2015年2月27日金曜日

畠山 信(牡蠣漁師)        ・震災後の海とともに生きる(2)(1.9放送)

畠山 信(牡蠣漁師)                ・震災後の海とともに生きる(2)(1.9放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2015/01/2.htmlをご覧ください。

2015年2月26日木曜日

畠山 信(牡蠣漁師)         ・震災後の海とともに生きる(1)(1.8放送)

畠山 信(牡蠣漁師)                ・震災後の海とともに生きる(1)(1.8放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2015/01/blog-post_8.htmlをご覧ください。

2015年2月24日火曜日

レシャード・カレッド(医師)     ・ 医師に国境はない

レシャード・カレッド(アフガニスタン出身・医師)     ・医師に国境はない
1950年生まれ 64歳 日本の進んだ医療を学ぼうと、19歳で来日し、京都大学の医学部を卒業しました。
その後静岡県の島田市で開業し、無医村への往診や老人介護に取り組んでいます。
その一方で死と隣り合わせの生活を送る故国の人達を救おうと、アフガニスタンに診療所や学校を作る活動も続けています。

小さい時から近所でかわいがってくれたお爺さんが、小学校の3年生になった時に、お爺さんが病気になって、医者が往診に来てくれて、食べれなくて寝たきりのおじいいさんを励ましてくれて、食べれるようになったりしたが、ある日家族を呼んでそろそろ爺さんは長くはないと話をして、家族は御礼言って感謝していた。
私は一方でお爺さんに対しては励ましの言葉を言いながら、家族にはそのようなことを言って、お爺さんに対してなんで嘘を言っているのだろうと心で思った。
家族は感謝して、お爺さんは手を合わせてお医者さんを送って息を引き取ったところを見て、時にはお医者さんは嘘をつかなければいけないという事は辛いだろうなあと思った。
これこそ人のため世のためにやっているんだなあと感動しました。
医者になって患者自身を思いやる事、家族を思いやる事をやって行かなければならないなあと決心しました。
お爺さんは結核だった。 まともな薬もなかった。 
唯一、医者の声がけが薬だったのだろうと思う、楽しみにして待っていた。

カブールの大学の後、日本の医療を学ぶ為に昭和44年に日本に来る。
最初は言葉で苦労する。
下宿しようと思ったが無くて、新聞に広告を出して、2軒OKだったが、1軒女性だと思っていて断られ、もう一軒はお爺さん、お婆さんの家でOKとなった。
親切すぎて、下宿代もとってくれないし、食事も出してくれる。
お婆さんは日本語で一日中対応してくれて日本語を学ぶ事ができた。
なんでそんなに親切にしてくれるのかと問うたら、我々は(お爺さん、お婆さんは)戦争中に中国にいて、日本に引き揚げようとするが、危険を感じたが、中国のお婆さんがかくまってくれたりして、船底に隠して日本への船に乗せてくれた。

その後お婆さんはどうなったのか連絡は取れなくて、お婆さんに恩返ししようと思っても出来ない、そこに現れてきたのが君だったんだよと、君に優しくしているのではなく、お婆さんに恩返ししているだけなんですよと言われた。
これこそ心の中の綺麗なボランティアだと思って心を打たれた。
そこが私の医療人としての道筋ができたと思った。
今度私から第3者にどういう風に恩返しするか、自分の人生のなかで考えて行かなければならないと思います。

専門は呼吸器。(アフガニスタンには結核が多い)
アフガニスタンに帰る予定だったが、1979年にソ連がアフガニスタンに侵攻して、再考せざるを得なかった。
自分の目指してきたもの、日本で勉強して志すべきものを全部失われてしまった事が一番のショックだった。
私にできる事は何だろうと、戸惑った。
アフガニスタンに戻っても軍隊に入ってしまっては目的が果たせない、目指してる医療は日本でも世界のどこでもあるだろうと、その人たちに精一杯医療行為をすれば役割を果たせる、日本にいる事に依って、アフガニスタンに何か貢献できる別の体制が作れるのではないかと考えた。
赤十字病院で仕事をしているうちに、島田市に戻ってこいよとの話が有って、本気で言っている事が判って、開業する事を決心しました。
熱いエールを送ってくれた事は物凄い感動でした。

島田市に開業して1カ月の頃、夜中に父親が危篤状態なので見に来てほしいと言われた。
脳卒中で処置して、朝方に帰ってきて、診療して、午後行こうと思ったが道が判らなくてようやく行ったが、まばらに数軒しかなくて、往診してほしいとの要望もあり往診するようになった。
常に20~25人は往診している。 
月に380~400人はあると思う。
ただ薬を渡すのではなく、日常生活そのものを面倒見ないと、生活できないし、医療、快方につながっていかないので支援していかないといけないと思う。
医師が病気を見るという事は、その人自身の生活と自由を見落とす事が有る。
人間は病気を治すだけが根本ではなくて、豊かに生きることが大事なので、病を見るのではなく、その人の人生とか、生活そのものを見てその状況を十分に理解していないと、その病気の根本に差し迫ることも出来ないし、治すことも出来ないので、患者をトータルで見る、家族、環境、その人のやってきた人生そのものを見ないと、その人の習慣に依っても受けられるサービス受けられないサービスが有るので、全部見ておく必要がある。

往診で医療そのものでは解決しない事が判ってくる。
介護施設を3つ作るが、町の中に在る、住む家と同じ感覚になる、安らぎになる。
毎日 朝 昼の食事を認知症の人と職員がいっしょにつくっているが、生活リハビリになるし、生活している以上は楽しく無くてはいけない、自分たちの食べたいのは献立も考えて自分たちで味付けして行う。
私を必要としている人がいっぱいいて、上手に使ってくれるので有難くてしょうがないです。
彼らが呼んでくれて、その生活、役割を私に与えてくださったので、その役割をどう貫いていけるのかが、みなさんに対する恩返しだと思っています。

2001年同時多発テロをきっかけに空爆が始まり、沢山の方が犠牲になり、2002年にアフガニスタンを支援するNGOを立ち上げる。
2001年 年末にアフガニスタンに行くが、多くの人が路頭に迷い、学校にも行けない。
出来ることは何かと、医療をやってゆく必要が有るが、教育も大事だと思う。
診療所を作る。 40万人の患者を見てくるが、6割近くが大人の女性、母親たち、が病気である事が社会問題です。
病気にならないための衛生教育も大事で、栄養のバランスの問題、等教育を中心にやっている。
子供を中心に予防接種をやっていて6万人の子供達に予防接種をやっている。
産婆さんも育てて、去年150名の子供達がそういうところで無事に生まれた。

危険を伴う事もあるが、一番大切にしていたいのは信頼と言う事です。
危険なところに行っても待ってくれているときには必ず彼らが守ってくれる。
学校も設立して1000人以上が通っている。
残念なのは今の子供は昔の姿を全然知らないで大きくなってきている事です。
もっと平和な時代を知らないのは、さびしい事です。
戦争で怪我をしたり死んでいったりするよりはまだましだと、これだからこそ平和だと思いこんでる人たちがいる、彼らには比較が無い。
昔は農業国でお互いに気持ち良く相手を思いやることが多かった、安らぎのある生活だった。
田舎に遊びに行き、勝手に知らない人の農園に行って一杯食べても、地主さんがうちを選んでくれてありがとう、昼も食べて行きなさいと言ってくれる、本来のアフガニスタンのお客さんに対する本来のアフガニスタン人の心だった。
お互いを大事にしていました。

日本の「お陰さま」の言葉は大好きです。  他の国にはない言葉。
日本は平和、繁栄があふれている国だが、平和ボケしてしまっている様な気がする。
平和の価値観が判らなくなったり、平和の意味を考え無くなってしまっている様な気がする。
今の繁栄、平和は多くの高齢者が一生懸命頑張って自分達を犠牲にしてこの国を作ってきたが、高齢者が邪魔扱いされて、社会のお荷物の様な扱いをされている。
平和そのものを軽視してしまっているという事もある。
日本の憲法 9条 平和が大事であるという根本だけは決して崩してはいけないと常々思っている。
感謝の気持ちを、恩返しして行きたい、身体が動く限り一生懸命に続けていきたいし、日本がもっと安泰であるために、気付いてもらえることを子供達に伝えて行きたいと思っています。
医師の報酬は皆の喜びです。 
褒められる事喜ばれる事が人間が次に頑張ってゆく事につながると思う。













2015年2月21日土曜日

杉若恵亮(国境なき僧侶団・代表 )  ・”仏の心”で縁を結ぶ

杉若恵亮(国境なき僧侶団・代表 )  ・”仏の心”で縁を結ぶ
仏の教えを元に世界の人たちと縁を結び、人々の苦しみに向き合っていこうという、杉若さん55歳。
京都府亀岡市のお寺の住職ですが、宗派を超えた僧侶のグループが一般の人々と語りあう座談会を京都の喫茶店や民家などで月に一度催し、30年近く続けてきました。
座談会はこれまでに300回余りを数え、1000人を越える人との出会いが有ったと言います。
仏の教えを伝えるためには寺を出て国境を越えて縁を結ぶという、杉若さんに思いを伺います。

若い人にも話を聞いてもらいたいと思うので仏教は素晴らしいという事を知ってほしいと物凄く高まっている時に、青年会等に投げかけると、反応が鈍かったりした。
壁を壊したいと、宗派、年齢に関係なく、お寺の敷居が高くないよとイメージを持ってもらいたいと思って、喫茶店、民家等でやっている。
行き詰った時に、話し合える場所が求められているが、お寺に来ませんかではなく、出て行ってますから一緒にしゃべりませんかと、当時思っていました。
最初集まりは悪かったが、出会いが目的だったのでマンツーマンのときもありました。
3~4年過ぎてゆくうちに、マンツーマンで聞いてほしい話が有るという様になってきた。

我々は心に中に絶対的に迎えなけれればならないことが有り、病、死とか。
お釈迦様も同じ人間で、目指すところはお釈迦さんみたいな境地になれれば、楽になれるのではないかと、いう何か種を持っている。
どっかで目覚めようとしている種が無いと、坊さんがやっている事の琴線に触れないというか、仏の種が発芽したがっている、水を欲しているんだと、参加した方が感じて頂ければそれでいいんです。
仏種という種がいっぱい集まって森ができれば凄いじゃないですか。
種に水をやって発芽したら、神様がこういいましたというよりも、俺が考えたし、私が感じたし、動き出しましたという事の方が、良いんじゃないかと思います。

寺から出ることを始めたのは28歳の時。
主に大学生にアンケート調査をした。
①悩みはありますか?
②悩んだ時にだれに相談しますか?
③お寺やお坊さんに相談したいと思いますか?
悩んだ時の相談は圧倒的に友達、ほとんどお寺に対しては、NO だった。
固い、嫌い、暗い、煙たい、恐い、というイメージ。

出家者は本来屋根が有ったらおかしいはず。
お寺は信者、檀家に対しお守役をしているが、更に我々は一緒になってお守りしているのが日本の仏教スタイル、寺院スタイル。
仏教以外に積極的に参加。
平成7年1月17日、阪神淡路大震災発生。
神戸に向かう。 今自分にできる事は無いかと、僧侶と名乗らずボランティアに参加。
新潟、中越の時にも参加する。
平成23年3月11日  東日本大震災に調整して、数日後に被災地に行く事ができた。
前半は泥かき、家財のかたずけ等を行う。
亡くなった人の供養には2週間後ぐらいになると思う。
苦しんでいる人と一緒にいる事によって、感じる。
ちょっと一滴の心の静まりというか、又来てください、又きますとの声のつながりが、ちょっとでもどこかの勇気のかけらになっていただければと、思います。

お釈迦様の弟子としていろんなところに救済として現れる存在としていたいと願いがありますし、国境なき僧侶団に参加してくれる僧侶たちは恐らくそうだと思います。
フィリピンでは仏教はほとんど知識でしかないが、この格好で歩いていてもブッダと言ってくれるし、そこの地域に融合しながらというのが仏教の素晴らしいところなので、国境を越えてお役に立てることが有ったら、伝道者として入らせてほしいという気持ちもあります。
アジア圏には仏教が入りこんでいるところが結構あります。
上座部(小乗仏教) と大衆部(大乗仏教)とは根本分裂している。
万人共通項(平和論とか)を大切に守りつつ、自分たちの存在している環境なども意識を高めていくというのは皆考えている事と思う。
共通項は一致してゆくと思う。

昭和34年京都市内のお寺の生まれ  父親は専門道場で修行を積んだ厳格な人でした。
普段の振る舞いから厳しく指導する。
父親は禅宗 母方は日蓮宗 修行して母方の家を継ぐことになる。
毎日夕食の前には訓示が有り、今日の報告をする。(小学校の1年からでは報告は無い)
父親の一喝で涙がぽろぽろ流した。 よく怒られた。
小学校の4年生で母方のお寺で小僧として修行を始める。
外国語の短期大学に進む。 卒業後仏教系の大学でその後2年間学ぶ。
京都で更にデザインを2年間学ぶ、結局寺の仕事に専念するのは24歳の時。
世の中の人はお寺、僧侶をどう思っているのか、リサーチ的にバイトもした。
坊さんの事はぼろくそに言っていた。

お釈迦様の教えを商品として置き換えてみると、いままでの歴史の鎌倉時代の各宗祖の以降の方で、宗祖の方の企画をち密に研究した結果、普及されているわけです。
コンセプトをどういうものを盛り込んでいくか、自分の中のアンテナを働かせることは必要です。
(様々な場で多の人と語り合う中で、杉若さんや仲間の僧侶は宗教や宗派が違っても祈る心が同じであると強く感じています。)
祈りは世界共通だと思います。
祈りのベースになるのは何かという事です。
神様はこういいましたとか、言うのはそこの宗教の経典に書いてるかもしれないが、それも突き詰めてゆくと戒めであったり、仏教でも歴史と共に肉付けされてきているが、本来お前は人間だろうと、人間同士が殺し合う必要はないとシンプルなもの。
いろんな都合、歴史の中で肉付けされる中で、AとBで争う様になったりする。
人間としてはいけないことをいろんな都合でしてしまうが、そこに立ちかえらせてもらえるのが仏教だと思う。

人間はすべからく細胞の塊で、遺伝子の中に、自分の内側の平和と外側の平和のバランスを保ちたいという遺伝子を持っていると思う。
平和、平穏 平和細胞を持っていると思う。 仏種かもしれない。
仏種、平和細胞に気付いてもらえるような話ができればと、今後の展開として考えています。
お互いが寛容な人物を作っていければいいと思う。
仏教を宗教という枠に入れずに、人生哲学的なテキストと思えば、判ったひとは仏教にしがみついてもらわなくて結構です。





















2015年2月18日水曜日

川端政子(ものづくりアドバイザー)   ・ものづくり現場をつなぎ支える

川端政子(ものづくりアドバイザー) ・ものづくり現場をつなぎ支える
39歳 短大を出て大坂の町工場の事務員や営業の仕事をしてきた川端さんは、35歳の時かねてからの計画どうり独立して会社を興しました。
製造業の現場で働いてきた川端さんは、町工場の苦しい現状を打開するだけでなくもっと夢持って前向きに仕事と取り組み人生そのものを楽しいものにしようと、町工場の人たちに呼び掛けてアドバイスをしています。

もともといた会社は3K工場(きつい、汚い、危険)そのものだった。
20歳からパート事務員として働いていた。
社員さんに夢ありますかと聞くと、夢と言われても困るという様な返答だった。
夢を持って働ける様な会社を創っていかなければ、今後日本の中小企業の発展はありえないというところからメーキング ドリーム ファクトリーという言葉が生まれて行った。
24歳の時にそのうち社長になろうと思った。 60歳までの計画を立てた。
10年間かけてこの会社を良い会社にしようとして、これをベースに同じ様な思いをしている人達に何らかのサポートができる様な会社を作りたいと思った。
35歳になったら会社を作って社長になろうと志した。

働いていた会社は大手メーカーの下請けだった。
黙っていても月2000万円ぐらいの受注が来ていたが、その後1/10になってしまった時期が有り、28歳の頃は仕事がほとんど無くなり、会社がつぶれるのではないかと思った。
大坂でやっていても駄目だという事で、新規開拓で東京に行ってほしいと社長から34歳の時に言われた。
以前頂いた名刺をたよりに接触を試みたりした。
年間200社を回った。
いろいろ日本全国を回って、いろんな社長さんと会う事ができた。
女性の営業に負い目を感じた。(なんだ若い女が来たのか、というような感じを受ける。)
自分も精神的に気を楽にして、そういう人たちと心を開いて関われるようになった。
いろいろ悩んでいる、この人たちに何かしたいなと思う様になった。

展示会場では隣りに似たようなカテゴリーの会社が有り、そこはライバルとなる。
海外移転などで小さくなってゆく仕事量に対して、取り合っていていいのかという思いが有り、うちの会社だけで良くなるのでは無くて協力し合えば、もっとあるのではないかと思った。
女性的感覚だと思います。  中小企業の連携事業。
行政もやっているが、本当の意味ではやっていないという思いが有り、表面的に集まってやっているだけで連携ではない。
基礎教育のところを自分がやってきたことをベースにやっていこうとした。
どうせ働くならいい会社で働きたいという事は社員は皆同じ。
眼先の問題(納期、コスト、改善)に対して対処しているうちに疲弊していってしまう。
先ず聞いてあげて、どんな人間になりたかったのかを思い出してもらう事から始める。
整理整頓 手法として整理はこうですよと話すが、もっとベースに、なんで整理して行ったら良くなるのか、皆で話し合って、自分なりの結論を導き出していってもらう。
工場で単一作業をしていたりすると、何も考え無くなってしまう、考える必要が無くなってしまう。

考えてもらって、自分たちがこういう風に変わってゆくんだと納得してもらって、楽しみながらやってもらうための方法。
最初に夢を思い描いていただく事から始める。  会社全体で、全社活動です。
ヒヤリング活動を最初行うが、ヒヤリングだけで変わってゆく会社もある。
改善活動も何の為にやるのか、考える所から始めて、自分たちで考えて、其れをやって、誰かにちゃんと伝えるというところまで行う。
変わってゆく人が一人一人と増えてゆくと、段々変わってゆき、社長さんも変わってくる。
何も考えないでやっていると、無駄を無駄だと思わなくなる。

整理:いるものといらないものを分けて、いらないものを徹底的に排除する。
    単純に二分ではなく、あと急がないものに分けて区別する。
    最終的には心の問題、そこまで整理して行きましょうという活動まで繋げていっている。

連携:全国連携のイベント事業もしているが、その場所にも出てこれない中小企業が多い。
   会社のレベルを上げないと、できない、社長がいなくても業務が回ってゆく、そういう会社に  
   ならないと、社長が次の手を打てない。   

先代の社長の奥さんが入社して半年ぐらいで末期がんと判る。
毎日病室に行って、教えてもらうふりをして引き継ぎをしてほしいと言われた。
私にしては死が遠い存在だった。
半年過ごすうちにその人の持っている人生そのものを引き継いでいる様な気持ちになってきた。
亡くなる1週間前 「政子さん 会社頼むね」と奥さんから言われた。
思いのバトンを受け取った時に、私は何もできないと思った。
このままでいいのかと思った。
少なくとも同じ歳になった時に、ここまでがんばれましたと誇れる様な人間でありたいと思ったし、死ぬときには何も持っていけないが、唯一出来る事は後世に思いを残すことだと思うんです。
自分の生きざま、夢みたいなものを、誰かに引き継いでいく事が人間としてやっていかなければいけない事だと、思った。
社長になって5年目になるが、思いを発信し続けて来たことが評価されて、夢に共感して何か協力したいと、そのためにも今と同じ事をずーっとしてるのではなくて、自分が本当にやりたいことをやるべきだと思っていて、3Sをやり始めた時に3つ約束してくださいと言っている。
①人の事を言わない。
②昔のことを言わない。(思いで話ではなく)
③やりもしないで、できないとはいわない。









2015年2月17日火曜日

森田泰弘(JAXA・マネージャー)   ・ロケット開発は人と人とのつながり

森田泰弘(JAXAイプシロンロケットプロジェクト・マネージャー) ・ ロケット開発は人と人とのつながり
1958年東京生まれ 一昨年、9月打ち上げに成功した国産新形ロケットの総責任者です。
このイプシロンロケットは最新の人工知能やIT技術を駆使し、ノートパソコン2台だけで打ち上げを行いました。
大幅なコストダウンを実現し、ロケットの世界の常識を大きくくつがえしました。
しかし打ち上げ成功の裏には7年間にわたる生みの苦しみが有りました。

最初8月27日に直前で中止になった。 発射19秒前にイプシロン自慢の自動シーケンスが止まった。
実際に止めたのは機械だった。
イプシロンでいろいろ新しい事に挑戦していたが、特にパソコン2台でロケットを打ち上げるモバイル管制みたいな事は世界でも初めての挑戦なんです。
それを実現させるためには、生みの苦しみもあるし試練もあると思っていたが、緊急停止もそういうことだと思っていたが、批判にさらされて辛い部分もあったが、いろんな人たちの応援の声を頂いたのが大きかった。

昭和33年産まれでSFが全盛だった。
ミュー3S2型ロケットの開発が始まって、ハレー彗星の探査を行うという事が大学のころに提案されて、衝撃的だった。
それが純国産 固体燃料ロケットだという事に感動した。
燃料 ①液体燃料ロケット H2Aロケットの様な大きなロケットに使われる。
②固形燃料は小型ロケットに多く使われる。 糸川先生がペンシルロケット 昭和30年に国分寺で始めて実験された。
とても優れた日本の技術の一つなんです。
ミュー3S2型ロケットの誘導制御が修士論文のテーマだった。
宇宙ステーションみたいなものも面白そうだと、ロボットアームの研究を始めて博士号を取ったのが、出発点だった。

カナダでロボットアームの研究をしていたが、宇宙研に帰って来て、ミュー5ロケット制御の研究をするのに役立った。
秋葉先生が助手を公募するからという電話がかかってきた。
ミュー5の頃はペンシルから積み上げてきた技術が成熟の領域に達してきたころだった。
固体燃料ロケットのカテゴリーでは世界最高レベルに達していた。
性能は世界一だがコストが高いという理由であっさり引退になってしまったというのがミュー5ロケットだった。
国の方針は、次のステップとして、ミュー5ロケットよりもっといいロケットを考えてみなさいと、それが生み出された暁には、そのロケットの開発について相談に乗ろうではないかというのが、国の方針だった。

我々からすると非常事態、やるべきことの方向が見えなくなってしまっていた。
自分たちの固体燃料の未来が無くなってしまうかもしれないという状況だった。
チームの一人ひとりが一体どうしたらいいかと暗中模索で、追い詰められて考えに考え抜いて、一人ひとりの頭の中に或る瞬間ひらめくものがきっとあったのではないかと思う。
私の場合は、秋葉先生(大学院時代の恩師)と研究会を開いていた。
未来のロケットとはどんなロケットなのか、考えてみようという、自由な発想の研究会だった。
先生が「ミュー5の事はもうブツブツ言うな。 自分たちで自分たちの良いロケットを作って、自分たちの未来を開け」とおっしゃってくださって、私の心に物凄く沁みて、私の頭の中が180度切り替わった瞬間だった。
秋葉先生はまさにペンシルからずーっと固体燃料ロケットの開発をリードされてきて、ミュー5も秋葉先生は先頭に最初立っていた。
私の青春はミュー5と共にあったが、ロケット打ち上げる仕組み全体というおおきな視野の中で、パソコン2台で打ちあげるロケットみたいな画期的なアイディアにつながる事になったと思う。
研究に研究を重ねて、追い詰められて考えに考え抜いて、或るレベルに達すると視界がひらける瞬間が有る。
私の場合は秋葉先生を通して聞こえてきたと思います。

私の未来のロケットとは、今の飛行機ぐらい身近なロケット、そんなロケットができたらいいなと思った。
モバイル管制、手で持って運べるぐらい小さなロケットの管制。
ロケットの打ち上げは沢山の人と、沢山の装置と長い時間をかけて行うやり方で、アポロの時代と変わらなかった。
この方式を変えていかない限り、ロケットを手軽に打ち上げる事はできない。
今までのロケットの打ち上げ方の量も質も変えてしまう革命なんですね。
今までのロケットの管制室はロケットの発射台のすぐ近くの半分地下みたいなところに在った。
モバイル管制はどこにあってもいい、インターネットにつなぎさえすればどこでも管制出来るという事です。
イプシロンの管制室は発射台から2km以上離れた所でした。

全部点検する、点検項目は2000点ぐらいある。
今までは人が、点検する為の装置を、ロケットにつなげに行っていたが、つないだ瞬間に火花でも散ろうものならロケットにその瞬間火が付いてしまうので精密な作業で、ロケットも爆発する危険もあるし、つなぎにも、計測にも時間がかかるし、点検が物凄く大変だったが、ロケットが自分でしてくれるようになったので安全になり、時間が大幅に短縮して、劇的に簡単になってしまった。
ロケットの向きを検知するセンサーが有り、ロケット自身が点検できるようになった。
今までは信頼性が最優先だった。
ロケット本体はドンドン進歩してきたが、地上のロケットを打ち上げる仕組み、装置類、人の動きの部分はアポロの時代と変わってこなかった。
絶対失敗してはいけないと考えると、人手と時間を装置を掛けてやれるのであれば、そうすればいいんじゃないの、という事だった。

絶対失敗したくないという気持ちと、新しい事に挑戦して自分たちで自分たちの未来を開こうというチャレンジ精神と我々ははざまに在る。
イプシロンの場合にはどんな困難が有っても、乗り越えて自分たちで自分たちの未来を切り開くんだという信念が有りました。
まわりからはパソコン2台で出来るのかという心配の声、一方でそんなにロケットの打ち上げを簡単にしたら、自分たちの仕事はどうしてくれるという人もいて、外からは心配され、中からは批判されて我々は非常につらい立場にあった。
批判にさらされればさらされるほど結束力は強くなった。
ミュー5ロケットの打ち上げがまだ残っているのに、ミュー-5ロケットはもう引退だと公表してしまった。
是は大変つらかった。 モチベーションはゼロにされてしまった。
全ての人の仕事が完璧でないとロケットの成功はありえないので、皆の心が一つになっている事、
ミュー5ロケットの引退の後、私のしたことは皆の気持ちを兎に角未来に向ける事だけだった。

我々が手塩にかけて作ったモバイル管制がロケットの打ち上げを停止してしまった。
心配が的中した部分もあったが、皆には是は新しいことを生みだすための生みの苦しみだ、こういうことを乗り越えない限り新しい事は出来ないぞと、ひたすら毎日言っていた。
皆の気持ちがばらばらになるのが一番怖かった。
幸せだったのは、内之浦の街が我々を家族同然に接してくれて、街の人の応援は有難いと思った。
「中止は失敗ではないから、本番では頑張れ」と色紙に書いてあり、私が毎日皆に言っていたことがそのままが書いてあって本当にうれしかった。(施設の人より)
いろいろの人の支えに助けられた。
1万5000人ぐらいの人がイプシロンの打ち上げに来てくださって、私にとっては衝撃でした。
ミュー5引退後7年後の事で、皆の苦労に値する様なフライトだったと思う。
イプシロン 名前の由来 日本の固体燃料ロケットはラムダロケットが出発点に近いが、日本の最初の人工衛星「おおすみ」という衛星を上げたロケット、以来ギリシャ文字を付けて上げるというのが習慣にっなっていた。
新しいロケットにイプシロンとした。 E (英語)   education excellence exclamtion
そういったメッセージが込められている。
野球もロケット開発も全く同じで、チームプレイ、全ての人のプレイがチームの勝利に繋がる。
発射中止になった8月27日の記者会見が終わって、イプシロンのところに行って「すまん」と謝った。
たんなる機械ではなく生きた機械、そういった感じです。
イプシロンの挑戦はまだ始まったばかりなので、行く行くはロケットが飛行中の出来事を全て自分で監視して、いろいろなことを自分でやれるようにしてやろうと思っている。
ロケットが飛んだ後もパソコン2台で出来るかもしれない。
TVの中継車ぐらいの簡単な設備でロケットの打ち上げが出来るかもしれない。

































2015年2月15日日曜日

岡本喜代子(日本助産師会・会長)  ・安全で自然なお産を増やしたい

岡本喜代子(日本助産師会・会長)  ・安全で自然なお産を増やしたい
66歳 学生時代実習で血を見て脳貧血を起こして、倒れてしまった時期もあったそうですが、27歳の時ゆめがかない念願の助産師になりました。
岡本さんは助産師として4年間活動した後、教員になり後進の育成につとめました。
46歳の時に日本助産師会の事務局長に就任しました。
当時日本看護協会が助産師の制度を廃止すべきだという見解を示し、これに対して制度を残すため、事務局長として様々な活動を行いました。
現在岡本さんは、助産師会の会長を務める一方、東京八王子市で助産院を開業し、妊婦の健康、子育ての悩みの相談に乗っています。
これまでの経験から可能な限り、自然なお産を増やしたいと考えています、
そのためにもお母さんたちを近くでサポートする助産師を更に育成していきたいと言います。

19歳の時に、血を見て倒れてしまった。
精神面をきたえるために、同志社の神学部にいった。
高校の時にキリスト教に魅かれて関心が有った。
大学紛争の時で1年間はほとんど授業は無かった。
3年間で単位を取った。
最後の実習が分娩で、赤ちゃんがとってもかわいくて、素晴らしい仕事だと思い、チャレンジしました。
助産師を目指して大阪大学医学部附属助産婦学校に行く事になる。
27歳で助産師になって、4年間大学病院で助産師として働く。
一番印象に残っているのは、東海大学では分娩部だけではなく、産婦人科も一緒だったので、他の仕事も手伝ってくれと言う事が有り、癌で亡くなられてその後のケアをして、お産も進んでおり、直後にお産が有り、亡くなられて体温が冷たくなり、その直後にお産の介助をさせてもらって、赤ちゃんの命の温かさが今でも忘れらません。
分娩が自然で経過してゆくときには無理な力が加わらないので、生まれた時に赤ちゃんは皆同じような悟りきったお地蔵さんの様な顔をしているし、神々しいような、めちゃくちゃ泣かないし、天からの授かりものと本当に実感しました。

正常な経過がたどれる人はその人に合った様なお産の進み具合で進む。
人間も大自然の一部だと実感するが、満月と新月のころに生まれやすい。
羊水と海水はほとんど同じような成分になっている。
羊水は500~600cc 子宮の中の羊水も満潮とか、月の影響を受けている。
低気圧の時には白血球のなかのリンパ球が増えて、精神的にリラックスする。
リラックスしていたほうが陣痛がスムースに来るので、台風の後の新月、満月の頃が忙しいんです。
妊娠中の生活の過ごし方によって正常になるように過ごしていただく。
体重も増えすぎるとかない様に、バランスのいい食事、睡眠も少なすぎない様に、する。
自然の経過で有れば一人一人に合わせてお産の進み具合が変わって来る。
その方が体の負担が少ない。
後の子育てを考えた時に、体力が残っている様なお産をしてもらいたいと思っている。
自然のお産は精神面も充実感があるようです。

日本の助産師の教育は外国と比べて実習が少ない。(外国は30例 日本は10例程度)
実践を充実するように口を酸っぱくして言っている。
日本助産師会を充実するために大阪府助産師会の会長だった多賀琳子先生が中心になり改革が始まる。
日本看護協会 昭和56年に保健師、助産師というような別に資格はいらないと、看護師という一本の制度の方がいいと、総会で決めてしまった。
助産師制度を残さないといけないと思っていたので、多賀先生から要請があったら、ためらわずに行きました。
日本看護協会は看護師、助産師(2万人)、保健師、准看護師等で構成。
日本助産師会はもともとは開業助産師でしたが、今は勤務助産師も増えて9500人ぐらいで、6割以上が勤務助産師となっている。

あまり実践が無いのに資格が与えられるのは、サービスの質が下がるのでお母さんたちに満足していただけるケアができにくくなるので一番反対した理由ですね。
資格を単純化したかった、さかのぼるとGHQのアメリカに助産師がいなかったことがそういうものはいらないのではないかと、保健師制度という 3年の専門学校を出て資格を一つというそういう動きがあったが、再度そういう動きが有ったのではないか。
日本は明治から戦前までドイツ医学が主流で、助産師の制度、教育をしていたが、戦後、助産師のいない看護制度をGHQは導入しようとした。
日本は明治からのいい助産の形態が残っているので、開業権などは世界に誇る制度になっています。

日本助産師会として、どうやったらいいサービスができるのか、電話相談の拠点、命の教育、性教育など頑張ってきました。
今は一緒にいろんなことをさせてもらっています。
平成19年副会長を担当する。 
間借りをしていたので自分たちの会館にしたいと思いが有って、同年、場所も新しい場所になる。
研修会、講座等をやったりして地域貢献も出来るようになった。
将来の夢は開業する事だった、おたふく助産院という名前も考えていて、助産院を開きたいとの思いが有った。
八王子に開業する事ができた。(資金は先輩、友人から無利子で貸してもらった)
何かあると全責任を負わなくてはいけなかったので、素晴らしさと同時に大変さを経験しました。
嘱託医の先生が亡くなってしまって、やっと見つかったが車で1時間ぐらいのところに在り、いまは分娩は対応しないで、産後のケア、乳母ケア中心の助産院に切り替えています。

今は助産師は3万5000人ぐらいに増えてきたが、クリニックにはまだ8000人ちょっとしかいなくて、後2~3万人は欲しいと思います。
地域で退院してからのケアは少ない。
母乳にまつわる相談が多いので、近所で相談できると、いいリズムの子育てができるので母親の負担も少なくなる。
核家族が多いので、育てることの不安があり、自分だけで悩む事が多い。
インターネットでの情報もあるが、逆に情報過多でどれを信じていいのかわからないという様な事も出てきている。
しつけという形で大きくなったら迷惑を掛けないとかあるが、両親がきっちりしつけてゆく必要があるが、その辺がちょっと弱い。
自分の気持ちをコントロールできない、子供、大人が増えてきている、其れが子供の虐待、DVにつながってきている気がしてならない。
世界助産連盟があり、各地域にもあり、アジア太平洋地区の大会が今年7月に横浜パシフィコで行います。
色々な研究発表、ワークショップ等あります。
一番の原動力は赤ちゃんから貰っています。
自然な正常産、母乳育児が当たり前、基本は母乳育児、少しでもお手伝いできるようになればいいと思っています。




















2015年2月12日木曜日

柴田知彦・いづみ(建築家)     ・「まち」を創る建築をめざして(2)

柴田知彦・いづみ(建築家)    ・「まち」を創る建築をめざして(2)
私たちが若いころの建築は、都市と言うのを大きなテーマに取り上げていた。
戦後の復興と絡んでいるし、都市化がどんどん進んで都市化が集中する。
そんな中で都市とはどうあるべきか、といったことが非常に皆さんの主要なテーマの身になって行った。
建築家が都市像を発表するが、考えだけで終わってしまって、無力化する。
都市は人の顔が見えない、街は色々な活動をする単位、なじみが有り可能性を考えた。
町(行政区画)、街(ここち良さとか、楽しさ作りでどう考えるか)が主流だったが「まち」(ソフトが入っている) 行政が単に何か作りましょうではなく、住民、子供達の声などを含めてどんなことをして行きましょうかと、言う事を生かしたものが「まち」作りという風に考えている。

知彦: 滋賀にいって、自分たちでまちを創っているぞとの思いに対し、刺激を受けた。
東京でも自分たちの活動で環境を変えられるという事を近江の地から学んだ。
いづみ: 1995年阪神淡路大震災の時に、滋賀県立大学が出来て、一都市に行った。
地方都市の良さがわかっていないことが有って、私が話すと凄く輝く目で話を聞いて下さる。
それをやってみようという事になる。 
地域で活動して、地域のことを考えて、そのあとに地球の事を考えて、最後に社会を動かす、そういう様な事になるのが「まち」作りになると思っている。
彦根花菖蒲通りには 3武将 石田三成 島左近 大谷名部 のゆるキャラがいる。
ゆるキャラが地域を大事に盛り上げていってくれて、その効果が非常に大きい。
身近かなものを大事にして、身近なできるものから活動してゆく。

知彦: 焼野原になっても、或る高い文化と高い生活水準を持っていたので、それを取り戻すことは或る意味早い。
都市が注目されて、都市を蘇えらそうと建築界は邁進するが、美しい街というとパリを連想するが、其れは間違っていると思う。
パリができたのは巨大な権力のもとに独占企業の様な、オスマンというパリ市長が大ナタを振るう。
今の中国と同じ。
日本は違う、巨大な権力で姿を一つにまとめるというのは無理、巨大な権力でというようなことは良い事ではない。
最初は大混乱、最近は綺麗になって、整え方が優れている、ばらばらだが整ったそういう美しい環境が生まれるチャンスが有る、今そっちの方向に向かって進んでいる。

いづみ: パリも進化している。 
知彦: 日本は周りが海に囲まれているので、に競争する相手がいない。
ヨーロッパは周りに競争する相手、比較する相手がそばにいる、そばにいるという事は変化に対しては物凄く大切です。
或る目標を絵にする、模型にする事は大切です。
色々な人達との協力は必要です。
いづみ: 目白の「まち」作り 行政が駅を少し移動して、駅前に空き地を作った。
住民たちが行政に提案した。 
目白駅が新しくできて、開業式を地元でやりましょうと、大学が沢山あり、イベントをやろうという事で、憩いの広場、駐輪場、樹木を植えるという事を提案して、現在そうなっている。
目白通り、歩道を広げてほしい、並木道を復活してほしいと6年ぐらい折衝して、実現する事ができた。

知彦: 車社会から歩行者を大切にする。 ヨーロッパは30年以上前から進んでいる。
目白の住宅地の幹線道路にいま取り入れたいと、行政と共同で進めている。
コミュニティー道路として、歩行者が守られた道路、生活の快適な空間として緑、沿道でも繰り広げられるようなイベントができ、歩いて楽しい「まち」をつくろうという事です。
いづみ: アクト(ACT action connect with town ) 活動がまちと繋がる。
まち作りは、自ら動く事によって立ち位置がお互いが判ってくる。
その中から出来るものをやってゆく事からスタートした。
2000年に「勝負市」(路上マーケット)を作った、今も続いている。
空家だったりするところを学生が借りて、外はそのままで中をモダンに改装して、使えるようにして行きたいと思った。
LLPという有限事業会社を立ち上げて、寺子屋が10か所あったが、地元の人が借りていたが、学生たちと一緒に耐震補強をした。

知彦: 内閣府が防災の街づくりのモデル地域を定めるときに、住宅地の代表として目白を選んでいただいて、地域の人達とが多数集まる場を定期的に持ちまして進めた事が有ります。
防犯は毎日の問題なので、防犯を切り口に、地域の新しいコミュニティーの在り方というのが一つ残って続いています。
道の名前を付けようという運動もおこなった。
いづみ: 陸前高田市で「希望の庭の小さな家」を現地の人に送った。
吉田正子さんがヒマワリの種を撒いて、塩害に対して花が咲くかどうかを調べたりした。
彼女から「庭は家が有ってのことなんですよ」と言われて、ぐさっと衝撃を受けて、家を寄付しようと決めて、2012年真夏に学生たちと先ずテラスを作り始めた。
まっさらなところに新たに家を作るのには確認申請を出す様にと言われたので、11月ごろにようやく本体を作ることができた。

知彦: 土地と建物をくらべると比べると土地に価値が有って、建物は軽視されていたが、近江の話に在るように100年から300年の町屋は今でも使われている。
長く使われて、より高い価値を求めて追加の投資がなされて長く住む、これが大事だと思います。
街の方に投資して、生活空間が豊かになって、楽しい人生を送れるような時代になるといいですね。
いづみ: これからの時代として、緑化計画一石七鳥を提案していただきたい。 ①防災 ②環境
③景観 ④ビオトープ(生物の生息域) ⑤資産価値 ⑥集客力、観光 ⑦感性豊かな子供達が育つ。
持続的社会の形成をしなければならない。


2015年2月11日水曜日

柴田知彦・いづみ(建築家)     ・「まち」を創る建築をめざして(1)

柴田知彦・いづみ(建築家)    ・「まち」を創る建築をめざして(1)
知彦さんは1946年東京生まれ 1971年早稲田大学修士課程を終了後、丹下健三都市建築設計研究所に勤務しました。
2001年からはいずみさんと共同で建築事務所を経営しています。
15年前から自分たちの住む、豊島区目白で、目白街作りクラブを立ち上げ、街作りの堤案活動や、イベントなどを主催しています。
いずみさんは東京都出身、 早稲田大学大学院修士課程を終了後、フランスに留学し、国立建築学校を卒業しました。
1996年~2013年まで滋賀県立大学の教授を務め学生たちと彦根市の市街地の活性化に取り組みました。
東日本大震災後の2012年、岩手県の陸前高田市で花畑を作り始めた地元女性の住宅跡地に学生たちと小さな家を建て寄贈しました。

建築家として40年近くになる。
知彦: 子供の頃は周りは焼け野原で、何故か家を作るのが好きだった。
穴を掘ったりして地下を作ったり、樹木の上に小屋を作るとかやっていた。
いづみ: やはり空き地に家を建てたりしていました。
知彦: 高校の時に大学を選ぶが、物理科学だけはあまり勉強しなくてもよくできて、美術も好きだったので、二つを繋げるとなにかなあと思うと建築になるので、建築を選んだ。
いづみ:私は外交官になろうと思っていたが、見えないものを形にすることが好きで、建築を目指そうと思って、文科系から変更して、1年目は不合格になり、浪人して、早稲田大学の建築を受けました。
当時は200人で女性は2人でした。 他の学部を含めて2000人居る中で女性は7人でした。
高校の時は剣道部でしたので、大学でも剣道部に入りました。

知彦:1000人の同窓会(建築科)を企画、キャンパスでやりたかった。
協力体制、分担、などは建築に通ずるものが有る。
纏めなくてはいけないので、交響楽の指揮者といった感じ。
恩師 吉阪 隆正先生、世界の近代建築の草わけでもあるし、ル・コルビュジエの弟子であると同時に冒険も好きで、視野の非常に広い先生で、「何かものを考える時には、大宇宙のことと日常の塩加減とを同時に考えたらいい」とおっしゃったことを、今も大切にしています。

いづみ: 恩師 保積信夫先生 アメリカに行って近代建築を学んで、新進気鋭で助教授の時に保積先生のもとで学びました。
人を育てるというか、そういう先生でした。

知彦:東大の丹下先生 早稲田の吉阪先生 私から見ていてある種のライバル
私にとって両極を抑えられると思った。
丹下事務所に入れてもらって、物凄く役に立ち、素晴らしい経験でした。
当時オイルショックでアラブの仕事があり、宮殿を作りましたが、模型、図面にして送るわけですが、前の晩に先生から、指摘されて、設計を作り直すことが有って、大変でした、いい思い出です。

いづみ: フランスで勉学したいという思いが有り、フランスの給付留学生としてパリに渡りました。
自分に足りなかったものを学んできてはどうかと言われて、西洋建築史(歴史)を学びました。

街作り  建築だけに眼をむいていると、ドンドン内側の世界に事が進んでゆく。
それに疑問をもっていた。
生活空間、生活環境とか、日常の生活は建物だけではなくて、全てが生活空間なわけで、それらが快適でなければ決して幸せではない。
街と関われないだろうかと今日までいたっている。
都市計画は上から広いエリアをバッサリときってゆくが、街は個々の人達の色々な要素が集まってできているので、複数の対応の世界。
建物の周囲を快適に作ってゆく、こういった視点を大切にして関わってゆく。

歩道のある住宅地、並木が有る住宅地がいい。 
都市計画的に行くと道路に歩道を付けるが、建築を作るに関しては、自分で敷地に沿って歩道空間を作る事は可能なわけです。
沿道を何がしか地域に対してプラスになると同時に、その建築に対してその価値がもどってくる。

フランスでテーマにしていた論文が、アンドレーア・パッラーディオ イタリアの後期ルネッサンスの建築家のフランスにおける影響であって、この論文を書いた人に会いたいという事でフランス大使館から言われて、コンペに参加する事になり、1等になり、フランス大使館の職員用集合住宅なんです。
歩道状空地を集合住宅の周りに作りたいと提案した。
フランス大使館の中にある木を一本もきらずに残して並木道になるようにする。
内側に塀を作って、或る一部分をフランス大使館から地域に提供するという考え。
それを実現している。
そういった考え方が日本でも受け入れられるようになってきた。
集合住宅を作る上で如何に空地を増やすか。

目白の森公園誕生の経過
徳川幕府の将軍の鷹狩り場だったので、明治以降でも樹木がそんなにあるわけではなかったが、屋敷林がところどころに在って、相続でマンションに変わるという事が起きて、樹木を全部切ってしまうという乱暴な提案がなされて、樹木を残すという運動が始まった。
マンションを建てることには反対をしないが、樹木を残してほしいと交渉した。
行政もそれに乗ったが、事業者の方がオプションとして、もし自分たちが手に入れた費用と、その後の経費を買い取っていただけるならば、提供してもいいという事になる。
屋敷林が現在地域の公園と言う事になりました。

いづみ: 滋賀県に行くきっかけ ゼロベースから4年制大学を作るという事で来てほしいと依頼があった。
建物だけでなく地域の事も考えられる、歴史、街づくりのソフト、自然再生とかも考えられる、そういう様な事を評価してくださった。
滋賀県 長い時代を経た文化があり、井伊 直政が彦根城に来て、西方面に対する防御の城だった。
井伊家はずーっと彦根に居た城主だった。
学生たちを街に引きだしたというのは、学生たちに付加価値を付けて卒業させたかった。
地方が非常に疲弊しているという時代だが、街が元気付いてくれればそれに越したことは無いので、学生たちに街に何ができるか、考えてくださいと、学生と一緒の街つくりがスタートした。
近江八幡 八幡濠を道路になってパーキングになる予定だったが、濠を再生させて、非常にいいたたずまいを持った街に残った。











2015年2月10日火曜日

柴田滋紀、礼華(にじいろクレヨン代表) ・被災地の子供の心を虹色に

柴田滋紀、礼華(NPO法人にじいろクレヨン代表)  ・被災地の子供の心を虹色に
東日本大震災から間もなく4年、被災地の仮設住宅の生活が長引き、成長期の子供達にとって心身共に心配な面が出て来ています。
宮城県石巻市にあるNPO法人にじいろクレヨンは、子供達が受けた心の傷や仮設住宅でのストレスのケアーを目的に設立されました。
活動の内容は子供達が屋外で安心して遊べる遊び場作りなどを行っています。
代表の柴田さんは若手画家として地元で実績を積んできましたが、震災直後奥さんと共にNPOを立ち上げました。

私たちが仮設住宅に住んで4年近くになる。
最初慣れなかったが、段々慣れてくると、江戸時代の長屋の様な感じで付き合う様になった。
子供が物音を気にせず思い切り遊べる場所を提供しようと、にじいろクレヨンの事業をはじめた。
普段抱えたストレスを発散してほしいと思っています。
2011年3月11日 海の近くにいて地震が有り、北上川の水が引いて行ったので、津波が来ると思い自宅に逃げて行った。
母と姉とで非難してもらって、私は消防団に所属していたので、避難誘導を街の方々にお伝えしていた。
救出活動をしていた。
夜になり、火災も大きくなり、瓦礫の向こう側に人がいる事は解っていても、それ以上の救助はできなかった。
私の自宅も津波で流されてしまったが、それが判ったのが3日後だった。
家族が全員無事だった。

2日目の朝、家族と合流する事が出来て、そのまま避難所に入ることになった。
妻は山口県の実家にいた。
東北が大変なことになっていると、知り合いから言われて、電話はつながらない状態だった。
夫の友人から家族は無事だったことをメールで知ることができた。
石巻に入れるルートを探して新潟経由で石巻に入ることができ、会えてほっとした。
3月22日の石巻避難クラブを立ち上げた。
石巻高校避難所に1600人が避難していた。
津波から命からがら逃げてきた人が身を寄せあっていた。
子供が100人以上いたが、子供達に眼をむけている人がいなかった。
私たちの隣りにいたのが、お祖父さんと小学校2年生、中学生がいたが、すごく我慢していた様子がうかがえた。
その光景を見て、自分が何ができるだろうかと、考えた。

自分は助かった命を何に使ったらいいと考えた時に、子供達のためにだったら何かできるのではないかと思って、立ち上げたというのがきっかけです。
私(妻)の友人でNPOをやっている人に相談したりして、アイデアを出し合った。
祖父が始めた剣道の道場が有り、父が継いで、私も指導をやっていた。
子供の健全育成という理念のもとにやっていたので、その経験が有ったからだと思う。
子供達の声にならない悲鳴を感じ取った。
自分が出来るのは遊ばせるとか、寄り添うとか、そういったことはできると思っていた。
大人も疲れ果ててずーっと横になっている人が多かった。
普段子供はゲームとかをやって遊んでいたのが電気が無くて、そういった遊びはできなかった。

「にじいろクレヨン」というネーミングは妻が考えた。
夢のある、判りやすくて、色のある名前にしたかった。
子供たちも直ぐに覚えてくれた。
活動は、
①メインは仮設住宅の集会場をお借りして子供の居場所作りを続けています。
ミニ卓球台、けん玉、トランプ、簡易ピアノなど。
②プレイパーク事業 屋外で既存の公園を借りて、伸び伸び遊べる場を作っています。
③コミュニティー作り事業 子供達を見守る大人達を増やしていきたい。
昔の遊びを教えてもらったりして、子供を軸としたコミュニティー、子供達のより良い環境作りを地域の方に参加して頂いてやって行こうという事業
④護国館事業(お絵かき教室の名前 私の剣道の道場が護国館剣道場だったので)
専門を生かした事業 子供達の個性を引き出す。
スタッフ 女性が多い。 男性は私だけで、後は全部女性がやっている。

遊び場に出てこない子供は心配です。
こもってしまっている子にはなかなかアプローチは出来ないのが現状です。
震災直後、最初暴力的だったり、発言も投げやりだったりした、それで傷ついてしまったボランティアの人もいた。
段々子供も生活環境が整ってきて、安定してきたが、石巻の取り巻く環境は変わり続けているので、引っ越しも多くて、学校が変わる、友達が変わる事が日常茶飯事なので、不安定になっている子供はちらほら見られるので、まだまだ必要だと思っている。
関わってきて、繋がりのある子供は安定してきている。

だいぶ認知もしていただいて来て、ボランティアに参加してくださる人もいる。
避難所、仮設住宅でも、子供の声は知っている子供の声 親御さんとの声は、にぎやかでいいなという事になるが、知らない子供の声はうるさいし、恐怖だったりするので、震災での避難所では知らない子供同士が集まるので、子供と大人をつないだり、子供の環境を周りの人に判ってもらう様にするのが、私たちにできる事ではないかと思います。
大人と子供の横のつながりが必要になってくる。
私たちは1週間に一遍なので、生活の場に住んでいる大人が、見守ってくれるというのが子供達にとってはベストな環境だと思うので、そこにいる人たちがどれだけ子供達を見てくれるか、では無いかと思う。

今後、
訪問型だったが、これからは拠点を設け、居る場所が有ってそこに子供達に来てもらうという様な事を考えています。
①児童館  民間で運営していこうと思っている。
②地域子供子育て支援拠点 0~2歳までの子供さんと親御さんが交流できる場を提供しようと思っている。
行政、地域の社長、ボランティアの人、他の支援団体とのつながりの中でやって行こうと思っている。






















2015年2月6日金曜日

野本三吉(元学長、作家)       ・生きる事の意味を問い続けて(2)

野本三吉(元沖縄大学学長、作家)            ・生きる事の意味を問い続けて(2)
ソーシャルワーカーを10年行う。
40代の後半、腰痛に襲われる。  
食べ物、絵本、おもちゃなどを持って、何時も両肩に一杯での家庭訪問などが多かった。
腰に負担がかかり、腰痛になり最後には腰が曲がったまま伸びなくなってしまって、医者に行ったが、手術は危険なので出来なく、仕事はできなくなり、腰に負担の掛からない仕事を考えていた。
和光大学に非常勤講師として行った事が有るが非常に楽しくて、若い人と一緒にやるのが面白かった。
横浜市立大学に応募してみないかと言われて、応募したら、面接に来てほしいといわれて、どういう大学にしたいのかと問われて、横浜市全体が大学に、と言う風に考えたいと答えた。
どこへ行っても授業ができるようにしたい、面白いとの反応で、教授会で決定したと電話があった。吃驚仰天した。(49歳)

社会福祉論という科目  子供、障害、老人、精神的な事など様々な問題含めて全部やるのであらゆる分野の事を猛勉強しました。
不登校の相談会等も出来て、市民の方と非常に親しくなった。
学生にもボランティアで参加してもらって、学生たちの成長も凄かったです。
大学の周辺が大学化して行った。
地域の中でと言うと、どこかに拠点が必要で、昔はお寺だったり、町内会の会館だったりするが、学校というのも面白いところで、大学を拠点にして、地域全体が学びも出来るし、協力も出来て地域の活性化ができて、大学が有るという事はその地域にとって、メリットが大きいと感じました。
横浜市立大学の時は本当に面白かった。
学生の前で話すという事は、一回整理するので、準備して語ると、、学生たちの反応が有り、感想を書いてくれたり、話に来るので、これは抜けていたとか、そうだと気付く事を言ってくれたりする。
もし学生が関心が有ると、応援に行きたいとか、学びに行きたいとか、手伝いに行きたいとか始まる。
大学の中だけで学ぶのではなく、地域の方たちと一緒になって学ぶというのはある意味原型ができてきたと思います。

社会臨床論、社会臨床学会を立ち上げる。
心理臨床学会が有る。 臨床とはベットの横に寄り添って、直接触れ合う事で治療してゆく。
社会的背景、全体を含めて幅を広げなくてはいけないのではないかと、新しく、違うネーミングが必要だと思い、社会臨床という事でたちあがった。
相談を受けている人も自分自身の生活体験も含めて、どんなものの考え方も検証されてしまう。
相談をする方たちがどういう環境の中で暮らしているか、一緒に拘わりながらやってゆく、そういう体験報告が次々に出てきて、聞きながら、これだなと、社会臨床というのは新しい学問になるなあと思った、ソーシャルワークと似ている。

第二回社会臨床学会を横浜市立大学で行う。 600人近く集まる。
これからどういう社会を創っていけばいいのか、そのためには人間関係をどう変わればいいのか。
人間関係を変える事によって社会も変わる。
横浜社会臨床研究会を作って、地域の人達も集まって大学で勉強会を始めて、数年間行った。
現場の中で、自分の体験を話すが、うまくいかなかった経験を話してもらって、そこに行ってみようという事になり、一緒に調べてみると、いろんな人が丁寧に見ると、一人では見えなかったものが、一杯見えてくる。
社会臨床は一人だけで物事を分析するものではない、いろんな人の視点で見てゆくと、今まで気付けなかったことが一杯見えてくる、そういう発見が毎回有り物凄く勉強になった。
地域と言うのも一つの臨床対象だと気付く。

地域が何か動きだしたり、停滞したりするのは、その地域の中に情報がどのように入ってきてどこが出さないか、が凄く大事で、地域と言うものが一つの生き物で、判断する場所、手足になる様な所、活動する場所が見えてくる。
地域が一つの生き物として見るという様になり、変わり得る、どこを応援したら全体が動き出すのか段々見えてきてとっても勉強になった。
女性が元気なところは大体よくなってゆく。
男性だけが元気のところは駄目になってしまう。
女性が元気なところは子供達が明るくなってくる。
子供達が明るく元気、女性が元気なところは、そこのコミュニティーは発展する。

女性は命を産み育てる存在なので、基本的に優しい、お年寄り、障害を持っている人に非常に目配りが利くし、苦しんでいる人には手を差し伸べる、そういう人たちが軸にいる。
男性は頭で、理論で考えるので、これで行こうという時になると、歪が見えなくなってしまう。
子供達を軸に地域社会を変えるということが、大事だと段々思い始めている。
谷川 俊太郎さんを呼んで若者フォーラムをしたときに、或る青年が、今の社会の中で自分は生きにくかったという事で、自分が「ノー」と言えなかったという事で、谷川さんの「いや」という詩をそこで朗読した。
子供達が嫌だとか、変だと言った時に、世の中こうなんだから従いなさい、駄目と押さえてしまうが、一回ちゃんと受けとめるという社会、そうすると当たり前だったと思っていたことを、これでいいのかと考える。
子供達が言える様な社会、これが社会を固定化させないで、もっと生きやすい、幸せになりたいという思いをひろげてゆく社会になるんじゃないかと思います。
子供達に学ぶことが物凄く多い、子供達のつぶやきとかが、本質的な問題を含んでいる事がとてもある。

60歳で沖縄大学に。 (2002年)
2001年9月11日 世界貿易センターに飛行機が突撃する、それを見たときに全身が震えた。
世界貿易センタービルがバベルの塔の様に見えた。
何時の間にか、人間が地球の中で支配者になって、好きなように地球を使っていて、そこが打ち壊されてゆく。
社会の貧困の中で、虐げられた人の辛さ、怒り、恨みが有ったとすると、人間はもう一度原点に戻って生き直さなければいけないのではないかと、自分もいつの間にか、そういう意味で言うといろんな人たちから恩恵を受けているのに、それに無自覚になっていると、もう一回原点に戻りたいと、自然との共存となると、どうしても沖縄に眼が行く。
沖縄に行きたいと思っていたら、沖縄大学で児童福祉論を授業をやる先生を探しているという事で、50歳未満という事だったが、無理と思っていたが応募した。

面接をして受け入れて頂いた、
沖縄大学は沖縄の歴史と共に変化してきた大学で、理念は「地域に根差し、地域に学び、地域と共に生きる開かれた大学」、これは私にぴったりだった。
当時学長は新崎盛暉先生(沖縄現代史の専門家) 宇井 純先生は「公害原論」をやった先生。  
こういう方と一緒に学べることは嬉しかった。
沖縄そのものが負の原点を持っているので、平和、戦争をしないと言うものを原点に在るので、大学の教育をしているのでいいなあとおもった。
児童福祉論を教えることになる。
施設に学生が行って、レポートしてもらったが、沖縄の現実が非常に厳しいことが判った。
経済状況が非常に貧しい。
子供達の実態を調べようと、学生たちと沖縄の子供研究会を作って、大学でやっているだけでは無理だと判り、現場の先生方と一緒にやろうとした。

「今、沖縄の子供達は」というシンポジウムをやった。
この一回だけで止めないでほしいとの声が有って、ネットワークを作って、お互いの情報連絡を始めた。
子供研究会を作って、毎月大学で勉強会を開いた。
最初は個別だが、それが集まってくると、こういう風になればいいんじゃないかという事になり、行政を巻き込んだ形の流れが見えてきて、最後は時代を変えてゆくために、法律を作り替えたり、新しい制度を作るとか、そういうところまで動き始めると、行政の皆さんたちを含めた勉強会や、本音で話し合う、先生方とも本音で話せる様な場が作れれば良いなあと思います。
先生方も規定が有るものだからはみ出せなくて、皆悩んで苦しんでいる。
教育のソーシャルワーカーみたいなものが本気に始まってくると、学校が変わって、日本は一気に変わって素晴らしい国になると思っている。

満潮 最初砂地だったところが、そのうち砂の中から、数か所水が湧いてきて、水たまりが段々くっついてきて、それが途中からが早くて瞬く間に繋がって海になってしまう。
満潮とはこういうことだと言われたが、私の中で時代が変わるという事はこういうことだと思った。
一つ一つが何とかこういう風にしたいと取り組んでいるが、一緒にやろうと繋がる、日本中のあちこちで起こってることが、ドンドン動き始めて気付いた時に時代が変わる。
どんな小さなことでも諦めずにやり続けて、同じ様に考えているひとが、手を取り合ってゆくという、これでいいんだという事を沖縄で教えてもらった事は大きい。

沖縄では住んで12年になる。
沖縄は自分たちが地域を創っていくんだという形で動き始めたと思う、変わってゆくと思う。
春には横浜に戻って、自分のスタイルでやって行きたいと思っている。
社会評論社からいままでの事を纏めてみないかと言われて、「生きる事、それが僕の仕事」というタイトルの本を出させてもらった。
何を自分の中の基準にして生きようかと思った時に、命というものが一番軸に来る、沖縄戦では沖縄では4人に一人が亡くなるという状況の中で、生き残った方が 「命こそ宝」という言い方をした。
命 (三つの要素)
①命には全く同じものは一つもない。 皆かけがえのない存在。
②命はちゃんと自らのうちに自らが育ちたいという力とエネルギーを持っている。 
③命は他者との関わりの中で、豊かになる。
何かあった時に、命にこれでいいのかとか、どうしたらいいかと 命に聞こうと、命が喜ぶことをしようと思う。
もし命が拒絶したら、私は断固としてそれは拒否します。
生きるという事そのことが私にとっては仕事です。

親しい人のお見舞いに行った時に命を大事にしなさいよといった、との事ですが?
元気だった人が不自由になると、とても辛くて、やれないと思った時に早く死にたいとか思う様になると思うが、奥さんが「食事を食べて」と言ってもどうせ死ぬんだから食べたくないとか、「歩いて」と言っても嫌だとうかがったが、「食べることが貴方の仕事ではないか」と言ったことが有る。
食べることが仕事だなんて、誰も思わないかもしれないが、生きることが仕事だという風に言うと
食べる事自体は今が仕事なんです。 一歩、歩く事が仕事なんです。
その人がいま出来る事を、精一杯命が望んでいることをやる事自体が、その人にとっての仕事、その人自身が生きようとすること自体が仕事だと思ってます。

私は、人間て、一番何がしたいかというと、他の人の喜びや、助けられる事をやれる、何か喜んでくれる事をしてあげることが、多分一番嬉しいんだと思います。
身体を壊した人が、自分が治ろうとすること自体が仕事なので、仕事という概念をもっと広く持って生きられたらいいなあと思っている。
命に聞きながら、命が喜べることを一つづつ、やって行きたいと思っている。






















2015年2月5日木曜日

野本三吉(元学長、作家)       ・生きる事の意味を問い続けて(1)

野本三吉(元沖縄大学学長、作家)            ・生きる事の意味を問い続けて(1)
1941年昭和16年 東京生まれ 本名 加藤彰彦 大学で教壇に立つとき、執筆をする時は野本三吉を名乗る。
横浜の寿町に暮らす子供達の実態を書いた作品で第一回日本ノンフィクション賞を受賞しました。
横浜国立大学を卒業後、横浜市内の小学校の先生になり、充実した学校生活を送っていましたが、通信簿を付けることに悩んだ末に退職、以後生きる理想の地を求めて、日本各地の共同体を訪ね歩きました。
東京の山谷や横浜の寿町に辿り着き、生活相談員としてそこに住む人や子供達と共に暮らしました。
この体験をもとに社会臨床論という学会を立ち上げまして、横浜市立大学や沖縄大学で教壇に立ち児童福祉や社会福祉活動に取り組みました。
昨年沖縄大学学長を退任されました。

最終講義 「私はどんな職業に就くかというよりも、いかに生きるかという事が私のすべてでした」、と最後にお話しになっていますが。
様々な職業を経ながら、自分に一番ふさわしいものを探したりするのですが、その中で後ろ側に流れているのは、自分がどう生きたいか、何をしたいかということが背景に有ってたまたまこの仕事をするという事になると思う、そういうことをその時にしたと思う。
どう生きるか 一つ一つの経験の中で自分の中に触発されるものが有って、こういう生き方をしたいと思って、次に又ぶつかった時にそれを越えるような感動があって、次の自分の生き方が見えてくるとか、感じられると、修正されてゆく。
繰り返しやりながら自分らしい生き方が見つかってくるというか、そういう感じになってくる。
変化をしてゆくと思う。

最初の大きな出来事 3歳になった時 1945年 3月10日東京大空襲  妹は10か月だった。
防空壕に逃げ込むが、妹が防空壕で亡くなる。
その時は大きな衝撃ではなかったが、歳を追うごとにはっきりとした自分の原体験になってくる、という事が有る。
両親はつらい思いで、3月10日になると小さな位牌の前で、短くても30分肩を震わせて泣きながら「お母さんが悪かったと、助けてあげられなくてごめんね」 と泣いている。
その姿を毎年毎年見てきたので、子供が理不尽に亡くなる事は辛いことだと、戦争だけでもなく災害でも起こるが、フラッシュバックの様に浮かんでくる。
子供達をそういう目に合わせてはいけないと、生き残った私 兄として、子供達が安心して生きられる時代を作りたいと、私の原点になり、歳を追うごとに、真剣に考えないといけないと思った。

横浜国立大学に入学して、柔道部に入った。(高校時代からやっていた)
教えていて大きな人に大外刈りを掛けてもらって、うまくいかなくて力一杯やってもらったら、一緒に倒れ込んでしまって、巨体が覆いかぶさって後頭部をがくっと打ってしまった。
一旦立ち上がったが、身体が硬直して後ろに倒れてしまった。
救急車に乗せられて病院に行って、親や友人に医者が脳内出血の疑いが非常に濃厚で今晩が峠でしょう、一応覚悟なさって下さいという声が聞こえた。
私には聞こえてないと思ったらしいが、聞こえていた。
もう涙がぼろぼろこぼれて、もし生きかえるんだったら、本当に生きようと、生きたいなあと思うが死ぬんだと、せめぎあいだった。
注射されたが、奇跡的に一昼夜して意識が戻って、一か月入院してよみがえった。

生きること、死ぬ事が頭から離れなくなった。
生きているという事は、或ることができてないと生きられない、空気を吸う事、食べる事、飲む事が出来ている。
自力で便ができたりすると生きているという感じがした。(吸収と排泄ができると人間は生きていると感じる))
吸収・・・経験する事、体験したことが食べたと同じように血肉化する。
排泄・・・表現だという気がしてきた。
辛い事、悲しい事が有ると涙が出てきたり悲しんだりする。
嬉しいことが有ると笑ったり、歌ったりする。
表現出来る事、体験できる事、 と普遍化する。

母はがんで亡くなるが、辛さを友人に話そうかと思って話をして、気が付くと友人が眼がうるんで聞いていてくれる。
彼にも同じような体験が有ったのではないかと思った。
表現が向こうにも入ってきて、循環する。 相手の事も思って話す様になっていた。
生きているという事を話している中で相手と自分の中で交流している。
この交流している事自体が生きることだと気が付いた。 
関係が生きることで、関係が成立していないと、遮断されて生きる気力が無くなってゆく。
老人ホームなどで誰も来ないお年寄りは、早く迎えが来ないかなあとおっしゃる。
関係が生きている事の実態で、生き生きした関係が作れるかどうか、生きることの一番の大事なことで、これが抜けると、生きる現実の世界が成立しない。
関係が生きている事の本質なんだという事をその後の体験を経ながらドンドン膨らんできたというのが生きることについての体験です。

父は教えることが好きだったが技術者になって、結核で入院中に私に出来たら小学校の先生になってくれたらと言って、父の思いを遂げたいと教師の道に進むことになる。
先生を5年で辞めることになる。
本当に楽しかった、授業も楽しかったが、一緒に遊んだり、家に子供達を呼んだりしていたが、
一番の問題は通信簿、相対評価で 数人 「1」を付けなくてはいけない。
体育 鉄棒の逆上がりができない子がいるが、できる子の友達が応援して、1週間ぐらいすると逆立ちができるようになる。
握手をするとその子は血豆が出来て、破けて、絆創膏を張って凄まじい手だった。
握った瞬間に涙が止まらなくなって、その子を抱きしめてしまった。
跳び箱、その他同じで、一番遅くなってできた子は、1になるか2になるか、私はどうしても付けられなくなってしまった。
校長と掛け合ったが、国の決まりだという事で付けざるを得ず妥協した。
通信簿を2通作った、1通は普通のもの、もう1通は文章で私の思いを書いて2通を渡した。

子供達が或るとき、私たちも生生に通信簿を付けていいかと言って、全員が作って持ってきた。
その時、教師は教える存在で、成績も付ける存在、しかし子供たちも先生を評価し、注意したり誉めたりできる存在だと、さっきの関係論ですが、関係を固定してしまう。
関係を固定するものを権力と思えて、子供からも学べるんだというと、子供からも評価されるんだと、ここに居座ってはいけないなあと、一人の人間として、離れて、子供達と拘わりたいと思った。
そして先生を辞めることにする。

地域の皆さんが子供達をこういう子供達にしてほしいという想いを受けて教えるものだと思ったので、地域の共同体がちゃんと成立していないといけないと思った。
北海道の牧場が共同体を作っていて、そこにいって学ぼうと思って、そこに行った。
日本には共同体が沢山あって共同体巡りをした。 
北海道を皮切りに回って歩いて、気付いた事だが、自分が住んでいるところが問題点もあるし辛いところもあるし、そこで問題を解決したり、状況を変えていかないと、理想がどこかに在るのではないかと思うのは違うなあと、放浪した結果そう思った。

横浜の寿町に住むようになる。
まず山谷で「どや」で暮らすが、(やどの隠語 人間が住む様なところではない 東京は山谷、大坂は釜が崎、横浜は寿町 3大ドヤ街)
いろんな人たちと出会う事になる。
非常に切実に響いてくる、皆必死に生きようと思うがなかなか仕事が見つからない。
私が熱を出したりすると、仕事を早く切り上げてきて、バナナを買ってきてくれたり氷を買ってきてくれて一生懸命看病してくれる。
本当にありがたくて、人間の関係という事で言うと掛け値なしに兄弟みたいになってしまう。
社会からは偏見でみられたりしているという、この人たちの中に本当の人間性が有るという気がした。
城北福祉センターが中心で夜になると閉まってしまうので、夜も開けるように、誰か職員になればいいなと言う事で、横浜の寿町で募集をしている事が判り、試験を受けて横浜市の職員になる。

都市の中で共同体が作れないかと思った。
寿町で暮らしている人が、自分の思いを出し合って、一つにまとめた時に暮らしやすい地域に変わらないだろうかという夢が有って、当時市長が飛鳥田一雄さんがやっており、子供を大事にする、皆で話し合って町のことを考えてゆく横浜にしたいと言う夢を持っていたので、私も一緒にやりたいと横浜のどや街に行きました。
寿生活館の生活相談員になる。
判った事は、話したいことが皆いっぱいあるが、話す場所が無い、受け止める人がいない。
「言ベンに舌」で話す、持っているものを話す、さらけ出す、そうすると解放される。
辛い事、悲しい事を受け取った人がいると半減する。
嬉しいことが有った時に一緒に喜ぶと2倍、3倍になる。
話を聞く事が大事で、聞いた事の中に皆夢が有って、病気の時に医者にただで掛かれるといいなと言う事で、署名を集めて要望したら、飛鳥田さんはOKしてくれて、女医が来てくれて、皆が母親、妹の様に思い、先生を大事にしてくれた。(無料の病院が街の中に出来てくる)
夜間銀行、寿夜間学校(文字の書けない人もいた)、俳句会、そういうものがいっぱい出てきた。
寿住民懇談会も出来る。

食料問題、横浜中華街の残飯をご馳走になっていた。
そのころ給料を街の人に渡して一緒に暮らしていたが、給料の5日前になるとお金がなくなり、中華街に行くと、食べ残しを綺麗にして集め、バケツ一杯貰ってきて、皆で分けあいながら食べたが、とっても美味しくて、5日間を暮らした。
貧乏と貧困は違って、貧乏でも人間関係さえちゃんとあれば不幸にならない。
支え合いを軸にした生き方をしていた。
当時はまだ、結婚はしていなかった。
若者たちが、路上で生活をしている人を殺してしまう殺傷事件が起きる。
若者が不満を抱いていて、どこにもぶつけるところが無くて、その人たちに自分たちの不満をぶつけるという事で、そういう事件が有った。
その事件をきっかけに児童相談所に務める事になる。
社会の現実をちゃんと知ってほしいと思ったことと、学校の中、社会で排除された子供達、行き場のない子供達がいるという事で子供達ときちっと拘わりたいと思って、児童相談所に移る事になる。(ソーシャルワーカー)
社会を住みやすい社会に変えてゆく、それがソーシャルワーカーだと言う風に自分の中では意識付けられた。
孤立している方達をもう一回関係を取り戻して行く仕事、一気にはいかないが、ソーシャルワーカーとしてその人と人間関係を取り戻してゆく、生き直すという事になる。
ソーシャルワーカーとして生きようと本気で思った。

















2015年2月4日水曜日

丸山 博(松戸クリニック院長)    ・子どもたちの命を救ったサマーキャンプ

丸山 博(松戸クリニック院長)      ・子どもたちの命を救ったサマーキャンプ
昭和38年小児糖尿病の子供達を集めて日本で初めてサマーキャンプを千葉県の勝浦で行いました。
それまで医師でなければ打て無いと言われたインスリンの注射をキャンプで学ぶことで家族や本人でも打てるようにしようと、周囲の反対を押し切って始めたものです。
それから50年キャンプに参加し、。命を救われた子供の多くは社会人と成って第一線で活躍されています。
子供達の命を救ったサマーキャンプ、今年83歳になられ、今も患者さんに毎日向き合っている丸山さんにお話を伺います。

昭和32年に小児科医になる。 小児科医を57年になる。
東京大学付属病院小児科で勤務する。
糖尿病の子供達を見ていた。
2型糖尿病 遺伝的な糖尿病。 1型は交通事故の様に突然に来る。
次第に痩せてゆく、小水の量が増えてゆく、食べても食べてもお腹がすく。
年間 1/100000人ぐらいの確率 
1型糖尿病 昭和26年インスリンで一命を取り止める。(父親が有名な詩人)
家に帰しても後の手当てが出来てないので、間もなく救急車で戻されてきて、繰り返して3回目に私が持たされたというのが糖尿病との初対面でした。
よくよく考えて糖尿病外来を始めた。
家で使えるようにインスリンを供給したり、こっそりと薬局に取ってもらって、実費を頂いて行う。
本当はそのような事はいけないと思われていたが、多くの人が助かった。

法を厳密に解釈すれば、自分の自己存在に必要な事は何でもできる訳ですけれども。
自分で注射したり家族が注射するのは違法だと思われていた時代だった。
しかし一番抵抗が有ったのは医者の考えだった。。
アメリカの糖尿病協会から指導医が来て、回診の時に一緒に回って、サマーキャンプはやっているかと問われて、やって無いというと是非やりなさいといわれた。
第一回 サマーキャンプは千葉県の勝浦で行う。
自分で注射ができるようにすること、小水を検査するやり方、糖尿病食、きちんとした食事を食べられる様にすること。 注射器等の消毒のやり方、等を教える。
8人参加。 当時小児糖尿病は少なかった。

自分で注射をすることによって、病気を自覚をして、治療する。
最初サマーキャンプは5~6日だった。 体力を維持するために鋸山に登ることも行った。
スタッフ 医局の人、検査技師等に声をかけて連れて行こうとして計画を立て、教授のもとにいったら駄目だと言われたが、やってしまった。
おととし第50回を迎えた。
8人からドンドン増えて、一番多かったのは120~130人参加する。
スタッフは2回目からは看護師、栄養士などが参加するようになる。

蕾の会 50周年を記念する本
色々な思い出話が記載されている。
キャンプの卒業生で医師、看護師、栄養士、認証検査技師になったり皆さん頑張っています。
小学生から高校生が対象になっている。
蕾の会  48ヵ所になる。 全部纏めて統合しているのが日本糖尿病協会です。
ガリクソン賞 読売ジャイアンツ、ガリクソンは小児糖尿病だった。 彼の月給の一部を子供の糖尿病で活躍している人に賞を上げようという事で賞をつくってくれました。
福島県伊達町にトレーニングセンターを作る。 (昭和56年  30回ぐらいやっている。)
3・11があり現在は放射線に対する父兄からの不安が有り、未だ使えない状態です。
御殿場で現在やっている。

眼の前の問題を解いてゆくのが仕事だと思って、それなりに人生を生きてきました。
妻も医師、家内の協力なしには、こんなことはできませんから。
てんかん 大半のてんかんは投薬治療でほとんど発作が起こらなくなった。
引きこもりも増えている。  
社会の変化、コミュニティー 子供を取り巻く環境が変わってきてしまっている。
子供自身も昔の強さが無くなってきている。
いろいろな体験が少ない。
ひきこもりは色々なケースが有るので、対応も様々です。
83歳でしんどいけど、楽しいです。(朝8時~午後8時過ぎまで)
心温まるようなニュースが一杯あればいいなと思っています。






2015年2月3日火曜日

保阪正康(作家・評論家)      ・昭和史を味わう 第2回大正15年と昭和元年(H26.5.4放送)

保阪正康(作家・評論家)       ・昭和史を味わう 第2回大正15年と昭和元年(H26.5.4放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2014/05/2.htmlをご覧ください。

2015年2月2日月曜日

保阪正康(作家・評論家)      ・昭和史を味わう 第1回なぜ今昭和史なのか(H26.4.6放送)

保阪正康(作家・評論家)          ・昭和史を味わう 第1回なぜ今昭和史なのか(H26.4.6放送) 
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2014/04/blog-post_6.htmlをご覧ください。

2015年2月1日日曜日

保阪正康(作家・評論家)      ・昭和史を味わう  第12回 戦前の日本と中国との関係

保阪正康(作家・評論家)           ・昭和史を味わう 第12回  戦前の日本と中国との関係
昭和天皇は満州事変に可なり苛立っていた。 怒っていた。
決して軍事を拡大してはいけないと、気持ちを持ってたのにもかかわらず、軍部の方が段々拡大して行った。
現天皇は年頭の挨拶で、昭和天皇の志を無視したのではないかと、それが戦争になって行ったんではないかと、父と子の立場からおしゃったんじゃないかと私は思います。
中国の辛亥革命
1911年 明治44年10月 に起こるが、1895年ごろから延べ11回孫文は革命を起こすが、11回目でやっと成功する。
名もなき日本人が多く協力している。  500人ぐらいはいたとされる。

恵州での蜂起 山田良政が最初に犠牲者となり亡くなった。 青森出身で通訳だった。
孫文の考えに惚れて、日本人として支援する。
孫文のメッセージを恵州の軍に持って行き、清朝政府に捕まるが、日本人なら許すといわれてたが、私は日本人ではないと言って処刑される。
孫文は墓碑を建てているが、恩人の一人に数えている。
宮崎 滔天寅蔵) 宮崎民蔵  の兄弟も支援する。
(宮崎 滔天の長男の龍介は、滔天最晩年の大正10年(1921年)に、白蓮事件で世を騒がせた。)
梅屋庄吉 は財政面で大変支援をした。
孫文は日本人支援で辛亥革命が成就した事は、随分恩義を感じているが、同時に日本がどうして自分たちと一緒にアジアの開放を目指さなかったのかと、晩年の怒りになってゆく。

孫文の三民主義について語る演説 (1924年5月)
「我が国は何千年もの歴史を持ち素晴らしい文明を作ってきましたが、近代になると列強が展開して争う様になり、我が中国は貧しく弱小な国になってしまいました。
このような状況を変えるためには、先ず一人一人の人民が国のことを知り、強くならなければなりません。
ここでわたしは三民主義を提案します。 民権、民族、民政の事です。
この三民の旗を掲げ、志を持って国を強くしようではありませんか」
孫文がロンドンで亡命状態の時に図書館で考えた理論。
そこで日本人の南方 熊楠と知り合い友達になる。

内山完造 上海で本屋さんをしていた。
中国の文献を日本に紹介、日本の本を中国に紹介して、文化の交流を行った。
中江兆民の息子で中江 丑吉 北京に住んで、満鉄に通いながら、論文をずーっと書いている。
中国の生活をよく見ていて、学問は中国を知らなければだめだと、北京でずーっと中国の古典を勉強していた。
近代になって、西洋化という事ですが、西洋文化、どう科学技術を受け入れるか、という時に日本は直ぐに小回りが利いて受け入れるが、中国は直ぐいろんなものを吸収して動く事は出来ない。
中国は遅れた処が、西洋からターゲットにされたり、植民地にされたり、日本も結局西洋の後をついていったふしが有り、この事を孫文は怒ったわけですけど。

日本は狭いところに8000万の人口を抱えて、どう言う風に生きていくかと、言う時に生存する権利、日本にも広げる権利が有るというのが、日本のなかに考え方としてあった。
日露戦争で満州を点として確保するが、面として確保するのが、昭和の満州事変以後の歴史ですが、生存権の確保は言って見れば当時の帝国主義的な考えがあったと言うことにもなる。
中国は広大な土地を持ってるので、その土地を日本の権益を築きたいと思ったのが、昭和の歴史だと思います。
昭和6年9月18日 満州事変が起きる。
満蒙は日本の生命線 生存権の確保というのが、海外侵略の骨格にもつながった。
昭和12年7月7日 盧溝橋事件
日本の中に中国に対する軍事力、中国の政治が一本化していない。
中国に入りこんで、中国の分裂を促進する形で日本の権益を広げてゆくという形になった。

中国とは戦争するのには反対する考えの軍人もいた。
日本の仮想敵国はソ連だから、中国と戦争する事によって軍備が割かれてしまう。
中国と戦争すると持久戦争になるので、日本は体力が無いという考え。
中国は国力が弱いから一撃で倒せると、支配下におけるという 、2つの考え方が軍の中に在った。  
後者の方の考え方が強くなってゆく。

広田首相の演説は日本の考え方でやりたいという宣言、日本の軍が中心になって東亜を制圧する、支配下に置くという事で、それで東亜の安定が有るという考え。
昭和12年12月17日 南京事変 入城
昭和13年1月16日 「国民政府(蒋介石政府と交渉せず)を相手とせず」 という近衛内閣の声明がでる。
後に近衛首相は、この声明が私の政治的な一番のおおきな失敗だったと言っている。
日中戦争を始めてみると、一撃論で始まったが、一撃どころではなかった、国民党と共産党が一緒になって国共合作して日本と戦う事になる。
国民党は滅共抗日というスローガンだったが、共産党は今は抗日だという事で西安事件が起きて蒋介石が妥協して、抗日と言う事に一本化する。
アメリカ、イギリス等が軍事、人員、医薬品などを支援するので、一撃でというわけにはいかず、泥沼化してゆく。

山田純三郎は孫文の秘書をやっていたが、満州事変以降の日本はやり過ぎてはいけないんじゃないかといっていた。
斎藤隆夫の様な国会で堂々と意見を言う人はいたんですね。
昭和15年2月2日 帝国議会の反軍演説 
「軍が聖戦と言っているが、 聖戦の偽名の元に国民生活を圧迫しているじゃないか、国際正義だ、道義外交だと言葉は綺麗な言葉を並べるけれども、実際はそうではないではないか、この戦争は本当に軍の言う意味の戦争なのか」と、日中戦争の根本のところに疑問を呈した。
議会で除名が行われる。 反対8名、棄権が100何票、後は賛成。 除名される。
斎藤隆夫の日記には8名の名前が書かれている。(いろんな政党の人がいた)
斎藤隆夫の勇気は昭和15年2月、 最後だった、その後に議会ではこういった鋭い質問はないですね。
斎藤隆夫は命を覚悟したと言ったといわれる。

日本の軍隊は状況がいい時、 自分たちが勝戦の時は勢いがいい、ひとたび負けたり自分たちに状況が悪くなると、しゅんとしてしまって、国民に何も言わせない、批判もさせないという体質を持っている。
中国と仲良くして行こうという人達の声は14,15,16年と段々消えてゆく。
日本は大国を目指さなくてくていいんだと言った、石橋湛山とか、外交評論家の清沢 洌 「暗黒日記」をつけているが、支那事変などに傾斜してゆく日本の危うさを指摘している。
「暗黒日記」は当時の知識人が言えないことを書いている。
15,16年になると、中国と友好が必要だと、思っていても言えなくなってしまう。
昭和6年満州事変 9・18事変 中国の国恥記念日
昭和12年 盧溝橋事件 7・7事変
昭和12年12月 南京事件 国家追悼日(昨年から)
中国の人はこういった日はかなり神経質に見ている。 

私は10年前に中国に行って、中国の研究者、外交官とディスカッションしたが、95%、ひとによっては98%が日本と中国は友好関係だったと、それが近代の何十年間だけ戦争の時代だったと、長い歴史でみれば僅かであって、僅かな期間の戦争の時代を背負いこんで、何時までもそれに振り回されているのは、日本も中国も得策ではないと思われる。
新しい友好の時代を創っていかなければいけないと言っていました。