2015年7月31日金曜日

谷川浩司(日本将棋連盟会長)   ・勝負は日々の積み重ね

谷川浩司(日本将棋連盟会長)   ・勝負は日々の積み重ね
53歳神戸市出身、 5歳で将棋はじめ、中学2年生でプロデビュー、史上最年少の21歳で名人のタイトルを取り、将棋界の頂点に立ちました。
羽生善治名人との 160局を越える戦いは多くの将棋ファンを魅了し、名人位を5期以上に贈られる永世名人の称号、17世名人の資格保持者です。
今も第一線で走り続けながら、日本将棋連盟会長として将棋界のかじ取りも行う谷川さんに伺いました。

父が兄弟の喧嘩を無くすめにはどうしようかと思って、5歳から将棋をやらせるようになる。
プロ棋士になる様な人は、幼稚園とか小学校低学年で将棋を覚えて熱中する事が多い。
兵庫県で行われる将棋大会にも出るようになる。
小学校2年で若松7段の将棋教室に通う様になる。
小学校3年生で、飛車角落ちではあるが、内藤8段に勝つ事になる。
中学2年制でプロ棋士になる。
21歳で当時の名人の加藤一二三さんを制して、史上最年少の名人になる。(実力的には5番目ぐらいと思っている)

名人は400年前からあり、最初に大橋宗桂が初代名人。
中原誠先生に挑戦するのが大きな目標だった。
23歳の時は私が名人位で中原さんから挑戦を受けたが、26歳の時には中原さんに挑戦と言う事になった。
3勝1敗で第5局で、優勢な状況であったが、休憩時間後再開したが、中原さんの悠然とした態度に、こちらが追い込まれたのではないかと思った経験がある。
1992年竜王、棋聖、王位、王将の4冠を獲得。(29歳)
2か月で公式戦の対戦が25局あった。(30歳直前)
事前の研究する時間が無かったが、公式戦の対局が一番の研究になる。
研ぎ澄まされている時は、集中力があるし、読みを積み上げていかなくても、結論が見える状況になっていた。

対局で疲れてくると甘いものがほしくなる。(ケーキ、フルーツ等 飲み物はレモンティー)
20歳代は先輩とのタイトル争い、30歳代では下の若い人たちが勝ちあがってきてタイトルを争う。
羽生さんとは30歳前半で数多く戦ったが、結果は出なかった。
タイトル戦で7連敗もしてしまうと、戦う前から結果の事を考えてしまう。
精神的によくない状況が続いた。
羽生さんには嫉妬すると本に書いたが、その人を越えたいという想いがあるから嫉妬する。
1995年、1996年王将戦 1995年の時は羽生さんが6タイトルをもって、王将戦になったが、1局目が終わって4日後に阪神淡路大震災が起きて、不自由な生活を強いられた中で戦った。
その年は4勝3敗で防衛できた。 
翌年は同様に羽生さんが6タイトルを得て、王将戦になったが、私はふがいなくストレート負けしてしまった。
私が無冠になって、新たなスタートラインに立つ事が出来たと言う意味では大きかったのかもしれない。

羽生さんを意識するあまり、勝たなくてはとの思いから小手先の技に走っている様なところがあり、自分自身の実力を高めることが一番大切なことで、それをぶつけて負けたら又精進をすればいいと、少しづつ思えるようになった。
棋士にとって大切なことは勝負師であり、研究者、芸術家であることと思っている。
情報量が格段に増えて研究はより大事になり、二人で作り上げる棋譜に芸術性は求められると思うし、最後には勝ち負けがあるので勝ちを求める姿勢が大事になるので、この3つをバランスよく持って臨む必要がある。
どんなに強い人でも1年間に20回ぐらい負けるが、勝負の世界でも負けることが許されない世界があるが(ボクシング)、将棋の世界は、ひとたび結果がついたらそれを研究材料にして、次に生かしてゆくかと言う事が大事だと思う。
負けて悔しいという気持ちが無くなったら、現役で戦っている意味はないと思う。
負けを引きずってはいけないし、負けた後は研究者の目になって、どの手が悪かったのか、どういう風に読んでいたのか、心理状態などをきちんと分析した後、後は忘れる。(言うは易し、行う難しだが)

2012年から日本将棋連盟の会長になる。
私の10代20代は将棋に勝つことに全精力を集中させていたが、今の若手の棋士は学業、将棋の普及にも熱心なので頼もしい。
昔の常識は今は全く通用しなくなってきている。
昔は玉を安全にかこってから仕掛けることだったが、玉を囲う間もなく隙があれば仕掛けるようになった。
電王戦では今年は勝つ事が出来た。
プロ棋士の威厳をもって戦うので、今までとは比較にならない重圧があると思う。
日本将棋連盟としては次世代の育成、子供たちへの普及、これが一番です。
将棋を通し記憶力、集中力、決断力を身につけて、或いは好きなこと得意なことを見つけることで、社会に出て生きていく上で必要な力を身につけてほしいと思う。

2015年7月30日木曜日

川口有美子(日本ALS協会理事) ・難病ALSの母の介護から学んだこと(2)(H27.4.25放送)

川口有美子(日本ALS協会理事)・ 難病ALSの母の介護から学んだこと(2)(H27.4.25放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2015/04/2.htmlをご覧ください。

2015年7月29日水曜日

川口有美子(日本ALS協会理事) ・難病ALSの母の介護から学んだこと(1)(H27.4.24放送)

川口有美子(日本ALS協会理事)・ 難病ALSの母の介護から学んだこと(1)(H27.4.24放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2015/04/blog-post_24.htmlをご覧ください。

2015年7月28日火曜日

故・深谷義治さんの二男・敏雄   ・私の父・私の祖父は、日本国最後の帰還兵

故・深谷義治さんの二男・敏雄 孫・富美子  ・私の父・私の祖父は、日本国最後の帰還兵
深谷敏雄さん 67歳  富美子さん24歳 
深谷義治さんは太平洋戦争の日本軍兵としては一番遅く、昭和53年に中国から日本に帰国、日本国最後の帰還兵になりましたが、昭和40年代に帰国した横井庄一さん、小野田寛郎さんと違って、日本国民にその存在を広く知られることはありませんでした。
その理由の一つは義治さんの任務に在りました。
大正4年島根県生まれ、22歳で応召し、日本陸軍に従軍、勇敢さと才能を軍に買われて、中国大陸でスパイとして活動しました。
敗戦後も任務を続行せよとの極秘指令を受けて、上海に潜入し、任務を全うします。
その後、中国人の女性と結婚し、子供も4人授かります。
敗戦から13年後、昭和33年とうとう中国当局からスパイ容疑で、逮捕されます。
義治さんは完全黙秘を貫いて、その獄中生活は20年余りに及びました。
残された家族も苦境に陥り極貧生活を送ります。
一家は不屈の精神で耐え抜いて戦後33年経った昭和53年にやっと日本に帰国する事が出来ました。
息子の敏雄さんが6年かけて、父の波乱万丈の人生を綴ったノンフィクションは戦後70年の今年大きな反響を呼んでいます。(『日本国最後の帰還兵 深谷義治とその家族』)
日本語が十分でない敏雄さんの執筆をサポートしたのは日本で生まれ育った孫の富美子さんでした。
本の出版を見届けて今年4月、義治さんは99歳で亡くなりました。
遅すぎた終戦、平和を願う想いについて、義治さんの子、敏雄さん、孫の富美子さんに伺いました。

現在広島に住んでいます。
娘は大学院で東京で暮らしてます。
妻は娘が3歳のころに亡くなり、男手一つでずーっと育ててきました。
444ページある長編ドキュメンタリーで6年かけて書き上げた。
父の事を歴史の闇に葬ってはいけないと思って少しづつ書いて、娘に直して貰って、公民館のボランティアの先生にも直してもらって、やってきました。
上海生まれ上海育ちで、30歳で日本にきたので、日本語の教育を受けてなかったので、大変なチャレンジでした。
娘にパソコンを習って、10年以上前からパソコンで一文字、一文字 娘から日本語の勉強を教わるようになりました。
助詞だけ間違えていれば、何を言いたいのか判るのですが、名詞、動詞うまく使えていなかったので、何を言いたいのか判らない文章が多かったので、すごく大変でした。
父の言葉を誤解して受け取ってしまったり、喧嘩をしたりしながら、二人三脚でやってきました。
開高健ノンフィクション大賞に応募、素晴らしい作品なので出版させてほしいとの話がある。
確認不足で、規定枚数の2倍だった。

父はほとんどもれなく記録して、獄中などで ノート8冊になりました。
釈放されてからも思い出して書きいれたりしました。
父(義治)の悲しさをみてきて、父の声、悲しさを日本中の皆さんに届けなければならないと使命感を感じました。
父(敏雄)は常日頃から辞書をもって勉強してきました。
そのうち、私でも判らない様な日本語を使うようになって、表現するにあたってふさわしい言葉を身に付けていきました。
敗戦後もスパイの任務を続行せよとの極秘指令を受けて、上海に潜入し、上海で任務を続けて、その後昭和33年につかまってしまって、ひどい拷問を受けて、病におかされても放置され地獄の様な日々を過ごすことになる。

その内容の一部
「昭和37年の夏、結核と肋膜炎が治っていない状態だった私は、静養さえ許されず強制的に労働させられた。
11月末重たい荷物を持ちあげようとした時に、ガツっと音がして激痛と共に倒れた。脊椎骨が折れるが病院に連れていく事もなく、治療も一切なく、痛み止めの薬さえもらえず、1年余りの日々、見えない鞭は昼も夜も私の身体を叩き続け24時間痛みに苦しめられた。
私は痛みを少しでも和らげるために、常に腰を曲げた状態でじっと痛みに耐えていた。
面倒を見てくれる人もおらず、腰を曲げたまま地面をはいずりまわらなければならなかった。
洗濯する気力もなく着る服は汚れ放題だったが、胸には常に日本人であるという誇りと一点の曇りもない日本人魂を抱いていた。
この地獄の様なところで骨をうずめることにならない様に全身の力を振り絞って、必死に這ってでも祖国に帰ろう、 私はその強い意志だけで生かされている毎日だった。」

父は帰国してもどんな拷問を受けたのか語らなかった。
逮捕されて16年後(昭和49年)に家族が面会することができたが、父に会った時には10cm縮まっていました。
思い出すたびに、戦争が終わっても、こんな年月がたっても私たちは苦しんでいるという現実に、今でも考えたら涙が出ます。
罪人である反革命分子に対して「お父さん」と言ってはいけない状況だったが、「お父さん」と呼んでしまったが、思いきって呼んでしまいました。
父も涙をぼろぼろ流して、母も妹も全部泣きだしました。
私は(富美子)平成生まれで、戦争を知らない世代ですが、実感がわかないが身近に祖父、父とか実際に戦争を引き摺っている存在がいて、何とも言えない気持ちになります。
表面には現れないが日本にはほかにも一杯いらっしゃるのであろうと考えると、何とも言えない気持ちになります。
義治さんの家族も反革命分子として長男も投獄され、妻は貧乏と差別の中で心が折れて自殺未遂まで追い込まれる。

私は上海生まれ上海育ちですが、父と家族と一緒に祖国日本に帰ろうと思った。
その内容の一部
「氷点下6から7度の寒さに到底耐えることができず、どんなに抑えようとしても身体が震え、歯がガタガタと鳴った。
横にいる古参の政治犯は、このままでは私が死んでしまうのではないかと、みじめな様子を見かねて同情を寄せてくれた。
歯を食いしばりなさい、そうしなければ魂が段々肉体から離れて死んでしまうよと、アドバイスをしてくれた。
私はその言葉を受け止め、極寒の中、魂が抜けないよう渾身の力で歯を食いしばり過ごした。
その極限状態の中、母校の校歌、安来節 関の五本松を記憶から思い起こして、祖国での在りし日を偲んで心を温めた。」

中国からは、スパイとして潜伏していたんだと白状すれば、家族の元に返すと言ったが、絶対に話さなかった。
戦後もスパイとして潜伏していたことを言えば、この事実は日本の名誉を傷つけることになるので。
そのことは家族、自分を犠牲にしたが、今の人達には理解しにくいのではないかと思います。
義治さんは24歳で勲8等受賞 27歳で瑞宝章受賞 優れた軍人であるという事に対しての勲章だった。
祖父が国を思って意志を貫き通したため 周囲の人を巻き込んで沢山の悲劇を生んでしまったと思うが、その歴史があったからこそ、祖父が国を思って意志を貫き通したからこそ、私(富美子)の生活、父の生活があるのだと思う。
祖父が日本の名誉を守り、傷つけなかったことで、救われた人や生活もどこかに在る筈で、祖父の生き方は心から尊敬したいと思います。

昭和53年11月12日、日中平和友好条約締結、特赦で日本に帰ってくることができた。(戦後33年が経っていた)
深谷義治さん 63歳だった。
帰ってきても、軍人恩給が何者かによって不正に申請されて支払われていて、陳情しても聞き入れてもらえなかった全く無視されてしまいました。
亡命者と認定されていた。
20年ぐらい中国で服役したのに、何故父だけこうなるのだろうといまだに思います。
そのために本を書いて疑問を問いかけています、日本のみなさんの答えを聞きたいです。
日本は素晴らしい国ですが、父に対してはあまりに冷たすぎると思う。
国からご苦労様でしたと言ってほしいと思っていたが、父は最後まで聞く事が出来なかった。
父は認められないまま、無念の死を遂げました。
国から言ってほしいかった、「ご苦労様でした」と。
父の名誉回復のため、全力を尽くすつもりです。

これからは絶対戦争を許してはならない。
平和は守らなければいけないと思います。

父の添削を手伝っている時よりも、今の方が何倍も戦争、経験したことに思いをはせる濃さが増したという思いはあります。
父たち、わたし自身が言葉で苦労してきて、泣いたりした日々があり、豊かに言葉と関われる職業を探してきて、紆余曲折があった中で言語聴覚士に辿り着いて、仕事を通して言葉以外の部分から人の気持ちをくみ取って感じながら言葉を含め、その人の気持ちを受け取っていける様な人間になりたいと思っています。















2015年7月26日日曜日

神 英雄(加納美術館長)     ・「清らかに仏の道を生きた”妙好人」

神 英雄(加納美術館長・歴史地理学者)    ・「清らかに仏の道を生きた”妙好人」
15年前に島根県の石見地方に移り住みました。
そこには清らかに信仰の道を生きる人達をたたえる妙好人という言葉がありました。
江戸時代にその言葉が生まれた様で、明治以降、鈴木大拙や柳宗義等が不思議なほどに好ましい人として妙好人を取り上げ、紹介しています。
神さんはこの妙好人と呼ばれる人の言葉やエピソードに共感を覚え、資料と伝承を探ってきました。
いまや埋もれた存在になっている先人の言動は、現代を生きる私たちに人生を乗り切る貴重なヒントを与えてくれるのではないかと、考えるようになったと言います。

妙好人とはどういう人なのか?
お釈迦さまが念仏者をたたえる言葉として使われたのが、由来だと聞いています。
煩悩にさいなまれている私たちですが、煩悩による穢土の中に美しく清らかに咲く花、白蓮華(びゃくれんげ) このことから始まってさとりを得た人、救いに預かった方の事を象徴するという事で使われる言葉だ」と言われます、主に浄土真宗で使われています。
江戸時代に後期、今の島根県西部に浄泉寺がありましが、仰誓和尚が現れる。
誤った教えを信じている人たちに対して、身をもって教える。

伊賀にいた時に、色々なところに行き、浄土真宗の教えと共に生きている方達と出会って、丹念に文章にして、「親聞妙好人伝」を書きました。
石見にやってきて、教えとともに生きている人たちから僧侶として学んだことを、丁寧に書いてゆくが、「妙好人伝」としてまとめられる。
「親聞妙好人伝」、「妙好人伝」も出版されることもなく、浄泉寺にあったが、仰誓和尚が亡くなり、その子供も出版しようとするが、亡くなってしまう。
数十年後、僧純が纏め直して、「妙好人伝」を書きました。
教えとともに生きる喜びを広く判り易く伝えていこうとした。

仰誓和尚の本は世の中に出なかったので、僧純の本だけが読まれ、妙好人は社会的弱者(文字が読めない、その日暮らしの人達、貧しい百姓等)だという誤解が生まれてしまったが、戦後に研究が進んで、仰誓和尚の本が見つかり、僧純の本はちがっていて脚色されていて、仰誓和尚が出会って感動した人たちは僧侶、医者、役人、女性、子供等様々な人達がいた。
貧しい人たちが教えとともに生きることによって、喜びを得たと言う話に変えていったきらいがある。

15年前、京都から石見に引っ越して、浄泉寺の住職から妙好人の事を調べるように言われた。
聴聞した時に、仰誓和尚、僧純が書いた文章に書かれている妙好人と同じではないかと言う人たちがいっぱいいた。
決して人の悪口を言わない、威張らない、謙虚で常に自らを反省してゆく、生活も慎ましいがしかし人の事を一生懸命考える。
私の人間、人格と言うものを地域の方が作ってくださったんだ、これが石見の「土徳」なんだと気付かされた。
そこに暮らしていた人達の思いが街を作っている、土徳があふれているんだという事を知りました。

因幡の源左
柳宗悦(やなぎむねよし)がいなかったら、この人は誰にも知られない存在だったと思います。
干し柿を干してあると、若い人たちが盗みに来るが、ここが丁度食べごろだと教えてあげる、柿の木があったら息子が取られない様に茨で登れない様にしたら、わざわざ梯子を懸けてやり、(怪我をしない様に) 息子が無くなってしまうというと、そうは言っても結局一番食べるのは家のものだろうと言っていさめる。
普通はあり得ないことを行う、或る意味受け取り方の名人と言っていいかと思います。
人から嫌なことされた時に、かっとなってなにくそ、このやろうではなく、自分自身過去にやった過ちに気付いてゆき反省をする、それを受け取り方の名人と柳先生は言っています。
動物にも心を砕きました。
牛が荷物をしょってくれるが、牛のお陰で自分が楽になったと、牛に心を馳せてゆく。

地域の人達が西田天香さんを呼んで講演会をひらいたが、因幡の源佐が聞こうと向かったが遅れてしまって、聞く事が出来なかったが、あとから聞いてみた処、西田天香さんは「歳を取れば短気になって、癇癪をもつ様になるそれではいかん、我慢で兎に角人を堪忍して上げることが大事です」と話した、源左は「先生、私は実は人を堪忍したことがございません、皆さんが私の事を堪忍して下さるんです。 我慢してくださるのは周りの人でございます、それを有難いと思います」と言ったら、西田天香さんは言葉が出なかったと柳さんは書いています。
西田天香さんの日記には、この事は書いてなかったので、もしかしたらなかった話かもしれない。
妙好人の話は慎重に扱わなくてはいけないとは感じました。

浅原才市
鈴木大拙が世界中に、まれな宗教詩人であると紹介した。
下駄職人 若いころ博多に出稼ぎに行って、船を作る職人だった。
七里恒順先生に出会って、お寺の手伝いをしていた。
真宗を悟った様に思うと言ったことがあり、
「31まで何がえろうなった。 子猿の様な知恵ばかり、子猿の様なはからい辞めて、南無阿弥陀仏を言うばかり」と言う反省の詩を残している。
念仏を理屈で判ろうとしていた、阿弥陀様の教えを素直に頂くという事を教えて頂いた時ついて恥ずかしい思いをしてゆく。
石見に帰ってきて、下駄職人になり、朝と夕に安楽寺に聴聞を重ねるが、自分なりの解釈をかんなくずに汚い字で書いてゆくが、見ているだけで心が躍ってくるような字で、そこにははからいがない、思うままに自分の喜びが表れている。
住職から私に見せてほしいと頼まれて、帳面に清書するが、後に鈴木大拙先生が見て、こんな素晴らしい詩人がいたと言って世界に発信してゆく。

この人に言わせれば、周りの人が何でもかんでも、先生。
「かかあよ お前も全知識さん 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」という詩がある。
有名になってきて、絵師が貴方を描かしてくれと言って、でき上った肖像画は柔和な顔が描かれていたが、「このような柔和ないい顔ではなく、わしは鬼だ」といって、「頭の上に二本の角を描いてほしい」といって描いてもらった。
「心も邪険 身も邪険 角を生やすが、これがわたくし 浅ましや 浅ましや 南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏」
風邪をひいた時 「風邪をひけば咳が出る、才市が御法義の風邪をひいた 念仏も咳が出る出る 御恩(ゴホン) 御恩(ゴホン) と聞こえる」 咳一つも南無阿弥陀仏につながるという。 

高鳥九兵衛 (現在の邑南町に住んでいた百姓)
日照りの続いた夏の日に、山へ草刈りに行こうとして自分の田んぼに来たところ、誰かが悪さして、全部抜いてしまって、干上がっていて、飛んで家に帰って、仏壇の前に座り、家族を呼んで、阿弥陀様にお礼を言いたいと思うので手伝ってほしいと言って、一部始終を伝えて、「これはじぶんがむかし同じように人様に迷惑をかけたことがあって、その過ちを今になって教えられていると思うんだ。 若いころだったら、腹が立って、隣りの人の田んぼに行って、うちの田んぼに水を入るようにしたにちがいない、それに気付かさせてもらったのは自分の田んぼの水を止められたからだ、何とも有難い、御礼を言わずにはいられない」
その話が周りに伝えられると、二度と九兵衛さんの田んぼから水を取ってはいけないと皆がよくしてくれたという事です。

石橋寿閑(医者)
神仏などは僧侶が金もうけにやっていると言って、絶対に信じようとしなかった。
自分の小さい娘が病になり、娘が「死んだらどこへ行くんでしょう」と言ったので、「死んだらお浄土という結構なところに行くんだよ」と言ったら、「とうさん どうしたらその浄土にいけますか」と言われ困ってしまって、苦し紛れに出まかせに「南無阿弥陀仏を唱えれば行かせてもらえるよ」と言ったら、娘が「南無・・・」といって唱えたが結局娘は助からなくて、お陰で私は目が覚めましたと言って、仏壇をしつらえて南無阿弥陀仏 を唱えるようになった。

「かけた情けは水に流し、御恩は石に刻め」 朝枝善照先生から教えてもらった言葉。
恩着せがましく言ってはいけないが、人様にしてもらったことは自分の子や孫に伝えなさい。
井戸平佐衛門
石見の大森銀山の代官を1年間ぐらいしかしていない人。
享保の大飢饉が襲った。
人々の苦しみどうしようもない状況だった。
薩摩に技術を取りに行かせて、密かに種イモをもちこみ、わけてあちこちに植えさせたが、気候が薩摩とは違ってほとんど巧く育たなかったが、釜浦の畑で芋が育って、株分けして、うまく育って飢え死にする人はいなかったと言われる。
更に幕府の命令を待たずに、大森代官所に有る米を全部蔵を開けて、皆に振る舞う。(独断で行う)
1733年、平左衛門は大森代官の職をとかれ、謹慎を命じられます。
1年後に亡くなってしまう。

欲しいものを貪って求める、私の欲を人に言ったり押し通そうとする、思い通りにならず愚痴を言う
他人を馬鹿にして優越感に浸ろうとする、盲念を抱いて誰彼となく疑ってゆく、俺が正しいんだと信じてしまう、こういうしょうもないことをやってきたのがこの私なんです、それに気付かされました。
今は有難いと思っています。










2015年7月25日土曜日

山縣常浩(理事長)          ・「国産線香花火の伝統を守る」

山縣常浩(東京玩具人形協同組合理事長)  ・「国産線香花火の伝統を守る」
72歳 蔵前で5代続く店を経営、3年前まで花火の製造や販売に携わる人たちが加盟する、日本煙火協会の理事も務めてきました。
線香花火は平成10年までに日本国内での製造が途絶えて、国産のものは全くなくなってしまいました。
江戸から続く夏の風物詩、線香花火の伝統を守らなければと仲間に呼びかけ、立ち上がりました。
3年足らずで日本の線香花火を復活させる事ができました。
復活に至るまで、線香花火への強い思い、を語っていただきます。

現在50万本ぐらいしかよれない。(おばあちゃんたちがよっている。)
正月すぎぐらいからより始め、お盆が過ぎると終了するサイクルになっている。
おもちゃは8割ぐらい、2割が花火(花火が最近有名になったので) 売上と成っている。
昭和50年ごろから中国から線香花火が入ってくるようになった。
日本から技術指導で、線香花火を中国で作らせた。
昭和の末には中国製は2億本ぐらいと成って、日本では100万本もないぐらいとなった。
中国製は1本1円、2円で日本生は10円ぐらいでないと合わなかった。
日本の線香花火は和紙を使う、火薬が紙の繊維の中には入って行って、綺麗な現象になり紙は燃えない、日本製は絹の肌触り、中国は木綿の肌触り、染料も全然違う。
特級品と2級品の差はある。

江戸時代から続いているが、赤い松葉が出る前の燃えている状態が最も華やかで「ぼたん」、若い元気のいい時代が「松葉」、50歳ぐらいになって角が取れてきて大人っぽくなってきたのを「柳」、人生の終焉を迎えるのを「散り菊」、人生そのものだといわれる。(寺田寅彦)
※寺田寅彦随筆集(岩波文庫)第2巻「備忘録」にでてくる。
火薬は00.8g~0.1gしかない。
線香花火は忘れられない、必ずやりたがるので、どうしてもいい線香花火を作りたいと思った。
日本には3大産地があり、岡崎(徳川家康の居城 硝石を作る)、福岡(豊臣秀吉が朝鮮出兵した時に鉄砲方を集めて、火薬を集めた)、信州(真田幸村がこれからは鉄砲だという事で硝石を作る)その末裔が線香花火屋さんになった。
最初、信州が無くなる。(行商スタイルで、農家に持って回って行って、内職で作って貰って春になると集める)
次に岡崎、平成8年まで、昭和の名人の入山芳枝さんが最後まで頑張ったが、亡くなってしまう。
平成10年 福岡 みやま地域 一番多く作っていたが、和紙の質を落としたり、火薬の質を落としたりしたが、結局無くなってしまった。(17年前)

日本煙火協会は日本国中の打ち上げ花火の方が9割を占めていて、おもちゃの花火は中国から輸入協会を通して販売するシステムになっている。
三大生産地の線香花火を10種類ぐらいちょっと持っていたが、秋田の大曲(日本で一番の花火大会がある)の花火のミュージアムができるので寄付してしまった。
国産の線香花火の復活を考えて、岡崎を束ねている若松屋の佐野さんが、三州火工さん(日本でも1,2に大きい花火メーカー)の嫁さん、信州の一番大きい線香花火屋さんの娘を貰った話を聞いて、稲垣さんが電話して、嫁に来た時に和紙の束と作り方をもっていた事が判る。
できそうだという事で、稲垣さんから道楽をしようと言われて稲垣さんと2人で100万円ずつ出し合って、始めることになる。

火薬はできそうだという事で、紙も何とかなりそうという事になり、焼津で調達できた。
和紙をよる人も何人かおり、昭和の名人の入山さんから教えてもらった人等も見つかった。
黒色火薬に松煙(赤松をいぶしてすすにする)を加えると花が咲く。
松煙 九州と紀州で作っているが、紀州松煙は駄目(火薬を作るが置いておくと駄目)
平成12年秋 稲垣さんから電話があり、昔の線香花火と全く同じものができたとの事だった。
昔のままの染色と販売は私が担当する事になり、大江戸線の開通から、大江戸牡丹と命名した。
どうやっても50円で売らなければならなかった。
10本を袋に線香花火だけ入れて、500円にしたら、これが当たった。
中国では色々食べもの、汚染の問題が出てきて、日本のものを大事にしようと言う風な風潮にも合致した。

1660年ごろに、鍵屋八兵衛が今の奈良県から江戸に来て、鍵屋八兵衛商店を興す、子供、女性に向く様な花火を作って大当たりして、その中の一つによし、あしに黒色火薬を詰めて、花火を作ったらしくて、よく売れた。
わらの先に黒色火薬を付けて、火鉢、香炉の上に立てて、上から燃えてくるのを楽しむ。
立てた状態が仏壇の前のお線香、わらの先に黒いのがついて線香花火という。
関西にも広がり スボ手牡丹として原形をとどめている。
玉屋は100年後ぐらいに鍵屋から玉屋として独立して、両国の吉川町に店を開く事になるが、6代目鍵屋の大番頭だった。
鍵屋さんの裏庭に飾ってあったお稲荷さんに、片方は鍵、片方はまが玉をもっていて、そこから玉を取って玉屋として独立しなさいと言う事で玉屋になる。
「線香花火は紙かんぜなり」という口上が残っていて、かんぜ=こより 1760から1800年以降では紙になっていたことが判る。
最近中国製は5から6円になっている。

世界中にいる日本人の方に(ブラジル1世、ドイツ、フランス等の日本人村等々)に線香花火を思い出して見せてあげたい。
















2015年7月24日金曜日

田中 克(京都大学名誉教授)    ・「森里海(もりさとうみ)で自然再生を」

田中 克(京都大学名誉教授)    ・「森里海(もりさとうみ)で自然再生を」
1943年滋賀県大津市生まれ 京都大学農学部水産学科に入学、大学院に進み、長崎県にある西海区水産研究所で、タイやヒラメなどの研究一筋の生活を過ごされました。
この研究で水際、海岸線がタイやヒラメの稚魚を育むゆりかごであることを突きとめると同時に、海岸線が埋め立てなどで消失している現実に直面しました。
人と自然、自然と自然をのつながりを破壊したのは、半世紀余り続く高度経済成長ではなかったか、自然とのつながりを取り戻し、自然とともに歩む持続社会を築こうと田中さんは2003年京都大学に森里海連環学という学問を立ち上げました。
現在は柳川市のNPOとともに有明海の再生を目指し、東北では森は海の恋人運動で、地域や住民と連携して森里海連環学の実践に取り組んでいます。

現場主義で現場からいろんなことを考えたり、と言う事で東北から柳川までを行ったり来たりしています。
震災前から日本の海がドンドン環境が悪化して来て、生き物がいなくなる兆候が現れてきて、一番象徴的なのが有明海と言う事で、この海を何とかしないと日本の沿岸は良くならないという背景があり、調査をしようと、ボランティアチームを結成して、有明海にかかわっていた人達が気仙沼でも動き出しました。
昨年はシーカヤックで宮城県下を15日間海を回りました。
大震災で顕著に起こったのが、水際で、水際をどう再生するかが、東北の抱えた問題です。
生態系の観点からすると、海と森の繋がりを分断する様な防潮堤ができそうな流れが出来てしまっている。
1997年総工費2500億円 全長7kmの堤防を作った。(諫早湾)
お金の無駄使い、そこだけでなく大なり小なり海岸がコンクリートで水際が固められている。
かつては宝の海と言われた海だったが、今唯一残っているのがクラゲだけです。
有明海の全域の水辺がコンクリートで固められて、陸と海のつながりが大きく断ち切られてしまった、それが魚がいなくなってしまった本当の原因ではないかと思う。
三陸の震災での問題と有明海が抱えた問題が、根っこは同じだという思いに至りました。

琵琶湖もかつては、自然が湖と陸のつながりがあったのが、琵琶湖総合開発計画で、見た目には綺麗になったが、琵琶湖でも同じだった。
今は本当に深刻な絶滅危惧種は、日本ウナギではなくて、海辺で遊ぶ子供達がすっかりいなくなってしまった。
子供達の暮らしと自然が完全に分離されてしまって、この先本当に確かな未来はあるのだろうか、と言う事までに至りました。

研究の原点は海の魚で、その子供達の生態でした、稚魚が暮らす場所は海辺が多い。
陸からのいろんな水を含めた栄養物質が供給されることが彼らを養っている背景がある。
牡蠣が育つのは森の恵みだと、同じような現場の感覚から結論に至った畠山さんと、海の稚魚の研究から必然的に繋がりができて一緒に進めている。
水辺には人がたくさん住むようになり、いろんな負荷がかかって、森と海を分断してきている。
分断しているのは人間そのものなので、人間の暮らし、産業の在り方を自然に寄り添う形に変えない限り、価値観を変えない限り、森と海のつながりは元に戻らないし、自然も戻らない。
キーは里、人が暮らす生活空間、ちゃんと変えない限り森と海のつながりは再生できない、森里海連環学として捉えている。

福島原子力発電所の崩壊、森に広がった放射性物質は海に流れて海をおかしくする。
マイナスのつながりになる。
有明海は火山に囲まれていて、筑後川が流れて込んでいるが、地下水も流れている見えないルートが凄く重要な役割をしている研究もされ始めている。
防潮堤は見えない地下水を含めた森と海の繋がりまで壊してしまうのではないかと懸念される。
このままの暮らし、産業の在り方を続けていくと、孫、その次の世代が幸せな暮らしができるかと言うと厳しい状況です。
森、海、川が分断されていて、社会の構造自身、人々の考え方も縦割りで目先の対応しかできない、対応する側が縦割りで身動きができないのが問題。
森里海連環学の目指すところは今の社会を、自然の再生を思う様にできないのは、縦割りの構造組織、いろんなことが密接につながっているということが大事だという価値観を取り戻すという事が、森里海連環学の一番の大きな目標ではないかと思います。

小学校の頃はよく自然の中で遊んだりしていた、先生が魚が好きだったので、ホンモロコという琵琶湖しかいない魚を先生とともに釣りをして、その最初の一匹を釣って今日が決まってしまった。
稚魚の研究を大学院、博士課程で研究して、そのご 西海区水産研究所に就職。
真鯛の稚魚の研究をして稚魚が浅瀬、水際で生活することに気が付く。
魚の生態、生理、環境等異分野の研究者が集まって合宿生活しながら喧々諤々の議論をしたのはその後の研究の展開に意味があった。
異分野、地域の漁師の人たちとの連携も特徴的だった。
「森は海の恋人運動」畠山重篤さんを社会連携教授として招く。(社会と学問をつなぐ)
森里海連環学の講義の一部を受け持ってもらった。
有明海 水が濁っている、汽水(真水と海水が混じっている) 筑後川が入りこんでいる。
面白い生き物がいっぱいいる、氷河期の遺産的な生き物で、ルーツをたどると中国、韓国の生き物で、地球の温暖化、寒冷化の中で大陸とくっついたり離れたりするが、そういった歴史を反映して、魚類は日本までたどり着いて生き残った、本当に面白い海なんです。

何とか再生に向かわせる為に取り組む事ができないかという事で、地元の旅館の人達と有明海を再生する取り組みを2010年から始める。
高校生、大学生も加わるようになった。
NPO法人SPERA森里海(ラテン語で希望、信頼)・時代を拓く を地元の旅館の人を中心に立ち上げる。
キーワードは繋がり 森と海(空間の繋がり) 時間の繋がり(次の世代への繋がり)
「森は海の恋人運動」と「森里海連環学」をいかに共同して大きな輪を広げてゆくかを主眼にしている。
新しい展開が始まり、その人達と環境省が1014年12月にキックオフの会議が始まり、中間取りまとめとして、「繋げよう 支えよう 森里川海プロジェクトが動き出す。
残念ながらお金が無いが、国民運動的に盛り上げて、生物多様性の問題を含めて、自然と人がいかに共生をしながら持続可能の社会を生み出せるか、という大きな流れに結びつく様なプロジェクトが今立ち上がった。
自然資本経済と言う新しい学問も生まれ始めている。
自然の資本を循環する事によって、いろんな恵みを生みだし、地域の活性化してゆく。

地球が養えるはるかに超えて人が増えているが歯止めはかからない。
物質的には豊かになったが、心の豊かさ、心身の健康からはドンドン違う方向に行きながら、物の豊かさだけをもとめているが、そこを転換しない限り、地球自身が持たないし、本当の豊かな社会の到来もないだろうと、そういう局面に来ていると思う。
そういう流れを作るには、この10年ぐらいでやらないと向かうゴールにはいかないと思う。
各地に芽があるので、うまく繋がれば大きな流れが生み出される可能性はある。
研究所の湾の奥に地震と津波がよみがえらせてくれた湿地があるが、買い取って保全している。
生物多様性の宝庫なので、そこの価値をきっちり研究して環境教育の場に使って、どれだけの価値があるかどうか究明できれば、社会的に大きなインパクトを与えられるのではないかと思う。
「森は海の恋人運動」と「森里海連環学」はアジアに共通の理念になるのではないかと思う。
日本初のそういった学問をアジアに広げる拠点に、「森は海の恋人研究所」ならないだろうか。
フィリピンとJICAで交流が始まっている。








2015年7月23日木曜日

張 偉(作家・親鸞研究家)    ・「親鸞に学んだこと」

張 偉(チャン・ウェイ)(作家・親鸞研究家)   ・「親鸞に学んだこと」
中国吉林省 長春市生まれ 中国伝統の漢方医の父と看護師との間に生まれた張さんは、文化大革命の時、ごく普通の人が烈しい動乱の中で、非人間的な行いをしてしまうのか、思い悩んできました。
救いとなったのは野間宏を通じて知った親鸞の思想でした。
張さんは長い歴史の中で、何度も戦争を体験した日本と中国が、未来に向けての友好な関係を築く鍵の一つが親鸞の思想に在ると考えています。
20年ほど前、野間宏から親鸞の数々の著作が送られてきました。
中国の人々に親鸞の思想、考え方を知ってほしいという思いで、去年、8年かけて親鸞の著作「教行信証」を中国語に翻訳しました。

20年前に日本に留学、名古屋市の大学の准教授として、作家、親鸞研究家として活躍。
「教行信証」は沢山の経典の引用の様になって成りたっています。
親鸞の独自の訓読と読み換えによって、親鸞の思想を表す書物になっている。
中国の漢文で書いた経典は、多様な意味が一文のなかに含まれている。
日本語に訳される時に、一つを選ばなければならない。
親鸞は独自の読み替えによって、理解をしています。
「教行信証」の核心は「他力本願」です。
「他力本願」は自他対立の他力ではありません、自力を否定する他力でもありません。
自力を包んで、全て抱擁する包み込む大いなる他力です。
全て溶け込む大いなる他力です。
一滴のしずくが海に落ちるような、自力と他力の関係があります。

「他力本願に帰依する」 →何か介在する力にゆだねるのではなく、一滴の水が海に入る様な感じです。
親鸞の教えを長く味わっているうちに、言葉を越える大切な感覚が育まれるという事です。
「慈悲」の根源的な意味は、子を慈しむ親心で、感謝と痛みや喜びを共有すると言う事です。
「同体大悲」 悲は他者の命と痛みを共有する事を意味します。
全ての命が一つの体になるように、全ての命の苦しみを自分自身の痛みとしてして感じ、全ての命を苦しみから救いだそうとするおおいなる働きです。
絆よりももっとおおいなるもの、おおいなる働きに包まれるような感じです。
野間宏 1982年中国作家代表団の招待で招待されて、日本文学の紹介雑誌を作ると言う事で長春で野間宏の「暗い絵」という作品を中国語に翻訳してほしいと、私(張偉)のところに依頼がきました。(25歳の頃)

戦後文学の代表的な作家、終戦を迎え、日本人の心はいままで信じ込んでいた物を失い、これから何を心の頼りにして生きていくかわからず空っぽになった。
日本人の心の頼りを求めて、戦争を体験した文学者たちは文学創作を始めました。(戦後派文学)
「暗い絵」は戦後文学の第一声と言われるが、私はそれを中国語に翻訳し、出版されました。
私に親鸞の著作を送ってくれ、自分の文学の中の親鸞を明らかにしてほしいと、私に託しました。
未完の課題を誰かに託さなければならない、最も言い残したいことを誰かに吐露しなければんらないと痛感したようです。
野間さんが病気で入院する前に、是非親鸞を徹底的に学んでくださいという手紙をくださいました。
送った論文に対して厳しい怒りの手紙が突きつけられた。
野間宏が自分の文学の中の親鸞について触れた初めての言葉であり、最後の言葉であり、野間文学の研究にとってはとても貴重な言葉になりました。
日本の研究者ではなく中国人である私に託されたことであるという事、最も言い残したいことを洋々たる海を越えてはるばる中国大陸にもとめた事、この行動はとても不思議だと思います。

「暗い絵」 ムンクの叫びの絵があるが、其れに似たような感じがあるが、ブリューゲルの絵の持つ暗い痛みや呻き、嘆きに突き上げられるのを感じた、その絵は存在、社会の欠陥をむき出しにし、噴き出し訴える様な、肉体の嘆きの様な、腐敗した大きな腫れ物の様な表情で、痛い傷の痛みの様な調子で、心に一斉に迫ってきたと感じた。
言葉を越えて何か訴えている様に感じた。
親鸞の思想は「命の平等、無差別」という大きな考え方。
私が親鸞に魅かれたのは文化大革命の体験があったからです。
私は少女時代から青春時代にかけて文化大革命を体験しました。
文化大革命は文化的な革命を装いながら、裏には凄まじい人間闘争が渦巻いています、毛沢東は自分の権力を維持するために、中国人の中に階級的貴人?(よく聞き取れず)が存在すると主張して、人民に彼らをいじめる権利を与えました。

階級的?にされた人々は毛沢東の政敵、元の地主、文化人みたいな人々。
文化大革命の本質は階級的?にされた人々をいじめる運動でいじめは過酷でした。
酷い時には毎日のように殺されたり、自殺したりしていました。
毛沢東は10代の少年少女を利用して、彼等に革命を呼び掛けて、毛沢東崇拝の中で育てられた彼らは自発的に紅衛兵を作り、毛沢東の意志に従って物を壊したり、人を殺したりして、集団的に革命的に行動しました。
故郷 長春は旧満州の時代、14年間日本人と一緒に働いたり生活していたりしましたので、文化大革命の時代に日本人との関係で、糾弾されたり、自殺に追いやられたりしたものが多かったです。
私の父もその中の一人で、病院で医師として勤務していましたが日本語が達者だったこと、旧満州の時代に日本人の法律事務所に務めたこと、日本人とともに病院を経営したと理由で、日本のスパイとして糾弾されることになりました。

父は医者の職を奪われ、肉体労働をさせられ、怒鳴られたり殴られたり家にも戻って来た父の身体は傷だらけで、刃の様に私の心に刻み込まれ、いつまでたっても消えることはありません。
父親の心にもっとも深い傷を付けたのは、私なのです。
当時小学生でして、日本のスパイの娘としていじめられ、うつうつとして、ついに或るとき家で爆発しました、どうしてこの家に生まれたのか、革命家の家に生まれればよかったのにと叫んで、家から飛び出しましたが、その間際に見た父の顔は今も心が痛みます。
私は苦しみから逃げようとしてすべてを怒りを父にぶつけた、外の圧力に恐々としていた父にはさらに内側から圧力を加えることになりました。
それは父親を自殺未遂に追い詰めた原因の一つになったのです。
文化大革命は人間の深い闇を見せつけましたが、文化大革命をリードした人、実際に人を殺した人の闇だけではなく、わたし自身の闇をも思い知る事でした。
文化大革命の大変が無ければ、私は本当の意味での親鸞との出会いはなかったかもしれません。

母は旧満州の時代、満州映画協会のタイピストとして7年間勤めましたが、日本人とかかわりがあったこと、日本語が話せることを必死で口にすることはなかった。
文化大革命後に、母は徐々に旧満州の時代の出来事、過酷な時代に日本人と育んだ友情などを話してくれました。
それをきっかけに私は旧満州の歴史上の人物、事件について詳しく調べ始めました。
人物、事件の多面な様相が現れてきて、それは今までの教科書、マスコミ、歴史記録と大きくずれています。
人類の歴史は各時代の勝者の都合によって添削されたものです、勝者が横行になり、敗者は卑賊になるという歴史観を踏襲してきた。
勝者は善の場に於いて、敗者をいじめることによって、自分の良い姿勢を証明して欲望を満たします、其れに対して敗者は悔しさを抱えて復讐の真理を育んで行きます。
一つの戦争が終わると、次の戦争の種をまく事になる、人類数千年来続けてきたこと。
663年白村江の戦いから1945年日中戦争終了まで、戦いの歴史を繰り返してきた、1000年の間に5回戦い繰り返してきた。

「旧満州の真実 親鸞の視座から歴史を捉えなおす」という本を出版する事になりました。
大きな時代の流れを見つめながら、父や母が体験したことなどを取りこんで組み立てた。
その中で1923年関東大震災の時 無政府主義者大杉栄、伊藤野枝 甥7歳(橘宗一) 等を無残に殺害した人物甘粕正彦の満州での姿を母から聞いたままに描きました。
親鸞の人間の悪としての、絶対平等性という親鸞の視座から彼の人生を捉えなおしました。
そこには深刻な存在の矛盾を抱えながら、人や国が泥沼にはまり込んでいった時代の中、懸命に誠実に生きようとした人間らしい姿が立ち現われてきたのです。
親鸞に出会って親鸞に教えられた痛みがあります、この痛みは親鸞思想の核心だと思います。
親鸞は人間を、闇を抱える存在として捉えます。
自我執着心→自分を中心にして自我拡大をしようとする心の働き。(欲望の満足を求める心の働き  財産、自分の勢力範囲を拡大しようとする働き)
分別心→物事が 静と動、善と悪、正義と邪悪 (黒白をつける) 
この二つは常に相関関係にあって、拡大してゆくように働く。
欲望の満足を求める人間は、自分の身を善の場におこうと欲望を正当化します。
戦争は集団が欲望を求める行い、しかし、国のため、正義のためと、大義名文によって正当化される。
正義感に煽られた欲望は歯止めが利かなくなり、おびただしい数の人間が人間によって殺されることになるが、人を殺したものに罪悪感がありません。
文化大革命の事を深く考えているうちに、このよう悩みを抱えている人間の心の奥底には、密かに育まれた隠ぺいな欲望、それは世の中に自分より劣った者を見出して、その存在を証明する喜びを求めることです。
自分より貧しい、能力のない人、不幸な人を見出すと一種の満足の喜びを感じるという心理、この欲望は食欲、金銭欲、権力欲等の様に形を取ったものではなく、欲望として意識されていないものの、実はいかなる欲望よりも深く求められ、最も人間心理に満足の喜びを与えるものなのです。
他者を見下すことによって優越感を証明する、これこそいじめやさーびす?(よく聞きとれず)の真理の根源です。
暴力的ないじめは隠ぺいされた欲望を肉体に満たそうとする働きの表れですが、文化大革命の時代の残虐ないじめ行為の真理の根源でもあり、日中両国の間の溝の底に潜んでいる闇であると思います。
闇を抱えた人間に親鸞が下した処方箋があります。

「誠に知りぬ。悲しきかな、愚禿鸞(ぐとくらん)、愛欲の広海に沈没(ちんもつ)し、名利の太山(たいせん)に 迷惑して定聚の数に入る事を喜ばず、真証の証に近づく事を快しまざる事を、恥ずべし、傷(いた)むべし、と。」
愚かな親鸞と読んでしまうが  愚は煩悩と闇の同意義語  煩悩を抱える人間を意味すると考えられます。  
罪深い人間の中の一人として、すべての存在の罪を一身に背負い、罪悪煩悩の奥の中にもがいている親鸞、すべての人間の姿です。
闇を抱えた人間に親鸞が下した処方箋は「恥ずべし、傷(いた)むべし」
痛みを伴う罪への自覚は、仏教に於いての懺悔。
「人は世の世の中に生きている限り、よく生きようとしても無意識的にも欲望の満足を求めたり、人の不幸を見て自分がそうならなくてよかったと思ったり、縁あって出会う人を傷つけたりするが、そういう存在の罪を鋭い痛みとして感じることは仏教の意味に於いての慚愧(心が刻まれるように心に切れ目を入れられるように、痛切な心に痛みを表す一文字です)

毛沢東思想の核心は階級闘争です、怒り、憎しみが増幅されて益々固く冷たくなる心が、親鸞の教えを味わっているうちに、逆の方向に育まれている事に実感しています。
言葉の意味を越える大切なものを教えて頂いた様な感じです。
「教行信証」の中の言葉 「煩悩の氷解けて、功徳の水になる」
人間の心の変化を、氷が水に溶けている様に例えている。
いつか中国の人々に親鸞の思想を、深く理解していただきたいという気持ちです。
未来の道は共に存在の悲しみを抱え、繰り返して過ちを冒し続けてきた人間の罪を共有していたむ、人間の悪としての存在の絶対平等性というところに立脚して、共に慚愧してゆく、そこには人と人、国と国が繋がってゆく道が開かれるのではないかと思います。






2015年7月22日水曜日

正田陽一(東京大学名誉教授)   ・「動物園のボランティア40年」

正田陽一(東京大学名誉教授)    ・「動物園のボランティア40年」
正田さんはこの40年間、東京動物園ボランティアズのリーダーとして動物園と来園者とをつなぐ役割をになってきました。
昭和49年に30人の動物好きで集まった東京動物園ボランティアズは、今では上野動物園、多摩動物公園、井の頭自然文化園等合わせて、700人を越える大所帯に増えています。
東京動物園ボランティアズの40年を振り返って動物園やボランティアのはたす役割などを伺います。

ボランティアという言葉から言うと、本来熟知している人が当たり前ですが、当時動物園ボランティアはそういう知識がなかった。
当時上野飼育課長中川志朗(後に園長)さんが、欧米の動物園を見てこられて、動物園でボランティア組織があってそれが動物園の一番大事な機能である教育活動を援助するというか、それを通して社会に奉仕するという組織ができていた。
日本にも是非そういうグループが誕生してほしいという事で、動物愛好家に呼び掛けて、熱心な人を呼び込んで、動物園ボランティアを組織しようとして、50人候補が上がった。
動物園協会の古賀さんに相談されて、やってみなさいという事で動く事になる。

私は東京大学の助教授で、開園前の動物園の中を歩いて抜けて、農学部に通っていた。
畜産、中でも豚について教えていた。
30人ぐらいのメンバーが全員興味をもって、講習会を受けた。
当時のメンバーから動物園に就職して、園長が一人、副園長が出ている。
昭和49年動物園に教育普及係(動物園側は一人だけ)ができた。
動物園の社会教育機関として活動する、或る程度任された。
園側にも好感をもっている人ばかりではなかった、軋轢も当然あった。
動物を飼って展示してあるだけでいいのかと、言う思いはあった。
博物館の付属施設として動物園がスタートしている。(先進諸国と違って日本は動物園法が無い)

デンマークの動物園が教育関係の活動が熱心だったので参考にする。
来園者と動物園の間の橋渡しをするべきだと、思って、最初に5つの質問と言う活動だった。
自分の目で見て答えが探せるような問題を5つ並べている。
子供達が喜んでやってくれた。
ちゃんと観察してほしかった、それで本当の知識になる。
40年続けてきたからこそ、ボランティア自身も大変な力を付けてきたなと思います。
猿の体重をボランティアの人が取った記録と飼育係が取った記録を英語の学術雑誌に論文として投稿した事もある。
動物園自体が日々進歩して行っている。
解説員が一日2回ぐらい回っているが、カバーできないから、補完する様な形でボランティアがやっている。

アフリカの動物は昔は全部ジャングルに住んできたが、地球が段々乾燥化して、ジャングルの面積が狭くなってサバンナが広くなり、動物の一部はジャングルからサバンナに出てきてそこで進化する。
ジャングルに残ったものは原始的な形を残しながら、密林の生活を続ける、そうすると別な種類に進化してゆく。
キリンもオカピーも先祖は同じ動物だったが、そのうちの一部オカピーというのは森の中の生活を今でも続けている。
キリンはライオンなどが接近するのを目で見て、視線を高くして幅の広い視野をもっている。
森の中ではオカピーは鼻の力、聴覚で危険を察知するのが大事で、オカピーは鼻に割れ目がありキリンよりもはるかに嗅覚が鋭くなっている。
キリンとオカピーが並んで見られるようにしてある。
文字はなかなか読んでくれないので、言葉を使って説明する意味がある。

森に残ったのは小人カバ、サバンナに出てきたカバは、身体を大きくして、太陽光線を浴びると皮膚は水を通しやすいので、水の中にへもぐらなければいけなくなった。
身体が大きくなって水の中に適するように眼が出っ張って、鼻が出っ張って今のカバの顔になった。
動物の進化、生きているものの不思議さを体感してもらう教育機関でもある。
意図をもって展示されている。
パリの動物園では熊が3種類展示されているが、通常違った種類の熊を展示するが、全部ヒグマ、アラスカのヒグマ、ヨーロッパのヒグマ、乾燥地帯のヒグマ。
緯度の高いところの動物は身体がおおきくなるというベルクマンの法則があり、それを判るように展示してある。
動物園側が伝えたいことをくみ取ってほしい、ボランティアはスポットガイドをしている。
幅の広い知識をもった人を育てたいと思っているが段々と専門化してしまっている。

40年ボランティアをやっていて、やりがいを感じた体験を一つ話しますと、不忍池に昔冬の間かもが1万羽渡ってきていた。
水に潜るなどはドボンと水に潜って、水中のえさを取って浮かんでくる。
水面を泳ぎまわって浮いているものを食べる種もある。
子供から水に何秒潜っているか、と聞かれ答えに困っていたが、母親がそういう事は直ぐに人に聞くのではなくて自分で調べてみなさいと言って助け船を出してくれたが、子供は、僕はストップウオッチがないと計れないと言ったら、脈を利用して家に帰って時計を見てもう一回計ればいいと母親が言った。
私はストップウオッチ付きの計算機をもっていたのに気が付き、一緒にやろうと言ったら、数が多すぎて個体識別ができなくて、諦めかけたら、浅い近くのかもは水面のさざ波、潜るとヘドロが舞いあがるので計れるので計ってみた。
10回計ったら、25秒を中心に1,2秒しか違わなかった。
当人も非常に満足して帰って行った。
自分が口を出して、何だかんだ教えるのが本当の教育ママではない。

















2015年7月21日火曜日

吉川よしひろ(チェリスト)       ・「演奏は一期一会のご縁」

吉川よしひろ(チェリスト)       ・「演奏は一期一会のご縁」
片方の耳が聞こえませんが、独自の方法で幾重にも音を重ね、ソロで演奏する独特のスタイルを作りだし、ニューヨーク、マンハッタンのジャズ界で高く評価されました。
日本に戻ってからは、キャンピングカーを運転しながら、全国でコンサートをしています。
その折に、近隣にある養護施設、老人ホーム、ホスピス病棟など400か所を回りボランティアで演奏を続けてきました。
「演奏は一期一会のご縁」 6月の終りに京都での演奏を終えた吉川さんに伺いました。

キャンピング生活、7、8年になります。
キャンピング生活は1年の内に10カ月弱生活している。 
家は大田区にあり2カ月ぐらいいます。
キャンピングカーの中で毎朝9時ぐらいまで2時間やります。(60歳をちょっと越えている)
生まれた時から左の耳が聴覚障害になっている。
33歳の時に東京の病院に入院して手術をうけたが、官が癒着してしまっていて、聴力は戻りませんでした。
弦楽器は全部自分の耳で聞いて、音程を取る楽器なので、その楽器の人にとっては、致命的であり、人の音を聞いて加減する事に対しても、完全に差が出ます。

熊本県八代市のナザレ学園、富田園長から素晴らしい人がいると吉川さんを紹介された。
施設の子供達との付き合いは長い、全国の施設400か所弱、ボランティア活動する。
交通費、宿泊費、食事代も保証されません、自分の持っているものを提供するが、時には自分のメンタル的な部分、肉体的部分が一致しないと、自分がいらついたり、音に正直出ます。
ある時ふっと思ったが、人間の心には、満たされ液が出ていて、両手に満たされ液が一滴一滴たまってゆき、両手から漏れた時に、漏れた部分だけボランティア活動すればいいという事に気が付いた。
満たされ液が枯渇していたら、長続きしないという事が初めて、4年前に気が付いた。
継続して初めて、そういう方々の立場、自分の心の置き方によって見方、感じ方が変わると思う。
全部己の心の置き方、満たされ液をどうやって自分でコントロールするか、気づく。

老人ホーム、重度知的障害者、ホスピス病棟、癌の末期の方々等の前で演奏してきました。
チェロはバイオリン、ビオラ、コントラバス等の中で一番人間の声に近い楽器で、男性の低い音域から女性の高い音域まで唯一出せる楽器と説明して演奏を始めます。
このチェロは弦が5本あるが、普通は4本。(多分日本にはいないと思う)
ニューヨークで個性を出す事が必要だと言われて、それではと思って、このようにした。
弦楽器は弓で弾くのが当たり前と思われているが、つま弾く事も可能。
キャンピングカーの中での練習は、バッハの無伴奏から始まってジャズ、色々バリエーションを取り入れて2時間ほどやっている。
一番尊敬するアーティストは宮澤賢治です。
花巻市から夜行列車で上野駅に着いて+、チェロの先生について、又花巻に帰る、ハイカラな人だった。

特に大好きな一節は「褒められもせず、苦にもされず そういうものにわたしはなりたい」
この部分を聞くと落ち込んだ時には、すごく元気を頂きます。
ステージで「雨ニモマケズ」を何回も朗読するようになってから、深いんだなあと思う様になり、大好きになった。
熊本県八代市のナザレ学園の児童養護施設 2歳から高校生 54人が親からの虐待、育児放棄されたりしながら、そういった子供達が寄り添って生きています。
そういった施設にボランティア演奏に行った時に、ナザレ学園の子供達は、吉川さん椅子に座ってくださいと言って、私たちはなにもプレゼントできませんが、こんな朗読をプレゼントさせてもらいますと言って、2歳から高校生が朗読したのが「雨ニモマケズ」でした、大感動しました。
 
生まれて物ごころついた時には父はいませんでした。
兄2人、妹一人で母は仕事をしましたが食べられず、生活保護を受けながら、生活していました。
小学校の放課後、女の子がピアノを弾いていて、聞いた耳で、音を見つけられる子供でした。
家にピアノが有ればいいと、ずーっと思っていたが、母親が仕事で帰って来て、疲れた切った姿を見ると、ピアノ教室に習わせてほしいとは決して言えなかった。
学校にある楽器に触って我流で覚えてゆきました。(音が出る者は何でも飛び付いた)
理論的なものは全く判らない子供でした。
コントラバスから始めるが、ジャズの専門学校に入りました。
12,3年はコントラバスをやっていて、最初は岸洋子さんのシャンソン歌手の伴奏でプロデビューさせて頂き、そのあと、金子由香利さんシャンソン歌手のサポートを13年間、そのあと、盲目のギターリスト長谷川きよしさんと一緒に廻らさせて頂いて、劇団四季のオーケストラにも一時期はいったことがありました。

食べることには何でもやり、音楽の職人になってしまったのではないかと、思って或る日いっさい人の伴奏とかを一切辞めたが、生活は困窮した。
金子由香利さんのサポートをしながら、コントラバスをやっていたが、他に弦楽四重奏があり、チェロ
にあこがれていて、英才教育を受けてきた彼等に休憩時間にチェロはどういう風に弾くのかと、聞いてチェロにスイッチして行った。(37歳)
コントラバスの奏法を取り入れたアプローチをして行こうと思う様になった。
コンプレックスは誰でも持っていると思う。
障害をもっていても、高学歴でなくても、必ず自分自身の自分なりの才能を引き出せるというところに考えが行ったんです。
自分なりの大輪の花が咲かせられればいいのではないかと思った。
チェロにアンプを通す様にして、健聴者と同じレベルに聞こえる様になり、効果音を使って、一人でも弦楽四重奏の様に音をオーバーラップさせる奏法をすることに気がついて、それをチェロで始めが、日本では私がはじめてだと思います。

ボランティア演奏の時には、いろんなハンディーをもった方々がいます、老人ホームではその方々が青春だった時代の曲を選曲します、聞く側の立場に立って選曲します。
涙を流しながら一緒に歌ってくれ、物凄くうれしいです。
熊本県の老人ホームに伺った時に、演奏すると或るお婆さんがずーっと一緒に歌って下さった。
鹿児島に移動したが、一週間後そこの施設の人から電話がかかってきて、お婆さんがその後もずーっと歌っているとの事で、いいことあったのかと聞いたが、チェリストの人が来て歌ってくれたとの事で、夜の11時でも歌っていて、消灯の時間だからもう寝ましょうと言って、消灯して静かになったなあと思って見に行ったら、そのお婆さんがそのまま亡くなっていた。
今生の最後になる方もいるのかなと思うと、初めて気付いた。
家族の方から、母は最後にいい生き方をしましたと、伺いました。

演奏者は見られている、見透かされる。
ホスピスの患者は表情があまり無いが、私の心を見抜いてる、見透かされているという、そういう気を感じさせる事は多々あります。
1000人の会場でも、10数人の末期癌患者のホスピス病棟でも、一生懸命演奏させてもらっているが、今生の最後の事になって私の奏でることが一期一会になる事があるという、気付きを貰うとその日その日ベストを尽くします。



















2015年7月20日月曜日

稲山訓央(未来創造学部准教授)  ・音の感覚を拓くノコギリの音色

稲山訓央(北陸大学未来創造学部准教授)  ・音の感覚を拓くノコギリの音色
1968年生まれ  大学で会計学を教える傍ら、鋸をバイオリンの様に演奏する鋸演奏家です。
鋸の音色は聴覚神経に障害の有る人にも聞き取り易い、と言います。
稲山さんは難聴の人に音楽の世界を楽しんでもらおうと各地で演奏会を開いています。
大学の教壇に立ちながら趣味を生かして社会貢献する稲山さんに伺います。

日本の鋸ではない、西洋鋸と言われるもの。
刃の付いていない方をバイオリンの弓で擦って演奏している。
音色の特徴  ピアノは半音ずつ音が動くが、鋸は全て繋がっている。
譜面で表せない音が出せるのが魅力です。
太いところが鳴っていると低い音が鳴り、細いところが鳴っていると高い音が鳴るが、鳴っている場所をかえる為に鋸を倒して行くが、立てれば立てるほど太いところが鳴り、倒してゆくと高い音が鳴る。
難聴の方にも或る程度よく聞こえる。
鋸の音は綺麗なサインカーブを描いている事が、一つの音であることが調べてもらって判った。(純音)
その方がよく聞こえる。
複雑な音が飛んでいると聞こえ難い様です。

誰もが弾けるわけでもなくて、何か才能を頂いた様なので、耳の不自由な子供達のために少しでも音楽を届けられればいいという活動をするようになりました。
全国各地で演奏をするようになった。
大塚ろう学校で演奏しようとしたが、最初大きな声でしゃべっていても子供達はこっちを見ていない、隣りにいた手話通訳者を見て、内容を理解している状態、音楽をかけてもこちらを向かないが、鋸を弾いた瞬間全員がこちらを向きました。
これは凄いことだと思いました。
感想を聞くと色々な音が聞こえたと言っていた。(彼らは音程の概念が無いのでそう思ったのでは)

学生時代アメリカに行って、鋸で演奏しているのを見て、これはなんだと思った。
興味をもって始め、独学で弾く様になった。
いい音、音程を整えることが難しくて、その次に演奏のテクニックとドンドン進歩していかなくてはいけない。
日本では鋸を弾く人はほとんどいない、楽器として認められればいいと思っている。
音程はある程度修錬でできるが、いい音色を出すのが、感覚的で難しい。
アメリカでは楽器として溶け込んでいる。
聴覚障害の音楽教育の中で使えるのではないかと思っているが、現在はそういった機運はない。
鋸の教則本を書いているが、本を読んだだけでは難しくて、自分のなかで創意工夫が無いと駄目です。

演奏活動をしている自分と、大学教育をしている自分、それなりにお互いが癒される。
人生は同じことの繰り返しではあるが、その繰り返しの中で新しい発見を見つけることによって、面白いものが生まれてくる。
会計学は両面からとらえるのが複式簿記の原理、支払ったお金が無くなったわけではなく、同じ価値のものを得ているわけです、その両面をとらえなくてはいけない。
個人的な夢 日本中のろう学校で演奏して、耳の不自由な人に聞いてもらいたいと思っている。
ウクレレの様な感覚で鋸を弾いて貰えればいいなと思っています。
鋸の演奏コンクールの第一回を行う。(7月19日に滋賀県でやっている)

教えられるレベルの人が100人ぐらいいれば、都道府県に配置できると思います。
聴覚障害の持っている子供達の廊下には、緑色、赤のインジケーターがあり、目で見るしかない。
時間に対する感覚が鋭敏になっている。(時間の前にすでに座っている)
東京オリンピック、パラリンピックがあるが、聴覚障害のイベントがあるかもしれないので、そういったところで何らかの形で、演奏とかお手伝いできればいいと思っています。














2015年7月19日日曜日

佐々木常夫(元・東レ取締役)    ・深みのある、誰もが幸せな社会のために

佐々木常夫(元・東レ取締役)    ・深みのある、誰もが幸せな社会のために
71歳 秋田県の出身 東京の大学を卒業後、繊維メーカーにサラリーマンとして働いてきました。
しかし、長男は自閉症、妻は病気で入退院を繰り返し 3度の自殺未遂をしています。
管理職として出世の階段を上りつつ、家事、育児にも取り組み 3人の子供を育ててきました。
サラリーマンとしては東レの取締役に昇進、その後妻の病気も回復し、家族の再生をはたします。
こうした経験をもとに様々な著作を発表し、現在著書の累計は130万部を越えています。
今仕事と生活の調和を意味するワークライフバランスという考え方が広がってゆく中で、佐々木さんは仕事もこなし家族との時間も大事に過ごしてきたことから、ワークライフバランスを実践してきた存在として政府の委員会の委員も務めたほか、全国各地で公演活動を行っています。
ビジネスマン、父、主夫、様々な役割を抱えながら生きてきた佐々木さん、仕事や家庭とどう向き合うことが幸せに繋がるのか伺います。

家族と仕事 両立できなかったので家内の鬱病もなかなか治らなかった。
時間的な余裕ができるようになって(子会社の社長)、それで治った。
人が逆境にあるとそれらを乗り越えた時に、強くなったり絆が深まったりするが、いろんなことがあり、家族と一緒に乗り越えてきたことがあったものなので、普通の家族よりもずーっと仲がいい、絆があると思う。
息子が、家内が大変な時に、みんなで助け合ってやってきたのでそういう関係になったと思う。
あちこち会社をめぐって、採用担当が6年先輩だったので、たまたま東レに入った。
銀行には決まっていて、面接だけだったが、こんなに簡単に決まっていいのかなあと思って、他にあちこち他の会社も回った。
東レは自由な雰囲気が感じられた。

最初の頃はよく怒鳴られた。(色々ポカミスして失敗した)
ミスしないためにはどうしたらいいか、手帳に書いて、チェックして、会議には10分前にいくようして、席もいい場所を取ることができた。
ミスしたらどういう風にミスしたのか分析し、対策を打ったりして繰り返し、ミスをしない様になった。
50代のなかばに東レの役員になったら、私の4年先輩で指導員だった人にばったり会って、君が役員になったのかと驚いていた。
家内は保健室にいた、看護婦だった。
喉をやられて2~3か月に1回は保健室に行っていた、年末最後の日に40度の熱を出して、保健室に運ばれて、その後寮に帰ったが、年末でだれもいなくて、心配で食事だとか持ってきてくれて、それが縁で付き合うようになって、結婚する事になる。

3人年子が生まれる。 長男はハネムーンベビー、翌年次男、その翌年は長女だった。
長男が自閉症だった。
静かで部屋に一人でいても何ともなくて、言葉がなかなか出てこなかった。
段々おかしいと思って、医者に相談して、専門の医者で自閉症だと判ったのは5歳の頃だった。
コミュニケーション脳力が低いのと、こだわりがあった。
長男は山登りが好きだったので家族5人で週末にはいつも行っていた。

30歳ぐらいの時には潰れそうになった会社の再建の仕事をして、無茶苦茶に忙しかった。
普通は11時、12時まで行い、土日も出勤だった。
課長になった時に妻が肝炎で入院してしまった。 
5回入院、かなり長い入院だった、3年ぐらい大変だった、母のいない家庭だった。
仕事、家事、育児全部をこなさなければいけなくなった。
毎朝5時半に起きて、子供の朝食弁当を作って、課長職だったので1時間早く会社にいって、仕事をこなして、家に帰ってきたら、夕食作って、風呂に入れて、宿題をやらせて、土曜日は病院に見舞いに行ってできるだけ長く過ごして、日曜日に1週間分の掃除洗濯をした。
駅に着くと子供3人が迎えに来てくれて、帰り道を3人変わり番こに手をつないで、歩いている間に学校のことなどをいろいろ話してくれて、良い時間帯、幸せな時間帯でした。

仕事は色々工夫してやると結果がついてくるので、仕事は面白い。
仕事も大切、家族も大切、子供が病気になった時は仕方のないことなので、そちらを優先させる。
長男は幻聴が聞こえてきて、暴れるようになって、母親に手を出す様になった。
一時期家から離れた所に部屋を借りて、妻はそこに行っている様になるが、私がいるときは大丈夫だったので一緒にいたりした。(3年経ったらしなくなるようになった)
妻は肝炎が肝硬変になり、家事も出来ないし、段々厭世的になる。
自分を責めて鬱っぽくなり、死にたいと言い出す様になり、精神科に連れて行ったら、鬱病と診断される。(役員になる少し前)
会社に電話してきて不安を訴えてくるが、困ったが仕事の合間をみて、折を見て20分ぐらい話をする。
不安なこと、不愉快だった話、私を責める話、離婚しようと何回もよく言ってきて、実際に家から出て行ったこともある。
家に帰っても、なかなか眠る事が出来なくなって、私も大分まいってしまったが、逃げるわけにもいかなかった。

妻が自殺未遂を3回する。
3回目がひどくて救急車で病院に連れていって、3時ぐらいから手術が始まって7時間の手術をする。
手術が終わって、妻が最初に言った言葉が「ごめんね、おとうさん。 迷惑掛けてばっかりで」と言った。
眼の前に、自分の命を断とうとした家族がいることに気が付いた。
自分は家族のために頑張っているんだと、仕事もやってるんだと悲劇のヒーローみたいに上から目線で見ていたと感じ、それは間違っているんだという事が判った。
病気の障害になっている自分の気持ちを理解してくれているのか、と言う事に対して理解していなかったと思う。
信頼関係のベースが有れば、鬱病にもならないし、自殺未遂もしないですよね。
気がついてからは自殺未遂をしなくなった。(医者からは連続して死ぬまでやりますよと言っていたが)
その頃子会社の社長になって早く帰れるようになり、段々恢復して行った。
鬱病は薬で治る場合もあるし、環境で治る場合もある。

妻はそれまでは動かないで食べているだけだったので、肥ってしまっていたが、歩きだしたり、買い物をするようになって、スリムになっていった。
普通のことが幸せです、長い間普通の事を経験していなかったので。
私の母親が一番多く言った言葉が「運命をひきうけよう」と言う言葉。
私の母親は裕福な家に嫁いで子供4人を設けたが、26歳で未亡人になってしまって、自分で働く様になった。
近所の医者が一人養子にほしいと言われたが渡さなかった。
「運命をひきうけよう」と言う事は、小さいころから言われたことが私の人生に凄く影響した。
本を読んだり、学校で習ったことよりも、親に何を言われてきたかと言う事がよほど大きい。
「運命をひきうけよう」、「時間を守りなさい」、「嘘をついたらだめ」、「間違ったことをしたら勇気をもってごめんなさいと言いなさい」 といったしつけを厳しくやるという事は、親の愛情を感じると言う事につながるわけです。
私はちいさい時から母親から聞いているので、いろんなことが起こっても運命だから引き受けよう、
神様が試しているのかなあ、どれぐらい耐えられるのかなあ、いろんなことが起こっても必ずどこかでいい事があるだろうと思いながらやっていました。

仕事は私にとっては大切なことだったし、社会的に認められるというか、自分はこういう事を達成したという事が無いとさびしい。
仕事は生きる根源の動作だと思う。
ワークライフバランスの考え方は?
人によって考え方が違う、仕事以外にいろんなことがあって、どちらもエンジョイしようと、エンジョイするためにはマネージメントが必要だと思っている。
ワークライフマネージメントと私は言っている。
最優先すべきものは何かを掴んでその順番にやる。
妻の入院中にやったのは最優先は食事、与えられた時間は限られているので、やる事を選ばなければいけない、それをキチンと計画を立てながら効率的にやるのが、結局自分の幸せにつながる。
仕事か家庭か、の二択ではない。
苦労は報われる、「苦労は買ってでもしなさい」と昔の人は言ったが、或る意味あたっていると思う。

普通の生活ができるという事は凄い幸せです。
その人なりに幸せ、不幸せを感じるものだと思います。
人は置かれた環境の中で、考えたり、行動したりするが、その時に大事なのは、その人が幸せかどうかはその人の考え方で決まりますが、人は何のために働くかは、何かに貢献するためと、自分が成長するため、どっちもその結果が自分の幸せに関わって来る。
閉そく感がある社会の中で、考え方次第、やり方次第でその人は幸せになれる。
幸せになろうと思ったら、自分を大切にして、自分を成長させることと、何かに貢献する事を追い求め、それを諦めないでやってみる。
一歩進むと、又違う道が出てくる、それがいつの間にか10歩になり100歩になる。
それを繰り返していれば、何かいいことが起こってくるんじゃないかと思います。
最近の著書 「50歳からの生き方」(人生の折り返し点を迎える貴方に送る言葉)
「働く女性達を」(執筆中)












2015年7月18日土曜日

森 南海子(服飾デザイナー)    ・布を愛しリフォームの心を伝える

森 南海子(服飾デザイナー)       ・布を愛しリフォームの心を伝える
81歳 服飾デザイナーとして、長年にわたって活躍、戦後大阪梅田のデパートに出した店を拠点に、洋服の手直しを意味するリフォームと言う言葉を全国に広げました。
本来のリフォームの意味は、改善、改良、改革、刷新の意味で服の手直しの意味はありません。
洋服の手直しを意味するリフォームは森さんの造語でした。
NHKTVの婦人百科にもたびたび出演、著書なども通して布を大切にするリフォームの心を伝えました。
又着やすさを大切にした服作りの参考にしようと、各地を歩き、日本国内だけでなく世界各地の服を集めました。
そんな中で出会ったのが千人針です。
布を愛し針と糸に生きた半生を振り返っていただきました。

作務衣(沖縄の麻の様な感触)をよく着ています、母が良く着ていました。
伊予がすり(紺に白い点々)、格子柄(黒とグレー)  
袖の付け根がゆったりしているので動きやすい、身体と手が一体の様になっている。
洋服の場合は袖とボディーが別にたっている。
掻き合わせて着るという事が、自由さを生みだしている、洋服とは一番違う点。
巻き袖 カタツムリのようにぐるぐると巻いている、とても着やすいが、ある種の感触で作るので、人に教えることも難しい。(感性で作る)
ドンザ 火消が着る様なもの 薄い生地が何枚も集まっている。  五島の福江島のもの
雨にも風にも耐える万能なもの、防水のレインコートみたいなもの。
船で出てゆくときに、海水から、風から身を守ることができる。
地域に根差した仕事着を求めて日本国内だけでなく世界各地を目指した。
「私のエプロン図鑑」著作 世界各地のエプロンが載っている。
ロシアのエプロンは色彩が綺麗、フランスのエプロンはおしゃれです。

昭和8年生まれ 母は家庭科の先生だった。(京都府立第一高等女学校)
母は下着からオーバーコートまで、何でも作っていた。
手作りは自慢げな半面、嫌だった(恥ずかしかった)ところもあった。
早くから母のミシンの作業をするところにいたので、早くからミシンで物を作るという事になじみがあった。
洋裁の勉強は母親と、近くに洋裁をしている方がいて、そこに良く行っていました。
その人は外国の雑誌から写してデザインしていた。(私としては写してデザインすることに拒否感があった)
23歳 梅田のデパートにリフォームの店を出す。
手直しする事に興味をもっていた。
「リフォーム」 形を変えるという意味で使った。
男物を女物に変えることが多かった。
背広を女もののジャケットに替えることが多かった。
ワイシャツはなんにでもなった、女物ブラウス、下着、枕カバー等。

昭和38年NHKTV 婦人百科に出演。
リフォームで物を捨てたくなかったという事を伝えたかった。
そのものの持っている価値を捨てたくなかった、何でも捨てる時代に入っていて、私の執念みたいなものはありました。
手縫いの会を作ったが、手で縫ったものは手でほどいて使える。
手で縫う事は身近ではなくなったが、縫いながら考える事ができたので、私には大事な時間だった。
格好がよくても、着にくいものは、人間の動き、暮らしに対して不自然ではないかと、日々の経験から感じていたので、人間の身体の伸び縮み、動きに沿った衣服を作りたいというのが私の願いでした。
作務衣は簡単なようで作るのは難しい、丸みをもたせることが和裁ではなかった。
もんぺパンツ、格好よく作るのが難しい。
体の不自由な人のための衣服専門店も開店する。
体の不自由な人が着るのに難儀していたので、足の出し入れなど工夫したが、特別な感じでない工夫をしたいと思った。
「手縫いの服作り」点字の本を出す。

千人針 小学生の時に皆で機械的に教室でやっていた。
大分県の或る蔵の中から千人針が出てきて、そのことに心を奪われて、ショックだった。
一針一針がかえし縫で、帰ってくるようにとの思いを込めて、かえし縫をして又次の人が縫う。
無事に元に戻ってくるように願って縫っていた。
先に縫ったらもう一回戻って、ループを描く様に縫ってゆく。
千人針を全国から集めたが、現在実物は沖縄の読谷村の歴史民俗資料館に寄託している。
5銭を縫い込み、死線を超えるという意味で、10銭は苦戦を越えるという痛切な願いです。
自分でもどうして集めようと思ったのか、よくわからない。
北海道からタイまで廻って集めた。
無事に帰ってくることが歓迎されない時代だったので、無事に帰ってきた当人、家族も肩身の狭い思いをしていた。
良く帰ってきたと言って、抱きしめられなかったことが、悲しかったという話を聞いています。
嬉しかったと言おうとしても言えなかった時代は恐ろしい時代だったと思います。
タイで終戦後も過ごすことになった人がいるが、もう日本には帰りたくない、近所の人に生きて帰ってどういう言い訳をしたらいいのか、もう帰らないと言っていましたが、その決意の中に日本という国に対する複雑な思いはあったと思います。
恨み、怒りと言ったらいいか判りませんが。

千人針をお腹に巻くが、千人針が頼りになるという事は誰も本当は思っていなかったと思いますが、千人針にすがるしかない様なことが実態だったと思います。
意味が無いという方もいましたが、家族の思いを身体に抱きしめて、と言う方が多かったと思います。
沖縄は激戦地だったので、集めた千人針を受け取って下さるのは沖縄だと思って、沖縄の読谷村の歴史民俗資料館に寄託している。
縫うという事の面白さも悲しさも無くなり、縫うという言葉の中に悲しみも喜びも縫い込めてきたんですが、それが縫い込めることができなくなった今、わたし自身の心はいったいどこへ行くんだろうという気がします。
口に出しては言えない様な心の思いですね、針と糸は要らない時代になっているのかもしれません。
これをどうすればいいかということは、大変なことだとは思いますが、もう一度取り戻すという事の大変さをどう解決したらいいんでしょうか。
「継ぎ当て」が死語になっているかもしれないが、継ぎ当てをして一枚の布をいたわる事の大切さだけは伝え残したいと思っています。
一枚の布はそれぞれ命の有るもので弱ってきたりほころんできたりするので、それをどういたわるかという事を何とか伝え残したいと思っています。




















 

 

2015年7月17日金曜日

谷川浩司(日本将棋連盟会長)   ・勝負は日々の積み重ね(台風情報の為中止)

谷川浩司(日本将棋連盟会長)   ・勝負は日々の積み重ね(台風情報の為中止)

2015年7月16日木曜日

藤川汎正(画家・銅版画家)     ・創作の源は、古事記とメキシコ

藤川汎正(画家・銅版画家)     ・創作の源は、古事記とメキシコ
1940年岡山県笠岡市生まれ 1963年武蔵野美術大学西洋画科を卒業、在学中自由美術協会の美術展に神話をモチーフにした作品を、初出品初入選しています。
1968年から6年間メキシコのグアナファト大学に造形学部に留学して、銅版画を学びました。
修行の傍らメキシコ美術に接して、テーマや技法を広げました。
帰国後は東京都内をはじめ、笠岡市、倉敷市で精力的に個展を開いてきました。
2004年には笠岡市立竹僑美術館で、「藤川汎正展神話を旅する」を開催、その際藤川さんの作品が多数笠岡出身の日本画家小野竹僑ゆかりの美術館に寄贈されました。
藤川さんは去年10月から2カ月間メキシコに滞在して、新たな創作の道を模索しています。

メキシコは今回で3回目。
メキシコからの要請があり、行きました。
モチーフが決まり切っていて、どうにかしたいと思っていて、写生三昧でした。
前は眺める様な写生だったが、本当の写生は観察、今になって判りました。
今回墨をもって行ったので水墨に初めて挑戦してよかった、墨は消せないので真剣勝負です。
汎正は「ひろまさ」ですが、小学校の担任の先生が」ぼんせい」と言ったので、これはいいと思ってこれを使ってきました。
父親が国鉄に勤めていて、官舎にいて私は祖父母に育てられた。(笠岡市)
中学の時に風景画で賞を貰って、それが一つのきっかけだったと思います。
高校時代は柔道部に入る、船乗りにもあこがれたが、祖母から反対されて、絵描きになりました。

武蔵野美術大学を受験、西洋学科に入る。
麻生三郎山口長男三雲祥之助森芳雄井上長三郎、そうそうたるメンバーでした。
自由美術協会の美術展に神話をモチーフにした作品を、初出品初入選しています。
笠岡市に帰ってアンフォルメル(抽象画みたいなもの)を描いていて、田村さんが必ず全部褒めてくれて、これは全部悪いと同じだと思って、行き詰まってしまった。
版画集を見て面白いと思った。
藤原啓(備前焼)のところに来ていたメキシコ人ゴルキーゴンザレスがいて、メキシコに行きたくて、黒住教の黒住宗晴先生の仲介で、入学手続きをしてくれて、メキシコに行く事にした。(船で行く)
グアナファト市のグアナファト大学に留学、留学の授業料はただだった。

ガイヤルド教授が深沢幸雄を知らないかと言ったが、知らなかった、たまたま送って来てくれた週刊誌に深沢幸雄の記事があり判った、深沢幸雄はメキシコで銅版画の講座を開いて、教授はそのうちの教え子の一人だった。
様々な技法を学ぶ、壁画、3大画家オロスコ、ディエゴ・リベラ、シケイロス メキシコ革命に連動して壁画を描いた。(メキシコ革命 1910~1940年)
1400か所に壁画を描いたが、文字を読めない人に対しての、目での壁画の運動だった。
素晴らしい作品群で吃驚しました。
グアナファトは世界文化遺産になる。
スペインの植民地だった街で、銀の産出が世界の1/3が取れた時代があった。
2003年に「メキシコの夢」(100号) (荒木雄一郎さんが応援) 竹僑美術館に100号の絵を描きました。
その展覧会のポスターになりました。

古事記をテーマにする、ヨーロッパはギリシャ神話、聖書などから絵を描いてゆくが、日本人では何かないかと思って、日本に戻って来てから、荒木雄一郎さんのアドバイスもあり、始める。
メキシコで最初にあった人で、メキシコ大使館の参事官の林屋永吉が「ポポルヴフ」マヤの古事記を描いてる本を手にして、それにも影響を受けたと思います。
神話をテーマにする作家はあまりいない。(神話、物語は大好きです)
絵の出発は白い紙に点を打った後から、ずーっとインスピレーションのつながりで絵ができるので、できてからでないと判らない。
一見して心地よい絵ではない。
ブリューゲルの作品にも不気味な絵があるが、一番好きなのがウイリアム・ブレイク(イギリス)。

荒木雄一郎さん 1975年頃から色々指導も受けてきた。
あの人がいなかったら私はいないです、奥さんも凄かった。
絵の中に「へそ」を作れと言われた。
上薗四朗さん 竹僑美術館の館長、応援してくれて個展の開催までこぎつけてもらいました。
「神話を旅する藤川汎正」というタイトル 2004年
友人の奥さんが日本画をやっていて、素晴らしい絵を描いていて、その顔料を段ボール2箱友人がくれて、日本画をこれから一から勉強して描くつもりです。
郷里の隣り街にいばら市があり、木彫家平櫛田中(ひらくしでんちゅう) 「70、80鼻たれ小僧 男盛りは100から 100から」と言う言葉を残しており、まだこれからです。




















2015年7月15日水曜日

平石眞司(理事長)       ・美しい日本の竹と文化を守りたい

平石眞司(NPO法人日本の竹ファンクラブ理事長)   ・美しい日本の竹と文化を守りたい
平石さんは大分県国東市生まれで68歳、
横浜市港北市のニュータウンに引っ越し、荒れ放題だった竹林とその足元の自然の息吹に眼をとめ、同志が集まって26年前に団体を設立し、竹林の手入れを始めました。

昔、筍の産地だったので、竹林が残っている。
竹林にとっては葉替りして、1年で一番美しい時期です。
1993年に烏山公園(横浜市の公園)愛護会を発足させた。
公園、竹林が荒れていたので、公園を綺麗にしたいという事で立ち上げた。
竹の繁殖が強くて里山に浸食していて、竹林は見通しの利かない状況だった。(竹害)
冬に散歩中に里山で金蘭を見つけて、人間の手を加えてみようと思った。
日本の竹ファンクラブを立ち上げる。
2003年に「全国竹の名鑑」を作成。
全国で竹林が荒れている事を確認した。
地域で新しい動きも出てきて、竹を使って何かやろうという地域おこしの運動も起きてきた。

荒れた原因は人間側に有、1960年代、高度成長期、竹がプラスチック製品に置き換わってきた。
筍も段々中国から安い筍が入って来て、筍を作る人もいなくなって竹林が使われなくなった。
30年、40年経ち、放置されて、所有者も高齢化して、今更山に入れない状況になった。
竹林を手入れしなくなると、筍は出なくなり、段々竹が枯れてきて、地下茎は伸びて横に広がり雑木林、畑等を浸食する。
竹林の整備を始めるが、竹の間伐材の活用をどうするかが問題となった。
竹の利用、竹灯篭祭り、竹を竹林に並べると言う使い方をして、竹林に関心を持ってもらう事にした。
食べ物への利用、竹の学校を作って筍の料理コースを作って、料理の仕方を勉強してもらう事にした。

竹林の管理 秋は間伐(古い竹を切る) 春は筍の育成作業(間伐した量分を残す 密度管理)
持ち主に代わって、里親になるように市民に呼び掛けて、持ち主と契約をする。
行政とかが援助してくれて、チッパー機械を購入して、竹の間伐材を放置する事は無くなり、綺麗になった。
散策道にチッパーを撒く事で、気持ちよく歩く事が出来るし、竹林にも撒く。
5年経過後の竹を切る、(2割) 春には筍を2割り残す。
竹林の密度が高くなると、筍が出なくなり、外へと延びてゆく事になる。
会員は185名 団塊の世代の人が中心なので平均年齢も上がっている。
社会貢献活動、人と交わる、いい汗をかく。
2003年に第一回ワンモアライフ勤労者ボランティア賞を厚生労働省から、2010年に環境省から環境保全功労者と環境大臣賞を受けている。







2015年7月14日火曜日

戸川昌子(シャンソン歌手)      ・遺言に代わる”遺歌”を歌う

戸川昌子(シャンソン歌手)      ・遺言に代わる”遺歌”を歌う
1957年から銀座のクラブでシャンソンを歌う様になり、60年近くに渡って歌い続けています。
小説も書き始め、 1962年の処女作「大いなる幻影」で江戸川乱歩賞を受賞、翌年に書いた「猟人日記」が直木賞候補となり、ミステリー作家としての地位も築きました。
戸川さんが長年主催したシャンソンサロンには、三島由紀夫、なかにし礼、美輪明宏などが集い、文化人サロンの走りともなりました。
その後作家と歌手の二つの活動を続け、最近もシャンソン協会の顧問も務め、現役としてステージにもたっています。
今年になって自分の遺言の代わりに、シャンソン歌手としての歌声を後世に残す遺歌とも言うべきアルバムも発表しています。

82歳、還暦も祝い事などなかった。
健康に関する事は一切していない、好きなようにして来ている。
いろんな意味でストレスだらけです。
大手商社(伊藤忠と丸紅が一緒だった)の英文のタイピストとして入った。
英語は禁止の時代だったので、入ってから夜学に通って英語とタイプ等を習いにいった。
会社を務める前は、酒場のお運びをやっていた。
兄が戦争で亡くなってしまったが、唯一持っていたのが一枚のSPレコードで、ダミアン(マリー・ルイーズ・ダミアン)の「人の気も知らないで」、「暗い日曜日」だった。
これが最初のシャンソンとの出会いだった。
ヤマハホールでコンサートをやっていて(レコードを聴く会)、聞きに行ったりしていた。
日本の歌は、いいとこどりの様で、シャンソンはありとあらゆる喜弩哀楽がある。
シャンソンの中身が、小説と似たようなところがある世界だと思った。
それに共感しました。

「大いなる幻影」で江戸川乱歩賞を受賞。
それまで、短編中編を文春等に随分送っていたが、全部没だった。
長編を初めて書いたが、それが「大いなる幻影」だった。
「猟人日記」が直木賞候補となる。
才能が問われるのは2作目だと、さんざん言われました。
映画になったことが拍車をかけました。
作家、歌手、女優、タレント等、忙しく立ち回ったが、一過性だと思っていたので、さめた目で思っていました。
1979年 46歳で男の子を出産する。
当時はどういう風に生まれるかは全く判らない状況だった。(帝王切開)
出産会見は渋谷ジァン・ジァンでのライブ時におこなわれ、、なかにし礼、美輪明宏が一緒についてきてくれた。
その男の子が「NERO」 36歳
かごにNEROを入れて仕事に入っていましたので、自然に歌を聞いていたと思います。
やりたいことをやれる事が人生でいいんじゃないかなあと思います。

7月14日 パリ祭 パリ祭コンサートを今後各地で行ってゆく。
8月は 蜷川幸雄さんの演出、 寺山修二さんの演劇に出る、渋谷で「青い種は太陽の中にある」
舞台の挑戦は初めてで、セリフを覚えることが大変です。
CDを出すことは嫌だったが、NEROに押されるような形で、遺言代わりの様に、NEROと共演の形で行う。
11曲 「ボン・ボヤージュ」 (bon voyage) 「よい旅を」 船出の歌。






















2015年7月13日月曜日

金子和夫(川口自主夜間中学代表) ・夜間中学で生徒に寄り添う

金子和夫(川口自主夜間中学代表) ・夜間中学で生徒に寄り添う
埼玉県には公立の夜間中学が無いため、30年ほど前、 川口市の市民グループがボランティアで川口自主夜間中学を開きました。
これまで3000人余りが学んできました。
現在も10代~70代まで約40人の生徒が勉強しています。
金子さんは68歳です。
川口市の小学校で教員を務めていた、20年前からボランティアとして川口自主夜間中学に関るようになりました。
3年前に小学校の教員を退職した後、引き続き勉強を教えたり、カウンセラーとして生徒たちの相談に乗っています。
夜間中学で生徒たちと向き合うようになって、教員としての生き方が大きく変わったと言う金子さん
、夜間中学に関わって20年間はどのような日々だったのか何を得たのかお聞きしました。

張り紙にひらがなで「ここはまなびたいとおもっているかたは、だれでもまなべます。 あなたがたのくるのをまっていました。」と書かれていて、誰でも学びたい人は学べる。 
初めてくる人は躊躇するので、気を使いながら、話をします。
歴史教育協議会の視察でボランティア活動で夜間中学に行きました。
28歳の人がポツンと一人でいて、俺に勉強を教える人は誰もいないのかと言ってきて、小学校、中学校もほとんど行っていないので、もう一回勉強したいと言って来た、植木職人でした。
吃驚したのは、学校に行ってないという事自身が、大きな驚きでした。
小学校のころからクズ鉄を拾っていて、学校にはほとんど行っていなかったとの事だった。
青年は「あいうえお、1プラス1」も知らなかった。
教育者として自分でも反省する材料になりました。

自分で教えるという事で、こういう人間が育ってゆくという事が、父も教育者だったのでそういうものが見えていたので、自分でも教えることによって人を作って行く、そういう言うものができたらいいなと思って、教員の道を選びました。
人間を作ってゆく一番最初の勉強は小学校だろうと思っていましたので、そこから始めてゆくというのがありました。
40年教師生活で、20年間はドンドン教え込む熱血教師みたいだったが、夜間中学に来てから変わったのは教え込みではなく、子供達から自分自身が学んでいかなくてはいけない、と言う事が大事だと思っています。
判らない子供達にどうやれば判るのか、と言う事を子供から教えてもらう以外ないのではないか、と言う事が自分を変えた大きな道です。
この夜間中学で20年間で送り出した生徒は全体で1000人位で、わたし自身では200人ぐらいになると思います。
川口は外国人が多い町で外国の方が多かったですが、最初の頃は不登校の子供達が多かったが、年配の人がかなり来るようになり、外国人も来ました。
卒業証書が出るわけではない。(次に高校に行く事は出来ないと説明はした。)
スタッフも生徒も互いに学び合おうという事をやっているところです。

不登校の子が来て、お婆ちゃんの「あいうえお」の勉強をしている姿をみて、自分も勉強すれば、高校にも入れるかもしれない、という事で(小学校5年生から学校には行っていなかった)希望に燃えて頑張って、高校に見事入ることができた。
小学校から中学と学校に行っていないという25歳の女性の方も、同様に頑張って勉強して、3カ月で力がついて、直ぐに学力が向上して、翌年夜間高校に行く事になった。
そういう人がたくさんいます。
まず私と面談して、何の勉強がしたいとかなどを聞いて、理科なら理科が好きだと言う事で有れば徹底的にやろうよという事で、進めることで意欲が次から次にわいて学習して行く。
学習者に寄り添った勉強の仕方、互いに学ぶと言う事を凄く大事にしている。
小学校で教えながら、夜間中学で教えることは大変な時期もあったが、学ぶ人がいるんだから、行かなくてはいけないという事もあるが、行く事に依って自分が鍛えられているなと言う事です。
カウンセラーとしても生徒の悩みを聞く。
30代、40代になっても小学校の時に勉強できていなかった、そこが穴があいちゃったようだと言ってくる、その穴を埋めたいがために、ここで勉強させてほしいと言ってくる方もいる、心の相談だと統合失調症等もあり、その人たちも来ていまして、電話で問い合わせしたりしています。

心理学を勉強してきたので、心の相談に乗ってあげられるかなあとも思いますが、難しい問題もあります。
埼玉県のカウンセラーでもあり、毎週水曜日県庁の下で教育相談等をやっています。
人と関わるのが自分自身でも好きで、それが楽しい事に繋がっているのではないかと言う事と、
関わればかかわるほど、その人が成長してくれることの楽しみもあるように思う。
夜間中学では教える人たちは20人ぐらいいます。
会社員を辞めた方、教員を退職した方、大学教授、学生等が担当しています。
スタッフのキャリアがそれぞれ違いますので、教え方も全部違っています。  
基本的には私が割り振るようにしています。
最近は外国人が増えています、川口は東京と接していて、家賃も安くて便利で住みやすい様です。
7割が外国人、3割が日本人です。
外国人(中国人が多い)に対してテキストも工夫をして、生活でよく使う漢字など交えており、好評です。
遠い人で2時間掛かけて教えに来る人もいます。
義務的ではボランティアは続かない、楽しさをどう見つけていくかと言う事だと思います。

公立の夜間中学は埼玉県には有りません。
今、超党派の議員連盟を作って、各県に最低1校は作る様に要望し、動きがでている。
もう一回学び直しができる様な、公立の夜間中学校ができればいいなあと思います。
課題は場所が公民館、パートナーステーションの一部を借りています。
学校の一部を借りられれば、そういう場所を使いたいなあと思います。
ボランティアなので、無償でやっているので、交通費も出せないので、ボランティアがなかなか集まらないというところもあります。
スタッフが足りないという面があります。(できれば1対1で教えたい)
出来れば交通費ぐらいは出ると有難いと思っています。
来る人たちが楽しい場にしてしてゆく事、自分を取り戻してゆく場所にしてゆく事、外国人に対しては日本語だけの教育だけではなくて、日本の社会の仕組み、文化について触れながらやって行きたいと思っている。
日本の若い人に対しては、希望を持てる様に目標(高校、大学、専門学校等に行く事)を持とうよ、話しています。
外国人に対しては日本に来て学ぶことができて、日本とはいい国だなあと思ってもらったら、外国に帰っても日本という国はいい国だなあと宣伝できる様な人達を作っていきたいと思っています。
互いに学んでいこうという事を、大事にして行こうと思います。








2015年7月12日日曜日

風間杜夫(俳優)        ・ひとり語りは無限

風間杜夫(俳優)            ・ひとり語りは無限
昭和24年東京生まれ、早稲田大学では演劇を学び、昭和46年劇団表現劇場を結成します。
この時のメンバーは、大竹まこと、きたろう 斉木しげるさんでした。
昭和52年からはつかこうへい 事務所の「熱海殺人事件」、「蒲田行進曲」等に出演して一躍 注目されました。
以来舞台、映画TVと幅広く活躍しています。
又落語家としても定期的に高座に上がり、言葉だけで表現する世界を追求し続けています。
今月末には新たに能「船弁慶」の一人語りに挑戦します。

5月7日~6月30日まで北海道から関西まで、2カ月間旅公演をやってきました。「バカの壁」
加藤健一さんと一緒に30年ぶりの共演です。
爆笑大喜劇です。
「マッサン」の終わったあとだったので、熊虎さんよかったよ、と言ってくれてうれしかったです。
大阪NHKでのニシン御殿は建てっぱなしであるが、ひげ、帽子、メガネなどがすでに揃っていた。
熊虎は豪快であるが繊細で、情の深い人だった。

能「船弁慶」の一人語りに初めて挑戦。
戸惑いつつもきちっとやろうという覚悟です。
義経が弁慶たちと西国に落ち延びてゆくと言うのが話の内容で、今回は現代語訳を取り入れてという新しい一人語りの世界。
弁慶、義経、静御前等を一人で演じてゆく。
素読みに近いとか、講談みたいなタッチもあるので色々検討中です。
第一部が独り語り、第二部が能「船弁慶」が伝統的なスタイルである。

落語家としても高座に上がっている。
多い時は年に40ステージをやっているが、14~5年になる。
子供のころから落語は好きだった。(当時娯楽はラジオだった)
父も落語が好きで連れられて行ったりしていた。
芝居の中で落語を演じる場面があったが、林家正雀師匠に手ほどきをしてもらったが、自分で落語をやってみると人前でやってみたいという意欲が出てきて、鶴瓶師匠から声がかかって、演じたら褒められて、そのうちやっているうちに風間杜夫独演会の形で地方に呼ばれて、古典落語を12本覚えて、まくら部分は自分が作るわけで、好評だった。
古今亭志ん生が大好きで、録音を聞いたりして、独学でやっています。
聞く分にはいつでも聞けるが、自分の場合は一行一行文字で起こしていきますが、それが一冊のノートになる。
次に自分の声で吹き込みます、それを耳で覚えてゆく、それを3~4日集中してやります。
どこかの弟子にとの話もあるが、縦割り社会があまり好きでなくて、一人でいたい。
出囃しは「蒲田行進曲」

1997年から一人芝居に取り組んでいる。
たった一人で舞台に立って、最初は怖かった。
ずーっと見られている事に、視線が痛いと感じた。
2000年からスペインで「カラオケマン」を初演、好評で韓国4か所、中国3か所、アメリカ3か所、ルーマニア、ハンガリーでもやった。
最初は同時通訳から、その後パソコンで字幕を舞台に写す事を行い、絶妙なタイミングで行えた。
中年サラリーマンの生活の話。(どこの国でも共通する内容で好評だった)
5部作まで作って、2010年一挙に上演した、4時間45分舞台上にいる。
団塊の世代の人が主人公だったので、この時もう61歳だったのでもうこれはできないと思って終止符を打ちました。
2014年新たな独り芝居、年齢が95歳の設定になっている。
戦争をくぐりぬけてきた年寄りに、もう一度、あの戦争を語らせたいという事で、「正義の味方」と言います。(全国14か所回ります)

落語に出てくる下町の言葉は好きですね。 「まっつぐ」、「はんちく」等父はよく使っていました。
萩原朔太郎の詩 「時計」 繊細な細やかな世界が言葉になっている作品。
静寂の中に時計の音だけがあり、孤独を感じたり寂しさを感じる。
「時計」 朗読
「古いさびしい空家の中で
椅子が茫然として居るではないか。
その上に腰をかけて
編物をしてゐる娘もなく
暖爐に坐る黑猫の姿も見えない。
白いがらんどうの家の中で
私は物悲しい夢を見ながら
古風な柱時計のほどけて行く
錆びたぜんまいの響を聽いた。
 じぼあん・じやん! じぼあん・じやん!

古いさびしい空家の中で
昔の戀人の寫眞を見てゐた。
どこにも思ひ出す記憶がなく
洋燈(らんぷ)の黄色い光の影で
かなしい情傷だけがたゞつてゐた。
私は椅子の上にまどろみながら
遠い人氣のない廊下の向うを
幽靈のやうにほごれてくる
柱時計の錆びついた響を聽いた。
 じぼあん・じやん! じぼあん・じやん!」


























2015年7月11日土曜日

村上保壽(高野山大学名誉教授) ・若き空海の悩み

村上保壽(高野山大学名誉教授) ・若き空海の悩み
高野山は1000mちかい山の上に広がる仏教の聖地です。
空海は1200年ほど前、当時最新の仏教、密教を中国で学んで日本にもたらしました。
空海は入定、亡くなったともこの地で祈りを続けているとされ、高野山は空海を慕う大勢の人々で今もにぎわっています。
村上さんは京都府生まれの74歳、大学では西洋哲学を専攻、山口大学の教授を務めましたがキリスト教を土台とする学問に行き詰まりを感じ、仏教を学びたいと考えるようになりました。
高野山大学への留学を通して僧侶になる事を決意、得度、49歳で高野山大学の教授に転じ、以来30年以上弘法大師、空海の研究に取り組んできました。
空海とはどのような人物で、どの様に生き、高野山を開いたのか、伺いました。

幼少の頃は賢いことが伝記的には言われているが、15歳叔父の阿刀大足のもとで京都に渡って漢籍の勉強をし、18歳で大学寮(今の上級国家公務員養成)に入るという事になっているが、そこを1年足らずで出てしまう。
当時の奈良の仏教界は荒廃していて、優れた坊さんたちは吉野のお寺に入ってゆく。
比蘇寺に神叡がいたりして 都では見られない様な魅力を感じたのではないかと思う。
自然と闘い苦しみ一緒に生活する事が魅力的だった。
19歳初冬の時期に吉野から高野山を歩いてきている。
仏教を教義の眼で見るのではなく、人々に対する関心、大自然から受ける感覚として受けとめて、考えたのではないかと思う。
仏教の修行の生活に入り、自らが進むべき道をひたすら探す日々でした。
歩く事が修行であることは間違いないが、自分はこれで行くんだという事を探していた。

動乱、飢饉、疫病のはやった時代で、人心が安定していない。
現実を見たときに、仏教の力にかけようかなと言う事があったのではないかと思う。
心の声に素直な人で、自由な人だった。
四国で取り組んだ修行で大きな転機を迎える。
室戸岬の御厨人窟での修行、虚空蔵求聞持法」を授かった。 出家者空海の誕生。
奈良の都に戻って寺院に出向き、経典を読みあさる日々を過ごす。
大日経』を初めとする密教経典に出会った、唐に行くしかないと留学僧として唐に行く事になる。
804年 唐に渡ることができ、長安で運命的な出会いがあった。
密教の第七祖である唐長安青龍寺恵果和尚を訪ね、以降約半年にわたって師事することになる。
「虚しく往きて、実ちて帰る」
わずか2年前無名の一留学僧として入唐した空海の成果がいかに大きなものであったかを如実に示している。

唐で恵果から密教の奥義を授けられた空海は、世の民を救うのはこの教えしかないと確信する。
空海は日本に帰ると、教える道場として高野山を賜る事を朝廷に願い出ます。
空海には若き日に自分自身が魅了された、偉大な自然に向けられる独自の眼差しがあったのです。
密教の教義 曼荼羅 大日如来を中心に他諸仏があるが、大日如来から流出する、生まれる。
即ち命の出生でもある。 
あらゆるものは一つの命から生まれでる、あらゆる命は一つとともに生きている、平等の命。
命=存在 
生をよしとし、死を避けようとするが、ところがそうではなくて自然を見ると、死が新しい生を作っている。
生の現象としての死があると考えた時に、如何に死ぬか、と言う事は如何に生きるかということであり、死にざまが、その人の生きざまでもある。

1200年前であろうと今でも、お大師さんが言っている事は、今も正しいだろうし、慈悲(思いやり)が原理になって実践的な場面で如何に利他をやって行くかが、お大師さんの最終的な目標です。
こちらが虚しくして初めて他に対して行うことができる。
秘密曼荼羅十住心論』  大切なことは何か信ずるものをもつ事、信ずるものがあるという事。
大自然が語っている事に、耳を傾けて聞かなければいけない。
自分の力で生きているわけではない、他との関係、命の恵み、を頂いているので、自分も返さなければいけない。
楽しく生きる、自信をもって生きる為の、あるのが信仰です。
命の継承 一つの命を共に生きている、そのことを継承させようとしている、一人で生きてきたわけではなく、お陰さまで生きている、悠久の生と死を包み込んでいる様な、人間だけでなくあらゆるものが一つの命を繋いで来ている。

日本の各地に空海の救済伝説がある。
「虚空盡き、衆生盡き、涅槃盡きなば、我が願いも盡きなん」
62歳で入定した空海の祈りは、今この時も世界で生きる人々のために続いている。
宇宙が存在する限りは、衆生も、願いも、涅槃もあるので、尽きない様に永遠に願っている。


















 
 




2015年7月10日金曜日

西澤 孝(探検家・会社経営)    ・チョウが教えてくれた大自然の魅力

西澤 孝(探検家・会社経営)    ・チョウが教えてくれた大自然の魅力
63歳 幼いころから生き物が大好きだった西澤さんは、中学生の頃蝶をつかまえることに夢中になりました。
それ以来日本各地、海外8カ国にも蝶の採取に出かけた回数、60回に上りました。
オーストラリアの北に在るニューギニア島では、珍しい蝶や新種の蝶を発見して、大自然の魅力をたっぷりと満喫しました。
その後、日本で事務の仕事に就きましたが悶々と葛藤を感じる日々が続いたと言います。
トライアスロンの大会に挑戦して、完走できたことが転機となって、38歳で生物をデザインした商品を作る会社を始めました。
商品を通して大自然の魅力を多くの人に伝えたいという西澤さんに伺いました。

虫の立体図鑑、くまのぬいぐるみとか様々です。
本物の特徴や生態、形、太さ、角度などできるだけ再現したいと思いました。
カブトムシの立体的な形だけでなく、カブトムシがいる場所、食べ物、闘争心、おとなしいカブトムシなど本質を商品に表すようにしています。
生物の事をきちっと知る事、生息している自然に興味をもって貰って、もっともっと環境、生物について知ってもらおうと思っています。
お客さんから感想をいただき、更に答えたいと思って、アイデアがどんどん出てきます。

両親が郷里が信州だったので、夏休みは両親に連れられて、高原、渓流でさんしょううおを取ったりイワナを取ったりしました。
上野の不忍池でも、毎日のように生物に触れていました。
中学でも生物部に入って、美しい蝶の標本が学園祭に展示してあってそれを見て感激しました。
何百種類が並んでいて、こんな蝶が世の中にいるのかと思いました。
それから毎週の様に生物部の先輩とともに、身近なところから遠いところまで行きました。
高山蝶を見て天国に上る様な気持がしました。
高校2年の時に沖縄に行きました。
本島、石垣島、西表島で亜熱帯の独特な蝶がいました。
飛び方も違いました。
高校3年の時に北海道に大学生と一緒に、車で大雪山、十勝山脈の林道とか、色々回って、高山蝶を捕ることができました。
経験を通じて、蝶の居場所の特徴とか、特性を理解できるようになりました。

父は蝶を捕る事に理解を示してくれて、計画を説明すると、お金を渡してくれまして、本当に感謝しています。
大学に入って、1973年 ニューギニアに6回行き、4回は日本人で初めての土地に入っての探検でした。
蝶の採取をしている人には憧れと言っていい、トリバネ蝶がいて、どうしても自分で取りたかった。
見渡す限り原生林があり、誰も入ったことが無い、素晴らしい体験ができたと思います。
危険と厳しい自然環境の中で隣り合わせだったが初めての体験をしました。
24歳の時に、ロスチャイルドトリバネアゲハを50数年ぶりに発見する。
夢中で追いかけて、網から僅かに逃げてしまった。
身体の模様がとらの様に、黒の地に、グリーンと黄金色と言えるような黄色、白が入っている。
帰りに又であって慎重に近づいて、一気にネットを張ったら、ネットの中でもがいていた。
何度も何度も、どういう模様をしているのか、確認しました。(感激と満足の本当に幸せの瞬間でした)

村の村長さんにあいている小屋を紹介してもらう。
子供は好奇心が強くて毎日私を見に来る。
彼らは缶詰め、飴、身体を洗う石鹸なども全て初めてでした。
食料を与えたりして食料が無くなってきたときは、いもだとか鳥を弓矢で捕ったものをもってきてくれた。
言葉は「何」をさきに覚えて、指をさして、段々言葉を覚えていった。
村の人たちに段々溶け込んでいった。
文明の道具(カレンダー、時計、マッチ、電気等)はないが、何が人々にとって大切か、何が日々生活の中で自分たちは暮らしているのかとか、その人たちの生活を通じていろんなことに触れれば触れるほど文明とはどんなものかとか、自分とって、そういう物はどういうことが意味あるものかを、すごく感じました。
全然違う環境にいるが、人間として同じなんだと思いました。

熱帯熱にかかって、薬を飲んだが全く効かなかった。(27歳の時)
日本に帰ってくる事になる。
東大の医科学研究所に行って、ようやくわかった。
海老沢先生に診てもらったら、即入院の状態だった。
新薬を投与する事になり、効いてようやく治った。
父から事務の仕事をしなさいと言われて、体力回復のためにジムに通い、水泳などもやっていたがトレーナーが遠泳大会に出たらと誘ってもらった。
ハワイでトライアスロンがあるから、それにも出ないかと言われた。(水泳3.84km、ロードレース179.2km、マラソン42.195kmを連続して行う)

話を聞いて自分の気持ちの中でむくむくと大きくなって、その晩に決意した。
レースの準備をするように、練習を8か月重ねた。
日本から8名が参加、日本人の中で2位になる。
それがきっかけになって、仕事も本腰でやると思う様になった。
父の会社は大企業の下請けのもの作りをやっていて、海外に行く機会があり、綿花を色々な地域で見て違いがあり、自然環境がその植物、綿花を作るのだという事が凄くわかった。
原材料から商品になるまでのプロセスを凄く学びました。
どういう風にしたら、雨に強いバック、頑丈なバッグができるのかなどを考えました。
生物自然を体験した体験知識、実社会での素材を生かした商品作りの経験、ノウハウを掛け算して、エネルギーを本気でぶつけられる商品を作ってみたいと感じた。
  
自分のライフスタイル、価値観に合う納得のいく仕事、事業化するために勉強しました。
1990年4月、息子が小学一年になるときに、社会の一年生になろうと、合わせて会社を作りました。
38歳の時です。
動物園、、水族、博物館に営業していこうと思って計画し、全て回るという事で行いました。
蝶で培った観察力を経験で学んでいたので、どういう水族館だったら、どういうお客さんが来て、どういう商品だったら受け入れられるかとか、自分で感じました。
蝶の時と違って日本語が通じる事は、何よりも全てがオールマイティーで進めることができました。
熱意を感じてくれて、事務室の隣で売ってあげるとか、教えていただいたり ドンドン土台が積み重なっていったと思います。

蝶を通して、何物にも代えがたい感激、充実感を沢山味わい、色々な人々と合って、心に触れて、そこの環境とその人たち、その生物がいろんな形で成り立っているのを感じました。
自然環境が大事だと思いました。
生物たちの形、色、模様、習性、生態を商品におとして、それを通じて伝えることで、自然の中で直接触れるきっかけに、或いは自然環境の事を理解する事について広がっていってほしいと思っています。



















2015年7月9日木曜日

池田敬子(元女子体操選手)     ・東京オリンピックにかける思い

池田敬子(元女子体操選手)     ・東京オリンピックにかける思い
1954年ローマ世界選手権平均台で日本女子体操史上唯一の金メダルを取り、ローマの恋人と呼ばれました。
その後も国内外の大会で輝かしい成績を残し、1964年の東京オリンピックでは、女子団体の初の銅メダルの原動力となって、大活躍し、2002年には日本体操女子で初めての国際殿堂入りを果たしました。
引退後は40年余りに渡ってジュニアの育成に情熱を注ぎ、数々の名選手を育てました。
前回の東京オリンピックには選手として、5年後の東京オリンピックには人々に元気を与えるため、81歳になった今も、毎日逆立ちを欠かさないという池田さんに、東京オリンピックにかける思いを伺います。

当時、女がおてんばで走り回ったり、逆立ちをするという事は想像もつかなかったことで祖母が嘆き悲しんでいました。
日本体育大学女子学生の一期生、女子は2人、入学した。
体育館が無かったので砂場で練習をしていました。
1954年ローマ世界選手権に女子で始めて参加、自費で40万円かけて行きました。
平均台で日本女子体操史上唯一の金メダルを取る。
床運動をやるがごとくに、ジャンプとスピンをやったので、これこそ平均台だという事で、次のオリンピックからはルールが変わって、これをやらないと、減点になった。
高さ1m20cm、幅が10cm、長さが5m の範囲でやる競技。
ローマの恋人と呼ばれ、山のように花束やラブレターがきました。

1956年メルボルンオリンピックでは床で4位、団体で6位、モスクワ世界選手権では床で銅メダル、1960年ローマオリンピック 個人総合6位、団体は4位
1962年プラハで世界選手権 平均台、女子団体で銅メダルを取る。
1963年に出産、母親になってからも、1964年の東京オリンピックに参加、女子団体の初の銅メダルの原動力となった。
男子に引けを取らない様にするために、女子も頑張らなければという事だった。
オリンピックの直前に、ふくらはぎに肉離れを起こしてしまった。(この事は内緒にした)
男子の小野さんも肩を痛めて、麻酔を打ちながら頑張った。(日本の鉄棒の歴史を作った人)
平均台で「片足前方宙返り」の技は当時は無くて、取り入れるべく時間のないなかで練習をして、
本番に取り入れて、9.70出してドイツに逆転して銅メダルを獲得した。

オリンピックが終わって1カ月後に全日本大会でアキレス腱を切ってしまう。
翌年、京都の全日本で個人総合優勝で奇跡のカムバック、いろんな思いがあり表彰台で初めて涙を流した。
その翌年、ドイツのドルトムント世界選手権で自身最高の成績、個人総合銅メダル、団体でも銅メダル。
段違い平行棒では銀メダルを取る。
表彰台に上がって、チャスラフスカ、クチンスカヤと握手した時に、こんな子供とやってるのかと思ったら、これは日本は困るなと思って、ジュニアを育成しないといけないと思った。
36歳で引退する。
若手を育てるために、全国を歩いた。
経団連の大月文平さんがこの姿勢に感激して応援してくれる事になる。

1975年に全日本ジュニア体操競技会が設立され、女性で初めて、副理事長に就任。
着地に重点を置いて、自分の席に戻るまでが点数だということをまず教えました。
白井選手は3歳のころから見ていましたが、返事が凄く良かった子です。
体操とは何だか言ってみろと言ったら、「線です」といったので、之は凄いと思いました。(3歳の頃)
線の美しさが見えたという事は、これはすごい選手になるとずーっと期待していた。
2002年には日本体操女子で初めての国際殿堂入りをするが、貰っていいのかなという気がしました。
東京オリンピックの閉会式、入場前にルーマニアの人が帽子がほしくて日本チームに押し掛けてきて、三宅さんがチャンピオンになったので、肩に担いで行っちゃえと言う事で、整列の声を無視して行く事になった。
怒られるかと思ったが、そこから何を発見するかと言う事が、それぞれの大会で大事だったかなあと思います。
今度の東京オリンピックもできることよりも、そこから何が発見できるか、と言う事の方に皆が重点を置かなければいけないのではないかと思います。

2000語宣言 ザトペック、チャスラフスカ等も署名 ザトペックは撤回したが彼女は撤回しなかった。
彼女を訪ねて行ったら、壁に20cm四方の白いものがあったが、電話がもぎ取られているといって、友達までがあっちをむいてしまって、それが一番悲しかったと言っていた。
ジュニアの大会で日本にチャスラフスカを何とか呼びだせないかという事で、外務大臣のところと掛け合って彼女だけ来ることができたが、そこからが突破口だった。(夕方記者会見をする)
チャスラフスカの娘は体操をやりたいと言っていたが、母親チャスラフスカとしては無理だと思っていて、チャスラフスカから私に説得させてほしいと言われて、母親の運動神経には及ばないので体操は無理だとなんとか説得役をした。
チャスラフスカとしては東京オリンピックが生涯で一番輝いていた時代だった。

健康法は逆立ちをやっている。
体操競技の中では逆立ちは基本の基本です。
合宿の時は必ず逆立ち競争をして、一番に表彰状をやっています。
逆立ちは技の中での礼儀です。
東京オリンピックは、世界一の事をやるよりも、オリジナルなオリンピックであってほしいと思います。















2015年7月8日水曜日

しますえ・よしお(シャンソン歌手)  ・手話を使うシャンソン歌手

しますえ・よしお(シャンソン歌手)  ・手話を使うシャンソン歌手
73歳 小さい頃小児麻痺にかかり何度も後遺症に襲われながら、今も歌い続ける、日本では数少ない男性のシャンソン歌手の一人です。
しますえさんのレパートリーの一曲、「声のない恋」は1981年の国際障害者年用にフランスの、シャルル・アズナヴールが発表した曲で、自分の愛を伝えるために手話で想いを語りかける歌です。
この歌に感動したしますえさんは,手話を学び、歌と手話で歌い続け、1990年にはパリ公演も成功させています。
「声のない恋」に出会って、自分の進む方向を見出したしますえさんにシャンソンを通しての人生を振り返ってもらいます。

シャンソンと出会ったのは大学の2年生の頃です。
お茶ノ水駅前にシャンソンのレコードをかけていた店があり、土曜日になるとライブが入っていた。
「ミラボー橋」というシャンソンの曲を聴いて感動しカルチャーショックを感じた。
アポリネールと言う詩人が書いた曲でフランスで大ヒットした歌。
土曜日に歌っていた先生に感動して、弟子にしてくださいと、お願いした。
宇井あきら先生と言うシャンソン歌手だった。(作曲も手がけていた 「今日でお別れ」の作曲者)
卒業のころに、歌が下手だったので他の仕事を探す様にと先生から言われた。
趣味でやらして貰う様に懇願した。
ピアノをもっていなかったので、先生がピアノを出世払いでいいからと言って、ピアノを買ってくれた。(嬉しかったですね 甘えてはいけないと思って何とか工面して買いました。)

ピアノを習わなくてはいけないと思っていた時に、学生ピアニストと地方で一緒に仕事をすることになった。
銀巴里」というシャンソンの店が銀座に在り、そこから前橋に仕事に行ってくれと言われて、行く事になり、学生ピアニストが一緒に行く事になったが、ピアノの先生をしてもらう様に頼んでみたら、OKの返事を貰った。
坂本龍一さんだった。 優しい人だった。
伴奏していただくのは楽しかった、演奏者の力を多いに借りて、自分の力を延ばしていかなければ一人ではできない。

小さいころに小児麻痺にかかって、2回福岡の病院で手術をして歩けるようになった。
足を引きずってステージに出ると皆さんが笑われたが、その分歌い終わった後に拍手は多かったです。
40歳を過ぎてから、後遺症が地方公演で突然襲う様になり、足のくるぶしがソフトボールの様に腫れ上がって、色がなすび色になってしまって、物凄く痛くて、痛み止めを打ってコンサートは終えることができたが、その後色々病院を回った。
日赤の久野木順一先生にたまたまお会いする事ができて、足を触ってくれて、母親が痛い足を触りながら、替ってあげられなくてごめんよ ごめんよと涙を流しながら、さすってくれていたが、その感触ととっても似ていて、この先生にお願いしようと思った。
物凄く難しい手術だったが、歩けるようにしてくださった。
其れまでは車椅子だったので、何度辞めようかと思っていたが、或る人が「車椅子で歌っても、松葉つえで歌ってもいいじゃないですか、貴方には声があるんです、私たちは歌を聴きに来ているので、貴方が歌えなくなるまで、私たちは応援し続けます、歌を辞めるなんてバカなことを考えるんじゃありません」と言われた。
この言葉を言われて、こんないい方たちに支えられて今まで来たんだと思ったら、涙が止まりませんでした、僕の宝はやっぱりお客さんだったと思って、感謝感激だった。

腹式呼吸が一番大事だという事を初めて知った。
しっかりお腹から声を出す、歌だけではない。
1990年 パリ公演に行く事になった。
大庭照子さんの紹介でパリ公演をすることになる。
リーヌ・ルノー(Line Renaudさん(国民的女優)はシラク市長(後の大統領)の芸術の右腕だった方です。
カトリーヌ・ドヌーブ、ソラヤ王妃とかシャルル・ボアイエ、等々お会いした。
4~5曲歌って、「サクランボの実る頃」を歌ったらフランス人の方がハンカチを出して泣いてくださった。
日本語で歌ってほしいと言われた。
1981年の国際障害者年用の前年 「声のない恋」がレコーディングされる。
耳の聞こえない、言葉の不自由な恋人への切ないほどの愛が歌われている、途中から手話が入ってくるが、其歌を初めて聞いた時に、体中が震えました。
自分で詩を付けて手話を習って、レパートリーに加えた。
其れまでは障害をもっている事は隠していたが、小児麻痺の障害をもっている事を話してこの歌を歌った。
客席と舞台にあった壁の様なものが一遍に取り払われた様な気がした、ステージとが一体となった。

或る日耳の不自由な高校生が3人楽屋に来て、今まで歌と言うものを理解できなかったが、しますえさんの手話の入った歌を聞いて少しづつ判ってきた様な気がするので、私たちのためにそんな歌があったら一曲でも増やしてもらえないかと言われて、手話の歌を作っていただいて、歌う様になった。
手話での対応が難しく、ジレンマに陥り、手話用の担当が音楽的手話を振りつけて専門にできる様な体制にする。
「声のない恋」だけは自分で行う。
「母への手紙」 ロシアの歌 エセーニンと言う人の詩に曲がついた。
自らの命を絶つ事に対し、母に許しを乞う思いを詩にしたもの、この手話を教えてもらって、この2曲だけは自分で手話を交えて歌っています。

お客さんに中学、高校の音楽の先生が来てくれて、音楽授業の一環として、しますえコンサートを取り上げたいのでやってほしいと、声が方々からかかってきた。
山形県では14校の県立高校生に聞いてもらった。
アレンジも若向きに変えて、演奏者も若者向きに変えて、凄い拍手でした。
自分本位で歌うのは止めました、感謝の気持ちをプレゼントとして残してあげないと人間ではないので、そういう歌をどの歌でも残す様にしました。
別れの歌でもありがとうになってしまう。

7年前に胃に癌ができている事が判ったが、コンサートを3カ月続けた。
胃と脾臓と胆嚢を全摘しました。
リハリビは腹式呼吸がいいというので、ドンドン歌ってくださいと言われたので、点滴しながら歌いました。
内臓を活性化するのには腹式呼吸がいいといわれる。
若いころから絵が好きで、歌を歌っている時に絵筆を声に変えて、まさしく絵を描いている事に気がつきました。














2015年7月7日火曜日

保阪正康(作家・評論家)       ・昭和史を味わう 第12回 戦前の日本と中国との関係(27.2.1放送)

保阪正康(作家・評論家)  ・昭和史を味わう  第12回 戦前の日本と中国との関係(27.2.1放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2015/02/blog-post.htmlをご覧ください。

2015年7月6日月曜日

保阪正康(作家・評論家)     ・第11回 戦前の正月、戦中の正月・庶民の暮らし(H27.1.4放送)

保阪正康(作家・評論家)・昭和史を味わう 第11回 戦前の正月、戦中の正月・庶民の暮らし(H27.1.4放送)

「もういくつ寝ると お正月」 滝廉太郎 明治33年に作られた。
昭和14年 ニュース 尽忠報国を誓う新年の遥拝式
忠節を誓い、国に御奉公するという、それを改めて新しい年に誓い、皇居の方に向かい頭を下げる儀式。

凶作と豊作が入れ替わりに来る時代で、豊かさと貧しさが交互に来る時代。
豊田正子さんの作文 (小学校 4年生)
「困っていたころの事。」 昭和7年~昭和8年
父親の仕事の給金が貰えるかどうかの事や、食べものが満足に得られるかどうか心配する母親の事等。
夫婦で子供に着物を作ってあげられずに、困った様子。
元日の両親の嬉しそうな表情、下駄を買ってきたよ、と母親が言った。 と言った様な内容。
(岩波文庫 新編 綴り方教室で読む事ができる。)

昭和8年 豊作の年
宮沢賢治 昭和8年に亡くなるが、豊作を喜ぶ詩を残している。
満州事変で戦時景気的なものが起きてくる。
皇太子(現天皇陛下)が生まれる。 昭和8年12月23日
農村、都市部もにぎわった。
この頃「かるた」が一番できた。
「犬も歩けば棒に当たる」 等もこのころできた。
「非常時のいろはがるた」(戦時色を強調しているかるた) 昭和9年
「国史かるた」 昭和15年 (皇紀2600年)
乙女心を表すような表現のかるた等は、軟弱すぎると、内務省が発行を禁止する。
「愛国百人一首」 (乃木希典など) 忠君の思想 戦意高揚など。

昭和9年 凶作 東北六県は前年に対し40%減ってしまう。 農村の悲劇が起こる。



 

2015年7月5日日曜日

保阪正康(作家・評論家)     ・昭和史を味わう 第18回 太平洋戦争の日々

保阪正康(作家・評論家)       ・昭和史を味わう 第18回 太平洋戦争の日々
(4)戦争末期の庶民生活
庶民生活は近代日本でも一番苦しかった時代。
連合軍の攻撃は本土に来る。飢えと爆撃の恐怖が庶民生活の大きなグラウンドにあった。
昭和19年、20年になると便所への落書き、公共施設への落書き、軍事指導者への投書等が有る。
軍人をののしる厳しい内容、飢えに対するびら等で表現される。(俺達をどうしてくれるんだと言う思い)
憲兵隊、特高 隣組に依る相互監視システム。(密告)
沖縄は本当は負けていると言った人が、流言飛語を飛ばしたという事で逮捕される。
本当の事を言っても逮捕されるという事で有れば、何も言うなと言う事ですね。
B29が飛来して焼夷弾が都市にばらまかれるようになる。
軍の中心は本土決戦をして講和に持ち込むという作戦だが、とても戦う状況ではない。
昭和20年6月に義勇兵役法ができるが、男子は15~60歳、女子は17~40歳迄が軍の中に名前を登録して兵士になるが、計画を見ると特攻要員なんです。
勝までやると言う様な、屈折した考えが有ったと思う。

昭和20年4月7日 鈴木貫太郎内閣ができる。
鈴木は79歳だが、昭和天皇が鈴木を信用していた。(昭和の初めに侍従長をした時代が有る)
「鈴木頼むよ」と昭和天皇からいわれ引き受けることにしたと言われる。
鈴木はなんとしても終戦に持っていくと、決意したと書いてある。
軍は相当抵抗するだろうけれども、決死の覚悟で終戦に持っていきたいとの演説を残している。

吉沢久子 「27歳の空襲日記」の著述が残っている。(現在97歳)
昭和19年11月30日
神田、江東、芝、に爆弾が落ちている。 
焼夷弾が落ちてきた悲惨な状況記載。
昭和19年12月3日
着物などの非常持ち出し作る、非常食料作る。
飛行機が飛んでくる様相、空襲、2時間近く何度も来る。近くに爆弾落下、消防ポンプが走る。
ガラスが響くニュース映画の録音の様にドシーンと音がする。
昭和20年1月22日
大根おろし1回分が3日分の野菜の配給量だと聞く。
主食の代わりに何かあればいいが、何としても足りない量では、どうやって行けばいいのだろうか。
私(保阪)は小さい頃(4歳ぐらい)、かぼちゃ、いもを一生分食べたので、いまでも食べない。

戦争は戦う事の残酷さもあるが、人間の嫌な面もいっぱいでてくる。
「はやり歌」
「世の中は星(陸軍)に錨(海軍)に 闇(闇屋)に顔(横流し等特権持っている人、顔役) 馬鹿者(一般庶民)のみが 行列に立つ」
「欲しがりません 勝までは」 一般庶民を縛るスローガン
米の生産量 昭和15年 6000万石 日本人を養う必要量だが  昭和20年では3900万石だった。
吉沢久子 「27歳の空襲日記」
昭和20年2月26日
雪の道をたび一つで歩いている人を見、真黒な顔と手と足をした人を見、兵隊の出動を見、どうしてもこれが戦勝国とは感じられない。 もう戦争には耐えて行けぬかもしれない。
希望のない生活はできないのだ。

昭和20年7月7日
畑を作るために焼け土を掘り返して見ると色々なものが出てくる。(色々な生活用品) 
凡てに人の暮しが沁みていて、ふとこれを使っていた人たちのことを思う。 
ちりぢりになってしまっていていまどこで暮らしているのであろうか。
こういうところに何かが実るとすれば自然の力というものは大変なものだと思う。
昭和20年8月13日
早朝警報発令 爆音物凄し。 
日本はいかなることがあろうとも陛下のお言葉とあれば御意にそいたてまつる。
しかし軍人としてはまだ余力があるのならもうしばらく戦いたくもあろう。
私には何事も言えぬが、兎に角次の時代をどう建設していくかが、私たちも命がけで働かねば成らぬところだが、当分の間食料問題が最大のものとなろう。
私たちもその日のために畑を作らなければならない。

国会の敷地もカボチャなどを植えていて、一般の空き地も畑にしたりしていて、戦争末期の庶民は希望のない生活は耐えられない、戦争を終わらしてほしいというのが、次の希望を生むばねになるのではと感じ取ります。
爆弾で亡くなる被災死、食料が無い事に依る餓死等、生活の中で死が日常の光景としてあるので、こういう体験をしたという事は、歴史的には教えるものがいっぱいあると思う。
そういう時代には成ってほしくないという事を、改めて理解する事が重要かなあと思います。












2015年7月4日土曜日

植田紳爾(宝塚歌劇団演出家)   ・百年の夢を次の百年に(H26.10.4放送)

植田紳爾(宝塚歌劇団演出家)   ・百年の夢を次の百年に(H26.10.4放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2014/10/blog-post.htmlをご覧ください。

2015年7月3日金曜日

朝原雄三(映画監督)       ・50歳を過ぎて、映画への思い

朝原雄三(映画監督)          ・50歳を過ぎて、映画への思い
1964年高松市生まれ 50歳 京都大学を卒業後、1987年、松竹に入社、「男はつらいよ」、「学校」
等で山田洋次監督のもと、助監督として力を付けてきました。
29歳、「時の輝き」で監督デビュー、その後「釣りバカ日誌」、「武士の献立」などのメガホンを取り、「釣りバカ日誌15 浜ちゃんに明日はない」では、2004年度の芸術選賞新人賞を受けました。
監督20年目の今年、14本目の映画となる「愛を積むひと」を監督し、現在公開中です。
映画は中高年の夫婦をモデルに夫婦愛がテーマとなっています。

「愛を積むひと」 あらすじ
東京で工場を経営した夫婦が倒産してしまって、北海道に移り住み、石塀作りを妻に依頼され、完成する前に妻が心臓を悪化させなくなってしまう。
或る日妻からの手紙を見て、その手紙を読んでいる中で新たな人生へと導かれてゆく。
アメリカの小説が原作、 エドワード ムーニー Jr. 「石を積む人」
辛い話にするよりも、ロマンチックな映画にしたいとのプロデューサーからの要望もあり、美しい村でこの物語を広げて見ようかと思った。
まともな人間がまともに考えたらどう振る舞うか、と言う事を中心にはしていたつもりなので、全然毛色の違うものと言うわけではなかった。
ロケ地をえらぶとか、色々と4年もかかってしまったが、登場人物に愛情をもって映画を作れたと思います。

超然とした生き方、たたずまい、いろんな意味で樋口可南子さんしかいなかったなあと思います。
感情を身体の中心で受けとめて芝居をするという意味では、主役として佐藤浩一さんは信頼出る俳優さんだと思っています。
本番の時の手紙の朗読よりも、北海道の自然とその家の雰囲気、彼女がいかになりきっていたのか、現場での最初の手紙の朗読の仮録音が一番良かったので、それを採用した。
メッセージは夫婦愛が中心ですが、横のつながり、縦のつながり、共同体として生きて生きてゆくときに、初老の人たちがどういう繋がり方を求めてゆくのか、次の世代にどう手をさしのべるか、どう接していけるか、自分の人生を最後に充実させていくときに、唯一出来る大事な事ではないかと、想って、こんなふうに生きられたらいいだろうな思って、主人公に反映させてメッセージとしてどうだろう、と言う事はありました。

1964年香川県高松市生まれ 比較的おとなしい子供だった。
父は少林寺拳法の師範だったが、全く習わなかった。
父は映画が好きだったので、小さいころから父と一緒に映画は見ていた。
高松高校時代、映像同好会があって、撮影をして楽しんでいて、文化祭で上映していたりした。
音楽は苦手だったが、友達に誘われて、音楽などもやったので、監督をしていい経験にはなったと思う。
映画を見る方は時々見ていたが、男はつらいよ等は見ていなかった。
「ET」を見に行ったら満員で見られなくて、仕方なく松竹に見に行ったら「男はつらいよ」で、樋口可南子さんが出ていた。
京都大学文学部に入学、シネマ同好会に入った。
イタリア映画等沢山見ました。

松竹で助監督の採用試験が17年ぶりに復活した年で、公開記念イベントで採用しようという事が有り入社する事になる。
当時はあまり映画を作っていなくて、6月過ぎまで何の仕事もなかった。
1本目が山田洋次監督の「男はつらいよ 知床旅情」 助監督がたくさんいて、5人目でなにもすることがなかった。
山田洋次監督はとても真面目に後輩を育てようとしていた。
監督としても人間としても、とても大きな存在であります。
現場にいると、山田さんの真似をしているんだろうと思います。
「釣りバカ日誌」をやるのには抵抗が有ったが、二人に挑みかかる様なつもりで一作目をやって、戦った覚えがあるが、やってゆくうちにドンドン相性が深まって行って、最後の方は力を合わせて映画を作っていって、たのしい時期でした。

10年前だったらこの企画(「愛を積むひと」)はやらなかったと思います。
この年齢になって、一番主人公達に共感できる映画になったのかなあと思います。
これから、これまで培ってきたものがそろそろ滲みだしてくるかもしれない。
一人、二人、でもいいから登場人物に自分自身が共感できる、こういう人間ているんだよなと言う風な事を感じられる、美しい共感のしかたでありたいとは思う。
人間味のあるものを撮るしかないと思うし、一人一人にじっくりと取り組めるような映画を撮れればいいと思います。
シンプルな話をシンプルに撮れるようになれれば嬉しいと思います。
ドンドン単純化してドンドン単純であるが故に、深みが出てくる方向に演出の力がいければいいと思います。


















2015年7月2日木曜日

打山 昇(観光バス会社・会長)   ・超豪華夜行バスで 地方貢献を

打山 昇(観光バス会社・会長)   ・超豪華夜行バスで 地方貢献を
内山さん 67歳は徳島県の南部 海部郡で海部観光バスの会社を平成8年から経営しています。
海部郡は打山さんの故郷 、隣接する阿南市から毎日、大阪、神戸、東京に高速バスが出発します。
東京行き夜行バスは毎日3便でますが、其中の一便は定員が12人、カーテンで仕切られた個室でTVを見たり、155度リグライニングするシートで休む事ができます。
トイレには着替え用のスペースも準備されています。
現在300あまりのバス会社が、一日12000便の高速乗り合いバスを運行しています。
夜行高速バスの大半は、30~40人乗りで12人バスは超豪華バスと呼ばれています。

超高速バスの色は淡いピンクで名前は「マイフローラ」
平成9年以来、平均乗車率は9割を越えている。
一番大切なプライベートな空間を守られたい、というところに魅力があるのではと思う。
日本で最初の12席バス、最初18席が採算ベースかなと思っていたが、16席、14席も図面検討したがちょっと窮屈で、最終的に12席になった。
今は2台で13000円で毎日走っているが、最初1台12000円で運航していた。
バスの製作価格は8400~8500万円。(製作には協力していただいたので本来1億円ぐらいか)
子供の時から車が好きで、トラックをバスを運転していて、お客さんから夜行バスは大変で足はむくむ、腰が痛いという様な声を聞いていた。
採算ベースに合うかどうかはわからなかったが、やってみようと思った。

中学を出て大阪の運送会社に就職、夜は定時制に通っていた。
5~6年して父親が亡くなっていなかに帰ってくる。
トラックの運転業務をしてその後、30代後半に観光バス会社に行く事になる。
1996年今の会社を立ち上げる。
故郷の海部郡は過疎地で、小学校ではマイクロバスで修学旅行をしていたので、何とかならないかと、旅行会社を興こし、1年後にバス会社を興す。
最初は小型バス3台からスタート、妻と長男3人で海部郡内のお客さんに対して始める。
平成12年、小泉政権の時に規制緩和ができて、大型バスに変更する。
観光バスの需要が少なくなり、自分のところで企画した旅行商品を自分のところのバスを利用したらと言う狙いがあり、ツアーバスが徐々に耳に留まるようになり、早くからツアーバスに参入して言った。

2012年に関越で事故を起こす事件が有ったが、それより4年以前にツアーバスをやりながら、今後難しいだろうと、独自の路線の免許を取らなければツアーバスは難しいだろうと、思った。
乗り合いに移行して行った。
バブルがはじけた時期でもあり、大変苦しい時期もあり、お客さんからはバスは綺麗だし、安全も担保されているという様な励ましもあり、現在にいたっている。
今は19年目を迎えて従業員はドライバーが50名、他の業務関係で100名ぐらいです。
他の会社も結構運航しているので競争が激しい。
とにかく事故を起こさない、お客さんに支持いただける様な接客をしてゆくために、日々研鑚している。
バスは劇場、ドラマを演じてもらわないといけない、よかった有難うと言って降りてもらえるようにならないといけないと思っている。
津波対策として駐車場を利用させてもらえないかと小学校からの話が、阿南市、自治体、小学校、海部観光の4者で調印した。
振り返ってみると19年間は短かったと思う。















2015年7月1日水曜日

秋山和慶(日本指揮者協会・会長)  ・指揮者50年、いい音楽を求めて

秋山和慶(日本指揮者協会・会長)  ・指揮者50年、いい音楽を求めて
世界中の交響楽団からオファーの有る、日本の代表的な 指揮者秋山さんです。
昭和38年に桐朋学園大学音楽学部を卒業されて、東京交響楽団の音楽監督、常任指揮者を40年間務める傍ら、アメリカやヨーロッパの交響楽団や管弦楽団の指揮者として活躍されました。
現在も日本各地や世界を飛び回って指導を続けています。
日本のオーケストラ音楽の水準を世界的レベルに高めた秋山さんは指揮者になって50年の昨年文化功労者に選ばれました。
小さいころから鉄道模型が大好きで、バンクーバーの自宅では自分で作ったジオラマを楽しんでいるそうです。

ヨーロッパとアメリカを完全に行き来していて、50年続いている。
いろんな国のいろんなオーケストラをやってみたいという思いはある。
絶対音 何にもないところで音を出せる事ができる。
3歳ぐらいにきちんとしたピアノ等で、耳が印刷したみたいに覚える。
母はピアノの先生だったが、生まれたのが昭和16年生まれで、太平洋戦争に突入した年で、ピアノも敵国のものと言う様な時代で、キチンとしたレッスンもしていなかった。
3歳からピアノを始める。
ラジオで耳で聞いたものを(童謡、歌謡)ピアノでぽつぽつと弾いたりしていた。
クラシック的なものはレッスンとしてやりながら、FENでのジャズなどもやったりしました。
ポップスの方も有名なシンガーとオーケストラでやるのが楽しかった。

シンフォニーとか1時間半とかになるが、楽譜を読み込むしかない。
オーケストラは全部楽器が違うが、80 ~100にいる中で一人違ったりすると、止めて貴方違うよと注意をするが、訓練から来る才能かと思います。
斎藤秀雄先生について、学ぶ。
怠けてたり、ずぼらをして進歩が無いと、見破られた時にはこっぴどく怒られました。
指揮者は音楽の流れ構成、構造と言うものをきちんと、曲の解釈ができてないのを看破られるというか、勉強してないと、厳しく怒られる。
体操のマスゲーム的なものを、音でやるわけです。
楽器が違う、人が違う、経験が違う中で、楽譜見ただけで頭の中で想像する。

小澤征爾さんは、6つ年上の兄弟子。
斎藤先生のメモリアルコンサートを行ったのが亡くなって10周年、1984年に行う。
100人ぐらいの弟子が集まる。
斎藤先生の書いた本を改訂版を作れという事で、現代語訳に改定しろと言う遺言だった。
始めたのが1989年、それから20年掛かる。
コアメンバーが6人ぐらい集まり、400回ぐらい集まって喧々諤々の議論もしたりした。
多摩墓地に先生の御墓があり、そこにでき上ったものを一冊持って行ってできましたと報告した。
絶対褒めない先生だった、終点が無いみたいな状況だった。
或るコンサートで先生が「悪くはない」 と言って顔は笑っていて、「でも非常によくはないな」といって、私はしめたと思いました。
昭和34年フランスのコンクールで小沢さんが優勝して電報が送られてきて、「たたきは最大の武器である」と言う電報だったそうですが、叩きとは?
釘を打つ時に、力を入れるのではなく力を抜いて、かなずちの自然の重さで釘がまっすぐ沈んでいくように、大工さんが訓練するらしいが同じように力を抜いて、おこなうのが第一歩で、そのあとにバリエーションが出てくるわけです。

東京交響楽団に23歳で指揮者になる。
交響楽団が5つぐらいしかない時代だった。
東京交響楽団の定期演奏会には、家族でずーっとオーケストラを聞いていたので、入れたのは嬉しかった。
東京交響楽団が1年ぐらいで経営破綻をするが、祖父、父親に近い年代の人がいてかわいがってもらったりした、自分たちで演奏を続けていこうと、言う事で指揮者はお前しかいないのでやれという事でやってきました。
再建までに20年近くかかった。
周りからはなんでベルリンフィルに行かないのかと言われたが、自分のオーケストラがこれだけ苦労していて、一緒にやってくれと言われたのに、それをホッぽらかして、行くわけにはいかない。
それがアホだといわれる。

1972年にバンクーバーのオーケストラに招へいされて、カナダに行く事になる。
日本では、広島、九州の交響楽団も担当する。
仲間と一緒に、いい音楽をやりたい。
できるだけ生の演奏を聴く機会をつくってもらって、聞いてもらえればいいと思う。
手が言う事をきかなくなるまでは、やって行きたい。
朝比奈隆先生は94まで矍鑠とやっていました。
ストコフスキーさんは96歳まで振っていました。