが世に出てきて、皆さんから寄付をしてもらってエレクトーンを購入して練習に励んで日本一になってしまいました。
中学では10年間教えましたが、もう少し小さい時から教えて上手になったほうがいいと思って、小学生を教えるようになりました。

最初の小学校は音楽室もありませんでした。
アコーディオンとハーモニカを5月に買ってもらって猛練習をしてその年に予選に出て合格しました。
フーガト短調のバッハの曲があっという間にできて、6月下旬のコンクールで入選しました。(地域代表となる)
月曜から土曜まで練習していて日曜日は休もうとしていたら、先生日曜日にも教えて下さいと言われて、一日中弾いて段々上手くなっていきました。
現田茂夫さんのときには、よくやってくれて音楽が大好きになってくれました。
いいものしか教えたり与えたりしなかったんです。
現田茂夫さんたちは休み時間5分間やると一曲終わるので、終わると駆けて教室に帰って行きました。

コンクールに行くと必ず教えてくれる先生がいまして、中山富士雄先生(トランペット)が手弁当で来てくれたりしました。
千葉県少年少女オーケストラにつながって行きました。
一番しつけは大事だと思っています。
挨拶はやはり人間の一番大事な事で「こんにちわ」「さようなら」を言える人間になろうと言っています。
しつけをきちっとしているといい音が出る、音楽をきっかけにしての人間教育です。
私はこの道を選んで来て幸せだと思います。
音楽の素晴らしさを感じ取って世の中に出ていって立派な人間になって明るく楽しく過ごしてもらいたいと思っています。


















2017年2月16日木曜日

筒井宣政(医療機器メーカー会長)・娘が遺したものづくりの心(H28/9/2 OA)

筒井宣政(医療機器メーカー会長) ・娘が遺したものづくりの心(H28/9/2 OA)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2016/09/blog-post_2.htmlをご覧ください。

2017年2月15日水曜日

三上 寛(シンガーソングライター)   ・フォーク、ブルース、それでも怨歌(えんか)

三上 寛(シンガーソングライター)   ・フォーク、ブルース、それでも怨歌(えんか)
1960年代から70年代にかけて社会はあらゆる分野で変革をもとめる若者たちのエネルギーであふれていました。
三上さんはそんな時代の音楽界に衝撃的にデビューし、その後俳優としても活躍してきました。
今も全国のライブハウスを中心に精力的に音楽活動を続けています。

デビューは半世紀近く前、青森県北津軽郡から1968年に上京。
当時東京にあこがれた時代で、高校をでて、歌は好きだったが、詩人になりたいと思って東京に来ました。
寺山修二さんが大好きで、言葉の鋭さ、そういったものに近づきたいと思ってきました。
修学旅行で京都に行ったときに寺山修二の本に出会いました。
読んでいて目が離せなくなって、修学旅行の間中ずーっと読んでいました。
東京ではいろんな仕事をして、新聞配達をしていたときに、ビートニク(beatnik)の詩がはやったばっかりで、モヒガン刈りをしていたら、ある時スナックのマスターから声を掛けられて歌ってみてはといわれて、歌ったら全員が泣きました。
その人たちがレコードを出してやろうということが元になりました。
しゃべっていることも受けたようで、やっていけるのではないかなあとほのかに思いました。

1971年岐阜県中津川フォークジャンボリーに応募、聴衆に衝撃を与えてた。
私の始まりにもなった瞬間でした。
新宿からバスに乗って中津川に向かいましたが、3万人も人がいて吃驚しました。
当時のフォークシンガーのひとたちはアメリカのヒッピーのような人たちがおおかったが、黒シャツ、黒ズボンで、丸刈りだった。
いろんな歌を歌っていて気が付いたらスターになっていたみたいなものでした。
もてはやされて、こんな状況はなんだろうと思いました。(20代の最後のころ迄)
津軽三味線は地方のものだったが、東京以外にも文化があるということに目覚めた時代だったと思う。

10代で歌った歌が自分の中に付いてしまっていて厭で、都会的なものに憧れていたが、気がつくと戻ってしまっていて不思議だった。
グローバル、世界中が平均的になって行くのが癪に触っているというところもあり、音楽は小さいものだと思う。
音楽は一人二人にしか判らなくてもいいと思っている。
懐かしいものは懐かしいし、あのころよかったなあという気持はあるが、普通に考えたら大した話ではないが、そこを歌わないと私は気が済まない。
個に向かって歌い続ける、そういう思いが強いです。
国、性別とか違うが、人ってもしかしたら同じ思い出があるんではないかと思う。
ヨーロッパにもよく行ったが、日本語で歌うが伝わる人には伝わる、それが不思議です。

映画、TV等にも出て、その中でいい影響を俳優の人たちから受けました。
東映の深作欣二監督からお前やってみないかといわれて、最初どうしたらいいか判らなかったが、京都でロケがあり、菅原文太さんを見に見物客が3000人も来て、その時に中津川だなと思って、歌うようにやればいいと思って、やくざ映画のシーンをやったが、一回でOKだった。
いきなりゲスト出演でせりふも多かった。
NHKのおしんの松田先生役で出演していた。
俳優をやってみて、俳優の人は2~3年役が来なくても平気で役者でいるという肝っ玉の座り方、それには吃驚した、ミュージシャンは1カ月も仕事が来ないと焦ったりしますが。
東映の大部屋の人たちから学びました。

音楽業界も大変わりしました。
テープからCDへと変わって、最初まったく意味が判らなかった。
録音する時に、新しい曲は真っ白い紙に絵を描くようなものだったが、ヘッドホーンを付けて無音の聞こえない感じだが、その聞こえない感じが微妙に アナログの時とデジダルでは違う。
デジタルは無機質な感じがする。
今の方がつらいと思う、選ぶパワー、選ばなければいけない仕事という事は大変ですよ。
昔は選択肢はあまりなかった。

1978年ぐらいに、良い誘いがあったが拒否してしまう、めんど臭くなって止めてしまおうと思ったが、その時に物凄い恐怖感がありました。
答えは俺にとって音楽ってこんなに大きかったのか、こんな凄いことを俺はしてたのかということでした。
こんな恐ろしい思いをするんだったら、命が半分亡くなっても歌い続けていくしかないと思う、そういう体験でした。
人間の持つ強さ、力、一人の人間が生きるという事の凄さを思い出してくれと歌いたいし、音楽的な評価よりも元気出たよといわれるのが一番うれしいです。
若い人は、殴られているようだという人もいます。

我々のように長くやっている連中で気を付けなくていけないのは、敷居を高くしてはいけないということです。
歳を取ると言うことは面白い事です、知らなかった自分に出会う、見たことの無い自分に出会う、こんなところで転ぶのかとか、それを支えるのは想像力で、そのための訓練は十分にしたと思うが、自分をもう一回遊び直してというか、自分から見て自分と付き合って最後まで行った方がいいんじゃないかと思います。
自分で自分を叱って、自分で自分をほめたりしながらら自分と付き合っていけばいいんじゃないかと思う。
なかなか俺もいいとこあるなあとか、俺と付き合うのも悪くはないと思えば人生勝ちじゃないですかね。





2017年2月14日火曜日

三枝俊介(ショコラティエ)  ・ショコラの誘惑

三枝俊介(ショコラティエ)  ・ショコラの誘惑
三枝さんはチョコレートを専門にする職人ショコラティエです。
洋菓子承認を経て、チョコレートの専門店を開き、3年前からはカカオ豆の加工から製品作りまでを一貫して行う、ビーントゥバーに取り組んでいる日本のチョコレート職人の先駆者の一人です。
カカオ豆を扱って見るとまだまだ謎だらけというチョコレートの世界について伺いました。

2月14日バレンタインデー、年間を通して一大イベントになり、ショコラティエの職業の中では年間の売上の1/3がこのバレンタインに出て行くので、昼夜を問わずひたすらチョコレートを作り続けて大変な時期です。
販売されているチョコレートのなかでショコラティエが手作りで作っているのは、全体からみるとごく一部で、カカオの産地からたどってゆくと製品になるまでの膨大な時間と手間を考えると、一粒があの値段でも安いぐらいだと、雑誌の編集者などから言われます。
ワインも200万円するものもあれば何百円で買えるものまであるので、手間、こだわりが重要な違いになってくる。
ショコラティエ、チョコレートを作る人、お菓子屋さんの様だけれども、チョコレートだけを作る人。
パティスリー「メランジュ本店」を開店。
13年前に専門店を開けてから、これは片手間では出来ないと思って、お菓子の店を閉めてチョコレートだけに限ってやっています。
シンプルで幅が狭いように見えるが、奥行きがどこまでもあってまだ手つかずのものがいっぱいあります。
まだ開発されていないものがいろいろあって、こっちをやろうと思って自分の人生の残り時間を全部使おうと思って、お菓子屋さんを閉めてチョコレートの方に進みました。
子供の時からお菓子は好きでしたがチョコレートは特に好きで、どれを買おうかと1時間ぐらい迷った時期もあり、お店の人が呆れていました。
一度食べた味はほとんど覚えています。

我々の仕事の基本は作るときに食べます。
同じものでもロットによって違ったりして、そのものの味が判るようになります。
あのチョコとこのチョコをこういう具合で合わせると、この味に合うと瞬時に判るので、試作をやったりするということはなくて、僕の場合には一発で出来ちゃうんです。
最初音楽をやろうと思っていましたが、英才教育を受けている人が圧倒的に多くて、デザイナーとか絵描きを考えましたが、自分よりはるかに優れた才能の人が長い歴史のなかで前にいるので、越えることは難しいと思ってこれはやめようと思って、第三志望でしたが、浪人して、その間に自分の気持が決まりました。(場所は清里でした。)
清里でアルバイトをしながら自然の中で暮らしていると、毎日自然の中で暮らしているとなんかいやになって、下りてきてからお菓子屋さんになりました。

ホテルプラザ(大阪)、食のプラザといわれていろんな事に画期的な事を始めました。
初代料理顧問がポール・ボキューズさんでした。
そこで修業させていただいて、ボキューズさんにも仕事をさせていただいて、ボキューズさんの有名なケーキがあるんですが、これを作ってといわれて、見た目だけでこういうものかなあと思って作ったんですが、後にベルナシオンに勉強に行くと、ボキューズさんとホテルプラザの時代とかいろいろ繋がっていくんです。
ベルナシオン、フランスにある老舗の有名なショコラティエ、チョコレート屋さん。
お菓子屋さんの原点といわれる、これ以上手をかけられないと云うぐらい手をかけたお店屋さんです。
半製品を購入するところが多いが、そこはアーモンドの皮をむくことから始まります。
行って凄い衝撃を受けました、香り、味も違うしチョコレートは鮮度があるんだということが感じました。
いつかショコラティエをやろうとそこで思いました。

チョコレートは26度で溶けるので、店を運営するのに寒い時期でしかできないので、お菓子屋さんをやりながら冬場にチョコレートを作るというところに落ち着かざるを得なかった。
上品な街並みが無かったところにたまたまお話をいただいたのが13年前になります。
チョコレートの消費量は日本は低いので、大阪でお店を出したところは高級ブランドが集積された様なビルだったので、ここだったら何とかやっていけると思ったが、1年やって難しいと思い始めて、東京には出されないですかと云われて、銀行とかが反対するなか、今東京に出さないとやってけないと思って、東京の丸の内にお店を出すことになりました。
10年たって両方はできないと思って、残り人生をカウントダウンをするとお菓子はやめてチョコレートを専門にと思ったのが3年前です。

どうしても越えられないものが見えてきて、既成のものはすでにメーカーが完成品として出来上がっている。
素材に合わせて、全然違うものを混ぜ合わせることによって自分の味を作って行くが、上手く行かない事がある。(混ぜたものと混ぜたものを混ぜるからうまくいかない)
カカオ豆から行かないと駄目だと思いました。
ビーントゥバー それぞれ拘ります、カカオ豆の栽培から発酵、乾燥から、処理してどういうチョコになるかを追求してやってゆくわけです。
全世界のカカオの8割はアフリカで作られているが、元々カカオはアフリカには無くて、中南米がカカオの原産地です。
植民地等にどんどん木を植えて、病気に強い品種ということで決まった品種が多い、栽培しやすいがベーシックな味わいになる。

栽培技術が最近確立されつつあって、原品種が凄く多くて、もともと3種ぐらいなのがDNAなどを調べて10種類ぐらいある事が最近分かってきました。
カカオ豆は自由に手に入らないだろうと思っていたが、手に入ることが分かった瞬間にすぐに行動におこしました。
ビーントゥバーをやろうと決めて半年で、お菓子屋さんを次々閉めて、数か月で商売替えをしました。
20年間やっていた清里の店に機械を入れて、そこで作ろうと思って豆工場を作りました。
清里は夏でも暑くならないのでカカオの保管、できたてのチョコを寝かせるのにもいいんです。
色々なご縁、タイミングで仕事をしてきて自分の意志ではないような気もする時があります。
チャンスは来ないと思っている人がいるかもしれないが実はその辺に有るんで、見つけるかどうか手に取るかどうか、だと思います。
気が付いているがやらない子がいる、そこで違いが出てくる。
銀行とか周りに反対されても、これかなと思ったら躊躇しないで進んできました。

大きなメーカーは分担してやっているので、1から10までは判っていない。
チョコレート、カカオに関する謎はいっぱいあります。
今まで接しているチョコレートは味からくる、飾りから、形からくる、その中で素材の組み合わせ、豆からどうというのは無くてそこが原野なんです、道がないんです。
カカオ豆はいろんな使い方があるとおもって、石鹸を今実験中です。
カカオ豆の皮で紙を作っていこうと思っていて、それも実験中です。
チョコレートの魅力はだんだんわかってきて、高カカオのチョコレートを食べることが人間に良い効果があるということが最近言われ始めて、内閣府でも正式な研究を投資して行くと云う事で食べると気持ちが落ち着く、頭のめぐりがよくなる、ポリフェノールは赤ワインの16倍ある。

ハイチ、原産国だが食べられていない。
ハイチの豆で作ったミルクとビターチョコがこれです。
ガーナは世界第2位のカカオ生産国で労働力が足りず、子供まで狩り出されて児童労働をなくして行くためにNPO法人がガーナに出かけて行き、児童労働が無い状態にして、それで出来上がったカカオ豆で作ったのがこのチョコなんです。
買っていただくことによって次の活動のもとになって行く、寄付を盛り込んだ形のチョコです。
産地は裕福ではないので、うまく廻っていければいいと思っています。
チョコレートを通じて何ができるかを考えていますが、一杯作って儲けて大きくしてということをあまり考えていなくて、チョコレートを媒介にして何をどうやっていけるのかという道筋みたいなものを作っていければいいなあと思っています。





2017年2月13日月曜日

末冨綾子(画家)        ・見えない私が描くパリ

末冨綾子(画家)        ・見えない私が描くパリ
山口県生まれ54歳 武蔵野美術大学大学院を卒業後、フランス政府の給費留学生としてフランスパリに渡り絵画と壁画を学びました。
現在もパリにアトリエをおいて創作活動を続けています。
末富さんは全盲です、病のため徐々に視力が低下し、10年ほど前に失明しましたが、試行錯誤の末、紐を使って絵を描くと言う独自の技法にたどり着きました、
去年の11月には故郷山口県宇部市のときわ動物園に末富さんのレリーフが設置され話題になっています。

11人の人物と猿が一匹、一人づつ肖像画のように描かれたものが4枚づつ三段12枚がえがかれている。
パリで知り合った友達たちで、フランスは多民族国家なのでいろんな人たちがいたり、移民の人も多くて、いろんな国が多くいて、一人づつ名前も書いてあります。
目が見えないと、どんな肌をしている判らない。
いろんな国の人たちがお互いを認めながら幸せに暮らしている。
今は時代が違って来てこういうふうではなかった、そういう理想の国であった。
この中に一匹猿が描かれているが、猿はときわ公園にいる推定42歳の猿です。

紐をつかった立体的な作品になっているが、まずパネルに石膏とか漆喰を塗ってその上に接着剤を塗って、上からドライアーをかけるとハッチングというがねちゃねちゃとしていて、紐を貼ると紐がくっついて、形を作ってその上にアクリル絵の具を何層かかけてそのあとで紐の出ている部分に黒い色を塗っていくと版木のような形になるが、黒地に白い線で描いているように仕上げています。
ヒントになるのは棟方志功の技術です。
昔は線で描いていたが後でフィードバックができなくて線を紐に置きかえると、だいたい目はこの位置とか、当たりを付けることができるので紐のアートに変わって行きました。
大学院の時に作っていたアクリル画が公募展で賞を最年少でいただいたりして、フランス人の審査員から完成していると言われたが、目が見えなくなると言う事がなったら自己の模倣で終わっていたかもしれません。
眼が見えなくなって考えることを強いられて、フランスは理屈でものを考える国であり、理屈で考えてものをつくっていかなくてはいけないと言う事を、パリの国立高等美術学校の先生達に叩き込まれたことだったので、紐のような形に変えてゆくことには何の抵抗もありませんでした。

パリに渡って作品が変わったということはそんなにないです。
子供のころ印象派の画集を絵本代わりに見ていたとか、山口県は土が黄土色で、空が青くて南仏のセザンヌがスケッチをしに歩いた道などと色調が似ています。
有名になりたいとか、お金持ちになりたいとか思わなくて、芸術の心理に近づきたい、それが一番です。
中学生の時に両親がガーデニングをやりたいと言って田舎に引っ越して、片道10kmを自転車で学校に通っていて、農園道路に入ると真っ暗で見えずらいと思ってそれは街灯がないことだと思ってた。
高校2年から3年にあがるときに、家族と一緒に自転車で行くときに、私の自転車が速度が遅いと思うようになって、医者に行ったらだんだん目が悪くなって40歳ぐらいになると失明してしまうかもしれないと言われた。(言われても実感がなかった)

武蔵野美術大学に受かって、その後パリに行くことになる。
父が大学3年の時に亡くなり、大学院に進んだ時に奨学金があり、非常勤講師をやったりデザインの仕事をして卒業しました。
絵を今描きたいと言う気持があり、半年間パリに行く機会があり、フランス給費留学生になれたら2年間奨学金をもらいながら絵が描き放題で、パリの国立美術学校で勉強もできると言うことだった。
3か月でフランス語をたたき込んで、一次試験をパス、二次は面接があり、目の事は隠していた。
パリは間接照明で暗いし、地下鉄の中も暗くて最初きついと思いましたが、だんだん慣れてきました。
本もずいぶん読みました。
マティスも切り絵がありますが、眼が見えなくても切ったりできるし、作品自体マティスも眼を悪くして入院していた時の作品でした。
どんなことを考えて、どんなコンセプトで作品をつくっていくかが、フランスでは大変重要な事で、オリジナリティーを大事にする国です。

ドガが早くに見えなくなっているが、まったく見えなくなっても馬の作品などをつくっている。
ドガは失意のうちにいたが、ドガはそれをつくることによって彼の命をつないでいた。
京都大学の心の未来センターで話をしたが、希望、未来とかそういうテーマのところで呼ばれる事が多いが、私はただ淡々と仕事をしているだけです。
尾ひれのように後で自分のやったことが付いてくる、というだけで日々仕事をしているのみです。
まずはアクリル絵の具で人物などを描いていましたが、だんだん目が見えなくなって線が太くなる。
最初は繊細な作品が好きだったが、ポンピドゥー・センターの中のフェルナン・レジェの太い線が好きになって、色弱にもなって、頭の中でピンクならピンクを頭の中で決めて、ブルーならコバルトブルーにそれに白、とか赤などをちょっと入れたりして、色合わせをしてゆくことで、頭の中で考えて仕事をするようになりました。
仕事をした後に触っても色が判らなかった。

蜜蝋を使ってみようと思って、パネルに石膏とか漆喰を塗って、その上に顔料を混ぜた蜜蝋を塗って、それを彫刻刀で削っていった。
棟方志功のように木を削ろうしたが、木は硬くて駄目だと思って、蜜蝋は柔らかいので削ってゆくと出来上がった時に、目減りしてゆくので後で触るとやはり判らない。
そこでおしまいかなあと思ったが、ピアノを弾いたりして余生を過ごすしかないかなあと思ってピアノを買ったら、ピアノの調律師がタコ糸を持っていて凧揚げの会にも入っていてタコ糸をあげますといわれて、タコ糸もいろいろ種類があり弾力性もいろいろあり、それを使ってやっているうちにいつの間にかうまく行くようになり、版木のような効果もあるのでいいと思うようになり絵画に戻りました。

下絵を頭の中に思い描く様にする事が出来るので、頭の中にある絵を画面の中にコピーしてゆく。
目が見えなくなってからは確実なものを求めるのが必要になるので、フランス語の語句をパソコンで調べます。
作品を明快なものにしてゆく事になるのではないでしょうか。
1998年結婚、子供も設ける。
うちの地域はアウシュビッツで一時収容所になっていた事もある地域で、皆さんご苦労なさった方が多いので人情深いです。
フランス人の親切な人たちに助けられました。
テロの襲撃の2度目の時に、私の友達でレストランが襲撃されて何人か亡くなってしまいました。
レストランをやっていたが1年前にほかの人に譲り渡したら、レストランが襲撃されてしまった。

これまではがむしゃらに作品をつくってきたが、有名なルーブル美術館にある絵画を作った作品なども2~3点しかなくて、100年後200年後にはほとんどの作品は無くなってしまうと思うので、作った作品を確実に保存してくれる所に収蔵してもらうと言う事が大事だと思います。
少しづつでも質の高いものをつくっていきたいが、これから目指すものというよりもこれまでやってきたものからしか出てくることはないと思う。
作品を作っているところを見せる、これは新しい試みですが、見せて行くことが大事だと思います。
突然見えなくなったわけではないので、視覚障害をあまりおおげさにとらえないでほしいとは思います。
京都市の明倫小学校という廃校を改造して、芸術センターがあるが、そこで作品を作っているところを見せる、それに向けて頑張りたいと思います。

















2017年2月11日土曜日

山崎恭弘   ・爆心地にたおれた弟よ、姉よ、友よ

山崎恭弘           ・爆心地にたおれた弟よ、姉よ、友よ 広島での被爆体験を語る
広島に生まれ育った山崎さん 83歳昭和20年8月6日幼い弟と姉を原爆で亡くしました。
翌日兄弟の遺体を探しに市街地に入った山崎さんも被曝をしました。
戦後関西の大学を出て家庭をもった山崎さんは自身が今住んでいる兵庫県川西市の小学校などで 10年ほど前から原爆の語り部として活動をしてきました。
定年退職した後地元の小学生に被爆の体験を語るようになりました。

同級生の多くは被爆後連絡が取れなくなっていました。
小学校の名簿の復元の活動も始めました。
アメリカのオバマ大統領の広島訪問、平和公園で何を見るのか、どのようなメッセージを発するのか,
TV中継に耳を傾けていました。
やっと来たかとも思うし、よく来たなと思いました。
プラハで言ってから大分年数がたちましたから。(2009年)
5月27日午後5時30分ごろ広島平和公園に大統領専用車で到着、原爆資料館におよそ10分間見学しました。
その後原爆慰霊碑に歩いていき白い花輪をたむけました。
その後書簡を述べる。
「71年前非常に晴れた朝に、空から死が降ってきて世界が変りました、閃光が広がり、火の玉がこの町を破壊しました。
これは人類が自分自身を破壊する手段を示したものです。・・・」
17分に及ぶ長いものだった。

通っていた広島高等師範学校付属中学校の生徒たちは広島市郊外での農村で労働をしていましたが、体調が悪く自宅に帰されました。
能美島で静養することになりました。
二人の弟は広島の自宅に戻ってきました。
そして運命の8月6日を迎えました。
外が物凄く明るくなりました。
広島市の方をのぞくと火の玉がぎらぎら燃えていて、火の玉として浮かんでいました。(数十秒)
キノコ雲になってそれをじーっと見ていました。
夜になると、広島市の方は真っ赤に見えていて、何か大変なことになっていることが判りました。
翌日広島に行こうということで、おにぎり、お茶、薬、包帯等を持って父と共に2歳の弟を母親が背負っていきました。
建物は無かったです。

死体が河岸にあるのを見て、とても駄目なのかなあと思いました。
家のところについて、入ったらすぐに真っ黒い遺体が二つ転がっていました。
弟は小児まひで足が悪かったので、車輪が近くにあり小さいほうの遺体が6歳の小児麻痺の弟でもう一つは世話をしていた姉で有ろうと思いました。
もう一人の弟は見つからず、隣の土蔵が焼け崩れており、父と一生懸命掘っていると、小さい骨が出てきて、土蔵の赤土が高熱で溶けてガラス状になっていて頭蓋骨の裏に食い込んでいました。
骨の大きさなどから4歳の弟だと判りました。
それらその骨を持ち帰りました。


「・・・この広島の真ん中に立ち私たちは思いを馳せます。
子供たちの苦しみもを思い起こします。
声無き叫び声に耳を傾けます。
私たちの心を変えなければなりません、戦争に対する考え方を変える必要があります。
紛争を外交手段によって変えることが必要です。
広島、長崎が核戦争の夜明けではないということを思い、もっと私たちが道義的な目覚めの始まりだったということを広島、長崎が教えてくれたのです。」(オバマ大統領の演説一部)

資料館を見て、献花をして、ドームを見て演説をしてアメリカの大統領として出来ることをこの人はかなり誠実にやったと思います。
原爆資料館にはいるかどうか直前までは判らなかったが最初に入りましたが、見ることが今回の広島の眼目なので、資料館を見て、ドームを見て、原爆の話を聞いたりしていたことはかなり違った印象をあの人に与えたのではないかと思います。
就任時のプラハの平和宣言から、任期の終わる最後の年になって、あの人にとっては完結すると思いますが、アメリカという核大国がどうなってゆくのか、世界をどうリードできるのかと言うことは今一つ読み切れないところがあるが。
核廃絶を願うものとしてはまだ危惧はいくらでもありますが、オバマ大統領としては、核軍縮に向かって言っているというのは明らかに判りますので、向きとしてはいいと思いました。

戦争をやっては駄目なんだと世界は考えているということはいいことだと思っていて、一番良い事は戦争をしないことだ、どんな理由があろうが戦争をしないことだと思います。
オバマさんが戦争に対する話をしたことは共感を覚えます。
罪、原罪 あの人たちには一生のしかかることだと思っていて、原爆を落とした罪は一生ついて回る。
作ってよかったと当時は思ったかもしれないが、あとでは皆後悔しています。
オッペンハイマーは公ではいけなかったとは言わないが、晩年は凄く後悔したような言い方はしています。
オバマ大統領等がここに来たということは、罪を償う気持ちを私たちはくみ取ることはできると思っています。

折り鶴を持参して原爆資料館に出迎えた小学生に託して帰りました。
「偵子の像」を見ていましたが、そのことを知っていて、折り鶴を作ったんだと思います。
自分が生きている間は核廃絶は出来ないかもしれないが、次代の子供に託すという意味があったんだと思います。
子供は未来を背負うものという認識で見ているんだと思います。
2006年頃から母校の同級生の消息を確かめる活動を開始、同級生の名簿を作りたいと思って、始めました。
父親が几帳面で写真を撮っていて、40数人が写っていたので、まずはその名前の記憶をたどりながら始めました。
人は二辺死ぬ、本当に死んだときに死ぬ、記憶から失われたらもう一辺死ぬ。
せめて名前ぐらいははっきりさせて、この人はこの学校にいて、生きていた証しを残したいと思っている。

放射能を受けた時点から何年もたって、DNAとかの変化が起きて障害がいろんな形で出てくる。
当初はうつると言われた。
被曝を隠していろんなところに行った人は多いですね。
被曝して心も傷つける。
オバマさんが来たということが彼等にどの程度の慰めになるか分からないが、ひとつのステップではありましたが、亡くなった人に確かにあなたの死は無駄ではなくて、世界はこんなふうにどんどん良くなっていると言えないのが、一番悔しいところです。
故人に対する感情はなかなか一朝一夕には消えない、隠れた芯のように残っている。
戦争責任、裁判で裁かれた人が持っている戦争責任、そういうものとは別に、その当時日米戦争を始めた時の一般の人の戦争責任はあると思う。
当時12歳だった私なりの責任はあると考えています、償うためにやることが今やっている語り部であり、亡くなった同級生の名簿をつくったりするのが自分の責任かなあと思っています。


2017年2月10日金曜日

寿福 滋(カメラマン)    ・“杉原千畝”の世界を撮り続けて

寿福 滋(カメラマン)    ・“杉原千畝”の世界を撮り続けて
寿福さんはナチスドイツの迫害を逃れるユダヤ避難民に日本の通過ビザを発給した外交官杉原千畝の業績と避難民のその後の生き方を写真で追い続けて来ました。
昨年横浜市の歴史博物館で開かれた「杉原千畝と命のビザ展」は好評を博しました。
平成23年には写真集「近江の祈りと美」を発表し、滋賀県文化賞を受賞しています。
寿福さんが杉原千畝の世界にかかわったのは30代の後半アウシュビッツに出会ってからでした。
当時の杉原千畝ビザリスト、杉原千畝が発給した避難民が記されたリストによると杉原ビザで世界に渡った避難民は6000人、その子孫は3万人とも言われています。
寿福さんは避難民の当時と今を伝える事で平和の有難さを伝えたいとおっしゃいます。

昨年横浜市の歴史博物館で開かれた「杉原千畝と命のビザ展」は熱気があって土日は物凄く人が来られました。
1万3000人を越えたらしくて博物館でもびっくりしたそうです。
泣きながら見る人もいたり、毎日会場に来る子もいたというような、たくさんの出会いがありました。
人の目を見ていると、うなずきながら私の話を聞いてくれて、一人ひとりに話をするような感じで良かったです。
杉原千畝の展示をやるのはアウシュビッツがきっかけでアウシュビッツには3回行きました。
有刺鉄線を張ったりして出来るだけその感覚に入ってもらおうと工夫して展示しました。
感想ノートにスイスから来たとか、ドイツからも来て出来ればドイツで開催してほしいという内容もありました。
小学校6年生が150人来まして、
「私は小さい時から戦争などの恐ろしいことが大嫌いで避けてきました。・・・でもそれでは何も始まらないと思い、杉原さんのように立ち向かっていかなければならないんだ」と書いています。
「私は展覧会に行くまでただのいい人だと思っていたが、今日沢山の資料写真を見て、一人で6000人の命を救ったことは世界を救うことと等しい素晴らしいことをした人なんだなあと思った」といった内容が書かれていました。

私は横浜で発掘をしていました、10年あまり下宿していてカメラマンとして勤めていました。
横浜で展示会ができればいいなあと思っていました。
氷川丸でユダヤ人を運んだと知って、まだここにあるんだと思いました。
杉原ビザが世界記憶遺産にノミネートされたということもあり、横浜でやろうということになりました。
小学6年生の頃、「夜と霧」というフランクルの本があり、先生が朗読してくれて、「収容されている人たちが世界ってどうしてこう美しいんだろう」という場面、夕陽を見て感動している。
だけど収容されているから明日はいなくなるかもしれないがそういう風景を見て感動している場面があり、それだけは子供の中の心に残っていました。
琵琶湖の風景は朝陽も夕陽も美しい、そういうふもとで育ったので、小学6年の時読んでもらった夕陽ががちっと残っていたんだと思います。
ポーランドに行って、子供のころ思っていた美しい夕陽をみたいと思っていたが、アウシュビッツに行くと現実は足が重たくなるほどになり、アウシュビッツのショックを展示してみようと思って、アウシュビッツの展覧会から始めるようになりました。
その後杉原さんのことを知って、行って、いろいろ繋がって行くわけです。
本を読んで杉原さんがユダヤ難民を助けたと知って、ユダヤ難民たちの足あとを訪ねてみようと思って、聞いてゆくうちにいろいろ人とのつながりで繋がって行きました。

リトアニアには6回行っていますが、おばあさんが歩いていて、声をかけてきてにこにこ笑っている。(やっと会えたという様な雰囲気)
私の手の甲を触って次に私を抱きしめてきました。
これはすごい歴史の中にいる、多分杉原さんのことを知っていて、杉原さんにお礼はできないけれども、もし日本人がやってきたら50年も待ち構えていて、お礼を言おうと思っていたんだと私は解釈して、とことん追っかけてやろうとしていろんな人に聞いて回りました。
ある人からニューヨークにいるナンバーワンのお坊さんを紹介してもらって、助けられた少女シルビアさん(ワシントン大学の先生 70歳を超えているが当時は6歳)にたどり着いて、どんどん出会いがあり、話が進んで行きました。
ニューヨークでもいろいろいじめとかあり、「良いことをしよう」というコンテストをやっているとシルビアさんが言ってまして、杉原さんの写真がありました。
コンテストの1位が1500ドルということで、シルビアさんはニューヨークの高校生に杉原さんというこんな人がいて私も助けられたと話し、私たちは正しい事をしようということで、質問として
①これまでに正しいことをするという選択に迫られたことはあるか?
②これまでに自分が誇りに思えるような決断をしたことがあるか?
③間違った選択をしたけどもこれまでに何かを学んだという経験があるか?
一生懸命エッセーコンテストに高校生が参加したそうです。
シルビアさんにとっては杉原千畝の精神だと受け止めている。

リトアニアからシベリア鉄道を経由してウラジオストックから日本の敦賀に来る、敦賀から神戸、横浜を経由してユダヤの人たちは上海、北米に渡ったが、その経路を追いかけました。
シベリア鉄道は昔のままで1週間かかって行きしたが(当時は2週間かかった)、私は好きでしたが、避難民の人たちは苦難だったと思います。
吃驚したのは難民の方がお金を替えるために腕時計を売っていたが、その時計を私が撮影していたら、20分間動き出しました、動き出したので1秒ごとにシャッターを押しました。(何か奇跡のように感じました)
1940年代横浜の2流、3流のホテルはユダヤ人でいっぱいだったという。
展示会では会話型、参加型の展示会でいろいろ知らない人同士の会話があり良かったと思います。
コソボ紛争のときにも難民が一杯いたりするが、戦争の姿のなかに子供達が遊んでいる元気な姿があり、こう云う子供たちがいるのならまだこれからの難民問題も救えるのではないかと考えました。

文化財、仏像が専門ですが、技術的には長くやっていればなんとかなるが、土門拳「死ぬことと生きること」を教科書の様にして読みました。
リアリズムを徹底的に追求した方で、画面の外に何を込めるか、写真に何かを込めているか訴えたい気持ちを暗示するような写真でないと駄目だというふうに私は読み解きました。
仏像を撮るときにも二つの顔が隠されていると思います。
不動明王、右の写真は怖そうな感じ、左の写真は少し温和な感じ、の写真。
昔はろうそくの明かりでみていたと思うが(右の写真)、私たちは上からの照明で見ている(左の写真)。
ろうそくと同じような照明で撮影すると全然違う。
仏師、建築家もろうそくの光のなかで、拝んでもらって悩みなどを訴えてたんだろうと思うわけです。
文化財の撮影でも昔と一緒の光で撮りたいと今考えています。
杉原さんの写真を撮っていると一本の糸でつながっているような感じがします、だからいつも新しい発見と感動があるんでしょうね、生きている限りは続けるしかないです。













2017年2月9日木曜日

小川規三郎(博多織職人・人間国宝)・時代を生かすよろけ模様

小川規三郎(博多織職人・人間国宝)・時代を生かすよろけ模様
昭和11年生まれ、福岡に古くから伝わる博多織に携わってきました。
博多織は厚み、張りがありながらしなやかな感触をもち帯や着物、相撲のまわしなどに利用されています。
もともとは絹の手織りで作られていましたが、今では各種の糸を用い機械織りが大勢となっています。
小川さんは昔ながらの手織りと良質の素材にこだわり江戸幕府に献上された高級品献上博多織の伝統を守り続けています。
戦後父の厳しい教えに耐え、帯を担いで行商しながら家業を守り通したという小川さん、今では伝統的な直線模様だけではなく、よろけ模様という曲線を生かした独自の織りの世界を編み出しています。

相撲のまわしは博多織です、絹が4kg近く必要になり硬く織ります。
博多は昔は中国との交易があり、向こうの物資、文化が日本中に広がってゆく、古い歴史があります。
最初は陣幕、陣羽織、旗指物などをつくっていた。
機械の技術が進んで最近は機械の方がいいです。
手織りは修業期間が長い、子供のころから厳しく指導を受けます。
素材にも拘ります、良い物を作るには良い素材を使わないと良い物はできません。
糸は生きているんです、真空包装で箱に入れておくと呼吸できないから絹が弱ってきて、菌が発生してカビが生えて変色の元、糸全体が駄目になってしまう。
呼吸ができる様な状態にしておかないといけない。
一番良いのは身につけること。

15歳からこの仕事に就きました。
長男で家の手伝いをしました。
父からは見て覚えといわれて、物差しでよく殴られました。
自分で経験する体験すると忘れない、教わると忘れます。
父が亡くなってから、これが親父の言わんとしていたことかとか、もっとよく見ておけばよかったとか、反省とか悔しいことばっかりでそれから20年間はいずりまわりました。
父はあまりものを言わず仕事一筋でした。
45歳の時に父がなにか欲しいものはないかと初めて優しい言葉がありました。
父が亡くなる間際その時のことを思い出して、欲しいものがひとつだけあると、父の手を握ってこの手が欲しいといいました、それだけでした。
父はその時生まれて初めて優しい顔をしていました、そのことはしっかり覚えています。

それから新しい修行、20年修行をして文化財をもらいました、その父がいなかったら文化財になっていません、一介の職人に終わっていました。
亡くなっても父が生きているような気がします。
献上博多織を代々受け継いできました。
昔子供のころは、着物はもってのほかだった、国賊ものだと言われた。
戦争中は平和産業は虐げられていた。
父親が死んだあと、行商に行って踊りの会があると言えば担いで行って入れてもらったり、お茶の会があると言えば後で見てもらったりして担いで歩きました。
今思うと物を作るよりはいい修行だと思いました。
冬空気が乾燥するので、やかんで蒸気を出して、旗の機械は木で、周りは泥壁で、土間で静電気はおこらない。(暖房は入れないで窓を開けて空気を入れ替えるだけ)
静電気はけばだってくるし、ごみを呼び込みほこりを織り込む。

模様は京都西陣織は日本一だが、博多は縦糸で模様を出すが、京都は横糸で表現する。
横糸を変えればいいので何十何百色も使えるが、博多織はいったんセットするとそこしか出てこないので、横糸は一色です。
斜めになっていいんじゃないかと考えて、川が流れるようによろよろとしてみたら、良いものができました。
新しいものにチャレンジするのも面白いものです。
これは博多帯ではないと、昔だったら相手にしてくれなかったと思う。
品評会に出したら良い評価をしてもらった。
お客さんが付いて売れ出して、みんなが真似し始めました。
山登りが好きで山に行ったときに自分の心が大きくなり、頭が空っぽになり自然のいろいろ現象があり、その中から模様などをいろいろ考えます。
おしゃれをする、好奇心を持つこと、それに対して勉強する。

ものつくりはいかに良い物を作るかです、自分なりの目的、満足できるものに近づけるか。
絹糸、最近は外国産の方がいいものが出てきた。
私は国産のものにこだわるので、養蚕家のところに見にゆきます。
繭は春と秋にとれるが、春は黄緑の葉を食べ優しい柔らかい絹糸になり、着物に向きます。
秋繭は葉の緑が濃くて油が多く強い絹糸になり羽織に向くんです。
絹糸は細くて軽くて強い糸になります。
伝承は受け継ぎ、伝統はその時代その時代のものに生き残ってゆくもの、色もデザインも変わってゆく、伝統は新しいもの、生き物です、そう思っています。
昔は花鳥風月、風景の綺麗な物を持ってきたが、私は幾何学模様で出してみました。
流行を敏感に感じ取ることが大事です。

2020年には200カ国近くが参加することと思いますが、国旗を参考にして、着物とか帯に生かしたい、私はカナダの国旗を参考にして帯を出しています。
「にこにこころころはきはき」 心に笑顔をもつ、よく体を使え働け、はっきりものを言いなさい、駄目なら駄目とハッキリという。(濁しては駄目)
「カメとウサギ」話を題材にしてウサギは目的を失ってしまっている、目的を忘れるなと言っています。
自分自身に目的を持って、ノルマを課すことですね。
経験体験は最大の師匠です(いろんなものを見て、いろんなものを聞く)













2017年2月8日水曜日

杉 葉子(元女優)       ・日米の架け橋役の55年

杉 葉子(元女優)       ・日米の架け橋役の55年
戦後間もない昭和24年「青い山脈」という映画が上映されました。
その主演は今は亡き池辺良さん、原節子さん、小暮美千代さんなどですが、その映画でデビューした新人杉葉子さんが注目されました。
1928年(昭和3年)東京に生まれ、東宝ニューフェースに合格、青い山脈の後も多くの映画で活躍されました。
1961年にアメリカ人と結婚して映画界から去りました。
その後杉さんはアメリカやヨーロッパの人たちに伝統文化の茶道、生け花、和食など日本人の心を紹介し続けて世界と日本の架け橋役として力を尽くしてきました。
その杉葉子さんが昨年10月日本に戻ってこられました。

結婚が昭和36年、55年前、アメリカにも、ドイツにも住みました。
父が大蔵省だったので移動があり、小学校、女学校など3年ごとに変わっていて、悲しかったですが、でも今はどこに行っても友達がいます。
ドイツに住んでいるころは旅行が好きだったので、車でフランスに行ったり、スペイン、スイスに行ったりしていました。
池辺良さん、原節子さん、若山セツ子さん、木暮実千代さん、龍崎一郎さん、伊豆肇さんとか、みなさんいらっしゃらなくなってしまいました。
「青い山脈」は当時、大ヒットして当時は映画は娯楽の中心でした。
水着は当時は二重だったんですが、ピタッと体に合うようにして、すっと立つとヌードみたいに見え、ポスターは貼っても貼っても盗まれていました。

私の形容詞は美人ではないけれども杉葉子はと付くのです。(美人ではない、ではないのでまあいいかなあと思っていました)
私は東宝の第2期のニューフェースで、第1期が三船敏郎さん、若山セツ子さん、久我美子さん、相原巨介さんとかいました、映画は楽しみでした。
津山路子さんが 一本か二本主演されました。
成瀬巳喜男さんの心温まる家庭劇なども含めて70本ぐらい出演しているのですが、青山脈の杉葉子になってしまいました。(かぞえから変わるときで 20歳ごろ)
原節子にそっくりだと言われたりして、試験を受けてみたらと言われて、6000人の中から2番に選ばれました。
5社協定があり、それぞれ映画会社の雰囲気が違って東宝は健全な青春物が多かった、他の
会社の方たちとは共演ができない。
東宝は日本舞踊とか謡いもやりましたし、英会話もありました。
寺沢新子、青い山脈は朝日新聞の石坂洋二郎先生の連載小説で皆さん夢中になって、映画権を松竹と東宝が競り合って東宝が取りました。

今井正さんが演技の先生でした。
私が新しい時代の象徴の新子にふさわしいと思ってくれたんだと思います。
最初の青い山脈から68年、5作作った、二作目の新子が雪村いずみさん、三作目が吉永小百合さん、四作目が工藤夕貴さん、五作目は忘れましたが。
(実際は四作目が片平なぎささん、五作目は工藤夕貴さん。)
寺沢新子役の杉さんは卵を売りに、ある商店に入ると学生の池辺良さんが留守番をしていて初めて出会う。(原作は米だったが統制品だったので卵になる)
二人で占い師のところに行くとして、学校の生徒たちの目に触れる、それが戦いになってゆく。
学校が民主化しないといけないという時代に生徒たちが純粋で綺麗な生徒たちでなければいけないということで、偽の恋文を新子さんに渡す。
新子さんは担任の島崎先生(原節子さん)に渡す。
島崎先生はこんな意地悪のことを書くべきではないと、楽しい時代だからどんどん変わるべきですというが、それが騒動になる。
周りは古い体質の人が多い時代で、戦後間もなく書いた小説も素晴らしいし、映画化して大ヒットとしたのは日本人の心がちょっと変わってきたのかなあという気がします。

今井正監督の会に参加しています、素晴らしい先生でした。
当時の男女の交際についてが、議論の中心になっていました。
当時は結婚も見合いが多い時代で、男女が一緒に歩いているということは、という事が発端でした。
私自身は俳優さんとはデートしたことはないです。
原節子さんはそれこそ完璧な美人であり、何処から撮っても美しいし、声もちょっと高い声で今でも耳に残っています。
威張ったりしないが、ダンスをしたりみんなでがやがやするところには来ませんでした。
ちょっとしたロマンス、綺麗な話ですが有ったようですが、これは言いません。
池辺良さんは大人気で、相手役になると恨まれたりしました。

ロスにいたときに日本の文化の紹介役をして、お花の先生、お茶、踊りの先生がみなさんロスにいて、私はお茶は裏千家の免状を持っていて、お花も草月流の師範の免状を持っているし、薙刀もやったし、日本の文化の素晴らしさをますます学びました。
当時の日本食、生の魚など食べるのは野蛮というように思っていて、お寿司の素晴らしさ、日本食の素晴らしさを教わりながら、日本文化の素晴らしさを身につけたと思います。
お手玉の会があり、お手玉をやっています。
徳島の方がいて阿波踊りも習いました。
平成17年に文化庁の文化交流使として任命されました。
ロスでは1年の計画を立てて、大勢来てくださいました。
文化交流使になって自分も学ぶことができました。
息子も孫も日本語はたどたどしいです。
息子は建築会社をやっているので、東京オリンピックのドームの製作の一員になってくれればいいなあと思います。






 

2017年2月7日火曜日

保阪正康(ノンフィクション作家)  ・行財政改革(第37回)(H29/1/9 OA)

保阪正康(ノンフィクション作家)  ・行財政改革(第37回)(H29/1/9 OA)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2017/01/37.htmlをご覧ください。

2017年2月6日月曜日

保阪正康(ノンフィクション作家)  ・昭和から平成へ(第38回)

保阪正康(ノンフィクション作家)  ・昭和から平成へ(第38回)
今までの天皇の中では一番長かった、62年と2週間。
昭和の初期と60年代ではまったく違って、生活環境、社会環境、人々の意識も違う。
昭和50年代後半から60年代、この時代は科学技術が進んだ。
医療技術が進むことで高齢化社会が来るんじゃないかといわれていた。

昭和60年3月筑波で科学万博が開催される。
「人間、居住、環境と科学技術」がテーマ。
昭和60年8月12日、日航ジャンボ機が御巣鷹山に墜落、520人が死亡する事故が発生。
昭和初期は一汁一菜のような時代であったが、昭和の終わりごろは飽食の時代になって残したものを捨てる時代になり極端に変わった。
エネルギーも豊かになった。
昭和61年4月26日にチェルノブイリ原発事故が発生、悲惨な形になる。
昭和63年3月13日青館トンネル開業(23kmが海底)、4月10日 瀬戸大橋の開通。
青館トンネルは昭和39年着工から24年、7000億円、青森函館が半分の2時間になる。
日本がすべて陸続きになる。

豊かになる、便利な社会になると、心の空虚さと比例するような関係になる。
精神的飢餓状態ができ、宗教、宗教に名を借りた動きがある。
オウム真理教、昭和の末ごろから動きがあり、平成になって大きな事件を起こすが、精神生活の飢餓感からこういった事件を生んでいった原因だと思います。
バブル経済、お金が湯水の如く生活の中で自由に膨れ上がって、お金をめぐっていろんなドラマが出て、人間の欲望がお金に果てしなく追従してゆく。
昭和63年6月18日 リクルート事件発生、政界の中枢部に広がってゆく。(未公開株の授受)
7月には中曽根前首相、安陪幹事長、宮澤蔵相への未公開株の譲渡が判明。
やり方が巧妙になっていった。

昭和61年に天皇在位60年記念式典が行われる。(85歳)
昭和62年4月29日に祝宴があって、体調を壊して、国民の目にもはっきりとする。
がんだということが判る。
10月には沖縄を訪問する予定だった。
東西冷戦の中にあって、沖縄を米軍の中に基地として貸与するという形の意思表示は天皇も行っていたので、天皇にとっては思うことが多々あって沖縄の人を何とか励ましたい、沖縄戦では犠牲者が多く出て、そういうことを含めて沖縄の人と直接接して、気持ちを伝えたいということはあったと当時報道されていました。
「思わざる病となりぬ沖縄をたづねて果さむつとめありしを」 と詠っている。(昭和天皇)
昭和63年天皇の公務は皇太子が代理を務めるようになる。
生前退位はその時の思いがあったのではないか。
あの大戦自体が何よりも痛恨事だとおっしゃりながら、目に涙を流していたという記者からの話を私は聞いて、あの戦争というものをどれほど悔やんでいたか、国民に迷惑をかけたという、私が選択した苦しさを、歴史に詫びるというふうに私は解釈しました。
8月15日に全国戦没者追悼式に出席され、いつ倒れるか判らないということでそばに侍従のひとが立っていました。(昭和天皇の最後の肉声となった)

9月から療養生活を続け、闘病生活が明らかにされる。
天皇は840首を公開しているが、
「あかげらの叩く音するあさまだき音たえてさびしうつりしならむ」 最後の歌
あかげら=きつつき 叩いて次の木に移って行って、叩いてまた次に移って行って音が遠ざかっていく、それがさびしく思える、というような内容ですが、
自分の代はいよいよ終わり、次の代、次の代に変っていくんだと、そういったような気持を詠っているんだと思います。
昭和64年1月7日午前6時 昭和天皇崩御。(87歳8カ月)
新元号発表 「平成」 小渕官房長官発表。
1月9日 皇位継承発表。(第125代 55歳)

戦争というものが昭和の時代の20年、戦争という時代だったが、どんなような形であれ戦争は避けるべきであると、戦争は兵士が鉄砲を撃ったりしてお互いに殺戮を繰り返すということだけではなく、戦時体制は平時とは考え方、モラルが違ってしまうので、平時ではとても許されない行為が戦時には英雄的行為にもなってしまうので、社会が病理を抱え込むんだと思います。
一度病理を抱え込むと戦争が終わっても治らない、社会全体が病理現象を抱え込む。
そうすると人間が序列化される、兵士として役立つという人が一番上に立って、身体の弱い人とか、軍事には役立たない人は別義の状況に置かれる。
モラルが変わっていくことに対するおかしさ、異様を気付くべきだと思う。
国民一人一人も問題があり、体制順応、空気に左右されやすい、自立する、自分で物を考える、自分で判断をする、そしてその生き方を貫くことが大事だと思います。
空気、社会の流れだけで動いていると、自分が無くなってしまうのではないか。
自己を確立することが必要だと思います。
それが昭和を振り返っての教訓だと思います。




















2017年2月5日日曜日

池田昌子(声優)        ・【時代を創った声】(第12回)

池田昌子(声優)        ・【時代を創った声】(第12回)
ローマの休日、等オードリー・ヘプバーンの殆どの作品出の吹き替え、銀河鉄道999のメーテル等多くの作品に出演。
初めてのオードリー・ヘプバーンの作品は「許されざる者」という西部劇でした。
家族だけの話でした。(ヘプバーン自身も初期のころの作品)
ヘプバーンの初々しさには本当に圧倒されました。
どうしてヘプバーンの声を担当したのかは判らなくて覚えていません。
私はすごく引っ込み思案で、母が心配して、担任の先生に相談して、児童合唱団の募集があり、試験を受けて合格して、児童劇もやるようになってそのうち芝居の方に入って行って、気が付いた時には好きでやめられなくなっていました。
劇団自体がラジオドラマ、TVとかかわっていたので、劇団員が出演しました。
自然に大人のお芝居の中に入って行きました。
最初はNHKのラジオドラマでした。
TVで初めてやったのは牛若丸でした。(小学校6年生ぐらい)
弁慶は恩田清二郎さん もう亡くなられましたが。

大人になっても色っぽい役はやっていません、さっぱりした感じの役が多かったです。
声で表現するということがすごく好きだった、声だけだと顔、姿形は関係ないし、安心していろんな人になれるし、魅力的で面白くて、ラジオドラマは大好きでした。
吹き替えの仕事の方にも気持が移っていったのはごく自然でした。
女優だったら吹き替えなど声だけでやる仕事に一生懸命なっていては駄目だと言われて、吹き替えの仕事に好きになっていた時だったので物凄くカチンときて、これから先声だけの仕事をやっていこうと思いました。
性格的にあっていたんだと思います。
アニメは最初はそんなに多くなかったです。
洋画がほとんどでアニメをやったのは「エースを狙え」などで遅かったと思います。
1978年 松本零士さんの作品 銀河鉄道999のメーテル役
メーテル役はある時読んで聞かせてほしいということで、松本先生もいまして、そこでやったのですがそれがオーディションだったのかもしれません。

銀河鉄道999のメーテル役はこんな幸せだったことがないと思うぐらい素敵な作品で素敵な役でしたし、やりがいもありました、今でも大好きな作品です。
鉄郎役(野沢雅子さん)は考えられないぐらいピッタリでした。
メーテル役は生々しさのない、妖精っぽい、何歳なのか判らない、現実的な事はすべてなしで、あくまでも私の想像の中の世界で、鉄郎がいて、車掌がいて、物語が現実の世界とはかけ離れたもので、私は凄くやり良かったし大好きでした。
ナレーション(高木均さん)、野沢雅子さん、肝付兼太さんと私のほとんど4人だけだったので、もし気があわない同士だったら、しんどかったと野沢さんと話しました。
極々自然に一緒になれました、それがすごく不思議でした。
登場人物がすくなかったというのがとても大きかったかもしれないし、3人が力を合わせて一つの問題に立ち向かって行き、解決してまた旅に向かうという話のあり方も3人が自然に一つになる要因だったかなあという気もします。
ムードメーカーは肝付兼太さんだったかもしれません。
私生活でも野沢さんとは鉄郎、メーテルで今も呼び合っています。

気をつけていても風邪をひいたりします。
銀河鉄道999は長かったので、風邪をひいてしまって声がどうにもならず、一度だけ他の日に一人でやらせていただいたことがあります。
私たちが始めた頃の雰囲気と今はかなり違うように感じます。
みんなが初めてやるというような状況だったので、緊張感とは今とはかなり違うと思うし、手が震えるような気持ちは決して悪いものでは無かったと思います。
それがなかったら私は続けていなかったかも知れません。
若い方は器用なのですぐ慣れてしまうが、慣れっこになるというのもすごく怖いと私は思います。
細切れにとると、物語の山とか、流れが判りにくいので、流れが判ることで自分の役がこの話の中でどういう役割をするのか、どこが山でその時自分が何をしているのか、そういうことを考えるだけでも台詞は違ってくるので、そうすると出来上がったものも厚みが違うと思う。
私たちは面白かったし、楽しかったが、今は忙しく細切れ的に仕事が進んで行ってしまったりしてかわいそうだと思ったりします。

10年以上北鎌倉のお寺の本堂で語りの会をやってきました。
初心忘るべからずという思いで江戸の話を着物を着て正座してやってきました。
正座しなければできない声があるんです、椅子では声の出方が違います。
膝を痛めたのはショックでした。
甘えて椅子に座ってというのが慣れっこになって、当たり前のように椅子に座って楽に語るようになったらそれはやらない方がいいと思って、申し訳なかったのですが、自分の区切りかなあという気がしてやめました。
















2017年2月4日土曜日

豊原大成(西福寺住職)      ・この命を未来へつなぐ

豊原大成(兵庫県西宮市西福寺住職) ・この命を未来へつなぐ ~阪神淡路大震災から22年~

86歳、22年前の阪神淡路大震災では10万棟を越える建物が倒壊し、6434人の方が亡くなりました。
西福寺のある西宮市のJR西宮駅の界隈も大きな被害を受けています。
震災当日京都の西本願寺に勤めていたため難を逃れましたが、自房の庫裡が倒壊したため、父、妻、娘の3人を失いました。
この世のはかなさの前にひたすら念仏を唱え続けたという豊原さん。
次の世代に伝えたい命の大切さについて伺います。

1995年1月17日朝、京都にいました。
西宮あたりも震度5と放送されていて大丈夫と思って、電話をかけたが誰も出なかった。
近くのお寺に電話をしたらそのお寺は庫裏は残っているが山門鐘楼はつぶれて、家族は本堂の前庭にいますとのことだった。
西福寺は大変なことになっているとのことだった。
京都から西宮に車で帰ってきましたが、西に行くごとに景色が変わってきて、これは大変だと思いました。
寺についてみると3人とも遺体は本堂に在るとの事でした。
12時間近くたっていたが、大きな声で娘を呼んでみたが、聞こえてこなかった。
娘は普段からおとなしく、小さいころから可愛がっていました。
夕方見舞客が見えましたが、挨拶ぐらいしか応対ができなかった。
お通夜の時には被災した人がいたかもしれませんがいっぱい来て下さいました。
涙を流さないようにしようと思ったが、3人の想い出話しをしているうちに涙が止まらなくなりました。
西宮市では3万を超える世帯が全壊、11462人位の命が奪われました。
西福寺の門徒も多く含まれていました。
震災直後から住職としての務めを果たそうと奔走しました。

100mほど先の公民館にみんな行っているとのことで、見舞いに行ったら玄関まで門徒の人が避難していました。
お経をあげてほしいということで行きましたら、棺がずらーっと並んでいて、その中の一つのお葬式に行きまして、そんな光景は後にも先にもありませんでした。
お念仏を唱えなさいと、「南無阿弥陀仏」 南無とは「どうぞよろしくお願いします、あなたを尊敬します」
阿弥陀仏 阿弥陀仏に対してどうぞよろしくお願いします、あなたを尊敬します。
親鸞聖人の教えはこの世の命が終わった時に、仏の世界によって、仏の世界に生まれさせてもらう、そこで間違いなく仏になれる、極楽世界で安住するのではなくて、後に残った人の心に帰ってきて、その人たちを念仏の世界に導く。
人の死を源として仏の教えに寄り添う、深く耳を傾けるようにするところに本当に幸せがあるということだと思います。
死んだら極楽浄土に生まれさせていただける、極楽浄土では「諸上善人。倶会一処(くえいっしょ)。」 ともに一つのところに会えると、あるいは後に残った人の心に亡くなった人の心が帰ってくる、そういう言葉があります。
仏の国で実現すると阿弥陀経にあります。

無量寿経に仏の願いが48、あるいは49あるが、33番目に触光柔軟の願というのがあります。
かたくなな心がほどける、悲しみをひっくり返す事ができる、悲しみが悲しみでなくなる、そこから私たちは次の生き方が出てくる。
心を軟らかくすれば悲しい時でも人の慰めの心を受け入れられるし、もっと悲しい人がいるのに自分だけ悲しんでいてはだめだと、そういうふうにも取れます。
悲しみを悲しみとして受け取らないで、教訓だと受けとめて、悲しみを転じてこれから生きていく力にすると、教えに会えばそういう風な力を得られる。
以前は厳しい住職だったと思いますが震災後は大分柔らかくなりました。
諸行無常、この世のものは諸行無常どんどん移り変わってゆく、それが我々の姿です。
人が亡くなってゆくということは、本人にとっても悲しいし、周りの人も悲しいがそれに耐えていかないといけない。

長男に生まれて、他の兄弟とは別格扱いだった、私だけは祖父母に育てられて、小学校の3年生の時に、祖父が頭を押さえて倒れました。
祖母の声に目が覚めて、祖父が倒れてから2時間後には祖父が亡くなりました。
当時言葉は知りませんでしたが、諸行無常を知りました。
実際に自分の身に降りかかってきているので貴重な体験です。
毎日家族の菩提を弔います。
被災後10年、家族を失った悲しみが癒えてきたが、娘の死だけはいくらお念仏を唱えても受け入れられませんでした。
出てくる夢の90%は娘のことです。
娘(28歳)には早く結婚するようにと言えばよかったと、寺の前に娘夫婦が住めるように家の間取りなどを考えていました、新し家に住んでいれば助かったと思いますし、嫁にいっていれば助かったと思います。

人を教えなければいけない立場ですが、報恩感謝の気持ちで生きていかないといけないと、云う事を人には説くが自分はいつも感謝しながら生きているかというとそうでもない。
悲しみは何年たっても消えないと思います。
苦しみの中から生き甲斐を見つめる、あるいは努力するということが人間の姿ではないかと思います。
心が揺れ動かなくなったらそれは仏さんです。
親鸞聖人でも悲しみの淵に立たされたことが、晩年になってからあったわけですから。
震災後より多くの人に仏の教えを知ってもらおうと、これまでに出版した本は20冊以上に上ります。
子供向けの絵本も手がけました(お釈迦様の一生を判りやすく説くなど)
お互いが敬い合うような人になって欲しいと思います。
自分はひとりで生きている訳ではないので、いろんな人々、物のおかげで生きているので、それを粗末にできない、自分の命もそして他の人の命も粗末にできない。

阪神淡路大震災からボランティアがクローズアップされて、ボランティア元年と言われました。
善意はここにあると感じました。
孤独死とかあるが、昔、田植えとかお互いが助け合わないと生きられない社会でそこに温かみが生まれてくるのではないかと思います。
繋がりをもう一度確かめ合いながら生きてゆくことは必要です。
自分一人では絶対生きられない、どなたかのお力で生きているということを忘れてはいけないと思います。


















2017年2月3日金曜日

橋本道範(ギタリスト)      ・左手でつむぐ生命のメロディー

橋本道範(ギタリスト)      ・左手でつむぐ生命のメロディー
かつて国内トップクラスのクラシックギターリストの道を歩んでいた橋本さんは21年前脳出血で倒れ、右半身不随となりました。
ギターを弾くのはもちろん歩くこともままならず絶望感から15年間もうつ病を患いました。
そんな橋本さんに転機が訪れたのは東日本大震災が起きた6年前、何とかまたギターを弾きたいと熱い思いで、左手だけでギターの弦を押えると、微かにメロディ-が聞こえてきたといいます。
この命のメロディーを演奏するため橋本さんは必死に練習を繰り返し、ギターにも改良を加えて、ついに大勢の人たちの目の前で再び演奏するまでになりました。
橋本さんがどのようにして左手一本で命のメロディーを取り戻したのか、ギターにかける情熱を伺います。

「ふるさと」を演奏  ここまで来るのは本当に大変でした。
出身は広島県、福山市、母親がピアノの教師で小さいころからピアノを教えてもらっていましたが、ギターが好きだったのでギターも一緒に習っていましたが、いつの間にかギターだけになってしまいました。
当時の愛聴版はショパン、ジョン・ウイリアムス、ビートルズでした。
高校卒業後、上京して日本ギター音楽学校やコンクールで腕を磨いて、19歳の時にプロへの登竜門の全日本ギターコンクールの重奏部門(3人で弾きました)で優勝、独奏部門で2位になりました。
25歳の時にスペインで1年間過ごしていったん帰国、そのあと35歳まで夏ごとにスペインに留学して著名なギタリストのホセ・ルイス・ゴンサレス等の指導を受けました。
いちから直されました。
世界各地で演奏しました。
日本では日本武道館を始め全国の演奏をしました。
「男はつらいよ」のギターを担当しました。
失恋の場面で後ろにギターが流れるのが僕なんです。(アジサイの歌)
国内でも期待されるギタリストだったと思います。

1995年10月、ザルツブルグでのコンサートに向けて、練習していた42歳の時に自宅で脳出血で倒れました。
救急車で運ばれて、翌朝目が覚めると、病院の集中治療室に横たわっていました。
生死の境をさまよい、4カ月後に退院しました。
右半身が動かない。
退院の直前にあなたは一生そのままですと言われてしました。(地獄の底でした)
歩くことさえままならずギターを弾くということを考えることもできない状態でした。
ギター教室の指導、教本の執筆などは再開したが、絶望感からうつ病になりました。
15年間薬を飲み続けていましたが転機が訪れて、2011年の東日本大震災の時に交通機関が東京でも動かなくなって、薬を取りに行けなくなり、近所の精神科医に相談したところ、薬を止めてみてはと言われて、同時に下手でももう一度ギターを弾きたいと思いました。
左手でギターを握って指で弦を押えてみた、小さな音だがメロディーが響いて心が弾んで、生きているということはこういう事なんだと心の底から思いました。

それから2年かかって左手の指で指板の弦をたたいたり、弾いたりするタッピングという演奏方法にたどり着きました。
スピーカーで増幅すると板の音が大きくなってクラシックはだめで、弦の振動をコイルで拾うエレキギターに変更し、ギターも改良しました。
それからはひたすら練習に打ち込んでどうやら人前で演奏するようになりました。
左手一本での、難しさは実感しました。
インスピレーションも湧くようになり、薬を止めてさらにその傾向は増え「ねぶた」という曲を作れるようにもなりました。
激しいリズムも弾けます。
「ねぶた」を演奏。

作曲は全部で10曲になります、これから増やしていきたいと思います。
うつ病も治って薬を止めて創作意欲も湧いてきて、作曲活動や小さな演奏会、病院、福祉施設の演奏を徐々に再開させています。
脳出血を起こす前からそういった活動はしていて、一番長かったのは全生園で15年間やっていました。
行き始めたらずーっと行くのが僕の主義ですから。
ギターを弾けるようになったことに感謝し、同じような困難を抱える人たちの励みになるといわれるのが一番うれしいです。
半身不随の不自由さは自分でなければ判らない。
ミチギター合奏団の指揮者として片手で指揮をして、2年に一回ウイーン、ザルツブルグ、グラナダ音楽祭、カーネギーホールの日本人祭り、ハワイの日本人祭りなどに参加していました。
ソロ活動は2013年ごろからです。

再起コンサート、2014年の秋、高校時代の同級生の支援で再起コンサートを成功させることができました、友達はありがたいです。
去年の10月、福山市、東京でベトナム戦争で散布された枯れ葉剤の被害者を支援するチャリティーコンサートに参加しました。
海外でも左手だけのギタリストがいることを知りまして、グエン・テ・ビンさんはベトナム戦争で孤児になり、事故で右腕を失って左手だけで演奏します。
左手の指3本で弦を押えて人差し指一本でクラシックギターを弾くという独特の奏法です。
私から共演したいということで、他にベトナムの民族音楽家なども参加して面白いコンサートを開くことができました。
ギター教室を再開したら一人も辞めずに残ってくれて、ずーっと続いていて、一番長い人で38年、35年が2人 20年はぞろぞろいます。
80代の人が結構います。

死の恐怖から這い上がって、再びギターを弾ける喜びを少しでも他の方に役立てればと思うんです。
聞く人の立場に立って楽しんで頂けるようなレパートリーを広げていきたいと思います。
4月に2回ホーチミン市でコンサートが予定されていて、ベトナムと日本の架け橋になろうということで開いていただきます。
私のギターで障害や様々な困難を抱えている方たちが少しでも元気になってくれればこんなうれしいことはないです。
私自身も誇りを持って明るい障害者として生きていこうと決心しています。
音楽のパラリンピック(これはスポーツの世界の言葉)に似たイベントがあれば出てみたい。
カタロニア民謡の「糸を紡ぐ娘」・「聖母の御子」・「赤とんぼ」を演奏


















2017年2月2日木曜日

中村俊郎(義肢装具、代表取締役) ・大きな夢を持って働く

中村俊郎(義肢装具メーカー代表取締役)・ 大きな夢を持って働く
68歳、中村さんの会社がある島根県大森町には10年前、ユネスコ世界文化遺産に登録された石見銀山があります。
江戸時代の鉱山の最盛期にはおよそ20万人が暮らしていましたが、400人余りまで減っています。
過疎化が進むこの町で生まれた中村さんは、京都とアメリカで義手や義足、コルセット等義肢装具作りの修行をして43年前故郷に帰り、義肢装具の会社を始めました。
シリコンゴムという高価な素材を使った義肢装具を開発して特許を取得し、海外からも注目される会社に育てました。
その一方で社会貢献活動として古民家を再生して、魅力ある街作りにも取り組んでいます。
こうした取り組みに共感して、この会社で働きたいと県外から移住してくる若者も増えています。

今約75名の方を中心として、作業しています。
医療用具なので、けがをした方治療中の方のためのコルセットなどを製作して医療用の器具作りだと思ってもらえればいいと思います。
義手、本当の手のような感じで、血管の浮き具合、毛の生えているところもあり、爪などもしっかり作っています。
柔らかさのあるシリコンゴムを使っています。
いろいろ要望が出るので、次のステップアップのためにお役にたてるように用具を作っています。
少しでもショックを和らげてあげたいと思ってもの作りをやっています。

兄弟が5人で末っ子で一番上の姉が国立病院に勤めていて、その関係で整形外科医の副院長から医療用の義肢装具を作る製作所が京都にあるということで、紹介されてスタートしました。
取引先が京都大学医学部で、日本の整形外科の先端行かれる先生方のもとでコルセットをつくったり医療用装具をつくる、そこの出入り先が京都大学医学部だったんです。
先生方の熱心な姿を見て自分も、もっと勉強しないといけないと思って、通信教育で大学にも行って、そしてアメリカに行って世界を見るような仕事をやってみたいと思って、あてがなかったが21,2歳の時にアメリカに行くことを決断しました。
アメリカに命懸けで飛び込んで行って、アメリカの人の心も広大だと思いました。
サンタモニカの会社のオーナーと出会って、非常に歓迎してくれました。
オーナーは2世で両親は和歌山の出身、奥さんの両親が島根県の江津市の出身で、昨日迄は他人だった人に留学させてもらいました。
広い社会を見せてもらった、チャレンジ精神、独立心を多く学ぶことができました。
自分が努力する事によって道が開けるという、そういう考え方をつくってくれました。

半年後に夜に交通事故に遭ってしまい、気が付いたのが霊安室でした。(ひき逃げでした)
数日後に気がついて、生きているということを知った時に、人生がまた逆に最悪の状態から開いてきた。
生かしてもらっているのなら残された日々を勉強して、将来医療用具を製作する立場になって、多くの世界の人に喜んでもらえるような仕事をしたいとベッドの中で気付かされました。
サポートしてもらったのはかつての石見銀山の地であり、街をもう一度よみがえらせたいという思いがありました。
ゼロからの挑戦に対してやっていけそうな気がして、すごく前向きに考えている姿を見た両親はある意味あきれながらも、大きく見てくれました。
最初は仕事がありませんでした。
120~30年前の掘っ立て小屋の納屋を改装して立ち上げましたが誰一人お客さんはありませんでした。
伯父が私の激励に来てくれて、腰が痛いのでコルセットをつくれるのかと聞かれて、夕方帰る時までに作りました。
帰りのバスに乗るときにすごく楽になったと言って、こんなに楽なコルセットなら近所のおじいさんおばあさんに紹介してやるとのことだった。

100km離れた米子の病院に直談判に行きました。
副院長と話をして信用してみようということで、病院に出入りしてもいいということになりました。
取引病院も広がっていって、10年ぐらいかかって社員を10人ぐらい養成するようになって、若い一人の社員が展示会に行かせて欲しいということで、展示会の帰りに記念品としてシリコンゴムを使った灰皿を持って帰ってくれました。
通気性、安全性がある素材だったが、価格は高い。
これを何とかならないのかと、思いました。(35歳ぐらい)
日本で特許出願しようとして、特許事務所の人と相談して出願して3年後には取る事が出来ました。
アメリカ、ヨーロッパ、の国で8,9カ国の特許を取ることができ、自信がつきました。
シリコンを使って人口乳房を作る。
乳がんで無くされた方の女性の希望を提供することはできるのではないかと思いました。

術後の精神的にデリケートな中なので、深い悩み、生活面への不安、家庭内の立場など男性の数倍の悩みがあることを知って、次はさらにもっといいものを作りますと対応して、お送りすることも何回かありました。
男性中心の技師中心でしたが、新しく女性の技師を入れて、同性同士の悩みなどを言える状態が出来て、男性ではできない技術を持った人口乳房を作る製作者が生まれてきました。
一番素直に喜んでくれた手紙があって、今まで長い間女性を忘れていたが、人口乳房を手に持って、離れて生活していた主人にすぐ帰ってきてというメールを出しました。
人口乳房をつくった甲斐がありました。
この仕事を50年やっていると、解決できない事がいっぱいあって、本筋を歩ける(?)、走れる、義足をつけてお風呂に入れる、そういったことも考えてあげたい。
サポートされずにお風呂に入れたり、シャワーを立って浴びることができたりする、そう出来ればいいと思います。

現在年商10億円。
一人の顧客から始めて、若い従業員もよく付いて来てくれたと思います。
年商がいくらということではなくて、やさしさが若い従業員に伝わってきているのが最大の財産だと思います。
現在80名おりまして、ここで仕事をしたいという若者が増えています。
400人の人口で、歴史は古いが、古い街並みを修復しようと、やれることをやろうということでかなり修復も進んでいます。
自力で直してきて50数軒になっています。
食堂兼喫茶室、銀細工の店への提供、古民家ギャラリー、1年前に東京からドイツパンの職人さん夫婦が住む事になり、非常に人気のあるパン屋さんになっています。
古い銀山の街ですが、面白い街だと思われるような街になってきたと思います。
皆さんが楽しまれる街になってくれる事、銀山の深い歴史を自然に味わえるような街、歴史が皆さんに元気を与えられるような街、新しい試みが見られるような街になっていければいいなと思っています。
子供たちが誇りを持って世界の友達たちと交流できるような街になって行けたらいいなあと思います。












2017年2月1日水曜日

高橋一也(旅する八百屋)     ・未来につなぐ“野菜の物語”

高橋一也(旅する八百屋)     ・未来につなぐ“野菜の物語”
日本各地の伝統野菜に 魅了されイベントや通信販売を通じて野菜の普及や保存を目指している、旅する八百屋さんです。
東日本大震災をきっかけに気が付いたという、農家が代々受け継いできた地域の野菜や種の重要性について伺いました。

店は持ちたいがタイミングがあるので、地方全国のおじいさんおばあさんと、都会に住んでいる方をつないでいる役割をしています。
八百屋は情報の発信源だと思う。
昔の八百屋さんは近所の人に食べてもらいたいから、この野菜を並べようとか、小さいコミュニティーの中で相談していたので、誰にでも売るというようなスーパーの売りかたとは違う。
もう一回復活させたいという思いはあります。
港区青山にあるレストランを借りて、テーブルひとつで伝統野菜を売っていたが全然売れなくて、夕方になると値段を下げないといけなくて、品種改良されたものと一緒に売っているからいけないと思って、伝統野菜のものだけ売ればそのままでいいのかなあと思って、それがきっかけで種市を始めました。
縦と横の連携が取れる様な場を作りたいというのが、種市のコンセプトです。

古来種野菜、毎年種を取って循環してくるが、野菜はその土地で土着して育ってくる。
今の野菜はF1という野菜で、量産するためのもの、大きさが同じとか、段ボールに入りやすいようにするとか、万人受けする野菜、人為的に改良する野菜。
計画栽培できるように種を研究して、海外で種を採取して日本に持ってきて、日本の土地に種をまく、種を取らずに、海外で採取したものをまた蒔くということで、途切れてしまう。
土着せずに終わる野菜。
先祖と一緒に生きてきた野菜が途絶えそうになってきている。
古来種野菜は1980年には1214品種あった、大根が110種、なす78種、カブ80種あった。
土地土地によって形、大きさ、味などが全部違っている。
土、風、水が土地土地によって違う。(日本酒と同じだと言われた)
その風土で育った野菜はその土地で食べるとおいしい。

途絶えそうになっているものを次の世代に残したいと思って、八百屋さんをしています。
若い人たちに受け継げる環境をつくる意味でも種市は大事な存在だと思っています。
地域の宝だということを知ってもらいたい。
1mぐらいのニンジンもあります、収穫は大変だが、生産者は残したいと思っています。
野菜を楽しんでもらいたいと思う。
実家が居酒屋で、中学生のころから調理場に入っていたので食べ物は自分の身近にあった。
料理人になる時にも、レストランキハチに弟子入りして働いてきました。
サンフランシスコにいるアリス・ウォータースさんに会いなさいと言われた。
料理で社会を変えるというそういうメッセージを出す人がいて、勉強してオーガニック運動、自然にいいものを食べようという運動をされていたので、料理だけでなく、有機野菜について勉強したいと思って、有吉佐和子の「複合汚染」、レーチェル・カーソンの「沈黙の春」を読んだりしてきました。

ナチュラルハウスという会社に入って農家の方々との出会いがあり、いろいろ勉強させられました。
野菜は怒ったり、硬くなったりすると言われました。
笑っていなければだめだと、怒っていると野菜が硬くなってしまうというようなことを言われました。
人としての生き方などを教わりました。
全国を回っていた時に長崎で岩崎政利さんに出会った、自家採取する農業を30年やっている。
当時どこへいっても青首大根だったが、800年前から作っている平家大根を見せられて、全然姿が違っていた。
形がばらばらで根っこが凄く張っている。(生産性が悪い)
この人から託されたから絶やせないと言っていた。(味もおいしかった)
全部畑の中では成長はばらばらで収穫は大変。
2011年震災の時に福島の浪江町に種を守っている70歳の岩倉さんがいたが、津波、原発事故で種と畑を失ってしまう。
賠償してほしいと言ったら、たかが種だろうと言われてしまって、先祖から守ってきた種をこのように言われて、涙を流したそうです。

2011年をきっかけに個人事業を立ち上げました。
3・11で都会の人はどれだけ地方の人たちに支えられているのか、本当に忘れていた。
手ごたえは今のところ正直ないです、大きな壁に当たってしまう。
今の流通社会の波に飲み込まれそうな時があります。
野菜が売れていかないということはつらいところです。
形がばらばら、収穫の時期が不安定など、社会の仕組みが一番の壁ですかね。
3・11をきっかけにもう一度足元を見直してみようという動きもあります。
今の野菜と比べて、魅力はおいしいです、蒸しただけとか、塩だけとかシンプルに料理して出しますが、どういうふうに料理したのかといわれて、こんな味だったのかとみんなが言って吃驚します。
77の農家さんとお付き合いしていて増えてきていて、今年間400品種を東京で販売させてもらっています。

秋田県の雫田カブ、400年前から続いているものでカブの形はしていなくて、根っこが凄い、山に自生しているカブで山に入って行って採ってくる。
あまりにおいしいので、震えました。
長崎の平戸市でうちに面白い大根があるので見に来ないかといわれて、80歳のおばあさんが赤大根を作っていたのを見せてもらった。
年一回神社になまこと共にお供えするために作っていると言われた。
何が適地適作なのか、土地のものを見る場合は神社のお祭りに何がお供えされているかを見たらその土地のものが判ると言われて、なるほどなと思いました。
1500年も続いている種もあり、種を絶やしてはいけないとずーっと思っています。
種を絶やしてしまうということは、人としての豊かさ、自然と一緒に歩んできたすべてを失うような気がします。
おじいさん、おばあさんをバックアップしてくれる人がいなくて、もっともっと支えてくれる人が出てくれればと思っています。
買うというところは東京だと思っていて、次の世代が種を受け継いで伝えていくのが理想だと思っています。