2016年11月30日水曜日

吉増剛造(詩人)        ・詩の可能性への挑戦(2)(H28/6/3放送)

吉増剛造(詩人)        ・詩の可能性への挑戦(2)(H28/6/3放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2016/06/2_22.htmlをご覧ください。

2016年11月29日火曜日

吉増剛造(詩人)        ・詩の可能性への挑戦(1)(H28/6/2放送)

吉増剛造(詩人)        ・詩の可能性への挑戦(1)(H28/6/2放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2016/06/blog-post_21.htmlをご覧ください。

2016年11月28日月曜日

鈴木登紀子(料理研究家)   ・食べることは生きること

鈴木登紀子(料理研究家)   ・食べることは生きること
今年 11月14日に92歳の誕生日を迎えました。
「きょうの料理」や自宅の料理教室で季節を大切にした和食を教えています。
料理研究家としてTVに初めて出演したのは46歳の時、料理を教えるようなきっかけになったのは、鈴木さんの家庭料理がおいしいと近所に評判になったこと、いつしか自宅が教室になっていたそうです。
平成24年には第64回NHK放送文化賞を受賞、料理研究家としては3人目です。
家庭料理を通じて伝えたい和食の魅力、もてなしの心について伺います。

主人が91歳で逝ったので、私もと思っていましたが、今も生かされています。
「70年作り続けてきた私の味」 本を出版。
吉祥寺で現在教えています。
毎月、10日間料理教室を開いています。
教室は40年以上経つと思います。
札幌の方が一番遠くから来ます。
11月の献立、おせち料理、23品を半分ずつ2カ月に渡って行います。
おせちは日本の大事な行事で、今伝わっているもののおせちの節句、5大節句があって、元旦、3月3日の雛の節句、5月5日の端午の節句、7月7日の七夕の節句、9月9日の重陽の節句(菊の節句)、その中でも一番おせちは大きい行事だとおもいます。
季節を待ちわびて旬のものを頂くのは、日本の素晴らしい特徴の一つです。

菊見和え 菊の花が咲き乱れてきますが、南部八戸あたりは黄色い食用菊があり、山形あたりでは紫もある、自然のものなので体に優しい食べ物だと思います
お碗はすずき、蛇の目のしろうり、みょうが、青柚で香り付け、冷やし鉢は里芋、ニンジン、牛蒡、しろうり、干しシイタケ、エリンギ、いんげん、青柚、 アナゴの棒上げ(丸ごと揚げる)、箸休めはえのきだけ、 白滝のしぐれ煮、麦とろで御飯、いちじくのワイン蒸し。
カイセキは懐(懐石)と会う方(会席)と二つある、懐は禅から来ていて、禅を組んだ時に食べたり飲んだりできないので、お腹のむしがグーッとなるので、ちょっと虫を封じるために温かい石をおなかのところにあてたわけです、そしてその場を凌ぐ訳です、だから懐石料理は贅沢ではない。
会う方の会席は板前がここぞとばかりに御馳走を並べて大変な御馳走で全然違います。
家庭料理は煮込んでしまう様なイメージだが、綺麗にいくらでもできて味は変わりなくと言うのが私のモットーです。

子供のお母さんたちと知り合いになり、家に遊びに来た時に作って出したらおいしいと言う事になり、教えてほしいと言う事になり、それが料理教室の始まりです。
長女が小学校5年生の頃でした。
昔はよくお盆を使ったが、最近はお盆を知らない若い女性の方もいます。
飲みながら歩いている人もいますが、好きじゃないです。
NHKの料理番組「きょうの料理」の仕事を頂きましたが、46歳の時でした。
基本は家族の為、夫の為、暖かいご飯は食べたいと言っていましたので、蓋つきのどんぶりにご飯をいれて布巾に包んで炬燵にぶら下げていた。
私は青森県八戸で産まれました。
母は岩手県の生まれで、馬も泊まれる宿屋でした。
母の傍にいて酒の肴を作る姿を見ていたので、家事の学科は甲をいつもいただきました。
母からしつけもいろいろ学びました。
母からは何でも大事にしなさい、粗末にしてはいけない、丁寧にしなさい、静かにしなさいと良く言われていました。

第64回NHK放送文化賞をいただいた時には、母から「お前さまの分に過ぎる」と言われました。
丈にあったこと、どの様に身を処したらいいか、厳しかった。
おもてなし、母からはいつも相手を慮る(相手を立てる)、と言われました。
歯が丈夫だったことは、味見にも役に立ったと思います。(入れ歯とは味が違うようです)
子育てのころは、豆腐を売りに来る叔父さんが来たが、いつも買っていて、寄せ豆腐、昆布をしいて、しいたけあんをかけて、わさびをちょっと掛けて食べますが、又あれねと子供からは言われていました。(自分でいろいろ工夫をしました)

料理番組で、皿の持ち方、箸の持ち方、なっていないねといいました、先ず皿を持って、箸をもつ時には手先を動かして、口に運びやすい様にするとか、昔はだれでも知っていましたが。
先ず自分の国の大切なマナーを知って頂きたい。
食べることは生きること、精神、心、奥深いものがある。
相手を慮ると言うことは相手の健康も気使う、昔のいいことは伝えたい残しておきたいことはいっぱいあります。
優しい気持で暮らせたらいいんじゃないかと思います。
食べる事は生きること、生きるためには食べなくてはいけない、お腹が空いていると元気も出ないし思考力も鈍るので、自分にあった様な料理を食べ、食べすぎない。













2016年11月27日日曜日

奥田佳道(音楽評論)       ・奥田佳道の”クラシックの遺伝子"

奥田佳道(音楽評論)       ・奥田佳道の”クラシックの遺伝子"
*オペラ  ビゼーの歌劇カルメンから「恋は野の鳥」 メゾソプラノ:マルヤーナ・リポフシェク ミュンヘン放送管弦楽団。
カルメンの音楽を今日は紹介。
ヨーロッパに絶大な影響を与えている。  「恋は野の鳥」をメロディーを使ってフルート、バイオリンの曲を描いたり、即興で演奏するなどしました。
舞台が南スペイン、パリ、ロンドン、ウイーンのお客さんにとって異国情緒が皆さんの気持ちを旅へ、昔の恋にいざなったり、男女の思いを描いたり全ての人々にカルメンの音楽が受け継がれていったんでしょう。
ビゼーの歌劇カルメンは1875年にパリで初演、ヨーロッパ中で熱狂を呼びました。
*ビゼー 組曲 闘牛士 (トレアドール)
ヨハンシュトラウス兄弟 エドゥアルト・シュトラウスがカルメンの有名なメロディーをメドレーにして舞踏会で踊るダンスナンバー「カドリーユ」という音楽にしました。
*カルメン カドリーユ 作品134  エドゥアルト・シュトラウス:作曲
カドリーユは5つ種類の違う音楽をつなげたのが基本だが、それを繋ぐ音楽はエドゥアルト・シュトラウスがダンス音楽を書いている。
ホロヴィッツ、ピアノの超絶技巧 カルメン変奏曲を書いている。
ホロヴィッツを尊敬する若いピアニスト中国のユジャ・ワン
*カルメンの主題による変奏曲 ホワイトハウスバージョン 編曲:ホロヴィッツ ピアノ:ユジャ・ワン
バレリーナ、マイヤ・プリセツカヤの夫、ロディオン・シチェドリンが妻への為にカルメンの音楽をバレエの音楽に編曲しました。
闘牛士のメロディー 中途で消えるが。(独特の魔術 遊び心)
*カルメン組曲から闘牛士の歌  編曲:ロディオン・シチェドリン
ビゼーのオペラ「真珠採り」 舞台はセイロン島 レイラ、美しい尼僧と漁師ナディールの禁断の愛がテーマ
*「真珠採り」 のタンゴ

2016年11月26日土曜日

安田享平(盲人マラソン日本代表コーチ) ・人間の可能性

安田享平(盲人マラソン日本代表コーチ) ・人間の可能性
千葉県千葉県君津市出身の49歳、若いころはマラソンランナーとして活躍し、毎年元日に行われる
ニューイヤー駅伝で走ったこともあると言う方です。
安田さん、今は目の不自由な人がマラソンに取り組むのを支える盲人マラソンの日本代表コーチをされていました。
パラリンピックには1996年のアトランタ大会から関わり、今年行われたリオデジャネイロ大会でも現地に赴いて女子選手銀メダル、男子選手銅メダルをもたらしました、
人間の持っている力と可能性、そして私達はそこから何を学びどんなことが出来るのかお話しいただきました。

20年前、走っていました。
今マラソンに出ている人達は小学校中学校から走っているエリートですが、当時はそうではありませんでした。
私は野球をやっていまして、陸上部は有りませんでした。
長距離は得意でしたが、嫌いでした。
段々真面目に走りだして、君津市の駅伝大会に出ることになり、アンカーを走り、優勝して、区間賞も取り、初めて表彰をいただきました。
高校に行って陸上部に入って、インターハイが終わった後、高校3年生の夏に記録が出だしてどうしようかと思ったのですが、続けようと思いました。
新日本製鉄に入社して、3年記録がでなくて、4年目に記録が伸び出して、青東駅伝(青森-東京駅伝 全国規模の駅伝で今は無くなってしまった)に千葉県代表として出たりするうちに、自分の方が頑張っているのではないかと思うようになりました。
君原さんとかがいるチームに声をかけてもらえないかと、何とか合宿に参加させてもらって、初マラソンに出ることにもなりました。
オール新日鉄の合宿などにも参加して、順天堂大学でも練習をさせてもらう様になりました。

選手に求められる資質、
①おたくに成れ(一点集中力)、
②出る杭は打たれるが出過ぎると打たれないが、物凄く孤独になるので忍耐力が必要になる、
③継続は力なり。

パラリンピック
陸上競技、各障害ごとに別れている。
25クラスある。
脳性まひの車椅子は二つあり、脳性まひでも立てる人のクラスは4クラス有ります、低身長の人、足を切断した人とかにいろいろ別れています。
視覚障害では、3つに別れていて、T(トラック)-11,12,13 数字が大きいほど軽傷で、11は全盲クラスで伴走者が必要、12は手の形が判る程度から視力が0.03、13は視野が直径10度、弱視。
クラス別けは公認の資格が必要でその人たちが決定します。(平等にする)
100mを10秒5台で走る人がいて、本来は伴奏するのにタイム差が1秒無いといけないと言われているが9秒5台はいないので10秒2とか3の人がガイドをやります。
1500mは全盲で3分台で走ります。
日本盲人マラソン協会設立が1984年です。
初めて視覚障害者マラソンでパラリンピックに出場したのがソウル大会(1988年)
29歳の時に、突然アトランタ(パラリンピック)に行くように言われました。
柳川春己さんがバルセロナで日本代表になったが、伴走者が痙攣して失格となってしまいました。
伴走者は2時間30分台の方でした。
柳川さんが2時間50分ぐらいで走っていて、20分台の人でないといけないと言う事で、当時日本では100人ぐらいでした。
人がいなくて困っている時に私が目に留っていく事になりました。

最初に私は何にもできませんと柳川さんに謝って、手引きの仕方などを教えてもらって、群馬に行きました。
柳川さんがお風呂に入っていて、石鹸が無いと言う事で、コンビニに買いに行って、渡そうと思ったら、真っ暗な中で鼻歌を歌ってシャワーを浴びていました。
ロープを持って走ることは知らなくて何回やっても出来なくて、手を繋いで走って日本新で走りました。
柳川さんは日本人初の金メダルを取り、帰ってきました。
4年後は連覇の可能性もあるので、その時の一番いい人を選んでほしいと言ったのですがシドニーにも行く事になり、アテネで高橋勇市さんが又金メダルを取りまして、この時は私が一緒に走った福原良英さんが4位で、保科清さんが5位で1,4,5位という黄金時代でした。
国としてパラリンピックに力を入れようと動き出したのは実は2005年からでした。
これまでは自費、自腹、有給休暇、欠勤などで対応してやっていました。

オリンピックとパラリンピックが正式に一緒になったのは、2008年の北京からです。
その結果として商業主義の流れが入ってきまして、クラス別の100mの決勝がいくつもあっても駄目なので削って行く方向になりました。
盲人マラソンは真ん中の弱視のクラスに統合されて、全盲のクラスが無くなりました。
ルールは障害の重い選手は出てもいいことになり、その結果惨敗でした。
2008年監督で付いて行きましたが、16,19,21位で惨敗でした。
ここで始めてチームとして合宿するようになり、ロンドンでは4,5,7位となりました。
和田選手、高橋選手は全盲で5位、7位です。(全盲では1,2位の成績です)
リオでは銀、銅メダルという事になりました。
リオでは当日37度になりましたが、事細かく戦術を立ていてその通りに実行ました。
今は東京を目指して頑張っています。

指導者は必要なのか、上を目指すために練習量が増えていきます。
私は走る時で年間1万km、走る月で1000km越える様なことを10年間やってきました。
練習も強い人とやったりしますが、試合は結果が出ません、身の丈を越えてしまって駄目になる。
休めない、怪我しても駄目になるのではないかと、恐怖との戦いになります。
体と心に有する指導者が必要ではないかと思います
今は情報過多、色んな事が直ぐ判るが、自分の体なのに人に頼ってしまう。
その結果どうしたらいいのか判らなくなってしまうので、ぶれない指導者が必要。
指導者は①洞察力、②現場力、③行動力が必要。
強化、育成する壺
①意識改革(選手を鼓舞する)②自己記録の更新(選手に寄り添う)③チーム力の向上(陸上もチーム)
特に③は重要
a、年間を通じて安定した練習会をする、切磋琢磨
b、強化合宿の実施(一緒に練習して一緒に食べる、何を考えているか判る)
c、協力者の育成確保(次世代)

障害者スポーツとは、何かを考えてほしい。
①企業からの理解と支援とは? 社員にするの契約社員にするの?
②職場の受け入れた時のハード面、ソフト面どうなの?
③介助してくれる人達に対する支援はどうするの?
大学、学校、地域からの理解、支援は
①学校教育でパラリンピック、パラスポーツをどうやって伝えるか?
②指導者養成、普及活動はどうするか?
③部活動、どうするか?
④地域からの理解支援をどうするか?
⑤地域と共存するってどうするのか?

「障害は個性である、失った機能を数えるな、残った機能を最大限に生かせ(グットマン博士の言葉)
日本に約障害者は788万人いると言われる、1/17人が障害者です。(多いと思うか少ないと思うか)
「何ができないのではなく、何ができるかを見つけ出せ。」
ルールや道具を工夫することで、一緒にスポーツを楽しめる、これは大事なことです。
こういう事で人間の可能性を引き出せる。
物事に挑戦したり、目標を達成する事に年齢、性別は関係ない、ということ実は障害者スポーツは実践している。
今からでも挑戦はできる。
①スポーツは人と人を結びつける、誰とでも普通に接する。
②障害者スポーツを見て感動する、これは大事です。
③健康体で有れば何でもできる、そういう事に感謝を持つ。
④道具、ルールなどを工夫して共に生きる。(共生)





















2016年11月25日金曜日

内野政光(山岳救助隊元隊長) ・山岳救助 50年の思い

内野政光(岐阜県北飛(ホクヒ)山岳救助隊元隊長 )・山岳救助 50年の思い
72歳 今年8月11日が山の日として祝日になり、シニアの方々、おしゃれな山ガールも一段と増え、山はにぎわいました。
ちょっとした不注意から怪我をしたり、道に迷ったり今年は25件ほどの救助の要請があったそうです。
内野さんは救助隊に20歳過ぎから、加わり多くの遭難に立ち会い残された家族の悲しみを見てきました。
山岳救助 50年の思いについて伺いました。

35年間山岳救助をしてきました。
ひいお爺さんが内野常次郎という山案内人をしていて、山好きでした。
上条嘉門次(かもんじ)に弟子入り、「上高地の常さん」とも「上高地の主」ともよばれ,死ぬ直前まで北アルプスの山案内をつづけた。
ウォルター・ウェストン夫妻を北アルプスへ案内した。
常次郎に顔が似てきたと言われますし、酒が好きだと言う事も似ています。
小学校2年生の時に、常次郎が上高地で脳梗塞で倒れて、実家に戻りなさいと言う事で、みんなで大八車でひっぱてきたことを覚えています。
当時の大正池は大きくて、枯れた木が湖畔にあり、ボートが7~8月はびっしりでした、今は1/10ぐらいになってしまっています。

焼岳をはさんで岐阜県と長野県の県境になります。
最後の7年間は5代目の隊長として任命されましたが、責任は重大でした。
「鳥も通わぬ滝谷」と云われた滝谷 昔はヘリも近づく事はできなくて、兎に角難所が多かったが何回も行きました。
殆どが遺体収容でした。
当時先輩の後について行って技術を身につけていきました。
遺体を親に合わせると、親がしがみついて泣いて泣いて、それを見ながら自分たちも貰い泣きをしました。
その時の状況の説明や、ちゃんとした形で渡してやらないといけないと思いました。
隊長になってからは、隊員の方の家族から、こんな時につれて行って大丈夫なのかとかの電話が家に入ってきたりして、妻も色々苦労があったようで、隊長を辞めると判った時は、わーっとうれしいと言っていました。
辞めてから20年経ちました。
山にはベテランなんていない、いつも初心でいかないと、とんでもないことになると言うのが、僕の信念でした。
山の気候はその都度その都度違う。

海外の山にも登ってきた様な人でも、アイゼンをちょっとはずさなかったために岩に引っかけてしまって、亡くなった方もいました。(甘く見てはずす手間を省いてしまっていたと思う)
岩場は昇りは上手く昇るが、下りが難しい、みんな下りで失敗している。
隊員は結成以来、二重遭難を起こしたことはないです。
中高年の人が若い時の気持ちで昇り、無理をして登って、谷底に落ちてしまうとか、高齢者の事故が多いです。
体力が落ちていることをなかなか見抜けない。
山ガール、女性が増えると男性も増える、逆はないが。
最近は半ズボンにタイツと言うのがはやって、私も3年前ぐらいに買いまいたが、そこそこに快適です。
昔はニッカポッカ、長い靴下、革の靴が登山スタイルでしたが。
素材は随分良くなってきました。(衣類、テントなど道具を含めて)
靴には気をつけないといけない、常に手入れを怠らない。
最近はヘルメット着用が増えてきました。(御嶽山噴火以来)
単独で一人の青年が山の計画をして、天候が悪かったら引き返す様に注意をしていましたが、梅雨が明けかけた時でしたが、1週間の計画を立てて、1泊したが天候が悪くなると言う事で止めた人もいたが、当面の頂上まで行って昼には山小屋に戻って来て、ロープウエーにむかったが、母親から1週間後、息子が帰ってこないという連絡が警察にあった。
登山届は出ていなかった、山小屋には来ていたと言う確認は取れた。
どこかで迷っているらしいという事になった。
下山して当日旅館に泊まる電話(山小屋から電話をしていた)をしていたが、宿には帰ってこなかった。
谷に迷ってしまった様で、2日目の時に滝の所で食べていることが分かった。(時間はたっていることが分かった)
滝壺に入って亡くなっていた。
ズボンの中にメモが入っていて、降りてくるときに迷ってしまって、雨と風が強くて何ともならない、頑張るけどもしかその時は、今まで育ててくれてありがとう、という事が書いてありました。
撤退することを何故母親に云わなかったのか、連絡していれば間にあったと思う。
登山届は絶対に出さないといけない、止めたことをどこかに伝えておかないといけない。
2日間は生きていたので、残念でならない。

遭難対策協議会の中の救助部長の役職はもらっていて、経験談を語りながら、山を昇る時は初心でなければいけないと、啓発活動をしています。
孫が山が好きで、6年生ごろまではずーっと付いてきていました。
将来は救助隊になるんだと、作文に書いてそれが全国作文コンクールで最優秀賞を取りました。
文部大臣賞ももらいました。
今は就職して山には行っていませんが。
生きて救助できた時には、やって良かったなあとつくづく思います。

























2016年11月24日木曜日

市原美穂(ホスピス宮崎理事長)  ・看取りの文化を地域に

市原美穂(NPOホームホスピス宮崎理事長) ・看取りの文化を地域に
NPOが運営しているのは重い病気や認知症などを抱えた人々のついのすみかとなることを指して作られた「かあさんの家」という施設です。
人生の最後に行き場を失った人や家で介護しきれず追いつめられる家族の思いを受け、その人が望む日常を丁寧に暮らしていける様サポートしています。
その先には最後の日をみんなで迎える地域でも看取りがあると言います。
老いの暮らしから看取りまでを支える地域コミュニティーの大切さを伺います。

一番最初 、開いた時は癌で高齢の方が多かったんですが、この頃は医療依存度が高い人、介護度も重い方が増えています。
認知症の方もコミュニケーションが取れない様な方が多いです。
寝たきりというわけではないです。
入居者5名が一つのグループ、普通の民家を使っているので、5人しか入れなかった、2人昼間はヘルパーが来て、夜は夜勤でヘルパーが一人来て、5~6人が二交代制でスタッフが24時間サポートしています。
高齢者にとって生活の機能が阻害する要因に空間、環境が大きいです、それがストレスになって混乱したりうろうろすると言う、問題行動があります。
「かあさんの家」に来ると、自分の家と殆ど変わらない環境ですが、自分のテリトリーだけではない。
認知症で幻覚がでる方がいますが、施設の中で夜中じゅう騒いで動きまわった方がいて、家では見られませんという方でした。
85歳ぐらいのその方をお受けした時に、家では座敷に布団を敷いていたと言う事でベッドではなく布団にしました。
スタッフを臨時に付けて、1週間経ったら落ちつかれました。(ここは自分の家だと言う居場所を感じたんだと思います)
家には椅子があると言う事で、椅子を置いたら日中ずーっと座ってにこにこ過ごす様になりました。

胃瘻(いろう)の方、入居した方で5人の胃瘻(いろう)を外せましたが外せない方もいました。
ちょっと食べられなくなった人に胃瘻(いろう)を着けっぱなしにすると、食べられなくなる喉になってしまうので、なるべく早く外すと言う事をします。
しゃべったり歌ったりするようにして、安全に食べられるように工夫しながらやっていきます。
五感を働かせるので、食べることは、脳も活性化するのではないかと思います。
食べることは、生きる意欲を取り戻せると思います。
家族は親には出来るだけ生きていてほしいが、本人は体重が落ちていって、言葉が少なくなったりしてきたときに、家族は心配になるが、私たちも一緒に揺れ動き寄り添う訳です。
私が言うことは、どなたも皆さん限界、到着点があります、と言います、でもそれは順番であり娘さんより早い、到着点までをどうお母さんに過ごしてもらうかが大事だと話します。
到着点があると言う事を考えたことが無いと言う方が結構います。
入居されてしばらくすると皆さん元気になられます。
もうちょっとここで生きていてもいいかなと思うのかと思います。

最終的には家族も本人もそうですが、どこかで覚悟をされます、そうすると納得ができると思います。
その方が生きてきた様に、その人の人生の考え方、行動の処し方と関連してくるような気がします。
生そのものが自分の思い通りにならない、誕生、生きていること。
今生きていることが意味ある様にする手助けはいっぱいある様な気がする。
命も、あの人こんなふうにして生きて逝かれたね、という事をどれだけ周りの人の心の中に生き続けて行くかなと思うんです。
最後の時はとても残された家族にとっては大事なんです。
家族が納得するには、多分本人が納得させるんです。
「順番なんですね」と娘さんがお母さんの横で寄り添って言いましたが、娘さんが親の息使いと一緒に呼吸をしていて、これがもしかしたら寄り添う事なのかなあと、その時思いました。
娘さんはお母さんの息使いを聞きながら納得して逝ったんだと思いますが、それはお母さんが多分伝えたんだと思います。(人が人を送ることなんだと思います)

そこに至るまでにはいろんなプロセスがある。
口があかないとか、少しづつ弱ってゆく、人が生まれて亡くなってゆく人間としてのプログラムされている事なんではないかと思っていますが、そうなってゆくと息使いなども静かなんです、それを横で見ている家族がこういう事なんだと言う事が判っていく。
子供達が臨終の場から離されているが、小さいからこそ、老いて亡くなってゆくという事を体験すると言うことはとても大きい様な気がします。
幼稚園の子がいて、「今からおじいちゃんは空に昇ってゆくから、御見送りしよう」と言ったら、「どうしてゆくの?」と聞いたので、お爺さんのところへつれていってたら、「じいじいバイバイ」と言っておでこをさすって部屋を出ていったんです。
そのことは後で絶対残っていて、悲しみの雰囲気を経験することは凄く大きなことだと思います。

バーチャルの世界では生き返ってくるが、一度死んだら生き返ってこない、だから今を大事に生きていかなければいけないと言う様なことが、生活の中から看取りが消えてしまいましたね。
病院の看取りと家族での看取りは質が違うと思う。
病院ではモニターに心臓が止まって、一本線になったら御臨終ですと言う事になりますが、家族の思いが一杯その時出てくる、家族の思いはモニターには映らない。
亡くなっても体温の温かさを感じることになるし、亡くなった後の1時間位が家族にとって一番大事な時間だと思います、本当に顔が綺麗になります。
一人一人、生きてきた人生が違う様に亡くなり方もいろいろです。
誰か傍にいてほしい人はいると思う。
人には群れるという本能がある様な気がします。
繋がりをしっかり作っておくことは必要です。

活動の原動力、みんなでこの活動はあるわけで、強いて言うならば、父を看取った時の事かもわからないです。
父は手術後ICUの中で亡くなりました。
母は傍にはいられなくて凄く悔いて、母まで逝ってしまうのではないと言うぐらい落ちこんでしまいました。
医療の有り様、後に残されたひとが生きてゆく力もなくなってしまうような医療は違うのではないかと思った経験があります。
付き添って世話をしていると、納得して最後にはみんな「有難う」といって、声を掛けてくれます。
そうやって見送られた人はきっと、有難うと思っていると思います。
母は3年ぐらいどこにも行きませんでした。
最後にお父さんは何か云いたかったのではないかと、繰り返し言っていました。
そういう訳で母は「かあさんの家」で看取りました。
タオルをサッと出してくれたり、お茶を出してくれたり、その時にこんなに有難い事だと家族として思いました。
人が亡くなるということは色んな事がいっぱい有ります、宝ものも一杯下さいます。
死を思うと言うことは、今を生きるという事を大事に思うと言う事になると思うんです。
人は老いる、人はいずれ亡くなると言う事を判っていながらそのことを考えないで、多くの人は来ていると思います。
















2016年11月23日水曜日

渡辺總子(わだつみのこえ記念館館長)・戦没学生の声に耳を澄ます

渡辺總子(わだつみのこえ記念館館長) ・戦没学生の声に耳を澄ます
昭和24年戦没学生の手記「聞けわだつみの声」が発表され、以来、学徒出陣した若者たちの言葉は多くの人に読み継がれてきました。
そして戦没学生の体験を伝え、手記を展示保存する記念館の設立への動きが高まり、平成18年わだつみの声記念館が出来ました。
館長の渡辺さんは昭和10年生まれ、長い間記念館設立の為に力を尽くしてきました。
2年前からは館長に就任し、戦没学生の遺稿、資料の収集や保存展示など記念館の普及に努めています。

記念館が出来てちょうど12月でまる10年、あっという間の感じです。
募金活動に13年掛かったので、そこから考えるとちょっと長い感じもします。
学徒出陣50周年記念の時に、関係者が記念館を絶対建てようと日本全国に声をかけたら、1400名の方から寄付がありました。
文京区本郷、東京大学の赤門のすぐ近くに記念館があります。(マンションの1階が図書、2階が展示室、100平米の小じんまりした部屋))
1500点ぐらい展示しています。
戦後生まれの人がほとんどで、父や叔父さんの戦歴を知りたいとか、若い研究者が調べに来られたり大学の先生が授業に取り入れたいという事で、こられたりします。
読んでゆくと戦争は悲劇だとか、平和を守ろうと聞きなれたフレーズよりも、戦争や平和を訴えかけてくる物が多いと、そんなふうに感想を書いてくれたりします。
写真があったり、はがき、日記でも達筆で細かい字でびっしり書いてあったりして思いが伝わってきます。

記念館を建てるきっかけになったのは、結婚した相手が、少年兵で戦艦武蔵に乗っていて、レイテに向かっていたが、手前シブヤン海峡でアメリカ軍に総攻撃を受けて沈んでしまったが、辛くも生き残って帰って来て、同年兵を亡くしたことの苦しみ、酷い戦争体験だったことを、何とか書き残そうと、執筆活動をしていた時に、学徒兵の人と知り合い、戦没学生のお墓参りをしたり、そんなことを私はそばで見聞きして、学徒兵の方とのお付き合いもあり、56歳で本人が亡くなってしまって、私に託された様な気がして、生きて帰った人の想いを伝えようと言う事で今日まで来ました。
記念館を建てられたのは宿題の一つを果たしたと思います。
私は、1935年生まれなので疎開児童でしたので、戦争体験はないです。
夫の書いたものを清書することで、戦争についての知識が深まりました。
生きて帰った人に良かったですねと言うと、違うとちっとも嬉しくないと、私達には判らない戦争体験した方の共通の想いの様ですね。(一緒に戦って亡くなった人のことを思うと、なんで自分は生きて帰ったのだろうとの想い)

宅島徳光さん大正10年(1921年)生まれ   福岡県 福岡市出身
昭和18年9月慶応義塾大学法学部卒業、その9月に三重航空隊に入隊、昭和20年4月9日飛行訓練中に殉職。24歳
恋人宛てに書いた日記
青春の苦悩が切実に描かれている。
「6月13日快晴、飛行作業あり、俺の返信を待って落ちつかぬ日を過ごしていると思う。
早く返事をしなければと俺の心の責任感が叫ぶ。
はっきり言う、俺は君を愛した、そして今も愛している、しかし、俺の頭の中には今では君よりも大切なものを蔵するに至った。
それは君のように優しい乙女の住む国のことである。
俺は静かな黄昏の田畑の中で、まだ顔も見えない遠くから俺たちに頭を下げてくれる、いじらしさに強く胸を打たれるのである。
もしそれが君に対する愛よりもはるかに強いものであると言うのなら君は怒るだろうか、否々決して君は怒らないだろう、そして俺とともに俺の心を理解してくれるだろう。
本当にあのようなかわいい子らの為なら命は決しておしくはない。」

6月30日
「飛行作業あり、八重子、極めて孤独な魂を温めてくれ。
俺は君のことを考えると心が明るくなる。
そして寂しさを失う事が出来る、それでよいのだ、君のすべてを独占しようと思うのは悪い夢だ。
君には君の幸福がきっと待っている。
俺は俺の運命、否、俺たちの運命を知っている。
俺たちの運命は一つの悲劇であった、しかし俺たちは悲劇に対してそれほども悲観していないし、寂しがってもいない。
俺たちの寂しさは祖国に向けられた寂しさだ。
たとえどのように見苦しくあがいても俺たちは宿命を離れることはできない。
しかし俺は宿命論者ではない、あのようなできごとは俺の心には何か遠いはるか昔の様な気がする。
それだけに思い出すと懐かしい、よい友達を持ったと喜んでいる。
あんなに親しい友達は俺の過去には一人もいなかった。
俺は君のすべてを知っていたし、君も俺のすべてを知っていた。
俺はなぜ君を離れたか、君は俺を恨むことだろう。
しかし、俺の小さなヒューマニズムが君の将来の幸福を見棄てさせようとはしなかった。
君は俺があのようにして離れる事できっと幸福な日を設けうるに違いない、俺はその日の幸福を祈っている、本当に幸福な日を迎えてくれ。」・・・一部

宇田川達さん 大正9年生まれ 埼玉県出身
奥さんがいた方で妻あての手紙。
昭和17年(1942年)9月早稲田大学法学部卒業、10月には東部第十二部隊に入隊。
1945年1月25日鹿児島県大野岬海上にて、交戦中戦死。 24歳
広島の下宿先に荷物一式が残されていて、下宿先の娘さんが奥さんに送り返して、そこに二通の遺書があったそうです。
一通は公的なもので、もう一通は妻(邦子)へのもの。
「邦子ちゃん、私は昭和17年1月18日結婚の日以来、邦子ちゃんを喜ばすことなく今日まで過ごしてしまった。
しかし私の気持ちは決して世の中の夫たるものに負けぬつもりです。
こうしてペンを走らせていると、様々な思い出が次々に浮かんできます。
今までも何回も言いましたが、私は邦子ちゃんと結婚して救われたと確信しています。
父が亡くなってからの家庭苦、精神苦、特にいろいろなことを考えてしまって、当時は私はいかにして生きられるかを懸命に考えてその日その日を送ったことでしょう。

それから私は邦子ちゃんに依り、はっきりと行くべき光を、道を与えられたのでした。
その故に私は一時たりとも邦子ちゃんより離れたくない気持ちでした。
しかし世の中はそれを許してくれませんでした。
そして私は祖国の運命をになって昭和17年1月18日入隊したのでした。
私は日本人が故に愛を振り棄てて大きな祖国愛の為に、私のこの一個の肉体生命をかけた邦子ちゃんに別れて入隊しました、そして今祖国のために散って行きます。
邦子ちゃん、私は邦子ちゃんと死にたかった。
邦子ちゃん、私の心臓が止まるその瞬間まで、私は邦子ちゃんのことを思っているでしょう。
そして邦子ちゃんの名を呼ぶでしょう。
こうしていると頭が変になりそうです、ただ邦子ちゃんにすまないと思う。
私は邦子ちゃんと結婚して幸いを得たけれど、邦子ちゃんは私と結婚しなければこんなに若くて未亡人にならなくて済んだのではないかと思ったりします。
昭和17年10月1日朝、門のところで無言で見おくってくれた姿が目に映ってきます。」

宇田川さんには男のお子さんもいたそうですが、お父さんと同じくらいの日時に事故で亡くなってしまったそうです。
宇田川さんは多くのノートを残しているので、それを一冊の本にできないかとずーっと思っているところです。
戦争で残された女性も大変な戦後を送られたんですね。
夫の物があるから是非預かってほしいと言う事で預かる事になりました。
他にも特攻訓練の基地から両親に送ったはがきがあり、絶対面会禁止という非人間的なはんが押してあるんです。

朝鮮人の戦没学生の手記、写真も展示しています。
韓国に生還した元朝鮮人学徒兵の方がたが1・20同士会を作っていて、交流していて、公民館が出来た時に寄贈するということになりました。
直筆は無いです。(日本語で書いたものは残せませんと言われましたという事です。)
もう一つのわだつみがあるんですよと、お伝えしています。
韓国のかたにも評価していただいています。
資料の傷みもあるのでスキャンして、デジタル化して、画像として取っておくことも大分進めてきました。
アーカイブで蓄積した資料などを公開する事業も2年前から目標として挙げて、ボランティアで学生が協力してくれることになり、共有財産にしていただいて、戦没学生の理念をつたえて平和に繋げる行動を今後も頑張っていきたいと思います。
















2016年11月22日火曜日

津村節子(作家)        ・今も生きる、こころとことば

津村節子(作家)        ・今も生きる、こころとことば
吉村昭さんは2006年7月79歳で亡くなられるまでに、綿密な取材と調査を元に、記録文学、歴史文学の分野で数々の作品を執筆され、太宰治賞をはじめとして受賞され、今も多くの読者に読み継がれています。
作家の妻の節子さん88歳は、昭和28年吉村昭さんと結婚され、昭和40年第53回芥川賞を受賞、そのごの旺盛な作家活動を評価され、今年11月文化功労者に選ばれました。

夫が没後 10年に文化功労賞をいただき、この前までそこに立っていた様な気がします。
夫の同じ作品が繰り返し出てきて、どうしてこんなに売れ続けるのだろうと、あきれるぐらいです。
夫は舌癌という事で、放射線治療の為に入院していて、CTで体中検査をして、膵臓に癌があると言われて、膵臓癌は生存率が、5年で死亡率の非常に高い病気だと知った様で覚悟した様です。
周りには絶対に知らせるなと言って、息子と娘だけは知らせました。
膵臓全摘と言う事で、大変なことになったと思いました。
これが吉村さんの癌ですと先生から見せられました。
どうしても家で死にたいと言うので、1日も早く退院を許してもらって、家で点滴を出来るようにベッドをセットしました。
家に戻って来てとても喜んでいました。(息子も娘も近くに住んでいたのでよく来ました)
酒豪だったのでビールを一口飲んで「あーっ美味い」と言って、末期のビールでした。
2006年7月31日の明け方に亡くなりました。
目の前では泣きませんでしたが翌日部屋で泣いて、亡くなった後も井の頭公園のはずれの神田川のところで大声をあげて泣きました。

自分が死んだあと収入が激減すると思った様で、私が書いている事を忘れてしまった様で、家を売って、アパートに入って、御手伝いさんを頼んで生活をするようにと遺言が克明に書いてありました。
結婚当初は貧乏もいいとこで、6畳一間で吉村の給料が1万5000円、家賃が1500円、同人雑誌が3000円 6000円引いたら食べるものも無い様な暮らしをしていました。
夫は勤めを帰って来てクタクタで、書く事もままならず勤めを辞めてしまいました。
ダイレクトメールの様な仕事をして手形が来たが手形が不渡りで、糸の商品を東北に売りさばかなくてはいけなくなって、石巻、青森に行って、商売をしました。
その後八戸に行って物産展に出したら製品が全部売れて、北海道に渡ることになり、洞爺丸がひっくり返った時で、沈んでいるのが見えました。
根室に行って、花咲の街にいったが、ニシンの取れる時だけにぎあうところで、みかん箱にセーター等を載せて商売しましたが、そんなときでも夫は書き物をしていました。
雪が降ってネッカチーフが真っ白になり、その姿を見てこの女に一生借りができたと思ったそうです。

昭和37年田野畑出身の友達がいて、私の村は小説にならないかと話がありぷらっと行って、リアス式海岸がずーっとあって景勝地を見て、帰ってきました。
兄の会社の専務取締役をやっていて、事業も拡大して吉村を頼りにしていて、吉村を手放したくなかった。
1年間の約束で書く仕事にするかどうかの見極めをすると言う事で、吉村は1年の期限で死に物狂いになって(私はその時には芥川賞を取っていた)、兄が認めてくれるような作品を作って会社を辞めて、専業にものを書いて行きたいと思った。
田野畑にもう一度行ってみようと、2泊3日掛かって行って、断崖から眺望して精神が洗われるに様な気がしたらしいです。
帰って来て、死のう団、少年少女が鵜の巣断崖から、体中を紐で縛って一人が落ちるとみんな繋がって落ちる様に集団自殺する話を書いて、「星への旅」という題を付けて太宰治賞を受賞しましたので、兄もあきらめました。
彼はそれからひたすら書いて、私小説を書いていましたが、長崎へ行き戦艦武蔵の取材ノートを友達から託されて、山下三郎(ペンネーム泉三太郎)が結核でせっかくの建造日誌を小説に書けなくなってしまって、君に託すから書いてほしいと言われたが、人間は書けるが軍艦は書けないと言ったが、民間の三菱造船所の会社が軍艦を造ることはどういうことだろうと興味を持って、調べ始めて生き残りのひとの名簿を頼りに尋ね歩いて北海道から沖縄まで尋ね歩いて、取材だけでも大変だったんです。

取材で、武蔵が進水しただけで津波が起こったそうですが、誰にも言わないでくれとおびえたそうです。(戦争が終わって何年経つと思っているのかといっても)
武蔵の建造の時に大変な秘密を守らせた。
「戦艦武蔵」という作品が出来て今も読み継がれている。
田野畑に行った時に泊まった旅館の女将さんが津波の時に波が全部引いて岩が全部見えて、波が引いてしまったと言う事を聞いた時にえーっと思って、調べ始めて、三陸に明治から昭和にかけて3回津波が来ていて、4回目も又来るに違いないと思って、田老というところが全員亡くなった大津波が来ている。
三陸海岸の津波を書いて、その取材で田野畑、田老、宮古等に行きましたが、 私が見たときには物凄い堤防が出来ていました。
関東大震災の生きている人にも聞いて、その話も書きました。
荒川区で三陸海岸の津波 関東大震災の原稿、資料、メモなどを展示して、天皇陛下が行幸して、展示をしていることを知って、ご覧になりました。

津波の引いて、来る描写はまるで自分が見たように書いています。
臨場感がある、読むとその場に自分がいたみたいに感じる。
平成16年に書いたあとがき 多くの死者の声が聞こえる様な気がする、と書いてあり、その後東日本大震災、熊本地震、鳥取地震があり、災害から逃れることはなかなかできない、津波がこれからも起こるだろうと言う、読むとそう予言している。
災害は繰り返し繰り返し来ると彼は思っている訳です。
彼が予言した通りのことが起こってしまっているんです。
吉村文庫が津波で流れて、復旧したので、又段ボールに本を詰めてた田野畑に送っています。
荒川区に吉村等の文学館が出来る予定です。(吉村はいったん断った様ですが)
吉村の資料は一般の人が見てもどうしようもないが、研究家が見れば値打ちがあるので、寄贈すれば、だれでも医学書、歴史書でも蔵書を見ることができるので納めました。
吉村の長い机があるが、これは死ぬまでここに置いておきたい。














2016年11月21日月曜日

金原瑞人(翻訳家)       ・日本語への愛着が翻訳を支える

金原瑞人(翻訳家)       ・日本語への愛着が翻訳を支える
1954年昭和29年岡山生まれ、法政大学大学院英文学博士課程を修了、1998年から法政大学社会学部教授を務めています。
この30年間で共訳や絵本を含めて450冊以上を翻訳しました。
最近はサマセット・モームの「月と6ペンス」や、短編集「ジゴロとジゴレット」の新訳も手掛けています。
日本は翻訳大国だと言われますが、文学書の翻訳は翻訳家にとってそれだでけは、収入面で見ると厳しいと言われています。
翻訳する際の苦労、翻訳家のおかれた立場、翻訳家の将来などについて伺いました。

文庫本などの海外の新訳が目立つ。
翻訳の難しさ、例えばシェイクスピアの作品で、ハムレットは1600年前後に上演されていて、当時の言葉で、今の言葉では古くて、上演する時には古い言葉で上演するがそれを日本語で訳す時にどうするかとか。
日本人が読んでいる物はネイティブのシェイクスピアとは随分違う。
歌舞伎や文楽を現代語でやっている様なものでギャップは大きい。
1600年代では当時は現代語だった。
坪内逍遥、福田恒存、小田島 雄志さん 同じシェイクスピアでも翻訳ものは違っている。
松岡 和子さんが全訳に挑んでいるが、坪内逍遥と小田島 雄志と松岡 和子ではそれなりに大きく変わってきている。
「ライ麦畑でつかまえて」(『キャッチャー・イン・ザ・ライ』とも翻訳されている)野崎 孝さん訳 村上春樹さんが訳しなおしたが、野崎 孝訳の「ライ麦畑でつかまえて」は当時の日本人が抱いていたアメリカ像がバックにいあるが、村上春樹が捉えているアメリカ像が裏にあって、日本人にとってアメリカ像は時代によって大きく変わってきている。
「風と共に去りぬ」等の古い訳をみると、黒人言葉の訳がいまでは絶対あり得ない様な訳になっている。(それぞれの時代の感じ方が反映されている)

語学はあまりできなかった。
高校は5段階評価で3だった。
仏文、露文、独文全部落ちて、英文科に落ち着きました。
翻訳家になるのではなくカレー屋になるつもりだった。
就職試験に全部落ちて、何をやろうかなあと思っていたが、カレーを作るのが好きだった。
のちに『翻訳家じゃなくてカレー屋になるはずだった』エッセー出版
屋台で本格的なカレーを作ればいいと思って、始めれるようにまではなっていた。
先生が或る日、大学院に来ないかと言われた。
犬飼和雄先生が翻訳をやっていて、翻訳の勉強会をやっていて翻訳の仕事も面白いと思いました。
修士、ドクターを出るころに、最初ペンギンが主人公の「さよならピンコー (心の児童文学館シリーズ)」という可愛い名前の本でした。
子供の本は使う語彙が限られてくるので、子供にも判る言葉できちんと訳すのは難しいと思いました。
中高生を舞台にしたヤングアダルト向けの小説に、はまりました。
昔は若ものはいなくて、子供と大人しかいない時代しかなかった、さらに昔は大人しかいない時代があった、社会の中で誰が中心にいるか、中世のころまでは大人しかいなくて、子供は不完全な大人、近代に入って、学校が出来て、子供という人格が言われるようになってきて、子供と大人の二層構造になってゆく。
1950年代にアメリカで初めて若ものが誕生する。
小学校だけでなく、中学、高校がで来て、大学が増えて若者の層が増えていった。
若者向けの音楽、ロックンロールができて、映画、ファッションが根付いて、子供、若者、大人の三層構造になってくる。
それまでは若ものは不格好な世代と言われていて、若者向けの服が無かった。
彼等は一つのファッションを切り開いてきた。

『キャッチャー・イン・ザ・ライ』は1951年で、ヤングアダルトの作品があったのに出版社はそこをターゲットに本を売ろうとはしなくて気が付いたのは70年代、80年代、その頃僕が翻訳を始めた時代と重なってくるわけです。
日本は明治時代以降、どんどん欧米の文物を取り入れて文学も沢山取り入れ、色んなものを翻訳する国ではあります。
ヘルマンヘッセの全集はドイツ本国よりも日本の方が先に出たと言われた。
ヘミングウェイフォークナー 全集など、翻訳大国と言われる。
翻訳だけでちゃんとやっている人は1割弱でそれも大学で教えながら翻訳している人が多い。
今、訳している人は女の人が多いが、昔は圧倒的に男性が多かった。
ハードボイルドのミステリーなどはちょっと違うと思うこともあるが、作品がその人に向いているかどうかの方が大きいと思う。
年齢によって若者の作品を訳せるのが難しいこともあり、男性、女性ということもあり、共訳の必要性もあります。
「I」 英語の「私」は一つしかないが、日本語はたくさんある。
「僕」、「俺」でもそれなりの色がついてしまう。

面白い本で訳者はだれだったか、を聞いても訳者のことは誰も覚えていない。
表に出たくないと言う人もいますが。
創作ゼミ(分野は広い)をやっていて、4人ぐらいは活躍しています。
原稿用紙200~300枚を書いて来る学生もいます。
金原ひとみ(娘 芥川賞受賞) 半年受講するが、当時は駄目でしたが2年後にはびっくりしました。
「蛇にピアス」で、すばるで新人賞をもらった時の方がうれしかったです。
日本翻訳大賞 今年2年目、注目に値する、是非読んでほしいというものをピックアップしています。
本そのものが読まれなくなってきて、翻訳ものはさらい読まれなくなってきていて、翻訳小説、翻訳文芸はどうなるかこのままいくと心細いが、何れ翻訳ものがおもしろいと思うようになるのではないかと色んな活動をしているところです。
趣味としては三味線、歌舞伎、文楽、骨董、盆栽(もう辞めましたが)。
芝居は好きで18歳で東京に出てきて、いきなりアングラで、それを見始めて、それは歌舞伎や文楽、能の手法をうまいかたちで取りこんで来て見せて呉れる。
それで歌舞伎、文楽にのめり込んでいった。
和だから好きという訳ではなくて、好きなものの一つとしてそういったものが好きです。
翻訳は英語の読解力と日本語の表現力に尽きると思うので、そこから先はシンプルで英語の読解力は今の若い人たちは劣っていると思う、私達の時代は読む読む、書く、いまは読む、書く、話す、聞くの4つを平等に力をてけてゆくと言う事になっていて、翻訳はあまり話せなくても、聞けなくても、良いので、読解力は落ちていることは自覚してほしい。
読むことは意識的に読む時間を増やして、たくさんの本を読んでほしい。
若い人は文法を厭がる人が多いが、翻訳では文法を判っていないと迷ってしまう。
文法は地図だと思っていて、地図があると方向を探す時に役に立つので、文法はしっかり身につけておくといざという時に役に立つ。
語彙力、しゃべる時と書く時では違って、文章で表現するときの語彙を良く覚えてほしい。




















2016年11月19日土曜日

堀木エリ子(和紙作家)     ・手漉(す)きの伝統を現代に生かす

堀木エリ子(和紙作家)     ・手漉(す)きの伝統を現代に生かす
54歳 京都に工房を構える和紙作家、建築インテリア向けに基本サイズが2m70cm×2m10cm、畳3畳分、最大で11m×4mという大きな手漉(す)き和紙や立体の手漉(す)き和紙を製作、何枚もの和紙を重ねて後ろから光を当て文様を浮かび上がらせる等、これまでの和紙のイメージを変え数々の賞を受賞しました。
作品は成田国際空港第一ターミナル到着ロビーの照明のオブジェや、大阪の万博公園迎賓館の光壁、京都の上七軒歌舞練場の緞帳等のほか各地の公共施設、ホテル、大型商業施設などで展開しています。
2000年のハノーバー国際博覧会の日本館では手漉(す)き和紙で作った自動車を展示、実際に二人乗りで会場内を走らせ見学者を驚かせました。
高校を卒業して、銀行員として働いていた堀木さんはある偶然の出会いをきっかけに和紙の世界に入りました。
モットーは御縁とパッションと言います。
手漉(す)きの伝統を現代に生かす情熱を語っていただきました。

建築やインテリア用として作るので大きいです、畳3畳分で一枚漉きで漉きます。
10人掛かりで、職人5人スタッフ5人で作ります。
穴のある紙は水滴によって穴をあけてゆき、自然な形の穴があき、ひきこみながら紙漉きという作業をします。
紙の繊維にしては太い物が通っていますが、紙の原料のこうぞの茎(しろかわ)をそのまま使っています。
たたみいわしの様な感じで作ります。
水滴が一つ落ちただけで穴が開いてしまい損紙となってしまいますが、損紙として捨ててしまうのはもったいないと思って、全部に水滴を打てばいいのではないかというのが発想です。
殆どの時間はカッパに長靴をはいているか、ヘルメットに安全帯を占めて現場に行っていると言うのが多いです。
作品で照明を前から当てた時と後ろから当てた時とは全然違う。
障子は日本の美学そのものですが、太陽光線が介在して影が濃くなったり薄くなったり、紅葉の赤い光が障子越しに差し込むとか、室内から満月がそこはかとなく感じられると言うのが日本人の独特な情感とか移ろいの世界なんですね。
日本家屋から受け継がれてきた伝統の所以だと思います。

私たちが作る和紙は何層からも作られていて、表からの照明では表面の一層しか見れないが、裏からでは何層も浮き上がってきます。
照明のいろいろな組み合わせで移ろいを楽しんでもらえる。(現代のビルの窓のないようなところでも光の移ろいを楽しめる)
越前和紙を漉いていますが、越前和紙は美術紙が得意でした。
和紙の上に柄を重ねて文様を作っていくと云うのが越前では昔から行われていて、昔から二層で行われていたが、何層(3~7)迄も重ねて奥行き感を更に出します。
日本の和紙は薄く均一に漉けるということが可能になります。
多層に漉くと細かい泡が無数に発生するが、乾燥すると気泡が破裂してしまい和紙にならないので、職人さんはできないと云うんですが、全部吸えばいいと思ってストローみたいなもので吸えば泡が無くなることが分かり苦労しますが、そうすることによって泡の解消をしました。

面積が大きいので水を揺らすことができないので、揺らす原点に戻り考えて、繊維と水をすくって揺らすから繊維が絡まり、繊維が絡まるから繊維が強い、そのものを動かさないで、水と繊維を掬いあげて、水を道具の上で動かせば繊維は絡まると思ったんです。
技術を簡単にする、道具もその辺に売っているものを使って、若い人にも簡単にできる様に、未来に伝統を繋いでゆけるようにとも考えています。
最初、フェルトペンで手書きで書いて、その後コンピューターでスキャンして、出力して、原寸(10mとか)で出力して原寸で確認します、それが型紙になり、紙を漉いて行きます。
手漉きで漉くからこそ偶然性があり、偶然性が3割、こうしてやろうという人間の作為が7割で素晴らしいものが生まれてきます。
どうやったら3割の偶然性が生まれるかを考えて、10人指揮しながらやっています。

私は人間に大事なものは二つしかないと思っていて、御縁とパッション(情熱)だと思っています。
ディスコで名物おじいちゃんがいて、そのおじいちゃんから声を掛けられて、銀行員だったら、事務、経理が出来るんだろうと言われて、息子が京都で新しく会社を興すから経理として手伝ってほしいといわれて、たまたま手漉き和紙の商品開発の会社でした。
或る時、福井県武生に一緒行く事になり、そこは真冬でも暖房はいっさいなく、トロロアオイという樹液を使うので温度が高いと粘りが無くなってしまうので良くない。
水も氷水のようで、肘まで手を浸けて作業していて、その光景に衝撃を受けました。
その後その会社が2年間で会社は閉鎖してしまった。
機械製和紙とか洋紙の世界から類似品が出てきて、機械製和紙との価格差で駄目になってしまって、自分でやらないといけないと思ったのが24歳でした。

資金、知恵、経験、知識もなく、その中でやらなければ行けなくて、相談したところ一人知り合いが居ると言う事で、呉服問屋の人を紹介してもらい、25歳から始めました。
機械製和紙と比べて手漉き和紙の良さを探ってゆくと二つ見つかり、手漉き和紙は使うほど質感が増す、使っても使っても強度が衰えないと言う事でした。
祝儀袋は一回使うと捨てられてしまう、それをいかそうとしても駄目だと思って、インテリア建築だと言うふうに思い至たりました。
現代の家屋は大きく広くなっているので、大きく出来ないかと思って、新しく始める会社では畳3畳分と決めました。
デザインも紙漉きも会社経営もやってくれる人がいなくて、自分でやる様になりました。
最初知らなかったが、やって出来たことはいっぱいあります。(最初職人さんから抵抗も一杯ありました)

職人の精神性、白い紙が神に通じる、白い紙が不浄なものを浄化するという考え方。
祝儀袋、白い和紙の封筒にお金をいれてお祝い御礼を渡す、というのは御札を浄化してから人に渡すという事です。
障子を新しい綺麗な和紙に張り換えて、部屋の空気を浄化して、新しい年の神様をお迎えする行為なんです。
なのに海岸で取ってきた砂粒を入れたり水滴で穴を開けて色をいれるし、職人さんたちにとっては邪道だと言われるのは当たり前だと思いました。
説得は無理だと思って、兎に角継続だと思って通って、5年目ぐらいには段々理解してくれるようになってくれました。

1年目に3000万円ぐらいの赤字をだして、出ていけと言われました。
1年目でようやく大きな紙のことが理解され始めて、とにかく3年は継続してもらう様に説得しました。
しかし周り中からは作ること、経営など何にも知らないのだから、出来ないから止めろと言われました。
物作りの根底は、いつの時代も自然に対する畏敬の念と、命に対する祈りの気持ちから生まれてくるものだと、判りました。
土器は人形作りから機能を与えられて人の役に立つ物になったと云うことで、これを私の和紙に置き換えたらどうなるかと考えたら、人の役にはそのままだと立たないわけで、機能、用途をどう与えるかと考えた時に、燃えない、汚れない、破れない、色が変わらない、精度を上げると言う事に取り組まない限り、現代では役に立たないと云う事で、その仕事が始まりました。

私はプロの知識が無いが、プロとコラボレーションすることによってそれが実現してゆく。
だから御縁とパッションが必要になるわけです。
私達の立体の手漉き和紙は骨組みが無くて糊も一切使わない、紙を漉くという技術で行う。
道具を揺らさずに、水を動かして作ると言う手法です。
2000年のハノーバー国際博覧会の日本館では手漉(す)き和紙で作った自動車を展示しました。
二人乗りで会場を走りました。
和紙でないのは車を動かす機器とタイヤだけです。
愛知の自動車メーカーが次に愛知に来てくださいというキャンペーンの車として作った物で、2人乗りで最高時速が125km/hまで出て、会場は外なので雨にも、風にも、手垢にも、お尻の擦りにも耐えないといけない。
開発は大変でしたが、新しい事こそ未来への技術開発のきっかけがあると思っていたので、出来ないという考えはなかった。
「一番最初に出来ない」を捨てて、出来る前提でしか前に進めない。

私は要望に答えたいという思いがあるので、それを実現するのが目的です。
夢は東京オリンピックの聖火台を和紙で作りたい。
聖火は、祈りの明かり、ともしびが結集して、最後のランナーの火と一緒になって燃えるとか、素晴らしい聖火ができないかと考えています。













2016年11月18日金曜日

山本嘉子(元保育園園長)    ・絵本で伝える”空襲体験”(H28/8/18放送)

山本嘉子(元保育園園長)    ・絵本で伝える”空襲体験”(H28/8/18放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2016/08/blog-post_18.htmlをご覧ください。

2016年11月17日木曜日

西山利佳(子ども学科准教授)  ・児童文学は魔法の鏡

西山利佳(青山学院女子短期大学子ども学科准教授)  ・児童文学は魔法の鏡
戦前戦中の反省から児童文学者たちに依って昭和21年に設立された日本児童文学者協会に学生時代から魅かれ、25年前に入会、現在常任理事を勤める西山さんは今年30年間勤めた中高一貫の国語教師から青山学院女子短期大学子ども学科准教授に変わりました。
西山さんは学生たちに児童文学とは子供という異文化理解の窓であり、過去の自分と再会させてくれる魔法の鏡であり、希望の友達だとメッセージを送り授業を進めています。

簡単に言うと子供向けの文学だが、境目が凄く難しい。
日本児童文学大会があったんですが、森絵都さん(直木賞作家)は児童文学も書いている。
読者対象を誰に意識するか、で結果的に変わってくると森さんは言っています。
子供というと中学2年生が読むものを児童文学、と一般的に言われたりもしますが。
メインターゲットは小学生という事を大事にしたいと思います。
子供の本を通してわすれてしまった子供時代の感覚を思い出されたり、自分が何を持っているか、口に出せないので、子供ってこういう事が悔しかったり、嬉しかったりするんだという事を知らせてくれる事を意識した読み方をして欲しいと思います。(客観的に)
色んなものに触れて心が耕される経験というのは大事だと思います。
大人の人にも読んでもらいたい、自分の子供時代に会えるんですね。
読んで自分の心が照らされることもあるし、理解者を得た様な気もするので、若い人は通り過ぎた時代を児童文学を読んで自分が納得できたりするのではないかと思う。
子育て世代は子供理解のカギになりますし、孫と読むことで再会されるかもしれない。
鏡に映すことで、自分の顔を知る様に、本を通して自分の気持ちを知ると言うのがあると思っています。(過去の自分と再会させてくれる魔法の鏡)

私立の中高の一貫校で国語の先生をやっていました。
担任でもなかったので、生徒を前にして云いたかったこと話したかったことがいっぱい出てきて、それを書きたいと思って、通信を書く様になりました。
内容は「媒」である、という意味は刺激しあいたい、何か投げかけることによって化学反応が起きるのではないかと思って、思い出した本を紹介したりして、化学反応が起きればいいと思いました。
授業は授業なので、書く事でフォローしたいと思いました。
書いたものならば見ない、途中でやめると言う自由があるので、書いた方が思いきって伝えられると思いました。
今大学では聞いてもらえると言うのがあるので、通信は止めました。

芥川 「蜘蛛の糸」 赤い鳥の創刊号に載った。(大正7年)
子供の文学という時には古典的な名作、大人の小説として書かれていた物を入れると言う時もあります。
古典的な名作を読むのも、持っていきようだと思います。(私が面白がることができたら)
羅生門等もとことん読み込めます。
細かい描写に気付く事の楽しさに気付いたら、色んな事に気付き始めます。
アニメバーサス児童文学の特集が組まれて私も書いたのですが、原作が児童文学でアニメとか映画化されたものがいっぱいありますが、児童文学は言葉だからこそという事を意識すれば、別のジャンルとして勝ち負けじゃないと思っています。
目にも見え、音が付くという事になれば、当然負けますが、作品を読みながら風、季節の匂い、味を感じたりとかは言葉だからこそと思っています。
絵にされない面白さがあると言う事に気付いた子は本から離れて行かないと思います。
原作と映像を交互にやってみると、つまらないと思うか、面白いと思うのか。

戦争児童文学のジャンルが確立していますが、今の様に始まったのが1959年がスタートになっているというのが定説になっています。
児童文学の最初の時代を作った人達は一回自分の子供時代を戦争によって失われたり、変な価値観で塗りこめられたりしたものを、もう一回立て直さなければ行けなくて、その時に大人の小説よりも、シンプルで真実が書いてある子供の本という事に行ったらしい。
人間の一番大事な事がそこに書かれている、そこから始めないと自分を立て直せなかったという事を言っています。
戦争体験世代の方たちと自分達とが隔絶しているように感じた。
戦争体験世代の方たちは根っこがどっしりあってだから戦争に反対だと自信満々に言っている。
8月15日の体験を原体験原風景としてあって、それを核として自分があると言うが、経験が無いのでそれは困ると私は言ったんです。
体験が無い私達には戦争反対という資格が無いのかといったんですが、橋渡しが必要だと思うんです。
判っている人が判らない人に向かってなにか言おうと言い続けている限り、届かないのではないかと思いました。

個人の体験はみんな違うので、隣の人の体験は自分では知らない訳で、そういう意味では断絶があると思う。
体験をどう受け継いでゆくか、語り継ぎ部、そういう感覚が大事だと思います。
児童文学全体は大人のメッセージが多かれ少なかれあるので、戦争がテーマになると一層熱く伝えたいと言う思いがあるが、子供主人公が自分でやりたいということは、やりたいと言う気持ちは時代が変わっても同じだと思う。
話の中に寄り添える感覚を持った人物がいるかどうかが鍵なような気がする。
橋渡しになる間になる大人は大切だと思うが、私は作り手側に近くて、日本児童文学者協会で新しい戦争児童文学で言っているところです。
日本児童文学者協会には学生時代から関わってきましたが、戦争、いじめ等色々ありそれらの関係は物凄く広がっています。
友達関係、貧困、ヘイトスピーチも出てきました。
今の時代のリアルなことから迫りたいと言う人達も沢山います。
取りこみながら読んでもらう工夫も最終的に逃れられない。

図書館 学校図書館 作家が自ら出ていって話してもらう事で興味を持ってもらうこともあるし、作る側も魅力的に作りたいと言う思いはあります。
笑ったり泣いたり、同じ人間なんだと実感できてこそ、その人たちが酷い目に遭った時に一緒に怒ったりなんて酷いんだと実感できると思う。
或る作家は、物を書くと言うことは、必ず誰かが傷つくと言う事もあるんだと言う事を覚悟の上で、という風に言っています。
八方美人になって、結局は何も語らないと言う事になっても困ります。
本というものは柔らかさが無いと、結局はどんなにいいことでもガチカチで、これを信じなさい、笑わずに受け留めなさいと言ったら、戦前戦中と同じことになってしまうのではないか。
















2016年11月16日水曜日

内館牧子(脚本家・作家)     ・今やりたいことを最優先に

内館牧子(脚本家・作家)     ・今やりたいことを最優先に
68歳 朝の連続TV小説、「ひらり」や大河ドラマ「毛利元就」等の脚本で知られています。
昨年内館さんの書いた「終わった人」は定年を迎えた主人公のその後生き方を描いたシニア世代の話題作となっています。
その内館さん、武蔵野美術大学を卒業後、OL生活を経て40歳で脚本家デビューしました。
多くの作品を手掛け売れっ子作家として活躍しました。
2000年には女性として初めて横綱審議委員会のメンバーとして10年間務めたことも話題となりました。

「終わった人」 13万部の売れ行き。
主役は63歳 田代壮介。 東大出のエリートで大手銀行の出世コースから子会社に出向、転籍させられてそのまま63歳で定年を迎える。
何でもいいからと職探しをするが、特技もない定年後の男に職はなかなか無い。
或る友人をきっかけに仕事をすることになる。

物凄く反応が大きいです。
90代、80代の人が感想を寄せてくれる人が多くいます。
みんな同じような思いで会社を辞めて幸せそうな顔を見せて辞めてゆくんだろうなと思いました。
定年後に孫と遊んだり、妻と温泉に行ったり、趣味やボランティアに生きたり凄く楽しいと言う人もいるかと思いますが、孫は直ぐに大きくなるし、妻はそんなに喜んで夫といつまでも旅行には行かないだろうし、男は定年後の技量、能力を活かせる場所が欲しいと思うのは当たり前だと思います。
若いものにはまだまだ負けないと言う考え方はちょっと違う気がしました。
書こうと思ったきっかけは会社に勤めていた頃、社内報の編集をしていて、定年してゆく人達にインタビューをしました。
10人中10人がこれからが楽しみですと言いました。(20代の頃)
40代のころには、本当にそうなのかなあと思いました。
60代になって、クラス会、サークルの集まりがあり、そこに出ると、エリートだった男性、物凄い美人だった女性、みんな大差は無いんです。
横一列に並んで終わって着地点が一緒だったら、そういう話が書けるかもしれないと思いました。

エリートであった人達はここまでくるプロセスは華やかで突然終わると、どうしていいか判らなくなる辛さは見てとれました。
世代交代はあるわけで、これは大きなテーマだったと思いました。
サラリーマンとして、成仏するまで仕事をしたい人は仕事をした方がいいと思います。
趣味、町内の仕事をしようとやりたい人はいいんですが、仕事をしたい人は仕事をすべきだと思います。
自分に与えられた場を最優先にして、仕事だと思ったら、仕事をして終わった時にやるだけやったと思います。
思い出と闘っても駄目、勝てない。
自分にとって最盛期の黄金時代を思い出すが、それには勝てない、思い出とは戦わない。
はやった言葉のネバー ギブアップは過剰にもてはやされていると思う。
相撲を見ていると、よくわかる、佐田の山は全然辞め無くてもいい状態の時に辞めてしまった。
しがみついて頑張って落ちて、又上がると言う様な繰り返す人がいるが、日本人には散り際というものがあって、深追いしてかっこ悪くなるよりも散り際は大事だと思います。

8年前大きな病気になり、13時間の心臓の手術をして、このままかも知れないと思ったが、40代、50代などにちゃんと仕事をしておいてよかったと思いました。
その時点で立っている段階で自分が優先順位をつけて、やりたいことをやると言うのは思い残すことはないことかもしれません。
以前は夜も仕事をしていましたが、今は日中仕事をして、午後5時ごろには止めます。

武蔵野美術大学を卒業後、会社に入社して広報、社内報の仕事をしました。
その時に沢山の人に会いました。
女性は補助的な仕事をする時代だったので、このままでいいのかなあと思って、大相撲の仕事をしようと思って、電話をしたがすべて断られて、文章を書くのは早かったので、プロ養成の学校に入って勉強しました、シナリオライターが作家の一種だったことに気が付いて、恥ずかしくてできないと辞めてしまった。
ゴルフを始めて、クラブを買う前にメンバーの会員権を買って、まわったがゴルフが好きでないとはっきり判りました。
又学校にいって、一生懸命やって、試しに書いて雑誌に出したら佳作をもらった。
たまたまNHKのドラマ部のひとから連絡があり、若い脚本家を育てようとしているのでメンバーにならないかとの事でNHKに夜通って、時間がなくて会社から電話で打ち合わせをしたりしました。
1988年 本格的にデビューしました。
民放の方から声を掛けられて、「薔薇」という仕事でした。
2時間ドラマで200字詰め原稿用紙で、200枚位ですが、1700枚書きなおしされました。
あんたは脚本は下手だが、一ついいところがあって叩かれ強いと言われました。
「ひらり」 視聴率42.9% 相撲好きな女の子の話でラッキーだった。

2000年から10年間相撲審議委員会を担当する。(51歳で女性で初、他の人は60~70歳代)
或るとき時津風理事長からお使いの電話があって、豊山が反物一反かかえて家に来て、反物を開けてみたら双葉山の浴衣で、何の用かなと思ったら、30分以上麦茶を飲んだりしていてようやく、相撲審議委員になって欲しいと言われて、そこで直ぐになりますと言いたかったが、ちょっと考えますといって、その後お受けしますと言いました。
10年経って女性がその後担当しないので、懲りたのではないでしょうか。
朝青竜とはバンバンやったし、クールビズでノーネクタイで内閣官房副長官が土俵に上がったので、審議委員会で聖域でしょうと、猛烈に怒りました、懲りたのではないかと思います。
3年間仕事を休んで東北大学大学院に行って宗教学で相撲の事を勉強しました。
今も東北大学の相撲部の総監督をしています。(以前の様に何回もいけなくなりましたが)
力士が落ちてきてアバラを折ってしまったこともあり、ドクターストップがかかってあの席は止めてほしいと言われてしまいました。
希勢の里が好きで、柏戸の様な感じがします。
裏切られて裏切られてきたが、でも好きなんですね。
朝青龍は男としては魅力的な人で好きですが、横綱としてはそれとは違う立ち位置なので、横綱としても最低限のことはきちっと守ってもらう人が欲しいです。
次は女性を主人公にして小説を書きたいです。






















2016年11月15日火曜日

山下一穂・みどり(山下農園代表) ・有機農業一筋に生きる

山下一穂・みどり(山下農園代表) ・有機農業一筋に生きる
高知県山間地、本山町で今からおよそ20年前、有機の野菜作りに取り組んだ山下さんに伺います。
有機野菜は安心して食べられると消費者にも喜ばれている栽培方法ですが、なかなか普及していません。
雑草や害虫対策無しでは野菜は育たない、形がそろわないと売れない、生産物の販路を自分達で開拓しなければならない、土作りが難しいなどの理由で有機農家は農家全体の1%にもなりません。
山下ご夫妻はお二人ともそれを承知で農業に取り組み、土作りから始めて20年、今は一定の収益を上げている数少ない栽培農家です。

今、出荷しているのは、ニラ、ニンジンの間引き菜、インゲン、サツマイモ、サトイモ、ショウガ等です。
一穂:60品目作っています。
単作でやると言うのは性にあわないです、休みなしです。
有機農業の普及推進活動もやっていて講演などもやっています。
昔は東京でジャズマンでしたが、農業と共通するものがありました、ノリが直感でやると言う事。
みどり:10年前までは農業は好きではありませんでした。
夫は体調が良くなかったので、野菜は無農薬に決めていました。
一穂:40歳すぎに祖母が亡くなって、墓を守れと言う書きものがでてきて、そこに通ってくるようになり、畑があったので作り始めて家庭菜園にはまっていきました。
体調が良くなくて、楽になる方法を探していたが、農業をやり自分の野菜を食べる様になり、体調も良くなり、精神的にもいらいらすることが無くなりました。
就農したのは48歳でした。
掛軸 「田舎からの国作り」(タイトル 最初から思っていた事ではなかった)
1.日本の農業を変える。
2.消費者の健康を守る。
3.美しい日本を取り戻す。
 
自分で楽に生きるには何かきちっとやらなければいけないことがあるだろうと思って、考えた時にイメージがわいてきました。
有機農業 経営の難しさ、価格が高い。
有機農産物は綺麗でおいしいと言う事で価値があるが、技術力と勤勉さ、労働の質、マネージメントが問われるが、その辺の意識が甘くて良いものができないとかがある。
そういったものの胃袋を満たすのが、今はマーケット全体で言うと少ない。
真面目に働き続けて効率よくやれば経営的には経済性は十分可能だと思います。
今の流通の状況だと難しい。(大規模流通 一つの品物を形、色などを一定に大量に)
個人的に直接販売、信頼できるバイヤーがあるとか、販路は口コミ状態です。
スタートは18年前、実験的に始めるが、翌月には倍になり、一次関数的に増えて、直ぐにコックさんとかが購入する様になり、口コミでどんと広がる時もある。

みどり:最初は私が高知市内に宅配セットを一軒一軒週に3回届けていました。
最初は厭でした。
お客さんの反応が良くて、気を良くして頑張りました、嬉しかったです。
JAにもししとうを出荷したこともあるが、色んな規格があったりして辛かったです。
今はJAには出荷していないです。
送り先は関東が多いです。
一穂:色んな価値観を持ったお客さんがあるので、旬のもの、本当においしいものを欲しいと言うお客さんもいて、多様なニーズには多様な生産体制があっていいのだろうと思っています。
小規模農業に特化した農家が少ない。
日本の土地の7割近くが山間地で、小規模農業です。
小規模農家さんが大規模流通を前提にした農業(薄利多売)に取り組んでいる。
やっていけないので子供には継がせないと言う様なことが増えている。
質を重視したことは凄く大事だと思っている。
小さい農業も力を入れていけばいいと思っているので、自分の存在価値があると思っている。

みどり:道の駅 完全無農薬とは言えない。(表示はしてあると思う)
一穂:虫が付く、汚い それは上手か下手の話だけです、技術がちゃんとあれば綺麗な有機野菜ができる。
綺麗な有機野菜は必ず美味しいです。
虫に食われ易いのは、葉には硝酸態窒素があり多いと不味さの基でもあり、それを虫が好むんです。
ヨーロッパでは規制値がかかっていて2000ppm以上は出荷できないが、日本では野放しで、化学肥料を沢山やると、沢山出来るが硝酸が多いので虫に食われ易くて、味もまずい、虫は農薬で対応できるが味のまずさには対応できない。
有機農家でも上手な農家もいれば粗悪な鶏糞をたくさん入れて、虫食いだらけで不味いという農家もいます。

上手な農家のことを研究機関が客観的評価をして、中味を整理してマニュアル化して文字化して、判り易い形で他の農家さんに伝えてゆくという仕組みを作る必要があるが、有機農業では出来ていない。
行政、農協が動くのが早いと思うが、行政もサービス業なので普通の人からの大きな声が無いと動けない。
1.日本の農業を変える。
2.消費者の健康を守る。
3.美しい日本を取り戻す。
これは出口で有り、入口は美味しい、幸せ、毎日おいしいものを食べる、これが共通のテーマになる。
美味しくないと心は動かない。

朝から晩まで農作業をするのに絶望とか苦しいとかを感じたことはないです。(睡眠がとれる)
農作業は子供のころのどろんこ遊びの原体験の追体験をしている様で開放感を感じます。
一時期肩が痛いとか肉体的には辛くなっているが、又元気をとりもどしてきました。
人生ばくちだと思っていてツキと流れがこっちに来ないといけない、ツキと流れがこっちに来るためには、どれだけ人の為世の為に生きているかということだと思っていて、やっとツキと流れがこっちに来たかと思います。
経営的には厳しいです、好きでないとやっていけないと思う。
うちの夫婦は「ザルとどんぶり」です、お金が入って来てもざるの様(有機農業の為)にお金をつかって、どんぶり勘定です。
経営者としては失格です。
農地は分散していますが、3ヘクタールぐらいだと思います。

研修生が来ましたが、殆ど有機農業をやっています。
120~140人来て、定着率が80%を超しています。
みどり:食事会をしたり、ワイワイガヤガヤ飲んだりしてきました。
後の彼らの生きざまを見るのが好きです。
一番心に残るのは神奈川にいて、彼の志を継いで同じような生き方をしています。
一穂:美しい日本を取り戻す、は政治的な意味ではなくて、子供のころの原風景、自然を取り戻したい。
山にも川にも里にも命があふれていたが、テーマに掲げて、それを取り戻したい、そういう仲間を増やしていきたい。
バトンランナーとして次の世代につなげていきたい。
みどり:家族を大事にして、家族は最小の単位、仲間を増やしていきたい。
元気の基は食べることなので体にいいものを食べて心を丈夫にして暮らして欲しいと思います。













2016年11月14日月曜日

菅原由美(全国訪問ボランティアナースの会)・ 看護師の力を在宅ケアに生かす

菅原由美(全国訪問ボランティアナースの会「キャンナス」代表) ・ 看護師の力を在宅ケアに生かす
20年前、退職した看護士の力を活かして高齢者や障害者を在宅で看護する訪問ボランティアナースの会を神奈川県藤沢市で立ちあげました。
名前のキャンは英語で「出来る」、ナスは「ナース」を意味するNPOのボランティア団体です。
菅原さんは昭和51年東海大学医療技術短期大学看護学科を卒業し、看護士として1年勤務しましたが、結婚で退職しました。
その後出産や子育てで職場復帰が出来ませんでしたが、祖母、義母が入院した際、自宅に引き取り介護したところ、とても喜んでもらえた処から、退職した看護士が働きやすい環境を作り、復帰してくれれば在宅での看護、介護がもっと良くなるのではないかと考え、訪問ボランティアナースの会を始めました。
キャンナスは看護士に依る初めてのボランティアの為、当初保健所や看護士の団体から活動があまり理解されませんでしたが、次第に在宅医療を進める医師などから支持され、現在では全国で100か所を越えるキャンナスが活動しています。
全国のキャンナスは藤沢市にある本部とメーリングリストで結ばれ、東日本大震災ではこの呼びかけでおよそ1万5000人の看護士や介護関係者がボランティアに駆けつけました。

地域が好きなナースが自分達の地域を少しでも良くしたいと言う思いで、出来ることを出来る範囲でやっていきましょうと、20年前に始めた時には潜在看護士が100万人いると言われていて、声をかけてやってきました。
そして癌末期のかたたちのターミナルを病院ではなく、家で迎えることができるお手伝いをしたいと立ち上げたのが趣旨です。
介護する家族の方たちのお手伝いをしたいと言うのが、目的にあります。
家で死にたいと言っている家に泊りこんだりしたり、認知症の人の家に行って見まもりをして家族の方にゆっくり休んでもらったり色々なことをしています。
看護士の人が付いてくれていれば安心だと思っています、注射をするとか吸引をするとかの作業はほとんどしません。
強制的な関係は一切ありません。
メーリングリストを使って(フェースブックも)、お互いのことを連絡し合っています。
年会費もなければ、何にもないです、各地がそれぞれの拠点で独立採算でやっています。
有償ボランティアで、金額も全国まちまちで、800円~2000数百円/時 あると聞いていて、それぞれ自分の街に合わせて活動しています。

平成8年に立ち上げるが、前年に阪神大震災があり、それが大きなきっかけになりました。
行って見て自分が自惚れであることに気づきました。
ガールスカウトのリーダーをやっていて、日本赤十字社の救急法のインストラクターを持っていて、そして看護士というのは多分日本では私しかいない状況だったと思っていて、私が行かなければ誰が行くと言う思いで、行きました。
アムダで看護士の募集をしていると言う事で参加させていただきました。
私がこういう団体を立ち上げたいと言いましたら、絶対今の時代にマッチしているからおやりなさいと医師の方々から応援するからと言われました。
子育て期間にブランクが出来てしまう事で、医療から遠のいてしまった自分に自信が無くなってしまって、躊躇していた。
今こそ立ちあがって、地域の為に頑張りましょうと言いたいです。

結婚を機に病院を辞めて、主人の祖母の事で病院ともめて家につれて帰ることを選択して、母と一緒に在宅で看取りました。
今度は母が癌になり、わたし自身も家で看たいと言う気持ちがあったので、癌としてもう手遅れだったので連れて帰っていいよと医師から言われて、家で看ることが出来ました。
二人のケアをしていて、子育てもしていて、主人も脱サラをして自営業をしていて、介護も入ってきた。
祖母を介護している時に、二日に一遍徹夜をして、二日に一遍会社の仕事をして、祖母とどっちが先かというほど限界を感じて、全て自分の時間をカットして、息き抜きが出来ないことで、虐待こそしなかったが祖母とどっちが先かと言ってしまいました。

当時専門職集団によるボランティア団体は日本でアムダはあったようですが、非常に珍しいとの問い合わせがありました。
看護士は医師の指示の基に動くと言うのが大前提で、ボランティアで勝手に利用者の家に行って、利用者の顔を拭いても医師法に触れるので、免許のはく奪ですよと注意されました。
そんな理不尽なことがあるのかなと思い、行政にぶつけました。
看護の団体からも色々言われました。
災害があった時に、どこに看護士がいるのかという事も提案しましたが、それは行政がすることだとか、言われました。
今年、日本看護協会からヘルシーソサエティ賞をいただきましたが、夢の様な出来事だと思います。
介護の世界も色々変わらなくてはいけない時代を迎えたと思います。

山梨市立牧丘病院、古屋聡院長の言。
圧倒的な存在感、華やかなオーラ、並はずれた行動力に驚いて、そうだなあと思いましたが、4つ目におばさん型思考形式。
近所にいるおせっかいなおばさん、手も出す、口も出す、その典型だと言う様に思っています。
送りだすナースたちに言ったのは、何の指示、命令もありません、あなたがナースとして恥じない行動を取って来て下さいと、今回被災地に行くときはできることを精一杯やって来て下さい、自分で考えて行動してください、と言いました。
責任を与えて、自分で出来ることを精一杯と言う事だけで皆さんが良く働きました。
どこもトイレが汚くて、感染の危険性があるため、私達がどこへ行ってもトイレの掃除から始めました。

夜ずーっと泊ってたことが評価されました、夜一緒に泊ることで、大事さを知らされました。
昼は被災者も頑張っているが、夜になるとおいおい泣いている姿等、夜しか見えない光景を垣間見て、そばに座っているだけですが、寄り添えたことはよかったと思います。
「キャンナス」で東日本大震災で参加した人は延べ1万5000人の方が活動しました。
普段は地域の在宅ケア、家族を助けることがメインです。
介護保険が出来てからそれに頼るという事を皆さんが学んでしまった部分がありますが、私的な形には発展していかない。
これからは厚労省が言っている様に地域包括ケアになると思いますが、助け合いのある街が作られないと厳しいと思います。
自助、互助、共助、公助、と4つありますが、公助は非常に薄くなるのでみんなで助け合いながら、やってゆく、おせっかいの街を作らないと駄目だと思っていて、そういった講演もやっています。
今の若い子たちは気付いて20代、30代の人達がでてきています。
お金ではなく、心の豊かさを求めて、集まってくるんです。
霞が関、永田町の方々にお会いして必死に考えていると言う事を判るようになって、一番考えていないのが、国民、個人だと思っていて、個人が賢くならないといけないと思います。







2016年11月12日土曜日

西垣迪世(一人息子を亡くした)  ・若者たちを過労死から救いたい

西垣迪世(一人息子を亡くした)  ・若者たちを過労死から救いたい
2014年に過労死防止法が施行されました。
過労死対策のキャンペーンや行事が全国で行われています。
一方で日本の社会での過労死はこの法律がスタートをしたあとも減っていません。
先月も大手広告会社の新入社員だった女性社員が自殺したのは、長時間労働などに依る過労が原因だったとして労災と認定されたと報じられ社会問題になっています。
兵庫過労死を考える家族の西垣さん72歳へのインタビューです。
西垣さんの一人息子、システムエンジニアだった和哉さんは2006年一月過労で鬱病になり、治療薬を過剰に摂取して亡くなりました。
若い人達をこれ以上過労死で死なせては駄目だと言う西垣さんの母としての想いを伺いました。

異変が起きたという連絡を受けたのは高校で授業をしている最中に、連絡をもらいました。
新幹線がホームに入ってきたときに、病院の先生から携帯に連絡があり、心肺蘇生を長時間やっているが駄目だという事で、中止していいかという事だった。
止めないで何とか息子を助けてほしいと言う事で新幹線に乗りました。
残念ながら息子は警察に行っていて、警察の遺体安置所で息子の冷たい遺体と対面しました。
息子は昭和53年11月生まれで、専門学校で習得したパソコンが得意だったシステムエンジニアで27歳でした。(小さい頃はやんちゃな子でした)
大手電子機器メーカーの子会社、システム開発を担当する会社で、希望して入社しました。
母一人、子一人でした。
所属した所が地デジを開発するところで、入社2年目での民放企業のプロジェクトでした。
2003年12月1日に地デジがスタートする事でした。
息子が亡くなってシステムエンジニアの過酷さを知りました。
顧客に見せてから色々な注文がでてくるが、納期は変えられないので寝る間を惜しんで作り上げないといけないという事で追い込まれてゆく。(デスマーチ)

労災が認定されず、認めさせるために東京地裁に裁判を起こすことになる。
酷い勤務実態が明らかになってゆく。
法定時間外労働、5カ月平均で87時間 一定の期間を取ったら1か月150時間以上の長時間労働があった。
深夜はもちろん、早朝まで仕事をしている状況で、きつい時には一晩徹夜をして30分休んで9時に出勤した後、午後10時ぐらいまで連続37時間勤務もあったことが判りました。
息子は机に突っ伏して朝まで寝たり、友人はパイプ椅子3つ並べて寝たり、女性も段ボールを床に敷いて仮眠を取られたと言う風に聞いています。
ソファーもあるが若い子は使えなかった。
長時間労働の証拠がでてきて、タイムカードにない部分、休憩時間さえもまともに休んでいない、タイムカード以上の長時間労働だったと言う事が証明されてきて、長時間労働と鬱病との因果関係が認められました。

息子は自死とはっきりしていないと言う事でそこが大きな争点にはなりました。
鬱病の治療薬を過量服用したと言う事が認められ、うつ病と死亡との関連も認められました。
3つの因果関係が認められ、裁判で労働災害だと認められました。
同期入社が74人いたが、体調不良の方が相次いでいたが、これが判決文に記されている。
社内のほとんどのものが鬱状態だったと言う風に同僚が言っていました。
しかし会社側の反論は全員ではないと、74人中6人に1人、12人がメンタル不調の為の1か月以上の休職か、退職者だと言って反論しました。
他の人も休職はしていないけれど、病院に通っていたようです。

大手広告会社の女子社員が過労自殺して、この会社は社会的批判にさらされる。
2014年に過労死等防止対策推進法が成立施行されたが、そのあとも過労死が後を絶たない。
過労死が全く減っていない、電通でも起こったのだと思いました。
法文はできているがそれはあくまで理念であって、具体的な防止策をどうするかということは、まだ今からなんですね。
お母様が悲想な顔で、お嬢様、お母さんの気持ちがどんなものかと思うと、本当に胸が痛みますし、怒りがわきます。
必死に一生懸命育ててきた、世の中で親の一番大切なのは我が子なんですよ、この子の為には或る意味では生きてきたと言っても過言ではない、この大切な我が子を会社は一体どういう風に使ったんだろうかと、どんなつもりで働かせたのだろうかと思うと、機会が有ればお母様にお会いしてせめて一声だけでも掛けて差し上げたいと思います。(声を詰まらせながら)
過労死は、病死(脳、心臓、呼吸器系疾患での突然死)と、過労自死(鬱病から来る)がある。
過労死が発症した以前1か月の時間外労働が100時間を超す場合、発症前2~6カ月で平均が80時間を超す場合、これが過労死ラインと言われる。
精神障害の場合は時間は同じではないが、時間も参考にして、どういう出来事があったのか(パワハラなどを含めて)、という事で判断されます。

過労自殺は労災申請件数で年間1500件を越えて年年増えている、過労死は労災申請で年間800件前後で横ばい。
関西大学名誉教授森岡孝二さんのホームページでも指摘していて、減少の兆候は見られないと言っています。
過労死は国際語として通じる様な言葉になったと言います、情けない言葉です。
働き盛りの過労死から若者の過労死へと時代が変わってきている。(就職氷河期からようやく正社員になった)
息子が2回目の休職から復職するときに止めた方がいいと言いましたが、年度途中で止めた場合には次にまともな職には就けない、職場のみんなが鬱状態で薬を飲みながら鬱病を治して行っているのでもう一度だけ戻りたいと言っていましたが、・・・・・。

プロジェクトに入った2カ月後に父が亡くなった時に葬儀のために息子が帰ってきたが、一眠りしてほしいと言って眠ったが、お通夜の時間に起きれなかったので、これは尋常ではないと思った。
辛い状況をブログで綴っていた。(後で判ったこと)
2004年10月8日 プロジェクトの忙しさを記載、3連休も2日は確実につぶれる、22時にパソコン電源を切るが 今日は早いなというふうに記載。
2004年10月13日 今日も普通に23時まで仕事、本格的に疲れてきた。土曜は病院、日曜は情報処理試験。(一度目のうつ病で休職し、その後復職した後の時)
2005年 2回目の鬱が始まったこと、徹夜をして朝7時に帰って来ていることなどを記している。(うつ病を抱えながら、こういった仕事をしている)
2006年 1月10日(亡くなる2週間前) 欝っぽいこと、自分には存在価値が無い、これから先生きてゆく自信が全くありません、寝ることすら恐怖感があるんです、最近。
鬱病記録のつもりでブログとして日記を残したが、全く治ってゆく気配が無く悪化して行き、出口が判らない状況になって、こんなことならブログを書くんじゃなかったと、息子の絶望感、苦しかったと思います。

2004年12月28日 母親と23時30分落ち合った。
俺が死んだら悲しむんだろうなあ。
最悪な親不幸は承知しています。
何かもう終わっています。  と書いてます。
神戸から会うために出てきたが8時に落ち合う約束だった。
仕事が終わらなくて会えないとのメールだったが、今日の分を終わらせないと帰れないとのことで、やっと会えたのが23時30分でした。
息子がカラオケに行こうと言って、怒鳴る様に歌っていて(ハードロック)、ストレスを発散したいのかと思いました。
親には本当のしんどいところを言えない、親に心配をかけるので、たまらない気持です。
察知は大変難しいことだと思います。
睡眠不足か、痩せてきているか、食欲はどうか、仕事をやる気がでているか出ていないか、色んな状況がでてくると思うが、うまく周囲が判るといいんですが、いつもと違うと言う事が一つの判断だと思いますが、当人が誤魔化してしまう事もある。
普段と違うと言う風に感じた時は危険信号、死という言葉を言ったりするときにも危ないと思います。

患者の言葉だけでではなくて、家族からの本人の状況の意見を聞いたうえで医師も
どういう見た手をして、どういう診断名が出てるのかを、聞く必要があると思う。
亡くなってから別の医者に息子の資料すべて見ていただいたが、会社も悪かったが医者もよくなかったと言われました。
息子の睡眠障害の症状を直すための治療の効果的な治療法が行われていなかった。
薬の過剰投与の為に却って体の調子が悪くなって、元気になれない。
鬱病の薬によって却って追い込まれて死に至ったと言うべきかもしれません。
健康な人でも睡眠がきっちり保証されずに休息時間が無いと、どんな人間でも鬱病になり得ると医者も言っています。
貴方一人ではない、貴方一人のせいでもない、周りの人に相談して、貴方の状況を何とか改善して息子の様なことにならない様に周りの方を悲しませないように、何とかその対策を取ってください、心からのお願いです。












2016年11月11日金曜日

キャロル・サック(リラ・プレカリア) ・好きなハープで、心に寄り添う

キャロル・サック(リラ・プレカリア プログラム・ディレクター) ・好きなハープで、心に寄り添う
リラ・プレカリアは ラテン語で「祈りの竪琴」を意味しています。
1950年昭和25年 アメリカ、ミネソタ州で教会の牧師の子として生まれました。
大学在学中、1971年静岡、広島、岡山、名古屋などを3カ月間旅をして、すっかり日本が好きになりました。
その後30年以上日本に住んで、現在アイリッシュハープで心と体を癒す活動をしています。
キャロル・サックさんがこの祈りの竪琴を始めたきっかけは娘が病気の時に、祈られていることに大きく慰められた経験からでした。 
2003年から週1回東京山谷の希望の家で行き場もなく余命宣告を受けた人に、アイリッシュハープをかなでながら声をかけています。
この活動で大事なことは人間の声がその人に届く事ですと、おっしゃいます。

アイリッシュハープ 34弦 大体身長と同じぐらい。
音の幅も高い音、低い音は人間の声の幅に似ています。
日本の仏教のリンに似ている様で、ずーっと音が続き、心が落ち着いて来る気がします。
リラ・プレカリア  プレカリアはラテン語で祈り リラは竪琴を意味します。 「祈りの竪琴」
小さいころ 3歳の頃からハープにあこがれましたが、触ったこともなかったです。
ギター、ピアノなどを弾いていました。
40歳になった時に友達がハープを始めたと聞いて、夢がよみがえって来て、アイリッシュハープの事を知り、購入しました。
人の前ではドキドキして弾けなかった。
娘が病気になり、治らない脳神経系の病気と判断されて鬱病になってしまいました。
その時に友達に祈りをいただき、自分の人生の大きな励みになりました。
娘にも希望がわいて、元気にやっていることは祈りのおかげだと思います。

祈りをハープで表現できたら、どんなに素晴らしいことだろうと思いました。
モンタナ州に音楽死生学という分野があることを知りました、それはハープと歌声で患者さんのベッド脇で生きた祈りの様な活動です。
1対1で、患者さんの直ぐ傍で40~60分続けて、シンプルなメロディーを繰り返して、弾いて歌って、時には沈黙もいれて続けます、そういう活動です。
今の歌はグレゴリオ聖歌の一つで、修道院で1500年も続いてきた祈りの歌として歌われてきた音楽です。
他にも色々歌っています。(患者さんには判らない言葉で歌います)
私達は患者さんの歴史は判らない、過去に導くのではなく、将来に援助したい、知っている音楽よりも、知らない音楽の方がボーっとするかもしれないし、想像もできるかもしれない。

1950年昭和25年 アメリカ、ミネソタ州で教会の牧師の子として生まれました。
大学生の時に、6人のグループで旅をしようと、1971年日本に来ました。
日本の人に交わって素直な態度、優しさ、おもてなし、とにかく好きになってしまいました。
日本福音ルーテル社団で日本人に音楽死声学を教えませんかという事で、研修講座をやっています。
2003年から東京山谷の希望の家で、心と体を癒す、ボランティア活動もやっています。
ハープを通して祈りの慰めがある様にしています。
色んな人生を送った方に出会って私は本当に感謝しています。
希望の家はホームレスの人の為のホスピスです。
人間の人生は宝物、いらない人間はいない、みんな大事です。
言葉は使わない、音楽と沈黙に任せるのが主なものです。
私は判らない、判るのは本人の心だけ、神様と本人との間だけです。

呼吸を観察することは大事で呼吸を見ながら奏でます。
呼吸のペースに合わせて奏でます。(患者さんが指揮者です)
吸うときは緊張、吐くときはリラックスするので、リラックスする時に合わせようとします。
ヘブライ語、ギリシャ語の両方にスピリット 霊 を示す言葉があり、他に息、もしくは呼吸、風も意味します。
ヘブライ語 で「ルアフ רוח」  ギリシャ語 プネウマ πνευμα」
私たちは心に寄り添いたいが魂は目で見えない、呼吸は見えるので、目で見えるものを通して、魂に寄り添うという、希望です。
おおいなる何かの存在は、愛して下さる存在は素晴らしいと思う。
全ての人がその存在の子供です。
生きている人と共に、これから死に行く人、私の考えかもしれないが、死は終わりではない、死に行く方の傍らで音楽を分かち合う事を許されていることは本当に光栄に思えます。

山田洋次監督に依頼されて、吉永小百合さん主演の「弟」で祈りのハープを演奏して出演しました。
希望の家 山本雅基さんは施設の創設者ですが、山本さんが希望の家をモデルにするならばパストラール・ハープ(Pastoral Harp)のシーンもいれてほしいと話したそうです。
吉永小百合さんの長崎での原爆の詩の朗読の音楽も担当する事になりました。
人生の中で大きなサプライズでした。
東日本大震災の被災地を訪ねて祈りの竪琴を弾いています。
釜石市、小学校、中学校津波で破懐されてしまって、体育館で授業をやっていて、そこでパストラール・ハープ(Pastoral Harp)を弾きませんかと誘われていって、弾いて歌っていました。
アメリカからショールを送ってくれました。
ショールをもらう人の為に祈りますが、知らない教会のところから祈りのショールがどんどん届きました。(メッセージが付いていました)
ショールを考えながら編んでます、貴方はがっかりした時、絶望した時、かなしくなる時にこのショールをかけてください、貴方が愛されている貴方が大事であることを思い出してください、という様なメッセージです。
「I、YOU、 WE 」 というタイトルの曲を作りました。
人間は色々文化、歴史など表面的な違いがあるが、我々は友達です、私達はみんな同じ人間というファミリーの仲間です。











2016年11月10日木曜日

中谷藤市(大阪市)       ・極秘裏に散った弟の命を忘れない

89歳、昭和25年に始まった朝鮮戦争 開戦直後の10月、今の北朝鮮の東部の海に、米軍の要請で日本の海上保安庁の掃海隊が極秘裏に向かいました。
そのうち一隻に乗り組んでいたのが、藤市さんの弟、中谷坂太郎さんでした、
坂太郎さんの乗った船は北朝鮮の敷設した機雷に触れ沈没乗組員23人のうち、坂太郎さん一人がなくなりました。
21歳でした、しかし戦争放棄を歌った新憲法の施行直後という時期だったため、数十年にわたって家族や関係者には米軍や政府から緘口令が敷かれ、その事が世間に広く伝わることは有りませんでした。
坂太郎さんの死から66年、弟の死を多くの人に知ってもらい、今改めて平和を考えるきっかけにしてほしいと訴える、藤市さんにうかがいました。

亡くなって、一週間経過した時に米軍の将校、2名、通訳が1名、海上保安庁関係者が3名、突然来て、父に対して坂太郎さんが掃海作業中に北朝鮮の機雷に触れ、一名行方不明になっており、遺体も上がっていません、と言われた。
10月17日に事故があり、一か月後、11月27日呉で弟の保安庁葬が盛大に行われた。
父親から、緘口令がしれて一切公開してはならないとの事で、出席するために3日間の休暇願を出さなくてはいけないが、その説明ができなくて、休暇が取れなくて出席出来ない。
父は大正天皇の近衛兵だったので、素直に受け止めざるを得ないと言う感覚だったようです。
終戦当時の日本人の感覚は敗戦国で劣等国なんだと、そういう事故があってもそういうことはできなかった。
私は満州国の特務機関の諜報機関でした。
相手のスパイの通信士を逮捕する仕事でした。
暗号電報が発信されたら、スパイ無線だと勘で判るので、方向探知機で一定の方向に行き、変装して歩いて、別の検挙隊員がいて、そこの住民を全部男も女も子供も検挙するわけです。
取り調べて用が無くなったら、殺されてしまう、無残なものです。
国に逆らうと言う事が恐ろしいものだと体に沁みついていた。
だから従うしかなかった。
死に対する感覚が、国のためには自分の命を捧げる、そういう心情でした。

最後に会ったのが、弟が5月11日に神戸に寄港すると言う事で、久しぶりに会えると言う事で、彼は調理を担当していて美味い食べ物にもありつけたし喜んで会う事が出来ました。
艇長に頼んで船の中で話をして、宿泊させてもらいハンモックで寝ました。
元気でなあと手を振って別れたのが最後でした。(まだ朝鮮戦争が始まってなかった)
最後とは予想だにしなかった。
弟が亡くなってから、殉職の実態を知りたかったが、判らなかった。
調査を始めたのは27年ぐらいからです。(2年後)
関係者だから実態を知っているので、問いかけをしたら教えてくれるだろうと思いました。
乗組員の名簿を手に入れて、大阪在住が3名いたので、この人達に聞きました。
3人共口を閉ざして教えてはくれなかった。(緘口令がしかれていた)
弟の友達の住所を教えてもらって、手紙をだしたら、写真を送ってくれました。
この写真のおかげで周りの人達の対応も変わってきました。

掃海艇に対して海上保安庁の本部から下関の唐戸桟橋に掃海艇全部集合せよという事で集結したが具体的内容の説明は無くて、10月8日に下関を出港して、38度線に到着した時に初めて全隊員に北朝鮮の掃海作業に、米軍の上陸支援の為の掃海作業を行うという具体的な説明があったようです。
弟の乗る船には乗組員が23名が乗っており、11月17日午後4時ごろに船が一斉に並んで掃海作業をした模様です。
隊員はぜんぶ甲板上で作業していたが、弟は食事の炊き込みの事前準備をしていた様で、一人でハッチにはいった瞬間に船は木っ端微塵になり、隊員は海面に浮いていて、弟は即死の状態で船体と共に原形をとどめない状態に爆破されたのではなかろうかと言う風に聞いています。
16名は重軽傷だった。

昭和53年、海上保安庁長官の大久保武雄さんが「海鳴りの日々」という手記を出版。
これで公になって、我々家族に敷かれた緘口令が解除された。
或る日、海上保安庁長官の大久保武雄さんが訪ねてきた。
長官とは知らなかったが、弟さんの殉職について緘口令を敷かれたことで大変ご迷惑をおかけしました、とお詫びを述べてくれました。
これで永いこと緘口令が敷かれて公にできなかったことが、国が朝鮮戦争で殉職したことを正式に認めていただいた、これで公にできると言う事で、ホッと、安心感がしました。
叙勲をいただきました。(戦没者として認めてもらえた)
記録集 作る時にはすでに叙勲をいただいた後なのですが、更に個人として弟のことを公にしたいと思って発刊しました。(200部)
市民に語りかける活動もしてきました。
そんな事実もあったのかという様な感想でした。
弟の死をもっともっと公にして認識を持っていただきたい。


















2016年11月9日水曜日

佐藤隆之(ドキュメンタリー映画監督)・再び映画作りに挑む

佐藤隆之(タクシードライバー・ドキュメンタリー映画監督) ・再び映画作りに挑む
佐藤さんは1961年山形県生まれ、関西育ち、現在55歳。
高校時代 文化祭で 8mm映画を作ったことがきっかけで、映画作りに目覚め、大阪芸術大学映像計画学科に進み、大学中退後に上京、フリーの助監督として大林 宣彦さん、堤 幸彦さん、廣木 隆一さんが監督する映画の製作に参加、主に劇映画、フィクションの世界で活躍して来ました。
しかし、自らが監督になって安定した収入を得られるのは、ごく一部の人だけという厳しい映画の世界、佐藤さんも何よりも好きだった映画製作に自信を喪失、父親が亡くなり、借金を抱える事にもなり、45歳の時に映画の業界から姿を消しました。
その後まともな生活をと、タクシードライバーとなった佐藤さんでしたが、2年経った頃どうしても映画を作りたくなったと言います。
タクシードライバーの仕事をしながら、初めての長編ドキュメンタリー映画を完成させました。
企画、監督、撮影、編集全てを一人でこなし、5年かけて作り上げた映画はアイヌの歌を受け継ぐ姉妹の物語、「カピウとアパッポ」 アイヌの姉妹の物語です。
文化庁の映画製作の支援事業、文化芸術振興費の助成も受け、今月から全国各地で公開予定です。

映画は持ちだしばっかりで仕事と言えないが、自分のやるべきこととしては仕事だと思ってやっています。
タクシードライバーも人間のショーケースと言いますか、苦労もしますけど面白いです。
「カピウとアパッポ」 アイヌの姉妹の物語
北海道阿寒湖生まれの二人のアイヌの姉妹を追いかけたドキュメンタリー映画、カピウとアパッポは姉妹のニックネーム。
カピウはカモメ アパッポは一般的に花のこと 福寿草を言います。
姉は東京に15年ぐらい住んでいて、妹は阿寒湖にずーっと住んでいる。
東日本大震災をきっかけにして、姉が子供を連れて避難してくる。
4歳と6歳の時にアイヌの民族衣装を着て歌って踊りもする映像から始まる。(母親が撮っていた)
いまは二人とも結婚してそれぞれ3人の子供がいる母親で30代。
私は間近で聞いた時に歌に魅かれ、鳥肌が立つような感じがした。
二人、それぞれ歌を歌っていた。

二人の生活の裏側、かっこ悪い所も撮ると言う事をつたえたが、どんなふうに撮られるか判らないと言う事だったが、邪魔にならない様にして、二人のありのままの姿を撮りました。
心に響く歌がどうして出てくるのか、元の方を生活から描きたいと思いました。
撮影は絶対失敗できないと言う事で、凄く緊張しました。
歌は伝統的なものとは違う所に行っていると思いますが、ある意味凄いなあと先輩(お爺さん、お婆さん達)のひとたちは思っていたと思います。
お酒が入って二人が相当な口喧嘩する時があるが、翌日素直になって心を語り合うところがあるが、姉が妹に自分の素直な心で好きな歌を歌えばいいと慰める所があるが、その言葉が凄く綺麗だと思ったりするのが印象に残っていて、これは使わなくてはいけないなと思いました。
アイヌのことを知らない人にも伝わる不思議な魅力があり、それがどこから出てくるのかという事が、それを知りたいと思ったのが、これを作る動機でもあったわけです。

インドに行った後、大学を中退する。
それまでの価値観がガラガラと崩れて、それから色んな見方をする様になった。
他の世界を知りたいと思う様になり、京都で助監督の見習いみたいなところから始めて、東京に行った方がいいと勧められて、東京に来て、監督の下で働きました。
大林 宣彦さん、堤 幸彦さん、廣木 隆一さんが監督する映画の製作に参加しました。
監督として続けていく事が凄く大変で、監督となってから10年ぐらいやってきましたが、仕事自体が段々小さくなってきて、業界からドロップアウトしました。(45歳)
鬱状態になってしまって、父が病気で亡くなり、タクシードライバーを始めました。
業界からは自然に忘れられました。
タクシードライバーの仕事の中で色んなドラマが沢山ありました。
現実の些細な事の中にドラマがある、それも一つのドラマと思ってそっちに惹かれました。
長編ドキュメンタリーが完成したのが55歳、10年。
自分がやりたいことがたまたま映画だったが、自分がやりたいことは諦めない、ちょっとずつでもいいから、続けてゆく事は大事だなあと今になって思います。

自分がやってきたことの責任、そういうものも感じます。
出来上ったものを出演した人、協力して貰った人にお見せして、それでホッとしました。
5~6年はこの映画のことだけをやってきたので、5~6年生きてきたそのものです。
社会的なテーマもあるし、個人の魅力を描いている映画でもある。
歌の根源、どうして歌うのか、何故歌わざるを得ないのか、そういう事に迫れたのかなあと思います。























2016年11月8日火曜日

保阪正康(ノンフィクション作家)   ・東京オリンピック(第34回) (H28/10/3放送)

保阪正康(ノンフィクション作家) ・東京オリンピック(第34回)  (H28/10/3放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2016/10/34.htmlをご覧ください。

2016年11月7日月曜日

保阪正康(ノンフィクション作家)  ・日本万国博覧会とその時代(第35回)

保阪正康(ノンフィクション作家)      ・日本万国博覧会とその時代(第35回)
昭和年40年から45年の時期で、佐藤栄作内閣に対応する。
明るい面と暗い面が極端に出ていたのではないか、人類が進歩してゆく姿と、ちょっと戸惑いながら現実と向き合うと言う形がはっきり出ていたと感じます。
高度経済成長が進んで行って、経済大国二位になってゆくが、公害が広く国民の間で病に倒れる人も出てくる。公害病として認定されると言う形になる。
影の部分と明確な形で対比できる。
米ソが宇宙開発の競争をし、アメリカはアポロ計画で月に足を踏み入れるが、一方でベトナム戦争があり、ベトナム戦争が高度成長第二期の間はずーっと続くが、これ自体が影の部分として日本の社会にも影響を与える。
アメリカとの政治外交を重視する事で、沖縄返還に成功する。
高度経済成長の矛盾が露呈してきて、四大公害病が明らかになってくる。
世代間の価値観の対立が明確になる。(若い世代が社会に異議申し立てをする)
近代日本を問い直しすると言う形の中で大阪万博が開かれて、好むと好まざるとにかかわらず、光と影を背負っていたと思います。
生活全体に豊かさがあるが、緊張感が失われて、一部退廃化するようになり、豊かな社会なりの問題点も浮き出て来たと思います。

昭和40年 
アメリカが北爆を開始してベトナム戦争という形になってゆく。
ベトコンを支えている北ベトナムと戦争状態に入ってゆく。
2月北爆開始、2万の兵力が12月には37万6000人と急激に増える。
アメリカに反戦運動がおこり、日本にも波及して、ベ平連が出来て、大きなうねりを作った。
ボブ・ディランが24歳で、ジョーン・バエズも24歳だった。
日本の大学生の数が100万人に達する。
昭和41年 
ほぼ一月の間に大きな航空事故が3件起きる。
ビートルズが来日。
昭和42年
イタイイタイ病、四日市ぜんそくなど、公害に取り組まなければ高度成長という光の部分だけでは世の中がおさまらなくなってくる。
公害対策基本法が出来て、政治も地方自治体が革新主体に変わってくる。(美濃部知事とか)

昭和43年
水俣病が公害病に認定される。(チッソの廃液が原因と断定)
患者発生以来15年が経過、当時患者111人のうち44人が死亡。
ベトナムでの虐殺事件がおきる。
学生運動が全国的な広がりを持つ。(授業料反対闘争など)
純粋な思いで社会全体、教育全体に異議申し立てをしていると感じました。(世界的な潮流)
公害、こういう形での産業公害に大きなショックを受けました。
10月21日、新宿で国際反戦デーでの騒乱。
昭和44年
東大安田講堂の攻防(1月)など起きたりして、学生運動も暴力化する。
7月20日、アメリカのアポロ11号が月面着陸に成功する。
「人類の非常に小さな一歩です、この一歩は小さいが人類にとっては偉大な躍進だ。」

昭和45年
日本万国博覧会が大阪で行われる。(大阪万博)
規模が最も大きく、最も多くの国が参加、最も多くの人が見学に駆け付けたと言う記録的な万博だった。
45年3月14日から9月13日 183日間開かれる。
参加国は77カ国 パビリオン数83、国内関係32のパビリオン。
人類の文化の進化、国内の文化の紹介。
アメリカでは月の石を展示。(4時間~5時間待って見学)
日本館は72億円をかける。 (建築家 丹下健三、黒川紀章など)
会場のシンボルが高さ70mの「太陽の塔」 作者は岡本太郎。
人類の生活がこういう風になるのかという事と、便利で機械化していると言う事、体を動かさなくても全部できるような時代が来るのかと言う事を漠然と進歩としてとらえていると言う感じがしました。

赤軍派によるよど号ハイジャック事件 (3月31日)
学生運動が暴力化していった中で、先端にいるグループがこういった過激派になって行ったんでしょうね。
福岡に緊急着陸して、婦人子供 23人が降ろされ、100人を越える乗客と共に北に飛びたち、韓国の金浦空港に着陸。
4月3日 山村運輸政務次官が身代わりの人質になって乗客は解放される。
11月25日 三島由紀夫 盾の会4人による防衛庁関係の施設に行ってクーデターを促したが、受け入れなくて自決したという三島事件
戦後民主主義、高度経済成長で豊かになってゆくが、色んな問題があると言う事を右と左の側からつきつけたと言う二つ事件なのかなあと感じます。
「おはなはん」 平均視聴率50% 最高で60%















 



2016年11月6日日曜日

肝付兼太(声優)        ・時代を創った声(8回目)

肝付兼太(声優)            ・時代を創った声(8回目)
先日亡くなられた肝付兼太です。 
10月20に肺炎のため亡くなられました。(9月19日にお話しを伺っています)
NHK「お母さんと一緒」の「じゃじゃ丸」や「ドラえもん」のスネ夫等長年演じてこられました。

初めてレギュラーを頂いたのがおばけのQ太郎で、その関係でドラえもんが始まった時も、最初日本TVで始まってジャイアンでした。
TV朝日に映ってスネ夫になったんです。
家族といる時より長かったです。
先生のキャラクターはそれぞれの代表なんですね、凄く良いバランスです。
26年続けてやっているうちは自分もスネ夫になり切った様な感じでした。
26年目に終わると言った時に物凄く淋しかったです。
みんなもドラえもんの誕生日には同窓会をやろうと言っていましたが、なかなか集まれなかったです。
藤本先生はドラえもんは出来れば未来永劫続けていきたいと言っていまして、引き渡すなら今ではないかと26年目にバトンタッチしました。
終わってしまって、最初はTVを見るのが厭だった。
じゃじゃ丸は16年。
オーディションを受けに行って、運よく受かりました。

藤子不二雄先生の作品の中で最初に演じたのが、1965年放送のおばけのQ太郎のゴジラ、ジャイアンの様な虐めっ子。
緊張して最初楽にできなかった。
歌を歌う場面があり指定された曲でなくて、降ろされても仕方がないと思いながら、はやった歌を変えて歌で歌ったら、先生は喜んでくれました。
セリフを何とか言葉にしなければいけないと言う事ではなくて、もっと自由なイメージを持たないとアニメーションて膨らまないですね、それで楽になりました。
アドリブをするようになって、藤子先生の作品に多く出る様になりました。
アドリブは番組を壊してしまう場合もあるので、出鱈目だと駄目です。
「のびたのくせに生意気だ」という言葉も手を叩いて先生は喜んでくれました。

子供のころはラジオッ子でした。
「話の泉」、「二十の扉」、「三つの歌」とか、ラジオドラマとかを聞いていると、絵が無いだけにイメージがわきます。
スタジオに見に行って、仕事が将来ここで出来れば良いなあと思いました。(中学1~2年の頃)
演技の勉強をしなければいけないと思って、劇団に入りました。
デパートに就職して、10月まで働いて辞めて、失業保険をもらいながら演技の勉強を始めました。
(22~23歳)
NHKの「婦人の時間」があり、先輩が出られなくなり代役をやることになり、クリーニングの御用聞きの役割をしました。(デパートを辞めた後の仕事でした)
アルバイトも色々やりました。
映画のオーディションを受けて、受かって、アルバイト先の医者の先生達から選別をもらったり奥さんから背広をもらったりしました。
有楽町で6人ぐらいで靴磨きのアルバイトもしました。(半月)
或るお客が歯医者の先生で、それが元でアルバイト先が変わって歯医者の先生のところに行くようになりました。
アルバイトをやって、人に会って話すことが楽にできるようになりました。

TVでアニメをやるようになって、結構出演するようになりました。
当時は声優という言葉が無くて、声優としてはっきりしていたのがNHKの放送劇団でした。
セリフだけおっかてしまうと通りいっぺんで全然詰らなくなってしまって、自分の想像力とイメージを持つ事は演技することと一緒です。
苦労、大変だったと言う様なことは感じなかったですね。
歌は苦手だったが「お母さんと一緒」で何年も歌っていると譜面が読めるようになりました。
何でもいいから物にして行くと言う、気力は持った方がいいですね。
自分でも劇団を持って、年3回の公演しています。
稽古は嘘をつかない、と相撲で言いますが芝居でも同じです。
延べ700人以上を指導してきました。
早い人は1回来ただけで辞めてしまう様な人もいました。
誰でもそうなんですが、勉強し始めた人が結果を求め過ぎる。
そうすると消えて行ってしまう。
10年頑張れと先輩から言われましたが、何をやりたいのか自分がしっかり判ればそんなに焦ることはない、と思います。









2016年11月5日土曜日

北川フラム(アートディレクター)   ・私にとっての良寛

北川フラム(アートディレクター)     ・苦しきは人を隔てる心 私にとっての良寛
新潟県の南部、信濃川が流れる地域は越後妻有と呼ばれています。
この自然豊かな山里に突然現代アートがやってきたのは2000年の事。
大地の芸術祭_越後妻有アートトリエンナーレ、過疎と高齢化が進むこの地域をアートの力で再生したいと3年に一度行われています。
その仕掛け人北川さんです。
人と人、人と地域を結び付けるのが本来の美術の力だと言う北川さん、そう考えるように至った背景には、江戸時代の禅僧、良寛の影響があると言います。
北川さんが美術に取り組む上で大切にして来た良寛の思想とはどんなものなのか、伺いました。

平成の大合併があって、3200ぐらいあった市町村を800ぐらいにしたいという国の希望があって、この6市町村を一緒にしようという動きがあり、想定合併の市町村で仲良くやれないかという計画があり、そこの責任者に指名されて、農村は捨てられようとしている、人口は過疎になってゆく、若者はいない中で、頑張ってきたが、将来のことを考えるのも厭なものでした。
農業を辞めろ、街の中に来い、というような訳で、自分でやってきたことに誇りを持つ、地域の特色自然の中で生きてきたことは凄いことなので、意味あることだと言う事ができないだろうかと思いました。
アーティストはそこの場所の面白さを発見する能力は極めて高いと思っています。
自分の作品がある場所、作品の奥に広がるものを見せたいという思いです。
自分があることによって地域が分かる仕組みを作り出す。
作っていくときになると、地域の人々は助けあう、一緒にやりだす。
アーティストの作品だけではなく、集落の人の作品になるわけです。
算数などとは違って、美術だけは人と違って面白いと褒められる。
田舎の色々な人達はそれぞれの場所で違う生き方をしていて、それが認められることとつながりみたいな事があって、これが今、越後妻有、瀬戸内海の離島の中でも、地域の持っている寂しさ、色んな違いが人の中にある違い、多様な人がいて多様な価値がある中でどう生きていくかが良いと思われないと、よくわからない平均的な者とか、中心に切られてゆく、そういう事が今美術と田舎が持っている中で繋がってきたという風なことがあります。(内容がちょっと理解出来ない)
人と違う事を肯定する、それは良寛の考え方に繋がるものがある。
良寛の根本にあるものは、人と人を隔つる心、意地悪、ひがみ、人を差別する中で起きてくる。
生まれながらに人間は差別されてるって、良寛は知っているわけです。
だからこそ、へだつ心になってはいけない、偉い人と会っても子供と会っても同じように接する、それがやれて行くわけです。

良寛は江戸時代の後期、越後出雲崎の名主の家に生まれました。
当時干ばつが続き、一揆が頻発していて、生家は次第に没落、良寛は18歳の時に家を飛び出し出家して、34歳まで岡山県の禅寺で修行、その後諸国を行脚、39歳で故郷に戻りました。
すでに父親は自殺していました。
帰国した良寛が身を寄せたのは国上寺の五合庵、ここを拠点に托鉢をしながら修行生活を送りました。
この頃法華経を徹底的に読み込みました。
良寛の心をとらえたのは、誰もが等しく仏の心を持っているという教え、身分などいかなる差別が無いと言う人間平等の教えです。

当時、良寛は今の社会がひどいと思っていたと思います。
良寛にあるのは怒りと無常観だと思います
いかに、関わってゆく世界の中でその人たちに迷惑をかけないでさわやかに挨拶出来ると言うやり方を良寛が考えたと思えるわけです。
だから子供と遊ぶ時にも、子供達が帰った後でもずーっと鬼の役割をしているとか、誠実に付き合うわけです。
良寛がそうなるためには猛烈な格闘があったと思います。
越後出雲崎に居ながら日本中の優れた本等を手に入れて、仏の道、人間にとってありたい状態を最後まで追及してゆく事は並みでは出来ないと思います。
よくなろうとする時に人間なんて解脱できないと思っていて、猛烈に何かに向かって行こうとしない限り、行こうとしている時に向けた力みたいなところで人と繋がる良さが出来るんじゃないかと、そういう様な良寛を考えているんです。

良寛のヒューマンな思いが伝えられているが、親戚の子供がどうしようもない子であったが怒れない訳ですが、その時に良寛は涙を流すだけだったが、涙が落ちるのには物凄い葛藤と喜怒哀楽が無いと涙は流せないと私は思っています。
良寛は不条理と闘ってきたが、たまらなさの中に、呆然とし、怒っている居る自分をどう見るかという視点を持っている。
「痛ましいかな 三界の客 何(いつ)の日か是、歇頭(けつとう)ならん 遥夜、熟(つらつ)ら思惟するに 涙流れて収むる能(あた)わず
(痛ましいことだ この世の人々は いつ悟りを開く事が出来るのだろうか 長い夜の間この事を深く思っていると 涙が流れて止めようもなかった)
人を隔てる心が苦しいと言う事と、人間の尊厳。
良寛は人間て平等だなんて全然思ってないと思う、みんな違うし、違いがあることのすべてを受け入れる、ということをどうしようかという事がある、そこの良寛の格闘が凄いと思っている。
劣っているものこそ、その人の尊厳ではないかと良寛は思っていたんだと思います。
肩書き、お金、そういったものに良寛は嫌ってゆく、それが良寛の持っている人間観だと思います。

30歳で同人誌を作り出して、その時に父は良寛に対して勉強していて、父に良寛像を書いてもらう様にしました。
北川省一は良寛の研究家として知られてきました。
省一は人生のどん底の時、良寛に出会い救われたといいます。
自分と同じように困難な状況にもがき苦しみながら、最終的にあらゆるものを肯定すると言う良寛の生き方でした。
父は労働運動、農民運動ををやりながら、社会的には失敗してゆき、世の中の流れとは違って組織にもいられなくなり、自分で思っていたことが何も社会化されないという中で、相当精神的に厳しい状態にあったと思う。
暗かった時代に自分の生活を立て直してゆくときに、良寛に出会ってから、普通に言われている良寛ではない良寛があるから響いてきたわけです。
ことごとく失敗する中でどうやって生きていくか、という良寛の文章、歌の中にそれがワーッと見えてきた、だから良寛によって自分は生きれると思って、良寛を研究して行ったと思う。
父を通して良寛を知ったということは良かったと思います。

良寛は体力の限界が来る60歳近くまで五合庵で過ごしました。
経を読み、読書に励み、思索にいそしむ清貧の生活、しかし、俗世間と隔絶していたわけでもありません。
子供達と遊んだり、村人たちと酒を酌み交わすこともありました。
苦悩を背負いつつ、こだわりを徹底的に捨てた先に見出した良寛の悟りの境地です。
「生涯身を立つるにものうく、騰騰(とうとう)天真(てんしん)に任す。嚢(ふくろ)には三升の米、爐辺(ろべ)には一束の薪(たきぎ。だれか問わん迷悟の跡、なんぞ知らん名利(みょうり)の塵(ちり) 夜雨、草庵の裏(うち)、双脚、等閑に伸ばす」
(生涯立身出世しようという気にはならず、自由自在あるがままに任せてきた 袋の中には三升の米 炉端には一束の薪があるのみ 迷いや悟りの業績など気にかけない 名声や利益などという塵すらない 雨の降る夜中 草庵の中で両足をのびのび延ばしている)

半年雪の中で一人で過ごし、春を待つ気持、人から来る手紙に対して本当に尋常ではない喜びや期待を持つわけです。
良寛の人恋しさにつながっている。
雪は大変ですが、雪が持っている白い抽象的な世界、この落差みたいなものの中で捉えていった世界観は良寛の中にあって、透明な世界みたいなものを良寛は持っていたんじゃないかと、そういうものに惹かれます。

「花咲けば待つには久しひさかたの雪ふみわけてわが出でて来し」
(花が咲き始めて雪が消えるのが待ち遠しくて、雪を踏み分けて山の庵を出て来たことだ)

大地の芸術祭_越後妻有アートトリエンナーレ
村人たちは最初は遠巻きに見ていましたが、一緒にやるようになりました。

(あまり理解できないことがいろいろあり、上手く纏められませんでした)
























2016年11月4日金曜日

ジョン・ゴントナー(日本酒伝道師)  ・我が人生は日本酒とともに

ジョン・ゴントナー(日本酒伝道師)     ・我が人生は日本酒とともに
アメリカオハイオ州生まれ 54歳、エンジニアとして働いていたゴントナーさんは、日本の公立学校に英語教師を派遣するプログラムに応募し、1988年初めて来日しました。
1989年の正月 同僚の教師の自宅に招かれ、日本酒の豊かな個性を知りました。
以来、多くの日本酒を飲み比べ、各地の酒蔵を訪ねては酒作りも体験しました。
こうした体験をもとに、新聞に日本酒に関するコラムの執筆を開始、日本酒ジャーナリストとして活動を始めました。
又、在日外国人向けに日本酒に関するセミナーを開いたり日本酒の輸出を手掛けるなど、日本酒の魅力を発信する仕事を続けています。
日本酒伝道師はジョンさん自身が好きな肩書です。
ジョンさんが日本酒に賭けてきた人生とは何か、伺います。

ジャーナリストとかの肩書もありますが、日本酒の良さを世界へ伝えると言う仕事の内容なので日本酒伝道師の言葉はいいと思っています。
日本酒の世界を深めて30年近くになります。
日本酒の奥深さがあると思います、日本酒の味、香り、作り方、歴史、文化、奥深いと思います。
アメリカオハイオ州クリーブランド生まれ。
子供時代は普通でした、カトリックの学校で学びました。
大学は理科系、シンシナティー大学で電子工学を勉強しました。
卒業後、特殊なラジオ回路の設計をしました。
寿司屋があって日本酒を飲みましたがお燗しか出さなかった、特に美味しいとかは思わなかった。
1988年にJETと言うプログラムで、英語教師を派遣するプログラムに応募し、1988年初めて来日しました。
経験が浅かったので、努力もしました。
1989年の正月 神奈川県の横浜市の高校の先生の同僚の教師の自宅に招かれました。
日本酒の好きな人で種類の違う日本酒を5本持ってきて、熱燗ではなくて、飲み比べをしました。
飲むと味が変わってゆき非常に面白いと思いました。
これで私の人生が変わりました。

これほど面白い酒は無いと思いましたが、これで仕事をしようなんて思ってもいませんでした。
良い日本酒を置いてある店に行って、資料を探して、質問などもしたりメモを取ったりしました。
日本語、英語で、銘柄、飲んだ時の味の感想、勉強できた情報が書いてある。
家には10冊以上あります。
1993年 イギリスのフィリップ・ハーパーさんと出会う。
京都の杜氏として作っている。
新聞の記事を読んで面白いと思って、蔵に手紙をだして酒作りの体験をしてみないかと誘ってもらった。
3日間体験しました、精米からこうじ作りから全部の工程を体験しました。
1994年 一旦アメリカに帰国しようと思ったが、花見のパーティーに行って、英字新聞のアメリカの記者と飲む機会が有り、安かった酒だったのでいいですといったが、そのあと記事を書いてほしいと言われた。
月2回、連載を書いてほしいと言われた。
その後8年に渡ってコラムを書く事になりました。
試飲会、蔵元に行って勉強、先輩から教えてもらう、等で勉強をしました。
日本語の記事も1年間、週1回書きました。

海外の人にもっと日本酒を判り易くするための質問したり、勉強したりしていたが、日本酒の作り方の微妙な色々なこともコラムで伝えました。
200軒以上の蔵元を訪ねました。
特に印象が残ったのは灘のよく知られている銘柄ですが、感動しました。
もともと見学できないところで、昔の作り方に拘っていて、米を蒸すのに一般的にはステンレスを使っていますが、そこでは奈良県の木材に拘っていて、こうじの部屋は温める必要が有り、色々方法があるが電気など使わず、米そのものの熱を上手く生かして温度コントロールをやっている。
かなり大きい会社なのに昔からの手間のかかる自然のこうぼの作り方をしていて非常に面白いこだわりだと感動しました。
説明を聞きながら試飲すると更に美味しく飲めます。
日本酒の良さを世界に伝えたいが、これは凄いと思ってくれないと難しい。
吟醸酒 技術的には一番高級(市場の13%)だが、その下のグレードでも美味しいお酒は結構あります。
純米酒 と書かれていないとちょっとだけ蒸留したアルコールが入っているが、その中にもおいしいお酒がいっぱいあると思う。(市場の65%ぐらい)
高級な酒、本醸造、吟醸、大吟醸、純米という単語が付けてない酒にもちょっとだけ蒸留したアルコールが入っているがいいことだと思います、優れた技術だと思います。(香り、味が余計に出てくるし、劣化に対しても強くなる。)
結局は味わいです。

飲みすぎないようには気を付けています、週2日休肝日(守れない時もあるが)、運動もしています。
試飲は飲みこまない。
日本酒のマーケティングは上手ではないと思うのと、全体的に業界が協力した方がいいのではないか。(昔と事情が違ってきているので)
輸出 日本酒の教育、情報供給など 努力していきたいと思います。
ワインよりもまだまだ市場が少なくて、市場の0.5%程度なので日本酒の認識度が低いが段々上がって来ているし、アメリカへの輸出はこの20年で毎年10%上がってきています。
日本にいる外国人に日本酒のセミナーをやっています。
30分~1時間セミナーをやったあと日本酒を飲んでもらったりしている。
日本酒を飲んで感動させたいし、どこで買えるかとかの資料も配布しています。
日本食以外の店でも日本酒が飲めないと限界があると思うが、段々出てくるようになった。
ワインのプロ、ソムリエとかが、この10年で日本酒が凄いなと思ってくれるようになってお客さんに勧める様になってきた。
アメリカでは卸問屋が力を持っていて、日本酒の専門家を雇ったりして管理など上手くやっています。
軽い感じで日本に来たが、日本酒がなかなか帰らせない、私の仕事に向いています。
日本酒の道に選ばれているという感じです。
日本酒は日本で消費されているアルコールの7%以下です、10%ぐらいに戻ってほしいと思います、微力ですが同じ道で頑張っていきたいと思います。
































2016年11月3日木曜日

佐々木則夫(サッカー日本女子代表前監督)・“なでしこの力”を信じて(2)

佐々木則夫(サッカー日本女子代表前監督) ・“なでしこの力”を信じて(2)
47歳の時になでしこジャパンに来ないかとの要請があった。
悩みました、ユース(NTTの大宮アルディージャの下部組織)の監督をやっていて、2年目で結果をだそうと言う時だったので、 妻と娘が後押しをしてくれて決断しました。
女子のサッカーに向いているかどうか、娘から見ても妻から見ても好印象だった。
自分らしくやって、上手くいかなければその時考えればいいと思ってやってきました。
ぶつかることはあるけれども、双方が考えて繰り返してやって来たように思います。
女性は細かいことに気が付くので、身だしなみから気を使いました。
2回目の強化キャンプでウオーミングアップをする時に、右足のふくらはぎを肉離れをしてしまって、コーチが怪我してどうするんだと、選手の居る前で言われて、その時にかわいそうと選手たちが感じて、僕に対して優しくなって、女の子ってこういう要素が有るんだなと感じました。
食事などでもサポートが有りました。
仲間に対しての思いやりは男子よりも女性の方が凄く強いものが有ると感じました。
全力投球してみたいと思いました。

2007年監督になる。
身体能力は劣っていても技術、連携連動、などのサッカーをやっていたのでそれをやりました。
最初は徹底して、植え付けさせた。
東アジア大会で初めて優勝、北京オリンピック目標のベスト4を獲得しました。
その時までは我々主導だったが、選手主導ではなくてはいけないと思っていて、まだ半ばだったのでもう一度監督をやらせてほしいとお願いした位です。
継続して、それからは選手主導にしていきました。(4(監督):1(選手)から2:3へ)
2010年アジア大会 優勝 それからは僕がいなくても選手が相手の状況を感じながら試合運びが出来るように段々なってきました。
身体的能力は男性が10とすると女性は6~7でしょうか。
連携連動する日本のサッカーを見て世界が吃驚しました。
外から中に追い込む、ボールを奪う、それができるのは日本の連携連動、目配りが素晴らしい、切り替えが早い。
ボールが取られそうになると、直ぐにカバーに入って囲い込んで、ボールを取ってしまう事もあるし、攻撃の準備をする。

高さが違うので、ヘディングしに行くと相手にいいタイミングで相手にヘディングされてしまうので、ヘディングしないで相手の懐に入って自由を奪うことはできる。
あからさまにやるとファウルになるのでタイミング良くする。
2011年、2012年はコーナーキック、フリーキックで1点もやられていない。
あれよあれよと1試合ずつ結果を出してくれました。
第3戦がイングランドで2-0で負けてしまってドイツとやる羽目になり、ドイツとは一度も勝っていなかった。
チームが動揺した感があったが、今までやってきたことを信じて、自分を信じて精一杯やろうと言う事で、耐えながら延長になって、何とか1点を取って勝てて、成長しました。
イングランドに負けて、凄く反省して気を引き締めてドイツ(開催国)とやれたのはチームが一枚岩になって何とか勝てたと思います。
ドイツにとって勝てる相手とやるのはプレッシャーを感じるし、開催国という事もプレッシャーを感じるものです。
決勝、アメリカ、スタートして25分間は一方的に攻められました。
先制されたが、そのあと1点返したが、又1点入れられたが、又返す事が出来て、PK戦を経て世界一を勝ち取る。
世界優秀監督にも選ばれる。
澤選手、宮間選手等も大人の指導者が導いてくれたので、その人たちがいなかったら、日本の女子のサッカーの環境、選手の発掘、サッカーをする場が無かったと思う。
どんなスポーツでもシステムの広がりと質を高めるためにやって来たのでリオでもメダルが多くなってきた。

こんなやりがいのある仕事はそう人生ある中で、出来ないと思います。
嬉しさ、やりがいが多かった。
コツは、自分の枠の中で対応している。
自分が飾って言ってる時等には、彼女らは敏感に感じる。
誠実に向き合って同じ目線で話をする、鎧を付けて対応しても駄目。(相互理解)
選手の乗りに合わせることも大事、どうしたら喜ぶかという視点から考えていました。
喜んでもらうためのサプライズも色々考えてやったりしました。
選手たちが目標値まで掲げるにあたって、結構最善努力していると言うところは、常に行動、姿勢を見せている事が大事だと思っています。
なでしこは代表チームでありながら一つのチームの様な結束力はありました。
北京オリンピックでベスト4になった時には脈を感じましたが、選手たちはまだまだできないというイメージを持っていたので、これはいけないと思って、出来るんだと何度も説得して、途中からそうなんだ私達はできるんだとイメージが持てた瞬間に更にアベレージが高くなりました。
人生の中で様々なことが有ったが学んだことは多かった、「歩歩是道場」ですね。

第一戦は大事だといったことが、プレッシャーを感じてしまったのか、オーストラリア戦に敗れてしまって、第二戦、第三戦でも足かせになってしまったようで、力を出し切れなかった、我々は自分の持っている力を100%出してあげられる精神的状況、身体的なコンディションを整えてピッチに出すのが我々の責任ですが、選手に対してはいいコンディションを作ってあげられなかったと思います。
リオのピッチに立たせてあげることができなかったのは残念です。
自分自身は監督としてやってやろうと言うのはトーンダウンしているので、バックヤードでサポートしていきたいが、そのうち監督という仕事にめらめらと火がついたら、チャレンジするかもしれませんが、サポートにと言う事になるかもしれません、いずれにもチャレンジはして行きたいと思います。








































2016年11月2日水曜日

佐々木則夫(サッカー日本女子代表前監督)・“なでしこの力”を信じて(1)

佐々木則夫(サッカー日本女子代表前監督) ・“なでしこの力”を信じて(1)
山形県尾花沢市出身 58歳 今年3月まで8年余りにわたって女子サッカーの日本代表なでしこジャパンの監督を務め、2011年のワールドカップドイツ大会では優勝、ロンドンオリンピックでは銀メダル、去年のワールドカップカナダ大会では準優勝と、日本の女子サッカーを数々の栄光へと導いて来ました。
佐々木さんが監督として選手達を率いてきた陰には、社会人としての経験や、お父さんから貰った言葉が有りました。

監督という立場の先に目標が有るわけですので、そういったものが無くなって、少年少女、学生たちの次世代を担う人達の一助になれればいいと思っています。
ステップアップするためにも自分自身勉強、研究しているところです。
北京、ロンドンも最終まで行っていたので、他の競技はなかなか見れなかったですが、TVで応援する立場になってハラハラドキドキしてました。
見る側になって改めてスポーツの楽しさ、感動をさせてもらいました。
オリンピックが終わった段階で球技団体の中で結果が出せなかった経緯が有り、女子、男子サッカーも次の東京には力を付けて、頑張らなければいけないと痛感しました。

もともとはミッドフィルダーの選手でしたが、段々年齢がかさむと、声で指示する様になって、バック、スイーパーのポジションになりました。
日本リーグの2部でしたが99試合に出ました。
91年に引退し、指導する方に移行しましたが、仕事がメインで終わった夜にトレーニングしました。
薄暗い所で練習したり、自動車のライトで練習したりしました。
ナイター付きの設備が無かったので、土、日がメインの練習でした。
徐々に環境が良くなってきて、プロになる様なチームにも善戦するようになりました。
それがなでしこ率いるベースなんです。
世界大会に出れるレベルの中で、身長体重もない、フィジカルが無い、しかし協調性があり、まさしく私が率いていたNTT関東と似てるんです。
なでしこのコーチを依頼された時に、これまで指揮していたうちのチームに似ているなと思って、なでしこに行く事になりました。

少年時代は野ザルの様に本当によく走っていました。
稲刈りが終わったところで野球をやっていました。
演歌歌手になりたかったですが、そのあとは野球の選手になりたかったです。
小学校1年の最終学期に板橋の学校にいきました。
校庭がアスファルトで吃驚しました。
クラスの子は方言を面白がっていました。
「それで」を「うんで」と読んでしまったりしました。
3回転校してハングリー精神、我慢強さが結び付いたのかもしれません。
走りだけは早くて、僕に勝てる子はいなくて、一目を置いてくれました。
2回目の学校でサッカーを知りました。(小学校3年)
先生からサッカーをやらないかと言われて、技術は下手だったが足が速いので得をして、段々サッカーにのめり込んで行きました。

オリンピックか何かでサッカーって凄いなあ言うイメージが有り、サッカーが更に好きになって来て、かなり練習をして見る見るうちにいい感じになって来ました。
少年団に入れて習っていたら転校になり、次の学校ではサッカーが無い学校でした。
野球のネットをゴールに見立ててシューティングしたり、リフティングの芸を見せて仲間をつくって一緒にチームを作って、リフティングをしたりしていました。
中学に行って、これからサッカーができると思ったら、スキーで骨折したり、治ったころには試合で右肩の鎖骨を折って、治った頃運動会で鎖骨を又折って、公式戦には2~3回しか出られませんでした。
高校時代はサッカーをやりたくて帝京高校の門をたたきました。
とんでもないサッカー部で120人も部員がいました。
レギュラーに成れないのではないかと不安が有りましたが耐え抜きました。
小学校の時に作ったミニチームにいた人達が一緒に残っていました。
帝京高校のキャプテンになりました。
日本代表になりたいと言うよりも、将来指導者になりたいと強く感じました。
自分がチームを先生と共に動かしてゆく、指導すると言ったところに面白さを感じました。

大学のころに、サッカーの指導者の為には、様々な視点を広げて学ばなければだめだと父から言われました。
「歩歩是道場」という言葉が有って、何かを突きとめるときに、様々な視点を広げて学んで行く。
ごみが落ちていて、拾うおうかなあと思うのは簡単だが、実行しなければ始まらない、ごみがお前を指導してくれている、という様な事を言われました。
会社での24年間、いろいろな部署にいましたが、本当に為になったと感じます。
料金担当になったが苦情に対して何とか料金を払っていただけるように工夫して対応する。
旨く行かないときに工夫してトレーニングを又開始するとか、選手間、或いは指導者ともめるときに聞いてあげてしっかり返してあげる。
広報もやりました、メディアとの対応があったり、何かあった時に誠実に即座に対応することが大事です。
ロンドンオリンピックの時に南アフリカ戦に引きわけ、この勝負をどうしていこうか、会場も変わって、ファイナルを考えたら今日は引き分け狙いということを指示した。
サッカー界は予選の時に公平に同じ時間帯でおこなうが、情報をとりながら順位とかの狙いを付けるというのがサッカー界にはあるが、メディアに向かって私が引き分け狙いを途中からさせましたとか、私が盾になりました。(広報をやっていた時の知恵かもしれません)
如何にメダルを取るかという事を介した指示でした。

結婚して子供に恵まれたが妊娠4カ月で直ぐ入院になり、安静にしながら未熟児が生まれました。
半年後、妻が風邪を起こして脳膜炎を起こしてしまい、私は帰りも遅く土日も時間が取れず、そこから1年は入院をしていました。
サッカーも2シーズン休んで、家族と仕事に専念していました。
その後妻もよくなって1年だけプレイヤーをやっていいかとお願いして、1年やったらめきめき上手くなり辞める間が無くなってしまった。
それから2シーズン、3シーズンとなり今に至ってしまいました。
NTTで活躍してコーチ、監督もしました。
様々なことを経験したことが多かったと思います、自分としてはプラスになったと思います。
神様を恨んだこともありますが、誠実に受け止めるしかないと精一杯やってきました。
サポートの力も大きかったです。
与えられたもののなかでやる、それが次の扉を開くのではないかと、そういった経験から思います。
「知好楽」 論語、さまざまなプレッシャーとか色んな事が起こるが、それはあなたが乗り越えるから有るんだと、それを逆に楽しさに変えるぐらいに受けとめて、困難をクリアしてゆくと言う風な意味に思っています。

































2016年11月1日火曜日

塩谷靖子(声楽家)           ・遅咲きの歌人生

塩谷靖子(声楽家)           ・遅咲きの歌人生
1943年 東京生まれ 1951年疎開先の鳥取県境港市から東京に戻り、東京教育大学付属盲学校の小学部に入学しました。
先天性緑内障を患っていましたが、この頃完全に失明しました。
中学部、高等学部を経て1967年東京女子大学文理学部数理学科に入学、卒業後はコンピューターのプログラム開発会社に就職、点字交換用ソフトを開発し、コンピューターからのデータを点字で打ち出すことに初めて成功しました。
塩谷さんは幼いころから歌を歌うことが好きでしたが、42歳の時にたまたま人前で歌っていたのを聞いたピアノの先生に進められ声楽の勉強を始めました。
6~7年経ったころからコンクールに出場するようになり、入賞入選を果たしました。
特に1995年から3年連続で奏楽堂 日本歌曲コンクールに入選し、実力を発揮しました。
現在もクラシックから愛唱歌まで幅広いレパートリーで演奏活動を行っています。

最近では点字歩みの会が有りまして、そこの50周年記念パーティーが有りそこで歌わせてもらいました。
亡くなった主人が創立者という事になっています。(塩谷治さん)
11月23日 勤労感謝の日に「行く秋に」というタイトルで日本の秋の歌を歌います。
12月17日 「木枯らしの歌が聞こえる」というタイトルで10数曲を歌わせてもらいます。
トークも取り入れてやりますが、こちらが面白いことを言うと直ぐ反応します。
クラシックは基本的にはマイクを使いません。
高校のころからシューマン、シューベルトのレコードを聞いたり、自分でも歌ったりしていました。
マッサージ、鍼の職業コースに行きました。
紆余曲折あって、中年になって声楽を始めると言うことはなかったのであきらめていましたが、サロンで歌ったり弾いたりする集まりが有り、そこで音大の先生がいて、歌を始めたらどうかという事になり、歌を始めることになりました。
本格的に歌の勉強を始めました。

段々マンネリ化して、そんなことが7~8年続きました。
51歳の時に全日本ソリストコンテストを受けてみないかと言われて、入賞して、そこで初めて本格的なホールで歌えたと言う実感を持ちました。(1994年)
奏楽堂 日本歌曲コンクールが日本歌曲では一番有名ですが、年齢制限が無くて、それを受けて最初から2次予選に行って1995年に本選に行きました。
それから3年連続で入賞しました。
本選まで行く人は芸大出身者が多かったです。
本選にいくとは思ってもみなかったので吃驚しました。
花をテーマにして曲を選んだ覚えが有ります。
一次予選では結構年配のかたもいますが、二次予選、本選になると明らかに私が最年長で目立っていました。
周りでも影響されて、歳をとっても絵を本格的に始めて入選したとか、栄養士の資格を取った人とかいました。

2009年刊行 エッセー集 
音楽の先生から点字楽譜を教えてもらい、ラッキーでした。(先生も殆ど点字楽譜を知らない時代)
先生からNHKのコンクールに出るように言われて3回出ました。
1954年宮城道雄さんの伴奏で歌う機会があったが、童謡を歌ってくれる小学生を探していて、点字楽譜を直ぐにもらえて、直ぐ歌う事になりました。
中学部では国語の先生の影響を受けました、文芸書を楽しく読む事を教えてくれました。
文学書を読むと言う習慣も出来ました。
高等部は普通科に行き、その後職業科に行きました。
その後、東京女子大学の数理学科に行きました。
東京にある色々な大学にも点訳サークルが出来て、大学生の教科書を点訳する会が出来ました。
その時に早稲田の点訳会にはいっていた塩谷治さんと出会いました。
塩谷治さんは普通高校の先生になってその後、自分の希望で盲学校の先生になりました。

点字は200年前にフランスのルイ・ブライユによって考案されました。
縦3行、横2行の点が有り、6個の点を場所のどこに点を置くかという事で64通りあります。
アルファベット、数字、楽譜、化学式、数学記号をどうやって表わすかは、ちょっとした仕掛けで色んな文字になります。
点字の本はかさばるのでパソコンの中にデータとして入っています。
昔とは様変わりしています。
物を書く事が好きだと発見したのは最近のことです。
自分が書いたものを一般の人に読んでもらったり、一般の人たちが書いたものを、音声に変換したり、点字ディスプレイに変換して読めるようになったので、書くと言う事の原動力になったと思います。
夫は2年前に亡くなりました。
与謝 蕪村が大好きです。切なさ、影の有る句が好きです。
「白梅(しらうめ)に明くる夜(よ)ばかりとなりにけり」
「橋なくて日暮(れ)んとする春の水」
「 これきりに 径 ( こみち ) 尽きたり 芹 ( せり ) の中」